(古事記)神代・日本神話は古代福岡の話(日本書記)3
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
前スレ
(古事記)神代・日本神話は古代福岡の話(日本書記)
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1607709738/
このスレでは古事記・日本書記の神代日本神話について語りましょう
※他説を貶したり、貶めることは博多湾説の裏付けにはならないのでやめましょう。
※しかし、前スレは荒らしや叩きなど醜いレスバに邪魔され続けて住人たちがまともに議論し合えなかったという経緯があります。
※同じ轍を踏まないためにも、このスレでは伊都ネタ、阿波ネタ、オクキョンネタ、キナイコシネタを禁じます。
※ 伊 都 ネ タ 、 阿 波 ネ タ 、 オ ク キ ョ ン ネ タ 、 キ ナ イ コ シ ネ タ は 禁 止 で す !
必須NGワード:@阿波、伊都、五十迹手、磯武良、オクキョン、キナイコシ
伊都国王=海人族だと言い張る朝鮮人はコチラ↓に移動
伊都国王は五十猛で阿曇磯良で伊都国は邪馬台国
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1603956031/
伊都国=邪馬台国だと言い張る朝鮮人はコチラ↓に移動
女王國=伊都國=邪馬台国の首都 Part.2
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1598892939/
or
邪馬台国の歩き方(女王之所都=伊都國)
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1603107979/
倭国=阿波だと言い張る朝鮮人はコチラ↓に移動
「邪馬臺国」は阿波だった Part.8
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1601267699/
オクキョン?遺跡が名畑遺跡より古いと言い張るヒトモドキはコチラ↓に移動
日本に対する朝鮮起源説を真面目に考えるスレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1549585819/ 天孫族が西側 海人族が東側 山祇族が南側
海と山が争い始めたところを天孫族が鎮めた
それか勝った方が天孫族になったのかも
海と山が統合し出雲族に
その後天孫族は出雲族と共に東征し奈良に都を築く 居残り天孫族が筑紫平野
居残り海人族が北部九州
居残り山祇族が南九州
居残り出雲族が東九州
居残りが結束して反乱したのが磐井の乱見たいな説 都からしてみればめんどくさいので、拡大解釈して筑紫(博多湾)の歴史を九州全体のお話にして従わせた 大和政権の全国制覇が確立すると、今度は日本全体のお話に拡大解釈させた。 >>799
想像で適当なことを書くなよ。
海幸彦も山幸彦も天孫族であり、邇邇芸の息子達だぞ。
大山祇も綿津見も同時に生まれた兄弟。
おそらく、兄弟で海と山を分けて支配していたのだろう。
海の王(天照)が陸の王(大国主)を倒して天下を統一したというのが出雲の国譲りの主旨だ。
先代旧事本紀では、畿内の統一王となったのは天照国照の称号を持つ饒速日。
記紀では、筑紫の統一王となったのは邇邇芸。
そして、筑紫の天孫族の末裔である磐余彦(神武)が東征して大和で再び統一王朝ができたということになっている。 白村江の戦いで敗北
那津官家を大宰府に移転
代わりに防人を配置
天武朝「記紀」を編纂 日本国の完成 >>800
>居残り天孫族が筑紫平野
糸島平野(伊都)の禰宜じゃない?
>居残り山祇族が南九州
隼人の祖は筑紫を追い出された海幸彦だよ。 妄想九州王朝説の人間が書き込んでるな
大宰府は朝鮮人のくせに 居残り天孫族=筑紫平野の磐井(親新羅)VS継体朝大和政権(親百済)
阿曇族は糟屋屯倉の主 磐井に加担したとされ全国に散らばった 811
タイの国王は鄭氏が始まりだからちょっと違う
ビルマからインドネシアまで含めた範囲のこと 坊津や薩摩藩は密貿易の拠点。
武器を溜め込んでいたようだね。
きちんと記録に残っている。 まぁいいさ
英国の空母「クイーンエリザベス」が日本にもお出ましになるようだから
精々、震えて待ちな。 さよか?🤑
てめえそんなんに頼ってるわけなんか?
バカなら早く死ねよ😳 頼ってはいないが?
業を煮やした”本家”が出向いてくるだけの話だ。
また小舟に乗ってスイカでも持っていくかい?(笑) 意味不明やぞ😀
やつらが出張るんなら色々教えてくれるってことか? >>1
★★★猿でもわかる邪馬台国の(北部)九州否定説★★★
邪馬台国 論争の背景
http://www.yoshinogari.jp/ym/topics/yama02.html
伊都国(福岡県糸島市)
↓
↓百里
↓
奴国(福岡県博多湾付近)
↓
↓百里
↓
不弥国(福岡県糟屋郡宇美町付近)
↓
↓水行二十日
↓
投馬国(不明、戦前は鞆の浦が有力だった?)
↓
↓水行十日、陸行一月
↓
邪馬台国
まともな地図を作れなかった古代では方角や距離を正しく測れなかった可能性が高いが、
水行、陸行日数を数え間違える可能性はほぼゼロに等しい
ということは、この時点で不弥国のすぐ近くにある(北部)九州の可能性が真っ先に消えることは猿でもわかるはずだよね???
考古学会も畿内説でほぼ固まっている
(北部)九州説を主張してる人は振り上げたこぶしを下ろせないだけでしょ?
いい大人がいつまでもみっともないよ
もういい加減あきらめろ >>826
倭人伝スレのテンプレでとっくに論破されてるぞ
テンプレで論破されてることを何回繰り返す気だこの馬鹿w
2 :日本@名無史さん :2021/02/23(火) 23:24:15.78
邪馬台国議論で必ずと言っていいほど議題に上がる水行陸行の記述だが、他の中国史書に照らすと
水行●●陸行▲▲という表現は、「水行ならば●●掛かり、陸行ならば▲▲掛かる」の意味である
これを押さえておかないと正解には辿り着かない
【用例】
通鑑釋文辯誤卷六
https://www.kanripo.org/text/KR2b0012/006#1a
>沈約宋書云汶陽太守何承天志新立去江陵陸行四百里水行七百里上黃縣
江陵から上黄県まで陸路で200kmほどなので、陸行四百里だけで目的地に着いてしまう
江陵は長江のほとりなので蛇行する川を水行すると陸路は無しで目的地に着ける
【嘉興府志】
https://wenku.baidu.com/view/d78078781711cc7931b71692.html
>{嘉善縣誌}達省城二百里達京師水行四千一百三十裡陸行三千六百二十裡
嘉興府の置かれた嘉興市から京師(首都のこと、当時は北京)まで直線距離で1100kmほど
やはり陸行三千六百二十裡だけで目的地に到達してしまう
また、杭州湾沿岸の嘉興市から沿岸水行して北上し、蛇行する川を遡って北京まで2000kmほどで水行もそれのみで目的地到達、陸路の出番なし そうでもない。
倭国がヤマト王権と別の九州にあった国だということになると、日本の古代史はだいぶ変わる。 倭国(博多湾沿岸)が拡大してヤマト王権(奈良盆地)になったんでしょ 奴国が二つ存在したような倭人伝の記述はそういう意味じゃないのかね。 それか、奴国は博多湾沿岸 もうひとつの奴国が伊勢
そして卑弥呼はインド人 考古学的に、北部九州の部族が、
西日本に進出して行った事例は2つある。
1つは銅剣銅矛文化圏の伝播で表される、
弥生中期の奴国の住人の海人族達の西日本進出。
もう一つは古墳時代前期の、
大陸文化の伝播を伴う大和政権の部族の西日本進出である。
この大和政権の部族の西日本進出が、
記紀で言う神武(実際に崇神垂仁)の東征であり、
その際に、同じ高天原出自の部族、
ニギハヤヒが既に河内から大和に進出していたというのが、
奴国の銅剣銅矛文化圏の伝播等と一致し、
高天原=奴国=博多湾周辺と言うことになる。 「本家」が博多湾沿岸から畿内へ東遷し、都を開く
九州に残ったのは所詮「傍系」のみである 動力船のなかった大昔に大陸に一番近い九州、
出雲あたりから栄えていったのは自然な気がするな。
だからと言って邪馬台国が九州にあったとか、
邪馬台国が大和王権になったとも思わんが。 有能が畿内に移動して都を開いた
九州に残ったのは傍系の国
だけど、博多湾沿岸の始まりの歴史は認めてね 記紀はご丁寧にも「東遷」ではなく「東征」としている。
あくまでも本家は筑紫という立場なのである。 たまたま、白村江で筑紫倭国が敗退して畿内が台頭するチャンスが生まれ、そこから過去の歴史を改竄してはるか以前から大和が列島の主権を持っていたかのように誤認させる歴史書が書かれた。 チョンじゃあるまいし
昔のことで国に楯突く必要性は皆無
むしろ失敗の歴史から学んで、有事にはお国の壁として機能することのほうが大事 真綿や木綿は仲良くしてね
あと、”カイメン”を大事にしてね
ワクワクな国に幸あれ >>768
「爾支」=ニキ?
古代から日本は○○ニキが支配していたんだな
福岡市東区志賀島にある志賀海神社で年二回行われる山誉祭りで
奏上される神楽歌として
君が代は 千代に八千代に さざれいしの いわおとなりて
こけのむすまで あれはや あれこそは わが君の御舟なり うつろうがせ
みがいに命 千歳という 花こそ咲いたる 沖のおんづの 潮早にはえたらぬ
つるおにくわざらぬ 潮は沖のむれんだいほや
と言う歌詞が昔からある >>844
>「爾支」=
禰宜だろうね。
王の下でナンバーツーとしてマツリゴトを司ることができる。
祭政分離はもっと後世だ。
王の役割は具体的な事績ではなく、祖先(神)を祭ることだったのだろう。
なぜなら祖先から継承した家督そのものが王権の根拠だったからだ。
祖先を敬わなければ自分自身の立場もなくなる。 >>846
なるほど禰宜ですか!今の神官に繋がりますね。
邪馬台国でしたっけか、昼は男弟王が政事を司り、夜は卑弥呼か壱与が祭事を司るとかあったような。祭政一致時代の役割分担。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています