邪馬台国畿内説 Part717
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1629105392/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に配置された大型建物等(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。庄内3式期のSD-2001、庄内3〜布留0式期のSM-1001,SD-1007が建物BとDをそれぞれ破壊し、建物Fが庄内2式期のSX-1001埋没後築造なので建物群の存続期間は庄内2〜3の中に絞り込まれた。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある。
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。 ◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、a.元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から、b.或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。 ◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ。
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前の情報が窺知できる。
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。 ◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他なるまい。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。 ◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。
※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。 ◆6(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
(本項 続く) (承前)
◆6−2
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。 ◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FAQ43参照)
つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。 ◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化に起因する列島での社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf
◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等
◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山
IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
浦間茶臼山、西求女塚
IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
メスリ山、行灯山、祇園山 ◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。
壹岐一国では観察されたが首都で観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。 ◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。
以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。
また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く) (承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
予章郡:雒陽南二千七百里 南海郡:雒陽南七千一百里
蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
交趾郡:雒陽南萬一千里
(雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)
倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。
また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。 ◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇田と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。
◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。 ◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。
◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。 ◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。
◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。 【畿内説709メモ】
水行の距離は測れない
【畿内説710メモ】
シナ大陸という地名はない
【畿内説711メモ】
九州説に学者はいない
【畿内説712メモ】
ニセ調査報告書登場
百姓ボランティア建造説爆誕
【畿内説713メモ】
奈良は古代最大規模の作付け面積だった
破砕供献の土器をゴミ捨て場というのはバカだ
コンビニ袋のように鐙が飛ばされた
炊飯時の吹きこぼれが炭化した
【畿内説714メモ】
径百歩の墓の中から年代の合うやつを見つくろえ
【畿内説715メモ】
三角測量で海上の距離を測量した
空飛ぶ畿内説爆誕
観念的里の大チョンボ
【畿内説716メモ】
可也山を目印にせよ
平坦な道を避け日向峠を越えろ
東である証拠はこの航海写真だ(ドヤッ ◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、
実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと
。
3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
記紀においてもヤリとホコの区別が無いことは、天日槍を知らぬ者を除き常識である。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。 ◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なる概念である。よって否定材料にならない。
呂覧に「題湊之室棺槨数襲、積石積炭以環其外」と見える如く、古代中国人の耳目には竪穴式石室の側壁或いは現代考古学に言う礫槨・木炭槨の類は室外を環る地中構造物と認識される。そして棺槨は室内に重ねられるのである。
石を槨の表、黄腸を裏とする鄭玄註は、題湊が木槨壁面に接合する時期を経た塼室墓時代の意識として整合性がある。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて韓地経由の楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響ではあるものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状である。
就中、ホケノ山は床板が無く、石室構築のための仮設の板壁を石室完成後に撤去した木蓋石室墓とする復元案(真鍋2018)も有之、古代中国人が認識する木槨とは程遠い。
これを槨と称するならば、北部九州に多い箱式石棺も歴然と槨である。
畿内で一般的な墓は木棺直葬の方形周溝墓で「有棺無槨」に適合している。
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能である。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。 ◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと推定できる。
他に、使用痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄など、遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧とがある。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、遺跡建設当初の庄内0期遺物から鉄器による加工痕が認められる。
纒向大溝建築材実測図 https://i.imgur.com/EPtpzEw.png 矢板列支柱(左)に角の明瞭な貫穴、矢板(右)に鱗状手斧痕。倶に鉄器による加工の特徴を示す。
纒向遺跡メクリ地区に「大型の鉄製品を砥ぐという行為が行われていたのは間違いがな」いとされている大量の砥石があり、廃棄時期は3世紀前半〜中頃、最も古いものは「庄内2式期の可能性」(『纒向遺跡発掘調査報告書2』桜井市教委2009)とされる。
大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析では、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。事実、鉄製品の腐食に最も影響力の強い硫化物が海成粘土層が畿内中枢部の深層に分布している。
また併せて、纒向遺跡で脱炭鋼を製造していた布留0期の鍛冶遺構に於て鉃滓は共伴するが成品が発見されない状況は、官製工房的な管理の強化・貫徹を想定するに足る。
古墳時代に入ると「鉄器が普及したと同時に、首長層へ鉄器が集中した」(橋口2002)
という視点に立てば、首長級墳墓への集中と生活遺構での不在という鉄器の偏在は理解しやすい。 ◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。
◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。 ◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63km)である。
江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。 ◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国出土(李家山59号墓)青銅製容器蓋装飾の騎馬像に鋳出された脚親指に装着する革鐙が報告(菅谷1994)されている。
郡県内では湖南省西晋墓(長沙金盆嶺第21号)の陶俑に描かれた片鐙(永寧2,西暦302年埋葬)が紀年の明かな最古発見例であるが、これと同時期或いは遡るとされる類似の発見例が数あり、中国の複数の調査者が木芯包革式鐙の存在を3世紀中葉まで遡ると考えている。
現物は西晋末〜東晋初(四世紀第1四半期末から第2四半期頃)の河南省・遼寧省出土例まで降る。
湖南省西晋墓陶俑図 https://i.imgur.com/oM4NXR6.png
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度に鐙が一般的存在であったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で上図タイプ1の国産模倣品現物が出ることに不合理はない。 ◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した! これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018)この桃核12測定例の平均値をIntcal20で歴年代較正して次に掲げる。
https://i.imgur.com/VKIld2Q.png
一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、
そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。 ◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png
前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く) (承前)
◆FAQ 23−2
◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。
◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
・ 森将軍塚 :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
・ 前橋王山古墳 :上毛 ・ 持塚二号墳 :上総
・ 高千穂七号墳 :上総 ・ 山伏作一号墳 :上総
・ 長沖八号墳 :武蔵 ・ 温井一五号墳 :能登
・ 見手山一号墳 :但馬 ・ 西穂波16号墳 :東伯
・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
・ 高鼻二号墳 :伯耆 ・ 日拝塚古墳 :筑前
・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
・ 朝日谷2号墳 :伊予ー布留0古(梅木1998)
◯朝日谷2号で後円部上に棺設置後、覆土と同時に前方部の盛土開始が判明していること
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等
◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。 ◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。
◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。
なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。 ◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。
◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があった。
九州説にとって不利な条件と言える。 ◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。 ◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核には、この地域を想定するのが妥当である。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。 ◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!
A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国 ◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。
それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。 ◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。 ◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。
◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。 ◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。(FAQ79参照)
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、
弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。 ◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や太平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。
太平広記はその書名が示すとおり太平興国年間に編纂された類書であり、当該箇所は東晋代成立の捜神記から採録している。則ち太平興国の時点で原テキストに東越閩中の所司が「東治都尉」とあったことが判明する。
東越閩中に置かれた都尉の治は東候官に他ならず、三国志等の版本が成立した北宋太平興国の修史活動期における編集従事者の認識が窺知される。
倭人伝中の「会稽東治」については、中華書局が既に「東冶」と校訂しているが、丁謙・盧弼らの考證に先立ち、成都書局が同治10年に殿本を校訂して「東冶」に改めている。跋文に四川総督呉棠、四川学政翰林院編集夏⼦鐊ら同治年間の人士の名が見える。
https://i.imgur.com/E6TFLyl.png ◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。
この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。 ◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。
これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。 ◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期、遼東系)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期、非遼東系)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行(高久2009)する。
凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。
以上述べた楽浪の対外活動に列島における楽浪土器の出土量を対応させ(◆7参照)
活発期:2世紀末〜239A.D.:久住IA期
衰退期:塼室墓から遼東系が消え魏へ定期職貢あり:240〜247A.D.:久住IB期
残存期:魏へ定期職貢途絶から最終朝貢記録まで:248〜266A.D.:久住IIA期
途絶期:日本列島から楽浪土器消失:267A.D.〜:久住IIB期
の目安が得られる。
三国鏡の雲紋編年において魏景元四年(263)銘鏡に一致するのが三角縁201番鏡(唐草文帯群、岸本V期)であることとも整合性が良い。 ◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。 ◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。
◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。
この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。 ◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。
◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。 ◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。 ◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無い。
壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。 ◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かな ◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
(同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。 ◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定 ◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことが明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。 ◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。 ◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!
A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。
また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。
◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!
A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。
(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
西與犂「革偏に于」・條支接。
行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
…東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
…東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
(漢書西域) ◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
(「長安城方六十里、 經緯各十五里、十二城門、積九百七十三頃、百二十亭」漢旧儀)
また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。
このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。 ◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!
A:定説に従う。
金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。
二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。
以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。
楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!
A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。
◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!
A:基礎知識の誤りである。
現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する
ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通) ◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!
A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
殷商:約16cm
西周:約20cm
戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。
また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。
《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く) (承前)
◆FAQ 65−2
『禮記』王制には
「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」
とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。
ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。
この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。
秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
古者周尺 17.3cm
今周尺 21.0cm
秦漢尺 23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。 ◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!
A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。
なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。
◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
倭人伝にある方位に間違いはないのだ!
A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。
・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。
ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png
因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
地名が実際の地勢と著しく異なる。 ◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
奈良県の三角縁はもっと新しい!
A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。
ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。
箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。
◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!
このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
護軍将軍である淵の任地は都である!
A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。
長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!
A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
銭大マ・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。
襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。
◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!
A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。
中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。
当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。 ◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
畿内は「東征」を受けた毛人だ!
A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
「服」は他動詞として使う。
「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。
「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。
◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!
A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png
能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。 ◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!
A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。
大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。
庄内大和型甕と庄内河内型甕は、庄内 I 段階に大和川河口地域に成立した初期庄内甕(庄内式古相)から分化して、庄内 II 段階に至り倶に確立した。胎土・製作技法・形態により識別されるのみならず、分布域も明瞭に区分可能である。
生駒西麓型とも呼ばれる庄内河内型甕は、中河内地域で圧倒的なシェアを占める一方で、摂津・和泉並びに大和盆地では低シェアという、極めて特徴的な偏在を示す。
これが、中河内地域の排他性を意味しないことは、中河内地域主要遺跡の持つハブ港的性格を鑑みれば明瞭である。事実、吉備の文化は中河内を経由地として纏向に極めて濃厚に転移している。
◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
畿内説は皇国史観の徒である!
A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。
遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。 ◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!
A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
本Qに見られるような直線的進歩史観で歴史が理解できないことは言うまでもない。
古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。
弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。
◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
前方後円墳体制など、夢想だ!
A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。
萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。
奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。 ◆FAQ 78
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
里数が書いてないではないか!
つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
投馬国は南九州でよいのだ!
A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。
『九章算術』巻第六「均輸」に
「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。
これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」
「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。
本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。
三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」
とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝でも、各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。
もとより倭人伝は倭人の国々を
1)自女王国以北、其戸数道里可得略載、
2)其余国遠絶、不可得詳
と截然と二分類しており、「自女王国以北」と「其余」で悉皆である。
戸数・到達所用日数・官の情報が既知である投馬国を「遠絶ゆえに不可得詳」のグループに配することは極めて不合理であり、投馬国については戸数と道里が略載されている。
倭人伝に於て投馬国が「女王国以北」と認識されていること明瞭である。 ◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
ただの倉庫だろう?
A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)
建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。
強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。
◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
魏志に邪馬臺と書かれていたのではない!
ただ当時の風説を書いたのだ!
A:初歩的な誤りである。
子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。
助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。 ◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
だから邪馬台国は畿内ではない!
A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。
三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。
魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。
三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
https://i.imgur.com/XIb0RqF.png
◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!
A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。
「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。
三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。
このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。 ◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!
A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。
●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。
●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君″jッ」「保子¢キ」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。
国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君″jッ至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。
両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
古墳とは違うのだ!
A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。
孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。
類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。
魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。
◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!
A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。
K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものであろう。
庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭頃の実年代が与えられている。 ◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
日本の古墳は平坦で、高くない!
卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!
A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png
https://i.imgur.com/EyIx7C7.png
◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
特鋳説の根拠にはならない!
A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量であり、市中から発丘獲得物を含む雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しい。
全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。
銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。 ◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!
A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。
また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。
江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。
このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。
◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!
A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。
下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。
夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
https://i.imgur.com/EXTU3lu.png ◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!
A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。
「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步、高六丈六尺」(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
「帝王世紀曰。(洛陽)城東西六里十一歩、南北九里一百歩」
「晋元康地道記曰。城内南北九里七十歩、東西六里十歩」(後漢書劉昭注)
※晋元康年間:291〜299
「洛陽十二門、南北九里」(太平寰宇記所引陸機『洛陽記』)
※陸機(261〜303)」呉陸遜孫、晋入朝289
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
※「皇覽」(魏文勅撰)
◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!
A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。
実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。 ◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!
A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。
六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。
『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。
また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。
八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。
◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!
A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。
北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
改新詔における畿内国の定義が畿内第V様式圏に酷似する事実の指摘(濱田2014)は注目に値しよう。 ◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!
A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。
IB期に庄内系(庄内2〜3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
https://i.imgur.com/zJCqyag.png
https://i.imgur.com/KTMQyfU.png
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。
畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。
◆FAQ 95
Q:森井貞雄によれば西暦258の年輪年代が与えられた二口かみあれた遺跡が庄内3だ!
布留0の箸墓が3世紀中頃である筈がない!
A:布留0の実年代を西暦260〜280頃とする寺澤の見解(橿考研2002)と齟齬がない。
ただし森井が二口かみあれたを庄内3併行と判断したという点について出典がない。
森井は青龍三年(西暦235)銘鏡を出土した大田南5号墳の「庄内3」あるいは「布留0」併行を弥生終末期の終わりの一つの定点(森井1999)としており、本Qは本人の著述と齟齬があって疑わしい。
科学年代西暦258をVI-3様式期(布留0古相)の年代観と対照する森岡(2014)。
上記年輪年代(光谷1995)が古墳時代初頭・布留0併行の暦年代を提出したとする河合(石川埋文2000)。
これらと突合すると、光谷の上記暦年代データは箸墓の築造年代を3世紀後半初とする見解と整合性がある。 ◆FAQ 96
Q:「銅出徐州」というが銅山があるのは呉領だった徐州南部のみ!
彭城銅山県は名ばかりの存在で漢書・後漢書に銅山のあった記録もない!
A:彭城銅山県(現・徐州市銅山区)は北宋の元豊年間に宝豊監が置かれ鋳銭が行われていた。宋銭「元豊通宝」の鉛同位体比は三角縁神獣鏡に酷似している。
のち廃坑となり地名のみが今に残る。
これと別に、隣接する利国には鉄冶を主する監が置かれていた。
呉の領有した徐州南部とはもと揚州の属であった広陵郡南端の極めて限られた地域のみで、徐州の殆どは魏領である。
漢書地理志広陵国・続漢書軍国志広陵郡とも鉄を産することを記すのみで銅山があった記録がないことは彭城と同じである。
◆FAQ 97
Q:纒向は蛙を食う貧困な寒村だ!
A:西漢は皇帝の宗廟に羊・兎・食用蛙を供えるのが常であった。
東漢にあっても普通に食用であった。
「羔、菟、鼃所以供祭也」霍光伝師古注
「鄭司農注云蟈蝦蟇、玄謂蟈今御所食蛙也」周礼両鄭注
纒向土壙祭祀において今人が高級食材とする鯛・鴨・桃などと並んで神饌とされることに不自然はない。
◆FAQ 98
Q:纒向は古墳築造のための施設であって都などではない!
A:合理的な理由がない。
纒向の建設は庄内0式段階で運河掘削が開始する。
一方、90m級にまで巨大化して弥生墳丘墓の域を超えた墳丘墓の築造は庄内2式段階に開始する。
よって遺跡内への搬入土器が広域に亘る特異性発現、運河掘削ともに、大型墳丘墓築造開始より1世代を超えて先行しており、因果関係が認め難い。
また辻地区の大型建物は3式段階には廃絶しており、箸中山古墳の築造開始に先行する。
よって此の因果関係も求め難い。
纒向型土壙祭祀の開始も大型墳丘墓築造に先行する。その祭祀内容には葬送儀礼との関係が窺えず、寧ろニヒナメヲスクニや鎮火祭といった服属儀礼や鎮護国家的行事との関連性が指摘されている。
導水施設における祭祀も池上曽根や伊勢遺跡に先行事例が求められ、墳墓との関連がうかがえない。ことに木樋を用いた祭祀は首長居館周辺で執行される特異な祭祀として後世に残っている。
以上より、纒向は祭祀に特化した特異な大遺跡であるが古墳祭祀には特化しておらず、古墳造営とのみ結びつけるのは不合理である。 ◆FAQ 99
Q:ホケノ山古墳の年代は古木効果の影響を受けない小枝資料の炭素年代によるべきだ!
4世紀後半だ!
A:後代の混入物として除外する通説が正しい。
墓室内に落下していた丸底坩と加飾壺は、他古墳での類例を鑑み、墳頂に囲繞配列されていた祭祀用土器と見るのが妥当と思われる。明らかに混入物である小枝資料は天井崩落時のコンタミであろう。
ラジオカーボンによる暦年代の較正に当たっては古墳寒冷期に対応する炭素14濃度の乱高下を考慮する必要がある。3世紀末にかけて大幅な炭素14濃度の上昇が観察される。また4世紀後半にはラジオカーボンの崩壊速度に見合う濃度上昇があり、これが撹乱要因となって較正曲線によって絞り込める暦年代が拡散している。
Intcal20から見た炭素14濃度は西暦270年頃をボトムとして大きく上昇しており、布留1古相のyBP値が新相のそれより高く出る実態と合致している。また、同時代資料と見られる小枝の確率密度分布ピークが一方は4世紀中葉後半、他方が4世紀末から5世紀初頭の値を示すことも、気候変動による撹乱要因が深刻であることを読み取れる。逆に270年頃のピークは両資料とも適切に合致しており、より信頼度が高い。ここから、天井崩落の時期を布留0末から布留1初頭と推察する。
周濠底のS字甕Aの年代(庄内3)に属する多数の測定例と整合している。
https://i.imgur.com/nHtnTXO.png
◆FAQ 100
Q:会稽東治は蘇州だ! いや上海だ! 長江河口近辺だ いや淮河より北だ!
A:卑弥呼が通交した時代の会稽郡は現在の浙江省および福建省、単独で「会稽」と言えば常に現・紹興市越城区にあった会稽郡治「会稽山陰」を指す。
「越王句踐、其先禹之苗裔而夏后帝少康之庶子也。
封於會稽、以奉守禹之祀」(史記越王句踐世家)
「禹周行天下、還歸大越、登茅山以朝四方羣臣、封有功爵有コ。崩而葬焉。
至少康、恐禹迹宗廟祭祀之絶、乃封其庶子於越、號曰無餘。」(吳越春秋)
「會稽郡山陰、會稽山在南,上有禹冢」(後漢志郡国四)
✳︎茅山:会稽山の別称
秦の王翦が楚を滅した時、楚に併合されていた呉越を分離して会稽郡とした。
会稽郡治が現・蘇州市にった時期、当地は呉本国、呉県と呼ばれ、会稽は依然会稽山麓に所在す。
以降変転を経て順帝永建四年(199A.D.)に呉郡を分割し、以降の会稽郡治は会稽山陰である。
「会稽東治」が呉郡や徐州に存在しないことは明らかである。
「東冶」は『捜神記』や『太平広記』並びに書陵部蔵三国志 南宋刊「紹熙」本に登場し、すべて越が楚に滅された後の越族の都となった閩越(卑弥呼朝貢当時の「東侯官治」)を指している。
(参考:FAQ40) ◆FAQ 101
Q:纒向の大型建物Dというのは東西二間しか見つかってないではないか!
四間x四間に復元して大型大型というのはインチキだ!
A:「本来の建物規模は調査の状況や建築学的な検討から東西も4間であったと」
と調査機関は公式発表している。
事実、東西6・2m、南北19・2mはアンバランスに長大である。一般に偶数柱間の総柱建物は居館の系譜と考えられており、このような形態は異例であろう。
建物Bと建物Cの間隔は建物Cの東西二間に等しく計画的に設計されている。
建物Dで発見された柱列西端から建物Bまでの間隔は建物Dの東西四間に等しい。
また建物Dと南柵列との間隔は建物Dの南北一間(束柱をカウントすれば南北二間)である。
全体が規則的・計画的な配置であることを考慮すれば、総柱建物が正方形を志向する傾向も鑑み、建物CとDの間隔も建物Dの東西二間に等しく復元することは合理的である。つまり建物Dを東西四間、南北四間とした復元は合理的かつ妥当である。
建物Dを破壊している溝SX-1001、建物Cを破壊している溝SX-1002ともに底の僅かな深さしか残存しておらず、両建物のあった地表面への削平が深かったことが窺知される。
大型建物群配置図 https://i.imgur.com/4W4mle2.png
同空撮 https://i.imgur.com/A1eBwbR.png
建物B空撮 https://i.imgur.com/HytoKvD.png
Dより西を望む https://i.imgur.com/LB1oG3k.png
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】なし スレ立てご苦労様、
最近二人の方がやり合ってるのでレスが進むな早いてすね。 >>77
具体的な内容のない抽象的な言い返しであり、全く効果がない >>78
布留0式土器と古式新羅伽耶陶質土器とは共伴して出土しているが、どのように理解している? >>79
>布留0式土器と古式新羅伽耶陶質土器とは共伴して出土しているが、どのように理解している?
古式新羅伽耶陶質土器は三世紀前半の終わりに急激に衰退する楽浪V期に代わるようにして、三世紀後半に登場するので、すべて整合的である 畿内説も、北部九州福岡説も、阿波説も、
墓誌・墓標なく得体正体の知れない遺跡のはっくつに疲れ果て、
邪馬台国や卑弥呼とのありもしない関連をを引っ張り出して自己心を納得させ
以て自分の学者としての地位権威を高めようとしているだけさ。動機不純で、順序が全くぎゃくなんだよ・・。 >>71
>科学年代西暦258をVI-3様式期(布留0古相)の年代観と対照する森岡(2014)。
上記年輪年代(光谷1995)が古墳時代初頭・布留0併行の暦年代を提出したとする河合(石川埋文2000)。
これらと突合すると、光谷の上記暦年代データは箸墓の築造年代を3世紀後半初とする見解と整合性がある。
つまり布留0式古相の箸墓は卑弥呼の墓ではありませんwww
258年より新しくなることはあっても、258年を遡ることができないわけだからね。 >>80
ご都合主義です。
5世紀初頭ごろ、古式新羅加耶土器は地域性が明確になり、新羅土器と加耶土器が分立するようになる。従って、古式新羅伽耶陶質土器はほぼ4世紀のものを指すので、石野博信らの布留0式土器が3世紀後半であるとの主張とは合わない。
その後5世紀初頭ごろ、古式新羅加耶土器は地域性が明確になり、新羅土器と加耶土器が分立するようになるのだよ。 >>80
間違い
日 韓 文 化 財 論 集を読むと良いよ >>83
>5世紀初頭ごろ、古式新羅加耶土器は地域性が明確になり、新羅土器と加耶土器が分立するようになる。
>従って、古式新羅伽耶陶質土器はほぼ4世紀のものを指すので、
「従って」の理由がないんですけど >>82
>258年より新しくなることはあっても、258年を遡ることができないわけだからね。
まったく理由がわからない?
理由が説明できる?
あなたにはできないよね >>84
>間違い
>日 韓 文 化 財 論 集を読むと良いよ
これも一切理由が書いてないんだが
あなたは「説明する」という能力に絶望的に欠けているのだろうか 自分は理由を全然説明しないくせに、他者には「理由が分からない」ととぼける奥山 調査報告書を読むといいよ、と言って逃げた奥山を思い出す >>86
>まったく理由がわからない?
>理由が説明できる?
木材は伐採年が258年という事。
伐採してから何年経過してるか分からないので
見つかった遺跡は258年以降に下る。
君のそばに平成10年の500円玉が落ちてたとする。
その500円玉を平成8年の物とすることはできない。 >>88
>自分は理由を全然説明しないくせに、他者には「理由が分からない」ととぼける奥山
奥山が書いてる理由を読んでないのか? >>87
読めばわかるに、くぐれば出るよ
知識の蓄積が無いねら人に聞く前に
自分で調べる習慣が必要。
その上で投稿すべき。文献は示してあるのだから >>89
>調査報告書を読むといいよ、と言って逃げた奥山を思い出す
そういう事実はないな
調査結果は調査報告書にないてあると言ったのは俺 >>92
>自分で調べる習慣が必要。
説明する意思が無いんなら
反論にはならんなあ
終了でいい? >>90
>君のそばに平成10年の500円玉が落ちてたとする。
>その500円玉を平成8年の物とすることはできない。
イミフ
俺が平成10年の500円玉を所持していたからと言って、俺が平成元年の生まれであることを否定はできないだろ? >>90
>木材は伐採年が258年という事。
>伐採してから何年経過してるか分からないので
>見つかった遺跡は258年以降に下る。
そこから布留0の土器が出土したとしても
布留0の実年代が240〜260年という説に全く反論していないわけだが >>93
吹きこぼれの跡だと、ニセ調査報告書にあるんだろ?
それを読めといって、吹きこぼれの跡だと分かる理由は書いてないぞ、奥山は >>91
奥山は理由を書かない
その都度指摘してるぞ
断言しよう
今後も奥山は同じことを続ける 畿内説は(北部九州福岡説も、阿波説も)、
墓誌・墓標なく得体・正体の知れない遺跡の発掘に疲れ果て、
邪馬台国や卑弥呼との有りもしない関連を引っ張り出して自己心を煽り昂揚させ
自分の学者としての地位権威を守ろうとあがいているのさ。動機不純で、順序が全く逆なんだよ・・。 >>99
>吹きこぼれの跡だと、ニセ調査報告書にあるんだろ?
奥山じゃないし、吹きこぼれの後だと書いた本物の報告の内容を説明しただけ
なぜそれが吹きこぼれだと分かるかなんて書かれていない
単に公的機関が発表した結果報告だ >>80
>古式新羅伽耶陶質土器は三世紀前半の終わりに急激に衰退する楽浪V期に代わるようにして、三世紀後半に登場するので、すべて整合的である
そもそも3世紀末頃まで新羅も伽耶も実態として存在していなかった呼称であり、
そんな国名に「古式」という形容詞をこっそり付けて騙した大和説学者らは、
常人ではなく、詐欺師だろうな。 >>81
畿内や邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言の大和説も、
阿波説も、魏志倭人伝などの史料事実や史料実態を正確に解釈する事なく、
墓誌・墓標なく得体正体の知れない遺跡のはっくつに疲れ果て、
卑弥呼とのありもしない関連をを引っ張り出して自己心を納得させ
以て自分の学者としての地位権威を高めようとしているだけさ。
動機不純で、順序が全くぎゃくなんだよ・・。 >>100
>奥山は理由を書かない
という証拠を出さないのがお前
だから嘘つきと断定される
>その都度指摘してるぞ
という証拠もない
>断言しよう
しても無駄
お前に信用がないから
お前も嘘ばかりついて他人に迷惑をかけるのやめたら? >>104
九州倭国は、魏志倭人伝などの史料事実や史料実態を正確に解釈する事なく、
エセ古文書等で
へそで茶を沸かす。から面白い。 >>77
個人的な見解と感じるがこれという
のがない。
公的な見解てあるのか?
あればリンクを? >>107
>個人的な見解と感じるが
感じる理由は? >>90
>木材は伐採年が258年という事。
年輪年代法であれば、当然、検体木と基準木との、
生育時の気温や降水量や日照時間などの自然環境の一致の確認をしなければならないので、
256年というのも、怪しい。
>伐採してから何年経過してるか分からないので見つかった遺跡は258年以降に下る。
当然ですね。その材の据え置き年数や、外皮からその検査年輪までの「年輪数」も、
加えなければならない。 >>108
俺は77に聞いている。
公的な見解があるのかが知りたい
黙っていなさい。 >>110
おいおい>>77が答えるわけないだろ
>>77は何にでも使えるマジックワードだぞ >>95
>イミフ
>俺が平成10年の500円玉を所持していたからと言って、
>俺が平成元年の生まれであることを否定はできないだろ?
こっちがイミフ。
君が持っている平成10年の500円玉は、
君が平成8年に手に入れた物ではないねと言ってるのだが。 >>111
気にするな。あれば書くだろう。
なければ、書かない。
それだけのこと。 >>98
>>木材は伐採年が258年という事。
>>伐採してから何年経過してるか分からないので
>>見つかった遺跡は258年以降に下る。
>そこから布留0の土器が出土したとしても
>布留0の実年代が240〜260年という説に全く反論していないわけだが
年輪年代で258年という数値が出ながら、そのあとに精度の落ちる放射性炭素測定結果を当てはめても意味はない。
例えていうなら「犯人は大阪市西成区山王3丁目にいた」と出てるのに、
「犯人は大阪市内」と精度
何で歴博がそんなことをしたのかと言えば、258年では箸墓古墳がヒミコ墓にならないからだ。 >>82
>科学年代西暦258をVI-3様式期(布留0古相)の年代観
>つまり┨相の箸墓は卑弥呼の墓ではありませんwww
>258年より新しくなることはあっても、258年を遡ることができないわけだからね。
やはりバカなんだな
┠─────布留0古相─────┨
↑
258年はこの間のどこか
258年より前も何年かは布留0古相の範囲だし、258年より後ろにも
布留0古相の時期がある
遡れないとか短絡するところがやはりバカだな
渡土提知らずの捏造君と同じだな
同じ組織の人? 国家公務員なの? >>112
つまり
>つまり布留0式古相の箸墓は卑弥呼の墓ではありませんwww
>258年より新しくなることはあっても、258年を遡ることができないわけだからね。
という妄言は馬鹿すぎる
ということで、いいね? 114
訂正
× 「犯人は大阪市内」と精度
〇 「犯人は大阪市内」と精度を落とすようなもの
なんで文章が消えるのだろ。 >>115
>258年より前も何年かは布留0古相の範囲だし、258年より後ろにも
>布留0古相の時期がある
それ放射性炭素測定の精度が落ちる推測。
実際、最近のJcal,Intcal20で4世紀の可能性もある.
実にいい加減。
だから重視すべきは年輪年代258年。
布留0式古相は258年より新しい。 >>119
>布留0式古相は258年より新しい。
理由は? >>114
多面的な科学的方法によって蓋然性が高まるというだけのこと https://nihonkodaishi.net/info-research/ronbun-pdf/koseikyokusen.pdf
B 箸墓周辺出土の布留0土器:炭素 14 年代は 1800BP
1800BP の実年代は AD240〜AD260 年あるいは AD290〜AD340 年
ま、AD290だろうな。
だって被葬者はイカガノシコオ以外にいないのだから。 九州説は科学も文献も否定しないといけなくて大変だね >>120
道に落ちてた平成10年の500円玉は、
平成10年以前に誰かが落としたものではない。 >>119
>だから重視すべきは年輪年代258年。
>布留0式古相は258年より新しい。
遺物の年代推定には当然に幅があるって理解できないバカなんだな
布留0式古相の年代観には上限と下限があって、その間に年輪年代258年という
定点が入る
この場合は下限(新しい方の境界)が258年より前になることができないという
制限(境界条件)になるが、上限(篩法の境界)についてはこの258年と言う数字は
拘束力を持たない
具体的な数字、数値を使って考えることを日常的に習慣として行っていない人は
数値の扱いがおかしい >>124
>道に落ちてた平成10年の500円玉は、
>平成10年以前に誰かが落としたものではない。
だからって、それを拾った人が平成10年以降の生まれということにはならないんだよ >>122
>1800BP の実年代は AD240〜AD260 年あるいは AD290〜AD340 年
だからAD290〜AD340ってことはありえないのさ
布留1がAD340〜な訳ないもの >布留0式古相の年代観には上限と下限があって、その間に年輪年代258年という
定点が入る
その上限と下限がAD240〜AD260 年あるいはAD290〜AD340 年というじつにいい加減なものだから、
重視すべきは年輪年代の258年だろうと言ってるわけ。
AD240〜AD260 年あるいはAD290〜AD340 年なのに、何で240から260だけをチェリーピッキングしてるの?
アホなの? >>127
>だからAD290〜AD340ってことはありえないのさ
布留1がAD340〜な訳ないもの
ごまかすな〜AD340であってAD340〜なんて言ってないぞ。 失礼、布留1の事ね。
布留0が340年まであったという意味ではないから。
資料がAD290〜AD340の間だという意味だからな。 >>126
>だからって、それを拾った人が平成10年以降の生まれということにはならないんだよ
なんでコインの年代の話を拾った人間にすり替えてるの? >129
>ごまかすな〜AD340であってAD340〜なんて言ってないぞ。
>>128で
「AD240〜AD260 年あるいはAD290〜AD340 年」って自分で書いてるだろ
布留0を「AD290〜AD340 年」としたら、布留1はそのあとなんだから
AD340〜ってことになるだろ?
で、これはあり得ないから、だったら、布留0の年代は14C年代で
「AD240〜AD260」
「AD290〜AD340」の二択のうち
◎「AD240〜AD260」こっちを選ぶことになるのは当然
そしてこれは「かみあれた遺跡の年輪年代258年」と齟齬がない
ここまで説明しないと分からないのかい?
10円玉の例示は、平成10年の十円玉の存在が、他の場所の
平成元年や昭和22年の十円玉の存在を妨げないからまったく意味がない
布留0式土器はかみあれた遺跡の一つだけじゃないんだから >>132
>◎「AD240〜AD260」こっちを選ぶことになるのは当然
>そしてこれは「かみあれた遺跡の年輪年代258年」と齟齬がない
だからそれを言ってるの。258年という年輪年代の精密年が示された以上、
そっちを優先し、240〜257はとりあえず捨てていいね。
ここまで説明しないと分からないのかい? >>131
>なんでコインの年代の話を拾った人間にすり替えてるの?
特定の移籍の話を布留0式の年代にすり変えてる詐欺師を摘発するため >10円玉の例示は、平成10年の十円玉の存在が、他の場所の
>平成元年や昭和22年の十円玉の存在を妨げないからまったく意味がない
何を言ってるんだ。
Aという地点に落ちてた平成10年の500円玉が、持ち主の誰かから落ちた年代が平成10年より古くならないと言ってるの。
おまえキチガイだわ。 >>130
>資料がAD290〜AD340の間だという意味だからな。
庄内3とそれに続く布留0に1800Bp超の値が出てるんで
AD290〜AD340の間だという可能性はほぼゼロになる この男の卑怯さを言う。
500円玉を落とした年代を言ってるのに、
持ち主の生年月日に話をごまかし、
はては
>平成10年の500円玉の存在が、他の場所の
>平成元年や昭和22年の十円玉の存在を妨げないからまったく意味がない
にいたってはキチガイとしか言いようがない・
他の場所の平成元年や昭和22年の十円玉の話をしてないの、
A地点に落ちてた平成10年の500円玉が、平成8年に堕としたなんてことはないよね?
子供でも分かる簡単な話。 >>135
>Aという地点に落ちてた平成10年の500円玉が、持ち主の誰かから落ちた年代が平成10年より古くならないと言ってるの。
つまり
「布留0式古相は258年より新しい」は間違い
布留0並行のとある遺跡が258年より新しいということだから
布留0=(240〜260a.d.)説と矛盾しない >布留0=(240〜260a.d.)説と矛盾しない
布留0=(240〜260a.d.)説なんてない。
資料の年代が放射性炭素測定の結果240〜260ということであって、
布留0という期間が240〜260ということではない。
放射性炭素測定の結果240〜260といういい加減な制度の低い数値なら、
年輪年代258年を基点にすればいい。
日本最古の須恵器が389年以前で考えられてないだろ。
それと同じ。 >>133
答えないけどこいつ、渡土提知らずの捏造君だなww
バカさ加減と捏造みが同じだ
>だからそれを言ってるの。258年という年輪年代の精密年が示された以上、
>そっちを優先し、240〜257はとりあえず捨てていいね。
>ここまで説明しないと分からないのかい?
捨てていい訳ないだろ?
お前が言っているのは
「現行の十円玉(布留0式土器)は昭和30年代から令和まで」という
ぼんやりした製造年と言われていたけど、実際に平成10年という
精密な製造年の分かる十円玉が一個確認された以上、そっちを優先し
昭和30年代〜平成9年はとりあえず捨てていいね。
どんだけバカなの?
どうやって公務員試験受かったんだ? >お前が言っているのは
「現行の十円玉(布留0式土器)は昭和30年代から令和まで」という
ぼんやりした製造年と言われていたけど、実際に平成10年という
精密な製造年の分かる十円玉が一個確認された以上、そっちを優先し
昭和30年代〜平成9年はとりあえず捨てていいね。
落とした年代の話をしてるの。
平成10年の500円玉を平成8年に落とすわけないね
どんだけバカなの? >>139
>布留0=(240〜260a.d.)説なんてない。
箸墓古墳の周壕の「築造直後」の布留0式土器の年代を240〜260年代と推定した
(歴博) >>137
>A地点に落ちてた平成10年の500円玉が、平成8年に堕としたなんてことはないよね?
落ちてた場所(かみあれた遺跡:A地点)はそれでいいが、
お前がやっているのは
「だからほかの拾得場所(B地点)で見つかった10円玉も
平成10年よりも前に落としたなんてあるはずがない」
だからな?
まだ、自分がどれだかバカか理解できないんだな
渡土提知らずの捏造君
どうやって公務員試験に受かったんだい? 繰り返す。
宇治市街遺跡の日本最古の須恵器が年輪年代で389年とでた。
それを放射性炭素測定にかけて、その結果370から410と出たとして、
日本の須恵器の始まりは370からとしていないよね。
ところが布留0式古だけはそんなことをしてるのさ。
そうしなければ箸墓が卑弥呼の墓にならないからさ。 >>144
>それを放射性炭素測定にかけて、その結果370から410と出たとして、
>日本の須恵器の始まりは370からとしていないよね。
なんで?
理由は? また吹きこぼれ捏造畿内説が暴れてるのか
ようは箸墓から258年以降に伐採されたものが出てきたんだろ
終わったな、吹きこぼれ >「だからほかの拾得場所(B地点)で見つかった10円玉も
平成10年よりも前に落としたなんてあるはずがない」
だからな?
平成10年の500円玉はどこで拾おうが、その拾った時期は平成8年にはならない。
アホなのかこいつwww 平成8年に死んだ人の遺品のサイフに、平成10年の500玉は入ってないだろうな >>147
>平成10年の500円玉はどこで拾おうが、その拾った時期は平成8年にはならない。
お前は、
「平成10年の500円玉がかみあれた遺跡で見つかったから、
纏向遺跡の500円玉で平成10年より前の物はない」
って言ってるんだぞ?
完全に、嘘も百回の捏造君の通常業務に入ったな
どうやって公務員試験に受かったんだ? >>153
死んだ人の遺品のサイフから平成10年の500円玉出てきたってことは、死んだのは平成10年以降だろ >>154
生まれた年はわからない
彼の人生の終点が平成10年以降だと分かるだけ >>155
それで十分なのさ
誰かさんが死んだのはそれより前なんだから、その人とは別人の墓と分かる >>154
平成8年に死んだらしいよ。 ヨコだが。 @阿波 剣山の聖所は、
すごい険しい先にありそうだね。
大歩危小歩危とか、
図書で見て知ってるけど。
ちょっと場所違うかな。 >>152
>苦し紛れに寿墓だと言ってた畿内説、終わったな
昨日寿墓だと言って暴れてたのは、アンチ畿内説なんだが?
そして、昨日はその人が大暴れで捏造君はいなかった
今日は捏造君が絶賛恥さらし中で昨日の板材がーの人はいない
交代制勤務なの?
国家公務員で? >>156
>それで十分なのさ
>誰かさんが死んだのはそれより前なんだから、その人とは別人の墓と分かる
つまり、かみあれた遺跡には卑弥呼の墓はない、と
完全に同意ww
でも纏向にあるのは、その財布とは別の財布で五百円玉は入っていても
平成10年の500円玉とは別の五百円玉な訳だ
どうして、かみあれた遺跡の布留0式土器と纏向遺跡の布留0式土器を
同一視するかな?
英語でも
代名詞 it 同一物と
不定代名詞 one 同一種類の
区別があるんだが、その辺から分かってなさそう
どうやって公務員試験に受かったんだろうね?
選考採用? >>145
>なんで?
>理由は?
年輪年代で数字が出た後、放射性炭素測定をしてないだろ。
意味がないからだ。 >どうして、かみあれた遺跡の布留0式土器と纏向遺跡の布留0式土器を
同一視するかな?
併行しているからね。 >お前は、
「平成10年の500円玉がかみあれた遺跡で見つかったから、
纏向遺跡の500円玉で平成10年より前の物はない」
って言ってるんだぞ?
アホ?
「平成10年の500円玉がかみあれた遺跡で見つかったから、
纏向遺跡の平成10年の500円玉は平成10年より前の物でははない」
って言ってるんだが?
あたりまえだよね。 最近、邪馬台国に興味を持った者です。
教えて下さい。
どうして九州説の人は総じて攻撃的な口調の人が多いのですか?
それから、どうして考古学者の多くは畿内説なのにアマチュアには九州説がこれほど人気があるのですか? より正確な対応関係でいうと、
ある財布に平成10年の五百円玉が入っていたから
同じ財布に入っていた千円札は平成10年の物
よその財布の千円札も平成9年より前の可能性は捨てていいよね?
お前の書いてることはこういうことだぞ?
これを信じて書き込める知能がすごい
捏造君大暴れw
どうやって公務員試験に受かったの? >>164
>纏向遺跡の平成10年の500円玉
そんなものは見つかってないんだよなぁ
また捏造してるww
纏向遺跡は纏向遺跡で年代推定してるのに
どうしてよその遺跡の遺物と同じ年代だと言い張るのか?
さらに言えば、かみあれた遺跡の布留0も全部258年に作られた、なんてことがあるはずがないだろ?
それより前のも、それより後のも発掘では区別がつかない
本当に、こんなに論理的思考が欠如していてどうやって公務員試験に受かったんだ?
前半の教養の部分、点数取れないだろう?
こんなぼろぼろの知能では? >>165
>どうして考古学者の多くは畿内説なのにw
プロを自称する考古学者集団を代表する日本考古学協会が
社会を揺るがした東北を中心とする考古学史を一新した旧石器捏造事件で
ゴッドハンドこと藤村新一の悪質性の高い常習された手口で捏造された石器類を
いとも簡単に日本考古学協会主流が日本考古学上の大発見と認定しまった為に
教育現場の教科書を改めて日本考古学史を塗り替えてしまった汚点を記憶に新しいのに
日本が誇る考古学界(笑)アタマ大丈夫?w >>168
別に学会がそんなこと認定した事実はないが? >>168
藤村はアマチュア
疑問を呈したのは考古学者
事件を調査したのも考古学者
そして九州作り話はど素人 考古学界の上層部は暗黙の黙認してたらしいよ
だから文部科学省も教科書の日本考古史を書き換え
藤村の不自然すぎた頻繁に起こる考古学上の大発掘の成果を
今までの教科書内容を改めて日本における東北周辺の重要性を強調してたし
まぁ底が知れてしまった文部科学省も文部科学省だけど >>165
今の九州説(作り話)は小説でブームになったから
今の畿内説は学術論文を読まないと理解できないレベルになってしまったので
一般人には難しい >>164
>纏向遺跡の平成10年の500円玉
お前が言っているのは
「500円玉なのは同じだから、あの財布の500円玉が平成10年なんだから
500円玉は全部平成10年」
もうね、これだけバカなことが言えるやつはなかなかいない >>171
旧石器時代の専門家が少なかったから
アマチュアの発見を大きく取り上げたのはマスコミ >>173
そして、九州説は間ともな反論が出来ない >>171
>考古学界の上層部は暗黙の黙認してたらしいよ
何を「暗黙の黙認」したの?
それは証拠があること? 布留ゼロ式土器は、学者間でもオーソライズされていない。
これ、常識。反論もググればでてくる。
畿内説仲間の中では定説か通説かは知らんが、畿内説の実力者が論じた事を盲目的に受け入れる体質はそのうち破滅する。 >>1さん
寺澤氏が、卑弥呼の墓はホケノと言い出した時期はいつか教えてくれませんか? >>178
>布留ゼロ式土器は、学者間でもオーソライズされていない。
これもある種のチェリーピッキングだな
布留式土器の小型精製器種三種はオーソライズされてるんだぞ
この精製器種の定型化の過程をどう捉えるかで、複数の考え方があるだけで
精製器種の定型か成立前の段階の存在が否定されている訳ではない
前スレでも書いたけれど、違う意見の人がいたら定説じゃないとか
いうのはバカっぽいから止めなさいw >>174
お互いもうやめたら。
結論は見えてるよ。
例がわかりづらいだけ。
未来にある人の死亡時期を調べようとする。
その人は2021年に死んだとする。
誰も没年は知らない。
その墓から1983年の500円硬貨が、3枚出てきたから、1983年に死んだとするには
無理があると言う事じゃない >>181
その例ではまだ、捏造君のバカさが表現できてないよ?
捏造君は「その墓ではない別の墓で見つかった1983年の硬貨」で没年を騙ってるんだから >>181
移動するもんはむつかしいんだよね。
ましてや権力者に骨董品等が集まる。
その後の祭祀、儀式もある。
或いは災害があり修復もある。
被葬者があるなら
被葬者自体がいいと思うけどね。 >>172
なるほど。
確かに見るところ、全体的な傾向として九州説の人は記紀を恣意的に読み込んで近年の考古学的知見を軽視(というか理解できない?)している印象は持ちました。
ありがとうございました。 >>181
おっしゃる通りです。
もう昭和30年代の話です。
私の祖父が死んだ時、三途の川の渡賃として、遺体とともに白布に寛永通宝を何枚か入れてました。祖父は江戸時代に死んでません。分家ゆえその墓の最も古い故人は祖父です。 >>180
>布留式土器の小型精製器種三種
これも、「東阿波型土器」の進化型。 「阿波」が発祥発明したもの。 @阿波 >>185
です。昔は土葬の地域です。いまは火葬ですが、 >>165
畿内説を支持する学者が多いのは何故だか分かりますか?
1.日本の文献が記紀しかない
2.弥生期や古墳期の専門の学者は
少なく、関西の大学出身者が多い。
3.また、橿原考古学研究センターや、桜井市教育委員会は当然の事ながら畿内説を支持する、
4.その3の組織は封建的であり、叛くものは干される。
5.銭が動く。天下り先の団体を作る。
6.権力集中の長い物には巻かれるのが、畿内説の学者の得策だから、畿内説の暗黙学者も増える。
7.ある程度のポストについたら、功を得るため畿内説の学者は自分の領域の説を唱える。
8.その他
畿内説の学者は、魑魅魍魎の世界、入り込むには人間性を変える必要がある。
それが出来た研究者が世に出る。
哀れですね >>188
九州説は、どうして何も証拠を出さないの?
いつもと同じだけどさ >>179
畿内説の先輩の目の上のタンコブが消えた時期
その時期でいいよな奥山 >>190
邪馬台国や畿内の古墳を専門とする
学者の出身大学や研究機関を調べたの?
私が調べてやるから、畿内説の論を展開する学者名を挙げてみなさい。当然、邪馬台国に関する論文も出してる人ですよ、 >>188
>畿内説を支持する学者が多いのは何故だか分かりますか?
8.その他 だと考えます。
とりわけ近年の客観的な科学的事実を鑑みると畿内説の蓋然性がどうしても高まるのだと思います。 >>167
>纏向遺跡は纏向遺跡で年代推定してるのに
>どうしてよその遺跡の遺物と同じ年代だと言い張るのか?
土師器は在地土器と併行して全国各地に出るので、
それで時代がわかる。
北陸の258年が畿内にも適用されてるのはそのためだ。 >>190
あなたは、どう思いますか?
纏向遺跡は橿考、纏向学研究センター、
桜井市埋蔵文化センター
何処かで研究調査は統一すべきと思いませんか?
ある機関のいち所属で良いと思いませんか?
研究はできますし、経費節約になりますよ。役職手当も減りますよ、 >>174
>お前が言っているのは
「500円玉なのは同じだから、あの財布の500円玉が平成10年なんだから
500円玉は全部平成10年」
そんなことは言ってない、ごまかすなな。
落とした時期年代。
落とした時期が平成10年を遡ることはないね。
子供でも分かる。 >>193
詳しくお願いします。
畿内に三世紀に人の営みや地方豪族が居た事は否定しません。
具体的ならよろしくお願いします、 >>195
>あなたは、どう思いますか?
>纏向遺跡は橿考、纏向学研究センター、
>桜井市埋蔵文化センター
>何処かで研究調査は統一すべきと思いませんか?
それ、別の期間だと思ってんの?
無知すぎない? >>180
>布留式土器の小型精製器種三種はオーソライズされてるんだぞ
始まりは何年だと? >>195
>何処かで研究調査は統一すべきと思いませんか?
そのうち、みんな消滅するよ。 唐古・鍵遺跡や纏向遺跡に習に倣って。 @阿波 >>195
>何処かで研究調査は統一すべきと思いませんか?
そのうち、みんな消滅するよ。 唐古・鍵遺跡や纏向遺跡に倣って。 @阿波 >>194
纏向は三世紀か知らんが三世紀でもよいよ、日本至る所に人は住んでたし、それを統率する組織もあったからね。
倭人伝記述といかに近づけるかが、邪馬台国論叢なのわかるでしよ?
纏向に倭人伝と一致する遺物を挙げてみたら、、
纏向は邪馬台国の所都とするには、倭人伝と整合する遺物が大事。 >>196
>落とした時期年代。
>落とした時期が平成10年を遡ることはないね。
つまり二口かみあれた遺跡のイブtの年代はわかった
それは布留0式の時間幅の中の1定点である
つまり「布留0式古相は258年より新しい」は妄想 >>197
自分に言ってるのですか?
そうだと仮定して、
一行目、何を自分にお願いしているのかが意味不明です
二行目、どうして藪から棒にあなたがそんなことを言い出したのかが意味不明です
三行目、「具体的なら」の意味が不明です 結局、日本最古の須恵器が年輪年代で389年で決定し、
その後に放射性炭素測定をしていないという事実は、
例えば「犯人は大阪市西成区山王3丁目」と出てるのに、
「犯人は大阪市内」という精度の測定など意味はないからであり、
布留0古相が北陸二口かみあれた遺跡の木材で258年と決定したら、
普通はその後に放射性炭素測定をしないでいいのにもかかわらず、
258年なら箸墓古墳は卑弥呼の墓にならないから、
何とか卑弥呼の墓にしようと放射性炭素測定をして、
240年〜260年というチェリーピッキングをして、箸墓は卑弥呼の墓だと喜んでいる、
石器捏造事件と変わらないふざけた状況を支持してるドアホの>>1 >>199
>始まりは何年だと?
三世紀第2四半期の終わりごろという意見が優勢だな >>203
>つまり二口かみあれた遺跡のイブtの年代はわかった
それは布留0式の時間幅の中の1定点である
はい、またごまかしてます。
最古の須恵器の例を出してるのに、わざと無視してごまかしてますね。
逆に言えば240年から260年の間のどこか、という話で、
258年と年輪年代で出てるのだから、
布留0式古は258年で良いの。
分るかな、君の知能で? >>205
>布留0古相が北陸二口かみあれた遺跡の木材で258年と決定したら、
布留0古相の始まりがが258年とか、おばかな決定したりはしないけど? >>207
>逆に言えば240年から260年の間のどこか、という話で、
>258年と年輪年代で出てるのだから、
>布留0式古は258年で良いの。
完全に狂ってますね
布留0式って1年間しか存在しなかったとか狂った妄想してるんですか?
お薬が必要ですよ >>206
>三世紀第2四半期の終わりごろという意見が優勢だな
な、卑弥呼の墓にしたいからだろねw
石器捏造と同じ性根。
でも卑弥呼が死んでから、完成まで10年の墓を造り始めたという大笑いのボンクラ加減はどうよw >>209
>おばかな決定したりはしないけど?
お前が決定する、しないは何の関係もない。 >>207
二口かみあれた遺跡が布留0式の始まりの地ということはなかろう >>212
>な、卑弥呼の墓にしたいからだろねw
また妄想?
理由が言えないから妄想だよね >>213
>お前が決定する、しないは何の関係もない。
いや、誰も決定しやしないから
超低学力の人がそう誤解するかも知れないけど >>211
>布留0式って1年間しか存在しなかったとか狂った妄想してるんですか?
あほですか。
資料の炭素測定が260までだとしても、布留0古の期間が260年までという意味ではない。
コイツ基本アホやわ。 >>207あんたの知能が可笑しいと言うより
洗脳されないよう、自力でいろんな
歴史書や科学書の文献を読んだ方が良いと思いますよ。
知識は得るには金もかかりますが、、
小遣い程度の出費は惜しまないでください。 >>214
>二口かみあれた遺跡が布留0式の始まりの地ということはなかろう
何を言ってるのだ、併行という意味を知らないのか。
久住さんの編年はまさにそれだろ。 >>212
>でも卑弥呼が死んでから、完成まで10年の墓を造り始めたという大笑いのボンクラ加減はどうよw
だからそれは、「前方後円墳」だと決め打ちしたからそういう話になる。
大王の陵墓は山稜に造る円墳だ。 死後すぐ出来上がるんだよ。 @阿波 畿内説で、テンプレを全面的に支持する人は
似非畿内説ですよ! >>217
>資料の炭素測定が260までだとしても、布留0古の期間が260年までという意味ではない。
なんで?
そんなこと決めつける理由は? はい、最古の須恵器の例を都合が悪いのでスルーするぶざまな>>1の姿をご覧くださいw
最古の須恵器は389年で良いね?w
ならば放射性炭素測定なんて必要ないね?
実際測定してないし。
どうかな、そこだけ答えて。 >>221
>畿内説で、テンプレを全面的に支持する人は
>似非畿内説ですよ!
という理由は? >>219
いや、お前は石川の258年より他の地域(大和や博多)は遅いと言い張っている >>220
賛成です、卑弥呼の墓は阿波にはないけど。 >>219
>久住さんの編年はまさにそれだろ。
久住はそんな主張してないけど? >>227
久住さんは各地域の土器の併行関係をまとめてるよ。 >>226
>賛成です、卑弥呼の墓は阿波にはないけど。
どこにあるんだろうね? @阿波 箸墓は
前方後円墳
これは疑う余地も無い定説
前方後円墳で無いなら
独自の説を
しかるべき公的機関に提出せよ
提出せよ 箸墓は
前方後円墳
これは疑う余地も無い定説
前方後円墳で無いなら
独自の説を
しかるべき公的機関に提出せよ
提出せよ >>229
久住は布留0式は石川の258年が始まりとか書いてない >>219
久住の意見は
布留0式=は3世紀第2四半期を含む3世紀中葉。主に248年以降
IB期が265年以降(=布留0式新相) >>231
だれか箸墓が「前方後円墳」じゃない なんて言ったか? @阿波 >>230
高天原(御所市高天)です。
大量の奴婢埋葬痕跡が日本でそこにしかないので決定です。 >>235
またごまかしてる。
各地域との併行関係の話をしている。
お前いつも論点をはぐらかすね。 >>223
1じゃないけど
>最古の須恵器は389年で良いね?w
よくない
共伴するか疑問
>ならば放射性炭素測定なんて必要ないね?
>実際測定してないし
してる >>233
>久住は布留0式は石川の258年が始まりとか書いてない
だからそれをずっと言ってるのだが。 >>241
併行関係をお前が258年始まりだと言い張っている >>241
>またごまかしてる。
誤魔化しとはなに?
久住は二口かみあれたが最古の布留0併行とか言ってない
当然だが >>239
気延山にあるよ。 「天石門別八倉比賣神社」が無いところは論外だ。 @阿波 >>243
お前は他地域の布留0式は258年以降だと決めつけている >>239
気延山にあるよ。 正一位 式内名神大社 「天石門別八倉比賣神社」が無いところは論外だ。 @阿波 >最古の須恵器は389年で良いね?w
>ならば放射性炭素測定なんて必要ないね?
>実際測定してないし
>してる
いつしたのか、その結果は?
仮に最古の須恵器のススを検査にかけて370年~410年などと出たと仮定しても、
最古の須恵器は370年にはならないからね。
何か大きな勘違いをしてるだろ。 まぁ今から出かけるので明日また相手したるわ。
最古の須恵器の件、レスしておけ、このボンクラ。 >>253
>最古の須恵器の件、レスしておけ、このボンクラ。
まぁ、そう入切るな。 「阿波」で決定してるんだからw 落ち着け。 @阿波 >>220
仮の墓でいいんじゃないか?
墓が完成後、移動すればよい >>255
>墓が完成後、移動すればよい
大王をなめとんか? そんな平地の下賤な「前方後円墳」などに大王の御霊を押し込むつもりか! 罰当たりめ! @阿波 阿波さんへ
なんで徳島は、
阿の、波、なんでしょう?
いずれ浄土になるよという予言ですか? >>258
「あ」がつく名称は、「天照大神」・「粟」の「あ」に由来している。
「い」がつく名称は、「伊予之二名島」の「い」に由来している。
記紀は「あ」か「い」で始まる名称が非常に多い。
これは、記紀が倭国(阿波)での出来事を記載している証左である。 @阿波 >>219
>>二口かみあれた遺跡が布留0式の始まりの地ということはなかろう
>何を言ってるのだ、併行という意味を知らないのか。
久住さんの編年はまさにそれだろ
久住なんて、「南→東」や「卑弥呼の冢→前方後円墳」や、
「正北抵新羅の倭國は北部九州」の否定などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘つき騙しの半分偽説を唱えている、
大和説学者だろ?。信頼性はないよ。 >>260
「南→東」
奄美、沖縄あたり
陳寿の書き換え 使者らは間違ていない
「正北抵新羅の倭國は北部九州」
魏志には新羅の記禄は、無し
「卑弥呼の冢→前方後円墳」
仮 卑弥呼の冢 完成後 前方後円墳かも? >>264
>現在 陵とされる場所。
昭和天皇陵も平地か? よく考えてからモノを言え、アホンダラ! @阿波 >>268
畿内説は息を吐くようにウソをつく。 @阿波 >>265
忘れていたサンキュー
万二千余里 1里110mの直線
ただし、固定した短里などない。 >>196
>落とした時期年代。
>落とした時期が平成10年を遡ることはないね。
それを落ちていない場所の五百円玉に適用するのがおかしい
「なぜ、お前は理解しないのか?」という問いが無意味なのは知ってるよ?
自分で間違っていると気づいても、間違いを認めたら負けという分化を
背負って生きているからだ
お前の立論は最初から間違っているし、例示も大間違いだし
それでも嘘を百回でも、相手が疲弊するまで繰り返す
それが九州説の生き方だ
惨めだな
それで、どうやったら公務員になれるんだ?
選考採用なのかい? >>271
>万二千余里 1里110mの直線
1里110mの直線だと? お前なぁ、「阿波」を恣意的に利用すんじゃね〜よ。 まいったぜw @阿波 >>221
>畿内説で、テンプレを全面的に支持する人は
>似非畿内説ですよ!
また捏造してる
ここのスレ立てしてくれている人は柔軟だよ
きちんとした指摘があれば、テンプレは適宜修正されるし
追加もされる
私もいくつか修正を出してるし、実際直してもらってる
>>59の◆FAQ 73の画像が最初は不適切なものだったのを
正しいものにしてもらってる
古いスレを遡って探してごらん >>270
グーグルで確認を
大正天皇もあります。
山稜(山の尾根) にはありません。
東京都八王子市長房町
また、奈良は、墓地公園でもあり。 もしもし阿波よ
阿波よ
テンプレぐらい目を通せよ
あんたの唯我独尊もいいけどさ
問題が有れば指摘しろよ
あんたの畿内説批判の半分以上は反論できてるテンプレ読めよ >>275
山稜だ。 少なくとも、盛り土をした「前方後円墳」ではない。 円墳だ。 @阿波 >>277
たしかに円墳ですが、山稜ではありません。 >>276
>あんたの畿内説批判の半分以上は反論できてるテンプレ読めよ
お前、>>1か? >>1なら相手してやるぞ。 半分程度しか反論できんのか? 勝者の貫録じゃね〜な。 わははははは @阿波 >>278
地山の山稜だ。 少なくとも、盛り土をした「前方後円墳」ではない。 円墳だ。 @阿波 >>279
何かテンプレに問題でもあるなら、
言及しろよ、
相手してやるよ >>282
>もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
重量厚型の畿内第V様式弥生土器に、西日本各地に及ぶ文化的斉一性など認められない。
片や「東阿波型土器」様式圏の文化的斉一性は、交流圏の中心が「阿波」に存在したことを示す。 @阿波 >>280
なんという山ですか?
実際に行っているので山でなく
丘でした。 >>281
>なんという山ですか?
地山だ。 わははははは @阿波 >>281
>なんという山ですか?
地山だ。 少なくとも、盛り土をした「前方後円墳」ではない。 円墳だ。 @阿波 >>286
円墳ですが、
なんという名の地山ですか?
ループしますよ。 唐古・鍵遺跡って纒向遺跡と近いですけど、関係あるんですか? >>287
知らん。 地山だ。 少なくとも、盛り土をした「前方後円墳」ではない。 @阿波 >>290
盛り土をした「前方後円墳」ではない。
そこは認めるが、山ではありません。 >>291
>そこは認めるが、山ではありません。
地山だよ。 高くはないが。 @阿波 >>292
>昭和天皇は山でなく丘。
で、箸墓古墳も丘にあるのか? @阿波 >>292
>昭和天皇は山でなく丘。
仮に丘だとしても、平地に盛り土をした「前方後円墳」ではない。
結論 : よって、箸墓古墳は大王の陵墓でない。 @阿波 キトラ遺跡や高松塚古墳の壁画には四神というものが描かれている
中国の神話の霊獣で
青龍、東、春、木
朱雀、南、夏、火
白虎、西、秋、金
玄武、北、冬、水
に対応している
これは今でも白虎隊とか北原白秋とか青春とか私たちの暮らしにも沁み込んでいる
卑弥呼が魏からもらった鏡にはこの四神が描かれていたはずだ
卑弥呼の占いも陰陽五行説の影響を受けたのかもしれない >>292
>昭和天皇は山でなく丘。
昭和天皇に限らずとも、所在が分かる近世の天皇陵で、平地に盛り土した陵墓がなど一切存在しない。
よって、平地に盛り土した「前方後円墳」の箸墓古墳は、大王の陵墓では有り得ない。 @阿波 >>296
キトラ古墳も高松塚古墳も、朝鮮半島避難渡来人の遺跡だろう。 @阿波 畿内説の反論が無いので、「阿波」の独演会だったな。 さあ、これからはトンデモ諸君の時間だ。
またうだうだとつまらんバトルを始め給え。 わははははは @阿波 九州説も、「阿波」におんぶにだっこではイカンぞ。 もちっと気張れ! @阿波 >>277
色々エラそうに言っているが、明治以降の天皇陵は下方上円墳だぞ
どうせなら下方八角墳にすればよいのにと思わないでもない 泡なぞ、語源は雑穀の粟だ
一応五穀には入っているがな
スサノオに斬り殺されたオオゲツヒメの耳から生じたのが粟 >>844(前スレ)
>しかし、「二百里」なら短里で15km余りであり、妥当だが、
>「三百里」であれば22.5km余りであり、ぎりぎり。
普通の人で1kmを15分かからないし、22.5kmだと5時間かからずに歩ける
しかし虞翻とは違って、馬には絶対に追いつけないw
>長里では「二百里」で85km余りであり、1日では馬でもぎりぎりであり、
>人間では無理。「三百里」では、全く無理。
世の中には、マラソンより長距離のウルトラマラソンというものがある
100kmの部で制限時間が14時間程度で行われている
「ぎりぎり」でも「全く無理」でもないわけだから、「短里」は無いことが判明して良かったねw >>274
指摘しても、変えないよ。
自分の都合の良いように変えるだけ
ですよ。
指摘例
例 >>274
指摘しても、変えないよ。
指摘例
例1 九章算術均輸は租税の計算や
労働日数に対する対価などの
比例計算であり、日数で道里を表す ものでは無い
例2.南を東に誤認
スレ主は朝鮮通信使の誤認の例を
出して説明しているが、稀なケース
でありる。また、対馬近辺で起こっ
た誤認を瀬戸内航路に当てはめるに は無理がある。 3.難波から纏向へ陸行一月について
スレ主は、遣隋使の難波津での宿泊
を例にだし、陸行一月には宿泊日数 も含まれると解説してるが、三世紀
難波はまだ港ととして、整備されて いないし、倭人伝に難波に役人が居 たとは記述されていない。
されていない、 >>307
>難波はまだ港ととして、整備されていないし、
反論のつもりだったら稚拙すぎ
三世紀には加美、久宝寺あたりが港津性の集落なことは常識なんで、類比対象として難波津とさして変わりない >>306
>九章算術均輸は租税の計算や
> 労働日数に対する対価などの
> 比例計算であり、日数で道里を表すものでは無い
指摘として間違いなのはテンプレ読むと明らかだから >>306
>対馬近辺で起こった誤認を瀬戸内航路に当てはめるには無理がある。
当て嵌めてないので妄想
テンプレ読めば明らか
要するに、あんたが日本語読めてないだけ >>310
では、畿内説の方位の誤認は何処で起きている。スレ主は投馬國を吉備あたりとして、瀬戸内航路を支持している。
南水行20日、南水行10日は明らかに瀬戸内航路であり、スレ主の言う魏使の誤認は
明らかに瀬戸内航路を指す。 >>308
海岸沿いの集落跡は至る所である。
また、 難波津が整備されたのはもっと後世である。倭人伝では難波津で宿泊したとの記述もない。
スレ無しは根拠なき推理でしか無い。 >>311
>では、畿内説の方位の誤認は何処で起きている。
誤認と書いている箇所は無いと思うが、どこかに有るか?
無いなら、お前の妄想かこじれた先入観ということになる >>312
>スレ無しは根拠なき推理でしか無い。
テンプレは魏使が難波津で泊まったとか書いてないんだから、根拠がないのはあんたひとりの個人的な妄想だろう 訂正
スレ主の根拠なき推理である。
難波津から纏向まで50キロとした場合、多く見積もり5日でたどり着くであろう。
25日も難波津で宿泊したと言う推理である。また魏使は都に二往復している。
二度(帰路は入れないとする)も25日も難波津で宿泊するという
推理である。支持できる推理かどうか? >>312
っていうか、あんたって常に相手の言っていることじゃなくて
自分が想像したことに反論してないか? >>315
>支持できる推理かどうか?
そりゃ出来るだろ
どこでそんな誤情報が発生しうるかっていう推定なんだから >>315
それは推理じゃない
なんの根拠もないこじつけだ
コナンでいえば、少年探偵団が適当こいてるレベル >>314
何故スレ主が遣隋使を持ち出し、遣隋使の難波津の滞在を持ち出したか考えてください。あなたの論法だと遣隋使の例は
出さなくても良い事になりませんか? >>316
想像ではありません。テンプレの現実から、導き出した矛盾を提示しているだけです。 >>318
あなたは、難波から纏向までの陸行一月をどう解き明かしますか?
スレ主はそのあたりを、遣隋使を例に出してますが、、 >>274
は奥山だな、今朝な恥の上塗りの投稿も奥山かもなWw
畿内説弱すぎだな!骨のある畿内説論者
来ないかな。 >>321
そんなコースは通ってないと断言するね
距離も方角も違う まず「難波から纏向までが陸行一月」だと決めつける
後からら無理やりその理由をこじつける
畿内説の思考が考古学と真逆であることが分かる >>326
納得
畿内説の姑息さをスレ主が代表してる。 >>320
>想像ではありません。テンプレの現実から、導き出した矛盾を提示しているだけです。
矛盾って、何と何が矛盾してるか言える? >>328
まぁ、九州説も似たり寄ったりだがな。 @阿波 >>326
>まず「難波から纏向までが陸行一月」だと決めつける
>後からら無理やりその理由をこじつける
あなたがいうことって事実と反対でしょ
実際にあった例が先にあるんだから >>331
ほらな、決めつけてる自覚さえない
「難波から纏向まで」なんてどこにも書いてないのに、
どうして実際にあった例だと分かるんだ? >>274
>>畿内説で、テンプレを全面的に支持する人は似非畿内説ですよ!
>また捏造してる ここのスレ立てしてくれている人は柔軟だよ
きちんとした指摘があれば、テンプレは適宜修正されるし追加もされる
私もいくつか修正を出してるし、実際直してもらってる
>>59の◆FAQ 73の画像が最初は不適切なものだったのを
正しいものにしてもらってる 古いスレを遡って探してごらん
成程、東大理系博士号自称男は、
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」の否定などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘つき騙しのスレ主の、
奥村の「仲間」であったのか。 >>296
>卑弥呼が魏からもらった鏡にはこの四神が描かれていたはずだ
卑弥呼の占いも陰陽五行説の影響を受けたのかもしれない
明帝の下賜の鏡は、当然原則として、
平原1号の21枚の「尚方作」方格規矩鏡や、内行花文鏡などのような、
幾何学的な模様の鏡が中心であり、
神獣鏡のような、民間信仰や江東や揚子江流域などで盛行した形態の鏡は、
普通は採用しないものだ。 >>332
何も分かってないんだなあ
史料に出てくる旅程の実例って少ないのに >>329
書いてあるじゃん
今朝の投稿で、ボケてねーか >>335
また畿内説が書いてもないことを捏造したのか テンプレ読見込んでいる人もいるんだな、
奥山のアホさは
纏向が王都で大都市だか
巫女千人と兵は通勤と言う脳ミソの持ち主だからなWw >>337
>書いてあるじゃん
>今朝の投稿で、ボケてねーか
誤魔化さないで、言ってごらん
何と何が矛盾してる?
言えないんでしょ?
それはね、「書いてあるじゃん」がウソで、
捏造だからだよ 難波津はまだ港として整備されてないと、指摘してるようだぞ >>341
>難波津はまだ港として整備されてないと、指摘してるようだぞ
「卑彌呼」の時代は、難波津はもちろんのこと、瀬戸内海一帯が未整備。
よって、「投馬国」が吉備など論外。 @阿波 >>304
>>しかし、「二百里」なら短里で15km余りであり、妥当だが、
「三百里」であれば22.5km余りであり、ぎりぎり。
>普通の人で1kmを15分かからないし、22.5kmだと5時間かからずに歩ける
しかし虞翻とは違って、馬には絶対に追いつけないw
若い頃にほぼ平坦に近い国道を20km位歩いた事があるが、
途中の小休憩を含めて、5時間位(平均時速4km)かかったな。
>>長里では「二百里」で85km余りであり、1日では馬でもぎりぎりであり、
>では無理。「三百里」では、全く無理。
>世の中には、マラソンより長距離のウルトラマラソンというものがある
100kmの部で制限時間が14時間程度で行われている
14時間なら、当然、
それなりの軽装備や靴や、途中での栄養や水分補給が必要なんだろうな。
長里では、「ぎりぎり」でも「全く可能」でもないわけだから、
「長里」では無いことが判明して良かったね >>306
>指摘しても、変えないよ。
指摘例
例1 九章算術均輸は租税の計算や
労働日数に対する対価などの
比例計算であり、日数で道里を表す ものでは無い
例2.南を東に誤認
スレ主は朝鮮通信使の誤認の例を
出して説明しているが、稀なケース
でありる。また、対馬近辺で起こっ
た誤認を瀬戸内航路に当てはめるに は無理がある。
成。。 >>306の訂正(PCの調子が相変わらず悪い)
>指摘しても、変えないよ。
指摘例
例1 九章算術均輸は租税の計算や
労働日数に対する対価などの
比例計算であり、日数で道里を表す ものでは無い
例2.南を東に誤認
スレ主は朝鮮通信使の誤認の例を
出して説明しているが、稀なケース
でありる。また、対馬近辺で起こっ
た誤認を瀬戸内航路に当てはめるに は無理がある。
成程、賛成です。 >>209
>布留0古相の始まりがが258年とか、おばかな決定したりはしないけど?
科学年代西暦258をVI-3様式期(布留0古相)の年代観と対照する森岡(2014)。
上記年輪年代(光谷1995)が古墳時代初頭・布留0併行の暦年代を提出したとする河合(石川埋文2000)。
君、言ってることが矛盾してるね。
森井さんや河合さんは258年だとしてるわけだろ。
これは学者として正しい態度だと思う。
それをもう少し早くから布留0式古はあったとして250年頃に編年してる学者はダメ。
恣意的であり250年頃という根拠がない。 卑弥呼の墓であってほしい、あってもらわねば困るという畿内説の願望だよな ワロタwww
>>253で、
>最古の須恵器の件、レスしておけ、このボンクラ。
と言ったのに全くレスできてない件www >>253
>最古の須恵器の件、レスしておけ、このボンクラ。
まぁ、そう入切るな。 「阿波」で決定してるんだからw 落ち着け。 @阿波 >>341
>難波津はまだ港として整備されてないと、指摘してるようだぞ
それが何と矛盾する? >>348
>>最古の須恵器の件、レスしておけ、このボンクラ。
>と言ったのに全くレスできてない件www
その何にレスして欲しいんだ?
あんたの間違いだらけの主張を、そんなに笑って欲しいのか? >>306
正しい指摘と
デタラメなイチャモンの区別がつかないんだな
かわいそうな>>306w >>350
俺の言ったことじゃないが、
港として整備してなかったら、
そこに上陸できんじゃないか >>350
>それが何と矛盾する?
いつもの、奥山やけくそ論法。 さあ、そのやけくそに対し、どう立ち向かうか、とくとご覧あれ。 @阿波 >>308
>反論のつもりだったら稚拙すぎ
三世紀には加美、久宝寺あたりが港津性の集落なことは常識なんで、類比対象として難波津とさして変わりない
反論のつもりだったら稚拙すぎ
加美、久宝寺あたりは、伽耶の陶質土器が見られた筈だから、
3世紀末から4世紀頃だろうし、
難波津付近とは地域的な近縁性はあっても、同一性の根拠はないから、
7世紀初頭の推論根拠にはならないだろうなあ。 畿内説は、陸ならどこでも着岸できるとでも思ってるんだろうな
陸は平坦な道じゃなく、わざわざ峠を越えようとするし、頭がおかしい >>355
>加美、久宝寺あたりは、伽耶の陶質土器が見られた筈だから、
>3世紀末から4世紀頃だろうし、
・・・筈だから、3世紀末から4世紀頃だろう これって、奥山流でいいのか? @阿波 >>342 他
港として整備されてないとかを金科玉条のごとく振りかざしてるけど
喫水の深い構造船じゃなくて、浅い丸木舟が主流の時代は
波が静かな入り江や潟湖、川津であれば流れが静かな浅瀬があれば
港として利用できるし実際されてるんだよ
浅い知識での思い込みだけで判断しているからデタラメになる
九州説はバカばかり
九章算術の日数が道里なのは普通に漢文が読める人には自明で、
それ以外の論は明確に間違いだ
間違いを振り回しても正解にはならないし、それは正しい指摘ではないから
それでテンプレが修正されないというのはお門違いもいいとこ >>358
>波が静かな入り江や潟湖、川津であれば流れが静かな浅瀬があれば
>港として利用できるし実際されてるんだよ
お前よぉ、瀬戸内海が「波が静かな入り江や潟湖、川津」だとでも言うのか? 落ち着いて反論しろ! 出直し! @阿波 >>341
>難波津はまだ港として整備されてないと、指摘してるようだぞ
「卑彌呼」の時代は、難波津はもちろんのこと、瀬戸内海一帯が未整備。
よって、「投馬国」が吉備など論外。 @阿波 >>358
湖でカップルがボートこいでんじゃないんだぞ
浅瀬に見えても、いや浅瀬だからこそ、突然海底は岩場になったりする
干潮時には岩が見えたりするからな
もちろん、そんなところに乗り上げたら座礁する >>351
>>最古の須恵器の件、レスしておけ、このボンクラ。
>>と言ったのに全くレスできてない件www
>その何にレスして欲しいんだ?
年輪年代で最古の須恵器が389年と出た後、
別段、放射性炭素測定なんてしてないよね。
それを君は「した」と言ってたね。
「した」というソースはと聞くとスルーw
つまり平気で嘘をつく男なんだね君は。 >>356
お前の主張に少しでも近づくように、わざわざ日向峠のルートにしてやったのにw
伊都国三雲を出てから高祖山塊を迂回するのにほぼ真北に向かうルートが
どうやったら「東南至奴國百里」になるんだ?
このルートでも広石峠は越えないといけないぞ?
さあ、どんなデタラメな言い訳を思いつくか楽しみだw >布留0古相の始まりがが258年とか、おばかな決定したりはしないけど?
科学年代西暦258をVI-3様式期(布留0古相)の年代観と対照する森岡(2014)。
上記年輪年代(光谷1995)が古墳時代初頭・布留0併行の暦年代を提出したとする河合(石川埋文2000)。
君、言ってることが矛盾してるね。
森井さんや河合さんは258年だとしてるわけだろ。
これは学者として正しい態度だと思う。
それをもう少し早くから布留0式古はあったとして250年頃に編年してる学者はダメ。
恣意的であり250年頃という根拠がない。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
これも見事にスルーwww >>353
船着場遺構は原の辻くらいしか見つかってないだろ >>356
>陸ならどこでも着岸できるとでも思ってるんだろうな
陸なら、は×
浜なら、だったら○
水行(沿岸航行)と渡海が区別されるのは、
水行は何かあったら最寄りの浜に上がれる比較的安全な航海なのに対し
渡海は遭難したら死ぬしかない危険な航海だからだよ
渡海で2日とかはありえない >>359
>お前よぉ、瀬戸内海が「波が静かな入り江や潟湖、川津」だとでも言うのか?
泡もバカだよな
瀬戸内に波が静かな入り江や潟湖が「ない」と思ってるのか?
船を着けられる入り江を飛び石伝いに、潮止まりの時に移動して行けばよいだけ 渡海は、絶海を渡ること。
水行は、海の沿岸を航行すること。 @阿波 >>361
>もちろん、そんなところに乗り上げたら座礁する
丸木舟は座礁しても、乗ってる人が降りて押してやれば離礁できるから
特に困らない
丸木舟って便利だし結構安全なんだよ
喫水の深い構造船の感覚で物事を考えようとして大間違いの恥をさらしてるだけ これが腐れ歴博の性根
https://core.ac.uk/download/pdf/294897787.pdf
(箸墓古墳について)
近年は各種の開発行為や池堤の修復のために,それらに先だって発掘調査が実施されている。
その結果,周溝など墳丘周囲から古墳築造時の遺物が出土し,一定の研究を可能にしている。
さらに,箸墓古墳の周辺でも道路や宅地などの開発行為が相次ぎ,
その都度発掘調査がおこなわれているので,古墳またはそれ以前の墳丘墓の年代を土器型式で示すことが可能になってきた。
また,伴出した木材の年輪年代を測ることによって実年代をある程度絞り込むことも行われている。
しかしこれまでの努力にもかかわらず,古墳の出現年代,および前後の墓の実年代については,検討の余地を残していた。
筆者ら国立歴史民俗博物館年代研究グループ(以下歴博年代グループ)は文部科学省科学研究費
による助成を受け,炭素 14 年代法にもとづく弥生時代の年代観の構築に取り組んできた[西本編2009]。
弥生時代後期から古墳時代前期にかけての実年代推定の一環として,
奈良盆地の弥生時代墳丘墓と最古古墳の年代を明らかにする研究を実施したので,その成果を報告する。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
そして240〜260年と断定したわけだ。
「伴出した木材の年輪年代を測ることによって実年代をある程度絞り込むことも行われている。
しかしこれまでの努力にもかかわらず,古墳の出現年代,および前後の墓の実年代については,検討の余地を残していた。」
「検討の余地を残していた。」というのは自分たちの思い通りの数値にならなかったという事であり、
要約すると、年輪年代ででた258年という数字には不満だ!卑弥呼の墓にならないじゃないか!1(涙)
ということ。
ここのアホの>>1も同じ穴のムジナwww
クソ野郎ですわw >>369
波に押されてゴツゴツした岩場に叩きつけられたら、木っ端みじんだぞ >>367
>船を着けられる入り江
お前よぉ、瀬戸内海が「波が静かな入り江や潟湖、川津」だとでも言うのか?
よそ者の船を着けられる設備が整備されていないと言ってるのが分からないのか?
>潮止まりの時に移動して行けばよいだけ
そんな悠長なことしてたら、そこらにうじゃうじゃいる海賊どものかっこうの餌食だわ。 お前もバカだよな。 @阿波 >>355
>加美、久宝寺あたりは、伽耶の陶質土器が見られた筈だから、
>3世紀末から4世紀頃だろうし、
無知が九州説を作っているんだね
テンプレ参照
「準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕」
昔から港だったのは誰でも知っている >>370
>「検討の余地を残していた。」というのは自分たちの思い通りの数値にならなかったという事であり、
それって、根拠のない空想の中傷だから >>373
あらら、さっきまで丸木舟だったのに、もう準構造船に変わったよ
畿内説はコロコロが激しすぎる >>373
それ、奥山が言ったんじゃないのか? @阿波 >>374
じゃ春成のいう「検討の余地」とは何なのか述べよ。 >>364
>君、言ってることが矛盾してるね。
>森井さんや河合さんは258年だとしてるわけだろ。
森井も河合も布留0の始まりが258年だとか行ってませんが?
また妄想ですか?
>これも見事にスルーwww
だって明らかに妄想でしょ?
指摘したら九州説がかわいそう過ぎる >>378
>森井も河合も布留0の始まりが258年だとか行ってませんが?
また妄想ですか?
じゃ何年としてるのか言え。
>指摘したら九州説がかわいそう過ぎる
わしは畿内説だが。 訂正
森井さんじゃなくて森岡さんな、
お名前間違えていた。 >>362
>年輪年代で最古の須恵器が389年と出た後、
>別段、放射性炭素測定なんてしてないよね。
>それを君は「した」と言ってたね。
>「した」というソースはと聞くとスルーw
>つまり平気で嘘をつく男なんだね君は。
もう九州説がかわいそうね
宇治市街遺跡の木材は年輪年代と14Cのクロスチェックで実年代を出したのは有名な話なのに
なんにも知らないなんて
どこまでバカ丸出しして九州説に恥をかかせれば気が済むの?
九州説がかわいそう過ぎる >>371
>波に押されてゴツゴツした岩場に叩きつけられたら、木っ端みじんだぞ
そんなところにわざわざ近づかなきゃいいだけ
陸から離れれば海は深くなる
喫水の深い以下ry >>380
>森井さんじゃなくて森岡さんな、
森岡も布留0の始まりが258年だとか言ってませんけど?また妄想ですか?
また妄想ですか? >>379
>わしは畿内説だが
いつも赤恥かいた後でそう言い出す
心が薄汚れてるね >>372
>よそ者の船を着けられる設備が整備されていないと言ってるのが分からないのか?
泡は人づきあいがないから分からないのかもしれないけれど
日本は縄文時代から沿岸航行で広域流通、広域交流をしてるんだよ
基本的に他所から来る人は、交易品を持ってくるから歓迎される
よそ者を拒めば、自分も拒まれることになり、自分の首を絞めるだけ
何度も言うがっていうか、泡も以前書き込んでたはずだが、
遠浅の浜に乗り上げて陸揚げするんだぞ
設備なんて特に必要ない >>381
>もう九州説がかわいそうね
畿内説だが。
>宇治市街遺跡の木材は年輪年代と14Cのクロスチェックで実年代を出したのは有名な話なのに
>なんにも知らないなんて
なら同じように年輪年代と14Cのクロスチェックで
布留0式古は258年で良いね?
最古の須恵器389年には異論はないが、布留0式古が258年には異論があるというのは矛盾だね・ >>383
湖のボートでデートじゃないんだよ
海には波がある
これだから空飛ぶ畿内説は >>385
>いつも赤恥かいた後でそう言い出す
>心が薄汚れてるね
卑弥呼はヒメ(踏鞴五十鈴)后であり、
墓は高天原(=御所市高天)だと20年前から言ってますが。
日本で唯一、奴婢大量埋葬痕跡があるのでそこしか考えられない。
他に奴婢大量埋葬痕跡があるのなら遠慮なく言え、
箸墓には全くないけどね。 >>372
3世紀に海賊がいた根拠は?
想像で適当なことを言ってもムダ >>384
具体的に編年を示せよね。
ただ250年だとしてても、一人の恣意であり何の根拠もない。 >>387
>なら同じように年輪年代と14Cのクロスチェックで
>布留0式古は258年で良いね?
そんな調査結果はありません
主張してる学者もいません
発狂してないから
>最古の須恵器389年には異論はないが、布留0式古が258年には異論があるというのは矛盾だね・
矛盾などないよ
389年は形式学的にTG232の祖型だという見解があったから「最古」という論調になったが、今は論拠が崩れているので参考程度
258年には、測定対象が布留0最古などという主張は当然発狂してなきゃ言わないので、誰も言わない
何も矛盾はない >>388
波があったらダメとか言ってたら、渡海は無理だろ?
丸木舟で南北巿糴してたんだぞ?
瀬戸内のような内海じゃなくて、日本海の荒波を越えて? >>393
>具体的に編年を示せよね
森岡も布留0の始まりが258年だとか言ってません
あなたが捏造した
それだけ 葛城爺は左側スロープ君と呼んであげて!
彼には他の誰にも見えないスロープが見えるし、自然丘陵が地山成型した塚に見えるんだから!
尾根を利用した大墳丘墓は尾根切りをして墳丘を作るって言われると、
尾根の終わるところが尾根切りだとか言うし!
それ完全に自然地形で何一つ土砂の移動がないww >>394
>そんな調査結果はありません
>主張してる学者もいません
歴博は240〜260年としており、
その中に包含される二口かみあれた遺跡木材258年で何の矛盾があるのかな。 >258年には、測定対象が布留0最古などという主張は当然発狂してなきゃ言わないので、誰も言わない
といって258年頃と頃という根拠は何もないとw 訂正
>258年には、測定対象が布留0最古などという主張は当然発狂してなきゃ言わないので、誰も言わない
といって250年頃と頃という根拠は何もないとw >>383
>そんなところにわざわざ近づかなきゃいいだけ
瀬戸内海の世界屈指の潮流が、それを許さない。 瀬戸内海をなねんじゃねえ! @阿波 >>396
波があるから、なまじ浅瀬で岩礁が近いような場所は港にできないって話だ >>386
>日本は縄文時代から沿岸航行で広域流通、広域交流をしてるんだよ
その縄文後期文化の中心が「阿波」だ。 そんなことも知らんのか、どカス。 @阿波 >自然丘陵が地山成型した塚に見えるんだから!
>尾根を利用した大墳丘墓は尾根切りをして墳丘を作るって言われると、
>尾根の終わるところが尾根切りだとか言うし!
埋没古墳のメクリ1号墳墓ヲご存じかな?
千数百年の土砂が堆積していたわけね。
つまり今ある状況は根拠にならない。
俺の言う150mの塚は左(西側)が平ではあるが、
当然、長年の土砂が堆積したものと推定される。
卑弥呼の墓で間違いはない。 >>386
ブラタモリの「能島編」見てないのか? 弥生時代に、よそ者の瀬戸内海「通し航行」は絶対無理。 @阿波 左側スロープ君と泡は後期高齢者だし、認知機能の衰えが顕著になってきているのかな? >>391
>墓は高天原(=御所市高天)だと20年前から言ってますが。
正一位 式内名神大社「天石門別八倉比賣神社」が無いところは、論外! 下がっておれ! @阿波 >>409
ハイ、逃げた。
布留0式古相=250年頃という編年には何の科学的根拠もないでいいね? オノの刃を径で表すから円とは限らないってのも奥山らしい決めつけだな
オノの刃は半円形じゃないか
やっぱり自称テンプレの連投荒らしだったか >>410
俺はまだまだ若いよ、現役世代だし。
おまえこそ一年365日朝昼晩、PCに居着いてるのは「こどおじ」かwww >>410
まだ泡の書き込みなんて見てるのか?
優しいな
とっくにNGしてるよ >>392
>3世紀に海賊がいた根拠は?
海賊がいた明確な証拠はないが、いなかったという証拠もない。
ただし、世界屈指の難所・瀬戸内潮流は確実にあった。
海賊の手引きなしには、世界屈指の難所・瀬戸内を航行できなかった。
ブラタモリより。 @阿波 >>415
>とっくにNGしてるよ
お前だけ、ずっとしておけ! わははははは @阿波 >>416
おまえ、スマホから書き込んでるのか??
俺には絶対無理だ。 >>411
>八倉比賣
どこのオバハンやねん。
まぁ徳島の女は胸が大きい事は認めるが。 >>417
よって、「卑彌呼」の時代、海賊がいなかったら、「投馬国」吉備は有り得ない。 @阿波 >>419
それが年寄りなんだよ
わざわざPC起動してチェックしてるのか?
そんな無駄な情熱注ぐのが畿内説なんだよ
https://i.imgur.com/351Q1I9.png >>425
魏使は5日歩いて45度も間違えたんだよなw >>407
>卑弥呼の墓で間違いはない。
正一位 式内名神大社「天石門別八倉比賣神社」が無いところは、論外! 下がっておれ! @阿波 >>372
正解。潮の満ち引きを待つか
小舟と本船の間でピストン堀口元気君
になる。
交易ではない国交の使者にそこまでさせない。
九州で下賜品等は伊都国で確認で引き渡す
詔書は、卑弥呼のいる不彌國で終わせ、使者は、帰路へ。
九州に共立王 卑弥呼が居れば済む。
なので開拓中である邪馬壹國には、行っていない。 >>426
可也山を目印にしたばっかりにな
もっとも、畿内説によれば90°以上間違えたそうだが >>428
>九州に共立王 卑弥呼が居れば済む。
正一位 式内名神大社「天石門別八倉比賣神社」が無い九州は、論外! 下がっておれ! @阿波 >>429
いや、お前の主張は太陽を目印すれば決して間違えない
間違えないはずなんだけれども5日目で45度間違えてしまったという作り話 >>432
畿内説が言うとおり可也山を目印にしてしまったばかりに起きた錯覚だな
迂回しないで海の上をまっすぐ進めば起きない錯覚だ 1位を超越する
伊勢大神 (伊勢国 神宮)
日前神 (紀伊国 日前神宮)
国懸神 (紀伊国 國懸神宮)
近畿説である。 >>434
>1位を超越する
どうやって? @阿波 >>350
簡単だよ、遣隋使の例を出して陸行一月の例を出すのは間違い、キチガイ、
遣隋使のころは港も整備され停泊も
可能だし、また朝廷が難波津に館を建てて宿泊させたのでしょう。
しかし三世紀前半に難波津は港として整備もされていない。また、倭人伝に記述も無い例を持ち出し、あたかも魏の使いが難波津で相当な日数を宿泊したかのように見せかける。それも陸行一月に宿泊日数を入れる。
倭人伝の行程を、遣隋使の行程を参考に持ち出すことは馬鹿げている。
事の前(倭人伝)後(遣隋使)が食い違うのは以上の通りである。
これを矛盾と言う。 >>435
ぐるっと回ってるからな
測量してる訳じゃないので、どの程度北に戻ったかは分からん
関数電卓使える畿内説にすら、どの程度戻れば22.5°の範囲内に入ったか計算できなかったしな >>434
>1位を超越する
どうやって?
「神道五部書」の『豊受皇太神御鎮座本記』の内容を「国史大系」の第七巻から見てみると
「天村雲命伊勢大神主上祖也。神皇産霊神六世之孫也。阿波國麻植郡座忌部神社、天村雲神社、二座是也」とある。
阿波國に座す二社(忌部神社、天村雲神社)が皇祖皇統の正統なる末裔であると記している。
阿波忌部が伊勢神宮(少なくとも外宮の)の正統なる祭祀者であり、伊勢神宮は阿波忌部の上祖(天日鷲命)を祀っているのである。 @阿波 >>437
>倭人伝の行程を、遣隋使の行程を参考に持ち出すことは馬鹿げている。
正論だ。 @阿波 >>438
回ったら太陽は役に立たないんだなw
ところでお前毎日張り付いてるのに
PCでネットが使えない環境って、お前遊牧民かなんかか?
https://comemo.nikkei.com/n/n35c14527f79e ついに「南水行十日陸行一月」の謎が解けたyo!
魏志倭人伝の核心は「計其道里 當在会稽東冶之東(その道里を計るに、まさに会稽東冶の東にあるべし)」の一文。
1.西晋初代・武帝司馬炎は、祖父・司馬懿仲達(秀吉)を後見人に指名してくれた大恩人・曹叡(信長)の、(実は呉より北にいた)卑弥呼を特別待遇してしまった判断ミスを正当化し、呉を滅ぼす先鞭を付けた賢帝に仕立てる必要があった。
→曹魏の帝都・洛陽から見て東南にある孫呉との戦いにおいて、その背後に倭国「女王之所都」があれば、最高の牽制となる。
→孫権の帝都・建業とほぼ同緯度の会稽郡「東治(シ・さんずい)」ではなく、そこから更に約580km南で、帯方郡から12,000里の「東冶(ン・にすい)」の東にあると思わせたい。
2.しかし本当の位置も残さなければならない。
3.ところで倭国の気候&風俗(服装、産物、動物、武器)は、南越(ベトナム)国境にある儋耳朱崖に似ている。
そこで陳寿が行った忖度が、女王国(九州)島が、狗邪(伽耶)韓国の南から儋耳朱崖(ベトナム)まで届く、中国大陸をすっぽり包み込む、南北に細長〜い「2つの島」であるように思わせるテクニック。
まず「奴国」を2回使って「女王之所都」が「奴国だよ、奴国だよ」と正解の【奴国1】を暗示(ダチョウ倶楽部「押すなよ、押すなよ」→2回目の念押しがポイント)。
次に、投馬国(宮崎)から南水行十日にある奄美大島を海南島までグィ〜ンと引き伸ばして、女王国島のパラレルワールド「邪馬台国島」を、そこに東治⇔東冶間の「陸行一月」を転用して幻の【奴国2】を創り、「東冶(ン・にすい)」の東に「女王之所都」を合わせた。
同時に倭国に行ったことがある中国知識人には「陸行一日(奴国)」の間違いとすぐに気が付くようにもした(「日」の両端の棒を下に延ばし日+Л→「月」)。
卑弥呼は、漢委奴国王以来の奴国王・帥升「其國本亦以男子為王 住七八十年」の男系女子(孫娘)で、先祖である歴代倭王(死者=鬼)の神託を聞くイタコとして(鬼道政治)、北部九州30カ国から共立された巫女(斎王)。
邪馬台国七万戸=奴国二万戸(福岡平野)+(南の狗奴国に狙われた)後背地・筑紫平野五万戸。 >>437
ハナから連投荒らしのテンプレなんて見てなかったが、面白い着眼点だな
【ハイライトメモ】
難波津は整備された港だった
オノの刃を径で表してるから円とは限らない >>442の模式図だyo!【魏志倭人伝の「倭国≒南越(儋耳朱崖)」プロパガンダ】
┏━━┓帯方郡 ┏┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
←┐┃黄海┗狗邪韓国┛(伽耶)〜〜〜日本海〜〜
洛陽┃〜〜〜↓↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━━━━━━━━━━━━━━━━
【魏】┃〜対馬▲↓南「水行10日」〜〜〜〜┃「女王国東渡海1,000里 複有国 皆倭種」(出雲・吉備)
↓ ┃「瀚海」↓↓玄界灘〜〜〜〜〜〜〜┗━━━━━━━━━━━┓
┃〜壱岐▲↓〜〜〜〜┌南「水行10日」┐関門海峡〜〜〜〜〜▲┃
v✖s┃〜〜┏末盧国━━━↑━━━━━┓↓〜〜〜〜┏━━━┓〜┃
┃〜〜┃伊都国→不弥国▲▲▲▲▲▲↓国東半島┃侏儒国┃〜┗━━━┛
↑ ┃〜〜┃▲↘「陸行1日」(正)‗▲▲▲▲↓豊後水道┗━━━┛「在其南 人長3〜4尺(少彦名)
【呉】┃〜〜┃♀【奴国1】女王之所都▲▲┛↙〜〜〜〜〜〜〜〜〜去女王4,000里」
建業┃〜〜┃狗奴国▲▲▲▲投馬国←←┘宮崎平野=南「水行20日」
┃〜〜┗━━女王国島━┛↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜
会稽┃〜東シナ海〜┌南「水行10日」〜〜〜〜〜〜〜〜
東治┃〜〜┌─┌←▲奄美大島┐↙陳寿の創作(女王国島のパラレルワールド)
↓ ┃〜〜│〜↓「陸行1月」_〜│←「※自女王國以北其戸数道里可得略載」(北部九州30カ国=30日=1ヶ月)
┃〜〜│〜↓▲沖縄〜〜〜│〜〜↓「自郡至女王国 12,000里」
東冶┃〜〜│♀【奴国2】(幻).〜│★『(女王之所都)計其道里 當在会稽「東冶」之東』(魏≒西晋のプロパガンダ)
┃〜〜│▲台湾〜〜〜〜〜│〜〜↑「此女王境界所尽 其南有狗奴國 不属女王」
香港┃〜〜└┐〜〜〜〜〜〜〜│←「※其余旁国遠絶(幻)不可得詳」
┏▲海南島〜└邪馬台国島(幻)┘〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
┃↖儋耳朱崖〜〜南シナ海〜〜「所有無與儋耳朱崖同(服装・産物・動物・武器)倭地温暖冬夏食生菜」
┛←南越(ベトナム)〜〜〜〜〜↘▲裸国フィリピン〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜↘▲黒歯国インドネシア▲パプアニューギニア「複在其【奴国2】(幻)東南 船行1年」 >>407
>埋没古墳のメクリ1号墳墓ヲご存じかな?
>千数百年の土砂が堆積していたわけね。
>つまり今ある状況は根拠にならない。
いやいや、お前の言ってるもっこりは典型的な浸食地形で、
削れていく一方だぞ?
どうやったら尾根の上に土砂が堆積するんだ?
そしてお前は尾根切りの意味すら分からずに強弁しているだけ
尾根の終わる部分をどうやって切るんだ?
そして西側を切って尾根から切り離して、それではじめて塚として人の手が
入ったものだと言えるようになる
自然地形で人為的改変の痕跡1つなく、丸くも前方後円墳でもないただの尾根を
土蜘蛛の3文字と天皇の2文字合わせて5文字だけで妄想してつかにしている
頭のかわいそうな老人がお前だよ >>441
PCで張りついてるのは航空写真爺だろ
自宅じゃ必要なときしか起動せんし、仕事じゃ仕事のアプリが開いてる
航空写真爺の生活を基準にしちゃいかんな 「卑弥呼以死 大作冢 径百歩」〜卑弥呼は直径【円墳】百歩(140m)の冢を大いに作(るを以)って死んだ〜 のカラクリ
@曹魏から禅譲を受け、呉を平定し中国を再統一。280年頃、再び天下に平和と繁栄をもたらした西晋の功績を後世に書き残すための正史「三国志」を編集中、30年前の魏使の報告書「径百尺(25m)」を見た陳寿は、当時の倭国はすでに古墳時代に突入し、王墓だけはやたらと長大という情報を、官僚だけに読み知っていた。
A(膨大な餓死者を出しておきながら黄巾の乱を放置した後漢皇帝たちの厚葬に呆れた)曹魏の薄葬に従ったのだろう卑弥呼でも、「径百尺(25m)」の墓ではいくらなんでも小さすぎる。地方豪族級の小さい墓しか作れない倭王に明帝曹叡が親魏倭王の金印を授けるはずがない。
B「径百歩」の誤りであろう。ついでに「以+【大】作冢」と補足しておこう。
こうして陳寿は仕方なく、形◎や数値「百」はそのままに、単位「尺(25cm)→歩(1.4m)」だけ替えた。
(もし誰かが気付いたとしても誤記と言い逃れればよい。少なくとも倭国にわざわざ渡海してまで確かめようとする者ももはやいまいw)
そして時は流れ、1740年後の日本…
当然のことながら、祇園山古墳(九州説)も箸墓(大和説)も「径百歩」に該当せず、短里だ長里だ、南だ東だと無意味な論争が継続中!
◆もしも箸墓(全長280m)が卑弥呼の冢だったら…
→魏使は「卑弥呼以死 作【大冢】 長二百歩」と記録→陳寿は魏志倭人伝にそのまま転載(×不正解)
◆もしも祇園山古墳(直径25m)が卑弥呼の冢だったら…
→魏使は「卑弥呼以死 作冢 径百尺」と記録→陳寿は「卑弥呼以死 【大作】冢 径百【歩】」と盛る→魏志倭人伝(○正解)
祇園山古墳は上方下円墳で、天(上)から見ると方格規矩四神鏡そのもの。まさに倭王に相応しい。
「殉葬者奴婢百人」は、魏の薄葬に従いつつも、死後の孤独に怯えた卑弥呼の面従背腹であろう。
面白いのでそのまま転載しようw(陳寿、心の声) >>447
>祇園山古墳は上方下円墳で、天(上)から見ると方格規矩四神鏡そのもの。まさに倭王に相応しい。
正一位 式内名神大社「天石門別八倉比賣神社」が鎮座していない祇園山古墳は、論外! 下がっておれ! @阿波 >>412
>布留0式古相=250年頃という編年には何の科学的根拠もないでいいね?
そんなこと言い張り理由は? >>446
お前レスポンス早いから仕事のソフト立ち上げて作業なんてやってないだろw >>444
>>447
倭王卑弥呼の魏帝への朝貢目的は、蜀の牽制として西のインド・クシャーナ朝「親魏大月氏王」同様、呉の牽制として東の「親魏倭王」号を取得し、帯方郡が管理している「伽耶の鉄」の倭国における輸入独占権の確保(郡宛て発注書用封泥金印「親魏倭王」)。
つまり狗奴国戦争における後方支援(後に援軍)要請だったわけで、南の狗奴国の位置が決まれば、自動的に北の邪馬台国の位置も決まることになる。
長年続く邪馬台国所在地論争の核心は、実は【狗奴国の位置】であることに留意されたい!!
そこで九州説、畿内説における狗奴国を検討すると、以下のようになる。
−女王国 東渡「海A」千余里 複有「国B」皆倭種【〇九州説…「海A」関門海峡「国B」本州、✖畿内説…「海A」鈴鹿山脈「国B」北海道】
−其南有狗奴國 不属女王【〇九州説…熊本もしくは薩摩、✖畿内説…仲良し東海+河内彦(大阪)←支離滅裂】
畿内説はいずれも当てはまらない上、「渡海複有国皆倭種(→東)」と「狗奴国(南⤴東)」が重複する。
また、鉄製武器(軍事力)も文字・駅伝制(通信手段)もない3世紀の畿内にいて、遠隔の北部九州を安定支配するのは物理的に不可能。
消去法により、九州説が正しいことになる。
では、狗奴国が熊本か鹿児島かだが、邪馬台国七万戸を統治する倭女王をして、魏帝に援軍要請させるほど窮地に陥れる国の軍事力を考えると、
その人口は邪馬台国と同等(七万戸)もしくはそれ以上の人口(八万戸)を想定。
面積から見て、川内平野でゎ「平野面積≒戸数」となる3世紀の開墾能力では無理があると思われ、狗奴国は菊地平野(狗古智比狗の本拠)+熊本平野+八代平野の3平野を合わせた超大国と考定して、
北の邪馬台国は、北岸の吉野ヶ里遺跡を始め、弥生拠点集落の宝庫「筑後(川)の賜物」筑紫平野、卑弥呼王宮はその最高所・甘木朝倉を、
卑弥呼の冢「大作冢径百余歩(尺)=0.25m×100歩=直径25m」は、3世紀中頃の築造で、筑紫平野を一望でき、同時期の殉葬者が少なくとも66人以上確認されている「有棺無槨」祇園山古墳を比定。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%87%E5%9C%92%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3 >>426
>魏使は5日歩いて45度も間違えたんだよなw
あなたは優しい人ですね
末盧国を呼子だとかいうデタラメをでっち上げて、
船で半日もかからないところを銅鏡100枚を含む重たい大荷物を抱えて、5日かけて
陸地を歩いて、南に行ってから北に向かってそれで45度も間違えたって言ってるんだよ
捏造君はww
そして真東から50メートル南に行ったら真東じゃないから東南とか
煽りヌキでバカとしか言えないことを延々と書いてる
もうね、義務教育以降、まともな教育を受けてないのはまあ確実
自分で公務員と書いてしまったけど、国家公務員はフェイク
おそらく優先採用枠のある地方公務員の福祉課あたりの公務員なんじゃないかな >>450
航空写真爺は知らんかも知らんが、今日は休みだ >>451
すると、欽明(現皇室開祖)の父にして、古代史の謎である継体の正体(呉の南の「越」王の分家=狗奴国・卑弥弓呼末裔。鯨魚@八代淡海→近江琵琶湖)も判明!古代史は以下のように一挙に解明できるのである!
漢委奴国王=1世紀(弥生後期)
帥升=2世紀(倭国大乱)
卑弥呼=3世紀(弥生終末)邪馬台国(帯方郡張政の仲介で狗奴国を併合)…伊都国王神武「更立男王国中不服」を、紀伊半島西部水銀鉱床で栄えていた大和纏向に東征させ「奥津城」として(帯方郡の鉄の代価)隠蔽&独占。
崇神朝=4世紀(前期古墳)伊都国(台与死後「複立男王並受中国爵命」)…垂仁、伊勢神宮を創建し紀伊半島東部も聖域化。紀伊半島の水銀鉱床完全独占。
応神朝=5世紀(中期古墳)邪馬台国(仲哀を武内宿彌&神功が暗殺)…魏晋【宋/斉/梁】南朝へ朝貢再開。479年「武」上表「安東大将軍倭王」任命(悲願達成)。
継体朝=6世紀(後期古墳)狗奴国(武烈死後、倭王磐井を暗殺「百済本紀531年、日本の天皇・皇太子・皇子共に薨去」、筑紫君と矮小)…阿蘇邪靡堆へ遷都。倭国独自(九州)年号創設。
日出処「天子」倭王阿毎多利思比孤、新羅の朝貢を契機に隋煬帝に対し対等外交宣言607年
欽明朝=7世紀(飛鳥時代)…仏教による墓制(国家祭祀)変更のため、欽明皇子、蘇我稲目と共に奥津城(王家の谷)に下向。大和分家として飛鳥疎開宮造営。
用明&厩戸…物部守屋を誅殺し前方後円墳廃止。大和分家を乗っ取ろうとした蘇我氏を九州本家の天智が誅殺し、近江大津京へ東遷(大化の改新)。
天武朝=8世紀(奈良時代)記紀編纂→唐外交の火種【九州年号&多利思比孤】を抹消すべく、崇神朝〜応神朝〜継体朝の歴代倭王権@九州本家の交代が、すべて大和分家で起こっていたように史実歪曲。
畿内を記紀の歴史テーマパーク化(九州の地名をそっくり移植。阿蘇外輪山→三輪山、八代淡海→近江琵琶湖など)
桓武朝=9世紀(平安時代)
まとめると、
九州本家…卑弥呼台与(邪馬台国)→崇神朝(伊都国)→応神朝(邪馬台国)→継体朝(狗奴国/阿毎多利思比孤)→天智東遷(難波宮大津宮)→桓武(平安京)
大和分家…神武(伊都国)東征→崇神朝奥津城造営(紀伊半島の水銀鉱床目的)↘欽明朝(推古摂政厩戸)→天武持統(飛鳥宮藤原京)→元明(平城京) >>453
畿内説にも計算できなかったじゃないか
可也山山頂から何キロまで近づけば、真東から22.5°以内に入ったことになるのかな
畿内説が証人だ >>433
>可也山を目印にしてしまったばかりに起きた錯覚だな
相変わらずバカだなあ
航空写真がないからこそ、可也山が真東に見えて伊都国がそのお膝元なんだから
伊都国は呼子の真東としか認識されないんだよ
そして、ここまで付き合ってやったけど、呼子が末盧国ってのがそもそもインチキだからな
九州説が方角は間違ってないにだー、って言うためだけのデタラメ
そんなところに国を想定するやつはバカとインチキ野郎しかいない >>455
邪馬台国女王・台与の死後、倭王となった伊都国王・崇神「複立男王並受中国爵命」の玄孫(4世孫)・仲哀から王権を相続(奪還)した応神(胎中天皇)は、仲哀の実子ではなく、
筑紫女王・神功皇后(記紀が100年前の邪馬台国「卑弥呼」と混同させられる理由)と大臣・武内宿彌の子供説(リンク参照)がある(仲哀崩御の十月十日後に筑紫で出生)。
仲哀の息子(応神の異母兄)たち(籠坂かごさか&忍熊おしくま皇子)の反乱もこれが原因である。
ここに武内宿彌の正体も明らかになるのである!
伊都国崇神朝の景行/成務/仲哀、邪馬台国応神朝の応神(息子)/仁徳(孫)の5人の大王に仕えた彼は、筑紫女王・卑弥呼の男弟の末裔なのである!
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%86%85%E5%AE%BF%E7%A6%B0
その応神朝@筑紫(邪馬台国♂武内宿彌&♀神功皇后)を筑紫君磐井の乱で下剋上した狗奴国王・継体@阿蘇は、仁賢皇女・手白香姫を娶って欽明皇子を産ませることで、歴代倭王統の維持を図った(倭国大乱の再発予防)。
この欽明皇子が義理の父・蘇我稲目とともに、古代東アジア標準の中央集権強化手段=仏教への国家祭祀(墓制)変更のため、奥津城(王家の谷)大和に下向して大和分家(飛鳥)を築き(継体の大和入り20年に仮託)、
その次男・用明の代で、ついに強硬な廃仏派である大連・物部守屋を滅ぼして前方後円墳築造を廃止。用明の妹・推古が仏教の国教化を成就。
しかし、全国の官寺建設で国家予算を恣にした蘇我蝦夷・入鹿父子が大和分家の皇族を次々に粛正し、乗っ取ろうとしたため、九州本家の天智@太宰府(瓦葺き)が飛鳥(板葺)宮に下向。三韓大使の目の前で誅殺(乙巳の変)。
その後、663年に白村江海戦での完敗により、唐・新羅の連合艦隊による倭王征伐がいよいよ現実味を帯びたため、継体→安閑・宣化→阿毎多利思比孤系統の九州本家・天智が、近江大津京に東遷。
ここに倭王権は史上初めて北部九州を出て、近江大津京→飛鳥浄御原宮→新益藤原京→平城京→平安京へと続く畿内中心の歴史が始まるのである!
欽明以前の「畿内」には、崇神朝・応神朝はもちろん、直前の継体朝ですら記紀伝承地に大王宮が一つも出土せず(明治政府設置の石碑のみ)、巨大王墓と倉庫しか出土しないのは、そのためである。 >>438
>関数電卓使える
関数電卓使うのは知能テストじゃないってまだ理解しないんだなw
日本語の意味も日本のシステムもまともに理解しておらず、
本格的に頭のおかしさをさらしてる そもそも可也山を目標にするということは
可也山のすぐ近くが目的地ということだからな >>458
畿内説には根拠がない
測量してるわけでもない魏の使いに、細かい計算はできない
関数電卓が使えるはずの現代PC爺にさえ計算できないのだから >>451
畿内説はいずれも当てはまらない上、「渡海複有国皆倭種(→東)」と「狗奴国(南⤴東)」が重複する。
女王国(卑弥呼がいる)と邪馬壹國,女王之所都(卑弥呼の故郷)を区別する
近畿説ではしませんが? >>459
>ここに倭王権は史上初めて北部九州を出て
正一位 式内名神大社「天石門別八倉比賣神社」が鎮座していない北部九州は、論外! 下がっておれ! @阿波 >>460
式だけでもいいぞ
どういう式を使えば、22.5°以内と認識できるのかをな
文系でも数Uの知識で分かる
まぁ「コレが東である証拠だ(ドャッ」で航空写真出すような小学生レベルじゃ無理だろうけどな >>459
ダイワ(オオワ)としか読めない大倭(大和)を(オオ)ヤマト と読ませるのはなぜか?
邪馬台国があったからではなく、その逆で、国内外(唐)に対し、新益藤原京を新設した「畿内」に、筑紫邪馬台も阿蘇邪靡堆もあったと思わせたかったからなのである!
白村江海戦惨敗で東遷した九州本家の天智の死後、壬申の乱で倭王権を獲得した大和分家の天武が正史記紀を編纂し(唐を刺激する九州本家の=継体創始の倭国独自年号&日出処「天子」多利思比孤を抹消)、
それに合わせて九州の地名をそっくり移植し、畿内をその歴史テーマパーク化していったからで、そのテーマパークの名前が「大倭」(ヤマト)なのである!
7世紀唐(飛鳥時代)までの中国歴代王朝には、倭国は九州島のみと認識されていたことが判る。
魏志倭人伝「女王国(九州)東渡海千里複有国皆倭種(本州)又有侏儒国在其南(四国)」
隋書倭国伝(倭王阿毎多利思比孤@阿蘇邪靡堆)、旧唐書(原文略)
日本の使者Aは「日本国(本州)は昔の倭国(九州)とは別の国だったが、日辺(→東)にあったので、日本と名付けた」
別の使者Bは「倭(九州)と言う名前が優雅でないから日本(本州)と改名した」と言い、
また別の使者Cは「日本(本州)は昔小国だったが、倭地(九州)を併せた」と言った。
来朝した使者ABCの態度が尊大で、真実を言っている様子がなかったので、中国は彼らを疑った。
事実は逆で、白村江海戦惨敗で九州本家が近江大津京に東遷後、実際はすべて北部九州で展開していた「倭国」の歴史テーマパークにするため、後漢書東夷伝の「大倭」@九州を借用しつつ、
発音は北部九州時代の都であった筑紫邪馬台&阿蘇邪靡堆(ヤマト)としたということなのである!
ゆえに「魏志倭人伝」の年代記述に合わせて箸墓の築造年代を繰り下げて生まれた畿内説(他人の褌)、ならびに教科書の古墳時代「畿内」にあったとされる「ヤマト王権」(定説)は、
唐外交を最優先課題とせざるを得なかった天武・持統朝が国家事業として強行した、この複雑なからくりに惑わされて生まれた幻想で、
記紀(ヤマト王権)という虚構のゴール地点から、魏志倭人伝と土器編年の年代繰り上げ操作による強引付会に過ぎず、国民の無知に付け込み、どこまで史実歪曲&洗脳を定着させられるのか?という、社会実験に過ぎないのである。 >>454
お前が航空写真爺と言っているのはたぶん私だが
>>450は私じゃないぞ?
相変わらず妄想の中で、誰が書き込んでる格別もつかず右往左往してるなw
で、お前は日本人かどうか、答えてみろよ
yes, noで簡単に答えられるだろ?w >>466
まとめると、663年8月の白村江海戦で(互いに先陣を競って無秩序な突撃を繰り返す)倭国水軍を全滅させた大艦隊を擁し、その気になれば、完全に無防備〔もはや陸軍のみ→夥しい神籠石(高句麗)式&朝鮮(百済)式山城の築造ラッシュ〕となった倭国に来襲して、天智の首都・太宰府を殲滅できた超大国・唐(外交)への忖度で生まれた記紀が消そうとしたのは、
A.倭国史上初めて北部九州を出て、近江大津京に東遷した天智@太宰府以前の倭王権(崇神朝→応神朝→継体朝)がすべて北部九州(筑紫邪馬台→阿蘇邪靡堆→天智太宰府)にあったこと
→3王朝ともその奥津城(王家の谷)&新益藤原京を新設したばかりの「畿内」にあったことにした(記紀の歴史テーマパーク「大倭」→「大和」>聖徳太子(以和為貴)」)。
B.さらに、磐井の乱で応神朝@筑紫を乗っ取った、継体朝@阿蘇がやらかしていた3つの不都合な史実なのである!
1.(武寧王の百済を完全属国化した)継体が中国の南北朝二帝並立の隙に創始してしまった(時間の支配者=中国皇帝の冊封からの独立を意味する)倭国独自(九州)年号
→天智の【倭京】(太宰府)以前は全て抹消!(下記リンク参照)
2.鉄の産出により高句麗&百済に形勢逆転した新羅からの朝貢で調子に乗り、南北朝を再び統一した隋の「天子」煬帝相手に日出処「天子」を名乗ってしまった阿毎多利思比孤(冠位十二階)
→同時期の大和分家・厩戸皇子と合成し、憲法十七条(以和為貴)「聖徳太子」を捏造&抹消!
3.白村江海戦惨敗で唐新羅連合艦隊の倭王成敗(王族9親等全員処刑)に怯えた九州本家・天智@太宰府の、(裏口から船で高句麗に脱出できる)近江大津宮への遷都(臆病風→周辺国の笑い草)
→舒明♂皇極♀の長男=斉明皇太子として大和分家に接続&統合!(皇極斉明重祚&天智天武兄弟の秘密)
-継体朝@阿蘇による倭国独自(九州)年号一覧
継体・善記・正和・教知・僧聴・明要・貴楽・法清・兄弟・蔵和・師安・和僧・金光・賢称・鏡當・勝照・端政・告貴・願転・光元・定居・【倭京】・仁王・僧要・命長・常色・白雉・白鳳・朱雀・朱鳥・大化・大長
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/nengo/nengou.html
-熊本県玉名市和水町前原の石原家文書
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaiho122/kai12204.html >>457
その前に呼子が末盧ってのがインチキ
お前はインチキ 今城塚古墳に眠る治天下大王の、ピンクの石棺は、なぜ遠路はるばる運ばれてきたのだ折ろう。。。 >>467
ふむふむ、爺ちゃんたちみんなPCなのか
年寄りは大変だな >>469
はい、理由がありません
畿内説らしいな
いつぞや断言したとおり
100 日本@名無史さん sage 2021/08/20(金) 09:26:27.52
奥山は理由を書かない
その都度指摘してるぞ
断言しよう
今後も奥山は同じことを続ける >>457
>畿内説にも計算できなかったじゃないか
>可也山山頂から何キロまで近づけば、真東から22.5°以内に入ったことになるのかな
そんな計算誰にだって出来るだろ
可也山まで20kmだったら8.28km以内だ >>472
>はい、理由がありません
テンプレに書いてあるだろ? >>474
破綻したテンプレは見ない
ハイ おしまい >>473
ようやく本題だな
では、20kmであること、8.28kmいないに入ったことを、魏の使いはどうやって知るんだ?
はい詰んだ >>474
お、マツロ国でも、自称テンプレ荒らしがやらかしてるのか? >>474
ウソこけ
根拠なく唐津だと言ってるだけじゃないか
やっぱり奥山は理由を書かない >>466
逆ですね。
昔の倭国(九州)57年、107年の
其國本亦以男子爲王
魏志での倭国
卑弥呼(近畿出、共立で九州(居處宮室樓觀,城柵嚴設,常有人持兵守衛
卑彌呼以死,大作塚,徑百餘步,徇葬者奴婢百餘人)で巨大墓地の奈良へ移転
元は小国、壹與あたりから軍事的にも大きなる
倭国を併合。8世紀に日本と改める >>476
お前の主張は、どんなにジグザグに進んでも太陽さえ見れば
日の出さえ見れば方位を間違えることはないというのが遊牧民であるお前の主張だぞ >>437
>しかし三世紀前半に難波津は港として整備もされていない。また、倭人伝に記述も無い例を持ち出し、あたかも魏の使いが難波津で相当な日数を宿泊したかのように見せかける。それも陸行一月に宿泊日数を入れる。
倭人伝の行程を、遣隋使の行程を参考に持ち出すことは馬鹿げている。
>事の前(倭人伝)後(遣隋使)が食い違うのは以上の通りである。
>これを矛盾と言う。
畿内説は「魏の使いが難波津で相当な日数を宿泊した」なんて主張してないんだから
矛盾でもなんでもないよな
畿内説をじゃなくて、自分が捏造した部分しか批判できない九州説って
すごく自分の知能が低いって証明を提出しちゃってるだろ
あわれだな >>437
遣隋使の例を出して陸行一月の例を出すのは間違い
俺もそう思う近畿説だよ。 >>481
>畿内説は「魏の使いが難波津で相当な日数を宿泊した」なんて主張してないんだから
倭人伝の行程を、遣隋使の行程を参考に持ち出すことは馬鹿げている。
正論だ。 @阿波 早朝から発狂キウス
日本文読めないキウス
自分の想像に反論するキウス
自演中毒キウス 鬼道とは陳寿がカテゴライズしたもので、卑弥呼が自ら名乗ったものではない
これは道教の特に『墨子』の鬼神信仰の類推から名付けたものだろう
字面を見ると何か恐ろしい印象だが、人の行いは神によって裁かれるという道徳的な生き方を求めたもの
自然の万物に神が宿るという多神教で特に墨子では争いを避け平和裏に和解する道を求める
注目すべき点は「道」を用いていること、用明天皇は初めて神道の言葉を使ったが道の起源は道教にあるのかもしれない
以後日本では茶道、書道、華道、歌道、剣道、柔道など諸芸の分野を指して道の字を用いるようになる
いずれも日本独特の表現で、中国では用いられない >>485
『名曰卑彌呼事鬼道能惑衆』 『名を「卑弥呼」といい、「鬼道」に仕えて人心を惑わしている』
大麻(麻)の繊維は、日本では古くからしめ縄、祓い具(おはらい)としての神事の大麻(おおぬさ)などに用いられてきた。
また、麻から作った大麻(マリファナ)は薬理作用があり、紀元前から古代人が嗜好品、また医薬品として用いてきた。
大麻(マリファナ)は喫煙、気化、飲食により成分を摂取する。
大麻といえば、阿波忌部。
卑弥呼は大麻(マリファナ)を利用して「鬼道」を操ったのだろう。 @阿波 「現代人は麻の持つ意味を忘れようとしている」
天皇陛下即位式である大嘗祭に、麁服を調進する大役を太古から担う御衣御殿人(みぞみあらかんど)の家柄である三木家は、
木屋平村の三木山山頂に居を構える。
貢(みつぎ)、あるいは三ッ木とも呼ばれる地名は、深く調進に関わる為でもあろう。 南北朝時代にあっては、山岳武士の頭目として南朝に関わった。
さて、この三木山こそは、太古の高天原であると同時に、天皇家の故郷でもある。このお山から御霊を大嘗宮へ運ぶ為には何か媒体が必要である。
つまり、依り代に付いて初めて示現されるのが神霊であるなら、「麻」こそ媒体であると云える。
古来より伊勢神宮の神札は神宮大麻と呼ばれ、御師が領布した御祓大麻を指すからだ。
後世、大麻(おおぬさ)は紙に変わってしまい、現代人は麻の持つ意味を忘れようとしている。 @阿波 「現代人は麻の持つ意味を忘れようとしている」
天皇陛下即位式である大嘗祭に、麁服を調進する大役を太古から担う
御衣御殿人(みぞみあらかんど)の家柄である三木家は、木屋平村の三木山山頂に居を構える。
貢(みつぎ)、あるいは三ッ木とも呼ばれる地名は、深く調進に関わる為でもあろう。
南北朝時代にあっては、山岳武士の頭目として南朝に関わった。
さて、この三木山こそは、太古の高天原であると同時に、天皇家の故郷でもある。
このお山から御霊を大嘗宮へ運ぶ為には何か媒体が必要である。
つまり、依り代に付いて初めて示現されるのが神霊であるなら、「麻」こそ媒体であると云える。
古来より伊勢神宮の神札は神宮大麻と呼ばれ、御師が領布した御祓大麻を指すからだ。
後世、大麻(おおぬさ)は紙に変わってしまい、現代人は麻の持つ意味を忘れようとしている。 @阿波 >>488
どの説も説明できない。
ばかだからどの説も頑固に自説をあげるのみ。
共通のコンセンサスすらない。 男児皇族の健やかな成長を願う宮中儀式 「深曽木の儀」
「深曽木の儀」では、童形服を着て、右手に桧扇、左手に小松と山橘を持ち、
それに先立つ着袴の儀で、男子は滝の意匠をあしらった和服である落滝津の御服の上に白絹の袴を着付ける。
そして、青石(あおいし)二個を踏み、南側を向いて立ち、御用掛が髪をくしですきそろえ、
はさみで毛先を少し切ると、日置盤からぴょんと飛び降りるのである。
これは高天原から天照大御神の孫、つまり天孫が葦原中国の支配者として降臨した様子を模した儀式が
この深曽木(ふかそぎ→みそぎ)の儀であると考えられている。
この「山橘」は恐らく酢橘か柚で、共に阿波で産するものの象徴でもあり、
「青石」は、阿波で採れる青石=多くの古墳等の積石に使用されているもので、
これも阿波を象徴するものである。
そして注目したいのは、「南の方角へ飛び下りる」ということ、
つまり高天原から南方へ降臨したということを意味するものであろう。
これは、霊峰剣山を中心にとした1000m超級からなる剣山系の山々から南方へ下ったということになる。 @阿波
https://ameblo.jp/marine816/entry-12314233650.html 阿波さんへ
じゃあ、阿波さんは、
大麻吸引は、
O.Kな立場ですか?
まあ、
医療用に使うなら、
いいと思いますが。 >>492
「卑彌呼」や「壹與」女王ならOK。 @阿波 >>462
>測量してるわけでもない魏の使いに、細かい計算はできない
なのに、魏志倭人伝に書いてある方角は正しいと言い張るバカな捏造君w
これが、呼子から東南東方向の線を入れた航空写真
東南東方向がお前のいう22.5度のラインなのは分かるな?
https://i.imgur.com/ZX47bMs.jpg
この唐津平野(正しい末盧國)から可也山へ向かう途中の
三分の一くらい行ったところでこの22.5度のラインに来てしまう
そこからさらに2倍くらいの距離を北東に向かうと可也山の近くに着く
測量などしなくても方角は見通しがきけば分かる
呼子の辺りから方角が分かった状態で可也山を見て
可也山付近まで来たら東南などという寝言は出ないよww >>472
>はい、理由がありません
はい、また捏造w
本当に懲りないな
日本史という人文科学ではなく、悪意をもってデタラメを書くのがモチベーションの人間はこれだからww
何度も根拠は書いてるだろ?
・呼子付近に国を想定できる集落遺跡、卓越墓の遺跡はない
・大陸史書の地誌記事では、中心都邑の二点間距離で示すので、上陸地点をもって末盧国と書かれることはない
・呼子に上陸するのは一大率の管轄外での入国になる
・銅鏡100枚他の大荷物を舟で行ける場所に運ぶのに何十キロも手前で上陸して陸路を取るのは極めて不合理
お前の挙げている「呼子には港があるが唐津の港は後代まで整備されない」というのは、
構造船前提の見当違いだし唐津は松浦川河口の潟湖が港として条件がよい >>494
呼子と唐津の争いか。 「末盧国」は、福津市(万津浦)辺りだ。 もう、無駄な論争をやめろ。 @阿波 九州説や畿内説からは、>>489や>>491のような話が一切出てこないのな。 関係しない所だからである。 @阿波 >>497
畿内、九州は伊勢はでてこない
近畿説は、逆に阿波説は助かるんだよ。
知らない事も知るのだからね。 >>487
>根拠なく唐津だと言ってるだけじゃないか
はい、また捏造w
>>56 FAQ67 に書いてある
テンプレ以外でも折に触れて
宇木汲田、桜馬場の王墓級卓越墓、
千々賀遺跡のような集落遺跡、菜畑の草創期の水田跡など
クニの存在を想定できる遺跡があり、
松浦川という末盧の残存地名からも末盧國の比定地として
当然視されることを繰り返し書かれてきている
まあ、対馬、壱岐、末盧国、伊都国、奴国の比定地には、ほぼ紛れがないからテンプレではあまり論じてないってのはあるけれど
呼子なんて言っているのは、捏造君とペーテンザラコクくらいだ
まあ、同類相哀れむという状態だなw その上、無理やり呼子にしても東南陸行できないというアホな結末 >>372
>>加美、久宝寺あたりは、伽耶の陶質土器が見られた筈だから、
3世紀末から4世紀頃だろうし、
>テンプレ参照
「準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕」
その「庄内新」とは何ですか?。まさか纏向の庄内1?。
纏向の庄内1なら、3世紀末ですよ。
>昔から港だったのは誰でも知っている
河内湖に流れこむ大和川の分流の船着き場であり、
南方の狭くて浅い所を通るので、準構造線も無理じゃないの?。 末廬国→伊都国で実際より約90度時計回りに誤認
伊都国→奴国でも実際より約45度時計回りに誤認
九州に着いてからの魏志の方角滅茶苦茶ですやん
こりゃ邪馬台国が南っちゅうのも修正せなあかんな >>381
>宇治市街遺跡の木材は年輪年代と14Cのクロスチェックで実年代を出したのは有名な話なのに
年輪年代は、検体木と基準木との「生育時の気象環境の一致」の保証が殆ど出来ない事と、
その材の寝かせ期間と、採取部位から樹皮までの年輪数が不明であれば、
数十年は新しい年次が出てしまう可能性がある事と、
C14も、AMS法のプラズマ化に拠って、50〜100年位古い年次が計測されてしまうから、
そんなものでのクロスチェックなんて、何の信頼性も確率もないだろうねえ。 >>382
>準構造船は丸木舟に板継ぎ足しただけだから
あ、そうなんですか。
また、東大理系博士号自称男が、口先で私を騙そう、としていたのでしたか。 >>502
>九州に着いてからの魏志の方角滅茶苦茶ですやん
いつから「九州に着いてから」だと誤認していた?
https://i.imgur.com/hEtzboK.jpg >>505
だから準構造船と書いてあっても、丸木舟と喫水の深さは変わらないってこと
丸木舟として考えればOK
どこにもだましもフェイクもないよ
捏造君とは違うw >>392
>墓は高天原(=御所市高天)だと20年前から言ってますが。
日本で唯一、奴婢大量埋葬痕跡があるのでそこしか考えられない。
他に奴婢大量埋葬痕跡があるのなら遠慮なく言え
はい、祇園山があります。 倭人達は帯方(古代中国王朝の朝鮮中西部にあった朝鮮半島統治拠点)
東南にあたる大海にあり、山島に住み国を成している。
土地は平野少なく山林多く、良田はない。倭人は主に海産物を食す。
昔は百余の小国が互いに接し、魏の時に至って三十の国があり親しく交流す。
戸数は七万有り、男子は大人、子供は皆、顔と体に入墨を施している。
そして倭人たちは自ら太伯(古代中国の周王朝)の子孫だという。
また昔、倭国の使者が中国を訪れた時、倭人達は自ら大夫(周朝の貴族)と称す。
いにしへの夏朝(中国史上初の王朝)の少康(夏朝皇帝)の子は
中国会稽に封じられると、髪を切り、入れ墨をし蛟龍の害を避けたが
今まさに倭人達も沈没して魚類を取るのを好み、同様に入墨を施し水魔を払う。
倭国までの道のりを計算すると、まさに会稽東冶(”現中国・浙江省”)の東に当たる。
その男子の衣服は横長の布を結び合わせて?ぐだけで、ほとんど縫いつづることがない。
婦人の衣服は一枚の掛け布団のようで、中央に穴をあけ頭を入れ、皆おかっぱ頭で裸足である。
倭人の地は温暖で、稲やカラムシを植え、養蚕して布を織る。
土地に牛、馬は無し。刀、楯、弓矢があり、鉄をヤジリにしている。 倭国には家屋があり、父母と兄弟は異なる場所で寝る。
食飲にはまな板状の台と高坏を用いる。
正月や四季の区別が無く、ただ秋の収穫の時を数えて年紀としてる。
死に際し棺はあるが槨なく、土を盛って墓を作る。初め喪中は哭泣して肉食を絶つ。
葬儀が終わると、家中の者が水に入り、体を洗い清潔にし穢れを取り除く。(神道の源流)
倭国における重大な決断時には、太占を行い骨を焼いて吉凶を占う。
倭人は長生で、百歳とか八、九十歳の者が多い。
婦女は淫らではなく、嫉妬もしない。争いや訴えはない。
軽罪を犯した者は家族ともども身分を奪って奴隷にし、重罪者は一族を滅ぼす。
倭人国家の王家は昔は男子を君主として立てていたが
漢代末に大規模な倭国内乱が起こり、やがて倭人達は共に女子を擁立し倭国家の女王とす。
其の女王の名は卑弥呼という。
宣帝(魏の宣王、司馬懿仲達。晋の建国後、宣帝と諡された)が公孫氏を平らげると
卑弥呼は役人を遣し帯方に至り宣帝に朝見した。その後も朝貢が続き遣使することは絶えなかった。
文帝(司馬昭)が魏の相国になると、また何度か使者を遣わし中国に来朝す。
晋の泰始元年(司馬炎)に遣使し、倭人は通訳を重ねて中国へ朝貢に遣って来た。 >>506
何も言い返せず、枝葉末節を突くことしか出来へんってことやな 晋書 第九十七巻 『 四夷伝倭人伝 』 房玄齢撰
神々からの日本最古の教科書とされる古事記や日本書紀には記述されてないが
致密かつ高度な中華文明を生み出した古代中華帝国の官僚には正確に記述されてた
伝説の邪馬台国や女王卑弥呼、倭人達の倭国群は日本列島の何処にあったんだろう? 倭地は温暖にして、冬夏生菜を食す。
皆、徒跣。屋室有り。
父母、兄弟は異所に臥息す。
朱丹を以ってその身体に塗る。
中国の紛を用いるが如し。
その土地には、牛、馬、虎、豹、羊、鵲(セキ)はいない。
武器は矛、盾、木の弓を用い、弓の下部を短くして上部を長。
竹の矢に鉄の矢じりや骨の矢じりを用いる。
産物の有無はタンジや朱崖と同じである。
稲や苧麻を植え、桑で蚕を飼い、紡いで細い麻糸、綿、絹織物を作る。
男子は大小無く、皆、黥面文身す。
古より以来、その使中国に詣(いた)るや、皆、自ら大夫と称す。
夏后少康の子は会稽に封ぜられ、断髪文身して、以って蛟龍の害を避く。
今、倭の水人は沈没して魚、蛤を捕るを好み
文身は、亦、以って大魚、水禽を厭(はら)う。
後、稍に以って飾と為る。諸国の文身は各に異なり
或いは左し、或いは右し、或いは大に、或いは小に。尊卑差有り。
その道里を計るに、まさに会稽東冶(”現中国の浙江省”) の東に在るべし。
女王国(邪馬台国)以北には、一大率を置き諸国を検察し北方諸国これを畏憚す。
常に伊都国で北方諸国を統治し治める。国中に於ける刺史の如く有り。
女王が使を遣わし、京都、帯方郡、諸韓国に詣らす、及び郡が
倭国に使するに、皆、津に臨みて捜露す。
邪馬台国に倭人の国々は文書、賜遺の物を伝送し、詣らすに差錯するを得ず。
魏書 第三十巻収蔵 『 魏志倭人伝 』 普平陽侯相 陳寿撰
神々からの日本最古の教科書とされる古事記や日本書紀には記述されてないが
致密かつ高度な中華文明を生み出した古代中華帝国の官僚には正確に記述されてた
伝説の邪馬台国や女王卑弥呼、倭人達の倭国群は日本列島の何処にあったんだろう? https://dotup.org/uploda/dotup.org2568184.jpg
一方その頃、未開な農業作業だけが唯一の取り得の土人近畿の未開人にとって
古代開けた海洋を通して海外交流の手段さえ田舎ぶりの土人近畿の民は
銅鐸祭りだけが唯一の文化程度という土人ぶりが明らかになってる有様w >>514
>九州じゃないどこか
素直に、「阿波」と言えばよいものをw @阿波 >>508
>はい、祇園山があります。
正一位 式内名神大社 「天石門別八倉比賣神社」が鎮座していない北部九州は、論外! 下がっておれ! @阿波 官の記載が無く、素潜り漁の風景しか書かれていない末盧國の津は呼子(寄港のみ)あたりでいいだろう
但し歩かずに楽浪土器が多量に出る深江井牟田遺跡、古加布里湾の泊、志登、浦志、潤遺跡群まで沿岸水行
弥生時代に三雲が発展したのは天然の良港のおかげ
糸島半島西側沿岸の御床松原遺跡からも楽浪土器が出る @阿波←コレの本質は単なる妄信的な神社マニアだから
まともに相手にしないほうが精神衛生上いいよw >>518
古墳ばかりかよw しかも、出るのは土器ばかりか。 ショボくせ〜。 @阿波 >>519
>@阿波←コレの本質は単なる妄信的な神社マニアだから
集めた訳じゃないよ。 「阿波」にしかないだけだ。 わははははは @阿波 >>518
「東南陸行」は無視
九州説は倭人伝無視 >>522
畿内説が自爆しただろ
可也山を目印にしたゆえの誤認だ
あのときは笑わせてもらったぞ >>513
正確に記述されていた?
一部のみ。
実際は雪は降る、氷もはる。 >>523
>畿内説が自爆しただろ
意味不明
いつもの説明能力ゼロの人かな?
早く日本語が喋れるようになってね >>445
>いやいや、お前の言ってるもっこりは典型的な浸食地形で、
>削れていく一方だぞ?
>どうやったら尾根の上に土砂が堆積するんだ?
https://9218.teacup.com/easiatoron/img/bbs/0000111_2M.jpg
問題は西側が平坦だということだね。
洞窟も今ではどこか分からない。
ということは西側の部分に土砂が堆積したという事。
今は畑になってるが、畑ってのは基本水平だからね。
まぁ畑を作ったら、切れ目が消えたともいえるかもしれない。
どちらにしても日本で唯一、大量の奴婢埋葬痕跡がある場所であり、
他の場所を提示できない以上、ここしかない。 >>511
>何も言い返せず、枝葉末節を突くことしか出来へんってことやな
九州説の人にとっては、「方角は正しい」っていうのは枝葉どころか、説の根幹にかかわる部分なんだよ
短里で読めば、方角も距離も正しい、というのが九州説の大前提で、その前提の上で行程パズルをして自分の比定地を決めるっていうのが、九州説の基本的な御作法だから
だから、どんなにはっきりした否定の根拠を突き付けられても、方角は東南で正しいんだと言い続けるし、短里はあるんだと言い続けるw >>519
>@阿波←コレの本質は単なる妄信的な神社マニアだから
まともに相手をしている人はいないと思われ
偽書を一番の典拠にしている辺り、神社マニアと
いうのともちょっと違うと思う
まあ、「僕の考えた最強の邪馬台国とその行程」を妄信
してるんだけど、短里がないとダメ、自己流行程パズルと
いうところで、九州説の亜流
オリジナルとなる部分の根幹が偽書(永島文書の万津浦)と
いう痛さは、泡オリジナルといえるけれど >>525
またまた畿内説の記憶障害か
真東に見えてた目印の可也山が、移動後に北に見えたら東南に進んだと誤認する
地図もコンパスもないんだからな >>508
祇園山の石室が奴婢なら、彼らは平民以上の地位という事になる。
ありえない。 >>449
>>布留0式古相=250年頃という編年には何の科学的根拠もないでいいね?
>そんなこと言い張り理由は?
布留0式古相=250年頃という科学的根拠を出せばいい。 >>526
正一位 式内名神大社 「天石門別八倉比賣神社」が鎮座している、「気延山」にあるよ。 安心しろ。 @阿波 >>528
徳島の落ちこぼれか? わははははは @阿波 >>526
>どちらにしても日本で唯一、大量の奴婢埋葬痕跡がある場所であり、
ないじゃん >>523
>可也山を目印にしたゆえの誤認だ
「可也山なんて見えない」
⇒ 見えてるよね
「可也山は東じゃない南東だ」
⇒いやどうやっても真東 少し北寄りなくらい
「可也山の近くに伊都国はない」
⇒すぐそばなんだけど
と順に主張しては否定されて、行きついた先が
「真東に行ってそこから少しでも南に行ったら東南だー
真東に可也山があると言った畿内説の自爆だー」
って言うんだから、この捏造君もそろそろ終わりかなww
何も面白いことが言えなくなってる
腹筋クラッシャーとしての自覚に欠ける振る舞いだw >>535
神武東征紀の高尾張邑の土蜘蛛誅殺痕跡だが?
箸墓にそんなものないからと言って嫉妬しないように。 >>512
>>致密かつ高度な中華文明を生み出した古代中華帝国の官僚には正確に記述されてた
見解、感想など不要な行。先入観となりそうなもん
は排除すべき >>536
俺はずっと余裕で見えると言ってたぞ
畿内説も可也山を目印にしろと言ってたしな
その後に、これが東の証拠だ(ドヤッ
何かと思ったら航空写真w
そりゃ航空写真があれば小学生でも分かるだろ
笑いとってどうする畿内説 >>529
>移動後に北に見えたら東南に進んだと誤認する
しないよw
末盧國(インチキの呼子じゃなくて、本当の末盧國、唐津付近)まで行けば、東に見えていた可也山が北の方に見えるから、南の方に移動したと分かる
そこから可也山の麓まで来れば、ああ東に見えていた場所まで来たんだな、と分かる
分からない、または分からないふりをしているのが、人として残念な捏造君だけww
>>494から逃げまくっているインチキだらけの捏造君w >>540
お前ら、いくら言い合っても「阿波」で決着済みなんだから、無駄だ と何度言えばw @阿波 >>540
ではテストしてやろう
真東に真東に山が見えました
海岸沿いに迂回して近づいたら、
目印の山が北に見えました
これだけの情報で、今いる場所が、
東南以外にどこだと思うんだ?
地図もコンパスも、もちろん航空写真もないぞ
さ、答えてみろよ畿内説 >>529
太陽を目印というのははどこいったんだ?w >>527
拠り所とする魏志にも否定されて九州説の人は可哀想やな(苦笑)
九州本土に渡ってから時計回りに誤認してるってもう致命的やん。
それって邪馬台国が南じゃなくって、西方向になってくるやん(笑) もう答え出てますw 上陸地
724 ニューノーマルの名無しさん 2020/12/07(月) 23:35:24.72 ID:GVm4dqYs0
どこが上陸地だったかは揺るぎがないな
263 ニューノーマルの名無しさん 2020/12/07(月) 13:19:04.38 ID:GVm4dqYs0
五畿七道
https://i.imgur.com/lmYJeDr.jpg
これを見ると上陸地がわかる?w
参考、国交省マップ
https://i.imgur.com/hsFvhYC.jpg >>543
太陽が見通せる場所、例えば海上や平野部、山頂、山の南側なら太陽だろうな >>543
>太陽を目印というのははどこいったんだ?w
そんなもん、いちいち目印にせんでも、「阿波」に着く。 トンデモは、トンデモ。 @阿波 >>544
間違い訂正やで
誤)それって邪馬台国が南じゃなくって、西方向になってくるやん(笑)
正)それって邪馬台国が南じゃなくって、東方向になってくるやん(笑) >>532
>布留0式古相=250年頃という科学的根拠を出せばいい。
歴博の測定結果240〜260年代と推定
朝日谷2号墳(布留0併行)の副葬品にC14で230〜250年のピークを検知
四斗蒔遺跡1号居館(布留0併行)で熱残留磁気年代測定によって西暦220年±20年を測定:新潟大 >>539
>529
>移動後に北に見えたら東南に進んだと誤認する
末盧國(インチキの呼子じゃなくて、本当の末盧國、唐津付近)まで行けば、東に見えていた可也山が北の方に見えるから、南の方に移動したと分かる
そこから可也山の麓までくれば、ああ東に見えていた場所まで来たんだな、と分かる
分からない、または分からないふりをしているのが、人として残念な捏造君だけww
>>494から逃げまくっているインチキだらけの捏造君w >>542
>ではテストしてやろう
もちろん「目印の山」までの距離はわかるので
最初見た場所から
東だ
東南ではないな >>551
どうやって目印の山までの距離が分かるんだ? >>550
唐津には、当時使える港はない
また丸木舟で強行突破説か? >>539
>そりゃ航空写真があれば小学生でも分かるだろ
また繰り返しギャグで逃げる捏造君
航空写真が弥生時代にあったなんて、誰が言いましたか?
現代に生きるバカで低能でインチキばかりのあなたにも分かりやすいように、理解を助けるために航空写真を出してあげてるんですよって何度も教えてあげてるじゃないですかw
それを、あーあ―聞こえない、航空写真を出すのは小学生だーって、まともな大人なら恥ずかしくて言えないような駄々を捏ねているのが、捏造君、あなたなんですよ?ww
渡土提の上に輪鐙があったに決まってるってときも、駄々を捏ねて笑わせてくれましたよねw
本当に面白い人だw
人間としては尊厳の欠片もない、最低の人格ですけどw >>554
言い訳しようとするから長くなるんだぞ、航空写真
要点を端的にな
で、測量も地図もなしに、どうやって自分の居場所を正しく把握するんだ?
GPSか?w >>553
何度も教えてるでしょ?
唐津には、当時「喫水の深い構造船で」使える港はない
っていうのは、時代錯誤の大間違いだって
松浦川河口の潟湖が、当時の船(丸木舟や準構造船)で使いやすい、よい港なんだよ >>552
見りゃ分かるだろ?
遠くに見えてた山のすぐ麓まで来てるんだからw
測量も航空写真もいらないぞw >>536
>俺はずっと余裕で見えると言ってたぞ
「前原は、可也山の東南の低地にあり、
呼子の北東付近の海上からは、確認出来ないな。」
ああ、確かに見えないって言ってるのは伊都国だな
だが、可也山が見えれば伊都国の場所は分かるだろっていうのには、反論できなくなったんだっけ?ww
その時にも、航空写真がーって言ってたなww
内容では反論できないんだよなー、捏造君は
やってることが捏造だからw >>558
22.5°以内かどうかまで分からんだろ >>546
可也山が海上からの目印だろ
太陽はどこからでも見えるんじゃなかったのか?w >>556
呼子でも唐津でもないってことだ。 もしそうなら、どちらかが世界文化遺産に認定されている筈。 アキラメロン @阿波 >>560
それをなんで東南だと思い込んだりするのかな? >>559
可也山を見ればイト国の場所が分かるのか?
ガイドがいたとして、「山頂から右に何里だべ」とか教えてくれるのか?
そしてそれは、観念的里という奴なのか?
魏の使者には何のことかさっぱり分からんと思うが >>565
呼子でも唐津でもないってことだ。 もしそうなら、どちらかが世界文化遺産に認定されている筈。 アキラメロン @阿波 >>557
>でも秀吉は使わなかったぞ?
千何百年も経って、潟は泥で埋まり港として機能しなかったから >>555
ある程度の長さの文を破綻なく書くには、ある程度の知能が必要なんだよ
君には無い物ねだりかもしれないけれど
>測量も地図もなしに
方角は見れば分かるんだから、
測量も地図も要らないだろ?
なに言ってんだ?
東南に見えてた場所よりずっと北まで来て、
東に見えてた山の麓まで来れば、そこは間違いなく東だ
つ>>494 >>561
山の影、特に山の北側にいると見えないぞ
南に日向峠があって、木々が茂ってたら見えないな 中国では紀元前3世紀ごろから司南という方位を知るための道具が使われていた
主に風水で方角を知るために用いられたそうだ
人を指導する指南という言葉もこれが由来だそう >>567
呼子でも唐津でもないってことだ。 もしそうなら、どちらかが世界文化遺産に認定されている筈。 アキラメロン @阿波 >>567
逆だろ
虹ノ松原は、長年の治水工事の成果 >>568
うわごとをダラダラと綴るのはキチガイにもできる >>565
>北に見えたからだろ
何が?
頼むから君、正常な日本語話してくれるかな? まぁ、魏志倭人伝なんて参考程度にしかならへんいい加減なもんなんやから、泣かんでもええんやで、九州説の人
九州の土からに纒向以上のもんが出てきたら一発逆転や
だから泣かんでええ >>573
歩兵戦用に1人乗りでよかったら丸木舟でもいいだろ
正式な交易用なら、積み荷も多いだろうけどな >>572
>虹ノ松原は、長年の治水工事の成果
唐津の歴史を知らないの? >>569
呼子、唐津から前原に行くのに日向峠関係ないだろw
何言ってるんだお前 >>575
小学生の航空写真相手に無理いうなよ
真東の目印が北に見えた、何度も何度も言ってる >>578
唐津に、治水工事のほかにどんな歴史があるんだ? >>579
日向峠越えは、航空写真畿内説が言ってることだぞ
また共食いか >>576
>九州の土からに纒向以上のもんが出てきたら一発逆転や
そうだねぇ、古いものはほんの少しずつしか見つからないから、そんなこともあるかもしれないね
いつか見つかるといいね
でも、実際に見つかってから出直しておいで
見つかってないものを「あるかもしれない、いやきっとあるんだ」っていうのは、ただの頭のおかしい人の妄想だからさ てか、ほいほい見つかるのは、最終的に統一したヤマト政権の末裔遺跡だから >>580
>真東の目印が北に見えた、何度も何度も言ってる
ばかは連呼する
意味はない >>583
ワイは畿内側の人間やで(笑)
まだ断定できる段階やあらへんと思うけど、近年の考古学の成果を考慮したらそりゃ纒向が邪馬台国の最有力候補なるわな
弱い者いじめみたい映って九州説の人が哀れやったからちょっと庇ってあげたんよ。全然まともな反論もできてへんしな。 >>581
>唐津に、治水工事のほかにどんな歴史があるんだ?
無知な上に思考停止してたら
悲惨なことになるぞ ここの人達って、
古代史学歯科勉強してなさそうだが、
自分の学説が歴史に否定されたら、
今後どうやって食べていくんだろう?
今、アルバイトもあんまりないよ?
障害なしの生活保護だと、
生活費、
月6万くらいしか貰えない。
しかも、
なかなか申請が通らないよ。 >>576
>魏志倭人伝なんて参考程度にしかならへんいい加減なもんなんやから
一応w神代古代からの正統な日本史書とされてきた古事記や日本書記に
日本最古の統一国家となる邪馬台国や女王卑弥呼、倭人の小国家群が
奈良盆地発の古事記や日本書記に記録されてない不自然さからいっても
脆弱な畿内からは外の力で整備されるまで何も生み出せなかったと思うよ
せいぜい古代中国人の数多くの文献の残した文化能力の高さをうらめしくおもわないと >>586
そして、目印と言い出したのは畿内説だから愉快だよな >>589
心配スンナ。 「阿波」にまかしとけ。 @阿波 >>588
治水工事のほかに、大した歴史無いもんな
そりゃ書けない >>593
「末盧国」に見合う、碌な集落遺跡もない。 @阿波 >>591
>そして、目印と言い出したのは畿内説だから愉快だよな
ばかは呟く
しかし論じない >>590
>一応w神代古代からの正統な日本史書とされてきた古事記や日本書記に
日本最古の統一国家となる邪馬台国や女王卑弥呼、倭人の小国家群が
奈良盆地発の古事記や日本書記に記録されてない不自然さからいっても<
記録されていないのじゃなくて、時代を大きくずらして気づかれないようにしたの。
実際、日本書紀では時代を大きくずらして神功皇后を卑弥呼の時代に当ててるだろ。
これは本当の卑弥呼が誰なのか分かっていて、とんでもなく古い時代に持っていったの。
真の卑弥呼を隠すのが目的だから真の卑弥呼を女王などとは書けない、
そのために創作された称号が「皇后」だ。 倭迹迹日百襲姫命と神功皇后に卑弥呼を反映させてるわな
で、邪馬台国は大和のことやから邪馬台国のことも書かれてるわ 箸墓古墳を倭迹迹日百襲姫命の墓という事に開いて、
1つの古墳にしては異例の紙幅を割き、
「昼は人が造り、夜は神が造った」などと書いている。
これは読み手に「卑弥呼の印象」をわざと与えるためだ。
そして垂仁紀に埴輪生誕の逸話を書く。
これは間接的に箸墓古墳の時代まで殉葬がありましたよ、
つまり箸墓が卑弥呼の墓だと思って下さいね(本当は違うけど)、
という意味だ。 ときに須恵器ガー、須恵器ガーと叫んでいたチエオク君はどうしたから
即刻逃亡かな >>544
拠り所とすべき魏志にも否定されて大和説の人は可哀想やな(苦笑) >>548
正)それって女王國(≒倭國)が東じゃなくって、
不彌國の直ぐ南方向になってくるやん(笑) つまり神功皇后も、モモソヒメも疑似餌(ルアー)のようなもの、
そしてアマテラスもね。
弟がいて独身、別名がオオヒルメっていかにもだろ。
これに引っ掛かってる奴ばっかりw
そして真の卑弥呼は神武東征紀の中に隠した。
神の娘として出てくるだろ。 >>601
布留0式古相が250年からだという科学的根拠をまってるのだが、
>>1君は逃亡したようだ。 >>549
>歴博の測定結果240〜260年代と推定
朝日谷2号墳(布留0併行)の副葬品にC14で230〜250年のピークを検知
AMS法も年輪年代も歴博も大和説学者らも信用出来ず、
布留0なんて捏造も信用出来ず、史料事実や史料実態からは、
布留1は、4世紀。
>四斗蒔遺跡1号居館(布留0併行)で熱残留磁気年代測定によって西暦220年±20年を測定:新潟大
熱残留磁気と言った時点で、
絶対0度からの高温化の温度に拠って「場の相互作用」の亢進してしまい、
残留磁気も変わってしまう、という事が判らないらしい新潟大や大和説学者ら。 >>549
>朝日谷2号墳(布留0併行)の副葬品にC14で230〜250年のピークを検知
>四斗蒔遺跡1号居館(布留0併行)で熱残留磁気年代測定によって西暦220年±20年を測定:新潟大
それが何で250年のなるの?
240年でもいいわけなのに。
つまり「恣意」だよね。 >>550
>末盧國(インチキの呼子じゃなくて、本当の末盧國、唐津付近)まで行けば、東に見えていた可也山が北の方に見えるから、南の方に移動したと分かる
そこから可也山の麓までくれば、ああ東に見えていた場所まで来たんだな、と分かる
根本的に、この男(おそらく東大理系博士号自称男)は、
目的地の女王之所都の近くの高山ではなく、はるか手前の低い山である可也山なんて、
魏の役人らは始めから関心もなく、目印にする必要もなく、
末盧國からの「東南陸行五百里到伊都國」の「東南」は、
出発時点での出発方向の説明であった、という事も判らないらしい・・・・アホ。 >>582
それは伊都国→奴國の方位の話だろ
今はお前が主張している呼子→前原が45°間違ってる話だ
どこからでも見える太陽はどうなったんだ? >朝日谷2号墳(布留0併行)の副葬品にC14で230〜250年のピークを検知
C14で20年幅なんて分かるかよw >>608
>末盧國からの「東南陸行五百里到伊都國」の「東南」は、出発時点での出発方向の説明であった
ギャグやんな? >>556
何度も教えてるでしょ?
「多竹木叢林,有三千許家,差有田地,耕田猶不足食,亦南北巿糴」は、
末盧國上陸後の「末盧國内の移動」の時の、見聞記録であり、という事は、
「多竹木叢林,有三千許家,差有田地,耕田猶不足食,亦南北巿糴」は、
「東南」に出発前の見聞でなくてはいけないの。
>唐津には、当時「喫水の深い構造船で」使える港はない
っていうのは、時代錯誤の大間違いだって
松浦川河口の潟湖が、当時の船(丸木舟や準構造船)で使いやすい、よい港なんだよ
関係がないの。唐津に直接到着していたら、そこには
「多竹木叢林,有三千許家,差有田地,耕田猶不足食,亦南北巿糴」のような見聞記録が書けず、
出発したら、後は海岸沿いの平地であり、
松浦川付近以後にも「多竹木叢林,有三千許家,差有田地,耕田猶不足食,亦南北巿糴」出来る場所がないから、
一大國からの到着地は唐津の町ではないのだし、
到着地は、呼子〜唐津の町の間にある事になるの。 >>559
>ああ、確かに見えないって言ってるのは伊都国だな
だが、可也山が見えれば伊都国の場所は分かるだろっていうのには、
反論できなくなったんだっけ?ww
いや、前原〜糸島水道付近は、可也山の東南に大分離れており、
ランドマークになんかなっていないし、女王之所都の近くにもないから、バツ。 >>613
>到着地は、呼子〜唐津の町の間にある事になるの。
その到着地に、「末盧国」に見合う集落遺跡がない。 そんな所が「末盧国」である訳が無い。 @阿波 >>574
>うわごとをダラダラと
そのようにしか受け取れないのだとすると、
それは君の日本語読解力の致命的な欠如を示しているだけ >>570
>中国では紀元前3世紀ごろから司南という方位を知るための道具が使われていた
主に風水で方角を知るために用いられたそうだ
人を指導する指南という言葉もこれが由来だそう
ふーん、成程。紀元前3世紀か。 https://kaken.nii.ac.jp/ja/report/KAKENHI-PROJECT-13610466/136104662002jisseki/
桜井市埋蔵文化財センターおよび奈良県立橿原考古学研究所所蔵のホケノ山古墳・勝山古墳等出土土器の見学の成果を承けて、
寺沢薫氏の提唱する布留0式の検討を行い、箸墓古墳や纏向古墳群出土土器と先の四斗蒔璋跡1号居館1号住居址出土畿内系叩き甕をはじめとする土器の編年的併行関係を検討した。
以上をもとに布留0式の年代観を西暦220〜250年とし、没年西暦248年頃の卑弥呼の墓を箸墓古墳に比定した。
------------------------------------------------------------------------------
アホです。
二口かみあれた遺跡258年が入ってません、だいたい箸墓には奴婢埋葬痕跡はありません、
前方後円墳先造説も否定されてるし、纏向古墳群には2世紀前半の其国の男王の墓がありません。 × 前方後円墳先造説も否定されてる
〇 前方後円墳の円墳先造説も否定されてる >>539
>そりゃ航空写真があれば小学生でも分かるだろ
バカの一つ覚えみたいに、っと、みたいにじゃないな
バカの一つ覚えでこれを繰り返しているが、何の反論にもなってないぞ?
航空写真があれば小学生でも分かる
航空写真なしだったら分からない、なんてことはないんだ >>576
まぁ、魏志倭人伝は、
同時代の魏の役人らに拠る実地の見聞計測の記録が元になっているんだから、
重要な史料になるので、
いい加減なもんじゃないから、泣かんでもええんやで、大和説の人
九州の地からは、纒向以上の弥生銀座などが存在し、一発決定や
だから泣かんでええ >>618
>二口かみあれた遺跡258年が入ってません、
それ、布留0併行って言い切れないから仕方ない >>587
ワイは九州説者側の人間やで(笑)
まだ100%絶対断定できる段階やあらへんと思うけど、
近年の文献考古の成果を考慮したら、
そりゃ筑紫が邪馬壹国女王所都の最有力候補なるわな
弱い者いじめみたい映って大和説の人が哀れやったから、
ちょっと庇ってあげたんよ。
全然まともな反論もできてへんしな。 >>539
>>546を書いたのは、捏造君、お前だよな?
>太陽が見通せる場所、例えば海上や平野部、山頂、山の南側なら太陽だろうな
>>494 https://i.imgur.com/ZX47bMs.jpg
の黄色い線が海岸とぶつかるところ、お前の行程だと呼子から糸島まで海岸沿いに行くんだから
必ず通るよな?
そしてここは海に向かって開けたところだし、太陽で方角が分かるんだよな?
東松浦半島がここから西北西に見えるぞ?
つまりこのラインから一歩でも北に行ったら、東松浦半島から見て東南にはならないんだよ!
航空写真なしでも分かるよな?
八方位を習った小学生なら、航空写真なしでも分かるぞ?
これでも分からないと言い張るなら、小学生未満だw
捏造幼稚園児w >>622
>それ、布留0併行って言い切れないから仕方ない
なんで?熱残留磁気年代測定なるものの
220年よりよほど実年代を意味する。
あと円墳部分先作り説がありえない事、
奴婢埋葬痕跡が皆無、
2世紀前半の男王の墓が纏向遺跡にないことは否定できないね。 >>577
>歩兵戦用に1人乗りでよかったら丸木舟でもいいだろ
詭弁以下
秀吉の時代の丸木舟、あったら出してみてくれ!
バカもここまで行くと哀れだな
嗤えなくなってきた >>598
>倭迹迹日百襲姫命と神功皇后に卑弥呼を反映させてるわな
卑弥呼の名前は、記紀には載っていない、という事が実態なんだからね。
>で、邪馬台国は大和のことやから邪馬台国のことも書かれてるわ
邪馬台国なんて文言も存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、
この大和説男も、・・・・アホ詐欺師ね。 >>589
詳しいね
その事務の担当の公務員なの?
それで優先枠で選考採用されたの?
相手によって申請の採否に手心を加えるの? >>618
>桜井市埋蔵文化財センターおよび奈良県立橿原考古学研究所所蔵のホケノ山古墳・勝山古墳等出土土器の見学の成果を承けて、
寺沢薫氏の提唱する布留0式の検討を行い、箸墓古墳や纏向古墳群出土土器と先の四斗蒔璋跡1号居館1号住居址出土畿内系叩き甕をはじめとする土器の編年的併行関係を検討した。
以上をもとに布留0式の年代観を西暦220〜250年とし、没年西暦248年頃の卑弥呼の墓を箸墓古墳に比定した
寺澤はバツだ。
「卑弥呼の冢≠前方後円墳」などの史料事実や史料実態に拠って、
筑紫の前方後円墳の始まり期の3世紀後半半ば過ぎの那珂八幡の進化型である石塚は、
3世紀末であり、
庄内3のホケノは3世紀最末〜4世紀であり、
布留1の箸墓は4世紀にしかならない。 >>612
それがペーテンザラコクとは別人の
渡土堤知らずの捏造君も、一時期同じことを言ってたんだよ
九州説はここまでデタラメなことを言ってでも、魏志倭人伝の方角は正しいんだーって
言わないと、自分の行程パズルが崩壊するから必死にデタラメを並べ続ける >>629
申請してきた同胞に生活保護を出す側の部署に、
地方自治体によっては優先採用枠があるんだよ
役所に大勢で押しかけて、威力業務妨害を繰り返して認めさせた >>631
前々から分かってたけど、そこまでアレやったんか
大体その理屈(魏志は出発地点の方角を説明してる)が仮に正しいとしても伊都国から奴国への説明が成り立たへんやん >>627
>この大和説男も
ザラコクや
お前も古株なんだから、葛城放尿爺くらいは見分けてやれよw >>618
>没年西暦248年頃の卑弥呼の墓を箸墓古墳に比定した。
所在が分かる近世の天皇陵で、平地に盛り土した陵墓など一切存在しない。
よって、平地に盛り土した「前方後円墳」の箸墓古墳は、大王の陵墓では有り得ない。 @阿波 >>621
>九州の地からは、纒向以上の弥生銀座などが存在し
その弥生銀座とやらも、碌な弥生集落遺跡がない。 そんなところに、「邪馬臺国」など興る訳がない。 なにを考えているんだか。 @阿波 >>627
>卑弥呼の名前は、記紀には載っていない、という事が実態なんだからね
載ってるよ。
卑弥呼(Bei mei hu)とは比桃@(Bi mie hou)、比売后〈Bi mai hou〉、つまりヒメ后。
I崇神(310年頃 318年没)
H開化
G孝元
F孝霊
トヨ津媛 E孝安 D孝昭
トヨ津媛 (250年頃) C懿徳
ヒメ(踏鞴五十鈴)后 B安寧
ヒメ(踏鞴 五十鈴)后 A綏
ヒメ(踏鞴五十鈴)后 (200年頃) @神武 >>636
>平地に盛り土した「前方後円墳」の箸墓古墳は、大王の陵墓では有り得ない。
平地に盛り土がどうこうより、崇神の前代で、
京都山代の五塚原古墳、大阪交野の森古墳群の雷塚古墳と強い繋がりがある人物だから、
それはイカガノシコオしかいない。
イカガノシコオの妻・真木媛の父である長溝が山代県主の祖。
イカガノシコオと真木姫の子・タベノスクネが交野連であることからも間違いはない。
箸墓古墳は「天皇」の墓でも卑弥呼の墓でもない。 わるいけど「熱残留磁気年代測定」とやらの信憑性に問題があるだろ。
だって2002年の論文だけど、それから20年、俺は一度もその名前を聞いたことがない。
中塚武さんの年輪セルロースの酸素同位体比はガチだけど。 >>639
>それはイカガノシコオしかいない。
朝廷から「大明神」の称号を送られている 延喜式式内社「伊加々志神社」がないところは論外! 控えおれ! @阿波 >>640
ただこの酸素同位体比も、光谷先生の年輪年代と同じで、
素人が生データ見てもピンと来ないんだよな
統計処理が必要なのは理解してるんだけど、
生データのばらつき方を見ると、増減のパターンが
一致する部分をどうやって見つけるのかなかなか難しそうではある
理化学的年代決定では水月湖年縞を使った14C較正曲線が作られれば
かなりすっきりすると思ってはいるけれど >>625
まあ、左側スロープ君には何を言ってもムダだろうけど
>2世紀前半の男王の墓が纏向遺跡にないことは
二世紀前半のヤマトの有力者の墓なら、纒向遺跡内に100メートル級の
定型化前の前方後円墳が4基ある
これらはすべて造営当時倭國史上最大の墳丘墓だから倭王の墓でもおかしくない
まあ、邪馬台国の官として名前の挙がった人物レベルの墓だとは思うけれど >>633
成り立つかどうかは、九州説の人たちには関係ないんだよね
自分の言い張ることが正しい 証明おわり
っていうやり方だから >>633
成り立つかどうかは、九州説の人たちには関係ないんだよね
自分の言い張ることが正しい 証明おわり
っていうやり方だから >>635
そんな感じだね
以前のような全レスはできなくなってるし >>644
宗教と同じっちゅうこっちゃな
末廬国から伊都国だけに限らず、韓国から奴国まで書かれてる方角全部実際よりも時計回りに誤認してるっちゅうのにな
全部時計回りに間違えてるっちゅうことは魏志倭人伝の方角から反時計周りに修正せんとあかんっちゅうこっちゃ
つまり邪馬台国は南ちゅうのも反時計回りに修正せんとあかんわけやな >>643
>二世紀前半のヤマトの有力者の墓なら、纒向遺跡内に100メートル級の
定型化前の前方後円墳が4基ある
その4基を言ってみ。 >>643
>これらはすべて造営当時倭國史上最大の墳丘墓だから倭王の墓でもおかしくない
纏向遺跡のような低い位置にあるのだから王族ではない。
当時、王族(おうぞく)という呼称はない。
あるのは神々だ。
神々が住んでおられた場所は明快。
「高天原(=御所市高天およびその麓)」だ。
残念だね、纏向遺跡は古代物部の遺跡。
だから物部守屋の死、そして物部氏の滅亡と同時に前方後円墳の造営が終わるだろ。
いい加減気づけよね。 >>633
>前々から分かってたけど、そこまでアレやったんか
大体その理屈(魏志は出発地点の方角を説明してる)が仮に正しいとしても
伊都国から奴国への説明が成り立たへんやん
奴國は、伊都國から奴國へ説明の「東南至奴國百里」には、
「至の前に(方角だけで)途中移動があった事を示す文言がない」から、
魏使らは実際には進んでおらず、側副傍線行程國としての説明であった、
という事が理解出来なければ、永久に行程や奴國の位置が読めないだろう、
と思いますよ。 >>634
>ザラコクや
お前も古株なんだから、葛城放尿爺くらいは見分けてやれよw
嫌だよ。
「南→東」や「卑弥呼の冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」の否定などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘つき騙しの、
大和や河内や山城や阿波の説を唱えている人種や学者らは全て、
日本や人類のためには、全て黙過し難く、
脳や体がくたばるまでは、批判否定して上げるよ。 >>651
批判否定する相手の違いも分からないというのは
何一つ考える能力がないってことだ
まあ九州説にはペーテンザラコクに限らず、
そんな奴しかいないけどな >>642
>ただこの酸素同位体比も、光谷先生の年輪年代と同じで、
素人が生データ見てもピンと来ないんだよな
酸素同位体の「比率」で見るわけだから、年輪が2.3個あればその比率で判明するようだよ。
従来の年輪年代ではある程度の年輪の数がないと判明できなかったけどね。
どちらにしても今は各大学も年輪年代を研究し始めて、
現代から太古に遡る膨大な資料があるから、もう批判は無理だろう。 >>648
>その4基を言ってみ
纒向石塚古墳
纒向勝山古墳
纒向矢塚古墳
東田大塚古墳 >>649
「天岩戸立岩神社」(神山町)ご祭神「志那都比古神」「志那都比売神」(二神は風の神)「弥都波女神」(水の神)の三神や
「天岩戸別神社」(佐那河内村)ご祭神「手力男神」が祀られていない御所市高天は論外! 控えおれ! @阿波 >>640
>わるいけど「熱残留磁気年代測定」とやらの信憑性に問題があるだろ。
だって2002年の論文だけど、それから20年、俺は一度もその名前を聞いたことがない。
中塚武さんの年輪セルロースの酸素同位体比はガチだけど。
「熱残留磁気年代測定」も、「年輪セルロースの酸素同位体比」も、
その文言を聞いた時点ですぐに判る事は、
アインシュタインの「場の相互作用」論の「電磁場と重力場とが相互作用をしている」論や、
それの確認観測の、今から50年近く前の、
「皆既日食での、太陽の近くに見える恒星からの光線(電磁場)が、
太陽の重力場に拠って曲がって別の位置に見える」という観測が、
欧米の学者らに拠ってアフリカの赤道近くで行われ、
それと、だから素粒子場や電磁場の持つ凝集引力性と反発性のために、
粒子性と波動性の両方の要素が発生し、かつ粒子性と反粒子性も持つ、
という根本的な物理原則の確認がなされ、
「熱残留磁気年代測定」も、「年輪セルロースの酸素同位体比」も、
その計測対象材料の成立までの期間や、その後の現在までの期間の間に、
無限の場の相互作用を受けているので、絶対的な検査値にはなり得ず、
確率的な計測値にしかなり得ない、という事なんだよ。 可也山論議はもういいよ一個人の説だから 正しいか間違いがはわからないが
私は初めに向かった方向が東南で良いと思う。倭人伝記述の通り方向確認は難しいと思う。また、魏の使いは最初の一回しか末盧国しか行って無いと思う。
以下倭人伝より
末盧国に至る。四千余戸があり、山と海すれすれに沿って住んでいる。草木が盛んに茂り、行く時、前の人が(草木に隠されて)見えない。
このような土地で方位を推し量る事は難しいと思う >>650
となると東行至不彌國百里は行ったけど
南至投馬國,水行二十日
南至邪馬壹國,女王之所都,水行十日,陸行一月
には行っていない事になるだよな。 >>657
です。追記
このように前を歩く人も見えない状況で、太陽を元に方位確認も難しいと思う。 >>657
>このような土地で方位を推し量る事は難しいと思う
心配ご無用。 「忌部一族(阿波勢力)」が通り慣れてるから。 任せとき。 @阿波 阿波の式内社の特徴
一つ目の特色は、日本の国造りの根幹に関わったとされる神を祀る神社が多いことです。
二つ目の特色は「欠史8代」の天皇に関わる登場人物をご祭神とする神社があることです。
三つ目の特色は、以上のほかにも記紀神話に登場する方をご祭神とし、神様の名前そのままを冠した神社が多いことです。
阿波の式内社の特色:よっちゃんの文明論:SSブログ (ss-blog.jp) @阿波 >>657
>私は初めに向かった方向が東南で良いと思う。
それは、九州説のご都合主義のインチキでしかない
これも何度も何度も書いているが、大陸の史書の地誌記事では
中心都邑間の二点間距離、直線方向がフォーマットになっているのだから
それにその言い訳をしても、今度は伊都国から奴国の方角がどうやっても東南にならない
日向峠に向かうのは東だし、広石峠を通るなら出発方向はほぼ北向きだ
九州説は魏志倭人伝の方角を正しいとしない限り、旅程の点でも畿内説に対抗すらできないが
どうやっても方角に錯誤があるのは明確に示されてしまう >>468
実年代=古事記の没年補正(卑弥呼=魏志倭人伝、※神功=日本書紀)+漢(×満)民族皇帝への朝貢記録
◆奴国@博多【後漢の冊封を受けて外交デビュー→大陸や半島との貿易本格化】
漢委奴国王(情報なし)…57年(光武帝、金印下賜=鉄輸入開始!)
帥升(情報なし)…107年(安帝に謁見。生口160人を献上=鉄輸入急増→タウポ山大噴火→大飢饉(黄巾の乱)発生→倭国大乱へ)
◆邪馬台国@筑紫【狗奴国と戦争→曹魏皇帝に水銀朱と引き換えに帯方郡の鉄、独占輸入権要請→親魏倭王】
卑弥呼(〜247年)…238年/240年/243年/245年
台与(235年〜?)…247年
◆伊都国@博多(崇神朝)…国内統一→半島派兵(新羅攻撃)開始→任那日本府設置(鉄資源独自確保)
10祟神(〜318年)…266年(西晋武帝へ)、四道将軍派遣270年頃。
11垂仁(情報なし)…330年頃没。伊勢神宮創建(紀伊半島の水銀鉱床独占)。
12景行(情報なし)…343年頃没。日本武尊の東征335年頃。 大臣・武内宿禰
13成務(〜355年)…国造/県主設置(国内統一完成)
14仲哀(〜362年)…新羅征伐(関門海峡開削=北朝/高句麗艦隊の瀬戸内海侵入リスク)に反対、神罰で崩御(暗殺)
神功(※〜389年)…「旨」(「泰和4年」369年銘石上神宮七支刀→372年百済・近肖古王より贈呈)
◆邪馬台国@筑紫(応神朝)…半島派兵(高句麗戦争&百済支援)本格化→大将軍位を求めて南朝(東晋/宋/斉/梁)に朝貢
15応神(〜394年)…「禰(でい)」
16仁徳(〜427年)…「讃」(413年/421年/425年)
17履中(〜432年)…「倭国王」(430年)┐
18反正(〜437年)…「珍」(438年)…「弟、珍立つ!」
19允恭(〜454年)…「済」(443年/451年)
20安康(情報なし)…「興」(460年/462年)
21雄略(〜489年)…「武」@(477年/478年)「獲加多支鹵大王」…辛亥(471)年銘稲荷山鉄剣+江田船山鉄剣
22清寧(情報なし)/23顕宗(情報なし)/24仁賢(情報なし)
25武烈(情報なし)…「武」A(502年)
◆狗奴国@阿蘇(継体朝)…倭王磐井暗殺→日出処天子・阿毎多利思比孤→欽 明皇子を本州の飛鳥へ分家→現在の天皇家へ
26継体(〜527年)…「男弟王」癸未(503)年銘人物画像鏡(隅田八幡宮) >>658
そうそう
そして、女王の都するところに行ってないという主張は、
冊封使である魏使が、封泥した皇帝勅書を届ける責務を放棄したと
いうトンデモな主張になるってこと 帯方郡からの距離
水路は1日千里換算
陸路は1日百里換算
これで万二千里 >>650
>奴國は、伊都國から奴國へ説明の「東南至奴國百里」には、「至の前に(方角だけで)途中移動があった事を示す文言がない」から、魏使らは実際には進んでおらず、側副傍線行程國としての説明であった
じゃあ奴国にはいかんと不弥国には行ったということなるで
そんな苦しい恣意的な読みせんでも全体的に時計回りに誤認してたっていうだけのことやん >>665
お前がしなきゃいけない論証は
「魏使は航空写真がないなら方角が分からない」という論証だ
航空写真は理解を助けるためであって、あってもなくても
現実は変わらないんだぞw >>669
太陽や星見りゃ分かるじゃないか
あとは山頂を目印にしておくとかな お前らトンデモが、無駄な議論いくらしても埒あかんぞ。 「阿波」への行程なんだから。 アキラメロン。 @阿波 >>667
百里換算は嘘
百里換算なら、二百里とか三百里の表記になるんだよ
何度も示しただろう?
スレが進んで、画面から見えなくなるとすぐデタラメを書き始める
大陸史書の正しい解釈(2点間距離での検証)
https://imgur.com/UgKlIMk
これで確認できるけど、
五百里が30キロ
百里が18キロだ
五百里側を基準にすれば百里が6キロだから
伊都國・奴國間は三百里になる
百里の方を基準にすれば、百里が18キロだから
末盧國・伊都國間が五百里と書かれるためには90キロくらいないといけない
実際には30キロだから二百里余だなww
百里単位っていう作業仮説は破綻していることが簡単に実証できる訳だww
二百里表記も三百里表記もないんだからさwwwww
「短里で百里換算」っていう君のお気に入りの言い逃れですら通用しないw 空を飛ばない経路地図も作ってやったぞ
今の道路と基本にしてるから、それなりに通りやすい経路だ
https://i.imgur.com/VeFdAO9.jpg
千々賀・三雲間(末盧國・伊都國)が37キロ
https://i.imgur.com/7QhxmCH.jpg
三雲・比恵間(伊都国・奴國)が24キロ
>>672と同じ計算をすると
五百里が37キロ
百里が24キロ
五百里側を基準にすれば百里が7.4キロだから
伊都國・奴國間は324里、三百里餘になる
百里の方を基準にすれば、百里が24キロだから
末盧國・伊都國間が五百里と書かれるためには120キロくらいないといけない
実際には37キロだから154里だな
二百里にも届かなくなるww
直線距離を道のりにしたら、短い方の百里により大きく影響するから
差がかえって開くって教えておいたのにww
これで、空を飛ぶという言い訳もできなくなって
後は呼子が末盧國という言い訳しか残らないが
何度も確認するように国の間の距離は中心都邑の間だから
どうやってもムリだぞww さらに超親切
https://i.imgur.com/k1NTWpt.jpg
呼子・千々賀間は19キロ
これを入れたところで
呼子・三雲間が56キロ これが五百里
三雲・比恵間が24キロ これが百里
五百里側を基準にすれば百里が11.2キロになるが
それでも伊都國・奴國間は214里、二百里餘になる
百里の方を基準にすれば、百里が24キロだから
末盧國・伊都國間が五百里と書かれるためには120キロくらいないといけない
呼子までプラスしても56キロだから233里にしかならない >>672
5百里があるじゃないか
最低が百里だから、すべて辻褄があう
画面が見えないなんて、PC爺の被害妄想だな ついでに言っておくと、日向峠ではなく広石峠経由にすると、
さらに伊都国奴国間の百里分の道のりが長くなるから、
「区間ごとの短里」の比率が大きくなるww
短里の存在なんて九州説の頭の中にしかないんだよ >>674
間に、百道の藤崎遺跡を挟んでみろよ
ほぼ、50km10km10kmになるよな
ピッタリじゃないか >>675
理解してないフリも苦しいなぁwwwwww
短里があるなら、末盧国・伊都国間、伊都国・奴国間ののどちらを基準にしても
二百里とか三百里の表記にならないとおかしいんだよ
お前以外は全員理解しているから、お前以外の全員から
お前がバカだと軽蔑されている状態だ
さあ、次はどんな言い訳を思いつくんだ?
奴国はそこじゃないにだーかな? >>678
1日百里だぞ?
イト国までは5日かかった
後は1日で移動できた
水路と同じ理屈だな
なんせ測量なんてしてない >>680
太陽や星で方角は分かるとずっといってる
古代は航空写真を持ってないともな
意味が分かるか?畿内説 >>682
畿内説がいうように可也山を目印にしたばっかりにな
航空写真やGPSがあったら、こんなことはなかっただろうさ >>677
>間に、百道の藤崎遺跡を挟んでみろよ
うわ、あんまりにも予想通りで引くわー
末盧国が呼子ってのも大概インチキだが、今度は早良が奴国で、
比恵那珂遺跡が不彌國とか言いだしたわ
それでどうやったら、伊都国から奴国(早良)が東南になるんだ?
伊都国から真北に向かって峠を越えて東にすぐの場所だぞ?
それにそこ(藤崎遺跡)は三角縁盤龍鏡が出て、畿内とのつきあいの深い場所だよね?
そして畿内からもらった鏡を大事にしてる
さあ、当時の倭国の中心=女王の都邪馬台国はどっちでしょう? >>679
歩測はできるから、距離は正しいと言っていた九州説の論拠はデタラメだってことでいいね?
本当に奴国は比恵遺跡じゃないからいいにだーって言い出すから大笑いww >>684
航空写真のためにいってる
実際には1日百里だから、福岡佐賀の県境は道が険しかっただろうし、
福岡の平野部は、それなりに道も整備されてるだろう
ペースが変わって当たり前 >>685
百里刻みという範疇で、正しいじゃないか
歩数なら、もっと細かく刻める >>683
ということは太陽では方位がわからなかった >>688
太陽をみて、可也山を真東の目印にしたんだろ
畿内説の言ったとおりだ >>683
お前は>>624から逃げているだけ
航空写真なしでも分かるぞ
可也山を目印にして移動する限り、可也山が北に見えていて、
その上で出発点が西北西になるところを通って、
そこからさらに北西にお前の表現で2百里くらい進んで伊都国に着くんだからなww >>679
>イト国までは5日かかった
その4泊は、どこに泊まったの? >>690
お前は本物の馬鹿か
海岸沿いを歩いてるうちは見えても、内陸に何キロも入ったら、もう海や向かい岸なんて見えない
PCにかじりついてないで、外でりゃ分かるだろ >>686
>ペースが変わって当たり前
ペースが変わるってことは、魏志倭人伝に書いてある距離は
まったくあてにならないってことだよね?
ペースがどう変わるかなんて、誰にも分からないんだから?
距離があてにならないってことは、畿内説の言い分が正しいってことだね!
お前、バカだろ?
こっちの議論のペースに完全に乗せられてるww
で、伊都国からインチキ奴国の早良を南東にするいい訳はまだかい? >>691
ガイドの斡旋した民家だろうな
飯もいるからな >>693
移動に何日かかるかのほうが情報としては重要だろう
距離は154里です、でも途中に断崖があって進めません、じゃ役に立たない >>686
奴国が早良で、比恵遺跡の辺りが不彌國なら、この二つの国の境はどの辺?
自然国境なんてないよ
一つの平野の中だし、一つの国にならないのはどうして?
それから福岡平野の西の端っこの早良が奴国なら、そこに二万戸の九州最大国があって
福岡平野の真ん中のいいところにあって遺跡からも繁栄が明らかな比恵遺跡が不彌國で
千戸しかいないのはどうして? >>696
航空写真に一例を示したまでだ
証拠もないのに特定の遺跡を、ここが何々国の都だ!なんてことは言わんよ
畿内説じゃあるまいし >>692
>海岸沿いを歩いてるうちは見えても
末盧国から伊都国は海岸沿いを行くって言ってたのはお前だぞ?
>>624の図の黄色の線が海岸線とぶつかっている辺りは実際内陸は歩けない場所だ
そこでお前の言う末盧国、東松浦半島先端が北西よりも西寄りなのが確認できる
つまり南東方向よりも北にいるのが、お前の説明の通りに確認できる訳だ
そしてそこからでも可也山はよく見えて、その地点よりも北側に見える
その地点からさらに二百里北西に進んだ点が南西だと思うなら、魏使は白痴だな
本当にお前は自分の言ったことにすら責任を持てない
嘘ごまかしインチキしかしない人として最低の人間だww >>666
658ですが
近畿説では、不彌國に卑弥呼が定住
別に邪馬壹國に行く必要がない。
南至邪馬壹國,女王之所都ですか、
倭国の都ではない。開拓地で丹の産地でもあり
宗教地で墓地公園でもあります。 >>694
それはどの辺?
呼子から唐津までで何泊するの?
途中に民家のありそうなところは皆無なんだけど? >>697
じゃあ、どこに末盧国があるなんてのも言えないんじゃないの?
呼子は末盧国の都じゃないからいいの?
だったら、呼子を末盧国の起点にするのはあり得ないよ?
大陸史書での地誌記事は中心都邑の二点間距離で示すってのは
航空写真とは無関係の大陸文化での決まりだからww
言い訳するごとに、自分の主張の足下をどんどん崩していくやり方ww
九州説ってすごいね
まあ、最初からインチキで、ウソにウソを重ねる以外に強がる方法すらないのだから
しょうがないんだろうけどww >>699
>近畿説では、不彌國に卑弥呼が定住
>別に邪馬壹國に行く必要がない。
それ、南至邪馬壹國、女王之所都だけで否定される
不彌國に卑弥呼が定住していたら、不彌國が女王の都になるんだよ
近畿説なんてでっち上げるのはできればやめて欲しい
畿内説とは書いてないから、別物のつもりなのだろうけれど >>698
いつまでも海岸沿いを歩いてたらイト国にたどり着けない
それにしてもまたハイライト入りだな
【ハイライトメモ】
イト国から海岸と向かい岸が見えるんだ
航空写真の次は千里眼かよ >>689
ということは移動すると方位を間違えてしまった >>700
ほう、唐津や前原に民家はないのか
コロコロ過ぎるぞ畿内説 >>705
現代でも、知らない街を歩いてりゃ方向分からなくなることはある
そうならないための目印じゃないか >>545
https://i.imgur.com/hsFvhYC.jpg
狗邪韓國千餘里至對馬國
南渡一海千餘里 至一大國
渡一海,千餘里至末盧國,
>>513がいう
致密かつ高度な中華文明を生み出した古代中華帝国の官僚には正確に記述されてた
前提なら
ずいぶん 末盧國が短い。
末盧國の想定地が違うのでは? >>710
ずっと太陽を見通せる場所にいるなら、太陽そのものが目印だろ
陸地をずっと移動してれば、そういうわけにもいかんがな >>702
不彌國に卑弥呼が定住していたら、不彌國が女王の都になるんだよ
なりません。共立王です。
女王国の都でなく女王之所都 >>711
では
致密かつ高度な中華文明を生み出した古代中華帝国の官僚には正確に記述されてた
いない事になりますね。 >>657
正解である。
(私は初めに向かった方向が東南で良いと思う。倭人伝記述の通り方向確認は難しいと思う。また、魏の使いは最初の一回しか末盧国しか行って無いと思う。
以下倭人伝より
末盧国に至る。四千余戸があり、山と海すれすれに沿って住んでいる。草木が盛んに茂り、行く時、前の人が(草木に隠されて)見えない。
このような土地で方位を推し量る事は難しいと思う
このように前を歩く人も見えない状況で、太陽を元に方位確認も難しいと思う。)
畿内説は伊都國への東南が間違いたがら、水行の南は東ともって行きたいようだが、、、残念ながら、水行100日では誤認はありえない。太陽、北極星、でわかる。 >>697
ただの一例で論証なしなら、恣意的なデタラメでもいいってことだから
短里の否定に対して何も言っていないのと同じだね
つまり何も反論できませんと言っているだけだ
結論、短里はありませんと捏造君が認めましたw
そうじゃないというなら、きちんと論証しなさい
「奴国が比恵遺跡じゃない」以外ではどうやっても無理だぞ! >>712
つまり陸地をずっと移動してれば太陽は役に立たないので
実際は東に進んでも、ものすごく南に移動したと錯誤してしまう >>714
現代文明でも、それなりの道具がなきゃ測量はできんよ >>716
1日歩いて概算距離だと何度も言ってるぞ >>717
90°も間違えんだろ
草木が茂ってたり起伏があったりしない海上ならばなおさらだ >>715
太陽でわかるといいつつも、
5日で45°間違えてしまった >>721
5日で45°間違えるので、
2月後にはわからなくなってしまった >>718
当然です。
論証、証拠、実証例を多数あげずに
致密かつ高度な中華文明を生み出した古代中華帝国の官僚には正確に記述されてた
などは否定します。 >>709
>ずいぶん 末盧國が短い。
>末盧國の想定地が違うのでは?
だから、「末盧国」=福津市( 万津浦)辺り だと何度言えばw @阿波
>>722
畿内説のように可也山を目印にしたばっかりにな >>724
千里刻みなところが、1日千里の概算だった証拠だよな >>726
つまり移動していると太陽は役に立たないので
遠くの目標物のすぐ南に着くと45°間違えてしまう
また次の目標物のすぐ南に着くとまた45°間違えてしまう
つまり南方向にはほとんど移動していなくても
ものすごく南に移動したと錯誤してしまう
このようにチョンビー渡土堤遊牧民は主張している >>728
すぐ南とか、また抽象的だな
どれぐらい離れてるかなんて、測量はしとらんよ
イト国から海と対岸が見えるとか、空飛ぶシナ人から離れられんな、チョンボ観念的里は >>730
すぐ南と、すぐじゃない南の違いはなんだ? 末廬国を唐津でなく呼子とするところにまず無理があるし、
末廬国を呼子としたとしても魏志の方角は出発地点の方角だという説明に無理があるし、
その説明通りだとしても伊都国から奴国への行程に無理が出てくるし、
その無理を解消しようと奴国には行ってないということにしたとしても不弥国には行ったことになるから無理が出てくる
帯方郡から奴国まで魏志に書かれた方角はすべて実際の方角から時計回りに間違えているんやから、そう読み取ればいいだけやん >>727
概算でもどうやってだしたかが
わかるません。千里法で
1寸だったとか?
推定ですが1/10寸刻みの千里法。
もちろん、どれだけ、水平、垂直を正確に取ったかは
定かではない。測量日、測量条件もわかりません。 >又南渡一海千餘里 名曰瀚海 至一大國
對海国から南東にある
一大国へは、南に向かわないと
とんでもなく海流に流されて東へ行ってしまう
https://i.imgur.com/MHxp2m2.jpg
が、この時点で方向感覚がズレるのでは?w
つまり、東へ傾けるだけですべて解決する
行程の方角も一致
https://i.imgur.com/Wrz3HP6.jpg
方角のズレ&夏場(草木が生い茂る)の暑さから
太陽がのぼる位置で南方へ来た錯覚にも陥る
答え出てますw >>732
昔からの港と考えるのが普通
唐津の港湾の地形は、長年の治水工事によって形成されたものだしな >>731
実際は可也山は呼子の真東よりもやや北で
三雲が呼子の真東
目標物の可也山を呼子の真東と考えたなら
その程度のすぐ南(三雲) >>715
近畿説では、使者の間違いはないと思います。
陳寿が書き換え、
自古以來,其使詣中國,皆自稱大夫。夏後少康之子封於會稽,斷髮文身以避蛟龍之害
会稽の観念が強く書き換えたと推測。 >>279
>半分程度しか反論できんのか? 勝者の貫録じゃね〜な。 わははははは @阿波
残り半分は的外れで放置可 >>735
>唐津の港湾の地形は、長年の治水工事によって形成されたものだしな
つまり唐津港ガーとか言ってる古田説はゴミ >>739
真東だと言い出したのは畿内説だぞ
それに、呼子から可也山山頂は見えてもイト国は見えんよ
シナ人は空を飛ばんからな >>742
畿内説はによれば、虹ノ松原(唐津)に丸木舟で乗り上げたらしいぞ
メルヘンだよな >>743
三雲は見えないから近くの可也山を目標物にしたという主張だろ
太陽が役に立たないから
そして45°間違えてしまった 九州じたいの角度は変わらないんだわ、めんごめんごw
https://i.imgur.com/Nei2LJs.jpg
對海国から見て一大国は
本来は南東の位置にあるのに
渡海方角の南と誤認で、こうなってると
https://i.imgur.com/Xf1Ln3u.jpg
>>734 >>743
>真東だと言い出したのは畿内説だぞ
つまり畿内説は真実 >>746
それだと九州は帯方郡の南
倭人は東南大海之中 >>747
これ奥山の証言だぞ
俺は、丸木舟で海洋なんて無理だと言ったのに、潟湖は丸木舟のほうが向いてるんだといって聞かない >>751
三雲が呼子の真東であるのは事実
行程記事は45°間違えてしまっているのも事実 >>752
だからどうした?
可也山を目印にしたため誤認したと、ずっと言ってるじゃないか >>746
長崎県平戸あたりが九州の北端にくるように
傾けたて事ですね。
長崎県平戸あたりを末盧國、
伊万里を伊都国と仮定して考えてみます。 >>755
誤認する理由があればな
逆にいえば、障害物のない海をまっすぐ進むなら間違えない 帯方郡から奴国まですべて実際の方角より同一方向(時計回り)に誤認してて、逆方向、すなわち反時計回りにはいっこも誤認してへん
特に九州本土に上陸してから誤認の程度が大きくなってる
このことからごく素直に導かれる事実は、魏志に書かれた方角はなんらかの理由で実際より時計回りに誤認してたってことやけど、それを認めたくない九州説の人が末廬国の場所はほぼ定説となってる唐津ではないとか、魏志に書かれた方角はあくまで出発地点での方角なんだ(これには笑った)とか、奴国には行ってないが不弥国には行ったとか無理に無理を重ねることによって自説を固辞しようと頑張ってるちゅうわけや >>756
可也山を目印にしろと言ったのは畿内説だぞ
確かに、山頂ならばどこからでも見えるから目印にちょうどいい >>757
海もまっすぐは進めないし
目標物は必要 >>758
畿内説が、突然方向オンチになったりら正常になったり、都合次第でこじつけてるだけだろ
理由があれば誤認することもあるが、障害物のない海上なら誤認しない
それだけのことだ >>760
遠くの山やら岬だろ
そして、太陽を遮るような障害物はない 末盧國からの「東南陸行五百里到伊都國」の「東南」は、
出発時点での出発方向の説明であった
で目的地の伊都国はどこの方角に向かえばいいのでしょうか? >>762
可也山も遠くの山、可也山よりも太陽のほうが高いのでどこからでも見える
しかし45°間違えてしまった >>761
魏志に書かれた方角は実際の方角と(すべて時計回りに)間違ってる
これは主観を差し挟む余地のない単純な事実やで
これがすべてでこれ以上でも以下でもない
このシンプルな事実を認めたくないから例えば
「魏志で書かれた方角は出発地点における方角」
とか噴飯ものの苦しい主張をせんとあかんことなるわけや >>759
魏志に記述はない。
九州説ならどうする? 楽浪郡・帯方郡の時代を通じ、双方合わせて何十回となく往復してるのに、
毎度毎度同じように方角を間違えたなどと・・、
畿内説も北部九州説も、永遠のアホ不滅ちゃうかww >>764
太陽は常に一定の位置にはないからな
場所によっては木々や、日向峠()に隠れる
可也山は、海岸沿い歩いてるときずっと見えるし、イト国が近づいても見えたまま >>767
畿内説がそんな主張した証拠は?
まいど捏造ご苦労様 >>766
分かりやすい目印は必要だろうな
太陽が見えない場所でも迷子にならないように >>768
太陽は常に一定の位置にはないので
海上でも方位を間違えてしまう >>753
>可也山を目印にしたため誤認したと、ずっと言ってるじゃないか
どう誤認するの?
九州説さん
非現実的な設定を考えても無駄だよ
非現実的なんだから >>767
交易もしているから、
陳寿の書き換え。
膨大な三国史の一部。
少ないデータで自己解釈。
そんな時間かけていたとは思えない。
記紀どうように原理主義かな >>772
海上では太陽が移動しても、それがずっと見えてる >>773
簡単だ
真東あった目印の山が、今は北にあります
ここは目印にした地点からみて、どの方向に当たるでしょう?
ただし、地図やコンパスはないものとします
答えてみろよ、畿内説 >>775
5日太陽を見たけれども役に立たなかったので
45°間違えてしまった >>770
それにしたってやや実際よりも時計回りに誤認してるで
狗邪韓国を定説通り金海とした場合な
海に渡ってからは情報不足のせいかより方角の精度落ちてるわ
末廬国を定説通り唐津としたら70度ほど、インチキ呼子としたら50度ほど間違えてる
これは主観を差し挟む余地のない単純な事実や
魏志の方角が実際の方角とずれてるという事実やで >>777
太陽が見えなくなる場所を通るからな
海上では起こらない >>778
陸地では、場所によっては太陽が見えない
海上との大きな違いだ >>779
太陽が昇る方向を確認したら見えなくなる場所なんてほとんどない >>765
これ読め
>>657
(私は初めに向かった方向が東南で良いと思う。倭人伝記述の通り方向確認は難しいと思う。また、魏の使いは最初の一回しか末盧国しか行って無いと思う。
以下倭人伝より
末盧国に至る。四千余戸があり、山と海すれすれに沿って住んでいる。草木が盛んに茂り、行く時、前の人が(草木に隠されて)見えない。
このような土地で方位を推し量る事は難しいと思う
このように前を歩く人も見えない状況で、太陽を元に方位確認も難しいと思う。)
畿内説は伊都國への東南が間違いたがら、水行の南は東ともって行きたいようだが、、、残念ながら、水行30日では誤認はありえない。太陽、北極星、でわかる。 >>782
>魏の使いは最初の一回しか末盧国しか行って無いと思う。
作り話 >>779
じゃあ邪馬台国まで陸行一月すれば方角なんて無茶苦茶なるやん
邪馬台国が南いうんは嘘なるわけやな >>772
瀬戸内海で起きるか?
それも30日も水行してたら単純
北極星は山陰の方角、太陽は四国の方角 >>781
最初は可也山から太陽が昇る
移動するに連れ、可也山より右側から太陽が昇る
それがどうした
言い訳するにしても、少しは考えてからにしろよ、畿内説 >>772
おまえは知らないの?
太陽が一番高く昇る方位が真南って事 >>784
陳寿の書き換えだな。
会稽の観念で自己解釈。
使者の記禄に「雪」とか「氷がはる」とかの
記禄があれば変わっていたかも? >>785
がしかし糸島までで45°間違えている
呼子〜前原は太陽が見えない土地ではない >>787
それなら、末廬国から伊都国、それから伊都国から奴国へ行く場合も太陽が見える都度微調整したら済む話ですやん で、須恵器ガーとか言ってた九州説チエオク君は逃げたのかな >>790
日向峠()など、高い障害物が南側にくれば見えないぞ 8分割の方位は各々45度の範囲を持っている
東と言っても、東北側に22.5°東南側に22.5°の範囲が含まれる
磁極と自転軸の北は測定地点で変動する
話題の九州北部で言うと7°少し西に傾く >>788
東に移動して太陽を見ても南に移動して太陽を見ても一番高く昇る方位は真南
太陽が一番高く昇る方位が真南って事を知っていても
45°間違えている >>781
それがあるのだ、松盧国
倭人伝
末盧国に至る。四千余戸があり、山と海すれすれに沿って住んでいる。草木が盛んに茂り、行く時、前の人が(草木に隠されて)見えない。
このような地域で方位を推し量る事は難しいと
また、前を歩く人も見えない状況で、太陽を元に方位確認も難しい >>791
微調整しただろうな
だが、目印にした可也山とイト国との位置関係を覆すような発見はできなかっただろう
シナ人は空を飛べないから、もう呼子は見えないしな >>783
そこをつくの?
そこは、大事なところではない
全体を読め >>796
郡使の往来で常に滞在する伊都国に行く他のルートがあるなら
そっちのルートを紹介する >>799
そのころには太陽はもう日向峠より高く昇っている >>799
>>日向峠はそもそも唐津から見えない
>イト国までの途中で見えるさ
>南側にな
どこから「日向峠」が南側に見えるの?
九州説は発狂してない? >>802
日向峠が見え始めてから見えなくなるまで
わずか数時間で駆け抜けたのか? >>803
ずっと太陽が見えてるのに90°間違えたと言い張ってるのが畿内説 >>805
日向峠の北にきたときだな
畿内説では、なぜか平坦な道を避けて日向峠を越えたことになってるが >>793
>日向峠()など、高い障害物が南側にくれば見えないぞ
っていうか
「峠」が「高い障害物」?
日本語を知らないんじゃ無いのか? >>807
まだ女王国にも至ってない入口の呼子〜三雲程度の距離で45°も間違えてるから >>795
末盧国に至る。四千余戸があり、山と海すれすれに沿って住んでいる。草木が盛んに茂り、行く時、前の人が(草木に隠されて)見えない。
このような地域で方位を推し量る事は難しいと
また、前を歩く人も見えない状況で、太陽を元に方位確認も難しい
さいしょに向かった方向が東南。
あとは、案内人について行くだけ 「魏志の方角と実際の方角が(すべて同じ方向に)間違ってる、特に九州本土に着いてからその程度が大きくなってる」
これは単なる事実で、かつこれがすべてやわ
水行では方角は間違えにくいが陸行では間違えてしまうという無理な仮定をしてもその場合、魏志いわく邪馬台国まで南へ陸行一月なんやからその南という方角が間違ってるということになってしまうわな
無理に無理を重ねるからこんなことなってしまうんやで >>811
一度しか通らなかった太陽すら見えない不便なルートなら、出発方向なんかなんの役にも立たない情報 >>809
峠のふもとから見たら障害物だろ
だから峠を「越える」とか峠を「避ける」という
大丈夫か?畿内説
【ハイライトメモ】
峠は障害物ではない >>810
目印が悪かったな
大丈夫、海上ならば起きないぞ、畿内説 >>801
海岸沿いだろうな。荷物もあったのだから。
しかし、何故か分からないが陸行を選んだ >>812
日向峠を越えたと言い出したのは航空写真だぞ >>817
安全性を優先すれば水路は最低限にしたいだろう
天候の急変や潮の高さなど、リスクが高い >>816
わずか5百里で45°も間違えといて
後は間違えないと言い張ってるだけ >>821
30日間も海上で90°間違え続けたと叫んでる畿内説とも思えないな >>814
停泊した場所がわかっていたら、その場所からは方位はわかる。
海岸ならなおさら方位はわかる。星が見える。どこの方向から太陽の光で明るくなってくるかもわかる。
その後は草木の茂道を進むから方位はわからなくなる。だけど案内人について行けばイト閣に着く。 >>824
そう、海上なら起こらないよな
ましてや90°以上もなんて 「魏志に書かれた方角は出発地点における方角である」
これは歴史に遺すべき迷言やわ
外で思い出し笑いしてもうたらどうしてくれんのや >>825
一度しか通らなかったんだろ?
郡使が通常使うルートが正式なルート >>826
出だしもゴール付近も、陸路なら条件は同じ
太陽が隠れたりぐるぐる迂回すれば、多少の誤認はある
現在も同じだ >>820
前行く人も見えない地域で方位は測れない。 >>831
見える地域がまったくなかったのか?
東南陸行五百里 >>827
お前が言い張っているだけの話
確認できる方位は45°間違ってる
そして倭の五王時代の後漢書では南の狗奴國は東に90°修正されている >>833
陸地で太陽が見えない条件なら起こる
現に、正確な地図とコンパスがあっても山登りで遭難するぐらいだ
人間の方向感覚なんてそんなもの
もっとも、畿内説の妄想と違って、いつでも太陽が見える海上では起こらないけどな >>831
伊都国に到着までまったく方位が
測れない。経路てどこだ?
太陽、北極星がまったく見えない。 >>834
追記、危険な場所や山登り等はしない
安全な道で行く。太陽が見えたところが迂回していた道ならば方位が余計にわからなくなる。
道がまっすぐな直線なら>>832さんの言うこともわからんでも無いが、、 >>835
いや、チョンビー渡土堤遊牧民は5日間太陽を見て微調整したんだけれども
可也山が北に見えたので45°間違ってしまったという主張
太陽は微調整の役に立たなかった >>836
見えるところはあるけど、今進んでる方向がわかるだけ、道はまっすぐでは無いので地点地点で進んでいる方位は変わる。まあ、案内についていけば良いだけ。 というかそもそもいちいちこまめに方角の計測してないと思うよ
していたとしても太陽が見えるつど計測すればいいだけの話なんだからやっぱり九州説の人は変なこと言ってるわ >>837
832だが
阿保すぎるまっすぐな直線なら
目的地の方角も東南になる。
そこが伊都国でいいんだな?
現糸島市は否定でいいのか? >>839
地点地点で進んでいる方位は変わるので45°間違えた
その後の行程でも同じ >>845
案内人は最初から邪馬台国到着まで付いている >>838
畿内説のように目印に頼ったばかりに陥った誤認だよな
しかし、海上では起こらない
それも90°とか、そんな了見で舟乗ったら難破する >>841
だから、直線の道を進んで無いから、
地点地点で、進む方向がかわると言うこと。
予約読んでね。 >>849
ずっと書いてる
海上ではずっと太陽が見える >>851
5日間太陽を見たけれども、太陽は微調整の役に立たなかった >>847
不彌國までと推測。
水行二十日,水行十日,陸行一月
もっと詳しく書くよ。
卑弥呼に謁見、詔書が目的と帰路が目的
邪馬壹國,女王之所都は目的ではない。 >>842
地域によって変わる。見通しの良い平野部なら方位はほぼわかるであろう。 >>852
微調整の役にたってる
地図もコンパスもないのに
せいぜい東と東南の差でしかない
8分割方位の隣だ
さすがに海上で90°はないけどな >>854
平野部だけわかっても水行三十日陸行一月で間違える >>852
だったら北極星でも良い
瀬戸内海で北極星は山陰がわ
太陽は四国がわ
南を東に30日も間違えない >>850
バカげた答えの834に言え
地点地点で、進む方向がかわると言うこと
当然だろ。でどの地点で北東へ進む。
つまり、陳寿のデータの抜けがあるていう事 >>855
8分割方位だと22.5〜67.5°なので
70°近く間違ってる可能性もある 三国志の記述によれば3世紀の倭人は顔中体中真っ赤な入れ墨だらけ
ところが記紀では入れ墨族は
「天孫族」とやらにひたすら殺戮されていくウホウホ蛮族扱い
「天孫族」と入れ墨族のハーフのイワレビコが
入れ墨族の小邑を配下にしたという記述はあるが
イワレビコの配下の入れ墨族もやっぱり他の入れ墨族を殺戮していく >>857
成り立つな
魏志に書かれた方角は出発地点における方角である
案内人について行ったんだろー >>859
東と南の間違いだとどうなるか、少しは考えてから書けよ
書く度に、ブーメランとなって畿内説に跳ね返ってるぞ 阿波説以外、
なかなか丁度いい学説が出ないね
もっと突き詰めて考えなきゃ!! >>864
またチョンボをこかないように少しは考えてから書けよ、チョンビー渡土堤遊牧民 >>866
ほらよ、PC爺にプレゼントだ
(\
\\
) )
___//
/ \ (/\
/ (●) U(●)\ <東と東南をまちがえてる!
| (_人_) |
\ `⌒ U /
/⌒ ̄ ̄ ̄ ̄/⌒ニつ
| ____(ヾイソ⊃
| | ̄
| |
畿内説 >>862
方位がわからない地域では案内人について行く。
瀬戸内海航路は案内人がいようがいまいが、魏の使いは自力で進んでいる方向は確認できる、それも30日も水行していれば。、
北極星は山陰がわ、太陽は四国がわ、
だから瀬戸内航路で南を東に間違ある事は無い。畿内説は方位は諦めた方が良い、 魏志曰く投馬国へは南へ水行するんだろ?
で、九州説論者曰く水行ではずっと太陽が見えてるから方角を間違えないんだろ?
でも北九州の港から南へは行けないぞ。
南は九州本土なんだから。 >>706
>ほう、唐津や前原に民家はないのか
>コロコロ過ぎるぞ畿内説
本当にバカなんだなw
唐津や前原の間のどこに泊まるのかと聞いてるんだが?
お前のガバガバ理論では、一日分歩いて移動した距離が百里なんだろ?
唐津や前原にいくら泊まっても、移動しないのであれば百里に算入されないぞ?
5日で五百里という嘘をつき通すなら、移動に伴う宿泊場所を示さないと
お前の言っていることはデタラメってことになる
もう一度訊こう
呼子から唐津までで何泊するの?
途中に民家のありそうなところは皆無なんだけど?
唐津から糸島までで何泊するの?
途中に民家のありそうなところは皆無なんだけど? >>870
誰だよそいつは
効いただろ?
障害物だらけ、迂回だらけの陸上で、 東と東南を間違えてる!と叫んでるのが
見通しよくて、ほぼ直進の海上で、
東と南を間違えてる奴だなんて自虐ギャグだよな >>704
人間って、ここまで愚かで醜くくなれるんだな
一旦、嘘をつき始めた人間の末路ってのはこうなるしかないのか
>いつまでも海岸沿いを歩いてたらイト国にたどり着けない
どこにそんなことが書いてある?
https://i.imgur.com/ZX47bMs.jpg
この図の黄色い線が、お前のいうインチキの末盧國・呼子から見て
東と東南の境になる22.5度の線だ
この黄色の線と海岸線がぶつかるところは、お前の行程だと海岸線を
歩いていることになっているし、海岸線で見通しがきくから東松浦半島の
突端方向も見えているし、方位も分かるんだよな? 捏造君理論では?
で、東南と東の境を越えて、5メートルでも北側に入ったら
それは東なんだよな?
お前は真東より5メートル進んだら東南だって言っていたけれど、
どれだけ南に行ったかは分からなからっていう逃げ口上だったよな?
この場合、境界線を越えたことは視界が聞くんだからばっちり確認できる
航空写真なんてなしで分かる訳だ
そこから北東に進む限り、南東にはならない
海岸線から離れても、北東や東に進む限りは、南東にならない
本当にバカ
アタオカ!w >>868
畿内説ではないよ。
まず、潮の流れが複雑、
瀬戸内海航路は無理
使者だよ。入港した時点で案内するよ。
北部九州では南へ水行できない。
東か、西へ出て南だな
川下りするのか? >>871
脳みそないのか?
唐津の入口で一泊、出口で一泊、
前原の入口で一泊、出口で一泊、
合計4泊5日、5百里の旅だ >>707
>上陸した港付近って程度だな
ということは、大陸史書ではそこは末盧国ではない
大陸史書の地誌記事では、中心都邑の位置と方角で示すのが決まりだからね
色々がんばったけれど、そこが国の中心ではないと認めた時点ですべて破綻だww >>713
>女王国の都でなく女王之所都
これでもう相手するのやめるよ
あなたも知識が足りなさすぎるし、漢文読めない人でしょ?
女王之所都で、女王の都するところだ
女王の都するところというのは、
女王が都を置き女王が住んでいるところだ
都と住んでいるところが別なんていうのは妄想以下のたわごと >>770
>たとえば半島から対馬は正確に南だぞ
半島からってww
出発は狗邪韓国、金官伽耶だよ
全然「正確に南」じゃないww
https://i.imgur.com/hEtzboK.jpg
さらに言えば半島南端の方から天気のよい日は
ぎりぎり対馬が見えるそうだが、その見える部分は
対馬の北端部分になるから、さらに東寄りに見えることになる >>877
もうそんなことしか言えなくなったか
哀れな畿内説だ >>879
また空飛ぶシナ人かよ
いい加減成長しろよ
対馬は魏志倭人伝にあるとおり、切り立った崖だらけの地形だ
上陸するとすれば厳原港だな 水行は方角が正確と主張する九州論者さん
>>869への回答よろしくやで
まさか都合の悪いことはスルーなんてせぇへんよな? >>801
>郡使の往来で常に滞在する伊都国に行く他のルートがあるなら
>そっちのルートを紹介する
まだこんなことを書いてるチエオクがいるな
魏志倭人伝に書いているのはルート紹介じゃなくて
倭国の地誌記事
国と国との位置関係や、それぞれの国の特徴が書いてあるもの
そして、大陸史書は先行史書のコピペがメインで、そこに新しい知識を
書き加えたり修正したりする
末盧国の話は、帥升の遣使の時の記事を引き写しているだけ
末盧国から東南に行っても伊都国には着かないよ
別の行き先の方向が混入しているだけ >>878
漢文バカすぎる。
きっぱり、お断りしますよ。
宗教地の都である。
共立王が
なんら、まとまらない九州地域や
国際交流地、出入り口に定住なんら問題がない。 >>883
投馬国は、2日〜3日東に進んでから、後はずっと南西だ
ずっと太陽は見えてるから、正確に南と分かる >>884
末盧国から北東に行って憑くのは怡土国、、
東南に行ってこそ、正しい伊都国に着くことができるのだよ >>868
それは雑多九州作り話脳内畿内説
学者の通説畿内説は考古学で比定するとまずわずか5百里で45°間違えている
博多湾沿岸は南側からの影響を微塵も受けていない
結果的に南至は東ということ >>888
また30日間海上で間違い続けた畿内説が自虐してるのか >>886
ん?投馬国は水行二十日ですよ。
2,3日東に進んで残り17,18日は南西って沖縄でも行くつもりですか? >>875
>唐津の入口で一泊、出口で一泊、
>前原の入口で一泊、出口で一泊、
あんまり笑わせないでくれるかな?
唐津の入口ってどこだ?
唐津の出口ってどこだ?
唐津という人里の中つまり大陸人の感覚だと
一つの邑の中で一日歩いたから百里にするのか?
呼子から唐津まで20キロ
唐津の中は端から端でもせいぜい5〜6キロ
唐津という邑まで来て、その中心部で泊まらずに
入口と出口で一泊ずつするw
大陸からの大事な冊封使の使者さんもいるのに
わざわざ町の入口と出口で一泊ずつして、
町の中心の有力者のところには泊まらないwwww
どんどんデタラメ度が上がってるんだけど?ww >>890
想定内
帯方郡からの所要日数だ
10日で九州本土、あと10日で日向だ
今度は両者の距離が違うと言い出すだろうから補足
九州本土までは東シナ海を渡れる比較的大きな船だが、日向までは海岸沿い進めればそれでいい小型船
ようは、伝聞を継ぎ足しただけで、投馬国には行ってない >>887
東南に行って北東に行かなくても
伊都国でもいいんじゃないの?
想定地が違えば。 >>891
人家のあるところだ
最初の集落の入口と、最後の集落の出口だな
魏のお客さんに野宿はさせられんだろ
わざわざ何もないところで野宿はしないぞ、何も考えてない畿内説よ >>887
>東南に行ってこそ、正しい伊都国に着くことができるのだよ
東南に行って行きつくのは佐賀平野だけど、そんなところに伊都国があったら
伊都国にいる一大率はどうやって臨津搜露の職務を果たすの?
九州の北岸にいないと、無理だよね?
こういったら、そのたびに末盧国まで行くって言い返してきたやつもいるけど
それじゃ、入国管理の務めが果たせないだろ?ww 九州説論者の主張通り、水行の方角に間違いがないとすると、魏志曰く
投馬国まで南へ水行二十日
邪馬台国まで南へ水行十日陸行一月
なんだから投馬国は現在の鹿児島市あたり
邪馬台国に至ってははもう九州からだいぶ南へ外れてしまうことになる
それでいいのでしょうか? >>895
北東に向かう地点の
資料、史料が陳寿が見ていないか
手元になかったと考えるが妥当と思う。
異論認める >>892
郡から日向の行程なら船を乗り換えるようなことは書いてもないし
考古学以外に比定しようがない >>896
途中から所要日数に変わってる
前段は投馬国までの参考情報
後段は帯方郡から邪馬台国までの所要日数
邪馬台国は、不弥国の南だ >>898
瀬戸内海を越えたというが、いちいちどこで降りて休んだと書いてるか? >>900
学問の通説畿内説の根拠は考古学
投馬國は吉備説と山陰説 >>892
それでも矛盾が生じてるで
帯方郡(現在のソウル付近)から投馬国(あなたの想定では日向)の方角は南ではなく南東なんやから
水行の方角がもはや正確じゃなくなってしもとる >>901
それは畿内説の脳内だけにある幻の通説だな
難波津に丸木舟でのりあげるメルヘンの世界だ >>875
>唐津の入口で一泊、出口で一泊、
>前原の入口で一泊、出口で一泊、
それ、お前のガバガバ理論でもどうやっても計算が合わないぞ?
お前は呼子から前原までで5日で五百里だから、
一日歩くと百里
長かったり短かったりするっていうガバガバ理論だよな?
で、一日壱岐から船に乗ってきて疲れているのに、
呼子には泊まらず20キロ歩いて唐津の入り口に着いたら、
ほんの数キロ先の唐津の中心には向かわず入口で一泊 これで百里
次の日は、唐津の入り口を出発して唐津の有力者に挨拶するか
しないかは知らないが、ほんの5〜6キロあるいて唐津の邑の
端まで来たらそこで一泊 これで二百里
次の日には頑張って海沿いの難路を40キロ弱歩いて
前原の入り口に着いたらほんの数キロ先の前原の
中心には向かわずに、前原の入り口で一泊 これで三百里
で次の日に、前原の入り口を出発して前原の出口まで歩いて
一泊
前原(伊都国)に着いているのに前原(伊都国)についてから、
前原(伊都国)を横切る距離を入れて これで「四百里」
あれれ〜? おかしいぞ〜?
末盧国から伊都国、呼子から前原まで五百里のはずなのに
四百里しかないwww
どうしよう?wwwwwww >>899
なんで官もいる不弥国なんだろうな?
邪馬壹國も里数でいいのに
水行十日,陸行一月。
目的が邪馬壹國でなく、卑弥呼が目的とみる。
次有奴國,此女王境界所盡。其南有狗奴國 >>902
南東だろ
今いる不弥国は帯方郡から南東
そして、今いる不弥国から南に日向はある >>903
学問は雑多ど素人九州作り話を畿内説に変えようという気はない >>906
不弥国から南じゃなくて郡から南に水行なんだろ? >>907
クラファンまで使ってカネ引っ張ろうとしてる、ゴッドハンドたちのことか? >>899
>前段は投馬国までの参考情報
>後段は帯方郡から邪馬台国までの所要日数
それはご都合主義のデタラメで無理がある
魏志倭人伝の記述は二国分ずつ、対にして表現を揃えてある
同じ表現に揃えてある投馬國と邪馬台国で内容が異なると
する読み方は、明確に不正な読み方
始度一海千餘里至對馬國。其大官曰卑狗、副曰卑奴母離。方可四百餘里。有千餘戶。
又南渡一海千餘里(略)至一大國。官亦曰卑狗、副曰卑奴母離。方可三百里、有三千許家。
又渡一海千餘里、至末盧國。有四千餘戶、濱山海居。草木茂盛、行不見前人。東南陸行五百里、到伊都國。官曰爾支、副曰泄謨觚、柄渠觚。有千餘戶。
東南至奴國百里。官曰兕馬觚、副曰卑奴母離、有二萬餘戶。
東行至不彌國百里。官曰多模、副曰卑奴母離、有千餘家。
南至投馬國、水行二十日。官曰彌彌、副曰彌彌那利、可五萬餘戶。
南至邪馬壹國、女王之所都。水行十日、陸行一月。官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳鞮、可七萬餘戶。 >>908
郡から20日で、ここ(不弥)からは南だ >>911
それが不正な読み方だ
大前提として、郡から万二千里なんだから、これと矛盾する読み方は不正 アナログ時計の秒針15秒が真東だとすると
東の範囲は11秒250ミリ秒から18秒750ミリ秒の間
北の方角に傾いていてもこの範囲なら東となる
東南の範囲は18秒750ミリ秒から22秒500ミリ秒の間
18秒750ミリから東南となる
魏志倭人伝に列記されている国々の地理データは陳寿が記載した時点以前に帯方郡の役人が折々に旅して測定した記録をまとめたもの
その際は国の中心部から次の国の境界までを測定しその方角を記した よって国々の領域の大きさなどの影響を受けることになる
例えば伊都国から奴国へ移動するときに奴国への境界が東南方向にあれば東南と方位を記すことになる 投馬国へ水行二十日というのを
A.帯方郡から二十日と解釈しようが
B.不弥国から二十日と解釈しようが
水行の方位は正確だと仮定すると矛盾が起きるんやで
Aの場合、帯方郡から南へ行くと東シナ海で大陸はあらへん
Bの場合、不弥国は北九州のはずやから南へは行かれへんし、もし鹿児島あたりやとすると今度は邪馬台国が沖縄辺りなってまう。だってこの場合、魏志の読み方は放射状に読んでるんじゃなく直線的に読んでるんやからな >>910
どうしても福岡の比定は竹島どろぼうや関西のよっちゃんの作り話なのでそういうところにひっかかるみたいだが
福岡の学者も学者の通説畿内説 >>912
ここ(不弥)から南に何日か書いてないことになる >>916
在日の多い畿内が、資産価値を増やそうと暗躍してるんだろ >>917
差し引けは10日だ
というか九州本土までの10日(実体験)に、日向までの10日(伝聞)を足してるだけ >>912
「南至投馬國 水行二十日」を
「(不弥国から)南至投馬國 (帯方郡から)水行二十日」
って読むってこと? めっちゃ恣意的な読みやん!
でもそれでも矛盾が生じるで
あんた、不弥国と投馬国をどこに比定してるんや?
そんでその移動手段はなんや? >>915
放射読みも矛盾、伊都国から
東南至奴國は行っていない。
至の前に「行」とかないから
どうように南至投馬國、南至邪馬壹國
も「行」とかないからね。なので行っていない
まあ、これが卑弥呼が不彌國いる根拠になっている。
東南至奴國は、狗奴国との紛争地域
当然いけない >>919
途中陸行してるなら郡から水行20日じゃねぇじゃん >>913
>大前提として、郡から万二千里なんだから、これと矛盾する読み方は不正
矛盾しないよ?
陳寿の地理観では、
帯方郡から狗邪韓国まで循海岸水行が七千里
そこから渡海一回が一律千里を三回で三千里
倭国の本土に着くまでが一万里ちょうどになるように数字が作ってあって
これで、倭国との通好が、万里の修好という修辞にあう
そして、北部九州から畿内邪馬台国までが水行20+10日、陸行1月の
合わせて2か月で、これが二千里の分になる
參問倭地、絕在海中洲島之上、或絕或連、周旋可五千餘里とあるが、
狗邪韓国を出てから、五千里で邪馬台国に着くわけだから、狗邪韓国までの
循海岸水行を合わせて萬二千里
こんな単純計算なんだよ
北部九州の中の百里とか五百里とかは、国と国との位置関係の説明だから
移動距離ではない >>918
>在日の多い畿内が、資産価値を増やそうと暗躍してるんだろ
在日の多い畿内で、反日目的で在日が暴れているのが九州説なんだよ
邪馬台国や奴国が金印をもらってるのに、半島諸国は金印が
もらえなかったから、悔しがって反日してる
前にも書いたけれど、できるだけ日本、倭国の歴史を矮小化するために
邪馬台国時点ではヤマト王権とは無関係な九州の小さな地方政権で、
広い範囲が倭国としてまとまっていた訳ではない、と言いたいがために
九州説なんてインチキ説に躍起になってしがみついてる
最初から、科学とは無縁の動機で書き込みに来てるから、どんなに
論理的な根拠を突き付けられても、絶対に認められずに恥とバカだけを
さらし続ける羽目になってる >>654
>>その4基を言ってみ
>纒向石塚古墳
>纒向勝山古墳
>纒向矢塚古墳
>東田大塚古墳
わかった、おまえはそそれで勝山の葬送儀礼の時期の年輪年代210年に反対してたのか。
纏向石塚177+18 勝山被葬者埋葬時期210年は動かない。
熱残留磁気年代測定などという疑似科学なんて出しても無駄。 >>921
南が投馬国だよ、郡から20日だよ
普通だろ >>926
上陸して不弥国までで7百里
これで3分の1以上を使ってる計算だ >>927
まったくイミフ
結局最後はヤマト政権が統一するのだから、それ以前にどんな国があったかなんて関係ない
それに、ヤマト政権はずっと半島と関係が深かったからな >>929
「南至投馬國 水行二十日」を
「(不弥国から)南至投馬國 (帯方郡から)水行二十日」
と読むのはさすがに恣意的すぎる読み方やろ
もしそんな恣意的な読み方を許すとしても
帯方郡から投馬国へは陸行もするんだから自己矛盾は避けられないよ >>933
マツロ国で乗換だ
そもそも、万二千里を越えるような読み方のほうが恣意的だ >>931
>上陸して不弥国までで7百里
>これで3分の1以上を使ってる計算だ
>>926をちゃんと読んだか?
大陸史書に書いていあるのは地誌記事で、旅程じゃないんだよ、最初から
北部九州の中の百里とか五百里とかは、国と国との位置関係の説明だから
移動距離ではない >>932
>結局最後はヤマト政権が統一するのだから、それ以前にどんな国があったかなんて関係ない
そうやってごまかして逃げているが、ヤマト王権が統一するまで
倭国はばらばらだったことにしたいんだよ
それだけ、倭国・日本が一つの国としてまとまるのが遅くなり、
倭国の歴史が短くなる
半島の三国史記が訳の分からない伝説まで持ち出して建国を古く
見せかけようとしていることから分かるように、歴史が長いのがえらいと
いう価値観で、倭国の歴史を短くするのが反日目的に適うんだよ
そして、ヤマト王権は半島に介入していたから半島と関係が深いと
言いたいのだろうが、九州に邪馬台国があれば、
その分半島の影響が大きかったと妄想できるだろ?
だから、在日の人は九州説しか信じないんだよ
科学じゃないんだw >>935
また測量したことになってるよ
コロコロしすぎだろ、チョンボ観念的里 >>936
実際バラバラだったと魏志倭人伝に書かれちゃってるぞ 捏造君は>>904から逃げないように!w
これで一日歩いたら百里とか言うガバガバ理論も破綻しておしまいだw
短里なんてないんだよ
そして、短里が大前提の九州説は、全滅になるw >>939
その寝言がどうかしたのか?
壱岐から上陸して呼子で一泊
翌朝からスタートだろ
無駄な長文書いてる暇があるなら、少しは脳を使えよ
そんなことだから自爆する >>937
>また測量したことになってるよ
どう読むとそう読めるんだ?
どこに測量したとか、測量が前提とか書いてある?
バカの考えることは分からんな
陳寿が決め打ちで距離を決めて書いているだけで、
測量なんてしてないし、なんなら現実の距離とはほぼ無関係だぞ?
倭国は遠くで、そこまで大陸王朝の徳が届いていてえらい、と
言いたいために、倭国本土まで一万里
女王国、邪馬台国まで、西方の大月氏と同じ距離の萬二千里って
陳寿が最初から決めて書いてる >>934
投馬国から距離が里数から日数に変わってるから帯方郡起点に切り替わったと考えるのなら同意はしないがまだ合理性がある
しかし方角に関してはフミコク起点、距離に関しては帯方郡起点なんていくらなんでも恣意的すぎるわ >>941
魏の使いが書いたことと違えば、すぐにデタラメとバレるから国史にはできんよ >>938
>実際バラバラだったと魏志倭人伝に書かれちゃってるぞ
反日の視点だとそう読めちゃうんだねw
魏志倭人伝に書いているのは、一つの国・倭国として、
一人の女王卑弥呼を共立した、列島上の広い範囲を占める国だ
伊都國、末盧國、投馬國、邪馬臺國は、倭国の中の地名扱いだよ 【畿内説717ハイライトメモ】
・難波津は整備された港だった
・丸木舟で難破津に上陸した
・オノの刃を径で表してるから円とは限らない
・伊都国からは海と対岸が見える
・峠は障害物じゃない >>754
>長崎県平戸あたりを末盧國
「末盧国」とは、正反対。 平戸辺りは、朝鮮半島への出航地だ。 対馬海流のため。 @阿波 >>945
史実を捏造するほうが反日だろ
百余国の中の30国だ
魏志倭人伝のほかに、漢書地理志や後漢書東夷伝にも書かれてる
歴史の歪曲は、チョンのすることだ >>767
>楽浪郡・帯方郡の時代を通じ、双方合わせて何十回となく往復してるのに、
「忌部一族(阿波勢力)」がな。 @阿波 >>774
>交易もしているから
「忌部一族(阿波勢力)」がな。 @阿波 >>940
>壱岐から上陸して呼子で一泊
>翌朝からスタートだろ
それでも何も変わらないぞ?
お前の旅程で百里と数えられるのは
呼子ー唐津間
唐津の邑内横断
唐津―前原間
前原の邑内横断
の4つで、四百里にしかならない
唐津の邑内横断、前原の邑内横断を数えるのも噴飯物だし
前原が伊都国だと自分で言っているのに、前原に着いてから
その横断百里を入れて二泊してるのもデタラメだしww
>無駄な長文書いてる暇があるなら
無駄じゃないだろ?
お前が追い詰められて、まともな反論がまったくできなくなってるww
はい、短里はおしまいですww
短里前提の九州説も全部破綻ww >>893
それが正解、畿内説は南を東にしようと
ヒッチャキだが、松浦から伊都までは
陸行だし、とのような経路かもわからない。しかし東南と書いてあるから出発時と見て良いよ。古代あの近辺の地形では方位を確定するには難しい。
倭人伝でも前を歩く人も見えないと記述ある。
道を、ジグザグに歩いたのだから方位は記述できなかった。
もし記述するとしたら松浦から東南に向かい、南に向かい、時には東に向かい、時には北に向かい、右往左往してイト國に着いた。
そんな報告できないよ、、
だから松浦から最初は東南に向かったと言う事実しか記述して無い。
これは各節、いと国の比定地がさほど変わらないから、あまり問題にすべき案件でも無い。
畿内説の南を東にしたい意図もわからんで無いが、松浦からイトまでの方位は
反論するには、参考にならないと思うよ。 >>943
>魏の使いが書いたことと違えば、すぐにデタラメとバレるから国史にはできんよ
またデタラメ、捏造を書いてる
陳寿は自分で倭国に行った訳じゃないんだから、魏使の報告、または
魏使の報告をもとに書かれた書物を見て書いてる
陳寿の書いたことが、魏の使いの報告と違うというのは本来はない
ただ、陳寿が陳寿の思い込みでいろいろ数字を作った形跡は見受けられるが
それが魏略とも同じ数字だから、当時のある意味常識と見てもよい
それから、陳寿は国、皇帝からの命令や指示で三国志を書いたのではない
自分が書きたかったから書いた私撰史書だ
唐代にこの時代の正史に選ばれただけで、ある意味陳寿の思惑だけで
書かれたバイアスのかかった記述だということも意識する必要がある >>865
>もっと突き詰めて考えなきゃ!!
トンデモがいくら突き詰めて考えても、無理無駄。 「阿波」のようにはいかない。 @阿波 >>951
正気かよ、チョンボ畿内説
呼子→唐津入口(泊)
唐津入口→唐津出口(泊)
唐津出口→前原入口(泊)
前原入口→前原出口(泊)
前原出口→イト国(泊)
5日5百里だ
途中の宿泊所を四カ所指定してるのに、どう寝ぼければ4百里になるんだよ >>953
魏の使いが絶対に知り得ない直線距離が、勝手に書けるわけがないだろ
捏造空中飛行畿内説 >>956
>魏の使いが絶対に知り得ない直線距離が、勝手に書けるわけがないだろ
心配ご無用。 頻繁に行き来している「忌部一族(阿波勢力)」に任しとき! わははははは @阿波 >>952
>ヒッチャキだが
ヒッチャキって何?
そんな日本語ないよ?
わざわざカタカナに変換してるから、誤入力、誤変換でもないよね?
やっぱり、日本語をまともに使える人じゃないんだねw
反日を拗らせた人だから、九州説にこだわるし、
とうとう魏志倭人伝の方角は正しいというのも放棄したww
今回は、末盧國、伊都國間だけ、方角がおかしいということに
したいみたいだけど、伊都國、奴國間もおかしいんだよ?
しかも、出発方向という言い訳も、自ら日向峠を否定したから使えないww
魏志倭人伝の方角記述は間違っていて使えない、という畿内説と
同じ結論にしかならないんだが、どうするんだろう?wwww >>947
帰路ではないか?
有明の潮で南下
西に出て海流に乗る >>955
お前の中で、前原と伊都国の位置関係はどうなってるんだ? >>959
>帰路ではないか?
その通り! 「阿波」からの帰路だ。 @阿波 >>865
>もっと突き詰めて考えなきゃ!!
トンデモがいくら突き詰めて考えても、無理無駄。 「阿波」のようにはいかない。 @阿波 >>956
魏の使いが何を書こうが、
陳寿が史書として三国志を書いている以上、書いてある距離と方角は、都邑間の二点間距離なんだよ
測量できるかどうかとか、航空写真がどうとかいうお前の寝言は一切関係ない
それが大陸文化の決め事なんだから、それに従って読むだけなんだよ
お前の考えたことは、この世界にはほぼ何の影響も与えないってことw >>960
マツロ国とイト国の通過点として上げたまでだ
本当に民家がないのは、県境付近だけだからな
それにしても4泊5日と言ってるのに、
上陸後に泊まってないだの、4百里だの、誤認レベルじゃないだろ畿内説 ある九州説論者曰く
「魏志に書かれた方角は出発地点のおける方角だ」
「(不弥国から)南至投馬國 (帯方郡から)水行二十日だ」
九州説がどれだけ恣意的な読み込みをしてるか上記の二点だけでもはっきりとわかる
帯方郡から奴国までの行程において実際の方角と魏志の方角は全て同一方向にずれているという何の主観も差し挟む余地もないごく単純な事実を普通に認めればいいだけなのに
ここまでくると哀れだわ ある畿内説いわく不弥国からは東にしか行けない!と出発方向しか見てなかったぞ >>658
>となると東行至不彌國百里は行ったけど
南至投馬國,水行二十日
南至邪馬壹國,女王之所都,水行十日,陸行一月
には行っていない事になるだよな。
不彌國と邪馬壹國女王之所都で萬二千余里がほぼ終わっている記載であるし、
投馬國の不彌國からの説明の「南至投馬國」も(奴國への説明と同じく)、
「至」の前に途中移動があった事を示す文言がないから、魏使らは投馬國へは行っておらず、
側副傍線行程國の説明になり、
そして「水行十日陸行一月」は、その前の(魏使らの郡からの目的地である)女王之所都の説明文言になるから、
この男の説明はバツ。 >>969
不彌國と邪馬壹國女王之所都で
萬二千余里がほぼ終わっている記載ではない。
50里で7万戸、どのような形で
どの位広さで狗奴国との位置関係を提示さえしない
南至邪馬壹國にも「至」の前に途中移動があった事を示す文言がない >>955
もう一度訊くが、お前は前原を、どこだと思って書いてるんだ?
糸島市になる前の旧前原市なら、完全に伊都国の範囲を含んでるぞ?
前原を出てから伊都国に向かうのはあり得ない
旧前原市にまとまる前の前原村なら、怡土郡ではなく志摩郡の方なので、三雲の伊都国に向かうときには通らない
そもそもお前は伊都国を前原と表現していたぞ?
Part715 >676
>前原は、可也山の東南の低地にあり、
>呼子の北東の海上からは、確認出来ないな
言うことコロコロはお前だろ? >>969
投馬国の想定地は?
女王国に属するのか?
次有烏奴國,次有奴國,此女王境界所盡。其南有狗奴國 >>663
>それにその言い訳をしても、今度は伊都国から奴国の方角がどうやっても東南にならない
伊都国から奴國の説明は、「至の前に途中移動を示す文言がない」から、
魏使らは通っておらず、側副傍線行程説明文である事になり、
だから伊都国の次は「東行至不彌國百余里」(行という途中移動があった事を示す文言がある)になる、
不彌國は、姪浜を通って次にある所の、藤崎西新町付近が入り口になる事になる。 >>971
通過点としての代名詞に過ぎない
深江でも福吉でもな
では、4泊5日が4百里になるのは、いったいどんな誤認なんだ? >>684
>それでどうやったら、伊都国から奴国(早良)が東南になるんだ?
前原〜糸島水道付近の伊都国の出口から東南百里(短里で7.6km位)は、
ほぼ「日向峠西麓の平野部」であり、そこが二万戸の奴國の入り口であり、
奴國の範囲は、そこから日向峠を越えた室見川中流上流域やその周辺山地帯であった事になり、
吉武高木付近が奴國の中心地になる。
伊都国から真北に向かって峠を越えて東にすぐの場所だぞ> >>964
呼子から三雲まで4泊5日もかかるなら呼子には上陸しない >>974
>では、4泊5日が4百里になるのは、いったいどんな誤認なんだ?
前原はすでに伊都国に着いている
伊都国に着いてから、さらに伊都国に向かうというのが意味不明でおかしい
どうやら、お前がこの辺のちりを知らずに適当なことを書いただけらしいが、
どちらにせよ、
唐津入口→唐津出口(泊)
前原入口→前原出口(泊)
の短距離に一日かけるのも、
一つの邑の中を一日かけて移動するというのも、
一つの邑の中の移動を百里と言い張るのも、デタラメすぎる
お前の言い分では、>>943
>魏の使いが書いたことと違えば
だそうだから、魏の使いがそんなことを書いた設定になっているが、
冊封使たる建中校尉の梯儁さんをバカにし過ぎだぞww >>977
そんなもん、マツロ国がどこだろうと同じだ
時間優先なら直接イト国にいく
安全優先なら呼子になる
このことからも、安全優先なのに唐津へ行くはずない
それなら、最初からイト国でいい >>978
前原は、通過地点としての代名詞だ
なぜか県境付近の何もないとこに泊まった設定にしたがる畿内説がいたからな >>965
これ、反論してる気になってるの?
これ、相手にダメージになると思ってるの?
全く意味のある反論ができないから、繰り返し同じことを書いて
逃げてるだけじゃないか?
無能もここまで行くとすげぇな(ほめてはいない)
そして、お前が空飛ぶとかなんとかいくら言っても、現実には何の影響もない
航空写真がない時代でも、真東は真東だし見通すことができれば方角は分かる
航空写真がないと方角は分からないことを証明しない限り、お前の言い分には毛ほどの価値もない
>>955
>唐津入口→唐津出口(泊)
>前原入口→前原出口(泊)
これ、唐津や前原の大きさからして、あり得ないよね?
本当に苦し紛れのデタラメしか書かないww
泊数を稼がなきゃいけないからって、デタラメを平気で書けるw
これが九州説クオリティww >>982
そのおとり
見通すことができれば方角は分かる
逆にいえば、見通すことができないと分からない
ずっとそういってるぞ
前原は、アイコンとして使ってるだけだ
福吉でも深江でも、好きなところを当てればいい >>979
唐津
久里双水古墳は、全長108.5m、
後円部径62.2m、前方部幅42.8mの
前方後円墳がある。那珂八幡より大きい
3世紀後半とも4世紀前あるが? 新スレ立てました。
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1629626553/l50
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*本スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ >>984
港が整備されてないことと、何か関係があるのか? >>663
>>>657
>>私は初めに向かった方向が東南で良いと思う。
>
>それは、九州説のご都合主義のインチキでしかない
>これも何度も何度も書いているが、大陸の史書の地誌記事では
>中心都邑間の二点間距離、直線方向がフォーマットになっているのだから
本国なら詳しい測量が可能だが、日本までやってきてそこまでできるわけなかろう
それに他国に来てそこで測量をするのが敵対行為とみなされるのは常識だろ >>979
そこまで頑張って、デタラメを強弁しても、
結局は途中で方向が分からなくなっちゃったから
出発方向の東南だけでいいことにしようテヘペロ なんだろ?
頭悪すぎww
>>964の
>本当に民家がないのは、県境付近だけだからな
この部分が30キロ以上ある
この民家もない悪路のところも100里で
人里の一つの邑の中をほんの数キロ進むのも100里ww
前は道が険しかったりしたらなかなか進めないから、
同じ百里でも伸び縮みするって言ってたのに、
進みにくいところが長い距離で、人里が短距離とか
本当に頭ワイテルとしか言えないなww
本当に、その場の思い付きのデマカセしか書かない
本当に、頭悪いww >>701
>大陸史書での地誌記事は中心都邑の二点間距離で示すってのは
航空写真とは無関係の大陸文化での決まりだからww
ダメだ。古代中国では、二国間の移動距離は、(中心都邑の二点間距離ではなく)、
原則は、それぞれの国の出口や居住外縁部から、相手国の入り口や居住外縁部間の里数だ。 >>989
鹿家→福吉→大入→深江
この区間で、30km以上あるというのは、いったいどの区間のことだ?空中浮揚畿内説 >>983
結局は、自分の言ったことにすら一切責任が持てないってことだなw
四泊するから五百里だと言ったが、それが妥当かどうかは知らないってww
まあ、最初からなにも考えてないただのデマカセだしこんなもんだな、九州説の言うことなんてのはw >>755
>つまり倭人伝の方位は間違っている
いや、大体合っている。 >>992
当たり前だ
具体的にどこに泊まったかなんて分かるはずがない
5日かけて歩いたことの合理性があれば十分なんだよ
30kmに及ぶ無人地帯があったなんて、空飛ぶ畿内説の妄想だ >>763
>末盧國からの「東南陸行五百里到伊都國」の「東南」は、
出発時点での出発方向の説明であった
で目的地の伊都国はどこの方角に向かえばいいのでしょうか?
いや「方向」は書かれていない。
そして、大体「案内人や道標に拠って海岸沿いに行けば、伊都国の入り口」に着く。 >>983
>見通すことができれば方角は分かる
背振山脈の山際の海岸線を通るときには、
太陽も東松浦半島も見通せるから、
方角は分かるな?
この時点でお前の大好きな呼子の東南東で
あることが確認できて、
ここから北の方に進んだら、呼子から見て東南にはならず、
東の範囲内になることが確定
そして、ここからさらに東北に進んみました
さてここは、呼子から見て東でしょうか?
東南でしょうか?
背振山脈のところで東南というより東まで北上してあるのは、見通しがきくので確定ですw >>765
>魏志に書かれた方角は実際の方角と(すべて時計回りに)間違ってる
いや、全て「誤差が45度以内の範囲で、大体合っている」。
これは主観を差し挟む余地のない単純な事実やで
これがすべてでこれ以上でも以下でもない >>996
東松浦半島が見えることと、呼子が見えるかどうかは別だぞ
むしろ、島や岬の陰になって見えない
少しは考えろと、いったい何度言わせるんだ
シナ人は空を飛べない オモシロ畿内説まとめ
Q:奴国から南に向かって畿内に着くのは無理でしょう?
A:そんなん知らへん!!
Q:東の海の先に倭種の国があるそうですね?
A:知らんのや!!
Q:シナで見つからず、魏志倭人伝に記載がなく、実在しない年号が記された三角縁神獣鏡ってなんですか?
A:知りまへん!!
Q:畿内のどこに倭国大乱の跡があるのですか?
A:知りまへんのや!!
Q:纒向遺跡から大陸系遺物は出土しましたか?
A:知らんちゅうとんねん!!
Q:吉備国や出雲国を通らずどうやって畿内に入るのですか?
A:知らへんのや!!
Q:帯方郡から12000里だと畿内に届かないのでは?
A:知らへんゆうとるやろが!!
Q:本当に畿内に邪馬台国があったんですか?
A:あったで(ドヤッ
Q:ではその証拠は?
A:知らへん!!知らんがな!!知っとるかいな!! このスレッドは1000を超えました。
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