大名家 総合スレ
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スレタイの通り、大名家の話題スレ
便宜上「大名家」にしたけど江戸時代に限定せず
鎌倉時代の御家人から室町時代の守護大名
戦国時代の戦国大名、江戸時代の近世大名
明治維新後の大名華族の話題まで何でも結構
特定の大名家スレではなく、領主や大名家関連の総合スレということでスタート 大友・最上・朝倉・葛西・斯波etc教えてください。 鈴木家の権力などには興味を示さず、ただ金で雇われて黙々と仕事をこなす様がなんとも好き
大名というよりは傭兵集団なので、対象外なら外してください >>1
スタートじゃねぇよ
毛利スレと会津スレがまだ残ってんのになんで大名家スレなんて建てるんだよ
せめてその二つが終わってからだろうが
これ以上乱立させるな 日本の大名とヨーロッパの封建領主は似ている
学術的に比較した本や論文ってあるんだろうか 最上氏は大きく分けて二系統、一つは交代寄合五千石だっけか
もう一つは山野辺氏で水戸藩家老一万石 >>4
>>9
最上家は交代寄合、近江大森(八日市)のあたりに所領があった
維新の時に官軍のお先棒を担ぎながら、山形に「復帰」するがもう一度、大名という夢は果たされず明治を迎える
大友は高家、朝倉は分家が旗本、斯波氏は絶滅 五代北条家も小田原攻めで滅亡といわれてるけど
実は江戸時代に1万石の大名だった >>12
続き
葛西氏は晴信の小田原不参陣によって攻撃され滅亡
息子信影が南部氏に仕えた。他にも氏信が上杉に仕える
晴信の弟が仙台藩に仕えて「飯野川葛西氏」を名乗る 江戸時代では共に大名だけど
戦国時代では主君と家臣の関係だったという大名家って結構あったりするんだろうか 津軽と南部はマジで仲悪い。
南部藩の藩士が参勤途中の津軽の殿様を暗殺しようとするほど。 旧主君一族と旧家臣・一応親戚みたいなもんだがで言えば龍造寺と鍋島
後に逆転して佐賀藩鍋島家となり旧龍造寺4家?は内分知の重臣扱い
鍋島系とも相まって佐賀藩の場合鍋島本家は実質6万石程度しかなかった様子 少弐氏・大友氏・島津氏は出自不詳の九州三大名
いずれも同じ時期に勃興している 大友氏はわしの代で滅んだと思っている人が多いと思うが、
実は徳川時代にも嫡子の義乗が旗本として存続しています。 義乗の子、義政・義親兄弟が早世したので嫡流は断絶している
義統の弟・松野正照の三男・義孝が再興を許されて旗本大友家を復興させてはいる 宇和島は仙台の分家筋且つ諸侯には違いないが内的には末家扱い
3代目が本家筋なのだが重臣石川家を継いでからの養子だったので陪臣経由との事でそういう扱いとなったとか >>25
宇和島伊達家は仙台伊達家の「分家」ではなく「別家」だ
まあそれで仙台藩と宇和島藩は長い間揉めていて幕府もこの二つの藩主は同席を避けるなどしてた 時代は下るけど徳川宗家と徳川慶喜家も同じ関係
慶喜家は分家ではなく宗家の別家として創設された >>27
慶喜の息子厚が立てた男爵家は「徳川宗家別家」とこれまたややこしい。 越前松平家は「名士の子孫集め」が大好き
少なくとも皆様おなじみの名前としては
山県昌景
安藤守就
真田昌輝(昌幸兄)
加藤清正(のいとこ系)
長野業正
蘆田信蕃
大道寺政繁
の一族が仕官・召し出しされてる
真田家は福井県にも現存してるはず >>32
北畠は戦国末期に織田信長により滅亡。
但し、信長の次男の信雄が、最期の当主の具教の養子となっている。
