邪馬台国畿内説 Part707
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1624855927/l50
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 >>193
実見してないど素人がテキトーに舶載鏡に錆色塗装したと妄想して、そうではない根拠を求めるのではなくて
舶載鏡に錆色塗装したような痕跡があった場合にそう判断される
まず調査した柳田が観察して分析した内容を読みなさい 神社崇拝はゴミ
41 名前:日本@名無史さん 2021/07/17(土) 20:46:37.57
日本に神社を広めたのは高句麗の人食い馬賊の秦氏
人間を食う連中の神社だよ
中国に万里の長城を作られて、追い払われたから半島を通って日本に人間を食いに来た
祭で神輿に乗ってるヤクザを見てくれ
神輿というのは日本人が頼んでも乗れないぞ
朝鮮の文化だからさ
ヤクザは朝鮮神に仕える者で
朝鮮神たる天武天皇が684年に、自分の取り巻きである豪族に定めた
「八色(やくさ)の姓」が由来
神社のみならず、天皇含めて古代からチンピラ朝鮮人てこと
なんせ人間を食う連中だし
邪馬台国畿内説 Part707
234 名前:日本@名無史さん 2021/07/17(土) 20:45:37.12
>>193
実見してないど素人がテキトーに舶載鏡に錆色塗装したと妄想して、そうではない根拠を求めるのではなくて
舶載鏡に錆色塗装したような痕跡があった場合にそう判断される
まず調査した柳田が観察して分析した内容を読みなさい しばらくお待ちください
末端でやりすぎキナイコシが大陸本部に対処法を問い合わせ中です
しばらくお待ちください >>235
なるほどね
朝鮮がそういう扱いなのね
漢委奴国王金印は委奴=伊都で伊都に集約して
親魏倭王はド辺境の箸墓にあることにして
日本の基盤は中国王朝の信任から始まることにしたいのね
それが、
漢委奴国王は奴国王で、伊都国王に滅ぼされた
親魏倭王は平原女王で、これも代有王の伊都国王=次の男王に滅ぼされた
ありゃりゃ
日本国って、倭人日本人の国粋国家じゃん、ってことになるから、
必死なのねん 日本だけじゃなくて、アメリカが後ろにいるから。
漢皇帝や魏皇帝が、
半島南部の領有権を倭王に認めていた、となると、
困るのは韓人ではなくて、(だって傘下に入って堂々と発展できるし)
あれ?
方可五千里なのに、
七千里かかっちゃう
これは揉めるぞぉ こわっ
キナイコシが沈黙しちゃった
こわっ
日本史板の反日スレタイってキナイコシの?
こわっ >>207
この人、ちょっと頭おかしいんじゃないの?
正始元年に銅鏡が百枚以上下賜されたとか誰も言ってないのに >>184
>ということで、この200年ごろの平原パチモン1号がある糸島が3世紀に
女王国に従属していた千餘戸の伊都國いい倭人の風習である卜骨は糸島からは
一欠片も出ていない
女王に共立された卑弥呼や(その宗女の)壹與は、当然「鬼道」的手法であり、
「ト骨」的手法ではないから、倭國の中心部では、ト骨は殆ど廃れて、
肥前などに僅かしか残らなかったが、
元は出雲のNo.2で、(魏の支配下である事を示す「戸数」ではなく)、
「家数」で書かれて、独立的でもあった「一大國の壱岐」では、
ト骨習俗は、相当残存していた。 >>193
>で、錆色塗装が舶載鏡になされたものではない根拠は?
平原1号の「21枚の尚方作方格規矩鏡」は、
「尚方作」の記銘の通りに魏の工房での製作鏡であり、
明帝の下賜の銅鏡百枚の中の残存鏡であり、
卑弥呼から壹與に相続された鏡で、
渡来の呉系楽浪鏡師らが「錆色塗装」に関与した鏡であったんでしょうが、
46cmの巨大内行花文鏡などは、当然、
渡来の呉系楽浪鏡師らの製作や錆色塗装の関与があった鏡であったんでしょう。 >>193
>で、錆色塗装が舶載鏡になされたものではない根拠は?
平原1号の「21枚の尚方作方格規矩鏡」は、
「尚方作」の記銘の通りに魏の工房での製作鏡であり、
明帝の下賜の銅鏡百枚の中の残存鏡であり、
卑弥呼から壹與に相続された鏡で、
渡来の呉系楽浪鏡師らが「錆色塗装」に関与した鏡であったんでしょうが、
46cmの巨大内行花文鏡などは、当然、
渡来の呉系楽浪鏡師らの製作や錆色塗装の関与があった鏡であったんでしょう。 >>198
そりゃあ,、
文献考古の史料事実や、それからの帰納的確率的な推論で得られた史料事態、という、
別の理由で、大和説がダメだというのが常識化してるんだから
大和説は世間から認めてもらえないさ
当たり前だろう? >>205
>三角縁神獣鏡が魏で作られたとして、
洛陽からの出土が0〜1枚では、列島の500枚以上の△の説明は不可能だし、
三角縁も神獣鏡も呉付近で盛行していたんだから、
やはり、列島の△の始まりは、渡来の呉系楽浪鏡師らの関与鏡で始まった、
であったんでしょうね。
>その鏡師は、元はどの鏡を作っていた職人なのだね?
楽浪出土鏡のような鏡。 >>195
>実見してないど素人がテキトーに舶載鏡に錆色塗装したと妄想して、そうではない根拠を求めるのではなくて
舶載鏡に錆色塗装したような痕跡があった場合にそう判断される
まず調査した柳田が観察して分析した内容を読みなさい
柳田が、
「大和説学者だ」という、史料事実や史料実態の曲解や否定をするスタンスを捨てて、
史料事実や、それからの帰納的高確率的な推論の史料実態を求める事に変わったら、
「調査した柳田が観察して分析した内容」も読んで上げる。
それまでは、柳田の報告は、半分偽報告であり、信頼性が全くない。 >>256の訂正
>>234
>実見してないど素人がテキトーに舶載鏡に錆色塗装したと妄想して、そうではない根拠を求めるのではなくて
舶載鏡に錆色塗装したような痕跡があった場合にそう判断される
まず調査した柳田が観察して分析した内容を読みなさい
柳田が、
「大和説学者だ」という、史料事実や史料実態の曲解や否定をするスタンスを捨てて、
史料事実や、それからの帰納的高確率的な推論の史料実態を求める事に変わったら、
「調査した柳田が観察して分析した内容」も読んで上げる。
それまでは、柳田の報告は、半分偽報告であり、信頼性が全くない。 >>249
「南→東」や「卑弥呼の冢→前方後円墳」や、
唐会要の「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」の否定や、
舊唐書などの「日本國者,倭國之別種也。以其國在日邊,故以日本為名。
或曰:倭國自惡其名不雅,改為日本。或云:日本舊小國,併倭國之地」の議論隠蔽などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の、大和説学者らの妄想癖は、
もう病気の域だな >>258
正北抵新羅の倭國の中心は北部九州?
倭国の条は書かない
史料事実や史料実態の曲解や否定
なのでバツ 魏からの使者は食料やらお土産やらを運んでたわけで、賊に襲われたらイチコロ
当然、ホストである邪馬台国が護衛や通訳をつけたはず
すると、同盟国の領地しか通れない
出雲や吉備は通過できないから、畿内入りは無理
仮に、出雲や吉備が同盟国なら、書いて残さないはずがないしな そのホストがつけた護部隊というのが一大率な(率=師)
女王国以北〜末盧国(唐津港)の古代街道の安全を守っていたのさ >>260
>出雲や吉備は通過できないから、畿内入りは無理
どうして?
出雲や吉備が同盟国じゃないと決めつける理由は? 特に一大率が置かれたのは女王國以北=異民族との境界域
共立女王国内(連合内)は各国が賊に対処する >>262
>>出雲や吉備は通過できないから、畿内入りは無理
>どうして?
出雲や吉備が同盟国じゃないと決めつける理由は?
出雲は、出雲神話では、
「木や綱を使っての越や新羅や北朝鮮や沿海州からの国引き神話の建国譚」があるから、
縄文期からの(侏儒國や東テイ人を除く)西日本のほぼ全域の盟主にまでなっていて、
その内の九州には、紀元前5世紀の呉王夫差の遺民の姫氏が火の国山門に渡来し、
燕の南方にいた倭人が海峡周辺に渡来建国して、天孫族の阿毎氏の天照らは出雲のNo.2になっていて、
「国譲り戦争」で出雲に勝利して、能古島から姪浜や糸島水道方面に上陸建国(天孫降臨)して、
委奴の地で火の国山門から別れた姫氏も合流し、
北部九州の出雲の支配地の宗像や宇佐や岡田宮も支配下にし、
更に国生み神話や五瀬命らの「瀬戸内地域からの東征」で東方に吉備などの植民地を沢山造り、
漢委奴國王や(帥升らの)倭國王が与えられた。
五瀬が敗戦して亡くなったあり、弟の神武が熊野を迂回して、
大和の在地の毛人や出雲系銅鐸祭祀部族の首長らを騙し討ちに殺戮して、
磐余の地を奪って建国し、その後の欠史八代の頃には、
九州倭國の地方の市を監督する大倭職になって、葛城や唐古鍵などの在地部族と共存したが、
開化や崇神の頃に、再び九州倭國の大彦らの東征毛人軍が来て、
(出雲以外の)東海や北陸関東東北近くまで進出し、大和も占拠支配して、
在地の毛人や出雲系銅鐸祭祀部族を生口や守墓人にして、巨大墓を造らせた。
しかし、梁書には、(倭國以外に)、
出雲に文身國、越には大漢國、足摺付近には侏儒國、大和には扶桑國、
東海以東以北には「女國(≒紅毛碧眼の白人蝦夷國?)の存在が記載され、
この内、扶桑國の王は「ヲケ」と書かれ、
大和の顕宗と仁賢の名前が「ヲケとオケ」である事から、扶桑國は大和王権の事であり、
九州倭國の別種分家の大和王権が、5世紀後半には独立的になっていたのだな?、
と思われる。 >>258
>>259
早朝に一方が書き込むと
わずか4分後に反論の投稿
自演を隠すつもりがないのか
そういう配慮もできない知的水準なのか >>265
ちょっと錯覚しました
4分後ではなく、12分後でした(^^; >>267
錯覚したというのが錯覚でした(^^;
投稿の間隔は4分でした >>262
書いてる
同盟国なら魏志倭人伝に載ってる
伊都国のように >>270
>同盟国なら魏志倭人伝に載ってる
>伊都国のように
伊都国が同盟国だとか思い込む理由は? >>272
また聞くだけ聞いて逃げる畿内説の手口か
魏からのお客さんは、食糧やら土産物やら持ってる
賊に襲われたらイチコロだから、護衛と通訳がいる
伊都国まで無事案内してもらったのは伊都国が同盟国の証しだ
で、同盟国と思わない理由は?
はい畿内説逃走 辰韓人の言語は馬韓と同じではなく、秦人に似たところがある
楽浪人は本は自分たちと同じで楽浪に残った人といい、秦韓という者もいる
糸島の特定の遺跡からは生活用楽浪土器が出ているのでおそらく伊都国王は楽浪の秦系の人
秦の武将が嶺南に建国した南越国の南のベトナム中部を中心栄えていたのが
甕棺墓に豊富な副葬品を持つサーフィン文化
南越王墓からは径41cm、38.4cmの大型彩画鏡が出ている
平原1号から大型鏡、三雲南小路1号甕棺墓から径27.3cm重圏彩画鏡 >>273
>で、同盟国と思わない理由は?
「統属」してるんだから下位の立場だ
倭人伝を尊重する限り同盟国ではないよ >>275
女王を「共立」してるから、形式的には対等
すべての同盟国が等しく統属 郡とのパイプ役で千戸しかないから女王国連合が保護してるんだろうな
通訳は伊都国人だろう >>276
伊都国が共立に参加してたっていう根拠は? >>273
1>で、同盟国と思わない理由は?
2>はい畿内説逃走
質問する前に回答することって物理的に不可能だよね
だから1と2を同じ投稿に書くのは妄想だ
>>273は妄想ばっかりしてる思い込みの強い人と証明されてしまった >>276
>女王を「共立」してるから、形式的には対等
それは確実に間違ってるね
臣下が君主を共立しても君主と臣下は対等にはならない >>280
同盟国同士が対等といってるんだよ
どっちも等しく統属だからな >>278
すでに書いてる
邪馬台国の客を迎えてる >>276
>すべての同盟国が等しく統属
だったら伊都国しか「統属」と書いてないのは何故?
書いてなくても「統属」でいいなら
書いてなくても同盟国でいいよね? >>283
>実際逃げたじゃないか
いつ、どこで?
証拠は?
また妄想? >>282
>邪馬台国の客を迎えてる
迎えたら、なんで同盟国なの?
そんなこと決めつける根拠は?
下僕の国は迎えないの?
奴隷の国は迎えないの?
なんで? >>286
親魏倭王だから、護衛をつけて送り届けてる
敵対国の客を、なんでわざわざ迎え入れるんだよ >>288
>親魏倭王だから、護衛をつけて送り届けてる
>敵対国の客を、なんでわざわざ迎え入れるんだよ
日本語がおかしいので意味がわからない
誰が誰に護衛をつけて送り届けたの?
それ、倭人伝に書いてある?
「敵対国の客」だと誰が言った?
また突然相手の言っていないことを妄想?
病気ですか? >>283
>実際逃げたじゃないか
誤魔化してないで回答プリーズ
いつ、どこで?
証拠は?
九州説さん、また平気で嘘ついたの? >>288
>敵対国の客を、なんでわざわざ迎え入れるんだよ
通説は伊都国=属国なんだから反論になってない
統属下の国だし人口も7万:1千と小さい
通説が自然で、お前の説は不自然だ 甲論乙駁の与太話おつ
吉野ヶ里と佐賀川上の発掘が一段落するまで、間を持たせてくれよな・・ >>293
永遠に相手にされない説は待ってられない 同盟国ってのは邪馬台国7万に対して投馬国5万とか、せいぜい奴国2万までだろう
2千、3千の国は属国だな >>292
王がいると明記してるのは伊都国、邪馬台国、狗奴国だけ
しかも、伊都には一大率まで置いてる
これで、同盟国じゃないと本気で言ってるなら脳が沸いてる
畿内説は、脳内の定説ばかりに蝕まれてるから真実が見えないんだぞ >>296
>答えてるぞ
どこで何に?
>逃げてるのは畿内説
いつ、どこで何から?
九州説はまた嘘ばかり?
せめて一人前の日本語話してね >>297
>しかも、伊都には一大率まで置いてる
そんなもの置かれれたなら、属国でしょ >>293
>甲論乙駁の与太話おつ
賛成です。伊都国にも「王」がいたし一大率もいた、という事が史料実態です。
>吉野ヶ里と佐賀川上の発掘が一段落するまで、間を持たせてくれよな・・
お気の毒ですが、伊都國は、
「王遣使詣京都帶方郡諸韓國,及郡使倭國,皆臨津搜露,傳送文書賜遺之物詣女王不得差錯」
ですから、「臨津」である地であり、
背振山地南麓部の多久や小城や大和付近では、海が遠過ぎて「臨津」出来ないし、
魏の役人らが長崎半島などを大回りして有明海に入って来る筈もありません。
そして、「南東陸行五百里到伊都國」の行程説明は、
やはり「出発説明+途中説明+到着説明」の順の人類の常識通りの書き方になっており、
「東南」は、末盧國の外縁部からの出発時点での出発方向説明であり、
「陸行五百里」は途中での「案内人に拠る道なり道」の説明であり、
伊都國は、「皆臨津搜露,傳送文書賜遺之物・・・」出来る地であるから、
ほぼ前原付近〜糸島水道付近になります。 >>300
>そして、「南東陸行五百里到伊都國」の行程説明は、
>やはり「出発説明+途中説明+到着説明」の順の人類の常識通りの書き方になっており、
そんな常識はない
出発した方角だけ書いて、その後に方向転換しても書かないとか
どこからどこまで五百里なのか書かないとか
そんなのは非常識だ
非常識すぎて他人と意思疎通ができない >>300
オメは、「臨津」を、臨港都市と同じように「津を臨む、津に臨む」などとかいしゃくしているからそうなる。
しかしここで「臨」とは、
「天皇陛下のご臨席を仰いで・・」の例のように、超高位の人物がわざわざ遠い地方まで出向くことを云う。
「天孫降臨・・」もそうだ。天孫が天からわざわざ地上へ降ってきたことを「降臨」と言っている。
くだんの「臨津」の場合も、高官である一大率が、佐賀川上の伊都国からはるばる唐津の末盧港まで出向いて女王宛の荷を受け取り、
(護衛の部隊に守られて、再び佐賀川上の伊都国を経由し)高千穂の女王の都まで届けていたことを表しているのだ。
お気の毒ですが、これが正解!! >>303
>しかしここで「臨」とは、
津はどこ? >>304
オメは、漢検1級くらは持っているんだろ。それにしては読めないねえ。
>しかしここで「臨・津」とは・・・、
具体的には唐津の競艇場の正門前の古代港・中原遺跡だ。
一大率は、夜駆けの伝令の報告をうけて、早朝出発し、その日の夕方には中原港に着いた。その程度の距離な。 >>300
それからな、前原〜糸島水道付近の伊都国で「皆臨津搜露,」と解するなら、
荷物は海からイトコクへやってきたことになる。
ならば、何もわざわざ末盧国・唐津へ寄港し、客人を下すことはない。
客も荷物も前原〜糸島水道の港へ、直接上陸する/させるだろう。辻褄が合っておらぬわ・・、 邪馬台国とは卑弥呼を女王に戴く連合国のようなもの。
卑弥呼が邪馬台国の王であるとか、何処かの国の王であると言った描写は一つも無い。
そもそも卑弥呼は国を持っていたのか?甚だ疑問である。
ただの巫女の婆で連合国の盟主だけの存在。
それが卑弥呼。 >>307
当時のことだから、船は櫓櫂と帆と潮流の知識で海峡を渡ったので、渡海は季節・月齢に依った。
倭人伝に出てくる朝貢の時期は12月と6月だが、それは現代の知識で見ても、一番安全に海峡を渡れる時期なのだそうだ。
つまり当時は、1年に2回(2シーズン)だけしか船の出入りはなかった。
仮に臨時の船が出入りするにしても、新月と満月の前後2-3日だけ、。
だから、年中末盧国唐津に待機して競艇にのぼせている必要はなく、その他の時期は街道の安全確保(盗賊退治と道直し)が任務だったのだろう。 >>306
>ならば、何もわざわざ末盧国・唐津へ寄港し、客人を下すことはない。
倭人伝には、末盧国・唐津へ寄港し客人を下すとか書いてない。 >>310
倭人伝には、前原〜糸島水道の津へ寄港し荷物を下すとか書いてない。
が、末盧国へ寄港し、上陸したことは明白に書いてある。 >>311
誰が「末盧国へ寄港し、上陸した」とか全く書いてないね 末盧國には官名が書かれていないからマージナルマン(境界人)地域
草木が盛んに茂っているところの津だけを倭国が押さえていた 対馬ー壱岐、壱岐ー唐津の南方位はずれているので
唐津からの東南方位を根拠にはできない >>314
それって当時の人は正しく東西南北を把握できないってことだね? >>315
定点ではできるけどね
案内されて移動したら正確にはわからないだろうね >>306
>それからな、前原〜糸島水道付近の伊都国で「皆臨津搜露,」と解するなら、
荷物は海からイトコクへやってきたことになる。
ならば、何もわざわざ末盧国・唐津へ寄港し、客人を下すことはない。
客も荷物も前原〜糸島水道の港へ、直接上陸する/させるだろう。辻褄が合っておらぬわ・・/
違うな。
今回の魏使らは特に、
大切な詔書や金印や重くて大量の下賜品を「安全に運ぶ事が必要」であり、
だから、危険な渡海や道無き道の峠越えルートなどは、出来るだけ最小限にする必要があり、
だから、古田説にもあったように、
對海國や一大國も海岸沿い二辺の陸路を選択しており、
末盧國の上陸も、東松浦半島の東海岸の「唐津港」付近と考えられ、
末盧國の出発地は、唐津の町の東南端付近から東南方向に出発して、
松浦川も少し上流の浅瀬を選択し、出来るだけ峠越えを避けて、
砂浜海岸沿いの道を選択するもの。
また、都市牛利の都市氏は、後の松浦水軍家であり、
東松浦半島の西北沖の鷹島や黒島が本拠地であり、
渡海の安全航行法や末盧國での道なき道の選択や韓での会話も可能であり、
だから、難升米の次使に選ばれたのであり、
更に「率善校尉,假銀印青綬」を受けて魏の臣下にもなっており、
だから、末盧國には、「官や副」の呼称が不要であったのである。
従って、今回の魏使らは、直接伊都國には上陸しておらず、
だから「自女王國以北,特置一大率檢察,諸國畏憚之。常治伊都國,於國中有如刺史」による
「王遣使詣京都、帶方郡、諸韓國,及郡使倭國,皆臨津搜露,傳送文書賜遺之物詣女王,不得差錯」
の「臨津搜露」は、特別に「前原〜糸島水道」付近で行われた事になる。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています