奈良天理の物部鍛冶も、北河内の交野物部鍛冶も、南部河内の柏原大県韓鍛冶も、
5世紀後半に一斉に活動を始めている。
雄略天皇の政権が武器武具製造体制を確立したのだろう。
それまではこれらの地域には鍛冶工房はみられない。
物部氏に注目すると、この武器武具鍛冶の物部氏はどこから来たのか。
交野から天理へ進出したとする意見もあるが、交野の鍛冶も天理の鍛冶もいずれも5世紀後半からであるので、
交野物部氏が天理物部氏の宗家であるとは言い切れない。
また、交野地域には3世紀後半から4世紀にかけての古墳群がみられ、
古墳群を作れる勢力がいたことは確定事項となっているものの、
この勢力が交野物部氏や天理物部氏の宗家であり、
鍛冶技術者を抱えて王権のもとで武器武具鍛冶を始めたかというと、
多くの研究者はその考えには否定的だ。
そこで目を向けたいのが、秦氏である。
仁徳天皇のときに交野や四条畷の西側にある淀川沿いの茨田に堤防を気付き、
淀川に流れ込む河川の氾濫を防いだとされる記事がみえる。
その結果、低湿地帯であった茨田には屯倉が開かれるほどの水田地帯に変わったというのである。
茨田堤防開設の工事には秦氏が関わり、その際の技術者などが定住したのが寝屋川太秦だとされている。
したがって、この地域にはその後も秦氏の影響があったはずで、
武器武具製作鍛冶の物部氏が交野や天理に入るについて、秦氏の関与があったのではないかと考えることも可能だ。
鍛冶集団の神は天目一箇神であり、この神は宗像と太秦、近江と関連している。
物部氏はこの天目一箇神系の鍛冶集団だったのではないだろうか。
とすると、柏原大県の韓鍛冶技術者集団がこの時期に王権によって他所からやってきたように、交野や天理の物部氏も他所から王権によってやってきたと考えるのが筋ということになる。