邪馬台国畿内説 Part701
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1618542930/l50
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 出雲地方の箱式石棺を使っていた縄文人が北部九州に移住して
渡来人勢力を駆逐して邪馬台国を築き、その勢力が東征して
大和朝廷を作った訳だ。 「卑弥呼以死 大作冢 径百歩」〜卑弥呼は直径【円墳】百歩(140m)の冢を大いに作(るを以)って死んだ〜 のカラクリ
@曹魏から禅譲を受け、呉を平定し中国を再統一。280年頃、再び天下に平和と繁栄をもたらした西晋の功績を後世に書き残すための正史「三国志」を編集中、30年前の魏使の報告書「径百尺(25m)」を見た陳寿は、当時の倭国はすでに古墳時代に突入し、王墓だけはやたらと長大という情報を、官僚だけに読み知っていた。
A(膨大な餓死者を出しておきながら黄巾の乱を放置した後漢皇帝たちの厚葬に呆れた)曹魏の薄葬に従ったのだろう卑弥呼でも、「径百尺(25m)」の墓ではいくらなんでも小さすぎる。地方豪族級の小さい墓しか作れない倭王に明帝曹叡が親魏倭王の金印を授けるはずがない。
B「径百歩」の誤りであろう。ついでに「以+【大】作冢」と補足しておこう。
こうして陳寿は仕方なく、形◎や数値「百」はそのままに、単位「尺(25cm)→歩(1.4m)」だけ替えた。
(もし誰かが気付いたとしても誤記と言い逃れればよい。少なくとも倭国にわざわざ渡海してまで確かめようとする者ももはやいまいw)
そして時は流れ、1740年後の日本…
当然のことながら、祇園山古墳(九州説)も箸墓(大和説)も「径百歩」に該当せず、短里だ長里だ、南だ東だと無意味な論争が継続中!
もしも箸墓(全長280m)が卑弥呼の冢だったら…
魏使「卑弥呼以死 作【大冢】 長二百歩」と記録→陳寿は魏志倭人伝にそのまま転載(×不正解)
もしも祇園山古墳(直径25m)が卑弥呼の冢だったら…
魏使「卑弥呼以死 作冢 径百尺」と記録→陳寿は「卑弥呼以死 【大作】冢 径百【歩】」と盛る→魏志倭人伝(○正解)
祇園山古墳は上方下円墳で、天(上)から見ると方格規矩四神鏡そのもの。まさに倭王に相応しいのであ〜る。
「殉葬者奴婢百人」は、魏の薄葬に従いつつも、死後の孤独に怯えた卑弥呼の面従背腹であろう。
面白いのでそのまま転載しよう(陳寿、心の声)w 記紀に書かれている七割は筑紫と出雲の事だ、要するに
古代の中心は筑紫と出雲の勢力が強かった証拠 >>80
>>83
倭王卑弥呼の魏帝への朝貢目的は、蜀の牽制として西のインド・クシャーナ朝「親魏大月氏王」同様、呉の牽制として東の「親魏倭王」号を取得し、帯方郡が管理している「伽耶の鉄」の倭国における輸入独占権の確保(郡宛て発注書用封泥金印「親魏倭王」)。
つまり狗奴国戦争における後方支援(後に援軍)要請だったわけで、南の狗奴国の位置が決まれば、自動的に北の邪馬台国の位置も決まることになる。
長年続く邪馬台国所在地論争の核心は、実は【狗奴国の位置】であることに留意されたい。
そこで九州説、畿内説における狗奴国を検討すると、以下のようになる。
−女王国 東渡「海A」千余里 複有「国B」皆倭種(〇九州説…A関門海峡・B本州、✖畿内説…A鈴鹿山脈・B北海道)
−其南有狗奴國 不属女王(〇九州説…熊本もしくは薩摩、✖畿内説…仲良し東海)
畿内説はいずれも当てはまらない上、「渡海複有国皆倭種(→東)」と「狗奴国(南⤴東)」が重複する。
また、鉄製武器(軍事力)も文字・駅伝制(通信手段)もない3世紀の畿内にいて、遠隔の北部九州を安定支配するのは物理的に不可能。
消去法により、九州説が正しいことになる。
では、狗奴国が熊本か鹿児島かだが、邪馬台国七万戸を統治する倭女王をして、魏帝に援軍要請させるほど窮地に陥れる国の軍事力を考えると、
その人口は邪馬台国と同等(七万戸)もしくはそれ以上の人口(八万戸)を想定。
面積から見て、川内平野でゎ「平野面積≒戸数」となる3世紀の開墾能力では無理があると思われ、狗奴国は菊地平野(狗古智比狗の本拠)+熊本平野+八代平野の3平野を合わせた超大国と考定して、
北の邪馬台国は、北岸の吉野ヶ里遺跡を始め、弥生拠点集落の宝庫「筑後(川)の賜物」筑紫平野、卑弥呼王宮はその最高所・甘木朝倉を、
卑弥呼の冢「大作冢径百余歩(尺)=0.25m×100歩=直径25m」は、3世紀中頃の築造で、筑紫平野を一望でき、同時期の殉葬者が少なくとも66人以上確認されている「有棺無槨」祇園山古墳を比定。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%87%E5%9C%92%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3 >>85
>A関門海峡・B本州
A関門海峡は、千余里で即アウト! @阿波 >>79
>>85
倭国大乱で戦った福岡平野と筑紫平野が仲直りし、急速に台頭してきた狗奴国に対抗すべく合併したのが、邪馬台国30カ国連合の実態でゎにぁか?(我ながら天才的な閃き&慧眼!)
卑弥呼の王宮(家)は福岡空港滑走路の地下、(冢)は祇園山古墳やよ! >>86
>>87
おまいら天才かよっ!?良い着眼点だ!女王国東渡海「千里」複有国=出雲とすれば、全て辻褄が合うな!
@倭国大乱後、出雲吉備(墳丘祭祀)連合が、四国阿波の少彦名王と共に、大和東海(銅鐸)連合を征服(初期ヤマト王権=纏向型前方後円墳)。大和挟撃に貢献した東海には前方後方墳(裏切りの御褒美)。
Aそこへ北部九州・邪馬台国卑弥呼から派遣された伊都国王神武が東征してきて、奥津城(王家の谷=紀伊半島の水銀鉱床独占=帯方郡の鉄を独占大量輸入)化する。
B崇神が鉄剣により、更なる東征で本州統一(前方後円墳祭祀)を進め、台与崩御後王統が途絶えた邪馬台国を乗っ取り、魏も西晋に代わり、薄葬圧力から解放され、3世紀末頃箸墓を築造する(倭王宮は天智太宰府まで博多、ヤマト王権は完全な幻想) 畿内説石野船長「南→東と読み替えて、不弥国から東に進み投馬国(出雲)を目指そう!次は女王卑弥呼の纏向だw全速前進!」
畿内説寺澤機関長「順風満帆!やはりこちらが正しかったですねw天も我々を祝福しているかのようですw九州説の警告なんて無視して良かったw」
畿内説橋本航海士「我々の進行方向、左右両舷をすっぽり取り囲むような三日月形の巨大な氷山脈発見!!!→)」
畿内説石野船長「エンジン逆回転!!!全速後退!!!←)」
畿内説寺澤機関長「なんで方角を読み替えたんだよ!!!船長のくせに!!!このハゲェ〜ッ!!!(豊田真由子元衆院議員)」
畿内説橋本航海士「フル回転中の逆回転でギア全損!!!エンジン大爆発!!!間に合いません!!!!!」
(フルスピード→ノーブレーキで氷山に正面衝突して、乗り上げ、反対側で再び着水する畿内説タイタニック号)ガツン!ドカン!ザブン!
(船側&船底外板を船首から船尾まで横一直線に切り裂く音)ギギギギギギギ!!!
ザァアアアアアアア!!!(全隔壁に一気に浸水、瞬時に沈む畿内説タイタニック号)
畿内説石野・寺澤・橋本「ぎゃあああ!!5ゴッドハンド福永に騙されたぁああっ!!」(庄内式土器と大量の布留式土器と三角縁神獣「銅鏡五百枚」と共に海底に引き摺りこまれ、海の藻屑と化す畿内説タイタニック号)
一方、九州説オリンピック号でゎ…
九州説A「畿内説タイタニック号から遭難信号SOS傍受!!」
九州説B「あれほど警告したのに、なんで東(大国主・大物主・饒速日3代の纏向宮殿)に向かったんだろう?直ちに救助に向かおう!」
不弥国の東の海上に到着した九州説オリンピック号が見た光景は…
因幡の白兎同様、サメの餌食となった畿内説タイタニック号の乗客乗員の遺体の一部と思しき夥しい肉片&骨片が散乱…血で真っ赤に染まった波間に石野船長と寺澤機関長のものと思しきメッキ縁眼鏡がキラキラ&プカプカ浮かんでいる…
茫然自失の九州説ABC「だから船乗りの方角間違え(南→東)は漂流(全員死亡)しちゃうからあり得ない、纏向は「本州」島の毛人王権ってあれほど言ったのに...orz」 ★★★猿でもわかる邪馬台国の(北部)九州否定説★★★
邪馬台国 論争の背景
http://www.yoshinogari.jp/ym/topics/yama02.html
伊都国(福岡県糸島市)
↓
↓百里
↓
奴国(福岡県博多湾付近)
↓
↓百里
↓
不弥国(福岡県糟屋郡宇美町付近)
↓
↓水行二十日
↓
投馬国(不明)
↓
↓水行十日、陸行一月
↓
邪馬台国
まともな地図を作れなかった古代では方角や距離を正しく測れなかった可能性が高いが、
日数を数え間違える可能性はほぼゼロに等しい
ということは、この時点で不弥国のすぐ近くにある(北部)九州の可能性が真っ先に消えることは猿でもわかるはずだよね???
考古学会も畿内説でほぼ固まっている
(北部)九州説を主張してる人は振り上げたこぶしを下ろせないだけでしょ?
いい大人がいつまでもみっともないよ
もういい加減あきらめろ >>81
>>83
北部九州説だけが、南⤴東 の読み替えをせず素直に、@陳寿の忖度「南水行十日陸行一月」のカラクリも、A狗奴国(南不属女王)・女王国東渡海千里複有国皆倭種・侏儒国・黒歯国・裸国など登場するすべての国の比定も、B祇園山古墳の異常な小ささも、すべて説明できるのれすw 畿内説が主張する南狗奴国不属女王って仲良し東海?
方角も、実態も、Wで間違ってるしww
銅鐸も銅鏡も、唐古鍵の鉄も出土するのに、3世紀の鉄だけ跡形もなく溶けてなくなる?
桃の種と木の鍬を再利用したお面だけ?硯すら出てこない?金印なんか猫に小判ジャマイカ?www >>92
しかも狗奴国(東海)の官・狗古智卑狗は、河内(湖)彦だって。もう支離滅裂だなwww >>93
だから、まともなのは「阿波」だけ だと何度言えばw @阿波 >>93
其南有 狗奴国 (男子為王 其官有 狗古智卑狗)不属女王
@南→東 A仲良し東海www B官は河内彦wwwwwwwww
もう滅茶苦茶や!!!学問やあらへんwwwwwwwwwwww 邪馬台国の時代の奴国は福岡市南区塩原付近まで海だったのが
確認されており、那珂八幡古墳は少し丘陵地にあるから海のそば
だった 当時の奴国の中心は春日市の須玖岡本付近で
この辺は小高い丘陵地なので人が住めた最北端にあたる
福岡空港付近は完全に海面下。 >>95
今まさに、畿内説が崩壊した瞬間を目撃した…2021年4月24日(土)14時24分56秒 >>85
すると、欽明(現皇室開祖)の父にして、古代史の謎である継体の正体(呉の南の「越」王の分家>狗奴国・卑弥弓呼末裔/鯨魚@八代淡海→近江琵琶湖)も判明!古代史は以下のように一挙に解明できるのである!
漢委奴国王=1世紀(弥生後期)
帥升=2世紀(倭国大乱)
卑弥呼=3世紀(弥生終末)邪馬台国(帯方郡張政の仲介で狗奴国を併合)…伊都国王神武「更立男王国中不服」を、紀伊半島西部水銀鉱床で栄えていた大和纏向に東征させ「奥津城」として(帯方郡の鉄の代価)隠蔽&独占。
崇神朝=4世紀(前期古墳)伊都国(台与死後「複立男王並受中国爵命」)…垂仁、伊勢神宮を創建し紀伊半島東部も聖域化。紀伊半島の水銀鉱床完全独占。
応神朝=5世紀(中期古墳)邪馬台国(仲哀を武内宿彌&神功が暗殺)…魏晋【宋/斉/梁】南朝へ朝貢再開。479年「武」上表「安東大将軍倭王」任命(悲願達成)。
継体朝=6世紀(後期古墳)狗奴国(武烈死後、倭王磐井を暗殺「百済本紀531年、日本の天皇・皇太子・皇子共に薨去」、筑紫君と矮小)…阿蘇邪靡堆へ遷都。倭国独自(九州)年号創設。
日出処「天子」倭王阿毎多利思比孤、新羅の朝貢を契機に隋煬帝に対し対等外交宣言607年
欽明朝=7世紀(飛鳥時代)…仏教による墓制(国家祭祀)変更のため、欽明皇子、蘇我稲目と共に奥津城(王家の谷)に下向。大和分家として飛鳥疎開宮造営。
用明&厩戸…物部守屋を誅殺し前方後円墳廃止。大和分家を乗っ取ろうとした蘇我氏を九州本家の天智が誅殺し、近江大津京へ東遷(大化の改新)。
天武朝=8世紀(奈良時代)記紀編纂→唐外交の火種【九州年号&多利思比孤】を抹消すべく、崇神朝〜応神朝〜継体朝の歴代倭王権@九州本家の交代が、すべて大和分家で起こっていたように史実歪曲。
畿内を記紀の歴史テーマパーク化(九州の地名をそっくり移植。阿蘇外輪山→三輪山、八代淡海→近江琵琶湖など)
桓武朝=9世紀(平安時代)
まとめると、
九州本家…卑弥呼台与(邪馬台国)→崇神朝(伊都国)→応神朝(邪馬台国)→継体朝(狗奴国/阿毎多利思比孤)→天智東遷(難波宮大津宮)→桓武(平安京)
大和分家…神武(伊都国)東征→崇神朝奥津城造営(紀伊半島の水銀鉱床目的)↘欽明朝(推古摂政厩戸)→天武持統(飛鳥宮藤原京)→元明(平城京) >>96
だったら海岸沿いの末路国も伊都国も海面下だねw >>98
邪馬台国女王・台与の死後、倭王となった伊都国王・崇神「複立男王並受中国爵命」の玄孫(4世孫)・仲哀から王権を相続(奪還)した応神(胎中天皇)は、仲哀の実子ではなく、
筑紫女王・神功皇后(記紀が邪馬台国「卑弥呼」と混同させられる理由)と大臣・武内宿彌の子供説(リンク参照)がある(仲哀崩御の十月十日後に筑紫で出生)。
仲哀の息子(応神の異母兄)たち(籠坂かごさか&忍熊おしくま皇子)の反乱もこれが原因である。
ここに武内宿彌の正体も明らかになるのである!
伊都国崇神朝の景行/成務/仲哀、邪馬台国応神朝の応神(息子)/仁徳(孫)の5人の大王に仕えた彼は、筑紫女王・卑弥呼の男弟の末裔なのである!
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%86%85%E5%AE%BF%E7%A6%B0
その応神朝@筑紫(邪馬台国♂武内宿彌&♀神功皇后)を筑紫君磐井の乱で下剋上した狗奴国王・継体@阿蘇は、仁賢皇女・手白香姫を娶って欽明皇子を産ませることで、歴代倭王統の維持を図った(倭国大乱の再発予防)。
この欽明皇子が義理の父・蘇我稲目とともに、古代東アジア標準の中央集権強化手段=仏教への国家祭祀(墓制)変更のため、奥津城(王家の谷)大和に下向して大和分家(飛鳥)を築き(継体の大和入り20年に仮託)、
その次男・用明の代で、ついに強硬な廃仏派である大連・物部守屋を滅ぼして前方後円墳築造を廃止。その妹推古が仏教の国教化を成就。
しかし、全国の官寺建設で国家予算を恣にした蘇我蝦夷・入鹿父子が大和分家の皇族を次々に粛正し、乗っ取ろうとしたため、九州本家の天智@太宰府(瓦葺き)が飛鳥(板葺)宮に下向。三韓大使の目の前で誅殺(乙巳の変)。
その後、663年に白村江海戦での完敗により、唐・新羅の連合艦隊による倭王征伐がいよいよ現実味を帯びたため、継体→安閑・宣化→阿毎多利思比孤系統の九州本家・天智が、近江大津京に東遷。
ここに倭王権は史上初めて北部九州を出て、近江大津京→飛鳥浄御原宮→新益藤原京→平城京→平安京へと続く畿内中心の歴史が始まるのである!
欽明以前の「畿内」には、崇神朝・応神朝はもちろん、直前の継体朝ですら記紀伝承地に大王宮が一つも出土せず(明治政府設置の石碑のみ)、巨大王墓と倉庫しか出土しないのは、そのためである。 >>100
ダイワ(オオワ)としか読めない大倭(大和)を(オオ)ヤマト と読ませるのはなぜか?
邪馬台国があったからではなく、その逆で、国内外(唐)に対し、新益藤原京を新設した「畿内」に、筑紫邪馬台も阿蘇邪靡堆もあったと思わせたかったからなのである!
白村江海戦惨敗で東遷した九州本家の天智の死後、壬申の乱で倭王権を獲得した大和分家の天武が正史記紀を編纂し(唐を刺激する九州本家の=継体創始の倭国独自年号&日出処「天子」多利思比孤を抹消)、
それに合わせて九州の地名をそっくり移植し、畿内をその歴史テーマパーク化していったからで、そのテーマパークの名前が「大倭」(ヤマト)なのである!
7世紀唐(飛鳥時代)までの中国歴代王朝には、倭国は九州島のみと認識されていたことが判る。
魏志倭人伝「女王国(九州)東渡海千里複有国皆倭種(本州)又有侏儒国在其南(四国)」
隋書倭国伝(倭王阿毎多利思比孤@阿蘇邪靡堆)、旧唐書(原文略)
日本の使者Aは「日本国(本州)は昔の倭国(九州)とは別の国だったが、日辺(→東)にあったので、日本と名付けた」
別の使者Bは「倭(九州)と言う名前が優雅でないから日本(本州)と改名した」と言い、
また別の使者Cは「日本(本州)は昔小国だったが、倭地(九州)を併せた」と言った。
来朝した使者ABCの態度が尊大で、真実を言っている様子がなかったので、中国は彼らを疑った。
事実は逆で、白村江海戦惨敗で九州本家が近江大津京に東遷後、実際はすべて北部九州で展開していた「倭国」の歴史テーマパークにするため、後漢書東夷伝の「大倭」@九州を借用しつつ、
発音は北部九州時代の都であった筑紫邪馬台&阿蘇邪靡堆(ヤマト)としたということなのである!
ゆえに「魏志倭人伝」の年代記述に合わせて箸墓の築造年代を繰り下げて生まれた畿内説(他人の褌)、ならびに教科書の古墳時代「畿内」にあったとされる「ヤマト王権」(定説)は、
唐外交を最優先課題とせざるを得なかった天武・持統朝が国家事業として強行した、この複雑なからくりに惑わされて生まれた幻想で、
記紀(ヤマト王権)という虚構のゴール地点から、魏志倭人伝と土器編年の年代繰り上げ操作による強引付会に過ぎず、国民の無知に付け込み、どこまで史実歪曲&洗脳を定着させられるのか?という、社会実験に過ぎないのである。 >>99
魏使は伊都国から奴国に行くのには福岡市南端の油山の麓を通っていった
から、現在の福大通り近くを歩いて行った、海岸からは相当離れていた訳だ、
何の問題も無い 俺が持っている標高が判る地図で福岡空港の標高を調べたら
標高は7m〜9mだった、当時の海岸線は標高9mなので弥生時代の
福岡空港には人は住むことが出来なかった >>95
纏向と仲良し東海「南狗奴国」の官は河内(湖)彦、畿内説!w >>92 「卑弥呼の時代だけ」鉄が跡形もなくなり、
>>104 「卑弥呼の時代だけ」福岡平野では水耕工作ができなかったんだねw >>101
まとめると、663年8月の白村江海戦で(互いに先陣を競って無秩序な突撃を繰り返す)倭国水軍を全滅させた大艦隊を擁し、https://youtu.be/dTk54jNZtnE?t=3404
その気になれば、完全に無防備〔もはや陸軍のみ→夥しい神籠石(高句麗)式&朝鮮(百済)式山城の築造ラッシュ〕となった倭国に来襲し、天智の首都・太宰府を殲滅できた超大国・唐(外交)への忖度で生まれた記紀が消そうとしたのは、
A.倭国史上初めて北部九州を出て、近江大津京に東遷した天智@太宰府以前の倭王権(崇神朝→応神朝→継体朝)がすべて北部九州(筑紫邪馬台→阿蘇邪靡堆→天智太宰府)にあったこと
→3王朝ともその奥津城(王家の谷)&新益藤原京を新設したばかりの「畿内」にあったことにした(記紀の歴史テーマパーク「大倭」→「大和」>聖徳太子(以和為貴)」)。
B.さらに、磐井の乱で応神朝@筑紫を乗っ取った、継体朝@阿蘇がやらかしていた3つの不都合な史実なのである!
1.(武寧王の百済を完全属国化した)継体が中国の南北朝二帝並立の隙に創始してしまった(時間の支配者=中国皇帝の冊封からの独立を意味する)倭国独自(九州)年号
→天智の【倭京】(太宰府)以前は全て抹消!(下記リンク参照)
2.鉄の産出により高句麗&百済に形勢逆転した新羅からの朝貢で調子に乗り、南北朝を再び統一した隋の「天子」煬帝相手に日出処「天子」を名乗ってしまった阿毎多利思比孤(冠位十二階)
→同時期の大和分家・厩戸皇子と合成し、憲法十七条(以和為貴)「聖徳太子」を捏造&抹消!
3.白村江海戦惨敗で唐新羅連合艦隊の倭王成敗(王族9親等全員処刑)に怯えた九州本家・天智@太宰府の、(裏口から船で高句麗に脱出できる)近江大津宮への遷都(臆病風→周辺国の笑い草)
→舒明♂皇極♀の長男=斉明皇太子として大和分家に接続&統合!(皇極斉明重祚&天智天武兄弟の秘密)
-継体朝@阿蘇による倭国独自(九州)年号一覧
継体・善記・正和・教知・僧聴・明要・貴楽・法清・兄弟・蔵和・師安・和僧・金光・賢称・鏡當・勝照・端政・告貴・願転・光元・定居・【倭京】・仁王・僧要・命長・常色・白雉・白鳳・朱雀・朱鳥・大化・大長
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/nengo/nengou.html
-熊本県玉名市和水町前原の石原家文書
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaiho122/kai12204.html 今城塚古墳に眠る治天下大王のピンクの石は、なぜ遠路はるばる運ばれてきたのだろう。。。 通りすがりの者ですが、「支配下に収めた北部九州」に命令書をたくさん出していたはずなのに、桃の種は2,000個以上、木製鍬を再利用して作った仮面が出土してるのに、「硯」が1個も出てこない遺跡を女王之所都と言い張るスレは、どこですか?、 >>112
「支配下に収めた北部九州」に命令書をたくさん出していたはずなのに」
?
どうして? >>112
木簡を削る刀や、文机「案」も出てる弥生北部九州www
畿内説は卑弥呼が脳からテレパシーを飛ばして支配していたんだよwww >>112
大和盆地では、卑弥呼の時代だけ、鉄も硯も溶けてしまい、跡形もなくなるんだよ。 うちの地元の銅鐸は戦火で燃えて消えたみたいだからな
火にも弱そう 弥生時代の福岡平野は海の中だから人は住んではいない
人間が住み着けたのは標高9m以上の地域、春日市付近から
南と言う事になる。何回も同じ事を聞くなよ低能www 畿内が墓制に関して影響力をもっていたことは分かる
それは宗教的な影響力だ
政(まつりごと)が祭(まつりごと)だった時代だ
それは政治的な影響力をもっていたということと同義なのだろう
だが、それは近代的な意味での政治ではない
中央集権的な支配、法治、領国、軍事的な支配、封建関係いずれでもないだろう
みなが納得するだけの神聖性があったということだろう
ここで問題だが、畿内に神聖性があったから公平に富を分配するための
交易の拠点となりえたのか
それとももともと交易の拠点だったから神聖性が加味されたのか
どちらが先かということだ。
もともと畿内はだれも住んでいない荒野だった
そこにどこの馬ともしれない神聖を自称する者がきたところで信憑性がない
また受益者のなかからこれと推すものは信用がならないだろう
えこひいきをするのではないかと疑われるからだ
では富を分配するための交易拠点になったから神聖なイメージを
もったのだろうか?しかしそれもおかしい
そもそも畿内は荒野だ、もともといた土地を離れて畿内に投資し
あまつさえ短期間にもといた土地を捨てて畿内に拠点を移すのは
勢力として自殺行為に近い。
神聖な者としてのイメージがあとから作られたとは考えにくい
神聖な者はどこの馬とも知れない者でもなく、利益受益者の誰かが
一方的に引っ張ってきたものでもない
一番考えられるのが、利益受益者になっていない九州の関係者ではないか。 畿内が、鉄が溶けやすい土壌の特性の説明無し
畿内の範囲はテンプレで分かったがな
反論として、奥山の設定する畿内の土壌が鉄が溶けやすい統一した特性は無い。
有れば、示してごらん、畿内の各地が鉄が溶け安い土壌の科学的根拠^_^ 123は畿内に卑弥呼がいたとは言っていない
あくまで墓制に影響力をもっていた宗教集団が
どこから来たか、交易を司ることになった経緯について考えたもの 馬鹿奥山よ
矢板は鉄で磨いたのだったけ、木製仮面は鉄で磨いて無いのは何故?
矢板より、木製仮面は大事じゃ無いの?
一説には木製仮面はさいき 古墳の年代について疑問を持っている者がいることは承知している
今回はあくまで畿内で前方後円墳がはじまったと考えたうえでの
推論であることはご理解いただきたい 帥升はどこの人だったか
鏡の分布から見るに本州の人であった可能性が高いだろう >>129
纏向は円墳?前方後円墳?
円墳を作る為の前方なら、全国なら前方後円墳は円墳? >>130
なるほど、畿内に拠点をうつしてしばらくして交易の拠点として十分
成熟したのちに神聖な存在がたてられたのならすんなり受け入れられると思う
その場合、九州から来たという推論自体無意味だが >>133
九州や阿波や吉備が出雲が本格的に畿内に進出したのは
4〜五世紀 祇園山古墳を卑弥呼の墓と断定するキチガイがいるが
盗掘された祇園山古墳に女王が眠っていた証拠が
どこにあると言うのか?男王の墓かも知れんぞ 鉄をはじめ、畿内や纏向に他説と比較して文明が優れてた事を示す遺物無し >>136
いいんでねーの 卑弥呼の墓で無くても
九州の方が畿内より先進的な文明だったんじゃねーの >>134
ttps://www.rekihaku.ac.jp/outline/publication/ronbun/ronbun8/pdf/185011.pdf
漢鏡の分布から紀元前後で九州の求心力は衰えるから
それ以後は本州にも平等に分配されていく >>127
それ、忘れてた矢板の、議論の時木製仮面出すべきだった >>135
ということはトヨが倒れた後、畿内にヘゲモニーが移行した? 九州は2世紀戦争していたというけどさ
ふつう戦争したら技術革新とか政治的な革新が生まれるんじゃないの?
宗教的な革新もおこるかもしれない
その影響が周囲に波及していくことも考えた方がいいと思う
古代国家への目覚めが起こっていたと思うのだが 北➡東 東➡南に90度回転させた日本列島が古代中国での倭国のイメージ 九州につくまでは方角間違えてないのに
その後急に間違え始めるっておかしくない? ≫1奥山さんコテ付けて下さい。ベストはトリ付けてよ、
トリは面倒だから名無し投稿も私は付けますが、
私と間違えられた人に失礼です。
スレ主なら、トリを付けた方が良いですよ。やましい事は無いのでしょう。
えっと、124は私なのは間違いありません。 邪馬台国女王卑弥呼の墓はすでに糸島市の平原古墳と決まっている
平原古墳のすぐ南、背振山系の山道を行けば吉野ヶ里には
最短で1日、普通の足で1日半もあれば余裕で着ける
卑弥呼は吉野ヶ里で亡くなって生まれ故郷の糸島に
埋葬されたと言う事だ。 阿波さんのように最後に
@キウスとかつけようかな?
結構、私のはトリの暗号長いから
#okuyamaより長くしたのが失敗 149
記紀に出てくるのと古墳のサイズなんかが合ったのかい? ID:(123/147)
0124 日本@名無史さん 2021/04/24 17:05:49
畿内が、鉄が溶けやすい土壌の特性の説明無し
畿内の範囲はテンプレで分かったがな
反論として、奥山の設定する畿内の土壌が鉄が溶けやすい統一した特性は無い。
有れば、示してごらん、畿内の各地が鉄が溶け安い土壌の科学的根拠^_^
↑
そんなの無い、奥山さんのテンプレがおかしい ハンネはつけたがトリはしない
奥山らしい姑息なやり方だ 奥山は後期高齢者だろうな
異様にネットでの情報漏洩を恐れている >>156
自演の定義がわかりませんが、した事は否定しませんが、自演でも主義主張は変えて無いし、論じますよ。
奥山さんみたいな名無しスレ主の一行で、何も論じ無い投稿はしないですよ。
あなたみたいに、ズルくなりたく無いから、、 タキロ大王とか言うのが5,6世紀におったってのは分かっとるからの
オワケ臣ってのが部下らしいが古墳埋葬前に鉄剣をどこかで作らして一緒に埋葬されとるのが稲荷山鉄剣やからの >>163
定義がわからないのに、したことを否定しないって、頭悪過ぎる回答だな まあいい、154=奥山を暗黙の了解でやっていけばいい >>155
>そんなの無い、奥山さんのテンプレがおかしい
んじゃなくてキウスの日本語がおかしい
読んだら「畿内中枢に於て」と書いてあった
だから
「奥山の設定する畿内の土壌が鉄が溶けやすい統一した特性」とかいうのは単なるキウスの日本語読み間違いだ 154くん、自説を述べたまえよ
ここは邪馬台国スレだぞ >>163
>奥山さんみたいな名無しスレ主の一行で、何も論じ無い投稿はしないですよ。
奥山がそんなことしてる証拠はひとつもないのに理由も言わずに決めつけてる
思い込みが強すぎ ん?畿内中枢における土壌の特性があるという話は
どこに根拠がある話なの? 奥山は154も使い捨てか
基本名無しでやりたいらしい
とんだチキンだ >>171
>お前の他に畿内説の奴来ないじゃん
それが病気だと言われてるのに自覚がない 奥山は猜疑心が強く友達のいない老人
ってプロファイルしたんだけどあってる? >>179
そんなに奥山に見えて、それが嫌なら来なきゃいいじゃん ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています