邪馬台国畿内説 Part703
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1619763207/l50
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 >>366
纒向遺跡全体を宮殿とみなすのが妥当だな 誰が見ても纏向遺跡は、
古墳建造時の土木事務所 兼 遺体安置所 兼 斎場である
・工事の跡
・催し物が行われた可能性有り
・飲み食いした残飯多数
これだけ証拠が揃ってるんだから誇大妄想はやめなさい
纏向遺跡は卑弥呼の時代よりも半世紀後の建物で
箸墓古墳を造る為の労働者が集められた飯場だった
だから短期間の内に消え去ってしまった訳だ >>372
宮殿に大量の土木用具が保管されてたてか?w >>374
九州説って、どうしてそんな妄想ができるの? >>376
状況証拠からの推測っていうんだよ
普段から空気読めない、読もうとしない畿内説の発言は9割がた妄想だけど >>373
>誰が見ても纏向遺跡は、
通説がそうじゃないのは何故?
「誰が見ても」じゃないから
あなたが特殊だから >>377
どんな「状況証拠」だか言えねえのは
妄想だからだよ どうやったら侍女1000人も集まるんや〜( ゚д゚)
普通、不可能やで >>375
>宮殿に大量の土木用具が保管されてたてか?w
宮殿を建設するとき使った土木用具を捨てただけだろ
宮殿は広いからね >>373
>・工事の跡
>・催し物が行われた可能性有り
それ、宮殿で普通にあるな
>・飲み食いした残飯多数
そんなものがあると言っているのは馬鹿一人 纒向の大型建物には宮殿説と神殿説がある
斎場説は存在しない >>383
史書には、宮殿でドンチャン騒ぎしたという記述は無い
つまり畿内説の勝手な妄想
王墓が完成して埋葬、葬式を終え、打ち上げをして解散した
それを繰り返していた場所が纒向だ 古墳造営基地局というか、古墳造営キャンプ場だな
住居とか無いし >>385
>史書には、宮殿でドンチャン騒ぎしたという記述は無い
極度に無学な人が知らないだけ
普通の人は知っている 纏向建物が何度も建て替えられた痕跡というは、王が亡くなる度に現場事務所を建てて古墳を建造していたという証拠だ
事務所だったのか、遺体安置所だったのかわからんが >>387
卑弥呼の宮殿に出入りしていたのは弟だけ
卑弥呼が一人でどんちゃん騒ぎしてたというのか?
卑弥呼は何らかの事象に対し占いで判断をしていた老女であり、葬儀や墓の形式を取り仕切っていたなどという記録は一切無い
畿内説信者は勝手な作り話ばかりするな >>385
豊明とか大作楽とかいう単語も知らないんだろう
無学で無能だな九州説 >>389
>そう言い張るなら抜粋して記載しろ無能
「ない」「ない」って証明不可能な主張ばかりしてしまうおなえが無能
だからみんなが馬鹿にする >>390
>卑弥呼が一人でどんちゃん騒ぎしてたというのか?
>・・葬儀や墓の形式を取り仕切っていたなどという記録は一切無い
相手の言ったことに反論しないで
自分で捏造した珍説を批判して見せるのは
ばか特有の擬似詐欺だよ
誰も騙されないんだ
つまり無能の証明 >>388
>纏向建物が何度も建て替えられた痕跡というは、王が亡くなる度に現場事務所を建てて古墳を建造していたという証拠だ
纏向建物が何度も建て替えられた痕跡という話は
どこにも存在しませーん
ばかの捏造
九州説はお脳の足りない人しか居ない 確かに女王が葬儀や墓の形式を取り仕切っていたなどとはどの倭人伝にも書かれていない
単に中国へ朝貢を行い交流していた様子しか書いて無い >>388
九州説が捏造ニセ情報と妄想で出来ているという証明を
毎日ありがとう >>396
>確かに女王が葬儀や墓の形式を取り仕切っていたなどとはどの倭人伝にも書かれていない
>単に中国へ朝貢を行い交流していた様子しか書いて無い
相手の言ったことに反論しないで
自分で捏造した珍説を批判して見せるのは
ばか特有の擬似詐欺だよ >>395
桜井市教育委員会の見解
周辺ではこれまでに3〜6世紀の建物や区画溝などの跡が発見され、市教委は「この場所で居館を何度も建て替えたのでは」としている。 発掘現場東端から3世紀後半〜4世紀前半の南北方向の溝跡も出土した。
市教委は、宮殿エリアには3世紀前半〜6世紀初頭の約300年間に、少なくとも4時期の首長の宮殿施設が存在した可能性があるとしている。 >>399
300年間もの間に同じ土地に方位の違う建物が何回か建ったとしても、それは建て替えと言わないよ >>402
罵る以外の反論が出来ないのは無能の証明だな
300年間に4回あったら平均75年間隔
つまり連続で建っていないのは明らか
何年も間隔をおいて同じ場所に建物があっても、それは建て替えとは言わない
河道で区切られていて、利用出来る微高地が限られてるだけだ
「何度も建て替えられた痕跡」があると言ってる人もいない
だから正常な人は「首長の宮殿施設」と考える
「王が亡くなる度に現場事務所を建てて古墳を建造していた」なんて誰も主張しない
猿以外は 畿内説とも整合しない誇大妄想を繰り広げる恥さらし畿内説信者あわれ >>406
いや。
罵ることしか抵抗の手段がない
死に体の九州説だ
実に哀れだ >>405
>畿内説とも整合しない誇大妄想を繰り広げる恥さらし畿内説信者あわれ
どこが整合しない?
九州説信者が勝手に捏造したニセ畿内説と整合しないのは当然だが 謎の投稿規制で
阿波もbyも俺も投稿出来ないって言うw
ああ、これは別回線から投稿ねw >>409
>>406はおれだけど>>407は別の人
九州説は適当な嘘ばかりついてる事があっさりバレる 正常な畿内説の人
新聞では「卑弥呼の宮殿」と報道していますが、卑弥呼は筑紫から大和に来たことは無いと思います。
私見ですが、邪馬台国2代目女王の臺與が266年以降、270年頃に大和へ東遷してきた可能性は高いと考えています。
それが正しいのであれば、臺與は記紀に7代孝霊天皇の皇女・倭迹迹日百襲姫として記され、箸墓古墳に葬られた可能性が高いと思います。 畿内説教統一教会によるロジカルな説明が不可能な韓国式主張一覧
某反日民族の歴史歪曲と同じ手法ですね
・倭人伝の南は実は東だったニダ
・奈良も鉄器社会だったが鉄が溶けやすい地質なので残って無いニダ
・よく似た古墳がある地域は当時同政権だった証拠ニダ
・纏向建物の柱穴より深い他の遺構で出土した桃の種が3世紀なのできっと卑弥呼の宮殿ニダ
・纏向は人々の住居跡がほとんど無いので倭国の首都だったニダ
・島根県で景初3年の紀年鏡が出土したので畿内説が正しいニダ
・博多湾から投馬国までの水行20日の道程は無人地帯だったニダ
・投馬国から水行10日+陸行一月の道程も無人地帯だったニダ >>414
魏志倭人伝の行程の南を東にすれば畿内を指すのは本当の事だよ >>414
そうやって捏造して連呼するのが
九州説の歴史歪曲
結果は九州説の信用が落ちるだけ >>413
>正常な畿内説の人
それって典型的な前近代型九州説だろ
卑弥呼が筑紫にいたと言っている
どうして九州説信者はここまで正常な判断ができなくなるのだろう >>414
鉄器は畿内では古墳から大量に見つかってる >>415
以下についてロジカルな解説をよろしく
・行程距離の表記が突然日数表記に変わる件
・博多湾から投馬国までの水行20日もの間、一つも国が登場しない件
・投馬国から水行10日+陸行一月もの道のりにおいても国が一つも登場しない件
・女王以北は詳細を紹介し、それ以外(以南など)は名称のみで詳細不明だが、じゃあ東の倭種の国や狗奴国はどこなのか? 畿内説のウルトラミラクルなこじつけ論は日本の学者の恥 陳寿の書いた鬼道とは華夏が読めば五斗米道なんだよ。他に無いの、その痕跡の残るところが卑弥呼の都 >>419
途中から日数になるのはそっから先は実際に行ってなくて
だいたいこんな感じという大雑把な距離を乗せてるから
魏志倭人伝に書いてある邪馬台国の位置は会稽東治の東つまり
沖縄や台湾のあたりと書いてあってこれは実際の邪馬台国の位置ではない
これは何かというと漢の時代の伝承である倭の極南界とされる位置に
邪馬台国を当てはめて書いてあるもの
魏の年号の入った銅鏡や前方後円墳など
魏志倭人伝に書いてある邪馬台国があった証拠は畿内に集中していて
隋書にも邪馬台国は倭の事であると書いてあるので邪馬台国は畿内にあったと推定されている >>423
誰がお前の作文読めと言ったんだ?w
日数表記変わる箇所は倭人からの説明
里を知らず日数を使ってたと記録にあるだろ
会稽東冶の東とは、「計算すれば〜」と書かれている通り、短い里で書かれた過去の記録の里数を足し合わせて陳寿が勝手に想像した位置である
魏の年号入った銅鏡は奈良、纏向では発見されていない
前方後円墳っだとわかる記述も無い
「塚」としか表記されておらず、倭人の墓についての説明にも「塚」と表記してあることから、単なる墳墓だと解釈されるのが正常だ
そして隋書の時代に纏向は無く、奈良より難波京の方がデカい 〜 畿内説は不要である 〜
https://i.imgur.com/TKTkTp9.png
■基本的に魏志倭人伝の構文解析が最優先課題である
同じ内容で使われる文字が変化したり、奴国の紹介が重複していたり、距離が里から日に変わるなど、
魏志倭人伝は過去の記録を引用しつつ、新たに得た情報を大雑把に追記する形式で構成されている
■中国に伝わる古い伝承記録から書き写した部分
・帯方郡(ソウル)から南→東と海岸沿いに水行し狗邪韓国(釜山)までの距離が約7000里
・対馬→壱岐→北部九州上陸までの合計が約3000里
・上陸してから伊都国までが陸行およそ500里
・奴国、不彌国までがそれぞれ約100里
・陳寿は単純に帯方郡から女王の都までの総距離を合計12000里と見積もった
参照した記録資料の1里は75mだったが、陳寿は1里=435mの認識だった(例 会稽東冶の東)
■卑弥呼時代に朝貢に来た倭人による行程説明を追記した部分(日数表記の記録)
@帯方郡から(記載漏れ?)
A南に船で20日→投馬国(任那、伽耶、狗邪韓国など)
B南に船で10日→邪馬台国(北部九州=女王国)上陸
Cまず伊都国に駐留し、女王国の入国許可を待つ
D倭人か客人の到着を女王に知らせに行く
E女王の使者が迎えに来る
F迎えに来た護衛とともに女王の都へ
■考えられること
・中国人と倭人との意思疎通は完全ではなく、誤解は日常茶飯事だった
・陳寿は倭に関する古い情報と新しい情報の関連性がよく理解できていなかった
・倭人による船で移動する行程の説明を中国は「水行」と記録していた
・倭人は対馬海峡を挟んで半島側を投馬国と呼び、北部九州側を邪馬壹(臺)国と呼んでいた
・倭人は距離単位の「里」を知らず「日」を使って表現していた(隋書倭国伝に記載あり)
・陸行一月とは、女王の都に到着するまで(C〜F)に一か月を要するという意味である >>424
>会稽東冶の東とは、「計算すれば〜」と書かれている通り、短い里で書かれた過去の記録の里数を足し合わせて陳寿が勝手に想像した位置である
魏晋でいっさい使われた形跡のない「短い里」を現代日本人が想像で作っただけだろ
学説には、とてもなれないね >>425
>@帯方郡から(記載漏れ?)
倭人伝が間違ってるという前提を立てちゃったら
行程記事から邪馬台国の位置を割り出す方法は放棄しないとね
九州説はオワコンの不用品
燃えないゴミだ >>420
>時代が違うし、畿内の持ち物でも無い
ほら
九州説はまったく理由を言わずに断定する
だから妄想と言われるのだよ
絶対に学説になれない >>426
> 魏晋でいっさい使われた形跡のない「短い里」を現代日本人が想像で作っただけだろ
> 学説には、とてもなれないね
■参考
日本書紀より
崇神記65年「任那者去筑紫国二千余里北阻海以在鶏林之西南」
半島南部の任那から北部九州の筑紫までの距離が約2000里と記されている
魏志倭人伝と同様に短い里が使われていますね >>427
> 倭人伝が間違ってるという前提を立てちゃったら
じゃあ南は南であり東ではないですね
行程記事から邪馬台国の位置は畿内でない事が確定しましたね
畿内説はオワコンの不用品
燃えないゴミだ >>430
行程記事は九州でもないよ
そして考古学的な証拠は畿内から見つかる
邪馬台国が九州にあった証拠は何もない >>419
>以下についてロジカルな解説をよろしく
>・行程距離の表記が突然日数表記に変わる件
里数表記と日数表記の混在は珍しい話ではない。
冊封使は倭女王に会うのが職務だから、女王の都する所まで理数が書いてないとすれば、倭女王に詔をもたらした使者一行は理数を記録していない
したがって里数は伊都国在住の楽浪人等からの情報か、さもなくば机上の舞文だ
現実的な数字の出ている伊都国周辺を前者、非現実的な千里単位の数字を後者と見做す
>・博多湾から投馬国までの水行20日もの間、一つも国が登場しない件
遺跡分布と百里という距離から、不彌國は博多湾沿岸ではないと考える
次の寄港地を早鞆瀬戸付近として投馬国(トモ連合加盟者)と考えることに何の不自然もない
>・投馬国から水行10日+陸行一月もの道のりにおいても国が一つも登場しない件
吉備勢力圏と畿内第五様式圏はほぼ接しており、投馬国と邪馬台国が国境を接しているとするのは妥当
>・女王以北は詳細を紹介し、それ以外(以南など)は名称のみで詳細不明だが、じゃあ東の倭種の国や狗奴国はどこなのか?
「それ以外(以南など)は名称のみで詳細不明」なら
詳細不明で順当 >>431
> そして考古学的な証拠は畿内から見つかる
なるほど
・当時最大規模の縁日会場こと纏向遺跡
・東海・伊勢産の飯炊き土器と残飯各種
・古墳建造作業員向け食堂と思われる大型建物
・木製の土木用具一式
・東日本で流行った仮面(木製)
・纏向建物と無関係な遺構で発見された桃の種
・同じく蛙の骨
・箸墓古墳で出土した馬具 >>419
中国擬晋南北朝史学会副会長の陳長崎教授は
「一つの完成した史料とは言えず
部分部分で内容が矛盾している
一人の人物が書いたものではない」と考えている 訂正
中国擬晋南北朝史学会副会長 ✕
中国魏晋南北朝史学会副会長 〇 >>430
>じゃあ南は南であり東ではないですね
どうして?
理由は?
>行程記事から邪馬台国の位置は畿内でない事が確定しましたね
その行程記事に間違いがあるのを認めるんでしょ?
つまり畿内説を否定することは不可能になった >>438
>経験上、中国人や台湾人は総じて九州説だったよ
証明する手立てのないことばかり主張するのは
馬鹿のやる事 そして追い詰められた九州説は
>>434のような嘘を言い張るしか
打つ手がなくなる
九州説の終わりは呆気ない >>433のように罵る以外何も言えないのも
九州説が敗北者である証拠の一つだ 九州に大きな遺跡があるのはなんの不思議もない
だって任那とか百済から日本にくるときに、まずは上陸した先に拠点を作るだろ?それは人類史見渡してみてもどこもやることだ
つまり九州の遺跡は半島人が日本との貿易のために作ってんだよ、出島みたいなもん
邪馬台国(大和)は畿内にあって最終的に西に攻めていって統一した
だがこれだと神話の神武東征の話が分からなくなる謎 >>443
神話は所詮神話で良い
史実とみなすから変になる 秦氏らが九州に渡来したのが卑弥呼が女王についたってされる100年後だもんな
この連中らが今の大分県あたりに住み着きそのあと中国の連中らが日本に来て夏と同じ風習を持つって記した秦王国の話となるんだろ
日本ではその国の名前は豊の国って呼んでるんだよ そのあとにその連中らが東に拡散していき聖徳太子に仕えたとされる秦河勝やらの話になるんだろ
京都を造営したのも秦氏だってえからな 安曇伝承ってのはその当時の秦氏らが日本に上陸した様子を伝えているとされる
つまり安曇族ってのはそれ以前から九州に存在した連中だとされる だいたい日本神話が実際に創設されたのが680年ころから720年ころにかけての話なんだね( ゚д゚)
各地に残る伝承なども天皇に忠誠を違った連中らが差し出したそれぞれの神話時代の話を参考にして編纂されたもんなわけ 俺の使っている地図で距離を測ると
狗邪韓国(釜山)〜對馬国(比田勝)・・・50km(水行1日)
對馬国(厳原)〜一大国(勝本)・・・53km(水行1日)
一大国(印通寺)〜末廬国(呼子)25km
末廬国(呼子)〜末廬国菜畑・・・ 25km
壱岐〜呼子は水行半日で呼子〜菜畑は陸行半日だが
倭人伝では大雑把に水行1日としている
要するに1里50〜60mくらいで考えている >>446
その時代でも外国人が簡単に国を作れるほどスカスカだったわけで、既に西日本はヤマト王権が牛耳っていた、
などと朝鮮人みたいな歴史捏造やってる畿内説ってかなりキモいなw そもそも倭軍て何か分かるか?
魏あたりの要請に応えて呉州地域の遺民?みたいな連中らを集めて編成された軍事組織やぞ
それが何で日本の歴史と繋がるのか不思議な話がいっぱい出てきた
しかも日本国内からデタラメを発信する連中らが沸くこと沸くこと >>453
厳原の対馬市役所から比田勝駐車場まで75km >>455
これってまたニセ情報発信してるクズ九州説? アマテラスを卑弥呼に比定するから、
高天原つまり九州北部の女王国を邪馬台国と決めてしまいたくなるだけで
その出発点が間違いなのよ
だったらイザナギやイザナミも誰かに比定できるのか?ってなる
もちろん日本の鉄器の始源である比婆山(たたら製鉄)には意味があって、
そこでイザナミが火の神を産んで陰部を火傷して亡くなったことには、
そういう実際の背景は考えられるわけで 459
だから日本神話は国産み神話から始まるだろ
日本て国の国生み神話だぞ そんなん各地に国造が作られていった時代の話に決まってるじゃん 459
いや高天原に比定されてるのは奈良県のこと
その時代に軍事的にも政治的にも日本内で唯一集中していた場所がそこ だいたいに国譲りの時点で、
葦原中国(出雲)の勢力がその火の神の子孫によって、
諏訪国まで追いかけられて討伐されたことになっているのに
魏志倭人伝の報告に日本が見聞された頃というのは、
日本神話の始まりのタイミングではなく、
国譲りも神武東征も過ぎた後である可能性が高いでしょうから、
だったらその頃に、
「彼らの言う首都」はどこを指していたかといえば、
倭国大乱も含めて九州内に収まるはずがないのです 九州北部に、
日本の古(いにしえ)の首都みたくような国が形成されただろうことは、
記紀の神話からでも十分に伺えるわけです
日向(宮崎)はまた別でしょうけど
でも大事なことは、
魏志倭人伝に見聞された頃というのは、
その時期ではないだろうということです
つまり彼らの指した邪馬台国という首都は、そこではないだろうということです だいたいね〜卑弥呼の時代からなら500年後、秦氏らが九州に渡来したなら400年後に日本書紀が書かれとるんだよね〜 その4〜500年間てのは日本側から書かれた資料残ってねえだ
寺院に残されていた記録から判明したことばっかりなのだね 日本からは西暦380年ころに日本初の坊さんが完投にもいたらしいがな >>460
検証って言葉の意味は知ってるのかな?
知らないよね? 水行10日は帯方郡から末廬国までの船を漕いだ日数だから
末廬国に着いた時点でこれ以上の水行は無い、従って
自動的に邪馬台国は九州内にあると言う答えになる
妄想畿内説は破綻したww ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています