邪馬台国畿内説 Part720
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1629984661/l50
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 >>349
物部の都だった纒向から蘇我の飛鳥に移ったんだよ >>350
バカ畿内が纏向遺跡の後が飛鳥だとよ。 このバカをなんとかしろ! @阿波 >>344
>奈良大和の纒向遺跡の東は、笠置山地や布引山地など、山ばかり。
>纒向遺跡は「女王國東渡海千餘里復有國皆倭種」にあきらかに矛盾している。
そんなに自分の知能の低さを宣伝しなくたっていいのに
矛盾ってのはね、同じ物が二律背反しないと起こらないの
つまり
纒向遺跡∋女王國
でないと矛盾しないの
そして誰も
纒向遺跡∋女王國
なんて言ってないの
わかる?
自分がどんなに知能が低いか、わかる? >>246
>その一皇女の造墓記事があるのはなぜなのか?
当たり前ではないか、神功皇后を強引に卑弥呼のポストに置いている。
これは本当の卑弥呼を隠すのが目的。
そういう記紀が、紙幅を割いて一つの古墳に卑弥呼の印象を与えてるのは、
モモソヒメを卑弥呼に間違えてもらうためだ。
本当の卑弥呼とは、その女性が卑弥呼だと気づかれたら極めて困る女性だ。
その女性の5世代前に倭国王帥升ことスサノオがいるからだ。
オマエはアホだからルアーにとびついたブラックバスみたいなもの。 >>341
歴史に大事なのは蓋然性。
40歳も離れた姉弟の想定なんて恥を知れ。 >>340
狂ってるのはお前、崇神の姉が卑弥呼www
恥を知れ。 >>339
屁理屈は結構、日本で唯一、大量の奴婢埋葬伝承のある所を答えてみろ。
さぁ答えてみろ。
何も言えないだろボンクラ。 >>339
箸墓に奴婢埋葬痕跡を見つけてこい、話はそれからだ。 女王国が近畿であれば、渡海千餘里復有國皆倭種は静岡以東になる。
大井媛 卑弥呼
意冨夜麻登玖邇阿禮比賣命 壹与
と仮説 >>355の「モモソヒメを卑弥呼に間違えてもらうためだ。」に続けば、
アマテラスもだ。
弟がいて、独身で、別名オオヒルメ、
こんな卑弥呼を思わせるキャラにしてるのもアマテラスが卑弥呼であると間違えてもらうため。
倭国王帥升が名前の似たスサノオであると仮定するだけで邪馬台国論争なんて3分で解ける。
一世代20年で帥升(スサノオ)の5世代100年後に卑弥呼がいるわけだからな。
スサノオ(帥升)→オシホミミ→ニニギ→ホオリ→フキアエズ→神武
ほら神武の時代だ。
卑弥呼がヒメ蹈鞴五十鈴媛以外に誰がいるのだ。
帥升がスサノオだと分かってしまうから時代を大きくずらし卑弥呼を隠したんだ。 >>362
で、その王都に住んでいた大王の前方後円墳は? 倭人伝に手掴みで食事すると書かれているのにもかかわらず
箸でアソコを突いて昇天したのにねぇ 最大規模の古墳は三輪→佐紀→河内と移動しているようだね 最大規模の古墳の移動(三輪→佐紀→河内・和泉)
と宮殿の移動は巨視的には一致しているが微視的には一致していない
古墳の位置は出生の本貫地で、宮殿は政治的本拠地と見るべきか >>369
>古墳の位置は出生の本貫地で、宮殿は政治的本拠地と見るべきか
いや、古墳を築くのは、政治的中心へ向かう途中に人が必ず見る位置だろう >>370
>古墳を築くのは、政治的中心へ向かう途中に人が必ず見る位置だろう
その説は、百舌鳥古墳群については納得できるのですが、
その他の地域(古市・佐紀・三輪等)の古墳群についても当てはまるのでしょうか? >>355
>当たり前ではないか、神功皇后を強引に卑弥呼のポストに置いている。
>これは本当の卑弥呼を隠すのが目的。
やはり左側スロープ君は、根本的に論理的思考ができないんだな
気の毒なことだ
本当の卑弥呼を隠す相手が誰かってことなんだよ
ヤマトの国の人に対して隠そうとしてるんじゃないんだ
記紀は編纂時点で倭國の人々が知っていたこと、理解していたことを書いている
当時の大和朝廷内では誰が卑弥呼か分かって書いてるんだよ
もちろん、各豪族が自分たちの出自を良くしようと話を盛っていたり
不正確な話や異説も多くあったが、それでも王権の事実上の始祖王が
誰かは分かっているんだから、その記述は当然になされるわけだ
クシヒカタのように、名前だけで事跡もなしなんてことにはならないw >>326
つ >>136
バカだバカだと思っていたが、左側スロープ君、ちょっと知能が低すぎるぞ
神社の神域で放尿して、フェンスの外だからいいとか
言う頭のオカシイ人間(人外かもしれんが)だから推して知るべしだな
神社の神域でズボンのファスナーを下ろす時点で日本人じゃないわ >>330
>たとえば誰が?
纒向学研究センター長とかね >>356
男親は高齢でも子供はできるんだよ
恥を知れは、お前だろ?
ヒメ后は諦めがついたか? >>333
>生物学的には当時の平均寿命が40歳に満たない
平均寿命がどうのの話は既に説明済み
つ>>249
平均寿命は、医学が発達するまでは乳幼児死亡率が一番効くから
その数字は大人になるまで育った人にはあてにならない
実際魏志倭人伝には其人壽考、或百年、或八九十年。と書いてある
これを春秋年(2倍年歴)で倭人が言うのを記したとしても、
40〜50は普通にいたことになる
王クラスなら、さらに長生きでもなにも不思議はない
>だから70歳なんて問題大あり。
と言いながら卑弥呼は70以上って言うんだから、
左側スロープ君は論理的思考力が皆無だw >>358
蜘蛛塚、蜘蛛窟が無関係だって理解できたか? >>359
高天にはないのが分かってきたかな?
もっこりは自然地形 尾根切りなし、人為的改変なし
蜘蛛窟、蜘蛛塚は後世の妖怪退治の民話に合わせて創作されたもの
王族が不便な山地に住むとか非常識の極み
欠史八代の宮処伝承地はすべて高天と無縁 >>371
三輪、と言うのは大倭古墳群かな?
これは政治中心へ向かう、ではなく政治中心から見える場所
古市は河内から大和へ向かうルート沿い
佐紀は、日本海ルートから大和に入るルートにあたる >>332
>吉備津彦はいつごろ産まれて何歳ころ四道将軍になったのかな?
つ>>260
日本書紀の記述では四道将軍の記事が崇神60年、崇神崩御が68年
西暦290年崩御説だと春秋年前提だから286年頃、四道将軍派遣となる
四道将軍は崇神の晩年の記事だぞ
この説では系譜はこうなるんだから、吉備津彦の生年がそんなに古くなる必要もない
孝霊┬─倭迹迹日百襲姫命
├─吉備津彦命
└─崇神 ← ここに崇神を置く
まあ、四道将軍と言っても討伐隊ではなく、前方後円墳の作り方の伝達みたいな
ものだから、現役世代でありさえすればそれでいい 意冨夜麻登玖邇阿禮比賣命
大倭という時点で、奈良盆地南東部なんだけどね >>380
確かにそうですね。
巨大古墳を造る主な動機は内外への権力アピール
だと思いますが、よく人が通る、よく見える場所に
造らないとその意味がありませんからね。
しかし出生地をまるで反映していないとも思えないのですが。
普通は生まれた拠点に墓は造るものですよね。
しかしこれは現代の価値観に引きずられているのかもしれません。 >>372
>当時の大和朝廷内では誰が卑弥呼か分かって書いてるんだよ
わかっていたという証拠は? >>385
また「誰を見ても奥山」病か
それって病名あるよ >>368
>お前、人間として最低だな
「南→東」や「卑弥呼の冢→前方後円墳」の、
史料事実や史料実態の曲解や否定や、
旧唐書の日本國伝の「日本國者,倭國之別種也。以其國在日邊,故以日本為名。
或曰:倭國自惡其名不雅,改為日本。或云:日本舊小國,併倭國之地」や、
唐会要倭國伝の「正北抵新羅」の黙殺無視のスレ主や大和説学者らは、
人間として最低だな >>380
問題はそれが2世紀末から3世紀前半なのか、3世紀後半なのかという点だね。 >>381
>この説では系譜はこうなるんだから、吉備津彦の生年がそんなに古くなる必要もない
なんで?
卑弥呼であるモモソヒメは2世紀末に即位、AD200年には25歳から330歳だろ。
その弟の吉備津彦は普通に2.3歳年下として3世紀前半には亡くなっただろうね。
また崇神のように40年下という設定にするの、アホなのに君。
40歳年下という事は2世代違うわけだが。
痴呆の説www すまん、目が悪いので。
× 25歳から330歳だろ
〇 25歳から30歳だろ >>383
問題はそれが邪馬台国の時代なのか、ヤマト王権に取って代わった後なのか、という点だね。 >>384
時代を大きくずらして、神功皇后を卑弥呼の時代に設定、
神功皇后紀に魏志倭人伝の卑弥呼の記事を挿入、
神功皇后が卑弥呼ですよと言ってないないが、印象付けようとしている。
これは本当の卑弥呼を知っていて、とんでもない時代に設定した証拠。
ただし卑弥呼のような脚色をしているモモソヒメでもアマテラスでもない。 >>381
>まあ、四道将軍と言っても討伐隊ではなく、前方後円墳の作り方の伝達みたいな
ものだから、現役世代でありさえすればそれでいい
なら会津の一箕古墳群、吉備津彦の中山茶臼山、稲荷山鉄拳剣のヲワケの7世代前のオオヒコ、
などなど複数の資料から四道将軍は4世紀前半でいいね? >>379
人の言うことにパラノイアみたいに固執せず、
君がこの日本列島で「大量の奴婢埋葬伝承」がある場所を指摘すればいいだけ。
君は卑弥呼墓が箸墓古墳と言ってるバカなのだから、とりあえず桜井市に探せよな。 >>391
特殊器台の存在から殉葬がないことが明らかな箸墓は、筑紫邪馬台国(卑弥呼・台与)から政権を奪取したヤマト(吉備・出雲連合)王権の記念碑的な墓だよ。 >>376
>平均寿命は、医学が発達するまでは乳幼児死亡率が一番効くから
その数字は大人になるまで育った人にはあてにならない
15歳以上生きた人の平均寿命が30数歳。
科学的な数字に反論するのは止めろ、アホ。
40〜50は普通にいたことになるとしても、
70歳超える人物が卑弥呼以外に崇神も、なんてなるわけがない。
おまえアホw >>834
>>当時の大和朝廷内では誰が卑弥呼か分かって書いてるんだよ
>わかっていたという証拠は?
古事記は、
天孫族の阿毎氏の後裔の大和王権は、呉王夫差の遺民の姫氏の卑弥呼とは直接関係がないから、
名前も事績も全く書かずに隠蔽している詐欺的書であるだけだが、
日本書紀は、
魏志倭人伝の卑弥呼や壹與の事績記録を「全く年代も違う別人の神功」の紀に記載して、
国民を「卑弥呼と壹與の二人」が「一人の神功」であったかのように引用記載して、
国民を騙そうとした犯罪者的な書であり、
風土記は、卑弥呼を甕依姫と記載してその存在を少し匂わせた不完全な記載をしており、
万葉集は、卑弥呼の存在を全く隠蔽したバツ書である。
いずれにしても、卑弥呼や壹與の名前は、
呉王夫差の遺民の「姫氏松野氏系図」のみに残っており、8世紀の大和王権にとっては、
大和政権は、卑弥呼らは自らの祖先とはほぼ関係にない女王であった事を知っていた、
という事だな。 >>372
>当時の大和朝廷内では誰が卑弥呼か分かって書いてるんだよ
それがモモソヒメだというわけね。
何で時代を大きくずらして隠すの?
隠す理由は? >>375
>男親は高齢でも子供はできるんだよ
そんなことは当たり前。
ただし40歳で子どもを作る人物が20歳で子どもを作ってなかったという方が不自然。
だからその人物の40歳で作った子と20歳で作った子は一世代は慣れている事になる。
おまえは崇神が卑弥呼の40歳年下という設定(爆笑)という設定で、恥をかいてるという認識もないようだ。 >>379
>欠史八代の宮処伝承地はすべて高天と無縁
高天原のふもと。 >>392
つまりは、神功皇后を120年繰り下げ、
空いたところに天照大神神話を持ってくれば、真実の古代史がそっくり復元できるようになっているんだよ。 >>388
>問題はそれが2世紀末から3世紀前半なのか、3世紀後半なのかという点だね。
それって、何が? >>396
>特殊器台の存在から殉葬がないことが明らかな箸墓は、
なんで特殊器台が存在すると殉葬がないの? >>391
>問題はそれが邪馬台国の時代なのか、ヤマト王権に取って代わった後なのか、という点だね。
邪馬台国からヤマト王権に取って代わるとか
最初から決めつけちゃうのは何故? 畿内説は遺跡の年代を50〜100年古く報告するから歴史がグチャグチャになるんだよ >>407
50〜100年古く報告すると決めつける理由は? すべては「魏志倭人伝」の描写「宮室楼観城柵厳設」がそのまま出土しちゃった吉野ヶ里遺跡への対抗心から生まれた鬼っ子=畿内説w
O大F永の土器編年50年繰り上げ操作にみんな騙されてるだけw >>411
大倭がダイワとしか読めない人が、大を(オオ) と読んじゃって、おばか >>333
>生物学的には当時の平均寿命が40歳に満たない。
>だから70歳なんて問題大あり。
ちょっとバカを事実で殴っておこうかな
https://i.imgur.com/uOUwm3M.jpg
これがアフリカの人口ピラミッド
現代アフリカと日本の弥生時代と比べるのもどうかという話もあるが
このアフリカの人口ピラミッドでの平均年齢は23.7歳で弥生時代の推定値よりも低い
この状態で、
20歳以上の人口は全人口の49.5%
60歳以上の人口は全人口の5.7%
70歳以上の人口は全人口の2.2% というデータになっている
20歳まで育った人のうち60以上まで生きている人は
11.5%で10人に一人よりも多い
20歳まで育った人のうち70以上まで生きている人は
4.4%で20人に一人弱で、特に珍しいとも言えない
これが、平均年齢23.7歳での状態
弥生時代の平均年齢が40才なら、さらに高齢人口の比率は高くなる
王族等で、栄養環境のよい家系なら、兄弟で70を超えても
何の不思議もない
論証っていうのは、こうやって具体的な数値データから
正しい推論を導くことを言うんだよ
王族は神だから高いところに住むとかいうのは
根拠なしのただの妄想 >>345
>平地の湿地帯に盛り土した天皇陵は一つもなく
いい加減、バカの開いても疲れるな
これを言うためには、誉田御廟山古墳や大仙古墳が天皇陵ではないという
論証が必要だと何度言えば済むんだ
文武天皇陵は古墳時代が終わってからだから、参考にならないっての
何度も言わせるなよ
現代に須恵器でご飯を炊く人がいないからというのは、
須恵器が飯炊き甕であることを否定する理由にはならないんだよ >>391
>>409
要するに、纏向遺跡や箸墓は邪馬台国とは無関係ってことやね。 >>383
>しかし出生地をまるで反映していないとも思えないのですが。
>普通は生まれた拠点に墓は造るものですよね。
弥生から古墳時代の墓制が専門の広瀬和雄先生によると、
古墳時代に入って大倭古墳群の造墓が始まったその最初から、
大倭古墳群には4つの盟主墳の系譜が見いだせるそうだから、
この時点で倭国の政策(というかまつりごと)として、本貫地とは
別の場所に前方後円墳を作るという体制になっていた、ということで
よいのだと思うよ
4つの盟主墳の系列=4つの勢力の本貫地がすべて
奈良盆地東部ってことはないからね >>396
ホケノ山にも殉葬なし。つまり纏向遺跡と邪馬台国とは無関係やよ。 >>384
>わかっていたという証拠は?
分かってないまま、神功皇后を当てて本当に神功皇后だったら困るだろ?
それと、有名な話だけれど日本書紀の28巻天武天皇上に
是日、三輪君高市麻呂・置始連菟、當上道、戰于「箸陵」、大破近江軍
とあって、箸墓ではなく箸陵とされていて、これが大王の墓であると
いう認識なのが分かる >>415
絶えずそういう嘘をついていないといけないのは
九州説がもう滅んだからですか? >>388
>問題はそれが2世紀末から3世紀前半なのか
纏向遺跡の建設開始は、纏向大溝の底の土器編年で2世紀末〜3世紀の
前の方と分かっている
古市・百舌鳥古墳群が倭の五王の時代
この二つが年代の定点
大倭古墳群、佐紀盾列、古市・百舌鳥古墳群の順で、大王墓が造営されているから
最初は都から見える場所、次に北から都に入る人に見える場所、
次に海路で都に向かう人に見える場所、に重点が置かれたっていう解釈で
いいんじゃないかな >>417
卑弥呼の「殉葬者百人」はさすがに創作じゃないだろうから、ますます畿内説が(魏志倭人伝の年代に合わせた)土器編年の50年繰り上げと合わせ、後世の追葬との印象操作をしている祇園山古墳が怪しいねw >>389
>その弟の吉備津彦は普通に2.3歳年下として
お前、現代日本の家族計画の感覚で兄弟を考えすぎw
昔は、産児制限なんてしないんだから母親は
子供が産めなくなるまで生み続けるし、
一人の母親の最初の子供と最後の子供で20くらい平気で離れているものだ
男親から見ると妻妃は複数いて権力者はどんどん若いのを娶るんだから
兄弟でもさらに年が離れていて何も不思議はないんだぞw >>393
>などなど複数の資料から四道将軍は4世紀前半でいいね?
ダメだね
お前、1世代20年で計算してるだろ?
そこからおかしいんだよ
上代は末子相続だから、1世代がもっと長い
5世代100年(1世代20年×5)は茶番
1世代25年としても、5世代で四半世紀ずれるし、
1世代が30年近くなれば、5世代で50年ずれる
お前の応神定点からの世代遡りでも、世代時間が短いから
バカな見積もりになってるんだよ
四道将軍は3世紀後半で問題ないんだよ >>395
>君がこの日本列島で「大量の奴婢埋葬伝承」がある場所
そんなものは日本列島上にないんだよ
もちろん葛城高天にもない
骨一本出ていないのに、蜘蛛窟、蜘蛛塚という
後世の民話を痕跡と言い張るバカがいるだけ >>421
祇園山に殉葬っていうのが創作で
今そうやってニセ情報流してる九州説は怪しいというより現行犯 >>427
まぁ、畿内説そのものが偽情報だからなw >>416
ただ肝心の大王宮が、崇神朝・応神朝は勿論、継体朝も全く見つかってないというのが畿内説の弱点なんだよね。
雄略の朝倉遺跡は倉庫だけだしw >>409
>土器編年50年繰り上げ操作にみんな騙されてるだけw
アンチ畿内説、反日連中はすでに否定されてことを
コピペし続けるから面倒でいけない
50年繰り上げじゃなくて、北部九州と畿内で同じ土器形式が
根拠薄弱なまま、50年ずらされていたのを正しく修正しただけ
土器の製作技法が50年遅れて伝わった、の時点で無理があるけれど
技法だけならまだありうる
けれど、問題となっている庄内式、布留式土器はその形体そのものの
様式化、規格化がその特徴なのだから、
50年後に伝わった時に50年前の様式の土器を作ると
いう訳の分からない話になってしまうんだよ
だから、同じ技法、同じ様式の土器は同じ年代に編年されるようになった
これだけのこと
ちなみに、纏向遺跡で宮殿城柵の遺構はすでに出てるよ
https://i.imgur.com/DoW0DbB.jpg
https://i.imgur.com/7mvLtgW.jpg
吉野ケ里は最初から年代が合わないのが分かっている >>428
そうやって証拠もなく流すのが九州説名物ニセ情報 >>429
記紀伝承地を いくら掘っても 出てきたのは倉庫だけ!ヤマト説!w 繰り返しになるが、神功皇后記を120年繰り下げ、
空いたところに天照大神の高千穂神話を持ってくれば、真実の古代史がそっくり復元できるようになっているんだよ。
なお殉葬跡としては、境内末社の荒立神社がある。
これは本殿とは別の神職家が祭祀に当っており、王族以外の(アメノウズメなど)一般人を弔い祀ったものとみられる。 >>429
>ただ肝心の大王宮が、崇神朝・応神朝は勿論、継体朝も全く見つかってないというのが畿内説の弱点なんだよね。
実在とされる継体朝も大王宮が見つかっていないということは、弱点でも何でもなく、見つかる方が珍しいということだね >>432
どこ掘っても何も見つからないのが九州説 >>432
→→→【記紀伝承地】←←←をいくら掘っても、出てきたのは 倉庫だけwww 畿内説w >>421
>後世の追葬との印象操作をしている祇園山古墳が怪しいねw
追葬じゃなくて長期間営まれた共同墓地
印象操作じゃなくて公式調査結果
あなたのやってるのが印象操作 >>215
ですねw
>>436
雄略天皇は鰹木もない小さな倉庫の中で寝起きして政治をしていたんだよw >>435
金印が出たぞ
畿内からはショボい鏡しか出んのだろ? >>386
証拠は?根拠は?理由は?
自分は一切証拠も根拠も理由も書かない奥山の、いつもの口癖じゃないか 卑弥呼の鏡「可能性高い」大分・日田で出土の鉄鏡
「三国志の英雄」として知られる曹操(155〜220年)の墓「曹操高陵」を発掘した中国・河南省文物考古研究院の潘偉斌(ハン・イヒン)氏が、大分県日田市のダンワラ古墳出土と伝わる国重要文化財「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡(きんぎんさくがんしゅりゅうもんてっきょう)」を、邪馬台国の女王・卑弥呼がもらった「銅鏡百枚」の一枚である可能性が高いとする見解を明らかにした。佐賀新聞社の取材に応じた。
卑弥呼がもらった鏡は、邪馬台国の謎を解明する重要な鍵とされており、今回の指摘は邪馬台国論争に一石を投じそうだ。ダンワラ古墳の鉄鏡は直径21・1センチ。鉄の鏡体の背面に金や銀を埋め込む象眼「金銀錯」が施され、朱色のうるしで彩色した珠がはめ込まれている。手足の長い龍のような怪獣が多数描かれ、銘文は「長=。孫」(欠落部分の■は「子」と推測される)の四文字が刻んである。九州国立博物館が管理している。
潘氏は、九州国立博物館でダンワラ古墳出土鉄鏡を確認した上で「金錯や銀錯が施される鏡は王宮関係に限られる。この鏡は国宝級の貴重なものであり、公式なルートで日本に伝わったと考えられる」と述べた。
「魏志倭人伝」は、景初3(239)年に卑弥呼の使いが魏の皇帝から「銅鏡百枚」を下賜されたと記している。ダンワラ古墳の鏡は鉄製だが、潘氏は「倭人伝が『銅鏡』と表現したのは、鏡の総称として用いたのだろう。そこに鉄鏡が含まれても不自然ではない」と解説した。「魏の側からすれば、最高の品質の鉄鏡を贈ることで、倭に工業技術の高さを示そうとしたのだろう」と推測する。
潘氏は、九州国立博物館で開催中の特別展「三国志」のために来日し、九州大学、東京国立博物館、九州国立博物館の研究者らとともに、ダンワラ古墳出土鉄鏡と、曹操墓出土鉄鏡の共通点などを議論した。
二つの鉄鏡は直径が21センチと同一で、曹操墓の鉄鏡もX線調査の結果、金錯が確認できた。研究者らは「いずれも2〜3世紀の中国において『御物』など最高級に位置付けられる貴重な鏡である」という見方で一致した。
https://www.saga-s.co.jp/articles/-/472520 >>439
後漢朝から印カンをもらった倭奴国が倭國の極南界
出たのが志賀島 >>429
>ただ肝心の大王宮が
心配しなくていいよ
よそでも一切見つかってないから
飛鳥時代になると蘇我氏の邸宅跡も、飛鳥京跡の王宮遺跡も出てるんだから
問題ないと思うけど? >>443
そういうこと。つまり、ヤマト王権は飛鳥時代以降なんだよ。古墳時代まではただの王家の谷(奥津城)。 >>440
>自分は一切証拠も根拠も理由も書かない奥山の、いつもの口癖じゃないか
またも一切証拠も根拠も理由も書かないトンデモ説
ダメだなあ >>442
おやおや、今度は方向音痴が治った設定か
畿内説は節操がないな >>444
>そういうこと。つまり、ヤマト王権は飛鳥時代以降なんだよ。古墳時代まではただの王家の谷(奥津城)。
じゃ、それ以前の王家がいた大王宮は?
見つかってないよね?
あなた自己矛盾してます >>447
>奥山はずっとそうだぞ
だから証拠は?
あなた印象操作も失敗するダメ詐欺師ですか? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています