【祿壽應穩】伊勢早雲庵宗瑞 part3【針積玉碎】
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伊勢盛時 (康正二[1456]〜永正十六[1519])
仮名:新九郎 入道名:早雲庵宗瑞
戦国時代の武将、政治家。京都出身。
後の小田原北條五代の始祖。
幕府中央実務官僚であったが幕命を帯びて駿河下向、今川氏の内訌に軍事介入して鎮定。
一旦帰京したが伊豆堀越公方の内紛に際して再下向、幕府、今川氏、扇谷上杉氏等の指示と支援を受けて伊豆國に侵攻。
ここまでの経緯と功績により今川家重臣となる。
以後数年の伊豆制圧戦を経て事実上の伊豆國主、戦国大名の立場を確立する。
但しこの間も今川家の軍事指揮官としての活動は継続。
関東の情勢を受けて扇谷との同盟のもと相模國西郡を制圧。
後に扇谷及びその配下三浦氏と諸権益の対立を生じて開戦、長期にわたる戦争の結果相模國全域及び武蔵國の一部を支配するに至る。
最晩年には上総真里谷武田氏からの支援要請を容れて房総にも侵攻。
伊豆侵攻後から室町型秩序を排して領国直轄統治の展開に努め、相模國進出後は検地等を通じて公正、合理的な税制の確立に尽力。
更に相模國完全制圧と前後して関東一円を襲った壊滅的飢饉状況の中、村の賦役の法的根拠を全て所謂「虎ノ印判」状のみとする制度改革を実施。
これは諸々の中間搾取を排除して飢饉下に在る村の負担を軽減するものであり、村から大名権力体への直接訴訟制度「目安制」の創出と併せて後世の北條善政伝説の核事実となったと考えられる。
箱根湯本、金湯山早雲寺に永眠。
戒名:早雲寺殿天岳宗瑞公大禅定門 【祿壽應穩】
祿(財産)と壽(生命)は應[まさ]に穩やかなるべし
(「虎ノ印判」文言)
【針積玉碎】
伊勢早雲は針をも藏に可積程の蓄仕仁に候つる雖然武者邊につかふ事は玉をも碎きつべふ見へたる仁にて候由宗長物語候事
(「朝倉宗滴話記」より) 戦国武将・伊勢新九郎盛時/早雲庵宗瑞について実事求是の立場で議論するスレッドです。
1. 伊勢宗瑞に直接関わる話題を原則とします。
但し、
・小田原北條五代全般
・宗瑞が組み込まれた構造及び状況
・これを規定する環境及び条件
・概論としての権力論、技術論、社会構造論 等
は取扱対象とします。
伊勢宗瑞と時間的/空間的に懸け離れたスレ違いの話題は遠慮願います。
2. ここは日本史板です。
基本的に学術研究ベースの議論を心掛けて下さい。
講談・俗説・小説・映画・ドラマ・漫画・ゲーム等の話題は板違い・スレ違いと見做します。
これらを語りたい向きは然るべき板へ。
【日本史板LR:https://lavender.5ch.net/history/head.txt】
3. 前項・前々項に示すスレ違いの書込を繰り返すと荒らしとして削除/規制の対象になります。
申請は予告無しに行う場合がありますので左様御承知置き下さい。
4. 「荒らしに構う奴も荒らし」。
荒らしの書込には決して反応しないこと。
では、活発な議論を期待します。 伊勢宗瑞晩年期に於ける関東勢力分布図。
https://i.imgur.com/Bp4remv.png
【無名】東京の武将たち【知りたい】 [無断転載禁止]©2ch.net
https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1470119615/
レス番565から引用。作成者氏の承諾(同スレのレス番595)による。 <ご注文は無職ですか?OP>
【ガイジ ドリーム かふぇ】
♪落ちろ!しねしねゴミ😩アンチのふりして、😏
もうちょっと近づいちゃえ😘😘😘
簡単には教えないっ😚😚
すこればわかることは内緒なの😤
くこくこ?🐔ドゥジョドゥジョ?👳🏾♂罠ですよ。😱
はじめがかんじん!🙋♀
none:none:(のーねのーね)🙆♀
くこくこ🐔🐔ドゥジョドゥジョ👳🏾♂👳🏾♂
梅干し🔴
不細工笑顔🤓でちぇいちぇい👶
スレ🏡を開けたとたん、
怒涛の死ねガイジ😇
(そんな酷いよ😢)、ありえない🙅♀
それがありえるかも、無職だけの異次元😰
(アホの馴れ合い)、覗いたら😳
私が私にレスしてました😅
なんで?🤔なんで?🤔見えている?😳(うそ!😱)
いつものコテ🤔(きっと)おんなじレス🤭(だから)
誰だ😳(平日の昼でしょ!)。毎日いるよね?😅
(これはニャース😺、馬鹿穂香🙋♀
、センチメンタルなんJ民😤?)。 我々素人が伊勢宗瑞について知る/考える為の良書を思い付くままに挙げる。
【直接関連】
家永遵嗣『奔る雲のごとく』所収「北条早雲研究の最前線」
黒田基樹『戦国大名 伊勢宗瑞』
黒田基樹『今川氏親と伊勢宗瑞』
金子浩之『戦国争乱と巨大津波』
【間接関連】
黒田基樹『太田道灌と長尾景春』
黒田基樹『扇谷上杉氏』
黒田基樹『北条氏綱』
真鍋淳哉『三浦道寸』
千野原靖方『国府台合戦を点検する』
【社会構造論 等】
藤木久志『日本中世気象災害史年表稿』
藤木久志『雑兵たちの戦場』
佐藤博信『中世東国の権力と構造』
齋藤慎一『中世東国の道と城館』
盛本昌広『軍需物資から見た戦国合戦』
盛本昌広『中世南関東の港湾都市と流通』
まだまだあろうかと思う。
特に今は、
・伊勢宗瑞の産業技術政策
・信縄期から信虎期の甲斐武田
についての書物を読みたいと考えている。
これはというものを御教示頂ければ有り難い。 勝海舟>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>スレ主
歴史学の深み 北條氏綱の諸社寺修造事業は世に隠れも無いが、箱根権現社宝殿造立の氏綱署名棟札に拠るとこれは先代伊勢宗瑞の強く望んで果たせなかった所であったと謂う。
従来この事業は専ら政治的/祭祀(信仰)的意義から論じられてきた。
それは無論正鵠を射た議論であろうが、別の視座からも見ることはできないだろうか。
飢民救済の公共事業。
工業技術の振興発展。
社寺修造事業はもっと即物的な意義を持つ産業政策でもあったのではないか。
そんなことを考えている。
明確な論拠は無いから妄論の類に属するが、また少しづつ書いていきたい。
(続) 前に黒田基樹をテレビで見たがアデランスに出てくる禿のおっさんやんか! >>11
意図的に書かなかったのかは知らんが伊東潤様が抜けてるぞ。
あの方こそ後北条の知名度を上げてくれた最大貢献者だろ? 伊東氏が小説に書かなければ北条氏康なんて空気扱いだったからな 氏康が主役の小説と言えば北条龍虎伝だろ
伊東潤は量は多いが正直あまり面白くない 最新刊の大隈重信伝はわりと面白いぞ
あの人は他が書かない人物を書く小説だけには力がある >>20
ノンフィクションは書いてるけど、研究書や論文は書いてない
そもそも研究者じゃない >>18
あの人が敬愛する司馬遼太郎の文体に似通ってるしあえて似せてるんだろう
大鳥圭介伝を読んだら燃えよ剣の続きを読んでる気にさせられたよ もちろん北条ファンなら深夜の八王子城で心霊スポット巡りだよな (>>13から承前)
時は云うまでもなく深刻な飢饉下にある。
村々の通常の生産活動に任せるのみでは領国の崩壊は目に見えている。
為政者がこれを阻止する為に採る政策は古今東西変わらない。
公共事業を興して飢民窮民をその作業に充てること、公権力が彼等に報酬として衣食住を支給すること、である。
社寺修造事業は多数の実作業者を必要とする。
単に数のみならず、木樵、土工、大工、左官、屋根、鈑金、鍛冶、鋳物、指物、建具、経師、神具仏具、庭造、…、と技術の裾野の極めて広い綜合事業である。
農民に限らず領国社会の広汎な人々に事業参加機会を提供することで大きな飢餓対策効果を期待出来る。
伊勢宗瑞・北條氏綱は斯様な狙いを持っていたものと考えたい。
またその実行に当たって氏綱は、領国内や味方ばかりか敵対勢力に対してまで杉・檜の良材提供を要請している。
これを政治的示威或いは踏絵と見るのが従来の理解であるが、資源負担を他領に転嫁することで領国に於ける負担軽減を図ったものと解釈することも可能だろう。
更に杉・檜の属性や生育地域を考慮すると、村の日常の生産や食に及ぼす負の影響は実はかなり小さい。
ここにも効果を最大化、負担を最小化する思想が窺える。
斯くの如く社寺修造事業は「喰わせる」ことを至上命題として周到にプロデュースされた公共事業のように思われてならない。
(続) 氏綱に再建してもらったのに鶴岡八幡宮は源氏ばかり持ち上げて北条を無視しているのが気に入らない >>28
鶴岡八幡宮は江戸時代に徳川家の庇護のもと大規模な建築物の増設とかしているけど、その徳川家も目立たないから、まあそういうものだと >>26
八王子城内にいた3000人が皆殺しにされたんだよな
今でも成仏できんだろ
秀吉も悪のう 前田利家から降伏勧告の使者を切り殺されたと聞かされた豊臣秀吉が言った言葉。
時には皆殺しも必要だ >>37
関東のいわゆる被差別部落の分布・所在地、由来や伝承などを丹念に調べると、彼らが戦国大名小田原北条氏の忍びというか諜報を担った集団だったのでは?と思う時がある 北条氏政は小栗上野介みたいなもんよ
外敵がいない無風状態だと超有能だったんだがなあ ゼレンスキーよ後北条みたいに無血首都開場しないで戦い抜け (>>27から承前)
他方、工業技術振興、又はより広く産業構造改革という視座からも考察を試みる。
上述の如く社寺修造は極めて広汎な技術分野に及ぶ仕事である。
その対象=神仏に係る製作物という特性から、また定説に云う政治的意義からも、範囲の広さのみならず技術水準の高さも求められる。
鎌倉開府以来の伝統を有する関東がこの点に於いて後進地域であったとは思われないが、当時斯界の最高水準と云えばやはり京都の宮大工に代表される専門技術者集団であったろう。
この大事業に当たって、北條権力体が自身の出自を活用して京都他から一流技術者群を招聘した可能性は十分考えられる。
無論第一義的には最高水準の仕事を成し遂げる為である。
のみならず彼等の指導の下に実作業を担う関東の職人たちの技術水準向上も大いに期待できる所で、以て北條が在地のモノ作り産業振興を企図した蓋然性は高い。
獲得された各分野の技術自体は軍事にも民生にも応用し得るから結局これは領国の充実強化へと繋がって行く。
北條権力体が戦争はもとより日常の国政にも注力したことは周知の所である。
この綜合事業に斯様な意志を込めたと想定しても決して不当ではあるまい。
(続) 俺はあんまり鎌倉市が好きではない。
頼朝のお膝下だからだろうか。
サザンオールスターズの舞台。 >>43
太田十郎氏房の手に属した主に岩槻衆の武士達が多数討死しているから無血開城ではないんじゃないの? >>44
後北条みたいに首都を無血開城してしまうと恭順したとみなされて誰も助けてくれないからな
本願寺が信長との講和に成功したのも血まみれの徹底抗戦をしたからである 無血開城???
盛大に攻城戦やってたのに????? >>48
>>3に示した通り、荒らしには触らないように。 秀吉の小田輪原攻めで小田原城で1人ぐらい死んだのか? これは後北条は真田昌幸が徳川軍を返り討ちにした上田城の戦いを参考にするしかなかっつた。 伊達政宗が秀吉の傘下に入り誰も助けてくれそうな人がいなくなったからさ >>58
「豊臣方の」大名クラスも何人か死んでるし
何度も夜襲や強行仕掛けて被害も出してるが、何言ってんだ?
>>58
他の北条支配の城では、まさに虐殺が行われたが
小田原城は包囲だけで無血開城されたからなw 八王子城虐殺でどこからどう見ても後北条に勝ち目がなくなったからでしょ。 最後の同盟国である伊達政宗を秀吉に寝返らせない外交努力をしなかった北条は無能すぎる >>59
真田昌幸の処世術は勝海舟と繋がり天下一品。 ウクライナで、これまでの世界秩序が崩壊しつつある中でやってることが過疎スレの自演荒らしとか
人生について考えたくならないのだろうか >>68
そこは後継者を育てなかった北条氏康の失敗かと 江戸城無血開城には東西の英雄達による潔さを感じるが
小田原城無血開城にはただ無様で情けないだけ 徳川家康
「俺が氏政なら秀吉の軍を小田原城に引きずりこんで袋のネズミのごとく一万兵ぐらいは殺す」 氏邦のほうが昌幸より先に安房守を名乗った説のほうが最近有力らしいね
昌幸のほうがあてつけっぽいとか >>73
簡単な論文があるっぽいけど、そこでは「山内上杉家の受領名」を真似して、上野支配権の誇示が目的って仮説だったね
氏照の陸奥守(当主の相模守と対、鎌倉北条氏の得宗の官途から)とは意味合いが逆に近いという (>>46から承前)
更にこの技術政策にはより大きな意義=領国の労働人口の適正再配置、現代の言葉を使えばパラダイムシフトの促進という狙いも含まれていたのではないか。
中世の日本の−−日本に限らないが−−基幹産業が農業だったことは論を俟たない。
当時の生産技術の下では「農村の労働人口∝生産力」であって、統治権力体は農村からの人口流出を最も忌む所としていた。
但しこれは平時に於ける原理である。
潰滅的飢饉の常態化した戦国期の村々ではむしろ食糧を消費する過剰人口が問題となった。
後年の他国の例ではあるが、上杉謙信が冬季の口減らしの為に対外略奪戦争を定例国家事業とするに至ったのはその対策の顕著な事例である。
しかし略奪戦争事業にせよ公共建設事業にせよ有期の策であって根源的/恒久的な解決とはなり得ない。
危うい平衡を保ちつつ農村人口をその生産実力に見合ったものとすること、
過剰人口を余力や需要のある産業に振り向けて領国の社会基盤を多元化・重層化すること、
即ち産業構造改革こそが本質的な対策となる。
(続) (>>75から承前)
北條の社寺修造事業には専門技術者のみならず下働き等の作業に村から徴発された農民たちも多数参加していたことだろう。
作業を通じて身に付けた技術を以て新たな方向、職人の道へと転進した者たちも多かったのではないか。
時は戦国、戦争の常態化はモノ作り産業に莫大な需要をもたらしていた。
彼等の生存可能な場がそこには在ったと考えられる。
「喰えない」村を出て「喰える」場へ、という遷移運動は、実は放置していても必ず発生する。
飢餓と暴力の臨界点に於いて、しかしそれは欠落・逃散という破滅的な形で爆発して統治権力体にとって制御不能なものになる。
領国の安定的存立の為には事態がそこへ至る前に権力体の制御下でソフトランディングを図る、即ち漸進的な労働人口再配置が成されなければならない。
この事業はその恰好の契機であったろう。
そして北條の民生に係る諸事蹟には、彼等なら必ずこれを意志的に遂行したに違いないとの推測に足るものが確かにある。
氏康期以後、北條権力体は職人衆を社会基盤単位として育成強化する政策を採る。
当時の自然環境条件及び社会状況の下でよりバランスの取れた社会構築を試行したものと位置付けることは可能だろう。
宗瑞〜氏綱期の社寺修造事業はその先駆にして最大の事例ではなかったか。
北條の試みはやがて徳川に承け継がれて、中世から近世への社会構造変革へと進んで行くことになる。
(了) 氏康の子供は存在感あるけど
氏綱の子供はよーわからんわ 大泉洋がコロナ感染
北条主演の大河も打ち切りかな? 久しぶりのジャニーズ役者が全く出ていない本物志向の大河ドラマだったのに残念だ
来年は悲愴を極めてるからな 日本史で取り残されてる最後の大物が太田道灌と北条早雲 なぜか源氏より平氏に夢の浪漫を感じてしまうんだよな
いわゆる清盛や秀吉の一代で極めた栄華というものが
はかないからだろうか?
せつないからだろうか?
やるせないからだろうか?
うつくしいからだろうか? 本家の平家の氏神は厳島神社ですが
後北条の氏神なら三島大社でしょうか?
後北条も平家を自称するなら広島まで参るべきだったのに 後北条氏は伊勢氏の流れを引く平氏ではあっても平家ではない
(平家とは清盛流平氏のことであって、桓武平氏全体のことでも、桓武平氏高棟流全体のことでもない)
当然、氏神も厳島神社ではない
小田原北条氏が特に重視したのは、三島大社、箱根神社、伊豆山神社と鶴岡八幡宮
これらには文書など後北条氏由来の文物が多く残されている >>82
平朝臣と名乗るなら、庵号を付けることはあり得ない
(平朝臣盛時、出家後なら伊勢入道早雲庵宗瑞) >>77
氏綱の息子のうち
為昌は小机領と玉縄領を併せ持って、かなり広範な指揮権を有しており、長綱(幻庵)と並んで一門衆筆頭だったけど、残念ながら早死
氏尭は為昌の小机領を引き継ぎ(玉縄は綱成)、一門衆でも陸奥方面の外交を取り仕切って重要な地位を占めたけど、やっぱり早死
名実ともにNo.2として北条を代表した氏照や、元々一門衆の下位だったのに自力で成り上がった氏邦、家康の幼馴染で畿内方面の取次を努めた氏規ほど目立たないのは仕方なさそう >>87
北條爲昌については父・氏綱も兄・氏康も相当の期待と信頼を寄せていたものとみられている。
彼の夭逝後の慌ただしい家中再編等からもそれが北條権力体にとって大打撃だったことが窺える。
或いは双頭体制の構想があったかとさえ見える。
氏堯も与えられた位置付けからしてかなり重要視・有能視されていたことが解るが、
その表舞台への登場が年齢的に遅いことに鑑みて若年の頃は病弱でもあったか、と黒田基樹氏は推測している。
何れにせよ当主兄弟を徹底的に活用し切る方針は氏政世代を待たず氏康世代にも明確に認められる。
これは更に遡って、
幻庵長綱に箱根神社を掌握させて氏広に葛山氏を継がせた氏綱世代、
或いは盛興を伊勢軍の全権司令官に起用した宗瑞世代から貫かれた北條の顕著かつ特徴的な基本戦略だった。 後北条氏は、一族内での殺しあいがなかったのはすごいよね 早雲の設計がよかったらからではなく、地生えの武士じゃないから、北条一族が地元家臣団各派閥の代表的存在にされにくかったのだろうね。
いわば植民地総督府の仲間意識。 >>90
プラス、
関係者一同から「宗家当主は理不尽なブラック労働」と認識されてたんじゃないかと見ている。 >>83
北条ファンで小田原の松原神社に参拝してないやつがいるなら偽者だな 今日のテレビ評論家連中も小田原評定やってるだけだな
具体的に大国が攻めてこられたならばの対抗策がない
秀吉という絶対強者になすすべもなく滅ぼされた後北条の二の舞になることなかれ 箱根権現別当
北条幻庵
箱根神社こそ後北条五代の氏神なのである >>89 >>90
他家に於ける内訌の多くは地位や待遇に関する缼望から発生している。
伊勢宗瑞も直接関わった今川事案、武田事案、小弓事案等々枚挙に暇が無い。
北條領国体制に於いては当主の兄弟等の御一門衆はもとより譜代直臣等にも有力國衆クラス、場合によっては小規模の大名クラスの実体と権限が付与されていた。
それだけの待遇を受けながら更にリスクを冒して叛乱を想う者は少ないだろう。
宗瑞以来の兄弟一門使い倒し路線は正に「地生えの勢力ではない」事実に強要されたものだろうが、
それは結果論として関係者一同の自尊心を満足させつつ存分の働きを引き出す制度設計だったとは云えないだろうか。 >>92
ここの後北条マニアは知識ばかり詰め込んで実際にゆかりの現地に足を運ばない人間が多いと思われ 北条幻庵が亡くなり1年後に北条家自体が滅亡するなんて なに、三嶋大社とか長浜城とか韮山城とかの写真見たいの?
いくらでもあるよ >>101
まさに後北条は藤原秀衡が亡くなり直後に滅亡した奥州藤原氏のコピーだ!
豊臣秀吉を源頼朝と思えばいい >>107
箱根神社に常駐してたなら常に小田原城に指揮してたと思われる >>104
いわば北条党にとり幻庵は最強の幹事長みたいな存在 そういや武田神社と上杉神社はあれど北条神社はないが
箱根神社がそれかもしれないな 関東には後北条の後を襲った徳川家の東照宮がある
関東武士の原型に近いと思われる平将門の神田明神もあるし NHKの歴史探偵で秀吉の小田原攻めをやっていたが、小田原城の包囲網と石垣山城で北条氏を屈服させたような内容で、
一番肝心な関東中の北条方の城を軒並み堕としていったことには一切触れてない。
NHKの歴史番組は、こういうミスリードを平気でやるよな。 今回は小田原城だけの特集だからあたりめえだろうが
どこ見てんだよ そんなことより今夜のBS11でも丸ごと北条早雲の特集じゃねえかよ
やっと後北条の時代でも来たのかよ >>118
ついに伊勢宗瑞か北条5代を大河ドラマにする気になったのかNHK >>117
朝鮮出兵とかもやってたじゃねえか
バカバカしくなって途中で見るのやめたけど >>115
そうだな
まさしくそのとりだな
なにしろ箱根神社に座す枢機卿の北条幻庵が死亡した翌年に後北条は滅亡してしまったんだよな? おいスレ主の書き込みないが生きてんのか?
ロシアの気狂い暴走からスレ主が行方不明だぞ
まさかロシア工作員だったのか? しかし北条幻庵の97歳死亡説が真実ならば
北条早雲の88歳死亡説は実は正解かもしれない >>122
ったく暴走しすぎなんだよロスケはよお
1が死んでしまったじゃねえかよ この世界情勢にこそ北条氏康が求められてる
by伊東潤 >>130
その治政において相当に攻勢に出ているし、拡大した勢力範囲の広さたるや武田信玄とほとんど変わらない
拡大した領域
武蔵北半、上野南部、下野西部、下総、上総半国
(拡張したが奪われたのが、上野半国、駿河河東)
氏政の代になって
上野1国、下野西半、常陸南部、上総1国
これが最大版図 >>131
氏政期北條の最大の戦果は関宿制圧。
氏康の言葉そのままに関宿を押さえたことで関東の海洋/河川一体水運が大いに発展した。
里見の降伏もこれを促進した。
伊豆から武総之海、更に北関東へと連なる北條の水運システムは、
陸運が窒息状態にある現代の目で見直しても魅力を感じる。 南総の里見家っていうのも結局は幕府に無断で小田原との海上交通盛んにしたり縁組みで大久保氏に連座で改役だから儚かったよな やっとスレ主もどってきたのか
ロスケの発狂と同時に消えたからどうしたか思ったぜ >>132
現代なら政治家より東大卒の高級官僚になってそうだ氏康 >>136
ロシア文学を愛読してそうな感じはあった。 >>135
伊勢/北條が幕命や扇谷の意志で伊豆小田原を獲ったのと同様、
里見も古河の奉公衆として安房に落下傘降下した後に根付いた。
宿敵同士が似た者同士でもあった辺りに歴史の皮肉を感じる。 しかし安房は土地が痩せていてどうしようもないね今も (岩槻太田美濃守あたりが血反吐吐いて罵りそうだな、どの口が言うと<専守防衛) 太田三楽から見たら小田原なんて秩序の破壊者・強欲な侵略者でしかないだろうね 主君が滅ぼされてる時点で守るべき秩序も何も無いがな >>138
戊辰戦争の佐幕派に反米親露派が多いのは仕方ないのか >>148
おれは土方歳三のロシア逃亡説を信じていた時期があったわw
そういや土方歳三とプーチンは冷血な表情が似てるなw
生まれ変わりかw 逃亡先のロシアの地で死んだ土方がプーチンに転生して黒船に復讐してるのさ 「土方歳三 北条氏照」で検索すれば結構出てくるな。
中には生まれかわりなんてオカルトめいたものまであるが。 とりあえず土方歳三なんて後北条氏の時代には関係ないのでやめてください 則竹雄一氏『氏康の民衆統治−−北条氏と「百姓中」「町人中」「職人衆」』
(黒田基樹氏編『北条氏康とその時代』所収)
>>76からの関連で上掲論文を読んでいる。
職人衆関連論述のみならず全体に大変面白いものだが、則竹氏が『所領役帳』他の史料から作成した氏康期前半頃の北條配下(武・相・豆)の職人衆一覧表が特に興味深い。
以下、取り留めも纏まりも無い感想文をぽつぽつと書いていく。
(続) (>>159から承前)
北條の領国統治体系に於いて「職人衆」は「百姓中」「町人中」と並ぶ社会単位として明示されている。
これは直観的に後の徳川体制に於ける「工」「農」「商」を思わせる。
両者の厳密な定義が重なるか否かは詳らかにしないし他の大名領国がどうであったかも知らないが、
徳川が民政に就いては北條を丸呑みにしたという巷説の例証と見て良いのかもしれない。
徳川家康という稀代のリアリストの炯眼から見ても採るに足る合理性があったのだろう。
尤も、則竹氏によれば「職」「百」「町」の間には兼業も遷移も認められるとのことで、徳川体制下の固定的な職分制度に比べるとより流動的なものだったとみられる。
これを社会の未分化、原始性と評価することもできようが、視座を変えれば可塑性、活性に富んだ柔性構造とも云えないか。
此処に>>76他で想像した如き産業構造改革政策の成立する余地を認めておきたいのである。
(続) >>156-157
豊臣秀吉の東方進出に徹底抗戦した北条氏照
長州藩の東方進出に徹底抗戦した土方歳三
NATOの東方進出に徹底抗戦したプーチン
まあ似てるといえば似てるな 彼は彼自身の義によって動かされているのだから
残念ながら経済制裁の効果は薄い
土方歳三みたいに死が訪れない限り戦い続けるのであろう 八王子城内3000人の皆殺しで小田原城の戦意が完全に喪失して秀吉に降伏したんだよな?
やはりいつの時代でも自国民間人の大量殺戮は国家の戦意を喪失させてしまうんだな。 俺は自国の完全降伏というのは戦意が消えた時に起きると
民間人の虐殺は当時でも戦意を喪失させるものであったんだなと言いたいだけだ 戦意を喪失させるためにキエフで病院やら学校をガンガン空爆して虐殺してますがな >>165
3000人皆殺しの事実とやらのソースないでしょう? 皆殺しに近い虐殺という意味でしょう
そうでなければ小田原城の戦意は喪失しない 八王子城だけじゃないだろ
ほぼ全ての味方の城が陥落させられたから戦意喪失したんだろ いや小田原城前に並べられた首は八王子領民の首だらけだぞ 戦争とは意思力なのである
意志力がある限り戦争は終わることはないと格言を残したのは
毛沢東だったな まあ後北条は今でいえば高学歴のインテリ集団だから
殺されたら極楽往生できるという本願寺みたいな狂信派集団でもないから
元から後北条の戦意は弱いほうよ 後詰めのこない籠城線の場合、敵の補給ルートを叩くことも出来なくなるから継戦不能になるという話で
領民虐殺されたから継戦不能って見方は当時の常識的にナイーブすぎる(そんな例はほとんどない) 東北との共同作戦でない限り、箱根・碓氷が上方勢やな破られたらおしまいだろ >>175
豊臣みたいな殲滅戦じゃなければ、支城全て落としてくって無茶なことはそうそうできない(味方の支城網の半数以上生き残るから、敵の後方で暴れることができる) (>>160から承前)
上述の一覧表は職人衆の名前、居住地、職種をまとめてある。
居住地は勿論小田原が圧倒的多数…かと思いきや然に非ず、鎌倉が最も多い。
これは番匠(主に大工)の大棟梁が軒並み鎌倉の社寺の被官であって当然その配下も同地に集住していたからだと云う。
云われてみれば納得の話だが、当時の番匠の社会的地位の高さを改めて知る。
既に武士の都として終わっていた鎌倉は閑静な社寺地として余生を送っていたわけではなくて、威勢の良い職人の都として活きていたのかもしれない。
と同時に−−やや危険な話題であるが−−技芸を以て社寺に直属した「ジニン」の少なからぬ部分が近世の被差別民へと繰り込まれたのに対して番匠がそうはならなかった事実にも関心を惹かれる。
網野善彦氏の著作など読み直してみたい。
その他、我が多摩地域にも北條直率の職人衆が散見される。
論文の百姓中や町人中に関する記述と併せ考えると、
当時の郷村が現代の大都市補完ベッドタウンとは全く違う、小規模ながらも自立性/完結性の高い社会単位であったことが垣間見られる。
気楽な噺としては、
浅草寺被官とみられる職人衆が特に「江戸鍛冶(浅草)」「江戸番匠(千束)」と記されていることにニヤリとする。
後世の江戸ッ児の刃物師や「デェク」の御先祖様が権現様御入府より遥かに古く、北條氏康の時代には既に肩で風を切っていたかと想うと実に可笑しい。
閑話休題。
(続) 戦争とは戦意だからな
戦意がなくなれば戦争は終了する
20数万人も小田原城内に残留しときながら秀吉に降伏したのは
八王子城の領民虐殺が響いてるにきまってるよ 後北条は八王子城の領民虐殺されて戦士喪失してしまったのさ。
これが本願寺なら喜んで阿弥陀如来の彼岸に行ける聖戦だと絶滅戦争をしただろう。 本願寺軍団が信長との講和に持ち込めたのは信徒を虐殺されても戦意が喪失しなかったからである
後北条は自国領民の生活第一の戦国時代では稀に見る民生王国すぎた故に八王子城の大虐殺で繊維が喪失したんだろ
それが小田原城を無血開城した根本原因 もはや簡単にウクライナ人の戦意が喪失しそうもないからロシアが戦術核を使う恐れが増してきたな 絹織物が特産の八王子で繊維を喪失したら大変ですなあ >>180
いまでも命が軽い独裁国家ほど戦時体制になると強いんだよなw >>183
さすがにロシアの現体制は長く持っても3年以内の寿命でしょ もしプーチンのために命を捨てたいというロスケが急増でもしない限りはそうやな 孫子の兵法「戦意させ奪えば一滴の血を流さずとも勝利できる」 >>190
小田原城無血開城ですな
八王子城領民を皆殺しにされた後北条は秀吉に戦意を奪われたなり もし秀吉の東方進出に徹底抗戦した北条氏照が禿頭ならプーチンと同じだ 歴史学者の本郷和人氏いわく
戦国時代でも実際に皆殺しの虐殺を実行したのは
織田信長
豊臣秀吉
伊達政宗
武田信玄
この4人のみであると 実質的に早雲亡き後の北条四代を支えてたのは黒衣の宰相たる北条幻庵だからな。
それが亡くなったからには北条の滅亡は決定されてたようなもんよ。 「日本史上最もやばい人物」第1位:織田信長
加藤 最もやばい人物1位は誰でしょうか。
本郷 織田信長です。この人はやばい。日本史上で唯一、虐殺を行った人物ですから。
https://diamond.jp/articles/-/258181?page=2
本郷さんしゃべること結構変わるからな… さすがに今は言わないだろうがロシアと同盟を組むべきと主張してたのが東大教授の本郷和人 >>151
やはり西から圧倒的戦力で攻めてくるNATOが豊臣秀吉だな 経済制裁で徹底的に弱らせておいて攻めるのが秀吉ナトーの兵法さ >>206
多くの日本の知識人がプーチンに騙されていたのさ 情報と言えば、助郷や伝馬制のようなものも小田原北条の時代からあったんだっけ?
鉢形だと時宗の鐘打ちが飛脚役として小田原などに頻繁に往来してたとか >>215
駅伝は後北条時代からあった、それもあっての支城ネットワーク >>215
北條領国では伊勢宗瑞の時代から伝馬制、廻船制ともに整備が始まっている。
特に三国同盟時代は印判による「相互乗入」まで保証されていた。
助郷についてはその名称で扱った研究を不明にして知らないが、定例外の賦役(北條からの日当が定例より大幅割増)として徴発したかと推定される。 北条幻庵が無くなり翌年に後北条が滅亡するとは
どれだけ幻庵の存在が大きかったのかと 戦争とはインテリジェンス
後北条のインテリジェンス能力は劣化していたんだな。 そのインテリジェンスをハードウェアから支える駅伝(伝馬制)の話になってるの、理解しているのかいないのか >>222
割と世界標準の制度なので(多分発祥はペルシア)
採用しているかいないかでしかないのでは? 時宗の鐘打ちが飛脚役をやってたのは北条氏特有のものかなぁ? 他の地域だと狼煙とかがあるので
北条が採用したのは関東の地勢故かな 北條氏綱が修験者を伝令(使者)にした記録はある。
時宗の鉦打にせよ修験者にせよ旅する者だから道に明るい上に、世外の存在だから権利関係の錯綜する経路も比較的迅速に通れたらしい。
齋藤慎一氏の受け売りだが。 >>220
基本的に間者や諜者を遠く異国まで派遣して調べさせるような外交を積極的にする家柄じゃないからね
内向き制度が後北条家 甲府にいながら人国記を愛読して隠密を各地に派遣して日本六十六州を知り尽くしていた武田信玄とは大違いだ >>225
関東の地勢と云えば、
情報伝達にせよ物資運搬にせよ北條の河川水運網はもっと重視されていい。
場合によっては伝馬よりも高速の交通が可能だった筈。
何故かこの範疇は学術水準でも手薄のように見える。 後北条氏の諜報というか情報収集といえば、たとえば伊勢との定期海運と特に兵糧米の集中買付とかかねえ、著名なのだと
北条が基本的に大軍を飢えさせることが他家にたいして少なかったのは、自国の生産のみに頼らず、上方から大量に買い付けていたからだったりする
上方とのコネクションが、氏政の頃にも維持されていたって仮説もあるけど、まだ有力説とまではいえない
ただ、小田原征伐の直前まではこれらのネットワークは維持されていて、征伐の直前にも大量に確保していたりする 鎖国の原型こそが後北条
半島と独自に交易してた毛利とは大違いだ >>230
当麻関係の書付とか、青梅奥多摩の三田氏滅亡後の制札とかで、多摩川や荒川、相模川の水運関係の論文あったよ
あと、政治史的な話だと、後北条氏の勢力が利根川をなかなか越えられなかった理由の考察に、利根川水運をなかなか掌握できなかった(特に中流域より先)って話があったり
関宿制圧後に氏照が利根川中流〜下流に支配広げて、安堵等の許認可を広く行なっているのは知られてる >>218
北条幻庵に関しては何故か資料が少ないから憶測で影響力を判断するしかない。 >>233
論文紹介ありがとう。
関宿、なんだよなあ。
北條氏康の云った通り。
しかも江戸葛西との一元支配で更にその重要性は増す。
関宿制圧後に北條氏照が当該方面の支配に当たった頃、利根川には実に三十艘余りの廻船が就航していたと云う。
その急速かつ大規模な整備展開を見るに、
氏康も氏政も氏照も関宿を獲ったらああしてやろうこうしてやろうと計画しながらヂリヂリしてたんだろうな、と。 熊がの市が置かれた時に、小山だか結城だかそんなところの市の土をわざわざ持ってきて祭ったという記録はあるね
しかも穢多がそれを担ったと 関宿の重要性にいち早く目をつけ、古河=関宿から下総常陸下野に勢力を確立した関東公方足利成氏って、実は当初の想像よりずっと傑物だったのかもしれんねえ >>243
全盛期の両上杉に幕府、甲斐武田、駿河今川まで向こうに回して二十八年間も戦い抜いた人物が、
或いはその権力体がタダモノであるわけがない。 大途の伝馬!大途の飛脚!
大途の為替レートとか詳しく知りたい! >>247
史料や研究論文を読んだことがないだろ? 武田水軍なんてのもあってな。
信玄が沼津方面を必死に欲しがってたのは海洋交易。 今のロシアしかり内陸国というのは経済的に生き残るのには必死。 >>252
>>247
史料や研究論文を読んだことがないだろ? >>234-235
多くのロシア信者が地獄に落とされてるのよ 伊豆の長浜城行くと、水軍城がどのようなもので、敵が目の前に見えるってことが身体で理解できていいぞ
重須の船溜まりとか、中世の港湾の雰囲気残ってる(だいぶ堆積で狭くなってるが)
なお、そのまま裏の発端丈山(標高400mだけど、平均斜度20%近くあって結構きつい)登ると詰めの城である三津城で
ここからだと沼津市街(すなわち武田方の拠点である三枚橋城)の動きが一目瞭然 戦国時代の関東にも宿や城下町には風俗店みたいなのはあったと思うんだけど、大途すなわち後北条氏が風俗店のようないかがわしい商売をどのように統制していたのかを知りたい
例えば、割高な棟別銭を取られていたとか従軍を命じられたとか、、、 やっぱり内陸の戦国武将は海を欲しがるんだよな
20世紀でロスケが不凍港を欲しがってたのと同じだな しかし氏康が築いた後北条200万石の遺産を皆無にさせた氏政はアホちゃうかと >>262
後北条氏最大版図を確立したの、氏政・氏直の時代だけど? >>264
まあ、謙信存命の頃から関東からはほぼ駆逐されてるけどな >>258
一般論で云うなら中世の列島に於いて遊女は立派な職業。
場合によっては社寺に属することさえある。
また徳川体制や大日本帝国の如き公娼制度が北條領国にあったとは聞かない。
従って取り締まる理由も必要も無い。 >>266
ありがとうございます。
しかし、小田原北条氏が遊女屋から何ら賦役を取らずに全く放置していたとは思えない。 >>267
近世以後の如き「遊女屋」なるものの北條領国に於ける成立を示す史料を不明にして知らない。
御教示願う。
北條領国の税や労役は基本的に村、町、宿、戸などの単位に対して機械的に賦課される。
遊女は前述の社寺等を除けば「町人中」の問屋(=旅宿、伝馬次)や飲食店に所属または勤務していたものと思われるから、
特段の扱いではなくてこれらの所属先/勤務先が尋常の税体系による収奪を受けただけではなかろうか。
今一つ、彼女たちが「職人衆」として扱われた可能性も残る。
当時の遊女は性行為と共に舞踊等の技芸を売る者即ち職人と位置付けられていた(網野善彦氏等)。
>>159で言及した則竹氏作成に係る職人衆一覧には「舞々」「舞太夫」なる職人が数件挙がっている。
或いはこれが遊女を示すかとの疑いも無しとしない。
この場合も職人衆の通常賦役体系−−職能に応じたモノ又は労役の定例提供−−によって処理されただけだろう。
そこには取締という意図は見出し難い。
根本的な認識として、
売春を忌むべき行為或いは特殊な職業と見做すような価値観は当時存在しなかった。
西欧近代啓蒙思想の先入観を以て中世日本を考えるのは止めた方が良い。 >>264
後北条の躍進は合口が悪い信玄が消えてからだな。
元から上杉には合口が良い。 >>270
歴史に刻まれた名言を知れ。
「強い者が勝つのではない。勝った者が強いのだ。」
−− Franz Beckenbauer 1974 中世の鎌倉には遊女がたくさんいたらしいから、やっぱ宗教的なところに奴属していたのかもね 川越の夜戦の時は上杉方は遊女を呼んで散々楽しんだらしいから遊女って戦にも来るんだな それって、小田原北条氏旗下の関東武士たが、戦の最中にお互いフェラチオとかしてたってこと!??? 房相一和の原因の一つに、関宿陥落後の利根川中下流域の交易を北条に握られて安房水軍が干上がったのもあるんでは、という仮説 >>274
歩き巫女とか、流れの遊女集団とかが、大名の支配圏越えて活動してたのは網野ほか民衆史系の研究者が述べてるよ
秀吉の小田原征伐時も大規模な遊女集団がついて行ってる >>278
安房の地理条件の哀しい所。
太平洋水運、利根川水運、上総、の全てを北條に制圧されたら窮するしかない。
北の味方、佐竹水軍は河川哨戒部隊程度の水準だったと云うし、奥州からの補給もどれほど期待できたか。 上総や安房の方にヤリマンが多いのも児ほうしの影響かな? 北条と里見の戦いはほとんどが里見の有利で終わってる 里見が後北条に対して優位だったのは、甲房同盟期、三船山合戦から甲相同盟復活までの間だな
その後一気に巻き戻されて房相一和にいたる
三船山より前は第一次、第二次国府台合戦を代表として、後北条(と千葉氏)有利な状況だった あんな小国を滅ぼせなかった後北条はアホすぎる
里見水軍が驚異的な粘りを見せたのも有るかもしれないが >>278と>>280に関連する(と云うには遠いが)私見。
伊勢宗瑞は一度江戸方面侵攻に失敗した。
相模國を制圧した後は改めて北進するかと思いきや、真里谷武田の要請を容れて房総渡海を優先した。
一見不合理なこの動向は「水軍」に係わることではなかったか。
江戸方面侵攻当時、
宿敵三浦はなお健在で三崎衆はその配下だった。
のみならず武総之海の西岸、六郷、品川、江戸等の浦々の海賊衆は扇谷方の立場を固守していたろう。
陸路のみから進んだ伊勢軍が海からの反撃や妨害に苦しんだことは十分に想像し得る。
これを経験知として、三崎衆を配下に収めた宗瑞は先ず東岸の真里谷やその盟友里見の水軍をも味方に付けて湾奥の海賊衆を干上がらせる戦略を採ったのではないか。
−−そんなことを考える。
伊勢宗瑞は江戸攻略を果たせず逝ったが、その地味で迂遠な行動が次代北條氏綱の爆発的発展に堅実な基礎を与えたとみておきたい。 >>283 >>285
マンガや小説しか知らない荒らしの駄弁に付き合っても無益なことだ。
無視が最善。 >>286
そこは里見家の北条家に対する恨みは本物だったからよ。 >>287
面白いことに、三崎や館山の海賊衆は(里見と北条が敵対していても)北条からも里見からも半手が認められ、どちらも北条にも里見にも税を納めていたことだな
戦になれば当然三崎は北条、館山は里見方なわけだが、合戦直前までは両属状態が常だった そうやった・・
関東の大物戦国武将では佐竹義重を忘れていた。 >>292
「半手」はそれだけで一つの研究分野になるほど面白いテーマらしい。
現代世界がそうであるように、
戦国世界に於いても社会構造の揺るがぬ実体は産業経済であって華々しい政治軍事はトッピングに過ぎなかったのかもしれない。
強かに生き続ける常民に支えられつつも「表層」でしかなかった戦国大名は−−、
命懸けで踊った哀しい道化か。 >>292
房総半島も三浦半島も関東の中では今でも独特な雰囲気だもんな >里見義堯の反北条魂には泣ける!
ゼレンスキーの反露魂にも泣ける! 安房の領主ごときを何十年もかかっても堕とせなかった後北条は雑魚w 武田の水軍なんて弱いのにな
それと互角なんて北条水軍はショボすぎ 武田水軍は今川水軍を接収したもので、西は三河湾周辺あたりまで勢力を持っていたわりと強力な戦力
ただ、目の前の伊豆に手を出せず、北条の伊勢廻船に手を出せない程度には海上は北条優位だったんだけどね
沼津港のすぐそこの獅子が浜すら圧倒できなかった >>304
ミエミエの荒らしに構ってはいけません。 >>303
後北条は海洋国でもあるのにあんまし水軍は強くないんだな >>304
武田領は内陸国だから水軍が弱いのは当たり前
問題は相模伊豆という半海洋国でもある後北条の水軍がたいして強くなかったことだ 後北条はもともと都からやってきて本人が海賊の出ではない
更に水軍を買収しなかったからだと以前書かれてた 強いとか弱いとか、ゲームみたいな話はいい加減にしてほしいな 上の方でも書かれていたが三浦水軍が服属した時期、伊豆諸島における支配、伊勢廻船の航路とか面白そうなネタは結構あるよぬ
後北条による江戸湾の制海権確保って何時ごろだったんだろうとかも >>311
じゃあ、武田信玄は甲斐を押さえていないことになるわけだが
半手のこと理解してんのかな >>309
戦国武将として最大値の価値は勝敗なんだが?
行政能力に重きを重んじられるのは江戸期からでしょ。 >>304
後北条家と懇意だった今川家の水軍がよく武田の傘下に収まったね。
生き残るためには何でもするという時代といえばそうだったといえるのか。 いや戦国武将は生き残ることが最重要だろ?
強いか弱いかが問題である >>315
武田水軍が意外に善戦したのがそれだったのかよ・・ >>319
北条氏政は生まれてくるのが30年遅かったら歴史に名を汚さずにいた
小栗上野介は生まれてくるのが30年早かったら歴史に名を汚さずにいた 後北条も最期は行政官僚が強すぎた弊害がもろに出てしまった (>>177から承前)
>>159で言及した職人衆一覧所載の職種構成も面白い。
数から云うと「番匠」が群を抜く。
小田原、江戸、河越、八王子、鎌倉等々拠点都市の勃興復興、或いは各所の郷村開発の著しい時期、
大工や宮大工は幾人いても足りなかったろうからこれは納得の行くデータである。
しかしこの「番匠」の示唆する所はこれに留まらない。
当時の番匠はかなり広汎な木工業を包括する職名で、上記一覧中の同職名は;
イ)大工、宮大工
ロ)指物、建具
ハ)船大工
ニ)鞍、鐙等の馬具、武具製造
ホ)荷車、水車等の機械(器械)製造
等を含むものと考えられる。
このうち ハ)、ニ)、ホ)に留意しておきたい。
「番匠」に次いでは「鍛冶」「鋳物師」「皮作」の数が目立つ。
これらの職人が刀槍、甲冑等の武器や軍装の製造を担ったことは容易に推測される。
ここに上記 ハ)、ニ)、ホ)を併せて考えると、大名権力体の暴力装置をハードウェアから支える軍需工業の姿が浮かび上がる。
民政の北條とは云え「軍國」の本質が厳然としてここに在る。
北條のみならず戦国大名は恒常的な戦争遂行を大前提として構築された権力体だから戦争機材の国産化に努めるのは当然かつ必然ではあるのだが、
冷徹な実体データはこの一般論を傍証しつつ一般論を超えるリアリティを突き付けて来る。
(続) >>325
毛利、九鬼、村上に匹敵する強さである里見水軍に勝てないのは仕方ない。 そういや館山観光に行ったら案内所に里見を大河ドラマにしようというポスターが貼ってあったよw
後北条が大河ドラマになるより可能性が低いけど里見はいい味出してんだよな 池和田合戦での論功行賞で揉めた挙げ句に氏康に激賞された伊達与兵衛の出自について詳しい人教えてー? 後北条氏は現存史料の豊富さがダントツなのだから史料を元に書き込みしてほしい 鎌倉殿も放送されてるし久しぶりに早雲ゆかりの三島大社に参拝してこようかな 小田原城無血開城
江戸城無血開城
パリ無血入城
他に敵前逃亡した事例はあるか? 小田原城
熊本城
大阪城
天下の城は全て陥落してるわ いつもの荒らしだろうが
小田原征伐は無血開城でも何でもない >>338
しかし後北条家は箱根神社ばかり優遇して三島大社の崇敬が弱い しかし北条早雲や太田道灌の主戦場である15世紀こそが日本史に残された最後の空白地帯。 なにが?
成田一族やら江戸氏らとの合戦が繰り広げられとるやろ 新田(里見)一族なら南北朝混乱期には各地を転戦していたが統一されてからしばらくは宙に浮いてたろ
義教のときに将軍と鎌倉公方の対立が始まってからは鎌倉方に客将として迎えられそれから戦国時代終末まで鎌倉公方方の副将軍を名乗り行動しとるよ >>349
永正ノ乱〜国府台合戦では小弓を担いで古河に敵対した。
戦後古河は北條に取り込まれたから、里見は図式としては古河=「鎌倉公方」の敵になる。
小弓系の遺児を匿ったり長尾景虎がでっち上げた古河の庶流を神輿にしたりと策を弄してはいたが。 >>347
大河ドラマ化されていない最後の大物が太田道灌と北条早雲やな 応仁の乱や太平記でさえ大河ドラマ化されてんのにねえ (>>327から承前)
一国のモノ造り産業の発展を軍需工業が先導・主導して行くのは古今東西を問わず一つの典型的な図式である。
北條の軍需が豆相武のモノ造りを大いに興隆せしめたことは想像に難くない−−のではあるが。
北條が小田原を去って戦国の世は終わった。
関東から戦火が消えて徳川の平和が訪れる。
「軍國」北條を支えた職人衆は何処へ向かって、如何に新時代を生きたのか。
それを示す直接史料は未見であるが、百姓中や町人中の動向から類推することは出来る。
関東に進駐した羽柴軍の諸将に、徳川の代官に、そして遙か後世の薩長の官吏にまで、
多くの百姓や町人が「虎ノ印判状」を示して権利関係の確認を求めたと云う。
つまり彼等は北條が去っても「其処」に居た。
「其処」で変わらず生きていた。
権力なる幻想の遷移など浅い表層の波風に過ぎない。
在地で生きる者たちこそが本体、実体であってそれは巖の如く揺るがず在り続ける。
職人衆もまたそうであった蓋然性が高い。
戦乱が止んで復興する郷村の、開発相次ぐ新田の、拡大急な都市の、
民の海に再び還った彼等は北條の時代と何ら変わること無くモノを造り続けた。
そして三百年の泰平を確かに支えて行った。
些かの祈りも交えつつそう考えることで、
武将たちの空虚な乱舞としての「戦国乱世」とは全く異なる時代相貌が朧気に見えてくる。
(了) 日本史で一番つまらん時代が15世紀だから仕方あるまい
突出した英雄も出てきておらんだろ
山名宗全や細川政元では知名度が劣るで 太田道灌で大河ドラマ作るとしてもクライマックスは長尾景春の乱だろ
小物過ぎる 関東の15世紀の面白さを知らないとかニワカかよ、、、 太田道灌は15世紀の大物日本人
それ以外の何物でもない 司馬遼太郎が15世紀の日本に英雄は一人もいないと評してたがその通りだな。 太田道灌もいいが細川政元も最高のキャラクターだとおもうわ >>362
ある意味では突出した超大物がいないだけに15世紀こそ日本史で一番面白い時代ともいえる >>364
「超大物」は後世のメディアによって作られる。
歴史の大流や社会構造に殆どインパクトを与えなかった武田信玄や上杉謙信が大物扱いになった唯一の理由は、そういうメディアを持ち得たこと、ただそれだけ。
上の方でも言及されているが、
事績から云えば古河足利成氏はそれこそ超大物と云っていい。
これに匹敵するのが山内上杉顕定、太田道灌、長尾為景、そして伊勢宗瑞。
彼等は時代を破壊して、時代を創造して、社会構造を根本から変革した。
惜しむらくはそれを喧伝してくれるメディアを持たなかったこと。
そして未だに軍記史観を脱却できない学校教育にも大いに問題がある。 >>366
黒田基樹氏は、現代の国民国家の直接の祖先は戦国大名の領域国家であると論じている。
室町幕府以前の複層的/複線的統治原理は確かに国民国家とは相容れないものだろう。 名は忘れたがどっかの女性歴史学者が講談社学術文庫で近代日本は室町文化源流説を唱えてたぞ
あんたは黒田基樹に絶大な信頼を寄せてるみたいだがな >>368
話が噛み合っていない。
室町起源とされるのは衣食住の生活文化についてだろう。
今話題にしているのは統治制度、権力構造のことだ。 存命中の後北条研究の第一人者は黒田基樹と伊東潤だけだろ? >>368
> 黒田基樹に絶大な信頼を寄せてる
信頼云々以前に、
黒田基樹氏と家永遵嗣氏の研究成果が現代の北條研究のreferenceであり座標原点であると云って良い。
賛同するにせよ批判するにせよここが基準になる。
俺の私見を云えば、黒田氏は全般的には十分信頼に値する。
今後とも北條研究でこれほどの巨人はなかなか世に出ないだろう。
但し明応四年大震災についての言説はどうしても頂けない。
これは論敵である金子氏等の明応九年震災に関する態度と表裏の関係を成すもので、
前スレでは両者を厳しく批判しておいた。 >>372
もちろん黒田は研究者であり小説家ではないが
伊東は売れてる大物小説家であり研究者でもあるから二刀流である伊東に軍配が上がる 黒田基樹は蛸壺なのかだが
北条をメーンとする研究の第一人者なのかだが 黒田基樹は後北条だけでなく中世関東史研究の第一人者だろ
たしかに15世紀日本の関東史を語らせたら黒田基樹の右に出る人はいないかもしれない
他の時代史観は疎いが中世関東史研究に特化してるから仕方ないか >>377
黒田基樹氏の論考を扱う場合、
宮本常一氏、網野善彦氏、藤木久志氏、蔵持重裕氏等からの文脈で見ることも重要。
これは「上(統治権力構造)は下(在地社会構造)によって規定される」或いは「在地こそが歴史の主体」という原理を重視する系統であって、
それが最も端的に見える北條を黒田氏が主要対象としたのは学統的必然とも云える。 >>375
おれも伊東潤の「北条奇略伝」から入った人間よ。 北条を扱った歴史小説って以前はロクなの無かったからな
充実してきたのってここ15年くらいじゃなかろうか 個人的に好きなのかは知らんが黒田氏は真田昌幸の本も出してたはず
後北条にとっては名胡桃城事件で一家滅亡に追い込まれた原因となる仇敵なのに 真田昌幸と伊勢宗瑞…先に昌幸を本で読んでから宗瑞を読むと、戦の仕方とか比較して面白いんだなぁ
北条方の関東進出での戦でも昌幸ならどういう戦術をもって…とか逆に宗瑞が沼田の地にいたのなら上杉とどう戦ったのか? そんなことを考えるのも楽しい。 >>382
朝倉直美先生の氏邦五男説は世紀の大発見と言ってもいいんじゃね? >>383
真田昌幸の謀略なくして後北条の滅亡は無し
豊臣秀吉が上手く乗った つまり後北条は秀吉ではなくて真田昌幸一人に負けたともいえるのか だって後北条の仇敵は上杉でも武田でも里見でも秀吉でもない真田昌幸でしょ 最近の黒田は専門外時代にも触手しすぎだな
そのうちに戦線拡大してるプーチンのごとく悲惨すぎる墓穴を掘るぞ >>386
昌幸の過大評価
昌幸はこの頃は後に敵となる徳川家康の配下にあり
上司の家康を通じて秀吉に名胡桃城奪還を願い出た
家康は後北条と姻戚だったため(娘の督姫が嫁いでいた)
本来ならば後北条と秀吉の間を取り持つべきであったが
実は後北条のもつ関八州を狙っていたためあれこれ後北条の悪口を秀吉に告げる
秀吉は家康が好きで好きで厚遇しまくっていたため
このときも家康の申し出を全面的に入れた 氏政はあれだけ焦らした挙げ句になぜ上洛しなかったんだろうな >>390
文筆家も政治家もあんまし専門外の分野に手を伸ばすと大失敗するからやめとけと それなら黒田基樹が専門中の専門である北条氏政を評した
ミネルヴァ『北条氏政』は4000円近くて高いが読みたくなってきたぞ
本屋で立ち読みしてこよっかな 黒田氏は既に伊勢宗瑞、北條氏綱、氏政、氏直について本格評伝をものしている。
本人も満を持して執筆衝動を溜め込んでるんだろうが、たった一つ残っている北條氏康の評伝が待ち遠しい。
出版された暁には北條研究のメルクマールになるだろう。
今は『北条氏綱』(ミネルヴァ)を読み直している。
改めて思うがつくづく凄味があるな、氏綱期の北條権力体は。 しかし黒田の北条氏政への愛は本物
愚将扱いを挽回できるのかは分らんがな ここまで北条氏政を評価した人間は後にも先にも黒田基樹だけと言われそう 愚将だの賢将だのという言説自体が既に、それを云う者の軍記脳・ゲーム脳を暴露している。
黒田氏は無論のこと、アカデミズムに拠点を有する真っ当な学者は決して個人属性などに言及しない。
客観的検証が不可能であるのみならず、
状況と構造によって不可抗/不可避に強要された史実の中でそんなものはノイズほどの意味も持たないことを知っているからだ。 >>389
はたして北条氏政の無能説は覆せるのか? >>398
はたして北条氏政の無能説は覆せるのか? >>396
へえ〜後北条五代の主役である氏康の評本を出していないとは意外だな。
伊東潤なんか大量に出してるのに ミネルヴァに伝記を書かせてもらえるのは筋金入りの研究者だけ たいてい北条氏政が好きな奴は武田勝頼、上杉景勝に毛利輝元も好きだったりする
父親が大物すぎた不幸な継承者である >>396
その凄味に惚れちゃう辺り、まだあんたにも軍記脳が残ってるんだわな
だが歴史好きや人物好きになる由縁は誰もがそんなもんだ
そんなもんなんだ忠臣蔵 政治の超天才である土井利勝の凄みがわからない人間は軍記脳 >>406
俺は軍記や講談そのものが嫌いなわけじゃない。
「早雲」火牛の計、
小弓公父子討死の壮烈、
河越夜戦の白襷、
本間江州一期の大見得、
国府台の氏政強襲大逆転、
三増峠の痛恨、
小田原陣氏直の俠気、
みんな良いじゃないか。
そういうものを語るスレにも出入りしている。
ただ此処はそういう板でもなけりゃスレでもない。
実証研究と文学趣味の間には一線を引くというだけのこと。 後北条もんなら司馬遼太郎『箱根の坂』が最高でしょ? 北条氏政の正室は武田信玄の娘
武田勝頼の継室は北条氏康の娘 >>411
それだけ両家は切っても切れない深い関係にありながらも
武田勝頼の死地に援軍を送らなくて後に豊臣に滅ぼされた北条氏政はやはり無能すぎる 御館の乱か?
しかし援軍を送らなかったのは戦略性がなさすぎるな 『北条氏綱』を読み直した上で何か書きたいんだが、何処から手を付けたものか茫然としている。
大規模飢饉と政治的激動の中での家督相続、代替り政策施行から始まって
国府台合戦による関東軍政座標系の革命、河東一乱による駿河半国領有まで
当該期北條権力体の動向の一つ一つが重過ぎる。 人物業書とミネルヴァが現代日本では最高の人物伝記書 叢書 な
漢字が読めないから打ち込んで変換するのも無理だったか〜残念 どうでもいいところに突っ込んで勝ち誇りたがるおまえは北条氏政と同じ負け犬 お前みたいに氏政を好きになるやつは負け犬なんだよ負け犬
このロスケの犬ころが >>336
おなじ負け犬のカス同士やからなw
豊臣秀吉=NATOに滅ぼされた
後北条とロスケとスレ主の負け犬はw そういやロスケがウクライナ侵略開始してた時に>>1は大ショックだったのか
ここのスレから消えていた
そのまま自殺しとけ全世界の嫌われ者の負け犬ロスケ信者はw 豊臣秀吉の徹底した兵糧攻めで小田原城が滅ぼされたようにロシアも徹底した経済制裁で滅ぼされていくのか
ミサイル巡洋艦モスクワ沈没〜 >>387
どうしてもゼレンスキーと真田昌幸が重なって見えてしまう
超大国も揺さぶって翻弄してしまうあの外交力は本物
ゼレンスキーは現代の真田昌幸 つまりロシアはNATOではなくてゼレンスキー1人に打ち負かされてしまうのか。 後北条滅亡の直接原因も真田昌幸1人が作りえし
そこに豊臣秀吉が知ってか知らずか上手く利用して利用させられた事になる
↓
プーチン王朝滅亡の直接原因もゼレンスキー1人が作りえし
そこにNATOが知ってか知らずか上手く利用して利用させられた事になる 過去も現在も戦争とは情報ですから。情報を制する者が戦争を制する >>429
ロシア連邦が後北条氏並みに善政を敷いていたかは疑問じゃね? >>437
善政敷いてたか?
関東で後北条人気って後北条滅ぼして入府した徳川家康よりも高いのか 後北条五代は言われてるほど善政で民思いの民生家ばかりなのかという問題は確かにあるわ。
文書の記録に残っていないだけでロシア兵みたいに言うことを聞かない村人を虐殺したこともあるんじゃないか?
なにしろ虐殺のイメージがない毛利元就でさえ井上一族を抹殺して「厳島の戦い」で敵兵5000人を皆殺しにしてる時代だからな。
そんな戦国時代で後北条だけが無茶な虐殺行為をしていないなんて逆に異常すぎて信じられんわ。 切腹した北条氏政の首は京の聚楽第に晒された
半年も小田原城に引きこもられた北条氏政への豊臣秀吉の恨み深さを物語る >>439
一言で云って、軍記脳。
> 後北条五代は言われてるほど善政で民思いの民生家ばかりなのか
そもそも「善政」の意味を理解しているのかを疑う。
北條の「善政」伝説が如何にして形成されたものか、
実証研究の成果を調べてみるんだな。
> 毛利元就でさえ井上一族を抹殺して「厳島の戦い」で敵兵5000人を皆殺し
軍記盲信そのもの。
それが物理的に可能か、数理モデルを用いて検討してみることを奨める。
> 虐殺行為をしていないなんて逆に異常
虐殺という行為が可能になる状況要件は何か、
それが判れば自ずと答えは出る。 >>44、
我々、多くの日本人は親日の仮面を被り続けていた、ぶりっ子プーチンに騙され切ってたのさ。 >>442
我々、多くの日本人は親日の仮面を被り続けていた、ぶりっ子プーチンに騙され切ってたのさ。 >>439
毛利元就は昔から日本のマキャベリアンとか権謀術数の権化とか言われてたでしょ。 >>440
八王子城兵3000人虐殺したぐらいだからな
どれだけ秀吉は北条家に頭に来てたんだよ 豊臣秀吉が公に虐殺命令を出した敵は後北条だけじゃないか。 戦だから殺す殺されれのは当たり前だろ?
八王子攻めの先方を給った大導寺勢も意気揚々に攻めこんだのだろうな >>449
総大将の豊臣秀吉は石垣山城で総指揮取ってたから
八王子城攻めを実行した前田利家の攻め方が悪かっただけじゃないのか
八王子城主は北条氏政の弟氏照だが氏照は兄たちが籠城する小田原城にいたため
八王子城は氏照の正室が守る女の城だった
陥落する時最後まで降伏せず正室はじめ女たちが一斉に滝に飛び込んで自害した
夫が小田原城が籠城しているのに自分たちが降伏するわけにはいかなかったのだろう >>450
他には文書にないからそうなんだろ。
秀吉が最初から皆殺しにしろと命じたのは八王子城攻めぐらい。 秀吉の戦で戦闘の結果じゃなくて最初から皆殺し命令は八王子攻めぐらいよ 泣いて詫びられたら許してしまうことが多かった豊臣秀吉をガチギレさせたのは北条氏政だけということだな。 北条氏照は今なら政令指定都市八王子市長みたいなもんでしょうか >>455
ガチギレさせたのは氏照なんだろ
八王子城は氏照の居城だし、後北条の本城小田原城のほうは氏政と氏照さえ切腹すれば
残りの者は助けている(当主氏直すら命は助けている)
氏照は先当主の弟で当主になったことはないのに秀吉が名指しで切腹を命じている >>457
まるで違うし何にもかもはてはまらない
そもそも八王子市長と比例する意味がない いかにせよ豊臣秀吉を本気で怒らせたのは後北条だけだな やっぱり北条氏政は無能だな
黒田基樹が目指してる北条氏政の名誉回復も無理なほど無能だな >>457
八王子だけじゃなくて多摩全域を支配してた領主だぜ。
埼玉の寄居にまで北条まつりが行われてる。 >>463
寄居は鉢形領なんじゃねえか?
氏照じゃなくて氏邦。 >>457
八王子を作り上げたのは大久保長安と松姫だな。 後北条信者で三島大社、箱根神社、小田原城に行ったことない奴は偽者。 我が多摩地域全土は氏綱期に北條の岩盤勢力圏となった。
当時の多摩は
府中辺りまで江戸領(遠山/富永/太田)、
他は由井領(大石)、勝沼領(三田)、戸倉領(二宮)、檜原領(平山)、小机領(笠原)、
更に町田一帯が相模玉縄領(北條/大道寺)の一部、
という構成だった。
この中で戸倉領と檜原領が気に掛かる。
俺はあの方面を単車でよく走るから馴染み深いが、狭い山襞の地域で現代でさえ十分に田畠を営めない土地だ。
中世の生産技術では尚更のことだったろう。
他に顕著な産業と云っても炭焼や杣ぐらいなもので富を集積できるようなポテンシャルも無かった筈だ。
にも拘わらず、
戸倉二宮氏、檜原平山氏とも勝沼三田氏の同心だったとされる一方で勝沼領とは弁別されて一つの「単位」として扱われている。
一体如何なる生産基盤で領域を形成していたのか、少し調べたがなかなか答えは見つからない。
橘氏が…、平山氏が…、という話ばかりで、彼等がどうやって独自権力を成立させていたのか、
彼等を領主として「生かしてやって」いた在地の民衆がどう暮らしていたのか、
いつものことではあるが俗説巷談も学術研究もこういう最重要案件には沈黙して語らない。 >>465
八王子総代官の大久保長安こそ今でいう政令指定都市八王子市長なんだろ 江戸幕府天領の代官は並の大名より権力あるわ。
天下の総代官なんて評されたのもそれ。 江戸幕府直轄領多摩の代官と同伊豆の代官は兼任の場合も少なくなかった。
その中で最も英明な江川太郎左衛門英龍は北條旧臣の末裔、という関係性がある。 江戸幕府天領の代官は将軍直属だから50万石以上の外様の大大名も頭が上がらないよ 幕府代官なんて中期以降そんな高位の職でもないし、西国日田代官だと近隣の外様大名との付き合いもあるし家中は実務上で折衝する機会もあったが代官側が命令する権限もないし気は使うけどそれほど恐れてはいなかったようだ。
小田原北条の旧臣では興津氏、間宮氏あたりが代官になったね。大岡越前に見出だされ百姓から代官になった田中休愚もある意味小田原北条の旧臣の家系かも。 >>468
檜原に関しては武田との関連(抑え、連絡)で減税でもされたんじゃない?
あとは林業とか? 戸倉や桧原には田んぼはないけと畑はあるよ
ていうか当時は武蔵野一帯が田んぼは少なかったと思われるね >>475
畠は当然あるよ。
それが「領」を形成するに足るほどの生産力を有するのか、という話。
武蔵野と一言で片付けられるほど武蔵野は狭くないし一様でもない。
多摩川及びその支流群、北多摩なら荒川の支流群の沿川地域には徳川以前から古くから水田が展開されていた。
元々多摩川が暴れ川で、野川、仙川、それに現在は荒川水系に属する黒目川等は地質時代の多摩川本流筋だった。
その沿川の広大な氾濫原と台地の間の断崖「ハケ」に湧く豊富な水が武蔵野の稲作を支えていた。 >>474
それはあったかもしれない。
檜原城は足利持氏が甲斐武田(=上杉方)に対する備えとして設けた城だという。
もちろん北條にとっても最前線の要害。
最初から最後まで「そういうもの」だったわけだ。
考えてみれば城を維持する為には在地を存立させることは必須だから税制優遇は十分あり得る話だし、
むしろ外部からの生活物資移入等を基盤とした政策的郷村だった可能性も考えておくべきだろうか。 戸倉や桧原なんて津久井と変わらねえし何言ってんだろうな >>478
津久井領主の貫高は所領役帳で約千二百貫、別の記録で千四百貫とある。
しかも津久井領は広大な地域で域内に平坦な農業地帯もあることは現代でも変わらない。
檜原城近辺でさえ急傾斜地ばかり、ましてや笛吹、人里、数馬ときては…という檜原村域と津久井領を同列には語れない。
実見したことがないのかな? 見てるけど?
戸倉や桧原が特別何かあったとは思えないしそういった史料も見たこと無いんで >>481
由井領の麾下には入ったが、最後まで元々の領主である平山氏が委任統治のような形で管轄していた。
だからこそ存立基盤が問題になる。 スレ住人諸賢には今更釈迦に説法だろうが、
中世の「領」「村」の属性を考慮しなければならない。
「村」は当時の社会を構成する最小の独立政治単位だった。
それはあくまでも自立自存を原則とした仕組で、食糧をはじめとする生活/経済物資の生産と消費も域内完結が主体となる。
現代の町村の如く上位の広域権力の存在やそれによる富の再分配を前提とするものとは全く異なる。
國衆の「領」はこれが集合したものであるから領単位で見ても自己完結が本質だった。
戦国期の恒常的飢饉状況の下、領主たちは生き残りを懸けて領内の維持=富の再分配をも試みたろうが、どこまで効果があったものか。
それこそ江戸、由井、津久井の如く空間的/環境的に十分な拡がりを有する「領」ならばいざ知らず、
檜原や戸倉の領内生産力でそれが有効であったとは到底想定し難い。
にも拘わらず何故−−という疑問は必然のものだろう。 >>469
八王子市長と内閣官房副長官を兼務してたのが天下の総代官である大久保長安。 >>484
さすがは徳川家康が最も恐れてた漢だな。
山田風太郎が描く大久保長安は怪物そのもの。 あそこらへんは平安時代は秩父平氏の支配地域だったんだけどね
同じ平氏で繋がってんのか? >>490
>>468に「杣」と書いたのが林業のこと。
当然主要産業だったろうが、戸倉はともかく檜原は極めて急峻な地形だからどれだけの規模で営業できたかなあ…というところ。 昭和の高度性経済成長期に奥多摩の木を切りすぎたというんで今は植林してんだな。
糞ロシアの侵略戦争での禁輸装置で日本に建築用木材が入ってこなくなり再び出番が回ってきそうだ。 まさかロスケの侵略で奥多摩の林業が復活しそうとはね・・ 大久保長安が高尾山や奥多摩の森林保護のために伐採を禁じていたのに
ロスケの糞野郎! そうか悪のロシアのせいで奥多摩の林業が再開されるのか >>499
ウクライナ戦争による糞ロスケの禁輸で日本中の農林業が大復活しそうです 江戸城の白壁に使われた石灰は五日市街道で運ばれた、というかそのために五日市街道が整備された >>505
青梅街道の間違いではないか。
産地の成木から箱根ヶ崎、田無と経由して江戸に石灰を運ぶ「成木往還」、
これが後の「青梅街道」及び「江戸街道」の祖型となった。
五日市街道は主に伊奈石や薪炭を輸送する「伊奈道」がその始まりとされている。 奥多摩っていうと養蚕や酒造が思いつくんだが当時はあったのだろうか? ロシアから建築用木材が禁輸になり奥多摩の林業が大復活しそうなんですよ 後北条関東支配とソビエト連邦の約80年の歴史が何か関係あるのかもしれないと勝手に妄想してみる。 里見に大苦戦してた後北条
ウクライナに大苦戦してるロシア
う〜ん似てる 兵力数では圧倒してるのに里見に勝てなかったのは何故か? 里見が豊臣秀吉の小田原攻めに遅参したのはなぜだったのだろう?
その為に上総下総を取り上げられてるけど そんな北条氏政を愛してやまない黒田基樹は稀有なる評論家
これが武者魂を感じさせる武田勝頼や上杉景勝なら分かるが北条氏政なんて持ち上げる価値あるのかと
どこに魅かれたんだ? >>519
戦国大名として残された史料が突出して多く研究しやすいから
好きとか愛とかどうでもよい それでも北条氏政なんて敗北したマイナー武将をミネルヴァ単行本で300ページ超えの力作かけるなんて
余程に好きでも愛してもなければ無理だろ
どうも俺には黒田基樹が北条氏政の名誉回復を全人生を捧げてるとしか思えない 何も見せ場がない北条氏政と東条英機との復権だけは無理がありすぎる。 >>516
匿っていた小弓公方の遺児を担いで
上総の城攻めしてたらしい。 東京都青梅市成木地区における石灰焼き
角田清美
専修人文論集 102, 197-220, 2018
https://senshu-u.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=2034&item_no=1&attribute_id=32&file_no=2
成木の石灰について調べるうちに上掲論文に行き当たった。
成木石灰と云えば云うまでもなく慶長年間の徳川家康の江戸城修築資材として、また成木往還(青梅街道)整備の契機として名高い。
但しこれに先立つ天正年間、既に北條氏照の八王子城建設資材に当たっても活用された形跡がある。
上掲論文に拠ると、その産業起源は更に遡って天文年間、北條氏綱の鶴岡八幡宮復興修築と深く関わるものであると謂う。
当時成木界隈は勝沼城に拠る三田氏の支配地域である。
北條に従属していた三田は氏綱の要請に応えて修築事業に参加する。
北條は同事業に当たって上方から優れた職人衆を招聘したが、その中に「白壁師」即ち漆喰の左官も含まれていた。
京都の社寺建築をよく知る氏綱等は鶴岡八幡宮の社殿をそれに劣らぬ風格を持つ建屋にせむとしたものであろう。
その頃の関東には石灰焼成技術は未だ無かった。
白壁師が漆喰も上方から持ち込んだか、或いは関東産の石灰石を現場で焼成したか、何れにせよこの時関東に焼成技術が導入された。
この技術を知った三田が自領に参する石灰の有用なるを知って焼成産業を始めたものとする角田氏の推測には説得力がある。
(続) (>>525から承前)
後に北條から離叛した三田は永禄六年、北條氏康・氏照に攻滅されるが(へそまんじう由来記!)、この間に技術の確立や自前の職人衆育成が進んで行ったのだろう。
支配者が替わっても在地の産業技術はそのまま承継されて八王子城建設に、やがては江戸城修築にも投入されたと考えられる。
この個別産業技術史自体が非常に面白いものではあるが、
>>46や>>75に書いた「社寺修築を梃子とした北條の産業技術改革」の典型例を成していることが特に興味深い。
成木石灰を活用した北條もやがて没落の秋を迎える。
しかしそれは替わった徳川の代にこそ真の隆盛を極めることになる。
三田、北條、徳川、
来っては去る権力体の諸行無常を嗤うかの如く産業技術は生き続けた。
「歴史」とは何か、「社会」の本体は奈辺に在るか、石灰石の断層にその答えが露頭している。
(了) 江戸幕府の民政は小田原北条のそれを踏襲して成功してる >>527
徳川家康という稀代のリアリスト及びその権力体は「三河以来」よりも「結果最適」を選んだんだろう。
全く無根拠な妄想だが、
家康の権力観は北條氏綱のそれと共通する部分--ニヒリスティックなまでに「統治権力」を相対化する--が多かったんじゃないか。 江戸幕府の新任の代官が勘定所に差し出す誓詞には伊豆箱根両所権現とあるしね >>505氏が青梅街道と五日市街道を間違えてくれた御蔭で北條の薪炭調達を切り口として色々と考えてみる契機が出来た。
永禄四年、北條氏政は武蔵國多摩郡由井領在住の栗原彦兵衛を「御家中炭焼之司」に任命した。
北條領国内の他の炭焼業者群と談合の上で炭釜を作って毎月炭を納入するように指示したのである。
従来炭焼は百姓や杣人の片手間仕事か零細単独業者が夫々に営んでいたものだが、
これは北條肝煎で業者組織や共同生産設備を設置する、即ち官製ギルド或いは公社を立ち上げて専業量産体制の育成確立を図る政策だった。
薪木や炭は日常民生資源としても戦争資源としても恒常的に需要がある。
四方の敵と広域戦争を継続しつつ拠点都市群の建設を推進する北條に於いては殊更大量の薪炭を必要としたことだろう。
従来の散発的生産状況では必要量の計画的調達は覚束ない。
統治権力体として資源生産体制の刷新強化を急いだことは実に頷ける所と云える。
また永禄四年と云えば正に越後長尾との全面戦争開始の時である。
戦争遂行を支える生産能力を確保せむとする権力体の戦略意図は明白であるが、
それに留まらずこれを梃子として領国の工業振興をも図ったものと見ておきたい。
先日書いた石灰の件と同一線上に在る謂わば北條五代を貫く根幹政策の一環と考えるが果たして如何。
(続) (>>530から承前)
この薪炭増産とも深く関わることだが、北條は領国内で栗の植林育成を推進している。
また関東の他大名の例から類推するに櫟、小楢、皀莢、欅、…など落葉広葉樹の植林を奨励していたことも疑いを容れない。
これらの樹種は薪炭は勿論のこと建材、戦争機材、食用、薬用等々実に用途が広い。
百姓や杣人にとっては「植えて損の無い」ものだったわけで、
この政策が成果を上げつつあったこと、即ち武蔵野の涯無き萱原の所々に落葉広葉樹林が現れたことは想像に難くない。
俺は以前「武蔵野の雑木林は北條に始まるものではないか」という想像を書いたことがある。
上記の植林推奨対象は正に雑木林の構成樹種である。
薪炭の生産拡充を考えることで図らずもこの想像の蓋然性を確認できたように思われる。
(了) そういえば無計画に伐採しまくった禿げ山とか、それに起因する天井川は近畿地方に多いが 関東には近畿地方の天井川のやうなのはほとんど無いね >>532
そうでもない。
例えば、
天正十一年(1583)七月、利根川水系諸所の堤が決壊して古河、関宿辺りは大洪水に襲われた。
盛本昌広氏の研究によると、これは永禄三年(1560)の長尾景虎来寇に始まる北関東戦争に伴って利根川上流域の上野國で山林濫伐進行、保水力が著しく低下した結果であると云う。
また山林から河川への土砂流下量が増大した結果として下流域の下総國や常陸國では数多くの洲が形成されたが、
これは物理現象としては天井川を生成する土砂堆積と全く同じものだ。
因みにこの頃現れた洲が後の新田開発に利用されることになる。
関東他地域でも類似の現象はあっただろう。
地形によって近畿と違うカタチをとってはいるが戦国時代の山林濫伐の影響は関東に於いても甚大なものがあった。 ということは、植林や山林や雑木林の保護は大名としての課題でもあったのかな >>534
御指摘の通り重要課題だったらしい。
その辺りに論点を絞って書かれたこの本↓が面白い。
盛本昌広『軍需物資から見た戦国合戦』
http://www.yoshikawa-k.co.jp/smp/book/b487794.html 治水事業だと武田信玄の釜無川が思い浮かぶけど、後北条氏はその辺どうなの? >>536
やってる。
興味深い議論もある。
ガキじゃねえんだから、
どうなの?とか馬鹿みてえな問いを発する前に自分で調べたらどうだよ。 >>537
たしかに
一方的に聞くだけですまんゴメン >>431
直木賞を受賞した若手歴史小説家ホープの今村翔梧もゼレンスキーは真田幸村だとあんたに近いこと言ってた。
後北条王国も真田家に滅ぼされちゃったようなもんですし。 真田昌幸との名湖桃城事件さえなければ後北条は滅亡しませんでしたから
まあロシアにもウクライナ戦争さえしなければ滅亡しなかったとでも評されるんであろう そういえば名湖桃城事件は北条家の家臣が先制攻撃したことから始まってんだよな
それを豊臣秀吉が関東支配の口実に後北条征伐を開始したという
ロシアがウクライナを先制攻撃してそれを口実に西側がロシア征伐を開始してる現状の国際情勢に似てるといえば似てる いつの世も大国を崩壊させるは経済制裁で徹底的に干しあがらせてからなんですよ。 名胡桃城がなくても何やかんやと言い掛かりをつけて滅ぼされたと思う
徳川が豊臣を滅ぼしたように 名湖桃城事件さえなければ北条家の滅亡はなし
つまるところ北条王国は真田昌幸1人に滅ぼされたと評しても過言ではない 真田安房守って聞くと、たしかに丹波哲郎のイメージだわ
伊豆守なら渡瀬恒彦って感じだし たしかに丹波哲郎ほど真田昌幸に似合いすぎてる役者もいないわ
まさに生き写し、そのもの しかし黒田基樹が伊東潤の北条早雲小説の解説を書いてて笑ったよ。
全くないと思っていたのに結局は交流が深かったんだな二人。 >>553
解説は出版社が依頼するものだから、本人同士に交流などない場合も多いが? 太田道灌は対東関東の最前線として江戸城を築城したというが
国府台合戦とか考慮すると葛西城のほうがより実戦に貢献したと言えるのかな >>553
もはや日本で一番、北条早雲の小説を書いてるのが伊東潤
もはや日本で一番、北条早雲の研究書を書いてるのが黒田基樹
いままで両者が結ばれてこなかったほうが不思議だ
時間がかかりすぎてる
くだらないプライドは捨てて対談本でも出すべきなんだよ 歴史小説家と歴史学者の大家では
どうしても社会的注目度やステータスが歴史小説家に軍配が上がってしまう
そこに歴史学者の妬み僻みやっかみもあるんだろう そりゃ史実の歴史を勉強するだけなら学歴なんて関係なく誰にでもできるが、
史実の歴史を小説にしてベストセラー化させるほどの文章構成力は一種の選ばれた人間にしかできない神業。
例えは変だがカリスマ政治家と官僚の関係みたいなもん。
お前ごときに歴史が分かるのかと何くそこなくそみたいな感情論が入るのもつまらない話だがな。 伊藤潤にそこまでステータスあるかな
正直あまり小説も面白くないし もう卒業するってよ
https://note.com/jun_ito_info/n/n184dbbb6d89d
■もう北条氏は書かないのですか 。
伊東:予定はありません。今回の『北条五代』で卒業してもいいかなと思っています。
というのも作家は同じ場所にとどまっていると進歩し難いからです。 そうか残念だ。だが北条小説で伊東氏を上回る歴史小説家の大家は出てきそうもない。 >>555
江戸城は、品川湊と浅草寺をその勢力下に抑え、利根川荒川水運の喉元抑える極めて重要な拠点で
後北条家の、小田原韮山に次ぐ重要拠点として扱われていた
軍事拠点というより行政拠点といった方がいいかもしれないが 北条早雲を研究するにおいて太田道灌と長尾影春の二人だけは北条早雲と絶対に切り離せないからな >>560
過去に5回も直木賞候補作に選出されてるが、さすがに一度も受賞できなかったことは本人も後悔してるんではないか?
やはり直木賞こそが歴史小説家としての絶対的名誉賞。
ただ5回も候補作に選出されるのは並大抵の力量では無理だが。 いまのところ北条早雲に憑かれた著名人は黒田基樹と伊東潤だけか
他にいるの? 現役で北条もの書いてるのは富樫倫太郎だろ
今は河越夜戦編がやってるし >>566
どれくらいの価値があるのかは知らんが
吉川英治文学新人賞だけは受賞してる 元来、北条早雲ほどピカレスクロマンの主人公になりやすい人物もいないのにねえ 一番の難点は時代背景の複雑さだな
ちょっとした歴史好き程度の人でも戦国関東の相関関係なんて知らないし 伊勢宗瑞がピカレスクって
今や正反対の人物像(威儀に厳しく、書に明るく、堅苦しい)って言われてんのに それこそ作り話だろ
下手に美化しすぎるのも逆に人物を矮小化させてよくない
乱世を作り上げた鬼謀の梟雄こそふさわしい 悪人といわれてきた人間をむりやり善人に置き換える風潮が根強いからな最近の日本社会は。 >>575
流行してる歴史の見直し論だな。
だが相当に嫌われてる人間は当時から相当に嫌われていたわけで。 どうみても下剋上の梟雄こそ北条早雲にはふさわしいやろ
なぜなら昭和までそれで来てるからだ 出自すらあやふやだった頃に作られたイメージですやん >>581
史料が足らなかった頃と
史料が整った今で直接比較とか、文字通り頭が悪い
なお、江戸時代中期までは、早雲庵殿はべつに梟雄扱いされてない模様
そら小田原北条の旧臣連中が大量に大身旗本にいるのにそんなことにはならんよな ならなんで腐るほど下剋上の代名詞のごとく扱われていたんだ?
やはり昭和まで北条早雲とは下剋上の印象が定着していたからだろう >>575
おそらくここのスレ主もその一人かと。。 >>577
歴史再考は必要なんだろうが嘘をついてでも北条早雲は梟雄ではなかったと主張するのもよくない
そういう黒を白とする歴史再考は絶対にやってはならない >>583
腐るほどもなにも、明治に定着した俗説に過ぎない
江戸時代初期の文献である北条五代記や寛永諸家系図伝でも普通に名門(京都伊勢氏、または執権北条氏の後裔)扱いされてる 捏造された俗説に縋って、ようやく文献史学が追いついた説にウダウダいってるだけだよ、梟雄扱いしてるの
ただ、関東では新興勢力だから、その意味では梟雄で間違ってないし、関東上杉氏にとってはそれこそ不倶戴天だろうな なんで明治に下剋上の梟雄が印象ついたんでしょうねえ〜〜
明治新政府が北条早雲のことを嫌いだったんでしょうかねえ〜〜 秀吉への崇敬者が多かった長州閥が秀吉と徹底抗戦した後北条の開祖を嫌っていたものと勝手に予想してみるw そもそも、上杉謙信が書状で氏康や氏政のこと「伊勢」って呼んで罵ってるの、どう理解するんだ下克上強調してる連中
>>589
俗説が「政府によって」ばら撒かれるとかなに拗らせてるんだ
当時は太閤記の人気や、明治維新という変動期で、下克上の「物語」に人気があったんだよ >>590
人気ある下剋上→豊臣秀吉
人気ない下剋上→北条早雲
あながち間違っていない。 >>570
吉川英治文学賞なら本物で大したもんだが
新人賞ならあまりそうでもない しかし岡山や中国地方は北条早雲みたいな下剋上の梟雄を数多く生むね。 >>553
黒田基樹の新刊が何故か武田信玄正室の三条夫人
伊東潤と同じく北条は書き尽くして卒業したのか? >>597
黒田教授の専門は、東国戦国史であって、その中でも北条武田(+今川)がその中心
すなわちいつも通り >>598
もっと大枠を見ているように思う。
あまり光の当らない古河、山内、扇谷について
個別でも「享徳ノ乱」というカタチでも多くの研究成果を上げている。
黒田氏は東京者だから、
自然な成り行きとして関東(東国)戦国史を研究主題とする中で
偶々最大の存在である北條を取り扱うことが多くなったんだろうと拝察する。 たしかに黒田氏の中でも北条研究は完結してるんだろ。
やはり伊東の北条小説が終了したように北条五代とは、
そこまで掘り下げどころが深い超大物武将じゃないのかも知れない 北条氏康は戦国三英傑みたいな超大物ではないことは確か
信玄、謙信、元就、政宗みたいな大物と呼べるのかも微妙だな
中堅なら間違いないんだがな
あまり深く研究する価値があるほどの武将ではないと言われればそこまで
研究者も小説家もすでに後北条関係は底がついてしまってる 氏康以降の研究はかなり進んできてるけど、まだ氏綱の時期の研究(表裏として山内、扇谷両上杉、今川、古河、小弓両公方、千葉氏、上総武田氏等の研究)はようやく端緒に着いたばかりで、正直ほとんど進んでいない
三国同盟以降の北条、武田、今川は国内が他国と比較して極めて安定していたので、文書が大量に残っているの本当に大きい(ので、こっちもまだまだ未研究の文書がいっぱい) このスレの変なの、史学研究そのものどころか、専門書や入門書すら読んだことないのでは >>602-603
北条マニアは北条の何が好きなのかわからないところがある
北条マニアはよほどの変人かと
関東北条王国というが何か突出して魅力的だったわけでもないだろうし いつの世も大国を滅ぼすのは小田原評定なんだと俺は反面教師として後北条家の末路を参考させてもらってる。 >>608
構ってちゃん症候群の発作だよ。
可哀想な病気の人だから放っといてあげなさい。 信長の野望の設定値が全将中最高ということしかしらないな・・・
何か仏者だったんだっけ? 有名人の中では一番有名じゃないというか、素性を知られてないよね。 俺日本史の偏差値結構高いんだけど、山川の日本史どころか、参考書にもほとんど記載がないよね 鎌倉幕府滅亡後の関東なんて小田原征伐まで出て来ないだろ >>616
長尾景春の乱は日本史の教科書に太文字で出てくる重要項目だが
これだけ出てきても複雑怪奇な関東の情勢など理解できるわけもなく
とは言え世界史で、三十年戦争とかユグノー戦争とか説明されても、4~5時間程度じゃ理解なんてできるわけないので、結局歴史って、授業の知識量だけでは全く太刀打ちできないものなんだよね >>609
負け犬の北条好きに異常人種が多いわけだよ >>610
小田原評定は日本に最悪の談合文化を残してくれたよ >>597
別に誰がどこの武将を好きになろうが勝手だが。
黒田基樹は負け犬武将の北条氏政なんか夢中になって何がおもろいねん。
あんな負け犬武将の研究ばかり続けるとは歴史博士の名が廃れるぜ。 >>617
複雑怪奇と見えるのは皮相的な政治軍事論、換言すると固有名詞に寄り掛かった英雄史観を「歴史」と勘違いした教育が為されているからだ。
自然環境条件を絶対的前提とした技術論や社会構造論(そこに固有名詞は必要無い)として捉えるなら関東中世史は解り易い。
伊勢宗瑞の台頭過程など正にそのモデルケースと云って良い。
壮烈に散って武士の美学を魅せてくれた武田勝頼のファンなら多いんだけどな
北条氏政の単行本とか何の得あるのかと
こんな誰得もしないことを延々と続けるバカ変態はバカ北条オタクしか支持されないよ >>622
昔から戦国マイナー北条マニアは奇人変人ばかり集めますから・・
一般世間から相手にされていない黒田某が学者として平山優あたりと比べて一皮むけないのは仕方ない。 >一般世間から相手にされていない黒田某が学者として平山優あたりと比べて一皮むけないのは仕方ない。
世には伊東潤の名前を知ってる人は多いけど黒田なんか歴史好きからも知られてないやろ
つまり黒田はその程度の空気にすぎんわ 当たり前だが黒田は磯田道史とは歴史学者としての力量でも知名度でも雲泥の差がありすぎる
同じ博士号を取得してる大学教授でもこうも明暗の差が分かれてしまうものなのか >>621
その自然環境絶対論
銃・病原菌・鉄のジャレド・ダイヤモンドが聞いたら失笑するぞ >>625
そういや。
もはや日本史の御意見番と化してる磯田道史は戦国時代でも小田原北条への言及は少ないよな。
まぁ戦国時代の小田原北条がその程度の雑魚3流武将にすぎないと言われたならばそうかもしれないな。 毛利システムと北条システムでは毛利システムに軍配が上がるとも >>620
しかし北条氏政は太平の世に生まれてたなら保科正之みたいな名君と讃えられてそう
とてもじゃないが乱世の世に生き残ることができる器ではなかった
生まれてくる時代を間違ったな 戦国乱世の世に最も不向きな武将ほど天下泰平の時代では名君になれたりするもんさ。 そりゃ後北条家は朱子学の農業中心共同体ですから
あの時代の東国社会はどこもそうといえばそう 小田原は北条五代祭りやってるし
寄居の方が華やかそうだけど >>637
使ってるのは虎の朱印なのに相模の獅子っておかしない? なんで暴走族みたいなドキュンネームばかりなんよ
これでは逆にはったりまかしてるだけのザコに見られるぜ
毛利元就や三英傑みたいに〜〜の獅子だの龍だの虎だの不要なドキュンネームをつけないのが本物の絶対強者よ >>633
あの時代に本当に先進的過ぎて他の誰も追いつけなかったのが毛利元就なんだよな。
明治維新で長州藩が常に先鋒を走ってた気がわかるわ。 甲府での武田祭りは芸能人まで大量に呼び込んでド派手にバカ騒ぎしてるんだが
北条祭りはそこまでしないんだろうか? 小田原北条祭りは3年ぶりに開催して終了
信玄公祭りは秋に3年ぶりに開催する予定 >>641
上杉謙信みたいな超変人はどうしても好きになれない 八王子の北条氏照祭りもあるんだよな
北条の祭りは意外に多い いまNHKの歴史探偵で北条八王子城の特集してるぞw 伊東潤は鎌倉北条や後北条や平清盛の本書いたり
基本的に平氏びいきなのかもしれない 東京に住んでるからか北条といえば小田原城じゃなくて八王子城なんだよな 東京で後北条由来というと、武蔵吉良家(氏綱の娘が輿入れのち、氏朝が入った、「幻庵覚書」で著名)の居城世田谷城(御所)とか、氏照の元々の居城滝山城とかもあるな >>653 >>654
北條の武蔵國最大の拠点は江戸城なんだが。
先日から北條氏綱の江戸城接収について調べてるんだが保留事項だらけ。
北條と云うより扇谷側の事情で規定された事案なんだが根本的に史料が不足していて専門家連も苦戦との由。 >>655
今の江戸城は徳川のそれも中期以降の遺構しか残ってないし、さすがに北条時代を想起させるの難しすぎるからあえて外してる
みんなそうだろうね
ちなみに、武蔵の北条の拠点は、江戸と同格クラス(衆が置かれ、直轄的統治されてた地域)で小机、川越、鉢形、滝山(八王子)があるよ 江戸城は太田道灌の遺産だろ?小田原北条は関係あるのか? >>657
このスレで何言い出してんだ
江戸城は北条氏の武蔵統治の一大拠点
北条氏の軍事的な寄親・寄子集団である「衆」が二つ置かれ、譜代と国衆有力者の寄親が2人も置かれるという極めて重要な城だった
品川湊と浅草寺も江戸城支配で、物流のコントロール拠点であったとも考えられている
最終的には氏政の隠居城(長い期間居られなかったけど)でもあった >>653
小田原城は徳川幕府大久保家領の時代に何度も改築されて北条色が弱くなってる。
少なくとも今の小田原城は北条家ではなくて大久保家のもの。
それに比べて八王子城は完全に北条色で塗りかたまってる北条一代の所有物よ。
小田原城より八王子城に北条家の名残を強烈に感じさせられるのは当然の歴史。 >>660
残念ながら、今の八王子の街は江戸時代以降(どころか幕末から明治大正にかけての生糸交易による繁栄がその基礎)だったりするので違う 少し前のブラタモリでやってたな
群馬から横浜へ絹を運ぶ中継地点として発展したって
街道を真っ直ぐにせずわざとクランク状にする事で八王子を素通りさせないようにしたと言っていたけど
今も横浜から埼玉の方へ行くとき八王子で変に右左折されられるのはそのせいだったんだな 八王子を織物の町にしたのは大久保長安やで
ただ今日の八王子はそんな空気はないがな つまり後北条→武田→徳川の流れで八王子は発展していったんですかね? 大久保長安を武田に含める必要はないんじゃないか
八王子千人同心にしても武田の影響はあるがそこに含めるのはちがう気がする 大久保長安は武田遺臣だろ
八王子を織物の街にした信玄娘の松姫を保護したのも大久保長安 >>659
大堀切は北条が感じられるじゃないか
八王子城の石畳より大堀切や滝山城の方が土の城を極めた北条らしさを感じる やっぱり北条家の遺産は小田原より八王子周辺に多いんだな 小田原は八幡山古郭が丸っと残ってるから、北条時代の大小田原城感じたいならそこに行くといいよ
あと、小田原旧市街の町割りは北条時代のもの踏襲してるから、街に関しては(八王子より)小田原のが流れ組んでる
あと、さらに古い北条の雰囲気知るなら韮山~箱根だな
北条後期の名城山中城も見られるし 長浜城>韮山城>三島大社>山中城
の伊豆後北条豪華フルコース 箱根神社を無視するなよ
北条家には一番大事な守り神だろ >>672
箱根は伊豆じゃないから敢えて外した
ただ、箱根神社も後北条由来のもの割と少ないのよな……
割とい行くんだけども だから、抜けてるというとどちらかというと、下田城が抜けてるかもなー
コースから外れるし遠いんだけど、割と城跡の雰囲気としては良い、後北条の色も濃い >>677
反射炉も江川家絡みなので、後北条関係なくもない程度のことは言えるかも
(江川家:後北条の元家臣で、のち徳川家に仕えて伊豆韮山代官世襲) 一時は箱根神社は西武の堤義明の私有物に成り下がってたからな 何も有名観光地に限らずとも、
伊豆・関東一円至る所に北條旧蹟は在るものを…。 箱根戦争といえば南北朝時が有名だが
西武対東急・小田急も戦争と揶揄されたね 堤親子は16世紀の戦国武将かよと思えるぐらい強欲の権化
ああいう形で表舞台から消えたのも業火かな
箱根神社崇敬の後北条一族がなれなかった日本一どころか世界一になれただけでも良かったかな 俺は後北条関係では三島大社が一番好きだな
なぜか知らんが箱根神社に行くと気持ち悪くなるんだ 箱根神社は強欲きわまりない堤義明に私物化されて汚されきった。 小田急バスと西武バスが並行して運航してるのも不思議な光景やったなw >>686
箱根ロープウェイは小田急グループだしな
何故か所沢人の西武が来てから狂い始めました >>691
ああ、駒ヶ岳ロープウェイは、小田急なんですか・・・
じゃあ、小田急グループも悪いということ? 鎌倉期の武蔵(と下総葛西)は元は秩父の田舎者が開拓したんだろ >>684
三島は後北条より鎌倉北条
そして何より頼朝でしょ
もうすぐ三島で頼朝祭りあるな >>696
歴史のある神社仏閣は複数の歴史的人物・出来事に関係あって当たり前
鶴岡八幡宮だって韮山だって伊豆山神社だって同じ 里美に全焼させられたんだよな
つまり現存のは頼朝も源氏も関係なく平氏の北条氏綱が発祥とみてもいい 北条早雲は岡山県人
宇喜多直家も黒田官兵衛も岡山県人
大宅荘一。
「岡山県人は日本のユダヤ人」 岡山の浪人が大名の夢を見て平氏を自称して関東を短期間だが制圧したのさ
これが後北条五代の正体 まぁほとんどの戦国武将が、
そういうならず者状態から成りあがったといえばそうかもしれない 富樫林太郎の書く北条早雲が最も正しい早雲像かもしれないな。
実のところ早雲は平時の世では盗賊山賊の類でしか生きていけないような人間だったかもしれない。
乱世の世だからこそ武将なんてたいそう立派な肩書を後世に与えることに成功したのだ。 >>703
わざと待ち合わせに遅れるなり仲間の複数人で襲い掛かるなり実際は卑怯卑劣な手を使いまくってたらしい宮本武蔵も岡山県人w 富樫は無理やり善人にし過ぎやろ
氏康までは良くても氏政から北条滅亡まではどう書くつもりなんだろう 北条早雲と宮本武蔵の性質が似てるのは同じ岡山県人だからかもしれない 明治以前に岡山県はなかったので、備前、備中、備後、美作のどれかで言うべき >>717
なお、備後はほとんど全域が広島県である >>716
北条早雲を主人公にした作家は司馬遼太郎、伊東潤、富樫倫太郎の3人が有名だが。
どれもが三国志演義の劉備のごとく成り上がり聖人君子として書く早雲像ばかりだ。
北方謙三が書く三国志の何でもあり梟雄の劉備のごとく戦国乱世を這い上がる北条早雲を俺は読んでみたいのに・・ しかし北条早雲小説といえば伊東潤になってしまってるよな。 >>719
なら北方謙三に北条早雲を書いてもらえばよろしいw なんにせよ、小説など板的にどうでもいい
板違いだどっか行け 北条五代なんて研究されつくして目新しいもんて何一つもないだろ?
小説の話が一番面白いわ いまだ北条五代で未解明なのは北条早雲の出生年と出身地だけだろ 氏綱期などわかってることの方が少ない
氏康期なって初めて統治機構が可視化される っつか、このわかってないことなどないってこのスレだけじゃなく現れるんだけど
率直に言って「頭が悪い」の域を超えてる ちなみに氏規と氏邦のどちらが先に生まれたかで通説がない程度には分からないことだらけである
(氏邦は妾腹と思われるって言われてるけど、これもわかってない) >>727
北条早雲、明智光秀、斎藤道三、滝川一益、柴田勝家。
有名な戦国武将で前半生が完全不明なのはこの五人だけでしょ。
歴史資料が出尽くしてる今日の情報過多社会でも完全不明ならば明らかにされることは今後もないだろ。 >>731
寺社の古文書、旧家に残る文書等、日本の場合古文書の類は偽書も含めてまだまだ腐るほど残っている
なお、伊勢盛時は備中、京、駿河、伊豆、相模等に分かっている文書は残ってる方 資料が絶対に見つからなそうな人物は
おまえの嫌う軍記物に頼るしかねえわ いわゆる軍記物は別に頭から否定するものではなく、適切な史料批判加えた上で検討の俎上に上げられるものだ
甲陽軍鑑の再評価も、信長公記の再評価もそういう流れを受けてのもの
軍記物は小説とは違うのだよ じゃあ、あれやな 田舎の古民家から資料が見つからるを期待するしかねえな もはや21世紀の世では大した資料が見つかりそうもない 甲陽軍鑑の再評価ってのは分かるが
それと同列に並べられた信長公記ってのがわからん
信長記か太閤記と勘違いしてるのか、PHP辺りが又バカ本だしたのか… この国ほどいい加減に公文書を管理する国もねえよ
勝手に武将が源氏だの平家だの藤原氏だの名乗れたのも
昔から日本人が文書管理にいい加減すぎるからだろ >>740
鎌倉時代の御家人、足利氏の家人だった伊勢氏が室町幕府時代の政所執事伊勢氏の祖で、その備中における分家が伊勢新九郎盛時
で、この家は平氏(桓武平氏)なの
平家と平氏の区別すらつかない無知は黙ってなさいな >>741
触るな。
そいつは無知丸出しのレスと自演を繰り返しては構ってもらうことを待っている異常者だ。
当スレのpart1から貼り付いている。
無視しておけば良い。
>>740
しかし岡山の素浪人が平氏を名乗るなんてよくも大それたことするもんよ >>726
確かに3流研究家のバカスレ主の下らん蘊蓄ごたくを読むより1流小説家の小説を読んだほうが北条研究のためになるわ 研究能力でも伊東潤>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>バカスレ主 なにもかも全てにおいて磯田道史>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>3流研究家のバカスレ主 呉座勇一より遥かに劣るのが3流研究家のバカスレ主よ
まるで読む価値なし >>740
そこは豊臣秀吉も織田信長も平氏を自称してた様なもの。
権威付けのファッション感覚なようなもの。
伊勢素浪人の北条早雲なら尚更でしょう。 >>749
天皇から紺綬褒章を頂いて何故か出生日非公表の秘密主義である
呉座勇一のブログを久しぶりに見たら裁判闘争の話題だらけで笑ったよw その呉座勇一は北条早雲の大河ドラマを熱望してる一人
応仁の乱から北条早雲の国盗り物語の流れでドラマ化してほしいみたい >>754
ゆうきまさみの新九郎奔るの時代そのまんまだね 応仁の乱の終わり方のgdgdっぷりがもう絵にならなすぎて辛い
キャラはみんな濃いんだけどな
細川政元とか本当におもろい >>756
三谷幸喜って暗すぎない?
鎌倉殿はほとんど八墓村コース >>758
真田丸とか陰気じゃなかっただろ
新撰組も
鎌倉殿もコメディ調は残ってる(が、それをのちに鬱の伏線に持ってくるあたり才能である) やっぱり後北条一族の小説だと伊東潤が最高だよ
それも短編集の『城を一つ』
これを超える後北条の小説に未だに出会ったことがない 伊藤潤の小説は終盤になるほどつまらなくなるんだよな
修羅の都や虚けの舞なんか最後の方は読むのが苦痛だった 小説の話はいい加減にしてくれんかな?歴史とは違うんでな 三流研究家にすぎないバカスレ主の薀蓄を読むより小説家の話のほうが歴史の勉強にもなり面白いで 北条研究者として能力も伊東潤>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>バカスレ主 おそらく歴史研究者としての能力までもが三谷幸喜にも遥かに劣るのが三流研究家のバカスレ主 >>762
あの小説は三国志の曹操が書いた孟徳新書と大藤一族を繋げるあたりが最高。 少し格好よく書かせてもらうならば
小田原からは跡形もなく消えた後北条一族の御霊の息吹きを現存さしためるのは八王子城および八王子の大地の精霊のみである。 カッコよくもなにも跡形もなくとか嘘だし
城に関しても旧本丸の八幡山古廓残ってるし、そもそも現在の小田原市街地そのものが後北条家の惣構構造をベースにしてるし
他に韮山城、鉢形城、滝山城と言った著名な城も健在だしで
なに言ってんだか意味わからん、そもそも武田今川と比較しても、後北条は城やら遺構が数多く残ってる方 >>771
五回も直木賞候補に選出されながら一度も受賞できなかった悲劇の小説家
だがそれだけ実力的には十分あるということなんだろ うん伊東さんはプロ野球で言えば無冠の帝王みたいなもんやな。 だが今の八王子の元を作り上げたのは大久保長安なんだなあ。 今度久しぶりに北条氏照が建てた八王子八雲神社に参拝してこようかな >>778
八王子に残ってる遺跡は後北条関係ばかりだろ?
さすがは後北条の聖地かなと思うわ。 >>779
歴史マニア的には北条一族=小田原で小田原こそ北条の聖地なんだろうけど
なぜか八王子の方にこそ北条一族の匂いが強烈に残されてるのは不思議だな確かに
八王子城みたいに北条一代だけで他武将の手つかずで終わってる有名城も非常に珍しい そりゃあんた小田原城の初代城主は大森家でその後に後北条家や大久保家が占領してきて、
いま残ってるのは江戸時代の大久保家の遺風で後北条家だけの所有物じゃないからよ。
それに比較すると八王子城の所有は後北条家のみで終焉したのは事実で小田原より八王子にこそ後北条家の息吹きとやらを感じるのは至極当然かと。 >>779
八王子全体のあちこちに後北条の遺跡が残ってんだなw
小田原がどれだけのものか俺は知らんが >>781
後北条家支配70年余り
大久保家支配200年余り
まぁ後北条色が小田原から一掃されたのは仕方ないよね 何がしたいのか分からんが八王子城以外の具体例が一切出て来ないのはワロス >>771
小説だけではなく伊東潤さんの論評を呼んだほうが三流研究家のバカ無能スレ主のインチキデタラメ考察を読ませられるよりかは全然勉強になるよw ここのほざいてるだけのバカすぎる>>1からはまったく歴史観を感じない >>775
このスレの誰にも感動させる研究文を書けない無能バカ>>1とは違い伊東さんの文章こそ本物の北条研究家としての愛を感じる。 まったくもって誰も共感させられないスレ主は研究者として大失格 そもそも他人に共鳴させたり共感させるような研究文章を書けない研究家もどきのバカ文盲などだから仕方ない >>792
ここのゴミスレヌシは研究文も読む価値ないわ
他人を感心させる様な研究文を丸っきり書けないで落書きしてるだけのゴミ
大物作家の北条小説を読んでたほうが勉強になるわな確かに 共鳴させるような研究文を書いてみやがれバカ>>1が >>1みたいな屁理屈バカしか信者がいないから後北条が勢力圏のわりには歴史好きからも人気でないしメジャー大名になれないんだと本気で思うわ たしかに北条の最大領地は武田、上杉より支配してるにも関わらず、
知名度や人気が毛利、伊達より大きく劣るのはファン層に問題がありすぎるのかもしれんのう。 北条の人気が無いのは見せ場が無いからだよ
雌雄を決する戦いでも敵が関東管領上杉とか小弓公方とか地味すぎるし
謙信、信玄とも戦っているが基本押され気味
里見のような弱小勢力にも勝ちきれない
物語にするときの見せ場がなさ過ぎるのが原因 単純に早雲以降に魅力的な当主が後北条にいなかっただけだろ
秀吉に負けたのは仕方ないとしても超小国の里見ごときに大苦戦して名を落とす後北条に注目が集まるわけがない
しかし北条の信者はバカスレ主みたいに気持ち悪すぎるゴミ信者が多いわな そんな後北条の信者になる奴がカルト信者並みに最悪に気持ち悪いわけだよ 足利茶々丸VS伊勢宗瑞
要するにどういう対決なのですか? >>802
足利茶々丸vs伊勢宗瑞 という見立てが既に間違っている。
伊豆戦争の構造は;
・前半=幕府vs堀越御所/「明応ノ政変」の一構成要素
・後半=山内上杉vs扇谷上杉/「長享ノ乱」の一方面戦線
それに武田信縄VS信昌・(油川)信恵がどう絡むのですか? 最後の最後まで里美ごときに大苦戦してたのが痛すぎんだわ 無理して自演までして後北条を持ち上げようとしてる気持ち悪すぎるスレだ >>805
恒常的飢饉状況下に於ける甲斐武田生き残りの為の路線対立。
一方は山内と組んで南方膨張を図る。
他方は今川=扇谷を引き込む。
要は駿河の利権を暴力で奪取するか、同盟して関与者となるかの相違。
この構造は結局信玄の代まで武田の動向を規定することになる。
甲斐の気候風土、地理水文、そして飢饉の拡大再生産という状況が変わらなかった以上はそこから脱け出せなかったのも当然ではあるが。 しかしバカスレ主は誰にも共感させられない文章を書いていて飽きないんだろうか?
研究者気取りか? 誰も読まねんだよ 後北条より圧倒的に少ない勢力で後北条と互角に戦い抜いた里見の方が武将としての魅力はある。 >>814
互角ではないかなあ
あと、伊勢盛時の時代まで遡れば、むしろ里見の方が大きかった時期もある
里見義堯は、家督相続に氏綱の力借りといてあとから寝返ったり面白い(立志伝中の)人だと思う、英雄と言ってもいいかも 最後の最後まで超小国の里見氏に大苦戦してた後北条はへたれ 謙信が荒らしに来なければ里見なんかとっくに潰してたべ >>818
謙信いなければ、上野を武田に譲ったり、下総支配の時期もずっと早まったのはまず間違いない
その場合、武田との同盟がどこまで維持できたか、についも想定が難しいが(北条が強大化した場合、武田は越後勢と同盟して対抗する可能性がある) >>820
江戸湾内海化はメリット大きいよ
三浦半島とかにも半手地域あった程度には、湾内における里見の勢力は馬鹿にできなかったので(上総・安房に北条の半手領あるので里見が優勢という話ではない)
他にも、川越、関宿、葛西、品川で掌握してる関東河川水運網を太平洋航路と商圏大々的に繋げることも可能になるしね 関東の河川水利は結構聞くがこの時期太平洋航路にそこまで期待できたんだろうか
陸奥がそこまで商業的に重視されてはいないし房総半島ぐるっと回らないと行けないのは厳しい
霞ヶ浦通行できるルートが確立されたからだろうか
やはりもう少し時代が下ってからかと思ったが
上方からの品や軍需物資も河川水運使いやすくなるのは便利そうかな >>821
以前も書いたが、
宗瑞の晩年に江戸再侵攻よりも真里谷との同盟を優先した辺りから既に武総之海の内海化を意識していたものと見たい。
氏康の関宿制圧への執念は彼独りの炯眼と云うよりは宗瑞氏綱から北條を貫く地政学的主題だったろう。
氏政が里見を屈伏させた時点で関東河川水運網はほぼ完成した。
が、それを活用すべく北條に残された時間は余りに少な過ぎた。
徳川がその衣鉢を継いでくれたことを以て瞑すべし、か。
それにしても薩長クーデター政権が陸運偏重で関東水運網を衰退させたことは文化史/文明史レベルで悔やまれる。
所詮は僻陬の奴輩、度し難き愚かさよ。 >>822
関宿を獲ったということは即ち利根川(当時)~常陸川の内水航路を運営できるということ。 誰も納得して共感させる文章を書けない>>1の落書き帳は見てるだけで反吐が出る >>817
ヘタレといやヘタレの一族だったかもしれんのう 里見ごときに大苦戦した雑魚大名ってことでいいですね >>822
宇治綱時代から、後北条家の兵糧米に伊勢米が大量に入っているのが文献でわかっているんだよね
安濃津に常駐の駐在員も置いていたとのこと >>819
里見はともかくとして、
北関東については上杉謙信の動向はむしろ北條を有利にした面もあろうかと思う。
越後軍の凄惨な略奪と放火、服従しても無茶な動員や対北條戦線に於ける捨て殺し等々、
上杉によって北関東諸勢力は無駄な消耗を強要され続けて疲弊した挙句、
結局は北條による各個撃破を許してしまうことになった。
このスレもバカスレ主のつまらん自演だらけで終わったな これでは伊東潤の北条小説を読んでたほうが100倍は勉強になるわ >>834
岩付太田とか、忍成田とか、滝山大石とか、上杉侵攻がなかったらそのまま大人しく北条傘下に収まったかどうか
そのあたりで評価は分かれそうね
上野の連中は越後勢来なかったらどう反応するのか全く想像もつかんな >>797-799
北条信者は下手に玄人ぶるから気持ち悪い。 共感させられる文章を書けないのだからしょうがない
文章力が足りなさすぎる 北条早雲ほど下剋上の主人公にうってつけの武将もいなんだけどな 史実なのかは知らんが大森藤頼を贈り物で油断させといて勢子に偽造して火牛の計で小田原城を乗っ取った逸話は史上最高の奇襲戦法だと思うんだけどなあ。
これは後北条ファンには黒歴史なのか? >>853
火牛は分らんがのう
早雲一行が勢子にカモフラージュして小田原城を乗っ取りしたのは実話
相手が強くもなんともない超小領主の大森だからこそ成功した奇襲でもあるが 別に500年前の戦国時代なら仕方ないことだからええやんか
むしろそっちのほうが稀代の梟雄らしさを感じて好きになるわ >>858
本当はあったらどうすんだと俺は思ってる 真実は小説より奇なり。
火牛の計も実話を元に作られた 小田原城については;
・明応四年震災直後の伊勢宗瑞による接収
・明応五年の山内上杉顕定による攻略
・明応九年震災直後の伊勢宗瑞による接収
--を示す史料がある。
「長享ノ乱」の方面戦線に於ける要衝として数度の争奪の末に伊勢の領有に帰したと見るのが妥当だろう。
その段階では伊勢の独立性は稀薄で、あくまでも扇谷上杉定正の麾下としての行動であったことは論を俟たない。
>>867
昔から北条早雲の自慢話は大森藤頼を騙し討ちで追放した逸話ばかりやからのう 実際その程度の武将にすぎないといえばその程度の武将なんだろ。 >>872
室町後期における「戦国大名」という存在の実体を作った人と言っていいかな 15世紀の最大物は長尾影春の乱を鎮圧した太田道灌なのか 多くの有名作家たちが小説の主人公にしてあげたのに爆発的に人気が出ない大名が北条早雲。
三英傑や信玄、謙信みたいに元の素質があまり万人ウケするような大名ではない。
まだ太田道灌のほうが人気が出るんじゃないかい 戦国黄金期は三代目の北条氏康のだが初代より余計に知名度低いよな >>873
上手い云い方だな。
「戦国大名の実体を作った人」。
正にその通りだと思う。 >>875-876
北条早雲はまだしも
全盛期を築き上げたのに北条氏康の人気だけは絶対に出そうにもない >>840
その辺りの諸氏はむしろ上杉の侵攻が無かった方が北條に長く抵抗できたんじゃないかと思われる。
とは云え、災害・飢饉・戦乱等による村々(領国)の危機に対応する為には広域一元統治が不可欠/不可避/不可抗であるから「時間の問題」ではあったろうが…。
ほとんど話題に上らないが二代目の氏綱こそ最重要当主だったかもしれないね >>883
南関東おける後北条の軍事的優位と、関東全域に対する後付け的な権威(関東管領・古河公方御一家)を得たのは氏綱の時代だからね >>884
北條の政治/軍事イベントと云うと第二次河越合戦とその後の地滑り的変動が注目されがちだが、
実は関東政界に与えた座標変換の衝撃は第一次国府台合戦の方が遥かに深く大きいと考えられる。
既に学術水準だと「氏綱期こそ最重要」と云われて久しいだろう。
但し氏康・氏政に比べて壊滅的に史料が少ないことを嘆く学者が多い。 アマゾンがコレ買えって言ってきたんだが、おまいらの評価ってどうなの?
↓
図説 戦国里見氏 >>886
興味が有るんなら買え。無きゃ買うな。手前ェで決めろ。
餓鬼じゃあるまいし他人様の顔色を窺うなよ。
スレ住人はお前さんのパパじゃねえ。
>>887
ここは学者気取りのバカスレ主の自作自演だけで成り立ってる落書き帳。 >>882
ここは学者気取りの負け犬バカスレ主の自作自演だけで成り立ってる落書き帳ですから。 そもそも後北条のマニアになる奴なんて1みたいな変態基地害ばかりやで 北条早雲て、昔の軍記物どおりの人かと思ってたのに全然違くて
どういうこっちゃいと色々と拾い読みし始めたら、「太田道灌すげー」ってなった >>892
太田道灌についても実証研究系の文献を読んでみると良い。
色々と感ずる所もあるだろう。
伊勢宗瑞にせよ太田道灌にせよ、また他の全ての歴史的人物にせよ、
「人物像」などという不定形な虚像は歴史に於いて何の意味も持たない。 太田道灌も伊勢盛時も、累代の家臣でない者たちを惹きつける力(戦が強かったり、交渉力が卓抜していたり、愛嬌があったり)がなければ、大成することはなかったのではないか、とは思う
この辺り、戦国後期の毛利元就、織田信長、徳川家康なんかにもあったんだろうと思うよ >>896
いや、あくまでも構造と状況に規定(強要)された存在だと思う。
或る構造の中で特定の機能を付与された要素。
個々の人格などはノイズとして捨象し得る。
「太田道灌」「伊勢宗瑞」「徳川家康」「某々」…と云うのはその要素の個体識別記号に過ぎないし、
当該個体が「その時」「その場」に存在したのは偶然でしかない。
特に伊勢宗瑞の軌跡はこれを端的に顕した事例であるように見える。
>>897
全てシステムによって説明できる、とするのはシステムと状況は必然と無謬性が満たしているって意味になる
例えばこのウクライナ戦争のゼレンスキーのように、その人格的判断一つで結果が大いに異なることは歴史的に多くあったろう
源頼朝は、その立ち位置と歴史的役割は必然であったが、頼朝がそこにいたのは彼の人格が影響している
そういう話だよ しかし鎌倉北条にしろ後北条にしろ北条は盛り上がらねえ!
このスレも終了しよう続ける意味がない これ以上バカ>>1のバレバレの自作自演ボケ劇場を見るのも胸苦しく飽きたしな。 >太田道灌についても実証研究系の文献を読んでみると良い
ん~そういうフワっとした書き込みで自分が何かを知っているかのように装うより
具体的な書名とそれを読んで何を感じたかを語る方がスレ的には盛り上がるんだよね
自分だけが気持ちよくて他人がみると気持ち悪いオナニーの邪魔をするなと言うのであれば
もう何も言わないけど >>902
お前さんも一から十まで教えてくれるパパが必要な餓鬼だったか。
手前ェの読む本ぐらい手前ェで探せ。
「違くて」「〇〇ってなった」「フワっとした」「だよね」
反吐の出そうな幼稚園文体を卒業して全うな日本語を覚えてから出直して来い。
>>902
バカスレ主のオナニー自演に付き合うなよ >>895
>太田道灌についても実証研究系の文献を読んでみると良い。
>色々と感ずる所もあるだろう。
偉そうだことw
地元の歴史研究会でも、この手の人が混じってケンカになって、追放されてたなー。 >>906
北条信者は狂信的カルト化する何かがあるのか?
信長や秀吉や信玄の信者にも熱い奴は多いが周囲との軋轢は少ない >>908
昔からは知らんが少なくとも今の北条厨はマジキチだらけ 太田道灌こそ15世紀日本の武士であり象徴なんでしょ まず武将として魅力的な部分が少ない後北条に魅了されてる一部のマニアは
一体、後北条のどこの部分に魅了されてるのかと・・ >>913
北条早雲のスーパー遅咲き成り上がり人生 >>908
信長や秀吉や信玄に熱くなり毛利元就にもコアなファンが多いのは分かるんだが
後北条に嵌まり込むのは理解不能 鎌倉北条も後北条も北条一族は北条時宗以外は盛り上がらんよ 平均視聴率が低いみたいよ
脚本や俳優にも問題あろうが 北条一族をしたいなら時宗以外は盛り上がらないと・・ 別に時宗が人気な訳じゃなく元寇がドラマチックなだけだろ 人気の話をしてんだよ
元寇の話は人気あってもそれがイコール時宗人気ではない 元寇だけじゃネームバリューがねえんだよ
日蓮聖人の伝記かと間違えるじゃねえか
北条時宗にいてやっと絵になるのよ まあ今回の大河を見ても北条義時では無理だったな
個人的には好きな人物だが 逆だろ
時宗だけじゃネームバリューが無い
元寇というイベントがあって初めて注目されるだけの話 それも含めて北条時宗やな
なぜなら元寇じゃなくて北条時宗が表に来るからだ 元寇が起きたから時宗も表に現れたんだよ
幾多の作家も時宗に魅力を感じたから作品にしたのではなく元寇を描く際の狂言回しとして時宗を選んだだけ なにがなんでもsageてる奴は北条時宗を貶め入れたいみたいだな
北条一族で話題性があるのは北条時宗だけなのは事実 話題性があるのは時宗自身でなく元寇という一大イベント 時宗を知っていて元寇を知らない奴はいないけど
元寇は知っていても時宗のことは知らない日本人はゴロゴロいる どうみても知名度が北条時宗>>>>>>>元寇だろう このご時世では
北条時宗を知ってるやつはいる
元寇自体を知らない奴は多くなってる そもそも元寇を知らないやつ増えすぎてるよ
ただ北条時宗だと何となく分かるんだって感じ どうやらこことは違う異次元の日本の話をしているらしい こっちの日本では元寇を知らない奴は時宗なんか当然に知らない
異次元の日本でどうかは知らんけど >>950-952
どこの世界からやってきたの?
元寇が題材の映画ドラマ漫画はほとんどないよ
北条時宗ならいくらでもあるけどな >>950-952
おまえ引っ込みどころがつか無くなってるんだろw
リアル世界でも相当に負けず嫌いだろw さいとうたかおの漫画でも大河ドラマでも映画でも題名が『北条時宗』なのよ 時宗は飽くまで元寇という一大イベントの狂言回し
元寇が無ければ時宗はその他大勢の執権の一人でしかない >>956
おまえ引っ込みどころがつかないだけだろ? >>956
チャンコロだろおまえ?
中国人ぽいな日本人の思考ではない 時宗を知っていて元寇を知らない日本人はいないが
元寇を知っていても時宗のことまでは知らない日本人はゴロゴロいる
元寇を知らない奴は当然に時宗のことなど知らない
こっちの日本ではこれが現実
異次元の日本でどうかは知らんけど >>960
おまえチャンコロだろ?
思考が日本人ではない中国系だろ? 元寇を時宗より先に出したいのはチャンコロ
在日中国人
かもしれないねないね 北条時宗>>>>>>>>>>>>>>>>元寇
日本人ならこれが普通 日本史板も在日チャンコロ増えたんだな。五毛党も多いし キチガイが埋めてこのスレも終了だな
次スレは要らん 後北条マニア自体が基地害だろ
ここのスレ主とかなw こんな糞マニアばかりじゃ後北条の人気が出ないわけさ!!!!! このスレッドは1000を超えました。
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