信雄の子孫は、天童藩主として明治維新まで存続。
畠山は家康に拾われて、高家として存続。 >>26
そうだったスマン、なついでに言うとほぼ同じパターンなのは南部と八戸 かつて権勢を誇った名門が藩の一藩士の家系に転落してるのは何とも切ない気持ちになるな 細川京兆家は三春藩の重臣として存続
しかし途中で藩主秋田氏から養子に入っている >>22
少弐氏(藤原氏)
大友氏(藤原氏)
島津氏(惟宗氏) >>16
新発田藩の溝口氏は丹羽長秀の旧臣だった。
丹羽氏も二本松藩の藩主家として生き延びてる。 児玉幸多著「大名」はおもしろかった
30年以上前で文庫を買ったが1000円近くして驚いた 丹羽家は確か伊達宗城の男系に変わってたと思う
明治以降の大名系譜漁るとホントに色んなところに出てくる伊達宗城 地味に松浦詮も各家に養子捻じ込んでるな
さらに天皇と親戚ということで本来子爵だったのが伯爵に >>5
丹波家は平安ころから医者の家
今昔物語だったか、藤原道長を呪殺しようとした企みを安倍晴明と阻止した 丹波哲郎といえば映画『切腹』は名作
個人的には時代劇映画の金字塔だと思ってる
仲代達矢との文字通り真剣勝負のシーンは凄い >>43
まさに種馬
井伊家なんかは養子送りまくって結局子孫は絶えた 今更ながら邪馬台国のスレって凄くないか?
日本史板の95%はあのスレに居てこのスレ含め他のスレは皆自演で回してるんじゃないかと思うほど
そんなに邪馬台国語りたいかねえ
機内だろうが九州だろうがどっちでもいいじゃない >>50
与板の方も同じなんだが当代に弟さんがいそうなんでそっちがどうなのかという具合 正直、一般庶民からの養子で家系を繋げて〇〇家当主!と言われてもという勝手な感情がある
当事者からすると余計なお世話だろうけど 途中送信
あくまでウィキによると戦国の政宗以前に別れた分家の子孫
で女系を介して政宗の子孫でもあるらしい >>56
それで御本人も有頂天になってんじゃねえかよ。
毛利さんみたいに普通の民間人として生きていくことが筋道なんだろ。 伊東義祐→祐兵ってのは、凄い人生だと思う。
宮崎平野一帯の支配者→飫肥を占領して日向のほぼ全域→島津に敗れ親子で大友の居候
→大友没落後はただの浪人→義祐客死→祐兵は秀吉に仕官→本能寺後、天下統一の過程を経験
→飫肥藩主だもの。
戦国秀久なみの浮沈劇じゃないだろうか。 >>60
?
織田家も普通に民間人として生きてる
むしろ民間人だから後継がどうのと外野が騒ぐの辞めてくれって話
あと何でそこで急に毛利の話が出て来るのか謎 >>57
伊達氏8代目の子孫、後に大條氏となって後に仙台藩一家・4千石を賜った家の分家筋
因みに独眼竜は17代目 上で仙台と宇和島の伊達家の因縁の話が出てたけど
伊東家と島津家も過去の因縁があって江戸城の殿中じゃ同席しないように取り計られた 元は島津家臣・上原氏の居城を秀吉の命で伊東氏が拝領まではいいが素直に明け渡すに
しかも使者まで斬り殺すという手段に
当然秀吉の怒りに触れ呼ばれたのだけれど自分は行かずに息子を行かせて結果息子が死罪だっけか >>60
家康の子孫19代目は家康の肩書だけ食っているなもんだww
伊達家当主も政宗の肩書で生きてるみたいだが んでも外野が騒がないとこの先平然と子孫名乗ると思うけれど関係者はええんか?みたいなのはあるかな
織田信成とか >>68
当時の位は朝廷に献金すれば貰えたから別にすごくない。
要は金で官位が買えた時代で同時期の阿蘇氏に至っては多額の献金で従二位になってる。 上杉謙信の子孫は何してる?
上杉だけはあまり聞かない 謙信に子は居ない、養子景勝女系且つ吉良男系で繋いでいる 勝海舟
「アメリカではジョージ・ワシントンの子孫が何をしてるのか誰も興味がない」
これがあるべき民主主義国家の姿かもしれない がしかし現状はハリウッドや所謂セレブと呼ばれる人たちの動向はチェックはしている >>72
上杉謙信に子孫がいないのは日本史板の常識だと思ってた >>71
阿蘇氏は戦国期には島津の侵攻に良く耐えた印象がある
甲斐宗運の子親英しかり
あと降伏したふりをして兵を城に入れてから襲ったりなかなか頑張ってた 上杉謙信の養子の子孫じゃないか?
今どこにいるのかわからんがな ttp://www.yonezawa-np.jp/html/news/2022-S/20221108c.html
現当主は東大出の元JAXA研究教授やで、近年お孫さんが生まれたとか 現在の上杉家が吉良上野介の男系子孫って意外と知られていない。 不思議なのは鷹山養子前後に男子誕生して結局その系統が今日までという、幕末期には他家へ養子を出すくらい
鷹山も辿れば女系だけけれどやはり前藩主の血統がという部分は家臣団にも大きかったに思うわ
七家騒動で相当恨み買っていただろうし >>83
子孫の人、忠臣蔵でこれでもかと悪者にされてるの見てどう思ってたんだろう?
上杉家だからもはや関係ないという感じなのかな
まあ最近になって吉良再評価の話も出てきたけど300年以上本当にボロクソだった 過去にご当主が縁の地で公演みたいなのをやったらしい、そこでは地元の評判はよかったよという話が出ていた模様
一方でどうしても対浅野という構図ばかりだけれど実は他にも揉め事を起こした家があったはず
確か江戸家老がきちんと処理したんで事なきを得たというか前後の対応が明らかに違っていたとか >>79
甲斐宗運は伊東に内通した息子三人を殺したらしいが、
そんなに伊東と阿蘇は勢力に違いがあったのか?それとも別の理由が? 甲斐民部大輔入道宗運親直が日向伊東に通じた3人の子供を俵山まで追い親正、宣成を殺し、直武は日向の国まで逃れた。という歴史的資料はなく、あくまで伝承でしかない。
古くから阿蘇家に仕えていたと云われる同族で日向の黒仁田氏も伊東に通じたとい事で宗運により滅ぼされたという。
しかし伊東に通じたと云うのは表面上の名分で、実際は阿蘇家内部での権力争いではなかったのであろうかと思われる。
戦国時代の甲斐党は、肥後・日向に広く分布し宗運自身は阿蘇家配下として御船1000町を領し、後には隈庄1000町も領しながらも、
弟や子息達は日向・三田井氏の配下として高千穂地方に領地を有して、別の流れの家代や七ツ山や隈庄の甲斐氏も同じく肥後・日向にかなりな領地を有していた。
この当時の肥後・日向の国はいかに甲斐党を手なずけるかという事が重要な課題であったというのは間違いない。 伊東義祐は島津撃退して版図広げてるのに影が薄すぎるな 鍋島って龍造寺を乗っ取ったと叩かれてるけど
鍋島のご先祖は龍造寺が家臣として仕えた少弐に行き着く
そんなに悪いことかね? 鍋島が少弐に繋がるのか怪しい。
正当化するための粉飾じゃないの可能性がある。 なんか意味不明な文になった…
粉飾した可能性がある、に訂正。 今の鍋島家は実は女系
少弐家から婿養子を取ってその子孫が現在まで続いている
男系の少弐家は滅亡したが鍋島家として残っているのは面白い因果 そもそもが直茂が秀吉に泣きつかなければ龍造寺は島津の傘下、家臣になっていたのかもねと 幕末はずっと佐幕派だったのに明治維新のドサクサに紛れてちゃっかり勝ち組に回った鍋島家 大藩でありながら幕末に存在感を発揮できなかった三大大藩
加賀藩、尾張藩、仙台藩 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています