邪馬台国畿内説 Part700
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1617819882/l50
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 605.606.608
奥山さん、論じて下さい、
奈良の土壌が溶けやすい理由ぐらい科学的人論じて下さい。 病気持ちの奥山が何か偉そうに言ってる図w
さっさと近畿で鉄が溶ける証拠を出せよ捏造屋w >>574
碌に人が住んでいない奈良盆地に、鉄器がわんさか有ったらおかしいだろ?
奥山よ、畿内の土壌特性云々以前の問題だろうがよ。
寒村に鉄器が普及する訳がなかろう。 @阿波 >>574は私です。
少し遊びました。誰かがハンドルの投稿したので^_^
奥山さん、科学的に鉄が溶けやすい土壌は説明すべきです。本間さんのようにトリをつけて
勝者の貫禄は何処へ??
魏里の回答はまだですね、
次の指摘したいのですが、少し待ちます。
今度は、あなたの苦手な算数ではありません。 九州説とキウスと阿波が盛り上げるスレ
奥山は単発で馬鹿投稿、畿内説のスレなのに奥山しか居ない
ワハハ ワハハ ワハハ >>621さん、
魏里の質問です。昨日投稿してますので、
名前キウスでわかります。 >>559
>・魏志倭人伝に書いてあるのは邪馬「壹(壱)」国であり、魏の公用語であった呉語(上海語)で読むと「シャマイ」国となる
正論
ヤマト(大和)と結びつけようとする畿内説はバカばっかし >>611
奥山のバカ(行程に滞在日数を入れる)を引用すればそうなるけど
何日滞在したんだ 倭人伝では滞在日数の表記ねーよ
奥山のアホをからかってる投稿だな 畿内説はかなり強引なこじつけ論で武装してるつもりかもしれないが、根本的に基礎が仮説で始まっているので簡単に崩れるよなw >>623
キウスよ
九州説に反論あるか言ってみよ >>624
今頃そこかい、
本間が退散した理由は奥山だからだ >>625
ボケとツッコミ
奥山がボケ
キウスがツッコミ >>614
奥山は病気か、長患いだな
生活保護者だな >>559
>・後世のヤマトは識字能力が低かったのか、邪馬臺=ヤマトと読んでいたが、新井白石と本居宣長がこの誤読に気付き、邪馬台国論争が始まった
違うな、彼らにとっては古代中国に朝貢していたのが大和朝廷であっては困ったのだ。
それは本居宣長の「古代天皇が朝貢していた歴史などあってはならない」でもわかる。
名前の似た倭国王帥升がスサノオだという仮説を立ててみ。邪馬台国論争は一気に解明する。
┣━━━━━━━━━━┓
スサノオ(107年帥升)アマテラス
┃ ┃
┃ オシホミミ
┃ ┃
┃ ニニギ
┃ ┃
┃ ホオリ
┃ ┃
事代主 フキアエズ
┣━━━━━━━━━━━━┓ ┃
天日方奇日方(鴨王) ヒメ(踏鞴五十鈴)后━━神武
┣━━━━━━━━┓
建飯勝 渟名底仲媛━━ 安寧
┃ ┃
建甕尻 息石耳 ※ヒメ踏鞴(248年没)
┃ ┃
豊御気主 トヨ津媛━━ 懿徳
┃ ┃
大御気主 孝昭
┃ ┃
阿田賀田須 天足彦国押人命
┃
和邇日子押人命
(続く) おそらく新井白石も本居宣長もその仮説一点で卑弥呼も邪馬台国も見抜いた。
しかしそれは倭国王帥升ことスサノオの渡海しての謁見要請=土下座という屈辱から日本の歴史が始まるということになる。
だから彼らは邪馬台国九州説を唱えて事実を覆い隠したのさ。 >>632
追加しとこ
ボケとツッコミ と我が道を行くトリオ
奥山がボケ
キウスがツッコミ
阿波は我が道を行く
三馬鹿トリオ
玉砕覚悟で九州説に束をかかって来いよ >>636
間違い
スサノオはスサの王、、
東国の王、蝦夷地の王 >>637
>玉砕覚悟で九州説に束をかかって来いよ
よし、お前は九州説のどこに「邪馬臺国」があった説なんだ? まず、それからだ。 @阿波 >>635
阿保
歴史も知らん阿保
ヤマト王権も朝貢外交なのだ >>638
>スサノオはスサの王、、
東国の王、蝦夷地の王
東国、または蝦夷の地のどこに「高天原」があるのかな。
高天原は江戸時代中期までどこにあったかという疑問もないし、論争もない。
大和葛城で完結していたのさ。 >>640
アホはおまえだ。
なぜ神武即位BC660年などと時代を大きくずらしたのか、その答えが分からないだろ。
お前がアホだからだ。 >>639
北部九州に(筑紫)にあったのだ
糸島は出先
川添が卑弥呼のいた阤 >川添が卑弥呼のいた阤
単なる主張w
何の根拠もないw
そういえば九州説者で卑弥呼の墓は室見が丘3丁目のコンビニ付近とか言ってたバカもいたw >>643
>北部九州に(筑紫)にあったのだ
なんでや? 理由を言ってみろ。 まず、それからだ。 @阿波 >>646
吉野ヶ里 川添を
無視すなら、根拠をのべよ >>647
無視しないから、北部九州に(筑紫)にあった理由を言ってみろ。 まず、それからだ。 @阿波 亀はのろい
亀はのろい
亀の呪い
奥山はのろい
奥山はのろい
奥山の呪い 最近の桜井市教委(含 纏向学研究センター)の調査報告は
古墳が主流ですね。
古墳研究もいいけど邪馬台国との因果関係ない公表が多いです
奥山さん どう思いますか それ、またまた「阿波」から最新情報だ。
「国内最古級の畝跡」 令和3年 4月21日 徳島新聞朝刊
「弥生時代前期 南蔵本遺跡で確認」
徳島市南蔵本町の南蔵本遺跡から、弥生時代前期(紀元前6〜4世紀)のものとみられる集落跡が見つかり、
集落内に国内最古級の畝跡が確認された。
発掘調査に当たった県埋蔵文化財センターが20日、発表した。
センターは「この時代の農耕の実態を解明する手掛かりになる」としている。
集落内の畑の広さは約150平方メートルあり、畝跡は南北に九つあるのを確認した。
畑の南側には傾斜を利用して畝の間に水を流し込む用水路跡が、北側に排水路跡がそれぞれ発見された。
弥生時代前期の畝跡としては、2007年に確認された「庄・蔵本遺跡」(徳島市)と並び国内最古級。
センターによると、畝の多くは雨で崩れて畝の間が埋まってしまい、発掘調査で見つけるのは困難だった。
しかし、南蔵本遺跡では繰り返し発生した洪水で流れてきた砂が畝の間を覆ったことで、
色の違いから畝の形状が確認できた。
今後は採取した土壌を分析し、何が栽培されていたのかを調べる。
このほか、竪穴旧居跡や、約2万点の土器片と石器も発掘された。 @阿波 日本の灌漑稲作は、「阿波」が発祥地。 根拠:「庄・蔵本遺跡」、「南蔵本遺跡」
日本のイネは、日本固有種。
倭国(阿波)→菜畑→朝鮮南部だね。 朝鮮南部でbが出てる筈。 @阿波 阿波では、毎年のように特異な遺跡が発掘される。
まさに、ここ掘れワンワン状態の、阿波考古学。 @阿波 他説の追随を許さない、「阿波」の圧倒的遺跡群。
旧説(畿内説や九州説)の御用学者やミーハー相手のマスコミが「阿波」に跪くのは、時間の問題。 @阿波 このほか、竪穴住居跡や、約2万点の土器片と石器も発掘された。 @阿波 >>625
キウスが名無しで自演カキコや奥山中傷カキコをするからだな
水行10日を分析すると
帯方郡〜狗邪韓国・・七千余里
狗邪韓国〜對馬国・・千余里
對馬国〜一大国・・千余里
一大国〜末廬国・・千余里
つまり、帯方郡〜末廬国・・1万余里
1日に千余里進む事が出来るので
帯方郡から末廬国までは1万余里/千余里
=10日間で行ける事になり、
水行10日は帯方郡〜末廬国までの
渡海に要した日数と言う事だ。
>>664
お前は簡単な算数の足し算も出来んのか?
>>664
帯方郡〜狗邪韓国・・七千余里と記載があるが
七千余里はどうやって出したと思っているのかな? >>177
>>178
帯方郡
↓↓「南水行十日」
↓不弥国
↓↓「南水行十日」
↓投馬国└合計「南水行十日」
↓↓「南水行十日」
東治=奄美大島
↓↓「南陸行一月」30日=北部九州30カ国(幻)
東冶=女王之所都(幻)12,000里
帯方郡⇔東冶(12,000里)の倭国への転用か!GJ! 大陸側の人間が、島国の各都市の位置を記録する場合、それらは自国のどこに相当するかを記録するはず。
東冶=邪馬台国女王之所都 というのが魏志倭人伝の核心。 >>667
たとえば、日本の東の太平洋上に、南北に長い列島があったとする。 中国大陸)→)→)〜太平洋〜
その列島に点在する都市ABCの位置関係の概略を、同胞(日本)人に説明する際、東京=A、大阪=B、福岡=C、という書き方をしてしまうはず。
それが、「魏志倭人伝(西晋人)」の場合、建業=投馬国、東治=奄美大島、東冶=邪馬台国、ということ。 頭が悪くすぐに撃沈されるのでもっと頭の悪いキャラで様子を見ている畿内説陳列係の奥山あわれ 日本の元号はこれまで中国の経典である「四書五経」など漢籍を典拠としてきたという歴史的事実がある。
漢字は中国から取り入れたりものであるから日本固有の文字ではないし、日本にもともとあったわけではない。
日本の元号が中国の経典である「四書五経」など漢籍を典拠としてきたことを知る人は少なく、日本人は日本の元号が中国の漢籍に由来してきたことを改めて知るべきである。 訂正
日本の元号はこれまで中国の経典である「四書五経」など漢籍を典拠としてきたという歴史的事実がある。
漢字は中国から取り入れたものであるから日本固有の文字ではないし、日本にもともとあったわけではない。
日本の元号が中国の経典である「四書五経」など漢籍を典拠としてきたことを知る人は少なく、日本人は日本の元号が中国の漢籍に由来してきたことを改めて知るべきである。
要するに水行1日で進む距離は1千里と考えた訳だ
勿論毎日漕いだ訳じゃないと思う,それこそ1日漕いで
1日休養したかも知れんがその日数は水行には入らない
純粋に船を漕いだ日数を水行10日としているから
帯方郡から末廬国までは1万里あったと考えれば良い >>666
>七千余里はどうやって出したと思っているのかな?
どうやって出した? >>674
>帯方郡から末廬国までは1万里あったと考えれば良い
良くない。 そもそも、帯方郡から末廬国までは「渡海」であって、「水行10日」ではない。 却下! @阿波 >>674
>帯方郡から末廬国までは1万里あったと考えれば良い
良くない。 そもそも、帯方郡から末廬国までは「水行」+「渡海」であって、「水行10日」ではない。 却下! @阿波 そもそも10日では到着できない場所を水行十日とは書かないと思われ またまた行程や距離で、堂々巡りになったねw 何べんも同じところに頭をぶつけ合うお爺ちゃん達
陳寿の思う壺やwww
>>177
>>178 なぜ距離を日数表記に変えたのか
https://i.imgur.com/TKTkTp9.png
■基本的に魏志倭人伝の構文解析が最優先課題である
同じ内容で使われる文字が変化したり、奴国の紹介が重複していたり、距離が里から日に変わるなど、
魏志倭人伝は過去の記録を引用しつつ、新たに得た情報を大雑把に追記する形式で構成されている
■中国側での過去からの伝承記録を書き写した部分
・帯方郡(ソウル)から南→東と海岸沿いに水行し狗邪韓国(釜山)までの距離が約7000里
・対馬→壱岐→北部九州上陸までの合計が約3000里
・上陸してから伊都国までが陸行およそ500里
・奴国、不彌国までがそれぞれ約100里
・陳寿は単純に帯方郡から女王の都までの総距離を合計12000里と見積もった
参照した記録資料の1里は75mだったが、陳寿は1里=435mの認識だった(例 会稽東冶の東)
■卑弥呼時代に朝貢に来た倭人による行程説明を追記した部分(日数表記の記録)
@帯方郡から(記載漏れ?)
A南に船で20日→投馬国(任那、伽耶、狗邪韓国など)
B南に船で10日→邪馬台国(北部九州=女王国)上陸
Cまず伊都国に駐留し、女王国の入国許可を待つ
D倭人か客人の到着を女王に知らせに行く
E女王の使者が迎えに来る
F迎えに来た護衛とともに女王の都へ
■考えられること
・中国人と倭人との意思疎通は完全ではなく、誤解は日常茶飯事だった
・陳寿は倭に関する古い情報と新しい情報の関連性がよく理解できていなかった
・倭人による船で移動する行程の説明を中国は「水行」と記録していた
・倭人は対馬海峡を挟んで半島側を投馬国と呼び、北部九州側を邪馬壹(臺)国と呼んでいた
・倭人は距離単位の「里」を知らず「日」を使って表現していた(隋書倭国伝に記載あり)
・陸行一月とは、九州上陸から女王の都に到着するまで(C〜F)に一か月を要するという意味である 新井白石以来300年間、何も進歩がない邪馬台国論争w Q:なぜ距離を日数表記に変えたのか?
A:里を知らない倭人による行程説明をメモっただけだから 邪馬台国時代すでに半島南部にも倭人はたくさん住んでおり、日本列島への鉄器供給に追われていた
倭人たちはそこを「投馬国」と呼んでいた
【参考】
後に狗邪韓国(金官国)そして任那となる地域は、弥生時代中期(前4、3世紀)に入り
従来の土器とは様式の全く異なる弥生土器が急増し始めるが、これは後の任那に繋がる
地域へ倭人が進出した結果と見られる 愉快犯が爆弾ぶち込み破壊工作www
どうりで邪馬台国論争が永久に続くわけだ。 まじめにやらないなら暴力によってまじめにやらせる対処を取らせてもらう😊 >>681
>新井白石以来300年間、何も進歩がない邪馬台国論争w
いや、「阿波」の登場で新井白石以来300年間、何も進歩がない邪馬台国論争に決着を見た。 @阿波 >>683
>後に狗邪韓国(金官国)そして任那となる地域は、弥生時代中期(前4、3世紀)に入り
>従来の土器とは様式の全く異なる弥生土器が急増し始めるが、これは後の任那に繋がる
>地域へ倭人が進出した結果と見られる
任那忌部だな。 @阿波 ぬっころしリストに掲載しといたよ
685 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2021/04/22(木) 11:11:21.70
愉快犯が爆弾ぶち込み破壊工作www
どうりで邪馬台国論争が永久に続くわけだ。
686 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2021/04/22(木) 11:27:28.93
だったらそいつら引きずり出せばよいやん
687 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2021/04/22(木) 11:28:13.88
まじめにやらないなら暴力によってまじめにやらせる対処を取らせてもらう >>691
名前なんてなんでもいいんだよ。 「忌部一族(阿波勢力)」の勢力なんだから。 @阿波 結局単なる気のせいだったと思えばハゲなくて済んだのに妄想癖を悪化させハゲてしまった畿内説陳列係のスレ主こと奥山あわれ >>695
>神武の別名 狭野 さぬ
讃岐は関係しない。
佐野皇子(神武天皇)を祀る神社 「佐野神社」(徳島市渋野町佐野)
神武天皇の畝山の東北陵跡 「秋葉神社」(徳島市丈六町丈六寺山) @阿波 >>699のつづき
万葉集のヤマトではカモメが飛んでいたとのこと
ヤマトが奈良盆地でないとなれば、一体どこなのか?w
【参考】
大和国家の成立
3世紀後半に、現在の奈良県の大和、大阪府の河内、和泉地域の豪族が連合して大きな政権である大和国家をつくった。
この大和国家の政府を大和朝廷と言う。
大和朝廷では大王を中心にして政治が行われ、4世紀までに大和地方を統一し、5世紀ごろまでには九州から東北地方南部までをその支配下に治めた。
大和朝廷では、豪族たちが大王から朝廷での役職を表す臣・連などの称号を与えられ、役人としての仕事をした。
また、地方の有力な豪族に国造などの称号を与え、地方の政治を行わせた。
なお、大和は古事記や日本書紀には漢字で明記されておらず、漢字で大和と表記するのは適切ではないという説もある。 >>21は超絶ご都合解釈と妄想のオンパレードだなw
テンプレは霊感商法詐欺のテンプレか?w ほら、罵るだけ
キウスもテンプレを論破したって言ってたの嘘だとバレて本間を罵るだけになってたぞ
馬鹿に生まれつくって悲しいね >>704
論破?
論って何か知ってる?
テンプレのどこに論があるの? >>704
>テンプレを論破したって言ってたの嘘だとバレて
証拠は? これな
『魏志倭人伝には、「倭人は鉄鏃(てつぞく:鉄のやじり)を使う」と記載されているのに、福岡の460に対して、
卑弥呼時代の奈良には鉄の鏃は4つの出土例しかありません。そしてもと歴博の館長もやった佐原真は、
「近畿圏では鉄は溶けやすいので、残っていないのだ」とマジで答え、さすがにこれには近畿圏の学者たちも沈黙していました。
春成秀爾はこの佐原真の弟子です。この一連のマスコミ操作は、いったい何が目的なのでしょうか?』
”佐原真は、「近畿圏では鉄は溶けやすいので、残っていないのだ」とマジで答え”とあるが、何を根拠にこんな発言をしたんだろう? >>574
碌に人が住んでいない奈良盆地に、鉄器がわんさか有ったらおかしいだろ?
奥山よ、畿内の土壌特性云々以前の問題だろうがよ。
寒村に鉄器が普及する訳がなかろう。 @阿波 何も反論できず、質問にも答えられず、煽り返す事しかできない畿内説ディスカウント係の奥山あわれ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています