邪馬台国畿内説 Part801
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4~6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1659356964/l50
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 >>849
>近畿も
九州説や畿内説って、その説の広大なエリアだけをとってみても、
たかだか一国だけの「阿波」からハンディもらい過ぎ。
いかに根拠に乏しいトンデモ説なのかがよく分かる。 @阿波 >>850
>阿波なんて誰も信じないから問題外だがw
「阿波」を恐れる裏返し。 わははははは @阿波 >>851
伊勢遺跡も纏向遺跡も人が生活してないから実用的なものは要らないから >>846
当時は畿内というまとまりはないですね。
京都は淀川水系による日本海と瀬戸内海の接点でしょう。
伊勢遺跡と同じ。
それは筑紫を起点とする日本海交流圏の一部だとも言えます。
筑紫生まれのスサノオしかり、筑紫生まれの饒速日しかり。
籠神社の神鏡は饒速日の十種の神宝の一部であり、海部家は饒速日ことホアカリの末裔。
纏向遺跡は東海つまり尾張系だが、元を辿ると筑紫から降臨した饒速日の尾張氏にたどり着く。
これ、もうどうしようもないですよ。
筑紫の稲作農耕民族が西日本を開拓したのです。 >>849
大消費地である筑紫に運んで消費したのでしょう。
最終製品がほとんど筑紫から出土するのですから。 唐津湾~船越湾の湾岸エリアとは、日本の稲作ならびに鉄器文化が最初に普及した地域であり、
唐津の菜畑遺跡だけでなく、紀元前4世紀には糸島側の石崎曲り田遺跡でも日本最古の鉄器を伴って稲作が開始されていた。
環濠集落その他、特に争った痕跡は残っておらず、
この地域は、伊都が成立する遥か以前に発展して統一されていたことになる。
この地域について、地名を対応させていくと、
七八十年の倭男王=三雲井原大王=日向三代、と考えるのであれば、
三雲南小路遺跡がニニギ&コノハナサクヤで、筑紫日向の可愛之山陵
吾田の笠狭之岬が、唐津の柏崎遺跡
コノハナサクヤの別名も、吾田鹿葦津姫で、唐津の柏崎遺跡の姫
日向の高千穂宮が、高祖宮
山幸彦の日向高屋山上陵が井原鑓溝遺跡
ウガヤフキアエズの日向吾平山上陵は三雲井原遺跡の最も北の部分
吾平山と同地域にあった港町が吾平津で、潤地頭給遺跡
潤地頭給遺跡の姫である吾平津ヒメもまた、日向の吾田(阿多)の小椅出身だから、唐津の桜番場遺跡
このように、考古学的に最も古くから発展していた地域が見事に対応していく。 【稲作の分布】
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E4%BB%A3%E4%BB%A5%E5%89%8D%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E4%BA%BA%E5%8F%A3%E7%B5%B1%E8%A8%88
旧国 『延喜式』出挙稲数(束)
◆畿内 2,087,126
山城 424,070
大和 554,600
河内 400,954
和泉 227,500
摂津 480,000
◆西海道 5,990,581
筑前 790,063
筑後 623,581
豊前 609,828
豊後 743,842
肥前 692,589
肥後 1,579,117
日向 373,101
大隅 242,040
薩摩 242,500
壱岐 90,000
対馬 3,920
畿内の開墾が進んだ時代でさえ、九州の方がはるかに稲の収量が多く、より多くの人口を維持できたと考えられる。
弥生時代においては、奈良、京都、大阪などに沼地が広がっており、この差はさらに大きかったと考えられる。
九州ならば、福岡奴国2万戸を含む7万戸を福岡県だけでまかなえるし、熊本狗奴国が邪馬台国に対抗できた理由も説明できる。 >>858
>このように、考古学的に最も古くから発展していた地域が見事に対応していく。
考古学的に最も古くから発展していた地域を、理由も言わずに勝手にアテハメごっこしただけでは? >>861
弥生時代末期の推定人口は九州も近畿も十万人で同じくらい
稲作伝来から千年以上経ってるんだし普及するわな 原料の素鉄を朝鮮半島から九州北部に運び、日本海沿岸と瀬戸内海沿岸で鉄器に加工して、再び消費地である九州北部に運ぶ。
本州には鉄加工の痕跡があっても製品がなく、九州本州には鉄器が大量にあるのに加工場が少ない。
そして最大の人口密集地は九州北部奴国。
公害や森林資源の枯渇を防ぐには、加工場を本州に移転するのが一番。
荒れた本州の山林に植林をしたのが、九州で生まれて苗を朝鮮半島から持ち帰ったスサノオと五十猛の親子。 ある東海地方の弥生時代から古墳時代にかけての大型の住居遺跡で
鉄器は3つしか発見されてなくて
データ的に鉄器文化圏に入ってないんだけど
鉄器を砥ぐ砥石が500個以上出土してる
大量に鉄器を使用してたと推測は出来るが
鉄器文化圏外となるんだよなぁ >>863
推定人口の根拠が不足しています。
延喜式のデータからは、九州の方が人口も多かったと思われます。
もし同じ人口なら、九州はかなり豊かで、本州はカツカツだったことになります。 >>854
>当時は畿内というまとまりはないですね。
トンデモ説の特徴
理由もなく否定 >>865
つまりその「データ的に鉄器文化圏」ってのが間違いってことだよね その昔、登呂遺跡が弥生時代の遺跡の代表のように扱われていました。
しかし他の地域と比較すると、登呂には首長層の痕跡がないのでした。
登呂で生産された米は、他の地域に運ばれて消費されたのです。
首長層が多く集まっていたのは、威信財が豊富に出土する弥生王墓がある筑紫です。
筑紫の中でも伊都国と奴国には、三種の神器を副葬された王墓がいくつもあります。
登呂遺跡の高床建物は倉庫ばかりでしたが、筑紫では吉武高木遺跡から最古の高殿と思われる回廊付き高床建物が見つかっています。
現在の神社建築につながる様式の始まりであり、王権の所在地が筑紫であったことを示しています。 >>866
>推定人口の根拠が不足しています。
いやこれ常識でしょ
知らない方が恥
鬼頭説だから元は小山データ
>延喜式のデータからは、九州の方が人口も多かったと思われます。
時代ちがいすぎ
しかも筑紫が畿内に負けている
>もし同じ人口なら、九州はかなり豊かで、本州はカツカツだったことになります。
理由なし >>868
出土地域から定義するのなら、間違いではないです。
加工場というのはあくまでも推定に過ぎないので、証拠不足ということでしょう。 >>869
>筑紫の中でも伊都国と奴国には、三種の神器を副葬された王墓がいくつもあります。
世代間が開きすぎなので、王朝みたいなものはなかったと言うのが定説 >>871
だから、その定義が間違いってことでしょ・ >>870
筑紫一国と畿内全体を比較するのはフェアではないですね。
それでも筑紫が140万束に対して畿内すべて合わせても200万束しかないのです。
九州北部なら肥前肥後豊前豊後も加えるべきですし。 其山丹有…英彦山、そして曹操高陵と同じ鉄鏡
これ以上何が要るんだ?w >>847
その「裏付け」ってのが間違いや中傷ばっかりだから
「考えられること」は当然大間違いになるわけだが 畿内説なんて、記紀で神武が大和で即位したとあるから畿内が昔から列島の中心だったという妄想、思い込みの延長線に過ぎないですね。
考古学的には何の根拠もないです。
早く洗脳から覚めた方がいいです。 >>875
>九州説論者基地外のふりしてません?
ふりじゃナイナイ >>881
>畿内説なんて、記紀で神武が大和で即位したとあるから畿内が昔から列島の中心だったという妄想、思い込みの延長線に過ぎないですね。
そんなこと主張してる人、いないけど?
事実は逆で、記紀振りかざしてるのは九州説
>>考古学的には何の根拠もないです。
畿内説を主張してるのは考古学者で、根拠は考古学なんだけど >>876
都市部(平城京や平安京)で盛んに行われていたのは稲より財物の出挙 >>855
何回でも言ってやるから安心しろ! わははははは @阿波 >>843みたいな架空のお話作ってG行為してるオワコン九州説に勝ち目あるわけなし 纒向遺跡への搬入土器(全体の15%)の出身地割合
伊勢・尾張系 : 49%
北陸・山陰系 : 17%
河内系 : 10%
吉備系 : 7%
近江系 : 5%
関東系 : 5%
播磨系 : 3%
西部瀬戸内海系 : 3%
纒向には魏の使いが滞在していた筑紫からの搬入物がない。
邪馬台国が交流していたはずの楽浪・帯方郡からの土器も出ない(四捨五入で1%に満たない)。
目と鼻の先の河内との交流も乏しく、畿内の他の地域のような瀬戸内海や淀川の水運の利益を受けられない、尾張の影響下の後進地域であった。
河内が狗奴国とする説もあるが、その場合、纒向は半島大陸への玄関口である筑紫へのアクセスルートがなくなり、魏と交流できた可能性は低い。
畿内説が言うように東海地方が狗奴国なら、纒向への土器の流入を説明できない。
尾張氏は饒速日の末裔であり、記紀では大和も饒速日の支配下であったとされる。
邪馬台国とは関係ない。 >>856
>大消費地である筑紫
碌な弥生集落遺跡や鍛冶炉遺構の無い筑紫に、「大消費地」など興る訳がない。 @阿波 >>858
>唐津湾~船越湾の湾岸エリアとは、日本の稲作ならびに鉄器文化が最初に普及した地域であり、
日本の灌漑稲作は、「阿波」が発祥地。
根拠:弥生時代前期「国内最古級の畝跡」「庄・蔵本遺跡」・「南蔵本遺跡」の灌漑稲作跡遺跡。
日本のイネは、日本固有種。
倭国(阿波)→菜畑→朝鮮南部だね。 朝鮮南部でハプロbが出てる筈。 @阿波 畿内説の根拠あるある詐欺
800スレかけて、ここまで根拠の提示が皆無w 東海の土器は出るのに鉄器が皆無の纏向遺跡。
郡使が滞在した筑紫邪馬台国とは無関係ですね。 「魏志倭人伝に記載されている物」(西暦300年以前弥生時代)
10種の魏晋鏡 福岡県398 奈良県4
鉄刀 福岡県17 奈良県0
素環頭大刀素環頭鉄剣 福岡県16 奈良県0
鉄剣 福岡県46 奈良県1
鉄矛 福岡県7 奈良県0
ほぼ福岡県だけで奈良県を完封、奈良県を口にする方がおかしい状況
奈良県から多く出土している物もあるにはある
(西暦300年以後古墳時代)
三角縁神獣鏡 福岡県49 奈良県100
前方後円墳80m以上福岡県23 奈良県88
前方後円墳100m以上福岡県6 奈良県72
古墳時代以降、文明が東に伝わり発展した地域の一つとして奈良県もあった模様
ただ時代が違うから
絹織物出土に関しては九州たくさん、奈良0 >>893
その成果とやらを示したら?
こちらは客観的データを示している。 畿内が邪馬台国である可能性は無くなった(というか最初から無かった)わけだけど
信者達はまあそう悲観する事ないよ
徳川が湿地だった江戸を発展させ遷都されるまでになったのと同じように
神武東征以降の開拓により崇神天皇が筑紫から遷都したんだから
奈良は言わば古代の東京都だよ良かったね 九州の弥生終末期から古墳時代初期の絹は2か所しかない >>895
テンプレに論文名が書いてあるし、日本の考古学者の通説は畿内説 気が短い江戸っ子気質は、江戸開闢にあたって家康が連れてきた難波っ子によるもの。
その難波っ子気質は、倭国創建の地である博多っ子によるもの。
博多湾沿岸に始まった弥生文化と倭国王権は、紆余曲折を経ながらも、西日本と東日本を飲み込んで今日に至る。 >>879
卑弥呼が朝貢した曹叡の祖父・曹操(高陵)と同じ鉄鏡だぞ!?
大和説の目は節穴さんw まあ奈良に遷都した後すぐに滋賀とか大阪とかに行ってしまうんだけどね… >>894
倭人伝には鉄鏃しか書かれていない
後漢書では鉄すら書かれていない >>906
お前がいくら騒ごうが
総合的に状況証拠を積み重ねると、「阿波」でしかない。
他説の追随を許さない、「阿波」の圧倒的特異遺跡群。
記紀神話を物語る、記紀登場の神名古神社群。
魏志倭人伝の行程・「其山有丹」・倭地の自然環境描写等々。 @阿波 竹取物語豆知識
登場する貴人らの多くは実名。
官位は年により変わるため、彼らが求婚した時の官位から、その年代は西暦701年に絞られる。
都は藤原京、文武天皇の時代である。
かぐや姫に求婚した帝は文武天皇。 >>904
だよな。邪馬台国に鉄がたくさんあるという
詳細な記述はない。
倭国についての記述はある。 >>888
>纒向には魏の使いが滞在していた筑紫からの搬入物がない。
あんたオツム弱いでしょ
筑紫型庄内甕が出てるんだよ
どこで作られたもんだと思うの >>898
>畿内説は800スレかけて根拠の提示が皆無
そういう嘘がよく平気で書けるな >>913
また九州ちほう人が意味不明なこと呟いてますね
発狂したのかな 筑前型庄内甕は、比恵遺跡群において大和型庄内甕を母体としてⅠB期に成立した(久住) >>894
>絹織物出土に関しては九州たくさん、奈良0
そういう露骨なウソ描いちゃうから
「客観的データ」とか豪語しても
信用されないでトンデモ墜ちしたのが
かわいそうな九州説 >>912
>筑紫型庄内甕が出てるんだよ
>どこで作られたもんだと思うの
「倭人(阿波勢力)」が纏向で作ったもの。 @阿波 何を示されても嘘だもん嘘だもん!しか言えない可哀想な畿内説信者
そんな体たらくだから阿波にスレ乗っ取られるんだよ 九州説は安物の本とかに書いてあるインチキネタを考古学とカンチガイしてるんだろう >>919
嘘ついたの指摘されるのが嫌なら、ウソつかなきゃいいのに >>918
]>筑紫型庄内甕が出てるんだよ
>どこで作られたもんだと思うの
「倭人(阿波勢力)」が纏向で作ったもの。
一口に「倭人(阿波勢力)」といっても、多くの部族があるからな。
それぞれ、「東阿波型土器」の型に個性が出る。 @阿波 畿内説という嘘に特大のブーメランが刺さってしまったわね… >>922
伊都国や奴国の記事が実質的に筑紫の話題ですね。
筑紫という語が出てこないだけ。
その一方で、確実に畿内と思われる内容はおろか、日本海も瀬戸内海も、関門海峡さえも出てこない。
郡使は伊都国にとどまったまま、せいぜい奴国と不弥国に足を伸ばした程度。
しかし卑弥呼には謁見している。 >>926
>伊都国や奴国の記事が実質的に筑紫の話題ですね。
阿蘇も磯城も飛鳥も出雲も伊勢も日向も筑紫も大津も吉野も纏向も吉備も、記紀以降の後付け地名。
その後付け地名に踊らされている、三流学者や郷土史家ども。 わははははは @阿波 >>926
卑弥呼が使者に謁見した、だろこの場合、使者の方が立場が上。 >>928 板野に居たの
出た! 自虐が! @阿波 >>928 板野に居たの
出た! 自虐朝日が!
板野の売郷奴は、いかにも冷静で偉そうに見せかけるが、
実際はずる賢くて、間の抜けた雑魚。 わははははは @阿波 >>919
>何を示されても嘘だもん嘘だもん!しか言えない可哀想な畿内説信者
ウソを付いて指摘されて
反論もできず
罵るだけ
そんな九州説は、もう死んでる 中華皇帝に新魏倭王のお墨付きいただいているのだから、
実際は臣従してなくても、形式上はそうなる。
皇帝の使者の方が、立場が上なのはしょうがない。
わざわざ遠いところお越しくださいました。
ってなる。 >>926
実質もない。
別に卑弥呼がいる所が邪馬台国とは限らない。 単純な話で日本の歴史は近畿から始まったかどうかで
継続してれば当然倭王は近畿に居ただろうし途中で九州が入ってきたなんて無理がある >>926
>郡使は伊都国にとどまったまま、せいぜい奴国と不弥国に足を伸ばした程度。
それ、倭人伝に反する考えだよね 大和言葉、邪馬台国言葉ということは、
倭言葉ということですよね?
もしくは、大倭言葉? 伊都国イト、板付イタヅケ
伊丹イタミ
虎杖、射盾、イタチ、イタコ
虎杖は傷薬で妖怪カマイタチの伝承に関係しているかも
イタコの儀礼は、巫女の周りに麻糸を付けた梓弓と桃や柳を置いて儀礼空間を創っている
麻、糸イト、弓、桃、柳
イトや葛城にかかる枕詞が青柳の
イタコが行うおしらあそばせ
おしらさまは馬と桑と関係があり目の神さまでもある
おしらさまは馬を操る、これは田螺長者の昔話に通じるものがある
伏見稲荷に眼力社がある
秦氏、稲荷、目
九州が何か関係してそうだけどね
九州北部の勢力が一時ヤマト政権の覇権を握った時期があり、その後東北の方に逃れたストーリーも考えられる スレ見てて思うけど、畿内説による他説への反応っていつもブーメランになってるよな
本人気付いてないのかね? 目だけでなく、耳の神社も全国にある
耳に纏わる神社にはよく似た風習が残っている
錐キリをお供えする
竹の筒に紐を通した絵馬
竹で作った錐キリ
耳と竹とキリ
竹と言えば大帯姫と共に熊襲を平定した竹内宿禰を思い浮かべるが >>926
確実に九州以外だよ。
水行20日、10日陸1月
別に卑弥呼が共立されて九州に定住でも
成り立つ。 >>935
日本の歴史が近畿から始まったという根拠は? >>934
>>934
> >>926
> 実質もない。
> 別に卑弥呼がいる所が邪馬台国とは限らない。
畿内説は苦し紛れでこんなことも言うかな。
邪馬台国は女王の都するところと書かれているのに。 女王国の傍国に奴国がある
傍国は境界の外にあるが境界に接する国というくらいの意味でしょう
奴国やその手前にある伊都国等は女王国ではないということだね
一大卒の管轄下にある国々 畿内説ではないよ
女王国、倭国の都とは書いていない。 >>943
日程と里程をごっちゃにしてはダメです。
帯方郡から邪馬台国まで一万二千里、そのうち九州上陸までで一万里余。
対馬海峡が三千里なので、残り二千里では九州を出られない。 >>948
あんたがダメ。
邪馬台国まで里数はない。 やはり、
四国・阿波が恵まれた土地としましても、
高度文化が発展したのは、何か所以が他に有ると思うのですが、
それは、ソロモンシバら御一行が渡来してきたからですか? >>946
奴国は傍国に含まれているけれど、伊都国は含まれていない。
さらりと嘘をつく畿内説。 レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。