邪馬台国畿内説 Part814
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4~6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1663478375/l50
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 >>531
お前みたいな雑魚は好きにしてろ。俺は徳島YEGに言ってんだ。
お前メンバーじゃないだろ。もっと爺さんだろお前は。 >>532
お前ごとき、相手にならん。 わははははは @阿波 >>508
>無視などしていない。
大笑い
伊都国も奴国も女王国だったら、女王国以北ってどこの国? 全ての始まりは我が姫だよ。銅鐸は消え、神社も大物主神社が最古だろ。
記紀の時代の者は銅鐸を知らず、三船は時の政治は道教を受け入れないと残している。道教を知ってるんだな、不思議と。 わざわざ受け入れないと記しているのはその頃に伝来したから。 文化だけなのか人も移動したかはさておき銅鐸が消えたのは西から銅鏡が流入したと言う原因に疑う余地はない。中華の宗教は無関係。 青銅鏡と剣と銅鐸は墓にも埋まってる。西から制圧されたとかのほうがおかしい、倭はバラバラ、卑弥呼以前は主無しだよ。纏めたのが卑弥呼。 「銅鐸」は、全国で約400個出土していて、徳島県はその約1割を占める42個が出土している。
銅鐸の出土数もさることながら、銅鐸の出土遺跡が29遺跡という、群を抜く圧倒的多さに驚かされる。
古代史上、重要視されていない徳島県で、なぜこれほど県内各地の遺跡から万遍無く銅鐸が出土するのだろうか?
まさに、倭国(阿波)は、銅鐸王国なのである。 @阿波 まぁ、縄文時代晩期末~7世紀末までは、「阿波」がすべての起源と思っていてくれてよいから。 わははははは @阿波 西の「銅剣・銅鉾文化圏」 と 東の「銅鐸文化圏」、この両方に重なる位置の「阿波」が、
「銅剣・銅鉾文化」および「銅鐸文化」の発信地なのである。 @阿波 弥生末期の邪馬台国時代の海抜5mは陸地だったから、現在の陸地の
90%以上は当時も陸地だった >>545
私は卑弥呼の都は奈良にあったと思います
日本書紀の編者たちも魏志倭人伝を読んでいたようですが、明確に見解を述べるには至っていません
卑弥呼の位置づけがあいまいな原因は、卑弥呼とその後継者が後の天皇の系譜の人々にに滅ぼされた存在だからと考えています
ただ、巫女的な卑弥呼の統治者としての性格は天照大神の神話に反映され、大嘗祭など皇室の伝統行事に残っていると思います
>黥面文身
の記述は狗奴国についての記述だと思います
狗奴国の人々は古来から中国に詣でていたとあります
この渡航の様子は持衰のエピソードも含めて後から描写されています
狗奴国は九州南部にあったと思います
先日出雲とヤマト王権についての動画を見ていたら、狗奴国は南部九州から四国、吉備周辺にあったとする方がいました
面白い見方だとは思います
狗奴国について帯方郡に報告した理由は、狗奴国も魏と交流を持っている国だったからだと思います 魏使が狗奴国を訪れていたのはなぜですか?
卑弥呼と敵対していたのに >>545
>この人かなり詳しいみたいで畿内説が否定されてるけど、畿内厨はどう反論する?
あんまり詳しくなさそうだが
400年以上後に成立した史書なんて信憑性低いのは常識なんだから、記紀との整合性なんて気にするのは変だとしか >>548
滅ぼされたならその痕跡は?
血筋がつながってなくてもすんなり移行はしてると思うけどな 俺が習ったのは大和朝廷成立
でも何があって成立したかわからん >>549
一つは中華思想というか、中国が中心となり周辺の後進地域を指導するという考えがあったこと
もう一つは、呉の背後に連携可能な勢力を築く意図があったからかもしれません
狗奴国の人々は、刺青をして、海に深く潜って魚を捕まえるようなスーパータフな存在に描かれている部分があると思います >>551
神武は奈良盆地とその周辺を統治していた長髄彦を滅ぼし、はじめて天皇の位についたと記されています
奈良にあった政権とは卑弥呼の後継者のことを指していると思います >>548 >>554
何で勝者側が滅ぼされた人間をモデルに始祖神とするんだよw
支離滅裂すぎて話しにならんわwww 畿内説と記紀の整合性取れない。いい加減に諦めろって。 >>557
そういう場合は主神に次ぐ重要な地位の神にするんよ。
皇祖にするとか無茶言うたらあかんでwww >>556
卑弥呼の治世は長く安定していました
日本書紀に箸墓古墳の築造について、墓は昼は人が作り、夜は神が作った。(昼は)大坂山の石を運んでつくった。山から墓に至るまで人々が列をなして並び手渡しをして運んだ。時の人は歌った。大坂に 継ぎ登れる 石むらを 手ごしに越さば 越しかてむかも」と記されています
これは、被葬者が大勢の人々に敬愛された存在だったことを示していると思います
その敬愛された巫女的な指導者の事績を尊重することで、政権の正統性を保持しようとしたのかもしれません 狗奴国が広範囲で元々属さない大国であるなら、台与を立て立ち向かったところで簡単には収まらなかったでしょう。
やはり、後継者での不和とみますね。卑弥と卑弥から同じ組織と考えます、そもそも政は弟に助けて貰っていますから、弟が登場しないのも変でしょう。任せるのに一番いいのは河内でしょう。前にも申し上げましたが河内は使えないので狗奴国と、狗奴国なんて実際はないと思いますね。 >>559-560
畿内説の場所でヤマト王権が何故、卑弥呼の国を倒した誉を記載しないのか?
なぜ日本書紀の作者は神功皇后を卑弥呼だと思わせようとしたのか?
何一つ説明できない。まぁ単純に間違ってるって言うことよwww >>564
卑弥呼がそれだけ慕われていた存在だったからでしょう
女性がスーパーヒーローのように活躍するというプロットは卑弥呼の影響があったのかもしれません >>565
知らない?支離滅裂だな。知らなかったら「敬愛された存在」も「政権の正統性を保持」ないんよ。
オワコン畿内説はそうやって記紀から目を背けるしかないんだよ。 卑弥呼は記紀より前の時代だと思うけどな
だからつながってないって事ではなくて昔の事だから知らないだけ >>567
あんたらの記紀盲信に呆れる
それこそオワコンなのに >>568
>卑弥呼は記紀より前の時代だと思うけどな
思うのは勝手だがw 知らないなら知らないで
なぜ日本書紀の作者は神功皇后を卑弥呼だと思わせようとしたのか?
何一つ説明できない。まぁ単純に間違ってるって言うことよwww >>569
記紀が史実だと言ってるんじゃないぞ。
なぜ日本書紀の作者は神功皇后を卑弥呼だと思わせようとしたのか?
ヤマト王権のその場所にかつて存在したはずの国について
長髄彦やら饒速日は詳細に記しておいて、かつ後裔氏族までいると言うのに
卑弥呼に対する対応は一体どう言う理由からなのか何一つ説明できない。
まぁ単純に間違ってるって言うことよwww >>572
あなたの>>564には>>566で答えてあります
答えに不満ならまたレスしてください
>>565は私がレスしたものではありません
それと、今日発言した卑弥呼の後継者の運命についての部分は私個人の意見です
私は畿内説を支持していますが、畿内説を支持する人でも私の意見に同調する人は今のところ少ないと思います
私が発言した部分についての、ご質問やご意見は私宛にレスしてください >>516
ああ、そうなんだ。
どこから淡路島以下を生んだのかと思っていたのだが、
空中から生んだのでは、3次元じゃなくなっちゃいますしね。 だから、三船は当時の政治は道教を嫌うと言うとるじゃないか。
太子記の人口数を見てごらんなさい。当時の政治体制が伺える。まあそういう事はいいとして、我が姫は一代限りで壱よを残し、1が2を産み3に繋がったは書かれていませんが、大仙までは続いたのでしょう。 >>575
オノコロ島は、忌部の郷 吉野川中流域に出来た、日本最大の砂洲 「粟島」。
「こをろこをろとかき回し矛を持ち上げると、滴り落ちた潮が積もり重なって島となった」
吉野川の洪水で、川底が「こをろこをろ」とかき回され、砂が積もり重なって砂洲「粟島」がオノコロ島となった。
淡路島の沼島では、「積り重なって」が説明できない。 @阿波 >>574
>>573のどの部分についてのご質問なのか、もう少し詳しくお願いします 日本書紀の倭迹迹日百襲姫命の事績
>崇神天皇7年、国中で災害が多いので天皇が八百万の神々を神浅茅原(かんあさじはら)に集めて占うと、大物主神が百襲姫に神憑り、大物主神を敬い祀るように告げた
>崇神天皇10年、少女の歌から謀反の前兆を知り、謀反は鎮圧された
あとは、三輪山伝説と箸墓伝説
巫女的な事績である
だが、これだけでは、大坂山から箸墓まで人々が列を作り手手渡しで石を運び墓を造成したという人々の敬愛の理由と墓の規模が結びつかない
これが卑弥呼の墓のエピソードであれば相応しいと納得できる >>579
百襲姫は大王(天皇)じゃない。無茶な解釈すぎ。なぜヤマト王権はその事実を隠した?
卑弥呼の後、男王から再度女王は?何一つ説明できない。
ヤマト王権の女帝は巫女云々より皇位継承問題において臨時的側面が強い。 年代偽装インチキ畿内説はもう無理だって。
そこは、虚空見「日本」国。邪馬台(倭)に併合された国。 無茶な解釈も何も、百襲姫を天皇だとは誰も言っていない
>なぜヤマト王権はその事実を隠した?
その事実とは? 具体的に
>卑弥呼の後、男王から再度女王は?何一つ説明できない。
質問の意味が解らない
>ヤマト王権の女帝は巫女云々より皇位継承問題において臨時的側面が強い。
>>579のどの部分を指しての質問なのか?
このあと少し所用があるので次にレスできるのはお昼ごろになります 九州の卑弥呼を畿内に居たと思いたいのか理解できない。
「邪馬臺」と「邪靡堆」では字も違うし、読みも違うのは明らか。
別の国と考えるが、畿内に卑弥呼以外の女性が居たと考えた方が良いのではないかと思う。 史料を無視して自分の政治思想を押し通そうとするのが九州説だから >>585
すべて「阿波」と観念すれば、即決となるものを、ぐちゃぐちゃとww わははははは @阿波 >>582
はぁw
皆さんで「女王国」を探しているのですよね?百襲姫は女王ではありませんよ。
何で百襲姫が出てくるの? 父が第7代天皇「孝霊天皇」
母が第三夫人「意冨夜麻登玖邇阿禮比賣命」
姉が、「夜麻登々母々曾毘売命」
弟が、四道将軍の一人 「日子刺肩別尊(大吉備津彦命)」
すごい兄弟なのである。
式内社 阿波國名方郡 「天佐自能和氣神社(あまさしのわけじんじゃ)」
御祭神 「日子刺肩別尊(大吉備津彦命)」・「意冨夜麻登玖邇阿禮比賣命」・「神皇産霊尊」・「高皇産霊尊」
神紋は、『式内社調査報告』には、菊紋とあり、境内の石碑にも菊紋が付いている。
一方、拝殿には鷹羽紋が付いている。 @阿波 父が第7代天皇「孝霊天皇」
母が第三夫人「意冨夜麻登玖邇阿禮比賣命」
姉が、「夜麻登々母々曾毘売命」
弟が、四道将軍の一人「大吉備津彦命」
すごい兄弟なのである。
式内社 阿波國名方郡 「天佐自能和氣神社(あまさしのわけじんじゃ)」
御祭神 「日子刺肩別尊(大吉備津彦命)」・「意冨夜麻登玖邇阿禮比賣命」・「神皇産霊尊」・「高皇産霊尊」
神紋は、『式内社調査報告』には、菊紋とあり、境内の石碑にも菊紋が付いている。
一方、拝殿には鷹羽紋が付いている。 @阿波
https://genbu.net/data/awa2/amasajinowake_title.htm >>595
だって、明らかに九州から遠くに旅立ってるだろ 「天佐自能和氣神社(あまさしのわけじんじゃ)」
どういう意味なのです? 九州説は文献を無視した異常な読み方を捏造することだけで存在してるから >>595
魏志倭人伝の行程による。
水行で郡に戻るとかの記述はない。 ガイジンかよw
畿内説は韓国式妄想論を繰り返すだけのまさに統一協会
・倭人伝の南は実は東だったニダ
・奈良も鉄器社会だったが鉄が溶けやすい地質なので残って無いニダ
・よく似た古墳がある地域は当時同政権だった証拠ニダ
・纏向建物の柱穴より深い遺構で出土した桃の種が3世紀だったので建物は卑弥呼の宮殿に違い無いニダ
・纏向は人々の住居跡がほとんど無いので倭国の首都だったニダ
・島根県で景初3年の紀年鏡が出土したので畿内説が正しいニダ
・博多湾から投馬国までの水行20日の道程は無人地帯だったニダ
・投馬国から水行10日+陸行一月の道程も無人地帯だったニダ >>603
「卑彌呼」の墓は、山の上。 これ、常識。
畿内や九州の御用学者や郷土史家、みんな揃って非常識。 @阿波 >>608
それは妄想の阿波古代史
もし合理的に推定できる卑弥呼の墓が気延山で発見されたら画期的な大ニュースになるはず >>608
>もし合理的に推定できる卑弥呼の墓が気延山で発見されたら
このスレはない。 わははははは @阿波 >>610
>このスレはない。
とはどういう意味か? >>611
「阿波」で決まってしまうから。 わははははは @阿波 >>612
>合理的に推定できる卑弥呼の墓が発見されていない
よって、
>このスレがなくなることもない
結局、
>「阿波」で決まってしまうこともない
つまり、>>604で君が言った常識はなどはない
>>604は虚偽の発言 大作冢 徑百余歩 徇葬者奴婢百余人
ね。
邪馬壹国近畿説 >>602
邪馬壹国は近畿だが
卑弥呼は九州にいる
近畿には
鉄も絹(弥生絹)もト骨もある
邪馬壹国近畿説 >>603
箸墓は百襲姫の墓。これはわかる。
百襲姫は巫女ではあるが女王ではない。
つまり箸墓は卑弥呼の墓ではないってのが正解。 >>617
>箸墓は百襲姫の墓。これはわかる。
それもない。 奈良盆地などまったく的外れ。
父が第7代天皇「孝霊天皇」
母が第三夫人「意冨夜麻登玖邇阿禮比賣命」
姉が、「夜麻登々母々曾毘売命」
弟が、四道将軍の一人「大吉備津彦命」
すごい兄弟なのである。
式内社 阿波國名方郡 「天佐自能和氣神社(あまさしのわけじんじゃ)」
御祭神 「日子刺肩別尊」・「意冨夜麻登玖邇阿禮比賣命」・「神皇産霊尊」・「高皇産霊尊」
神紋は、『式内社調査報告』には、菊紋とあり、境内の石碑にも菊紋が付いている。
一方、拝殿には鷹羽紋が付いている。 @阿波
https://genbu.net/data/awa2/amasajinowake_title.htm >>598
徳島県では祭神が不明になった「記紀に登場しない神」の神社は祭神を捏造します。
そして徳島の神社はいろいろ無視して菊紋を多用します。
この神社も神紋は、『式内社調査報告』には、菊紋とあり、
境内の石碑にも菊紋が付いていたが、拝殿には鷹羽紋があった。
その他の例
天都賀佐比古神社。御祭神は不明なのですが
天津風彦と勝手に解釈し、後世に宮中でしか祀られていない風神である
志那都比古神(しなつひこのかみ・級長津彦命)と勝手に定めました。 奈良盆地はじめ、畿内近畿どこにも、このような状況証拠らしきものがまったくなく、
「卑彌呼」や百襲姫の墓などと、まったく的外れ。 @阿波 >>620
「阿波」は良いとこ 一度はおいで 山の中にも 神がいるよ チョイナチョイナ♪ わははははは @阿波 天佐自能和氣神社の祭神も本来は阿波固有の神で「佐自之別」なのでしょう。
一番の大罪は阿波忌部の祖神、天日鷲の母神である八倉比売を天照と同体とした事です。
徳島県の神社は全く信用できない。神社伝承学を発案した原田氏も徳島県に調査に
行っていたなら舌を巻いただろう。(行かなくて良かった) >>618
この時代では確立されているので邪靡堆
陳寿の時代は、たんに女王の都
都と言っても宗教的な場所、霊場みたいな所
手前味噌の定義(放置でいいよ)
邪馬壹(ただ広いが小国)邪馬臺(ヤマト政権の台頭)邪靡堆(確立)。
壹が間違いという説もわかるが
現存する三国志が壹なので使っている。
邪馬壹国近畿説 >>618
邪馬臺者となっているから
難波あたりに宮を移動した
邪馬壹国近畿説 >>625
そんな感じ。
まあ、最終的に倭国を日本と改める。
57、107年 の倭国の
文献には邪馬壹国の記載はない。
別種だったんだな。
旧唐書どうり
もとは小国(邪馬壹国)、倭国(57年 107年 )を併合、倭国を日本と改める。
邪馬壹国近畿説 >>617
>>579に私が箸墓を卑弥呼の墓と推定した理由が書いてある
>だが、これだけでは、大坂山から箸墓まで人々が列を作り>手手渡しで石を運び墓を造成したという人々の敬愛の理由と墓の規模が結びつかない
これが卑弥呼の墓のエピソードであれば相応しいと納得できる >>623
>神社伝承学を発案した原田氏も徳島県に調査に
>行っていたなら舌を巻いただろう。
恐れをなして来なかったのか? わははははは @阿波 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています