大名家 総合スレ
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スレタイの通り、大名家の話題スレ
便宜上「大名家」にしたけど江戸時代に限定せず
鎌倉時代の御家人から室町時代の守護大名
戦国時代の戦国大名、江戸時代の近世大名
明治維新後の大名華族の話題まで何でも結構
特定の大名家スレではなく、領主や大名家関連の総合スレということでスタート 大友・最上・朝倉・葛西・斯波etc教えてください。 鈴木家の権力などには興味を示さず、ただ金で雇われて黙々と仕事をこなす様がなんとも好き
大名というよりは傭兵集団なので、対象外なら外してください >>1
スタートじゃねぇよ
毛利スレと会津スレがまだ残ってんのになんで大名家スレなんて建てるんだよ
せめてその二つが終わってからだろうが
これ以上乱立させるな 日本の大名とヨーロッパの封建領主は似ている
学術的に比較した本や論文ってあるんだろうか 最上氏は大きく分けて二系統、一つは交代寄合五千石だっけか
もう一つは山野辺氏で水戸藩家老一万石 >>4
>>9
最上家は交代寄合、近江大森(八日市)のあたりに所領があった
維新の時に官軍のお先棒を担ぎながら、山形に「復帰」するがもう一度、大名という夢は果たされず明治を迎える
大友は高家、朝倉は分家が旗本、斯波氏は絶滅 五代北条家も小田原攻めで滅亡といわれてるけど
実は江戸時代に1万石の大名だった >>12
続き
葛西氏は晴信の小田原不参陣によって攻撃され滅亡
息子信影が南部氏に仕えた。他にも氏信が上杉に仕える
晴信の弟が仙台藩に仕えて「飯野川葛西氏」を名乗る 江戸時代では共に大名だけど
戦国時代では主君と家臣の関係だったという大名家って結構あったりするんだろうか 津軽と南部はマジで仲悪い。
南部藩の藩士が参勤途中の津軽の殿様を暗殺しようとするほど。 旧主君一族と旧家臣・一応親戚みたいなもんだがで言えば龍造寺と鍋島
後に逆転して佐賀藩鍋島家となり旧龍造寺4家?は内分知の重臣扱い
鍋島系とも相まって佐賀藩の場合鍋島本家は実質6万石程度しかなかった様子 少弐氏・大友氏・島津氏は出自不詳の九州三大名
いずれも同じ時期に勃興している 大友氏はわしの代で滅んだと思っている人が多いと思うが、
実は徳川時代にも嫡子の義乗が旗本として存続しています。 義乗の子、義政・義親兄弟が早世したので嫡流は断絶している
義統の弟・松野正照の三男・義孝が再興を許されて旗本大友家を復興させてはいる 宇和島は仙台の分家筋且つ諸侯には違いないが内的には末家扱い
3代目が本家筋なのだが重臣石川家を継いでからの養子だったので陪臣経由との事でそういう扱いとなったとか >>25
宇和島伊達家は仙台伊達家の「分家」ではなく「別家」だ
まあそれで仙台藩と宇和島藩は長い間揉めていて幕府もこの二つの藩主は同席を避けるなどしてた 時代は下るけど徳川宗家と徳川慶喜家も同じ関係
慶喜家は分家ではなく宗家の別家として創設された >>27
慶喜の息子厚が立てた男爵家は「徳川宗家別家」とこれまたややこしい。 越前松平家は「名士の子孫集め」が大好き
少なくとも皆様おなじみの名前としては
山県昌景
安藤守就
真田昌輝(昌幸兄)
加藤清正(のいとこ系)
長野業正
蘆田信蕃
大道寺政繁
の一族が仕官・召し出しされてる
真田家は福井県にも現存してるはず >>32
北畠は戦国末期に織田信長により滅亡。
但し、信長の次男の信雄が、最期の当主の具教の養子となっている。
信雄の子孫は、天童藩主として明治維新まで存続。
畠山は家康に拾われて、高家として存続。 >>26
そうだったスマン、なついでに言うとほぼ同じパターンなのは南部と八戸 かつて権勢を誇った名門が藩の一藩士の家系に転落してるのは何とも切ない気持ちになるな 細川京兆家は三春藩の重臣として存続
しかし途中で藩主秋田氏から養子に入っている >>22
少弐氏(藤原氏)
大友氏(藤原氏)
島津氏(惟宗氏) >>16
新発田藩の溝口氏は丹羽長秀の旧臣だった。
丹羽氏も二本松藩の藩主家として生き延びてる。 児玉幸多著「大名」はおもしろかった
30年以上前で文庫を買ったが1000円近くして驚いた 丹羽家は確か伊達宗城の男系に変わってたと思う
明治以降の大名系譜漁るとホントに色んなところに出てくる伊達宗城 地味に松浦詮も各家に養子捻じ込んでるな
さらに天皇と親戚ということで本来子爵だったのが伯爵に >>5
丹波家は平安ころから医者の家
今昔物語だったか、藤原道長を呪殺しようとした企みを安倍晴明と阻止した 丹波哲郎といえば映画『切腹』は名作
個人的には時代劇映画の金字塔だと思ってる
仲代達矢との文字通り真剣勝負のシーンは凄い >>43
まさに種馬
井伊家なんかは養子送りまくって結局子孫は絶えた 今更ながら邪馬台国のスレって凄くないか?
日本史板の95%はあのスレに居てこのスレ含め他のスレは皆自演で回してるんじゃないかと思うほど
そんなに邪馬台国語りたいかねえ
機内だろうが九州だろうがどっちでもいいじゃない >>50
与板の方も同じなんだが当代に弟さんがいそうなんでそっちがどうなのかという具合 正直、一般庶民からの養子で家系を繋げて〇〇家当主!と言われてもという勝手な感情がある
当事者からすると余計なお世話だろうけど 途中送信
あくまでウィキによると戦国の政宗以前に別れた分家の子孫
で女系を介して政宗の子孫でもあるらしい >>56
それで御本人も有頂天になってんじゃねえかよ。
毛利さんみたいに普通の民間人として生きていくことが筋道なんだろ。 伊東義祐→祐兵ってのは、凄い人生だと思う。
宮崎平野一帯の支配者→飫肥を占領して日向のほぼ全域→島津に敗れ親子で大友の居候
→大友没落後はただの浪人→義祐客死→祐兵は秀吉に仕官→本能寺後、天下統一の過程を経験
→飫肥藩主だもの。
戦国秀久なみの浮沈劇じゃないだろうか。 >>60
?
織田家も普通に民間人として生きてる
むしろ民間人だから後継がどうのと外野が騒ぐの辞めてくれって話
あと何でそこで急に毛利の話が出て来るのか謎 >>57
伊達氏8代目の子孫、後に大條氏となって後に仙台藩一家・4千石を賜った家の分家筋
因みに独眼竜は17代目 上で仙台と宇和島の伊達家の因縁の話が出てたけど
伊東家と島津家も過去の因縁があって江戸城の殿中じゃ同席しないように取り計られた 元は島津家臣・上原氏の居城を秀吉の命で伊東氏が拝領まではいいが素直に明け渡すに
しかも使者まで斬り殺すという手段に
当然秀吉の怒りに触れ呼ばれたのだけれど自分は行かずに息子を行かせて結果息子が死罪だっけか >>60
家康の子孫19代目は家康の肩書だけ食っているなもんだww
伊達家当主も政宗の肩書で生きてるみたいだが んでも外野が騒がないとこの先平然と子孫名乗ると思うけれど関係者はええんか?みたいなのはあるかな
織田信成とか >>68
当時の位は朝廷に献金すれば貰えたから別にすごくない。
要は金で官位が買えた時代で同時期の阿蘇氏に至っては多額の献金で従二位になってる。 上杉謙信の子孫は何してる?
上杉だけはあまり聞かない 謙信に子は居ない、養子景勝女系且つ吉良男系で繋いでいる 勝海舟
「アメリカではジョージ・ワシントンの子孫が何をしてるのか誰も興味がない」
これがあるべき民主主義国家の姿かもしれない がしかし現状はハリウッドや所謂セレブと呼ばれる人たちの動向はチェックはしている >>72
上杉謙信に子孫がいないのは日本史板の常識だと思ってた >>71
阿蘇氏は戦国期には島津の侵攻に良く耐えた印象がある
甲斐宗運の子親英しかり
あと降伏したふりをして兵を城に入れてから襲ったりなかなか頑張ってた 上杉謙信の養子の子孫じゃないか?
今どこにいるのかわからんがな ttp://www.yonezawa-np.jp/html/news/2022-S/20221108c.html
現当主は東大出の元JAXA研究教授やで、近年お孫さんが生まれたとか 現在の上杉家が吉良上野介の男系子孫って意外と知られていない。 不思議なのは鷹山養子前後に男子誕生して結局その系統が今日までという、幕末期には他家へ養子を出すくらい
鷹山も辿れば女系だけけれどやはり前藩主の血統がという部分は家臣団にも大きかったに思うわ
七家騒動で相当恨み買っていただろうし >>83
子孫の人、忠臣蔵でこれでもかと悪者にされてるの見てどう思ってたんだろう?
上杉家だからもはや関係ないという感じなのかな
まあ最近になって吉良再評価の話も出てきたけど300年以上本当にボロクソだった 過去にご当主が縁の地で公演みたいなのをやったらしい、そこでは地元の評判はよかったよという話が出ていた模様
一方でどうしても対浅野という構図ばかりだけれど実は他にも揉め事を起こした家があったはず
確か江戸家老がきちんと処理したんで事なきを得たというか前後の対応が明らかに違っていたとか >>79
甲斐宗運は伊東に内通した息子三人を殺したらしいが、
そんなに伊東と阿蘇は勢力に違いがあったのか?それとも別の理由が? 甲斐民部大輔入道宗運親直が日向伊東に通じた3人の子供を俵山まで追い親正、宣成を殺し、直武は日向の国まで逃れた。という歴史的資料はなく、あくまで伝承でしかない。
古くから阿蘇家に仕えていたと云われる同族で日向の黒仁田氏も伊東に通じたとい事で宗運により滅ぼされたという。
しかし伊東に通じたと云うのは表面上の名分で、実際は阿蘇家内部での権力争いではなかったのであろうかと思われる。
戦国時代の甲斐党は、肥後・日向に広く分布し宗運自身は阿蘇家配下として御船1000町を領し、後には隈庄1000町も領しながらも、
弟や子息達は日向・三田井氏の配下として高千穂地方に領地を有して、別の流れの家代や七ツ山や隈庄の甲斐氏も同じく肥後・日向にかなりな領地を有していた。
この当時の肥後・日向の国はいかに甲斐党を手なずけるかという事が重要な課題であったというのは間違いない。 伊東義祐は島津撃退して版図広げてるのに影が薄すぎるな 鍋島って龍造寺を乗っ取ったと叩かれてるけど
鍋島のご先祖は龍造寺が家臣として仕えた少弐に行き着く
そんなに悪いことかね? 鍋島が少弐に繋がるのか怪しい。
正当化するための粉飾じゃないの可能性がある。 なんか意味不明な文になった…
粉飾した可能性がある、に訂正。 今の鍋島家は実は女系
少弐家から婿養子を取ってその子孫が現在まで続いている
男系の少弐家は滅亡したが鍋島家として残っているのは面白い因果 そもそもが直茂が秀吉に泣きつかなければ龍造寺は島津の傘下、家臣になっていたのかもねと 幕末はずっと佐幕派だったのに明治維新のドサクサに紛れてちゃっかり勝ち組に回った鍋島家 大藩でありながら幕末に存在感を発揮できなかった三大大藩
加賀藩、尾張藩、仙台藩 大藩の定義って何だ?
石高の大きさ?国持大名かどうか? 佐賀藩は別段佐幕という訳ではなくて外様特有のポジョン維持という立場は変わらず
ただ時の藩主がときの老中と懇意だったが故に少し手を貸しただけのこと、守護職やりますか?というときも拒否られたしね 徳川家茂の死後、本当は田安亀之助が将軍職を継ぐはずだったけど
幼すぎるということで一橋慶喜が将軍になった
ここで疑問なのが亀之助が将軍継嗣候補になったのは家茂と血縁が近いからというのが理由らしい
それなら亀之助の父親である田安慶頼が将軍になればよかったんじゃないかと思う
何で幼児が候補になって父親はダメなの? それを言えば何故に久光は斉彬死後当主になれなかったの?と同じかと
つまり前当主が後継者として島津の場合は忠義、徳川家は家茂が亀之助を指名していたから >>105
慶頼は井伊直弼の言いなりであまり好かれてなかった 島津家や水戸徳川家は現在でも鹿児島や茨城に山林を持ってるけど
版籍奉還で土地などは国に収公されたはずななのに
なぜ広大な山林が現代に至るまで所有出来たのだろう? >>>1普通に松平広忠は離婚後どうなったん?kwsk >>111
織田信長が家臣の明智光秀に裏切られて自害。
光秀は豊臣秀吉に滅ぼされる。 江戸屋敷なんかは一旦政府に没収されるけどその後再び大名家に下げ渡されている >>106
似たような状況でも、近衛天皇の崩御後の後継候補は正室が猶子にしてた皇子(近衛の甥)のはずが、突然の横やりで、その実父に変更されて後白河天皇になった例もある >>116
今は法人管理になってるが
2000年代まで個人であれだけの城を維持していたのがマジで凄い 素朴な疑問なんだが
ここでいう大名とは何なん 成瀬は大名なの 明治になっての男爵は大名なの
毛利に対する吉川は大名なの 紀伊の新宮は 伯耆の米子荒尾は 定義が解らん 一万石越えの家老なんて沢山あるし
参勤交代してない連中ゴロゴロいるんだが >>119
>>1に
特定の大名家スレではなく、「領主や大名家関連」の総合スレということでスタート
って書いてあるぞ >>120
つまり交代寄合や旗本 普通の大名家の家臣およびその陪臣も領主なのということで武家一般全てとなるのか 扶持米支給の新田藩主は大名だけど領主では無いがこの中に含まれる 解らない 120石の交代寄合岩松家もその範疇やね、ほんとここの当主なり家臣団はよくも江戸期を乗り越えたものだと思うわ >>118
個人所有出来た城と出来なかった城があるのかね?
何の基準だったのか。 旧福井城の石垣と堀は戦後も越前松平家の所有だったがその後売ってる >>113
明智光秀が横暴な織田信長に恨みを持ってたのが、そもそも裏切られた原因
抗争中の相手側の信用を得るため自分の母親を人質として差し出したのにもかかわらず
親分の織田信長は言うと抗争中の相手との約束を意図も簡単に破って光秀の母が見殺しに 犬山は愛知が地震で修復費用賄えないから成瀬家にそれでいいなら譲るよ?という話 最近では信長ってそれほど大したことなかったんじゃね?っていうのが通説になりつつあるらしい
少し前に坂本龍馬も教科書から消されるかもいう話があって話題になった
龍馬の方は学者の中でも龍馬を過小評価するな!みたいな抵抗勢力があって今実際消えてるのか分からんけど 日本史とってなかったから分からないんだけど
徳川宗家を継いだ徳川家達って受験とかで出てくる?
一応貴族院議長やってたりワシントン会議に日本側全権として参加してたりするけど 細川元総理も一時期熊本城に住んでいた?みたいな話があったと思うが実際は側にあった刑部邸という所とか 水戸黄門の隠居宅だった西山荘は今も水戸家が管理してるのかね >>131
今は徳川家が運営する公益財団法人の徳川ミュージアムが管理している。
法人所有だが事実上水戸家が管理してると言ってもいいな。 余計なお世話だけど「徳川ミュージアム」ってネーミングがダサ過ぎる
改名前の「水府明徳会」の方が遥かに良い
横文字入れるとなんかチープな響きになる 徳川家広
Q「「安倍晋三首相の政治手法をどう思うか」
A「厚顔無恥」 >>132
徳川宗家はそういった遺産は継承してないの?
記念財団とか作ってる割に所蔵品も目ぼしいのが無い気がする >>136
久能山東照宮博物館とか九州や京都の国立博物館にも寄贈して
徳川宗家が引き継いだ江戸時代の遺産は分散していると思われる 徳川宗家の遺産は戦災でほとんど灰燼に帰してしまった
先祖伝来の家宝の類を戦火を逃れるため邸宅から運び出し別の場所に避難させていたが
その避難先が空襲に遭って焼失
皮肉にも徳川家の邸宅は被害を受けずに無傷で残っていた 第十八代徳川宗家を継承したばかりの若き徳川恒孝氏
寺島宗従ファミリーと
長女・寺島幸子と中央右・徳川恒孝氏
https://i.imgur.com/OAA7ofN.jpg 会津も容保の息子らは美男子揃いだったのに何故にその後継は地味となったのだと >>129
山川の日本史用語集には載ってる
でも授業で習った記憶はない >>138
焼けずに残ってたら国宝級のものばかりだったろうに勿体ない… 大名家って今でも金持ち?
それとも庶民と変わらず? 著名?だと柳川立花家は旧邸宅で旅館?「御花」経営、当主?は先代の次男の娘
嫡流は日本航空元P&役員とか それこそ旧大名家で現在でも裕福な生活をしているのはごくごく一部。
今でも有名なのは近衛、細川、尾張徳川、あと島津、水戸徳川、鍋島などかな。
お家重代の家宝を早々に財団名義にして、震災と戦後の混乱でも散逸を免れている。
ほかにも会社経営してたりね。
島津は十五銀行倒産の煽りで解雇した使用人200人といわれている。
昭和初期ごろになると富裕な大名家でも昔のようにはいかなくなってて、とどめをうったのが華族銀行の倒産。
それでも島津は今でも会社経営していて裕福なんだな 大正期には大名華族の多くが左前になりつつあった
大正6年に家族世襲財産法が改正になり伝来の美術品の処分ができるようになる
必然的に起きたのが空前の大名家伝来の宝物の売立会ブーム
もう先祖伝来の宝物であろうと処分しなきゃ華族の体面が保てない
丁度第一次世界真っ最中で日本は空前の好景気 流行語大賞があれば成金が採用されたであろうほどの成金ラッシュでここに売り手と買い手の需給バランスが成立
有名な36歌仙絵巻や雪舟だのの国宝級の絵画から焼き物、刀剣などどんどん成金が飲み込んでいった
どうだ明るくなっただろうで有名な虎大尽山本唯三郎や赤星弥之助とか成金がとにかく買いまくった そしてあっという間に没落しそれら名品が再度散逸 盛者必衰とはよく言ったものである
この時期の名品移動は維新直後と戦後直後に並ぶ三大名品移動だろう 昭和ネタで当時に出た後追い的な本の中で著者がとある子孫宅に伺う前に近所にて取材兼ねた食事をとった際に
そこのご主人があの裏長屋に住んでいる人が大名家の子孫なんですか?と驚いていたとか
一方別の子孫の方も当時老齢のアパート1人住まいで取材うけて子供の頃はウチよりも旧家老家のが金持ってたとか
これまた別の大名家ではないが大藩の重臣クラスの家の子孫の方で少棒の時代何かしらな行事があるたびに
全校生徒の前に座られたのが嫌だったな話とか
更に某子孫の家はとある宗教団体の会長まで上り詰めた一族も居たり当然本家もその団体所属とか色々 先祖伝来の貴重品が散逸する前に財団化しておくべきだった
その点尾張徳川家の先見の明は流石としか言いようがない
お陰で徳川美術館のコレクションは宝の山 金に余裕があれば財団化して相続税を逃れるのだけれど、それ以前のとにかく金がいって家は売却の一手しかない
実際のところ華族世襲財産法改正以前から派手にはできないだけで相対取引とか出入りの骨董屋とかを通じて既に大名道具の売却はどんどん進んでいた 大藩の大名家はそれぞれ自前の財団作ってちゃんと遺産を受け継いでる
没落したのは中堅から小藩の大名家
公家は最初から没落してた それに及びはしないが加賀八家筆頭本多家5万石の敷地後には博物館があったりする
当然本多家所蔵の品々 三百諸侯まあ260家として、10万石以上は2割に過ぎない
数的に言えば大半は小藩で維新後の生活も推してしるべし
藩士も多ければ成功者に縋ったりもできるけど小藩じゃ旧家臣も知れてるしな
上山松平家3万石などは貧窮の上お姫様が酌婦に身を落とすという小説に出てきそうな哀れな事になっていた 前田家が今でも関わってるのか不明ながら
前田家の遺産を管理する「前田育徳会」の所蔵品は大したもの
国宝がなんと国宝19点も所有している
加賀百万石の威光である >>151
公家でも近衛家は文麿が戦前に陽明文庫作って頑張ってる。
貴重な古典や書籍の散逸を見事に防いだ。
奥さんも皇族出身だし五摂家筆頭の名に恥じない家格を維持してる。 冷泉家の文書は貴重だが金目とは言い難いからあれだけのものが残ったという事だろうか 冷泉伯家も裕福とは言えなかっただろう 有名な冷泉家邸宅も今の女性当主が復興するまで荒れ放題だったらしい >>154
次期ご当主は京の老舗喫茶店の社長やで、コメダよりかは小さいが同じ職種っぽい ウィキ情報だからどこまで信憑性があるか疑問だけど、鍋島家の現当主は滋賀県在住とのこと
なぜ滋賀県…? 旧領の国許に住んでる末裔も意外といるな。
やはり愛着というか思い入れがあるんだろうか。 家広さんの奥さん?は外人みたいだが鍋島も確か奥さんは外人だったかと >>160
伊達家は仙台に住んでる
地元に規模のデカい墓所とかあると管理の為住むことになるのが多いのかしら 地生えの外様や親藩は支配期間が長いから地元との繋がりも太くなると思う 譜代でも井伊や庄内酒井などそういう家はあるが、譜代の転封が頻繁な家は地元志向は薄いんじゃないだろうか 島津なんて800年も不動だからな
鹿児島で別邸を観光地化したり林業やったりゴルフ場経営してたり
ガッツリ根付いてて大したもんだ 上越高田に行くと街は上杉謙信一色だったな
高田城も松平忠輝のイメージで維新時の藩主榊原家の存在感はあんまりない 相馬は今でも馬追で総大将ぞ、今年は33代目の孫だったそうな 同じ福島でも棚倉のように大名が取っ替え引っ替えの場所もあり色々だな >>167
江戸時代に佐竹家から養子に入ってる
現在の相馬家はその子孫 養子とはいえ佐竹だから名門の血筋だな >>164
毛利家も山口にゴルフ場作ってるし、
旧華族家では広大な土地をゴルフ場に転用するのが時代の趨勢だったのか 天童織田家は相馬十三代藩主の血統よね、現相馬はその弟の筋 織田家は家系が分かれてどこがどこだかサッパリ分からん
あと本多家、水野家、稲葉家辺りもややこしい 譜代大名は無駄に小藩に分けて分散させられてるように思われるのは気のせい?
あと無駄に転封が多い >>161
家広さんって子供がいないみたいだけど
遂に断絶ということになってしまうのかな
こういう名門家系は2人男子いないと危ないね >>175
譜代の転封が多いのは幕政に関わり功罪が出やすく加増減封も多くそれで転封が多いというのは一つあると思う
柳沢吉保が大名になった時上総佐貫城がスタート、川越、甲府、息子の代に大和郡山
田沼は遠州相良、陸奥下村、また相良
出世もするけど勘気を被って懲罰的に悪地に飛ばされるという事例も多い 飛ばした後には別の大名を嵌め込むとかでさらに移動が増えるという事もあるかと 水野忠邦は幕閣に入りたくて転封を願い出たりしてる
その割に老中になったやったことは無能の極みな訳で結局失脚して再び転封
振り回される領民や家臣団はたまったもんじゃないな 領民の場合、転封は今時の言葉で言うとガチャ的な面がある
前領主があんまりだと次の方がマシというケースがないでもない
一般には転封の時点で金がかかり貧乏背負ってくるわけだから確率は低いが将軍にウケが良くて急激に出世したみたいな大名が来れば年貢引き下げ大当たりもありうる >>178
水野忠邦って男系では浅野長政の子孫ということが地味に衝撃。
血統より家が譜代だったら別に関係ないのか。 で不思議なのは現浅野本家は何故か山階の名も持っている?という不思議
確かに19代目の母親がその血筋なんだが 浅野家は外様のくせに徳川家の血が最初から入りまくり
しかも歴代藩主のほとんどが正室腹という珍しい家 小六の母の弟、姉夫婦が織田家に領地奪われ自分の所に
その際に安井の家督を小六に継がせて安井氏は事実上消滅、その息子は妻方の浅野氏に養子にだされてという話らしい
で安井妻の兄貴の養女におねが居るという そもそも出自が確実な家など存在しない
天皇でさえ遡ると元々何者かわからない
出自などに拘るのは愚かしい >>176
徳川は名門どころか出自不詳の成り上がり者の最たるものだな >>176
普通に養子を取るんだろ
父親の実家会津松平家か越前松平家、それとも他の分家筋
候補は沢山ある 細川家の本領ってもともとはどこだったの?
熊本ではないのは確かなはず >>189
三河国額田郡細川郷。ようは三河一帯の吉良、今川といった足利家分家の一つ。 >>186
理性的には遥か遠い1/2のn乗の先祖に偉い人がいたからどうなのか 大事なのは本人だろうとなるのだが21世紀になっても人は感情的に因習的にそれができない
どんなに落ちぶれても名家の誇りに縋り、一代の人物も先祖が不確かであれば氏素性が卑しいなどと貶す
神の元の平等を説く宗教からしてという人物は血筋あらたかでなければならないという矛盾を生じている
キリスト教では新約聖書の冒頭にアブラハムから延々キリストまで誰それの子と記され、イスラム教もムハンマドはアブラハムの子孫である事が明記される
そして我が国も皇室はイザナギイザナミから延々全人物が記述される
でもって臣籍降下した源平の末裔を称する者たちはそれに連なる事が何より大事という事になり、系図作成を得意とする公家のお得意様となるのである >>189
今の細川家は熊本と縁薄い気がする
護熙が知事やってたのはもう40年も前だし
熊本には住んでないし地元で何か活動してるとも聞かない 当代は熊本で陶芸やってるよ、奥さんは料理研究家で娘さんが一人とか 細川家も徳川家も次代は養子かな
細川は近衛家から養子取れば済むけど徳川宗家は… そもそも宗家を名乗れる血筋じゃない
会津松平の庶流だから
15代で終わりでいいんだよ 今の宗家は系譜上会津からの養子だが血統では水戸家の流れだけどな。
水戸家出身の将軍では慶喜という例があるので特に問題ない。 宗家分家にゃ二男居るようだから駄目なら分家が管理するといいかもね、慶喜の系譜やし 宗家は徳川一族代表みたいなもので一族から適宜入れるのでいいんじゃないの
元々の血統も家継で絶えてその後は適宜分家から持ってきてるんだから 家達以来の宗家はいずれの当主も男子1人だけで綱渡り過ぎる 全然関係ないが恒孝氏って背高いな
あの年代の人にしてはかなりの長身だわ 春嶽の孫も一時期宗家の養子になっていたみたいだが実家に戻ったようだね >>202
近衛家当主も背が高い。アレは紛れもなく文麿の遺伝子 真田 松平定信系
会津 水戸系
黒田 いろんなところから養子入ってカオス 今は藤堂系
岡山鳥取池田 徳川から何度も養子入って混乱した挙句 断絶見込み
徳川宗家 会津の庶子
津軽 近衛
南部 摂家から養子
蜂須賀 徳川の男系
尾張徳川 堀田
井伊 どっかの庶民
と藩祖の血が入っていない家ばっかりだけど他にも有力大名家でこう言った例があるの? >>208
正確には
松代真田は伊達宗城の男系
津軽は西田幾多郎の男系
尾張は鍋島の男系 大名繋がりで、戦前の貴族院の議席ってどんな基準で決まってるんだろうか
最初は皇族議員でそのあと公侯伯子男の順に割り振られてるのは分かるが
同じ爵位の者同士の場合が不明
例えば1930年代は元老の西園寺公望や徳川家達が皇族以外ではトップの扱いだったのが
2人が亡くなった1940年代は島津忠重と徳川圀順の席次が上になってる あと最晩年の元老松方正義が孫ほど歳の離れた島津忠重より下の議席になってるのは
旧主君筋に対する配慮なのか どこだったかは不明だが某元勲が外では基本的に自分らのが上なんだが旧主と絡むとなると元サヤに戻ってしまうとか
なんとか言っていたような気がする 爵位なら旧主を上回る爵位の家臣筋は希だと思う
島津毛利は公爵で絶対越えられず、山内、鍋島は侯爵だが家臣も侯爵止まり
位階、宮中席次では逆転もあるが、爵位が超えてなければ然程の差は感じないのでは 位階、宮中席次は変動も大きいし
その希な例が小村寿太郎 小村は飫肥藩藩士の家系で飫肥藩藩主の伊東家は子爵だが、小村は功績大により侯爵で旧主より2ランクも上 ここまで差がついてのは他にはないのでは ちなみに小村はポーツマス条約締結の功績で伯爵位を貰ったが、相手のセルゲイ・ウイッテもやはり条約締結の功で伯爵になった
小村は帰国後めちゃくちゃ叩かれたが、ウィッテも半サハリン伯とか皮肉を言われた ビンボーくじを引いたもの同士通じ合い何かがあったらしい 松方正義や牧野伸顕、山本権兵衛らは島津家の顧問をやってたりしてたし。
江戸時代を知ってるから余計に旧主家に対する配慮があったのだと思う。 爵位が同じであれば位階や勲章が上
また爵位を継承したのが古い方が上とか基準は色々あるんじゃないかね 全国いろんな家康イベント、東照宮系行事に駆り出される。 今年の大河は家康だから丁度いいタイミングというかそれが狙いだな
色んなところから講演やイベントの依頼が殺到しててウハウハだろう >>211
水戸家の徳川圀順の方が宗家の家正より高いのか? 家正は1940年に公爵になったばかり
一方の圀順は1898年に公爵を襲爵していて位階も正三位の家正に対して従二位と上位
本家分家はあまり関係ないと思われる 貴族院議長って島津家(毛利家も)からは出てないな。
ほぼ近衛家、徳川家、松平家による寡占状態。 >>223
一度だけだが島津家は貴族院「仮」議長を務めている NHK最強の城に19代将軍・家広が出とったな
千田教授も当主には偉そうな事言わんのだね 家廣さん、背は高いし痩せたらなかなか良い感じの紳士に見えそうな気もする
今は太り過ぎだわ
アメリカ留学の影響で太ったのかしら 極官が同じ或いは下であっても就任時期が後になると下と見ていたの家に逆転される時期が生じる事がある
これが確執のある家同士だと大問題になる それが津軽と南部で南部で津軽は家臣筋の裏切り者と信じ込んでいる南部にとってそんなことは我慢ならない
南部利敬は家督を継いだ時2歳の幼児だった為10年以上無位無官だった 一方下であるはずの津軽寧親は継いですぐ従五位下出羽守となる
主君が無位無官、仇の津軽は出羽守で家臣一同憤死しそうになり任官運動に血道を上げる なんとかひっくり返したものの利敬が死んでしまうと寧親は北辺警備の功で幕閣に取り入り事もあろうに従四位下侍従にまでなっている 再び津軽の後塵を拝することになった南部藩は憤激 このような事が一因となり相馬大作事件が起きたという
維新後も分家筋と本家の爵位が逆転してみたり宮中席次が逆転してみたりと家柄家格を絶対視するものたちには憤まんやるかたない
ベルサイユのようだが華族貴族は真に愚かしいのだが、実のところ庶民にしたところで出身校がどうのとかマウントの取り合いはよくあるわけで、そのような事を超えた悟りの境地に至れるものは幸いである >>225
将軍家はなくなって駿府に転封になったから
家達は駿府徳川家の初代でそいつは4代目だろ 伊達家のとある藩主なんかは島津家と官位を張り合って幕閣に多額の献金をしたりしてたし、
やはり国持大名たるものメンツは大事らしい。 仙台伊達家は維新後の陞爵運動も知られている 有名な国学者の大槻文彦が関わっていたのでも有名だろう
仙台伊達は本来なら侯爵だという意識が強く、賊軍と言われるのも納得いかず、分家とも言える宇和島の伊達が上の侯爵というの気に触るのもあっただろう
他にも陞爵運動した家はいくつかあったという
はたから見るとどうでも良い事に、必死に血道を上げる様はコメディにピッタリでいずれドラマにすると良いのにと思う 伊達は伯爵の方が侯爵よりいいと思うけどな
伯爵は議員に当選出来れば歳費が支給される
一方で侯爵は終身の代わりに生涯無給
華族は爵位が上がればそれだけ体面を保つのに何かと出費を強いられるし
伊達伯爵家は戦前の時点でかなり家計が苦しかったらしいから
経済的にもメリットないどころかデメリットの方が大きい 江戸時代に家格を上げたい一心で見栄を張り表高をあげた例がいくつかあった
島原の松倉とか、互いに負けられない南部と津軽とか、当然石高相当の役務が生じて民百姓が大いに苦しむ事になる
結果島原の乱を起こして松倉は大名にして斬首、南部も津軽も領地は寒冷地にして飢饉常襲地帯なのにこの愚劣で一揆続発
その点華族は自分の家の事だけなので影響は小さい 土地は増えないのに高直しって、そこまで見栄を張る気が知れない。沼田の真田も3万石だったのに14万石とか申告したし、新発田の溝口は5万石を10万石と申告した。 >>232
一部の大名華族の見栄を張りたいと陞爵運動するのはある意味江戸時代からの伝統か 逆のパターンで例えば公式で10万石なのに、新田開発とかで実際は50万石になってた!みたいな藩は豊かだったのかな
それともその差があまりにもデカいと幕府から睨まれるのかな 土佐藩が公称24万石で実高48万石、仙台藩は公称62万石で実高100万石ということで、仙台は米の価格次第で赤字がすぐに償還しうる博打藩政を展開していた。 旗本御家人や藩士たちが石高を上げたいと望むのは当然でそれは収入そのもの 実修なら低いより高い方がいいに決まっている
大名の場合名目の事だから収入は増えず却って支出が増大する 単に序列が上がるだけのことでそれも極々僅かに過ぎない
故に真っ当な家臣は反対するがそれを押し切ってでも殿様は偉くなりたい 領国では一番偉くとも、殿中では周りも殿様 官位石高で序列が決まり藩祖が凄い名将だとか拠り所でもないと己が保てない 武士の誕生以来数百年も恒常的に国内の紛争が続いてきたから他から舐められないためにステータスを誇示するのは一種の安全保障で武士の遺伝子に刻まれた行動パターンになっていた
太平の世になってもそれは簡単に払拭できない 薩摩77万石も実高は半分程度しかなく
琉球の密貿易で何とかやりくりしていたのが実情なのは有名
日向国丸々薩摩藩だったらまだ余裕が出たかもしれん >>231
それでも伊達家は自前の財団?みたいなのは持っててあまり没落してる印象はない。
歴代の墓所もちゃんと管理してる。
なんだかんだで旧大藩の大名家でひどく没落したところはあまりないような気がする(紀州徳川家くらいか?) 加賀藩は上も下も実質リーマン状態だったが仙台藩は子会社の社長ばかりみたいなもんだったかと 大藩は当然家臣が多い 維新後の官政財界は武士階級が多く旧家臣の人脈は有利に働く 旧主を囲む会をやっていれば困った事に相談に乗れる大立者が旧家臣にいたりするわけだ
昭和前期の南部侯など家臣の家に米内、原、東條の首相から板垣征四郎のような陸軍の大物から新渡戸稲造に金田一京介なんてのまで多士済々で困り事などなんとでもなりそうである
小藩は家臣が少ないからこうはいかない >>240
蜂須賀家も大没落
富豪だったが紀州家と同様当主の散財で自滅した >>57
もちろん古代人骨は重要な考古遺物だよ
形質の変化は特に重要だよね
古代人骨の遺伝子も重要な考古遺物である
だが遺伝子は常に変動していて、特に頻度なんか数百年で激変してしまう事もあるし、
仮に現日本人が外来人との混血が一切なく1万年経ったとしたら、その1万年後の日本人の
ハプロタイプのコンテンツや頻度は今のままだろうか?
おそらく全く違ったものになってると思うんだが
外来人との交配なくとも変わり続けていってしまうのが遺伝子
だから昔はNだったが今はOだから人間ごと入れ替わったんだとか
言ってるのを見るのは非常に滑稽
Oとの多少の混血からNがOに徐々に乗っ取られていっただけだと
いうのが実際の所なんじゃないのか?
6000年前の小麦のプラントオパール出土で6000年前の日本に小麦作とか
中卒すぎてもうやってられません
栗の縄文栽培は考古学からのアプローチで分かってきた事でプラントオパールは
あまり関係ないような >>232
毛利 関ケ原処分の29万8千石→高直しで53万9千石申告→幕府は認めず36万9千石に
前田 関ケ原加増の101万石→高直しで122万5千石申告→幕府は認めず119万5千石に
(富山10万石と大聖寺7万石をのちに分与で102万5千石になる)
山内 関ケ原加増の17万石→高直しで24万石申告→幕府は認めず20万2600石に
龍造寺 関ケ原両天秤で安堵の30万9900石→高直しで35万7千石→幕府は承認
(高房の死後、朱印状は鍋島宛になる) 関ヶ原後の黒田長政は中津18万石から筑前一円に加封移転したが、直前の小早川の石高からすると、せいぜい40万石が分限だと思われる。ところが、隣国の豊前39万石細川に張り合う意図があったようで、52万石と申告している。 熊本藩は金欠で有名だったのに維新後の細川家は華族屈指の富豪になってる
昔から立ち回りが上手い家系 そもそも肥後細川家自体が傍系な上に護熙の家系はその中でも宇土藩流れ
つまり傍系の傍系なのに巷の名門扱いには疑問符がつく 世間での名門は有名人がいてなんぼ
その点細川は逐次有名人が出てリブートしてる
出雲の千家とか足利の吉良とか名門と言ったところで有名人がいなきゃ世間は認知しない >>249
傍系とはいえ血統を現代まで伝えてるだけ立派なもん。
傍系なんて言い出したら徳川家なんてとっくに傍系だし、
島津も戦国期に分家が宗家を乗っ取って現代に至ってる。 室町の足利の末裔を称する人間出ないですね。阿波にそれらしいのがいるんでしょ? 喜連川が足利の後裔という事になってるのでは
一族というなら吉良や今川もいるし 細川は内膳家が忠興・ガラシャの男系血統をって話やん、著名な人では細川隆一郎 細川隆一郎と細川隆元は親類なんだよな
顔も経歴も言ってることもよく似ている >>254
喜連川が明治以降足利に復姓しててそこが本流
まあここも水戸徳川家の血統に入れ替わってるが
水戸烈公の血は凄い… 徳川恒孝氏も次男、近衞忠W氏も次男
どちらも兄より格上の家を継いでいる
次男は長男や三男より美味しいポジションかもしれない 徳川記念財団の所蔵品確認しようと思ったら目録すらない!
尚古集成館も所蔵品に何があるか分からない
今どきネットでリスト確認できないなんてあり得ない 銀印とか5年前に発見したらしい
どうやらまだ所蔵品の整理は完全に終わってなくてデータベース化を急ピッチで進めてる最中とのこと >>258
足利さんは戦前の学習院で朝敵の子孫といじめられてたらしいな。
平泉澄の南朝正統論が猛威を奮っていた時代だから尚更。 熊本の細川家は三淵だか長岡だか名乗ってたけど本当に細川氏の血筋なの?
なんか怪しい気がするんだけど >>263
土佐は海援隊の中島信行男爵と陸奥宗光の娘との間に生まれた、海援隊の申し子というべき中島久万吉男爵は、清見寺で足利尊氏像を見た感想として足利尊氏も再評価したらどうかとい雑文を俳句の同人誌に寄稿した
それから10年以上も経った頃、その文章が別の雑誌に転載され、商工大臣になっていた久万吉は貴族院の右派議員から逆賊を評価するとは何事だと猛攻撃されとうとう大臣を辞める羽目になった
維新の功労者の子息にして現役の大臣がちょっと尊氏にも良いところあったと書いただけでこの有り様
当の足利一族は肩身が狭いなんてものじゃなかっただろう 足利市は戦前からあるがそんな環境でよく改名運動が起きなかったと思う 戦前でもリベラルからはちょっとアレ扱いだった
海軍兵学校に講演に行ったら、校長が生徒に聴かせるなと言って教官達が拝聴して帰ってきたって話があった 平泉澄といえば大東亜戦争の原因はルーズベルト!
のイデオローグ 靖国神社の宮司としていろんな意味で知られている松平宮司(春嶽の孫)は平泉を生涯師と仰いでいた >>261
徳川宗家はともかく、島津家はそんなリスト化するほど所蔵品なんてないんじゃないの?
戦前に家宝売りまくってたらしいし。 >>264
違う
養子に入った先の細川も庶流やし、なんなら佐々木氏系列の説もある 松平永芳は奇人変人の類だと思う
当時の華族は明治天皇の華族はなるべく軍人にという言葉に反し、辛い軍人になど進むものは少ない中で珍しく軍人に進む
それはいいのだが何故か海軍兵学校ではなく海軍機関学校
戦前の海軍は機関科問題を抱えていた 要するに機関将校が差別されてるという問題である
しかも受験する学生には兵学校と機関学校の差とか卒業後の海軍での扱いとか知らせず騙すように機関学校に入学させるという姑息な事をしていた
確かに一般人に機関科問題などはわからないのだが永芳は華族でありその事情を知らなかったとは思えない
さらによくわからないのが戦後自衛隊に入るのだが何故か海自じゃなくて陸自 およそ海軍将校で陸軍が好きというものはおらず、陸海軍は互いに不倶戴天の敵 陸自の幹部は旧陸軍の将校ばかりだから旧海軍少佐の芳永が居心地はどうなのか
そして靖国での戦犯合祀 A級戦犯で法務死したのは陸軍軍人ばかりで海軍で死刑になったものはいない 旧海軍軍人は東條が大嫌いなものだらけだが永芳はあえて合祀に踏み切った
つまりは陸海軍とかを超えて思想的に元々変人だった
変人のベースに平泉理論が構築された信念の塊、人の話は聞かん人物だったのではないだろうか >>272
家宝うっぱらうほどだった割に今でも仙巌園や山林を所有管理しててなんかよく分からないな そこは島津家の個人所有ではなく島津興業の所有だから事情が違う。
島津興業は戦前でもかなり早く1920年代に設立されて島津家の資産をそのまま移行した形だから、
戦後の財産税や農地改革の影響を抑えることが出来た。
そのまま個人で持ってた家宝などが売りに出されたり散逸した。 その時一緒に家宝も社有にすりれば良かったのにな
もったいない 島津家は没落華族の中でもかなりマシな方。
尾張家とかの方が少数派。 1927年(昭和2年)4月21日 - 昭和金融恐慌により、取り付け騒ぎが発生して休業。経営破綻し、事実上倒産する。
武家華族は旧家臣たちの情報網を使って倒産前に財産を他へ移したが、公家華族は倒産するまで何も知らず、大損害を受けた。
代表者であった松方巌公爵(元首相松方正義の長男)は責任を取り私財の大半を放出の上、爵位を返上。
ウィキペディアの十五銀行の記事には上記のことが書かれてるけど、「武家華族は旧家臣たちの情報網を使って倒産前に財産を他へ移した」なら何故島津家が損害を被ったのだろう? 推測だが島津は第15銀行の大株主であり、経営トップは薩閥の大物松方正義の子の巌公爵
島津公はいわば経営者サイドにあり経営がまずいからと言って逃げるわけにいかない
ただのクライアントが逃げるのとは訳が違う 経営者側が逃げたらその時点で即詰む 朝鮮でも関ヶ原でも敵に背は見せぬ ましてや15銀行の総大将みたいなもの
それに今まで散々儲けさせてもらってもいる なにしろ華族銀行、渡辺銀行なんかとは格が違う 人脈は天下一、政治力でなんとかなる あまりにインサイドにいるからそのように目が曇り希望的観測もあったのかなと
まあそんな感じなのでは 渡辺銀行
なんとか持ちこたえてたのに大臣の失言のせいで結局破産して気の毒すぎる… 若槻禮次郎首相と大蔵省同期がたまたま枢密院顧問官に就任しており、単に台湾銀行救済だけではダメでモラトリウムを発布しろとアドバイスしたのに、若槻政府は聞き入れなかったため、枢密院にて否決、退陣になったと、倉富勇三郎日記に書いてあった。 >>279
『横から見た華族物語』
十五銀行の騒ぎでは旧大小名華族のほとんど全部が大なり小なり手傷を負うたが、中でも最もひどくやられたのは島津公爵家であった。
当時島津家では十五銀行へ150万円の預金があった。
そのうえに2万近い新株を持っていてその払い込みがざっと145万円、もし島津家がこの新株を払い込まないようだったら、十五銀行の整理案が成り立たぬというのっぴきならぬ辛い立場に置かれた。
何と言っても九州の島津だ、動産不動産合わせて8000万円は下るまいと言われている金持華族だからそれぐらいの金は右から左へ出すだろうと思われたが、有るようで無いのは金、無いようで有るのは借金というやつ、こればかりはどうにもならぬ。
そこで袖ヶ崎のあの屋敷、明治大帝がしばしば行幸あらせられたという由緒の深い3万坪の屋敷のうち、6千坪だけを残し後を全部売りに出して、そこから浮かんだ240万円の金で銀行の方のカタをつけたものだ。 そんな中でも島津家文書だけは最後まで売らなかったのね 古文書は資料的価値が高くても骨董的価値がない
幾らにもならんだろう 鹿児島は文化財のスカスカっぷりは異常
島津700年の歴史と言いつつ名のある神社仏閣や城など見るべき歴史的遺産は皆無と言っていい
まあそれ以外で温泉や自然など良いところあるが。 >>個人所有出来た城
上杉家は昭和25年まで米沢城敷地内の屋敷を所有
今も館山城(石垣のみ残る)は上杉の私有地
前の方が書かれていたが
犬山城は平成16年に成瀬家が財団に譲渡 >>87
浅野家は伊達家とも絶縁
・伊達宗春は同僚だった浅野長矩を無視して手助けしていない(後任になった浅野親戚の戸田も不始末を押し付けた)
・田村建顕(伊達一門)は浅野長矩が酒を出せという要求を拒絶、庭先で切腹させる
・伊達綱村は引き上げる赤穂義士の通行を阻止した
・伊達吉村は浅野吉長と和解せよという幕府の提案を国元の重臣が反対して却下 >>287
端っこだからね 文化は交流がなければ発展しない
南部氏も鎌倉以来の名族だが、東北6県のうちで見ると岩手に見るべき文化財はいくらもない
岩手にあるのは藤原四代の中尊寺で、岩手の国宝全部中尊寺みたいなものだが、ここは南部じゃなくて伊達領 南部700年はほとんど何も残していない
伊達領の方が文物は遥かに充実している 九州も筑前が飛び抜けてるだろう やはり交通が盛んだからね >>287
鹿児島城跡には今風の学校校舎みたいな文化センターと図書館が建ってる
「県図なう。」というふざけたタイトルの広報誌を出してて威厳も由緒もない
現当主・島津修久は鹿児島城よりは島津斉彬を祀る照国神社を重視しているようで
こちらには宝物館が併設されて久光や忠義の銅像もある。 薩摩は西南戦争や廃仏毀釈で文化財を自ら率先して破壊したというのが大きい
辛うじて残った文化財も鹿児島空襲で焼失 昭和金融恐慌は銀行がバタバタ潰れたというものの潰れた銀行は中小の弱小であって財閥の安田三井三菱住友などは小ゆるぎもしなかった
その中で規模の大きな十五銀行が潰れたのは不良債権を抱えて財務が傷んでいた事による 同じく特殊銀行で潰れた台湾銀行と同様の特殊事情と考えられる
バブル崩壊時に四大證券のうち問題を抱えていた山一證券だけが潰れたように恐慌はトドメだっただろうが実態は既に重病状態だったと思われる
松方巌の責任は重いがそもそもおぼっちゃまの2代目公爵閣下が経営トップというのがあまりにもリスキー 他の財閥は財閥家は飾りとして海千山千の大番頭が仕切ってるんだから経営が違いすぎる >>292
東京の古刹名刹など江戸期の度重なる火事に関東大震災東京大空襲でその都度まるやけになったようなものだが、関係者の尽力で元に戻し今でも参拝者多数
大阪やその他主要都市の寺社も同じだろう 要は再建しようという意思がない、そういう事だと思う 島津家って庭園の他に博物館、林業、建設業、コンビニ経営、ゴルフ場経営、エネルギー事業
等々本当に色々手広くやってるのね
ここまでやってるのは大名家でもレアケースだと思う 廃仏毀釈はマルクス主義との親和性を感じさせて気味悪い むしろキリスト教の異教の文物破壊とかイスラム教の偶像破壊に思える 土佐藩山内家当主が社長を務める「山内興業」とは何の会社じゃ? 伊達家当主の泰宗公も伊達家伯記念會株式会社を経営されておられる。
奥州の覇者の裔はやはり格が違う。 山内家の現当主は先祖伝来の遺品を3万6000点を高知県に寄贈している >>301
伊達家の家紋を商標登録してるらしいけど
島津家は島津製作所とかも社章に使ってたりするしフリーなんだろうな 竹に雀だっけ?家紋は、例えば冠婚葬祭等での個人使用も駄目なん? 伊達家の家紋って商標登録するほどのもの?
徳川家の家紋レベルなら分かるけど その辺の中小企業の社章も登録してるからな
変なやつに使われたくなかろ >>305
数年前に茨城のどっかのイベント会社が葵の紋の商標登録を申請してなんと通ってしまった
しかし水戸家の当主が異議申して立てを特許庁に行って結局却下されたということがあった 島津興業と島津製作所、どちらも丸に十字だけど
島津本家の方が線が太い 徳川もそうだし伊達も家で微妙に違うようだね、確か笹の数だったか 1年間伊達家家紋使用料
家紋使用料 11,000円〜55,000円(税込)
商品内容、種類等により使用料が変わります 高っ!
金払ってまで伊達家の家紋使いたい奴なんているのか 家紋などたとえ一族であってもみんな違う。
「全国の伊達さん」が共通してる家紋などあり得ない。
わざわざ仙台伊達家の家紋を金払うより各々の家に伝わった家紋を使う。
上の家紋は仙台市のイベント等々で年に数回申請がある程度だろう。 増上寺でやる予定の徳川宗家の「継宗の儀」地味に楽しみだわ
なにしろ1963年以来60年ぶりの当主交代だからな
貴重なイベント 慶長出羽合戦では山形や福島で上杉と伊達が交戦したようだが、あんな識別のつかない旗指物で同士討ちとか起きなかったのかな 徳川家のうちやっぱり将軍家が一番金というか遺産持ってるのかな? 尾張徳川家>>>変えられない壁>>>徳川宗家>水戸徳川家>>>>変えられない壁>>>>紀州徳川家
尾張徳川家がダントツ 徳川19代当主「家康役が松本潤さんで…」 直接会って感じた期待 朝日新聞
徳川家康を祖とする徳川宗家の当主が1日、60年ぶりに代替わりした。29日には、徳川家の霊(れい)廟(びょう)がある東京都港区芝の増上寺で「継宗の儀」が催される。19代当主となった徳川家広さん(57)が今後の抱負や、NHK大河ドラマ「どうする家康」への思いなどを語った。
当主としての仕事のひとつは徳川家に伝わる歴史的価値のある史料や文化財の後世への継承だ。恒孝さんが2003年に設立した「徳川記念財団」は07年に「大徳川展」に出品するなど、一般への公開も進めてきた。
「展覧会への出品を続けているうちに収蔵庫の中の整理が行き届かなくなってきた。まだ父個人の所有のままになっている多数の品々を財団の所蔵品にするなどの作業もあり、今後数年間は調査と整理を進めなくてはいけません。データベースの再構築です」と話す。 幕末の仙台藩主の伊達慶邦がサンドイッチマンの伊達みきおに微妙に似てて笑ってしまった。 >>324
財団設立から20年経ってもまだ整理が付いてないって凄いな
しかもまだ恒孝氏個人所有の物まであるとか 何でここ明治以降における旧大名家の話ばかりしてるの? >>325
女系やけどな藩祖正宗系で言うと、遠祖は確かに伊達の血統だが 伊達政宗が2人いること最近知った。
伊達みきおは初代政宗の男系子孫らしい。 ワイの名家出身の友達に始祖と同じ名前のやつがおったんやけど、こういうのってやっぱり期待してるから同じ名前つけるんかな 織田信成はにせ子孫
羽柴誠三は秀吉の生まれ変わり
徳川無声は毛利一門 作家の早乙女貢は本名が鐘ヶ江秀吉
本名の方が武将っぽい 大平に世では武功を立てる機会もなく大名家及びそれに連なる家系でなければ大名にはなれない もはや大名になるなど今一度の天下大乱しかない
と言いつつ物凄い運と相当の実力で、ただの陪臣や旗本から大名まで上り詰めたのが綱吉時代の牧野、柳沢、家宣時代の間部、吉宗時代の加納、有馬、家重時代の大岡、田沼とバカにできない人数がいる
ポイントは仕えていた主君がただの部屋住みか良くて親藩大名かという状況からなんやかんやで将軍になった と言うところである こうなると未来の将軍に唾つけとけば我が家が大名にという考えも出てこよう 春秋戦国時代の始皇帝と呂不韋の奇貨おくべしである
勝海舟は一橋の当主になった徳川慶昌の遊び相手だったのは有名だが夭折してしまい勝の宝くじは外れてしまった
そして幕末紀州の慶福が将軍になった時紀州藩の藩士の面々は思っただろう 殿についていけば加納有馬田沼再びと 水野家、浅野家は旗本家系沢山あるな
ここら辺は男系が絶えることなさそう 伊達慶邦は叱られていじけている中年ニートみたいな感じだし、田安慶頼は殴られでもしたのか目が腫れているしまことに幕末は複雑怪奇におじゃる 姉が家綱を生んだおかげで弟二人は大名に(増山・那須氏・うち一人は旗本降格やが)なった訳やが父親は農民と言われる >>299
エネルギー商社でしょ
三菱グループの創業者・岩崎弥太郎との関係は? >>335
その田安慶頼には明治帝の実父というネタがある、孝明帝が怪しんだので問いただしたら当初は落馬による怪我と
更に問いただしたら睦仁親王が似ているという事で敢えて片目を潰したとの事 >>334
水野家なんて家康の母方というだけで大出世だもんなぁ…
羨ましい限りです。 いくらでもはない 譜代の多くは文武で功臣の家である 出自が謎な大大名
前田家(菅原氏?)
島津家(惟宗氏?)
伊達家(藤原氏?)
山内家(藤原氏?) 松平定知って久松家か?
だったら家康の直系ではないよな 本家は旗本らしいけどキックは殿とか呼ばれてたんだよな 水野忠邦は江戸の浪人や町民から藩邸に討ち入りされ
「ふる石や 瓦とびこむ 水の(水野)家」と川柳に詠まれた 江戸時代の呼び名では御目見以上なら殿様だったそうだ
鬼平犯科帳の長谷川平蔵も旗本で殿様と呼ばれている まあ小説の話だがその辺の考証は池波正太郎はさすがにされている 松平定知は家康の弟・久松定勝の子孫
松山藩久松松平家の分家旗本
松山藩主家のみ久松で分家は松平 いや、定知というより何故分家が松平のままなのか
本家と分家の区別のためだろうか
島津が長男は「忠」の字を次男以降には「久」の字を付けてるのと同じような感覚か 細川護煕の佐川急便事件1億円献金がどうので退陣したが
細川家出身にも関わらずなぜ1億円程度思ったが親父から勘当同然に放り出されて
資金援助も受けられなかったみたいだな 上杉も分家は畠山(藩主家族家)とか千坂(一門・旧子爵)だろう >>340
一方で一時的に他の主君を変えてた成瀬や正信系本多は家康からだいがわりしたら即冷遇、譜代はその辺分かりやすいね >>351
とりあえず新政府側から久松家に復姓しろな命があったようだけれど 島津の子孫繁栄ぶりって大名家では抜きん出てないか?
島津を名乗ってない庶流含めると >>358
800年も続きてたらそりゃ分家も多いだろ。 徳川家ってマジで三河以来に対して冷遇しっぱなしよね
榊原に渡辺成瀬安藤本多正純に重次石川酒井ってみんな冷遇されとる
井伊みたいな桶狭間後の家臣は厚遇されてるのに 例えば土佐藩山内家の尾張以来の重臣の五藤家なんて1100石、長浜からの重臣深尾家なんて一万石の筆頭重臣やど
それと加賀藩八家の内尾張からの重臣奥村家は二家あるけれど二万弱、後に加わった本多・横山・長家のが石高は上
だいたいそんなもんよ 十八松平に御家門御連枝の松平 有力外様の松平などで大名旗本の従五位下以上の松平は三桁に達しそうだが官職被ったりしなかったんだろうか >>361
そんな状況の中、柳沢吉保がわずか百石からモリモリ加増され15万石、牧野成貞は長岡の牧野を越える8万石
譜代諸家の羨ま悔しい感はいかばかりだっただろうか 軽輩の出身ながら系譜の粉飾には全く興味のなかった田沼意次 その代わりご先祖に拘ったが故なのか後の子孫が天狗党討伐を指揮しそのうちの約三分の一を処刑したという
それに連なって水戸連枝の宍戸藩主に切腹もさせた 黒田家ほど養子が入りまくった家もなかなかない気がする。
血が繋がってる女系ならまだしも全く無関係な家から養子を迎え続けている。
これは幕府の思惑も絡んでいるのだろうか。 そうそう都合よく且つ家格に見合う養子が見つかる訳がない、ただでさえ一般的に江戸期は出生率は高くはないのに そう言えば、スレの趣旨に反するかも知れんが、石川数正の家はその後残ったのかな? >>369
数正の子孫は改易、弟の家系が旗本として存続したらしい 大久保長安や坂崎直盛からみでは親類縁者を容赦なく連座改易にしているな。 >>372
家臣たちからすれば大事なのは藩という組織の継続性であって殿様の血筋など二の次である
藩主に子供が中々できなければとっとと養子を取って幕府に嗣子として届けたいというのが家臣の本音だろう
嗣子がいない状況で殿に頓死でもされたら浪々に、なんとか減封で家を残しても藩士も削減か減給
早め早めが重要だ >>367
一橋家ならともかく
雄藩島津家からの養子なんか幕府が許可したこと自体不思議だよ 実子がゴロゴロいるにも関わらず養子に継がせる謎な大名多し 身体が弱い、頭が弱い、と言った実子では廃嫡して養子取った方が安全
大名家でも身体の弱い子供が目立つ 幼年で継いだもののすぐ死んでしまい養子も取れずお家断絶 という例もある
徳川家でさえ家継、慶昌を始め夭折の例は多い 家重も大名家であれば継がせたかどうか お家騒動の本は多々出ているが廃絶の本は南條範夫の廃絶録くらいだろうか これもどちらかといえばお家騒動がらみが多い
普通に日常を暮らしていた藩士がいきなり殿様死亡、無嗣断絶という阿鼻叫喚は会社に行ったら倒産してましたのサラリーマンに通じるものがある
赤穂藩の例は有名だが、ただ単に殿様死亡御家断絶家臣一同浪々の悲劇を描く話はもっとあってもいいと思う
出雲の堀尾、伊予の蒲生、山形の鳥居など20万石を越える大身が後継者なしで改易 どんな人間模様が展開されていただろう 赤穂藩
池田輝興が乱心して殺傷
改易
浅野長矩が乱心して殺傷
改易
森可彝が乱心家臣に殺害 前田八家の土佐守家なんて嫡男居るのに本家から養子との事で母方を相続
結果その養子が死亡したんで出戻ったとの事だがその養子って僅か一歳で相続の五歳で死亡だからね シャボン玉 ドゥクドゥクドゥクドゥン
シャボン玉 ドゥクドゥクドゥクドゥン
ロマンティックな夢ね
まるい素敵な夢ね
リズムに乗せて
運んでくるのね
堀部ー安兵衛ー
シャボン玉ー
シャボン玉堀部ー 前田家といえば維新後に大名華族屈指の富豪として知られるが
実は最初から大富豪だった訳ではなく資産運用で富を増やしたらしい
家臣団に有能な財政家がいたんだろうな 賞典禄と金禄公債の利子と配当収入でそうなったみたいだよ、まぁ地道な資産運用という話
あとは岡田棣という家令が優秀だったみたい >>365
駿河伊達(陸奥)や横井も江戸時代前は2000石くらいしか無かった外様大名の陪臣なのに江戸末期はえらい出世したなと思う。 明治初期にまとまった金があったとして大名家はどうするのがよいか 商売など愚の骨頂、土地に全フリ一択である
明治初期金1gが70銭、卵1個10銭、ビール大瓶16銭、東京帝大の授業料12円
これが60年後の昭和6年金1g1円40銭、卵20銭、ビール35銭、授業料120円
授業料の上がりが10倍と大きいが給与も大体10倍くらいとなっており、他の物価もおおよそ2から10倍の変動というところだろう
だがこの期間に例外的に爆騰したものがある それが土地でこの期間に銀座の土地1坪5円が6000円、1200倍という上昇 そもそも明治初期の東京の地価は殆ど捨て値で、ビール1ダースと銀座の土地1坪が等価というのが信じ難い
維新後大名屋敷は没収となったが一部は帰ってきておりなんとかそれを手放さずにいた大名家は労せずして軒並み土地富豪となった
実際のところ最も儲けたのは維新後に二束三文で土地を買い漁った岩崎、三井で都内の土地所有面積は大名華族をはるかに越えていた 細川家は地味に熊本にも広大な土地と邸宅を所有している。
財産税とかも大変だったろうに上手く切り抜けたんだな。 熊本県人は細川家より加藤清正に対する思い入れの方が遥かに強い
細川家へのオラが殿様感は皆無と言っていいほど 加藤清正が大土木工事をしてくれて生活が安定したからな 山梨が信玄、上越の高田直江津が謙信一色みたいなものか >>388
今どきオラが殿様感のある地域ってあるか?
仙台くらいかね?伊達政宗マンセー!! 子孫がいるいないは別として郷土の有名人として過去の殿様や武将が親しまれている地域は多いと思うよ 佐竹や亀井とか末裔が知事や国会議員やってるところもあるし。 >>391
山梨は甲府が基本天領だった
上越は藩主家が次々に代わった
榊原家は館林にはじまり姫路とか村上とか行ってるし >>394
井伊は市長だね
自家所有の歴史資産を市に寄付しようとしたけど公職に就く者が寄付することは問題があるとかでどうたら 暗君ぞろいで領民から嫌われているのが織田(天童)
酷税(七公三民)で領民を苦しめたのにマンセーしてるのが浅野(赤穂)
名君が続いたのに「泥棒」呼ばわりされてるのが蜂須賀(徳島) >>395
似たような環境の地域だと安房の里見、小田原の北条あたりか ずーっと島津が領主で変わらない鹿児島はなかなかおらが殿様な雰囲気を感じる。
現在進行形で地元に根付いてるのも大きい。 >>397
その蜂須賀は維新時の筆頭家老稲田家家臣団の功労を「盗む」ようなカタチで明治政府側にて参戦
主君稲田家の諸侯昇進も閉ざされて士族扱いもされずそれが起因で徳島家臣らと騒動を起こす
何故淡路が徳島県ではないのか?という理由ともなる >>399
薩摩は島津の前が誰だかみんな知らないのが大きい
薩摩守忠度は別に薩摩に行って統治したわけではない
目(さかん)や目代(もくだい)が現地責任者としていた
土佐の山内の前が長曾我部、防長の毛利における大内のような存在がない 南部や相馬も長いがその前は藤原四代、さらにその前は安倍、さらに前は蝦夷とかハッキリはしているな 秋田氏は一応安倍氏の末裔?
途中で何処の馬の骨か知れない家臣筋から養子もらっちゃったけど >>397
大名として江戸時代続いた織田系は大体評判悪いな
か 南部 甲斐の地名 盛岡を居城とする大名
相良 駿河の地名 人吉を居城とする大名 源さんが島津荘に住んだから島津さん
南部も足利も新田も
藤原さんが京都一条に住んだのが一条さん、以下二条三条と続く
日本は地名を性とし欧米では姓名を地名とする 対馬の宗氏は歴史も長いし国書改竄などやってのけてるのに全然話題ならないな… 宗澄茂の頃に守護代から守護になった
それ以前は少弐氏が守護を務めていた 国防の重要性を意識した水野越前は、対馬を天領にすることを立案し、替え地として、河内のうちに十万石ないし二十万石での転封を打診した。
対馬は米が取れないし、対朝鮮交易もじり貧だったから、話に乗る価値はあったと思うが、父祖代々の土地と言うことで、藩内の合意に至らなかった >>407
国外貿易とか絡んでる当時の日本の端っこの松前、津軽、宗、津軽は関ヶ原前後の家康にとってはほぼ聖域扱い 明治以降の宗家は高宗の娘を押し付けられた気の毒な家という印象
まあ当人たちは仲良かったらしいが 戦国大名で一番古くからある家ってどこなんやろ
島津? 細川って足利の支流やから最近やろ
平安から続いてるとかおらんのかな 伊達もなかなか古い
始祖は平安時代だし室町には守護も務めた家柄 一番古いのは間違いなく諏訪家。
次に秋月家が藤原純友の乱まで遡れるそうだから、秋月、相馬あたりが平安期からの家。 諏訪の大名家の方は明治以降に他家から養子が入りまくりでもはや別物
諏訪大社の大祝家の諏方家も平成に入って男系が断絶、家名も絶えた
神長官を世襲していた守矢家も最後の男性当主の死により一子相伝であるミシャグジの秘法も途絶えた
日本屈指の名門家系や古の伝統が絶えるのは実に惜しい 阿蘇氏をお忘れか?
皇室より古いぞ、なのに戦国時代暴れてたぞ。 逆に親がその辺の庶民で一代で大名までのし上がったのは豊臣秀吉と秀吉にくっついていた豊織大名たちに多数だが他はどうだろう
斎藤道三くらいか >>426
滝川一益も身分低くなかったっけ?
庶民では無かったかもしれんが… >>425
今でも男系で続いているのは凄いよな
千家家も 松平系は腐っても三河の土豪上がりだからぽっと出だらけの中部発祥の戦国大名の中じゃ出自はまだマシな方 むしろポットでが天下人になれる素晴らしき時代
日本でアメリカンドリームに匹敵する時代は戦国だけだった 織田や前田も出自が謎
しかし守護大名が下剋上で淘汰されてゆく中
むしろ勢力拡大して最終的に生き残った伊達、細川、島津は本当に凄い。 守護大名で大名として生き残った家
細川家
京極家
伊達家
小笠原家
上杉家
佐竹家
毛利家
宗家
島津家
調べてみたら意外とあったけど、300諸侯と言われた大名のなかで9家は数少ない名門集団か 関東管領の上杉は元々足利の姻戚みたいなものだから吉良も親戚みたいなものなのでは 養子内定した途端に実子が生まれ(二人も)その系統が今日までという、幕末には他家へ養子に出すまでに至る訳で
なんというか血というのはかくも不思議なものなりと >>444
直接は関係ない
秀吉に秋月を没収されてのちに高鍋藩となる所領を与えられた
秋月の方は黒田の支藩として組み込まれた 今日ちょっとビックリしたんだけど、毛利が陶隆房の片棒担いでたのって史実だよね??
そんなことないみたいなこと言われてびっくりした 秋月藩のお姫様が秋月に嫁入りしたという一体どういう経緯でそうなったのか
一方でその父というのが黒田本家の重臣野村家の出というこれまた意外な経歴 秋月種実は薩摩の島津氏と手を結んで筑前のほか大友領だった筑後・豊前にも勢力拡大
秀吉は「臣従すれば筑前一国31万石を安堵する」としたが拒否
九州征伐で降伏、「お前は島津の近くに居れ」として日向高鍋3万石に減移封された
関ケ原では西軍に属したが島津同様、減封は免れた。
東軍だった宮崎(当時は飫肥)の伊東も安堵に留まったので文句が出た >>448
「お前は島津の近くに居れ」
これは監査役? 佐々を阿蘇惟光の去った肥後、木村を葛西・大崎に入れたようなものだろう 龍造寺高房も関ケ原で鍋島勝茂が西軍についたが佐賀30万9千石を安堵されている。
高房の死により鍋島が御家を簒奪する形になった その代わり龍造寺系4家の立場はほぼそのまま且つ鍋島支流の分も言わば自分持ちな状態となったが故に
内実は中規模大名の其れと変わりない様相とましたとさ 前田家の支藩は富山10万石とかバカでかいんだが
将軍の外孫だからと言ってそこまでしてやった理由は何ですか? 利長後期〜利常時代は徳川絡みの血縁者を厚遇してたからそれの一環かと
他は本多正信の次男とか徳川譜代の有力武将の破格の待遇で召し抱えてたりしてたし 御三家付家老で最高の石高は紀伊家の安藤で3.8万石
前田家の老の本多は5万石 秋月の領土30万石といっても瞬間的な領土で、それを真に受けられてもね >>454
子供の頃に上様あやしていたら泣きじゃくるので側にあったお面のせい?と思い隠したが
逆にお面の側に行って機嫌直したようでそれをみた上様がいっぱい面を差し上げたというくらいの初代なんでね 島津氏は秀吉の九州征伐直前には200万石超えてたの驚き。
本当に直前でやめておけば150万石くらいは安堵されてたかも知れない。
島津義久は欲をかきすぎた。 北条は突っ張った挙句関東250万石がわずか1万石に
さっさと折れておけば、だがそれがなかなかできないんだよね
伊達も徳川もギリギリだったし 下った所で安堵されるのは相模一国とか下手すりゃ伊豆一国だろ?
そりゃあ戦うわ そりゃ~伊勢新九郎より代々に渡って領地拡大、殺してきたんだから逆に奪われてもしょうがないでしょうに
まぁ既にその血統は絶えているのだけれど 俺はガンダムのパイロットなのだから今度からレイ姓を名乗ろうかみたいな感じだっけか 最近の研究によると早雲は全くの成り上がりと言うわけでなく
そこそこの家柄出身だったというのが通説らしいな 明日はいよいよ徳川家広公による「継宗の儀」が増上寺で始まる。 松平頼重は自分の子孫から将軍や徳川家当主が出るとは思わなかっただろうな 徳川宗家どうする家康の不発っぷりには落胆しただろうな
半分大河に乗っかって代替わりと考えたんだろうけど ↑
こういうクソみたいな現代ネタしか書けない粗末な脳って恥ずかしくないのかね >>469
頼重の子孫から将軍なんて出たっけ?と思ったら慶喜のことか
個人的にどうも一橋慶喜という名前の印象が強くて水戸家出身というのを忘れてしまう >>460
島津攻めの前に秀吉からは薩摩、大隅、日向半国に加え肥後半国、豊前半国を安堵すると言われたのに
言うこと聞かずに大友攻めを行なって結局薩摩、大隅に日向一部のみに削減された
秀吉からの提案を受け入れてたら100万石は超えてたのではないかね
もったいない 江戸時代の島津は表高の半分くらいだったろ
100万石は大袈裟 1578年時点でほぼ九州下半分、86年時で大友領地除いた大半が制圧地だっけか
あながち大げさでもあるまい >>478
九州島津氏に織田信長は同盟協力を仰いでるし
徳川家康も島津家だけには特別な計らいを続けてtasine >>475
仮に秀吉のは大人しく受け入れたとしても関ヶ原のあと家康から減封くらってそう 薩摩は琉球や海外との交易拠点でもあるから、無碍に扱えない事情もありそう
外様の有力勢力が政権に関与出来た豊臣時代でも政権運営に口出し出来ない客分扱い。密貿易も黙認してたし幕末の一橋派が島津に泣きついてしゃしゃり出れる口実が出来るまではずっとそんな感じだったと思う。 >>481
島津が頼朝の子孫なんて話は眉唾物
徳川の清和源氏詐称と同じレベル >>478
秀吉の命で石田三成が島津領の検地をやって
義久と義弘の領地を入れ替えたりしてますがね 文禄三年島津氏分国太閤検地尺 石田三成署判(重要文化財)が尚古集成館に所蔵されてる >>468
あんま大したことなかったな
継承しましたというお披露目会的な感じだった 松平郷松平家は徳川・松平氏の本家筋なのに
なぜ幕府から何の役職も与えられず冷遇されてたのか まだいいほう、十八松平の1つの長沢松平家なんぞ庶流はかの伊豆守信綱の系譜が有名だが
本家は本家として禄を貰ったのは幕末期になってからでしかも十人扶持
後に浪士組取締役となって主税助が三百石だったか 藩祖の兄弟以上の等身の親類が冷遇されるのはよくある話、ある意味外様より危険な存在だし
松平はまだ重用された方 徳川慶喜の側室・新村信は形原松平家の流れを汲んでるんだな
具体的な系譜は分からんからどういう系統なのかも不明だけど 形原は本家含めると八家あるようだからね、信の実家は250石取の下級旗本 宇和島の伊達は仙台の伊達の支藩の扱いではないんだよねえ
秀吉の時代に取り立てられた完全な別家ながら江戸時代に仙台から養子をもらってる
変な関係だな 初代が長男なのにとオヤジに愚痴り五代目が癇癪起こして時の老中が懐柔したくらいややこしい
3代目が本家出なんだが重臣石川家を継いでの事だったんでどうしても末家扱いしてしまったと 薩摩藩は大藩の割に土佐原藩しか支藩がなく
飛地という飛地も無くかなりまとまった領地だな
そのまとまりが二重鎖国のような状態を生んだんだろうけど
逆に久保田藩や佐賀藩は規模の割に3つも支藩を抱えてた >>491
旗本・松平勘十郎(諱は政隆、形原松平家の流れ)の娘として生まれたとされる。
その後、旗本・荒井省吾の養女となった後、さらに小姓頭取・新村猛雄の養女となった。
なんでこんな連続で養女になってるんだろうか?
身分を上げる為?
でも下級旗本とはいえ形原松平家出身でそこまで悪い出自とも思えないが 養女になるのは身分を上げるものと相場は決まっている。
代表的な例が篤姫。 >>495
ちなみに慶喜は信含めた妾を写真で選んだ模様 喜連川家に細川家から養子に入ってるのは清和源氏の縁からなのかね
でもその後に徳川斉昭の血統に変わってしまったけど >>501
細川家
子孫がまさか現代で天下取ると思わんやん? 300石?くらいの旗本の五男から20万石の大名になった有馬則維
初代は除いてこれ以上の成り上がり大名おるか? 細川護煕は最初から陶芸や絵画の世界に入ってたらよかったのに
政治家には向いてない、せいぜい熊本県知事まで
学者肌の鳩山由紀夫にも同じようなものを感じる 日本史大名家スレ
現代の個人を語るしつこいバカは消えてくれ >>508
幕末辺りは写真好きの大名多いな
幕末期の大名は大体写真が残ってたりするし
画家に肖像画描かせるより楽ってのもあるんだろうけど 幼少期と思われる慶喜の写真を見ればそのふてぶてしさが垣間見れると思う
余にも鬼金棒なのでオヤジが寝ている際に枕の左右に刃物を立たせて寝かせろと命令したけれど
殿様の息子にそう仕向けるのは長くは続くまいと悟りその間は黙って寝ていたという話
思惑通りあっさりとその刃物は取り除かれたとさ >>512
慶喜って隠居後は写真撮影を趣味にして、雑誌に投稿とかしてたらしいじゃん >>509
久留米の有馬氏自体すごいよね
赤松の分家の分家が最終的に20万石ぐらいやろ?
機を見るに敏すぎる そもそも戦国期に名を挙げ江戸まで続いた大名家なんてほとんど成り上がりだろ
徳川自体が三河の土豪上がりだし
鎌倉や室町から根を張ってるれっきとした大名の方が少ない 間部氏も成り上がったはいいが鯖江に降格、寒村地にいちから街作りをしなければならなかった模様
入府当時に家臣団は唯でさえ少ない農家の軒下を借りて生活していたそうな 徳川将軍家って継嗣絶えすぎじゃないかね
他の大名家はなんだかんだ実子で繋いでるところ多い
なんか大奥の陰謀めいたものを感じる 将軍の子どもがすぐ死ぬのは水銀入りのおしろいが原因 牧野、柳沢、間部、田沼といった所は代々の守旧派重臣が皆無だから藩内の家風が歴々の大名とは相当違っていただろう
一気に膨張したから家臣の禄も悪くはないだろうし藩主も成り上がりだから実力主義の今でいうベンチャー企業的な雰囲気だったのでは
彼らの話はどうしても中央での事ばかりだがこうした藩の国もとの話とか読んでみたい 明治天皇の子供がほとんど成人せず死んだのも白粉のせいらしいな。
特に薩摩の女性は胸の辺りまで白粉を塗るので
その乳を飲んだ乳児が死ぬということも起こってた。 藩史を見ると①前領主の残党を重要ポストに登用した所と②前領主の残党を徹底的に排除した所③重要ポストは親族で固めた所と様々だな
中部や関東は①、四国中国は②、九州東北は③が多いイメージ 生駒や宍粟が20万石クラスで領地経営失敗して国潰してるから それ見本に残党排除したんではないかと >>522
もそうだがそれだと大なり小なりどこも似たような話になる
後は場所というか大奥等々住まいとして衛生的にも難有りだったという話もある
現代と比べてとかそういう話でもないらしい >>501
伊達家
奥州の覇者に相応しい名門で伊達という名字もカッコいい >>529
本当はいたちさんでした
いたちまさむね 仙台伊達家は政宗1人だけであとはパッとしない
戊辰戦争で与する方を間違った結果、維新後は伯爵止まり
分家と看做して見下していた宇和島伊達家が侯爵になり逆転
伯爵夫人が山林を勝手に売っぱらって揉め事起こしたりと良いとこなし 独眼竜政宗が放送されるまで仙台市民も実はよく知らなかった説 >>524
ほとんど幕府の仕事に追われて国許にもほとんど帰ってなさそうだし
政務は家老に丸投げであまり国許での話という話はなさそう 伊達政宗には白人の側室が居たそうだが、その子供っていたのかな? >>535
田沼は領民からの評判は悪くなかったみたいだけどね 尾張徳川家は御三家筆頭にして大名家最高の家柄にも関わらず影が薄いのはどういう訳か?
暴れん坊将軍で悪役にされてる尾張宗春くらいしか有名なのがいない
あと強いて言えば幕末の慶勝か >>521
徳川家斉なんて男子だけでも30人近くいたけど
結局子孫を残せたのは津山へ養子に入った松平確堂のみ
子どもを作るだけ作って養子、嫁入り先で幕閣を悩ませ続け華美な生活で財政まで逼迫させる
数年前に家斉を讃えるスレが立ってたがこんな暗君を美化するやつの気がしれない >>541
青松葉事件が起こるまでお家騒動はおろか、一揆すら無かった平和なとこだから 尾張には御土居下御側組同心といういざという時藩主を逃がすためだけに存在した組があった
結局最後まで活躍の場はなかったようだがね >>543
弟の斉匡(松平春嶽の実父)も子沢山だった 島津家の現当主は斉彬を始め久光、忠義の顕彰に熱心だが、
個人的に戦国の島津四兄弟、特に義久と義弘の顕彰をもっとやっても良いではないだろうか。
どうしても幕末から維新中心になるのは仕方ないことではあるが… 島津は全然大河やらんな
やっぱり朝鮮出兵とかの関係でやりづらいのかね 戦国島津を大河にするとして原作は何がいいだろうか
池宮彰一郎の島津奔るは色々問題あるだろう
天野純希の島津義弘伝とかくらいか 真田なら池波とか家康なら山岡とか秀吉なら吉川というような決定版が島津にはないように思う >>548
題材としては戦国島津や幕末島津とかなり恵まれてるのにな
もったいない 島津に関しては根城坂の戦いの負けを待ち伏せされたのとか
西郷さんに関して史実を曲げてのマンデラ効果狙いのサイトが
有ったりして 明治以降真実かかれると嫌な人が 決定版を阻止してるような気がする 退き口なんざ最高の場面に思うけどね、あと家臣らのちょっと戦場行ってくるわ感覚 近思録崩れ〜お由羅騒動の期間だけでも大河を作れちゃう内容の濃さ バカ連呼厨が湧いてんな
大体こういうやつは偉そうに言って自分からは何も話題を出さない 言われて悔しかったらなんか話題出してみ?
出せないのならお前の書き込みは荒らしと変わらん スレ違いな話題を出してどんなもんだいと胸を張るバカになにか言われて悔しいわけがないだろ
どこまで頭が悪いんだよ みんながキャッキャと楽しそうにしてると水かけたくなるんだよ
わかってやれ >>561
ごめん
知識もないお前に話題を出せと言ったこちらが悪かった
そんなに発狂するとは思わなかった
ところで大名の反対はなんていうか知ってるか? 外様大名で家康の偏諱を受けたのは島津家久だけ?
忠恒の方ね。 >>563
勝ったつもりのおめでたいドラマバカは幸せそうでうらやましいよ >>565
残念ながら俺はドラマの話は一度もしてないんだな
匿名スレでそんなこと一々言っても仕方ないから言わなかったが
お前の書き込みが単に目障りかつ不愉快だったから指摘したまで
で、大名の反対はなんて言うか?
大名家スレに来てる位だから当然知ってるはずだが >>564
一応、最上家親・家信親子が外様ながら偏諱を受けてる(のちに改易されちゃうけど) >>545
御畳奉行だって公費出張で飲み歩いたり、魚釣りばっかりだからね >>532
伊達政宗は全盛期でも150万石前後だったというのが意外。
150万石でも凄いと言ったら凄いんだろうけど200万は越えてるのかと勝手に思ってた。 >>569
その組の連中は城下のある一角に固まって十数家?住んでいて他の家臣らとは一切の交流も無し
逆に職種のせいか他の家臣団はその存在を一切知らされていなかったくらい、噂では重臣らも知らなかったとか(おいおい)
付き合い・冠婚葬祭関連もその組内だけで連綿を行われていた様子
後に数家職を離れて幾分か規模は小さくなったようだが 尾張藩は在地勢力をそのまま家臣に取り込んだからか在地の陪臣がそのまま支配してるアンタッチャブルな領土が多かったな
千村山村が旗本と藩士の二重陪臣になってたり 個人的に伊達なんかより相馬の方が好き
相馬はよく生き抜いたよ >>571
とりあえずwiki読んだ
面白いねえ
明治になって忍び駕籠を殿様に返上したら「これなに?余は知らん」ってなったんだなw
城が落ちたら木曾に逃がす手はずだったと 藩主が紀州系に変わった時に代々受け継いでた伝承が途絶えたのかね >>573
天文の乱以降、伊達家に振り回された印象が強いな。
まあ、血筋上仕方ないこととはいえな。嫁もらっているからな。
最後は滅ぼされるか降伏してまた伊達関係者になるかの選択肢だったのだが・・・ >>573
明治に入って騒動起こしたけれどね、相馬のお由羅騒動みたいなやつ
今の血統は最後の藩主の弟の系統で兄貴の系統は天童織田家に至ると 相馬は強兵なんだけど、富国策がいまひとつ弱かった印象がある
田舎大名の限界かもしれないが、経済に関しては伊達には及ばない そもそも領土の規模が違う伊達と経済力を比べるのはどうかな。
相馬は金山を所有していたらしいね。石田三成に金山の課金について相談した事を示す書状が残っている。
馬の産地だったし、飢饉も天保の大飢饉以外は餓死者は出なかったというからさほど貧困ではなかったのかな。 江戸時代中期くらいになると経済に疎い大名と、経済に詳しい大名で大藩でも財政に格差があったな。
黒田とか立地に恵まれてたけど藩主重臣が経済に疎いのばかりで人材育成に力を入れずに幕末まで赤字垂れ流しだった。宇和島とか庄内は立地悪いのによく立て直したなと思う。 佐賀も実は幕末までカツカツで閑叟前後にようやっと逆に大阪等の商人に金を貸し出すくらいにまでなっていた >>573
相馬って鎌倉あたりからずっとあそこにいるんだよな?
そんな例島津ぐらいじゃないの?
大抵は滅んだり生き残っててても転封されてるし 日向の伊東もそうではなかったか?
あとは対馬の宗か 鎌倉時代から本領が変わらなかったのは相馬、島津、宗、伊東、南部の五家だけ。
相馬は特に判図がほぼ600年の間変わらなかったからか
領民との繋がりが密接で、本多忠朝(本多忠勝次男)に
「相馬に(石高や兵力で)適わぬところはないが、民との絆は羨ましく思う、これは先祖伝来のものだ」
と利胤が褒められた逸話があるね。 そりゃ馬追なんか江戸期でも領内一大イベントって事で上も下も挙って協力して行われていたようだからね
神事って事で喪中なり産後の家は出席不可、それが藩主ともなれば代役を
基本は選ばれた旗本という家中の侍らが行い野良馬の管理等はこれも選ばれた民・百姓が行うという具合
野馬の管理やから当然けが人も出るのだが神社御神水かけて「さぁまたやるべ」というくらい 流れをぶった切って悪いが
越後高田騒動の小栗美作って筆頭家老1万7000石
母親は本多氏で正室は松平忠直(結城秀康の子)
そして嫡子の大六は将軍お目見え元服までしている
これは御家乗っ取りを企てていると言われても仕方ないな
陪臣の家老でここまでの厚遇は他に例がないんじゃないか 側近クラスの家老の家が万石持ってるのは大藩なら割とあるな
大概藩祖の庶子か、外戚の家であるけど >>587
>鎌倉時代から本領が変わらなかったのは相馬、島津、伊東、南部の四家だけ
南部は系図が錯綜していて本当はどうだかわからない
その前に果たして本当に鎌倉時代に入部してるのかという話もある
それと伊東・島津両氏はそれぞれ室町・戦国期に別家に入れ替わっている
よって続いていると言えるのは相馬と相良と宗と松浦の四氏くらいか >>590
万石クラスは元は独立領主も多いんじゃないの?
仙台藩などは一国一城令の手前砦という事にしてるが事実上の城主が各地にいて藩内藩みたいになってる 古いとこだと在地の元独立領主も多いかもな、龍造寺とか稲田みたいに
大概の独立領主は幕府直轄地の旗本扱いじゃないかと。数千石クラスだと独立領主がそのまま主君替えもあるけど。 >>591
そんなこと言ったら相馬は江戸時代に佐竹から養子に入って血統が入れ替わってるし
相良だって池田から養子を迎えて現代に至ってる 鳥取も岡山池田家も断絶予定だけど、
血筋としては相良家に残っていくのね >>589
高田26万石の家老に1万7000石は大録過ぎ 関ヶ原がなかったら直江兼続、吉川広家、島左近といった面々の石高はどうなったんだろうか
東軍側ではそういう大封貰っているのはいなかったかな
鍋島は独立してしまったし片倉小十郎はそんなには貰ってなかったようだが 東軍は元々家康の陪臣か小領主が多かったから主要メンバー以外はそこまで大したことなかった。増加率トップの長益でも4万石くらい。 >>589
同じ時期の家老糸魚川城代荻田氏は1万4千石ですが 鎌倉市の源頼朝の墓(法華堂跡)がある山林は2000年代まで島津家と毛利家が所有していた
島津家が8000平方メートル、毛利家が2000平方メートルでそれぞれ鎌倉市に寄付
個人で頼朝の墓を管理してたというのは驚き >>595
その後、佐竹も相馬家から養子に貰ってるのが面白い。
まあ明治以降に尾張徳川家から養子を迎えて佐竹の男系は絶えてるけど。 もっと昔に上杉から養子が入ってるから義光流の血はとっくに絶えてるでしょ >>605
無能な毛利輝元ですら誉めなければいけない著しく偏ったスレなので行きたくありません >>600
ともかく左近の孫が広島で酒造って今日に至っている >>604
戦前の佐竹家は財政悪化してるのに当主が全く改善しようとしないので
(整理案を拒否された)尾張家の徳川義親に
侯爵も夫人もこれほど馬鹿とは思わなかった。
家の没落もまたやむを得ないことだろう。
華族はみなこうして没落してゆく。
と日記に書かれてしまっている 大名の家より重臣の家の方が金持ってるのは維新後の武家あるある 江戸時代一番領地が大きかった大名家ってどこになるんだろう? 大名格にしてもらって居るが故に?色々横槍入って支配地減らされ転封みたいなカタチになったと思えば国防のため再封と
結構な苦労人松前家とその家臣団 松前の領地って北海道の南の一部だけかと思ってたわ
最終的には蝦夷地が藩領になってたのか >>蝦夷地が藩領
西蝦夷地には伊達・佐竹・南部・上杉らの飛び地が与えられている
天領の東蝦夷地には幕府の陣屋が置かれ、代官が派遣 >>613
須田氏(上杉重臣)の旧領を経て天領だった梁川に
松前章広は1万石で移された
15年後に蝦夷に戻された >>617
幕末期の海防の影響ですね、そのお陰で各地で権利を持っていた上級家臣らは既得権益を失う羽目と
ちなみに中期までは所謂鷹狩り鑑賞用としての鷹が貴重な財源だったとのこと 松前藩は当初100年くらいは大名ではなく、蝦夷嶋主として賓客扱い。
1807年の梁川9000石への移封後は交代寄合。
その後老中水野忠成への賄賂攻勢により1821年に蝦夷復帰(1万石格)。
ペリー来航を受けて1855年に松前周辺以外を上知され、代地として梁川、東根を与えられ3万石格。 >>618
会津松平家スレあるぞ?
過疎ってるから行ってやれ 維新後の北海道は大名華族の開拓地だな。
尾張、鍋島、伊達、池田、島津といった大大名が広大な土地を開いて農場経営に乗り出してる。 蝦夷地での悲劇、津軽藩士殉難事件
幕府は北方警備のため津軽藩士や農民ら約300人を宗谷に派遣し、
そのうち斜里へ移動した100人中72人が極寒と栄養不足による浮腫病により死亡し、宗谷でも30人以上が犠牲になった
事件の大きさの割にあまり知られてない >>610
大垣藩は藩主の一門(重臣)が明治に銀行作って大儲け、今の秋田知事も佐竹嫡流じゃなく庶流だったりするしな。 >>623
伊達市とか池田町にその名が残るわけだな >>623
今でも関係があるのは八雲町で植林事業やってる尾張徳川家くらいか 農場というのはいかにも大名らしい
維新で出てきた下々はもっと銭ゲバで鉱山買収、鉄道や港湾開発の予定を先取りしての土地買収で財を成したものが多い
榎本武揚の小樽20万坪購入とその後の土地騰貴による大儲けは当時から有名な話で、維新でスッテンテンだった榎本が死んだ時は相当の財産を残したという なんか函館で生き残ってその後一応活躍した連中はどうしても好きにはなれんな
伊庭八郎にモルヒネ渡して自決させた榎本なんか然り、一体どの面さげて生きてきたのだろうか 茨城には水戸家が管理する徳川の森があって林業経営してる。
戦後に農地改革で広大な農地や山林を手放さざるを得ない大名家が多かったのに水戸家は踏ん張った。 >>628
榎本も当別に農場作ってるよ。あと、東京農大の前身設立に関わり、果てはメキシコ移民を進めて失敗してる。 >>624
それを言えば徳島藩筆頭家老稲田家の家臣団も北海道へ渡る船が和歌山沖で沈んで83人が亡くなった話とかね >>633
えええ、庚午事変の犠牲者より多いのか……
踏んだり蹴ったりだな 幕末の徳川斉昭・慶喜・伊達宗城・宗徳・溝口直溥・直正の子供は色んな家に養子行ってるな。
コイツら種馬か? 結局伊達宗城の子孫は宇和島伊達家を継がなかったんだな
やはり一度他家へ養子に行った家系だからか 確か養子確定の時点で前藩主の息子との養子も組んでいたはず(順養子)
で実子は本家仙台の養子になってはいたが例の奥羽列藩同盟での会津の処分と同じで継ぐことは叶わずだったと
大概そういう場合は他家へというパターンがある中で本家次代が幼少なので補佐はしてねみたいなカタチ 飫肥伊東家は子爵なのに
庶流の伊東祐亨は勲功とはいえ伯爵
旧藩士の小村寿太郎なんて侯爵だし
維新後の主家と臣下の逆転現象が結構面白い 日向飫肥の伊東家は工藤祐経の子孫
一方備中岡田の伊東家は伊東祐親の子孫
同族であるが怨恨だらけの関係で江戸期とか揉めなかったんだろうかと思う
遥か源平鎌倉の話とは言え、祐親祐経が揉めに揉め、どっちが正義役かと言えば、片や頼朝公の子供を川に沈める吾妻鏡の悪役、片や曽我兄弟の仇討ちの敵役
外様の飫肥伊藤と大阪の陣まで豊臣家臣の岡田伊東 こんな立場の両家が共に維新まで領地も石高も変わらず続いたのは、このようなあまりに有名なご先祖のおかげなのだろうか >>641
そりゃあ仮に謀叛起こしてもすぐ潰せるからな 伊東は一時島津を凌ぐほどの勢力だったのに
あっけなく自滅してしまったな 墓と言えば人吉の願成寺の相良家の墓よりも墓石数が多い大名の墓場ってあるかな?
ずっとその土地を治めていた証だ >>644
最近若者のテロが横行してるな。
全くアホが増えて困ったもんだ。 >>644
歴代藩主の墓所はもう細川家所有ではないのか
伊達家や水戸徳川家は自分で管理してんのに 譜代大名とは言っても水野・戸田・牧野・桜井松平あたりは下手な外様より因縁がありそう
家康の代になってもも敵対している家もあるのに、酒井以外の安祥譜代より扱いがいい気がする
家伝では徳川家と戦った事実をどう伝えていたのか「神君と戦いました」って書いてあるんだろうか >>647
水戸の財団には旧佐土原家と徳川宗家と猪瀬直樹も関わっているのよね(同姓同名かもだが) 安城譜代でも成瀬は御三家の陪臣扱い、石川は数正のペナルティでずっと冷や飯。大半が家康色消そうとした秀忠の人事改革に巻き込まれてたイメージだな。 >>647
島津家も歴代藩主の墓は個人所有
鬱蒼とした森に囲まれてかなり威圧感がある
細川家も個人所有だが管理は市に委託してるしてる可能性もある >>650
成瀬は御三家の直臣扱い な
将軍の陪臣 な >>651
島津家菩提寺の福昌寺は廃仏毀釈で廃寺にされたけど、流石に藩主の墓には手を付けなかったのね。 尾張の平岩家が存続可だったのであればそっくり12万石のままだったのかな? >>654
家康の実子を養子にもらってたんだから加増だろう
尾張義直の同母兄だ 加賀前田家や芸州浅野家は外様なのに将軍家と幾重にも縁組を結んでいる。
外様でもこれ程の大藩となると幕府も露骨に敵対するより、
婚姻によって取り込んだ方が得策と考えたのか。 >>657
松平姓あげると言われたのに拒否した細川の反骨精神は素晴らしい 犬猿だった黒田のが先に貰ったからでは?年貢の恨みは恐ろしい >>656
前田なんて直前まで佐幕だったもんな(ほとんど徳川一門化してた)
伊達に至っては奥羽越列藩同盟で最後まで新政府に抵抗してたし
伊達政宗が見たら卒倒しそう 伊達前田は東軍だったが上杉なんて西軍で減封喰らって江戸期通じて貧乏暮らしなのに佐幕だからな
藩祖謙信の義理堅さが家風なのか >>660
大人しく新政府に従っていれば伯爵ではなく侯爵になってたのに… >>662
幕末藩主の正室さまさまですよ(土佐藩主の娘) >>664
そういう賢い立ち回りをしないのが伊達の家風
それができていれば小田原には速攻駆けつけたし、東西決戦で余計なことして百万石をパーにするとかしていない 藩祖政宗も草葉の陰でやっぱり俺の末裔よと感激していたであろう 長宗我部元親の正室は斎藤利三の妹で盛親と春日局は従兄弟なんだね
稲葉氏や堀田氏とも縁戚になるわけで、大坂の陣に参加せず
家光期まで生き残ってれば大名復帰できた可能性もあるかな? 立花ですら復帰できたのだから可能性はあったに思う、宗茂同様合戦話好きな家光のお気に入りになったかも >>668
直政に嫌われてたからどちらにしろつぶされてたかも 地味だけど立花家も地元でかつての邸宅で料亭旅館?を開いて上手く立ち回ってる印象。
大大名とは違い10万石程度の中藩でありながら没落を免れた珍しい家だと思う。 >>668
あなたが挙げた人達と交流が有ったか疑問だな。 >>671
神君家康が宗茂の器量を買っての旧領回復
こういう経緯に名将宗茂の名声もあり潰すというのは中々ないだろう 上杉も潰せたが謙信の名で残ったし
幕府も武家であるから名将とか名門には多少甘いのでは 春日局の縁故主義も凄いが桂昌院実家の本庄氏も凄いな
要地の浜松藩や宮津藩に封じられ、松平姓を許され、老中を二人も出してる 持つべきは美人の親類よ それが安産型ならいう事なし >>671
じゃあ家督継承が曰く付きで、関ヶ原後の立ち回りもよくない盛親はやっぱ無理か >>674
飽くまで母親再婚後に生まれた弟の家系がという話で血の繋がらない兄貴のほうはというとそれほどでもない
大名にしただけましってな感じ >>656
前田は利常くらいまではバチバチだったイメージ
出奔した徳川旧臣を厚遇したり秀忠の死の前後に城改修したりで幕府を挑発しまくってた 江戸時代大名同士ってどう呼び合ってたんだろ
名字?官位? 親藩は地名+官名(公式文書もこの形式)、他は苗字+官名だと思う。 そこで横山親子ですよ、まつの人質時にも利常ご乱交?時にも弁明に奔走して窮地を救った
後に加賀八家の1つになる訳ですよと >>680
呼びかけなら陸奥守殿とかあるいは単に越中殿みたいな感じじゃないか?
下の名前(諱)で呼ぶことはないのは確実 大名同士の場合は『殿』を使う
相手が三家、三卿の場合でも『殿』を使用
様を使うのは将軍、将軍世嗣、御台所、将軍世嗣の御簾中に限られる 今川義元は戦場で輿に乗ってた逸話が有名だけど、
輿に乗れるのは守護に許された特権だったらしい。
江戸時代では輿に乗れるのは大藩などの大名家22家に限られた。 大名に改易されたら老中の子孫です
おかげで地方の有力百姓になってしまいました >>689
江戸時代だ、三位以上は将軍家と御三家御三卿しかいない 1人だけの例外を持ち出す話のできないつまらない人間 前田家は利常、綱紀、斉泰
島津家は家久、重豪、斉興が三位になってるんだが
逆にその1人の例外って誰だ? 島津重豪って本当にメチャクチャだな
蘭学に耽り薩摩藩の借財を雪だるま式に増やした
重豪に振り回された調所が気の毒でならない 子だくさん将軍の出来損ないの子を押し付けられた大名家が
控えの間を変えられて 従三位貰いまくってるはず >>694
てめえの野望の為に幕末暗躍してた久光とかもいたしそう言う家系としか思えない 大名をどう呼んでいたかというのは公文書や手紙から推測するんだろうか
それとも明治期ごろの研究者がオーラルヒストリーとして聞き取りした記録があるとか
三田村鳶魚とか書いてたりするんだろうか そのあたりの話は、ちくま新書「氏名の誕生」を読んでみるといい。 島津は途中まで◯久の通字が使われてたのに
光久の嫡男綱久が早世したら崩れてしまった
幕末で最後の藩主茂久でようやく通字が復活 >>695
嫡子が居るのに押し付けられた大名家がかなりあったみたいだけど
やっぱり将軍家には逆らえないのか 小大名の外様だったり、大名狙ってる旗本なんかは養子受け入れで幕政の重要ポスト貰えるチャンスなんだから喜んで受け入れてたと思う。 >>700
受け入れるところもあれば断るところもあり家によって様々
伊達家は家斉の子、島津家は家慶の子、毛利家は田安家から養子押し込まれそうになったが断ってる
まあここら辺は大藩だから断れたというのもあるかもしれないが >>701
ポスト貰って喜ぶのは当代とその取り巻きくらいで他の家臣らは寧ろありがた迷惑
実際は持参金と家格上昇くらいなもんで実高と合わない行動は出費が絡む要因ともなった(明石藩)
逆に金ねぇからくれと嘆願したのもあったり(福井藩)
川越の場合は先代の都合(領地鞍替)で貰ったはいいが家斉と養子が相次いで亡くなったが故に破断等々
ろくなことはない 日本史板でまさかと思うが位階と官職を混同して話してる御仁がいないか? 実高30万石なのに表高を10万石と過小報告したら幕府からお咎め受けるんだろうか 過小報告も何も幕府の検地なんて初期にしか行われてないだろ 家斉の子もほとんどが家門か大身外様で譜代はいないな
いくら徳川四天王の末裔や大老を出すような家でも家臣筋の家では将軍家の子を貰えないのかな?
一般の大名だと藩主の子が重臣の家を継ぐことがあるけど >>707
藩主一門て、養子行けなかった藩主の子供の為のポストって感じがする。 >>709
清水家は明治期に当主が詐欺まがいなことして捕まって伯爵を剥奪されたり悪い意味で騒がれてた
それ以上に徳川慶喜家のカオスっぷりもいろいろ凄いが >>711
その後、清水徳川家は日本人初飛行(とされた)の功績で子爵に叙されてるね。 >>699
それも途中までは久ではなく忠が使われてたけど、いつ頃からか久に変わってる
通字は時代によって変遷するものらしい >>712
>>1の趣旨説明くらい読んでるよな
総合スレだからなここは >>712
>>1の趣旨説明くらい読んでるよな
総合スレだからなここは >>707
家斉は養子を送り込んで大名家乗っ取り統制しようとしてたのかね?
それとも単純に子どもが多過ぎて扱いに困った挙句押し付けてたのか。
真意が気になる… 世が世なれば、戦争ともなるとこれが身につまされる
加賀前田家当主前田利為侯爵は、東條英機と陸士同期で陸軍中将まで累進し、開戦後ボルネオで遭難死、陸軍大将となった
当時の大名家としては軍人最高位となったわけで流石石高筆頭の前田である
一方、松前3万石家当主松前正弘子爵は、補充兵として招集、陸軍2等兵としてニューギニアで戦死 かつては同じ大名家があまりの格差
と言っても招集された兵隊に華族の爵位は無関係
この辺日本軍は平等精神があったようで、世が世なれば将軍であっただろう徳川慶喜の孫、徳川慶光公爵も松前子爵同様召集され、公爵で陸軍二等兵という珍妙な存在として中国戦線に出征した
松前子爵と違い慶光公爵の場合、母は有栖川親王の女王、姉は高松宮妃という頂点の血筋だが日本陸軍の徴兵当局はそういう事は気にしないのである
気にするのはこんな貴人を配属された現地軍の上官達で色々大変だったらしい 前田利為は加賀百万石前田家の当主といっても
生まれは七日市藩前田家一万石の五男で本家に婿養子に入ったという経緯からコンプレックスのようなものがあったらしい 岩松家 120石
松平郷松平家 440石
里見家 改易
山名家は優遇された方?明治に立藩
江戸時代は岩松家より高家だった由良家の方が待遇がいい?
でも結局大名は出ず、同族に冷たいな~
同系で自家より家柄がいい家は邪魔かとも思ったけど、先祖が同じというだけで大封を貰えるほど甘くないか 古今東西時代を問わず、君主にとって最大の敵は同族である!
究極的に親兄弟息子が敵 前田利為は外交官になりたかったという
利為が在学中の学習院の院長が近衛篤麿で生徒達に外交官になれという教育をしていてそれに感化されたらしい 実際この当時の学習院出身者は外交官が多い 吉田茂もこの頃学習院に通っている
ところが養母から前田家当主は軍人になるのが義務と言われ、仕方がないので海軍を目指そうとしたら親戚一同が当主が軍艦に乗って不在が多いのは良くないと言われ仕方なく陸軍士官学校へ進んだ
名門に生まれるのも生きづらいものである >>722
そう考えると島津四兄弟の関係って異質だよな
しかも戦国乱世のあの時代に
それだけ島津義久の統率力が優れていたということなのか(一般的には影薄いけど) >>721
その代わり家康の縁戚ってだけで譜代大名にはウケが良かったみたいだから譜代大名の重臣の家に松平庶家が多いのも事実。
浅野も藩祖の庶流は帰農してるからまだマシかと。 >>727
秀吉にくっ付いて出世した大名家だと
尾張で百姓やってますっていう親戚もいたんだろうな >>727
永見とかも多い印象
>728
名古屋の中村公園あたりだと一柳とか小出とか加藤、丹羽、浅野とか多いね 六角氏と京極氏が武家として江戸時代以降も家名を残したのに
浅井氏織田・豊臣・徳川三代の天下人と縁続きにも関わらず
はっきりとした系統として家が残らなかったのは寂しいな 戦国武将って結構長身多くないか?
斎藤義龍、豊臣秀頼197
加藤清正、藤堂高虎190
前田利家182
浅井長政180
織田信長170
あくまでも推計だけど 三姉妹、特に茶々は浅井長政・お市の方様の夫婦揃っての貴重な肖像画を今に残しているのでそれだけで十分だけど 小早川秀秋の評価がボロクソなのは何故だ?
関ヶ原で裏切ったからか?
しかしそれなら裏切っただけで極悪人の如く誹謗されるのか理解出来ない
あの当時裏切りなど当たり前にあったことだろう
秀秋だけ槍玉に挙げられるのは不公平 徳川四天王の中で井伊直政は割と新参なのに、井伊家は譜代でも別格の扱い。
最古参の酒井より待遇が上なのは解せない。 >>735
豊臣政権時代から評判がよろしくなかったからな
早死にして家を残せなかったのも大きい
逆に前領主の宇喜多秀家は判官びいきからか実際以上に美化されているような気がする 初めから実質徳川と同盟みたいな関係だし桶狭間前後〜江戸幕府立ち上げの一番キツい時期に側近として戦の指揮と交渉役やってたからなあ >>737
現代でもそうかと思うが案外新参者で且つ有能であれば古株より待遇いいのはあたりまえ
加賀八家も奥村・前田身内のぞけばほぼ新参者系やし小倉の伊織の家は譜代・一門超えての筆頭家老
但しそこに軋轢が生まれるか否かは個々なんだけれど >>735
極悪人がそのままで死ねばそれまでだけれどその後表向き?改心でもして牧師様とか(笑)
そういう補正が出来なかったから
長生きしてきちんと領主として仕事をしていればそこまでの評価にはならなかったかもしれん >>735
秀吉なんて信長死後にこれ幸いと主家裏切ってるしな >>737
井伊直政は関ヶ原で島津義弘の軍に負傷させられてるのに
島津から家康との仲介頼まれたら引き受けてたり度量が大きいなと思う >>740
小倉小笠原家の宮本伊織家の筆頭家老の地位も、島原の陣での武功によるとされるけど、まあ幕末までお飾りの家老だよね
実質的には二木、小宮、原などの信濃以来の譜代中心だったけど、例外的に外様の家老島村志津馬が出た >>737
石高は30万石だし
極位極官は正四位上行左近衛権中将だし
老中すっ飛ばしていきなり大老になるし本当に特別扱いだよな 直政十五歳、美麗の美少年たり。神君に仕へて幸し
w 井伊家は直中の代まで大勢の男子に恵まれてたのに直弼以降先細りして
最終的には養子になってしまったな 主君が死んで殉死選んだのは大概アッチ系の関係あったパターンだと思ってる。 細川家の墓が異物をかけられ荒らされた。
細川に汚水を流された板倉家遺臣の討ち入りか >>752
高坂蔵人の乱の津軽の殿様、この処分で関係者・親族等々含め家臣団が半数に減ったというくらいの規模
井伊は元来が男好きでもなく年増の経産婦好きな家康が!と思ったくらいだそうだから相当 男色なんて江戸時代通して普通にあったことで珍しくない
明治以降でも徳川家達が若い男の給仕相手にヤッてたし
(その給仕からゆすられて金払わせられてるけど) 井伊家は創業期で功績が抜群だからいいとして家光期の稲葉・堀田、綱吉期の柳沢はあげ過ぎじゃない? 柳沢吉保って権勢を誇った割には特に何かやったという業績は聞かないな
強いて言えば六義園作った人くらいしか思い浮かばない
あと水戸黄門で悪役にされてる 間部家や田沼家を見てると、柳沢家はよく郡山への転封でソフトライティングできたよね 吉保の「吉」って綱吉の偏諱だよな
本当に異常な厚遇だわ >>759
おいおい、綱吉かぁちゃんを従一位に押し上げた最大の功労者ぞ 大老は臨時に置かれる役職だけど
置くときや人選は誰が決めてたの?
老中の合議?それとも将軍? >>758
堀田なんて本来何処の馬の骨レベルなのに出世したもんだ 徳川の連枝に仕えていれば、万が一で殿が将軍になれば自分も大名も夢ではない
牧野、柳沢、間部、加納、有馬、田沼などの出世事例を見れば、尾張の家臣たちも殿が下馬評に上がるたびにそわそわしてたのではなかろうか 上州館林5万4千石の松平清武には8代将軍の可能性があった 候補というだけで当人もやる気無しで実現しなかったがもし清武が将軍ともなれば、播州赤穂浅野といい勝負の小藩の家臣一同は一躍直参旗本に お気に入りの家臣ともなれば100石どりが千石、万石も夢ではない
となれば殿様の尻を叩こうという家臣たちが出たりしそうなものだがどうだっただろうか 子無しではまたすぐに揉めることになる
綱吉や綱豊とは違って松平になっている 紀州の情報収集力はすごかった模様、二家の付家老筆頭に御庭番含めて7代目の死に備えていたいたらしい
でいざとなったら付家老らがさっそうと江戸城に登城したらしい
一方尾張の方と言えばこちらの付家老は何故か尾張へ帰ろうとしたらしいというか実際帰ったのだが途中で訃報を知って引き換えしたとか
この差ですよと 御三家筆頭の上に女系で家光の血が入ってるんだから
なにもしなくても将軍の座が転がり込んでくると思っても無理はない >>765
尾張からのウルトラCが起こってたら譜代大名として木曽家、執権北条家復活なんかもあったかもしれんね。 >>770
尾張家が将軍職を継いでたら徳川義直の血統残せたかもしれないな。 >>763
大老職につけるのは、譜代の井伊家、酒井家、土井家、そして外様だが春日局に連なる堀田家の四家のみ
ただ歴代の大老が井伊直弼のように大権を振り回してたわけでなく名誉職的に大老に据えられた者も多かった
因みに井伊家だけは老中を経ずに直接大老になれる唯一の家柄で四家のなかでも別格とされた >>768
「らしい」や「とか」の連発でよく語れるもんだ >>779
>>780
こんな馬鹿な煽りしか出来ないなんて哀れな人生だなおまえ
こんなことしても何も変わらんぞ 全然話は変わるが
宇都宮氏
下野-伊予-豊前-筑後
武田氏
甲斐-若狭-安芸-上総
等全国的に展開する一族で結構前に分かれた家系でも、
戦国時代後半まで養子のやり取りや滅亡後の滞留先として交流があったんだね 土佐一条氏はどういう過程を経て武力を持つに至ったのですか? 宇都宮城跡公園開園?時に宇都宮・本多正純・戸田の三家の子孫がご対面したそうだがね
正純系は今では木村さんだそうな 奥平は呼ばれないのか
豊後の方のイメージが強烈だから仕方ないか 浅野内匠頭を取り押さえた面子に伊予吉田の当主、内匠頭切腹は田村家の屋敷
前者はたまたまにしても後者は幕府も内情知っているだろうにと >>790
家臣が殺された時に長政に調査依頼したけど、結局犯人が見つからずに政宗がブチ切れた。 >>791
即日切腹だし、たまたま綱吉側近の田村右京大夫が登城していたから、たいして意味はない 朝鮮出兵時に勝手に退却指示だしやがってとか俺の嫌いな木村・蒲生と仲がいいからとか色々 当時のご当主同士が学芸員資格有と共通の友人(MOA館長か)介して伊達家から申し出た様子
当然ながら各自の伝承もさることながら浅野氏が居た美術館に絶交状が飾られていたのを気にしていたみたい 松平忠輝が徳川宗家先代当主によって赦免されたり、
現代に入ってから何かと過去の問題が解消している。 子孫とか、現当主とか意味ない
そいつら大名ではないんだから 確かに家広さん見ていると少し痛いたしくは感じる、親父さんはその辺をうまい具合に抑えての行動だったに思うがね
果たして利用しているのだかされているのだか >浅野内匠頭を取り押さえた面子に伊予吉田の当主、内匠頭切腹は田村家の屋敷
伊達宗春は浅野長矩に吉良の指導内容を教えず
乱心した長矩の取り押さえに加わり
勅使饗応をやり遂げた
田村建顕は長矩の酒とタバコを出せという要求を拒絶し
介錯人が名刀を使おうとしたのに怒り、粗末な刀に変えさせた
また長矩がどこで切腹したかわからないようにしろと家臣に命じた 遺恨があるという前提で見ると色々起きているように見えるが伊達も浅野も家が多いからそれぐらいの関わりはあるんじゃないだろうか
徳川家と村正にしても村正が安い切れるで普及してたからじゃないのって思う >>805
共産主義者なのか?
田沼意次の研究でもしろと言いたいわ
ようやく田沼の再評価の流れが出て来たのは良いことだ 藤堂家が松平姓も偏諱も貰えてないのは何故?
同クラスの山内・蜂須賀・池田(岡山)は貰えてるのに 高虎は外様第一の忠臣だね
伊勢伊賀32万石は場所的にも破格の待遇だ 徳川一門で徳川姓名乗れるのは将軍、将軍世子、御三家御三卿当主だけ?
例えば松平春嶽は田安家出身だけど生まれたときは松平姓名乗ってたのかな 蒲生氏は幼君、お家騒動、無嗣と他の大名なら一発アウトのところ、
家康の娘が嫁いでいたために幕府も何とか存続させようとしたにも関わらず結局断絶しちゃった
娘でも成人していれば浅野家あたりから養子を迎えたりして存続できたのかなあ 藤堂家は表高5万石の津軽家(五公五民で現米14万石)より実高が低く(六公四民で現米12万石)、伯爵止まり 蒲生忠知は豊臣捨と同じ鶴松なんて幼名を嫡男につけたから
自分より早くわずか三歳で死んでしまった。 >>804
今は知らないが戦中までは、芝の田村家には内匠頭血がかりの松というのが伝わっていた 豊臣一族は親戚関係が複雑でよく分からん
複雑な上に史料が乏しく詳細は不明なことが多い >>816
そもそも秀吉の父親を超絶に隠蔽してるからな 家康は最後までおねを利用していた感はあったに思うが息子の秀忠は結構気を使っていたんだよね 肖像画を見ると、京極高次も淀殿と同様に浅井家の大柄な体格を受け継いでるよな
秀頼も浅井の体格受け継いでいたのだろうな 秀吉、実はそんなに悪い出自じゃなかったという説もあるな。 >>820
豊臣秀吉の出自に関しては、母な親の大政所に関することばかりが伝えられて実父が誰なのかまったく定かではないのが面白い。いわくありだと思う。 柳沢家は吉保以降は幕府の職に就いてない?
松平姓を与えられ準親藩扱いだからか
吉保が大老格になったからそれ以下の職には就けなくなったか 吉保は特例と言えるし家格的に本来であれば大老は4家の中から、老中は基本5~10万石の譜代なんで15万石の柳沢家はその枠外
なろうと思えば可能性はあったかもだが歴代当主は興味がなかったのかもね 田沼意次の肖像画は、烏帽子に狩衣姿だけど、あれはまだ旗本だった若い頃を描いた肖像画かな?柳澤吉保も狩衣姿の肖像画あるけど。
大名の肖像画だと、だいたい束帯姿が定番で、隠居後のラフな肖像画もあるけど大紋・直垂は少ないよね?
旗本、特に郡代・代官経験者の肖像画は布衣姿が多いように思う。
とりあえず新井白石の水干姿で太刀を履いた肖像画は異様だ。 池田家は鳥取と岡山に分かれてたけど
どっちが宗家? 当初は岡山、家康の外孫
その後入れ替えたから最終的には鳥取 池田って一族全部合わせると前田家並みだったらしいな 今の武家は民間よりあらわれて大名になった者が多いのでその先祖はよくわからない
とwikiに池田分家筋の人が言っていたのが載っているけれど自分所がそうだとなると
他にどれだけ居るのやら?と >>829
だから元大名家風情が名家面してるのが腑に落ちない 神代から続いてなきゃ名家って訳でもあるまい
維新後に勃興した家々も世間では名家 >>828
越前系松平も合わせれば90万石余
越前福井 32万石
-越後糸魚川 1万石
出雲松江 18万6千石
-広瀬 3万石
-母里 1万石
上野前橋 17万石
播磨明石 8万石
美作津山 10万石
結城秀康に与えられたのが68万石だから結果的に一門としては増えた? >>831
守護大名の生き残り大名家は名家と言ってもいいだろう。
上杉家、細川家、京極家、小笠原家、島津家等々 関東管領だから守護より上だな
あと伊達も守護大名上がりの家 福島や加藤、最上、駿河大納言の遺臣の再仕官先の統計のデータ持ってる人いませんか? 駿河大納言遺臣はほとんどが紀州大納言に転封の形じゃなかったっけ?最上は山野部が水戸、福島は仙石が土佐で拾われてた筈。改易された藩(無嗣断絶以外の理由)の遺臣は厳しい扱いされてるね。 そういう山野辺とかの超有名どころはどうでもいいので、重臣から徒士級までの再仕官、あるいは帰農・転業の統計データほしいです 自分で探せない、こんな場wで聞く程度ならデータ渡しても意味ないんじゃね?と 横田家9500石が旗本中最高
維新立藩できなかったみたいだけど何故だろう
高直しでなんとかならなかったのかな 華族になる目安を外れた家の、当家を華族にという陳情は交代寄合、高家、各大名の大身陪臣から、先祖は南朝の忠臣ですとかまでわんさかあったから全部聞いてたら華族だらけになる
そこは魚心あれば水心とかもあっただろう
旗本の交代寄合では5000石でも新田乗せてクリアして男爵という家も平野、山崎とあった
交代寄合は6家が大名に格上げ華族となったがなれなかった家との差異がいまいちわからない
最上家5000石も随分運動したらしいが結局ダメだった
交代寄合や高家は名門だらけだがその中でも最上は改易前派は大大名で源氏羽州探題の名門 それでもダメで交代寄合の同輩同石で家柄は劣る、と思える平野や山崎が男爵とか納得いかなかったのだろう
横田も頑張ったようだが何かが足りなかったんだろう 表向きは最低でも1万石諸侯+雄藩万石重臣あたりで後は裏口的に新政府へのコネの有無くらいか
岩松新田ともう1家の同系の家の場合岩松のがコネがあったが故にという話もある >>848
伯子男爵は議員に当選できれば歳費が支給されて家計の足しになる
公侯爵は終身貴族院議員の身分が保障されるも無給
公爵は華族としての品位を保つため10万円は政府より保障されているのを考えると侯爵は一番割を食ってる
まあ実態は中途半端に華族になって交際費など出費を強いられて貧乏するより士族のままの方が良い気もする 万石の陪臣や交代寄合の男爵が認められたのは明治33年、旧帝大に無試験で入れたり貴族院議員になれるメリットはある(デメリットは衆院選に出られないくらい)
陪臣の志水とかも一万石あったけど男爵貰えなかったな。 華族になれなきゃいかに大身旗本だろうと高家だろうと御家人と同じく士族で一括
維新後は官位も家につくわけじゃないから世襲で身分を継ぐには華族になるしかない >>852
細かいが華族だから帝大に無試験で入れる訳じゃないぞ
学習院からのコースで無試験で入れることもあるというだけ(学部を選ばなければ)
法学部のような人気学部だと無試験と言うわけにはいかない 紀州徳川家の徳川頼倫・頼貞親子は2代続けて学習院で落第の上退学してるけど、
戦前の学習院は皇族以外だとたとえ名門華族であっても意外と厳しかったんだな。 上士の士族以上クラスだと江戸中期以降は勉強漬けで藩校で揉まれるのがデフォだからな
当時の学習院はそれ以上なんだからそら落ちこぼれも出る 結局主人が上がれば家臣も上がるよねという話でもある、家臣も華族にということではなしに士族扱いという風にね
庚午事変が起きた蜂須賀直参と稲田家臣団が揉めた一員もそういう話 維新後の佐倉堀田家は家憲で
「徳川家は旧主家たり、その恩義は永く忘るべからず、時節参候して芹敬を表すべし」
と、わざわざ明文化してるのが面白い 秀吉の直臣でしかなかった堀田家(叔父?の盛重は大坂の陣で豊臣方について戦死)を家康に拾って貰った後家光の代で中堅大名にまで押し上げて貰ったからな、徳川には足向けて寝られないだろ。 佐倉堀田家は男系では鍋島家に代わってるのか
そして現在の尾張徳川家はこの堀田家の血筋と 堀田家はイベントの多い家で正盛がモリモリ出世し10万石
これを継いだ正信が色々やらかし改易、改易後も色々やらかし預かった大名に迷惑をかける
こんな兄がいた正俊は別にお咎めなくモリモリ出世し大老になったはいいが稲葉正休に斬殺され倅の正仲が継ぐも古河から福島に飛ばされる それでも子孫は老中首座まで上がる
再度浮かび上がれるというのはある種の靭性がある家なのだろう 大名のお預けって何のため?
流石に普通の牢屋に入れる訳にいかないから? 大名の庶子が養子に行くでもなく部屋住みになった場合、
未婚のままで、ある程度の年齢になったら出家するとかルールらしきものはあったのですか? 井伊直弼なんて出家しようにも寺にも断られたんじゃなかったっけ? 大概が当主が次代に代わって引退=出家という話でもあるんだが決して坊主になるという訳でもなし
勿論次男三男も含め家を出るというカタチで仏門に入る世話になるという事はあったようだがね
諸侯以外で与力とかだと金があれば家とか農地買って部屋住の子らの独立(武士辞めさせて)に充てたという話も >>870
町奉行所与力の仁杉家がそれみたいだね
大名預け(桑名)になった矢部駿河守の罪状の1つにも与力の仁杉の不正が出てくる
そういえば矢部を陥れた鳥居甲斐も大名預け(丸亀)で永預けだが、帰還を果たした稀有な例になってる 鳥居は結局、30年以上は丸亀藩に預けられてたんじゃないのかな?
よく体力と精神が持ったよね 水戸敬三郎斉昭も部屋住みだったんだよな
兄の哀公が病弱だったから 配流が長いというと松平忠輝がダントツだろう
信州諏訪家で60年弱 飛騨金森家含めればい65年の配流生活
ついで宇喜多秀家の八丈島50年 大名家預けになって、わりとすぐに自殺あるいは病死するタイプとしぶとく生き抜くタイプがいるな 皇族公家も色々で菅原道真や俊寛は短期間でアウト
後鳥羽上皇や順徳上皇は随分長く頑張った >>878
後醍醐天皇は幽閉されても脱走
隠岐島に流されても脱走
バイタリティが異常過ぎる このスレのいう大名とは、おそらく近世大名なのだろうから、公家とか皇室は違うんだろうね
まあ近世と連続性のある戦国大名、守護大名までだろうね 南北朝時代の九州って一時南朝が全土を掌握する勢いだったけど、
これって大友、少弐、島津といった有力守護が南朝方に付いてたということなのかね。 大名預と、流罪・遠島を同列にしたのは良くなかったのかもね >>883
>便宜上「大名家」にしたけど江戸時代に限定せず
鎌倉時代の御家人から室町時代の守護大名
戦国時代の戦国大名、江戸時代の近世大名
明治維新後の大名華族の話題まで何でも結構
守護大名や戦国大名も範疇だな >>884
菊池氏を忘れてないか?
南朝方:菊池氏
北朝方:少弐氏、大友氏
島津氏は基本的に北朝方だったが、離反したり戻ったり何度か繰り返してる
家中の内紛が激しくなってくるのもこの頃だな 前から居着いてるバカ連呼の荒らしはスルー推奨
平日の昼間でも書き込んでるニート爺だから >>891
別に特定の大名に限らないというのが>>1の趣旨じゃろ?
領主や大名関連であれば良いっても書いてある。
普通と言うなら、そもそも「大名」というものの定義を明確にすることから始める必要がある。 肥後の菊池氏が大名だよいなら、規矩高政も糸田貞義も大名だな。 諏訪氏の本姓について知ってる人いる?
清和源氏を詐称する以前の諏訪氏が「神」と「金刺」どちらを名乗ってたのか気になる 大名というのは電子レンジで可能。
おそらく電車と3分の間に出来る。
風邪がまた左側による前に見たから確か。 保科は保科正之、結城は結城秀康、小早川は小早川秀秋 諏訪氏は近世大名として残ったのが凄い
富士氏、出雲氏、阿蘇氏、紀氏等は武士、在地領主としても活動したが
最終的には僅かばかりの所領で神職に専念することになった
阿蘇氏は惜しいところまでいったんだがなあ 諏訪高島の諏訪氏は、上社下社の大祝とはその後付き合いあったの? 諏訪はなんで清和源氏なんて名乗ったんだろうな
建御名方神に始まり神代から続く氏族で源氏よりよっぽど古く高貴な血筋
同じような出自の阿蘇は源氏の末裔だなんて言わなかった >>902
上社大祝は初代藩主諏訪頼水の弟頼広が継いでその子孫が継承(2000年代に断絶)
下社大祝は金刺氏(のちに武居氏に代わる)で諏訪氏とはまた別
ちなみに諏訪大社は保科正之から150石寄進されてる 近世大名で源平藤橘以外の姓ってあまりいないもんな
前田の菅原朝臣、毛利の大江朝臣、真田の滋野朝臣、あとは木下の豊臣くらいしか思いつかない 奥州田村氏は坂上田村麻呂、更に遡って後漢霊帝の末裔を自称 大内氏は百済の聖明王の後裔を自称
しかし何と李氏朝鮮には正式に末裔と認められていた 戦国時代の薩摩島津家記録『鹿児島県史料』スマホでフリー閲覧が可能に
1970〜99年度、2011〜18年度刊行の77冊分
鹿児島県は、半世紀以上にわたり編さんを進めている『鹿児島県史料』をウェブ上で公開。
パソコンやスマートフォンから、翻刻された鹿児島県関係の古文書類を無料で閲覧できる。
県史料の刊行は、県内の歴史や文化の解明を目的に1970(昭和45)年度に始まり、
2021年度分までに通算104冊目に達している。
ウェブ上公開しているのは1970〜99年度と、2011〜18年度に刊行された計77冊分。
激動戦国期における薩摩島津家の「旧記雑録」の他「斉彬公史料」「玉里島津家史料」なども閲覧可能に。
文書ごとに、記されている文言をキーワード検索できる機能もある。
史料集の編さんは全国的にも珍しいが、刊行年から時間が経過した本は在庫がない状況だった。
鹿児島の歴史は全国的にも関心が高く、歴史研究者やファン、大学生らの問い合わせが多いため
鹿児島県は全国の要望に応え、役立ててもらおうと公開に踏み切った。今後も対象を拡大する。 薩摩藩の史料は大山綱良によって焼却されてほとんど残ってないらしいな。 >>912
対大友戦については、大友氏が没落したので旧記雑録が確度の高い根本資料。 島津家は他の大名家と比べても有名コレクションが全くない
まあ尾張家や細川家が凄すぎるだけなんだろうが 薩摩藩は長い間ずっと財政逼迫してたし、少し好転したと思ったら蘭癖の殿様のせいで出費が嵩むし
とても古書や美術品を蒐集する余裕などなかっただろう
大正以降になると華族の例に漏れず台所が苦しくなって昭和の金融恐慌でトドメを刺された
むしろ島津家文書(国宝)を戦後しばらく手放さなかったのが感心 コレクションといえば米沢藩上杉家臣の顔ぶれは凄いね
武田、能登畠山、村上(山浦を継承)、大石、越後毛利、長尾諸流、高梨、上泉
関東甲信越の名族、旧族ぞろい 肥後熊本の細川とかも家臣に旧族名家を集めてる感じだね
松野(大友)、筑紫、宗像、横井(北条)、大矢野とかさ
まあ阿部一族みたいな農民上がりの家臣もたくさんいるけど >>921
足利将軍家に永く近侍していた分、名門扱いされるのは当然。
島津家も名門に違いはないが、やはり辺境大名というハンデはある罠。
いかに近衛家と親しくても現代とは事情が違い過ぎる。 阿蘇氏は肥後細川家の家臣というわけではなかったのかしら
江戸以降は宮司さんだから関係なかったのか >>922
島津は西郷に「ジゴロ」と言われるくらいだからな 熊本なんて細川なんて県知事やってもあまり親しまれない
今でも加藤清正が神のような存在だよな >>925
清正が農政に力を入れていたのは事実だからね。
例えそれが富国強兵のようなものであってもな。 名古屋でも加藤清正さんは熱烈って程ではないが地元の英雄としてそれなりに扱われてる。
尾張出身の大名は織田、豊臣はじめ数々いるけど加藤清正さんだけではないかな?なにか他とは違う人徳があったんだろうね。
福島正則なんか名古屋でも広島でも信州川中島でもたいした扱いされてないし。 寺社領といえば興福寺=春日大社は2万1000石と中世の大荘園とは比ぶべくもないが大名並の所領を認められている >>919
加えて
島津(信濃地頭)、本間(佐渡守護代)、神保(越中半国守護代)、桃井(上野地頭)などもいる 15万石では抱え過ぎだわな
しかも一度も活躍してねーし >阿蘇氏は肥後細川家の家臣
男爵規定で「大藩の藩主一門および家老」には含まれず
「神職・僧侶華族」18家に数えられているから寺社領主の扱いのようだ 細川時代の熊本藩暴動
光尚
阿部一族の反乱
綱利
イナゴ飢饉の暴動
宣紀
打ちこわし(米価高騰による)
治年
銀札の失敗による御銀所騒動 鉄鍋の底に「越中」と刻めば、金目が無いので錆びないと言われたほどの名門大名だもんね細川は
豊後鶴崎領がなかったら島原の乱あたりで終わってたかもな 長野主膳が阿蘇大宮司家の係累だという説があるけど、実際どうだったのだろうか? 熊本藩細川家は傍系の傍系で凄い名門扱いされるのは違和感がある
幽斎の出自とか結構怪しいぞ >>935
元から国学等教養があった故にそれなりの家の出という説、彦根に出仕した際には妻の兄の弟と届け出
珠に訛が出ていた事と阿蘇家当主と懇意だったという話 江戸時代の大名の中で一番の名門は歴史的にも家格的にも佐竹? マジレスすると尾張徳川家だろう
家格は御三家筆頭なのだからダントツ
いくら歴史があっても当時の厳格な家格統制の前には無力
諏訪家辺りは諏訪大社の流れを汲み戦国時代もそれなりの活躍をした歴史のある名門と言えるが
江戸時代に諏訪が他の大名より格上の扱いを受けていたかというと別にそんなことない さすが御三家筆頭、
尾張徳川家の家臣団の陣容を見ても頷けるわな >>940
諏訪家で特筆すべきは、その家臣団のそれぞれ率いる陪臣の数が非常に多くいた事
譜代大名としてだけではなく、仙台伊達と諏訪家が他家より抜きん出ていたとか。 諏訪藩なんて山に囲まれた3万石程度しかない小藩なのに
そんなに抱える余裕あったのか >>943
理由はよく知らないが、荻生徂徠はそう書いているね
諏訪と仙台の家来たちは陪臣を大勢引き連れてた、しかも年季雇いではなく譜代であると >>943
宗教的権威は現代からすると想像を絶する権威だぞ。 諏訪家は一人だけ?幕末に老中輩出してるんだな
松平定信の孫に当たる諏訪忠誠
維新後は諏訪大社の宮司やったりしてる 諏訪高島藩の家臣に譜代の陪臣が多かったのは、やはり一度は離れたとはいえ諏訪の地に根差す強い土着性と小藩ながら城持ちであったからでは? 歴史の古い大名家はその分譜代の家臣多いもんな
薩摩藩なんかの武士の多さは有名だし
鎌倉以来転封がなく不動だから尚更 一応言っとくけど、諏訪に多かったのは将軍家こらみての陪臣のまた陪臣のことだよ >>947
ちなみに約80家の家臣団のうち約20家が土着系家臣、あとは新規お抱え組 諏訪頼忠の子孫で会津藩の家老家となった1700石の諏訪家もあるな。
高島諏訪家の男系は明治に断絶してしまったが、この系統は続いているかもしれない。 江戸時代の大名は参勤交代で江戸と国元に1年ずついたわけだが
大雑把に言うとA組とB組に別れてしまい
まったく顔を合わせることのない大名同士がいたってことですかい? 長崎警護とか通信使、諸国巡見使の送迎とか御役目もあるのでみんな一斉に留守にはできないでしょ >>953
そういうのはいいから
尾張と紀伊が会わないわけにはいかないだろ そうなると今年はあいつに会えないんだなって上様さびしくないんかな 参府と暇の時期はきっちり別れてる訳ではないから会いたきゃ会える場合もあるでしょ >>955
島津と伊東ってそんな険悪だったっけ?
って思ったら100年以上揉めた国境の係争があったな 吉川弘文館の「家からみる江戸大名」シリーズ、どれを読みますか?全部、という人どれだけいますか? 細川なんて仙台に足向けて寝られなかったろうな、陸奥守様様 参勤交代つーても移動の時期を全国一斉にしなきゃいけないというルールもないし
代替わりしたらその都度月も変わる
〇〇家の五代目当主とXX家の七代目当主は一度も顔を合わせなかったということはあっても
〇〇家とXX家は一度も同時期に当主が江戸にいなかったという例は限られるんじゃないの 参勤交代の移動時期は決まっていて、外様が4月、譜代は6月か8月。 >>964
松前藩は5年に一度、対馬藩は3年に一度だから、15年会わないこともあったかも 内容:
鳥取藩の参勤交代に関する統計的研究
www.pref.tottori.lg.jp/secure/1072785/2626.pdf
http://iup.2ch-library.com/i/i022824233215874311223.jpg >>957
そういうのいいからも糞もない、知らなきゃ知らないにこしたことはない
江戸城は家格によって部屋は違うが代が変われば下からエスカレート的に最終的に該当部屋へと移行する
その過程でわずか数年にも関わらずお世話になるという事で色々金を使ったりする訳さ
しかも貰う側は家格によって一生そのままやからここぞとばかり催促したりとね >>968
もしかして小学生のときに学期ごとに担任の先生からのご家族へのお知らせで
毎回「おちついて勉強にとりくみましょう」と書かれていた系?
http://iup.2ch-library.com/i/i022824300315874011230.jpg 薩摩藩の参勤交代って江戸までずっと陸路だったのかね?
それとも海路も利用してたのかしら 海路って当時はこわくないか
下手すればしんじゃいそうだし 水野忠邦は自ら唐津から浜松へ転封を願い出たらしいけど、自発的に転封なんて出来たんだな。
この場合、家臣団も一緒に移るのか? >>975
もちろん主君が転封されれば家臣も一緒に着いて行くことになる
しかし転封先が忠邦のように事実上石高が減る場合は禄を減らすかリストラをしないといけない >>972
嘉永5年の島津斉彬の参勤は陸路で47泊48日の長旅。 >>978
それは単にお前の頭が悪過ぎるだけだ
他の誰のせいでもない 前田さんは維新後も侯爵で華族でも有数の資産家。
戦後も没落せず上流階級としてしぶとく生き残ってるな。
ほんと保身に長けた一族。 前田利家は当時、最先端のそろばん使いこなしてたから計算高い一族なんでしょ すげーよな
たった一代の成り上がりで、以降はずっと貴族とか、、 賤ヶ岳で何もせず帰って五大老
関ヶ原で領内でちょっと戦って御三家に次ぐ身分
幕末維新で途中まで行軍したけどUターンして侯爵
上手いな 前田利為侯は皇国日本のため太平洋戦争において名誉の戦死を遂げ陸軍大将となったのである
で敗戦により前田家は華族では亡くなったのであった 前田利宜 コーヒー製造会社社長
島津忠裕 島津興業社長
細川護熙 陶芸家 元総理
伊達泰宗 学芸員 博物館長
上杉裕憲 航空工学者
徳川義宣 尾張徳川美術館長
徳川宜子 次代で紀伊徳川は断絶のおそれ
池田百合子 当代で鳥取池田は断絶のおそれ
黒田長高 タイヤ販売会社社長
浅野長孝 学校法人理事 富豪華族は財産税で9割持ってかれて過酷だったと言われるが
仮に100億のうち90億持ってかれたとしても10億は残る
そう考えると前田家や尾張家、細川家が没落せず名家として続いているのも頷ける >>986
越前藩の挙藩上洛の際に随行してたら今ごろ薩越加 >>990
家宝類を財団作って管理。文化財的な価値があるものなら補助金ゲットで(゚д゚)ウマー >>991
福井藩の文久3年の上洛計画の際に加賀藩と一緒に行く計画
京でも薩摩藩留守居がその噂を聞きつけて「越前加賀会津の三藩に薩摩も混ぜてくれ」と頼み込みにきた
福井脱落で加賀も脱落して、結局薩摩会津での政変実行になった 前田 小作にもごろごろどこにでもいる苗字
さすが、成り上がりたる苗字 >>989
水戸徳川家は財団理事長と山林管理会社の社長
尾張徳川家ほどじゃないけど水戸家もそれなりの資産持ってそう 長州は表高37万石だが、銀山収入を入れると70万石に相当したというし、
仙台は表高62万石だが実高は100万超えていたというし、
逆に水戸藩なんか35万石を表高にしたけど、重税による農民の逃亡で一時期は20万石割ったというし。
薩摩も70万石としていたが土地がやせていて実際には半分くらいの石高しかなかった(密貿易で埋め合わせしていたようだけど)。
加賀の名実共に100万石、という方がむしろ稀有なよう。 四国一円への転封を受け入れていたらどうだったろうか
石高的にはプラスだけど、四国山脈があるしね ただ、藩主が成り上がり出自で、名字も全国どこにでもいる前田で、、
そんなどこにでもいた馬の骨が藩主になったということなんだろうが
とにかくダセー 前田の百万石は秀吉の広大な領地のおさがりって感じで、
伊達や島津のように独力で切り取ったという感じが薄い
柴田勝家を倒して加賀を手に入れたときの前田の功績といえば、柴田を裏切ったことくらい
総大将というよりは豊臣の部将という感じをぬぐえない >>996
正確には102万石
富山10万石と大聖寺7万石を支藩として分封する前は119万石
江戸初期で表高120万、実高130万石
新田開発により江戸後期には更に実高増えてたと思われる このスレッドは1000を超えました。
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