邪馬台国畿内説 Part718
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1629372901/l50
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 >>799
それは本当の畿内説ではない
パドル愛好家の議論する態度は説得力に欠ける >>800
そのコメントにはレスしてある
>>674
小山氏は1978年の時点の1,800年前の数字を積算した
西暦178年は卑弥呼が即位した時期だと思う
>>677
即位はしていなくとも卑弥呼がすでに生まれ生きていた時代と訂正します >>676
>根拠は何度も書いているし、テンプレにも書いてある
日本には北部九州も含めて、黒雉はいない(台湾にはいる)し、
儋耳朱崖と同じ暮らしをしている地方はない
論衡の倭と、同じ倭と呼んでしまったことから来る錯誤なのは明確
倭人伝の記録は、魏の役人らの実地の見聞計測の記録を、陳寿が紹介し、
陳寿も、女王國の位置説明として「会稽東治之東」と推定した地であり、
台湾や儋耳朱崖とは全く地理的には完全に離れており、
だから、台湾や儋耳朱崖との風俗との近縁性を説明しただけ。 >>800
短文で一人言い切りのコメはバトル愛好家を想起させる >>695
>時代をごまかしたってシナの史書に書いてあるからごまかしようがない
現に、倭の五王がヤマト政権だってみんな知ってる
倭の五王の名前が載っている列島文献は、
今のところ、「姫氏松野氏系図」だけだ。 >>808
ヤマト政権が朝貢したことを隠したいという、よく分からんことが目的ならば、
倭の五王が誰かだけ隠しても意味がなく、ヤマト政権と無関係なことにしなくちゃならない >>805
つい批判してばかりいる相手の論を補強するようなことを書いている
滑稽なことだ
同じ人物が書いているから無理もない 【質問】
以下の選択肢から一つ選べ。
九州島の位置は、以下のいずれに当てはまるか?
A)會稽東治之北東
B)會稽東治之東
C)會稽東治之南東
【解答】
A)會稽東治之北東(朝鮮半島)☓
B)會稽東治之東 (九州)〇
C)會稽東治之南東(沖縄)☓
(會稽東治之南 (台湾)) >>697
>ごまかせてないだろ?
倭の五王がヤマト政権だと考えてない研究者がいるのか?
バレバレじゃない
「倭の五王」の名前がそのまま載っているのは、
呉王夫差の遺民の「姫氏の系図」だけ。 >>700
具体的に誰かをごまかしたところで、結局、
倭の五王の名前が「呉王夫差の遺民の姫氏の松野氏姫氏の系図」にだけ載っているだけだ、
ってことがバレバレなら意味ないだろ
ヤマト政権が朝貢したのではないことはバレてるんだから >>777
>土地の言い伝えで、天皇が土蜘蛛を切ったので蜘蛛塚がある
というだけの話を、
この天皇というのは神武天皇だ
>大体の御所市の伝説・言い伝えでは
神武東征紀の高尾張邑伝承地だ。
神武は大和入りしてから主に4ヶ所で土蜘蛛を討っているが、
その最後の場所だ。
御所市の伝説・言い伝えなどとごまかすな。
箸墓に奴婢埋葬の痕跡がこれっぽっちもなく残念だなw >>775
相手にされてるも何も、日本にある奴婢大量埋葬痕跡のある場所を、
誰一人言えないじゃないか。
おれはずっと言ってくれと言ってるわけだが、誰も言えない。
だって高天原(=御所市高天)以外にないからね。
つまり卑弥呼墓の場所は高天原にしかない。
それでいい?
反論があるならまず奴婢大量埋葬痕跡のある場所を具体的に言ってくれ。 >>785
>一から論理パズルを解けば
行程パズルで比定地を求めるのは九州説の亜流だしもうお腹いっぱいw
論理なら、一義的に決まるんじゃないの?
なのにどうして、近江か東海の2択になるの?
この時点でおかしくね? >>788
この遺跡分布を見れば、筑後平野に七万戸は無理だってすぐ分かるだろうに
https://i.imgur.com/okcvbpL.gif >>796
>徳島は四国から切り取ってひょっこりひょうたん島みたいに太平洋に流したい。
兎にも角にも、「阿波」は別格だから。 @阿波 >>819
近江→東海→大和と日本の都が変わって行ってたとしたら?
邪馬台国というのが近江か首都だった時代のことなのか東海が首都だった時代のことなのかが判断できないってだけ >>818
>相手にされてるも何も、日本にある奴婢大量埋葬痕跡のある場所を、
>誰一人言えないじゃないか。
天照大神は倭国(阿波)に御座した。
天照大神伝説の地は徳島市国府町の気延山「天石門別八倉比賣神社(あまのいわとわけやくらひめじんじゃ)」。
御祭神は大日孁女命(おおひるめむちのみこと)こと天照大神。
「殉葬奴婢百余人」は気延山一帯が未掘古墳だらけであることから、気延山の卑弥呼円墳近くに、殉葬されたのだろう。 @阿波 箸墓古墳の葬送儀礼は桜井茶臼山、葛本弁天塚布と同時期、
布留1式古段階あたり、3世紀末だなw
つまり248年に死んだ卑弥呼の墓でも何でもないw
アホの>>1 wwwwwwwww >>821
>>777はわざと御所市伝承などを持ち出していて反論ではない。
こっちは神武東征紀の話をしている。 >>827
>箸墓古墳の葬送儀礼は桜井茶臼山、葛本弁天塚布と同時期、
>布留1式古段階あたり、3世紀末だなw
根拠ナシ >>817
神武紀に、蜘蛛塚も蜘蛛窟も出てこない
お前が根拠に持ち出す蜘蛛塚、蜘蛛窟は御所市の伝承がもとになっている
それを否定するのは、お前の論拠を自ら全否定するだけだ
高天に、奴婢埋葬痕跡など最初からないんだよ >>830
壺型土器は規格性が高く、箸墓古墳の壺型土器は桜井茶臼山、葛本弁天塚の壺型土器とほぼ同じ土器形式の中にある。従って箸墓古墳は初期の大型古墳のグループに中では、他の古墳(桜井茶臼山、葛本弁天塚)とは大きな時期差は認められない。 >>832
>高天に、奴婢埋葬痕跡など最初からないんだよ
その通り! @阿波 >>832
>神武紀に、蜘蛛塚も蜘蛛窟も出てこない
神武紀の高尾張邑の伝承地だと言ってるのだが。 >>832
>高天に、奴婢埋葬痕跡など最初からないんだよ
もちろん、高天原に「卑彌呼」の陵墓もない。 陵墓が在るのは、豊葦原中国。 @阿波 >それを否定するのは、お前の論拠を自ら全否定するだけだ
そうすると箸墓には奴婢埋葬の伝承でさえ何もないのだから、
君の箸墓説はお前の論拠を自ら超全否定するだけだなwww >>838
徳島は鳴門の女子高生の胸が大きい。
それだけ。
それだけ。 >>833
>箸墓古墳は初期の大型古墳のグループに中では、他の古墳(桜井茶臼山、葛本弁天塚)とは大きな時期差は認められない。
そりゃそうだ
布留0古相のすぐ次が布留0新相だからね まぁ、「前方後円墳」の源型(萩原墳丘墓)が、「卑彌呼」以後の築造なんだから、箸墓古墳は推して知るべし。 @阿波 >>840
>布留0古相のすぐ次が布留0新相だからね
布留1式古段階(坂靖「古墳時代の遺跡学(雄山閣)」 >>837
そうはならないよん
左側スロープ君の論拠は奴婢埋葬痕跡(蜘蛛塚のこと)だけだから、それが否定されれば全崩壊
畿内説の論拠には最初から奴婢埋葬痕跡など採用していないから何も問題ない
畿内説の論拠はピンポイントの狭い領域の話ではなく、列島の広い範囲での土器の斉一化などの
多種大量の考古学的発掘物から論証される事柄だからだ >>835
高尾張とされる領域は高天近辺のような狭い範囲ではないし
土蜘蛛との関連で言うなら一言主神社の蜘蛛塚の方がまだ筋がいい
お前が神武紀の伝承地だという論拠が「御所市の言い伝え」の蜘蛛塚なんだから
お前は何も反論できてないぞ
御所市の言い伝えで「時の天皇」って言ってるんだから神武天皇ではありえない >>843
>畿内説の論拠はピンポイントの狭い領域の話ではなく、列島の広い範囲での土器の斉一化などの
多種大量の考古学的発掘物から論証される事柄だからだ
弥生時代には北部九州から瀬戸内には銅剣、
近畿から中部には銅鐸という青銅器文明が展開してる。
北部九州の防人が畿内を守っている白村江の時代と全く同じ構図だ。
2世紀前半からはいる其国の男王と卑弥呼・トヨまでは銅鐸文明という事になる。
お前の言う土器云々はその防人の瀬戸内集団の物。
卑弥呼とは直接は関係ない。 >>844
>高尾張とされる領域は高天近辺のような狭い範囲ではないし
>土蜘蛛との関連で言うなら一言主神社の蜘蛛塚の方がまだ筋がいい
それは名柄の土蜘蛛・猪祝だ、馬鹿たれ
>お前が神武紀の伝承地だという論拠が「御所市の言い伝え」の蜘蛛塚なんだから
お前は何も反論できてないぞ
とんでもない、日本最古の式内名神大社・高天彦神社の伝承でもあり、その敷地内にある。
お前事気がどうこう言える代物ではない、引っ込め。 >>816
>>呉王夫差の遺民の姫氏の松野氏姫氏の系図
松野氏の伯つける偽書だよ。
フルタぺーテン >日本最古の式内名神大社・高天彦神社
718年に行基菩薩が霊地であることを感じて精舎を建てたくらいだから
それまで高天あたりは何もなかったんだよ
鑑真和上が住職に就くような大寺院の鎮守社としてのオマケの神社だな >>813
くだらん質問だな
緯度は九州も畿内も変わらないよ >>820
平地はら3世紀の畿内の3倍以上はあるなWw >>850
畿内は湿地帯も多いし、埋め立て地も多い、
筑紫平野とくらべ稲作可能な土地は五分の一 >>848
それ橋本院。
頓珍漢な話ばっかりしないでくれ。 >高天に、奴婢埋葬痕跡など最初からないんだよ
もちろん、高天原に「卑彌呼」の陵墓もない。 陵墓が在るのは、高千穂(豊葦原中国)。 @阿波 >>820
オメは大きな誤解をしてる。
末盧国(唐津)東南の佐賀平野にあったのは伊都国・奴国・不彌国の3国で2万5000戸ほどだ。
そしてその不彌国(吉野ヶ里一帯)の南方の熊本平野/阿蘇盆地に邪馬台国7万戸があり、女王の都したところは阿蘇高千穂だった。
つまり水行1万里で至る末盧国(唐津)から、さらに陸行2000里≒約150qほどのところだったという倭人伝の記述に一致する。 >>852
だから神仏習合時代の主が橋本院、従の鎮守社として建てたのが高天彦神社
早くても8世紀 >>851
暴れ川の筑後川流域で稲作なんかできないよw
筑前の裏の空き地 >>819
同時代の魏の役人らの実地での見聞計測の記録を転載した陳寿の倭人伝の行程記録を、
行程パズルだとかインチキだとして比定地を求めるのは、
「南→東」や「卑弥呼の冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」や、
「日本國者,倭國之別種也。以其國在日邊,故以日本為名。
或曰:倭國自惡其名不雅,改為日本。或云:日本舊小國,併倭國之地」などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定や隠蔽などの、
大和説学者らの亜流だし、もうお腹いっぱい
論理なら、ほぼ一義的に九州に決まるんじゃないの?
なのにどうして、大和とか阿波とか近江か東海になるの?
この時点でおかしくね? >>854
>女王の都したところは阿蘇高千穂だった。
高千穂は天降(あまくだ)った所。 少なくとも高い山地(阿蘇高千穂)ではなく、麓・平地にある。
そして、豊かに稲や稗などが稔るところを指す。
高天原=四国山地(神山・木屋平村)
高千穂=大吉野川の中・下流域(徳島平野) @阿波 >>820
>この遺跡分布を見れば、筑後平野に七万戸は無理だってすぐ分かるだろうに
https://i.imgur.com/okcvbpL.gif
この地図の「説明の白黒画像」を、以前に何回か、
(おそらく東大理系博士号自称男に拠って)掲載された事があったが、
それらに対しても、弥生期には、
海岸線の最北東端が、久留米と吉野ケ里を結ぶ線よりもはるかに西南方面に後退しており、
東大理系博士号自称男の「インチキ性」を指摘した事があるよ。 >>859
言ってる意味がわからない
昔は海だったんだから今の汀線は海側に後退していて当然だけど
何がインチキなの? >>857
「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」
魏志には記禄がない。
逆である。日本舊小國は、邪馬壹國の事。
倭国は、本来男王、57年、107年の国王が正統
史料事実や史料実態の曲解や否定や隠蔽だな。 >>855
>従の鎮守社として建てたのが高天彦神社
早くても8世紀
話を創るな、全く別物だ。
南西にある高鴨神社は孝昭天皇の時期に創建。
魏志倭人伝のトヨの子・孝昭天皇の時期に創建なんだよ、残念ww
その高鴨神社より上座にあり、高鴨神社より古いことは高鴨神社側も認めている。
北窪遺跡や南郷遺跡には縄文時代の遺物も出るからな。
女の腐ったようにチマチマとイチャモンつけるな、負け犬。 >>860
水色のところまで海だったのは縄文海進の頃だろな
二、三世紀頃の海抜は今とさほど変わりなく、既に水色の2/3くらまでが陸地か島だったのだ。 有明海は干満差が6mあるからな
海岸線の内側は海水の湿地だ >>863
>二、三世紀頃の海抜は今とさほど変わりなく、既に水色の2/3くらまでが陸地か島だったのだ。
そこに弥生〜古墳時代の遺跡、ある? >>846
>日本最古の式内名神大社・高天彦神社の伝承で
「時の天皇云々」がその高天彦神社の伝承なんだろ?
神社からは何の反論もないし
それを勝手な解釈で捻じ曲げるのはとことん不敬だよな?
神社の神域で小便垂れた狼藉者が何を言うかw >>140
>>861
倭国の王統が奴国(漢委奴国王・帥升)を引き継いだ邪馬台国(帥升の孫娘・卑弥呼・神功・応神・仁徳)から伊都国(平原女王・天照大神・神武・崇神)、さらに狗奴国(継体・現天皇家)へと移ったんだね。 >>862
日本最古なんてのは口穢いお前の作り話だろ
太陽に背を向けて犯罪者が取り調べを受けてるように参拝する高天彦神社は
仏教が入って来てからの信仰
大寺院橋本院が主、その従としての登山口の鎮守社が高天彦神社(旧登山口握り飯売店)
南郷遺跡群や極楽寺ヒビキ遺跡あたりが葛城氏の本拠地 >>861
>「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」
魏志には記禄がない。
「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」は、唐会要の(日本國伝ではなく)倭國伝の記録であり、
魏志倭人伝の記録も、「倭地」や「女王國≒倭國」としての記録である。
>逆である。日本舊小國は、邪馬壹國の事。
当然これも「逆の嘘」である。
「日本舊小國」は、
舊唐書や唐会要の(倭國伝ではなく)日本國伝の説明文であり、
九州倭國から別れた別種分家の旧小国の大和政権の事であり、
邪馬壹國は、
魏志倭人伝での倭國の親魏倭王の卑弥呼女王が所都した國名としての記載である。
倭國の正統王家は、本来は委奴の地の(阿毎氏系の)漢委奴國王の57年の男王や、
107年帥升らの倭國王や、
「大野」付近で邪馬壹國女王之所都した姫氏の卑弥呼や、
平原1号に埋葬された「玉と鏡の女王」であった壹與や、
那珂八幡や一貴山銚子塚などの王や、
317年頃から久留米付近に遷宮した「姫氏系の倭の五王や倭國王哲」らが正統。
そして、517年頃に阿毎氏系の磐井が政権を奪って「継体」し、
その阿毎氏からタリシホコやサチヤマが出て、白村江で唐に大敗して亡国の運命にさらされ、
阿毎氏の分家の旧小国の大和王権に併合吸収継承された。
それが、史料事実や史料実態であり、
大和説学者らは、史料事実や史料実態の曲解や否定や隠蔽だな >>869
>仏教が入って来てからの信仰
>大寺院橋本院が主、その従としての登山口の鎮守社が高天彦神社
そうあって欲しいという君にくだらない願望だね。
麓の名柄遺跡から弥生時代の多紐細文鏡と銅鐸が同時に出ている。
長柄神社の祭神のシタテルヒメの両親が大国主と宗像三女神のタギリヒメ。
多紐細文鏡はその分布域から考えても宗像族の祭器であろう。
仏教伝来のはるか以前から、高天原ではこのような世界が展開されていた。
箸墓被葬者が4世紀前後なのに卑弥呼墓だという負け犬のおまえがとやかく言える事ではない。 >>870
嘘である。
史書に「倭國の中心は北部九州」
などの文言はなし。
隋書
都於邪靡堆,則魏志所謂邪馬臺者也
つまり、邪馬壹國 女王国系譜であり
男王ではないので正統性がないので、疑われる。
記紀は正統と阿毎氏系の辻褄を合わせ。
記紀に卑弥呼(阿毎氏系)は載せることができず
天照大神として書いたのである。 >>872
>箸墓被葬者が4世紀前後なのに卑弥呼墓だという負け犬のおまえがとやかく言える事ではない。
4世紀前後だという理由がない O大F永の50年繰り上げを無効とすれば、箸墓の築造時期は、3世紀第4四半期〜4世紀第1四半期(西暦275〜325) >>132
>>875
265年、魏が西晋に禅譲し、280年に西晋が呉を平定して天下を再統一する。
まさに魏の薄葬の圧力が弱まるのと箸墓の築造時期はピッタリ符合するな。 >>875
まぁ、いずれにせよ、「前方後円墳」の源型(萩原墳丘墓)が「卑彌呼」以後の築造なんだから、箸墓古墳は推して知るべし。 @阿波 >>876
まぁ、いずれにせよ、正一位 式内名神大社 「天石門別八倉比賣神社」が鎮座していない畿内は、論外! 下がっておれ! @阿波 >>135
>>876
箸墓は(卑弥呼・台与が朝貢した)魏が西晋に禅譲して消滅した265年以降の築造(卑弥呼の冢でない)とすれば、すべてが整合的だ。
ホケノ山からの突然の巨大化も説明できる。 >>149
そしてホケノ山に殉葬者がいないということは、纏向遺跡は邪馬台国ではないということだ! >>872
名柄遺跡は葛城氏の南郷遺跡群よりもさらに北
登山口握り飯の高天彦屋とは何の関係もない >>880
ホームズ、見事な推理だ!(ワトソン博士) >>866
腐るほどあるわい、オメは九州人ではないな、他所もんが知ったふうを云うな。 水害被害が甚大になるような土地は被差別民が住むところ >>875
>O大F永の50年繰り上げを無効とすれば、箸墓の築造時期は、3世紀第4四半期〜4世紀第1四半期(西暦275〜325)
とんでも説さんは、まったく理由を書かないんだね >>876
>265年、魏が西晋に禅譲し、280年に西晋が呉を平定して天下を再統一する。
>まさに魏の薄葬の圧力が弱まるのと箸墓の築造時期はピッタリ符合するな。
皇帝領の薄葬は西晋でも継承しているので
トンデモ説は即破綻 >>887
馬具の年代と一致するというのも明らかなウソ
半世紀くらい違うことが判っている 所在が分かる近世の天皇陵で、平地に盛り土した陵墓など一切存在しない。
よって、平地に盛り土した「前方後円墳」の箸墓古墳は、大王の陵墓では有り得ない。 @阿波 >>881
>名柄遺跡は葛城氏の南郷遺跡群よりもさらに北
>登山口握り飯の高天彦屋とは何の関係もない
北にあるから何なんだ?
長柄神社の例は葛城の名神大社の古さの一例を述べた。
高天彦神社も宗像三女神の市杵島姫を祀る。 >>874
>4世紀前後だという理由がない
壺型土器は規格性が高く、箸墓古墳の壺型土器は桜井茶臼山、葛本弁天塚の壺型土器とほぼ同じ土器形式の中にある。
従って箸墓古墳は初期の大型古墳のグループに中では、他の古墳(桜井茶臼山、葛本弁天塚)とは大きな時期差は認められない。 >>890
>鑑定結果は四世紀はじめだぞ
どこの誰の鑑定? >>893
>従って箸墓古墳は初期の大型古墳のグループに中では、他の古墳(桜井茶臼山、葛本弁天塚)とは大きな時期差は認められない。
小さな時間差があるんだよ
1か1.5世代くらいのな >>895
>小さな時間差があるんだよ
>1か1.5世代くらいのな
根拠は?
「箸墓古墳の壺型土器は桜井茶臼山、葛本弁天塚の壺型土器とほぼ同じ土器形式の中にある」
のだから同時代。
3つの古墳のうち最古だとしても布留1式古段階。
まぁ3世紀末でしょうね、残念でしたwww 桜井茶臼山って四道将軍のオオヒコの墓という説もあるくらいだぞ。
それとほぼ同時代である箸墓が、248年に死んだ卑弥呼の墓になるわけないじゃんwww 稲荷山古墳から出土した鉄剣の銘文にある杖状人の祖先であるオオヒコが崇神天皇時代の四道将軍の伝承と関連していると考えられる。
5C以降に活躍する安倍氏が祖先の古墳と考えていたと考察すると、武淳河別が父の大彦の墓として桜井茶臼山古墳を作り、
メスリ山古墳が武淳河別の墓と考えるのが自然と思われる。
塚口義信氏(堺女子短期大学名誉会長) >>820
そもそも当時の倭国には文字がなかった
それなのに、戸数をきちんと把握していたわけないやろ
そのくらい想像できんのか
距離も戸数も適当な数字であることは容易に推測できる >>899
硯が沢山出ているじゃないか、文字はあっただろう。 倭人伝をはじめとする中国古典の親切心あふれる記述にも関わらず、
大和朝廷が仕組んだ神功皇后記の色仕掛けにいとも簡単に騙されて、
強引に北東の怡土・那の津・宇美へ進んだひねくれ者たちの哀れな末路・・・、 レス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。