邪馬台国畿内説 Part802
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4~6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1660039257/l50
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に配置された大型建物等(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。庄内3式期のSD-2001、庄内3〜布留0式期のSM-1001,SD-1007が建物BとDをそれぞれ破壊し、建物Fが庄内2式期のSX-1001埋没後築造なので建物群の存続期間は庄内2〜3の中に絞り込まれた。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある。
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。 ◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、a.元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から、b.或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。 ◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ。
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前の情報が窺知できる。
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。 ◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他なるまい。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。 ◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。
※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。 ◆6(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
(本項 続く) (承前)
◆6−2
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。 ◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相~布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FAQ43参照)
つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240~248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。 ◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化に起因する列島での社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末~3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf
◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等
◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山
IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
浦間茶臼山、西求女塚
IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
メスリ山、行灯山、祇園山 ◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。
壹岐一国では観察されたが首都で観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。 ◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。
以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。
また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く) (承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
予章郡:雒陽南二千七百里 南海郡:雒陽南七千一百里
蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
交趾郡:雒陽南萬一千里
(雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)
倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。
また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。 ◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇田と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。
◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。 ◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。
◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。 ◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。
◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。 ◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、
実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと
。
3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
記紀においてもヤリとホコの区別が無いことは、天日槍を知らぬ者を除き常識である。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。 ◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なる概念である。よって否定材料にならない。
呂覧に「題湊之室棺槨数襲、積石積炭以環其外」と見える如く、古代中国人の耳目には竪穴式石室の側壁或いは現代考古学に言う礫槨・木炭槨の類は室外を環る地中構造物と認識される。そして棺槨は室内に重ねられるのである。
石を槨の表、黄腸を裏とする鄭玄註は、題湊が木槨壁面に接合する時期を経た塼室墓時代の意識として整合性がある。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて韓地経由の楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響ではあるものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状である。
就中、ホケノ山は床板が無く、石室構築のための仮設の板壁を石室完成後に撤去した木蓋石室墓とする復元案(真鍋2018)も有之、古代中国人が認識する木槨とは程遠い。
これを槨と称するならば、北部九州に多い箱式石棺も歴然と槨である。
畿内で一般的な墓は木棺直葬の方形周溝墓で「有棺無槨」に適合している。
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能である。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。 ◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと推定できる。
他に、使用痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄など、遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧とがある。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、遺跡建設当初の庄内0期遺物から鉄器による加工痕が認められる。
纒向大溝建築材実測図 https://i.imgur.com/EPtpzEw.png 矢板列支柱(左)に角の明瞭な貫穴、矢板(右)に鱗状手斧痕。倶に鉄器による加工の特徴を示す。
纒向遺跡メクリ地区に「大型の鉄製品を砥ぐという行為が行われていたのは間違いがな」いとされている大量の砥石があり、廃棄時期は3世紀前半〜中頃、最も古いものは「庄内2式期の可能性」(『纒向遺跡発掘調査報告書2』桜井市教委2009)とされる。
大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析では、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。事実、鉄製品の腐食に最も影響力の強い硫化物が海成粘土層が畿内中枢部の深層に分布している。
また併せて、纒向遺跡で脱炭鋼を製造していた布留0期の鍛冶遺構に於て鉃滓は共伴するが成品が発見されない状況は、官製工房的な管理の強化・貫徹を想定するに足る。
古墳時代に入ると「鉄器が普及したと同時に、首長層へ鉄器が集中した」(橋口2002)
という視点に立てば、首長級墳墓への集中と生活遺構での不在という鉄器の偏在は理解しやすい。 ◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。
◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。 ◆FAQ 19
Q:釜山~対馬あるいは対馬~壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1~2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山~佐須奈間は34海里(=63km)である。
江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5~1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。 ◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国出土(李家山59号墓)青銅製容器蓋装飾の騎馬像に鋳出された脚親指に装着する革鐙が報告(菅谷1994)されている。
郡県内では湖南省西晋墓(長沙金盆嶺第21号)の陶俑に描かれた片鐙(永寧2,西暦302年埋葬)が紀年の明かな最古発見例であるが、これと同時期或いは遡るとされる類似の発見例が数あり、中国の複数の調査者が木芯包革式鐙の存在を3世紀中葉まで遡ると考えている。
現物は西晋末〜東晋初(四世紀第1四半期末から第2四半期頃)の河南省・遼寧省出土例まで降る。
湖南省西晋墓陶俑図 https://i.imgur.com/oM4NXR6.png
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度に鐙が一般的存在であったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で上図タイプ1の国産模倣品現物が出ることに不合理はない。 ◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240~260年と発表した! これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380~550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110~245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018)この桃核12測定例の平均値をIntcal20で歴年代較正して次に掲げる。
https://i.imgur.com/VKIld2Q.png
一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、
そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。 ◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png
前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く) (承前)
◆FAQ 23−2
◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。
◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
・ 森将軍塚 :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
・ 前橋王山古墳 :上毛 ・ 持塚二号墳 :上総
・ 高千穂七号墳 :上総 ・ 山伏作一号墳 :上総
・ 長沖八号墳 :武蔵 ・ 温井一五号墳 :能登
・ 見手山一号墳 :但馬 ・ 西穂波16号墳 :東伯
・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
・ 高鼻二号墳 :伯耆 ・ 日拝塚古墳 :筑前
・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
・ 朝日谷2号墳 :伊予ー布留0古(梅木1998)
◯朝日谷2号で後円部上に棺設置後、覆土と同時に前方部の盛土開始が判明していること
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等
◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。 ◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。
◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。
なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。 ◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。
◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があった。
九州説にとって不利な条件と言える。 ◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀彧)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。 ◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核には、この地域を想定するのが妥当である。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。 ◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!
A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国 ◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半~弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。
それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。 ◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。 ◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。
◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。 ◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。(FAQ79参照)
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、
弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。 ◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や太平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。
太平広記はその書名が示すとおり太平興国年間に編纂された類書であり、当該箇所は東晋代成立の捜神記から採録している。則ち太平興国の時点で原テキストに東越閩中の所司が「東治都尉」とあったことが判明する。
東越閩中に置かれた都尉の治は東候官に他ならず、三国志等の版本が成立した北宋太平興国の修史活動期における編集従事者の認識が窺知される。
倭人伝中の「会稽東治」については、中華書局が既に「東冶」と校訂しているが、丁謙・盧弼らの考證に先立ち、成都書局が同治10年に殿本を校訂して「東冶」に改めている。跋文に四川総督呉棠、四川学政翰林院編集夏⼦鐊ら同治年間の人士の名が見える。
https://i.imgur.com/E6TFLyl.png ◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。
この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。 ◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬澈は慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。
これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。 ◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1B II型式新段階(2世紀末~3世紀前葉:塼室墓最盛期、遼東系)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期、非遼東系)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行(高久2009)する。
凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。
以上述べた楽浪の対外活動に列島における楽浪土器の出土量を対応させ(◆7参照)
活発期:2世紀末~239A.D.:久住IA期
衰退期:塼室墓から遼東系が消え魏へ定期職貢あり:240〜247A.D.:久住IB期
残存期:魏へ定期職貢途絶から最終朝貢記録まで:248〜266A.D.:久住IIA期
途絶期:日本列島から楽浪土器消失:267A.D.〜:久住IIB期
の目安が得られる。
三国鏡の雲紋編年において魏景元四年(263)銘鏡に一致するのが三角縁201番鏡(唐草文帯群、岸本V期)であることとも整合性が良い。 ◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。 ◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。
◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。
この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。 ◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。
◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。 ◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。 ◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無い。
壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。 ◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。 ◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
(同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。 ◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有增損。
太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定 ◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことが明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。 ◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。 ◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!
A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。
また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。
◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!
A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。
(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
西與犂「革偏に于」・條支接。
行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
…東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
…東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
(漢書西域) ◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
(「長安城方六十里、 經緯各十五里、十二城門、積九百七十三頃、百二十亭」漢旧儀)
また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。
このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。 ◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!
A:定説に従う。
金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。
二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。
以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。
楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!
A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。
◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!
A:基礎知識の誤りである。
現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する
ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通) ◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!
A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
殷商:約16cm
西周:約20cm
戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。
また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。
《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
——————————MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く) (承前)
◆FAQ 65−2
『禮記』王制には
「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」
とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。
ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。
この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎——黄鐘律管が容積・重量の基準——になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。
秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
古者周尺 17.3cm
今周尺 21.0cm
秦漢尺 23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。 ◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!
A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。
なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。
◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
倭人伝にある方位に間違いはないのだ!
A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。
・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。
ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png
因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
地名が実際の地勢と著しく異なる。 ◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
奈良県の三角縁はもっと新しい!
A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。
ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。
箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。
◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!
このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
護軍将軍である淵の任地は都である!
A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。
長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。 ◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!
A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
銭大昕・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。
襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。
◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!
A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。
中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。
当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。 ◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
畿内は「東征」を受けた毛人だ!
A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
「服」は他動詞として使う。
「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。
「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。
◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!
A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png
能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。 ◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!
A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。
大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。
庄内大和型甕と庄内河内型甕は、庄内 I 段階に大和川河口地域に成立した初期庄内甕(庄内式古相)から分化して、庄内 II 段階に至り倶に確立した。胎土・製作技法・形態により識別されるのみならず、分布域も明瞭に区分可能である。
生駒西麓型とも呼ばれる庄内河内型甕は、中河内地域で圧倒的なシェアを占める一方で、摂津・和泉並びに大和盆地では低シェアという、極めて特徴的な偏在を示す。
これが、中河内地域の排他性を意味しないことは、中河内地域主要遺跡の持つハブ港的性格を鑑みれば明瞭である。事実、吉備の文化は中河内を経由地として纏向に極めて濃厚に転移している。
◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
畿内説は皇国史観の徒である!
A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。
遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。 ◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!
A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
本Qに見られるような直線的進歩史観で歴史が理解できないことは言うまでもない。
古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。
弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。
◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
前方後円墳体制など、夢想だ!
A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。
萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。
奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。 ◆FAQ 78-1
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
里数が書いてないではないか!
つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
投馬国は南九州でよいのだ!
A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。
『九章算術』巻第六「均輸」に
「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。
これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」
「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。
また、「今有甲發長安、五日至齊、乙發齊、七日至長安。今乙發已先二日、甲乃發長安。問、幾何日相逢?」の出題では
「術曰、幷五日・七日以爲法。以乙先發二日減七日、餘、以乘甲日數爲實。實如法得一日」と解く。
これを劉徽が註して「『減七日』者、言甲乙倶發。今以發爲始發之端、於本道里則餘分也」とする。
即ち、長安〜齊の里数は当然等しいが、乙が2日先発しており、甲の出発時には「道里」に猶ほ「餘分」がある。そこで7日から先行した2日を減ずる計算をしている。
明らかに「道里」が日数表記されている実例である。
ここでは同じ固定区間が甲にとっての道里五日、乙にとっての道里七日である。甲の出発時に乙は先行した道里二日を七より減じた乙の道里七日のうち五日が未消化な「余分」である。つまり七五三十五の最小公倍数を法(分母)とすれば三十五分の二十五である。従って、改めて甲乙が同時に出発したと考えれば五と七の和十二分の二十五、即ち二日と十二分の一後に甲乙が出会う。
この計算には里数が一切登場せず、日数のみで道里を計算していることが明らかである。
本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。
(本項 続く) ◆FAQ 78-2
(承前)
三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」
とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝でも、各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。
もとより倭人伝は倭人の国々を
1)自女王国以北、其戸数道里可得略載、
2)其余国遠絶、不可得詳
と截然と二分類しており、「自女王国以北」と「其余」で悉皆である。
戸数・到達所用日数・官の情報が既知である投馬国を「遠絶ゆえに不可得詳」のグループに配することは極めて不合理であり、投馬国については戸数と道里が略載されている。
倭人伝に於て投馬国が「女王国以北」と認識されていること明瞭である。 ◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
ただの倉庫だろう?
A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)
建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。
強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。
◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
魏志に邪馬臺と書かれていたのではない!
ただ当時の風説を書いたのだ!
A:初歩的な誤りである。
子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。
助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。 ◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
だから邪馬台国は畿内ではない!
A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。
三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。
魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。
三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
https://i.imgur.com/XIb0RqF.png
◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!
A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。
「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。
三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。
このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。 ◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!
A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。
●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。
●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君冝高官」「保子冝孫」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。
国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君冝高官至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。
両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。 ◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
古墳とは違うのだ!
A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。
孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。
類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。
魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。
◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!
A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。
K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものであろう。
庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭頃の実年代が与えられている。 ◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
日本の古墳は平坦で、高くない!
卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!
A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png
https://i.imgur.com/EyIx7C7.png
◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
特鋳説の根拠にはならない!
A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量であり、市中から発丘獲得物を含む雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しい。
全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。
銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。 ◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!
A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。
また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。
江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。
このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。
◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!
A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。
下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。
夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
https://i.imgur.com/EXTU3lu.png ◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!
A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。
「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步、高六丈六尺」(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
「帝王世紀曰。(洛陽)城東西六里十一歩、南北九里一百歩」
「晋元康地道記曰。城内南北九里七十歩、東西六里十歩」(後漢書劉昭注)
※晋元康年間:291〜299
「洛陽十二門、南北九里」(太平寰宇記所引陸機『洛陽記』)
※陸機(261〜303)」呉陸遜孫、晋入朝289
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
※「皇覽」(魏文勅撰)
◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!
A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。
実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。 ◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!
A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。
六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。
『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。
また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。
八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。
◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!
A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。
北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
改新詔における畿内国の定義が畿内第V様式圏に酷似する事実の指摘(濱田2014)は注目に値しよう。 ◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!
A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。
IB期に庄内系(庄内2〜3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
https://i.imgur.com/zJCqyag.png
https://i.imgur.com/KTMQyfU.png
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。
畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。
◆FAQ 95
Q:森井貞雄によれば西暦258の年輪年代が与えられた二口かみあれた遺跡が庄内3だ!
布留0の箸墓が3世紀中頃である筈がない!
A:布留0の実年代を西暦260〜280頃とする寺澤の見解(橿考研2002)と齟齬がない。
ただし森井が二口かみあれたを庄内3併行と判断したという点について出典がない。
森井は青龍三年(西暦235)銘鏡を出土した大田南5号墳の「庄内3」あるいは「布留0」併行を弥生終末期の終わりの一つの定点(森井1999)としており、本Qは本人の著述と齟齬があって疑わしい。
科学年代西暦258をVI-3様式期(布留0古相)の年代観と対照する森岡(2014)。
上記年輪年代(光谷1995)が古墳時代初頭・布留0併行の暦年代を提出したとする河合(石川埋文2000)。
これらと突合すると、光谷の上記暦年代データは箸墓の築造年代を3世紀後半初とする見解と整合性がある。 ◆FAQ 96
Q:「銅出徐州」というが銅山があるのは呉領だった徐州南部のみ!
彭城銅山県は名ばかりの存在で漢書・後漢書に銅山のあった記録もない!
A:彭城銅山県(現・徐州市銅山区)は北宋の元豊年間に宝豊監が置かれ鋳銭が行われていた。宋銭「元豊通宝」の鉛同位体比は三角縁神獣鏡に酷似している。
のち廃坑となり地名のみが今に残る。
これと別に、隣接する利国には鉄冶を主する監が置かれていた。
呉の領有した徐州南部とはもと揚州の属であった広陵郡南端の極めて限られた地域のみで、徐州の殆どは魏領である。
漢書地理志広陵国・続漢書軍国志広陵郡とも鉄を産することを記すのみで銅山があった記録がないことは彭城と同じである。
◆FAQ 97
Q:纒向は蛙を食う貧困な寒村だ!
A:西漢は皇帝の宗廟に羊・兎・食用蛙を供えるのが常であった。
東漢にあっても普通に食用であった。
「羔、菟、鼃所以供祭也」霍光伝師古注
「鄭司農注云蟈蝦蟇、玄謂蟈今御所食蛙也」周礼両鄭注
纒向土壙祭祀において今人が高級食材とする鯛・鴨・桃などと並んで神饌とされることに不自然はない。
◆FAQ 98
Q:纒向は古墳築造のための施設であって都などではない!
A:合理的な理由がない。
纒向の建設は庄内0式段階で運河掘削が開始する。
一方、90m級にまで巨大化して弥生墳丘墓の域を超えた墳丘墓の築造は庄内2式段階に開始する。
よって遺跡内への搬入土器が広域に亘る特異性発現、運河掘削ともに、大型墳丘墓築造開始より1世代を超えて先行しており、因果関係が認め難い。
また辻地区の大型建物は3式段階には廃絶しており、箸中山古墳の築造開始に先行する。
よって此の因果関係も求め難い。
纒向型土壙祭祀の開始も大型墳丘墓築造に先行する。その祭祀内容には葬送儀礼との関係が窺えず、寧ろニヒナメヲスクニや鎮火祭といった服属儀礼や鎮護国家的行事との関連性が指摘されている。
導水施設における祭祀も池上曽根や伊勢遺跡に先行事例が求められ、墳墓との関連がうかがえない。ことに木樋を用いた祭祀は首長居館周辺で執行される特異な祭祀として後世に残っている。
以上より、纒向は祭祀に特化した特異な大遺跡であるが古墳祭祀には特化しておらず、古墳造営とのみ結びつけるのは不合理である。 ◆FAQ 99
Q:ホケノ山古墳の年代は古木効果の影響を受けない小枝資料の炭素年代によるべきだ!
4世紀後半だ!
A:後代の混入物として除外する通説が正しい。
墓室内に落下していた丸底坩と加飾壺は、他古墳での類例を鑑み、墳頂に囲繞配列されていた祭祀用土器と見るのが妥当と思われる。明らかに混入物である小枝資料は天井崩落時のコンタミであろう。
ラジオカーボンによる暦年代の較正に当たっては古墳寒冷期に対応する炭素14濃度の乱高下を考慮する必要がある。3世紀末にかけて大幅な炭素14濃度の上昇が観察される。また4世紀後半にはラジオカーボンの崩壊速度に見合う濃度上昇があり、これが撹乱要因となって較正曲線によって絞り込める暦年代が拡散している。
Intcal20から見た炭素14濃度は西暦270年頃をボトムとして大きく上昇しており、布留1古相のyBP値が新相のそれより高く出る実態と合致している。また、同時代資料と見られる小枝の確率密度分布ピークが一方は4世紀中葉後半、他方が4世紀末から5世紀初頭の値を示すことも、気候変動による撹乱要因が深刻であることを読み取れる。逆に270年頃のピークは両資料とも適切に合致しており、より信頼度が高い。ここから、天井崩落の時期を布留0末から布留1初頭と推察する。
周濠底のS字甕Aの年代(庄内3)に属する多数の測定例と整合している。
https://i.imgur.com/nHtnTXO.png
◆FAQ 100
Q:会稽東治は蘇州だ! いや上海だ! 長江河口近辺だ いや淮河より北だ!
A:卑弥呼が通交した時代の会稽郡は現在の浙江省および福建省、単独で「会稽」と言えば常に現・紹興市越城区にあった会稽郡治「会稽山陰」を指す。
「越王句踐、其先禹之苗裔而夏后帝少康之庶子也。
封於會稽、以奉守禹之祀」(史記越王句踐世家)
「禹周行天下、還歸大越、登茅山以朝四方羣臣、封有功爵有德。崩而葬焉。
至少康、恐禹迹宗廟祭祀之絶、乃封其庶子於越、號曰無餘。」(吳越春秋)
「會稽郡山陰、會稽山在南,上有禹冢」(後漢志郡国四)
✳︎茅山:会稽山の別称
秦の王翦が楚を滅した時、楚に併合されていた呉越を分離して会稽郡とした。
会稽郡治が現・蘇州市にった時期、当地は呉本国、呉県と呼ばれ、会稽は依然会稽山麓に所在す。
以降変転を経て順帝永建四年(199A.D.)に呉郡を分割し、以降の会稽郡治は会稽山陰である。
「会稽東治」が呉郡や徐州に存在しないことは明らかである。
「東冶」は『捜神記』や『太平広記』並びに書陵部蔵三国志 南宋刊「紹熙」本に登場し、すべて越が楚に滅された後の越族の都となった閩越(卑弥呼朝貢当時の「東侯官治」)を指している。
(参考:FAQ40) ◆FAQ 101
Q:纒向の大型建物Dというのは東西二間しか見つかってないではないか!
四間x四間に復元して大型大型というのはインチキだ!
A:「本来の建物規模は調査の状況や建築学的な検討から東西も4間であったと」
と調査機関は公式発表している。
事実、東西6・2m、南北19・2mはアンバランスに長大である。一般に偶数柱間の総柱建物は居館の系譜と考えられており、このような形態は異例であろう。
建物Bと建物Cの間隔は建物Cの東西二間に等しく計画的に設計されている。
建物Dで発見された柱列西端から建物Bまでの間隔は建物Dの東西四間に等しい。
また建物Dと南柵列との間隔は建物Dの南北一間(束柱をカウントすれば南北二間)である。
全体が規則的・計画的な配置であることを考慮すれば、総柱建物が正方形を志向する傾向も鑑み、建物CとDの間隔も建物Dの東西二間に等しく復元することは合理的である。つまり建物Dを東西四間、南北四間とした復元は合理的かつ妥当である。
建物Dを破壊している溝SX-1001、建物Cを破壊している溝SX-1002ともに底の僅かな深さしか残存しておらず、両建物のあった地表面への削平が深かったことが窺知される。
大型建物群配置図 https://i.imgur.com/4W4mle2.png
同空撮 https://i.imgur.com/A1eBwbR.png
建物B空撮 https://i.imgur.com/HytoKvD.png
Dより西を望む https://i.imgur.com/LB1oG3k.png
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】なし 前スレ980
>勝手に読み替えないといけない畿内説なんて、こじつけでしょ。
読み替えしてない >>76
>新しい阿波説スレはここですか?
そうです。 存分に「阿波」を語りましょう。 @阿波 前スレ968の笑っちゃう間違い
>「刺史」・・・地方を検察する中央官僚
九州説の馬鹿ものは基礎知識なさすぎ >>948
>そのうち九州上陸までで一万里余。
陳寿はそんなこと、言うとらん! @阿波 前スレ>>990
女王国に従属してるのだから女王とは別の王
糸島からは倭人の風習である卜骨が一片も出ていないので非倭人の国 >>94
それは、「阿波」のスレでない。
それは、自虐史観売郷奴のスレ。 まったく「阿波」とは異なる雑魚スレ。 @阿波 >>94
ここは、スレ主がちょろいので、「阿波」が乗っ取ったスレ。 わははははは @阿波 >>83
伊都国はおそらく弁韓人、後の伽耶人
馬韓辰韓には王がいないが弁韓には王がいる「十二國亦有王」
伊都国はわずか千戸ながら王族が存続して女王国に従属している
糸島には可也山、芥屋の地名がある 日本@名無史さん(中略)@阿波氏は、
私の建てたスレを荒らしには来ないと思います、
彼の方は、私の隠れたファンなのでw
「邪馬臺国(ヤマトコク)」は阿波だった!?
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1654432524/ >>90
糸島の平原1号(200年頃)は韓の立大木縣鈴鼓があるが、
3世紀前半の奴国の中心地の博多の首長は
畿内の影響下にあり纏向と同じ前方後円墳を築造している >>95
奴国は大陸との交流の入り口のような所、倭人以外も多いかな?、と思った。 >>95
>畿内の影響下にあり纏向と同じ前方後円墳を築造している
「前方後円墳」などの積石墓は、「倭人(阿波勢力)」ってこと、十分知っている上で
言っている確信犯。 @阿波 3世紀は博多湾貿易と呼ばれ、
楽浪土器と入れ替わるように馬韓系土器が出土するようになるので倭人以外も多い 支石墓の研究から、咸安あたりの人が渡ってきて糸島が栄えたことが分かってるね 当時の博多は一大卒の駐屯地だったと思うけどね
女王国の出先機関
魏志倭人伝にある奴国は遠賀川流域じゃないか 前方後円墳は封土・周濠、箸墓以降は葺石・段築
ツングースの積石塚は小円墳に上がり框付・周濠無 朝鮮半島南西部に数万基密集し、西北九州に多い支石墓は糸島が東限
福岡平野、壱岐対馬には無い >>101
>魏志倭人伝にある奴国は遠賀川流域じゃないか
奴国(二万戸)(田川辺り)。 @阿波 >>101
思うのは勝手だが
なんでまったく理由を言わないの? 一大率は常治伊都國とあるから、奴国(博多)ではなくやはり伊都国にあったのだろう。
奴国の方が栄えていたと思うが、おそらく当時の奴国はまだ有力豪族の本拠地の性格が強く、伊都国の方が中央政権への組み込みが進んでいたのではないか。その後、奴国も中央集権制に組み込まれて太宰府が博多近くに設置されるようになったのだろう。 畿内と密接なのは博多だが
今津湾北側の今山に福岡平野産の筑前型庄内甕、北部九州型布留甕が多数搬入されているので
何らかの拠点があった 訂正
今津湾北側の今山 → 今津湾岸の今宿遺跡北側 >>106
その有力豪族が畿内勢力だろ。
中央は伊都で、伊都の大率が周辺国を検察して実効支配していたわけだから。 >>112
大率は女王ぁら派遣された地方官だから、中央じゃあり得ないよ >>95
魏志倭人伝には博多には外部の有力者の話が出てこないよ?
その前方後円墳は本当に3世紀前半なのかな? >>107
少なくとも博多の畿内勢力は、九州北部の政治の中心地であった伊都国に入り込めてなく、政治的立場は高くなかったということになる。 >>113
笑止
伊都が大率で制海権を掌握していたことが魏志倭人伝から明らかだ。 >>114
前提として、魏志倭人伝を誤読しているだろう。 「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
「女王国(を含めたそこ)から北の諸国には、(女王卑弥呼が)特別に一大率を配置して検察させており、諸国は之(一大率)を畏れ憚っている。
(一大率は)伊都国で(女王国から北の諸国を)常に治めていた。
(その様子は)魏で(皇帝が)刺史(を州に派遣し検察させて洛陽で治めているの)と同じようだ」の意味となる。
女王卑弥呼が一大率を任命して治めさせているのは自女王國以北(女王国を含む)の対馬海峡の国々である。
女王国が伊都よりずっと東の畿内にあったら、一大率が支配していたのは畿内とその北である若狭湾沿岸になってしまうが、伊都に置かれていたという記述と齟齬を生じる。
つまり女王国は伊都国を含まなくてはいけない。
女王国以北はおよそ里程や概要を記すことができるとされているが、里程が記載されているのは対馬海峡と福岡県北西部の国だけである。
すなわち女王国以北(女王国を含む)は伊都から北であり、女王国(邪馬台国)が伊都国を含むことを示している。
倭に近い文化を持っていた百済には、大率や徳率などの中央官僚の官職があった。
邪馬台国では中央官僚は大率一つだけだったので一大率と魏志倭人伝に書かれたわけだ。
都から対馬海峡の国々を検察に出かける様子が、刺史のようだとされたのだろう。
「刺史」・・・地方を検察する中央官僚
「大率」・・・百済などにあった上級の中央官僚 >>116
ならんでしょ
伊都国は人口少ないし女王国の傘下にある国だもの
これって考古学にも一致している
一大率というのは、博多の王か王族が目付として伊都国に乗り込んでいるのかも知れない >>118
>前提として、魏志倭人伝を誤読しているだろう
伊都厨さんの壊滅的な誤読を指摘してるんだよ >>119
>「刺史」・・・地方を検察する中央官僚
なんでこんな低レベルな思い違いをするの?
信じられない >>119
>邪馬台国では中央官僚は大率一つだけだったので
「官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳鞮」って無視ですか
ほんとに倭人伝読んでるの? >>120
魏志倭人伝では、伊都国に王はいたが、奴国にはその記載はない。
それに、考古学的にはというが、具体的に何のこと?
少なくともそれは魏志倭人伝と不一致とあうことになる。 >>123
それは伊都国の官であって、広域を管轄する官吏ではない。
大率は、伊都に置かれて、女王国より北の広域を管轄する官。
東京都知事、副知事と総理大臣の違いですよ。
どちらも東京にいますけどね。 >>122
どう思い違いなのか説明してみてください。 「自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
女王国より北の国々に対しては、一人の大率を特設して検察している。
北の国々は大率を畏れ憚っている。
大率の役所は伊都国に常設してある。
中国本土における刺史のような「検察官の役目」を果たしている。
・里程部分で既に地方官の説明がなされている
・自女王國以北とあるので、女王国よりはもっと北の諸国に焦点がある
・大率の業務についての説明は検察官のものだけ
・三国志では「治+場所」はその場所に役所を構えるという意味が多い
女王国=邪馬台国の首都である伊都に、
邪馬台国政庁(国会議事堂:女王卑弥呼や大臣達)
伊都国都庁(都庁:都知事爾支と部下たち)
大率執務室(検察庁:検察官大率→北方諸国巡回でほとんど伊都にはいないが)
などなどの重要官庁が集中していた。
刺史は本来は領地を持たないただの「検察官」であり、
首都から派遣されて各国を巡回し、年に1回首都に戻って報告していた。
大率の職務も同じ検察官。
中国大陸は広いので、報告するのに刺史本人でなく使者を立てるようになり、
本来の地方官と居座った刺史の二重権力を解消するために、結局は刺史や牧が地方官になった。
邪馬台国とその北の諸国であれば、対馬海峡を行き来するだけだから、
大率は伊都国に執務室を構えて、そこから各国へ行き来して検察していただけ。 官有十六品。
長曰左平、次大率、次恩率、次徳率、次杆率、次奈率、次將徳:服紫帶、次施徳:皂帶、次固徳:赤帶、次李徳:青帶、對徳以下皆黄帶、次文督、次武督、次佐軍、次振武、次剋虞、皆用白帶。
(隋書 東夷 百濟)
大率は高位の中央官僚であり、都から出かけて地方を検察する様子が魏志倭人伝において刺史のようだと記載されているのである。
大率そのものが置かれた伊都が倭の王都である。
魏志倭人伝においては、女王国以北すなわち倭の生命線とも言える対馬海峡を検察していたと書かれている。 邪馬台国が畿内なら、なぜ畿内の行政システムについての説明はないのか?
伊都では女王への献上品を開封して中身を確認しているのに、なぜ畿内の港ではそうしないのか? 大率は伊都国の王に与えられた任務だと解釈してるけど >>124
>少なくともそれは魏志倭人伝と不一致とあうことになる。
なりません
卑弥呼顔うなら奴国に王がいなくて当然だし、3世紀前半には若宮に前方後円墳が築かれている。
伊都国は2世紀末には周辺国への影響力を失ってる
考古と文献が一致してます >>130
>大率は伊都国の王に与えられた任務だと解釈してるけど
そーんなまったく根拠のない解釈をしてるほと、他にいる? >>127
>首都から派遣されて各国を巡回し、年に1回首都に戻って報告していた。
つまり中央官僚だというのはトンデモないカンチガイ >>130
>大率は伊都国の王に与えられた任務だと解釈してるけど
大率は倭国(阿波)王権から伊都国の王(筑紫忌部)に与えられた任務だと解釈してるけど。 @阿波 >>128
>大率は高位の中央官僚であり、都から出かけて地方を検察する様子が
何と言う都ですか? >>135
>何と言う都ですか?
倭国(阿波)の都(みやこ)。 @阿波 >>132
だって王が居るのに直轄地なんてあり得んでしょ >>130
伊都国王がわざわざ北方の対馬海峡の国々を検察するのか?
それもおかしな話だ。
やはり大率は王の代理としての代官のような役割を考えるべきで、その検察対象は女王国より北の国々とされている。
伊都に置かれて女王国より北を検察するなら、どこを女王国と認識しているのか。 >>138
そんなことはない。
王が引きこもりなら、代官を置くのは普通のこと。 伊都国(一大率→壱岐や末盧国・奴国・不弥国など九州北岸の国々を監視)
↑北
女王国(筑紫平野)
↓南
狗奴国(狗古智卑狗=菊池平野)
(卑弥弓呼=熊本平野) >>140
王が引きこもりって卑弥呼の事か?
そんなの伊都国に関係ねえじゃん >>141
帯方郡に狗奴国と戦争中だと報告しているから、背後から女王国を裏切らないように監視してたんだね。
筑紫説は実に説得力がある。 >>139
>伊都に置かれて女王国より北を検察するなら、どこを女王国と認識しているのか。
「阿波」。 @阿波 >>144
>筑紫説は実に説得力がある。
筑紫説は実に妄想だけで根拠遺跡がない。 @阿波 >>128
>官有十六品。
>長曰左平、次大率、次恩率、次徳率、次杆率、次奈率、次將徳:服紫帶、次施徳:皂帶、次固徳:赤帶、次李徳:青帶、對徳以下皆黄帶、次文督、次武督、次佐軍、次振武、次剋虞、皆用白帶。
>(隋書 東夷 百濟)
それ、隋書の誤字
× 大率
○ 達率 >>144
其(正始)八(247)年、太守王頎到官
倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素 不和 遣倭載斯烏越等 詣郡 説相攻撃状
遣塞曹掾史張政等 因齎詔書黄幢 拝假難升米 為檄告喩之
「正始八(247)年、太守王頎、官に到る。倭女王卑弥呼は狗奴国男王、卑弥弓呼素と和せず、倭載斯烏越等を遣はし、(帯方)郡に詣り、相攻撃する状を説く。塞曹掾史・張政等を遣はし、因って、詔書、黄幢を齎(もたら)し、難升米に拝仮し、檄を為りてこれを告諭す」
「正始八(247)年、(弓遵の戦死を受けて)王頎が帯方郡太守に着任した。倭女王の卑弥呼は狗奴国の男王、卑弥弓呼素と和せず、倭の載斯烏越等を帯方郡に派遣して、互いに攻撃しあっている状態であることを説明した。(帯方郡主・王頎は)塞曹掾史の張政等を派遣した。それにより詔書、黄幢をもたらして難升米に授け、檄文をつくり、これを解り易く説明して説得した」 >>148
>倭女王の卑弥呼は狗奴国の男王、卑弥弓呼素と和せず、倭の載斯烏越等を帯方郡に派遣して、互いに攻撃しあっている状態であることを説明した。
湖東〜鈴鹿峠に戦争の痕跡なしw >>150
卑弥呼の魏帝への朝貢目的は、(蜀の牽制として西のインド・クシャーナ朝「親魏大月氏王」同様)呉の牽制として東の「親魏倭王」として、帯方郡が管理していた「伽耶の鉄」の倭国における輸入独占権(郡宛て鉄の発注書用の封泥金印「親魏倭王」)。
つまり狗奴国戦争における後方支援要請だったわけで、(其南有)狗奴国の位置が決まれば、自動的に北の邪馬台国の位置も決まることになる。
長年続く邪馬台国所在地論争の核心は、実は『狗奴国の位置』であることに留意されたい。
そこで九州説、畿内説の狗奴国を検討すると、以下のようになる。
−女王国 東渡「海A」千余里 複有「国B」皆倭種
〇九州説…「海A」関門海峡「国B」本州、✕畿内説…「海A」鈴鹿山脈「国B」北海道
−其南有狗奴国 不属女王
〇九州説…熊本もしくは薩摩、✕畿内説…仲良し東海+河内彦(大阪)←支離滅裂
畿内説はいずれも当てはまらない上、「渡海複有国皆倭種(→東)」と「狗奴国(南⤴東)」が共に「東」で重複する。
また、鉄製武器(軍事力)も文字も駅伝制(通信手段)もない3世紀の畿内にいて、遠隔の北部九州を安定支配するのは物理的に不可能。
消去法により、九州説が正しい。
では、狗奴国が熊本か鹿児島かだが、邪馬台国七万戸を統治する倭女王をして、魏帝に援軍要請させるほど窮地に陥れる国の軍事力を考えると、
その人口は邪馬台国と同等(七万戸)もしくはそれ以上の人口(八万戸)を想定。
面積から見て、川内平野でゎ「平野面積≒戸数」となる3世紀の開墾能力では無理があると思われ、狗奴国は菊地平野(狗古智卑狗の本拠)+熊本平野+八代平野の3平野を合わせた超大国と考定して、
北の邪馬台国は、北岸の吉野ヶ里遺跡を始め、弥生拠点集落の宝庫「筑後(川)の賜物」筑紫平野、卑弥呼王宮はその最高所・甘木朝倉を、
卑弥呼の冢「大作冢径百余歩(尺)=直径25m」は、3世紀中頃の築造で、筑紫平野を一望でき、かつ同時期(甕棺墓)の殉葬者が少なくとも66人以上確認されている「有棺無槨」祇園山古墳を比定。 >>141
>>152
祇園山古墳が高良大社の麓にあることは、ほとんどの本州人は知らないので、困ったことですね(大和説の陰謀かな?!^^)。
まず、魏志倭人伝「女王国(九州)東渡海千里複有国皆倭種(本州)。又有侏儒国(四国)在其南、去女王(之所都)四千里」で、九州で決まり。
さらに「(女王国)其南有狗奴国(長官・狗古智卑狗=菊池彦)」ですから、邪馬台国七万戸は、菊地平野の北・筑紫平野しかないですね。
そして、3世紀中頃の築造で、殉葬者66人が確認されている王墓は祇園山古墳しかなく、その尾根上にある筑後国一之宮・高良大社で決まりです(おめでとうございます)!
ちなみに「不弥国から南水行二十日で投馬国に至る。さらに南水行十日陸行一月で邪馬台国に至る」は、「その道里を計るに、まさに会計東冶(帯方郡から12,000里)之東(沖縄と台湾の中間)にあるべし」と結論付けるために、陳寿が(帯方郡→建業→会稽東冶)までの「中国大陸沿岸の行程(12,000里)」を倭国(不弥国→投馬国→邪馬台国)にダブらせて転用した忖度(方便)とすると、投馬国五万戸(宮崎都万)も九州内に収まりますよ。
おそらく洛陽(後漢〜曹魏〜西晋の帝都)から見た倭国は、宿敵・孫呉の背後の海上にあって、(自ら渡海してまで朝貢して来て)魏のために呉を牽制しようとしてくれている「可愛い国♡」という認識だったんでしょう。
だからこそ特別に優遇して金印「親魏倭王」(鉄の発注書の封泥用)を与え、帯方郡の鉄の輸出を許可し、狗奴国の卑弥弓呼・狗古智卑狗を平定せよと銅鏡百枚(✕五百枚w)を与えたんでしょうね。 >>153
ついに「南水行十日陸行一月」の謎が解けたyo!
魏志倭人伝の核心は「計其道里 當在会稽東冶之東(その道里を計るに、まさに会稽東冶の東にあるべし)」の一文。
1.西晋初代・武帝司馬炎は、祖父・司馬懿仲達(秀吉)を後見人に指名してくれた大恩人・曹叡(信長)の、(実は呉より北にいた)卑弥呼を特別待遇してしまった判断ミスを正当化し、呉を滅ぼす先鞭を付けた賢帝に仕立てる必要があった。
→曹魏の帝都・洛陽から見て東南にある孫呉との戦いにおいて、その背後に倭国「女王之所都」があれば、最高の牽制となる。
→孫権の帝都・建業とほぼ同緯度の会稽郡「東治(シ・さんずい)」ではなく、そこから更に約580km南で、帯方郡から12,000里の「東冶(ン・にすい)」の東にあると思わせたい。
2.ところで倭国の気候風俗(服装、産物、動物、武器)は、南越(ベトナム)国境にある儋耳朱崖に似ている。
3.しかし本当の位置も残さなければならない。
そこで陳寿が行った忖度が、女王国(九州)島が、狗邪(伽耶)韓国の南から儋耳朱崖(ベトナム)まで届く、中国大陸をすっぽり包み込む、南北に細長〜い「2つの島」であるように思わせる印象操作。
まず「奴国」を2回使って「女王之所都」が「奴国だよ、奴国だよ」と正解の【奴国1】を暗示(ダチョウ倶楽部「押すなよ、押すなよ」→2回目の念押しがポイント)。
次に、投馬国(宮崎)から南水行十日にある奄美大島を海南島までグィ〜ンと引き伸ばして、女王国島のパラレルワールド「邪馬台国島」を、そこに東治⇔東冶間の「陸行一月」を転用して幻の【奴国2】を創り、「東冶(ン・にすい)」の東に「女王之所都」を合わせた。
同時に倭国に行ったことがある中国知識人には「陸行一日(奴国)」の間違いとすぐに気が付くようにもした(「日」の両端の棒を下に延ばし日+Л→「月」)。
卑弥呼は、漢委奴国王以来の奴国王・帥升「其國本亦以男子為王 住七八十年」の男系女子(孫娘)で、先祖である歴代倭王(死者=鬼)の神託を聞くイタコとして(鬼道政治)、北部九州30カ国から共立された巫女(斎王)。
★邪馬台国七万戸=奴国二万戸(福岡平野)+(南の狗奴国に狙われた)後背地・筑紫平野五万戸 >>152
>>153
「卑弥呼以死 大作冢 径百歩」〜卑弥呼は直径(円墳)百歩(140m)の冢を大いに作(るを以)って死んだ〜 のカラクリ
@265年、曹魏から禅譲を受け、280年、ついに呉を平定し中国を再統一。天下に再び平和と繁栄をもたらした西晋の功績を後世に書き残すための正史「三国志」を編集中、30年前の魏使の報告書「径百尺(25m)」を見た陳寿は、当時の倭国はすでに古墳時代に突入し、王墓だけはやたらと長大という情報を、官僚だけに読み知っていた。
A(膨大な餓死者を出しておきながら黄巾の乱を放置した後漢皇帝たちの厚葬に呆れた)曹操の薄葬に従ったのだろう卑弥呼でも、「径百尺(25m)」の墓ではいくらなんでも小さすぎる。地方豪族級の小さい墓しか作れない倭王に明帝曹叡が親魏倭王の金印を授けるはずがない。
Bおそらく「径百歩」の誤りであろう。ついでに「以+【大】作冢」と補足しておこう。
こうして陳寿は仕方なく、形状◎(直径=円墳)や数値「百」はそのままに、単位「尺(25cm)→歩(1.4m)」だけ刷り替えた。
(もし誰かが気付いたとしても誤記と言い逃れればよい。少なくとも倭国にわざわざ渡海してまで確かめようとする者ももはやいまいw)
そして時は流れ、1740年後の日本…
当然のことながら、祇園山古墳(九州説)も箸墓(大和説)も「径百歩」に該当せず、短里だ長里だ、南だ東だと、果てしない水掛け論が継続中w
▶●もしも箸墓(全長280m)が卑弥呼の冢だったら…
→魏使は「卑弥呼以死 作【大冢】 長二百歩」と記録→陳寿は魏志倭人伝にそのまま転載(×不正解)
●もしも祇園山古墳(直径25m)が卑弥呼の冢だったら…
→魏使は「卑弥呼以死 作冢 径百尺」と記録→陳寿は「卑弥呼以死 【大作】冢 径百【歩】」と盛る→魏志倭人伝(○正解)
祇園山古墳は上方下円墳で、天(上)から見ると方格規矩(四神相応)鏡そのもの。鏡マニアの倭王に相応しい。
「殉葬者奴婢百人」は、曹魏の薄葬に従いつつも、死後の孤独に怯えた卑弥呼の面従背腹であろう。
面白いのでそのまま転載しようw(陳寿、心の声) >>129
>邪馬台国が畿内なら、なぜ畿内の行政システムについての説明はないのか?
>伊都では女王への献上品を開封して中身を確認しているのに、なぜ畿内の港ではそうしないのか?
伊都は属国で女王国内じゃないからだろ >>148
何が言いたいの?
主張も結論もありませんが >>155の模式図だyo!スマホやタブレットじゃなくて、PCで見てね【倭人伝の「会稽東冶≒女王之所都」プロパガンダ】
┏━━┓帯方郡 ┏┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
←┐┃黄海┗狗邪韓国┛(伽耶)〜〜〜日本海〜〜
洛陽┃〜〜〜↓↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━━━━━━━━━━━━━━━━
【魏】┃〜対馬▲↓南「水行10日」〜〜〜〜┃「女王国東渡海1,000里 複有国 皆倭種」
↓ ┃「瀚海」↓↓玄界灘〜〜〜〜〜〜〜┗━━━━━━━━━━━┓(出雲・吉備=墳丘祭祀)
┃〜壱岐▲↓〜〜〜〜┌南「水行10日」┐関門海峡〜〜〜〜〜▲┃(大和・東海=銅鐸祭祀)
v✖s┃〜〜┏末盧国━━━↑━━━━━┓↓〜〜〜〜┏━━━┓〜┃
┃〜〜┃伊都国→不弥国▲▲▲▲▲▲↓国東半島┃侏儒国┃〜┗━━━┛
↑ ┃〜〜┃▲↘「陸行1日」(正)‗▲▲▲▲↓豊後水道┗━━━┛「在其南 人長3〜4尺(少彦名)
【呉】┃〜〜┃♀【奴国1】女王之所都▲▲┛↙〜〜〜〜〜〜〜〜〜去女王(之所都)4,000里」
建業┃〜〜┃狗奴国▲▲▲▲投馬国←←┘宮崎平野=南「水行20日」
┃〜〜┗━━女王国島━┛↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜
会稽┃〜東シナ海〜┌南「水行10日」〜〜〜〜〜〜〜〜
東治┃〜〜┌─┌←▲奄美大島┐↙陳寿の創作(女王国島のパラレルワールド…幻)
↓ ┃〜〜│〜↓「陸行1月」_〜│←「※自女王國以北其戸数道里可得略載」(北部九州30カ国=30日=1ヶ月)
┃〜〜│〜↓▲沖縄〜〜〜│〜〜↓「自帯方郡至女王国 12,000里」
東冶┃〜〜│♀【奴国2】(幻).〜│★【(女王之所都)計其道里 當在会稽「東冶」之東】(魏晋のプロパガンダ…嘘)
┃〜〜│▲台湾〜〜〜〜〜│〜〜↑「此女王境界所尽 其南有狗奴國 不属女王」
香港┃〜〜└┐〜〜〜〜〜〜〜│←「※其余旁国遠絶(幻)不可得詳」
┏▲海南島〜└邪馬台国島(幻)┘〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
┃↖儋耳朱崖〜〜南シナ海〜〜「所有無與儋耳朱崖同(服装・産物・動物・武器)倭地温暖冬夏食生菜…本当」
┛←南越(ベトナム)〜〜〜〜〜↘▲裸国フィリピン〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜↘▲黒歯国インドネシア▲パプアニューギニア「複在其【奴国2】(幻)東南 船行1年…大げさ」 >>138
>だって王が居るのに直轄地なんてあり得んでしょ
直轄地なんて誰が突然言い出した?
トンチンカン?
発狂? >>144
>筑紫説は実に説得力がある。
筑紫説は実に妄想だけで根拠遺跡がない。 @阿波 >>162
まだ発掘されていないだけw 焦るな、早漏爺よw >>163
もう掘り尽くして、無理。 期待が持てるのは四国「阿波」。 @阿波 >>160
だったら大率が居るのはどういう状態なんだ? @伊都国王が一大率を兼務していた。
A伊都国王の他に卑弥呼から派遣された一大率がいた。
どっち?w 反乱を鎮圧したり使者を女王の元に送り届けたりなんてタダでやっとれんわ
相応のうまみがなきゃ >>126
>どう思い違いなのか説明してみてください。
だから、刺史が中央官僚だなんて、あなた笑いものでしょ? >>165
>だったら大率が居るのはどういう状態なんだ
地方長官でしょ
通説どおり大宰率みたいなもん >>173
そういうことじゃなくてじゃあ伊都国王は何ができるの? 一大率と伊都国王の関係の実態なんて、直接見ていない現代人がそれぞれ違う解釈するしかないから無限ループ(水掛け論)になってしまうだろ。
>>141
それより南の狗奴国と戦争中の女王国が伊都国に、女王国「以北」の国々を監視させてたという記述にのみ着目すべき。
邪馬台国は、伊都国と狗奴国に南北挟まれた筑紫平野しかないということ。 >>175
>一大率と伊都国王の関係の実態なんて、直接見ていない現代人がそれぞれ違う解釈するしかないから無限ループ(水掛け論)になってしまうだろ。
ならねえよ
別々に書いてあるんだから別物だ
同じなら伊都国王が諸国を検察するって書くだろ気が狂ってなきゃ 魏から女王へのお土産を調べつくす程の権限を持ってるんだし
貿易品の検品などどうという事はない >>175
>女王国が伊都国に、女王国「以北」の国々を監視させてたという記述にのみ着目すべき。
当然、「狗奴国」の「卑彌弓呼」も朝鮮半島へ鍛冶材料を求めて進出していた。
「卑彌呼」はそういった「狗奴国」の動きを監視させていたのだろう。 @阿波 >>179
ただし、女王国と「狗奴国」が不仲だったのは、「卑彌呼」「卑彌弓呼」の時代だけ。
その前後は、友好国同士。 @阿波 卑弥呼と卑弥弓呼の不仲が原因で争ってたんだしそらそうでしょ 北部九州から畿内に移ったことは間違いないが、その時期により学説が異なる
‐卑弥呼の時代(畿内説)
-神武崇神の時代(九州説)
-天智の時代(九州王朝説) >>180
>声の大きい、間違った者が勝った畿内説w
あんた声だけ大きいよ。中身ないのに >>152
すると、欽明(現皇室開祖)の父にして、古代史の謎である継体の正体(呉の南の「越」王の分家=狗奴国王・卑弥弓呼の末裔。鯨魚@八代淡海→近江琵琶湖)も判明!古代史は以下のように一挙に解明できるのである!
漢委奴国王=1世紀(弥生後期)
帥升=2世紀(倭国大乱)
卑弥呼=3世紀(弥生終末)邪馬台国(帯方郡張政の仲介で狗奴国を併合)…伊都国王神武「更立男王国中不服」を、紀伊半島西部水銀鉱床で栄えていた大和纏向に東征させ「奥津城」として(帯方郡の鉄の代価)隠蔽&独占。
崇神朝=4世紀(前期古墳)伊都国(台与死後「複立男王並受中国爵命」)…垂仁、伊勢神宮を創建し紀伊半島東部も聖域化。紀伊半島の水銀鉱床完全独占。
応神朝=5世紀(中期古墳)邪馬台国(仲哀を武内宿彌&神功が暗殺)…魏晋【宋/斉/梁】南朝へ朝貢再開。479年「武」上表「安東大将軍倭王」任命(悲願達成)。
継体朝=6世紀(後期古墳)狗奴国(武烈死後、倭王磐井を暗殺「百済本紀531年、日本の天皇・皇太子・皇子共に薨去」、筑紫君と矮小)…阿蘇邪靡堆へ遷都。倭国独自(九州)年号創設。
日出処「天子」倭王阿毎多利思比孤、新羅の朝貢を契機に隋煬帝に対し対等外交宣言607年
欽明朝=7世紀(飛鳥時代)…仏教による墓制(国家祭祀)変更のため、欽明皇子、蘇我稲目と共に奥津城(王家の谷)に下向。大和分家として飛鳥疎開宮造営。
用明&推古…物部守屋を誅殺し前方後円墳廃止。大和分家を乗っ取ろうとした蘇我氏を九州本家の天智が誅殺し、近江大津宮へ東遷(大化の改新)。
天武朝=8世紀(奈良時代)記紀編纂→唐外交の火種【九州年号&多利思比孤】を抹消すべく、崇神朝〜応神朝〜継体朝の歴代倭王権@九州本家の交代が、すべて大和分家で起こっていたように史実歪曲。
畿内を記紀の歴史テーマパーク化(九州の地名をそっくり移植。阿蘇外輪山→三輪山、八代淡海→近江琵琶湖など)
桓武朝=9世紀(平安時代)
まとめると、
九州本家…卑弥呼台与(邪馬台国)→崇神朝(伊都国)→応神朝(邪馬台国)→継体朝(狗奴国/阿毎多利思比孤)→天智東遷(難波宮大津宮)→桓武(平安京)
大和分家…神武(伊都国)東征→崇神朝奥津城造営(紀伊半島の水銀鉱床目的)↘欽明朝(推古摂政厩戸)→天武持統(飛鳥宮藤原京)→元明(平城京) >>181
動画もやっていた越前説の八俣遠呂智さん。アバターが若くてイケメン過ぎるだろwww
山陽道・四国(8): 辰砂の産地 没個性・弥生遺跡
https://www.youtube.com/watch?v=pNt0yxslBPs
邪馬台国徳島説というのをご存じですか?
徳島県の経済団体が音頭を取って、地元だけで盛り上がっているようです。
(略)
客観的に見て、残念ながらその可能性は無く、全国的な広がりはありません。
しかし羨ましいですね。徳島の人達はノリが良いです。
「踊る阿呆に観る阿呆、同じ阿保なら・・・」 >>188
邪馬台国女王・台与の死後、倭王となった伊都国王・崇神「複立男王並受中国爵命」の玄孫(4世孫)・仲哀から王権を相続(奪還)した応神(胎中天皇)は、仲哀の実子ではなく、
筑紫女王・神功皇后(記紀が邪馬台国「卑弥呼」と混同させられる理由)と大臣・武内宿彌の子供説(リンク参照)がある(仲哀崩御の十月十日後に筑紫で出生)。
仲哀の息子(応神の異母兄)たち(籠坂かごさか&忍熊おしくま皇子)の反乱もこれが原因である。
その応神朝@筑紫(邪馬台国♂武内宿彌&♀神功皇后)を筑紫君磐井の乱で下剋上した狗奴国王・継体@阿蘇は、仁賢皇女・手白香姫を娶って欽明皇子を産ませることで、歴代倭王統の維持を図った(倭国大乱の再発予防)。
この欽明皇子が義理の父・蘇我稲目とともに、古代東アジア標準の中央集権強化手段=仏教への国家祭祀(墓制)変更のため、奥津城(王家の谷)大和に下向して大和分家(飛鳥)を築き(継体の大和入り20年に仮託)、
その次男・用明の代で、ついに強硬な廃仏派である大連・物部守屋を滅ぼして前方後円墳築造を廃止。用明の妹・推古が仏教の国教化を成就。
しかし、全国の官寺建設で国家予算を恣にした蘇我蝦夷・入鹿父子が大和分家の皇族を次々に粛正し、乗っ取ろうとしたため、九州本家の天智@太宰府(瓦葺き)が飛鳥(板葺)宮に下向。三韓大使の目の前で誅殺(乙巳の変)。
その後、663年に白村江海戦での完敗により、唐・新羅の連合艦隊による倭王征伐がいよいよ現実味を帯びたため、継体→安閑・宣化→阿毎多利思比孤系統の九州本家・天智が、近江大津宮に東遷。
ここに倭王権は史上初めて北部九州を出て、近江大津宮→飛鳥浄御原宮→新益藤原京→平城京→平安京へと続く畿内中心の歴史が始まるのである!
欽明以前の「畿内」には、崇神朝・応神朝はもちろん、直前の継体朝ですら記紀伝承地に大王宮が一つも出土せず(明治政府設置の石碑のみ)、巨大王墓と倉庫しか出土しないのは、そのためである。 >>185
吉備特殊器台の箸墓に殉葬なしw
纏向大型建物群に楼閣も濠もなし、猪除けの板塀だけw
「宮室楼観城柵厳設 常有人持兵守衛」
どこが学問的なの?畿内説w >>164
阿波爺さん、あんた天才かも!
>>191
>欽明以前の「畿内」には、崇神朝・応神朝はもちろん、直前の継体朝ですら記紀伝承地に大王宮が一つも出土せず(明治政府設置の石碑のみ)、巨大王墓と倉庫しか出土しないのは、そのためである。
つまり、九州説みたいにまだ発掘されていないんじゃなくて、記紀に書いてあるところを発掘して出ないということは、九州王朝説が正しいってこと!w マジャームーン「畿内説がじぇんぶ正しい!殉葬なんて嘘よ、嘘!箸墓が卑弥呼の冢!解りました?」 まぁ、畿内説なんて安倍内閣(文科省)への忖度だからw なんとか宗教団体の支援が資金源になってる大学や研究機関(〇〇学研究所とか)も多いのだろう 畿内説は江戸時代の国学者の勘違いが発端の残りカスだろ。
「伝を読むと使者が来たのは子供が考えても九州だけど3世紀のヤマト国なら奈良からは動かせない。」って言うね。
畿内説がいまだに存在するのは仕方ないにしても九州王朝説と王都阿波説はガチでキモい。 記紀を絡めた妄想を書き連ねてたんじゃスレは続かないし
このスレに来るしかないもんな >>190
ダイワとしか読めない大倭(大和)を(オオ)ヤマト と読ませるのはなぜか?
邪馬台国があったからではなく、その逆で、国内外(唐)に対し、新益藤原京を新設した「畿内」に、筑紫邪馬台も阿蘇邪靡堆もあったと思わせたかったからなのである!
白村江海戦惨敗で東遷した九州本家の天智の死後、壬申の乱で倭王権を獲得した大和分家の天武が正史記紀を編纂し(唐を刺激する九州本家=継体創始の倭国独自年号&日出処「天子」多利思比孤を抹消)、
それに合わせて九州の地名をそっくり移植し、「畿内」をその歴史テーマパーク化していったからで、そのテーマパークの名前が「大倭」(ヤマト)なのである!
7世紀唐(飛鳥時代)までの中国歴代王朝には、倭国は九州島のみと認識されていたことが判る。
魏志倭人伝「女王国(九州)東渡海千里複有国皆倭種(本州)又有侏儒国在其南(四国)」
隋書倭国伝(倭王阿毎多利思比孤@阿蘇邪靡堆)、旧唐書(原文略)
日本の使者Aは「日本国(本州)は昔の倭国(九州)とは別の国だったが、日辺(→東)にあったので、日本と名付けた」
別の使者Bは「倭(九州)と言う名前が優雅でないから日本(本州)と改名した」と言い、
また別の使者Cは「日本(本州)は昔小国だったが、倭地(九州)を併せた」と言った。
来朝した使者ABCの態度が尊大で、真実を言っている様子がなかったので、中国は彼らを疑った。
事実は逆で、白村江海戦惨敗で九州本家が近江大津宮に東遷後、実際はすべて北部九州で展開していた「倭国」の歴史テーマパークにするため、後漢書東夷伝の「大倭」@九州を借用しつつ、
発音は北部九州時代の都であった筑紫邪馬台&阿蘇邪靡堆(ヤマト)としたということなのである!
ゆえに「魏志倭人伝」の年代記述に合わせて箸墓の築造年代を50年繰り上げて生まれた「畿内」説、ならびに古墳時代「畿内」にあったとされる「ヤマト王権」(定説)は、
唐外交を最優先課題とせざるを得なかった天武・持統朝が国家事業として強行した、この複雑なからくりに惑わされて生まれた幻想で、
記紀(後付け地名=ヤマト王権)という虚構のゴール地点から、魏志倭人伝と土器編年の年代繰り上げ操作による強引付会に過ぎず、どこまで史実歪曲&洗脳を定着させられるのか?という、社会実験に過ぎないのである(今年はガチでキモい皇紀2682年w)。 >>200
まとめると、今から1359年前、663年8月の白村江海戦で(互いに先陣を競って無秩序な突撃を繰り返す)倭国水軍を全滅させた大艦隊を擁し、その気になれば、完全に無防備〔もはや陸軍のみ→夥しい神籠石(高句麗)式&朝鮮(百済)式山城の築造ラッシュ〕となった倭国に来襲して、天智の首都・太宰府を殲滅できた超大国・唐(外交)への忖度で生まれた記紀が消そうとしたのは、
A.倭国史上初めて北部九州を出て、近江大津宮に東遷した天智@太宰府以前の倭王権(崇神朝→応神朝→継体朝)がすべて北部九州(筑紫邪馬台→阿蘇邪靡堆→天智太宰府)にあったこと
→3王朝ともその奥津城(王家の谷)&新益藤原京を新設したばかりの「畿内」にあったことにした〔記紀の歴史テーマパーク「大倭」→「大和」聖徳太子(以和為貴)へ〕。
B.さらに、磐井の乱で応神朝@筑紫を乗っ取った、継体朝@阿蘇がやらかしていた3つの不都合な史実なのである!
1.(武寧王の百済を完全属国化した)継体が中国の南北朝二帝並立の隙に創始してしまった(時間の支配者=中国皇帝の冊封からの独立を意味する)倭国独自(九州)年号
→天智の【倭京】(太宰府)以前は全て抹消!(下記参照)
2.鉄の産出により高句麗&百済に形勢逆転した新羅からの朝貢で調子に乗り、南北朝を再び統一した隋の「天子」煬帝相手に日出処「天子」を名乗ってしまった阿毎多利思比孤(冠位十二階)
→同時期の大和分家・厩戸皇子と合成し、憲法十七条(以和為貴)「聖徳太子」を捏造&抹消!
3.白村江海戦惨敗で唐新羅連合艦隊の倭王成敗(王族9親等全員処刑)に怯えた九州本家・天智@太宰府の、(裏口から船で高句麗に脱出できる)近江大津宮への遷都(臆病風→周辺国の笑い草)
→舒明♂皇極♀の長男=斉明皇太子として大和分家に接続&統合!(皇極斉明重祚&天智天武兄弟の秘密)
-継体朝@阿蘇による倭国独自(九州)年号一覧
継体・善記・正和・教知・僧聴・明要・貴楽・法清・兄弟・蔵和・師安・和僧・金光・賢称・鏡當・勝照・端政・告貴・願転・光元・定居・【倭京】・仁王・僧要・命長・常色・白雉・白鳳・朱雀・朱鳥・大化・大長
-熊本県玉名市和水町前原の石原家文書 今城塚古墳に眠る大王の、ピンクの石棺は、なせ遠路はるばる運ばれてきたのだろう。。。 >>188
古墳時代に九州本家と大和分家が並立していたのなら、あの巨大古墳の多さも納得だな
1王統にしては数が多過ぎる謎も解ける 記紀は饒速日や長髄彦の先住を認めている。隠したりしていない。
九州王朝説が正しいなら九州王朝の九州での物語を正しく記して
先発隊である大和分家を救うため天智天皇が北部九州を出て、近江大津宮に遷都したと
正直に書けばいい。隠す理由が何もない。阿波説と同じくキチガイ妄想以外の何物でもない。 唐外交への忖度から生まれたわけだから「日出処天子」阿毎多利思比狐は消さないとな 古墳について分家の方が巨大で立派なのは国家としてどうなのか?
阿波説と同じキチガイ妄想。 >>206
そういうことw
漢委奴国王や帥升・卑弥呼や台与・倭の五王の存在も記紀に入れちゃダメw つまり大和・河内の巨大古墳は、九州本家(大王)の奥津城(霊園)ってこと? >>210
そう、畿内の巨大古墳は、九州本家(大王)の「王家の谷」ってこと 畿内の巨大古墳の被葬者が、(当時の先進地)九州にいた大王だなんて、日本の歴史が根本から変わってしまうよ。。。
天皇号を初めて用いたのが飛鳥時代の天武であることや、旧唐書(飛鳥時代)の記録が気になる。
>旧唐書(原文略)
>日本の使者Aは「日本国(本州)は昔の倭国(九州)とは別の国だったが、日辺(→東)にあったので、日本と名付けた」
>別の使者Bは「倭(九州)と言う名前が優雅でないから日本(本州)と改名した」と言い、
>また別の使者Cは「日本(本州)は昔小国だったが、倭地(九州)を併せた」と言った。
>来朝した使者ABCの態度が尊大で、真実を言っている様子がなかったので、中国は彼らを疑った。 >>191
「箸墓ありき」畿内説が捏造だったのか! >旧唐書(原文略)
>日本の使者Aは「日本国(奈良大和)は昔の倭国(阿波)とは別の国だったが、日辺(→東)にあったので、日本と名付けた」
>別の使者Bは「倭(阿波)と言う名前が優雅でないから日本(奈良大和)と改名した」と言い、
>また別の使者Cは「日本(奈良大和)は昔小国だったが、倭地(阿波)を併せた」と言った。
>来朝した使者ABCの態度が尊大で、真実を言っている様子がなかったので、中国は彼らを疑った。 @阿波 邪馬台国九州説と九州王朝説を一緒にしないで欲しい。 マジャームーン「畿内説がじぇんぶ、じぇ〜んぶ正しい!殉葬なんて嘘よ、嘘!箸墓が卑弥呼の冢!解りました?」 >>216
どっちも、根拠遺跡が無いトンデモ。 @阿波 >>198
九州説が、魏に朝貢していたのは、ヤマト朝廷と無関係な地方政権だった事にしたい、と言う思惑から生まれた説だよ。
国学者的には、朝廷の先祖が朝貢していたのは認めたく無い事だったんでしょう。 >>212
朝貢の歴史を消すためにいろいろ考えてたのかもな
朝貢なんて認めるんじゃねえぞって使者は言われてたかも マジャームーン「畿内説がじぇんぶ、じぇ〜んぶ正しい!殉葬なんて嘘よ、嘘!箸墓が卑弥呼の冢!邪馬台国だから大和よ!解りました?」 >>198
>畿内説は江戸時代の国学者の勘違いが発端の残りカスだろ。
それ、モロ九州説の話では? >旧唐書(原文略)
>日本の使者Aは「日本国(奈良大和)は昔の倭国(阿波)とは別の国だったが、日辺(→東)にあったので、日本と名付けた」
>別の使者Bは「倭(阿波)と言う名前が優雅でないから日本(奈良大和)と改名した」と言い、
>また別の使者Cは「日本(奈良大和)は昔小国だったが、倭地(阿波)を併せた」と言った。
>来朝した使者ABCの態度が尊大で、真実を言っている様子がなかったので、中国は彼らを疑った。 @阿波 九州の前方後円墳は、纏向(纏向石塚古墳99m)の影響下で
博多に造られた那珂八幡古墳(85m)が始まり
続いて九州北部沿岸、東部沿岸に畿内よりも小規模のものが続々と造られ
有明海北部沿岸がもっとも遅い 畿内は、九州にいた大王の「王家の谷」だから、当然そうなるね >>113
奴国が伊都国に対してそんな敵対的な行為をとる意味が分からないし、そもそも博多湾側を閉鎖したところで伊都国は唐津湾も使えるんだから貿易封鎖なんかできんよ。いろいろ破綻してる 壱岐-三雲貿易
ⅠA期(2世紀後半)、楽浪土器のピークで糸島が多く、三雲、深江井牟田に集中している
壱岐-三雲貿易末期 博多湾貿易開始
ⅠB期(3世紀前半)、糸島と福岡平野が拮抗し、福岡平野に馬韓土器が増えるが糸島では増えない
博多湾貿易
ⅡA期(3世紀第3四半期)、楽浪土器の搬入が停止、馬韓土器が増大する >>229
糸島と福岡平野だけに限定した考察。 福津周辺を避けた考察。 @阿波 >>149
> >>137
> 伊都から出て地方を検察
> ですか
そうですね。
検察の対象は伊都そのものではなく、伊都より北の国々です。
しかもその部分では、女王国より北の国々という書き方なので、伊都国を女王国と認識しているようです。 魏志倭人伝が伝えているのは2世紀末から4世紀初めに及ぶ卑弥呼と台与の時代の倭国と魏のあしどり
ヤマト王権誕生のドキュメンタリー
この時代にちょうど重なる巨大集落遺跡が纏向遺跡
三国志にこの記録があることで歴史に向き合うことができることになった >>228
>いろいろ破綻してる
一つも破綻はないよ
意味が分からないのは、ばかだからだな
伊都国が対外貿易を独占して来たんだから、周辺国の行動には意味がある
西側は博多と並んで前方後円墳の波及が早い唐津
伊都国の利権総取りに反発した周囲の国が畿内ヤマトと結託したんだよ 博多も唐津も伊都を封鎖しないと貿易できないような場所ではなかろう。そもそも帯方郡の郡吏が伊都に来てたのに封鎖してたってどういうこと? >>231
>しかもその部分では、女王国より北の国々という書き方なので
倭人伝にそんな部分ナシ >>157
女王国に着く前に荷を開封したらおかしいでしょ。
伊都国で荷を開封できたのは、そこが女王国だからですよ。
そこからさらに瀬戸内海や日本海を移動するのなら、荷を開封するわけがない。 >>234
封鎖してたなんて誰も言ってないけど、思い込みと妄想の人? >>165
> >>160
> だったら大率が居るのはどういう状態なんだ?
引きこもり女王の代わりの代官でしょ。
内務大臣や総理大臣みたいなもの。 >>110のことを言ってるんだが、関係ないのに横レスしてたの? >>236
開封したなんて誰も言ってないけど、思い込みと妄想の人? >>236
>女王国に着く前に荷を開封したらおかしいでしょ。
だから、開封はしていない。 @阿波 >>177
王が自分で出かけて検察はしていないのですよ。
あくまでも大率が代理でそれを実行していた。 >>240
封鎖してたなんて、どこの誰も言ってないけど、思い込みと妄想で狂った人? >>239
>伊都国にいた王とは、卑弥呼のこと。
倭人伝に書いてあることと全く違うのだけど >>244
お前が思い込みと妄想の人なんじゃねーかwww
関係ないなら脳死で横レスしないで黙っててwww >>247
反論できなくなって罵り始める痛い人だね 伊都国の津で文書や賜遣物を検査して女王に伝送するのだから
船を替えるということ >>247
>お前が思い込みと妄想の人なんじゃねーかwww
誰も言ってないことを一人で妄想して狂っていく糸厨あわれ >>175
>女王国が伊都国に、女王国「以北」の国々を監視させてたという記述にのみ着目すべき。
当然、「狗奴国」の「卑彌弓呼」も朝鮮半島へ鍛冶材料を求めて進出していた。
「卑彌呼」はそういった「狗奴国」の動きを監視させていたのだろう。 @阿波 >>249
だって>>110で封鎖の話したのお前じゃないんでしょ?
関係ないのに自分が批判されたと思い込んでイキっちゃったんだよね
まあそういうこともあるよね。ドンマイだよ >>175
>女王国が伊都国に、女王国「以北」の国々を監視させてたという記述にのみ着目すべき。
当然、「狗奴国」の「卑彌弓呼」も朝鮮半島へ鍛冶材料を求めて進出していた。
「卑彌呼」はそういった「狗奴国」の動きを監視させていたのだろう。 @阿波 倭人伝に書いてないことを妄想し、他人の言ってないことに反論する痛厨w >>253
>だって>>110で封鎖の話したのお前じゃないんでしょ?
封鎖してたなんてどこの誰も言ってないのに、一人で思い込みと妄想で狂っていく伊都厨 >>254
刺史が中央官僚とか非常識なことしつこく言い張れば、批判されて当然なのだが バカが他人をバカ呼ばわりしても自分が賢くなるわけではないから痛いだけっていうのがよく分かるな >>205
そうでもない。
神武が筑紫を出てからの九州の王権の存在は、記紀の万世一系思想と相容れないのだから、筑紫の王権はなかったことにしたい。
例えば、現代史では民主党政権や社民党政権はほとんどなかったかのように黙殺されているだろ。
同じことだよ。 >>210
> つまり大和・河内の巨大古墳は、九州本家(大王)の奥津城(霊園)ってこと?
同じ墓制で、石をわざわざ阿蘇から畿内に運んだりしているので、その可能性もある。 >>260
なんで糸厨が馬鹿か証拠突きつけられてるのに、相手を馬鹿と言い返すことしか出来ないのは人並み外れた馬鹿だよな
珍品級 >>153
祭られてる高良玉垂命の正体が気になる
神武天皇の弟説とかね >>212
日本の歴史を根本から塗り替えて嘘をついた人がいるのだろう。
我が国に7世紀より前の文書がほぼ皆無なのはなぜ?
白村江の敗戦より前に書かれた資料は、701年や明治初年の焚書で失われたんだよ。 >>266
壬申の乱で首都が燃やされたのもありそう >>225
纒向と那珂八幡は同型らしいけど、築造年代にそれほど差はない。
畿内説の主張を読むと、那珂八幡が卑弥呼の時代における畿内の影響の証拠のように書いているが、それはすなわち247年より前に築造されたということになる。
それなら箸墓はそこから何年遡るのか。
本当に箸墓は3世紀前半まで遡れるのか。
都合のいい解釈を積み上げているだけではないのか。
ひょっとしたら、筑紫の勢力の一部が畿内に移動した痕跡なのかもしれない。 糸厨房の狂いっぷり
刺史は中央官僚でーす
百済の第二位は大率でーす
卑弥呼は伊都国王でーす自分が自分に統属してまーす
卑弥呼は伊都国にいるのに港でなぜか伝送しまーす
馬鹿だろこれ >>228
まあ、畿内説はいろいろと破綻しているんだよ。
その場限りの言い繕いをしては論破されている。
それを楽しむのがこのスレの主旨なんだよw >>232
纒向は巨大集落ではありません。
何戸の建物が出たか知っていますか? >>233
口から出まかせを言ってまた畿内説が破綻していますね。
伊都国で利益を得ていたのは、畿内から派遣された大率というのが畿内説の主張だったはず。
それなのに周りの前方後円墳の勢力、これも畿内勢力を想定してあるのでしょうが、それが反発していると?
もう無茶苦茶w
これが畿内説のクオリティ >>241
魏志倭人伝には捜露とあるので、開封しています。
開封しなければ、中身の数を確認できないじゃありませんか。 >>268
>それなら箸墓はそこから何年遡るのか。
遡るなんて、畿内説が主張したか?
マボロシ見てる?
>本当に箸墓は3世紀前半まで遡れるのか。
だから、誰がそれ言った?
妄想の人ですか?
反論あるなら、ちゃんと対象明らかにして誰かに反論すれば?
一人で妄想して嘘だ嘘だと喚いてるだけじゃなくてさ
それとも簡単な日本語もよめないの? >>262
言い訳にもなってないな。黙殺してもよかったし先発隊扱いで下に置いても良かった。
九州の皇統で万世一系を貫いて天智天皇が畿内に遷都したと書けばいいだけ。
阿波説並のアホバカ説。 >>270
>まあ、畿内説はいろいろと破綻しているんだよ。
どこが?
一つでも言える?
>その場限りの言い繕いをしては論破されている。
いつ、どこでなんと言って?
嘘ばかりついてもダメ 三国志最強の男 曹操の人望力 - 12 ページ
「刺史は本来、地方行政の組織の枠に組み入れられた存在ではなかった。役職も目付のようなもので、州や郡、県の役人が政務を真面目に司っているか否かを監督し、 その成績を考察して、中央へ報告する役割を担っていた」
つまり、刺史は地方にとどまっているわけではない。
本拠地は都に置かれていた。
倭国の場合、伊都に大率がおかれ北方を検察して畏怖されており、刺史のようだと書かれている。 一大率についての原文:
「自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
三国志において"A+治+地名B"は、
「A自らの中心拠点を(Aの管轄域の主要地である)Bに設置した」の意味で使われている。 >>273
>志倭人伝には捜露とあるので、開封しています。
捜露が開封の意味だという根拠は? >>277
>つまり、刺史は地方にとどまっているわけではない。
という根拠は?
>本拠地は都に置かれていた。
証拠は?
常識と正反対なんですけど >>265
高良玉垂命を祭る神社のほとんどは、同時に竹内宿禰を祭る。
つまりは武内宿禰のこと。
筑後一宮高良大社は武内宿禰を祭る。
また、筑前一宮住吉大社の住吉の神も、神功皇后にまつわる部分では武内宿禰のこと。
つまり、田油津姫と仲哀天皇を倒して、武内宿禰と神功皇后が筑紫を征服したということ。 一大率は伊都に常駐していた地方行政官でしょ
さすがにこれ否定するのは逆張りすぎて考慮に値しない >>274
遡らないのなら、筑紫に発生したホタテ型前方後円墳が畿内に伝播したことになってしまうのだけど? >>272
>口から出まかせを言ってまた畿内説が破綻していますね。
どこが?
>伊都国で利益を得ていたのは、畿内から派遣された大率というのが畿内説の主張だったはず。
誰が言った?
>それなのに周りの前方後円墳の勢力、これも畿内勢力を想定してあるのでしょうが、それが反発していると?
誰が誰に反発してるって、誰が言った?
あんたの言ってること、全部妄想じゃないの 畿内説がここまで拗れたのって全部箸墓や巻向遺跡の年代測定のせいだよな
考古学者や関係者は年代ごまかすの諦めて
早く哀れな畿内説を解放してやれ >>270
「阿波」にとって、同時に、九州説もな。 わははははは @阿波 >>273
>魏志倭人伝には捜露とあるので、開封しています。
お前の思い込み。 @阿波 >>283
>遡らないのなら、筑紫に発生したホタテ型前方後円墳が畿内に伝播したことになってしまうのだけど?
なぜ?
なぜ筑紫に発生したことになり、畿内に伝播したことになるの?
理由が全く書いてない >>285
>畿内説がここまで拗れたのって全部箸墓や巻向遺跡の年代測定のせいだよな
そんな中傷する根拠は?
>考古学者や関係者は年代ごまかすの諦めて
ごまかしだとか決めつける理由は? >>285
その通り。
箸墓も纒向も、邪馬台国と絡めたことで正当に評価されなくなってしまった。 >>288
年代の古い方から新しい方に伝播したと考えるのですよ。
当たり前ですよね? >>290
伊都国王が女王国に統属していて
女王が伊都国に特に一大率を置いていて
その一大率が地方行政間である刺史のようだから
纏向ってどう考えても崇神の磯城瑞籬宮でしょ >>292
>箸墓も纒向も、邪馬台国と絡めたことで正当に評価されなくなってしまった。
誰から?
証拠は? >>293
>年代の古い方から新しい方に伝播したと考えるのですよ。
>当たり前ですよね?
何が新しくて、何が古いの?
具体的内容がありません >>225
> 九州の前方後円墳は、纏向(纏向石塚古墳99m)の影響下で
> 博多に造られた那珂八幡古墳(85m)が始まり
> 続いて九州北部沿岸、東部沿岸に畿内よりも小規模のものが続々と造られ
> 有明海北部沿岸がもっとも遅い
これを書いた人は何が言いたかったの?
どちらも卑弥呼の時代より後なら、邪馬台国の話と関係なくなってしまう。 >>289
>あなたの常識は何が根拠ですか?
史料だね >>295
> 纏向ってどう考えても崇神の磯城瑞籬宮でしょ
ですよね。 >>290
普通に読んだら女王国は伊都に一大率を置いており、これは中国の刺吏のようなものだとしか読めんでしょ >>298
>どちらも卑弥呼の時代より後なら、邪馬台国の話と関係なくなってしまう。
どちらも卑弥呼の時代より後って、誰が言ったの?
あなた妄想多すぎでしょう >>300
>> 纏向ってどう考えても
考えてないだけ >>303
誰もがそう読んでいる
違う読み方してる人がいるなら紹介して >>268
段築葺石の箸墓は、纏向石塚(3世紀初頭)→那珂八幡(3世紀第2四半期)の後 >>300
畿内説が生き残るには「アホバカ比売后説」を受け入れるしかないのですか? >>307
>酷い妄想してるのは糸厨ひとりのようだな
そもそも、根拠となる集落遺跡がないんだから、最初っから無理説。 @阿波 >>277
>三国志最強の男 曹操の人望力 - 12 ページ
>「刺史は本来、地方行政の組織の枠に組み入れられた存在ではなかった。役職も目付のようなもので、州や郡、県の役人が政務を真面目に司っているか否かを監督し、 その成績を考察して、中央へ報告する役割を担っていた」
こんな本が九州説では根拠だというのも笑っちゃうけど、これどう読んでも
「つまり、刺史は地方にとどまっているわけではない」
「本拠地は都に置かれていた」
って狂った結論は出てこない 畿内説なら邪馬台国と崇神天皇は当然連続ということになるのだろう。であれば崇神天皇と時代が近く上の世代の倭迹迹日百襲姫命が卑弥呼の有力候補となるのだろう。
しかし考古学的に見て箸墓が卑弥呼の墓と言えるかは微妙なところだ >>312
>畿内説なら邪馬台国と崇神天皇は当然連続ということになるのだろう。
それ、あんたの妄想だろ
誰がそんなこと主張してる? 妄想バカはいい加減ウザいのでNGしますね。荒らしやめてね。 >>312
>しかし考古学的に見て箸墓が卑弥呼の墓と言えるかは微妙なところだ
そんな高貴な人を最低環境のジメジメ湿地に埋葬する訳なかろう。
三流学者が考えそうなことだ。 @阿波 三國志の時代で言うと、
司馬懿の下で公孫淵討伐、高句麗遠征をした?丘倹が幽州刺史 魏志倭人伝では壱岐を一大國って書いてるんだから、一大率は一支帥なんじゃないのか ソツはサチかもなあ
海幸彦山幸彦一大率説を今思い付いたわ >>301
刺史のような大率を置いていたけれど、大率が検察した対馬海峡が地方なのであって、伊都が地方というわけではありません。 >>306
> >>268
>
> 段築葺石の箸墓は、纏向石塚(3世紀初頭)→那珂八幡(3世紀第2四半期)の後
第二四半期の後とは、第三四半期のことですか?
それなら卑弥呼の死後なので邪馬台国論争とは関係なくなります。
筑紫にいた卑弥呼の死後に畿内勢力が進出してきたようにも解釈できます。 >>313
> 刺史は中央官僚じゃない
> これ常識
あなたの中ではそうなのですね。 伊都に重要な遺跡があるのは分かるけど、戸数から言って首都と見るのは無理だろう >>332
>伊都に重要な遺跡
ってなに? @阿波 >>333
よく知らんけどガラス玉とか鏡とか出てるんでしょ。それはまあ認めますよ >>328
箸墓古墳は3世紀中頃から後半
那珂八幡は卑弥呼の生存中 >>326
> そんなん伊都に特に置いたら変だわ
伊都に置いて、伊都から北を検察してまわったのなら、中国における刺史と同じこと。
検察対象は、対馬海峡にあった伊都の周辺の国々です。
周辺の国々は伊都にいた大率を畏怖していました。
これは伊都を頂点とする支配構造の説明です。 >>336
IDとかなくて分からんから確認だけど、それって伊都地方行政府説?それとも伊都首都説? 三国志の英雄たちはほとんどが州牧または刺史を経験している。
彼らが必ずしも地方官とは言えないはずのだが。 伊都に置かれたのは一大率じゃなくて一大率を管理する機関やろ
そこから高千穂に派遣されたのがニニギ、奈良に派遣されたのがニギハヤヒやな >>338
>彼らが必ずしも地方官とは言えないはずのだが
三国志読んでないの?
地方官だよ
その地域で軍閥になった >>337
魏志倭人伝を内容をよく読んで、どちらの解釈がより適切に思えるのか考えてみるべきだと思います。
刺史=地方官であっても、検察対象が伊都ではなく伊都より北の国々であれば、伊都の扱いは地方と切り捨てていいのか。 >>340
率って帥、つまり長官のことでしょ
それを管理する機関ってどういうことよ >>342
で、結局お前はどう考えてるのかって聞いてるのよ
はっきり言わないと話にならないよ >>344
幕府みたいなもんや
もしかしたら欠史八代の頃の天皇は幕府の将軍みたいな役割だったのかもな
一大率が後の国造でな >>342
>魏志倭人伝を内容をよく読んで、どちらの解釈がより適切に思えるのか考えてみるべきだと思います。
いや、明らかにあなた不自然でしょう
刺史は地方官で刺史治は検察対象の管内の地方都市に置かれる 伊都に一大卒が派遣され、(伊都国を含む)伊都国の北の国を監督してる。
だと解釈しておりました。
都が何処であれ、伊都国は監督される対象ですね。 >>336
>伊都から北を検察してまわったのなら
そんなこと倭人伝に書いてない >>334
そんなもの、全国の古墳から出ているよ。 @阿波 >>334
そんなもの、全国の古墳から出ているよ。 @阿波
なんせ、「倭人(阿波勢力)」のお墓なんだから。 @阿波 >>352
殉葬も楼閣も魏志倭人伝にありますね。
畿内にはないようですが。 一大率が中央でも地方でも良いんだけど中国の使者には刺史のように見えたと言ってるだけでしょ
何をやってたからそう見えたんだ?
もしかすると日本も中国の中の一地方に当てはめてるかも知れないわけで 魏志倭人伝を読まない畿内説
書かれていないことはたくさん説明するが、魏志倭人伝に書かれていることを何一つ実証できない >畿内説なら邪馬台国と崇神天皇は当然連続ということになるのだろう。
ならないw 考えもしない。畿内説はとにかく記紀から目を背けるってのが、正解。
(ガチキチ比売后を除くw) >>349
書いてありますよ。
あなたの頭の中で、女王国はどこで、大率が検察した女王国以北とはどこですか? 魏志倭人伝からも記紀からも目を背けて、畿内説は妄想に耽るのみ。 伊都国の王が一大率をやってたとしても刺史のように見えればそれで良いわけで 刺史は軍隊だと思ってるんだけど
だから使者を女王の元へ送り届ける事ができるのよ >>359
一理あります。
それだと、周辺の国々が畏怖していたのは伊都国にいた王だということになりますけどね。
それでその王の名が記載されていないとは不思議な話ということになります。 軍隊を養うんだから貿易品のピンハネくらいの特権がなきゃやってらんねえ >>360
>刺史は軍隊だと思ってるんだけど
筑紫忌部だから軍隊でもある。
まぁ、どのみち、だれも「倭人(阿波勢力)」に逆らう者などいないが。 @阿波 異民族の属国の伊都国は、渡海で疲れた郡使が一時滞在するところなので、
伊都王は料理人であり尚且つ宴会芸人というとても重要な能力が要求される 江戸時代じゃねーんだから畿内説とか推してる奴って頭パーなの?
ヤマト王権との関係はどう説明するのさ?あんまり神話を軽んじるべきではないよ。
トロイア遺跡は神話から発見されたんだし
記紀にいったっては歴史書を無理やり神話っぽくアレンジしてるようにも思える。 >>362
魏志倭人伝では女王の元まで間違いなく届くと称賛しているので、ピンハネや中抜きはなかったようです。 伊都国奴国不弥国までは里程が細かく書かれているのに、そこから先はまったく里程が書かれていないのも謎。
そもそも後漢書では楽浪帯方から邪馬台国まで一万二千里なのに、九州上陸で一万里を使い果たしているし。 >>365
>江戸時代じゃねーんだから畿内説とか推してる奴って頭パーなの?
同じく、九州説もな。 わははははは @阿波 >>365
そうですね。
崇神天皇の宮と思われる遺構、すなわち纏向遺跡が見つかった今となっては、魏志倭人伝と記紀における畿内の歴史との乖離は著しいと言わざるを得ないです。 >>360
郡使往來常所駐とあるように郡使は伊都に駐在するから女王には多分会ってないよ。
そもそも自爲王以來、少有見者とあるように卑弥呼に謁見できるものは殆どいない。女の召使と側近の男子一人だけ。 >>368
その先は郡使が直接行ってないからだろうな >>368
>伊都国奴国不弥国までは里程が細かく書かれているのに、そこから先はまったく里程が書かれていないのも謎。
ひとつ確実に言えることは、不弥国から先は九州を離れて、四国だということ。 @阿波 >>365
当然、畿内説なら邪馬台国とヤマト王権は連続だろ 一方の九州説は、伊都国が工業的にも中心地だったことがわかったり、平原遺跡のような卑弥呼の時代の女王墓の発見により、昔の九州説とは全く別物と言えます。
たまに放射説を叩いて満足している畿内説の方もいるようですが、少なくともこの板で放射説を唱えている九州説は誰もいないので、ご苦労なことです。
仮想敵を叩いて満足しているのが今の畿内説です。
九州の中でも、女王国があり得たのは考古学的にも九州北部、それもほぼ筑紫に限られると思います。
たまに佐賀を推す人もいるようですが、誤差のようなもの。 >>375
放射説を唱えずに九州説ってどうやって成立させるの?行程の記述は不正確だから全無視? >>368
>伊都国奴国不弥国までは里程が細かく書かれているのに、そこから先はまったく里程が書かれていないのも謎。
ひとつ確実に言えることは、不弥国から先は九州を離れて、四国だということ。 @阿波 >>371
卑弥呼に謁見しなければ郡使は役割を果たせないし、さすがに皇帝の使いには会ったのでしょう。
だからこそ、その人となりが魏志倭人伝に記載できるわけですし。
伊都にいた郡使が卑弥呼に会ったのなら、卑弥呼は限りなく伊都に近いところにいたはず。
伊都国奴国不弥国が女王国と解釈すると、魏志倭人伝の謎は概ね解けます。 >>368
邪馬台国まで一万二千里の記述はない。
女王国の境、奴国までだな そもそも郡使の役割って何だったんだ?
格上である帯方郡の使者が女王に謁見というのも奇妙な話だが >>378
そしたらヤマトコクとはなんじゃい?
って話になる。 >>378
>伊都国奴国不弥国が女王国と解釈すると
無茶苦茶じゃのうww そこまで捻じ曲げるかww 苦しいんじゃのうww @阿波 >>379
それは俺もそう思う。奴国か、あるいは伊都国かも知れないが。 >>378
奴国か不彌国?
伊都国内で謁見の場とかあるかもしれないな >>379
>邪馬台国まで一万二千里の記述はない。
だから、女王国まで直線距離で一万二千里。 @阿波 >>378
概ね解けるどころか、水行二十日投馬國、水行十日邪馬台国(女王の都)がくっそ謎になるが >>376
里程と日程か併記されているのですよ。
里程は筑紫までで終わっています。 >>385
お前、天皇の勅使と勘違いしていないか?
朝鮮通信使も信長や秀吉の上座だったというのか? @阿波 >>379
後漢書
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。
つまり、倭国とは狗邪韓國から倭奴国まで。 >>380
確かに珍しいことですね。
個人的には、一方的に朝貢を受けるだけではなく、朝貢してきた卑弥呼が本当に後漢の頃の倭奴国の後継の王なのかどうか確かめる必要があったのではないでしょうか。
郡使は奴国が依然として倭の最大国邑であるが、その隣の伊都に権力機構があり、あわせて女王国として機能していることを報告したのです。 >>385
お前、天皇の勅使と勘違いしていないか?
お前、板野の糞じゃろが!
板野の売郷奴は、いかにも冷静で偉そうに見せかけるが、
実際はずる賢くて、間の抜けた雑魚。 わははははは @阿波 旧唐書
倭国はいにしえの倭奴国のことである。
四方の小島五十余国は皆、倭国に属していた。倭国の王の姓は阿毎(あま・あめ)氏で、一大率を諸国において検察させている。諸国はこれを畏怖している。
日本国は倭国の別種である。
その国は日の昇る方にあるので、「日本」という名前をつけている。
あるいは「倭国がみずからその名前が優雅でないのを嫌がって、改めて日本とつけた」ともいう。
またあるいは「日本は古くは小国だったが、倭国の地を併合した」とも。 >>393
>郡使は魏の皇帝の勅使でしょ
だからなんだ? 倭国(阿波)の勅使ならいざ知らず! @阿波 日本の国号は、交野に降臨した饒速日が生駒山において命名した
つまり畿内が日本国
日本国は倭から見て日の出る方にあるという
卑弥呼は日本国ではなく倭国の王 >>396
>日本国は倭から見て日の出る方にあるという
日本国(奈良大和)は倭(阿波)から見て日の出る方にあるという。 @阿波 >>368
>伊都国奴国不弥国までは里程が細かく書かれているのに、そこから先はまったく里程が書かれていないのも謎。
ひとつ確実に言えることは、不弥国から先は九州を離れて、四国だということ。 @阿波 ものすごく簡単な話をしよう。
神武天皇がBC660年即位というのは、時代を大きくずらして、神武と同時代の真の卑弥呼を隠すためだ。
その真の卑弥呼を隠したのは、AD107年の帥升がスサノオである事を隠すためだ。
この簡単な原理原則に誰も気づいていない。
神武をはじめ6代孝安以前の宮が奈良県御所市に集中している。
彼らが大王ではなくとも、当時の権力の中枢にいたのは事実なので、
つまり邪馬台国の都は奈良県御所市なのだ。
こんな簡単なことも分からないバカどもが、
卑弥呼がいたのは、やれ纏向だ、筑紫だ、阿波だなどと喚いている。
お前らはアホなのである。 >>398
投馬国へは郡使は行っていないので、里程は記載されていません。
日程は、倭人からの聞き取りです。
倭人は里数を知らず、日数で距離を測る(未開人である)。
(隋書)
(もちろん、中華文明の人間はそのような無知なことはしないから、)
(郡使が実際に通過した経路である)女王国から北は道里を略載できる。
(魏志)
そして伊都国が(女王国の中でも)常に郡使が駐在するところである。
(魏志) 魏志倭人伝
投馬国、邪馬壹国は九州以外。
卑弥呼は弥生時代後期以降の
九州のト骨の出土ある
地域にいると推測 >>393
皇帝の勅使ではなく、帯方太守の部下だろう。記録にあるのは建中校尉梯儁と塞曹掾史張政かな。 >>400
欠史八代については、事績がないので権力の座にはなかったでしょう。
その年代の大和の権力者は、三輪山の神、石上神宮を擁する饒速日とその末裔の物部氏です。
奈良盆地を日の出る方から見下ろす神奈備である三輪山こそ権力の座です。
崇神天皇は母方が物部氏であるので、宮も纒向遺跡と呼んでいる奈良盆地の東側にいたのです。
前方後円墳が発達したのもこのエリアであり、前方後円墳は物部氏の墓制です。
纒向遺跡や箸墓古墳は、ヤマト王権の権力構造を解き明かす上で重要な遺跡ですが、邪馬台国を絡めることでさまざまなことがうやむやになってしまっている。 物部氏か天皇家より強い権能を持っていたからこそ、畿内の国号も饒速日が名づけた日本がそのまま持ちいられたわけです。
または、狭義の日本は、生駒山周辺の日下と同じかもしれません。
日本も日下もヒノモトと読めますし。 >>375
九州北部でもっとも発展している外港都市博多の首長は、
畿内の影響下にあることが研究成果でわかったから
学者の通説は畿内説になった >>401
>投馬国へは郡使は行っていないので、里程は記載されていません。
なんで? >>406
>欠史八代については、事績がないので権力の座にはなかったでしょう。
あのね、事績を書いたら卑弥呼もトヨも分かってしまうでしょ。
神武をbc660年に大きくずらしてまで真の卑弥呼を隠したのに元も子もないでしょ。
少しは頭を使って考えよう。 >>271
建物跡はあなたの期待より少ないのかもしれない
ただ、それは遺跡の規模が3k㎡と巨大で発掘はその5$に留まっていることや過去の水害の影響などによるもの
都市としての構造物(巨大水路など)も発見されており
規模・範囲は把握されているので今後も新しい発見があるでしょう >>378
>伊都にいた郡使が卑弥呼に会ったのなら、卑弥呼は限りなく伊都に近いところにいたはず。
「伊都にいた郡使」というのが訳の間違いなだけだし
そんな変な和訳した人、いないでしょ >>412
5$は5%の間違いでした??
失礼しました >>409
どうわかったのか、具体的に説明してみてください。
魏志倭人伝では奴国の首長層はあまり重視されず、伊都国ばかり重視されています。
奴国の首長層がどこと関係しようと関係ないでしょう。 >>414
一行目文末の??も間違いです
重ね重ね、すみれせん >>410
行った場所は、不弥国のようにあまり重要でなくても里程が記載されています。
魏志倭人伝では、郡使が通過した、女王国より北は里程を記載できるとしています。 >>409
博多は畿内の影響下の部分、もっと詳しく >>412
遺跡がひしめき合う奈良盆地において、纒向遺跡だけ3平方キロも想定する方がおかしいですね。
それなら福岡平野なんてどうなるのでしょうね。 >>408
>物部氏か天皇家より強い権能を持っていたからこそ
強い権力って崇神は物部の母から纏向で生まれたので、
物部がいわゆる外戚であっただろうけどね。
しかしそれは4世紀初頭の話し。
2世紀末から3世紀後半まで、つまり卑弥呼からトヨの時代まで権力中枢はどこにあったかという話。
時代はちょうど孝安以前の話になる。
奈良県御所市なのだが? >>416
すみません
でした
>>419
巨大集落というより一つの都市遺跡と言うべきだと思います >>415
>魏志倭人伝では奴国の首長層はあまり重視されず、伊都国ばかり重視されています。
名前も書いてないのに、どこが重視だ >>357
>書いてありますよ。
書いてあるというなら引用してみろよ
出来ないだろう
つまり、書いてない >>408
>日本も日下もヒノモトと読めますし。
その日下(ヒノモト)は「阿波」。 @阿波 >>418
在来系の村を壊して首長をを前方後円墳に葬り、畿内式土器でお祭り儀式をしている 仮に邪馬台国が近畿だったとすると、卑弥呼も物部と無関係だとは考えにくくなる。
例えば説の一つである倭迹迹日百襲姫命を考えてみると、この姫命は三輪山の大物主命と婚姻関係を結んだので、当然物部と関係するということになるだろう。
一方、姫命の出自を見てみると孝霊天皇と倭国香媛の子とされている。倭国香媛は別名蠅伊呂泥で、師木県主波延(磯城県主葉江)の子孫とされる。葉江は神武天皇に帰順した弟磯城の子だ。また葉江の一族からは安寧天皇、孝昭天皇、懿徳天皇、綏靖天皇の皇后も出ており、欠史八代の有力外戚だったことが伺える。
従って仮に卑弥呼が倭迹迹日百襲姫命だったとすれば、卑弥呼は孝霊天皇の姫というだけでなく、磯城県主、物部氏という有力氏族をバックグラウンドに持っていたことになる。 >>422
>一つの都市遺跡と言うべきだと思います
どうして? @阿波 >>415
伊都国王は重視されていない
方位が違う糸島が伊都国に比定される根拠は楽浪土器が出土していること
楽浪土器の出土は公孫氏の時代にピークがあり卑弥呼の時代には減少し
台与の時代は搬入されていないことがわかってきた
卑弥呼の時代の博多では畿内の供献土器筑前型庄内甕の模倣制作が始まり
博多湾沿岸に搬出されている
北部九州型布留甕までには在地土器の供献はなくなる
3世紀前半には纏向と同じ前方後円墳(当時九州最大)が築造されている
3世紀の糸島は博多湾沿岸に何の影響を与えていない >>408
>または、狭義の日本は、生駒山周辺の日下と同じかもしれません。
交野と日下は近くない >>429
福津周辺を避けた考察にすぎん。 @阿波 >>427
>従って仮に卑弥呼が倭迹迹日百襲姫命だったとすれば、卑弥呼は孝霊天皇の姫というだけでなく、磯城県主、物部氏という有力氏族をバックグラウンドに持っていたことになる
時代が100年は違うから無理です。
卑弥呼とはヤマトの主神の娘。
そりゃ女王なのだから当然でしょ。
卑弥呼のお父さんは今も関西で「えべっさん」として信仰されてるよ。 >>427
>仮に邪馬台国が近畿だったとすると、卑弥呼も物部と無関係だとは考えにくくなる。
いや無関係でしょ
物部ってもっと後世の豪族だから >>421
物部を外戚と位置付けることが誤りなのですよ。
崇神が磯城または纒向に宮を構えたということは、むしろ母系相続により物部氏の権力基盤に基づいて大王となったことを示しています。
それ以前にういては、天皇家ではなく物部氏に主権があったと考えるべきです。
あなたが主張してあるのは、天皇家を中心とした皇国史観に他ならない。
ナンセンスです。 >>436
物部が4世紀か5世紀になって急に生えて来たとでも思ってんのか >>422
そもそも都市として京師が営まれるようになるのは、数100年後ですよ。 >>426
それが247年より前だとする根拠はありますか? >>441
じゃあお前が考える物部氏の発生って何時ごろでどういう経緯なの? >>437
>崇神が磯城または纒向に宮を構えたということは、むしろ母系相続により物部氏の権力基盤に基づいて大王となったことを示しています。
>それ以前にういては、天皇家ではなく物部氏に主権があったと考えるべきです。
何を適当でいい加減なこと言ってるんだ。
崇神の時代まで大物主が生きてるだろ。
モモソヒメと結婚してるよな。
主権は大物主にあったんだ、分かったか。 >>442
森林の伐採とか治水とか、自然の改造が一気に行われたことが花粉分析でわかってる >>427
でも百襲姫って、早くに亡くなりましたよね。
卑弥呼は180〜190年頃には年長大で即位し、247年頃まで生きています。
ぜんぜんプロファイルが違います。 >>448
森林の伐採とか治水とか、自然の改造が一気に行われたことが
なんで花粉分析で分かるんだ? @阿波 >>446
五世紀少し前くらいから職能集団の擬制的同族化が進んで出来た >だから、三世紀に物部なんて無いってば
物部って名称が後世でも、その物部につながるリネージは東瀬戸内を中心に弥生後期には存在しただろうね。 >>429
卑弥呼は、公孫氏が倒されるまでは公孫氏に朝貢していまも考えられています。
だから、楽浪土器が伊都国から大量に出るのは合っているのです。 >>454
>物部って名称が後世でも、その物部につながるリネージは東瀬戸内を中心に弥生後期には存在しただろうね。
だから、「倭人(阿波勢力)」 だと何度言えばw @阿波 >>450
湿潤から乾燥、樹木から草本など、一気に自然環境が変わっている >>454
>物部って名称が後世でも、その物部につながるリネージは東瀬戸内を中心に弥生後期には存在しただろうね。
理由は? >>429
糸島が博多に影響していないと、何か問題ですか?
糸島に権力があったことは魏志倭人伝から明らかです。
土器より重要な鉱工業は糸島の方が盛んだった。
博多で庶民が生活土器を作って流通させていただけです。
魏志倭人伝を無視した議論は不毛です。 >>457
>湿潤から乾燥、樹木から草本など、一気に自然環境が変わっている
仮にそうだとしても、それがなんで奈良盆地限定なんだ? @阿波 >>452
むしろその根拠を詳しく聞きたい。前身はないのか?どうやってヤマト王権の最有力氏族に発展した? >>459
>糸島に権力があったことは魏志倭人伝から明らかです。
あなた独特の変な読み方を絶対視する方が不毛では? >>462
特定の職掌に特化した氏族だから部曲の発生以降に出来た >>430
> >>408
> >または、狭義の日本は、生駒山周辺の日下と同じかもしれません。
>
> 交野と日下は近くない
どちらも饒速日に関わる地だからしょうがない。
そもそも畿内という広域で論じているのですよ。
三輪山や纒向も饒速日の土地ですし。
なんなら、饒速日の神鏡が残る籠神社や、饒速日の末裔である尾張氏が拠点として、纒向に土器を移出していた尾張も饒速日のクニに含めてもいいかもしれません。
しかし、その中でとくに最初に日本または日下と呼んでいたのは、大阪平野の東側だったのだろうということです。
まあ、西側はまだ海の底だったはずですが。 纏向というのはニギハヤヒが神武に屈した金鵄(きんし)伝説の地、桜井市外山(とび)があり、
物部の母をもう崇神が生まれ育った土地であり、
物部守屋が尼さん三人を裸にしてツバイチ(纏向)で鞭打った地、つまり守屋の領地であり、
その守屋の6世紀末の死と同時に前方後円墳の造営が終了している、
つまり纏向遺跡に展開する前方後円墳とは物部リネージのもの。
物部という名称が後世であろうがそんな事はどうもいいのだ。 >>458
東瀬戸内、播磨、和泉、讃岐に、纏向より先行する突起付き円墳が存在する。
ことごとく物部に係る土地だ。 痕跡も無いのになんで糸島が伊都国の比定地になってるんだろうな >>467
新興豪族がだぜつした名門の名前をパクるのは、よくあること >>469
アッチコッチにあり過ぎるのが本当の血縁じゃ無い証拠
源平や藤原みたいな拡散型じゃない >>471
パクったという証拠は?
あと崇神の母君が何族なのか、その血族名言ってみ。 >>472
共通の墓制を持つので同じ血族だろうね。 >>466
勝手に日本と日下を一緒にするのはナンセンス 物部という名称ができたのは後世かも知れないが、物部を所管する物部連の地位についた一族はもっと早くから存在してただろ。饒速日命や宇摩志麻遅命はともかく、大綜麻杵命、伊香色雄命あたりからは実在性あるんじゃないのか。 >>469
>ことごとく物部に係る土地だ。
ことごとく「倭人(阿波勢力)」の進出した土地だ。 @阿波 >>474
>共通の墓制を持つので同じ血族だろうね。
だから、「倭人(阿波勢力)」 だと何度言えばw @阿波 畿内説では畿内の人間は畿内の地面から生えてくるものなので
物部も巻向から生えてきたものと思われる >>476
だから、物部も饒速日命も宇摩志麻遅命も大綜麻杵命も伊香色雄命も
みんな、「倭人(阿波勢力)」 だと何度言えばw @阿波 >>481
>難升米が物部氏のご先祖とか?
だから、物部氏のご先祖も「倭人(阿波勢力)」。 @阿波 >難升米が物部氏のご先祖とか?
難升米は中臣じゃないかな。 >>436
他に呼びようがないから物部氏と呼んでいるけれど、祖である饒速日は天孫ニニギの兄であり、アマテラスの孫です。
神武よりずっと年上ですよ。
物部氏は最古の氏族の一つです。 >>483
>難升米は中臣じゃないかな。
だから、物部も中臣も「倭人(阿波勢力)」 だと何度言えばw @阿波 >>484
だから、物部氏も祖である饒速日も天孫ニニギもアマテラスも
みんな、「倭人(阿波勢力)」 だと何度言えばw @阿波 >祖である饒速日は天孫ニニギの兄であり、アマテラスの孫です。
はいはい、何言ってるんだ、逝ってよし。 「天皇家」も「蘇我氏」も「物部氏」も「中臣氏」も「葛城氏」も「大伴氏」も、
平安時代の『新撰姓氏録』編纂以前は全部、「仮称忌部一族(阿波勢力)」。
みんな元を辿れば全部、「仮称忌部一族(阿波勢力)」=「倭人」。
ここでいう「仮称忌部一族(阿波勢力)」とは、衰退した平安時代の
『新撰姓氏録』以降の忌部(斎部)氏ではない。
倭人とは「仮称忌部一族(阿波勢力)」(広義の忌部氏)であり、
全国を拓殖していった古代倭国(阿波)スーパー頭脳集団の総称である。
「仮称忌部一族(阿波勢力)」の一派、忌部(斎部)氏は、
物部氏の衰退後、残党が「忌部氏」を名乗った可能性が高い。 @阿波 「仮称忌部一族(阿波勢力)各豪族の想定本貫地」 @阿波
三輪氏=徳島市国府町「大御和神社」周辺地域
葛城氏=鳴門市北灘町「葛城神社」周辺地域
賀茂氏=旧美馬郡三加茂町「鴨神社」周辺地域
物部氏=旧麻植郡山崎「忌部神社」周辺地域
中臣氏=板野郡板野町中富周辺地域
蘇我氏=石井町「曽我氏神社古墳群」周辺地域 >>447
その大物主の正体が物部氏または饒速日の末裔だということですよ。
大神神社はまさに物部氏の地盤に位置しています。
大物主が年代を超えて登場するので、世襲された呼称だったのかもしれません。
天照や彦火火出見も世襲されていますから。 >>491
>その大物主の正体が物部氏または饒速日の末裔だということですよ。
閑古鳥の大物主バカよ。
だから、物部氏も饒速日も「倭人(阿波勢力)」ってことだ。 分かった? わははははは @阿波 >>491
>その大物主の正体が物部氏または饒速日の末裔だということですよ。
ぜんぜん違う。
スサノオから神武時代の事代主、そして最後の阿田賀田須まで続く系譜が大物主。
物部は全然違う。
前者の大物主は銅鐸祭祀の一族、
後者の物部は前方後円墳と鏡祭祀の一族。
歴史を勝手に創作するな。 >>493
>その大物主の正体が物部氏または饒速日の末裔だということですよ。
大物主が物部の末裔?はぁ?アホか? @某1 >>493
スサノオの子にして稲荷神の兄神である大年神は
父、スサノオが御室山(みむろ)の磐座に御鎮座なさいました事に因み
倭で最も美しい東の山を御諸山(みもろ)と名付け御鎮座なさいました。
大年神は大物主(事代主)と呼ばれ、神話では、大国主という別名が与えられた神です。
なんでまだ、物部が存在しない時代に大物主がその末裔になるの?
長髄彦は飛鳥大神(事代主)の子で、妹と饒速日の子が物部の始祖ですが?
後付け設定の天物部集団とかそう言う事? >>451
ちらっと読みましたが、嘘だらけのひどいページですね。
土木用の用具が多いのは、都市を作るためではなく、古墳を作るためですよ。
各地の土器が出ると書かれていますが、実際には大半が尾張東海のものです。
博多の方がよほと広域の文物が集まっていたし、何より土木工事が盛んだったわりには、便利な金属器が皆無。
金属器工業で栄えていた筑紫の恩恵をまったく受けられなかった可哀想な土地だということがわかります。
畿内が博多に影響を与えたどころか、博多に全てを貢いでいただけの植民地ですよ。 >>454
それ、前方後円墳の成立過程と一致しませんか? >>499
何言ってるんだ、スサノオの系譜は地祇本紀に書かれてるだろ。
勝手に創作するな。 >長髄彦は飛鳥大神(事代主)の子で、妹と饒速日の子が物部の始祖ですが?
逝ってよし >>500
それらの神々すべてが「倭人(阿波勢力)」であり、
記紀神話がすべて「阿波」で起こった物語だということ。 @阿波 >>457
それは古墳作りのために荒廃したのですよ。
建物がなくて墓ばかり。
しかも工人には金属器が与えられずに木製器で大規模工事を強いられていたわけです。
湿地は干上がり、山は丸坊主になった。
そんな搾取されるだけの土地が奈良盆地でした。
富は全て筑紫に集まっていました。
平原遺跡のガラス製品は、遠くペルシアから運ばれたものでした。
奈良には、何もない。 >>502
>それ、前方後円墳の成立過程と一致しませんか?
そりゃ、「前方後円墳」は、「倭人(阿波勢力)」の進出痕跡だから。 @阿波 物部はとりあえず吉備から。
双方中円墳が吉備から纏向に来ている。
吉備では楯築遺跡、纏向では櫛山古墳な。
こんなの偶然ではない。 >>511
>こんなの偶然ではない。
そりゃ、吉備も纏向も「倭人(阿波勢力)」なんだから当たり前。 @阿波 >>508
平原遺跡のガラス製品はモンゴルやカザフスタンのものと成分がほぼ同じだから
盗んだ物だろうね >>505
丹後宮津藩主本荘氏の系譜『本荘家譜』には、物部の祖・饒速日命の子のウマシマチの右註に「母飛鳥大神之女登美夜毘売」と記される。当然、兄の長髄彦も事代主神(飛鳥大神)の子で、磯城の三輪氏一族の族長だったということ。 >>470
三種の神器を副葬された、歴代倭王の墓がいくつもあるし、怡土の地名は今日まで続いているからです。
壱岐や対馬が魏志倭人伝の頃も今もその名であるように、伊都は怡土の表記でその名で呼ばれ続けていました。
奈良時代より前からあった怡土郡と志摩郡が合併して糸島郡になったのは、実に明治29年です。 >>509
ちょいと質問があります。
四国の地図見てたら
1 徳島市の南に、阿南市がありますが阿北はありますか?
2 阿の地名はありますか?
以上2つ >>515
地名はいいけど王は何処に住んでたのよ? >>472
むしろ、源平や藤原みたいな拡散を見せた最初の有力氏族ですね。
個人的には、なんで筑紫にまでいるんだって思いますけど。
ても、これが前方後円墳を博多に持ち込んだ一族でもあるのでしょう。 >>515
>三種の神器を副葬された、歴代倭王の墓がいくつもあるし
歴代倭王だとか決めつける理由は? >>481
物部氏の祖先は、アマテラスの孫である天孫饒速日ですよ。
これは、異なる出典を持つ古事記、日本書紀、先代旧事本紀の全てにほぼ共通しています。 前方後円墳が物部の墓で、大王は斜面の雑木林に遺棄するということはない 五十迹手、宅蘇吉士
糸島はずっと朝鮮からの渡来人が住んだところだよ >>487
アマテラスって、実は倭王の称号なんですよ。
照らすとは支配する意味です。
猿田彦が陸海を照らす神として登場したりします。
アマが天ではなく、海のこと解釈すれば、海を支配した王が天照です。
天照が陸の王であった大国主を倒し、畿内に降臨させたのが饒速日とさらています。
饒速日の称号は、先代旧事本紀では天照国照となっています。
陸海統一王といった意味でしょうか。
饒速日は先代旧事本紀では明らかに大王のような扱いです。
ただ、大王という称号は天皇家のイメージになってしまう。
かといって、畿内にいたのでは、倭王として漢や魏から冊封されない。
饒速日は天照国照としか呼びようがない。 >>492
根拠を示したのに、あなたに理解力がないだけ >>494
記紀でも先代旧事本紀でも読んでください。
ちゃんと書いてあります。
内容への文句は、それらの編者までどうぞ。 >>496
古代の倭王の称号だったのですよ。
その末裔とされる一族が今でも皇居にいるのです。
必ず先祖がいたはずです。
ヒトは空気から自然発生したりしないのですよ? >>521
それらが書かれた頃の豪族の序列で決まってるんだよ
世間的にな >>522
高さが違う。
一方は平地の糞立地にある糞みたいな前方後円墳。
俺が言うのは標高435Mの高天原。
被葬者が眠る位置によって地位は決まるのだよW >>500
自分の書き込みをよく読み返したらどうでしょう。
事代主の末裔が物部氏ですよね。
大物主の名が世襲されれば、同じことです。
まさか、崇神天皇の時代の大物主と、アマテラスの時代の事代主こと大物主が同じ人物だなんて考えていませんよね?
何世代も超えて同じ名前が出てくるのは、大山祇や、饒速日自身もそうです。
これは世襲された称号があったからです。
天照大神の孫の饒速日も、天照国照と呼ばれています。
神武天皇も、祖父と同じ彦火火出見の名を持ちます。
ちみに彦火火出見は、伊都の高祖宮の祭神なんですけどね。 >>514
>丹後宮津藩主本荘氏の系譜『本荘家譜』には
そんなのいいからW
本上まなみの話をしろW >>508
奈良に何にもないけど巨大な古墳ができる
邪馬台国の一部だろうな。
近畿一帯が邪馬台国。
7万戸は見積。官4名いるが副がいない。
復興地、開拓地、宗教地と推測。 >>516
>1 徳島市の南に、阿南市がありますが阿北はありますか?
徳島県北部を阿北という。
>2 阿の地名はありますか?
阿波市阿波町 @阿波 >>530
皇居に居る人と血筋がつながってるか途切れてるかそんなの知らねえ >>514
その長髄彦が主君として祭り上げていたのが饒速日です。
長髄彦が倒された後、その地盤をトビヤヒメが継承したなら、最終的にはウマシマジから物部氏に継承されます。 >>537
>徳島県北部を阿北という
その西の方が阿北西 >>534
崇神天皇の時代の大物主は、まさに現代で言う(人間ではない)神。
崇神天皇への大物主の祟りは三輪氏族の反抗。
百襲姫との神婚譚は多くの風土記にもある、正に神話の部分。
【大物主の名は世襲などされない】 >>517
> >>515
> 地名はいいけど王は何処に住んでたのよ?
高祖宮じゃないですか?
だだ、今の場所とは違うらしいし、遺構は見つかっていないと思います。
後に怡土城という山城にもなるので、当時も山上にあったかもしれません。
ちなみに、高祖山の南側、日向峠のすぐ上の峰をクシフル山と呼ぶらしいですよ。
筑紫の日向のクシフル峰の高千穂宮って、記紀にありましたよね。 >>533
縄文時代のほうが高い
大和平野に前方後円墳が造られ続けてる時代にずっと斜面の雑木林に遺棄してたのか >>520
墓から三種の神器が出るからです。
倭奴国王印ご出た志賀島も目の前です。 >>540
>その西の方が阿北西
違う。 「西阿」だ。 旧の西阿四郡(阿波・麻植・美馬・三好)。 @阿波 大物主というのは崇神時代を最後に出てこないだろ。
一方、物部は崇神以降に隆盛するだろ。
大物主は出雲系、
物部は瀬戸内系・
物部が大物主なんて何言ってるんだか。 >崇神天皇の時代の大物主は、まさに現代で言う(人間ではない)神。
アホ、阿田賀田須という名前だ。
勝手に創作するな。 >>529
海を天と書き換えさせたのは、天皇の神格化を進めた天武天皇でしょうね。
彼に文句を言いましょう。 記紀にすがるしかない記紀バカ同士のあほバトル勃発! わははははは @阿波 >>490
はあ?
板野町は西中富、藍住町が東中富ですよ。中途半端な情報を垂れ流すのはやめてください。
立地は、どちらも吉野川下流の氾濫原低地と自然堤防の組み合わせです。 >>543
俺の大阪城の下に全部埋まってると言ってた大阪説とかわらんな >>544
>縄文時代のほうが高い
だから何だ。
墳丘をご神体とする高鴨神社などは孝昭の時代、まさに纏向遺跡と同時代。
どちらの地位が高いか、一目瞭然W >>542
百襲姫の時代は、神代ではなく人皇の時代ですよ。
例えば神武の妃となった五十鈴姫も、その母は事代主により孕まされています。
でも、よく読むと厠で赤い矢に刺されたというんです。
要するに、父親知らずの子供を片端から事代主か大物主か三輪山神の子供ということにしたのでしょう。
出雲の国譲りで事代主が任を受けてから百襲姫まで何世代経っていますか?
名前を受け継いだのか、こじつけたのかしかないじゃないですか。 >>554
縄文時代の犬より地位が低い高天地区の王様は
大和平野に前方後円墳が造られ続けてる時代にずっと斜面の雑木林に穴掘って埋めてたのか >>545
>墓から三種の神器が出るからです。
鏡剣玉セットなんて尊重の墓でも出るんでは? >>548
ウマシマジの代で饒速日と大物主が姻戚関係で一つになり、崇神天皇の代で物部氏と天皇家が合流した。
あずれも遠い祖先は共通なので、互いに姻戚関係を結ぶことで権力を強化したのでしょう。
よくあることです。 >>552
どっちにしても、登美の里、つまり長髄彦らの旧所領の一部だから、どうでもいい。 >>555
郡の名前だなど誰も言っていませんよ。
東京都特別行政区と同様に、筑紫の日向は特別な名前なのですよ。 >物部は瀬戸内系
なんじゃこれw 意味があるのかこの括り。
宇摩志麻遅は、播磨・丹波を経て石見国で鎮座したんだろ。
宇摩志麻遅が飛鳥大神(事代主=大物主)の孫である事は動かないし
別に瀬戸内海に括る必要が不明。 日下で上陸して大和川を遡って奈良盆地に入ると、東の正面の奥津宮の神奈備の麓が桜井市で、物部氏や長髄彦の地盤、大物主がいたところ。
一方で、奈良盆地の片隅の御所市にひっそりと居候していたのが、天皇家の欠史八代。
崇神の時に合流して、晴れて天皇家も桜井市に進出できた。
それが纒向遺跡。 >>558
>大和平野に前方後円墳が造られ続けてる時代にずっと斜面の雑木林に穴掘って埋めてたのか
阿田賀田須以降は高天原に墓はないだろうね。
だから蘇我馬子が高天原のある葛城の領有を推古天皇に願い出たが断られた。
しかし息子の蝦夷の代になってようやく念願の高天原をゲットできた。
大和や河内の前方後円墳は高天原を避けるように作られてるね。
怨霊が怖かったのであろう。 補足して置きますが、現在藍住町の大字東中富の内で、
小字に榜示がつかない範囲は、旧名西郡で、のちに板野郡に編入された地域です。 【筑紫の日向】
筑紫の日向は、しばしば宮崎県のことだと誤解されるが、福岡県のことである。
筑紫の日向の小戸の阿波木原はイザナギが禊をしたところとされており、福岡市西区小戸に比定されている。
この禊で生まれたのが博多に祭られる住吉三神や志賀島に祭られる綿津見三神である。
これらの神を祭る神社の元宮は現人神社(福岡県那珂川市仲)であるとの説があり、弥生時代の倭王であったイザナギの王宮であったとも考えられる。
古事記では天孫降臨の地は「筑紫の日向の高千穂の峰のクジフル岳」とある。
福岡県の高祖山の南側は、別名をクシフル山とも言う。
クシフル山から自分の国土を眺めたニニギの国見の詔に「此地は韓国に向ひ、笠沙の御前を真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり」とある。
宮崎県の日向高千穂では意味が通らないが、福岡県の高祖山なら、福岡平野と糸島平野の間にあり朝鮮半島に向かう博多湾に面している。
「高祖村、椚 二十四戸。慶長の頃、黒田長政、村の南の、野地を開き、田地とすべしと、手塚水雪に命ぜられし書状、今も、農民、田中が家にあり。
其書に、五郎丸の内、日向山に、新村押立とあれば、椚村は、此時立しなるべし。
民家の後にあるを、くしふる山と云、故に、くしふると、云ひしを訛りて、[木毛]と云とぞ。
田中は、元亀天正の間は、原田家より与へし文書、三通を蔵す」
(福岡県地理全誌抜萃目録、恰土郡之部)
考古学的にも、三種の神器を伴う弥生王墓は高祖山の東の福岡平野と西の糸島平野にのみ発見されている。
高祖山には後世に山頂から山麓までを囲む中国式山城である怡土城が作られ、その中に高祖神社がある。その原型が記紀にある高千穂宮だろう。
筑紫の日向にあった伊都国が倭国の王都であり、高祖山の高祖宮こと高千穂宮が倭王である天孫の降臨の舞台、神武東征の出発地、そして倭国女王卑弥呼の王城である。
ttp://wi12000.starfree.jp/map/afumi_sawara_map_25.gif >>568
じゃ標高と地位は関係ないじゃねえか
で、物部の前方後円墳が全国に造られてる時代に
大王の墓はどこの斜面に埋めてたのかと聞いている >>565
物部のルーツは瀬戸内だドアホ。
おまえ天神本紀を読んだことないのか。
>宇摩志麻遅が飛鳥大神(事代主=大物主)の孫である事は動かないし
動くわドアホ。 >>570
阿蘇も磯城も飛鳥も出雲も伊勢も日向も筑紫も大津も吉野も纏向も吉備も、記紀以降の後付け地名。
その後付け地名に踊らされている、三流学者や郷土史家ども。 @阿波 博多湾沿岸の海人族の所在地の一つが高天原であり、原が九州では集落を意味する語であることを考慮すると、高天原は海人(あま)の都という意味になる。
長年にわたり国家的規模の祭祀が行われた沖ノ島は高天原の候補となるだろう。
高天原から筑紫に降臨する天孫を守護したのが宗像だったのも、高天原を沖ノ島、降臨した筑紫の日向を福岡市西部と考えると地理的な整合性も高い。
高天原から筑紫に降臨した天孫族は、代々にわたり志賀島の海神と婚姻関係を深めていく。 >>571
>大王の墓はどこの斜面に埋めてたのかと聞いている
大王って具体的に誰? >>574
高天原は御所市高天しかない。
古今和歌集でもそれがわかる。
高天原が九州にあるなどというのは江戸末期にでた新説。
引っ込んでてくれ、カッペ。 >>578
崇神と景行は行灯山と渋谷向山だろうねえ、垂仁は知らん。
だから何?
崇神時代の阿田賀田須を最後に大物主は出てこないし、その時に太古から続く畿内にあった出雲系王朝は断たれた。 海神族である天津神すなわち海の神の城が、海なし県の奈良県にあるわけがない。
宇佐を出て瀬戸内海を東進して日下に上陸した饒速日の故地が、到着地である奈良盆地にあるわけがない。
せいぜい、故郷を思ってつけた名かなにかだろう。
ニューヨークとかと同じ。 >>577
高天原が奈良盆地にあるなどというのは、せいぜい天武天皇以降の新しい考え方だ。 前方後円墳なんて、全ての皇族と全ての物部氏に割り当ててもまだ余るくらいなんだから、どれが誰でもいいよ。
県別では千葉県に最多らしいし。 『石切劔箭神社』の社史によれば、天照大神から大和建国の神勅を拝し『十種の瑞宝』を授かった饒速日尊が船団を組み、
自らも『布都御魂劔』と日の御子の証である『天羽々矢』を携え天磐船に乗り込み、物部八十の大船団を率いて高天原を出航した。
途中、豊前国の宇佐に寄港すると船団を二つに分け、息子の天香具山命に『布都御魂劔』を授け船団の一方を預けた。
宇佐から瀬戸内海を渡ると饒速日尊は河内・大和に、一方の天香具山命は紀伊に向かった。
天磐船が鳥見の里を見渡す哮ヶ峯(たけるがみね『生駒山』)に着くと、饒速日尊は辺りを見渡し
「虚空(そら)にみつ日本(やまと)国)」
【訳「 空から見た日本の国」または「空に光り輝く日本の国」】と賛じた。
これが日本の国号の始まりとなった。
高天原は宇佐より西なんだよ。
わかったか。 >>580
崇神も景行も前方後円墳だが、だから何? >>582
江戸末期にでた九州説も宮崎の高春町で北部九州ではない。
高天原が北部九州設なんて近年にバカが言い始めた何の根拠もない説。
御所市には3世紀以前の式内名神大社が複数ある。
カッペがうぬぼれるな。 高天原が北部九州にあったなんてア宝賀が言ってるんだろWWW >>585
権力の象徴である大土木工事で築造した大規模前方後円墳が権力者の墓
斜面の雑木林に埋める(費用0)のは下人 高天原は押し照るなにわだよ
天の安河原は滋賀の野洲川、辺りに伊勢遺跡があるところ
サルタヒコのいた八衢は堺で仁徳天皇陵や方違神社があるところだな
サルタヒコが川上に消えた五十鈴川は堺の石津川
サルタヒコが溺れたアサカの海は堺の海
ヒラブ貝に挟まれての件は‥内緒 卑弥呼の次の男王は誰かということだが
アマテラスが卑弥呼をモデルにした神格なら、アマテラスの孫ニギハヤヒのモデルが卑弥呼の次の男王かもね
3世紀後半纏向遺跡から突然吉備の土器が消える
卑弥呼亡き後男王の時代の内乱で吉備が排除されたのかもね
ニギハヤヒは吉備の王の系譜かもね
葦原醜男と争っていた天日槍
卑弥呼の次の男王、ニギハヤヒは天日槍の子かもね
ヤマト政権が始まりその後につつあ吉備津彦の吉備退治は、卑弥呼亡き後の内乱を意味しているのかも
丑寅みさき、ニギハヤヒ、卑弥呼亡き後の男王は関係があるかもね 九州の勢力も古墳時代以降何度かヤマト政権の覇権を握ったと思うよ
北九州、周防灘を挟んで向かいの山口辺りを拠点にしていた大帯。大帯姫は竹内宿禰と共に熊襲を平定した
それに与した日向の牛諸井と角付きの鹿皮の服を着た人々。投馬国のミミ、ミミナリの後裔かもね
伊都イトの人々 養蚕に長けた馬韓系か?
糸イトと同じ音なのも必然かもしれん
虎杖に関するエピソードのある古墳時代の王もいたが何か関係あるのか? 空想してても仕方ない
投馬国を女王国の北に想定しようのない九州説には
成立の余地がない
決定的に倭人伝と合わないのだから 投馬国=久留米
邪馬台国=山門
もう答え出てるんだよな >>590
天の安川神社は葛城の蘇我川近辺に複数集結してる、他所の出番はない。
いい加減なことを言わないように。 >>589
だから何。
眠る位置の高貴さの問題。
下人墓である箸墓が何? >>591
だから崇神が4世紀前半である以上、ニギハヤヒが3世紀中頃にはならない、時代が無茶苦茶。
卑弥呼の次の男王は事代主の曾孫で別名タケミカヅチ。 タケミカヅチに随伴した香取神が進出した千葉に纏向型古墳群ができる、
その時期は3世紀中頃、卑弥呼死亡時期にぴったり一致だ、分かったか。 卑弥呼+トヨでアマテラスやから
ニギハヤヒが250年頃に活動してても不思議ではないで
ちなみにニギハヤヒ=事代主やぞ >卑弥呼+トヨでアマテラスやから
アホ以外に言いようがないアホ。
>ちなみにニギハヤヒ=事代主やぞ
アホ以外に言いようがないアホ。 >邪馬台国=山門
これって新井白石が苦し紛れに出した虚説。
彼は大和朝廷及び古代天皇の朝貢という切実な問題に突き当たり、
朝貢していたのは九州であるという、心にもない説を出した。
だから高天原も常陸と言ってるだろ。
大和以外に焦点を向けさせるのが狙いで、本当にそう思ってたわけではない。 >>602
>大和以外に焦点を向けさせるのが狙いで
実はそれも偽装。 新井白石も本居宣長も、「阿波」から目を逸らせるための虚説。
本当にそう思ってたわけではない。 @阿波 四国は渡来人が多くて蚊にも刺されやすいんだよね
渡来人が住み着いたってことは有力者がいなかったってことやね 【邪馬台国と周辺の国】
1番 斯馬国は志摩(嶋)郡(福岡県糸島市)または島原(斯馬原)(長崎県島原市・伊佐早市)
2番 己百支国は伊万里(佐賀県伊万里市)
3番 伊邪国は平戸島(長崎県平戸市)または伊佐早(長崎県諫早市)
4番 都支国は早岐(長崎県佐世保市早岐)
5番 彌奴国は長崎県長崎市(または長崎県西彼杵郡)または嶺(佐賀県みやき町三根)
6番 好古都国は高来郡(長崎県雲仙市)
7番 不呼国は須古(佐賀県杵島郡白石町)
8番 姐奴國は曽根(佐賀県神埼市神埼町本堀曽根ヶ里)
9番 對蘇国は鳥栖(佐賀県鳥栖市柚比町)の安永田遺跡
10番 蘇奴国は?
11番 呼邑国は佐賀県小城市
12番 華奴蘇奴国は佐賀県神埼市の吉野ケ里遺跡
13番 鬼国は?
14番 爲吾国は伊古(長崎県雲仙市瑞穂町伊古遺跡)
15番 鬼奴国は小郡(福岡県小郡市)
16番 邪馬国は八女(福岡県八女市)の広川、高良台、室岡・亀ノ甲遺跡
17番 躬臣国は玖珠(大分県玖珠郡玖珠町)
18番 巴利国は杷木(福岡県朝倉市)または針磨(福岡県筑紫野市針摺、浮羽郡)
19番 支惟国は基肄城趾(佐賀県三養基郡基山町)
20番 烏奴国は大野城趾(福岡県大野城市)
21番 奴国は那の縣(福岡県福岡市)の再掲
邪馬台国の範囲はおおむね筑紫と肥国から肥後狗奴国を除いた範囲であり、半時計回りに周旋5000里である(対馬海峡が3000里)。
魏志倭人伝には、東に海をわたったところにも倭人がいると記載され、本州と四国のことと考えられる。
狗邪韓国 朝鮮半島南岸
対海国 長崎県対馬市、一大国 長崎県壱岐市
末廬国(諸説あり)
伊都国 糸島市(旧怡土郡)、奴国 福岡市(那の津)
不彌国 福岡市東区(香椎宮)
ここまでが邪馬台国(女王の都するところ)
投馬国 宮崎県西都原市(都万神社)
https://i.imgur.com/lo1K3BJ.jpg 邪馬台国=ヤマト国
その発祥地の高天原(御所市高天)に卑弥呼の墓がある。
何も難しい事はなかったんだよ。 邪馬台国=ヤマト国ならば、
「ヤマト国畿内説」にしたらどうかね。 神武は筑紫の生まれの九州男子。
奈良は引っ越し先だから、発祥の地ではない。 カタカナ用語は恥ずかしい。
倭国畿内説でいいのではないか。
こうすると、後漢書や旧唐書などと比較して、いかに馬鹿げた説であるかわかるというもの。 >>607
>渡来人が住み着いたってことは
日本で一番、早く仏教が広まった所。 @阿波 >>607
>渡来人が住み着いたってことは
日本で一番、早く文字(木簡)が広まった所。 @阿波 倭国(九州)と日本国(畿内)を混同するからいけない。
卑弥呼は倭奴国の後裔である倭国の女王であり、その都するところが邪馬台国。
なお、邪馬台国の女王卑弥呼という表記は誤りであり、卑弥呼の称号はあくまでも親魏倭王。
総理大臣が東京にいても、東京都知事を兼ねているわけではない。 「観音寺・敷地遺跡」
飛鳥時代から平安時代の資料が大半で、「観音寺(かんのんじ)・敷地(しきじ)木簡」として知られる多数の木簡や
墨書土器、役人の身分を表す腰帯具、文書行政に必要な銅印、硯など政務を表すものや、
斎串(いぐし)や人形(ひとがた)などの祭祀具(さいしぐ)具や農工具(のうこうぐ)・紡織具(ぼうしょくぐ)
・建築部材などの木製品、漆関連製品、武具(ぶぐ),瓦(かわら),楽器(がっき)など祭祀や生産・生活を表すものがあります。
また各時期の指標となる土器などを含めて,古代地方官庁の多様性を示すものが多数出土しています。 @阿波 >>618
卑弥呼は自分の領土なんて持ってないでしょう トンデモどもは、後付け地名や変名大物主などでお茶を濁してろ。 わははははは @阿波 古代「地方」官庁って明記されてますけと、ほれでええのん? >>623 板野に居たの
今の段階では当然のコメントだ。 今の段階ではそう書かざるを得ないわな。 かわいそうだが。
あほのお前は、それを見て自虐に走る。 一番のあほ! @阿波 >>624
呼び方はそれでも良いんだけど魏志倭人伝は無視できない
当時の日本の資料だから >>626
魏志倭人伝は九州について書かれている。
その時代に、それより前かもしれないが、九州と同じように畿内に女性が治めてる集団がいたかもしれない。
とは、考えないか?文献がないかもしれんが。
中国デビューは九州が早かっただけでは。 >>627
まともなのそれしかねえじゃん
倭王として朝貢してるし近畿に居たと考えるしかない >>629
>近畿に居たと考えるしかない
「観音寺・敷地遺跡」、進呈してやろうか? 妄想だけじゃ、主張弱かろう。 わははははは @阿波 >>625
どうせどこぞのサイトのコピペなんだろうけど、
出典明記もせず、しかも丸コピなのはどうなのよ?
もし、自分が君の立場ならこうする。
「観音寺・敷地遺跡」
飛鳥時代から平安時代の資料が大半で、「観音寺(かんのんじ)・敷地(しきじ)木簡」として知られる多数の木簡や
墨書土器、役人の身分を表す腰帯具、文書行政に必要な銅印、硯など政務を表すものや、
斎串(いぐし)や人形(ひとがた)などの祭祀具(さいしぐ)具や農工具(のうこうぐ)・紡織具(ぼうしょくぐ)
・建築部材などの木製品、漆関連製品、武具(ぶぐ),瓦(かわら),楽器(がっき)など祭祀や生産・生活を表すものがあります。 >>624
饒速日も神武も筑紫の生まれなので、発祥の地と言うなら筑紫ですね。 >>628
重要な事はヤマト王権と言われるものがいつできたではあるけど
俺は伊勢遺跡から纏向遺跡に移転したと言ってるけど
その前も後もあると考える >>628
魏志倭人伝は3世紀についてなので、もうとっくに大和も歴史のある時代なんですよ。 >>632
日本つまり畿内ではなく、倭つまり九州の話ですね。 >>632
卑弥呼の存在を疑う事はあっても何処の事だと考えるんだ? >>634
纒向が崇神天皇の宮なら、一代限りの宮ですね。
そもそもそれほど広域にとらえる方がおかしい。
周囲に景行天皇の宮とか、いくらでもあるわけだから。
崇神天皇の前も後も、たくさんの宮があったはず。 >>638
>そもそもそれほど広域にとらえる方がおかしい。
実際に広域なんだから仕方ないのでは? >>635
紀元前の話しになるだろうが、天照は女性だから、大和の前に女性が治めてたかもしれない。
と思う。 >>637魏志倭人伝の記述を放射説とか方角の転換とかの誤魔化しなしに解釈すると日本列島の範囲に収まらない >>640
天照は畿内にはいませんでした。
大国主を倒した後、孫の饒速日を畿内に送り込んだとされています。 >>631 板野に居たの
>もし、自分が君の立場ならこうする。
意味不明。 @阿波 >>641
帯方郡から邪馬台国まで一万二千里ですが、そのうち一万里は九州上陸までに費やしています。
残り二千里ですが、対馬海峡が三千里なので、邪馬台国の位置は九州北部を出ません。 伊勢遺跡も纏向遺跡も自然にそこに人が集まったわけではなく
何らかの意図をもって造られてるし百年ほどでいきなり廃棄されてるから前後はあるはず
そもそも人が生活してたわけではないんだけど いまだに放射説を取り上げて批判する時代錯誤がいる。 >>638
>周囲に景行天皇の宮とか、いくらでもあるわけだから。
「観音寺・敷地遺跡」、進呈してやろうか? 妄想だけじゃ、主張弱かろう。 わははははは @阿波 100年どころか、崇神の宮なら磯城に宮を造営したのが即位3年、崩御が即位68年なので、纒向遺跡が使われていたのは65年間ということになります。
畿内説のアホな妄想は日本史を考える上で邪魔なだけ。 >>648
放射説ではないですよ。
放射説も知らずに批判するなんてアホですね。 >>650
このスレを少し上に戻れば、饒速日の畿内降臨についての資料が書いてあるはず。 >>643
添削して差し上げたぞ、参考にしなさい。 >>636
まったく理由を言わない断定は、トンデモの証明 崇神天皇の次の垂仁天皇、その次の景行天皇も、纒向の中で他に宮を営んでいたので、崇神天皇の宮である纒向遺跡だけでそんなに広い面積をとってしまったら、次の天皇の宮との整合性が取れなくなる。
纒向遺跡の範囲とやらは、アホな誇大妄想癖の学者の戯言。 >>654
倭国の範囲は後漢書に明確な定義があり、倭奴国つまり博多を含む対馬海峡。
一方で日本国は饒速日が河内から大和にかけての土地をそのように呼んだとされる。
旧唐書
倭国はいにしえの倭奴国のことである。
四方の小島五十余国は皆、倭国に属していた。倭国の王の姓は阿毎(あま・あめ)氏で、一大率を諸国において検察させている。諸国はこれを畏怖している。
日本国は倭国の別種である。
その国は日の昇る方にあるので、「日本」という名前をつけている。
あるいは「倭国がみずからその名前が優雅でないのを嫌がって、改めて日本とつけた」ともいう。
またあるいは「日本は古くは小国だったが、倭国の地を併合した」とも。 >>656
魏志東夷伝全体が、現実の地理と合わせると短里で統一されていることがわかります。 >>653 板野に居たの
>もし、自分が君の立場ならこうする
さすが、どずるいお前の考えそうなことだww 恥ずかししわ。
>また各時期の指標となる土器などを含めて,古代地方官庁の多様性を示すものが多数出土しています。
今の段階では当然のコメントだ。 今の段階ではそう書かざるを得ないわな。 かわいそうだが。
あほのお前は、それを見て自虐に走る。 一番のあほ! @阿波 >>652
辞書では
こう‐りん〔カウ‐〕【降臨】 の解説
1 天上に住むとされる神仏が地上に来臨すること。「天孫―」
物語ではありうるが、現実にはありえない 実際には、王族が移り住んだという程度の意味で捉えればよろしいかと。
そらを古風に雅な表現をしただけ。 >>658
そういう無茶苦茶な主張要らないから
卑弥呼の時代に日本なんて文字がないし言葉はヤマトだから >>663
いや、短里なんてどこでも使用されてないし >>655
それ、根拠なき拒絶だから反論じゃないよね >>665九州説だと使用されてるらしいぞ>>659 >>662
>実際には、王族が移り住んだという程度の意味で捉えればよろしいかと。
つまり、そう空想れば自説は無事ってこと? 短里は否定するのに方角間違ってる説は信じるのねw
つまり畿内説はチェリーピッキングの塊 >>660
なんで自分の主張と違う所までコピペしとるん?
そのぐらい削っても罰は当たらんぞ。
そのまま残して有る方が、かえって紛らわしいと思うのよね。
まあ、ほんまは、なんも考えずに丸コピペしただけなんだろ?
正直に言えば? >>644
魏志倭人伝には邪馬台国まで一万二千里という記述はありません
女王国まで一万二千里と書いてあるのみです
これは使者が実際に訪れた九州北部(おそらく伊都)までの距離と考えられます
この点については近畿説も九州説も同じですね。短里以外考えられません 女王国は日本の事だな
倭人在帶方東南大海之中依山?為國邑 >>625
全文
徳島県観音寺・敷地遺跡出土品の重要文化財(考古資料)の指定について
文化審議会は、平成27年3月13日(金)に同審議会文化財分科会の審議・議決を経て、国宝・重要文化財の新指定16件を文部科学大臣に答申しました。この中に、徳島県の「徳島県観音寺・敷地遺跡出土品」が含まれていますので、ご紹介します。
特徴・評価
今回、重要文化財にしてされる徳島県観音寺・敷地遺跡出土品(922点)は、平成9年度から平成20年度の環状道路建設に伴う発掘調査で、徳島市国府町観音寺・敷地で主に流路跡(りゅうろあと)2条から出土した阿波国府に関する出土品です。
飛鳥時代から平安時代の資料が大半で、「観音寺(かんのんじ)・敷地(しきじ)木簡」として知られる多数の木簡や墨書土器、役人の身分を表す腰帯具、文書行政に必要な銅印、硯など政務を表すものや、斎串(いぐし)や人形(ひとがた)などの祭祀具(さいしぐ)具や農工具(のうこうぐ)・紡織具(ぼうしょくぐ)・建築部材などの木製品、漆関連製品、武具(ぶぐ),瓦(かわら),楽器(がっき)など祭祀や生産・生活を表すものがあります。また各時期の指標となる土器などを含めて,古代地方官庁の多様性を示すものが多数出土しています。
7世紀中頃の「論語(ろんご)」木簡は棒状の四面体のうちの一面に『論語』学而篇(がくじへん)第一(だいいち)の一節を記し,我が国への論語の流入状況を示すものとしても貴重です。また7世紀後半の「五十戸税(ごじゅうこぜい)」木簡や「板野国守」木簡は国府の成立段階の様相を示すほか、8世紀の「勘籍(かんじゃく)」木簡は戸籍を検査し身分を確認する阿波国司と中央官庁との行政手続きを示しています。
また、木製祭祀具については、斎串や立体的な人形・刀形・舟形などは継続的に使用されますが、7世紀末以降に扁平で板状の人形や刀形などが加わるなど、在地的な祭祀と律令的な祭祀が重層的に行われている様子がわかりました。 これらのことから、木簡をはじめとして指定品は古代地方官衙に関する諸要素が網羅されており、政務や律令制度の実態、官人層の生活等を復元する上で重要です。さらに出土品は7世紀から10世紀と連綿と認められる!ことから,律令制の浸透、経営の実態など、古代律令制化の歴史環境を具体的に解明する上で重要な歴史資料であり,阿波国府成立過程や終焉を知る上でも,その学術的価値は高いものです。
以上出典
https://www.pref.tokushima.lg.jp/rekishiru/news/5024022/
中央官庁の可能性は一切考慮されてません。
おしまい。 何の理由も言わずに結論だけ言い張るトンデモ説ってホント馬鹿
それで受け入れる人がいるわけ無いでしょ >>675
自郡至女王國 萬二千餘里
確かにないですね。
女王国となっています。
次有奴國 此女王境界所盡
奴国と推測 まだ辻褄の合わない話を続けているのか。
一冊の本も書けず、列島は、国家理念なぞ無く、原始的に毛が生えた程度の社会状況だよ。
鬼道を理念として国家が始まろうとしたんだよ。
まあ、中華ではカルト扱いされていた鬼道の卑弥呼が邪馬薹から信者を拡げ、国家(張盧の漢中)を築いた話が魏志倭人伝に書いてあるだろう。その魏とゆかりある卑弥呼の為に魏は大いに協力しました、となってる。
その後、司馬に代わり縁は切れましたとまでちゃんと残してる。
他ではいくら繕っても辻褄あわないんだよ、意地ハリだねぇ。 >>673 板野に居たの
>なんで自分の主張と違う所までコピペしとるん?
隠す必要など「阿波」にとって全くないから。 他所に、ここ以上の遺跡がないから。
>そのぐらい削っても罰は当たらんぞ。
どずるいお前の考えそうなことだ。 お前のいっしょにするな。 汚らわしい。
「阿波」はどこにも負けるはずがないんだから、逃げ隠れはせん! わははははは
>ほんまは、なんも考えずに丸コピペしただけなんだろ?
「阿波」はどこにも負けるはずがないんだから、逃げ隠れはせん! わははははは @阿波 東の倭種は女王国に属してるかしてないか?
陳寿は知らないんだよ >>681 板野に居たの
>中央官庁の可能性は一切考慮されてません。
だからお前は、自虐朝日新聞。
他所にこれと同等以上の遺跡があれば、引っ込めよう。
今の段階では当然のコメントだ。 今の段階ではそう書かざるを得ないわな。 かわいそうだが。
あほのお前は、それを見て自虐に走る。 一番のあほ! @阿波 俺は魏志倭人伝は間違いなく九州を指してると思ってるよ
それでも内容や発掘資料を考え合わせると近畿だと言ってるわけで
水行陸行なんて書き間違いに決まってんじゃん
それまで細かく行程を書いてるのにいきなり沖縄や台湾まで飛ぶわけねえじゃん はっきり言ってしまうと読む側の解釈が間違ってるんじゃなく陳寿が間違ってるのよ >>691
俺なら五百里百里百里と来て次が水行二十日なんて書き方は絶対しない
読む人が何処だか見当もつかねえじゃん >>692
五百里百里百里と来て、九州を離れたからかもな。 @阿波 >>644
一万二千里は女王國=女王の境界までの里数 「自郡至女王國 萬二千餘里」
邪馬台国までではない
里数で書かれている北部九州が「漢時有朝見者」の地域
日数で書かれている地域が魏代に初めて足を踏み入れた地域「非足跡車軌所」
一万二千里の境界から邪馬台国までの間に五萬餘戸の投馬國がある
一万二千里の境界の手前には属国の伊都國がある >>696
本州の事を知らないのは陳寿であって中国人みんなが知らないわけじゃないんだよ 何を間違えばそうなるかを考えなきゃ
書いてる事が正しい前提で考えるなんて滑稽 水行陸行はたんに数字の書き間違いで実は一日とか二日なのか?
それとも別の何かを間違ってるのか? 東夷伝序文冒頭に書(尚書)の九服の制が明記されているように
漢代に朝見した地域までの里数は、
尚書禹貢篇の方一万里の天下概念の里数で書かれていいる >>694
>そう書けよ >
>わかんねえじゃん
わからんのは、トンデモのアホだから。 わははははは @阿波 >>692
ナンセンス
それしか情報がなけりゃ書くだろう >>700
日数の方が信用できるだろ
測量する必要ないもの
それとも、勅使一行が測量しながら旅行したというのか? >>703
ちゃんと九州の事をわかった上でなら書かないね
わかんなきゃそう書くしかないけど >>704
倭を説明する文章でそんな書き方しない
実際何処なのかわかんねえじゃん >>597
縄文時代より人々は低地に住み、人口が増え、階層化が生じ、オウが表れ、王となり、大王が誕生した
それとともに支配領域に応じて王の墓が大規模になっていき、全国の王も同じように大きな墓を造った
標高など関係ない >>701
万二千里はそういう事じゃないかと思ってる
だから倭人在帶方東南大海之中までの距離 >>675
>これは使者が実際に訪れた九州北部(おそらく伊都)までの距離と考えられます
>この点については近畿説も九州説も同じですね。短里以外考えられません
いや、そんなこと言ってる人って誰かいる?
いないと思うよ
計算合わないもの
完全に妄想だよ 南至投馬國、水行二十曰。
南至邪馬壹國。女王之所都、水行十日、陸行一月。
投馬國が出雲だったとして、博多湾からの距離は約300km
当時の航海技術がよく分からないが、18人乗りの準構造船が時速7キロぐらいらしいので1日4時間航行すれば28km。10日ちょっとで300km移動できることになる
実際には1日の移動時間がもっと短かったり、休養日があったり、天候待ちがあったりしたのかもな。あるいは次の停泊地まで長時間移動したら数日休む、みたいなローテーションだったか 水行二十日水行十日陸行一月なんておかしいなと思ってもそれしか資料がなきゃ
そう書くしかねえじゃん
倭の事なんて知らないし >>710
博多湾-出雲300kmは直線距離だろ? 陳寿は魏志の為に書き残したが、
中華から遥か彼方の鬼道巫女の脆い国だから場所は特定出来ないように書いただけだろ。歴史の編纂者が一国の今後を左右させる切っ掛けを記せんだろ。 >>713
バカなのか?
あほなのか?
幼い頃からそんなんで今まで生きてきたのか? >>712
うむ。と言っても、海岸線沿いに測ってもそんなには変わらなかったけどな。 「古墳時代初頭に中形犬」 令和4年 8月16日(火) 徳島新聞朝刊
奈良・纏向遺跡 大陸から渡来か
邪馬台国の有力候補地とされる纏向遺跡(奈良県桜井市)で出土していた古墳時代初頭の犬の骨を分析したところ、
背中までの体高は約48cmで中形犬の大きさと推定されることが15日、分かった。
古代の犬は、小、中小、中、中大、大級に分類される。
弥生時代までは小型犬が主流で、今回は中大級に該当し、古墳時代になって大陸からもたらされた可能性を示すという。
成果は桜井市纏向学研究センターの研究紀要に掲載された。
犬は縄文時代から番犬や猟犬として飼われ、弥生時代には食用の家畜とする習慣が伝わったとされる。
出土した骨には解体された痕跡はなく、溝の底からまとまった状態で見つかったことから
儀礼のために供された可能性があるという。
体高は大腿骨の長さから推定。
古墳時代では蔀屋北遺跡(大阪府四条畷市)でも5世紀中ごろの中形犬の骨が出土している。
骨は市教委が2014年度に実施した調査で、遺跡中枢の大型建物群跡東側に位置する深さ約1mの溝底から出土した。
ほぼ1体分の全身骨格とみられ、古墳時代初頭の3世紀前半のものと考えられるという。
纏向遺跡は3世紀初めごろ出現した巨大集落跡。
卑弥呼の宮殿説のある大規模な建物跡や運河跡、九州から関東に至る各地の土器が見つかっており、
初期ヤマト王権が築いた都との見方が強い。
分析した元大阪府立狭山池博物館学芸員の宮崎泰史さんは、「朝鮮半島などから人と共に中形犬が渡来し、
日本の犬の形質が変化した可能性がある」と話している。
さあ、おもしろい記事が出ました。 纏向遺跡は古墳時代のようですな。 わははははは @阿波 >>714理由を説明してからバカなのか、アホなのかをいいなさい。 >>706
しないって理由は?
あんたの思想を聞かされても意味ないし >>716
今頃何言ってるの
みんな」昔から知ってる話だよ
教科書にも載ってる
三世紀は古墳時代だと 説明しないのか?ではこちらから言おう、我が説は結論は一つ。卑弥呼は琪瑛だ。ゆえに全てこれに基づくように陳寿も書き残してあるのだよ。 >>718
ちゃんと倭の事九州の事を理解した上でならそんな書き方しないって事だよ
五百里百里百里で次が水行二十日なんて読者に何処だかわかんねえじゃん 投馬、邪馬台までの距離が日数表記なのは郡使が直接行っておらず、倭人からの伝聞だからですよ。
隋書倭国伝に「夷人不知里數但計以日」(夷人は里数を知らず。ただ日を以って計る)とあり、倭人が距離を日数で表現していたことは記録に残ってます。 >>719
>三世紀は古墳時代だと
「卑彌呼」も古墳時代なのか? わははははは @阿波 陳寿自身全然わかんなくてイメージできないから水行二十日水行十日陸行一月なんて書けたんだよ 陳寿自身水行二十日水行十日陸行一月が何処を指してるかわかんないのに
九州だと決め付けてるんだよ >>719
>三世紀は古墳時代だと
「卑彌呼」も古墳時代なのか?
そう教科書に書いているのか? わははははは @阿波 なんでそんな陳寿disってんの?お前より頭いいよ? >>719
>みんな」昔から知ってる話だよ
「卑彌呼」も古墳時代なのか?
そう教科書に書いているのか? わははははは @阿波 >>729
日本の地形の事なら陳寿よりよく知ってるよ >>727
だって九州説信者、頭悪いんだもの
仕方ないじゃないか 「古墳時代初頭に中形犬」 令和4年 8月16日(火) 徳島新聞朝刊
奈良・纏向遺跡 大陸から渡来か
邪馬台国の有力候補地とされる纏向遺跡(奈良県桜井市)で出土していた古墳時代初頭の犬の骨を分析したところ、
背中までの体高は約48cmで中形犬の大きさと推定されることが15日、分かった。
古代の犬は、小、中小、中、中大、大級に分類される。
弥生時代までは小型犬が主流で、今回は中大級に該当し、古墳時代になって大陸からもたらされた可能性を示すという。
成果は桜井市纏向学研究センターの研究紀要に掲載された。
犬は縄文時代から番犬や猟犬として飼われ、弥生時代には食用の家畜とする習慣が伝わったとされる。
出土した骨には解体された痕跡はなく、溝の底からまとまった状態で見つかったことから
儀礼のために供された可能性があるという。
体高は大腿骨の長さから推定。
古墳時代では蔀屋北遺跡(大阪府四条畷市)でも5世紀中ごろの中形犬の骨が出土している。
骨は市教委が2014年度に実施した調査で、遺跡中枢の大型建物群跡東側に位置する深さ約1mの溝底から出土した。
ほぼ1体分の全身骨格とみられ、古墳時代初頭の3世紀前半のものと考えられるという。
纏向遺跡は3世紀初めごろ出現した巨大集落跡。
卑弥呼の宮殿説のある大規模な建物跡や運河跡、九州から関東に至る各地の土器が見つかっており、
初期ヤマト王権が築いた都との見方が強い。
分析した元大阪府立狭山池博物館学芸員の宮崎泰史さんは、「朝鮮半島などから人と共に中形犬が渡来し、
日本の犬の形質が変化した可能性がある」と話している。
さあ、おもしろい記事が出ました。 纏向遺跡は古墳時代のようですな。 わははははは @阿波 統一を宗教とは思わんが、信仰心のパワーは立証されてると思うね。
そして前方後円墳と畿内に集まる人の流れ、確実に続く巫女道、3世紀から出始める勾玉の形。真実への探求心があるなら何故否定したがるのか、わからんね。斎宮太乙をどう説明する気よ、無理があるだろ。 陳寿は郡使の報告をそのまま収録しただけじゃねーのか >>719
>みんな」昔から知ってる話だよ
「卑彌呼」も古墳時代なのか?
そう教科書に書いているのか? わははははは @阿波 >>721
>五百里百里百里で次が水行二十日なんて読者に何処だかわかんねえじゃん
わかると思ってるし、本人もわかってるつもりだから会稽東冶の東だと書いている
間違ってるだけ >>735
バラバラのいろんな資料を読んで倭をイメージした
だから水行二十日水行十日陸行一月が何処を指してるかわかんないのよ >>738
お前が何を言っているのか分からない
「何処を指しているのか分からない」というのは陳寿が分かっていなかったということ? 水行二十日水行十日陸行一月は資料にあってそれを書き写してるんだけど
何処から何処って場所が必ずあるはず >>719
>みんな」昔から知ってる話だよ
「卑彌呼」も古墳時代なのか? トンズラか? わははははは @阿波 当然だが陳寿は直接倭国に来てないし、日本列島の形も知らない。陳寿が知り得る情報は「水行二十日~」という情報のみなので、陳寿はまさにその位置に邪馬台国があると思って記録している。
それ以上でも以下でもないと思うが「どこを指しているかわからない」というのはどういう意味?我々がその場所を特定できないという意味なら分かるが。 >>739
勿論知らないでしょ
知らないから水行二十日水行十日陸行一月なんて書けたんだし >>743
ちょっとお前の言い回しはよく分からないけど、それで要するに何が言いたいんだ?陳寿が日本列島の地理を明確に把握していなかったとして、どういうことが言えるんだ? >>742
説明文だし普通なら五百里百里百里で次が水行二十日なんて書き方しないのよ
陳寿にはそれが何処を指してるかわかんないからこんな書き方ができたのよ >>746
倭人からの伝聞だから里数ではなく日数の情報しかなかっただけでしょ >>745
水行二十日水行十日陸行一月は必ず場所があるはずなのよ
それが何処を指してるかわかんないのに九州だと決め付けたんだよ >>751
いや誰だよwそれは陳寿関係ないじゃんw >>747
>倭人からの伝聞だから里数ではなく日数の情報しかなかっただけでしょ
それが根拠なき決めつけでしょ >>755
魏志倭人伝の伊都國のところに郡使往來常所駐とあるから郡使は伊都國まで来てないっぽいし、隋書倭国伝に倭人は距離を日数で測っていたって書いてあるんだから、相当の根拠があると言えると思うけど >>752
こういう理由の言えない盲信者が、現代の馬鹿 >>754
~~伊都国~奴国~不弥国~投馬国~邪馬台国の書き方はどう考えても九州でしょ >>760
なんで?そもそも陳寿は九州という概念を知ってたの? >>760
むしろ投馬と邪馬台はどう考えても九州外だと思うが >>757
>魏志倭人伝の伊都國のところに郡使往來常所駐とあるから郡使は伊都國まで来てないっぽいし、隋書倭国伝に倭人は距離を日数で測っていたって書いてあるんだから、相当の根拠があると
それが全く根拠のない妄想なわけだが >>764
投馬国をまったく特定できないのが九州説の敗因 >>762
九州どころか日本の地形を知らないでしょう
だからおかしいなと思いながらそれしか資料が無いから
水行二十日水行十日陸行一月と書いたんでしょう >>767
陳寿は何をおかしいと思ったの?
それしか情報がないなら、別におかしいと思うこと何もなくね? つまり>>763みたいな理由の言えない盲信者が、現代の馬鹿 >>764
元の資料はそうだと思うよ
でも陳寿にはそれしか資料がないから >>768
普通は五百里百里百里で次が水行二十日なんて書き方しない
これじゃ読者に場所がわかんないから >>770
元の資料では投馬と邪馬台は九州外だけど、陳寿はそれらを九州内とする資料しか使えなかったということ?ちょっと意味がよく分からないのだが… >>767
>だからおかしいなと思いながらそれしか資料が無いから
おかしいと思ってたなら
「當在會稽東冶之東」とは書かない
思ってないから書いた
>>752
実際に行った所だな。
投馬国、邪馬台国は九州指していない。
聞いてだけだろう。 >>772
使えなかったと言うより不弥国;~投馬国~邪馬台国と順番にあるのが陳寿のイメージ >>771
投馬と邪馬台の位置が日数表記なのがおかしいと思ったということ?まあ、もしかしたらそう思ったかも知れないけど
陳寿は忠実に記録しただけだよね。それだけの話だと思うけど、それがどうかしたの? >>155
>>159
つまり邪馬台国は筑紫平野にあるけど、「会稽東冶(帯方郡から12,000里)の東にあるべし」としたかったということ。
だから投馬国(宮崎都万)の北に本当の位置が、南に嘘の位置が、2つあるように書かれてしまったというわけ。
畿内説は単細胞だから、これ(邪馬台国が虚実2つ描いてあること)がいつまでたっても理解できないw >>772
当然、陳寿は九州内だとか思ってない
九州とか知らないから
九州内とする資料なんてものも無い
現代日本人少数派の脳内以外には >>141
>>152
祇園山古墳が高良大社の麓にあることは、ほとんどの本州人は知らないので、困ったことですね(大和説の陰謀かな?!^^)。
まず、魏志倭人伝「女王国(九州)東渡海千里複有国皆倭種(本州)。又有侏儒国(四国)在其南、去女王(之所都)四千里」で、九州で決まり。
さらに「(女王国)其南有狗奴国(長官・狗古智卑狗=菊池彦)」ですから、邪馬台国七万戸は、菊地平野の北・筑紫平野しかないですね。
そして、3世紀中頃の築造で、殉葬者66人が確認されている王墓は祇園山古墳しかなく、その尾根上にある筑後国一之宮・高良大社で決まりです(おめでとうございます)!
ちなみに「不弥国から南水行二十日で投馬国に至る。さらに南水行十日陸行一月で邪馬台国に至る」は、「その道里を計るに、まさに会計東冶(帯方郡から12,000里)之東(沖縄と台湾の中間)にあるべし」と結論付けるために、陳寿が(帯方郡→建業→会稽東冶)までの「中国大陸沿岸の行程(12,000里)」を倭国(不弥国→投馬国→邪馬台国)にダブらせて転用した忖度(方便)とすると、投馬国五万戸(宮崎都万)も九州内に収まりますよ。
おそらく洛陽(後漢〜曹魏〜西晋の帝都)から見た倭国は、宿敵・孫呉の背後の海上にあって、(自ら渡海してまで朝貢して来て)魏のために呉を牽制しようとしてくれている「可愛い国♡」という認識だったんでしょう。
だからこそ特別に優遇して金印「親魏倭王」(鉄の発注書の封泥用)を与え、帯方郡の鉄の輸出を許可し、狗奴国の卑弥弓呼・狗古智卑狗を平定せよと銅鏡百枚(✕五百枚w)を与えたんでしょうね。 >>775
勿論、陳寿は連続していると思っていただろうけど、それがどうして陳寿がそれら全て九州内にあると思ってたって話になるんだ?陳寿はおそらく九州という概念すら知らなかったはずだし、九州内も外もないのでは? >>776
忠実に書き写したんだけど実際水行二十日水行十日陸行一月が何処を指してるか知らない 馬鹿はおなじことをループするだけだから相手しても無駄だよ >>777
ないよ。あれば邪馬壹国まで里数で書く
四国、近畿でも東にある >>141
>>159
ついに「南水行十日陸行一月」の謎が解けたyo!
魏志倭人伝の核心は「計其道里 當在会稽東冶之東(その道里を計るに、まさに会稽東冶の東にあるべし)」の一文。
1.西晋初代・武帝司馬炎は、祖父・司馬懿仲達(秀吉)を後見人に指名してくれた大恩人・曹叡(信長)の、(実は呉より北にいた)卑弥呼を特別待遇してしまった判断ミスを正当化し、呉を滅ぼす先鞭を付けた賢帝に仕立てる必要があった。
→曹魏の帝都・洛陽から見て東南にある孫呉との戦いにおいて、その背後に倭国「女王之所都」があれば、最高の牽制となる。
→孫権の帝都・建業とほぼ同緯度の会稽郡「東治(シ・さんずい)」ではなく、そこから更に約580km南で、帯方郡から12,000里の「東冶(ン・にすい)」の東にあると思わせたい。
2.ところで倭国の気候風俗(服装、産物、動物、武器)は、南越(ベトナム)国境にある儋耳朱崖に似ている。
3.しかし本当の位置も残さなければならない。
そこで陳寿が行った忖度が、女王国(九州)島が、狗邪(伽耶)韓国の南から儋耳朱崖(ベトナム)まで届く、中国大陸をすっぽり包み込む、南北に細長〜い「2つの島」であるように思わせる印象操作。
まず「奴国」を2回使って「女王之所都」が「奴国だよ、奴国だよ」と正解の【奴国1】を暗示(ダチョウ倶楽部「押すなよ、押すなよ」→2回目の念押しがポイント)。
次に、投馬国(宮崎)から南水行十日にある奄美大島を海南島までグィ〜ンと引き伸ばして、女王国島のパラレルワールド「邪馬台国島」を、そこに東治⇔東冶間の「陸行一月」を転用して幻の【奴国2】を創り、「東冶(ン・にすい)」の東に「女王之所都」を合わせた。
同時に倭国に行ったことがある中国知識人には「陸行一日(奴国)」の間違いとすぐに気が付くようにもした(「日」の両端の棒を下に延ばし日+Л→「月」)。
卑弥呼は、漢委奴国王以来の奴国王・帥升「其國本亦以男子為王 住七八十年」の男系女子(孫娘)で、先祖である歴代倭王(死者=鬼)の神託を聞くイタコとして(鬼道政治)、北部九州30カ国から共立された巫女(斎王)。
★邪馬台国七万戸=奴国二万戸(福岡平野)+(南の狗奴国に狙われた)後背地・筑紫平野五万戸 >>777
陳寿を嘘つきにしないと成り立たない九州説
陳寿の書いた『南』一字しか根拠がなかったのに・・
終わってるよ というか陳寿を嘘つきにして何をしたいのかさっぱり分からん >>781
ええっ?!
「不弥国から南水行二十日で投馬国、南水行十日陸行一月で邪馬台国に至る」って倭国内の地理じゃないの?
中国大陸沿岸の行程を、倭国内にむりやり当てはめて「その道里を計るに、まさに会稽東冶の東(沖縄と台湾の中間、洛陽から見た呉の真後ろ)にあるべし!」って嘘書いたわけ?
道理でw日本列島内のどこにも比定できないわけだ >>785
>四国、近畿でも東にある
それは間違い
どれほど南国かという文脈で書かれているので
魏都の東でもあったら意味がない >>782
あれで倭を説明してるつもりなんだよね
あの書き方は海を渡るとかを想定してない
不弥国~;投馬国~;邪馬台国で分かりやすく書いてるつもりなのよ 地理的描写なんてそんな物。情報が集積すると段々正確に 九州説、完全に終わってるよ
投馬国も女王国の北側に比定できないし >>792
水行って言ってんだから海渡ることは想定してるだろ
末盧~不弥まで陸行してんだから同じ九州内なら引き続き陸行するわ
そもそもそこから書き方変わってる時点で九州内で地続きとは読みにくい >>794
でも会稽東冶の東と言ってる
陳寿を嘘つきにしないと成り立たない九州説 >>791
それが間違い
南国なら種子島〜奄美近辺にある事になり九州を飛び出す事になる 投馬国=久留米って答え出てますけど?
まあ都合の悪いものは見えない畿内説信者には理解できないかもしれないけどw >>159
女王国(筑紫平野と会稽東冶之東)が2つ(どちらかが嘘w)書いてあるということは、
女王国=筑紫平野
投馬国=宮崎平野
で何の問題もないねw
>>191
頭悪いから箸墓を卑弥呼の冢と決めてかかるんだろうねw >>796
アホな呟きを繰り返すしかない死に体九州説 頭が悪い畿内説に書いとかなきゃだけどw
筑紫平野の根拠は、「伊都国一大率が女王国以北の国々を監視している」「女王国の南に狗奴国あり」「卑弥呼の使者が帯方郡に狗奴国と交戦中と報告」ねw
>>141 >>801
大問題あり
投馬国が邪馬台国より北になっちゃってるので
破綻してる >>798
会稽東治が何処を指してるかわからんけど西日本はみんな東でしょ >>781
嘘(会稽東冶之東〜沖縄と台湾の間)と事実(筑紫平野>>141)つまり、投馬国(宮崎平野)の南と北に2つ書いてるってことか!
やっと解ったw畿内説頭悪杉w 邪馬台国九州説は昭和のロマンだな。令和になってもやってるのが頭おかしいだけで 倭人伝の行程って、俺は後半部は全く信用してなくて信用度0%で議論するだけ無駄派なんだけど
お前ら一生懸命議論してるの見ると
結構信用してんだな
何%くらい信用してんの? >>808
それって
陳寿を嘘つきにしないと成り立たないという
九州説の自殺 >>803
不弥国から宝満川使って移動したんだよ
畿内説は博多から出港すんの?
不弥国どこ行ったんだよw >>786
会稽東冶の東(嘘)と筑紫平野(ホント>>141)、
つまり、投馬国の南(沖縄と台湾の間)北(筑紫平野)両方に邪馬台国に位置が書いてあることを奇貨として、九州説を論破しようとしているわけねw 「會稽東冶之東」は「夏后少康之子、封於會稽」のすぐ後に書かれています。この会稽に封ぜられた夏后の子とは越王勾践の先祖の無余のことで、現在の紹興市会稽山付近と考えられます。
緯度的には種子島や屋久島と同じくらい、九州南端を少しはみ出すあたりですね。 >>810
どんな行程を想定しているしてるの?
因みに俺は帯方郡→投馬国→邪馬台国の水行陸行部分だけが正しいと思ってる 大部分が洪水地帯の筑紫平野に博多を上回る遺跡なんてものはない >>818
緯度的にはちょっとズレると思いますが、そもそもこの記述意味あるんですかね?陳寿が帯方の南一万二千里ぐらいだから会稽の東あたりって試算しただけですよね。
近畿説とか九州説の根拠になるような記述ではないと思いますが… >>817
吉野ヶ里みたいのあるのか?
強固な環濠がある集落はどこですか? >>191
纏向遺跡に人が住んでる痕跡ほとんどなし
魏と交流していたはずなのに、文字使用痕跡がなく、土器や木製仮面、桃の種と威信財も貧弱 >>820
当然だから含むと書いている。
東でも冬至、夏至時期なのか定かではない >>141
投馬国(宮崎平野)の北には本当の邪馬台国(筑紫平野)が、
投馬国(宮崎平野)の南には嘘の邪馬台国(沖縄と台湾の間)が、2つ書かれているってことね >>818
なぜ?
トンデモ説の人だから言い張るだけ? >>822
それが邪馬壹国の証拠だよ
開拓地。邪馬壹国について詳細な事
はなく。実際に行った九州説明。 >>825
陳寿を嘘つきにしないと成り立たない九州説
それは九州説の自殺
なむあみ >>813
伊都、奴、不弥あたりは博多湾近郊で至近だと思うので、どのみち博多湾から出港かなと思いますね。
不弥は神功皇后が応神天皇を出産したとされる宇美が有力だと思いますが、博多のやや内陸で直接湾に面していませんし。 >>827
あんたの言葉、日本語として意味不明なんだが ろくに根拠も無いし阿波にすらまともに反論できないから九州説を中傷するしかできないんだよな、畿内説信者は >>824
それじゃ
宮室樓觀城柵嚴設常有人持兵守衛
博多にある遺跡は? 例えば卑弥呼は吉野ヶ里国の王が倭王になったとかそんなんじゃないでしょ >>832
九州でもっとも発展している外港都市博多は奴国の中心地
有明海北部沿岸は倭国連合の前方後円墳が造られるのが九州でもっとも遅い地域 >>829
それなら奴国の記述だけで済むはず
不弥国を含めたのは行程にあったからだろ 陳寿の言う地理がそんな正確じゃ無いと認める=畿内説
正確だから九州だという=九州説
最初から九州説ってダメだな >>831
こんな中傷しかできなくなった九州説の死亡確認できました >>836
都合の悪い部分だけ間違いだと言い張るのが畿内説 >>834
宮室樓觀城柵嚴設常有人持兵守衛
遺跡を聞いているのだが?
別に畿内説でもない >>839
そんな事実があるとさえ証明できない九州説は死亡ずみ >>841
結論がないのになんで九州なんだ?
魏志倭人伝
宮室樓觀城柵嚴設常有人持兵守衛
遺跡は? >>843
つまり畿内説は死亡してるのに気付かないゾンビかな? >>845
日本語わかりますか?
宮室樓觀城柵嚴設常有人持兵守衛
遺跡を聞いている。 最後まで九州説はダメだったな
幕末に皇国主義者が創作したニセ学説だったから、ほんとは終戦で消えてたんだけどね 城柵は、見るもの少ない卑弥呼がいるところであって
集落全体ではない 畿内説が間違いだというのは投馬、邪馬台の方位だけ。それも言語学的な説明が既に与えられている(古西南方言ではニシが北を指していた)。
一方の九州説は方位が合っているだけで距離がメチャクチャ。九州上陸後に十日単位で水行している理由も説明できない。 またしても、「殉葬のない箸墓ありき」畿内説が論破されてしまったのだね。。。 樓觀も城柵と同じで、集落全体を見張る弥生中期の環濠集落のような複合型集落は
弥生後期には西日本では解体されている 人は信じたいものを信じ、信じたくないものから目を背けるを地で行く畿内説 >>767
倭が島とは書いているのだから、九州ならありです。
本州なら、津軽海峡を知っている必要がある。 >>771
> >>768
> 普通は五百里百里百里で次が水行二十日なんて書き方しない
> これじゃ読者に場所がわかんないから
合理的な考え方としては、里程と日程は別の記事だということ。 >>856
で宮室樓觀城柵嚴設常有人持兵守衛
遺跡は? まあ吉野ヶ里が王宮とか言ってる学者ひとりもいないし >>790
その日程は、不弥国からじゃない。
帯方郡からなんだよ。 >>798
畿内説だと会稽の東で畿内にたどり着くのか? >>861
樓觀城柵は細い柱穴があればどこでも該当する >>862
日本語わかりますか?
宮室樓觀城柵嚴設常有人持兵守衛
で遺跡は? 後漢書における邪馬台国までの里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(倭国、またはその王都がある邪馬台国)から一万二千里である。
(楽浪郡は)その西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の南界を極める。
魏略逸文における里程
帯方(郡)より女(王)国に至る万二千余里。
魏志倭人伝の邪馬台国までの里程
帯方郡(朝鮮北部)から狗邪韓国(朝鮮半島南岸)まで七千里、女王国まで一万二千里。
対馬海峡が三千里であるため、帯方郡から九州上陸までで一万里となり、上陸後二千里の邪馬台国の位置は九州北部になる。
魏志倭人伝の邪馬台国までの日程
帯方郡から邪馬台国(福岡県)まで水行10日、陸行1月(1日の誤りか)
また、帯方郡から投馬国(宮崎県)までは水行20日 >>866
会稽の東なんてどう頑張っても種子島なんだから意味ないですよ >>859
水行二十日水行十日陸行一月はおかしいでしょ
何処まで行くの? >>820
郡使が東夷で使われていた短里で報告したのを、長里しか知らない中原の著者が解釈したら、会稽の東くらいまで南下するのかな?と考えたわけ。 >>860
どう考えてもそうなんだけどそれすら認めないのが居るからな
無理やりな解釈になんの意味があるのか >>832
王都は糸島側だから、高祖山にあったのだろう。
筑紫の日向の高千穂のクシフル峰、高千穂宮。 >>833
> 例えば卑弥呼は吉野ヶ里国の王が倭王になったとかそんなんじゃないでしょ
少なくとも吉野ヶ里は卑弥呼を共立した勢力の一つだろうね。 吉野ヶ里よりも規模が大きい遺跡が連続し、当時九州最大の前方後円墳が築造された博多は
吉野ヶ里とは交流がない
つまり倭国連合の外 >>865
里数と日数の記述が別の資料だと考えるとおかしくないでしょ >>836
魏志倭人伝の記事が畿内説には都合が悪いから信じないだけだよね。 吉野ヶ里遺跡の衰退時期と邪馬台国の東遷時期は関係有ると思う >>880
なんという遺跡だよ。
ト骨の出土あるのか? >>882
理由言ってんじゃん
里数と日数をつなげるとどうしても合わないから別の資料だと考えた方がいい >>874
>郡使が東夷で使われていた短里で報告したのを、
そんなもんで報告するわけないだろ
どこの国の人間だ >>882
何も都合悪くないですね。魏志倭人伝に従えば近畿しか有り得ない! >>885
吉野ヶ里住民が大移動したなんてあり得ないから
食料がなかったら隣町を襲う >>886
博多はト骨が出土する畿内と密接な交流関係の外港都市
有明海北部沿岸は本州の倭人が進出しただけで、政治的な繋がりはない >>870
>会稽の東なんてどう頑張っても種子島なんだから意味ないですよ
意味あるさ
陳寿の書いた行程に間違いがあるって確証だから 吉野ヶ里があった神埼郡は景行天皇のときに帰順したようだから、吉野ヶ里はそのタイミングで大和勢力の傘下に入ったんでしょう。
で、争う必要がなくなったんで堀が埋められ、丘陵からも降りて平地で暮らすようになったと。 >>893
でト骨の出土がある博多の遺跡は?
有明海沿い 牟田遺跡にト骨出土あり >>894
会稽東治は場所わかんねえから考えても意味ない >>891
三世紀には吉野ヶ里が衰退し、たぶん東海から来た人に支配されたのは、ほぼ確定 >>897
>会稽東治は場所わかんねえから考えても意味ない
いや、確定してるから九州説死亡だし >>898
共立だからあったとしても傘下に入るだけ >>896
>でト骨の出土がある博多の遺跡は?
>有明海沿い 牟田遺跡にト骨出土あり
それ、なに県なに市? >>865
あのね、放射説というのは、伊都国を起点にして、邪馬台国と投馬国へそれぞれのルートを考える説のことなの。
その頃の九州説は宮崎県あたりを想定していたから。
畿内説は、連続読みしていた。
その後、糸島の平原遺跡、佐賀の吉野ヶ里遺跡などが見つかって、九州北部が圧倒的に優位であることがわかり、放射説は放棄され、今では誰も唱えなくなった。 >>888
実際に報告されているという事実から目を背けるなよ。
魏志東夷伝の里数を実際の地理と比べて、自分で計算してみろよ。 帯方郡を起点にして
→…→不弥
→投馬→邪馬台
と並列に解釈するならそれはもはや新投射説だろう >>894
陳寿は行程を資料から転記しただけ。
彼の意見は、案ずるに会稽の東あたりか?という部分だけ。 >>847
吉野ケ里の復原楼閣は、唐子・鍵遺跡で出土した土器に描かれていた物を参考にしてるのはご存知? >>908
吉野ヶ里でなく
博多の遺跡を聞いているのだが? >>905
そら日数部分は資料が違うでしょ
常識的に考えて >>904
自分で計算んしてみれば?
短理なんて妄想だってわかるよ >>907
ってか、そんな説ないしな
学者がひとりも主張してない >>901
もう一つあるよ
西蒲池池淵遺跡
これも有明海沿い そもそもなんで帯方から投馬や邪馬台までの距離が日数表示されるのか。倭人が帯方と邪馬台の間を直で往来していて、その日数を報告したのか?
俺が郡使なら帯方から博多までは里数が分かってんだから、そこから邪馬台までの行程だけ倭人に聞いて記録すると思うけどね。 >>914
報告した人物が違うのよ
当たり前だけど
時期も違うだろうし >>916
どうせ、そうかも知れないってだけで根拠はないんだろう? 以前書いてたけど直接伊都国に行けば良いのに末盧国に行ったのは行く理由があったのよ >>919
単に壱岐から伊都まで海岸沿いに航行したら途中に末盧(唐津)があるだけって気がするが >>918
資料が違う事さえわかればどうでも良いけど >>909
博多説の人に聞いたら、福岡空港の下って逃げられるんじゃなかろうか?
私ゃ北部九州には無いと考えてるんで、どうでも良いんですが。 >>922
示すもんがない以上
却下するだけの事。 >>896
博多湾沿岸からは卜骨は出ていない
卜骨が出る畿内と密接な関係の倭国の構成国
卜骨の風習がなかった九州に出始める有明海北部沿岸は
本州の弥生前期中期の状況 「古墳時代初頭に中形犬」 令和4年 8月16日(火) 徳島新聞朝刊
奈良・纏向遺跡 大陸から渡来か
邪馬台国の有力候補地とされる纏向遺跡(奈良県桜井市)で出土していた古墳時代初頭の犬の骨を分析したところ、
背中までの体高は約48cmで中形犬の大きさと推定されることが15日、分かった。
古代の犬は、小、中小、中、中大、大級に分類される。
弥生時代までは小型犬が主流で、今回は中大級に該当し、古墳時代になって大陸からもたらされた可能性を示すという。
成果は桜井市纏向学研究センターの研究紀要に掲載された。
犬は縄文時代から番犬や猟犬として飼われ、弥生時代には食用の家畜とする習慣が伝わったとされる。
出土した骨には解体された痕跡はなく、溝の底からまとまった状態で見つかったことから
儀礼のために供された可能性があるという。
体高は大腿骨の長さから推定。
古墳時代では蔀屋北遺跡(大阪府四条畷市)でも5世紀中ごろの中形犬の骨が出土している。
骨は市教委が2014年度に実施した調査で、遺跡中枢の大型建物群跡東側に位置する深さ約1mの溝底から出土した。
ほぼ1体分の全身骨格とみられ、古墳時代初頭の3世紀前半のものと考えられるという。
纏向遺跡は3世紀初めごろ出現した巨大集落跡。
卑弥呼の宮殿説のある大規模な建物跡や運河跡、九州から関東に至る各地の土器が見つかっており、
初期ヤマト王権が築いた都との見方が強い。
分析した元大阪府立狭山池博物館学芸員の宮崎泰史さんは、「朝鮮半島などから人と共に中形犬が渡来し、
日本の犬の形質が変化した可能性がある」と話している。
さあ、おもしろい記事が出ました。 纏向遺跡は古墳時代のようですな。 わははははは @阿波 縄文時代は犬を埋葬した例が数多く見つかっているが
弥生時代は食用だったためバラバラの状態で見つかる
纏向遺跡の3世紀前半の犬は大陸系の犬だが食用にされていない 伊都国放射説こそあり得んのよ
そんなもんただし書きがなきゃ読者にわかんねえだろ >>926
纏向遺跡は古墳時代のようですな。 わははははは @阿波 >>924
ト骨
九州では、弥生後期から古墳時代。
近畿では弥生前期から古墳時代のもんが出る。
さてどう考える? >>926
>弥生時代までは小型犬が主流で、今回は中大級に該当し、
>古墳時代になって大陸からもたらされた可能性を示すという。
纏向遺跡は古墳時代のようですな。 わははははは @阿波 こらこら、そんなにショックなのか? わははははは @阿波 もうこれ以上、纏向の調査するな! ますます、畿内説の首を締めるぞ! どうすんだ? わははははは @阿波 >>931
畿内説はショックだな。
開拓地の一部、宗教地と見る近畿説は無問題。 閑古鳥の大物主バカよ、お前の東遷バカも終わりなんだぞ! どうすんだ? わははははは @阿波 >>934 板野に居たの
>纏向は纏向学と言う新しいジャンルなんだよ。
と言うことは、邪馬台国論争から撤退ということなんだな? わははははは @阿波 >>927
どから誰もが唱えてないだろ?
それなのにお前みたいな畿内説が訳もわからずシャドーボクシングして悦に入っている。
アホだろ >>909
博多に王はいないから、関係なくないか?
博多つまり奴国は魏志倭人伝の時点で既に城柵もなく、果てしなく遺跡が続く巨大都市だったしね。 >>937
そもそも、現場で発掘研究してる専門家は、邪馬台国畿内説とか、信じてやってる訳では無いでしょ。
マスコミやマニアが勝手に騒いでる。
研究者は、調べて分かった事しか言わん。 >>940 板野に居たの
だから、もうこれ以上、纏向の調査するな! ますます、畿内説の首を締めるぞ!
お前も隠れ畿内説、どうすんだ? わははははは @阿波 別にどうもせん、何が自分ができる訳でも無い。
纏向の膨大な出土品の調査が終わるのは、まだ2〜30年以上先の話しだしな、自分が生きてるうちには終わらんだろうな。 >>942 板野に居たの
>纏向の膨大な出土品の調査が終わるのは、まだ2~30年以上先の話しだしな、
だからもう止めとけって言っている。 ますます、畿内説に不利となるのは確実。 わははははは @阿波 >>942
別の遺跡までごっちゃにしているはず。
そんなやり方なら、博多の方が何十倍もの規模になる。 >>929
近畿だけじゃなく、弥生中期までに本州の関東まで倭人の風習が拡がる
九州は倭人の風習がない甕棺時代に栄え、ど没落した
2世紀後半から博多湾沿岸に近畿、瀬戸内、山陰、東海の土器の搬入が目立つようになる >>945
博多の海人族が西日本から東日本まで支配を広げて、卑弥呼の元に富の一極集中が起きたんだな。 >>907漢文の読み方を無視した新放射説以外の何物でもない >>947
里程と日程を続けて呼んでいいなどという漢文の文法はない。
それなのに無理矢理つなげるのが畿内説。
つなげないと福岡県で完結してしまう。 >>946
3世紀前半に畿内の供献土器の模倣制作が始まり
纏向と同じ前方後円墳をちょっと小さくした那珂八幡古墳が築造される 漢文の文法ってどういうことw
直列か並列かは文脈や解釈の問題であって文法は関係ないでしょ >>947
読み方ではなく陳寿が間違ってるだけだから
邪馬台国はヤマトなのに伊都国や奴国その他の国と同列に並べてるから
こんな間違いが起きる >>953
言い張るだけかよ。
畿内説もいよいよ見苦しくなってきた。 後漢書における邪馬台国までの里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
(楽浪郡は)その西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の南界を極める。
魏略逸文における里程
帯方(郡)より女(王)国に至る万二千余里。
魏志倭人伝の邪馬台国までの里程
帯方郡(朝鮮北部)から狗邪韓国(朝鮮半島南岸)まで七千里、女王国まで一万二千里。
対馬海峡が三千里であるため、帯方郡から九州上陸までで一万里となり、上陸後二千里の邪馬台国の位置は九州北部になる。
魏志倭人伝の邪馬台国までの日程
帯方郡から邪馬台国(福岡県)まで水行10日、陸行1月(1日の誤りか)
また、帯方郡から投馬国(宮崎県)までは水行20日 里数と日数の違いから情報源が異なるものとは考えられるが、方位距離ー国名ー官名ー人口というフォーマットが連続しているので、違う記事とは言いにくいかな。基本的には帯方から邪馬台国に至る行程を説明したシークエンスと考えていいと思い。 >>945
>2世紀後半から博多湾沿岸に近畿、瀬戸内、山陰、東海の土器の搬入が目立つようになる
そりゃ、当たり前。 「倭人(阿波勢力)」が「東阿波型土器」を広めたんだから。 @阿波 >>946
博多の海人族は、「倭人(阿波勢力)」だから。 @阿波 >>954
吉野ケ里から何が見返りとして持ち出されたのかは分かっていない。
鉄ではないかと思う。
近江 伊勢遺跡、稲部遺跡
弥生後期から古墳時代にかけて
急激に鉄の出土がでる地域が邪馬台国。 >>956
>>701が言ってるように万二千里は実際の距離じゃないと思うよ 鉄と言えば丹後半島だろう
丹後半島は紀元前後に中心勢力が変わったんじゃないか?
丹後半島は弥生時代中期までは鉄工房が盛んであった
弥生時代後期になると中心集落の位置が変わり、【朝鮮半島に類似した墓】、【朝鮮半島製と思われる鉄刀】が出土するようになる
丹後半島と入れ替わるように淡路島や池上曽根遺跡、少し遅れて伊吹山など畿内周辺で鉄工房が営まれるようになる
紀元前後丹後半島で鉄工房を営んでいた勢力が畿内に移動したんじゃないか?
浦島太郎と竜宮城の話に関係するかも >>957
俺には内容がえらい違うように見えるけど
同じ名前ばかりでやる気なさそうだし 里程と日程をつなげるおかしな連続読みをしないと畿内には辿り着けないので、畿内説は無理筋なんどよ。 >>962
博多の海人族が、各地の森林資源を食い潰しながら移動していたんどよ。
そうやって出来上がった全ての鉄製品は、一大消費地である博多へと運ばれて利用された。 畿内説は魏志倭人伝とあまりにも食い違いがあるため、魏志倭人伝を否定しないと成立しないのですね。
もはや説として破綻している。 >>964
今日たくさん書き込みしてた俺申し訳ないけど伊勢遺跡説だから
つなげればどう考えても九州を想定してるって 纒向遺跡には鉄製品がなく、人々は木器で前方後円墳作りをさせられていたんだよ。
西日本各地の製鉄遺跡は、大和の人たちによるものではない。
そもそも原材料の鉄を倭人は朝鮮半島から仕入れていたことがわかっているので、必ず博多を通る。
そして博多の海人族は、纒向の人たちには鉄を分けなかった。
すまんね。 >>962
一帯だから滋賀、大阪も含む
稲部遺跡は弥生後期
可7万戸と見積るから広範囲。
丹も関係するかも? >>968
伊勢遺跡は大国主じゃないの?
構造的に、引きこもり女王の宮ではない。
人望厚く、各地から首長層を集めることができた人物のものだよ。 竜宮城の伝説は、志賀島の志賀海神社がモデルだっけ?
博多の海人族の文化だよ。
日本文化のベースは博多の海人族、天津神、天神にある。
神道の祝詞は博多湾の小戸が舞台だし、君が代の歌詞も博多湾沿岸の地名を読んだもの。 >>971
伊勢遺跡もいいが、纏向遺跡は古墳時代の遺跡なんだぞ。 どうするよ? わははははは @阿波 摂津国一宮 住吉神社 筑紫で生まれた住吉の神を祭る
河内国一宮 枚岡神社 筑紫に降臨した天児屋根命を祭る
和泉国一宮 大鳥神社 天児屋根命の子孫を祭る
山城国一宮 上賀茂下鴨神社 筑紫からの神武の東征を助けた三島溝杭耳を祭る
紀伊国一宮 日前宮、国懸宮 筑紫に降臨した天道根命が持っていた鏡を祭る
ここまで筑紫と東征関連。
例外はこれ。
大和国一宮 大神神社 大物主を祭るとされる。
三輪山の神とは、現在の桜井市一帯を拠点としていた物部氏のことであり、その祖は筑紫から来た天孫ニギハヤヒである。
河内から大和にかけての地域を日本と名づけたのもニギハヤヒである。
畿内は筑紫からの入植地ですね。 >>971
卑弥呼が共立されて九州かな?
若い時に九州へ布教活動
女王になってから引きこもり。 次から次へと天神がやって来て、我が祖先が開拓した土地を取るのかと憤慨したのが長髄彦。
もうわかるよね。
畿内は博多天神の植民地。 >>976
前方後円墳である箸墓古墳とセットなら、古墳時代だろ。 >>974
>畿内は筑紫からの入植地ですね。
で、入植した遺跡はどこだ? はるばる筑紫からやって来た入植地はどこだ? わははははは @阿波 >>974
東征ではなく開拓民
だよ。戦乱跡が見つからない。 >>980
>東征ではなく開拓民
筑紫からはるばるやって来た、その開拓民は2~3人なのか? わははははは @阿波 >>978
作り始めなのか?
完成なのか?
被りもある。 吉野ケ里の王が伊勢遺跡の会合に出席してお土産に土器を買って帰ったんじゃないか? >>981
大勢だろうな。稲部遺跡にある
鉄はどこから? >>604
新井白石も、本居宣長も」、まともな人で、良かった。
スレチですが、田沼意次をどう思われますか?阿波さん
田沼」の意を次ぐとも、田沼で意を次ぐとも受け取れますが? >>984
>鉄はどこから?
もちろん、鉄器王国「阿波」から。 @阿波 あと、阿波さんは、高天原と小戸阿波岐原はどこだと思いますかと聞こうと思ったら、
阿波と出てきたな・・・ >>987
鍛冶材料は朝鮮半島からと言われているなあ。 朝鮮半島へ行っていたんだろうなあ。 わははははは @阿波 >>982
箸墓は一気に造られたことがわかっている。
伝説でもそうなっている。
畿内説のテンプレ読んでね。 >>992
>箸墓は一気に造られたことがわかっている。
そうなんだろうな。
まったく根拠はないが、「倭人(阿波勢力)」だったら2年もあれば、造ったんじゃないか。 @阿波 >>990
博多湾岸の小戸公園があるところ。
筑紫の日向の橘の小戸とあり、博多湾に突き出た岬をタチハナ、その東側の海岸を大戸、西側の海岸を小戸と呼んだ。
阿波木原の原は、九州の地名では集落を意味する。
博多湾岸こそ、倭王イザナミの王都、倭王ニニギの渡来地、その末裔の神武の出立地、そして倭王卑弥呼の女王国。
旧唐書
倭国はいにしえの倭奴国のことである。
四方の小島五十余国は皆、倭国に属していた。倭国の王の姓は阿毎(あま・あめ)氏で、一大率を諸国において検察させている。諸国はこれを畏怖している。
日本国は倭国の別種である。
その国は日の昇る方にあるので、「日本」という名前をつけている。
あるいは「倭国がみずからその名前が優雅でないのを嫌がって、改めて日本とつけた」ともいう。
またあるいは「日本は古くは小国だったが、倭国の地を併合した」とも。 小戸は、音だから、鳴戸で鳴門だと思ったのですが・・・
ああ、筑紫野日向の橘の小戸の阿波岐原だから、
阿波の小さい戸・・・ >>994
セットだよ。
それが畿内説の根拠だろ?
テンプレ読んだか? 奈良は開拓地
次の現場へ古墳作り
墓地公園だな。邪馬台国の一部にすぎない。 >>996
戸は港のこと。
正確には、港は水の戸、山への入り口は山門。 このスレッドは1000を超えました。
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