邪馬台国畿内説 Part717
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1629105392/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 >>732
昔からの港と考えるのが普通
唐津の港湾の地形は、長年の治水工事によって形成されたものだしな >>731
実際は可也山は呼子の真東よりもやや北で
三雲が呼子の真東
目標物の可也山を呼子の真東と考えたなら
その程度のすぐ南(三雲) >>715
近畿説では、使者の間違いはないと思います。
陳寿が書き換え、
自古以來,其使詣中國,皆自稱大夫。夏後少康之子封於會稽,斷髮文身以避蛟龍之害
会稽の観念が強く書き換えたと推測。 >>279
>半分程度しか反論できんのか? 勝者の貫録じゃね〜な。 わははははは @阿波
残り半分は的外れで放置可 >>735
>唐津の港湾の地形は、長年の治水工事によって形成されたものだしな
つまり唐津港ガーとか言ってる古田説はゴミ >>739
真東だと言い出したのは畿内説だぞ
それに、呼子から可也山山頂は見えてもイト国は見えんよ
シナ人は空を飛ばんからな >>742
畿内説はによれば、虹ノ松原(唐津)に丸木舟で乗り上げたらしいぞ
メルヘンだよな >>743
三雲は見えないから近くの可也山を目標物にしたという主張だろ
太陽が役に立たないから
そして45°間違えてしまった 九州じたいの角度は変わらないんだわ、めんごめんごw
https://i.imgur.com/Nei2LJs.jpg
對海国から見て一大国は
本来は南東の位置にあるのに
渡海方角の南と誤認で、こうなってると
https://i.imgur.com/Xf1Ln3u.jpg
>>734 >>743
>真東だと言い出したのは畿内説だぞ
つまり畿内説は真実 >>746
それだと九州は帯方郡の南
倭人は東南大海之中 >>747
これ奥山の証言だぞ
俺は、丸木舟で海洋なんて無理だと言ったのに、潟湖は丸木舟のほうが向いてるんだといって聞かない >>751
三雲が呼子の真東であるのは事実
行程記事は45°間違えてしまっているのも事実 >>752
だからどうした?
可也山を目印にしたため誤認したと、ずっと言ってるじゃないか >>746
長崎県平戸あたりが九州の北端にくるように
傾けたて事ですね。
長崎県平戸あたりを末盧國、
伊万里を伊都国と仮定して考えてみます。 >>755
誤認する理由があればな
逆にいえば、障害物のない海をまっすぐ進むなら間違えない 帯方郡から奴国まですべて実際の方角より同一方向(時計回り)に誤認してて、逆方向、すなわち反時計回りにはいっこも誤認してへん
特に九州本土に上陸してから誤認の程度が大きくなってる
このことからごく素直に導かれる事実は、魏志に書かれた方角はなんらかの理由で実際より時計回りに誤認してたってことやけど、それを認めたくない九州説の人が末廬国の場所はほぼ定説となってる唐津ではないとか、魏志に書かれた方角はあくまで出発地点での方角なんだ(これには笑った)とか、奴国には行ってないが不弥国には行ったとか無理に無理を重ねることによって自説を固辞しようと頑張ってるちゅうわけや >>756
可也山を目印にしろと言ったのは畿内説だぞ
確かに、山頂ならばどこからでも見えるから目印にちょうどいい >>757
海もまっすぐは進めないし
目標物は必要 >>758
畿内説が、突然方向オンチになったりら正常になったり、都合次第でこじつけてるだけだろ
理由があれば誤認することもあるが、障害物のない海上なら誤認しない
それだけのことだ >>760
遠くの山やら岬だろ
そして、太陽を遮るような障害物はない 末盧國からの「東南陸行五百里到伊都國」の「東南」は、
出発時点での出発方向の説明であった
で目的地の伊都国はどこの方角に向かえばいいのでしょうか? >>762
可也山も遠くの山、可也山よりも太陽のほうが高いのでどこからでも見える
しかし45°間違えてしまった >>761
魏志に書かれた方角は実際の方角と(すべて時計回りに)間違ってる
これは主観を差し挟む余地のない単純な事実やで
これがすべてでこれ以上でも以下でもない
このシンプルな事実を認めたくないから例えば
「魏志で書かれた方角は出発地点における方角」
とか噴飯ものの苦しい主張をせんとあかんことなるわけや >>759
魏志に記述はない。
九州説ならどうする? 楽浪郡・帯方郡の時代を通じ、双方合わせて何十回となく往復してるのに、
毎度毎度同じように方角を間違えたなどと・・、
畿内説も北部九州説も、永遠のアホ不滅ちゃうかww >>764
太陽は常に一定の位置にはないからな
場所によっては木々や、日向峠()に隠れる
可也山は、海岸沿い歩いてるときずっと見えるし、イト国が近づいても見えたまま >>767
畿内説がそんな主張した証拠は?
まいど捏造ご苦労様 >>766
分かりやすい目印は必要だろうな
太陽が見えない場所でも迷子にならないように >>768
太陽は常に一定の位置にはないので
海上でも方位を間違えてしまう >>753
>可也山を目印にしたため誤認したと、ずっと言ってるじゃないか
どう誤認するの?
九州説さん
非現実的な設定を考えても無駄だよ
非現実的なんだから >>767
交易もしているから、
陳寿の書き換え。
膨大な三国史の一部。
少ないデータで自己解釈。
そんな時間かけていたとは思えない。
記紀どうように原理主義かな >>772
海上では太陽が移動しても、それがずっと見えてる >>773
簡単だ
真東あった目印の山が、今は北にあります
ここは目印にした地点からみて、どの方向に当たるでしょう?
ただし、地図やコンパスはないものとします
答えてみろよ、畿内説 >>775
5日太陽を見たけれども役に立たなかったので
45°間違えてしまった >>770
それにしたってやや実際よりも時計回りに誤認してるで
狗邪韓国を定説通り金海とした場合な
海に渡ってからは情報不足のせいかより方角の精度落ちてるわ
末廬国を定説通り唐津としたら70度ほど、インチキ呼子としたら50度ほど間違えてる
これは主観を差し挟む余地のない単純な事実や
魏志の方角が実際の方角とずれてるという事実やで >>777
太陽が見えなくなる場所を通るからな
海上では起こらない >>778
陸地では、場所によっては太陽が見えない
海上との大きな違いだ >>779
太陽が昇る方向を確認したら見えなくなる場所なんてほとんどない >>765
これ読め
>>657
(私は初めに向かった方向が東南で良いと思う。倭人伝記述の通り方向確認は難しいと思う。また、魏の使いは最初の一回しか末盧国しか行って無いと思う。
以下倭人伝より
末盧国に至る。四千余戸があり、山と海すれすれに沿って住んでいる。草木が盛んに茂り、行く時、前の人が(草木に隠されて)見えない。
このような土地で方位を推し量る事は難しいと思う
このように前を歩く人も見えない状況で、太陽を元に方位確認も難しいと思う。)
畿内説は伊都國への東南が間違いたがら、水行の南は東ともって行きたいようだが、、、残念ながら、水行30日では誤認はありえない。太陽、北極星、でわかる。 >>782
>魏の使いは最初の一回しか末盧国しか行って無いと思う。
作り話 >>779
じゃあ邪馬台国まで陸行一月すれば方角なんて無茶苦茶なるやん
邪馬台国が南いうんは嘘なるわけやな >>772
瀬戸内海で起きるか?
それも30日も水行してたら単純
北極星は山陰の方角、太陽は四国の方角 >>781
最初は可也山から太陽が昇る
移動するに連れ、可也山より右側から太陽が昇る
それがどうした
言い訳するにしても、少しは考えてからにしろよ、畿内説 >>772
おまえは知らないの?
太陽が一番高く昇る方位が真南って事 >>784
陳寿の書き換えだな。
会稽の観念で自己解釈。
使者の記禄に「雪」とか「氷がはる」とかの
記禄があれば変わっていたかも? >>785
がしかし糸島までで45°間違えている
呼子〜前原は太陽が見えない土地ではない >>787
それなら、末廬国から伊都国、それから伊都国から奴国へ行く場合も太陽が見える都度微調整したら済む話ですやん で、須恵器ガーとか言ってた九州説チエオク君は逃げたのかな >>790
日向峠()など、高い障害物が南側にくれば見えないぞ 8分割の方位は各々45度の範囲を持っている
東と言っても、東北側に22.5°東南側に22.5°の範囲が含まれる
磁極と自転軸の北は測定地点で変動する
話題の九州北部で言うと7°少し西に傾く >>788
東に移動して太陽を見ても南に移動して太陽を見ても一番高く昇る方位は真南
太陽が一番高く昇る方位が真南って事を知っていても
45°間違えている >>781
それがあるのだ、松盧国
倭人伝
末盧国に至る。四千余戸があり、山と海すれすれに沿って住んでいる。草木が盛んに茂り、行く時、前の人が(草木に隠されて)見えない。
このような地域で方位を推し量る事は難しいと
また、前を歩く人も見えない状況で、太陽を元に方位確認も難しい >>791
微調整しただろうな
だが、目印にした可也山とイト国との位置関係を覆すような発見はできなかっただろう
シナ人は空を飛べないから、もう呼子は見えないしな >>783
そこをつくの?
そこは、大事なところではない
全体を読め >>796
郡使の往来で常に滞在する伊都国に行く他のルートがあるなら
そっちのルートを紹介する >>799
そのころには太陽はもう日向峠より高く昇っている >>799
>>日向峠はそもそも唐津から見えない
>イト国までの途中で見えるさ
>南側にな
どこから「日向峠」が南側に見えるの?
九州説は発狂してない? >>802
日向峠が見え始めてから見えなくなるまで
わずか数時間で駆け抜けたのか? >>803
ずっと太陽が見えてるのに90°間違えたと言い張ってるのが畿内説 >>805
日向峠の北にきたときだな
畿内説では、なぜか平坦な道を避けて日向峠を越えたことになってるが >>793
>日向峠()など、高い障害物が南側にくれば見えないぞ
っていうか
「峠」が「高い障害物」?
日本語を知らないんじゃ無いのか? >>807
まだ女王国にも至ってない入口の呼子〜三雲程度の距離で45°も間違えてるから >>795
末盧国に至る。四千余戸があり、山と海すれすれに沿って住んでいる。草木が盛んに茂り、行く時、前の人が(草木に隠されて)見えない。
このような地域で方位を推し量る事は難しいと
また、前を歩く人も見えない状況で、太陽を元に方位確認も難しい
さいしょに向かった方向が東南。
あとは、案内人について行くだけ 「魏志の方角と実際の方角が(すべて同じ方向に)間違ってる、特に九州本土に着いてからその程度が大きくなってる」
これは単なる事実で、かつこれがすべてやわ
水行では方角は間違えにくいが陸行では間違えてしまうという無理な仮定をしてもその場合、魏志いわく邪馬台国まで南へ陸行一月なんやからその南という方角が間違ってるということになってしまうわな
無理に無理を重ねるからこんなことなってしまうんやで >>811
一度しか通らなかった太陽すら見えない不便なルートなら、出発方向なんかなんの役にも立たない情報 >>809
峠のふもとから見たら障害物だろ
だから峠を「越える」とか峠を「避ける」という
大丈夫か?畿内説
【ハイライトメモ】
峠は障害物ではない >>810
目印が悪かったな
大丈夫、海上ならば起きないぞ、畿内説 >>801
海岸沿いだろうな。荷物もあったのだから。
しかし、何故か分からないが陸行を選んだ >>812
日向峠を越えたと言い出したのは航空写真だぞ >>817
安全性を優先すれば水路は最低限にしたいだろう
天候の急変や潮の高さなど、リスクが高い >>816
わずか5百里で45°も間違えといて
後は間違えないと言い張ってるだけ >>821
30日間も海上で90°間違え続けたと叫んでる畿内説とも思えないな >>814
停泊した場所がわかっていたら、その場所からは方位はわかる。
海岸ならなおさら方位はわかる。星が見える。どこの方向から太陽の光で明るくなってくるかもわかる。
その後は草木の茂道を進むから方位はわからなくなる。だけど案内人について行けばイト閣に着く。 >>824
そう、海上なら起こらないよな
ましてや90°以上もなんて 「魏志に書かれた方角は出発地点における方角である」
これは歴史に遺すべき迷言やわ
外で思い出し笑いしてもうたらどうしてくれんのや >>825
一度しか通らなかったんだろ?
郡使が通常使うルートが正式なルート >>826
出だしもゴール付近も、陸路なら条件は同じ
太陽が隠れたりぐるぐる迂回すれば、多少の誤認はある
現在も同じだ >>820
前行く人も見えない地域で方位は測れない。 >>831
見える地域がまったくなかったのか?
東南陸行五百里 >>827
お前が言い張っているだけの話
確認できる方位は45°間違ってる
そして倭の五王時代の後漢書では南の狗奴國は東に90°修正されている ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています