邪馬台国畿内説 Part769
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1646996309/l50
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に配置された大型建物等(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。庄内3式期のSD-2001、庄内3〜布留0式期のSM-1001,SD-1007が建物BとDをそれぞれ破壊し、建物Fが庄内2式期のSX-1001埋没後築造なので建物群の存続期間は庄内2〜3の中に絞り込まれた。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある。
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。 ◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、a.元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から、b.或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。 ◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ。
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前の情報が窺知できる。
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。 ◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他なるまい。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。 ◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。
※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。 ◆6(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
(本項 続く) 邪馬台国畿内説Part768の成果により
纒向の鉄は消えてなくなった説は嘘であることが暴かれました (承前)
◆6−2
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。 邪馬台国畿内説Part768の成果により
纒向の鉄は消えてなくなった説は嘘であることが暴かれました ◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FAQ43参照)
つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。 邪馬台国畿内説Part768の成果により
纒向の鉄は消えてなくなった説は嘘であることが暴かれました ◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化に起因する列島での社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。 邪馬台国畿内説Part768の成果により
纒向の鉄は消えてなくなった説は嘘であることが暴かれました ◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf
◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等
◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山
IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
浦間茶臼山、西求女塚
IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
メスリ山、行灯山、祇園山 邪馬台国畿内説Part768の成果により
纒向の鉄は消えてなくなった説は嘘であることが暴かれました 邪馬台国畿内説Part768の成果により
纒向の鉄は消えてなくなった説は嘘であることが暴かれました ◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。
壹岐一国では観察されたが首都で観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。 邪馬台国畿内説Part768の成果により
纒向の鉄は消えてなくなった説は嘘であることが暴かれました ◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。
以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。
また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く) (承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
予章郡:雒陽南二千七百里 南海郡:雒陽南七千一百里
蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
交趾郡:雒陽南萬一千里
(雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)
倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。
また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。 ◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇田と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。
◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。 ◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。
◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。 ◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。
◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。 ◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、
実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと
。
3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
記紀においてもヤリとホコの区別が無いことは、天日槍を知らぬ者を除き常識である。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。 ◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なる概念である。よって否定材料にならない。
呂覧に「題湊之室棺槨数襲、積石積炭以環其外」と見える如く、古代中国人の耳目には竪穴式石室の側壁或いは現代考古学に言う礫槨・木炭槨の類は室外を環る地中構造物と認識される。そして棺槨は室内に重ねられるのである。
石を槨の表、黄腸を裏とする鄭玄註は、題湊が木槨壁面に接合する時期を経た塼室墓時代の意識として整合性がある。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて韓地経由の楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響ではあるものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状である。
就中、ホケノ山は床板が無く、石室構築のための仮設の板壁を石室完成後に撤去した木蓋石室墓とする復元案(真鍋2018)も有之、古代中国人が認識する木槨とは程遠い。
これを槨と称するならば、北部九州に多い箱式石棺も歴然と槨である。
畿内で一般的な墓は木棺直葬の方形周溝墓で「有棺無槨」に適合している。
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能である。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。 ◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと推定できる。
他に、使用痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄など、遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧とがある。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、遺跡建設当初の庄内0期遺物から鉄器による加工痕が認められる。
纒向大溝建築材実測図 https://i.imgur.com/EPtpzEw.png 矢板列支柱(左)に角の明瞭な貫穴、矢板(右)に鱗状手斧痕。倶に鉄器による加工の特徴を示す。
纒向遺跡メクリ地区に「大型の鉄製品を砥ぐという行為が行われていたのは間違いがな」いとされている大量の砥石があり、廃棄時期は3世紀前半〜中頃、最も古いものは「庄内2式期の可能性」(『纒向遺跡発掘調査報告書2』桜井市教委2009)とされる。
大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析では、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。事実、鉄製品の腐食に最も影響力の強い硫化物が海成粘土層が畿内中枢部の深層に分布している。
また併せて、纒向遺跡で脱炭鋼を製造していた布留0期の鍛冶遺構に於て鉃滓は共伴するが成品が発見されない状況は、官製工房的な管理の強化・貫徹を想定するに足る。
古墳時代に入ると「鉄器が普及したと同時に、首長層へ鉄器が集中した」(橋口2002)
という視点に立てば、首長級墳墓への集中と生活遺構での不在という鉄器の偏在は理解しやすい。 ◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。
◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。 ◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63km)である。
江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。 ◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国出土(李家山59号墓)青銅製容器蓋装飾の騎馬像に鋳出された脚親指に装着する革鐙が報告(菅谷1994)されている。
郡県内では湖南省西晋墓(長沙金盆嶺第21号)の陶俑に描かれた片鐙(永寧2,西暦302年埋葬)が紀年の明かな最古発見例であるが、これと同時期或いは遡るとされる類似の発見例が数あり、中国の複数の調査者が木芯包革式鐙の存在を3世紀中葉まで遡ると考えている。
現物は西晋末〜東晋初(四世紀第1四半期末から第2四半期頃)の河南省・遼寧省出土例まで降る。
湖南省西晋墓陶俑図 https://i.imgur.com/oM4NXR6.png
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度に鐙が一般的存在であったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で上図タイプ1の国産模倣品現物が出ることに不合理はない。 ◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した! これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018)この桃核12測定例の平均値をIntcal20で歴年代較正して次に掲げる。
https://i.imgur.com/VKIld2Q.png
一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、
そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。 ◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png
前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く) (承前)
◆FAQ 23−2
◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。
◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
・ 森将軍塚 :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
・ 前橋王山古墳 :上毛 ・ 持塚二号墳 :上総
・ 高千穂七号墳 :上総 ・ 山伏作一号墳 :上総
・ 長沖八号墳 :武蔵 ・ 温井一五号墳 :能登
・ 見手山一号墳 :但馬 ・ 西穂波16号墳 :東伯
・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
・ 高鼻二号墳 :伯耆 ・ 日拝塚古墳 :筑前
・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
・ 朝日谷2号墳 :伊予ー布留0古(梅木1998)
◯朝日谷2号で後円部上に棺設置後、覆土と同時に前方部の盛土開始が判明していること
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等
◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。 ◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。
◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。
なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。 ◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。
◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があった。
九州説にとって不利な条件と言える。 ◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。 ◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核には、この地域を想定するのが妥当である。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。 ◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!
A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国 ◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。
それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。 ◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。 ◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。
◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。 ◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。(FAQ79参照)
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、
弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。 ◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や太平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。
太平広記はその書名が示すとおり太平興国年間に編纂された類書であり、当該箇所は東晋代成立の捜神記から採録している。則ち太平興国の時点で原テキストに東越閩中の所司が「東治都尉」とあったことが判明する。
東越閩中に置かれた都尉の治は東候官に他ならず、三国志等の版本が成立した北宋太平興国の修史活動期における編集従事者の認識が窺知される。
倭人伝中の「会稽東治」については、中華書局が既に「東冶」と校訂しているが、丁謙・盧弼らの考證に先立ち、成都書局が同治10年に殿本を校訂して「東冶」に改めている。跋文に四川総督呉棠、四川学政翰林院編集夏⼦鐊ら同治年間の人士の名が見える。
https://i.imgur.com/E6TFLyl.png ◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。
この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。 ◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。
これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。 ◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期、遼東系)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期、非遼東系)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行(高久2009)する。
凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。
以上述べた楽浪の対外活動に列島における楽浪土器の出土量を対応させ(◆7参照)
活発期:2世紀末〜239A.D.:久住IA期
衰退期:塼室墓から遼東系が消え魏へ定期職貢あり:240〜247A.D.:久住IB期
残存期:魏へ定期職貢途絶から最終朝貢記録まで:248〜266A.D.:久住IIA期
途絶期:日本列島から楽浪土器消失:267A.D.〜:久住IIB期
の目安が得られる。
三国鏡の雲紋編年において魏景元四年(263)銘鏡に一致するのが三角縁201番鏡(唐草文帯群、岸本V期)であることとも整合性が良い。 ◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。 ◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。
◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。
この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。 ◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。
◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。 ◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。 ◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無い。
壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。 ◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。 ◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
(同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。 ◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定 ◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことが明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。 ◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。 ◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
(「長安城方六十里、 經緯各十五里、十二城門、積九百七十三頃、百二十亭」漢旧儀)
また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。
このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。 ◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!
A:定説に従う。
金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。
二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。
以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。
楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!
A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。
◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!
A:基礎知識の誤りである。
現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する
ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通) ◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!
A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
殷商:約16cm
西周:約20cm
戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。
また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。
《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く) (承前)
◆FAQ 65−2
『禮記』王制には
「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」
とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。
ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。
この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。
秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
古者周尺 17.3cm
今周尺 21.0cm
秦漢尺 23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。 ◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!
A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。
なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。
◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
倭人伝にある方位に間違いはないのだ!
A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。
・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。
ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png
因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
地名が実際の地勢と著しく異なる。 ◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
奈良県の三角縁はもっと新しい!
A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。
ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。
箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。
◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!
このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
護軍将軍である淵の任地は都である!
A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。
長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。 ◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!
A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
銭大マ・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。
襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。
◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!
A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。
中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。
当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。 ◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
畿内は「東征」を受けた毛人だ!
A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
「服」は他動詞として使う。
「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。
「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。
◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!
A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png
能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。 ◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!
A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。
大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。
庄内大和型甕と庄内河内型甕は、庄内 I 段階に大和川河口地域に成立した初期庄内甕(庄内式古相)から分化して、庄内 II 段階に至り倶に確立した。胎土・製作技法・形態により識別されるのみならず、分布域も明瞭に区分可能である。
生駒西麓型とも呼ばれる庄内河内型甕は、中河内地域で圧倒的なシェアを占める一方で、摂津・和泉並びに大和盆地では低シェアという、極めて特徴的な偏在を示す。
これが、中河内地域の排他性を意味しないことは、中河内地域主要遺跡の持つハブ港的性格を鑑みれば明瞭である。事実、吉備の文化は中河内を経由地として纏向に極めて濃厚に転移している。
◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
畿内説は皇国史観の徒である!
A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。
遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。 ◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!
A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
本Qに見られるような直線的進歩史観で歴史が理解できないことは言うまでもない。
古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。
弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。
◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
前方後円墳体制など、夢想だ!
A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。
萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。
奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。 ◆FAQ 78-1
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
里数が書いてないではないか!
つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
投馬国は南九州でよいのだ!
A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。
『九章算術』巻第六「均輸」に
「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。
これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」
「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。
また、「今有甲發長安、五日至齊、乙發齊、七日至長安。今乙發已先二日、甲乃發長安。問、幾何日相逢?」の出題では
「術曰、幷五日・七日以爲法。以乙先發二日減七日、餘、以乘甲日數爲實。實如法得一日」と解く。
これを劉徽が註して「『減七日』者、言甲乙倶發。今以發爲始發之端、於本道里則餘分也」とする。
即ち、長安〜齊の里数は当然等しいが、乙が2日先発しており、甲の出発時には「道里」に猶ほ「餘分」がある。そこで7日から先行した2日を減ずる計算をしている。
明らかに「道里」が日数表記されている実例である。
ここでは同じ固定区間が甲にとっての道里五日、乙にとっての道里七日である。甲の出発時に乙は先行した道里二日を七より減じた乙の道里七日のうち五日が未消化な「余分」である。つまり七五三十五の最小公倍数を法(分母)とすれば三十五分の二十五である。従って、改めて甲乙が同時に出発したと考えれば五と七の和十二分の二十五、即ち二日と十二分の一後に甲乙が出会う。
この計算には里数が一切登場せず、日数のみで道里を計算していることが明らかである。
本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。
(本項 続く) ◆FAQ 78-2
(承前)
三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」
とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝でも、各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。
もとより倭人伝は倭人の国々を
1)自女王国以北、其戸数道里可得略載、
2)其余国遠絶、不可得詳
と截然と二分類しており、「自女王国以北」と「其余」で悉皆である。
戸数・到達所用日数・官の情報が既知である投馬国を「遠絶ゆえに不可得詳」のグループに配することは極めて不合理であり、投馬国については戸数と道里が略載されている。
倭人伝に於て投馬国が「女王国以北」と認識されていること明瞭である。 ◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
ただの倉庫だろう?
A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)
建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。
強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。
◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
魏志に邪馬臺と書かれていたのではない!
ただ当時の風説を書いたのだ!
A:初歩的な誤りである。
子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。
助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。 ◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
だから邪馬台国は畿内ではない!
A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。
三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。
魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。
三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
https://i.imgur.com/XIb0RqF.png
◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!
A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。
「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。
三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。
このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。 ◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!
A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。
●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。
●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君″jッ」「保子¢キ」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。
国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君″jッ至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。
両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
古墳とは違うのだ!
A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。
孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。
類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。
魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。
◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!
A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。
K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものであろう。
庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭頃の実年代が与えられている。 ◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
日本の古墳は平坦で、高くない!
卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!
A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png
https://i.imgur.com/EyIx7C7.png
◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
特鋳説の根拠にはならない!
A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量であり、市中から発丘獲得物を含む雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しい。
全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。
銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。 ◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!
A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。
また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。
江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。
このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。
◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!
A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。
下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。
夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
https://i.imgur.com/EXTU3lu.png ◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!
A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。
「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步、高六丈六尺」(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
「帝王世紀曰。(洛陽)城東西六里十一歩、南北九里一百歩」
「晋元康地道記曰。城内南北九里七十歩、東西六里十歩」(後漢書劉昭注)
※晋元康年間:291〜299
「洛陽十二門、南北九里」(太平寰宇記所引陸機『洛陽記』)
※陸機(261〜303)」呉陸遜孫、晋入朝289
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
※「皇覽」(魏文勅撰)
◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!
A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。
実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。 ◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!
A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。
六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。
『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。
また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。
八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。
◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!
A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。
北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
改新詔における畿内国の定義が畿内第V様式圏に酷似する事実の指摘(濱田2014)は注目に値しよう。 ◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!
A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。
IB期に庄内系(庄内2〜3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
https://i.imgur.com/zJCqyag.png
https://i.imgur.com/KTMQyfU.png
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。
畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。
◆FAQ 95
Q:森井貞雄によれば西暦258の年輪年代が与えられた二口かみあれた遺跡が庄内3だ!
布留0の箸墓が3世紀中頃である筈がない!
A:布留0の実年代を西暦260〜280頃とする寺澤の見解(橿考研2002)と齟齬がない。
ただし森井が二口かみあれたを庄内3併行と判断したという点について出典がない。
森井は青龍三年(西暦235)銘鏡を出土した大田南5号墳の「庄内3」あるいは「布留0」併行を弥生終末期の終わりの一つの定点(森井1999)としており、本Qは本人の著述と齟齬があって疑わしい。
科学年代西暦258をVI-3様式期(布留0古相)の年代観と対照する森岡(2014)。
上記年輪年代(光谷1995)が古墳時代初頭・布留0併行の暦年代を提出したとする河合(石川埋文2000)。
これらと突合すると、光谷の上記暦年代データは箸墓の築造年代を3世紀後半初とする見解と整合性がある。 ◆FAQ 96
Q:「銅出徐州」というが銅山があるのは呉領だった徐州南部のみ!
彭城銅山県は名ばかりの存在で漢書・後漢書に銅山のあった記録もない!
A:彭城銅山県(現・徐州市銅山区)は北宋の元豊年間に宝豊監が置かれ鋳銭が行われていた。宋銭「元豊通宝」の鉛同位体比は三角縁神獣鏡に酷似している。
のち廃坑となり地名のみが今に残る。
これと別に、隣接する利国には鉄冶を主する監が置かれていた。
呉の領有した徐州南部とはもと揚州の属であった広陵郡南端の極めて限られた地域のみで、徐州の殆どは魏領である。
漢書地理志広陵国・続漢書軍国志広陵郡とも鉄を産することを記すのみで銅山があった記録がないことは彭城と同じである。
◆FAQ 97
Q:纒向は蛙を食う貧困な寒村だ!
A:西漢は皇帝の宗廟に羊・兎・食用蛙を供えるのが常であった。
東漢にあっても普通に食用であった。
「羔、菟、鼃所以供祭也」霍光伝師古注
「鄭司農注云蟈蝦蟇、玄謂蟈今御所食蛙也」周礼両鄭注
纒向土壙祭祀において今人が高級食材とする鯛・鴨・桃などと並んで神饌とされることに不自然はない。
◆FAQ 98
Q:纒向は古墳築造のための施設であって都などではない!
A:合理的な理由がない。
纒向の建設は庄内0式段階で運河掘削が開始する。
一方、90m級にまで巨大化して弥生墳丘墓の域を超えた墳丘墓の築造は庄内2式段階に開始する。
よって遺跡内への搬入土器が広域に亘る特異性発現、運河掘削ともに、大型墳丘墓築造開始より1世代を超えて先行しており、因果関係が認め難い。
また辻地区の大型建物は3式段階には廃絶しており、箸中山古墳の築造開始に先行する。
よって此の因果関係も求め難い。
纒向型土壙祭祀の開始も大型墳丘墓築造に先行する。その祭祀内容には葬送儀礼との関係が窺えず、寧ろニヒナメヲスクニや鎮火祭といった服属儀礼や鎮護国家的行事との関連性が指摘されている。
導水施設における祭祀も池上曽根や伊勢遺跡に先行事例が求められ、墳墓との関連がうかがえない。ことに木樋を用いた祭祀は首長居館周辺で執行される特異な祭祀として後世に残っている。
以上より、纒向は祭祀に特化した特異な大遺跡であるが古墳祭祀には特化しておらず、古墳造営とのみ結びつけるのは不合理である。 ◆FAQ 99
Q:ホケノ山古墳の年代は古木効果の影響を受けない小枝資料の炭素年代によるべきだ!
4世紀後半だ!
A:後代の混入物として除外する通説が正しい。
墓室内に落下していた丸底坩と加飾壺は、他古墳での類例を鑑み、墳頂に囲繞配列されていた祭祀用土器と見るのが妥当と思われる。明らかに混入物である小枝資料は天井崩落時のコンタミであろう。
ラジオカーボンによる暦年代の較正に当たっては古墳寒冷期に対応する炭素14濃度の乱高下を考慮する必要がある。3世紀末にかけて大幅な炭素14濃度の上昇が観察される。また4世紀後半にはラジオカーボンの崩壊速度に見合う濃度上昇があり、これが撹乱要因となって較正曲線によって絞り込める暦年代が拡散している。
Intcal20から見た炭素14濃度は西暦270年頃をボトムとして大きく上昇しており、布留1古相のyBP値が新相のそれより高く出る実態と合致している。また、同時代資料と見られる小枝の確率密度分布ピークが一方は4世紀中葉後半、他方が4世紀末から5世紀初頭の値を示すことも、気候変動による撹乱要因が深刻であることを読み取れる。逆に270年頃のピークは両資料とも適切に合致しており、より信頼度が高い。ここから、天井崩落の時期を布留0末から布留1初頭と推察する。
周濠底のS字甕Aの年代(庄内3)に属する多数の測定例と整合している。
https://i.imgur.com/nHtnTXO.png
◆FAQ 100
Q:会稽東治は蘇州だ! いや上海だ! 長江河口近辺だ いや淮河より北だ!
A:卑弥呼が通交した時代の会稽郡は現在の浙江省および福建省、単独で「会稽」と言えば常に現・紹興市越城区にあった会稽郡治「会稽山陰」を指す。
「越王句踐、其先禹之苗裔而夏后帝少康之庶子也。
封於會稽、以奉守禹之祀」(史記越王句踐世家)
「禹周行天下、還歸大越、登茅山以朝四方羣臣、封有功爵有コ。崩而葬焉。
至少康、恐禹迹宗廟祭祀之絶、乃封其庶子於越、號曰無餘。」(吳越春秋)
「會稽郡山陰、會稽山在南,上有禹冢」(後漢志郡国四)
✳︎茅山:会稽山の別称
秦の王翦が楚を滅した時、楚に併合されていた呉越を分離して会稽郡とした。
会稽郡治が現・蘇州市にった時期、当地は呉本国、呉県と呼ばれ、会稽は依然会稽山麓に所在す。
以降変転を経て順帝永建四年(199A.D.)に呉郡を分割し、以降の会稽郡治は会稽山陰である。
「会稽東治」が呉郡や徐州に存在しないことは明らかである。
「東冶」は『捜神記』や『太平広記』並びに書陵部蔵三国志 南宋刊「紹熙」本に登場し、すべて越が楚に滅された後の越族の都となった閩越(卑弥呼朝貢当時の「東侯官治」)を指している。
(参考:FAQ40) ◆FAQ 101
Q:纒向の大型建物Dというのは東西二間しか見つかってないではないか!
四間x四間に復元して大型大型というのはインチキだ!
A:「本来の建物規模は調査の状況や建築学的な検討から東西も4間であったと」
と調査機関は公式発表している。
事実、東西6・2m、南北19・2mはアンバランスに長大である。一般に偶数柱間の総柱建物は居館の系譜と考えられており、このような形態は異例であろう。
建物Bと建物Cの間隔は建物Cの東西二間に等しく計画的に設計されている。
建物Dで発見された柱列西端から建物Bまでの間隔は建物Dの東西四間に等しい。
また建物Dと南柵列との間隔は建物Dの南北一間(束柱をカウントすれば南北二間)である。
全体が規則的・計画的な配置であることを考慮すれば、総柱建物が正方形を志向する傾向も鑑み、建物CとDの間隔も建物Dの東西二間に等しく復元することは合理的である。つまり建物Dを東西四間、南北四間とした復元は合理的かつ妥当である。
建物Dを破壊している溝SX-1001、建物Cを破壊している溝SX-1002ともに底の僅かな深さしか残存しておらず、両建物のあった地表面への削平が深かったことが窺知される。
大型建物群配置図 https://i.imgur.com/4W4mle2.png
同空撮 https://i.imgur.com/A1eBwbR.png
建物B空撮 https://i.imgur.com/HytoKvD.png
Dより西を望む https://i.imgur.com/LB1oG3k.png
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】なし >>1奥山さん 新スレたてていただきありがとう
さて、前スレで指摘したのはFAQ58の事です
FAQ58
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
前スレの私の投稿
>>966
>キウスが畿内説は短里を使ってるとかウソついて論破されたのは
つい最近では?
それ私に振るならしっかり説明しないといけません。
?がついてるから良いですが。
私の指摘はね、テンプレ?(後ほど確認します)の
郡から北部九州まで1万里
後の2千里だけ北部九州から纏向まで長里を使って説明しするのはダメと言ったのですよ。
再度説明させるのですか。はぁーーー それに対しての
いつものゴマカシ 奥山さんの投稿
986日本@名無史さん2022/03/16(水) 21:41:25.67
>>981
>後の2千里だけ北部九州から纏向まで長里を使って説明しするのはダメと言ったのですよ。
何で嘘までついてテンプレに反論したフリするのかな FAQ58
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
↑
なぜ、 >>1
楯築墳丘墓を作った人々の弥生集落である倉敷の上東遺跡。
纏向の2800個をはるかに上回る9600個の桃核が出土している。
「洪水で当時の生活用具が一括封印」されているわけだが、金属器ゼロ。
鉄器が無かったんだよ鉄器が! >>82キウス
ごもっとも
>>85
イミフ
何処へ投稿したの >>85
前スレの>>985がお前ということなら
テンプレ出てきたからお前のミスだろ
ようわからん投稿 >>90
ミスってなんだ?
何で俺が奥山なんだ?
ようわからん投稿だが、頭がおかしいのか? >>90
訂正
〇前スレの>>986がお前
どうでもいいや
今日は何の話にするの?キナイコシネタは秋田 >>91
ようわからんから聞いてるのだよ
>何で嘘までついてテンプレに反論したフリするのかな
この投稿はお前ということなら、
キウスはテンプレに反論してるじゃん
>郡から北部九州まで1万里
後の2千里だけ北部九州から纏向まで長里を使って説明しするのはダメと言ったのですよ。
キウスの反論への反論はキウスにしてくれよ。 >>91
あとさ俺はお前の事わ奥山かだれか知らんし >>93
>キウスの反論への反論はキウスにしてくれよ。
だから
83キウス2022/03/17(木) 05:38:34.51>>85
それに対しての
いつものゴマカシ 奥山さんの投稿
に対して
85日本@名無史さん2022/03/17(木) 06:33:46.38>>89>>90
>>83
なんで俺が奥山なの?
って聞いたんだが?
お前は誰で、どの投稿を書いた人?
>>93ってあたまの変な人?
それともナリスマシ失敗してるばか? >>91
一応なりに>>1のFAQ58について
1
>「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済み
Aそうだね
2>残余は1,300〜2,000里
Aそうだね
3>これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
Aそうだね
4>直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
Aそうだね
BUT
一個一個はいいけどつなげるとおかしくなるな
1の「萬餘里相当を費消済み」の距離が長里か単里か不明だが長里ではないことは確かだな
別に単里でも長里でもいいからキロ数は載せないと
群から九州本島までは800キロぐらいかな
800キロ÷万里で1里は80メートルだね
4で博多から桜井まで800キロ
800キロ÷2000里で1里は400メートル
結果 1里の距離が80メートルと400メートルが混在するね
つまり、短編的には正しいがつなげると間違いとだから文章として成り立たない 大陸との交流を示す資料に乏しい纒向には卑弥呼はいない >>95
>>>93ってあたまの変な人?
>それともナリスマシ失敗してるばか?
そうです
キナイコシは狂人です
当たり前じゃないですかw >>101
人が愛用しているトリップに文句つけるなよw >>101
つーか、なんで他人のトリップって言うの?
自分は#のあとに適当に文字書いたらこのトリになっただけだよw お笑い、短里!伊都国から奴国までの距離は100里を時刻表の営業キロを使用して検証したら
肥前前原駅から博多駅まで22・5km、1里は225mとなり短里がウソだとバレてしまった。 >>96
>1の「萬餘里相当を費消済み」の距離が長里か単里か不明だが長里ではないことは確かだな
それは誰の考え? さて、邪馬台国畿内説Part768の成果により
纒向の鉄は消えてなくなった説は嘘であることが暴かれたわけだが、
もうこんなアホな理屈捏ねる奴はいなくなるよね?
今後は「纏向は首都だから武器があるわけない」という言い分に変わるんだろうけどw 普通の人
あ=、ソースが異なる情報がつぎはぎされてることを説明してるんだな
あたおか
存在を否定してる単位を説明で使ってる!うそつき! >>111
連続句読点じゃねーよw
文体全く違うやろ キナイコシは相変わらず朝から必死だなwww
これから出かけるからしばらくこねーわ
キナイコシ、またな 文体w
連句点はあきらかにねらってるし
変えないアホはキウスくらいだろ 他人の使ってたトリップを適当にとか愛用とか平気で言う嘘つきがいる
テンプレの妨害もしてるし、荒らし以外のなにものでもないな >>117
みんなでキナイコシ馬鹿にして楽しんでいるだけだよwww
また後でな! 988日本@名無史さん2022/03/16(水) 21:45:13.92>>989
このスレの1をやたらと敵視するのは
・キウス
・連句点
・左側スロープ
こいつら全員1の旧トリを偽装したり、発覚後に使ってたりしてるな >>105
どうして平気でそんなウソがつけるんだろうね
連句点って人間失格だね >>108
誰もの考え
逆残すればわかる
長里の1里400メートルとして
群から九州まで1万里×400メートルで4000キロ
4千キロ???そんなバカいるか スレ立て妨害
なりすまし
うその積み重ね
どっちが必死なのかは明かだな 残念 >>1キナイコシ
キウスガ来る前にFAQ58論破されちまったな キウス
邪馬台国関連スレに出没する真性の基地外であり、病的なウソつき。
「希薄」を読むことができず、「箕臼(キウス)」と誤変換し続けたことから「キウス」と呼ばれるようになった。
ウソの書き込みや自演、成り済ましを平然と行う。
一時期、名前欄の「,」を消し忘れたまま自演を繰り返し、周囲を愕然とさせた。
畿内説スレの>>1を騙りトリと同じ英数字を名前欄に書き込んで偽スレを立てたことも数度あった。
ようするに最低のクズである。
「全1病」罹患者にして典型的「62病」発症者。
キウスの書き込みを褒めたり、礼を言ったり、「ワロタ」と応じたりする書き込みは、すべて自演である。
他人を騙す行為も自分ならばすべて許されると信じている節のある、傲慢の塊である。
日本語の読み書きが満足にできないこと、日本史や日本の地理に関する基礎知識がないこと、
さかんに渡来人を持ち上げることなどから、
日本の義務教育を受けていないどころか日本国内に居住していないのではないかと推測されている。 そもそも、その里程を加算するのが間違いの元!
魏志倭人伝のどこにも、加算して「万二千里」などとは書かれていない!
すべて直線距離で表されている。
帯方郡(平壌)→女王国(阿波)万二千里( 直線距離 900km)1里=75m
「自郡至女王國萬二千餘里」
なぜ魏志倭人伝で、「從郡至倭・・・」の行程記述とは別に、「自郡至女王國萬二千餘里」が ポツンと 分離して書かれているのだろうか?
それは、行程記述と「自郡至女王國萬二千餘里」が、別事項だからである。
「自郡至女王國萬二千餘里」は、帯方郡から女王国までの距離が、「直線距離」で一万二千余里を特記したもの。
だからことさら、行程記述とは切り離して記述している。
その心は、帯方郡から女王国までの距離が、「直線距離」で「萬二千餘里」だと言いたかったから。
その心は、帯方郡から女王国までの距離が、「直線距離」なのであって、間違っても決して「行程里数加算距離」と取られないため。 @阿波 スレ立て妨害
なりすまし
うその積み重ね
恥も外聞もかなぐり捨てて必死なのはどちらなんんでしょうねw >>117
>テンプレの妨害もしてるし
失礼な妨害でない。授業料なしで教育してやってるのだ。 キ
ナ
イ
コ
シ
い じ ら れ て
楽 し そ う だ な
も っと ム チ が 欲 し い か
三 回 ま わっ てワ ン と ほ え ろ 畿内説スレで見かけることがある不愉快な面々
連句点
松傾
ザラコク
キウス
泡沫
左側スロープ FAQ58について
1
>「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済み
Aそうだね
2>残余は1,300〜2,000里
Aそうだね
3>これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
Aそうだね
4>直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
Aそうだね
BUT
一個一個はいいけどつなげるとおかしくなるな
1の「萬餘里相当を費消済み」の距離が長里か単里か不明だが長里ではないことは確かだな
別に単里でも長里でもいいからキロ数は載せないと
群から九州本島までは800キロぐらいかな
800キロ÷万里で1里は80メートルだね
4で博多から桜井まで800キロ
800キロ÷2000里で1里は400メートル
結果 1里の距離が80メートルと400メートルが混在するね
つまり、短編的には正しいがつなげると間違いとだから文章として成り立たない 畿内説のことが気になって気になってしょうがないんだなぁ スレ主が匿名なのはイカン
スレ主が匿名なのはイカン
スレ主が匿名なのはイカン 勘違いしないでよねっ
ベ、別に畿内説のことなんか、少しもちっともこれっぽっちも気にしてなんかないいんだからねっ なぜ、実在の奥山氏は、頭が悪いのだろうか、、、、
ベイジアンの計算でもアホという結果がでている
なぜ、実在の奥山氏は、頭が悪いのだろうか、、、 >>139
匿名掲示板で何言ってるの?
あたまおかしいんじゃない? 日本史年表(茶色やつ)の巻末資料に大宰府から京都までの朝貢輸送路がある。
その資料によると大宰府から京都までの日数が30日とある。九州説がウソだとバレてしまった。 \\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\
つまりテンプレの計算式 10,000÷8=1,250 は
九章算術の例題の答えを導き出す工程での比率計算式の一部を引用したものあるが
◆FAQ 78 のQとの整合性から
アンサーとして無意味な計算式であるだけでなく九章算術を持ち出すのは不適当
強いて言えば水行20日は 水行10日の2倍だ程度の計算式である
よって
FAQ78は削除するかアンサーを変える必要がある
\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\
参照
◆FAQ 78
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
里数が書いてないではないか!
つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
投粕n国は南九州でb謔「のだ!
A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。
『九章算術』巻第六「均輸」に
「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
続けて
「甲県一万戸、行道八日」「甲衰一百二十五」 とあるので、道里遠近・戸数多少から算出された「衰」は
甲県で 10,000 ÷ 8=125
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識
BY キウス >>135
キナイコシよ
「左側スロープ」
おもしろいニックネームだが
何を意味するの?? 邪馬台国畿内説を宣伝する係員の奥山氏への弔辞を発表します。。。
奥山氏、今、僕達はあなたにお別れを告げようとしています。数時間前、討論していた時はあんなに元気だったのに、、、突然、自殺体になろうとは、誰が予想できたでしょうか。
振り返ってみれば奥山氏と僕達との出会いは、5ちゃんねるの掲示板でした。偶然に僕達がスレッドを覗いた事がきっかけで、魏志倭人伝時代についての討論会で一緒に過ごしました。
奥山氏は、あの時からずっと変わらず卑劣な論敵でいてくれました。そして、奥山氏はいつも僕達に論破されましたね。。。僕達にとって奥山氏は、頭の悪さを楽しませて貰え、笑えてリラックスさせられる存在です。
奥山氏が頑張っているから、僕達が癒される、、、いつもそんな思いで生きてきました。
奥山氏、どうぞ安らかに眠ってください。また、天国であなたと討論できる日までお別れです。
奥山氏、本当に心よりありがとう。 >>133
返事ができないの?
なら、論破されたのは>>96だよ >投粕n国は南九州でb謔「のだ!
どうやったらこんなことになるんだよ >>146
いや いや いや
キナイコシにはまいったねーーー
突っ込むのそこwww
自分で訂正しといてね >>147
誰を見てもキナイコシだと言うこいつは全一病 誤変換が頻発するのは日本語表記→他言語表記→日本語表記と変換しているためではないか? >>121
どうして平気でそんなウソがつけるんだろうね
キナイコシって人間失格だね 全1病
全1病(ぜんいちびょう)とは、邪馬台国畿内説スレに出没する九州説論者やトンデモ歴史観主張者のみが発症する、心の病。
自身の主張とは相容れない穏当な畿内説による書き込み全てが、>>1 ◆n7jxAxKCBhb6ひとりによる物であると信じ込む、追跡妄想の一種である。
学者よりも凄い俺様を批判する者などいるはずがない、あるいは、反対論者は鋭い指摘をする自分を恐れているに違いない、という過剰な自意識に支配された九州説論者やトンデモ歴史観主張者が、
自身とは相容れない畿内説支持者が多数いるという現実を受け入れることができずに発症する。
>>1 ◆n7jxAxKCBhb6が自演や多投によって多数派を装っているのだ、と言う発想は、
実は、自身が自演や多投を行っているという事実の裏返しにほかならない。
現時点では治療法は発見されておらず、一度発症すると死ぬまで治ることはない。
なお、近年には、全キナイコシ病や全奥山病といった、全1病に類似した症状を呈する新病の存在が報告されているが、
いずれの発症者も、自意識過剰の夜郎自大であることは共通している。 >>145
キウスの恥を保存する
九章算術もFAQ 78もまったく理解できてないってw >>144
>>>114の「出かける」=トイレにいく
いやいや、車で移動していたんだよ
キナイコシは無職で車持ってないから理解できないのかもしれんなw
運転中にスマホいじると道路交通法違反なの知ってた?w >>159
お前は>>108に回答できないで逃げただろ?
だからお前は論破された >>161
誰を見てもキナイコシ
つまり全一病
治らない キウスの特徴
日本語がおかしい
とても頭が悪い
外出すると言って実は行かない
連続句読点を使う >>158
奥山さん
九章算術なんなら再度やってもいいですが
多くの人のFAQ78への反論 コピペしますが
多すぎて
ほかの人に迷惑でしょう
>>?さん
楼観の件はもうよろしいでしょうか?
匿名でなければ、お答えしますが。 >>166
ふーん。君にとっては車に乗るということはパトカーに乗せられるのと同じ意味なんだねwww >>171
はいはいはい、病気ですよ。すみませんね
さてと、ちょっとしばらく取り込み中になるんで、また落ちるわ
キナイコシ、またな! スレ立て時の妨害って連句点がよくやってたな
>>1の旧トリ借用もそうだし
これってやっぱりそういうことなんだろうな これか?w
邪邪邪邪邪邪邪邪邪邪邪邪邪邪邪邪邪邪邪邪邪邪邪邪邪邪邪邪邪
馬馬馬馬馬馬馬馬馬馬馬馬馬馬馬馬馬馬馬馬馬馬馬馬馬馬馬馬馬
台台台台台台台台台台台台台台台台台台台台台台台台台台台台台
国国国国国国国国国国国国国国国国国国国国国国国国国国国国国
畿畿畿畿畿畿畿畿畿畿畿畿畿畿畿畿畿畿畿畿畿畿畿畿畿畿畿畿畿
内内内内内内内内内内内内内内内内内内内内内内内内内内内内内
説説説説説説説説説説説説説説説説説説説説説説説説説説説説説
ははははははははははははははははははははははははははははは
破破破破破破破破破破破破破破破破破破破破破破破破破破破破破
綻綻綻綻綻綻綻綻綻綻綻綻綻綻綻綻綻綻綻綻綻綻綻綻綻綻綻綻綻
ししししししししししししししししししししししししししししし
ままままままままままままままままままままままままままままま
ししししししししししししししししししししししししししししし
たたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたた それとも、これか?w
>>1
,、‐'''''''''ヽ、
/:::::;;-‐-、:::ヽ _,,,,,,,_
l::::::l _,,、-‐"iiiiiilllllllllllliiiiiiiー-、__ゞ:::::::::::`ヽ,
ヽ::`/: : : : iiiiiilllll||llllliiiiii: : : : : : ヽイ~`ヽ:::::::i
. /;,..-‐、: : : : : l|l: : : : : : : : : : : : : \ ノ:::::}
/: /: : : : :`.: : : : : : : : :/´ ̄\ : : : : : ヽ:::ノ
. !: : : :iflllli、: : : : : : : : : : : : : : : :ヽ: : : : : :.!
|: : : :llllf l: : : : : : : : : : :.iflllli、: : : : : <iiii|
|: : : :|llll |: : : : : : : : : : .llllf l: : : : : : : : :.|
|: : : :.!lllll!' : : : : : : : : : : |llll |: : : : : : : : :i
/: : : : : ○ : : .!lllll!' : : : : : : : :.i
 ̄|: : :" ,,,,,,,,,,,,,|____ : : : : : : : :.<iii/ ______________
. /!.: |:::::/  ̄''''''''l ヽ: : : : :-─/─ />>1くん!もう二度とくそスレをたてないで!
ヽ ヽ/ ノ : : :ヽ/ < すぐにくびをつってしんでね!
\ \,,_ _,,,/ : /\ \しまじろうとお約束だよ!!!
`''‐、、__  ̄ ̄ __,,,、-‐"  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
. //:::::/ヽ ̄ ̄ ̄ ̄ノ::::/\
. / /:::::/ ` ̄ ̄ ̄/:::::/. \ こんなやつもあったなw
_∧_∧
/ ̄ ( ・∀・)⌒\
__ / _| | |
ヽヽ / / \ | | ,,,,,,,iiiiillllll!!!!!!!lllllliiiii,,,,,,,
\\| |____| .| | .,llll゙゙゙゙゙ ゙゙゙゙゙lllll,
\/ \ | | .|!!!!,,,,,,,, ,,,,,,,,,!!!!|
| ヽ_「\ | |、 | ゙゙゙゙!!!!llllliiiiiiiiiilllll!!!!゙゙゙゙ .|
| \ \――、. | | ヽ .| .゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙ |
| / \ "-、, `| | ヽ | |
_/ / "-, "' (_ ヽ ヽ .| |
/ __ノ "'m__`\ヽ_,,,, ヽ | |
`ー― ̄ ヽ、__`/ー_,,,, ゙゙゙゙!!!!!!!lllllllliii| |
\゙゙゙゙゙゙゙!!!!!lllllllliiiii| |
\ ヽ | |
ヽ \ | |
| \.| |
`ヽ、,,_ノ| |
゙゙!!!,,,,,,,, ,,,,,,,,,!!!゙゙
゙゙゙゙!!!!llllliiiiiiiiiilllll!!!!゙゙゙゙
/.// ・l|∵ ヽ\ ←>>1 これもw
>>1
( ^ω^)
/ \ ( ) 死ねって
__| | | |_ / ヽ
||\  ̄ ̄ ̄ ̄ / .| | |
||\..∧_∧ (⌒\|__./ ./
|||. ( ) ~\_____ノ| ∧_∧.
_/ ヽ は?死ねよ \| ( ´_ゝ`) 頭おかしいのか?
. | ヽ \ / ヽ.
. | |ヽ、二⌒) / .| | |
. .| ヽ \∧_∧ (⌒\|__./ ./
ヽ、___ ( ) … ~\_____ノ| ∧_∧
. _/ ヽ \| (´Д` )きめぇ
. | ヽ \ / ヽ、
. | |ヽ、二⌒) / .| | |
. .| ヽ \\ (⌒\|__./ ./
. ヽ、____ \\ ~\_____ノ|
\..∧_∧ ギャハハ泣かすなよオメーら
. ( ) \ ∧_∧
. _/ ヽ \. ( ´_ゝ`) 何言ってんだコイツ?
. | ヽ \ / ヽ.
. | |ヽ、二⌒) / .| | |
. .| ヽ \∧_∧ (⌒\|__./ ./
ヽ、___ ( ) プッ ~\_____ノ| ∧_∧
. _/ ヽ \| (´Д` )遠くて聞こえねえよ
. | ヽ \ / ヽ、
. | |ヽ、二⌒) / .| | | >>141
>なぜ、実在の奥山氏は、頭が悪いのだろうか、、、、
>ベイジアンの計算でもアホという結果がでている
これもウソ
絶対に証拠を出さないのが連句点の特徴な >>160
このスレで一番のバカはキナイコシだけどな 鉄器が溶けてなくなったことは前スレで否定されてしまったが、次はこの主張でくるぞw
みなさん、よく覚えておきましょうwww
795日本@名無史さん2022/03/16(水) 11:19:43.78>>796
藤原京、平城京、長岡京、平安京の中枢部から武器が出土することはない。 >>183
そうやって証明できないことを言い張るのは自分がバカだって証明 それに対するレスと言い訳がこちら
これからはこの理屈で主張を続けるものと思われますw
796日本@名無史さん2022/03/16(水) 11:21:39.61
>>795
このスレでは3世紀の倭国の話をしている
後の時代の話を持ちだしても無意味
847日本@名無史さん2022/03/16(水) 14:54:14.34
>>796
>このスレでは3世紀の倭国の話をしている
>後の時代の話を持ちだしても無意味
三世紀には都で武器を田畑に捨てると思ってるの? 394 3 名前:日本@名無史さん Mail: 投稿日:2022/03/14(月) 14:21:23.62
>>391
>ろくに鉄の出土しない纏向には卑弥呼はいない
奈良は鉄が錆びやすい土壌と何度言ったら、、、
水路の矢板も鉄で磨いたのだよ
784日本@名無史さん2022/03/16(水) 10:03:06.91>>793
>>773
自分の作った変な法則に酔ってる?
奈良盆地で農業生産は盛んだったし、鉄はどこでも溶けやすい
793日本@名無史さん2022/03/16(水) 11:15:19.50>>797
>>784
>奈良盆地で農業生産は盛んだったし、鉄はどこでも溶けやすい
ご都合主義ここに極まれり、だな
農業生産が盛んだったということは他地域と比較して特に鉄が溶けやすい土壌ではなかったということ
もちろん、鉄はどこでも溶けやすいが他地域ではそれなりの数が残っているにもかかわらzy、近畿は鉄の出土が少ないのもまた事実
海成粘土の土壌では草すらろくに生えてこないわけで、農業生産が盛んになるわけがないから、
海成粘土層であるとの主張がそもそも嘘になる
魏志倭人伝によれば宮室、楼観、城柵を厳かに設け、常に人あり、兵を持し守衛すとあるのだから、
兵がいたのは明らかで、兵がいれば当然武器(まさか石斧ではないだろう。当然鉄器)をもっていたはず
農業生産が盛んに行われる土壌で、かつ鉄器がろくに出てこないと言うことは
ろくに鉄器がなかった→当然兵器もなかった→邪馬台国と纏向は無関係
ということになる >>142
だったらテンプレも匿名でいいんでねーの
馬鹿じゃね おまえら
ヤリスギ
キナイコシが狂っちまった
もう少し 生かしといてくれ
馬鹿を相手に楽しめねーじゃねーか 化学のかの字もわからないような文系連中だけでやっているから
「本当は鉄はたくさんあったけどが、溶けてなくなっただけ」
みたいな屁理屈が出てくるんだろうな
そんな土壌じゃ農業がまともにできないことに気がつかないのかよ
溶けたって話を言い出したのは奥山じゃなくてもっと偉い先生(名前忘れたw)だったと思うけど、文系オタクのただのアホやなw
畿内説ってこんなクズばっかりなんかな >>188
>だったらテンプレも匿名でいいんでねーの
>馬鹿じゃね
あれは奥山の防衛だろ
奥山のふりをしてテンプレ削って論破されたので消しましたと言って
執拗にフライングで偽スレ立てた奴がいるか
ら >>187
農業生産が盛んに行われるということは、土が攪拌されるということ
鉄器が支配層の墓からは出ると言うことは、鉄器が管理されていたということ こいつがアホどもの親玉かw
>歴博の館長もやった佐原真は、「近畿圏では鉄は溶けやすいので、残っていないのだ」とマジで答え、
http://inoues.net/study/uso_rekihaku.html 佐原 真(さはら まこと、1932年5月25日 - 2002年7月10日)は、日本の考古学者。国立歴史民俗博物館名誉教授
大阪外国語大学ドイツ語学科を経て[5]、京都大学大学院文学研究科博士課程修了(考古学専攻)
こりゃ土壌の分析なんか理解できるわけねーなw >>168
>>>?さん
>楼観の件はもうよろしいでしょうか?
質問に答えをもらってませんが
> 905 名前:日本@名無史さん Mail: 投稿日:2022/03/16(水) 16:25:43.04
> to900
> だから
> 「楼観と否定している建物は360度見渡せない(復元図より)」
> って言葉の意味がわからない >>22
なぜFAQ5はだめなのか
解説
単純計算だが、例えば75%の確率の独立な根拠が3つ、すべて一致して同じ結論を指している場合、 結論はベイジアンの計算で確率96.4%の妥当性を得る。
つまり、学問的に7割〜8割信頼性の得られた状況証拠が3つ以上あって相互に因果関係がないと立証できるなら、その結論の信頼性は確率的に言って正しいと断定して構わないレベルに達し得る。
失われた過去の事実を推定する歴史学では「尤もらしさ75%」というようなかっちりした数値が得られるものではない。
しかしながら、多数の独立した根拠を整合性を保って説明できるなら、その結論の蓋然性は蓋然性を超えて、断定に耐えるほどの信頼性を獲得する。
つまり、確認可能な事実に基づく合意的推定「○○であろう」を複数積み重ねて、断定「○○である」が得られる。
この推定の合理性を否定する論証のできない状態を「合理的な疑いを挟めない」状態という。
それが歴史における帰納である。 >>194
はいはいはい、すごですねー
牛馬がいない邪馬台国で、大規模な土壌改良なんかできねーよ >>195
あなた、出所不明情報で誹謗中傷してませんか? >>201
言ってたとしたらアホとしか言いようがないね
別に誹謗中傷でもなんでもないよ。アホだからしょうがない
言ってないならアホじゃないね
歴博の館長もやっておられたお方なら相当な立派な先生なんでしょう FAQ78
日数で表記された距離は「道里」に該当するので、
投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。
VS
FAQ31 投げ馬国比定地
「瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。」
質問
畿内説は邪馬台国は当然機内であるが、
FAQ78(投馬国は女王国より北)と断定しているにもかかわらず
FAQ31では投馬国(瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団・・・)とし
邪馬台国より西に投馬国があることになる
この矛盾を>>1に説明願いたい >>202
>言ってたとしたらアホとしか言いようがないね
アホだって理由は?
何も理由を言わないで誹謗中傷? >>191
いや、これ0点で失格でしょ
>海成粘土の土壌では草すらろくに生えてこないわけで、農業生産が盛んになるわけがないから、
>海成粘土層であるとの主張がそもそも嘘になる
農地が「海成粘土層であるとの主張」とか実在してないから
捏造による反論は一発失格 >>204
>>187に書いてあるようなことも理解できていない人だから
アホはアホだよ。しょうがない >>205
海成粘土層でないなら他の地域のように鉄器はもっと出土するはず >>206
理由がまったく説明できないで、ただ罵るの?
それは単なる中傷だよ >>208
>海成粘土層でないなら他の地域のように鉄器はもっと出土するはず
どうして?
理由は? >>209
いやいや、ちゃんと書いているじゃないw なるほど、このスレに来ている畿内説の連中は佐原真の関係者たちなのか >>211
>いやいや、ちゃんと書いているじゃないw
どこに、なんと? >>213
>>206に書いたよ。日本語読めないの? >>214
説明能力ない筆頭がキウス
なにも説明しない
できない >>215
その何が理由?
言えないの?
どうして理由を言うのがそんなにイヤなの? >>217
いや、書いてあるじゃない
読めばわかるやろwww
これ以上何を求めるの? >>218
どこに、なんと?
どうしてそれほどまでに理由を言うのが嫌なのか理解できない >>219
既に何度も書いていることなので、この件についてはこれ以上コメントしません >>193
イミフ
>奥山のふりをしてテンプレ削って論破されたので消しましたと言って
執拗にフライングで偽スレ立てた奴がいるか
ら
奥山のフリなら、コテを知ってるということ?
コテ知らずに立てたスレならそれはそれでいいんでねーの >>220
>既に何度も書いていることなので、この件についてはこれ以上コメントしません
だから、いつ何と言ったの?
言ったと言うのは本当?
九州説の人は、どうして理由を言うのがそんなにイヤなの? >>223
それ過去の◆UiepmfCeDJqfの投稿 >>1
奥山さん
鉄が溶けやすい土壌で盛り上がってますが、要点は書きではないでしょうか。
それに、答えれば良いとおもいます。
Q
「なぜ、畿内は鉄出土は少ないのか」・・・特に倭人伝記述の「鉄鏃」 988日本@名無史さん2022/03/16(水) 21:45:13.92>>989
このスレの1をやたらと敵視するのは
・キウス
・連句点
・左側スロープ
こいつら全員1の旧トリを偽装したり、発覚後に使ってたりしてるな >>232
他人に聞かれた質問を無視して
FAQに書いてある質問をまたするキウス 1分経つとリセットされて都合の悪い記憶がデリートされるんだろう >>229
そういう主張を鍵割れ鳥使いがしても説得力がまるでないな
独自鳥にしたら? >>197
よろしいですよ、(否定は比定の間違いですゴメン)
また、私は奥山さん指摘通り誤字脱字等多いですのでご勘弁
纏向遺跡の
建物B、C、Dの内 Bが楼観と呼ばれる建物です
Dがいわゆる大型建物で(楼観))はC、Dの手前に立っています
これの復元図が纏向学研究センターのHPで見れます
図(絵)ではB、Cの建物が邪魔をして、楼観と比定している建物Bは360度見渡せない
よろしいでしょうか?
楼観は360度見渡せなくても良いというご意見でしたら
またの投稿をお願いします。
今回は回答しますが「コテを何度かつけて、幾度か投稿後、再度ご質問ください」 >>239
まず、楼観が360度見渡せなければならないという理由を明らかにしてください >>193
>執拗にフライングで偽スレ立てた奴がいるか
別に似非スレでもよろしいかと思います。
投稿する人は自由ですから。投稿する人の判断にまかせればよいだけです。
私も間違って、同類のスレに投稿しましたが、それはそれでよいと思います。
違った意見の投稿もあり勉強しました。
そんなに騒がなくても良いのでは?
騒いでるのは奥山さんでしょ。 言葉をはさみます。
>>210
海成粘土層の吉野ケ里で鉄が出てます。
あなたに必要な回答は
なぜ畿内に鉄の出土が少ないのかの回答では 自分がしたいようにやればいいとの考えであれば
大勢が集まるところでなくひとりでやればいい >>197
コテなしですけど
まあいいです。
私は読解力が無いようですね
もう少しわかりやすく質問していただけませんか
私は奥山さんの言ではアホのようですのでよろしく
あと、弥生期の楼観と言われる遺跡のものも見ておいて下さ。 >>244
>海成粘土層の吉野ケ里で鉄が出てます。
では問題なく農業ができるのですね。
鉄器は土壌と接触していますか? >>243
>別に似非スレでもよろしいかと思います。
別に奥山じゃなくても、他人の名前を騙ったスレは気持ち悪いよ
そこに平気で投稿するのが気持ち悪くないのは、そう言うことを平気で出来る同じタイプの人でしょ >>246
>あと、弥生期の楼観と言われる遺跡のものも見ておいて下さ。
見ても意味がない
日本人がそう呼ぶのと古代中国人がそう呼ぶのと
関係ないだろう キウスは以前に別スレで自演の疑いをかけられた際
「スレを盛り上げるためにやっているので問題ない(大意)」と言い放った
つまり、そういう人物なんだよ >>244
>あなたに必要な回答は
奥山は必要ないのでは?
同じこと何度も聞かれるからFAQがあるんだし >>242
見渡せなく手も良いという理由が先でしょう
もう回答は用意してますので、あなたからどうぞ
その間 過去レス見てみます
コテをつけてくださいと頼んだのに、、、、次回よろしく キウスは、自分は論客だ、
>>1が鋭い指摘をする自分を恐れているに違いない、
という過剰な自意識に支配されているとしか思えない >>248
土中から出たようです。すべてかどうかはわかりませんが。
詳しくは吉野ケ里、鉄などでググってください >>256
論理って分かってます?
「楼観は360度見渡せなければならない」という根拠を示さなければ
「360度見渡せない建物は楼観でなありえない」という主張は成立しません
はい、論破完了 >>225
>キウスも偽スレ立ててたからなぁ
別に立てたことにしても良いですよ。
同類のスレに投稿したのは確かですので。
同類と見なしてよいですよ。
立てる人も、投稿する人も自由ですから。 再掲
>>244
>海成粘土層の吉野ケ里
ソースよろ 成り済まし、騙り・・・何なのか知らないけど、何がしたいんだ?
日本のwメディア、テレビなどの話。 昔々、畿内説スレに意気揚々と乗り込み、自演しまくっていた男がいたそうな
しかし、男の投稿はすぐに特定されて、自演はあっけなくバレてしまったそうな
男には自分の投稿が特定されてしまう理由がわからない
自分の投稿を特定しているのがスレ主だと妄想した男は、
さらに、スレ主には投稿者を判別する権限が与えられているのではないかとの妄想を抱き、
幾度か偽スレ立てに及んだという
>>1に対する妄執もその時からのものということじゃ >>259
やっぱし奥山さんですね
爆笑ですよ
次の展開楽しみにしてたのですが
だか>>239にあえて
>楼観は360度見渡せなくても良いというご意見でしたら
またの投稿をお願いします。
を入れたのですよ
さてどうしますか
「纒向遺跡の楼観は360度見渡せなくても良い」という意見述べますか
これも答えを用意してると言ったでしょ 池沼の頭の中「?????」
家は(近代の・・・不明?)軍人でも、警官でもないんだけど、
調べてみた?『天財若子』(『』・・・)こういう家。 >>266
ハズレ 俺は>>1じゃない
改めて指摘することでもないが、あんたは論理的思考ができないし、その事実を理解できない
ちなみに、楼観には360度見渡せる必要なんてないので、
纒向の場合、建物の立地で楼観説を否定することはできない 笑いものになっているのが自分だと気がつくことのないキウスはある意味最強 『日本昔話 石楠花』
老婆談にると、
こういう話も、家の話だと言っていたしな、
女の親戚、先祖がいて・・・馬に乗っていて〜とか。 確実に・・・w(書き込みをしている)家の話だと言っていた、
『』この家の、ほんとーの家なのかな。 >>268
イミフ
>楼観には360度見渡せる必要
これは私は纏向に限定した話ですよね、
あなたの悪い癖ですよ楼観全体に議論を持っていこうとする手口は
それで纏向王都の楼観は180度ぐらいしか見えないでいいのですか・
その根拠も何も示さないと話のしようがありませんよ。
答えは用意してますよ
他の方と言い争ってるので単発的に数行しか書けないのでしょう。
時間をあけてから投稿してください。 >>275
キウスの言いたいことがさっぱりわからん
これこれはこうである
その理由はあれである
それと比べてこっちはそうである
よってこっちはこれこれである/ないといえる
という風に書けないのかね?
書けないんだろうな〜
破綻してるからw 例『羽衣』
松の木が立てられている・・・謎の画像がでてくるでしょ、
なぜか家の写真と同じような?
ちなみに家は・・・『』こういう家。 しょうがない、バカにヒント出してやるか…
・遺跡の全体像
・近世城郭の櫓の配置
に注目してみよう! >>261
ヨコ
有明の海成粘土層ででてくるよ
有明海から吉野ケ里までの距離
大阪湾から纏向までの距離
これも調べてみるのも面白いよ
また、箱川と大和川も頭に入れるとよいよ
ちなみに調べたけど
海成粘土層は奈良盆地西部までで、纏向は関係ないみたい >>276
イミフ
他人の悪口いってるだじゃんww >>281
おれも注目してる
キナイコシはいかんな お前達(不明)の言っている?
しょーとくたいし(不明)とか、何やら〜とか、いなかった頃の家なんだけど、
なぜだと思う? >>282
>海成粘土層は奈良盆地西部までで、纏向は関係ないみたい
結局、鉄が溶けやすい土壌ってのは嘘か >>282
吉野ヶ里が海成粘土層という根拠は出せないわけね
さすがキウス、すべては思い込みからだな >>282
>海成粘土層は奈良盆地西部までで、纏向は関係ないみたい
山辺に沿って大阪層の路頭があるよ キウスは「九章算術」と「単位は一つ」で連敗してるから逃げ腰だよ 調べたらすぐにバレるようなウソばかり
キウスはビョーキだな 吉野ヶ里は段丘上に立地してるから海岸近くの低地が海成粘土層であろうがなかろうが関係ない
問題なのは遺跡が載っている段丘がどのように形成されものであるか、なんだよなぁ ググったら論文出てくるやん
地図も載っとるし
とりあえず纏向が海成粘土層であることが嘘であるのがバレてよかったね 松の木の〜画像(例えば家の写真とか)があるでしょ、
写っていないんだけど、手前には池(釣りのためではなく、鯉がいた)があった、
家は・・・そう。
なぜか、詳しい?自分で作ったみたいな話もしていた。 >>278
キウスは鋭いと思うが名無しの時のキウスがどんな投稿してるかわからん >>292
>他の地域と大差ないんじゃない
そうだろうね 兄が生まれたとき、
池に落ちると危ないからと・・・潰した、埋めた?
みたいな話もしていた。 >>294
>とりあえず纏向が海成粘土層であることが嘘であるのがバレてよかったね
纏向が海成粘土層という話は連句点の捏造 >>287
(財)土木建築技術協会 平成20年度第2回技術研修会 >>305
畿内説の者は地下の深いとこが海成粘土層だと言ってるのに
連句点が捏造して、いかにも纏向が海成粘土層の土地だと言ってるように歪曲して
それじゃ農業できない都じゃありえないと連呼している >>306
連句点の捏造だという証拠は?
その後の連呼が連句点だという証拠は? まあいいわ
いずれにせよ、地下の深いところが海成粘土層なら、
弥生時代の遺跡から出土する鉄の溶けやすさには関係ないね >>307
上の>>187が記録したやりとりは連句点のナリスマシから始まって
畿内説側が行ってもいない纏向=海成粘土層説を、さも言っているようにでっち上げて畿内説を攻撃する連呼になっている
思考が同じ人間の発言だ そもそも、日本列島なんてはるか昔は海の底だから、深いところは海成粘土層の場所が多いわけで >>308
ところが関係ある
奈良盆地のほとんどは沖積平野だから周囲の山に露頭のある海成粘土層からも土砂が流れてくる
田んぼに硫安を撒いたように硫化物が拡散している可能性が否定できない >>311
なるほど
では、纏向周辺の土壌のデータはどうなっていますか? ほんとーにw
悪く言うと・・・成り済まし、騙り?がいるんだけど、何なんだろう。
すとーかー?どこかの、何かの工作員? 駆け落ち?してきた、
以前、住んでいたところも、ほんとーの家?ではないみたいな話もしていたり。 >>312
そんな調査はない
鉄も人骨もよほど運が良くないと残ってないという結果だけがある >>311
そもそも日本の平野は沖積平野がほとんどでは? >>316
ただ、奈良盆地の場合は沖積平野の中に縄文海進に伴う海成粘土層Ma13が挟まってるという問題は残る というか、日本に沖積平野以外の平野ってあったかな? どのスレッドだったかな、
「wwwwwwww」(大爆笑という意味)と何かに気づいている人もいたような。
離れがあったり、〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜という家に住んでいる。
老婆と結婚するよりも・・・前の世代の話。 だから、ほんとーの話なんだと(言っていた)言っているだろう。
山の上のほう・・・、凄い土地を持っていたり〜、〜、〜。 邪馬台国の時代の鉄器は鋳型に流し込んだ鋳鉄か金槌で叩いた鍛鉄のどちらかだった。
焼き入れの技術は諸葛亮孔明の時代に成都郊外の工房で始まったから日本には伝わっていない。
悪金と言われている脆い鋳鉄だと錆びて
成分破壊が進んで残らなかった。
遺跡発掘の従事者なら茶色の色が付着した土だけで鉄器が見当たらなかった経験があるでしょう。 >>323
>悪金と言われている脆い鋳鉄だと錆びて
>成分破壊が進んで残らなかった。
それはそうだけど、なぜ奈良盆地では他地域より鉄が残りにくいのか、というのが今の論点では? 結局、二つに一つで
(1)もともと少なかった
(2)溶けて消えた
のどちらかしかあり得ない
(2)を主張したがる人が多いんだろうが、これを言うためには土壌分析をして他地域と比較しないと確認できない
それほど手間のかかる調査とは思えませんので、ぜひ奥山先生に取り組んでいただきたいものです 相変わらずしつこく九州説論者が書き込んでいるようだが、最低議論に加わるには卑弥呼の墓の比定地、卑弥呼とみられている女性、卑弥呼の後の男王は誰かぐらいは書き込んでもらわないと 奈良盆地どころか京都盆地も鉄器が残らないね。あれだけたくさんの合戦があったのに刀も槍も。
やはり湿気が多い場所は鉄器がダメになる。 >>325
>奈良盆地では他地域より鉄が残りにくい
畿内説は「奈良盆地は鉄が残りにくい」とは言ってるけど
「奈良盆地では他地域より鉄が残りにくい」とは言ってないぞ
言ってるのは誰だ? >>329
データは比較検討しないと意味がないものでは? 奈良の墓には普通に鉄があるけどね
鉄工房自体は莫大な木材を消費するから辺鄙なとこに多いな
墓じゃなく集落遺跡から鉄がみつかるとこは貴重な鉄と共に放棄された集落跡やろね >>331
>奈良の墓には普通に鉄があるけどね
有力者の墓ならそらそうやろ
特段すごい話ではない 碌な鍛冶炉遺構も無い畿内や九州が、鉄器の有無・多寡を言っても詮無い事。 わははははは @阿波 畿内説だとすると
神武東遷あるいは神武東征で邪馬台国から畿内へ遷都した問う言う話はどう解釈する? 450年後に渡来人が何を参考に列島の歴史を編纂したのかわからんような物の神武なる者がどっか行ったなんて信憑性に欠けるような話は参考にしない、何故、神武という人物を引っ張り出す必要性があったのか?と言う風に解釈している、記紀編纂の目的の1つは卑弥呼と五王の存在を消し古来からの独立、であったと考えている。絶対的事実は卑弥呼と五王は存在したということであり、巨大墓もまたしかり。 >>335
関係ないから、何も考えてないってことでしょ
試行錯誤して、考えて客観的に否定するならまだしも
考えてないなら、それはあたのの主観であり、あなたの畿内説は個人の妄想ということです まあ大和朝廷の祖先が日向出身って程度の話じゃね?
もともと日本列島は海の近くに人が住み着いていたわけで、
山奥の盆地に昔から人がいたわけないからな
九州での勢力争いに敗れて奈良まで逃げてきたんやろ 旧唐書の劉`は晋書に対しデマやくだらないゴシップ本を書く程度の低い連中で真実を追及していないと批判している、その劉`が日本国に対して倭の別種、中華では疑っている、としているほうを信用している。その個人的僕が疑っている記紀でさえ、天皇墓と出来なかった箸墓を唯一載せずにおられず、百襲姫とし道教に批判的立場の三船らが道徳経を使い死なせているので、箸墓が卑弥呼の墓以外にないんですよ。 九州へ来て南下するんだから、90°東方行きは絶対ありえない畿内強引誘導
のイカ様論。となれば箸墓は卑弥呼の墓に非ず。 畿内説も疑問だったんですよ、陳寿ほどの者が何故南なのか?解決したんです。廣志で日本海ルートと瀬戸内ルートで混迷したんですね、魏志までは個人的編纂ですからね。 お笑い、神武東征。
神武天皇陵は明治時代にコンクリートで築造された。
神武東征の兵站基地などどこにもない。
古墳時代の皇后に九州出身者は1人もいない。
古代日本で日本民族大移動などと言う珍事はなかった。 ◎弥生時代の大規模水田跡・住居跡
福岡県・平塚川添遺跡…竪穴式住居跡約300軒、掘立柱建物跡約100軒
福岡県・東比恵三丁目遺跡…水田157
鳥取県・妻木晩田遺跡…竪穴住居跡約420棟以上、掘立柱建物跡約500棟以上
鳥取県・目久美遺跡…水田48枚
岡山県・小中遺跡…竪穴住居180
岡山県・百間川遺跡…約4万u
奈良県・唐古鍵遺跡…竪穴住居址100基以上
奈良県・中西遺跡…水田跡約2万u(2000枚)
静岡県・坊ヶ跡遺跡と中平遺跡…竪穴住居跡280軒越え
静岡県・登呂遺跡…水田跡約7万u
青森県・風張(1)遺跡…竪穴住居12
青森県・垂柳遺跡…水田跡13万平方メートル(656枚) >343の続き
北九州・山陰と比べて
山陽・畿内・東海・東北は水田規模の割りに集落規模が小さい
おそらく北九州・山陰勢は海上交易で富を得ていたから
集落の規模が水田規模以上に大きくなれたのだろう
瀬戸内沿岸で同様のことが起きてないのは
やはり弥生時代は瀬戸内交易が未発達だったのだろうな >>334
九州遠賀川流域の地名と大和の地名に共通するものがあるので九州物部氏の大和への移住、神武東征などはない >>342
コンクリートで壊れねえならやって当然だな。遺跡は風化する絶滅危惧種。
エジプトの遺跡もそうだろう。民族小移動くらいだな。 テンプレが主張するような
「瀬戸内貿易が発達してる証拠が吉備系土器の分布」だけではな
貿易が発達していたら壱岐・山陰のように
農業生産以上の人口が養えている証拠が必要だが
瀬戸内にそんな証拠は今の所ない 大足姫と竹内宿禰が熊襲を倒し畿内の忍熊皇子を倒す話が東征の元ネタなんじゃないの
オオタラシヒコが拠点にした豊前など九州東岸の勢力を味方にしたんじゃないかな
日向の牛諸井の娘髪長姫、共の鹿子
竹内宿禰の子と名前を交換、ミミヅクのエピソード
投馬国のミミ、ミミナリの子孫が関係してたりして >>342
>古代日本で日本民族大移動などと言う珍事はなかった。
その通り!
神武東征は、大河「四国三郎吉野川」流域での戦闘。 @阿波 阿波は大ケツのビリ前の二等地の二名島で歴史の傍系の場所。 わはははははははは @太国 >>352
県内の最大級の集落・水田が書かれてるので
集落の間近には同程度以下の水田しかないし
水田の間近には同程度以下の集落しかない >>343
中西遺跡で確認された水田遺構は4万3千u(2019年時点) >>353
福岡市博多区の東比恵三丁目遺跡の上層水田枚数と
朝倉市の平塚川添遺跡の300年間の住居遺構数から
海上交易で富を得ていたから集落の規模が水田規模以上に大きくなれたと考えることはできない 碌な鍛冶炉遺構が無い畿内や九州が、鉄器の有無・多寡を言っても詮無い事。
碌な鍛冶炉遺構が無い畿内や九州が、水田遺構の有無・多寡を言っても詮無い事。 わははははは @阿波 20年前くらいの昔の畿内説論者の方が面白かったな
琵琶湖の那国とか国を大きく見せるため大阪湾で使節を足止めとか色々聞けた 神武の后はヒメタタラだからふいごか、畿内にあったとみて自然だな。
ただ神武の時代は卑弥呼よりもっとフルい。 >>354
43000m2=4.3ヘクタールは近くの秋津遺跡と合わせた数字だぞ
https://mainichi.jp/articles/20191121/ddm/012/040/041000c
中西遺跡と北側にある秋津遺跡では2009年度以降の調査で水田跡が見つかっており、今回の分と合わせると弥生時代前期の水田跡の面積は計4・3ヘクタールに達した。 >>355
300年とは古墳時代を含んでない?
古墳時代まで続いた遺跡だろうと住居数は弥生時代限定だぞ
住居がいつ建て替えられたのかは、はっきりしないので
ざっくりせざるを得ない 卑弥呼の五尺刀といわれる東大寺山古墳出土の中平銘鉄刀の長さは110センチ。
もしこの刀が五尺刀なら一尺は22センチということになる。
もう一つ、糸島市の上町向原遺跡から出土した約120cmの太刀が卑弥呼の五尺刀ではないかという説もある。
ならば一尺は24センチということになる。
この刀は東大寺山古墳出土の中平銘鉄刀とは違い、銘も入っていないのだから卑弥呼の時代かどうかなどわからない。
ただし人間が振り回すほどほどの大きさの刀ががおおよそ5尺ということになろうし、
ならば一歩は右足左足を出した長さで6尺、1m30〜1m40ということになる。
卑弥呼の墓は径百余歩であるから九州にはその大きさの円墳、楕円墳はない。
前方後円墳の円墳部分だけ見てもその大きさの古墳はない。
だから九州説はもはや説にさえならない。
問題は卑弥呼の墓は箸墓古墳かどうか、その一点になる。
私は卑弥呼の墓は箸墓ではないと思う。
ならばどこなのか。
もう一度、原点に帰って、記紀に卑弥呼は登場するのかしないのか、
じっくり考察すればおのずと答えが出てくる。
記紀に卑弥呼は登場する。 >>361
>もう一度、原点に帰って、記紀に卑弥呼は登場するのかしないのか、
>じっくり考察すればおのずと答えが出てくる
>記紀に卑弥呼は登場する。
で、あなたの考察では卑弥呼は誰なん?
もったいぶらずに書けばいいのに >>360
竪穴住居数は古墳時代を含んでるだろ
だいたい竪穴住居が多く検出されている遺跡はその後もずっと田舎だった場所の遺跡 >>364
そうだとしても>354の主張する
「中西遺跡のみで水田遺構は4万3千u」は間違いやろ >>368
奥山さん、姑息なことはしないでください。
私を投稿停止にしての流布ですね。
二回線ありますので、別ので投稿してます。
だからあなたはダメなのです。
真っ当に生きようと思いませんか。 畿内に大規模な集落がない…というだけではなく
瀬戸内一体に大規模な集落がないらしい
やはり瀬戸内交易がまだ発達してないんだろうな
弥生時代だろうと海上交易が盛んなら
対馬や壱岐のようにそれで生活できたことは
魏志倭人伝の記述からも明らかだ
瀬戸内交易が未発達なのに
どうして畿内が瀬戸内一帯を支配できるのか?
朝鮮半島南岸まで支配できるのか? 369はキウスです。
再度
奥山さん、姑息なことはしないでください。
私を投稿停止にしての流布ですね。
二回線ありますので、別ので投稿してます。
だからあなたはダメなのです。
真っ当に生きようと思いませんか >>368
だから、あなたの手口は何度も経験してますのでわかりますが、今回は鬼畜にも劣るやり方です。
人間やめませんか! >>368
奥山さん、この回線も投稿停止にするでしょうね。
もし、停止になったら次回から
匿名で投稿します。
混乱を招くと思い名前をつけてましたが。
この回線が切れるまではキウス投稿します。
人間やめませんかは、言い過ぎました。ゴメンなさい。 >>370
邪馬台国は陸行一月の王都なので
漁師のおやっさん達の王都ではない >>373
キウスって頭悪いなあとは思ってたけど
マジで頭が変だったのか
アク禁はAA荒らしのやり過ぎだよ
運営からバンされてるだけで1は関係ないぞ
スレ立ててるだけの奴にそんな権限あるわけないだろう >>374
でも瀬戸内交易が未発達で北九州と畿内の交流が不活発なら
到底、畿内は西日本を支配する邪馬台国になりえないでしょ?
少々の土器のやりとりがある程度で、深い関係があるとする
テンプレの主張は間違っている >>362
>で、あなたの考察では卑弥呼は誰なん?
>もったいぶらずに書けばいいのに
I崇神(310年頃 318年没)
H開化
G孝元
F孝霊
トヨ津媛 E孝安 D孝昭
トヨ津媛 (250年頃) C懿徳
ヒメ(踏鞴五十鈴)后 B安寧
ヒメ(踏鞴 五十鈴)后 A綏靖
ヒメ(踏鞴五十鈴)后 (200年頃) @神武 >>376
まあ勝手に「未発達」で「不活発」で「少々」にしちゃえば
「深い関係」で無くなって
現実と違う結論が出るわけよね >>375
アク禁したのお前だな
なにを言うやらキナイコシ 通報したんじゃねー
今 結構簡単に投稿できないようにしちゃうからね >>380
悪いことしてない人を通報したって意味ない
連句点の膨大なAA荒らし運営が見たらアク禁にするでしょ >>381
今簡単にできるよ
適当に理由付けさえすればOK >>383は、そんなこと
やったことあるのか
それは悪質だな >>387
言ってることが矛盾してる
頭が悪い奴だな >>358太国 ◆ZgyHKik.H2
神話の話は飽きた
お前いろんなスレに書き込んでるな。嫌われてるよヨソでやれと言われ続けここへ来たか 他人には見え見えなのに、自分の頭の悪さを自覚できない症状はキウスとそっくりだな キウスが名無しで悪いことをやって頻繁にアクセス禁止をくらってる人で
1に通報されたと思って逆恨みしてるとかそういう関係みたいだね >>376
博多湾沿岸は瀬戸内、畿内との交流はあるが
九州内との交流はほぼない >>395
釣れた釣れたキナイコシ釣れた
バーーーーーーカ >>368
がキナイコシと分かっただけでも収穫だなww
連句点、キウス連呼はキナイコシ >>400
瀬戸内系、近畿系、東海系、山陰系、讃岐系の搬入はあるが
九州内からの搬入はほとんどない
博多で大和型庄内甕を母体として筑前型庄内甕が成立する(TB期)
TB期新相に大和と同じ前方後円墳が築造される >>402
サンキュウ
これどう思う?
吉備と畿内の関係だけど
邪馬台国吉備説より
土器: 豊富 渡来土器、九州土器、高志土器を含め、大量の土器が出土。
青銅器: 豊富 九州・近畿の青銅器が出土。主に装飾用。
鉄器: 豊富 朝鮮半島で製作された鉄剣、鉄器具など出土。
装飾品: 豊富 緑色凝灰岩や瑪瑙(メノウ)等を素材とした勾玉類が多数出土。
これだが、畿内と吉備が交流あれば畿内にも上記の出土が多数あっても良いが
一般人の日用品の土器の交流はわかるけど、政治的な交流がなかったのでは? 畿内説
土器: 豊富 東海地方の土器が多いが、全国各地からの多くの土器が出土。
青銅器: 豊富 近畿独自に製作された青銅器が多いが、主に装飾用。
鉄器: 微量 九州、出雲、高志と比べると、ほとんど出土されていない。
装飾品: 豊富 緑色凝灰岩や瑪瑙(メノウ)等を素材とした勾玉類が多数出土。
九州説
土器: 豊富 渡来の土器を含め、大量の土器が出土。
青銅器: 豊富 九州独自や渡来物など多くの青銅器が出土。主に装飾用。
鉄器: 豊富 朝鮮半島で製作された鉄剣、鉄器具など多数出土。
装飾品: 豊富 緑色凝灰岩や瑪瑙(メノウ)等を素材とした勾玉類が多数出土。 2018年
「邪馬台国論争新たな段階、纏向遺跡で発見続々」と題したネットニュースが配信されました。(読売新聞 2018/6/20)
しかし、すぐに削除されました。新聞記者自身が、愚かさに気がついたのでしょう。 2800個の桃の種の出土です。学者によっては、邪馬台国時代の占いに使われた決定的証拠と位置づけています。
果たしてそうでしょうか?
魏志倭人伝には、そのような記述はありません。
『有薑・橘・椒・荷、桃支』などの木がある、とは記されています。ここでいう『桃支』は竹の一種です。また、占いについては、『其俗擧事行來、有所云爲、輒灼骨而卜、以占吉凶、先告所卜、其辭如令龜法、視火占兆。』、骨や亀の甲羅を使っていたと記されています。桃で占ったなど、どこにも書いてありません。 纏向遺跡からは、大量の土器と青銅器が発掘されています。これだけでは邪馬台国と断言できないので、桃の種2800個出土を曲解し、無知な新聞記者に記事を書かせているに過ぎません。
要は、本当に邪馬台国であろうがなかろうがどうでもよく、センセーショナルな記事が欲しいだけなのです。 纏向遺跡は、王都ではありません。
最大の理由は、鉄の出土が皆無だからです。魏志倭人伝に『竹箭或鐵鏃』(矢じりに鉄を使う)とあるのにも関わらず鉄の欠片すら出土していません。
奈良県全域でも、邪馬台国時代の鉄は十数点しか出土していません。
また、農耕具が殆ど出土せず、土木工事用の工具が圧倒的に多い事から、古代奈良湖の開拓窓口や古墳造営としての役割があったようです。そのため、都市や都宮と言うよりも、全国から集まってきた人々を管理する為の事務所あるいは、工事現場拠点だったと見られてもおかしくありません。。 >>401
またキウスが根拠のない中傷をしているな 前述のとおり、倭人伝でいう占いには使われていません。使われていたとすれば桃で占う異文化の地でしょう。
桃は食用かお供えとして使用された可能性が多分にあります。桃の出土場所は2か所でありそれも炭素年代でズレも無く一時に集中しています。これは単発的に祭祀が行われたか
一つの工事中の食用と考えられます。 >>407
空想でそういう連投をしちゃうのが九州説のデマ体質
そもそもモモで占ったとか、誰か言ってる?
「無知な新聞記者」とか中傷しちゃって
九州説信者って手が付けられないね 2018年
「邪馬台国論争新たな段階、纏向遺跡で発見続々」と題したネットニュースが配信されました。(読売新聞 2018/6/20)
しかし、すぐに削除されました。新聞記者自身が、愚かさに気がついたのでしょう。 >>412
どうしてそういうガセネタ流しちゃうのかなあ
調べられたらすぐバレるのに 出土した土器の内、85%は地元・奈良の土器です。残り15%の内訳は、東海系7%、出雲・北陸系3%などです。
ところが、九州系は全体の0.1%未満なのです。数千点の土器の内、九州系土器は、ほぼゼロという事です。
つまり、九州から人が来た形跡が無いのです。これほど九州と繋がりの無かった纏向遺跡が、邪馬台国と言えるのでしょうか?
纏向遺跡には、鉄器の出土がありません。九州との交流がありません。
断言します。纏向遺跡は、邪馬台国とは全く関係ありません。
纏向遺跡に搬入された外来系土器については、正確さに欠ける情報が意図的に流されたり、変更されたりしていることが多いのが実態です。これは、何らかの圧力が纏向遺跡を意図的に邪馬台国にしようとしているとしか思えません。
胡散臭い遺跡ですよね。 >>415
ガセと思うなら反論すれば良し
反論なくしてガセと呼ぶのですか 古墳造営基地との見解もありますが、、、
近畿地方の平野部は、巨大な淡水湖や扇状地が多く、決して稲作農業に適した土地ではありませんでした。その当時の人口も、農業生産高から推測すると、周辺の東海地方や瀬戸内地方よりも多かったとは言えません。
では、なぜ古墳時代と呼ばれる近畿地方の黄金期を迎える事が出来たのでしょうか?
実は、これは極めて単純な事です。奈良湖や河内湖の水を抜き、広大な水田地帯を作る為の拠点だったのです。
水田稲作に適した土地は、水はけが悪く、泥質の土です。そして、平坦であればあるほど畔を作る手間が省けるので、大規模な水田地帯となります。このような土地は、淡水湖が干上がった後に出来上がります。
先ほど述べたように、纏向は古代奈良湖の開拓窓口や古墳造営としての役割を持った遺跡です。 >>418
>ガセと思うなら反論すれば良し
いや、誰が見てもガセとわかるから
桃の出土が二ヶ所きりなわけないでしょ
みんな知ってることだから、ガセとわかっちゃう 出土品は、翡翠、土器、銅鐸など多彩です。数量的に纏向遺跡を上回っています。また、農耕用の鋤や鍬の持ち手の木製工具、石包丁なども出土しています。生活感の無い纏向遺跡ではこういう出土品はありません。この遺跡は、弥生時代を通して何度も水没し、その度に何度も復興してきました。しかし、丁度、邪馬台国の時代に、完全にその姿を消しました。水没した邪馬台国、というロマンを感じさせる遺跡です。
また、奈良県には弥生時代の鉄器の出土はありません。この遺跡のように水没したなら、「鉄器は錆びて出土しない」という理屈も多少は通用します。
限りなく多少です。
残念ながら、纏向遺跡には、鉄器の出土が無い、九州の土器が無い、という事実があります。出土品からだけでは、どちらの遺跡も邪馬台国と比定するのは、難しいでしょう。
しかし畿内説の主軸としての唐子鍵遺跡は再考すべきでしょう。 >>413
占いに使われたです。桃で占ったとは記述していません。
勝手に変な方向に持っていかないでください。 >>408が
>桃で占ったなど、どこにも書いてありません。
と書いている >>421
二か所は炭素年代を測った個所。失礼しました
二か所が間違いとしても数か所
なぜこの箇所だけかは不明(作為的????
いずれにせよ、炭素年代が一時に集中してることを言いたかったのです。 >>422
鉄器の出土が多いとか九州の土器はあれば
邪馬台国の定義になるのか?
さっぱりわからん。 >>425
>>400の北部九州編年TB期というのは3世紀前半
卑弥呼が共立された後の時期のネットワークのことを書いている つまり、邪馬台国畿内説は、完全に破綻してしまったのだね。 >>361
こんな長ったらしいもったいぶった書き方しておいて、考察の結果が>>363なんかよ
そんなどこでも聞くような話なら>>361に書いておけよ
で、墓はどこだと思っているの? >>435
20世紀の初めの頃、ウクライナ国の飛び地が、出現する可能性もあったな。 旅順要塞の大将軍が、ウクライナ人だった可能性もあるよ。 あの昭和に出現したウクライナ人は、どのようにして、相撲を覚え、横綱という肩書を得たのだろうか。 >>432
貴方は、邪馬台国畿内説が完全に破綻してしまったので、このスレッドを、「緑ウクライナ」という物事の研究のために、使用し始めましたね。 魏志倭人伝時代には、アムール川の流域には、ウクライナ人はいなかった可能性が、高いな。 モンゴル帝国は樺太に侵攻して勢力圏にしていた。
樺太から北海道と東北地方に侵攻されていたら鎌倉幕府は滅亡していた。
当時の中国にまともな地図がなかって良かった。日本は生き残った。 昭和の時代の横綱の父親は、ハリコフというロシア国の軍勢からの卑劣な攻撃を受けている街で、誕生した可能性があるな。 スラブ民族の住所を侵略したモンゴル帝国の軍勢は、中国人や朝鮮人の軍団を指揮して、対馬で卑劣な殺人を実行したが、九州の軍勢には、完全に敗北したのだったな。 >>428
誰もそんな事言ってねーべ
キナイコシと同類かよ
魏志倭人伝からの考察だろ、
それ以前に南→東の方がよっぽど解かなければならない課題だ >>444
スラブ民族の住所を侵略したモンゴル帝国の軍勢は、邪馬台国畿内説に騙され、方角を間違えた可能性もあるよ。 >>427
それもデマ
測定はいくつもあるから結論が全部変わる
その中の2例の年代が一致しているのだけ本当 >>446
南を東だと誤認し、道に迷った可能性が、あるな。 >>440
魏志倭人伝時代には、アムール川の流域には、ウクライナ人はいなかった可能性が、高いのだが、
魏志倭人伝の作者は、他の文章で、アムール川の流域をどのような民族が住所にしていたのかを、書いたのだろうか。 呉の孫権は日本侵略を企て遠征部隊を派遣したが東を南と間違えて失敗した。 >>428
九州の丹が無い問題が片付いたから、
九州説が鉄などに振ってるだけ
だよ。
丹は其山丹有の其が倭地を指すことで方付いたみたい。丹が何かの議論は残ってるけど 本当に、ハバロフスクという謎の街の郊外に、日本国を攻撃するための核弾頭を搭載したロケットミサイルが、あるのだろうか。 核弾頭が破裂すれば、周辺の炭素14が崩壊し、未来の考古学者が、考古発見物体の年代を誤認する可能性が、あるな。 >>455
日常的な宇宙線の飛来でも、地表付近の炭素14が崩壊し、考古学者が、考古発見物体の年代を誤認した可能性が、あるよ。 >>447
何とぼけてんの?
知らないのデータ出てくるから調べらよ 方角間違い自体は魏志韓伝においても済州島方角間違い例がある事で既に問題無し。
三世紀時点で丹と言えば、水銀朱、辰砂を指す説なんて既に議論の余地すらない話。
邪馬台国位置論なんて話は既に畿内説で確定ですよ。 また魏志倭人伝の風俗記述にある、海人で冬も暖かい、朱丹を体に塗ったりする習慣というのも該当出来るのは一部の地方だけ。
これは四国東南部と紀伊半島沿岸部でしかない。
弥生時代後期に水銀朱を精製した痕跡のある海人の集落といえばこの地方だけだからな。
まあ出土品、遺跡だけでみて九州の話ではない。 孝霊厨という謎の人物が出現し、頓珍漢な意見を発表してしまったな。
458孝霊厨2022/03/18(金) 12:41:29.88
方角間違い自体は魏志韓伝においても済州島方角間違い例がある事で既に問題無し。
三世紀時点で丹と言えば、水銀朱、辰砂を指す説なんて既に議論の余地すらない話。
邪馬台国位置論なんて話は既に畿内説で確定ですよ。 >>452
>九州の丹が無い問題が片付いたから、
願望藁
九州説の致命的な欠陥だよ >>460
そうだね。
そもそも「魏志韓伝においての済州島方角間違い例」という謎の物事を、この謎の人物は、説明できるのだろうか。 畿内ありゃあ記紀に女王と天皇の二つの国が畿内にあったんだから、記紀に
その交流、葛藤、朝貢、婚姻、戦争などの記事が似るはずだよ。
それがねえんだから、卑弥呼が畿内にいないからそういう記録が載って
ないわけさ。隠匿は伝の借り物の神功39年には卑弥呼があるんだから、
隠蔽ではない。
最もまずいのは南下するのに90°も東に行くという畿内強行誘導操作
のイカサマさ。ww これで絶対畿内説が成立しないのさ。
卑弥呼は九州で決まり。 つまり、邪馬台国畿内説は、完全に破綻してしまったのだね。 >>459 孝霊厨
>これは四国東南部と紀伊半島沿岸部でしかない。
よって、奈良湿地は論外だな。 わははははは @阿波 当たり前だがベンガラなんて何処にでもあるからな、辰砂は希少だからわざわざ丹山有と書く。青玉と対に並べるのは辰砂だよ。
丹生神社が集中する場所は紀伊半島の吉野、高野山辺りなのは一目瞭然だ。 完全に破綻した邪馬台国畿内説を宣伝することで、5ちゃんねるを活発化しようとしているプロ固定が、悪口を言い放ってきたな。
463日本@名無史さん2022/03/18(金) 12:51:36.47
>>460
おい馬鹿、呟くなよ 四国太平洋側は狗奴国側だから邪馬台国ではないからな。
ヤマイチ国とは生駒東側エリア、山城、山背が該当する。
巻向は傍国である巳百支国。 孝霊厨という謎の人物が、繰り返し、頓珍漢な意見を発表してしまったな。
467孝霊厨2022/03/18(金) 12:55:17.57
当たり前だがベンガラなんて何処にでもあるからな、辰砂は希少だからわざわざ丹山有と書く。青玉と対に並べるのは辰砂だよ。
丹生神社が集中する場所は紀伊半島の吉野、高野山辺りなのは一目瞭然だ。 >>447
13個の桃の種の11個は較正暦年代はほとほとんど一致だ。
嘘つくな。
炭素年代そのものを、否定するなら許す 「辰砂は希少だからわざわざ丹山有と書く」という論理は、完全に破綻している可能性が高いな。 魏志倭人伝にある卑弥呼とは百襲媛のことを指す。日女命、神大市姫の名前は最上級の祭祀女王にしか付けられない。
記紀が隠したかったのはこの事だね。 >>468
嘘つきキナイコシの馬鹿の悪行良く知ってそうだな 卑弥呼は女王に即位してるから、女王に即位してない百襲媛ではない。
畿内で女王は推古から。ハイ、インチキ説撲滅。 >>475
「辰砂は希少だからわざわざ丹山有と書く」という意見は、
「辰砂は希少だ。」という物事を、全く因果関係の無い「わざわざ丹山有と書く。」という物事の理由にしてしまうという、あまり頭の出来栄えが良くない者の考え付きそうな意見ではないのかな。 デマデマとデマを流す畿内説のバカに弔辞を捧げる時がきたようだ >>479
魏志倭人伝には、希少ではない物事の紹介が、多いね。 奧山氏は、デマを信じてしまって、新型コロナウイルスに対するワクチンを、接種していない可能性が、あるな。 日本を核攻撃するためのロシア国のロケットミサイルは、固定式なのだろうか。
それとも、潜水艦やトレーラーや列車で、移動できるのだろうか。 >>461
お前本当に知能指数低いな
其山丹有の「其」は
何を指すか答えてみろよ
東大卒の頭で答えろ 安倍晋三氏は、結果的に、ロシア国の卑劣な侵略行為を、完全に後押ししてしまった可能性が、高いのではないのかな。 邪馬台国畿内説が、完全に破綻したので、奥山氏は、狂った可能性が高いな。 >>447
キナイコシ
やっちまったな
毎度毎度 狂人ぶり発揮ご苦労 >>473
>13個の桃の種の11個は較正暦年代はほとほとんど一致だ。
>嘘つくな。
>炭素年代そのものを、否定するなら許す
また凄く頭の悪い奴が出たな
その13個の出土地点を言ってみろ
言えないだろう
だからお前は白痴同然なんだよ またしても、卑弥呼とは全く無関係の桃の種についての討論会が、始まったのだろうか。 >>458
>方角間違い自体は魏志韓伝においても済州島方角間違い例がある事で既に問題無し
お前アホか 一事が万事ってか
確率論知らねーーの
ばーーーーーーーーーか >>488
悪口しか言えない九州説は永遠に敗北者です >>491
このスレッドのシリーズでは、何年も前から、桃の種だけではなく、卑弥呼とは全く無関係のカエルの骨や、他の生ごみについての討論会が、出現したよ。 >>495
カエルの骨は、溶けなかったのだったね。 >>490
反論になってねーよ
出土点なんて調査報告書に載ってるから
簡単な質問すんな
なんなら調査報告書をコピペしようか >>458
>三世紀時点で丹と言えば、水銀朱、辰砂を指す説なんて既に議論の余地すらない話。
はいはい水銀朱でもいいよ
其山丹有の其は倭地を指すからね
別に九州に水銀朱の山がなくてもいいよね >>495
土壇場の上には、魏志倭人伝時代とは、何百年も離れた建造物や用水が、掘立柱の建物と完全に平行に、隣接していたのだったね。 >>458
単純に写し間違いかもしれんけどな。普通は東西南北は間違えんよ
伊都国は邪馬台国の北にある
邪馬台国の南に狗奴国がある
東の方に海を渡ると倭人がいる
という記述がある以上、畿内はあり得ない
阿波のほうがまだマシ >>492
誤記が生じる確率論でいえば、韓半島より更に遠方かつ海を渡る日本列島の方がずっと高くなりますよ。
お節介かもしれないが、汚い言葉の書き込みはあまり頭が良いとは思われません。
止めた方がいいぞ。 >>467
>丹生神社が集中する場所は紀伊半島の吉野、高野山辺りなのは一目瞭然だ。
何が言いたいの 丹神社が吉野、高野山あたりにあってよかったね
倭地だからいいんでねーの >>470
そう思うなら あんたの勝手だから別にいいんでねーの >>476
ああ そうなの
君がそう思うんだったら 信じてりゃいいんでねーの
君の自由だからね >>501
>止めた方がいいぞ
これさ 汚い言葉じゃねーの
それより人格無視した命令口調かな それと、こういうコトバとか、あるみたいだしな。
例『軒を貸して母屋を取られる』
老婆談、なぜ詳しいんだろう、ほとんど合致? 泥棒のようなモノに入られた(不明?)、駆け落ちした、してきた。
『』・・・こういう家の話。
老婆談。 奧山氏が、呟き始めたな。
506 名前:日本@名無史さん 2022/03/18(金) 13:58:30.11
それと、こういうコトバとか、あるみたいだしな。
例『軒を貸して母屋を取られる』
老婆談、なぜ詳しいんだろう、ほとんど合致? >>494
悪口しか言えない畿内説は永遠に敗北者です >>500
>という記述がある以上、畿内はあり得ない
>阿波のほうがまだマシ
九州も有り得ない。
「阿波」以外になし! @阿波 >>496
>カエルの骨は、溶けなかったのだったね。
気づかなかった。だよな鉄が溶けやすならカエルの骨なんて出てこないよな >>511
確かに。人骨がよほど運が良くないと残らないような場所なのに、カエルの骨が残るなんて変な話やね
308 1 名前:日本@名無史さん Mail: 投稿日:2022/03/17(木) 16:56:13.74
まあいいわ
いずれにせよ、地下の深いところが海成粘土層なら、
弥生時代の遺跡から出土する鉄の溶けやすさには関係ないね
311 2 名前:日本@名無史さん Mail: 投稿日:2022/03/17(木) 17:00:24.17
>>308
ところが関係ある
奈良盆地のほとんどは沖積平野だから周囲の山に露頭のある海成粘土層からも土砂が流れてくる
田んぼに硫安を撒いたように硫化物が拡散している可能性が否定できない
312 1 名前:日本@名無史さん Mail: 投稿日:2022/03/17(木) 17:04:29.51
>>311
なるほど
では、纏向周辺の土壌のデータはどうなっていますか?
315 名前:日本@名無史さん Mail: 投稿日:2022/03/17(木) 17:09:36.16
>>312
そんな調査はない
鉄も人骨もよほど運が良くないと残ってないという結果だけがある
鉄も人骨もよほど運が良くないと残ってない
鉄も人骨もよほど運が良くないと残ってない
鉄も人骨もよほど運が良くないと残ってない
鉄も人骨もよほど運が良くないと残ってない
鉄も人骨もよほど運が良くないと残ってない これは永久保存やな
308 1 名前:日本@名無史さん Mail: 投稿日:2022/03/17(木) 16:56:13.74
まあいいわ
いずれにせよ、地下の深いところが海成粘土層なら、
弥生時代の遺跡から出土する鉄の溶けやすさには関係ないね
311 2 名前:日本@名無史さん Mail: 投稿日:2022/03/17(木) 17:00:24.17
>>308
ところが関係ある
奈良盆地のほとんどは沖積平野だから周囲の山に露頭のある海成粘土層からも土砂が流れてくる
田んぼに硫安を撒いたように硫化物が拡散している可能性が否定できない
312 1 名前:日本@名無史さん Mail: 投稿日:2022/03/17(木) 17:04:29.51
>>311
なるほど
では、纏向周辺の土壌のデータはどうなっていますか?
315 名前:日本@名無史さん Mail: 投稿日:2022/03/17(木) 17:09:36.16
>>312
そんな調査はない
鉄も人骨もよほど運が良くないと残ってないという結果だけがある >>500
まず方角間違い例が現実に複数あるのだから仕方がない、現実逃避しても無駄。
また魏志倭人伝でもマツラ国へは方角すら記述がない、結局は方角に関しては正確な記述がない。
特に魏志韓国伝は同年代の資料で、しかも倭国より近い場所でさえ朝鮮半島の西側に済州島がある間違いをしている。
また複数の文献資料でも邪馬台国の南に狗奴国があるという記述はない。
狗奴国は女王国の南、もしくは奴国の南という表現しかないからな。
奴国の南なら熊本辺りが、女王国が瀬戸内海から畿内ならば四国や紀伊半島南側辺りが狗奴国となる。 畿内説の嘘がまた一つ暴かれた
鉄も人骨もよほど運が良くないと残ってないような土壌なのに、カエルの骨が多数残っているとはどういうことなのか?
つまり、鉄も人骨も溶けやすい土壌ではないということであろう
よって、3世紀の畿内は鉄器の普及が遅れた後進地域だったものと推測される 古代においては「鉄は国家なり」
つまり、纏向にはクッそショボい勢力しかなかったことがわかるw 鉄も人骨もよほど運が良くないと残ってない
鉄も人骨もよほど運が良くないと残ってない
鉄も人骨もよほど運が良くないと残ってない
鉄も人骨もよほど運が良くないと残ってない
鉄も人骨もよほど運が良くないと残ってない
カエルの骨が多数残っているのに鉄も人骨も出土が少ないということは、
鉄器も少なければ住んでいた人も少なかったということ
つまり、3世紀の纏向は生ゴミのゴミ捨て場だったw >>516
>つまり、纏向にはクッそショボい勢力しかなかったことがわかるw
なんだと!? 大和忌部がクッそショボい勢力だと?! まあ、古墳造営部隊だからな。 わははははは @阿波 阿電波よ
今日も松沢病院から帰って来て大ケツ放屁で大クッそをしたかぁ? わはははははは @太国 >>520
ロシア国からの攻撃が、奥山氏の部屋に命中してしまうのだろうか。 >>521
奧山氏の住所は、ロシア国から攻撃される可能性が低い、朝鮮民主主義人民共和国にある可能性もあるよ。 >>518
では、3世紀の纏向は生ゴミのゴミ捨て場兼古墳造営地(墓地)に変更しますw 鉄も人骨もよほど運が良くないと残ってない
カエルの骨 最強
カエルの骨 最強
カエルの骨 最強
カエルの骨 最強
カエルの骨 最強
纏向はカエルが制圧した地であった カエルの骨 最強
カエルの骨 最強
カエルの骨 最強
カエルの骨 最強
カエルの骨 最強 纏向は鉄も人骨も残らないのに、カエルの骨だけはきちんと残るようだ
鉄も人骨もよほど運が良くないと残ってない
鉄も人骨もよほど運が良くないと残ってない
鉄も人骨もよほど運が良くないと残ってない
鉄も人骨もよほど運が良くないと残ってない
鉄も人骨もよほど運が良くないと残ってない
Part768に続いて、Part769でも畿内説の嘘が暴かれたな
素晴らしい どうせキナイコシは「これは自分の書き込みではない」と言い出すんだろうなw
ミエミエwww
315 名前:日本@名無史さん Mail: 投稿日:2022/03/17(木) 17:09:36.16
>>312
そんな調査はない
鉄も人骨もよほど運が良くないと残ってないという結果だけがある >>497
>なんなら調査報告書をコピペしようか
してごらん
確実に赤恥かくから
お前の説が完全に間違いって証拠になる しかし>>496はすげーな。こんなことに気がつくなんて
いつも気持ち悪い書き込みしかしない奴だと思っていたんだが、申し訳なかった
お前、頭のいい奴だな >>530
言い出さないよ
連句点を使ってないから つまり、邪馬台国畿内説は、完全に破綻してしまったのだね。 >>529が連句点だ
自分が前から連呼してる馬鹿くさい意見を自演で褒めてるから
それ、今まで誰からも支持されなかったろ? 完全に論破された奧山氏が、訳の分からない言いがかりをつけてきたな。
533日本@名無史さん2022/03/18(金) 15:33:27.36
>>529が連句点だ
自分が前から連呼してる馬鹿くさい意見を自演で褒めてるから
それ、今まで誰からも支持されなかったろ? >>527
そうやって何のことか特定しないで誹謗中傷をするのが九州説の風評被害作戦
正面切って畿内説に挑んだら必ず負ける人々 巻向の掘立柱遺蹟の地下水は、アルカリ性なのだろうか。 >>534
邪馬台国畿内説を宣伝している奥山氏が、完全に論破され、討論を放棄し、敗北宣言の意味にしかならない嘘の悪口を言い放ってきたね。
533日本@名無史さん2022/03/18(金) 15:33:27.36
>>529が連句点だ
自分が前から連呼してる馬鹿くさい意見を自演で褒めてるから
それ、今まで誰からも支持されなかったろ?
535日本@名無史さん2022/03/18(金) 15:37:11.17
>>534
ほら、気持ちの悪い連句点だった このやりとりは永久保存版として、今後もずっとコピペをしていこうw
308 1 名前:日本@名無史さん Mail: 投稿日:2022/03/17(木) 16:56:13.74
まあいいわ
いずれにせよ、地下の深いところが海成粘土層なら、
弥生時代の遺跡から出土する鉄の溶けやすさには関係ないね
311 2 名前:日本@名無史さん Mail: 投稿日:2022/03/17(木) 17:00:24.17
>>308
ところが関係ある
奈良盆地のほとんどは沖積平野だから周囲の山に露頭のある海成粘土層からも土砂が流れてくる
田んぼに硫安を撒いたように硫化物が拡散している可能性が否定できない
312 1 名前:日本@名無史さん Mail: 投稿日:2022/03/17(木) 17:04:29.51
>>311
なるほど
では、纏向周辺の土壌のデータはどうなっていますか?
315 名前:日本@名無史さん Mail: 投稿日:2022/03/17(木) 17:09:36.16
>>312
そんな調査はない
鉄も人骨もよほど運が良くないと残ってないという結果だけがある 鉄も人骨もよほど運が良くないと残ってない
しかし
カエルの骨は多数残っている
纏向はカエル王国の王都だったのかw >>537
ほら、知能も知識もない
出土地点のことも、鉄が溶ける条件と骨が溶ける条件が違うことも
何も知らない馬鹿
知らないで空想だけしてるから必ず負ける つまり、邪馬台国畿内説は、完全に破綻してしまったのだね。 >>541
論破されて必死で話を逸らすキナイコシw >>540
僕達は、>>1奥山氏に、常温の金属が、溶解するのではなく、酸化や還元することを教育してあげたのだったな。 纏向は鉄も人骨も残らないのに、カエルの骨だけはきちんと残る。まさにカエルの楽園だったw
鉄も人骨もよほど運が良くないと残ってない
鉄も人骨もよほど運が良くないと残ってない
鉄も人骨もよほど運が良くないと残ってない
鉄も人骨もよほど運が良くないと残ってない
鉄も人骨もよほど運が良くないと残ってない >>378
不活発の根拠が壱岐・山陰のように
「農業生産性以上に大規模な集落」の存在でしょ?
海上交易で大きな利益を得ている地域は
地域の農業生産性以上の集落を作ることができるが
畿内・瀬戸内にそんな集落がない
瀬戸内交易が日本海交易・対馬海峡交易以下なのに
畿内説が主張するような西日本一帯を支配する瀬戸内連合ができるだろうか? 纏向の 土壌が生んだ 最強王者王 その名は・・・カエル!
カエル選手の登場です
カエル! カエル!
そら カエル! かえる!
そりゃーーーー
三三七拍子
カッ カッ カ
カッ カッ カ
カッ カッ カ
カッカッカッカッカッカッ カエル
カッ カッ カ
カッ カッ カ
カッ カッ カ
カッカッカッカッカッカッ カエル
カッ カッ カ
カッ カッ カ
カッ カッ カ
カッカッカッカッカッカッ カエル
最強カエルまんせー まんせー まんせー 3世紀の畿内は鉄も人骨がよほど運が良くないと残らないような場所なのに、カエルの骨は残ります
纏向はカエル王国の王都が置かれていた場所なのかもしれませんねw
308 1 名前:日本@名無史さん Mail: 投稿日:2022/03/17(木) 16:56:13.74
まあいいわ
いずれにせよ、地下の深いところが海成粘土層なら、
弥生時代の遺跡から出土する鉄の溶けやすさには関係ないね
311 2 名前:日本@名無史さん Mail: 投稿日:2022/03/17(木) 17:00:24.17
>>308
ところが関係ある
奈良盆地のほとんどは沖積平野だから周囲の山に露頭のある海成粘土層からも土砂が流れてくる
田んぼに硫安を撒いたように硫化物が拡散している可能性が否定できない
312 1 名前:日本@名無史さん Mail: 投稿日:2022/03/17(木) 17:04:29.51
>>311
なるほど
では、纏向周辺の土壌のデータはどうなっていますか?
315 名前:日本@名無史さん Mail: 投稿日:2022/03/17(木) 17:09:36.16
>>312
そんな調査はない
鉄も人骨もよほど運が良くないと残ってないという結果だけがある
鉄も人骨もよほど運が良くないと残ってない
鉄も人骨もよほど運が良くないと残ってない
鉄も人骨もよほど運が良くないと残ってない
鉄も人骨もよほど運が良くないと残ってない
鉄も人骨もよほど運が良くないと残ってない >>397
北九州は瀬戸内・畿内のみではなく、北陸・山陰・朝鮮との交易もあったから
特に瀬戸内・畿内と関係が深いとする理由が分からない
また朝鮮の土器など北九州・朝鮮のみで終わってる交易が割とあるみたいだから
北九州・瀬戸内・畿内の貿易ブロックの優位はないみたいだぞ >>550
よかったな。畿内説の嘘がまた一つあばかれてwww >>528
おばかさん
調査報告書だしたら
調査報告書が恥をかくってかーーー
アホの極み 奧山氏は、僕達以外の者を、「連句点」と呼んでいる可能性があるが、
いずれにせよ、このスレッドには、奥山氏より頭の悪い者は出現しないよ。
550日本@名無史さん2022/03/18(金) 16:12:08.93
連句点が馬鹿さを晒し続ける >>554
ほら、出せない
だから>>412の珍説はガセネタ >>548
>纏向の 土壌が生んだ 最強王者王 その名は・・・カエル!
だよねww 奥山先生は、鉄も人骨もよほど運が良くないと残ってないのに、
カエルの骨がたくさん残っている理由をどうお考えになられますか? 何事も、まったく証拠を出さないのが
このスレに来る九州説信者の特徴だね >>561
いえ、違いますよ
真面目に質問しておりますので、ぜひ奥山先生のご見解をお聞かせください カエルが最強だがほかにもあるぞ
イワシ、タイ、アジ、サバ、コイ、いのいし、カモ、ニホンジカ
今後の検討で魚種はさらに増加する可能性もあるとさ
纏向考古学通信より抜粋 >>556
13個の出土地点だろ
(纏向遺跡第168次調査)がわかりやすい
ほか報告書も探そうか、、、めんどい自分で探せ
それで、地点がわかったらどうなるのかいな? >>563
成程 人骨や鉄よりイワシの骨のほうが強いのか
鰯は魚へんに弱いだったな
まじな話 鉄が少ない理由は纏向は王都でないからだよ >>521
奥山氏はロシアからミサイルが飛んで来たら、矢板で防衛するのではないかな 纏向には鉄器も人骨も残っていないけど、カエル、イノシシ、イワシの骨は大量に残っている
どうやら近隣地域の生ごみ用のゴミ捨て場だったようだw
235日本@名無史さん2020/02/05(水) 13:00:07.68
鉄器がないっていう主張はとっくに破綻してるのにww
出土しない理由は簡単に説明できる
鉄は溶けやすいし、どこの遺跡でも鉄器の出土量はごく少ないまたはない
奈良盆地で少ないながらも鉄器は出ている(唐子鍵の鉄斧など)し、
鉄器なしでは纏向大溝の10000枚の矢板の説明ができない
267日本@名無史さん2020/02/05(水) 14:48:27.92
海成粘土層では鉄が溶けやすいのは常識だし
畿内は土壌と接触しやすい木棺直葬が主流なのだ
鉄器の豊富な存在が明らかな古墳時代になってからも石室からしか鉄器が見つからないのだから
鉄が避けやすいことが立証されているも同じだよ
315 名前:日本@名無史さん Mail: 投稿日:2022/03/17(木) 17:09:36.16
>>312
そんな調査はない
鉄も人骨もよほど運が良くないと残ってないという結果だけがある >>552
申し訳ない 結論だけ述べてくださいますか キナイコシはどうせまたこんな書き込みをして、>>315の書き込みは自分の書き込みではないと言い張るのだろう
698日本@名無史さん2022/03/15(火) 16:52:34.18
>>696
>ごまかすな
>お前の主張する
>奈良は鉄が錆びやすい土壌
それ、誰が言ったの?
俺も1も言ってないけど 今日はカエルの骨でほとんど埋まったな
畿内は鉄が溶けやすいとアホなこと言い出すからだよ
キナイコシの頭の中を見てみたい >>569
これは笑えるよな
>俺も1も言ってないけど
なんで1が言ってないと匿名者が言うのかねーー 必死に反論はしているなw >>541
しかし、>>315
鉄も「人骨も」よほど運が良くないと残ってない
鉄も「人骨も」よほど運が良くないと残ってない
鉄も「人骨も」よほど運が良くないと残ってない
鉄も「人骨も」よほど運が良くないと残ってない
鉄も「人骨も」よほど運が良くないと残ってない
人骨が溶ける条件とカエルの骨が溶ける条件の違いをキナイコシは知っているのかな?www
541 1 名前:日本@名無史さん Mail: 投稿日:2022/03/18(金) 15:44:30.20
>>537
ほら、知能も知識もない
出土地点のことも、鉄が溶ける条件と骨が溶ける条件が違うことも
何も知らない馬鹿
知らないで空想だけしてるから必ず負ける
315 名前:日本@名無史さん Mail: 投稿日:2022/03/17(木) 17:09:36.16
>>312
そんな調査はない
鉄も人骨もよほど運が良くないと残ってないという結果だけがある >>541
おまえ何言ってんの?
出土地点・・纏向だろ
鉄が溶けやすい・・酸性土壌
骨が溶けやすい・・酸性土壌
畿内説では奈良は海成粘土層なんだろ
ほか何を言いたいの >>570
しかし盲点だったなあ
>>496すごいわ
考えてみたら、カエルの骨に言及した同じような書き込み今までにも何度もあったよね
なんでこんな書き込みしてんだろと思っていたんだが、こんな深い意味がある書き込みだったとは思わんかった
496 2 名前:日本@名無史さん Mail: 投稿日:2022/03/18(金) 13:39:37.41
>>495
カエルの骨は、溶けなかったのだったね。 >>573
キウスぽい??
まあいいか間違ってたらスマソ 畿内説の問題は瀬戸内海を舐めていること
日本書紀でどうして出雲の神々が大和政権の祖先にとって脅威だったのか
どうして住吉大社で航海の安全を確保する必要があるのか
いずれも瀬戸内航路が危険なために未発達であり
日本海勢力が台頭していたことを示している
現代でも危険な航路とされる瀬戸内航路は
日本海航路より発達が遅かったし
瀬戸内航路の発達は日本書紀の住吉大社の件からすれば
神功皇后の時代…日本書紀が100年古くしているとすると
4世紀にならないと起きてないらしい 日本書紀の記述からすると
「瀬戸内交易の発達で瀬戸内連合ができた」ではなく
「畿内勢力の台頭で瀬戸内交易が台頭した」の方が妥当らしい
古墳が寺よりも建造コストが安いとしても、それ以前の墓よりは
コストがかかってるだろうから3世紀畿内に大型古墳ができたことは
畿内勢力の台頭は示している
しかし3世紀中に瀬戸内航路の発達が見受けられない
瀬戸内航路の発達より畿内勢力台頭の方が先
畿内勢力が大陸交易を求めた結果、瀬戸内航路が台頭したんだろう 古墳時代に山陰に大きな集落はなくなるので
古墳時代には畿内勢力の台頭、瀬戸内航路の発達が起きて
日本海交易は衰退するらしい
これも日本書紀の記述が100年古く誇張してるとすれば
日本書紀と整合性が取れてる 235日本@名無史さん2020/02/05(水) 13:00:07.68
鉄器がないっていう主張はとっくに破綻してるのにww
出土しない理由は簡単に説明できる
鉄は溶けやすいし、どこの遺跡でも鉄器の出土量はごく少ないまたはない
奈良盆地で少ないながらも鉄器は出ている(唐子鍵の鉄斧など)し、
鉄器なしでは纏向大溝の10000枚の矢板の説明ができない
267日本@名無史さん2020/02/05(水) 14:48:27.92
海成粘土層では鉄が溶けやすいのは常識だし
畿内は土壌と接触しやすい木棺直葬が主流なのだ
鉄器の豊富な存在が明らかな古墳時代になってからも石室からしか鉄器が見つからないのだから
鉄が避けやすいことが立証されているも同じだよ
315 名前:日本@名無史さん Mail: 投稿日:2022/03/17(木) 17:09:36.16
>>312
そんな調査はない
鉄も人骨もよほど運が良くないと残ってないという結果だけがある
↑
嘘でした
3世紀の畿内には鉄は少なかった
人口も少なかった 3世紀の纏向は鉄を入手できない後進地域
食料にも乏しくカエルを食べていた
まさに貧困にあえぐ山奥の寒村、陸の孤島
華やかな場所だったと思っているのはキナイコシとその仲間だけ >>581
>華やかな場所だったと思っているのはキナイコシとその仲間だけ
東遷説もだろ? 結局、畿内説も東遷説も、最悪最低どろ沼地の奈良盆地で、息を止められる宿命だ。 @阿波 >>582
このスレには纏向に反対すると九州説だと勝手に烙印を押してくるキナイコシのような輩がいるんだが、
自分は纏向王都説に反対しているだけで、畿内説でも九州説でもないよ
もちろん、空想ではいろいろ考えはあるけど、確たる証拠があるわけではないし、わざわざ表明するほどのものでもない >>583
君は所謂、京都説のキウスかね? @阿波 大神氏、大三輪氏、または三輪氏、神氏は、大和国磯城を発祥とし、大物主神を祖神とする氏族。
大物主は卑弥呼後継の男王である。 >>580
よく探してくるね。感心。
キナイコシは吐いた唾を何度も飲める狂人だね。 >>588
235日本@名無史さん2020/02/05(水) 13:00:07.68
鉄器がないっていう主張はとっくに破綻してるのにww
出土しない理由は簡単に説明できる
鉄は溶けやすいし、どこの遺跡でも鉄器の出土量はごく少ないまたはない
奈良盆地で少ないながらも鉄器は出ている(唐子鍵の鉄斧など)し、
鉄器なしでは纏向大溝の10000枚の矢板の説明ができない
267日本@名無史さん2020/02/05(水) 14:48:27.92
海成粘土層では鉄が溶けやすいのは常識だし
畿内は土壌と接触しやすい木棺直葬が主流なのだ
鉄器の豊富な存在が明らかな古墳時代になってからも石室からしか鉄器が見つからないのだから
鉄が避けやすいことが立証されているも同じだよ
このように書き込んでいながら、この書き込みwww
698日本@名無史さん2022/03/15(火) 16:52:34.18
>>696
>ごまかすな
>お前の主張する
>奈良は鉄が錆びやすい土壌
それ、誰が言ったの?
俺も1も言ってないけど 卑弥呼の次の王は温羅でしょうな
纏向遺跡から吉備の土器が消える
吉備討伐
古事記の孝霊天皇の事績は吉備討伐のみ 吉備の王は丑寅みさき
支配層と配下の兵はまたルーツは違うだろうが
吉備は縄文時代の遺跡が多いところだが下戸遺伝子も多いところ
吉備自体も成り立ちは複雑だろう >>591
なるほどね。スレ主がこれでは、投稿者に失礼だな。 海成粘土層の件は人骨よりもはるかに細いカエルの骨が溶けずに残っていることから完全に否定されましたw
同時に鉄が溶けやすい土壌であるという言い訳も終了
この話って誰が最初に持ち出してきたんかね?
キナイコシだってどうせ誰か他の先生の言っていたことのうけ売りだろ? >>564
>それで、地点がわかったらどうなるのかいな?
お前が馬鹿だとわかる
一ヶ所から出たものだから同じ時代のもので当たり前
>二か所が間違いとしても数か所
>なぜこの箇所だけかは不明(作為的????
>いずれにせよ、炭素年代が一時に集中してることを言いたかったのです。
がガセネタと確定する >>596
>海成粘土層の件は人骨よりもはるかに細いカエルの骨が溶けずに残っていることから完全に否定されましたw
これもガセネタ
1は海成粘土層だなんて言ってない
九州説の捏造ね >>591
これも全一病患者独特の妄想だ
別の人間だからな >>580
>3世紀の畿内には鉄は少なかった
>人口も少なかった
根拠なし >>598
>これもガセネタ
1は海成粘土層だなんて言ってない
1はってお前がキナイコシか。
前スレでキナイコシは匿名投稿しないとか主張いてたやつもキナイコシのおまえか。恥を知れ。 >>597
>一ヶ所から出たものだから同じ時代のもので当たり前
いまさら何をww
二枚舌、三枚舌ですかww
>>447で
>その中の2例の年代が一致しているのだけ本当
と言ったのはあなたですよ。 >>597
あなたに贈るよ キナイコシでしょ
拝借失礼
キナイコシは吐いた唾を何度も飲める狂人だね >>602
これも全一病
そんなに大勢病人がいるわけない
つまりお前が一人でやってる >>603
>いまさら何をww
>二枚舌、三枚舌ですかww
>>その中の2例の年代が一致しているのだけ本当
>と言ったのはあなたですよ。
言ったよ
その口調は無知で嘘つキウスか? w
おまえの挙げた報告書で出たのと同じ年代の調査例がもう一つあるんだよ
近いけど少しズレるのがあと2例と、ぜんぜん違うのが1例
つまり俺の言ったことが本当
お前の言ったのがウソ
二枚舌はお前
こっちは一枚 キナイコシ、ついに錯乱状態かw
いいじゃないか
お前の敗走はいつものことやろwwww 纒向の鉄器は溶けて消えたのではなく最初からたいしてなかったw
つまり、纏向は邪馬台国の都ではなく、ただのクソ田舎の後進地域ww
食糧不足でカエルを食べるしかなかった山奥の寒村w 鉄器と人骨は溶けて消えるけど、カエルの骨は残る土壌ってどんな性質の土壌なの?
教えて、キナイコシ!w >>609
現実逃避か九州説w
惨敗しといて勝ったフリ
みじめな奴だなあ 誰が誰だか錯乱状態のキナイコシ
自分の投稿も何がなんやらボケ老人キナイコシ
松沢病院の患者のおもちゃキナイコシ >>612
お前はそんな書き込みする前に>>611の質問に答えろよw そうだ!
キナイコシは
「纒向における古代日本のカエル王国についての考察」
というタイトルで論文書けよw
今度こそ就職先見つかるかもしれんぞww キ キチガイのキ
ナ 中身空っぽのナ
イ いじられキャラのイ
コ 子供以下のコ
シ 小便漏らしのシ カエルの骨が多数残っているのに鉄も人骨も出土が少ないということは、
鉄器も少なければ住んでいた人の数も少なかったということ
つまり、3世紀の纏向は生ゴミのゴミ捨て場だったw 嗚呼、ミジメなキナイコシ!w
孝霊厨と作戦会議でもやって、次の作戦考えてくれ
また論破されるだけだけどwww キナイコシ蛙に関することわざ
キナイコシ蛙
井 の 中 の キナイコシ 大 海 を 知 ら ず
蛇 に 睨 ま れ た キ ナ イ コ シ >>606
おいおいキナイコシ
口からウンコ💩出すような嘘つくな >>624
罵っても反論にならないよ
九州説の負け >>620
九州説が簡単に論破された悔しさに狂気の連投か 奥山は松沢病院史上最狂
奥山は松沢病院史上最狂
奥山は松沢病院史上最狂
奥山は松沢病院史上最狂
奥山は松沢病院史上最狂 >>626
クダをまいてんでんじゃねーよ
答えられねーのか
やましいことでもあんのか 南下しなさいは東へ行きなさいではない。
畿内説とは東方へ強引に誘導操作させた大イカ様の最低2万哩。
https://www.youtube.com/watch?v=P96TAjThoEs 撃ち方やめーー
撃ち方やめーー
キナイコシは生かさず殺さずといっただろ >>631
答えただろ?
鉄と骨は違う物質だから溶けにくくなる条件も違って当たり前だと
お前は反論できないで罵ってるだけだから
お前は論破されたと言うことだ 奥山さんに質問です
キナイコシが死んで鉄が溶けやすい奈良の土壌に埋められたら何年後に骨は無くなりますか >>634
>>611よく読め。お前は日本語が読めないのかw >>628
あほか
口からウンコ💩出すお前が下品だろww >>427の
>二か所は炭素年代を測った個所。失礼しました
>二か所が間違いとしても数か所
>なぜこの箇所だけかは不明(作為的????
>いずれにせよ、炭素年代が一時に集中してることを言いたかったのです。
が真っ赤なウソだとバレたのだから
論破されたのは九州説だよ
ウソをつけば結局バレて、当然ながら論破される >>640
お前は近畿は鉄が溶けやすいと嘘ついていたじゃん 鉄も人骨も溶けてなくなるのに、カエルの骨が残るのはどうしてですか? >>642
>お前は近畿は鉄が溶けやすいと嘘ついていたじゃん
言ってないが?
言ったと言うなら証拠出せ >>643
>鉄も人骨も溶けてなくなるのに、カエルの骨が残るのはどうしてですか?
湧水層でカルシウムにまみれていると溶けにくい >>640
キナイコシの言うことなんか誰も信じねーよ
どうせ都合のいいところだけ抜き取ってきたんだろ
お前のやり方は見え見えだ >>644
>>315はお前の書き込みなんだろ?
また俺じゃない、連句点のなりすましだというのか? ここ最近、畿内説の嘘が次々と暴かれているな
いいことだ >>647
俺ではないが同じ意見だ
「近畿は鉄が溶けやすい」などと誰も言っていない >>645
>湧水層でカルシウムにまみれていると溶けにくい
カエルを湧き水が湧き出ているところに置く習慣があったのですか? >>649
畿内説に嘘など何もない
キウスは嘘が多いが >>651
>カエルを湧き水が湧き出ているところに置く習慣があったのですか?
そんな習慣は無い >>653
>佐原真が言っとるやろ?w
言った証拠がない >>655
じゃあ溶けやすいわけじゃないのね
それなら纒向には鉄器が少なかったとみなしてよいね? >>655
纒向というより、3世紀の畿内というべきか >>655
3世紀の畿内には鉄器は少なかった
人骨の出土も少ないことから人口も少なかった
とけやすいのでなければこれでいいですね? カエルの骨が残っとる理由は知らんが、カエルの肉は斎しよう科儀、道教祭祀に供えた乾肉だな。桃もまたしかり、蟠桃会だな、桃には五本の精あり邪気を伏し鬼門に生じてより百鬼を制する。巫女術、百襲姫の由来だな、記紀編纂者は何者か知っとるのだよ。箸墓が卑弥呼の墓。無駄だ >>660
鉄も人骨も残らんのに、カエルの骨だけ残るかよ
お前はアホか
溶けやすいのが嘘なら、鉄も人も少なかったというふうに考えざるをえない >>661
いけません、ってw
じゃあ鉄も人骨も溶けてきえるのに、カエルの骨が残っている合理的な理由を説明してくれ 鉄が多いなぞ、一度も言ったことはないわ、宗教指導者に何の関係も無し。 きちんと合理的な説明しないと誰も納得せんぞ
だいたい、鉄も人骨も溶けて消えるような土壌ならまともに農業できるわけもない
そして、カエルの骨も当然残らない >>664
また都合のいいことばかりいいやがって
魏志倭人伝の記述に全く合わないだろ
兵士が守っているんだから
石斧しかもっていなかったのか?w では、3世紀の畿内には鉄器は少なかった
人口も少なかった
これでいいですね? 鉄も人骨も少ないけど、カエルの骨はたくさん残っているんだから、ほかに解釈のしようがあれば、教えてほしいくらいだわw 意味がわからん、邪馬臺は卑弥呼の都とする道観、卑弥呼を慕い集まる連中は居ったろうがその連中が鉄を持っていなければならない理由がわからん。土器からも東の物が多いらしいじゃあないか?鉄、鉄、と卑弥呼は鉄工所の経営者ではない。 >>669
苦し紛れに何言ってんだ
魏志倭人伝ではさながら軍事要塞かのような記述になっとるやろ
兵士が武器持ってないのか?w >>655
佐原真は俺は知らんが、キナイコシは知っている
キナイコシが鉄が溶けやすいと言ったのは確かだ では、再度聞きます
近畿は鉄が溶けやすいとは考えておられないようですから、
3世紀の畿内には鉄器は少なかった
3世紀の畿内の人口は少なかった
ということでいいですね? 何処に軍事要塞なんて記述があるんだ、1000人が指示無く出入りしとるようなところを >>674
は?指示なく出入りしていたってなんでわかんの?
お前タイムマシンで見てきたんか?
夢でも見てんじゃねーのw >>669
お前は魏志倭人伝も読んでねーのか
卑弥呼の周りには兵がいる
兵は竹の矢は鉄や骨の鏃を付けるてんの
卑弥呼の護衛は骨の鏃だけつけてたと書いてないの
いわんや王だろ 邪馬臺は卑弥呼の道観、邪馬台(壱)国は道観も含む奈良盆地だよ。 >>674
宮室、楼観、城柵までそろっとればそんなもんやろ
軍事要塞と言っても、古代だからね
もちろん今から見たらたいしたことないよ >>669
そしてな九州では鉄鏃は多数出てるが畿内はゼロなの 倭人は鉄鏃を使うと書いてあんのに、女王の護衛は竹槍と石斧だったとでもいうのかな?w
ありえね〜w では、キナイコシに再度聞きます
以前の書き込みとはずいぶん話が違うような気はするが、近畿は鉄が溶けやすいとは考えておられないようですから、
3世紀の畿内には鉄器は少なかった
3世紀の畿内の人口は少なかった
ということでいいですね? >>666
しょうがないよな
キナイコシはね
畿内説そのものご都合主義だね あ、畿内というより、奈良盆地と言った方がよかったかな >>652
くだまかないで>>635に答えろよ奥山 ではやり直してキナイコシに再度聞きます
以前の書き込みとはずいぶん話が違うような気はするが、近畿は鉄が溶けやすいとは考えておられないようですから、
3世紀の畿内には鉄器は少なかった
3世紀の奈良盆地の人口は少なかった
ということでいいですね? >>678
あんな纏向の掘っ立て柱に巫女千人もいたら
ノミとダニだらけになるだろ >>689
>以前の書き込みとはずいぶん話が違うような気はするが、近畿は鉄が溶けやすいとは考えておられないようですから、
いろんな人の発言を一人だと思ってるから
そんな妄想に囚われる
昔も今も近畿は鉄が溶けやすいとは考えていない
畿内は鉄が溶けやすい
理由は、木棺直葬が多いからだ
>3世紀の畿内には鉄器は少なかった
>3世紀の奈良盆地の人口は少なかった
全く根拠がない >>668
誰に言ってんのレスNOぐらいつけろよ
混乱作戦かよ >>690
>あんな纏向の掘っ立て柱に巫女千人もいたら
そんな主張は誰もしない(脳が人間のものなら) 鉄が無いとも言っていないよ。それに0ではない。また宗教地に特別多くなければならない理由はないんだよ。つまり説に問題がない訳、列島は製鉄は6世紀位までない、五王が押さえていたであろう半島南部を失うまで半島だけで十分間に合っていたということだろうからな。 >>686
纏向の掘っ立て柱建物の中でぎゅうぎゅう詰めで
ノミやダニや蚊と最強のカエルと戦ってたんじゃねーの >>679
>そしてな九州では鉄鏃は多数出てるが畿内はゼロなの
畿内も古墳から多数出る >>672
>キナイコシが鉄が溶けやすいと言ったのは確かだ
鉄は溶けやすい
常識だ >>697
古墳から出るのは当たり前だよ
副葬品として一緒におさめるんだから >>665
>だいたい、鉄も人骨も溶けて消えるような土壌ならまともに農業できるわけもない
と言う根拠は? 感想じゃないよ。九州なんてもう終わっているんだよ。卑弥呼は鬼道。その痕跡すら無く、前方後円墳を説明できない。 >>700
>古墳から出るのは当たり前だよ
>副葬品として一緒におさめるんだから
だから
>そしてな九州では鉄鏃は多数出てるが畿内はゼロなの
はウソ >>701
酸性の強い土壌ではまともに農業なんかできない
小学生でもわかる理屈だろ や め ろ ーー
や め ろ ーー
や め ろ ーー
や め ろ ーー
奥山死んじゃう
や め ろ ーー
や め ろ ーー
や め ろ ーー
や め ろ ーー
奥山寝させてやれよ 遅くまで付き合わせて悪かったな
俺もそろそろ寝るわ
キナイコシ、またな! 倭人の風習である卜骨が出る畿内では鉄器を遺棄しなかった
つまり鉄が管理されていた
倭人の風習が無い九州(北部)では鉄器を住居に残したまま死んだ人が多い
濊伝に北部九州と一致する記述がある
「病気で死亡するとたやすく旧宅を棄てて新居を作る」
「長さ三丈(約7m)の矛を作る」
日本にはなかった感染症だろうな >>705
>酸性の強い土壌ではまともに農業なんかできない
酸性の強い土壌だと言うのは誰の説明? >>708
今夜も論破されて泣きながら寝ろ
それが九州説の宿命だ カエルの骨もその一つと言えるかもしれない、と言うとこだな、俺が発掘した訳ではないからな。嫌みと否定ばかりしてないで自説を説明してごらん、柔軟だからいつでも成る程と思えば賛同するよ、でも魏志だからね、中国人が読む、魏の史書だからまず卑弥呼の鬼道とは何か?、から説明してくれな。 なぜ、畿内は快適な高床式住居なのに九州は不潔な竪穴式住居なのか?九州は貧困地域だ。 なぜ、鉄器をたくさん保有する九州は畿内と戦争をして敗北したのか?九州は馬鹿で知性を感じない。 >>715
早く寝ろ
明日相手してやるから
眠れないなら一晩中投稿してろ
明日読んでやるから
キナイコシ またな お休み >>718
しないで負けたよな、九州は
今の九州説と同じだ キナイコシ じゃあね お休み
お前もゆっくり休めよ 奈良の土壌は酸性が強いのが多いらしい
core.ac.uk/download/pdf/72751744.pdf
奈良県域の土壌は8 割が褐色森林土 (21) である。
(21) brown forest soil 温帯湿潤気候の落葉広葉樹林下に、最もよく発達する成帯土壌zonal soils の一種。降水量の多い地域では、塩基未飽和型で酸性が強い しかし鉄器が奈良の土壌の酸性が強くて残らなかった…としても
酸にやられない朝鮮系土器、翡翠、碧玉などの他の当時の貴重品の集積で
奈良盆地が北九州より劣ることは変わらんだろ >>726
?
半島から遠いんだから「朝鮮系土器」が少ないのは当たり前
それって貴重品でも何でもない
「翡翠、碧玉」は厚葬の習慣が無かったからたくさん無くて当たりまえ というか、鉄も含めて貴重品が家の中に放り出してある方が異常事態だ そりゃ鉄器時代に乗り遅れた後進国から見たらそうだろうなあ 3世紀東夷世界は「鉄器があるのが当たり前」
高句麗伝も韓伝も鉄器が普及しているなんていちいち書いていない。
あるのが当たり前の鉄器がある所が邪馬台国。
つまり北部九州しかない。 >>727
>半島から遠いんだから「朝鮮系土器」が少ないのは当たり前
それって貴重品でも何でもない
私もそのように思います。
朝鮮系土器と言っても日用品です。
お宝ならともかくわざわざ畿内から取り寄せなくても日本土器で充分です。 >>727
古墳時代には畿内も翡翠・碧玉・朝鮮系土器を集めるからな
畿内的にも貴重品だ >>731
根拠あるだろう
どうして貴重品を放り出しておくの? >>732
>あるのが当たり前の鉄器がある所が邪馬台国。
纒向にもあるよ >>734
>畿内的にも貴重品だ
だから、そこらに放り出しておかないよね >>732
鉄が九州に多いの確実です。
しかし武器としての鉄器です。
倭人伝の記述の鉄鏃も武器です。
つまり、倭国大乱は九州の地で起きたものと思慮します。
また、邪馬台国は倭国大乱に参戦してないと思います。
根拠は倭国大乱を治めるには戦争状態にある国の中から王を立てるのは利害関係からむつかしいでしょう。
そこで、戦争に参加してない国から王を立てるのが平和に倭国をまとめることができたのでしょう。
そのような視点から見ると、邪馬台国の所在地は倭国大乱に巻き込まれてない地となります。
卑弥呼は倭国大乱を契機に九州にいたと思慮します。
畿内に鉄の出土が少ないのは邪馬台国は戦闘的な国ではなかった平和な国とも言えます。
鉄の出土は昨今、北陸地方から大量に出土してることから
あまり邪馬台国論争では触れられてないと聞き及んでいます。 近畿は鉄が錆びやすい土壌かについて。
これは全国さほど変わらないでしょう。しいて言えば海岸沿いの地域でですが、鉄器は出土しています。
学者の某氏が「近畿は鉄が溶けやすい」と言ったかはわかりませんが、まことしやかに噂が流れたのは確かです。
このスレにだれかが持ち込んだのは確かでしょう。
そこから、おもしろおかしく昨日のように盛り上がりました。カエルの骨もよい登場者でした。
だれも真剣に近畿は鉄が溶けやすいから鉄の出土が少ないとおもっていません。
スレを盛り上げるためのお遊びです。
今日もカエルの骨、土壌で盛り上がるかもしれませんがひと時のお遊びです。
選択は投稿者の自由です。
私はもっと勉強になる議論を望みます。
そのターニングポイントを握っているのは奥山さんです。
沈黙は金なりもよろしいかと 奥山(キナイコシ)さん、昨日一日で700レスも進みました。
今日はゆっくり休養を取ってはいかがでしょうか。明日、今日の投稿を見て持論を展開されるのをお勧めします。
昨夜の解散(もう寝る。キナイコシまたね)はスカッといきました。
みな良識ある人が書き込んでいます。羽目をはずすし遊びに徹したのが昨日と思います。 >>738
>鉄が九州に多いの確実です。
>しかし武器としての鉄器です。
証拠は? コロナ、ウクライナ、地震など無力感を感じている私もここで遊ぶのがストレス解消になります。
しかしあまり遊びすぎるとそれがストレスになります。私の場合はです。注意しようと思います。 >>738
>鉄の出土は昨今、北陸地方から大量に出土してることから
あまり邪馬台国論争では触れられてないと聞き及んでいます。 >>738
>鉄の出土は昨今、北陸地方から大量に出土してることから
>あまり邪馬台国論争では触れられてないと聞き及んでいます。
邪馬台国論争で重要なのは、鉄器を作れる文化技術が有るか否か。 @阿波 >>745
>邪馬台国論争で重要なのは、鉄器を作れる文化技術が有るか否か。
この点においても、畿内や九州は失格。 @阿波 >>742
失礼 倭人伝記述の鉄鏃です。
興味があれば調べてください。
言葉足らず、表現力がなく申し訳ありません。 >>745
阿波さん聞き及んでいるだけですので、調べてから報告します。
聞き及んで・・・いい加減な発言ではないので調べてみます。お時間を。
738
>鉄の出土は昨今、北陸地方から大量に出土してることから
>あまり邪馬台国論争では触れられてないと聞き及んでいます。
邪馬台国論争で重要なのは、鉄器を作れる文化技術が有るか否か。 鉄器を住居に残して新居を作る
大きな矛を作る
朝鮮式系小銅鐸が出るのは九州だけ
つまり北部九州に鉄器が多いのは韓濊人が多いから >>745
阿波さんへ
一度 ご質問しようと思ってたのですが
1.阿波説では阿波邪馬台国は倭国大乱にどのようにかかわったと思いますか・
参戦してたとか・・・
2.卑弥呼はどこで指揮を執ってたと思いますか? お早う、相変わらず諦めは悪そうだな、
卑弥呼の国はしなやかな国なんだよ、倭国乱、歴年主無し、卑弥呼の布教が始まり皆が集まり出し女王になってからは見るもの少なし、女王の都とする臺に籠るわけだ。スレ主がどう考えているかは知らんが、私は卑弥呼は道徳経、陳寿が鬼道と言っている以上、当時中華で言われてる鬼道。曹叡の忠孝の孝は道教儒教からも意味は重い。道教の色濃い場所が卑弥呼の本拠地。ただこの話をすると他説では無理だわね。 キナイコシは
畿内には鉄の出土が少ない
→溶けて消えただけ。本当はあった。多数残る矢板を見よ!
人骨が少なくてもカエルの骨がとけずに残っているから、
溶けて消えたのは嘘で、鉄器は少なかったのでは?
→宗教都市だから鉄があるわけない
(これに対して、魏志倭人伝の記述に合わないと指摘しても無視)
よくもまあ言い訳思いつくものやな 鉄はたくさんあったと言ってみたり、宗教都市だからないと言ってみたり、いったいどっちやねん!
こんなにコロコロ意見変えるようではいつまで経っても無職なのは仕方ない 邪馬台の迷路の入口を間違えているのが他説。早く気付け、鉄が必要なら魏に頼んでいる 今日は私が遊んでもらっても良いですが
四六時中とはいきませんし、これはと思ったら調べる時間もかかりますのでご容赦ください。
なお奥山さんご指摘の通り漢字には疎いので誤字脱字表現力のなさはご容赦ください。
私は意地は張りませんので、間違ったらお詫びします。お詫び後できれば、それをネタに何度も同じ投稿はご勘弁ください。
皆さん同様趣味で投稿してますので、、、日常の生活や今日の予定、急用で投稿が途絶えることもあるかもしれません。
逃げたとか言わないでください。。もう何年もここに投稿してますので、、、、、
BY キウス 朝鮮のことを「韓」と言うのは薄汚い朝鮮人。朝鮮半島のことを韓半島、笑うわ。 >>752
>1.阿波説では阿波邪馬台国は倭国大乱にどのようにかかわったと思いますか・
倭国(阿波)乱とは
「旧吉野川流域北岸勢力内での争乱」および「旧吉野川流域南岸勢力内での争乱」また、「鮎喰川流域勢力内での争乱」
また、「勝浦川流域勢力内での争乱」および「那賀川流域勢力内での争乱」および「海部川流域勢力内での争乱」
それら「阿波」国内での「各地域入り乱れての争乱」のこと。 @阿波
>2.卑弥呼はどこで指揮を執ってたと思いますか?
「卑彌呼」が指揮を執っていたかどうかは分からないが、
「卑彌呼」が居た女王之所都は、「邪馬臺国」の首都。
そこは、「矢野遺跡」「庄・蔵本遺跡」「名東遺跡」などがひしめく「鮎喰川下流域集落群」。 @阿波 薄汚い朝鮮半島から近いから九州が発展したとか、下品で下劣な犯罪地域になったんだよ。 畿内ではカエルを食っていた?九州では地面を掘って土蜘蛛を食っていた。気持ち悪いね。 卑弥呼の時代に石上のような武器庫が存在したかはわからんが卑弥呼の道観には無いだろう、まだ発見されてないか、弟が管理者だろう。 弥生時代には「交易重視」の「海村」があったという
そして日本の海村は対馬、壱岐、北九州、山陰にしかないという
やはり弥生時代は瀬戸内交易は未発達らしい
www.nagasaki-maibun.jp/outline/publish/pdf/h27sinpo.pdf
農村とは異なり、漁業と海上交易活動を主体とする海村が弥生時代には存在した
・海村の分布
assets.st-note.com/production/uploads/images/56086460/picture_pc_57f239df34186144b0b3b307f4c5003e.jpg 石上神宮の禁足地を掘ったら国宝級の遺物が出土する。発掘には宮内庁の許可がいるらしい。なぜだ? 弥生時代の畿内、瀬戸内に交易主体の海村が存在しない…
それでどうして瀬戸内一帯を支配する邪馬台国連合があり得ようか? 畿内にいくらでかい水田と古墳があろうと
瀬戸内交易が未発達で、海村が存在しないのでは
邪馬台国ではないのは明らかだ 連続句読点の功績により、「纏向では鉄も人骨も溶けやすい」説が嘘であることがあばかれましたw
瀬戸内交易も未発達であり、この状況下では瀬戸内一帯を支配する邪馬台国連合は存立し得ない
キナイコシの妄想はこれにて終了〜w そもそも瀬戸内海沿岸って雨降らないから稲作に適した地域ではない
強力な力を持ったクニが誕生するのはそもそも無理じゃね?
もちろん水田跡くらいいくらでも見つかるだろうけど、収量が多かったかどうかはまた話は別 雨が降らないから溜池作ったり、雨乞いする儀式を行う必要があったと思われる
そのために逆に強力な指導者が誕生した可能性もあるわけだが 愚か者の韓国人がウクライナに傭兵として行ったが、戦場が怖くなって逃げ帰って来た。
まさに敵前逃亡である。「韓」と付く民族は腐った劣等民族である。 >>759
ありがとうございます。
1倭国大乱は魏使が直接遭遇したとは思えませんので。
九州より遠い地でも良いような気がします。
2 1からいけばそうなりますね 水稲と陸稲があることを理解してない人がいるようだ。土蜘蛛を食っている九州人か? 陸稲は連作障害が発生するから、大規模な人口を抱えるクニでは難しくないか? 庄内式土器や生口と一緒に稲荷も北部九州倭国に献上するんだから、
水稲でも陸稲でもいいから各地の納税倉庫を満たせばそれでいい。 陸稲がすたれて水稲が普及したのは連作障害が起きないから まあ、小規模な村だけで共同体を形成していた時代なら陸稲で十分だわな 「日韓出土土器による3・4世紀国際交流の研究」と
「古墳時代中期前半の河内平野における朝鮮半島系遺物の流入に関する考察」によると
3、4世紀は北九州に半島系土器が集中しているが
5、6世紀になると畿内に集中するようになるらしい
やはり弥生時代中は畿内が北九州をコントロールできてないし
瀬戸内交易も5世紀頃まで未発達らしい >>781
連句点にカエルの骨が溶けずに残っていることを指摘されたのがよほどこたえたのかw 汚い竪穴式住居しかない九州に米を保管する高床式倉庫があったんかい?土蜘蛛でも食ってろ、ド・アホ! 弥生時代の中国産辰砂、北陸産翡翠、半島系土器の交易で
北九州は参加できていて、奈良盆地東南部は参加してない・ほとんど参加していない
これでどうして奈良盆地東南部が北九州を支配していたと言えるのか? >>784
>3、4世紀は北九州に半島系土器が集中しているが
>5、6世紀になると畿内に集中するようになるらしい
つまり、畿内が中心となって大陸との交流をおこなうようになるのは5世紀以降ということですね
3世紀の纏向は鉄器も少なく、文明化されていないクソ田舎w
食糧にも乏しくカエルを食べていた山奥の寒村ww >>786
高床式倉庫なら吉野ヶ里にあるやん
登呂遺跡にだってあるし、弥生時代の日本列島では珍しくもなんともない >>786
高床式の建築物なら、縄文時代の三内丸山遺跡にだってある
高床式倉庫が畿内の専売特許みたいに思っているなら、お前相当なバカだぞ >>787
>奈良盆地東南部は参加してない・ほとんど参加していない
その問題、「阿波」が引き受ける。 @阿波 >>786
弥生時代の高床式倉庫なんて小学校の社会の教科書にも出てくるのにw
お前は小学校に入り直して勉強し直してこいwww 邪馬台国女王台与は旦波国の出身。強力な海軍力を誇る旦波国が日本海の制海権を掌握するのは当然である。 「弥生時代の韓半島系遺物からみた対外交渉」によると
弥生時代の山陰では鉄器はあるが半島系土器がほとんどない
「楽浪郡存続期における鉄器と玉類の流通網及び技術移転に関する包括的研究」によると
3世紀、畿内は鉄を確保するが、翡翠・碧玉の入手は遅れる
つまり「鉄器>半島系土器、翡翠、碧玉」が当時の価値観らしい
それなのに鉄器が少ない畿内はなんなのか?
やはり海上交易の影響力が小さいように見える 知的水準の低い九州に高床式倉庫を建築することなど無理・無理。
そもそも土蜘蛛を食っている九州人に米など贅沢品である。早くスコップを持って地面を掘ってこい! >>795
3世紀の畿内は鉄器も少なく、ろくに文明化されていない地域だけどな
3世紀日本のど田舎、畿内w 硯が普及していたんだから当時は北部九州が最高の知識水準にあったのだろうな 【金属類回収令(きんぞくるいかいしゅうれい)】
AD198年8月12日発令
伊都を首都とする北部九州邪馬台国連合と戦った、熊本の狗奴国は、
当然、半島・大陸への交通・航路を遮断され、鉄素材を入手できなくなった。
戦局の激化と物資(武器生産に必要な金属資源)の不足を補うため、
東方の生口供給地域(通称キナイコシ)が所有する金属類の全回収を行う目的で制定された、
狗奴国からキナイコシへの絶対命令。
【赤紙(あか・がみ)】
召集令状のこと。
伊都を首都とする北部九州邪馬台国連合と戦った、熊本の狗奴国は、
戦局の悪化に伴い、金属類回収令を発令すると共に、赤紙を乱発した。
倭国乱末期には村ごと全員に赤紙が配布されたため、
鉄の欠片までほじくってかき集めた上で、村人全員丸ごと狗奴国へ移送されたため、
キナイコシには鉄器も住居も無くなってしまった。
病や老衰でわずかに残った住民は、奈良湖の蛙を捕まえて貴重な蛋白源としたという。
(民眠書房より引用) お笑い、半島系土器!低品質な「韓半島」の土器などいらんわ。「韓半島」わっ!気色悪い朝鮮人の著作や! >>799
半島系土器が欲しいのではない
半島系土器があることは大陸との交流があったことの証拠になる
半島系土器がない纏向は大陸との交流がなかったということ
3世紀の纏向は大陸との交流もなく、鉄器も少なく文明化されていないタダのクソ田舎でしたw 畿内では漢字を使用していたが九州では象形文字を使用していた。
九州の装飾古墳に顔文字が書いてあって爆笑したわ。 >>784
>3、4世紀は北九州に半島系土器が集中している
それを博多湾貿易と呼んでいる
3世紀前半の博多に大和と同じ前方後円墳が造られた 半島系土器を使用する九州は悪い伝染病に感染して脳味噌が破壊された。だから土蜘蛛を食っている。 >>791
瀬戸内交易が未発達では無論、阿波説も無理やろ >>799
>低品質な「韓半島」の土器などいらんわ
そもそもの話だが、当時の半島系の土器は本当に低品質だったんか?
有田焼は秀吉の朝鮮出兵で日本に連れて帰ってきた陶工が始めたものだし、
むしろ日本列島よりすぐれた技術があった可能性もあるんじゃね?
俺は比較してみたことないんで、誰か知っている人がいたら教えてください 畿内では外国人を威圧・圧倒するために巨大な前方後円墳を築造した。どうや、羨ましいか? >>802
3世紀に北九州人が畿内の真似をすると、どうして畿内の支配下になるのか?
飛鳥時代に百済式の寺を建てた畿内は百済の支配下だったのか?
墓や器の製造で外国のマネをしたからって外国の支配下にはならんやろ
貴重品の集積の方が当時の権力を示している 146 名前:日本@名無史さん Mail: 投稿日:2020/07/06(月) 12:57:59.26
@畿内説に合わない倭人伝を認めない。
A畿内説に合わない記紀を認めない。
B畿内以外の考古学的出土物を認めない。
Cフルボッコされた畿内説の負けを認めない。
D無視されると勝利宣言する。
E自分で荒らして他説のせいにする。
F論を批判せずに個人を罵倒する。
G存在しない遺跡や確認できない資料を提示して煙に巻く。
H畿内説に合わない鏡を認めない。後で作り始めたことにする。
I証拠を要求するが何を出しても証拠を認めない。
J証明を要求するが畿内説自身は証明ができない。
K論破していないことを論破したと主張する。
L計算ができない。
M方位も距離も畿内に合わせて読み替える。
N川と海の区別がつかない。
O東西南北が分からない。
P日本製を中国製と偽る。
ことで畿内説は成立しています。 事実(1) 邪馬台国は弥生時代
事実(2) 纏向遺跡には弥生時代の遺構が少ない
結論 邪馬台国と纏向遺跡は無関係
事実(1) 邪馬台国は鉄鏃を使っていた
事実(2) 纏向遺跡からは鉄がほとんど出土しない
結論 邪馬台国と纏向遺跡は無関係
事実(1) 邪馬台国は外交文書を使っていた
事実(2) 纏向遺跡からは硯が出土しない
結論 邪馬台国と纏向遺跡は無関係 Q 纏向が邪馬台国の王都である証拠はなんですか?
A 桃の種とカエルの骨(=生ごみ)です 貴重品の集積?九州に貴重品などあるのか?すぐに錆びる脆い鉄器のことか?九州って貧乏臭いわ。 畿内政権が四天王寺を作るのに百済の大工を呼んだように
北九州政権が前方後円墳を作るのに畿内の墓職人を呼んだかもしれない
しかしだからといって職人の故郷の支配下になるわけじゃないだろ
外国の職人を呼んで外国風の物を作ってもらって、
それを大事にした…というだけでは外国の支配下の証拠にはならない >>807
支配ではなくて協力体制の連合
寺は宮ではない >>811
鉄器そのものが少ない畿内よりははるかにマシ
なお、鉄器が消えてなくなったという畿内説の主張は論破済 >>804
>瀬戸内交易が未発達では無論、阿波説も無理やろ
少なくとも、「卑彌呼」時代は瀬戸内海は使わない。 と言うより、危なっかしくて使えない。
倭国(阿波)へは、豊後水道 経由 太平洋ルートだから。 @阿波 >>799
北九州の遠賀川流域は九州物部氏、大和も物部氏 すぐに錆びる脆い鉄器が溶けて消滅し茶色の土しか残らないのは遺跡の発掘現場を見れば一目瞭然だ。
アホの九州説は遺跡の発掘作業をしなさい。論より証拠だ。ちょっとは賢くなるぞ。 >>817
>北九州の遠賀川流域は九州物部氏、大和も物部氏
いずれにせよ、「倭人(阿波勢力)」。 @阿波 >>811
www.kk-bestsellers.com/articles/-/528/
福岡県と奈良県との出土品の数を比較すると、鉄の鏃(やじり)、鉄の刀、剣、矛、絹、魏晋鏡、勾玉、いずれをとっても福岡県のほうが圧倒的に多い >>818
畿内の土壌が他地域に比べて鉄が溶けやすいのでなければお前のその理屈は成立しない
そして、畿内では鉄も人骨もよほど運が良くないと残ってないという結果があるものの、
カエルの骨は多数残っていることからこの理屈は既に論破済み
308 1 名前:日本@名無史さん Mail: 投稿日:2022/03/17(木) 16:56:13.74
まあいいわ
いずれにせよ、地下の深いところが海成粘土層なら、
弥生時代の遺跡から出土する鉄の溶けやすさには関係ないね
311 2 名前:日本@名無史さん Mail: 投稿日:2022/03/17(木) 17:00:24.17
>>308
ところが関係ある
奈良盆地のほとんどは沖積平野だから周囲の山に露頭のある海成粘土層からも土砂が流れてくる
田んぼに硫安を撒いたように硫化物が拡散している可能性が否定できない
312 1 名前:日本@名無史さん Mail: 投稿日:2022/03/17(木) 17:04:29.51
>>311
なるほど
では、纏向周辺の土壌のデータはどうなっていますか?
315 名前:日本@名無史さん Mail: 投稿日:2022/03/17(木) 17:09:36.16
>>312
そんな調査はない
鉄も人骨もよほど運が良くないと残ってないという結果だけがある >>813
百済・日本の同盟的なものはあったかもな
しかし倭人伝は「女王の境界」とか「統属する」とか
北九州が支配下にあるような言いぶりだ
また支配下でないと伊都国の一大率の監視とかできんやろ 遺跡の発掘作業で人骨らしき物を見せられたことがあるが
これは木片じゃない?と思うくらい劣化していた。素人調査員だと見逃して捨ててしまうわ。 >>822
「統屬」は伊都國の王
連合にも境界はある >>818
いい加減に諦めろ
故佐原真氏が言ったと伝えられる「近畿圏では鉄は溶けやすいので、残っていないのだ」は通用しない
主張するなら土壌調査をやって、他地域の土壌ときちんと比較した上で主張してください 伊都国に国王がいたが魏志倭人伝に名前が書いていない。犯罪者の九州人に幽閉されていた。 >>818
土壌調査をやった上で主張するならお前の意見受け入れてやるよ
俺は纏向になんの恨みもないし、そこまでかたくなな人間ではない 温暖で湿潤な日本で鉄器が錆びて溶けるのは一般常識である。知らないアホの九州説は能無しだ。
古代インドの純鉄で製造された錆びない鉄柱など日本にあるか?ないだろう。
古代中国のクロムでメッキされた錆びない刀剣など日本にあるか?ないだろう。 >>828
錆びるのは当たり前だけど、それが何か?
鉄器や人骨の出土量が少ないにもかかわらず、カエルの骨はたくさん残っているのは現実だからどうしようもない
それを「近畿圏では鉄は溶けやすいので、残っていないのだ」と根拠もなく言うのはおかしいだろ?
それでもあえてそう主張するならそれを証明するデータを出せって話 薄ら馬鹿の九州説が言うのは勝手だが地質学より考古学や。遺跡の発掘作業をやったこともないド・素人が!
遺跡の発掘経験者が鉄は錆びて溶ける茶色の土しか残らないと言うとるんじゃ!ボケが! >>824
それだったら「連合の境界」「共立の境界」とかになるやろ >>831
>遺跡の発掘経験者が鉄は錆びて溶ける茶色の土しか残らないと言うとるんじゃ!ボケが!
そんなことより、鍛冶炉遺構を探せ! 遺跡の発掘経験者よ。 わははははは @阿波 >>831
何度か書いているけど、俺は九州説じゃないよw
まずデータを出せよ
「近畿圏では鉄は溶けやすいので、残っていないのだ」などという根拠に乏しい主張をしてみたって誰も信じないし、納得しない
それともアホのド文系の脳では理解できないのかな? >>831
つーか、お前もしかしたらキナイコシと同じで文三の落ちこぼれじゃねーのかw
だったら理解できないのも納得するわwww アホの阿波よ、製鉄遺跡は阿波より旦波の方が遥かに多い。
そもそも邪馬台国の時代に阿波を支配していた安波夜別命は旦波出身だぞ。 >>832
漢民族から見た倭国と倭人の統治体制は違う
日本で中央集権が成立するのは8世紀初頭の律令制から >>837
>製鉄遺跡は阿波より旦波の方が遥かに多い。
製鉄遺跡? ドアホ!そんなもの、弥生時代に無い!
旦波ってなんや? @阿波 アホの九州説に地質学のデータを示しても理解できないだろう。理系じゃないのだから概要を見て終わり。
発掘作業のアルバイトでもするか?鉄が錆びて溶けているのを自分の目で確かめられる。土方やけどな。 >>813
寺が古墳の代わりと見なされていたのを知らないの?
www.haniwakan.com/tenji/3-1jiin.html
>権力を示す記念物(モニュメント)としての古墳づくりから、寺院づくりへと関心がむかいます。 鉄関連の最古の遺跡は福岡県の赤井手遺跡じゃなかったか?
製鉄となると日本列島では5世紀以降だな >>840
お前が理解できないからやろうとしないだけなんじゃねーの?
俺がやる必要はないし、主張するほうがデータ出すのは当たり前のことだと思うが アホの阿波よ、旦波は丹波・丹後・但馬のことだ。こりぁ、あかんわ。 >>841
蘇我氏は臣下
リンクはhttps://を省略するなよ >>844
で、その旦波の遥かに多い製鉄遺跡ってなんという遺跡や? @阿波 >>840
某氏「近畿圏では鉄は溶けやすいので、残っていないのだ」にすがる畿内説w >>848
専ブラ使えばhttps://付いてなくてもリンク先に飛ぶぞ >>850
以前は使ってたがセキュリティ的に信用できない >>849
妄想乙
手の売れにそんなこと書いてないだろ? 畿内説ですが、個人的にはあり得ないと思っています。
魏志倭人伝の当時現在の日本は
邪馬台国を中心とする倭国
出雲王国を中心とする葦原中国
近畿地方は、出雲王国の葦原中国のエリアだったので、
倭国の首都邪馬台国というのは、あり得ないと思います アホの阿波よ、製鉄遺跡と言うのは京都府北部にある扇谷遺跡だ。これは砂鉄系の遺跡だ。
途中ヶ丘遺跡もある。これは鉱石系の遺跡だ。全部で49箇所もあるらしい。 邪馬台国畿内説っていうのは
現代の例で言うと
「日本と韓国の国の国境の範囲がわかっていて
首都東京の場所がどこにあるかを特定するのに
東京は、隣の国の韓国のソウルにあります」 と言っているのと同じだと思います。 邪馬台国九州説って言うのは
邪馬台国は南大東島沖の太平洋にドボン!としてますと主張する珍説です。 畿内説は
某氏の「近畿圏では鉄は溶けやすいので、残っていないのだ」
某氏の「南は東の間違いです」
に立脚する妄想ですw >>855
>製鉄遺跡と言うのは京都府北部にある扇谷遺跡だ。
こいつ、どこのアホ? @阿波 >>857
いやあ落ちないね。
伝の記述にいたった女王国への旅行者はオマエのいうような
マーベル社のフラッシュ進行ではな〜い。
旅の途中のんびりと観光旅行してたから伝の経過月数とかに不合理はない。
南下するのに90°東方へハンドル切りは珍悟空的空想物語。 わははははははは@太国 大和の豪族の系統
大神氏・・・地祇
賀茂氏・・・天神、地祇
物部氏・・・天神
出雲族の系統
天神と地祇があり >>861
なるほど。畿内大和はやっぱりクソど田舎だったてことやねw >>807
>3世紀に北九州人が畿内の真似をすると、どうして畿内の支配下になるのか?
>飛鳥時代に百済式の寺を建てた畿内は百済の支配下だったのか?
じゃあ、機内が先進国だって認める? >>861
畿内も出雲も、「倭人(阿波勢力)」の開拓地。 @阿波 >>854
>畿内説ですが、個人的にはあり得ないと思っています。
何が? >>864
>じゃあ、機内が先進国だって認める?
鉄器が多い場所が先進国に決まっとる >>867
>鉄器が多い場所が先進国に決まっとる
鉄器が多い場所は、鉄器王国「阿波」から下賜されたに決まっとる。 @阿波 >>856
>邪馬台国畿内説っていうのは
そう思う理由は?
唐突に聞かされる結論だけじゃなくて理由を聞きたいな >>868
逆にどうして違うと思うの?
世界史上どこにいっても成立する普遍の法則だろ >>868
キリスト教が広まって最終的にはローマの国教になるわけだが、
発祥の地であるパレスチナがローマよりも先進国だったのかって話
先進国かどうかは文化や宗教では決まらない 卑弥呼は中国人である、という我輩説において、卑弥呼登場の時代に倭人に鉄文化の急速性を求めるにはまだ早いと思うね、石器から突然青銅と鉄に変わる、金、銀、水銀、銅、と鉄では技術力知識が伴う、まだ交換する段階で行き渡るまでは後の話だろ。そもそも卑弥呼は鉄の普及者じゃない。吹上仙洞に武器庫なぞない。 弥生時代に鉄を求めて他地域から博多までやってきていた痕跡はあるだろ 漢中は恵まれた土地だが豊かではなかった。が一国を築いた宗教集団がおった。前漢時代で人口三十万、列島の総人口は卑弥呼時代で五十万位とされとるだろ?卑弥呼は厳しく取り締まっているようだが高圧とは違う、アーミッシュもルールはキツいが暴力的ではない、まあ人多くなれば卑弥弓呼のように反発するのも出て来るのも自然だよ。しなやかな国なんだよ 古代中国も朝鮮半島まで領土持っていたが消えたもんな
耕作できなくなったら放棄されんだわ だいたい元の万里の長城が築かれた南部までは農業生産地として確定しとるわけなんだね なに嘘吐きまくってんだ?
朝鮮半島は軍事力で独立したんだろうが。
朝鮮半島に領土を持っていた中国国家は魏までで、
あとの中華は
北の異民族に征服される
→独立する
→内部での政争
→北の異民族に征服される
のループじゃんか。 >>867
>鉄器が多い場所が先進国に決まっとる
鉄器が多い場所は、鉄器王国「阿波」から下賜されたに決まっとる。 @阿波 九州の先進性を否定する気はさらさら無いよ、倭国乱歴年主無し、九州の先進性を持ってしても纏める事が出来ていなかった、と書いてある。卑弥呼は中国人であるからより進んでいる、よく民を惑わす。宗教指導者だから半島に近く、半島祭祀の影響等もある都会的な場所に本拠地を置いて布教を始めたりしないんだよ。 弥生期 戦争に明け暮れた倭地ではない
食物生産力が国力・・・人口の大小
戦闘能力は鉄も青銅器の武器もさほど変わらない
戦争状況になれば
兵隊の多さ=人口の多さ=農林水産生産力 鉄剣を持った人1人と棍棒を持った人2人
どちらが強いか❔ もちろん棍棒を持ったもの2人 >>885
鉄剣を持った一人に決まってるだろ。
軽くて斬れる VS 重くて振り回すと隙だらけ >>883
それはムラや小国が争っている時期の話。
7万戸なんて統一国家ができたら、首都では農業生産しない。
「收租賦、有邸閣」
(倭国では)年貢や賦役を課して、軍事用食料倉庫がある。
北部九州倭国では常識的な比率の年貢だが、(四公六民や五公五民)
倭国外では搾取(九公一毛人や十公零毛人)&大量の生口として連行<庄内式土器の流れ> >>886
棍棒・・・木刀を連想してください
鉄剣で木刀は手練れでもなかなか切れません
また、二人の内1人が石をぶつけ1人が僕と負で殴れば終わり >>888
アホか。
なんで鉄剣で木刀を切らないといけないんだよ?
技量が同じであれば、鉄剣の突きで終わり。
木刀の突きも強いのだが、鉄剣の突きにはかなわない。
考えてもみろ。
木刀が強いのなら、ヤマトタケルはなんでイズモタケルにわざわざ木刀を仕込んだんだ?
棍棒から木刀に変えた時点でゴールポストを動かしてる卑劣なキナイコシ。 デジャブーw
同じ議論が昔にあった気がするwww
鉄器ゼロで頭がおかしくなった畿内説が、
石鏃のが鉄鏃より強いとか言ってたんだよなw 方言区画を見ると近畿地方は一区画、中国地方は一部例外はあるが一区画、しかし九州は三つの区画がある。
このことから近畿地方と中国地方は古代より域内の人が広く交流していたとが推測される。
逆に九州地方は狭い地域に三つの方言区画がある。
このことから古代九州はまとまっていたとは思えない。 そりゃあ邪馬台国と狗奴国に分かれて戦っていたからな。 大した鉄器がなくても巨大古墳の造成や巨大石の切り出しや運搬が出来るのが畿内なんだよね。
まあそれだけ人足が居たということ自体が、邪馬台国七万戸の証拠に他ならない。 奴隷が反抗できないように無意味な労役を課す。
住居は無く。
蛙の骨まで齧る。 >>893 孝霊厨
巨大古墳の造成や巨大石の切り出しや運搬が出来るのが「倭人(阿波勢力)」なんだよね。 わははははは @阿波 >>893 孝霊厨
巨大古墳の造成や辰砂の採掘が出来るのが「倭人(阿波勢力)」なんだよね。 わははははは @阿波 卑弥呼が用いていたのは鬼道だしな。三世紀、鬼道=道教の都だと奈良盆地辺りしか該当する場所なんてないだろう。
戸数、宗教学的な考察が全くダメだから、九州説は既に古い、昭和の考察論。 土偶や縄文土器を作っていた人々はどこへ行ってしまったのだろう? 当然だが 吉備や阿波や東海、近江や河内から人がこようが邪馬台国とは今のヤマト、畿内に変わりはございません。 卑弥呼が用いていたのは鬼道だと知るには魏使が卑弥呼に会わないとわからないなあ >>899 孝霊厨
「邪馬臺国(粟国)」は、真っすぐ東西に80kmをも貫く大河「四国三郎吉野川」流域集落国家群。
「狗奴国(長国)」は、「辰砂鉱山」と「温暖で豊かな海」に恵まれた県南部の阿南市周辺弥生後期集落遺跡群。
畿内では決してございません。 @阿波 廣志においては伊都の南側にヤマイチ国があるの事で阿波説は論外、伊都から海を渡らないから話にもならない。
また奴国が登場しない事もこれは北部九州の話でない事は確定済み、伊都の近くにある筈の奴国が登場しない行程はあり得ないだろう。
つまり廣志の記述の伊都とは丹波一宮である亀岡や丹波篠山辺り、ヤマイチとは山城、山背辺りを 指している。 出雲の国譲りの元ネタは北部九州辺りと出雲の領土争いなんだろう。
ここが奴国だな、中つ国だし。 >>903 孝霊厨
卑彌呼宗女「壹與」の時代に邪馬台国(粟国)と狗奴国(長国)が統一された。
これが記紀に言う、「出雲の国譲り」
記紀の「天の岩戸神話」における、天照大御神が岩戸に隠れたというのは、倭人伝に言うところの「卑彌呼の死」を意味する。
そして、天照大御神が岩戸から出てきたという記事は、倭人伝に言う「卑彌呼宗女 壹與」の登場を意味する。
なお、魏志倭人伝に云うところの「更立男王」は、須佐之男命。
これが魏志倭人伝と記紀との整合性。 @阿波 <<905
奈良のがある。決してございます。 わははははははは @太国 >>907 太国
このアホは、救いようがないアホ。 @阿波 阿電波
今日は松沢病院に行ってきたかぁ?
ほぼどこの地域でもその鉱石は出るのさ。
はやく「ザ・バットマン」を見に行ってオマエのツラとリドラーの眼鏡ツラ
と見比べろ。似てるかぁ? わははははははは @太国 まあ丹生キ姫神社があるのは和歌山県伊都郡だしな。
丹の山があるのは紀伊半島を指す証拠でしかない。また高天彦神社があるのも金剛山麓、旧葛城山。
日本における高天原とは元々高野天野地方を指している言葉だよ。 >>909 太国
>ほぼどこの地域でもその鉱石は出るのさ。
このアホは、救いようがないアホ。 @阿波 >>902
廣志のは邪馬嘉国だろ。
勝手に捏造するなよ。 阿電波
リドラーとオマエとは表裏一体の〜似た出来のまずそうなツラ構えのよう。 わははははははは @太国 >>845
httpが規制されることもあるようなので規制対策な
>>864
それモネの『ラ・ジャポネーズ』に対しても言える?
・『ラ・ジャポネーズ』
upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/9/99/Claude_Monet-Madame_Monet_en_costume_japonais.jpg
後進国が先進国に憧れてマネることもあるが
先進国が後進国を物珍しさでマネることもある >>914
そもそもお前は、
博多の那珂八幡古墳の首長は九州のどこの邪馬台国に支配されて
その根拠は何か? >>915
「強き女」なんかは支配層向けに作られたらしいぞ
ja.wikipedia.org/wiki/細川ガラシャ#音楽つき戯曲「強き女」 >>890
あったあったw
鉄器の方が強いのに決まっとるわ
日本の中で畿内だけは石器時代が続いていたんかな?w 辰韓からは鉄が出て、鉄を銭のように用いるほど鉄は多いが
倭国と比べて魏が優遇していない >>922
その変なあんたの宗教
連呼して誰が信じる? >>861
畿内はエリアは、倭国と対立する出雲王朝のエリアだったので、
邪馬台国畿内説はやっぱり無理がある
倭国が、出雲王朝から国譲りしてもらった後にできたのが大和政権なので
邪馬台国は、出雲王朝(北九州から日本海、近畿エリア)以外が正しい 三世紀の機内は石器時代だと、それを九州が征服したんだと
これが連句点の妄想
彼がナリスマシや自演で多数派工作すればするほど
九州説はみじめな物になって行く 共立と支配とは違う
畿内説であるが、九州を支配してたとか九州を制圧したいう畿内説論者と意見を異にする。
あくまで共立である。
邪馬台国を畿内とするも。ヤマト王権の前身は邪馬台国ではない。
畿内邪馬台国は西の勢力に制圧されヤマト王権が誕生したと考える。
そもそも、倭国内では邪馬台国は武力に富んだ国ではない。
中立国ゆえ倭国大乱のおり、国々の仲裁的立場として邪馬台国の卑弥呼が登場することになる。
邪馬台国は武力で倭国統制に当たられるほどの強国ではない。
しいて結えば鬼道での党勢であろう。
よって、卑弥呼の死後また倭国は戦乱へ向かう。卑弥呼のバックである邪馬台国が強国であればこのゆな戦乱にはならなかったであろう。
更立男王 國中不服 更相誅殺 當時殺千餘人
この男王がどこの国から出た人物かは不明
どうだろう、ダメでしょうかね? 支配という語を使っているのは畿内説ではなくて九州説 更立男王 國中不服 更相誅殺 當時殺千餘人
だから、倭国が戦乱へ向かったのではなくて、邪馬台国で相誅殺したんだろ 追記
邪馬台国は武力統制できるほど武力はない。
武力で言えば西の国々のほうが上であるし、畿内から遠く離れた九州まで大量に派兵できたとは考えづらい。
以前に述べたとおり、卑弥呼は倭国大乱を契機に北部九州に在住したと考える。
また、邪馬台国の王都は纏向ではない、卑弥呼の墓は箸墓ではない、いまだ不明が自論である。
>>930
そこは、意見の分かれ目かも
邪馬台国の内乱とみるか倭国内の争いとみるか
私は倭国内とみます。
魏志倭人伝は倭地、倭国の記述であり、とりたてて邪馬台国の内乱をきじゅつするであろうか? >>932
卑弥呼が共立される前は「倭國亂」と書いている >>933
國中不服のとらえ方もむつかしいですが。邪馬台国内部の争いならこのような記述の仕方をするあろうか、、、
失礼寝ます。またの機会に。 >>929
>支配という語を使っているのは畿内説ではなくて九州説
土器とか前方後円墳なんか使って九州を征服したように言ったのはどこの誰だったっけ >>928
鉄が無い、言い訳として受け止めとくわww 蛙食の原住民が吉野に居て、応神天皇の時に初めて来朝したと日本書紀にある。
それまでの天皇が纏向など奈良にいたなら、
九州を経由して魏と外交しているのに、
地元吉野の蛙食現地人との交流が無かった、というのは矛盾してくる。 >>938
>蛙食の原住民が吉野に居て、応神天皇の時に初めて来朝したと日本書紀にある
説にかかわらず 君の主張が成り立つ条件
1,記紀は正しい
2,邪馬台国=ヤマト王権である(東遷でも可) 倭国大乱の原因は2世紀初頭の帥升だろう。
王みずから渡海し後漢皇帝に謁見要請。
その屈辱が原因か、あるいはその謁見要請が失敗したことが原因かは分からないが。
どちらにしても帥升のいた場所と卑弥呼のいた場所は同じであり、王族は連続してるのであろう。 >>936
鉄が無いというのもおかしな話
近畿には出ている。 >>940
魏志倭人では各国の戸数が記録されている。
記紀では崇神が戸数調査を行ったと記録されている。
>蛙食の原住民が吉野に居て、応神天皇の時に初めて来朝したと日本書紀にある。
いくら山奥でも都のすぐ近くに未開の集落があるのは妙だね。 外に普及していないのに、古墳から出るというのはおかしいから、
出土する古墳というのは、外に普及した頃の建造ということだな。
つまり遥か後世。
そうなると結局、特殊な土壌をいうのを科学的に立証しなくてはただの願望ファンタジー。 畿内は倭人の風習があるから何もおかしくない
北部九州は韓濊の風習だから当然違う >>946
>畿内は倭人の風習があるから
どの弥生住居のどの風習のことだ? 北部九州人は、本州の倭と半島の韓の境界のマージナルマン
文化の異なる複数の集団に属し、そのいずれにも完全には所属することができず、
それぞれの集団の境界にいる人。境界人。周辺人
3世紀になり、博多湾沿岸が倭の影響下に属するようになった >>945
>外に普及していないのに、古墳から出るというのはおかしいから、
>出土する古墳というのは、外に普及した頃の建造ということだな。
>つまり遥か後世。
>そうなると結局、特殊な土壌をいうのを科学的に立証しなくてはただの願望ファンタジー。
つまり、単に九州説の願望で考古学を否定しているわけだ >>945
要するに貴重な鉄資源をあちこちに放り出して捨てないといけないんだと九州説は主張するわけだ
放り出して捨てないのはおかしいから考古学は間違っていると
そう主張しているわけだ
九州説って、おかしいね 碌な鍛冶炉遺構の無い九州・畿内に、鉄器の有無・多寡を言ったところで的外れ。 なにを考えているんだか。 @阿波 >>944
古墳から出るのは当たり前
貴重品なんだから、権力の象徴でもある >>951
>碌な鍛冶炉遺構の無い九州・畿内に、鉄器の有無・多寡を言ったところで的外れ。 なにを考えているんだか
最古の鍛冶施設は福岡だろ マージナルなごった煮文化が九州というのがいい考え方。ゆえに卑弥呼はそんな処に本拠地をおかないのだよ。まあ、五斗米の巫女はそんな戦略的な事は考えずに極普通に畿内を選んだと思うがな、交通の要所で山んなかの盆地、まさに漢中。 >>938
>蛙食の原住民が吉野に居て
纒向のカエルの骨ってこいつらの生ゴミじゃないのかw その国もとは男王、住むこと7.80年倭国乱れ…記紀を尊重するとすればこの男王が神武とやらか?だな。百襲姫が卑弥呼。もう疑いようがない。 >>952
>古墳から出るのは当たり前
>貴重品なんだから、権力の象徴でもある
つまり九州は畿内政権の下にいる >>953
>最古の鍛冶施設は福岡だろ
福岡も最古のひとつに過ぎない。 弥生時代中期末葉は、福岡だけじゃない。 @阿波 なんで、最古の鍛冶施設がありゃ、邪馬台国なのか?
なんで、鉄は多いけりゃ邪馬台国になるのか?
さっぱりわからん。 >>959
もちろん、鉄器だけじゃない。
他説の追随を許さない、「阿波」の圧倒的遺跡群。
記紀神話を物語る、記紀登場の神名古神社群。
魏志倭人伝の行程・倭地の自然環境描写等々、
総合的に状況証拠を積み重ねると、「阿波」でしかない。 @阿波 >>960
圧倒的遺跡群がありゃ、なんで邪馬台国になる
のもさっぱりわからん >>959
そもそもなんで卑弥呼は魏に使いを送ったんだ?
当時の社会状況考えれば日本じゃなかなか手に入らない鉄が欲しいからやろ >>961
もちろん、圧倒的遺跡群や鉄器だけじゃない。
他説の追随を許さない、「阿波」の圧倒的遺跡群。
記紀神話を物語る、記紀登場の神名古神社群。
魏志倭人伝の行程・倭地の自然環境描写等々、
総合的に状況証拠を積み重ねると、「阿波」でしかない。 @阿波 >>962
邪馬台国に限ったもんではないだろう。
どの国も必要だったと思うがね。 卑弥呼が魏に使いを送った理由は、1つ、魏への忠孝、1つ、神器の鏡、で最後に道教の三番目の神器、玉璽。 ゆえに、朝貢が貧弱であろうが、曹操魏に対し恩義を示し、曹叡から称えられ親魏まで手に入れた。邪馬臺女王卑弥呼の比定者は張魯の娘以外にいないのだよ。 >>961
もちろん、圧倒的遺跡群や鉄器だけじゃない。
他説の追随を許さない、「阿波」の圧倒的遺跡群。
記紀神話を物語る、記紀登場の神名古神社群。
魏志倭人伝の行程・倭地の自然環境描写等々、
総合的に状況証拠を積み重ねると、「阿波」でしかない。 @阿波 無駄です。他説が入り込む隙間なんてありません、曹魏と曹家と所縁ある巫女との話が倭人条です。 阿波なんて別に圧倒的な遺跡群なんてないからな、弥生時代末期としては並みレベルだよ。
畿内の鍵唐古や池上曽根を越える存在ではないからな。また阿波には大した水田跡もない。
日本海側の妻木晩田遺跡のような突出した遺跡の方が今後はかなり重要になる。
当然阿波に戸数七万戸なんてのは夢物語、邪馬台国ではあり得ない場所。
ヤマト朝廷を構成する一部ではあるけどね。 卑弥呼後、大神氏をトップとするグループと崇神をトップとするグループが争い崇神が勝った。
崇神についたグループは天津神、大神氏についたグループは国津神となった。 邪馬台国の位置論なんてもう今更の議論だろう。邪馬台国は結局はヤマト。
百襲姫が三世紀の卑弥呼、日女命で神大市姫とは勿論太陽神を祀る巫女の王の名前であり、
初期道教=鬼道使いの事。
また神大市姫とはスサノオの妃の意味もあり、最上級の祭祀王の名前。
まあ日女命、卑弥呼というのは役名でもあるよ。 新スレ立てました。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1647746199/l50
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*本スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ まあ、欠史8代、ぬなかわみみとか吉備弓削とか耳と弓な、面白そうなとこだね。 魏志倭人伝の行程記述のいろんな矛盾は、北部九州に寄るルートと出雲地方から入るルート、複数の資料があったからに他ならない。
北部九州にあるのは奴国。
これが神話に登場する中つ国の事。
伊都は元出雲の事を指していて、北部九州にあるのはその出張所の事。国境も時代で相当変化してるのは言うまでもない。 >>927
>三世紀の機内は石器時代だと、それを九州が征服したんだと
>これが連句点の妄想
九州が征服した、って誰が書いたの?
読んだ記憶がないけど >>975
>北部九州にあるのは奴国。
>これが神話に登場する中つ国の事
つまり弥生銀座こそが大国主の地盤だった。
大国主が降伏して奴国の新支配者となったのがニギハヤヒ。
それをさらに神武が東征して北部九州倭国を統一した。
では神武がどこから東征したのかというと、
邪馬台国=倭国の首都である伊都しかあるまい。
北部九州説者のいう筑紫の日向だ。
漢委奴國王金印の権威については、国定国際文書である日本書紀にて公式に
天孫族へと委譲されているわけだ。 _∧_∧
/ ̄ ( ・∀・)⌒\
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/.// ・l|∵ ヽ\ ←>>1 弓削と耳というか、天武朝の血縁関係を欠史に盛り込んだだけかもね
道鏡もある意味必然 吉野に蛙食の人たちがいたということは、纏向はその人たちの生ゴミ処理場だったのであろう 纒向に住んでいたのは蛙食の人たち
鉄器がでてこないのも当然のことであろう 卑弥呼は即位ある女王。
百襲媛は即位ない非女王。
畿内で女王は推古がはじめ。
出鱈目に騙されるな。 >>929
>支配という語を使っているのは畿内説ではなくて九州説
答えがでました
957日本@名無史さん2022/03/20(日) 09:58:34.05
>>952
>古墳から出るのは当たり前
>貴重品なんだから、権力の象徴でもある
つまり九州は畿内政権の下にいる >>984太国 ◆ZgyHKik.H2
太国さん よろしければ
>>928を読んでもらえますか 連句点にカエルの骨が残っている件を指摘されたので、目の敵にしてんのかなw >>986
あなたの説だと女王国が畿内に在ってその後に大和朝廷が成ったとかいうが、
そうなると女王国は神武より古い時代にあったとかなる。
そうだと神武以後の歴代天皇の在位年がスシ詰めになって不合理だとなっちゃう。
卑弥呼は230年代だから、神武が250年とか300年ころとかなってくると
なって考えにくい。それに八幡愚童訓に
黄龍2年(230年)=開化48年 呉兵沖縄襲来
に合わなくなるし、千葉歴博考古班の箸墓のハイテク機器測定結果の
240年〜260年
にもあなたの説は合わない。だって箸墓は神武の陵墓でないしね。 >>980
>927は重度の全連句点病です
句読点の人との全連句点の人とちがうのですか? 結局は邪馬台国とはヤマトの事を指す、これはもう間違いないからな。
記紀はあくまでも改変された資料、百襲姫こと三世紀の邪馬台国卑弥呼の存在を隠した資料だよ。 >>991です
失礼しました 理解しました
連句点で統一でした
連句点の方は面白いですね。
ヒラメキとユーモアがあります。
残念なのは邪馬台国に関し少し知識が無いような気がします。 邪馬台国なんてありゃあしねえよ。
あったのは邪馬1国だ。
オーストラリアはオーストリアではない。 >>992
>結局は邪馬台国とはヤマトの事を指す、これはもう間違いないからな
ヤマト王権の前身は邪馬台国とお考えですか? >>991
>>496は恐らくキナイコシがいうところの連句点
以前はよく
「…だったね、、、」
「…だったね。。。」
みたいな書き方をよくしていたから、キナイコシが連続句読点と呼びだした
最近はあまりこの書き方はしてないみたい
文体でわかるけどな >>994太国
あまり、邪馬台国の文字を気にしないようにして議論してもらえないでしょうか。揚げ足取りに使っているようですね。
敢えて言うなら
あなたも間違いです
邪馬1国なんてありません。
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