邪馬台国畿内説 Part717
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1629105392/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 >>849
ずっと書いてる
海上ではずっと太陽が見える >>851
5日間太陽を見たけれども、太陽は微調整の役に立たなかった >>847
不彌國までと推測。
水行二十日,水行十日,陸行一月
もっと詳しく書くよ。
卑弥呼に謁見、詔書が目的と帰路が目的
邪馬壹國,女王之所都は目的ではない。 >>842
地域によって変わる。見通しの良い平野部なら方位はほぼわかるであろう。 >>852
微調整の役にたってる
地図もコンパスもないのに
せいぜい東と東南の差でしかない
8分割方位の隣だ
さすがに海上で90°はないけどな >>854
平野部だけわかっても水行三十日陸行一月で間違える >>852
だったら北極星でも良い
瀬戸内海で北極星は山陰がわ
太陽は四国がわ
南を東に30日も間違えない >>850
バカげた答えの834に言え
地点地点で、進む方向がかわると言うこと
当然だろ。でどの地点で北東へ進む。
つまり、陳寿のデータの抜けがあるていう事 >>855
8分割方位だと22.5〜67.5°なので
70°近く間違ってる可能性もある 三国志の記述によれば3世紀の倭人は顔中体中真っ赤な入れ墨だらけ
ところが記紀では入れ墨族は
「天孫族」とやらにひたすら殺戮されていくウホウホ蛮族扱い
「天孫族」と入れ墨族のハーフのイワレビコが
入れ墨族の小邑を配下にしたという記述はあるが
イワレビコの配下の入れ墨族もやっぱり他の入れ墨族を殺戮していく >>857
成り立つな
魏志に書かれた方角は出発地点における方角である
案内人について行ったんだろー >>859
東と南の間違いだとどうなるか、少しは考えてから書けよ
書く度に、ブーメランとなって畿内説に跳ね返ってるぞ 阿波説以外、
なかなか丁度いい学説が出ないね
もっと突き詰めて考えなきゃ!! >>864
またチョンボをこかないように少しは考えてから書けよ、チョンビー渡土堤遊牧民 >>866
ほらよ、PC爺にプレゼントだ
(\
\\
) )
___//
/ \ (/\
/ (●) U(●)\ <東と東南をまちがえてる!
| (_人_) |
\ `⌒ U /
/⌒ ̄ ̄ ̄ ̄/⌒ニつ
| ____(ヾイソ⊃
| | ̄
| |
畿内説 >>862
方位がわからない地域では案内人について行く。
瀬戸内海航路は案内人がいようがいまいが、魏の使いは自力で進んでいる方向は確認できる、それも30日も水行していれば。、
北極星は山陰がわ、太陽は四国がわ、
だから瀬戸内航路で南を東に間違ある事は無い。畿内説は方位は諦めた方が良い、 魏志曰く投馬国へは南へ水行するんだろ?
で、九州説論者曰く水行ではずっと太陽が見えてるから方角を間違えないんだろ?
でも北九州の港から南へは行けないぞ。
南は九州本土なんだから。 >>706
>ほう、唐津や前原に民家はないのか
>コロコロ過ぎるぞ畿内説
本当にバカなんだなw
唐津や前原の間のどこに泊まるのかと聞いてるんだが?
お前のガバガバ理論では、一日分歩いて移動した距離が百里なんだろ?
唐津や前原にいくら泊まっても、移動しないのであれば百里に算入されないぞ?
5日で五百里という嘘をつき通すなら、移動に伴う宿泊場所を示さないと
お前の言っていることはデタラメってことになる
もう一度訊こう
呼子から唐津までで何泊するの?
途中に民家のありそうなところは皆無なんだけど?
唐津から糸島までで何泊するの?
途中に民家のありそうなところは皆無なんだけど? >>870
誰だよそいつは
効いただろ?
障害物だらけ、迂回だらけの陸上で、 東と東南を間違えてる!と叫んでるのが
見通しよくて、ほぼ直進の海上で、
東と南を間違えてる奴だなんて自虐ギャグだよな >>704
人間って、ここまで愚かで醜くくなれるんだな
一旦、嘘をつき始めた人間の末路ってのはこうなるしかないのか
>いつまでも海岸沿いを歩いてたらイト国にたどり着けない
どこにそんなことが書いてある?
https://i.imgur.com/ZX47bMs.jpg
この図の黄色い線が、お前のいうインチキの末盧國・呼子から見て
東と東南の境になる22.5度の線だ
この黄色の線と海岸線がぶつかるところは、お前の行程だと海岸線を
歩いていることになっているし、海岸線で見通しがきくから東松浦半島の
突端方向も見えているし、方位も分かるんだよな? 捏造君理論では?
で、東南と東の境を越えて、5メートルでも北側に入ったら
それは東なんだよな?
お前は真東より5メートル進んだら東南だって言っていたけれど、
どれだけ南に行ったかは分からなからっていう逃げ口上だったよな?
この場合、境界線を越えたことは視界が聞くんだからばっちり確認できる
航空写真なんてなしで分かる訳だ
そこから北東に進む限り、南東にはならない
海岸線から離れても、北東や東に進む限りは、南東にならない
本当にバカ
アタオカ!w >>868
畿内説ではないよ。
まず、潮の流れが複雑、
瀬戸内海航路は無理
使者だよ。入港した時点で案内するよ。
北部九州では南へ水行できない。
東か、西へ出て南だな
川下りするのか? >>871
脳みそないのか?
唐津の入口で一泊、出口で一泊、
前原の入口で一泊、出口で一泊、
合計4泊5日、5百里の旅だ >>707
>上陸した港付近って程度だな
ということは、大陸史書ではそこは末盧国ではない
大陸史書の地誌記事では、中心都邑の位置と方角で示すのが決まりだからね
色々がんばったけれど、そこが国の中心ではないと認めた時点ですべて破綻だww >>713
>女王国の都でなく女王之所都
これでもう相手するのやめるよ
あなたも知識が足りなさすぎるし、漢文読めない人でしょ?
女王之所都で、女王の都するところだ
女王の都するところというのは、
女王が都を置き女王が住んでいるところだ
都と住んでいるところが別なんていうのは妄想以下のたわごと >>770
>たとえば半島から対馬は正確に南だぞ
半島からってww
出発は狗邪韓国、金官伽耶だよ
全然「正確に南」じゃないww
https://i.imgur.com/hEtzboK.jpg
さらに言えば半島南端の方から天気のよい日は
ぎりぎり対馬が見えるそうだが、その見える部分は
対馬の北端部分になるから、さらに東寄りに見えることになる >>877
もうそんなことしか言えなくなったか
哀れな畿内説だ >>879
また空飛ぶシナ人かよ
いい加減成長しろよ
対馬は魏志倭人伝にあるとおり、切り立った崖だらけの地形だ
上陸するとすれば厳原港だな 水行は方角が正確と主張する九州論者さん
>>869への回答よろしくやで
まさか都合の悪いことはスルーなんてせぇへんよな? >>801
>郡使の往来で常に滞在する伊都国に行く他のルートがあるなら
>そっちのルートを紹介する
まだこんなことを書いてるチエオクがいるな
魏志倭人伝に書いているのはルート紹介じゃなくて
倭国の地誌記事
国と国との位置関係や、それぞれの国の特徴が書いてあるもの
そして、大陸史書は先行史書のコピペがメインで、そこに新しい知識を
書き加えたり修正したりする
末盧国の話は、帥升の遣使の時の記事を引き写しているだけ
末盧国から東南に行っても伊都国には着かないよ
別の行き先の方向が混入しているだけ >>878
漢文バカすぎる。
きっぱり、お断りしますよ。
宗教地の都である。
共立王が
なんら、まとまらない九州地域や
国際交流地、出入り口に定住なんら問題がない。 >>883
投馬国は、2日〜3日東に進んでから、後はずっと南西だ
ずっと太陽は見えてるから、正確に南と分かる >>884
末盧国から北東に行って憑くのは怡土国、、
東南に行ってこそ、正しい伊都国に着くことができるのだよ >>868
それは雑多九州作り話脳内畿内説
学者の通説畿内説は考古学で比定するとまずわずか5百里で45°間違えている
博多湾沿岸は南側からの影響を微塵も受けていない
結果的に南至は東ということ >>888
また30日間海上で間違い続けた畿内説が自虐してるのか >>886
ん?投馬国は水行二十日ですよ。
2,3日東に進んで残り17,18日は南西って沖縄でも行くつもりですか? >>875
>唐津の入口で一泊、出口で一泊、
>前原の入口で一泊、出口で一泊、
あんまり笑わせないでくれるかな?
唐津の入口ってどこだ?
唐津の出口ってどこだ?
唐津という人里の中つまり大陸人の感覚だと
一つの邑の中で一日歩いたから百里にするのか?
呼子から唐津まで20キロ
唐津の中は端から端でもせいぜい5〜6キロ
唐津という邑まで来て、その中心部で泊まらずに
入口と出口で一泊ずつするw
大陸からの大事な冊封使の使者さんもいるのに
わざわざ町の入口と出口で一泊ずつして、
町の中心の有力者のところには泊まらないwwww
どんどんデタラメ度が上がってるんだけど?ww >>890
想定内
帯方郡からの所要日数だ
10日で九州本土、あと10日で日向だ
今度は両者の距離が違うと言い出すだろうから補足
九州本土までは東シナ海を渡れる比較的大きな船だが、日向までは海岸沿い進めればそれでいい小型船
ようは、伝聞を継ぎ足しただけで、投馬国には行ってない >>887
東南に行って北東に行かなくても
伊都国でもいいんじゃないの?
想定地が違えば。 >>891
人家のあるところだ
最初の集落の入口と、最後の集落の出口だな
魏のお客さんに野宿はさせられんだろ
わざわざ何もないところで野宿はしないぞ、何も考えてない畿内説よ >>887
>東南に行ってこそ、正しい伊都国に着くことができるのだよ
東南に行って行きつくのは佐賀平野だけど、そんなところに伊都国があったら
伊都国にいる一大率はどうやって臨津搜露の職務を果たすの?
九州の北岸にいないと、無理だよね?
こういったら、そのたびに末盧国まで行くって言い返してきたやつもいるけど
それじゃ、入国管理の務めが果たせないだろ?ww 九州説論者の主張通り、水行の方角に間違いがないとすると、魏志曰く
投馬国まで南へ水行二十日
邪馬台国まで南へ水行十日陸行一月
なんだから投馬国は現在の鹿児島市あたり
邪馬台国に至ってははもう九州からだいぶ南へ外れてしまうことになる
それでいいのでしょうか? >>895
北東に向かう地点の
資料、史料が陳寿が見ていないか
手元になかったと考えるが妥当と思う。
異論認める >>892
郡から日向の行程なら船を乗り換えるようなことは書いてもないし
考古学以外に比定しようがない >>896
途中から所要日数に変わってる
前段は投馬国までの参考情報
後段は帯方郡から邪馬台国までの所要日数
邪馬台国は、不弥国の南だ >>898
瀬戸内海を越えたというが、いちいちどこで降りて休んだと書いてるか? >>900
学問の通説畿内説の根拠は考古学
投馬國は吉備説と山陰説 >>892
それでも矛盾が生じてるで
帯方郡(現在のソウル付近)から投馬国(あなたの想定では日向)の方角は南ではなく南東なんやから
水行の方角がもはや正確じゃなくなってしもとる >>901
それは畿内説の脳内だけにある幻の通説だな
難波津に丸木舟でのりあげるメルヘンの世界だ >>875
>唐津の入口で一泊、出口で一泊、
>前原の入口で一泊、出口で一泊、
それ、お前のガバガバ理論でもどうやっても計算が合わないぞ?
お前は呼子から前原までで5日で五百里だから、
一日歩くと百里
長かったり短かったりするっていうガバガバ理論だよな?
で、一日壱岐から船に乗ってきて疲れているのに、
呼子には泊まらず20キロ歩いて唐津の入り口に着いたら、
ほんの数キロ先の唐津の中心には向かわず入口で一泊 これで百里
次の日は、唐津の入り口を出発して唐津の有力者に挨拶するか
しないかは知らないが、ほんの5〜6キロあるいて唐津の邑の
端まで来たらそこで一泊 これで二百里
次の日には頑張って海沿いの難路を40キロ弱歩いて
前原の入り口に着いたらほんの数キロ先の前原の
中心には向かわずに、前原の入り口で一泊 これで三百里
で次の日に、前原の入り口を出発して前原の出口まで歩いて
一泊
前原(伊都国)に着いているのに前原(伊都国)についてから、
前原(伊都国)を横切る距離を入れて これで「四百里」
あれれ〜? おかしいぞ〜?
末盧国から伊都国、呼子から前原まで五百里のはずなのに
四百里しかないwww
どうしよう?wwwwwww >>899
なんで官もいる不弥国なんだろうな?
邪馬壹國も里数でいいのに
水行十日,陸行一月。
目的が邪馬壹國でなく、卑弥呼が目的とみる。
次有奴國,此女王境界所盡。其南有狗奴國 >>902
南東だろ
今いる不弥国は帯方郡から南東
そして、今いる不弥国から南に日向はある >>903
学問は雑多ど素人九州作り話を畿内説に変えようという気はない >>906
不弥国から南じゃなくて郡から南に水行なんだろ? >>907
クラファンまで使ってカネ引っ張ろうとしてる、ゴッドハンドたちのことか? >>899
>前段は投馬国までの参考情報
>後段は帯方郡から邪馬台国までの所要日数
それはご都合主義のデタラメで無理がある
魏志倭人伝の記述は二国分ずつ、対にして表現を揃えてある
同じ表現に揃えてある投馬國と邪馬台国で内容が異なると
する読み方は、明確に不正な読み方
始度一海千餘里至對馬國。其大官曰卑狗、副曰卑奴母離。方可四百餘里。有千餘戶。
又南渡一海千餘里(略)至一大國。官亦曰卑狗、副曰卑奴母離。方可三百里、有三千許家。
又渡一海千餘里、至末盧國。有四千餘戶、濱山海居。草木茂盛、行不見前人。東南陸行五百里、到伊都國。官曰爾支、副曰泄謨觚、柄渠觚。有千餘戶。
東南至奴國百里。官曰兕馬觚、副曰卑奴母離、有二萬餘戶。
東行至不彌國百里。官曰多模、副曰卑奴母離、有千餘家。
南至投馬國、水行二十日。官曰彌彌、副曰彌彌那利、可五萬餘戶。
南至邪馬壹國、女王之所都。水行十日、陸行一月。官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳鞮、可七萬餘戶。 >>908
郡から20日で、ここ(不弥)からは南だ >>911
それが不正な読み方だ
大前提として、郡から万二千里なんだから、これと矛盾する読み方は不正 アナログ時計の秒針15秒が真東だとすると
東の範囲は11秒250ミリ秒から18秒750ミリ秒の間
北の方角に傾いていてもこの範囲なら東となる
東南の範囲は18秒750ミリ秒から22秒500ミリ秒の間
18秒750ミリから東南となる
魏志倭人伝に列記されている国々の地理データは陳寿が記載した時点以前に帯方郡の役人が折々に旅して測定した記録をまとめたもの
その際は国の中心部から次の国の境界までを測定しその方角を記した よって国々の領域の大きさなどの影響を受けることになる
例えば伊都国から奴国へ移動するときに奴国への境界が東南方向にあれば東南と方位を記すことになる 投馬国へ水行二十日というのを
A.帯方郡から二十日と解釈しようが
B.不弥国から二十日と解釈しようが
水行の方位は正確だと仮定すると矛盾が起きるんやで
Aの場合、帯方郡から南へ行くと東シナ海で大陸はあらへん
Bの場合、不弥国は北九州のはずやから南へは行かれへんし、もし鹿児島あたりやとすると今度は邪馬台国が沖縄辺りなってまう。だってこの場合、魏志の読み方は放射状に読んでるんじゃなく直線的に読んでるんやからな >>910
どうしても福岡の比定は竹島どろぼうや関西のよっちゃんの作り話なのでそういうところにひっかかるみたいだが
福岡の学者も学者の通説畿内説 >>912
ここ(不弥)から南に何日か書いてないことになる >>916
在日の多い畿内が、資産価値を増やそうと暗躍してるんだろ >>917
差し引けは10日だ
というか九州本土までの10日(実体験)に、日向までの10日(伝聞)を足してるだけ >>912
「南至投馬國 水行二十日」を
「(不弥国から)南至投馬國 (帯方郡から)水行二十日」
って読むってこと? めっちゃ恣意的な読みやん!
でもそれでも矛盾が生じるで
あんた、不弥国と投馬国をどこに比定してるんや?
そんでその移動手段はなんや? >>915
放射読みも矛盾、伊都国から
東南至奴國は行っていない。
至の前に「行」とかないから
どうように南至投馬國、南至邪馬壹國
も「行」とかないからね。なので行っていない
まあ、これが卑弥呼が不彌國いる根拠になっている。
東南至奴國は、狗奴国との紛争地域
当然いけない >>919
途中陸行してるなら郡から水行20日じゃねぇじゃん >>913
>大前提として、郡から万二千里なんだから、これと矛盾する読み方は不正
矛盾しないよ?
陳寿の地理観では、
帯方郡から狗邪韓国まで循海岸水行が七千里
そこから渡海一回が一律千里を三回で三千里
倭国の本土に着くまでが一万里ちょうどになるように数字が作ってあって
これで、倭国との通好が、万里の修好という修辞にあう
そして、北部九州から畿内邪馬台国までが水行20+10日、陸行1月の
合わせて2か月で、これが二千里の分になる
參問倭地、絕在海中洲島之上、或絕或連、周旋可五千餘里とあるが、
狗邪韓国を出てから、五千里で邪馬台国に着くわけだから、狗邪韓国までの
循海岸水行を合わせて萬二千里
こんな単純計算なんだよ
北部九州の中の百里とか五百里とかは、国と国との位置関係の説明だから
移動距離ではない >>918
>在日の多い畿内が、資産価値を増やそうと暗躍してるんだろ
在日の多い畿内で、反日目的で在日が暴れているのが九州説なんだよ
邪馬台国や奴国が金印をもらってるのに、半島諸国は金印が
もらえなかったから、悔しがって反日してる
前にも書いたけれど、できるだけ日本、倭国の歴史を矮小化するために
邪馬台国時点ではヤマト王権とは無関係な九州の小さな地方政権で、
広い範囲が倭国としてまとまっていた訳ではない、と言いたいがために
九州説なんてインチキ説に躍起になってしがみついてる
最初から、科学とは無縁の動機で書き込みに来てるから、どんなに
論理的な根拠を突き付けられても、絶対に認められずに恥とバカだけを
さらし続ける羽目になってる >>654
>>その4基を言ってみ
>纒向石塚古墳
>纒向勝山古墳
>纒向矢塚古墳
>東田大塚古墳
わかった、おまえはそそれで勝山の葬送儀礼の時期の年輪年代210年に反対してたのか。
纏向石塚177+18 勝山被葬者埋葬時期210年は動かない。
熱残留磁気年代測定などという疑似科学なんて出しても無駄。 >>921
南が投馬国だよ、郡から20日だよ
普通だろ >>926
上陸して不弥国までで7百里
これで3分の1以上を使ってる計算だ >>927
まったくイミフ
結局最後はヤマト政権が統一するのだから、それ以前にどんな国があったかなんて関係ない
それに、ヤマト政権はずっと半島と関係が深かったからな >>929
「南至投馬國 水行二十日」を
「(不弥国から)南至投馬國 (帯方郡から)水行二十日」
と読むのはさすがに恣意的すぎる読み方やろ
もしそんな恣意的な読み方を許すとしても
帯方郡から投馬国へは陸行もするんだから自己矛盾は避けられないよ >>933
マツロ国で乗換だ
そもそも、万二千里を越えるような読み方のほうが恣意的だ >>931
>上陸して不弥国までで7百里
>これで3分の1以上を使ってる計算だ
>>926をちゃんと読んだか?
大陸史書に書いていあるのは地誌記事で、旅程じゃないんだよ、最初から
北部九州の中の百里とか五百里とかは、国と国との位置関係の説明だから
移動距離ではない >>932
>結局最後はヤマト政権が統一するのだから、それ以前にどんな国があったかなんて関係ない
そうやってごまかして逃げているが、ヤマト王権が統一するまで
倭国はばらばらだったことにしたいんだよ
それだけ、倭国・日本が一つの国としてまとまるのが遅くなり、
倭国の歴史が短くなる
半島の三国史記が訳の分からない伝説まで持ち出して建国を古く
見せかけようとしていることから分かるように、歴史が長いのがえらいと
いう価値観で、倭国の歴史を短くするのが反日目的に適うんだよ
そして、ヤマト王権は半島に介入していたから半島と関係が深いと
言いたいのだろうが、九州に邪馬台国があれば、
その分半島の影響が大きかったと妄想できるだろ?
だから、在日の人は九州説しか信じないんだよ
科学じゃないんだw >>935
また測量したことになってるよ
コロコロしすぎだろ、チョンボ観念的里 >>936
実際バラバラだったと魏志倭人伝に書かれちゃってるぞ 捏造君は>>904から逃げないように!w
これで一日歩いたら百里とか言うガバガバ理論も破綻しておしまいだw
短里なんてないんだよ
そして、短里が大前提の九州説は、全滅になるw >>939
その寝言がどうかしたのか?
壱岐から上陸して呼子で一泊
翌朝からスタートだろ
無駄な長文書いてる暇があるなら、少しは脳を使えよ
そんなことだから自爆する >>937
>また測量したことになってるよ
どう読むとそう読めるんだ?
どこに測量したとか、測量が前提とか書いてある?
バカの考えることは分からんな
陳寿が決め打ちで距離を決めて書いているだけで、
測量なんてしてないし、なんなら現実の距離とはほぼ無関係だぞ?
倭国は遠くで、そこまで大陸王朝の徳が届いていてえらい、と
言いたいために、倭国本土まで一万里
女王国、邪馬台国まで、西方の大月氏と同じ距離の萬二千里って
陳寿が最初から決めて書いてる >>934
投馬国から距離が里数から日数に変わってるから帯方郡起点に切り替わったと考えるのなら同意はしないがまだ合理性がある
しかし方角に関してはフミコク起点、距離に関しては帯方郡起点なんていくらなんでも恣意的すぎるわ >>941
魏の使いが書いたことと違えば、すぐにデタラメとバレるから国史にはできんよ >>938
>実際バラバラだったと魏志倭人伝に書かれちゃってるぞ
反日の視点だとそう読めちゃうんだねw
魏志倭人伝に書いているのは、一つの国・倭国として、
一人の女王卑弥呼を共立した、列島上の広い範囲を占める国だ
伊都國、末盧國、投馬國、邪馬臺國は、倭国の中の地名扱いだよ 【畿内説717ハイライトメモ】
・難波津は整備された港だった
・丸木舟で難破津に上陸した
・オノの刃を径で表してるから円とは限らない
・伊都国からは海と対岸が見える
・峠は障害物じゃない >>754
>長崎県平戸あたりを末盧國
「末盧国」とは、正反対。 平戸辺りは、朝鮮半島への出航地だ。 対馬海流のため。 @阿波 >>945
史実を捏造するほうが反日だろ
百余国の中の30国だ
魏志倭人伝のほかに、漢書地理志や後漢書東夷伝にも書かれてる
歴史の歪曲は、チョンのすることだ >>767
>楽浪郡・帯方郡の時代を通じ、双方合わせて何十回となく往復してるのに、
「忌部一族(阿波勢力)」がな。 @阿波 >>774
>交易もしているから
「忌部一族(阿波勢力)」がな。 @阿波 >>940
>壱岐から上陸して呼子で一泊
>翌朝からスタートだろ
それでも何も変わらないぞ?
お前の旅程で百里と数えられるのは
呼子ー唐津間
唐津の邑内横断
唐津―前原間
前原の邑内横断
の4つで、四百里にしかならない
唐津の邑内横断、前原の邑内横断を数えるのも噴飯物だし
前原が伊都国だと自分で言っているのに、前原に着いてから
その横断百里を入れて二泊してるのもデタラメだしww
>無駄な長文書いてる暇があるなら
無駄じゃないだろ?
お前が追い詰められて、まともな反論がまったくできなくなってるww
はい、短里はおしまいですww
短里前提の九州説も全部破綻ww レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。