邪馬台国畿内説 Part776
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1649831704/ ◆1 魏が認識していた倭の位置
魏志倭人伝
倭人在帶方東南大海之中 依山㠀為國邑 舊百餘國 漢時有朝見者 今使譯所通三十國
「大海の中に在る」「山島に依り国邑を為す」との記述から、魏は倭を「島」と認識していたことは明らかである。
この当時、本州と大陸がつながっているかどうかは未解明であり、本州を島と認識していた可能性は低く、倭の位置は九州か四国に絞られる。
したがって、畿内説はあり得ない。
また古くから通交のあった九州を経由せずに四国に行くことは想定できないことから、四国を単独で倭と認識していたこともあり得ない。
よって、魏が認識していた倭の位置は必然的に「九州」または「九州と四国」に決まる。 ◆2 戸数についての議論
晋書倭人伝
倭人在帯方東南大海中 依山島為國 地多山林無良田食海物 舊有百餘小国相接 至魏時有三十國通好
戸有七萬 男子無大小悉黥面文身 自謂太伯之後 又言上古使詣中國皆自稱大夫
魏は倭の三十国と通交していた、戸数は七万戸
魏志倭人伝
南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月
官有伊支馬 次日彌馬升 次日彌馬獲支 次日奴佳鞮 可七万餘戸
邪馬台国の戸数は七万戸
上記二書の七万戸という戸数が一致していることから、邪馬台国とは「魏と通交していた三十国からなる国家連合」のことであり、その合計戸数が七万戸とわかる。
「邪馬台国」が三十国からなる国家連合全体を指す呼称であることから、これまで一般的に認識されていた伊都国→奴国→不弥国→投馬国→邪馬台国という行程は誤りである。
「水行十日陸行一月」は帯方郡から邪馬台国(あるいは魏使が駐在した伊都国)への日数を示すものである。
「水行十日陸行一月」とはこの文脈では「船で行くなら十日かかる距離、陸で行くなら一月かかる距離」という意味であろう。
邪馬台国までの道里が万二千里であるため、陸行の場合は一日に四百里進むことになるが、
戦果報告を十倍にして報告する「露布の慣習」を考慮に入れると一日四十里となり、移動可能な距離である。 ◆3 投馬国とは
魏志倭人伝
南至投馬國水行二十日 官日彌彌 副日彌彌那利 可五萬餘戸
同様に考えると「水行二十日」とは帯方郡→投馬国への距離を日数で表記したものである。
つまり「船で行くなら二十日かかる距離」という意味と解釈できる。
投馬国の場所を倭人伝から読み解くことは不可能だが、戸数五万戸は邪馬台国の戸数に匹敵する数字であり、かなりの人口を擁する国である。
おそらくは別の国家連合であろうが、水行に要するとされる日数が邪馬台国より多いので、北部九州よりもさらに南下する必要がある。
狗奴国が現在の熊本周辺だとすれば九州西部は考えにくく、日向の都万周辺の諸国連合または四国西部の諸国連合と推定される。
なお、投馬国については里数が記載されていないが、
隋書倭国伝
夷人不知里數 但計以日
夷人は里数を知らず。ただ日を以って計る
とあることから、魏の使者は投馬国に立ち寄ってはおらず、邪馬台国の役人からの伝聞の数字と見なしてよい。
狗奴国のように敵対する国であるとは書かれていないので、おそらくは邪馬台国の友好国であろう。
つまり当時の倭には邪馬台国、狗奴国、投馬国、以上三つの国家連合が存在していたことになる。
なお、南に進んでも対馬海流により東に流され出雲にたどり着く可能性は考えうるが、
◆1により魏が本州を倭と見なしていないことは明らかであり、この可能性は考慮しない。 ◆4 邪馬台国への行程
帯方郡
↓7000余里
狗邪韓国
↓1000余里
対馬国(方400余里)
対馬国沿岸を北→南に400余里、西→東に400余里移動する。
↓1000余里
一大国(方300里)
一大国沿岸を北→南に300里、西→東に300里移動する。
↓1000余里
末盧国
↓500里
伊都国
↓100里
奴国
合計12000余里。つまり、女王国とは奴国のことである。 ◆5 女王所都
魏志倭人伝では奴国は伊都国の東南とされているので、
後漢書
建武中元二年倭奴国奉貢朝賀使人自稱大夫 倭國之極南界也
奴国が倭の極南界であるとの後漢書の記述とも一致する。
奴国は通常は那の津周辺と比定されるが、一般民衆の居住地域とは切り離し、別の場所に宮室、桜観、城柵を築いた可能性がある。
768年に朝廷が伊都国の東南に怡土城を設けるが、おそらくはこの怡土城と同じ場所であろう。
怡土城と同じ場所(=高祖山)に桜観を設けることにより海上から来襲する敵を早期に発見することが可能となる。
敵が陥落した後同じ場所に城を築くことは新たな統治者の威厳を示すために古来から行われてきたことであり、
例えば豊臣秀吉は石山本願寺制圧後、同じ場所に大坂城を建てている。 ◆6 邪馬台国連合の衰退
316年西晋が滅亡。翌317年に東晋が成立するが、江南の地に再建されたため、邪馬台国連合は朝鮮半島における鉄器調達の既得権益を失い、衰退へむかう。
これに対して、畿内王朝は越前を経由して朝鮮半島、大陸から鉄器を入手する交易ルートを確立し相対的に軍事力を向上させ、
越前出身の継体天皇の即位(507年頃)により確固たる地位を築いたものと考えられる。
なお、後漢書東夷伝には
女王国自り東のかた海を度ること千余里にして狗奴国に至る。皆倭種なりと雖も女王に属せず
との記載があるが、この記述は魏志倭人伝にある
其の南には狗奴国有り。男子を王と為す。其の官には狗古智水卑狗有り、女王に属せず
の記述と方角が一致しない。
方角の不一致については三国志の成立は後漢書よりも百年以上早いと考えられていることから、三国志成立後の日本列島内での政治状況の変化を反映したものであり、
畿内王朝が邪馬台国連合を征服する前に狗奴国を征服していたことによるものであろう。
なお、邪馬台国連合の滅亡後も旧連合諸国の中には朝廷に従おうとしない者が一定数存在し、その者たちによって起こされた反乱の一つが日本書紀にある磐井の乱(527年)である。 ◆7 邪馬台国連合と畿内王朝の関係
宋史日本国によれば、初めの王は天御中主で彦瀲まで筑紫に都をおき、その第四子の神武天皇が大和州橿原に入居したとある。同様の記述は新唐書にも見られる。
宋史日本国
其の年代紀の記す所に云う、初めの王は天御中主と号す
とある通り、これは日本が提出した年代紀をもとにした記述であり、新唐書についても同様と考えられる。
また旧唐書には
旧唐書倭国
倭国は古の倭の奴国也
旧唐書日本
日本国は倭国の別種也
倭国自ら其の名の雅やかならざるを悪み、改めて日本と為す
日本、旧くは小国なれども、倭国の地を併せたり
との記述がある。
(本項 続く) (承前)
◆7-2
両者を総合して考えると、
(1)当初は筑紫が倭の中心で、その後大和が倭の中心になった。
(2)畿内王朝は邪馬台国連合とは別政権(だが同じ倭種)であって、元は小国で新興国だった畿内王朝が邪馬台国連合を征服し、その後日本国を名乗った。
ことがわかる。神武東遷が史実ではないとすれば、邪馬台国連合は筑紫にあって、大和橿原の畿内王朝は別政権であったと考えるのが自然であろう。
このことは
魏志倭人伝
女王国の東、海を渡りて千余里、復た国有り、皆倭の種なり
の記述ににも符合する。
畿内王朝は歴史の浅い政権であったが、倭奴国、邪馬台国から連続して存在した歴史の長い政権であるかのように偽装するために、神武東遷を捏造した上で虚偽の年代紀を作成し、唐、宋に提出したのであろう。
畿内王朝は663年の白村江の戦いに敗北したことにより唐との関係が悪化したが、関係改善のために古来より支那の友好国であったことを偽装する目的もあったと考えられる。 ◆8 三角縁神獣鏡
◆7の文脈で考えると、三角縁神獣鏡が畿内で多数発見されていることも理解可能である。
畿内王朝は邪馬台国連合を征服、筑紫にあった三角縁神獣鏡を略奪し、
その後、大量のコピーを作成し、周辺諸国にバラまくことで畿内王朝の正当性を誇示しようとしたものと考えられる。
三角縁神獣鏡の大半が仿製鏡と見なされることはこの考えを裏付けるものである。
実際に存在しない年号の鏡が存在するのは大量コピーの際の単純なミスであろう。
畿内王朝は魏との通交がなかったため、魏の年号に精通していなかったものと考えられる。 ◆9 「ヤマト」の由来
畿内王朝は邪馬台国連合征服後に邪馬台国の名前を奪い、「ヤマト」を名乗るようになり、
邪馬台国連合の残党で朝廷に服さない勢力を「土蜘蛛」と呼ぶようになったものと推測される。
土蜘蛛の田油津媛と兄の夏羽が筑紫の山門郡にいたとの記述が日本書紀にあるが、
邪馬台国連合の残党が居を構えていた地域であったため、「山門」の地名がつけられたのであろう。 前スレで疑問が出されていたので訂正します
***
◆2 戸数についての議論
晋書倭人伝
倭人在帯方東南大海中 依山島為國 地多山林無良田食海物 舊有百餘小国相接 至魏時有三十國通好
戸有七萬 男子無大小悉黥面文身 自謂太伯之後 又言上古使詣中國皆自稱大夫
魏は倭の三十国と通交していた、戸数は七万戸
魏志倭人伝
南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月
官有伊支馬 次日彌馬升 次日彌馬獲支 次日奴佳鞮 可七万餘戸
邪馬台国の戸数は七万戸
上記二書の七万戸という戸数が一致していることから、邪馬台国とは「魏と通交していた三十国からなる国家連合」のことであり、その合計戸数が七万戸とわかる。
「邪馬台国」が三十国からなる国家連合全体を指す呼称であることから、これまで一般的に認識されていた伊都国→奴国→不弥国→投馬国→邪馬台国という行程は誤りである。
「水行十日陸行一月」は帯方郡から邪馬台国(あるいは魏使が駐在した伊都国)への日数を示すものである。
「水行十日陸行一月」とはこの文脈では「船で行くなら十日かかる距離、陸で行くなら一月かかる距離」という意味であろう。
邪馬台国までの道里が万二千里であるため、陸行の場合は一日に四百里進むことになるが、
戦果報告を十倍にして報告する「露布の慣習」を考慮に入れると一日四十里となり、移動可能な距離である。
同様に考えれば、水行では一日百二十里となり、これも移動可能な距離である。 >>13
重複スレを立てる者が出てきたら通報してください ◆UiepmfCeDJqf=神様 ◆KvCyejheZ.=連続句読点=キナイコシ連呼全一病患者 当スレッドは、邪馬台国畿内説スレで引き継がれてきたテンプレを改変し、
にもかかわらず、スレタイ及びナンバーを変更せずに誘導しようとする悪質な偽スレです
邪馬台国畿内説スレの正統スレは下記のスレです
邪馬台国畿内説 Part776
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1650003012/ >>19は重複スレを乱立させる日本史板荒らしである <後漢書韓伝>
韓有三種 一曰馬韓 二曰辰韓 三曰弁辰
馬韓在西 有五十四國 其北與樂浪南與倭接
辰韓在東 十有二國 其北與濊貊接
弁辰在辰韓之南 亦十有二國 其南亦與倭接 凡七十八國
馬韓 「其北與樂浪南與倭接」馬韓の北は楽浪郡と接し、馬韓の南は倭と接す
辰韓 「其北與濊貊接」
弁辰在辰韓之南 「其南亦與倭接」弁辰の南もまた倭と接す
どう見ても後漢時代から朝鮮半島南部は倭領。
<三国志魏志韓伝>
「韓 在帶方之南 東西以海爲限 南與倭接 方可四千里」
最初にドンと韓全体の南が倭と接することが明記されている。
馬韓を構成するのは55國。弁辰はたったの12國。
・馬韓の構成国のうち倭と接する国が多すぎて字数を割いていちいち列挙してられない。
・弁辰には金印倭人が鉄を取りに入っているので、情報価値が高い。「國出鐵 韓濊倭皆從取之」
ことから、弁辰瀆盧國だけ特別に触れた。
朝鮮半島南部にあった倭領=投馬國。その中心地が「到」狗邪韓國。
<三国志夫餘伝>
「南與高句麗東與挹婁西與鮮卑接」
<三国志高句麗伝>
「南與朝鮮濊貊東與沃沮北與夫餘接」
<三国志東沃沮伝>
「北與挹婁夫餘南與濊貊接」
<三国志濊伝>
「南與辰韓北與高句麗沃沮接」 これが真実だ!
*****
◆1 魏が認識していた倭の位置
魏志倭人伝
倭人在帶方東南大海之中 依山㠀為國邑 舊百餘國 漢時有朝見者 今使譯所通三十國
「大海の中に在る」「山島に依り国邑を為す」との記述から、魏は倭を「島」と認識していたことは明らかである。
この当時、本州と大陸がつながっているかどうかは未解明であり、本州を島と認識していた可能性は低く、倭の位置は九州か四国に絞られる。
したがって、畿内説はあり得ない。
また古くから通交のあった九州を経由せずに四国に行くことは想定できないことから、四国を単独で倭と認識していたこともあり得ない。
よって、魏が認識していた倭の位置は必然的に「九州」または「九州と四国」に決まる。 ◆2 戸数についての議論
晋書倭人伝
倭人在帯方東南大海中 依山島為國 地多山林無良田食海物 舊有百餘小国相接 至魏時有三十國通好
戸有七萬 男子無大小悉黥面文身 自謂太伯之後 又言上古使詣中國皆自稱大夫
魏は倭の三十国と通交していた、戸数は七万戸
魏志倭人伝
南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月
官有伊支馬 次日彌馬升 次日彌馬獲支 次日奴佳鞮 可七万餘戸
邪馬台国の戸数は七万戸
上記二書の七万戸という戸数が一致していることから、邪馬台国とは「魏と通交していた三十国からなる国家連合」のことであり、その合計戸数が七万戸とわかる。
「邪馬台国」が三十国からなる国家連合全体を指す呼称であることから、これまで一般的に認識されていた伊都国→奴国→不弥国→投馬国→邪馬台国という行程は誤りである。
「水行十日陸行一月」は帯方郡から邪馬台国(あるいは魏使が駐在した伊都国)への日数を示すものである。
「水行十日陸行一月」とはこの文脈では「船で行くなら十日かかる距離、陸で行くなら一月かかる距離」という意味であろう。
邪馬台国までの道里が万二千里であるため、陸行の場合は一日に四百里進むことになるが、
戦果報告を十倍にして報告する「露布の慣習」を考慮に入れると一日四十里(一里=434mとして約17km)となり、移動可能な距離である。
同様に考えれば、水行では一日百二十里(約52km)となり、やはり移動可能な距離におさまる。 ◆3 投馬国とは
魏志倭人伝
南至投馬國水行二十日 官日彌彌 副日彌彌那利 可五萬餘戸
同様に考えると「水行二十日」とは帯方郡→投馬国への距離を日数で表記したものである。
つまり「船で行くなら二十日かかる距離」という意味と解釈できる。
投馬国の場所を倭人伝から読み解くことは不可能だが、戸数五万戸は邪馬台国の戸数に匹敵する数字であり、かなりの人口を擁する国である。
おそらくは別の国家連合であろうが、水行に要するとされる日数が邪馬台国より多いので、北部九州よりもさらに南下する必要がある。
狗奴国が現在の熊本周辺だとすれば九州西部は考えにくく、日向の都万周辺の諸国連合または四国西部の諸国連合と推定される。
なお、投馬国については里数が記載されていないが、
隋書倭国伝
夷人不知里數 但計以日
夷人は里数を知らず。ただ日を以って計る
とあることから、魏の使者は投馬国には立ち寄っておらず、邪馬台国の役人からの伝聞の数字と見なしてよい。
狗奴国のように敵対する国であるとは書かれていないので、おそらくは邪馬台国の友好国であろう。
つまり当時の倭には邪馬台国、狗奴国、投馬国、以上三つの国家連合が存在していたことになる。
なお、南に進んでも対馬海流により東に流され出雲にたどり着く可能性は考えうるが、
◆1により魏が本州を倭と見なしていないことは明らかであり、この可能性は考慮しない。 ◆4 邪馬台国への行程
帯方郡
↓7000余里
狗邪韓国
↓1000余里
対馬国(方400余里)
対馬国沿岸を北→南に400余里、西→東に400余里移動する。
↓1000余里
一大国(方300里)
一大国沿岸を北→南に300里、西→東に300里移動する。
↓1000余里
末盧国
↓500里
伊都国
↓100里
奴国
合計12000余里。つまり、女王国とは奴国のことである。 ◆5 女王所都
魏志倭人伝では奴国は伊都国の東南とされているので、
後漢書
建武中元二年倭奴国奉貢朝賀使人自稱大夫 倭國之極南界也
奴国が倭の極南界であるとの後漢書の記述とも一致する。
奴国は通常は那の津周辺と比定されるが、一般民衆の居住地域とは切り離し、別の場所に宮室、桜観、城柵を築いた可能性がある。
768年に朝廷が伊都国の東南に怡土城を設けるが、おそらくはこの怡土城と同じ場所であろう。
怡土城と同じ場所(=高祖山)に桜観を設けることにより海上から来襲する敵を早期に発見することが可能となる。
敵が陥落した後同じ場所に城郭を築くことは新たな統治者の威厳を示すために古来から行われてきたことであり、
例えば豊臣秀吉は石山本願寺制圧後、同じ場所に大坂城を建てている。 ◆6 邪馬台国連合の衰退
316年西晋が滅亡。翌317年に東晋が成立するが、江南の地に再建されたため、邪馬台国連合は朝鮮半島における鉄器調達の既得権益を失い、衰退へむかう。
これに対して、畿内王朝は越前を経由して朝鮮半島、大陸から鉄器を入手する交易ルートを確立し相対的に軍事力を向上させ、
越前出身の継体天皇の即位(507年頃)により確固たる地位を築いたものと考えられる。
なお、後漢書東夷伝には
女王国自り東のかた海を度ること千余里にして狗奴国に至る。皆倭種なりと雖も女王に属せず
との記載があるが、この記述は魏志倭人伝にある
其の南には狗奴国有り。男子を王と為す。其の官には狗古智水卑狗有り、女王に属せず
の記述と方角が一致しない。
方角の不一致については三国志の成立が後漢書よりも百年以上早いと考えられていることから、三国志成立後の日本列島内での政治状況の変化を反映したものであり、
畿内王朝が邪馬台国連合を征服する前に狗奴国を征服していたことによるものであろう。
なお、邪馬台国連合の滅亡後も旧連合諸国の中には朝廷に従おうとしない者が一定数存在し、その者たちによって起こされた反乱の一つが日本書紀にある磐井の乱(527年)である。 ◆7 邪馬台国連合と畿内王朝の関係
宋史日本国によれば、初めの王は天御中主で彦瀲まで筑紫に都をおき、その第四子の神武天皇が大和州橿原に入居したとある。同様の記述は新唐書にも見られる。
宋史日本国
其の年代紀の記す所に云う、初めの王は天御中主と号す
とある通り、これは日本が提出した年代紀をもとにした記述であり、新唐書についても同様と考えられる。
また旧唐書には
旧唐書倭国
倭国は古の倭の奴国也
旧唐書日本
日本国は倭国の別種也
倭国自ら其の名の雅やかならざるを悪み、改めて日本と為す
日本、旧くは小国なれども、倭国の地を併せたり
との記述がある。
(本項 続く) (承前)
◆7-2
両者を総合して考えると、
(1)当初は筑紫が倭の中心で、その後大和が倭の中心になった。
(2)畿内王朝は筑紫王朝とは別政権(だが同じ倭種)であって、元は小国で新興国だった畿内王朝が筑紫王朝を征服し、その後日本国を名乗った。
ことがわかる。神武東遷が史実ではないとすれば、邪馬台国連合は筑紫にあって、大和橿原の畿内王朝は別政権であったと考えるのが自然であろう。
このことは
魏志倭人伝
女王国の東、海を渡りて千余里、復た国有り、皆倭の種なり
の記述ににも符合する。
畿内王朝は歴史の浅い政権であったが、倭奴国、邪馬台国から連続して存在した歴史の長い政権であるかのように偽装するために、神武東遷を捏造した上で虚偽の年代紀を作成し、唐、宋に提出したのであろう。
畿内王朝は663年の白村江の戦いに敗北したことにより唐との関係が悪化したが、関係改善のために古来より支那の友好国であったことを偽装する目的があった可能性も考えられる。 ◆8 三角縁神獣鏡
◆7の文脈で考えると、三角縁神獣鏡が畿内で多数発見されていることも理解可能である。
畿内王朝は邪馬台国連合を征服、筑紫にあった三角縁神獣鏡を略奪し、
その後、大量のコピーを作成し、周辺諸国にバラまくことで畿内王朝の正当性を誇示しようとしたものと考えられる。
三角縁神獣鏡の大半が仿製鏡と見なされることはこの考えを裏付けるものである。
実際に存在しない年号の鏡が存在するのは大量コピーの際の単純なミスであろう。
畿内王朝は魏との通交がなかったため、魏の年号に精通していなかったものと考えられる。
◆9 「ヤマト」の由来
畿内王朝は邪馬台国連合征服後に邪馬台国の名前を奪い、「ヤマト」を名乗るようになり、
邪馬台国連合の残党で朝廷に服さない勢力を「土蜘蛛」と呼ぶようになったものと推測される。
土蜘蛛の田油津媛と兄の夏羽が筑紫の山門郡にいたとの記述が日本書紀にあるが、
邪馬台国連合の残党が居を構えていた地域であったため、「山門」の地名がつけられたのであろう。 >>37
↓↓↓お前がいくらわめいても現実はこれ↓↓↓
帯方郡
↓7000余里
狗邪韓国
↓1000余里
対馬国(方400余里)
対馬国沿岸を北→南に400余里、西→東に400余里移動する。
↓1000余里
一大国(方300里)
一大国沿岸を北→南に300里、西→東に300里移動する。
↓1000余里
末盧国
↓500里
伊都国
↓100里
奴国
合計12000余里。つまり、女王国とは奴国のことである。 それで卑弥呼と台与を祭っている九州の神社は何と言う神社? AA荒らし犯人がいくら一人で伸ばしても、此処は汚れた偽スレ
まともな人は相手にしない >>41
バレてるよ
ここは穢らわしい偽スレ
偽スレの味方は犯人本人 >>1
<後漢書韓伝>
韓有三種 一曰馬韓 二曰辰韓 三曰弁辰
馬韓在西 有五十四國 其北與樂浪南與倭接
辰韓在東 十有二國 其北與濊貊接
弁辰在辰韓之南 亦十有二國 其南亦與倭接 凡七十八國
馬韓 「其北與樂浪南與倭接」馬韓の北は楽浪郡と接し、馬韓の南は倭と接す
辰韓 「其北與濊貊接」
弁辰在辰韓之南 「其南亦與倭接」弁辰の南もまた倭と接す
どう見ても後漢時代から朝鮮半島南部は倭領。
<三国志魏志韓伝>
「韓 在帶方之南 東西以海爲限 南與倭接 方可四千里」
最初にドンと韓全体の南が倭と接することが明記されている。
馬韓を構成するのは55國。弁辰はたったの12國。
・馬韓の構成国のうち倭と接する国が多すぎて字数を割いていちいち列挙してられない。
・弁辰には金印倭人が鉄を取りに入っているので、情報価値が高い。「國出鐵 韓濊倭皆從取之」ことから、弁辰瀆盧國だけ特別に触れた
朝鮮半島南部にあった倭領=投馬國。その中心地が「到」狗邪韓國。
<三国志夫餘伝>
「南與高句麗東與挹婁西與鮮卑接」
<三国志高句麗伝>
「南與朝鮮濊貊東與沃沮北與夫餘接」
<三国志東沃沮伝>
「北與挹婁夫餘南與濊貊接」
<三国志濊伝>
「南與辰韓北與高句麗沃沮接」 だから言っていただろー、
工作員みたいな・・・何かが?がいるんだろう。
何時代の話なのか知らないけど、
墓荒らしみたいなことをした・・・・・・とか。 悪く言うと、成り済ましの(家)系図、
偽の・・・を作成したりみたいな話をしている人達もいたような。
かなり最近(〜近代、江戸時代?もう少し前?)の話。 ちなみに家は『』こういう家、おかしな話ばかり?
〜何も繋がっていない? 調べると出て来る?そういう話(と老婆談)も同じ、
蚕を飼っていたり・・・、どこかの橋の話とか。 嫁・・・嫁の家?蚕を飼っていて・・・という話。
謎の写真の家、子供が着ている制服も、軍人〜、何やら〜、〜でもない。 『天財若子』〜天若〜。
>七夕伝説の彦星神格
〜先祖という話と同じ。 それにしても、なんで知っている人がいるんだろう。
ほとんど、それらしき・・・ばかり出てくる。
例『王母 七夕』『』『』〜。 『』『』ほとんど出てきたりする。
創価(による工作)でもなさそうだしな、
とある説(論)によると、創価は鳥居、〜とか嫌い? 老婆談によると、創価にも、ただ入っただけみたいな話、
かなり最近(入って数十年くらいしか経っていない?)・・・。 何かの家?
創価に入っているという話をしている人もいた。
どのスレッドだったかな、
でも、そういう書き込みは悪く言うと、すとーかー?工作員。 アマ〜、何やら、〜、
そういうスレッドがあったりした。
誰々、某は創価に入っている(創価じゃなかった?)という書き込みあった。 こういうスレッドと同じw
一人で(同じような話を)、
ずっと・・・書き込みをしているようなスレッド。
もれは、掲示板とかを発見したから・・・来ただけ。 一人で?同じ話をしているだけ〜みたいなw
謎のスレッドがあったりする、あった。 書き込み、話の中身(内容?)も何もない。
アマ何やらが〜、何やら〜、アマ〜、何やら、
アマ〜、そういう書きこみだけ、何なんだろう。 >>1
こういうスレッドはマトモ。
ただ・・・みたいな書き込みをしているだけ、
そういうスレッドがあったりする。 預言〜みたいなスレッドでもないw
ただ(例えば)、
何かのキャラクターの名を書き込み?続けているだけみたいなスレッド。 加藤某(事件)みたいな掲示板、スレッドでもない。
何の・・・・・・・・・・・・・もないスレッド。 ほんとーに、加藤某(〜事件)みたいなスレッドでもない。
ただ、そういうキャラクター(?)みたいな名前を書き込み続けているだけ、
一人で? 『鋼鉄ジーグ』?みたいなスレッドもあった。
なぜか、一人で・・・書き込みを続けているような。 「鋼鉄ジーグ」みたいなスレッド。
マザーが何やら〜みたいな話(そういうキャラ設定?)もしていた。
一人で・・・何か書き込みをしているだけ? それでw
悪く言うと成り済まし、騙り・・・、
何なのか知らないけど、何がしたいんだ?
肉とか食べてなかったという話もしていたしな、
『』
こういう家、・・・何かの家?ほんとーの上級なんとか?
肉(牛肉、豚肉も)とか食べていなかった。 ほんとーの?
日本の〜上級なんとか(上のほうの家、人物とか)は、
肉とか食べたりしていなかった。
とある説、論によると、そう。 老婆談w・・・、
『』こういう家の話(この書き込みをしている) 天若日子?『天財若子』?
こういう家『王母 龍宮』w何かの家? べつに食べたいのなら食べても良いんだけど、
何か?・・・おかしな話ばかり、どうなっているんだろ? 河童(ではないんだけど)何やら〜?
何かの家だという話をしている人もいた、
むかーしの、ほんとーの渡来人の〜?
どのスレッドだったかな。 キュウリのような葉、葱の華(写っている)〜、あったでしょ。
『』こういう家の写真。 山王院?
山の上のほうに住んでいて〜、ほんとーの何かの家。 どうなっているんだろう?
〜部落みたいなところに、引っ越してきたみたいな話なのかな? この周辺は確実、なぜか繋がっている、
花を摘みに〜とか、言っているしw
『日本昔話 石楠花』 どういうシステムなんだろう。
この周辺とか〜『法華経』(コトバンク?)調べてみると繋がっている、
『採菓汲水・採花汲水』、『』 このスレッドw
ダック、ダック〜何やらという、
謎の書き込みをしている人もいたしな、
例『カモ』・・・・『天若日子 シール』?何か知っている人がいるのかな。 ダック、ダック〜何やらとか。
もれが・・・『天財若子』〜と説明する以前の書き込みだったような?
ただ、謎の写真とか、〜みたいな話(書き込み)だけはしていた。 偶然でもなんでも良いんだけど、
なんで知っているんだろう?・・・みたいな話(書き込み、レス)ばかり。 最近、現れなくなったけど・・・『ダック』という書き込みw
それともダック〜の話をしなくなっただけなのかな。 このスレッド(日本史〜板とか)ではないんだけど。
ですら〜、という謎のレスをしてきた人もいる。 ほんとーの何かの家なのかな?
それとも(悪く言うとw)すとーかーみたいな・・・・・・がいるのかな、
おかしな話ばかり。 老婆談によると、軍人でもないような?という話もしていた。
それとも、〜戦場とかに行っていないだけなのかな、おかしな話ばかり。 また転写保存です。
>>564
>>魏志倭人伝の写本や版本群には、「臺与」なんて文言は存在しないし、
>写本なんて残ってません
つまり>>550の言っていること嘘
版本は、原則として写本の通りに版刻して印刷するんだから、
写本としている事は同じであり、
(紹興本以外は)、
文字な内容の書き変えは、写本が残っている事になる。
つまり、(大和説者の?)>>556の言っている事は、嘘吐き騙し、ですね。 >>89
お前がいくらわめいてもこれが現実
帯方郡
↓7000余里
狗邪韓国
↓1000余里
対馬国(方400余里)
対馬国沿岸を北→南に400余里、西→東に400余里移動する。
↓1000余里
一大国(方300里)
一大国沿岸を北→南に300里、西→東に300里移動する。
↓1000余里
末盧国
↓500里
伊都国
↓100里
奴国
合計12000余里。つまり、女王国とは奴国のことである。 「倭人(阿波勢力)」を侮ってはいけない。
精緻な銅鐸や勾玉製作技術・辰砂採掘精製技術・鍛冶鉄器製作技術・造船外洋航海技術等々
彼らは「卑彌呼」の時代以前から、超先進技術・高度文化を創生したスーパー頭脳集団なのである。 @阿波 だから言っているだろー。
成り済まし、騙り・・・w
何なのか知らないけど、何がしたいんだ?
テンノウ何やら〜とか、ただ、そう言っているだけだしな、
ちなみに家は『』こういう家。
成り済ましの頭の中「?????」 何かの直系、一系?・・・低脳・・・成り済まし、墓荒らし?
何なんだ? 例えば。
他人の、お墓参りとか、行く人はいないだろ、
他人(他人の家)でも、お墓参りをしたいとか、理由があるのなら、
それはそれで良いんだけど。
ちなみに家は『』こういう家、どういう事だと思う? ちなみに『天財若子』、天若日子〜、同じ家。
どういう事だと思う? 当時、テンノウ・・・何やら〜とか、いなかったわけなんだけど。 >>91
いかにも女王国=奴国不弥国である。
後漢書にも女王国は記載されており、
共立される前の卑弥呼が勤めていたのが、女王国=奴国不弥国。
大阪府知事だったのだな。
その卑弥呼が倭国全体の大倭王に共立されたことにより、
三国志に記載された通り、伊都国の人々なども女王の直接支配下に統属されて、
邪馬台国(=卑弥呼時代の倭国)の中に、伊都国、女王国=奴国不弥国、その他の国々、が内包されたのだな。
卑弥呼は、邪馬台国の中の、女王之所都=伊都国に移動した。
大阪府知事が首相になって、東京の永田町へと移動した、のだな。 だから言っているだろ・・・、「聖天子」?
『日本昔話 石楠花』こういう家、人物の話。 ほんとーはw正確には。
馬に乗って〜、腰に何かの刀(剣)も差していた?
家、部屋に飾ってあった。 「「伊都國と奴國との境界が、女王國の境界でもあったのだから、「奴國∈女王國」である」という命題が、真なのだ。」という前提で討論するスレッドがあれば、良いのではないのかな。 >>105
だが、それでは、あまりの頭の悪さで、頭が普通の者達にとっては、面白味のレベルだけは驚く程高い、邪馬台国畿内説を主張している者達は、「九州島のある地点から畿内までの広い範囲が邪馬台国なのだ。」という不自然な主張をしなければ、そのスレッドに来訪できないぞ。 >>106
貴方は、「女王國=邪馬台国」という前提で、意見を発表したが、邪馬台国は魏志倭人伝とは、無関係だし、魏志倭人伝に紹介された邪馬壹國は、女王國の都だよ。
だから、
「九州島のある地点から畿内までの広い範囲が女王國であり、女王國の都である邪馬壹は畿内にあったのだ。」という主張を否定するためには、
魏志倭人伝には、「女王國の要素である奴國と女王國の要素である邪馬壹國が、陸行だけで往来されたのだ。」と明記されていたことを、証さなければ駄目だな。 >>107
貴方は、それを、魏志倭人伝に次々に書かれた「次」という文字に注目し、証したので、邪馬台国畿内説は、完全に破綻してしまったのだな。 ジャップ気づいてしまうw 「邪馬台国」「卑弥呼」は蔑称 [241672384]
https://greta.5ch.net/test/read.cgi/poverty/1651223185/
山本ともひろ
@ty_polepole
午前、自民党文科部会を開催。
九州大学の川本芳昭名誉教授から「邪馬台国・卑弥呼の呼称と国号日本との関係」と題して講演して頂き、
邪(よこしま)、卑(いやしい)は、当時の中国が周辺国を文明が劣ったものとして蔑称の意味で
それらの文字を当てたことが良く分かりました。今後どうすべきか考えます!
https://mobile.twitter.com/ty_polepole/status/1519550955028910080
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) 纒向遺跡の発掘をやっていた関川さんが纒向は邪馬台国とは関係ないと言っているんだから、関係ないんだろ
纒向が邪馬台国の都だとかいう妄想を語るのはいい加減にもうやめろ >>108
僕達は、魏志倭人伝に次々に書かれた「次」という文字に注目し、
魏志倭人伝では、帯方から奴国までの道順、つまりは、郡の境界から女王國の境界までの12000里と
女王國内部である「邪馬壹から奴国までの帰りに通る国々」が、次次に示されていることを証したので、
邪馬台国畿内説は、完全に破綻したのだったね。 >>112
貴方は、またしても、真実を発表したな。 僕達が、作成したスレッドではないが、
様々な学者や学生が、活発に研究や討論を進行させているな。
高いレベルのスレッドだ。感動だ。感謝だ。 >>116
奥山氏が、繰り返し繰り返し、何度も完全に論破されてしまってきたテンプレートを貼り付けて作成したスレッドは、
繰り返し繰り返し、完全に論破されてしまってきたテンプレートを貼り付けた後、
奥山氏自身が、アスキーアートで埋め尽くし、討論できなくしてしまうので、
代わりに、様々な学者や学生が、活発に研究や討論を進行させる為に、このスレッドが出現したのでは、ないのかな。 >>112
貴方が発表した、その真実は、5ちゃんねるのスレッドに記録しながら、貴方達が魏志倭人伝を最初に翻訳したとき発見できたのだったな。
そして、あの懐かしいスレッドは、奥山氏による卑劣な荒らし行為で、倉庫に押し込められてしまい、今は、もう、探し出せなくなったよ。 祇園山古墳が高良大社の麓にあることは、ほとんどの本州人は知らないので、困ったことですね(大和説の陰謀かな?!^^)。
まず、魏志倭人伝「女王国(九州)東渡海千里複有国皆倭種(本州)。又有侏儒国(四国)在其南、去女王(之所都)四千里」で、九州で決まり。
さらに「(女王国)其南有狗奴国(長官・狗古智卑狗=菊池彦)」ですから、邪馬台国七万戸は、菊地平野の北・筑紫平野しかないですね。
そして3世紀中頃の築造で、殉葬者66人が確認されている王墓は祇園山古墳しかなく、その尾根上にある筑後国一之宮・高良大社で決まりです(おめでとうございます)!
ちなみに「不弥国から南水行二十日で投馬国に至る。さらに南水行十日陸行一月で邪馬台国に至る」は、「その道里を計るに、まさに会計東冶(帯方郡から12,000里)之東(沖縄と台湾の中間)にあるべし」と結論するために、陳寿が「中国大陸側の行程」を倭国に転用した忖度(嘘)とすると、投馬国五万戸(宮崎都万)も九州内に収まりますよ。
なんだか双六の「ふりだしに戻る」みたいで、呆気ないものですね( *´艸`) >>119
祇園山古墳=卑弥呼の冢
那珂八幡古墳=1号:男弟の墓、2号:台与の墓 もとはと言えば他説のスレ(「邪馬台国は九州にあった」など)を畿内説が荒らしまくったので、
その連中を隔離するために畿内説以外の人たちが立てたスレが畿内説スレ
因果応報。今度は畿内説スレが荒らされるのは当然
毎回毎回スレ立てしても贅六征伐に荒らされまくってザマァだなw
邪馬台国畿内説 Part1
1 :日本@名無史さん:2013/08/31(土) NY:AN:NY.AN
畿内説の人、他説の批判ばかりしてないでここで思う存分語りましょう
https://awabi.5ch.net/test/read.cgi/history/1377920141/1 >>119
>「その道里を計るに、まさに会計東冶(帯方郡から12,000里)之東(沖縄と台湾の中間)にあるべし」と結論するために、陳寿が「中国大陸側の行程」を倭国に転用した忖度(嘘
曹魏(洛陽)から見た倭列島は、宿敵である孫呉(建業)の背後にないといけないのよ。 新しいスレッドが出現したので、紹介します。
なぜ、邪馬台国畿内説は、完全に破綻するのかを、魏志倭人伝を翻訳し、理解するスレッド。
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/kobun/1652411716/l50 新しい侮辱罪の法施行がなされたので
みなさん、どうかお手柔らかにお願いしますね
とくに奈良の研究所などを誹謗すると
罰金をくらう可能性が高いですよ。
でも9000円をかけて奈良の研究所がこのスレを
のぞき見てるか検証するのも乙かと 邪馬台国畿内説は否定証明済み
卑弥呼の居た三世紀半ばは西日本は近畿、吉備、出雲などの諸勢力が割拠していて
緩やかに連合している状態であり、
どの勢力も他の勢力を軍事的に統括出来ずにいた。
これは古代日本史の完全な定説で、否定するものなど誰も居ない。
ところが邪馬台国の命令で北部九州を軍事的に統括していた伊都国は北部九州にある。
つまり近畿に邪馬台国があったと主張することは、
近畿は自分の周辺国すら軍事的に統括出来ずに居たのに
中国地方をすっ飛ばして北部九州は軍事的に統括出来たと主張することになる。
これはバカが言う説であり、最早学問の体を成していない。
邪馬台国畿内説は立論の段階で失敗しており、学説として成立していないファンタジー。
はい、完全論破w
TwitterやYouTubeを見てみるとネトウヨ芸人はみな九州説だな
口を揃えて韓国ヘイトをばら撒くレイシスト
統一教会や日本会議や暇アノンの教義なのか?
ネトウヨに残酷な歴史的真実を告げよう
人類学的にジャップのゲノムは紀元前3000年頃の遼寧省の遼河文明人のものだと判明している
縄文人はアイヌの先祖でありジャップは遼寧省から韓半島を経由して日本列島に移住したんだ
遼寧省が農耕に適していた上古に夏家店下層文化が栄えていた
しかし気候変動で農耕ができなくなり遼河人は南方へ移住していった
殷王朝は彼らの王朝だったという説も強い
夏家店下層文化人が使っていた言語が古日本語だった
彼らは農耕が不可能になって故地を捨てて韓半島に移動した
そしてそこで山東から江南にかけての稲作農耕を取り入れた
今のジャポニカ米はその子孫だ
そして古日本語話者の一部は北九州にまで生活範囲を広げていった
これが弥生時代の始まりだ
遼河が乾燥して干上がった後も一部は移動せずに残った人がいた
残った人たちは近隣の狩猟採集民と協力し半農半牧の生活を取り入れてその地に適応した
これが夏家店上層文化人で古韓民族の起源となる
春秋戦国時代の燕が遼寧に勢力を伸ばしていった結果、古韓民族は韓半島へ民族移動をして先住の古日本語族を駆逐した
三韓の土器は夏家店上層文化の粘土帯土器の系譜にある
そしてジャップの弥生土器は三韓に駆逐される前の松菊里文化人の土器が元になっていて、これは夏家店下層文化の一つの偏堡文化の土器に連なる
ジャップの起源は西遼河人であり縄文人ではない
邪馬台国は奈良県であり中国の属国として朝貢をしていた
これが真の歴史だ 九州から瀬戸内ルートで大和に向かうのは海賊が出て危険だからな
だから佐紀古墳群のある丘陵を超えて大和川から巨椋池を経由して淀川を逆行して琵琶湖の坂本に向かう
ここは比叡山延暦寺の麓で中世は琵琶湖交易の拠点として賑わっていた
滋賀の高穴穂宮もここにあったという話だが遺跡は出ていない
もし坂本にあったのならば貿易拠点として重要だったからだろう
高穴穂宮の天皇が佐紀古墳群に葬られているのは琵琶湖交易を抑えていたからかもしれない
そして坂本を出たら琵琶湖の北岸の近江塩津で荷揚げして陸路で峠越えをして敦賀港に出る
もしかしたらバイキング船のように船を担いでいったかもしれない
敦賀に出たらあとは出雲を通って陸伝いに九州まで進むというわけだ
神功や仲哀は敦賀宮にいたというから、やはり大和川から敦賀にいたる交易ルートを押さえていた人なのだろう
魏志倭人伝に南に一ヶ月で邪馬台国というのは敦賀から徒歩で大和に向かったのだろう
だいたいこれで計算があう
南に一ヶ月というのは畿内説でしか成り立たないな >>1
重複スレッド
同じ事象・人物に関するスレッドは、個々に多少の違いがあっても原則的に削除対象になります。
その場合、立てられた時期・時間、1に書かれている内容、レスがどれだけついているか、という優先順位で総合的に判断します。
客観的な判断が難しい時は、利用者同士の話し合いを待つか、立てられた時間の遅いものを停止処置をすることとします。
同一掲示板内ではない重複スレッドは、内容にほぼ変化のない場合は悪質なマルチポストと判断し、板の趣旨に合った真面目な議論が続いた場合を除き、全てを削除対象とします。 邪馬台国は実はなかった
魏志倭人伝の内容を真に受けた結果がこれだ!
優秀な頭脳の完全なる無駄使いだった!
うわおお 内容を見れば
南洋の記述としか思えない部分も多発して よくいわれるように
九州までは来たけれど
あとは酒でも飲んでいて
伝聞記事を書いたのではないかと 邪馬台国畿内説は、完全に破綻したので、今回のスレッドが、最終回になりました。
なお、完全に論破されたテンプレートを撤去した、新しいシリーズが、始まっているので、紹介します。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1692049807/1
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*いつでも書き込んでください。
なお、書き込みは
意味のある良い内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することも、良いよ。
ロケットやミサイル発射は、荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ 邪馬台国畿内説は、完全に破綻したので、今回のスレッドが、最終回になりました。
なお、完全に論破されたテンプレートを撤去した、新しいシリーズが、始まっているので、紹介します。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1692049807/81-82
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*いつでも書き込んでください。
なお、書き込みは
意味のある良い内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することも、良いよ。
ロケット発射やミサイル発射は、荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ 近年の学問の発達でネトウヨが発狂していて心地よいな。
ジャップの起源が西遼河人というのに抗議するというネットの配信を見て笑ったよ。
最近のジャップどもの反知性主義を思い出してしまったからだ。
邪馬台国論争に加わっている古史古伝信者のカルトネトウヨが学問によって古史古伝が否定否定されて悲鳴を上げる様が心地よい。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています