【祿壽應穩】伊勢早雲庵宗瑞 part02【針積玉碎】
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
伊勢盛時 (康正二[1456]〜永正十六[1519])
仮名:新九郎 入道名:早雲庵宗瑞
戦国時代の武将、政治家。京都出身。
後の小田原北條五代の始祖。
幕府中央実務官僚であったが幕命を帯びて駿河下向、今川氏の内訌に軍事介入して鎮定。
一旦帰京したが伊豆堀越公方の内紛に際して再下向、幕府、今川氏、扇谷上杉氏等の指示と支援を受けて伊豆國に侵攻。
ここまでの経緯と功績により今川家重臣となる。
以後数年の伊豆制圧戦を経て事実上の伊豆國主、戦国大名の立場を確立する。
但しこの間も今川家の軍事指揮官としての活動は継続。
関東の情勢を受けて扇谷との同盟のもと相模國西郡を制圧。
後に扇谷及びその配下三浦氏と諸権益の対立を生じて開戦、長期にわたる戦争の結果相模國全域及び武蔵國の一部を支配するに至る。
最晩年には上総真里谷武田氏からの支援要請を容れて房総にも侵攻。
伊豆侵攻後から室町型秩序を排して領国直轄統治の展開に努め、相模國進出後は検地等を通じて公正、合理的な税制の確立に尽力。
更に相模國完全制圧と前後して関東一円を襲った壊滅的飢饉状況の中、村の賦役の法的根拠を全て所謂「虎ノ印判」状のみとする制度改革を実施。
これは諸々の中間搾取を排除して飢饉下に在る村の負担を軽減するものであり、村から大名権力体への直接訴訟制度「目安制」の創出と併せて後世の北條善政伝説の核事実となったと考えられる。
箱根湯本、金湯山早雲寺に永眠。
戒名:早雲寺殿天岳宗瑞公大禅定門 >>17
現代の政治制度が長州が作り上げたというなら真実だな 前スレに居着いてた構ってちゃんが新スレにも来たか。
此奴の書込には独特のキモチワルさがあるから一目で判る。
真っ当なスレ住人の皆さんは触らないようにしましょう。 伊豆から、出ずる
日本語は、連環の輪
文字の意味も、さっぱりわからねえな 北條の林業。
北條(に限らず戦国大名)は山の樹木の伐採を厳しく制限するのみならず森林育成も奨励した。
深山の杉、檜は育苗植林を、低山や里山なら曾孫生えする櫟、小楢、栗等の落葉広葉樹を、と。
もちろん大名権力体が戦争や普請で必要とする木材をいつでも確保できるようにしていたわけだが、
実はそれと同じくらい洪水防止という目的を極めて重要視していたと謂う。
山林の荒廃、保水力の低下、土砂崩れや洪水の頻発と激甚化、それが更に山を荒らして…
という「洪水は人災」のメカニズムを正確に理解していたことに驚く(驚いちゃ失礼か)。
戦国大名の環境問題意識と云うと奇異に感じるが、
文字通りヒトの生命と領国の運命が懸かっていただけに現代の我々よりもリアルで切実な感覚だったかもしれない。
考えてみりゃ当り前の話、ケロッと忘れていた直近百年の方が異常だったな。
【参考文献】
「軍需物資から見た戦国合戦」 盛本昌広 2020 書いていてフと気付いた。
國木田獨歩が逍遙して称揚した「武蔵野の雑木林」の形成は江戸幕府の新田開発からだと思い込んでいたが、
これも実は北條期に淵源するものだったのか。 後北条氏の分国では木一本首一つといわれたほど立木の伐採、山の入会は厳格だったからな 後北条氏分国内の六斎市に代表される経済実態に興味がある
これもある程度の史料が残っているだろうから調べると面白いだろうね
他の地方の史料が少ないから後北条の経済圏の特徴なのか一般的だったのか比較が難しいかもだが
六斎市が設定された地域は今も主要地であるから話は壮大なスケールになりそう >>29
八王子は北條氏照が瀧山から移った時に市も″持って来た″ようだが、
瀧山のそれが氏照の代からなのか大石氏に起源するのか。
江戸ではもちろん太田道灌の時代から市が立って殷賑を極めていたと云うが、
それが道灌横死後の動乱で一旦断絶したのかそれとも北條〜徳川まで連続していたのか。
北條以前の関東は地場・民生の史料がなかなか無いからなあ…。 単なる地方豪族ではなく、分国を標榜し国法を施いたからにはそれなりの配分を意図しての市の設置だったろうな
関係ないかもしれないが、関東では建物の跡から古銭がよく出土するよな >>31
大問題「撰銭」で捨てた悪銭だったりとか、、、 >>32
関東各地から出土する埋蔵銭は建造物の床下から出土するから非常用の蓄えだったと思う >>34
北條に限らず多くの戦国大名領国で貨幣経済が発達していたとみていいんじゃないか。
イ)年貢や給金が実際に貫高決済(貨幣納付)されていた
ロ)撰銭問題が行政制度の変革を促すほどの影響力を示した
ハ)年貢の現物納付容認後は貫高を定高として市場相場による相当現物量が都度指定(即ち現物の方が変動)された
ニ)大名領国を跨ぐ広域交易も盛んに行われていた
−−等々の諸点から、既に貨幣を介した流通が尋常の姿になっていたと考えられる。 >>20
長州の人材宝庫はなんやねん
あんなちっぽけな藩から次から次へと近代日本の支配者が出るなんて信じられんわ
クソ東北土人なんかに国政を任せたから日本は敗戦国になったんだわ 北条早雲をそれまでの悪役から義を重んじる英雄に評価を一転させたのが司馬遼太郎の大功績 >>37
スレチだが長州藩の一文字三星は他藩にはない妙なカッコよさがあるよな。 日本を敗戦国に追い込んだクソ東北土人の責任は重い
昭和初期も薩長が国政を支配してれば日本は敗戦国にならずに済んだ >>38
まぁ司馬なくして北条早雲の復権はなかったのが真実だな。 東北諸藩および東北軍人は経済産業を丸っきり理解できなかったのが戊辰戦争も日米戦争も敗因の原因だろ。
幕末から藩そのものが総合商社と化してた長州は恐ろしすぎるよ。 スレチの自演荒らしをそれ以上積み上げると荒らし報告スレへの報告要件を満たすことになる。
報告が通ればレス削除やアクセス規制の対象になるが、承知の上でやってるのかな? >>39
おまえさぁ
後北条氏の貫高制とか理解でき? 北條の舟運について色々読んでいるが、
栗橋時代の北條氏照は三十艘もの商船を配下に置いていたとか。
しかもそんな内陸から「鯛、海鼠、蛸」を注文する書状が残ってたりする。
ここから解ること。
イ)伊豆相模江戸外房の海の支配を活かして旨い肴を喰っていた
ロ)北條氏照は呑兵衛 >>47
栗橋まで届けさせるとなると鯛や蛸も塩漬けだろうけど
、まあ酒には合うよな
氏照っ呑兵衛だったんだ?
氏邦って名の地酒は寄居町にあるけど 過去に国内で発見された埋納銭発掘例のランキングで一位は以外にも北海道(和人地の舘跡から出土)、二位三位も石川や新潟で、古くから貨幣経済が発達していたはずの近畿や西国ではないんだよね 昔、埼玉の蓮田の岩槻配下の土豪の館跡から27万枚の銅銭が出土して話題になってたね
何で埋めるんだろうと疑問に思ってたけどまじない的な要素もあるのかな? >>51
火牛の群れと一緒のこれ↓かな。
https://www.city.odawara.kanagawa.jp/global-image/da/203/wm20120223194617-1.jpg
(出典:小田原市公式サイト)
今やこれは水戸駅にある黄門様&助さん格さんの銅像と同質のものだろう。
「水戸黄門」「遠山金四郎」「大岡越前」「宮本武蔵」「真田幸村」「齋藤道三」…そして「北條早雲」。
彼等は既に史実とは別世界の虚構に懇ろに封印された。
これからも愉快痛快な英傑譚として親しまれ愛され続けるだろうが、歴史を語る場に蘇ることは二度と無い。 「本書は、伊勢早雲庵宗瑞についての」
黒田基樹氏は著書『戦国大名・伊勢宗瑞』の最初の一行をこう書き起こしている。
正に他ならぬ黒田氏こそが「北條早雲」を過去へと葬った人であってみれば単に「伊勢宗瑞」と記すべき所、
殊更に斯様な書き方をしたについては氏の明確な意志が感じられる。
実事求是の学究としての矜持を保ちつつ、
広く親しまれた「北條早雲」とその伝説に想いを寄せた人々への敬意を示したのではないか、と。
この一句を以て「北條早雲」への訣別、鎮魂としたように思われてならない。 >>50
これ1トン超えてて東京国立博物館のCTスキャナの重量制限オーバーしてたってね
270貫というと中堅〜大身国人の年収というところだけど、それが銭にすると1トン超えってなかなか不便だよな >>54
この大量出土の銅銭、岩槻近くの黒浜って所なんだけど、岩槻を追われた太田三楽斎が城の奪取をねらい潜伏していたとされている場所でもあるのが気になる
伝えによれば出土した場所は三楽斎家人の館跡だというし
銅銭を庭や床下の土中に埋める風習は全国的なものだったらしいけど、石の蓋とか建物が焼け落ちた後も考えていたようだな 戦国期の遺跡からの出土品って変に生々しいから面白いよね
埼玉の私市城跡だったと思うが、堀跡から鮮やかな刀創痕ある首(頭蓋骨)が出土した。しかも若い女性の首が。
軍記物にあるように激怒した不識庵謙信率いる越後勢が私市城攻めで城兵のみならず女子供まで皆殺しにしたってエピソードも本当なのかもな?と想像が膨らんでしまう
銅銭もそうだけど、漆器類や磁器類が多いが、刀傷がある人骨や馬具とか兜とかの出土品がどういった経緯で土中に残ったのか気になる 早雲の若い頃、文正年間の京の米価でいうと銭28貫文で米41石買えたそうだから、銭270貫文でおよそ400石(60トン)、銭1トンが米60トンなのか 銅銭の量も凄いが、銭が入っていたこれだけの大瓶が尾張の常滑焼なのもそそる >>57
> 文正年間の京の米価でいうと銭28貫文で米41石買えた
即ち 銭一貫文=米一石四斗六升。
約八十年後の永禄七年、
北條領国の「穀反銭」の公定歩合は銭百文で一斗三升、
即ち 銭一貫文=米一石三斗。
約10%のインフレだが八十年間の変動としては極めて少ない。
戦国飢饉状況下の絶対的な米不足を考えると俄かに信じ難いが、
都と関東の格差なのか、
食糧流通経済そのものが潰滅した結果なのか、
それとも北條の原理として市場の実相場と乖離した「良心的」な歩合設定としたのか。 都のレートが同時代の関東と同一だったとは思えないし、むしろ都のレートは例外的だったと思う
それにしても100年もの間、関東で大名としてやってた北条なら貨幣と流通と物価の安定的をはかる政策施策は合戦以上に注力していただろうな 辻照の食べ物の話が出てたけど、当時の関東の食事事情に興味出てきた
衣食住の食は国の基幹的なものだから後北条も相当影響を及ぼしたはず
或は影響されたはず
詳しい人がいれば、まずは調達方法など知りたいので教えて! >>61
その件に詳しい人はいないだろうなあ。
本職の研究者もなかなか分からないんじゃないか。
以下、連投でテキトーなことを書き散らかしてみる。 北條氏繁が書いた『出陣次第』に出陣・帰陣・具足着始の時の献立と食事作法が詳しく記されている。
献立は 昆布、熨斗鮑、打ち鮑、そしてもちろん御約束の、鰹。
鰹については氏綱の噺が世上に有名。
先に書いた氏照の 鯛、海鼠、蛸も併せて海の幸を大いに好んだことが窺える。
伊豆、相模灘、武総之海、香取之海、外房と、これほど多様かつ長大な沿岸環境を領有した戦国大名も珍しいんじゃないか。
その現れか、上記の肴も内湾の種から外洋の種まで揃っている。
この辺が北條ならではの特色と云えるのかどうかは知らない。 肴についてもう一つ。
これは史料も何にも無い妄想だが、
北條は利根川を初めとして関東の大河の過半を押さえていたから川肴も盛んに喰ったんじゃないか。
江戸時代には「関宿の鮭」がブランド品になっていたんだが或いは戦国時代にも食されていたかもしれない。
北條氏康があれほど関宿の領有に拘ったのも当地の川肴が喰いたかったからなのかもしれない(ねーよ)。 流通について。
海陸一体の舟運体系を構築していた北條は水産物や沿岸産品の輸送に困ることは無かっただろう。
特に海産物の方は漁師を物流にも軍役にも活用していたから迅速な広域流通が可能だったと考えられる。 肴以外について。
『出陣次第』の献立にはまた、これも定番の 栗 が挙げられている。
北條の林業に関する話題で木材用の栗の育成奨励に触れたが、それと関係があるかどうか。
北條氏邦が鉢形に入った時、
小田原の想い出に蜜柑を持って行って同地でも栽培したと謂う。
温暖さ故か当時既に小田原で蜜柑が普及していたことが知れる。
以上、駄文連投御免。 >>64
網代とかアジの干物ばかりですごいけど後北条の番肴の名残もあるのかな >>67
魚ッ喰いだねェ、名将氏康公。
もう塩でも無塩でも生でも干物でも。
もちろん網代の干物も大量発注。
以下、『戦国時代における南関東の交通』中丸和伯1959 から抜粋。
(脱字と思われる部分も原文ママ)
**********
氏康は弘治3年(1557)11月に国府津郷の村野惣右衛門に 「御前様御台所諸役御免条々」 をさだめ、永禄3年(1560)2月には毎月小田原城へおさめる魚値段きめてから塩でも無塩でも随意と現物納させた。
また永禄4年3月には小やた(八幡)の小代官百姓に生たい(鯛)3枚,、永禄11年8月には伊豆網代官百姓に干鯛60枚にスルメ500枚を接客用として納入させた。
そのご隠居した氏康は永禄9年6月10日に自領国府津郷から火急の御用の御肴をその日の夕方8ツ以前に台所へもってこさせたり、永禄6年10月16日には須賀 (平塚市)の田中に小鳥のゑ御用のあじ200疋を2とき(4時間)のうちに小田原へもってくるように命じた。
********** 書いた後で気が付いたんだがこの件、
> 永禄4年3月には小やた(八幡)の小代官百姓に生たい(鯛)3枚
永禄四年三月ってカゲトラと不愉快な仲間たちによる小田原城攻囲の真っ最中じゃねえか。
なんで鯛なんぞ取り寄せてるんですか氏康公…。 >>69
小田原に馳せ参じた諸将をもてなす宴でもしてたんですかね?
生の鯛から連想すると、ひょっとしたら軍神に捧げる供物(当然神事の後には食した)として使ったのですかね?
一門宿老が神前に烏帽子・白の直垂姿で鯛と手づくねのかわらけに注いだ御神酒を捧げて勝利を祈願していたとか勝手に想像が膨らむ 伊豆のアワビとかサザエもうまいけど、これは交易にも使ってたんかな?
昆布やワカメも使えそうだし >>71
鮑や栄螺は方々の海で獲れるからなあ。
熨斗鮑は定番の縁起物だから海の無い甲信とか北関東方面の需要はありそうだ。 山梨名物のアワビの煮貝は駿河の今川から送られたのか始まりだとか >>73
懸命に越後や駿河を、海を取ろうとした武田信玄が何だか切ないな たしか山梨って、海無し県だけど人口あたりの寿司屋の数は全国一なんだよな >>75
奥多摩の更に奥に在る丹波山や小菅にさえ江戸前を主張する寿司屋があったりするからな。
もっともこの両村は実質的に東京都(水道局)の領土だけど。
海の幸への憧憬は甲州者の遺伝子に刻まれてるのかもしれない。
何度も南進しようとしては伊勢宗瑞に叩かれた武田信縄の頃からの哀しい性か。 山梨や長野の旅館に泊まると、とにかくマグロの刺身でもてなすよね。
せっかくだから山の幸食をいたかったりするのに、とにかくマグロの刺身!みたいな感じで。まあ、甲斐信濃だと魚介類はアワビの煮貝のような保存食ばかりだったのだろうね。
そういえば、私が転勤で北九州の小倉に居たときに土地の名物の糠床(床漬け・百年床)や、これを使って魚を煮たぬか炊きをよくたべた。三方を海に挟まれた小倉でわざわざ保存食かよ?っておどろいたが、由来を聞けば藩主小笠原氏とその家臣団が旧領信州松本での保存法を小倉に持ち込んだものとか。
小田原の食い物と言えばういろう(外郎)もあるよな。あれは早雲が都から呼んでの作らせたのが始まりとか聞いたけど、関東のお菓子に影響与えたりしてるのかな? >>70
山口博氏は『北条氏康と東国の戦国世界』(2004 )において、
鯛は長尾景虎退散を祝う為のものと推測している。
これ↓が鯛の発注書現物。
最初の四文字が「たい三枚」に見えるが…どうかな…?
https://bunka.nii.ac.jp/db/heritages/detail/240298/ 鯛三枚の納入を命ずるのも小代官宛の虎印状か
直轄領ならではかもしれないが、国府津の小八幡には名主はいただろうから小田原の国家的な徴発として命じたのだろうな
当然ながら、納品した分は番肴から幾分か免じられたりそれなの保証はあったのだろうけど 「戦国」の本質は飢饉と戦争の、即ち飢餓と暴力の無限循環連鎖以外の何物でもない。
その銃爪を引いたのは中世の地球を襲った気候寒冷化と地殻変動。
しかし飢饉という事象は陸の上のことで、
戦国の頃も気候変動の海産物への影響は相対的に小さかったのではないか、
少なくとも沿岸部に棲む人々はそれなりに栄養源を確保していたのではないか、
長大な海岸線を確保した北條の領国経営は或る程度までそれを勘定に入れられたのではないか、
漠然とそんな推測を持っていた。
話は飛ぶが、
さっき秋刀魚で呑んだ。
去年も今年も彼岸を過ぎても脂の少ない痩せた秋刀魚しか店に並ばない。
しかも不漁でもある。
気候温暖化による海水温上昇の影響だと云う。
影響は海にも及ぶ。
俺の推測はあまりにも甘かったと悟った。
寒冷化なら北の旨い肴が関東でも獲れたかもしれない!(甘い) 当時の相模湾で鯛の漁ってだんな方法だったんだろ?
臨時に鯛を三枚小田原城へ納めろというの、漁民にはかなり重かったのか、それとも大したことなかったのか知りたい 司馬遼太郎が箱根の坂で書かなかったら知名度は今より低いだろうな あの勝海舟が最も近代的な戦国大名に後北条氏の名を挙げていたが
最期の秀吉の従属勧告に応じずと意地を張りすぎて滅亡したのは後北条氏といえども戦国大名の気質から抜け出せなかったのか >>84
司馬が書かなければ無名の偉人で終わってた河井継之助と北条早雲は同じかよ >>84
司馬遼太郎の箱根の坂が駄作でそれほど認知されていないので影響はないと思われるね >>85
中身のない議論するだけで結論が先送りする小田原評定は現代の政治を先取りしすぎたともいえるw
それに対すると豊臣秀吉は大陸的な専制政治家だからな後北条氏の手法は全く通用しないともいえるw 後北条の政治は灰色決着をつけたがる日本人の性質そのもの
勝敗の白黒つけたがる大陸型独裁者の秀吉みたいな性格からすると一番嫌いなタイプだろ
秀吉も最初は後北条を滅ぼすつもりまでなかったかもしれないが途中で変わったかもしれんね >>84
オレの中では「最後の将軍」が司馬遼太郎の最高傑作なんだ
常に無能扱いされ続けてた徳川慶喜をあそこまで高評価した歴史小説もないよ 磯田道史は花神を司馬遼太郎の最高傑作に上げてたみたいだが 後北条氏の重臣達の話し合い談合政治は良くも悪くも徳川幕府に受け継がれてる 中身のない話し合いを無駄に延々と続けて何もできずじまいで終わるのが小田原評定だっけ? >>92
その結果新たにできた役職が大老なんでしょ >>4で書いたように伊豆・関東に於ける伊勢宗瑞の事蹟は大規模自然災害との関連を抜きにしては考えられない。
飢饉恒常化はもう前提事項としても;
・明応四年 大地震/大津波
・明応七年 大地震/大津波
・明応九年 大地震(内陸性か)
・永正八年 富士山噴火
と、たった二十年未満のうちに非常識な頻度で天変地異が発生している(ちょっと1990年代から2010年代に似ている)。
この時期、伊勢、今川、堀越、古河、山内、扇谷、三浦、大森、武田等には各々相応の政略も展望もあったろうが
哺乳類ヒトのそんな矮小な営為など大自然の暴威に殆ど無効化されてしまったかもしれない。
領国とその周辺で現出した惨状に対する危機管理・現場対応を必死で重ねるうちに、
事態に無力無能を曝け出した旧統治体制を図らずも超克してしまった、
必ずしも意志することなく戦国大名として成立してしまった、
宗瑞の後半生は案外そんなドタバタだったのではないか。 >>97
彼は戦国大名わー志向していなかっただろうね 氏照が酒呑みだったって本当なの?
その辺の話はなかなか興味深いけど
後北条の分国では酒は生産されていたのかな? >>99
> 氏照が酒呑み
取り寄せた品目を見て酒呑みが妄想しただけですよ。
鯛はともかく海鼠や蛸は御飯のおかずにはならないからねぇ…。 >>100
まあ、塩着けや干しものではなく生にこだわったのなら酒好きそうだよね
後北条氏当時の関八州の酒事情に詳しくないんでわからないが、酒の安定的な確保も課題になるね >>101
「戦国時代 関東 酒」で論文検索してみたけど特に見つからず。
酒造そのものが縄文以来行われていたことは確かだが銘酒というほどには至っていなかったんじゃないかな。
但し、
・当時既に清酒と濁酒の区別があった
・新酒よりも古酒(重醸酒)が好まれた為アルコール度は現代より高かった
・北條領国の美物(うまもの)は伊豆が鰹、相模が鮑、上総が海苔だった
等々、無駄に余計な知識を得てしまった。 各自でこさえるどぶろくみたいな物はあったろうけど、まあ小田原には酒屋はあったろうね
相模は鎌倉もあるし酒を専業で作る者はいたと思う 史料が数多く残っている後北条氏だけど、酒や酒造の史料は珍しく無いみたいね
鎌倉の頃より関東では幕府が酒壺こわしたりと市中で酒が盛んに取引されていたのは間違いないんだが、大々的に税金かけるほど商業としては未発達だったのかねえ? 小田原城至近の酒店の御主人は語る。
変な御客様がいるんですよ。
毎朝夜が明ける頃に決まって買いに来るんです。ええ、もう毎朝毎朝欠かさず。
こっちはまだ寝起きで店を開けるどころの騒ぎじゃないんですがね。
遠回しにそう云うとね、馬鹿野郎、酒は朝呑むもんだ、夜呑んだってロクなことは無ぇ、なんてねえ…。変でしょ?
身なりは立派な御侍なんですが御顔に、こう、大きな刀疵があって何とも凄味のある…。
まあ、御代はいつも現金払いですし、人品骨柄良さそうな御方なんですが。
え?名前?伺ってませんねえ。紋所?…あー、何てえのかな、オムスビみたいな奴で。 現在、氏邦って銘酒はあるけど氏照はないね
八王子城って銘酒はあるけど
魚の納入を命じた書状が残っているのに、酒に関するものがないのは、命じられた者は零細な商売人で関東に土着しなかったということなのかな?
江川酒もそうだけど、ある程度自作で賄えるものでもあたのだろうか? 小田原以外で後北条支配の歴史を強烈に感じるのが八王子なんだよなあ >>108
後北条の家臣の三沢衆の子孫が土方家。
土方歳三は最後の後北条侍なり。 >>110
そういえば15日に延期されてた「燃えよ剣」がやっと公開されるんだよな
来年には「峠」も公開されるみたいで実に楽しみだ
時勢は徳川幕府の復権か? >>108-110
話題について来られないなら自演してまで無理に書かなくていいのに 見苦しいのを通り越して滑稽だよ 八王子の話題が出て思い出したんだが司馬遼太郎の街道を行く第一巻は甲州街道の特集で、
今は分からんが昭和の八王子は徳川慶喜の大ファンが多かったんだと。
武州多摩の辺境ほど幕府イデオロギーが強いのは新選組を見たら分かるわ。 しかし後北条の失政は現代日本にも病根として根深く残しているな
堺屋太一や司馬遼太郎は徳川幕府の鎖国主義の島国根性が日本人を極端に矮小化させたと批判していたが
元を辿れば小田原評定を代表にする後北条の談合政治にあるんじゃないかと ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています