邪馬台国畿内説 Part720
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1629984661/l50
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 >>229
>当時の平均寿命は40歳に満たないので、
平均寿命は、医学が発達するまでは乳幼児死亡率が一番効くから
その数字は大人になるまで育った人にはあてにならない
実際魏志倭人伝には其人壽考、或百年、或八九十年。と書いてある
これを春秋年(2倍年歴)で倭人が言うのを記したとしても、
40〜50は普通にいたことになる
王クラスなら、さらに長生きでもなにも不思議はない >>231
>ヒメ巫女を当時はなんと発音したのかな。
ヒメミコ、だろうな
何が疑問なんだ?
日本人なら、これ以外の読みは思いもしないだろうに >>232
>平面世界観の中心にある山だと見立てられてたからな。
その「世界観の中心」というのが妄想 そういう文献、資料は一切ないぞw
>そしてそこに水源がある。
>だから何なんだ。
山がご神体ってことは、仰ぎ見て奉斎するんだよ
山の中に入って拝礼するということではない
まあ、山中の磐座が祭祀の場所になることはあるけれど
日本上代の宗教の在り方からして、水源が特に重視された様子は見当たらない
神が高いところに住む、とか
水源に王族が住む、とか
全部、左側スロープ君個人の妄想で、根拠が一つもない
根拠は結局のところ
1.東大寺山古墳の鉄剣 2.ヒメ后 3.蜘蛛窟、蜘蛛塚
の三点で
1は神武とも神武皇后とも無関係
2は噴飯物のデタラメ 倭語にない音、倭語にない概念を前提にしている
3は後代の民話で神武天皇の関与を否定するもの
もうね、全滅ww
あと、6代までの天皇の宮は葛城だから、高天は大事な場所ってのもあったけどそれも地図を出されて撤退w
https://i.imgur.com/W47gRE6.jpg
惨めだよなw >>234
>結局ダメなので撤退した説なのに。
それは、記紀の系譜を正しい、とする場合の話だ
まあ、記紀の系譜の修正は、基本的にトンデモの域に入るから
プロは手掛けないしな
一応、孝霊、孝元同世代、崇神を孝霊の子とする、というのは
私のオリジナルではなく宝賀寿男氏の見立てだがね
倭迹迹日百襲姫命と崇神が姉弟でよいとなれば、問題は何一つなくなる
まあ、この部分は正統派畿内説では触れる必要がない部分だけれど >>236
>それは当時の中国人に聞け、俺は知るか。
じゃあ、「ヒメ后」は取り下げだね
君は「知らない」んだからww >>237
>四道将軍の吉備津彦は280年ごろに生れたとしても70歳。
これ、何年を基準にものを言っているんだ?
四道将軍の記事は、古事記と日本書紀で全く別物だが、
何を典拠に、何を言っているつもりなんだ?
多分、お前が頭悪いだけだと思うぞw >>237
>というアホな説を>>1が唱えてます。
相変わらずバカだね
分かりやすいように「左側スロープ君」って何度も書いてるだろうが!
お前が箸墓の左側に他の誰にも見えないスロープがあるって言いだした時にも
俺がさんざん叩いてやっただろ?
お前みたいなバカの相手をして、せいいっぱい踊らせてくれるのは>>1じゃなくて俺だ
いい加減、見分けろよww >>235
>なんでや?
纏向からも伊勢あたりの土器がたくさん出てるし
畿内の範囲を示すときも桜井から宇田に抜けるライン上に境界が明示されてる
https://i.imgur.com/zNbF44K.jpg
伊勢湾岸と畿内は街道で結ばれている状態
そして、古くは縄文時代から神津島の黒曜石が伊勢地方に入っているように
伊勢から東海、さらに伊豆諸島に続く航路があったことが確認できる >>239
>魏志倭人伝には固有名詞がいっぱい出てくるのだが、何を言ってるの君。
固有名詞ではないと明確に認められる語(ヒナモリ)が繰り返し出てくることから、
人名すべてが固有名詞ではないのが確認できるだろ?
卑弥呼を固有名詞と決めつけることはできないってことだ
卑弥狗呼とセットで、地位を示す称号という考えも
かなり有力な説になっているのに相変わらずもの知らずのバカだなww >>238
>纒向遺跡は「女王國東渡海千餘里復有國皆倭種」にあきらかに矛盾している。
相変わらず日本語無視して、意味のないいちゃもんを繰り返し書くモードに入ったな
本当に泡もバカ
纏向遺跡は女王之所都であって、女王国には伊勢まで入るってだけ
7万戸という戸数から見ても、丹波あたりから伊勢まで女王国でちょうどいいくらい
これで全く矛盾ないだろ? >>256
>纏向からも伊勢あたりの土器がたくさん出てるし
なんでそれが女王国の範囲となるんだ?
>伊勢湾岸と畿内は街道で結ばれている状態
険しい山だらけやんけ。 山伏修験者だけが通る道か?
>そして、古くは縄文時代から神津島の黒曜石が伊勢地方に入っているように
なんで王都纏向に入ってないんじゃ? 王都纏向は無かったのか? わははははは @阿波 >>240
>そうすると崇神が四道将軍の命を出した時を30歳で250年とすると、
日本書紀の記述では四道将軍の記事が崇神60年、崇神崩御が68年
西暦290年崩御説だと春秋年前提だから286年頃、四道将軍派遣となる
四道将軍は崇神の晩年の記事だぞ
この説では系譜はこうなるんだから、吉備津彦の生年がそんなに古くなる必要もない
孝霊┬─倭迹迹日百襲姫命
├─吉備津彦命
└─崇神 ← ここに崇神を置く
まあ、四道将軍と言っても討伐隊ではなく、前方後円墳の作り方の伝達みたいな
ものだから、現役世代でありさえすればそれでいい >>258
>纏向遺跡は女王之所都であって、女王国には伊勢まで入るってだけ
根拠なし! 自分勝手妄想なら誰でもできる。 @阿波 >>258
>7万戸という戸数から見ても、丹波あたりから伊勢まで女王国でちょうどいいくらい
これは修正
「丹波あたりから伊勢まで」が七万戸の範囲だから、
これは邪馬台国とされたもの、だね
倭人の言うヤマト国はもっと狭いけれど
女王国というのは、倭国の中で卑弥呼に従う範囲だから
対馬、壱岐、北部九州、中国、近畿をすべて含む範囲になる
伊勢は近畿になる >>259
>>そして、古くは縄文時代から神津島の黒曜石が伊勢地方に入っているように
>なんで王都纏向に入ってないんじゃ? 王都纏向は無かったのか? わははははは @阿波
縄文時代って書いてあるのに理解できてないこの人って
かなり知能低い? >そして、古くは縄文時代から神津島の黒曜石が伊勢地方に入っているように
なんで王都纏向に入ってないんじゃ? 王都纏向は無かったのか?
どうやら、王都纏向は無かったようなので、
よって、テンプレの
>倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
>それは桜井市纒向以外にありえない。
は、虚偽である。 @阿波 >>261
>根拠なし! 自分勝手妄想なら誰でもできる。 @阿波
根拠が書いてあったの理解できてない?
知能が低いのかな >>243、>>244
今日の俺の書き込みは>>249からだぞww
本当にトンデモの全1病罹患率が高すぎて笑えるww >>264
縄文時代って理解できない?
絶望的に知能低い? >>267
悪い悪い。 縄文時代は奈良盆地、海の底だったのな。 失敬失敬。 わははははは @阿波 >>264は恥ずかしい人だな
縄文時代に王都纏向がなんで有るんだ >>265
>根拠が書いてあったの理解できてない?
根拠なし! 自分勝手妄想なら誰でもできる。 @阿波 >>269
悪い悪い。 縄文時代は奈良盆地、海の底だったのな。 失敬失敬。 わははははは @阿波 >>269
ところで奈良盆地って、縄文遺跡あんの? 縄文から卑弥呼時代に続く遺跡ってあんの? @阿波 >>259
>なんで王都纏向に入ってないんじゃ? 王都纏向は無かったのか?
縄文時代には、王都纏向はないからね
何を当たり前のことを言っているんだい?
王都纏向は弥生終末期になって、おそらく卑弥呼の共立を契機に
新しく作られた都だ
その前の奈良盆地の中心は唐子鍵遺跡 >>274
唐子鍵遺跡が前で、次が纏向遺跡。 で、纏向遺跡の次はなんという遺跡なんだい? @阿波 >>274
唐子鍵遺跡が前で、次が纏向遺跡。 で、纏向遺跡の次はなんという王都遺跡なんだい? @阿波 カワチとヤマトが発展するのは、弥生時代の土木力でも利用可能な小河川が
多く流れる沼沢地とその間の微高地という環境が広い面積に広がっているからだ
いわゆる稲作適地
北部九州では福岡平野、中国地方では山陰は出雲平野、山陽では岡山平野がそれにあたる >>274
唐子鍵遺跡が前で、次が纏向遺跡。 で、纏向遺跡の次はなんという王都遺跡なんだい? @阿波 纏向遺跡は、12年前のまだ5%しか調査していない段階で早々と、
古墳時代前期に消滅したと宣告されたのは何故なんだろうか?
よほど、ショボい遺跡なのだろう。 わははははは @阿波 >>277
>いわゆる稲作適地
しかし、「卑彌呼」時代は、灌漑稲作はほとんど出来なかったけどな。 @阿波 >>281
>無知なんだな
よくご存じのようなので、教えてください。 纏向遺跡の次はなんという王都遺跡なんだい? @阿波 纏向遺跡は、12年前のまだ5%しか調査していない段階で早々と、
古墳時代前期に消滅したと宣告されたのは何故なんだろうか?
よほど、ショボい遺跡なのだろう。 わははははは @阿波 泡にも前方後円墳があって、畿内より小さい
泡にも前方後円墳を作る首長がいたことが確認できるが、
畿内の大古墳を作る人物と比べて、権力基盤、動員力≒経済力が
ごく小さいことが分かる
阿波の古墳
宮谷古墳 3世紀末〜4世紀初頭
全長37.5mの前方後円墳。後円部径25m・前方部長さ12.5m
丹田古墳 4世紀
全長約37mの前方後円墳。後円部直径19m・高さ3.3m、前方部長さ17m
宝幢寺古墳 年代不詳
全長47mの前方後円墳。後円部径28m・前方部長さ19m
国高山古墳 4世紀後半
全長約50mの前方後円墳
愛宕山古墳 4世紀後半〜5世紀初頭
全長47mの前方後円墳。後円部径28m・前方部長さ19m
大代古墳 4世紀末期
全長約63.8mの前方後円墳。後円部径約44.2m・前方部長さ約19.6m
渋野丸山古墳 5世紀前半頃(徳島県最大、四国で二番目の大きさ)
墳長105m、県内最大規模を誇る前方後円墳。後円部径69m・高さ18m 池袋暴走事故の飯塚爺は禁錮五年か。
おそらくこの爺、本当に車が故障していたと信じてるな。
そうであってほしいという願望が、
いつの間にか事実にすり替わっている。
ちょうどここの泡爺のように。
年を取ると客観的に物を見るのが難しくなるのかもしれない。
悲しいことだ。 >>266
全部、「忌部一族(阿波勢力)」が造ったお墓だ。 それがどうかしたのか?
纏向遺跡の次はなんという王都遺跡なんだい? @阿波 >>247
女王国である志摩、伊勢だから矛盾しない。
「女王國東渡海千餘里復有國皆倭種」であり
「女王之所都東渡海千餘里復有國皆倭種」ではない。 >>289
>女王国である志摩、伊勢だから矛盾しない。
違う! よって矛盾する。 @阿波 >>289
>女王国である志摩、伊勢だから矛盾しない。
纏向遺跡の次はなんという王都遺跡なんだ? @阿波 >>290
矛盾せず。
『古事記』と『先代旧事本紀』によると
志賀高穴穂宮。 >>292
>志賀高穴穂宮。
それがなにか? @阿波 >>289
>女王国である志摩、伊勢だから矛盾しない。
違う! よって矛盾する。 @阿波 >>292
>志賀高穴穂宮。
それがなにか? @阿波 >>296
>幼稚園児?
纏向遺跡の次はなんという王都遺跡なんだ? @阿波 >>297
琵琶湖東岸は強力な勢力
滋賀・稲部遺跡等の鍛冶工房跡
(2世紀ごろ)〜古墳時代中期(5世紀ごろ)の遺構が発掘されている
農具、武器生産地 >>292
>志賀高穴穂宮。
阿波の戯言には付き合わなくていいよ
志賀高穴穂宮は遺跡で確認できていないから、
その辺でごたごた言いたいだけの、じじいだから
阿波が辺地で中央豪族忌部氏(忌部氏自体、部民統括が職掌)の
配下が阿波忌部だって認められないかわいそうな御仁だし >>290
>違う!
根拠なしに文字を並べても無意味w 阿波は辺地
根拠 最大でも100メートル級までしか前方後円墳が作れない
阿波の古墳
宮谷古墳 3世紀末〜4世紀初頭
全長37.5mの前方後円墳。後円部径25m・前方部長さ12.5m
丹田古墳 4世紀
全長約37mの前方後円墳。後円部直径19m・高さ3.3m、前方部長さ17m
宝幢寺古墳 年代不詳
全長47mの前方後円墳。後円部径28m・前方部長さ19m
国高山古墳 4世紀後半
全長約50mの前方後円墳
愛宕山古墳 4世紀後半〜5世紀初頭
全長47mの前方後円墳。後円部径28m・前方部長さ19m
大代古墳 4世紀末期
全長約63.8mの前方後円墳。後円部径約44.2m・前方部長さ約19.6m
渋野丸山古墳 5世紀前半頃(徳島県最大、四国で二番目の大きさ)
墳長105m、県内最大規模を誇る前方後円墳。後円部径69m・高さ18m 阿波の田舎忌部は中央忌部の生活を支える農民に過ぎない >>303
まぁ、後にも先にも「忌部一族(阿波勢力)」しかいないからな。 さぞ悔しかろう。 忌部といえば、「阿波」一択。 わははははは @阿波 >>300
>志賀高穴穂宮は遺跡で確認できていないから
確認できてないもの、出してくんな! アホンダラ。 @阿波 >>301
纏向遺跡の次はなんという王都遺跡なんだ? @阿波 畿内バカは、纏向遺跡の次はなんという王都遺跡なんだ?
と問えば、黙り込む。 ある意味、正直だな。 わははははは @阿波 >>307
予想はついてるけど発掘がまだだから言わないだけ >>308
さすが、畿内バカだわ。 わははははは @阿波 >>308
古墳時代400年間もあったんだぞ。 古墳しか無いのか? やっぱ、「阿波」の墓地だな。 わははははは @阿波 >>311
>根拠なし
纏向遺跡の次の王都遺跡なしってか? わははははは @阿波 >>313
古墳時代400年間もあったんだぞ。 古墳しか無いのか? やっぱ、「阿波」の墓地だな。 わははははは @阿波 >>314
>やっぱ、「阿波」の墓地だな。
阿波には墓地を作るだけの技術も人材もなかったからな
辺地だし
阿波の古墳
宮谷古墳 3世紀末〜4世紀初頭
全長37.5mの前方後円墳。後円部径25m・前方部長さ12.5m
丹田古墳 4世紀
全長約37mの前方後円墳。後円部直径19m・高さ3.3m、前方部長さ17m
宝幢寺古墳 年代不詳
全長47mの前方後円墳。後円部径28m・前方部長さ19m
国高山古墳 4世紀後半
全長約50mの前方後円墳
愛宕山古墳 4世紀後半〜5世紀初頭
全長47mの前方後円墳。後円部径28m・前方部長さ19m
大代古墳 4世紀末期
全長約63.8mの前方後円墳。後円部径約44.2m・前方部長さ約19.6m
渋野丸山古墳 5世紀前半頃(徳島県最大、四国で二番目の大きさ)
墳長105m、県内最大規模を誇る前方後円墳。後円部径69m・高さ18m >>315
>阿波には墓地を作るだけの技術も人材もなかったからな
「忌部一族(阿波勢力)」の専売特許だ。 羨ましいのか? わははははは @阿波 >>317
お前が相手してるから大丈夫だ。 わははははは @阿波 >>315
>古墳しか無いのか?
古墳があるってことは、古墳を作るだけの人がいたということだし、
その古墳を作る人を食べさせるだけの食糧生産ができたってこと
>古墳時代400年間もあったんだぞ。
その間、数十メートル級まで入れても首長墓である前方後円墳が
7基という辺地が阿波
阿波の古墳
宮谷古墳 3世紀末〜4世紀初頭
全長37.5mの前方後円墳。後円部径25m・前方部長さ12.5m
丹田古墳 4世紀
全長約37mの前方後円墳。後円部直径19m・高さ3.3m、前方部長さ17m
宝幢寺古墳 年代不詳
全長47mの前方後円墳。後円部径28m・前方部長さ19m
国高山古墳 4世紀後半
全長約50mの前方後円墳
愛宕山古墳 4世紀後半〜5世紀初頭
全長47mの前方後円墳。後円部径28m・前方部長さ19m
大代古墳 4世紀末期
全長約63.8mの前方後円墳。後円部径約44.2m・前方部長さ約19.6m
渋野丸山古墳 5世紀前半頃(徳島県最大、四国で二番目の大きさ)
墳長105m、県内最大規模を誇る前方後円墳。後円部径69m・高さ18m
阿波ではそれさえ難しかったから、100メートル級がやっと
そんなところに王権はない >>274
>王都纏向は弥生終末期になって、おそらく卑弥呼の共立を契機に
>新しく作られた都だ
>その前の奈良盆地の中心は唐子鍵遺跡
勝手に話しを創るな。
纏向にも唐古鍵にも王権伝承はない。 >>226
>>それで君はモモソヒメが卑弥呼と言いたいのかな。
>それで特に問題はないだろう
すまんが崇神は4世紀初頭から前半。
百済王碑文に基づいた応神元年390年が基点になり、君の説は論外。
>記紀の記述のままに読めば、神に嫁いでいる訳で人間の夫婿はいない
日本では人間が神だ、ドアホ。 >>252
>倭迹迹日百襲姫命と崇神が姉弟でよいとなれば
同世代というのはありうるが、だからと言って勝手に姉弟にしないように。
ふざけるな。 >>319
>古墳があるってことは、古墳を作るだけの人がいたということだし
「忌部一族(阿波勢力)」に任せとけ。 心配スンナ。 わははははは @阿波 国宝中平銘鉄刀がなぜ和邇氏の墳墓から出たのかが分かる系図
卑弥呼もトヨも卑弥呼の後に千人の死者をだす男王も分かる。
それは建甕尻ことタケミカヅチだ。
だから記紀ではこの人物を神代に設定して時代をごまかした。
https://userimg.teacup.com/userimg/9218.teacup.com/easiatoron/img/bbs/0000143.png >>319
「阿波」では、「前方後円墳」も弥生集落遺跡もあるぞ。 お前んとこは無いのか? わははははは @阿波 >>>>崇神の崩御が290年なら、卑弥呼が250年頃亡くなって
>>>>その後男王が立って国が乱れてその収拾で臺與が13才で王になるんだから
>>>>特に問題ないだろう?
>>>卑弥呼が誰だとして問題がないのかな?
>>崇神朝の巫女王で崇神の姉だよ
>2世紀末に即位した卑弥呼を、AD200年に30歳と仮定、
>そうすると弟である崇神はAD200年に27歳くらいか。
>当時の平均寿命から言ってもAD220年頃には崩御だな。
ハイ撃沈、アホの>>1!
しかも崇神をモモソヒメの弟に設定して50歳の年齢差があったなどとほざいてます。
キチガイです、このアホwww >>324
>それは建甕尻ことタケミカヅチだ。
日本一社 式内社「建布都神社」 御祭神 「武甕槌神」 をお祀りもしないところが出しゃばるでない! 控えおれ! @阿波 おまえみたいなクズが畿内説スレたてるな、
畿内説の恥。
わかったか>>1 >>167
>箸墓を卑弥呼の墓ではないとする立場の人は
>むしろ箸墓を崇神陵と見ている
たとえば誰が?
名前出したからってそいつが正しいとは決まってないが。
先ず応神元年が390年なのは百済の武寧王碑文からも確定。
そこから順にたどっても崇神が318年が妥当。
258年説はたまにあるが290年なんて聞いたことないし。
箸墓を崇神陵とするなら卑弥呼の墓は? 誰が誰だか見分ける能力もない>>329が無能すぎる >>149
>AD200年に卑弥呼は20歳
>その弟の崇神はAD220年前後生まれの40弱の差
>AD290年に崇神が70前後で死ぬのはまったく生物学的に問題ないだろ?
吉備津彦はいつごろ産まれて何歳ころ四道将軍になったのかな?
意味わかるかな?お馬鹿さん。 >>149
>AD200年に卑弥呼は20歳
>その弟の崇神はAD220年前後生まれの40弱の差
>AD290年に崇神が70前後で死ぬのはまったく生物学的に問題ないだろ?
生物学的には当時の平均寿命が40歳に満たない。
だから70歳なんて問題大あり。
一度タリバンにお前の脳みそタリランなドタマをかち割ってもらいなさい。 >>332
>吉備津彦はいつごろ産まれて何歳ころ四道将軍になったのかな?
その、吉備津彦の兄「日子刺肩別尊」を祀る、
式内社 阿波國名方郡 「天佐自能和氣神社(あまさしのわけじんじゃ)」
御祭神 「日子刺肩別尊」・「意冨夜麻登玖邇阿禮比賣命」・「神皇産霊尊」・「高皇産霊尊」
日子刺肩別尊の母である意冨夜麻登玖邇阿禮比賣命は、孝霊天皇の第三夫人であり、日子刺肩別尊は、その第二子。
ちなみに、姉は、大物主命の妻となった夜麻登々母々曾毘売命。 弟は、四道将軍の一人・「大吉備津彦命」。
すごい兄弟なのである。
神紋は、『式内社調査報告』には、菊紋とあり、境内の石碑にも菊紋が付いている。 一方、拝殿には鷹羽紋が付いている。 @阿波 俺は邪馬台国日本以外の国説を考えたよ。倭国というのが日本という意味じゃなくて南の方の野蛮人の国ぐらいの意味だったんではないかと思うのよ。
倭国王の鏡は日本以外の国にも渡していたんではないかと思うのよ。東南アジアの辺りの国が邪馬台国で日本のことではないのではないかと思うのよ。 >>335
>大物主命の妻となった夜麻登々母々曾毘売命
ヤマトトモモソヒメノミコト?
同じ意見。
さすが、阿波は女子高生の胸が全国平均以上なことはある。
鳴門金時の影響だろうな。 >>337
まぁ、「阿波」には大概のものがあるからな。 お前らトンデモと違ってな。 わははははは @阿波 >>321
>日本では人間が神だ、ドアホ。
分かってないな
昨日だか一昨日だかに教えただろ?
「神(カミ)」は「上(カミ)」の世代の人間
のちの時代に、その末裔によって神として祀られるようになる
だから、日本の神は「もともとは」人間ということになる
だから、(アマテラスとスサノオのような)「神と神」とのやり取りは、
上の世代の人と人の関係を見ることはできるけれど
モモソヒメと大物主の神婚のように「人と神」として描かれている場合の神は
人間ではないんだよ
左側スロープ君は典型的なカルト信仰で、
自分(の信じること、考えたこと)だけが正しいと間違って思い込んでいるから
主張することすべてが頓珍漢でデタラメになってるし、そのデタラメを指摘されても
自らの誤りを認めることができない
「ヒメ后」のダメさ加減と恥ずかしさには、いい加減気付いた方がいいぞww
あと、蜘蛛塚、蜘蛛窟は奴婢埋葬痕跡じゃないからww >>334
>ハイまた逃げた、3回目。
あんた、気が狂ってないか? >>322
>同世代というのはありうるが、
同世代にするとなると、記紀の系譜を修正することになる
となると、開化と崇神が同系ではないのは、宮処の場所、后妃の背景から明らか
となると、孝元-開化の親子関係は認められるので、
崇神は孝元の前代、孝霊の子が一番落ち着きがよいことになる
で、孝霊の子にモモソヒメがいる訳だ
こういう作業仮説なんだよ
また、孝元の子で開化と兄弟とした場合でも、孝元の子に倭迹迹姫命がいて
いずれにしても崇神は倭迹迹日百襲姫命あるいは倭迹迹姫命と姉弟の関係になる >>341
>で、孝霊の子にモモソヒメがいる訳だ
モモソヒメの弟で、吉備津彦の兄「日子刺肩別尊」もいるぞ。
その、吉備津彦の兄「日子刺肩別尊」を祀る、
式内社 阿波國名方郡 「天佐自能和氣神社(あまさしのわけじんじゃ)」
御祭神 「日子刺肩別尊」・「意冨夜麻登玖邇阿禮比賣命」・「神皇産霊尊」・「高皇産霊尊」
日子刺肩別尊の母である意冨夜麻登玖邇阿禮比賣命は、孝霊天皇の第三夫人であり、日子刺肩別尊は、その第二子。
ちなみに、姉は、大物主命の妻となった夜麻登々母々曾毘売命。 弟は、四道将軍の一人・「大吉備津彦命」。
すごい兄弟なのである。
神紋は、『式内社調査報告』には、菊紋とあり、境内の石碑にも菊紋が付いている。 一方、拝殿には鷹羽紋が付いている。 @阿波 畿内バカは、纏向遺跡の次はなんという王都遺跡なんだ?
と問えば、黙り込む。 ある意味、正直だな。 わははははは @阿波 奈良大和の纒向遺跡の東は、笠置山地や布引山地など、山ばかり。
纒向遺跡は「女王國東渡海千餘里復有國皆倭種」にあきらかに矛盾している。
もし女王国が奈良大和であれば、「女王國 東 越山 復 渡海千餘里復有國皆倭種」 である。 @阿波 少なくとも、平地の湿地帯に盛り土した天皇陵は一つもなく、奈良盆地の「前方後円墳」が、天皇陵でないことは一目瞭然。
畿内の古墳は、「大きさ」も「向き」も「墳型」も「石室構造」も、てんでんばらばら。 天皇陵としての規律が皆無である。
一方、所在が分かる、奈良遷都後の文武天皇以下歴代天皇陵は、「大きさ」 「墳型」 「埋葬構造」等 陵墓築造の一定規律が見られる。
よって、てんでんばらばら、無秩序、好き放題、造り放題の「前方後円墳」は天皇陵ではない。
てんでんばらばら、無秩序、好き放題、造り放題の「前方後円墳」は、成り上がりの見栄っ張り豪族の墓だろう。 @阿波 孝霊天皇の第三夫人「意冨夜麻登玖邇阿禮比賣命」は、「おおやまと」だとよ。 @阿波 「意富(おお)」と言えば、阿波国延喜式内社「意富門麻比売神社」(「宅宮神社」)
「伊豆毛(いづも)の国の伯母御の宗女、御年十三ならせます、こくちは壱字とおたしなむ」 (神代踊り)
延喜式内社です。神代文字も残されており、なんだかすごい神社です??
「イザナギノ命・イザナミノ命が生まれる前に生まれた神(大苫邊尊)を祀る阿波国」
延喜式内社で「大苫邊尊」を祀っているのは、全国でただ1社、阿波国の延喜式内社「意富門麻比売神社」(「宅宮神社」)だけ。
祭神の「大苫邊尊(おおとまべのみこと)」は、「古事記」にイザナギノ命・イザナミノ命が生まれる前に生まれた神。
「古事記」の舞台はまさに「阿波」だった凄い事実。 @阿波
https://sueyasumas.exblog.jp/9761762/
http://engishiki.org/awa2/bun/awh560509-01.html >>347
バカ畿内が纏向遺跡の後が飛鳥だとよ。 このバカをなんとかしろ! @阿波 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています