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邪馬台国畿内説 Part849
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2023/01/13(金) 16:25:28.54
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4~6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1673423402/l50

◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にありえない。
0002◆n7jxAxKCBhb6
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2023/01/13(金) 16:26:30.05
◆1(女王所都)
 奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)

 現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に配置された大型建物等(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。庄内3式期のSD-2001、庄内3〜布留0式期のSM-1001,SD-1007が建物BとDをそれぞれ破壊し、建物Fが庄内2式期のSX-1001埋没後築造なので建物群の存続期間は庄内2〜3の中に絞り込まれた。
 居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。

 この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。

 箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある。
 乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。

 この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。
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2023/01/13(金) 16:27:02.74
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
 前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
 また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。

 血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
 つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。

 纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
 築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。

 この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。

 その始発点が、a.元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から、b.或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。
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2023/01/13(金) 16:27:34.06
◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
 その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
 このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
 箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
 換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ。
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである

 また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前の情報が窺知できる。

 乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
 女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。

 紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。
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2023/01/13(金) 16:28:06.01
◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
 纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
 同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。

 威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
 しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
 代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。

 共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他なるまい。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
 それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。

 定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
 もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
 後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
 この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。

 初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。
0006◆n7jxAxKCBhb6
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2023/01/13(金) 16:28:37.96
◆5(倭国の形成と気候変動)
 1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
 2に、河内と吉備の交流の深さ
 この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
 共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
 これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。

 2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
 この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
 寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
 弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。

※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
 クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。
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2023/01/13(金) 16:29:13.99
◆6(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
 これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
 これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
 先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。

 析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
 後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。

 やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
 分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
(本項 続く)
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2023/01/13(金) 16:29:46.72
(承前)
◆6−2
 方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
 二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。

 この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。

 高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。

 巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。

 ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
 一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。

 この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
 このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。
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2023/01/13(金) 16:30:18.35
◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
 3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
 北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相~布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FAQ43参照)
 つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240~248年が位置すると考えられる。

 庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。

 上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
 逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
 外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。

 1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
 2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
 これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。

 北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。

 その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
 糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。

 この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。
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2023/01/13(金) 16:30:49.87
◆8(結語)
 日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
 原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
 原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。

 その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
 前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。

 博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。

 遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
 この現象は、寒冷化に起因する列島での社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
 この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。

 土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末~3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
 そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。
0011◆n7jxAxKCBhb6
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2023/01/13(金) 16:31:21.00
◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
 寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf

◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」


◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)

○弥生時代後期
  1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
  2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃 
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
  3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
  4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
  4世紀第4四半期〜5世紀中頃
   (古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)

※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
 庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
 同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
 庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
 IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
 IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III  ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山                  
  IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III    ●箸墓、権現山51号
  IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V  ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
                           浦間茶臼山、西求女塚
  IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
                           メスリ山、行灯山、祇園山
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2023/01/13(金) 16:31:53.20
◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!

A:九州は倭国の一部なので問題ない。
 郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
 逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。
壹岐一国では観察されたが首都で観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
 畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
 水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。

 北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
 また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
 倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。

◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
  魏使は九州を出ていないではないか!

A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
   「泝(+固有名詞川名)が7回
 倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
 倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
 以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。
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2023/01/13(金) 16:32:27.96
◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!

A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
 「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。

 以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
 三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。
また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。

 筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。

 実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
 このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く)
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2023/01/13(金) 16:32:59.98
(承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
 遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
 予章郡:雒陽南二千七百里  南海郡:雒陽南七千一百里
 蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
 交趾郡:雒陽南萬一千里
 (雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)

 倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
 以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。

 また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。
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2023/01/13(金) 16:33:41.58
◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
  纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?

A:そのような事実はなく、当然交流があった。
 畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
 このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)


◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?

A:読み替えない。
 行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
 これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
 古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。


◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
  女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
  女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?

A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
 これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
 中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
 倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
 いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
 王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。
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2023/01/13(金) 16:34:15.35
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
  年代が判るという考古学者はおかしいではないか!

A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
 陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。

 封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
 しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。


◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
  それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?

A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
 後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
 使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。
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2023/01/13(金) 16:34:47.44
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
  畿内説は倭人伝と合わないのではないか?

A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
 福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
 弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
 以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、
実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。

 当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと


 3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。

 倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
 倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
 当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。

 なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
記紀においてもヤリとホコの区別が無いことは、天日槍を知らぬ者を除き常識である。
 加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
 の指摘は今日も有効である。
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2023/01/13(金) 16:35:21.16
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
  古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!

A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なる概念である。よって否定材料にならない。

呂覧に「題湊之室棺槨数襲、積石積炭以環其外」と見える如く、古代中国人の耳目には竪穴式石室の側壁或いは現代考古学に言う礫槨・木炭槨の類は室外を環る地中構造物と認識される。そして棺槨は室内に重ねられるのである。
石を槨の表、黄腸を裏とする鄭玄註は、題湊が木槨壁面に接合する時期を経た塼室墓時代の意識として整合性がある。

 現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
 古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。

 現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて韓地経由の楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響ではあるものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状である。
就中、ホケノ山は床板が無く、石室構築のための仮設の板壁を石室完成後に撤去した木蓋石室墓とする復元案(真鍋2018)も有之、古代中国人が認識する木槨とは程遠い。
これを槨と称するならば、北部九州に多い箱式石棺も歴然と槨である。

 畿内で一般的な墓は木棺直葬の方形周溝墓で「有棺無槨」に適合している。


◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?

A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能である。

 伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
 糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
 このような状況下で、畿出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。
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2023/01/13(金) 16:35:54.28
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!

A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
 宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。

 一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと推定できる。
 他に、使用痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄など、遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧とがある。

 鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後~古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後~古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後~古墳初)など。

 纒向での鉄利用状況については、遺跡建設当初の庄内0期遺物から鉄器による加工痕が認められる。
 纒向大溝建築材実測図 https://i.imgur.com/EPtpzEw.png 矢板列支柱(左)に角の明瞭な貫穴、矢板(右)に鱗状手斧痕。倶に鉄器による加工の特徴を示す。
 纒向遺跡メクリ地区に「大型の鉄製品を砥ぐという行為が行われていたのは間違いがな」いとされている大量の砥石があり、廃棄時期は3世紀前半~中頃、最も古いものは「庄内2式期の可能性」(『纒向遺跡発掘調査報告書2』桜井市教委2009)とされる。
 大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析では、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
 と結論されている。

 弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。事実、鉄製品の腐食に最も影響力の強い硫化物が海成粘土層が畿内中枢部の深層に分布している。
 また併せて、纒向遺跡で脱炭鋼を製造していた布留0期の鍛冶遺構に於て鉃滓は共伴するが成品が発見されない状況は、官製工房的な管理の強化・貫徹を想定するに足る。
古墳時代に入ると「鉄器が普及したと同時に、首長層へ鉄器が集中した」(橋口2002)
という視点に立てば、首長級墳墓への集中と生活遺構での不在という鉄器の偏在は理解しやすい。
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2023/01/13(金) 16:36:26.84
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
  九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!

A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。


◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!

A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
 また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
 よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
 このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。


◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!

A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
 万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
 したがって測定は存在しない。

 また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
 「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
  則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。
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2023/01/13(金) 16:36:57.90
◆FAQ 19
Q:釜山~対馬あるいは対馬~壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
  これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!

A:1~2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。

 新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山~佐須奈間は34海里(=63km)である。
 江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
 まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。

 逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。


◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5~1/6
  これで説明が付く!

A:そのような整合性は認められない。
 考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
 対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)

 信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
 郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。

 九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。
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2023/01/13(金) 16:37:29.26
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
  箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!

A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
 箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
 このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。

 中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国出土(李家山59号墓)青銅製容器蓋装飾の騎馬像に鋳出された脚親指に装着する革鐙が報告(菅谷1994)されている。
郡県内では湖南省西晋墓(長沙金盆嶺第21号)の陶俑に描かれた片鐙(永寧2,西暦302年埋葬)が紀年の明かな最古発見例であるが、これと同時期或いは遡るとされる類似の発見例が数あり、中国の複数の調査者が木芯包革式鐙の存在を3世紀中葉まで遡ると考えている。
現物は西晋末〜東晋初(四世紀第1四半期末から第2四半期頃)の河南省・遼寧省出土例まで降る。

 湖南省西晋墓陶俑図 https://i.imgur.com/oM4NXR6.png

 三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
 西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度に鐙が一般的存在であったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で上図タイプ1の国産模倣品現物が出ることに不合理はない。
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2023/01/13(金) 16:38:02.00
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240~260年と発表した! これは信用ならない!
  同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380~550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
 もう一個が1σ西暦110~245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
 つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。

 考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
 炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。

 逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
 これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018)この桃核12測定例の平均値をIntcal20で歴年代較正して次に掲げる。
https://i.imgur.com/VKIld2Q.png
 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、
そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。
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2023/01/13(金) 16:38:36.62
◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!

A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
 また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
 基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
 よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。

箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築 
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。

 1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
 2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
 スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
 隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png

 前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。

 方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く)
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2023/01/13(金) 16:39:09.47
(承前)
◆FAQ 23−2

◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。

◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
 ・ 森将軍塚   :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
 ・ 前橋王山古墳 :上毛 ・ 持塚二号墳  :上総
 ・ 高千穂七号墳 :上総 ・ 山伏作一号墳 :上総
 ・ 長沖八号墳  :武蔵 ・ 温井一五号墳 :能登
 ・ 見手山一号墳 :但馬 ・ 西穂波16号墳 :東伯 
 ・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
 ・ 高鼻二号墳  :伯耆 ・ 日拝塚古墳  :筑前
 ・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
 ・ 朝日谷2号墳 :伊予ー布留0古(梅木1998)
◯朝日谷2号で後円部上に棺設置後、覆土と同時に前方部の盛土開始が判明していること
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等


◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!

A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
 黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
 両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
 古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、

 このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
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2023/01/13(金) 16:39:40.83
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!

A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。

 旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
 
 後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
 このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。


◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
  ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!

A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
 統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。

 遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。

 さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。
なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
 ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
 古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。
0027◆n7jxAxKCBhb6
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2023/01/13(金) 16:40:12.58
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!

A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
 ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。


◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
  卑弥呼の墓があるのは九州だ!

A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
 また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。

 参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
 日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。

 墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。


◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!

A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
 高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
 九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
 一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
 九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。

「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
 正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。

 以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があった。
 九州説にとって不利な条件と言える。
0028◆n7jxAxKCBhb6
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2023/01/13(金) 16:40:45.98
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
  箸墓の築造と時間差があるだろう!

A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
 隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
 以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。

 なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
 また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
 このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
 解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀彧)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。

 なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。
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2023/01/13(金) 16:41:17.87
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?

A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
 考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
 もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
 氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。

 弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
   https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
 また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
 これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。

 優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
 吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
 弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核には、この地域を想定するのが妥当である。

 畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
 これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。
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2023/01/13(金) 16:41:50.21
◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?

A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
 3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。

 これが部分的利用に留まる所以である。


◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある!
  海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!

A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。

 「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
 「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国
0031◆n7jxAxKCBhb6
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2023/01/13(金) 16:42:22.86
◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
  伊都国は隆盛のさなかである!

A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半~弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
 原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
 副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。

 当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
 国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。
それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
 残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
 大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)

 後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
 平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
 いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。

 後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
 このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。

 以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。
0032◆n7jxAxKCBhb6
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2023/01/13(金) 16:43:06.74
◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!

A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
 ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。

 以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
 ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)

 一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
 それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
 国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。

 弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
 同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。

※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。
0033◆n7jxAxKCBhb6
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2023/01/13(金) 16:43:38.70
◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!

A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
 博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)

 文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
 また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
 吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。

 なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
 那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。

 伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。


◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
  纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!

A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
 外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
 これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。

 ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
 古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
 ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。
0034◆n7jxAxKCBhb6
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2023/01/13(金) 16:44:10.66
◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
  仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!

A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
 意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
 金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。(FAQ79参照)

 古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
 この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。

「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
 とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
 纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
 霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。

 大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
 にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、
弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
 侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
 新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。
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2023/01/13(金) 16:44:43.54
◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
  邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?

A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。

 女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。


◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
  九州でいいではないか!

A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
  http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
 福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
 ◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。

 会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
 沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
 東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
 このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。

 捜神記や太平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。
太平広記はその書名が示すとおり太平興国年間に編纂された類書であり、当該箇所は東晋代成立の捜神記から採録している。則ち太平興国の時点で原テキストに東越閩中の所司が「東治都尉」とあったことが判明する。
東越閩中に置かれた都尉の治は東候官に他ならず、三国志等の版本が成立した北宋太平興国の修史活動期における編集従事者の認識が窺知される。

 倭人伝中の「会稽東治」については、中華書局が既に「東冶」と校訂しているが、丁謙・盧弼らの考證に先立ち、成都書局が同治10年に殿本を校訂して「東冶」に改めている。跋文に四川総督呉棠、四川学政翰林院編集夏⼦鐊ら同治年間の人士の名が見える。
https://i.imgur.com/E6TFLyl.png
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2023/01/13(金) 16:45:18.56
◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
  九州には古くから三種の神器がある!
  大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?

A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
 出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
 また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
 記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)

 畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。

 弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
 平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
 これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。

 この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。
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2023/01/13(金) 16:45:50.51
◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
  新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!

A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
 弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。

 申敬澈は慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
 定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。

 申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
 良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。
これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
 参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。

 嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
 このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。
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2023/01/13(金) 16:46:22.20
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
  炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
  確かな根拠などないだろう!

A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
 1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
 また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。

その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である

以上から
 1B II型式新段階(2世紀末~3世紀前葉:塼室墓最盛期、遼東系)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期、非遼東系)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行(高久2009)する。
凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。

 楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
 また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
 よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。

以上述べた楽浪の対外活動に列島における楽浪土器の出土量を対応させ(◆7参照)
 活発期:2世紀末~239A.D.:久住IA期
 衰退期:塼室墓から遼東系が消え魏へ定期職貢あり:240〜247A.D.:久住IB期
 残存期:魏へ定期職貢途絶から最終朝貢記録まで:248〜266A.D.:久住IIA期
 途絶期:日本列島から楽浪土器消失:267A.D.〜:久住IIB期
の目安が得られる。
 三国鏡の雲紋編年において魏景元四年(263)銘鏡に一致するのが三角縁201番鏡(唐草文帯群、岸本V期)であることとも整合性が良い。
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2023/01/13(金) 16:46:54.77
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
  国産に決まっている!

A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
 史料上で抹殺された年号は珍しくない。
 このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。

 中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
 この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
 最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。

 この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。

 景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。
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2023/01/13(金) 16:47:24.65
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?

A:◆1で略述したとおりである。
 ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
 箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
 その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
 倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
 ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
 同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
 文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。

 また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
 その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。


◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
  これが魏晋鏡だろう?

A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
 2世紀の鏡である。

 内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
  内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
 という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
 蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。

 この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
  A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
 2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
 雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。
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2023/01/13(金) 16:47:57.24
◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
  2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?

A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。

 魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
 これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。

 少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)

 倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。


◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
  考古学的に確認されているのか?

A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。

 桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。

 広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
 このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。
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2023/01/13(金) 16:48:29.86
◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?

A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
 今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
 また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
 魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
  「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
 さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。

 固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
 また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。


◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
  どこにでもありそうだ。

A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
 画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
 纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
 単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。
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2023/01/13(金) 16:49:02.56
◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
  壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!

A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
 灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
 郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
 壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。

 弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
 日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
 卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無い。
壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
 ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。

 五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
  新方・森之宮(摂津)
  雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
  唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
 ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。
0044◆n7jxAxKCBhb6
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2023/01/13(金) 16:49:36.45
◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?

A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
 奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
 巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。


◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?

A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。

 刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
 秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
 この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。
0045◆n7jxAxKCBhb6
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2023/01/13(金) 16:50:36.48
◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
  以北ってことは女王国も含むんだぞ!

A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
   (三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
   (三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
   (同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。


◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
  狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!

A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
    山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
    海中の島国がカンボジアと「接」

 狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。
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2023/01/13(金) 16:51:09.70
◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!

A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。

「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
 殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
  ※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
  ※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。

「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有增損。
 太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
  ※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
  ※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
  ※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
  ※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
   昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
   当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
  ※百世に亘って代々を想定
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2023/01/13(金) 16:51:43.28
◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
  必然性がない!

A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
 法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことが明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。

 加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。

 畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。
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2023/01/13(金) 16:52:13.29
◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!

A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)

「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
 参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。

「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
 より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
 備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。

 また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
 以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。

 さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
 また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。

 以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。
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2023/01/13(金) 16:52:46.55
◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
  の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!

A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。

また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。


◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
  「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
  所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!

A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。

(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
     北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
    南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
    東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
    西與犂「革偏に于」・條支接。
    行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
    …東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
    …東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
                (漢書西域)
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2023/01/13(金) 16:53:19.04
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
  これは実測したとしか考えられない!
  誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!

A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。

 戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
 或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
(「長安城方六十里、 經緯各十五里、十二城門、積九百七十三頃、百二十亭」漢旧儀)

 また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
              (後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)

 さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。

 このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。
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2023/01/13(金) 16:53:52.56
◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!

A:定説に従う。

 金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
 帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。

 二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。

 以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。

 楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
 

◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!

A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。

◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
  径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!

A:基礎知識の誤りである。
  現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する

ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通)
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2023/01/13(金) 16:54:20.33
◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
  倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!

A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
 殷商:約16cm
 西周:約20cm
 戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
 後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
 南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
 先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
 後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。

 また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
 ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。

《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
——————————MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く)
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2023/01/13(金) 16:54:51.40
(承前)
◆FAQ 65−2
 『禮記』王制には
 「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
  古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
  古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」

とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。

 ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。

 この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎——黄鐘律管が容積・重量の基準——になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。


 秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
  古者周尺 17.3cm
  今周尺  21.0cm
  秦漢尺  23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。
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2023/01/13(金) 16:55:27.08
◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
  本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!

A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。

 当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
 乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。

 なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。


◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
  なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
  倭人伝にある方位に間違いはないのだ!

A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
 東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。

 ・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
 ・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
 ・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。

 ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png

 因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
 地名が実際の地勢と著しく異なる。
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2023/01/13(金) 16:55:58.87
◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
  奈良県の三角縁はもっと新しい!

A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。

 ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
 しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。

 箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。


◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!  
  このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
  魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
  護軍将軍である淵の任地は都である!

A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
 上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
 淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。

 長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
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2023/01/13(金) 16:56:30.96
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
  乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
  襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!

A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
 魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
 銭大昕・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。

 襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。


◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!

A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。

 中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
 魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。

 当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
 を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。
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2023/01/13(金) 16:57:00.84
◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
 「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
  畿内は「東征」を受けた毛人だ!

A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
  「服」は他動詞として使う。
  「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。

 「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。


◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
  これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!

A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
 「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
 『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png

 能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。
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2023/01/13(金) 16:57:31.98
◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
  大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!

A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。

 大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
 畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。

 庄内大和型甕と庄内河内型甕は、庄内 I 段階に大和川河口地域に成立した初期庄内甕(庄内式古相)から分化して、庄内 II 段階に至り倶に確立した。胎土・製作技法・形態により識別されるのみならず、分布域も明瞭に区分可能である。

 生駒西麓型とも呼ばれる庄内河内型甕は、中河内地域で圧倒的なシェアを占める一方で、摂津・和泉並びに大和盆地では低シェアという、極めて特徴的な偏在を示す。
これが、中河内地域の排他性を意味しないことは、中河内地域主要遺跡の持つハブ港的性格を鑑みれば明瞭である。事実、吉備の文化は中河内を経由地として纏向に極めて濃厚に転移している。


◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
  畿内説は皇国史観の徒である!

A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。

 遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
 複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。
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2023/01/13(金) 16:58:04.84
◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
  最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
  8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
  古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!

A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
本Qに見られるような直線的進歩史観で歴史が理解できないことは言うまでもない。

 古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。

 弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。


◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
 前方後円墳体制など、夢想だ!

A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。

 萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
 当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。

 奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。
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2023/01/13(金) 16:58:33.48
◆FAQ 78-1
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
  里数が書いてないではないか!
  つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
  投馬国は南九州でよいのだ!

A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。

 『九章算術』巻第六「均輸」に
 「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
 甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。

 これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」
「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。

 また、「今有甲發長安、五日至齊、乙發齊、七日至長安。今乙發已先二日、甲乃發長安。問、幾何日相逢?」の出題では
「術曰、幷五日・七日以爲法。以乙先發二日減七日、餘、以乘甲日數爲實。實如法得一日」と解く。
これを劉徽が註して「『減七日』者、言甲乙倶發。今以發爲始發之端、於本道里則餘分也」とする。
 即ち、長安〜齊の里数は当然等しいが、乙が2日先発しており、甲の出発時には「道里」に猶ほ「餘分」がある。そこで7日から先行した2日を減ずる計算をしている。
 明らかに「道里」が日数表記されている実例である。

 ここでは同じ固定区間が甲にとっての道里五日、乙にとっての道里七日である。甲の出発時に乙は先行した道里二日を七より減じた乙の道里七日のうち五日が未消化な「余分」である。つまり七五三十五の最小公倍数を法(分母)とすれば三十五分の二十五である。従って、改めて甲乙が同時に出発したと考えれば五と七の和十二分の二十五、即ち二日と十二分の一後に甲乙が出会う。
 この計算には里数が一切登場せず、日数のみで道里を計算していることが明らかである。

 本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。
(本項 続く)
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2023/01/13(金) 16:59:06.76
◆FAQ 78-2

(承前)
三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
 旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
 其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
 不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
 逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」

とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝でも、各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。

 もとより倭人伝は倭人の国々を
  1)自女王国以北、其戸数道里可得略載、
  2)其余国遠絶、不可得詳
と截然と二分類しており、「自女王国以北」と「其余」で悉皆である。
戸数・到達所用日数・官の情報が既知である投馬国を「遠絶ゆえに不可得詳」のグループに配することは極めて不合理であり、投馬国については戸数と道里が略載されている。

倭人伝に於て投馬国が「女王国以北」と認識されていること明瞭である。
0062◆n7jxAxKCBhb6
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2023/01/13(金) 16:59:40.51
◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
  ただの倉庫だろう?

A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)

 建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
 建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
 建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。

 強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。


◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
 「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
  魏志に邪馬臺と書かれていたのではない! 
  ただ当時の風説を書いたのだ!

A:初歩的な誤りである。
 子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
 子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
 動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。

 助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
 よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。
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2023/01/13(金) 17:00:14.82
◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
  だから邪馬台国は畿内ではない!

A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
 後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。

 三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。

 魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。

 三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
https://i.imgur.com/XIb0RqF.png

◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
  このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!

A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。

 「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。

 三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
 黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。

 このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。
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2023/01/13(金) 17:00:48.16
◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
  鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!

A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。

●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。

●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
 大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君冝高官」「保子冝孫」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。

 国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君冝高官至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。

 両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
 
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2023/01/13(金) 17:01:13.45
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
  古墳とは違うのだ!

A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
 但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。

 孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。

 類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。

 魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。


◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!

A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。

 K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものであろう。
 庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭頃の実年代が与えられている。
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2023/01/13(金) 17:01:45.14
◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
  日本の古墳は平坦で、高くない!
  卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!

A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
  驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png
https://i.imgur.com/EyIx7C7.png


◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
  「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
  特鋳説の根拠にはならない!

A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量であり、市中から発丘獲得物を含む雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しい。

 全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
 この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
 このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
 また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。

 銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。
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2023/01/13(金) 17:02:23.44
◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
  短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!

A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。

「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步、高六丈六尺」(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
 明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
 ※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
 ※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
「帝王世紀曰。(洛陽)城東西六里十一歩、南北九里一百歩」
「晋元康地道記曰。城内南北九里七十歩、東西六里十歩」(後漢書劉昭注)
 ※晋元康年間:291〜299
「洛陽十二門、南北九里」(太平寰宇記所引陸機『洛陽記』)
 ※陸機(261〜303)」呉陸遜孫、晋入朝289
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
 ※「皇覽」(魏文勅撰)


◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
   10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!

A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。

 実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。
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2023/01/13(金) 17:03:01.24
◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
  周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!

A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。

 六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。

『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。

 また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。

 八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
 よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。


◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!

A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。

 北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
 西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
 南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
 東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
 ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
改新詔における畿内国の定義が畿内第V様式圏に酷似する事実の指摘(濱田2014)は注目に値しよう。
0069◆n7jxAxKCBhb6
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2023/01/13(金) 17:03:34.20
◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
  畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!

A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。

 IB期に庄内系(庄内2〜3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
https://i.imgur.com/zJCqyag.png
https://i.imgur.com/KTMQyfU.png
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。

 畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。


◆FAQ 95
Q:森井貞雄によれば西暦258の年輪年代が与えられた二口かみあれた遺跡が庄内3だ!
  布留0の箸墓が3世紀中頃である筈がない!

A:布留0の実年代を西暦260〜280頃とする寺澤の見解(橿考研2002)と齟齬がない。

ただし森井が二口かみあれたを庄内3併行と判断したという点について出典がない。
森井は青龍三年(西暦235)銘鏡を出土した大田南5号墳の「庄内3」あるいは「布留0」併行を弥生終末期の終わりの一つの定点(森井1999)としており、本Qは本人の著述と齟齬があって疑わしい。

科学年代西暦258をVI-3様式期(布留0古相)の年代観と対照する森岡(2014)。
上記年輪年代(光谷1995)が古墳時代初頭・布留0併行の暦年代を提出したとする河合(石川埋文2000)。
これらと突合すると、光谷の上記暦年代データは箸墓の築造年代を3世紀後半初とする見解と整合性がある。
0070◆n7jxAxKCBhb6
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2023/01/13(金) 17:04:08.80
◆FAQ 96
Q:「銅出徐州」というが銅山があるのは呉領だった徐州南部のみ!
  彭城銅山県は名ばかりの存在で漢書・後漢書に銅山のあった記録もない!

A:彭城銅山県(現・徐州市銅山区)は北宋の元豊年間に宝豊監が置かれ鋳銭が行われていた。宋銭「元豊通宝」の鉛同位体比は三角縁神獣鏡に酷似している。
のち廃坑となり地名のみが今に残る。
 これと別に、隣接する利国には鉄冶を主する監が置かれていた。

 呉の領有した徐州南部とはもと揚州の属であった広陵郡南端の極めて限られた地域のみで、徐州の殆どは魏領である。
漢書地理志広陵国・続漢書軍国志広陵郡とも鉄を産することを記すのみで銅山があった記録がないことは彭城と同じである。


◆FAQ 97
Q:纒向は蛙を食う貧困な寒村だ!

A:西漢は皇帝の宗廟に羊・兎・食用蛙を供えるのが常であった。
  東漢にあっても普通に食用であった。
  「羔、菟、鼃所以供祭也」霍光伝師古注
  「鄭司農注云蟈蝦蟇、玄謂蟈今御所食蛙也」周礼両鄭注
 纒向土壙祭祀において今人が高級食材とする鯛・鴨・桃などと並んで神饌とされることに不自然はない。


◆FAQ 98
Q:纒向は古墳築造のための施設であって都などではない!

A:合理的な理由がない。
 纒向の建設は庄内0式段階で運河掘削が開始する。
 一方、90m級にまで巨大化して弥生墳丘墓の域を超えた墳丘墓の築造は庄内2式段階に開始する。
よって遺跡内への搬入土器が広域に亘る特異性発現、運河掘削ともに、大型墳丘墓築造開始より1世代を超えて先行しており、因果関係が認め難い。
また辻地区の大型建物は3式段階には廃絶しており、箸中山古墳の築造開始に先行する。
よって此の因果関係も求め難い。

 纒向型土壙祭祀の開始も大型墳丘墓築造に先行する。その祭祀内容には葬送儀礼との関係が窺えず、寧ろニヒナメヲスクニや鎮火祭といった服属儀礼や鎮護国家的行事との関連性が指摘されている。
導水施設における祭祀も池上曽根や伊勢遺跡に先行事例が求められ、墳墓との関連がうかがえない。ことに木樋を用いた祭祀は首長居館周辺で執行される特異な祭祀として後世に残っている。

以上より、纒向は祭祀に特化した特異な大遺跡であるが古墳祭祀には特化しておらず、古墳造営とのみ結びつけるのは不合理である。
0071◆n7jxAxKCBhb6
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2023/01/13(金) 17:04:43.37
◆FAQ 99
Q:ホケノ山古墳の年代は古木効果の影響を受けない小枝資料の炭素年代によるべきだ!
  4世紀後半だ!

A:後代の混入物として除外する通説が正しい。
 墓室内に落下していた丸底坩と加飾壺は、他古墳での類例を鑑み、墳頂に囲繞配列されていた祭祀用土器と見るのが妥当と思われる。明らかに混入物である小枝資料は天井崩落時のコンタミであろう。
 ラジオカーボンによる暦年代の較正に当たっては古墳寒冷期に対応する炭素14濃度の乱高下を考慮する必要がある。3世紀末にかけて大幅な炭素14濃度の上昇が観察される。また4世紀後半にはラジオカーボンの崩壊速度に見合う濃度上昇があり、これが撹乱要因となって較正曲線によって絞り込める暦年代が拡散している。
 Intcal20から見た炭素14濃度は西暦270年頃をボトムとして大きく上昇しており、布留1古相のyBP値が新相のそれより高く出る実態と合致している。また、同時代資料と見られる小枝の確率密度分布ピークが一方は4世紀中葉後半、他方が4世紀末から5世紀初頭の値を示すことも、気候変動による撹乱要因が深刻であることを読み取れる。逆に270年頃のピークは両資料とも適切に合致しており、より信頼度が高い。ここから、天井崩落の時期を布留0末から布留1初頭と推察する。
 周濠底のS字甕Aの年代(庄内3)に属する多数の測定例と整合している。
https://i.imgur.com/nHtnTXO.png


◆FAQ 100
Q:会稽東治は蘇州だ! いや上海だ! 長江河口近辺だ いや淮河より北だ!

A:卑弥呼が通交した時代の会稽郡は現在の浙江省および福建省、単独で「会稽」と言えば常に現・紹興市越城区にあった会稽郡治「会稽山陰」を指す。
 「越王句踐、其先禹之苗裔而夏后帝少康之庶子也。
  封於會稽、以奉守禹之祀」(史記越王句踐世家)
 「禹周行天下、還歸大越、登茅山以朝四方羣臣、封有功爵有德。崩而葬焉。
  至少康、恐禹迹宗廟祭祀之絶、乃封其庶子於越、號曰無餘。」(吳越春秋)
 「會稽郡山陰、會稽山在南,上有禹冢」(後漢志郡国四)
✳︎茅山:会稽山の別称
 秦の王翦が楚を滅した時、楚に併合されていた呉越を分離して会稽郡とした。
 会稽郡治が現・蘇州市にった時期、当地は呉本国、呉県と呼ばれ、会稽は依然会稽山麓に所在す。
 以降変転を経て順帝永建四年(199A.D.)に呉郡を分割し、以降の会稽郡治は会稽山陰である。
「会稽東治」が呉郡や徐州に存在しないことは明らかである。

「東冶」は『捜神記』や『太平広記』並びに書陵部蔵三国志 南宋刊「紹熙」本に登場し、すべて越が楚に滅された後の越族の都となった閩越(卑弥呼朝貢当時の「東侯官治」)を指している。
(参考:FAQ40)
0072◆n7jxAxKCBhb6
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2023/01/13(金) 17:05:16.60
◆FAQ 101
Q:纒向の大型建物Dというのは東西二間しか見つかってないではないか!
  四間x四間に復元して大型大型というのはインチキだ!

A:「本来の建物規模は調査の状況や建築学的な検討から東西も4間であったと」
 と調査機関は公式発表している。

 事実、東西6・2m、南北19・2mはアンバランスに長大である。一般に偶数柱間の総柱建物は居館の系譜と考えられており、このような形態は異例であろう。
 建物Bと建物Cの間隔は建物Cの東西二間に等しく計画的に設計されている。
 建物Dで発見された柱列西端から建物Bまでの間隔は建物Dの東西四間に等しい。
 また建物Dと南柵列との間隔は建物Dの南北一間(束柱をカウントすれば南北二間)である。
 全体が規則的・計画的な配置であることを考慮すれば、総柱建物が正方形を志向する傾向も鑑み、建物CとDの間隔も建物Dの東西二間に等しく復元することは合理的である。つまり建物Dを東西四間、南北四間とした復元は合理的かつ妥当である。
 建物Dを破壊している溝SX-1001、建物Cを破壊している溝SX-1002ともに底の僅かな深さしか残存しておらず、両建物のあった地表面への削平が深かったことが窺知される。

大型建物群配置図 https://i.imgur.com/4W4mle2.png
同空撮 https://i.imgur.com/A1eBwbR.png
建物B空撮 https://i.imgur.com/HytoKvD.png
Dより西を望む https://i.imgur.com/LB1oG3k.png

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0073◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2023/01/13(金) 17:05:48.63
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
 荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】なし
0074邪馬台国を探すノマド
垢版 |
2023/01/13(金) 17:52:21.91
魏への朝貢、畿内からと博多からだと明らかに博多からの方が楽ですな。しかも博多の海人族は朝鮮への往来は日常茶飯事でなんら特別な事じゃない、言うならば通勤みたいな物だ。片や畿内の盆地にお住まいの方にとっての対馬海峡はジェットコースターの絶叫マシンみたく恐ろしい海。さあどうでしょう?
0075日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/13(金) 17:58:33.44
>>74
だからこそ畿内勢力は真っ先に博多を手に入れたわけよ
0076邪馬台国を探すノマド
垢版 |
2023/01/13(金) 17:59:34.65
>>75
いつのことでっしゃろ?
0077日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/13(金) 18:00:08.81
>>74
まず、自分の不明を恥じるべき
それが誠実な態度
0078日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/13(金) 18:03:00.47
私、鉄などの硬いものに惹かれるのですが、邪馬台国時代の鍛冶職人だったですかね。
それか、武人かな?
0079邪馬台国を探すノマド
垢版 |
2023/01/13(金) 18:06:03.80
遣唐使の航海の成功率は約50%,往復すると25%の確率であったようです。 畿内の航海術は恐ろしいですね。
3世紀だと朝貢が成功する確率は10%もいかないでしょうね。卑弥呼の朝貢が100%成功したのは博多の海人族の技術おかげでしょうね。
https://i.imgur.com/4AzoW2v.jpg
0080日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/13(金) 18:07:09.81
>>74
九州に集めて送っただけだよ
慣れている九州さんよろしくな。じゃないの?
0081邪馬台国を探すノマド
垢版 |
2023/01/13(金) 18:11:33.82
>>80
倭種なら自分で行けよ、と卑弥呼様は仰りました。
0082日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/13(金) 18:12:14.18
>>79
朝鮮半島、白村江で使えないんだな。
まあ、魏志倭人伝 持衰で困難な事がわかる。
大陸直行便は行きの方が困難。
0084日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/13(金) 18:14:57.15
>>81
倭種ではないだな。女王国である
丹後半島もある。翡翠などもあるんだな。
駅伝スタイルだよ
0085邪馬台国を探すノマド
垢版 |
2023/01/13(金) 18:15:40.07
>>84
駅弁スタイルかw
0087日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/13(金) 18:18:00.60
>>83
妄想だという理由は?
そうであって欲しいって願望だけでしょ
0089邪馬台国を探すノマド
垢版 |
2023/01/13(金) 18:19:18.38
ポンコツには負のオーラしか感じないんだよなあ
0091邪馬台国を探すノマド
垢版 |
2023/01/13(金) 18:22:12.07
>>90
ん?
0093邪馬台国を探すノマド
垢版 |
2023/01/13(金) 18:26:16.63
歴博の圧力か?
0094日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/13(金) 18:26:29.72
意図的に誤解を招くような記述をするのは犯罪だからなあ
0095日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/13(金) 18:27:50.91
大陸利権を握ってきた卑弥呼・台与の筑紫倭国連合に、神武・吉備・物部連合のヤマト王権(後の日本国)勢力が対抗軸を形成した、というのが弥生時代末期・古墳時代初期の大きな構図か
神武・物部が筑紫の出なので、筑紫の中にもヤマト側に協力した勢力もあったかもな
その勢力が作ったのが那珂八幡古墳かも知れない
0096日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/13(金) 18:33:14.52
>>86
では近畿系や吉備系の土器出土する理由は?
0097日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/13(金) 18:34:50.19
前スレの>>736

736日本@名無史さん2023/01/12(木) 21:38:24.35>>767
九州説が説という名に値するために必要なこと
卑弥呼の宮殿がどこにあったのか、考古学的な証拠を挙げて指摘すること
卑弥呼の鬼道について考古学的な証拠を挙げて説明すること

こういう問いかけをしたら
すぐにこういう反応があった

737日本@名無史さん2023/01/12(木) 21:47:18.49>>756
畿内説が説という名に値するために必要なこと
・3世紀までの中国側が畿内の存在を知っていたことを証明すること
・3世紀に突発的に現れた纏向の前に男王や共立して間もない時期の卑弥呼がどこにいたのか立証すること
・纏向から大陸との直接交流の濃厚な考古学的痕跡が出てくるのを神に祈ること
0098日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/13(金) 18:35:34.13
それに対して

756日本@名無史さん2023/01/12(木) 22:44:52.25
>>737
・漢書地理志に楽浪郡の先の海の中に倭人がいる。百余国にわかれており、 定期的に贈り物を持ってやって来る国があると記されている
後漢書には安帝永初元年(107年)に倭國王帥升が生口百六十人を献じたとの記事がある
魏志倭人伝に倭国についての説明で倭国大乱の前に7,80年男王の時代があった旨記されている
また、倭国は以前は百余国に分かれていたが卑弥呼の時代に魏と交流している国は三十か国(倭国が29か国でプラス狗奴国)と示されている
つまり帥升に始まる倭国は卑弥呼の倭国と連続している
帥升のときの倭国のテリトリーと卑弥呼の時代と国々が統合されて三十か国になった以外はほとんど同じだったろう
つまり畿内を含む倭国のテリトリーについて中国は把握していたことになる

・上記でふれたように倭国は帥升以来連続した王権となっていたが、倭国大乱がありその後ヤマトの卑弥呼が共立されたことで再統一された
帥升の都はその時代のわが国で最大の都市遺跡である伊勢遺跡が推定される 卑弥呼はヤマトの唐古・鍵遺跡に暮らしていただろう 当時は母系社会でその一族の長老がすべての相続財産を管理する
その地を離れて生活することは難しかったろう 即位に伴って宮殿などの施設が必要になり纏向遺跡が開発されたのだろう

・纒向遺跡で、東南アジア産とみられるバジル(和名メボウキ)の花粉が確認された。中国との交易を通してもたらされたと考えられる

とレスしたが、それ以降レスはない

最初の問いかけに耐えられる九州説の人がいるなら、ぜひ答えてほしい
0099日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/13(金) 18:37:34.83
>>97
ばかなのかな
0100日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/13(金) 18:38:45.97
>>95
大陸や半島を追い出された連中がコッソリ奈良に入植し、九州に居た倭王の末裔だと偽ってただけ
ヤマト王権って本当は北部九州の倭王とは赤の他人なんだよ
0103日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/13(金) 18:42:18.05
>>98
魏志倭人伝をマスターしてから出直して来いよ
後漢書は後世の書物だ
0104日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/13(金) 18:43:34.20
>>101
那珂八幡古墳に
神獣鏡とか?近畿系土器あるが?
支配関係でなく年代から見て同盟関係と思うが?
0105日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/13(金) 18:44:33.64
北九州の城野遺跡など3世紀末時点でまだ畿内や吉との関連性を示すものは何も無い
0106日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/13(金) 18:46:43.13
>>105
那珂八幡古墳は4世紀以降でいいのか?
0107日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/13(金) 18:46:45.95
>>103
後漢書を引用したのは帥升の記事を紹介するため
0108日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/13(金) 18:49:27.68
>>104
ほんの僅かな共通点で征服だの同盟だのと言い出す時点で
お前の脳みそが韓国製だという事だよ
それは考古学者にも言えるかもな
想像と推測の違いがわからない人はマジでIQが低いんだよ
自称学者という朝鮮式妄想家だ
0110日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/13(金) 18:56:00.19
>>109
そこから神獣鏡や近畿系土器出土。
又、筑後、佐賀、福岡に
前方後方墳とか、現在調査中のうきはの双方中円墳かもしれんない。
西ノ城古墳 原形は吉備らしい。
何故だか?奈良や香川(4世紀)より古いみたいだよ。
0111日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/13(金) 18:56:15.90
少し前の九州説論者は少しは議論の対象になった

今の諸君はレベルが低すぎる
間違いを指摘されても答えることもなく、理由なく罵倒することに夢中になる

以前の論者は九州説に見切りをつけて、このスレから離れていったのだろう
0112日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/13(金) 19:07:41.70
>>111
少し前って昭和初期?
限られた人たちが都合のいいように情報をかい摘んで作り話を展開してた連中だな
お前もか?
0113日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/13(金) 19:11:05.74
>>111
畿内説つまりキナイコシのレベルが低いから、書く意味を見出せなくなったのだろうよ。もう一人の畿内説もアレだし
0114日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/13(金) 19:11:34.43
>>108
九州説はまた反論せずに罵るだけか
韓国スタイルだな
0115邪馬台国を探すノマド
垢版 |
2023/01/13(金) 19:13:46.15
>>114
畿内説には駅弁スタイルの人もいるw
0116日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/13(金) 19:16:01.58
>>106
那珂八幡古墳は土師器1Bなので3世紀前半のうち
0117日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/13(金) 19:23:42.30
>>116
で神獣鏡や近畿系出土だろ。
支配でなく同盟関係では?
0118日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/13(金) 19:24:51.77
岩戸開きだよな
岩戸は葦原中国の国境を守る砦じゃないか
倭国大乱そして、ヤマト政権である邪馬台国誕生の話かもな
旧石器時代からいる勢力の砦だったら大変なことになる
誰が参加したのか
0119邪馬台国を探すノマド
垢版 |
2023/01/13(金) 19:25:07.71
>>116
土師器2aは何年から?
0120日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/13(金) 19:26:39.14
撞賢木厳之御魂天疏向津比賣命は、 サカキであるイワの御魂を撞いて、塞がるものを取り除き天を通した、向かいの津の姫という意味かな

岩戸開きでもサカキを引っこ抜いてとかいう件があったな
0121日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/13(金) 19:34:16.91
>>119
まあ、どっちでも構わない
ヘラ削りが特徴、近畿系?瀬戸内系?
0122日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/13(金) 19:34:50.84
岩戸開きは鹿の骨で占いをしたとある
卜骨の風習に合致するな
天児屋命も参加しているのか
0124日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/13(金) 19:40:47.80
>>119
>土師器2aは何年から?

248年
0125日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/13(金) 19:41:48.43
倭国大乱は日本列島の最古層の原住民を追いやろうとしたのか?
どう見ても倭国大乱前は近畿の在地の勢力は平和に暮らし国境に砦を作って守っていただけなんだけなんだよな
0126邪馬台国を探すノマド
垢版 |
2023/01/13(金) 19:44:13.15
>>124
なぜピンポイント?
0127邪馬台国を探すノマド
垢版 |
2023/01/13(金) 19:46:00.62
>>121
瀬戸内だと?
0128日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/13(金) 19:53:06.54
>>127
淡路島、兵庫も含まれるから近畿だったな。
九州限定が崩れる。
0129日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/13(金) 19:58:10.00
>>126
定期朝貢終了が楽郎土器激減の画期
0132邪馬台国を探すノマド
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2023/01/13(金) 20:22:26.03
>>131
よく分からんが人によって違うのか
0137邪馬台国を探すノマド
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2023/01/13(金) 20:37:45.76
>>135
新しい表はある?見たいんだけど。
0138日本@名無史さん
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NGNG?2BP(1000)

お前らみんなコテ付けろ
0139畿内説支持@百襲姫命が卑弥呼です
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NGNG?2BP(1000)

てすと
0141邪馬台国を探すノマド
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2023/01/13(金) 20:47:24.47
>>136
それは卑弥呼じゃないだろ
0142畿内説支持@百襲姫命が卑弥呼です
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NGNG?2BP(1000)

>>74
それは大した論点にならないと思う。
だって魏志には、伊都国が外交玄関口として機能していた事がハッキリ書かれてるんだし。
https://i.imgur.com/FN9PnNN.png


邪馬臺国から使者を直接魏国に送ったわけじゃないのでは。
0143畿内説支持@百襲姫命が卑弥呼です
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

魏志に登場する一大率って、後の筑紫太宰帥、大宰府と果たしてる役割が殆ど同じだよね
0144邪馬台国を探すノマド
垢版 |
2023/01/13(金) 20:51:17.79
>>142
畿内には何があると言うのですか?
0145畿内説支持@百襲姫命が卑弥呼です
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NGNG?2BP(1000)

あと古代の中国人は、畿内に「魏志の邪馬臺国」があったと認識してたようだね
https://i.imgur.com/StD0gL0.jpg
(参考:隋書倭国伝)
0146日本@名無史さん
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2023/01/13(金) 20:52:51.90
>>137

その前に、お前が言っていた
船用の小型化した土器はどこで出ている?

それと、九州製の弥生土器は半島で沢山出ているというのは
お前が貼った弥生中期の↓しかないのか?

https://i.imgur.com/Lfg2eel.jpg
0148邪馬台国を探すノマド
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2023/01/13(金) 20:54:15.13
>>143
魏使は九州から出ていないと解釈していますが、
豊前から東は海を渡ると倭種と書いてます
0149邪馬台国を探すノマド
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2023/01/13(金) 20:55:52.21
>>146
悪いが探したが出てこない
0150畿内説支持@百襲姫命が卑弥呼です
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>144
そりゃ畿内にあったのは邪馬臺国でしょうね。
また、3世紀既に特殊器台の分布から『畿内・出雲・吉備』の古代オールスターが結びつきが伺えます。
この連合体が女王共立の『女王国(邪馬臺国は構成国家)』だったのでしょう。
https://i.imgur.com/qx1YdoM.jpg

するとなるほど、親魏大月氏王に匹敵する親魏倭王印を印綬されるに足る版図だと納得がいきますね。
0151日本@名無史さん
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2023/01/13(金) 20:58:32.81
>>144
>畿内には何があると言うのですか?

邪馬台国
0152日本@名無史さん
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2023/01/13(金) 20:58:40.93
>>121
>ヘラ削りが特徴、近畿系?瀬戸内系?

ヘラ削りとくれば、「東阿波型土器」   @阿波
0153畿内説支持@百襲姫命が卑弥呼です
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>147
邪馬台国から直接魏に朝貢してたんだよ

帯方郡使が常に留まっているのは伊都国なのに?
外交文書は伊都国で確認されてから、都に伝送されるのに?

記事見る限りは邪馬臺国(女王の都する所)と直接交流してなさそうですけどね
0155日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/13(金) 21:01:42.57
>>98
前スレでそのレスをした者だ

>・漢書地理志に楽浪郡の先の海の中に倭人がいる。百余国にわかれており、 定期的に贈り物を持ってやって来る国があると記されている
>後漢書には安帝永初元年(107年)に倭國王帥升が生口百六十人を献じたとの記事がある
>魏志倭人伝に倭国についての説明で倭国大乱の前に7,80年男王の時代があった旨記されている
>また、倭国は以前は百余国に分かれていたが卑弥呼の時代に魏と交流している国は三十か国(倭国が29か国でプラス狗奴国)と示されている
>つまり帥升に始まる倭国は卑弥呼の倭国と連続している
>帥升のときの倭国のテリトリーと卑弥呼の時代と国々が統合されて三十か国になった以外はほとんど同じだったろう
>つまり畿内を含む倭国のテリトリーについて中国は把握していたことになる

⇒上記は倭国王(倭面土国王)帥升がどこにいたことを想定して書いたのかがわからないが、私も大方の研究者も帥升は北部九州を想定している
  (Wikipediaでは「後漢書東夷伝の記述からはこの倭国の所在地は明確でないが、九州の可能性が高い」と記述)
  概ね伊都国、奴国、邪馬台国(九州説前提)が多いのではないか
  私もあなたが言うように「帥升に始まる倭国は卑弥呼の倭国と連続している」と考えるが、帥升を北部九州で想定しているため、卑弥呼も同様に北部九州という結論になる
  そもそも私は「倭国」自体が当時の中国では北部九州を軸とする対馬海峡一帯を指す言葉だと考えているので、その観点でも帥升も卑弥呼も当然北部九州にいることになる
  ということで、上記で引用したあなたの文章のうち最後の一行を除いては同意だが、最後の行の「つまり」の後の「畿内を含む」が余計だ
  私の解釈ではそこに畿内という地域が入り込んでくる余地がない
0156日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/13(金) 21:01:57.31
九州説の致命的な欠陥を、畿内説信者が的確に攻撃し
畿内説の致命的な欠陥を、九州説信者が的確に攻撃する。
互いの弱点を知り尽くして、トンデモ同士の行き詰まり。   @阿波
0157邪馬台国を探すノマド
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2023/01/13(金) 21:03:37.58
>>142
貼って貰った画像がスマホだと見づらいのでマシンを変えてみる
0158畿内説支持@百襲姫命が卑弥呼です
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

でも九州にも皇室のルーツがあると思うのですよ
これが神話にも反映されて物事をややこしくしている

これ平原(伊都国)で発見された鏡ですが、形状が八咫鏡と極めて類似していますね?
そう、どこかのタイミングで九州伊都国と邪馬臺国が合併して畿内に齎されてるんですわ
https://i.imgur.com/FJmR5rX.jpg
0159畿内説支持@百襲姫命が卑弥呼です
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NGNG?2BP(1000)

でいつ畿内の皇室と九州とが一体化したかというと、4~5世紀。
繰り返しますが、キーとなる国は魏志倭人伝(2-3世紀倭国の様子を記す)に登場する伊都国。

伊都国出土鏡が皇室のレガリアたる「八咫鏡」の特徴「八頭花崎八葉形」を備える唯一の鏡だという事は有名ですが、
加えて応神天皇出生比定地も筑前国【怡土】郡長野村蚊田なのですわ。
※応神天皇は九州から畿内にやってくる史上二人しかいない天皇だったよね?
0160日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/13(金) 21:11:49.57
>>158
>でも九州にも皇室のルーツがあると思うのですよ

お前が思っても、九州の風土記に一切無い。   @阿波
0161畿内説支持@百襲姫命が卑弥呼です
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

伊都(怡土)で生まれたとされる応神天皇。彼が伊都国のレガリアを継承し畿内に持ち帰る事によって、畿内による九州支配が名実共に確立されたのでしょう。

事実、応神以降の畿内の古墳には九州産の石が使われる様になるなど、関係の深化を伺う事が出来ます。ちな政治の中心も奈良から沿岸の大阪に移ります。
https://i.imgur.com/7QktyUw.jpg

そんな親九州の応神天皇系が断絶し、北陸豪族継体天皇が奈良入りしてから僅か9ヶ月後、九州で磐井の乱が起きたことも示唆に富みますね?
磐井の乱は継承戦争だったのかもしれません
0162畿内説支持@百襲姫命が卑弥呼です
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

逆に応神天皇以前にはあんま畿内と九州が【直接】活発に交流してた形跡無いんすよ
中継地点の吉備を通じた交流でしょうねえ
0163日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/13(金) 21:15:54.71
※各地の風土記のうち、「天地初発より記された」風土記は、阿波国風土記のみ。

「天皇の稱號(しょうごう) (萬葉集註釋 卷第一)」

阿波國風土記ニモ
或ハ 大倭志紀彌豆垣宮大八島國所知(やまとのしきのみづがきのみやにおほやしまぐにしろしめしし)天皇 朝庭云、
或ハ 難波高津宮大八島國所知(なにはのたかつのみやにおほやしまぐにしろしめしし)天皇 云、
或ハ 檜前伊富利野乃宮大八島國所知(ひのくまのいほりののみやにおほやしまぐにしろしめしし)天皇 云。

これは、崇神天皇、仁徳天皇、宣化天皇 の称号です。
通説では天皇家や建国の歴史とは何の関わりもないはずの阿波国、
その地誌で、何故、天皇の称号について書かれるのでしょうか?
役人が天皇に献上する書です。
上記の天皇が阿波に関係なければ、書けるわけがありません。
「お前、何書いとんねん!」では済まないのです。    @阿波
0165畿内説支持@百襲姫命が卑弥呼です
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

あと一大率を伊都国に置いたのもあくまで女王国でしょ
倭国と女王国と邪馬臺国は区別して書かれていると思いますよ


画像化するとこんな感じね
https://i.imgur.com/PVJicFL.jpg
0167日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/13(金) 21:19:40.33
※各地の風土記のうち、「天地初発より記された」風土記は、阿波国風土記のみ。

「天皇の稱號(しょうごう) (萬葉集註釋 卷第一)」

阿波國風土記ニモ
或ハ 大倭志紀彌豆垣宮大八島國所知(やまとのしきのみづがきのみやにおほやしまぐにしろしめしし)天皇 朝庭云、
或ハ 難波高津宮大八島國所知(なにはのたかつのみやにおほやしまぐにしろしめしし)天皇 云、
或ハ 檜前伊富利野乃宮大八島國所知(ひのくまのいほりののみやにおほやしまぐにしろしめしし)天皇 云。

これは、崇神天皇、仁徳天皇、宣化天皇 の称号です。
通説では天皇家や建国の歴史とは何の関わりもないはずの阿波国、
その地誌で、何故、天皇の称号について書かれるのでしょうか?
役人が天皇に献上する書です。
上記の天皇が阿波に関係なければ、書けるわけがありません。
「お前、何書いとんねん!」では済まないのです。    @阿波
0168日本@名無史さん
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2023/01/13(金) 21:19:59.38
>>158
>でも九州にも皇室のルーツがあると思うのですよ

お前が思っても、九州の風土記に一切無い。   @阿波
0169日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/13(金) 21:20:14.48
>>148
豊前から東は海を渡ると倭種と書いていません。
女王国ですね。
0170畿内説支持@百襲姫命が卑弥呼です
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

帯方郡から女王国まで1万2000里ってのもピッタリ一致するんですわ

なるほど、女王国とは>>150(吉備[支惟]・畿内[邪馬臺]・出雲[投馬]を主要とする本州連合)の事だったのかと。
https://i.imgur.com/lg3LGrM.jpg
伊都国だけ「女王国に統属する」と明記されていたのは、伊都国は女王国加盟国ではなく女王国連合に負けた側だったからかと。納得がいきます
0171日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/13(金) 21:23:36.03
>>170
>帯方郡から女王国まで1万2000里ってのもピッタリ一致するんですわ

帯方郡から女王国(阿波)まで直線距離で1万2000里ってのもピッタリ一致するんですわ。   @阿波
0172日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/13(金) 21:24:31.80
4世紀後半は葛城の時代やね
葛城やイトに掛かる枕詞は青柳の
周防灘の姫島の七不思議には柳を逆さに植える話があるね
各地の祭で、柳の枝で地面を叩き鬼を呼び出すという神事もある
花札のアメの図柄は柳やね
0173畿内説支持@百襲姫命が卑弥呼です
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

というかもっと言えば魏志倭人伝には記紀の同時期に比定される人物に近しい名前がバンバン出てくるんですわ

邪馬臺国の官吏
伊支馬(イキマ)

イクメイリヒコ(垂仁)[※生駒山前に都や墳墓築いてるのでイクメとはイコマのことか]

弥馬獲支(ミマワキ)

ミマキイリヒコ(崇神)

卑弥呼死去後に女王になった臺与(トヨ)

日本初代斎王、豊鍬入姫(“とよ”すきいりひめ)
0174日本@名無史さん
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2023/01/13(金) 21:27:17.11
>>172
>4世紀後半は葛城の時代やね

碌な弥生集落遺跡や鍛冶炉遺構の無い葛城に、「邪馬臺国」など興る訳がない。   @阿波   
0175邪馬台国を探すノマド
垢版 |
2023/01/13(金) 21:27:36.15
>>154
方角は変わっていません、魏志倭人伝でも豊前は東ですその豊前(邪馬国辺り)から東に海を渡ると倭種の国です、隋書でも豊前の秦王国は東です。方角は全く変わっていませんが
卑弥呼以降に国家の範囲が変わったのです。「北部九州の国」から、「九州から近畿以東を含むエリアの国」へ
0176日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/13(金) 21:28:20.13
>>170
戦いで敗けたのか?
0177邪馬台国を探すノマド
垢版 |
2023/01/13(金) 21:28:47.41
>>166
画像は無かったかもしれないが記事はあった
0178日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/13(金) 21:28:48.61
記紀って鬼の歴史じゃないのかと思うんだよな
記紀で消された歴史や逆の視点の歴史が日本の歴史なんじゃないのか?
0179日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/13(金) 21:29:26.25
伊都国は千戸だから奴国だけでも2,3分で終わるだろ
統属したのは伊都国が楽浪系韓人だから、女王国には利用価値があったからだろ
0181日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/13(金) 21:32:42.03
大率が検察していたのは伊都ではなく、伊都から北の対馬海峡の国々である。
それらの周辺諸国は伊都の大率を畏怖していた。
伊都が畏怖していたとは書いてない。

江戸幕府の将軍を諸藩が畏怖したというときに、江戸は将軍の支配下だから植民地だなどとは言わない。
むしろ直轄地の権威は高いのが普通だ。
各地の官とは別に広域を支配する大率の本拠地が伊都にあるということは、伊都が女王の直轄地、すなわち女王国であるということだ。
事実、大率が検察する地域は「女王国から北」と書かれており、伊都が女王国に含まれることは明白だ。
畿内説では、伊都の大率はどこまで支配していたのだろうか?
伊都の大率が若狭湾まで検察していたのだろうか?
陳寿の意図は明らかで、伊都を女王国の都として書いているのである。
0182日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/13(金) 21:32:43.96
>>155
ポイントは漢書地理志にある百余国の倭人の国と、後漢書の倭國王帥升の倭国と、魏志倭人伝の倭国は従前は百余国に分かれていた倭国は同じ国かということ
これは百余に分かれていた点が一致しているので同じ国のことを指していると思う
さらに卑弥呼の時代は倭国内の統合があって、倭国が29か国でそれに狗奴国を合わせて三十か国が使訳通ずる所として示されている

あなたは北部九州内にこの百余国があったという

さらに、近畿にも列島にも多くの人々が暮らしていたことは暗に認めながら、その国の存在に中国は気づいていなかったという

私にはありえない想定であるとしか言いようがない

もう一つ、
・纒向遺跡で、東南アジア産とみられるバジル(和名メボウキ)の花粉が確認された。中国との交易を通してもたらされたと考えられる
について、感想を
0183邪馬台国を探すノマド
垢版 |
2023/01/13(金) 21:33:38.93
>>180
今は忙しい
0184日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/13(金) 21:33:41.59
「自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」

女王国より北の国々に対しては、一人の大率を特設して検察している。
北の国々は大率を畏れ憚っている。
大率の役所は伊都国に常設してある。
中国本土における刺史のような「検察官の役目」を果たしている。

・里程部分で既に地方官の説明がなされている
・自女王國以北とあるので、女王国よりはもっと北の諸国に焦点がある
・大率の業務についての説明は検察官のものだけ
・三国志では「治+場所」はその場所に役所を構えるという意味が多い

女王国=邪馬台国の首都である伊都に、
邪馬台国政庁(国会議事堂:女王卑弥呼や大臣達)
伊都国都庁(都庁:都知事爾支と部下たち)
大率執務室(検察庁:検察官大率→北方諸国巡回でほとんど伊都にはいないが)
などなどの重要官庁が集中していた。

刺史は本来は領地を持たないただの「検察官」であり、
首都から派遣されて各国を巡回し、年に1回首都に戻って報告していた。
大率の職務も同じ検察官。

中国大陸は広いので、報告するのに刺史本人でなく使者を立てるようになり、
本来の地方官と居座った刺史の二重権力を解消するために、結局は刺史や牧が地方官になった。
邪馬台国とその北の諸国であれば、対馬海峡を行き来するだけだから、
大率は伊都国に執務室を構えて、そこから各国へ行き来して検察していただけ。
0185畿内説支持@百襲姫命が卑弥呼です
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>179
【伊都国の異質な点】
https://i.imgur.com/bI8FryN.jpg
①九州諸国の中で唯一、官に「ヒナモリ(辺境を守る兵士の意)」を有しない。
②官の数が3人以上記載されている。
※邪馬臺国と伊都国のみ
③王が代々居ると特筆されている。
※王の存在が明記されているのは狗奴と邪馬臺と伊都のみ
④平原の副葬品が尋常ではない


いやー単なる小国とは思えませんね
九州を纏め上げていたのでは?
0186日本@名無史さん
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2023/01/13(金) 21:35:36.98
>>175
俺と近いな。近畿までだな。
当然、翡翠産地も女王国。
邪馬台国は女王の都だが
女王国の都でもない。
伊都国が近い機能を持っている。
伊都国、不彌国にいると思っている。
0187日本@名無史さん
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2023/01/13(金) 21:36:26.65
魏志倭人伝の底本となった魏略には伊都国は一万余戸と記載されているからな
伊都国の存在感からして魏略の方が正しかろう
0188畿内説支持@百襲姫命が卑弥呼です
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>181
伊都を女王国の都として書いているのである。

女王の都するところは邪馬臺国であると明記されています
0189日本@名無史さん
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2023/01/13(金) 21:37:39.33
>>143

率と帥は、中国語では意味と発音が同じ字だとか。
つまり大率と太宰の帥は同じ意味。
0190日本@名無史さん
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2023/01/13(金) 21:37:59.70
鬼の大将、酒呑童子な
天智天皇の歴史にそっくりなんだよな
殷の紂王が最後に愛した天智玉
諱は葛城
0191日本@名無史さん
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2023/01/13(金) 21:39:35.25
帯方郡使は楽浪人の属国伊都国に滞在するから、
伊都国王が一大率に平伏する姿を見たんだよ
粗相があると叱られたりしたんだろう
0193畿内説支持@百襲姫命が卑弥呼です
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>175
いえ、南と東がひっくり返ってるんですよ
隋書では勢い余って対馬から一支までをも東にしてるでしょう
0194畿内説支持@百襲姫命が卑弥呼です
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

日琉祖語から日本語と琉球語が分岐したのが1700~1450年前と推定されますから、魏志倭人伝の時代はまだ一緒だったか分岐して間もなかったか

であればまだ北をニシと呼称する人々が九州には残っていて、本州との間で齟齬が生じて方角がグッチャグチャになっていたのでは。
後世沖縄のニシバル(“北の領地”の意)を日本役人が勝手に西原と変えてしまったような齟齬が生じたのかもしれません。
0196邪馬台国を探すノマド
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2023/01/13(金) 21:43:47.60
お前はうざい
0197畿内説支持@百襲姫命が卑弥呼です
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>189
ですね
ちなみに大宰府も「遠の朝廷」として筑紫島の行政を担当していました。
諸国を検察する&外交もやってる一大率と重なる所が大きいですね。
0198日本@名無史さん
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2023/01/13(金) 21:44:41.63
有間皇子の件、即位までの長い年月、その間に消された歴史があるんじゃないの?
0199琪瑛教大祭酒
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2023/01/13(金) 21:44:48.85
まだそんなことを言っているのか。伊都に卑弥呼の大卒(刺史)を置き監察してると書いてあるだろ、何を読んどるんじゃ?。箸墓が卑弥呼の墓、纏向が道教道観、岱輿達がお勉強をするところ。邪馬台の官は別のとこにいるの。阿残墓なぞ卑弥呼とは関係無い。
0200日本@名無史さん
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2023/01/13(金) 21:46:06.26
>>188
でもなんら軍隊や租税に関する記述がない。
中心国で実際に行っているなら水行20日、10日1月ではなく、方角、里数表示
途中の停泊地も詳細に記載すると思う。
女王の都だったとしている。
0201畿内説支持@百襲姫命が卑弥呼です
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

https://i.imgur.com/StD0gL0.jpg
古代中国人「畿内にきました。ここが魏志に書かれている邪馬臺國です」
現在日本人「邪馬臺国は九州なんだ!」


うーん、少し滑稽ですよね
0202畿内説支持@百襲姫命が卑弥呼です
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>200
帯方郡使は常に伊都国に留まると書かれてるので実際には都まで行ってないのかもしれませんね
だからと言って伊都国=都にはならないでしょう

外交玄関口が九州伊都国にあっただけでは?
0203日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/13(金) 21:52:01.65
今日、畿内が朝鮮半島と交易していたのかについての議論があった
淡路島や琵琶湖のあたりに弥生時代から鉄器工房があり交易していたことは否定のしようがない
かつまた淡路島の工房跡は倭国大乱の終了するまで100年の間稼働していた、その間朝鮮半島から鉄を恒常的に輸入していた

この取引で朝鮮半島の人はどこから来た人なのかを必ず聞いただろう
朝鮮半島の人は倭国の近畿あたりからの来訪者だと認識していたはずだ

さらに、この経緯について帯方郡の役人が知らなかったはずはない

つまり、このことから九州説は「絶対」に成り立たないいうことになる
0204畿内説支持@百襲姫命が卑弥呼です
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>203
そうですね
倭国大乱後に「畿内・吉備・出雲」の超巨大なグループが誕生していますし、これが女王国でしょう
https://i.imgur.com/qx1YdoM.jpg
0205日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/13(金) 21:55:25.44
大陸との交流を伊都国が一手に取り仕切っていた
そうなると当時は輸入品しかない鉄なんかは伊都国の大きな利権だったろう
それに反発して筑紫出身の神武や物部が奈良盆地を征服して近隣諸国と共に筑紫・伊都国への対抗軸を作ったことは可能性として考えられる
そして後世では反主流派だったそちらの王統が日本列島を統一したと
0206畿内説支持@百襲姫命が卑弥呼です
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NGNG?2BP(1000)

>>205
筑紫出身の人達が直接征服したならば、畿内で九州産の物品が爆発的に増える時期出てくると思いますがそれっていつですか?
0207畿内説支持@百襲姫命が卑弥呼です
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NGNG?2BP(1000)

卑弥呼=百襲姫
卑弥呼と百襲の類似点
https://i.imgur.com/rAq6CzJ.jpg
https://i.imgur.com/mYngBZO.jpg
箸墓古墳に吉備特有の特殊器台(百襲の弟は“吉備”津彦)
https://i.imgur.com/7seXfHm.jpg


なるほど、百襲姫は大物主を自分の体に降臨させる事が出来たと。であれば彼女の言葉は神の言葉と同義。そして未来の事も予知できる。
うーん、卑弥呼に相応しい。。。
0208日本@名無史さん
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2023/01/13(金) 22:01:48.50
>>206
弥生時代には九州の独壇場だった銅鏡も絹も鉄も古墳時代に畿内に広がるよね
代わりに弥生時代の畿内の祭祀の主役だった出雲系青銅器祭祀が急速に廃れたね
弥生時代末期~古墳時代初期に明らかにいろんな状況が変わった
奈良盆地に突然強力な政治権力も出現したしね
0210邪馬台国を探すノマド
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2023/01/13(金) 22:03:58.96
>>193
狗邪韓国から九州までで方位が書かれているのは、「対馬から南に壱岐」だけです。海流とかでルートの選び方で方位が決まりますが対馬の北からのルートだと壱岐は南なので間違ってはいないと思います。
https://i.imgur.com/CpsZU8s.jpg
0213琪瑛教大祭酒
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2023/01/13(金) 22:05:59.82
だから、まだそんなことを言っているのか?今日もそうだが朝鮮と列島はおんなじなんだな、壇君で誤魔化し中華の影響を隠し、台湾有事だの煽り、中華と敵対する。
ますます差が開いていってるんだけどな。愚かとしか考えられんがな。
0214畿内説支持@百襲姫命が卑弥呼です
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>>208
では、なぜ纏向で九州の土器がほぼ見つからないのでしょう
0215日本@名無史さん
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2023/01/13(金) 22:11:08.40
淡海三船と志貴皇子は本来の形を取り戻そうとした気がするんだよな
天智天皇の子、志貴皇子の万葉集の歌にその後の歴史の謎が隠されていると思うんだよね

志貴皇子は難波宮にいた時に詠んだ歌
葦邊行 鴨之羽我比尓 霜零而 寒暮夕 倭之所念

他にも万葉集に歌が残っている
石激 垂見之上乃 左和良妣乃 毛要出春尓 成来鴨

神名火乃 磐瀬之社之 霍公鳥 毛無乃岳尓 何時来将鳴


牟佐々婢波 木末求跡 足日木乃 山能佐都雄尓 相尓来鴨
むささびは 木末(こぬれ)求むと あしひきの 山のさつ男に あひにけるか

佐都雄をさつ男にしたり猟師にしたりする訳ばかりだが、山の里男でいいんじゃないか

時鳥を迎えようと動いていたのかと想像が膨らむ
0217日本@名無史さん
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2023/01/13(金) 22:12:06.71
>>214
神武・吉備・物部政権が反筑紫連合だとすれば九州からは交易や祭祀や古墳築造のための人が来ないので九州製土器が少ないのは当たり前
神武勢力は安芸だの吉備だのに何年も滞在していたので、奈良盆地に来るのに携えて来たのはそのあたりの土器じゃないか
0218畿内説支持@百襲姫命が卑弥呼です
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>銅鏡も絹も鉄も古墳時代に畿内に広がるよね

それぞれ伝播時期結構違いますよ
畿内で鉄器本格的に広まるの4世紀くらいじゃないですか?
0219邪馬台国を探すノマド
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2023/01/13(金) 22:19:13.58
>>216
豊前の一部が邪馬国(山国川) や躬臣国(玖珠)だから
0220邪馬台国を探すノマド
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2023/01/13(金) 22:21:45.44
私の田舎が山国川沿いで且つ秦王国なので土地勘はあります
0221畿内説支持@百襲姫命が卑弥呼です
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NGNG?2BP(1000)

>>217
うーん、まあ確かに
0222日本@名無史さん
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2023/01/13(金) 22:22:23.75
>>218
古墳時代
3世紀中頃 – 7世紀頃
弥生時代
前10世紀 – 後3世紀中頃
旧石器時代
– 紀元前14000年頃
縄文時代
前14000年頃 – 前10世紀
0223畿内説支持@百襲姫命が卑弥呼です
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>>222
もし、征服したなら変化は緩慢な物ではなく急速だと思いますよ
0224日本@名無史さん
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2023/01/13(金) 22:26:17.82
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125






.
0225邪馬台国を探すノマド
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2023/01/13(金) 22:26:43.38
>>216
それから平原遺跡(ツクシ)の真東が豊前の宇佐です
0226日本@名無史さん
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2023/01/13(金) 22:29:58.49
>>223
アメリカの様に最新の武器と大勢の強い軍隊がいれば、早いだろうが
近畿に大群で押し寄せたのではないだろう
0227畿内説支持@百襲姫命が卑弥呼です
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NGNG?2BP(1000)

というか畿内の鉄器普及が遅いことがもろに九州からの征服王朝じゃないことを物語っているのではないか
ヤマトは沖積地だったから農業には鉄器要らないだろうけど征服すんなら鉄器使うし
0228日本@名無史さん
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2023/01/13(金) 22:35:01.88
「世有王皆統属女王国」
理解しやすくするため同じSVO型言語である英語に訳すと
At all times, there is a king.
Everyone belong to queendom.
となる。
代々の倭王は全て伊都国にいる。
全ての者は女王国(伊都国)に統属している。
0229日本@名無史さん
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2023/01/13(金) 22:35:52.42
二上山に眠る大津皇子
二上山と関係が深い皇子だったんじゃないの?

大津皇子に関係する歌が万葉集に複数載っている

あしひきの山のしづくに妹待つと 我立ち濡れぬ山のしづくに

吾を待つと君が濡れけむあしひきの 山のしづくにならましものを

大船の津守の占に告らむとは まさしく知りて我が二人寝し

神風の伊勢の国にもあらましを なにしか来けむ君もあらなくに

神風の伊勢の歴史はイワ大神の子、伊勢津彦からの歴史か?
岩戸開きの真実の歴史か?
0230日本@名無史さん
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2023/01/13(金) 22:36:38.47
>>227
大和の征服は、従わない者は殺し、従った者には褒美をやる。
だそうです。
0231日本@名無史さん
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2023/01/13(金) 22:36:52.86
魏志倭人伝

対馬海峡を渡り、ようやく九州の邪馬台国に着きました!
ここ伊都国は郡使がいつも滞在する場所です。

現代人

纏向遺跡です!
ここが卑弥呼のいた邪馬台国でしょう!
0232畿内説支持@百襲姫命が卑弥呼です
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NGNG?2BP(1000)

上古音 投doː
中古音 投dəu˧

投(ドゥ)馬(マ)
0233日本@名無史さん
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2023/01/13(金) 22:37:02.89
筑紫の支配勢力、例えば伊都国の王統が奈良盆地の東南部を征服したのではなく、筑紫の反主流的一勢力が吉備を巻き込んでそこを征服したのだろう
なので、大陸の鉄利権などをダイレクトには持って来れなかったのだと思われる
むしろ吉備や阿讃播や近江や河内や東海を巻き込んで大きな勢力となっていく中で、徐々に鉄の入手ルートなども広げていけたのではないか
0234日本@名無史さん
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2023/01/13(金) 22:37:27.12
奈良時代の始まりも色々消された歴史がありそうだな
0235日本@名無史さん
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2023/01/13(金) 22:37:35.44
>>202

少なくとも、卑弥呼とは伊都または伊都からすぐ近くであったはずです。
0236畿内説支持@百襲姫命が卑弥呼です
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>>231
https://i.imgur.com/VntOZvN.jpg
古代中国人(隋書)「畿内にきました。ここが魏志に書かれている邪馬堆國です」
現在日本人「邪馬臺国は九州なんだ!」


こうですね
0237畿内説支持@百襲姫命が卑弥呼です
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NGNG?2BP(1000)

>>235
なんで?女王国までは少なくとも伊都国から1500余里の距離があるよ
私はこれ関門海峡のことだと思ってるんだけどね
https://i.imgur.com/PVJicFL.jpg
0238畿内説支持@百襲姫命が卑弥呼です
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伊都国まで10500里
女王国までは12000余里
0239日本@名無史さん
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2023/01/13(金) 22:41:08.88
>>203

倭国大乱とともに、それらの関西圏の鉄器工房は閉鎖された。
全ての鉄の輸入は筑紫が独占するようになったから。
伊都の大率は対馬海峡を検察して回り、筑紫以外に鉄などの重要物資が取られないようにしていた。
それ故に大率の検察権は絶大であり、周辺諸国は皆伊都の権力を畏怖した。
荷は間違いなく伊都の女王の元に届いていた。
0240日本@名無史さん
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2023/01/13(金) 22:42:44.87
>>236
図の下は遣隋使ではないのか?
訂正されてるのではなく、別の場所に行った。
0241畿内説支持@百襲姫命が卑弥呼です
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NGNG?2BP(1000)

魏志倭人伝は丁寧
「烏奴國の次の奴國が女王の境界」とまで書いてくれてる
関門海峡以東が女王国だったってことよ
https://i.imgur.com/hjtZwQG.jpg


烏奴(アナ)=仲哀天皇九州遠征時に行宮を置いた山口県の穴門(現:長門)と解釈
0243日本@名無史さん
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2023/01/13(金) 22:44:02.80
>>205

神武は都落ちっぽいが、饒速日はそうではない。
アマテラスから直々に十種の神宝を授けられ、天照国照の称号とともに畿内の王となるために筑紫から遣わされた。
饒速日には筑紫物部らの重臣が付き従い、船団を組んでいたと伝えられている。
途中、宇佐で饒速日は船団を二つに分けたとの話も残っている。
0244日本@名無史さん
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2023/01/13(金) 22:44:09.85
>>202
魏志倭人伝の大倭を使いですね。
どこから誰が使っているのか?
又 何故、女王国の都ではなく女王の都なのか?
行程も中心国とは思えない。
0246日本@名無史さん
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2023/01/13(金) 22:44:28.36
五色のえべっさんは悲しすぎるな
0247日本@名無史さん
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2023/01/13(金) 22:45:26.48
>>215
采女(うねめ)の袖ふきかへす明日香風都を遠みいたづらに吹く(51)

-飛鳥に来てみれば、いまは都も遠く移り、かつて都であったなら采女らの袖を吹き返したであろう明日香風も、ただ空しく吹くのみであることよ、というもの
--さて、皇子は何を懐かしんで回想に耽っているのだろうか
0248畿内説支持@百襲姫命が卑弥呼です
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NGNG?2BP(1000)

>>244
戸数7万でトップですよ
0249日本@名無史さん
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2023/01/13(金) 22:46:08.00
>>208

筑紫の銅鏡文化を持つ政権が畿内に誕生した。
古史古伝はいずれも、ヤマト王権の祖である饒速日も神武も筑紫から来たと伝えている。
0251畿内説支持@百襲姫命が卑弥呼です
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NGNG?2BP(1000)

>>245
ですよね?4世紀ならそれ神武じゃなくて伊都で生まれた応神天皇が畿内に来た時期じゃないすか>>159
0252日本@名無史さん
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2023/01/13(金) 22:48:40.51
>>223

3世紀中頃から4世紀初頭にかけて、畿内の様子はガラリとかわりますね。
誰かが畿内を征服したのでは?
0253日本@名無史さん
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2023/01/13(金) 22:50:35.72
>>234

壬申の乱とかね。
消された歴史、それは筑紫に倭国という国があったという歴史。
0254日本@名無史さん
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2023/01/13(金) 22:50:38.95
五色のえべっさんは五色の玉を持つ
玉は姫やね
0255日本@名無史さん
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2023/01/13(金) 22:53:27.81
>>241

それでは女王の領域の国々をまったく説明していないことになる。
説明すべきはむしろそちらのはず。
畿内説では女王国の外のことは詳しく書いてありながら、女王国の中のことがまったく書かれていないことになっている。
そんなおかしな報告書はあり得ない。
0256邪馬台国を探すノマド
垢版 |
2023/01/13(金) 22:53:38.65
>>236

方角は変わっていません、魏志倭人伝でも伊都国の真東は豊前です、その豊前(邪馬国辺り)から東に海を渡ると倭種の国です、隋書でもチクシの東は豊前の秦王国です。方角は全く変わっていませんが、
卑弥呼の後に国家の範囲が変わったのです。
「北部九州の国」から、
「九州から近畿以東を含むエリアの国」へ

もう一つ、狗邪韓国から九州までの行程で方位が書かれているのは、「対馬から南に壱岐」だけです。海流とかでルートの選び方で方位が決まりますが狗邪韓国から最短の対馬の北端を回るルートだと壱岐はほぼ南になるなので間違ってはいませんね
https://i.imgur.com/CpsZU8s.jpg
0257日本@名無史さん
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2023/01/13(金) 22:54:30.40
>>248
可ですね。見積もりですよ。投馬国も同様
又、官も4名、役割とかの記述もない。
広範囲の開拓、開発地、宗教地と見ています。
水銀朱等の運搬と東西の物流インフラ
近畿と周辺諸国による共同事業と見ています。
0258畿内説支持@百襲姫命が卑弥呼です
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NGNG?2BP(1000)

>>255
それは、九州から日本海航路使って都の邪馬臺国までのルートで触れる要衝の国しか説明してなかったからなのでは?

瀬戸内海に面した国は名前だけ記したと
https://i.imgur.com/5xglwHk.jpg
0259日本@名無史さん
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2023/01/13(金) 22:56:36.28
>>251

八咫の鏡を誰が畿内に持ち込んだのかはどこにも書かれていない。
崇神の時にはすでに纏向にあったらしい。
むろん、それは応神より前になる。
しかし崇神の孫の景行は、筑紫で神夏磯姫が八咫の鏡を掲げているのを目撃している。
はっきり言って謎。
0260畿内説支持@百襲姫命が卑弥呼です
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NGNG?2BP(1000)

>>257
そうですか?
でも王がいる場所が都ですよね
女王は邪馬臺国にいると書かれてるんだから都はここ以外ありえませんよ
王がいない都なんてありません
0261日本@名無史さん
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2023/01/13(金) 22:58:17.96
>>258

日本海航路だって、もっと沢山の国に寄港したはず。 
しかも里程が書いてないのはおかしい。
0263畿内説支持@百襲姫命が卑弥呼です
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NGNG?2BP(1000)

>>261
里程書いてないのは倭人からの伝聞記事だからでしょう!
隋書倭国伝に「夷人は里数を知らずただ日を以て計るのみ~」と書かれてますからね
0264日本@名無史さん
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2023/01/13(金) 23:00:11.25
ひるこのえべっさんはその後どうなったのか?
0265畿内説支持@百襲姫命が卑弥呼です
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NGNG?2BP(1000)

>>259
本当に崇神の時代からあったんでしょうかね?八頭花崎八葉鏡が平原以外から見つかっていない以上、伊都特有のレガリアだと思ってしまうんですけど
0266邪馬台国を探すノマド
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2023/01/13(金) 23:02:56.97
>>241

烏奴國ウヌは今の大野城市でしょう隣が奴国です
0268畿内説支持@百襲姫命が卑弥呼です
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NGNG?2BP(1000)

応神天皇の時代に、九州にまつわる神話(伊都国神話)が持ち込まれたのではないか

有名なニニギの天孫降臨なんかを例に出しますが、彼は降臨した際に「ここは韓国と向かい合っていて良い土地だな!」と言うのです。
これ、天孫降臨の原型となる説話の舞台が北九州(伊都国)であった名残かと
『だって常識的に考えて、宮崎県が韓国と向かい合ってるわけないじゃないですか。』


おそらく朝廷が後に熊襲を平定する際「お前らの祖先は宮崎県に降り立ったニニギの息子(海幸彦)なんだよ。だからお前らも俺の親戚だから軍門に下れ」と説明した方が都合良いから舞台を南九州にしてチンプンカンプンになったのでしょう。大昔の南九州はド田舎でここから天皇家のルーツの一つが始まったとは考えづらいです。大陸からの影響あるなら尚更北九州でしょうしね。
0269日本@名無史さん
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2023/01/13(金) 23:06:57.97
>>260
女王は邪馬台国にいたと書かれているから
別な場所でしょう。共立ですから伊都国でしょうね。本来、倭国 男王は伊都国で職務と思う。
0270畿内説支持@百襲姫命が卑弥呼です
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NGNG?2BP(1000)

魏志に径100歩の墓を作ったとあるが、この規模は奈良盆地にある箸墓古墳後円部にちょうど符合する
ちなみにこうした大規模な墓は当時の北部九州地方には【一つも】ありません

もう九州説は無理なんです
0271日本@名無史さん
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2023/01/13(金) 23:08:13.69
>>239
君の説では九州以外の住んでいた人の運命はどうなったのか?
200年の人口推計では、九州の人口の6倍強の人々が九州以外に住んでいた
0272畿内説支持@百襲姫命が卑弥呼です
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NGNG?2BP(1000)

径100余歩(魏代の一歩=六尺=1.447mより直径150m+α)の当時築かれた古墳を北九州で見つけてみてください
0273日本@名無史さん
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2023/01/13(金) 23:11:07.88
>>269
奴国者だろうが不彌国者だろうか
倭国王は、伊都国で職務をすると意味か?
0274畿内説支持@百襲姫命が卑弥呼です
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

完全一致。記紀と魏志倭人伝邪馬臺国


【人名対応】
魏志倭人伝

日本書紀


①邪馬臺国の官(卑弥呼に仕えている)
伊支馬[“イキマ”(生駒)]

垂仁天皇[“イクメ”イリビコ(活目入彦)]
※大王墓は生駒山の前にある
弥馬獲支[“ミマワキ”(御間城)]

崇神天皇[“ミマキ”イリビコ(御間城入彦)]

②祭祀王
卑弥呼の後を継いだ女王:臺与(トヨ)

日本国初代斎王:豊鍬入姫(“とよ”すきいりひめ)


あと卑弥呼死後に倭国が荒れた。と魏志に書かれてるでしょ?日本書紀でも百襲死亡記事の次に、崇神天皇が諸国に喧嘩売りまくって四道将軍覇権し侵略開始する記事が来るんだよね。
0275日本@名無史さん
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2023/01/13(金) 23:12:58.76
>>257
可は中国の古文の書き言葉で「およそ」という意味
0276日本@名無史さん
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2023/01/13(金) 23:14:17.13
伊都国の人物比定に続き
ようやく邪馬臺国も出来ましたw

答え、なかなかですw
0277日本@名無史さん
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2023/01/13(金) 23:14:39.76
◆邪馬台国の官 人物比定

・伊支馬 いきま 垂仁天皇
※伊久米伊理毘古伊佐知命(いくめいりびこいさちのみこと) - 『古事記』
(臺與もこの辺の時代の人物と言える)

・彌馬升 みます 彦坐王(ひこ【います】)
※太平御覧魏志では、彌馬叔
(叔=父母の年下の兄弟。兄弟の順の三番目)
(彦坐王は開化天皇の第三皇子)
※垂仁天皇の最初の皇后・狭穂姫命の父は彦坐王
(次の皇后・日葉酢媛命は彦坐王の子である丹波道主命の子女)
※相当、垂仁朝に入り込んでる系譜

・彌馬獲支 みまくゎくき 武渟川別(たけ【ぬなかわわけ】)
※彦坐王レベルの系譜と言えば大彦命の系譜で、その子
(最初は、垂仁朝ツヌガアラシトの逸話から
彌摩(任那) + 干岐(ツヌガアラシトの別名) = みまかんき
任那の名を獲て枝分かれ→彌馬獲支
と思ったが、強引かつ彦坐王レベルの官が妥当で却下w)
※武(尊称・四道将軍で言う東海担当)渟川(沼河)別(枝分かれ)

・奴佳鞮 ぬぉかてい 神聞勝(かみききかつ)
           久志宇賀主(くしうかぬし)
           国摩大鹿島(くになずのおおかしま)
※垂仁朝の中臣連祖
(この3人は同一人物や別人説などだから、深掘りせず引っくるめた)
※奴(男の)佳(素晴らしい)鞮(通訳者)
(通訳者は、海人族的な言葉のやり取りと思ってたが
神の言葉を伝える意味合いもある面々)
(鞮は他、革靴の意味。「東鯷人とうていじん」の「鯷(おおなまず)」字に酷似)
0279日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/13(金) 23:24:16.79
邪馬台国は畿内、これはもう確定事項でよい。
河内湖から生駒山の東側、つまり矢田丘陵から桜井辺りまでだろう。
0280畿内説支持@百襲姫命が卑弥呼です
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NGNG?2BP(1000)

女王国の中で邪馬臺国だけが成長して、最終的に倭国全土を併呑

かくして倭と書いてヤマトと読むようになったわけですな
0281日本@名無史さん
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2023/01/13(金) 23:26:45.54
>>275
見積もりですね。
0282畿内説支持@百襲姫命が卑弥呼です
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NGNG?2BP(1000)

吉備直接支配は5世紀:吉備氏の乱
九州直接支配は6世紀:磐井の乱&屯倉大量設置

ってだいたい分かるんですけど、じゃあ出雲がヤマトから直接支配されたのっていつでしょうかね
0284邪馬台国を探すノマド
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2023/01/13(金) 23:34:39.35
>>283
伊都国の南
0285日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/13(金) 23:36:49.67
>>284
投馬国は?
0286畿内説支持@百襲姫命が卑弥呼です
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NGNG?2BP(1000)

①九州から水行20日で出雲(投馬)
②そこから水行10日で若狭湾
③そこから陸行一ヶ月でヤマト(邪馬臺)

はい終了
0287邪馬台国を探すノマド
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2023/01/13(金) 23:37:41.99
>>270
百には数だけではなく、多くの。たくさん。もろもろの。と言う意味もありますから数字にとらわれない方がよろしいかと
https://i.imgur.com/6gVph35.jpg
0288日本@名無史さん
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2023/01/13(金) 23:38:16.66
本州に入ってから投馬国と邪馬台国の2国まで戸数の記入がある
邪馬台国は奈良だが、その行政範囲は奈良までの本州部分を5対7の比率で区分したくらいの領域だったと思う

当時は海流による文化圏のようなものがあり
北部九州から本州の日本海側は交流の可能な一体感があったと思う

逆に九州南部と四国にも海流による一体感があったはずだ
ここが狗奴国と、当時は倭国に属していない四国の領域

この辺については九州説が解消された後に皆で検討されてゆくと思う
0290日本@名無史さん
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2023/01/13(金) 23:40:12.43
邪馬台国は大和だよ
狗奴国は大和川の南の河内と和泉
投馬国は宮崎鹿児島、ミミの国
0291日本@名無史さん
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2023/01/13(金) 23:42:05.18
>>148
>豊前から東は海を渡ると倭種と書いてます

だから書いてないって
九州説さんよ捏造禁止だ
0292畿内説支持@百襲姫命が卑弥呼です
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NGNG?2BP(1000)

リマン海流使えばお茶の子さいさいで、実際古代は日本海交易が盛んだったから伝聞記事なら日本海航路が丁度いい
日本海沿岸沿って北上していけば、丹後抜けたあたりの所で日本海から吹き抜ける風によって勝手に若狭湾へ入り込み、そこから陸でテクテクあるくだけでヤマト入れちゃいますからね
0293邪馬台国を探すノマド
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2023/01/13(金) 23:42:41.83
>>285
それが難解ですね、大村湾辺りか妻か
0294邪馬台国を探すノマド
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2023/01/13(金) 23:43:49.73
>>289
有明海沿岸
0295日本@名無史さん
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2023/01/13(金) 23:44:54.92
>>145
百済から竹島に行って対馬に行ってその後も東に一支国、竹斯国、秦王国があって
十余国を経て更に10日後に王の居る都に到達か
竹島は南に済州島が見えるから島根のじゃないな
0296畿内説支持@百襲姫命が卑弥呼です
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NGNG?2BP(1000)

そもそも九州に邪馬臺国あったら近いんだし里数で書くでしょ
遠すぎて倭人からの伝聞しか使えなかったから投馬からいきなり里程が日数になってるのよ
0297日本@名無史さん
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2023/01/13(金) 23:55:07.17
>>294

博多と関係がない荒地だから、お前が博多の海人族がどうこう言うのはおかしい
0298畿内説支持@百襲姫命が卑弥呼です
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NGNG?2BP(1000)

>>266
いやそれはない
烏奴國とか傍系21カ国は女王国の中に含まれるんだよ
大野城市じゃ伊都国から1500里どころかめっちゃ近くだからダメじゃん

ほら伊都国(帯方郡から10500里)から半径1500余里(100km)の円描いたけど
https://i.imgur.com/LOa5wuk.jpg
0299畿内説支持@百襲姫命が卑弥呼です
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NGNG?2BP(1000)

女王の境界に含まれる傍系21カ国は伊都国から1500里以上離れた場所になきゃいけない
だって女王国は帯方郡から12000余里離れてるんだからさ

だとすれば烏奴國は穴門(長門)でしょ
0300邪馬台国を探すノマド
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2023/01/14(土) 00:06:37.09
>>291

自女王國以北の30カ国が倭国、倭国の東は周防灘。海を渡って千余里で、また国が有り、皆、倭種である。
注(倭国が周防灘と接する所は豊前)
0301邪馬台国を探すノマド
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2023/01/14(土) 00:09:26.63
>>298
2度描くことによって倭国の範囲がめちゃくちゃわかりやすくなっている
https://i.imgur.com/axQ7xy3.jpg
0302日本@名無史さん
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2023/01/14(土) 00:12:55.95
隋書だとさすがに間違わないよな
耽羅国(済州島)→都斯麻国→東に一支国→東に竹斯国→東に秦王国
十余国を経て海岸に到達して10日後に都
瀬戸内海を通ってるんだったら対馬の東の一支国は下関辺り?
0304日本@名無史さん
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2023/01/14(土) 00:19:54.32
>>300
じゃ、女王國はどこ?
0305日本@名無史さん
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2023/01/14(土) 00:21:06.96
海岸に出るんだし日本海側から瀬戸内海に出るのか?
0306畿内説支持@百襲姫命が卑弥呼です
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NGNG?2BP(1000)

女王の境界尽きる所は「烏奴國の次の奴國」

論点になるのは、奴國自身が女王の境界に含まれてるか否かであるが、含まれないと解する。
なぜなら女王国は帯方郡から12000里(伊都国から1500里)離れていなきゃいけないからだね。奴國じゃ近すぎて矛盾するわけ。

つまり烏奴國か、烏奴國と奴國の中間線が女王の国境なのだ。黄線の内側にしか烏奴國は存在し得ないのだ。
https://i.imgur.com/FJFAOEH.jpg
0307日本@名無史さん
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2023/01/14(土) 00:25:24.37
>>301
わかりやすく?
これが、どうやって周旋5千里になるんだ?
支離滅裂で不可解になってないか?
0308日本@名無史さん
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2023/01/14(土) 00:26:10.78
秦王国は鳥取辺りでそこから瀬戸内海側の岡山姫路辺りに出て10日後に都
0309邪馬台国を探すノマド
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2023/01/14(土) 00:28:30.13
>>304
吉野ヶ里の近く、日田とか久留米辺りかな
0310日本@名無史さん
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2023/01/14(土) 00:32:23.13
>>302

度百濟行【至】竹島 南望?羅國經都斯麻國?在大海中 又東【至】一支國 又【至】竹斯國 又東【至】秦王國

?(遠也)在大海中の都斯麻國には至っていない
巽竹島(ソンジュクド)→壱岐→博多→豊前
0311邪馬台国を探すノマド
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2023/01/14(土) 00:34:24.76
>>308
秦王国は宇佐神宮を作った秦氏の八幡(やはた)王国だから豊前で確定です
0313邪馬台国を探すノマド
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2023/01/14(土) 00:36:34.40
>>307
起点をどこにするかで変わるね、狗邪韓国なのか対馬なのか末盧なのかで。
0314日本@名無史さん
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2023/01/14(土) 00:37:20.11
>>310
東に向かってるから壱岐や博多じゃないでしょう
0317畿内説支持@百襲姫命が卑弥呼です
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NGNG?2BP(1000)

>>314
魏志倭人伝で帯方郡使が南と考えていた方向が正確に東と認識されるようになった。
で、壱岐や筑紫は南で合っていたのに勢い余って全部東に改めてしまったってだけ

魏志が南に邪馬臺国あるなんてトンデモを書いたのが悪い
0319日本@名無史さん
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2023/01/14(土) 00:48:50.12
>>316
經都斯麻國又東至一支國
0320邪馬台国を探すノマド
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2023/01/14(土) 00:49:17.59
>>317
魏の時と隋の時では対馬海峡を渡るルートが違うのでは無いでしょうか?
0321日本@名無史さん
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2023/01/14(土) 00:52:00.28
>>317
竹斯國や秦王國なんて魏志には出てこない
勢い余っただけか?
 
0322日本@名無史さん
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2023/01/14(土) 00:54:35.90
>>318

2万戸の奴国が千戸程度の国になっている
江戸時代の国学者がホラこき盗人野郎と厳しく断じた筑後山門説なら博多は関係無い
異人地域を徘徊したルートにしろ
0324日本@名無史さん
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2023/01/14(土) 01:04:10.45
>>323
竹島から見て南に耽羅国があって大海の中にある都斯麻國を経て又東至一支國
0325邪馬台国を探すノマド
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2023/01/14(土) 01:04:13.71
南に耽羅国を望み、逈(はる)かな大海中に在る都斯麻国を経る。また東し、一支国に至る。

このルートだと修正ではなく最初から東が壱岐になる。
船の性能が良く成ったのでしょう。

https://i.imgur.com/g7njW7g.jpg
0326日本@名無史さん
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2023/01/14(土) 01:04:29.45
>>318
千戸くらいの小国と7万戸の大国の面積比率が
ぜんぜん合ってないね
0327邪馬台国を探すノマド
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2023/01/14(土) 01:04:38.16
>>322
地図は拾い物
0328畿内説支持@百襲姫命が卑弥呼です
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NGNG?2BP(1000)

奴国。後に儺県(なのあがた)、那津(なのつ)と呼ばれる。
弥生時代すでに計画的な都市が形成されていた偉大なる先進国家。
https://i.imgur.com/H00p5DU.jpg
現在にも那珂川(“な”かがわ)としてその名を残すほどの覇権国家だ
0329日本@名無史さん
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2023/01/14(土) 01:09:52.38
>>324

竹島から東に進んで、大海中の遠くに在るのが都斯麻國、至ったのが東の一支國、又至ったのが竹斯國、
又東に至ったのが秦王國
0331日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 01:12:15.85
大津皇子が眠る二上山の枕詞は玉櫛笥
玉櫛笥は葦城の川の枕詞でもある
0332畿内説支持@百襲姫命が卑弥呼です
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>325
帯方郡使もそこは同じルートでしょう
帯方郡治は朝鮮半島西部にあったんすから
0333日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 01:13:24.38
>>329
經を無視したら見えもしない都斯麻國は関係ねえじゃん
0334邪馬台国を探すノマド
垢版 |
2023/01/14(土) 01:17:01.31
>>328
伊邪那岐の中に三つの国名が入ってますね

伊都国
邪馬台国
那の国
岐 

縦読みで伊邪那岐、まあ偶然でしょう
0335日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 01:17:56.84
廣志での記述が決定的だね。伊都の南側に邪馬○国、こちらのルートにはマツラも周辺にあるはずの大国奴国もない。
こちらの伊都の正体が実は出雲となる。
隣接しているシマ国とは芝山のある近つ飛鳥辺りになる。
芝山は箸墓から石を提供した山でも有名だが、名前の由来は川が蛇行して島状になっていたからという話。
近つ飛鳥は蘇我の本拠地、聖徳太子や推古天皇の墓のある場所でもある。
蘇我馬子の別名が嶋大臣なのもこれで説明可能だろう。
0336日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 01:18:43.96
>>333

無視ではなく、経る=(遠くに)通り過ぎただけ
又【經】十餘國も通り過ぎたのが十数か国
0337邪馬台国を探すノマド
垢版 |
2023/01/14(土) 01:18:44.69
>>330
トンデモと比べたら誤差は少ないと思うよ
0338畿内説支持@百襲姫命が卑弥呼です
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>325
あーなるほど失礼しました
でも、そうだったとしても対馬から壱岐は東じゃないんで、やっぱり機械的に南を東に修正したのでは
0339邪馬台国を探すノマド
垢版 |
2023/01/14(土) 01:19:54.64
>>332
魏使は釜山付近まで行ってるからだいぶ方向が変わってくるよ
0340日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 01:19:54.89
>>335
ダメ史料を倭人伝より優先すれば
ダメ説が出来上がるのは当然
それが九州説
0342日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 01:21:12.85
>>336
遠くって見えねえだろうがよ
0343日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 01:21:20.02
>>335
廣志でも伊都国止まりだな。
到の字を使う。邪馬台国は南遠方だろうな。
0345畿内説支持@百襲姫命が卑弥呼です
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

でも確かに対馬海流使ったら東か
0346日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 01:26:12.86
>>344
実際行ってるから
0347畿内説支持@百襲姫命が卑弥呼です
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>339
確かに仰るとおりでした
0348日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 01:26:59.46
魏志倭人伝には投馬国と邪馬台国が日数表記で行程が書かれてるが、こちらが投馬(出雲)と邪馬台国、ヤマトとなる。

つまり魏志倭人伝の頃、元々は出雲勢力の出張先として北部九州に伊都を設けていたが、当然便利なのでこちらに一本化されたという事。
だから資料によって方角その他が混乱したんだよ。
0349日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 01:30:13.91
つまり出雲と北部九州から硯が出土してるのは、機能としての伊都が元々二ヶ所あった証拠だろう。
0351邪馬台国を探すノマド
垢版 |
2023/01/14(土) 01:32:57.46
>>338

南に耽羅国を望み、逈(はる)かな大海中に在る都斯麻国を経る。また東し、一支国に至る。

このルートでは対馬には寄らずに壱岐までの方向が東なので間違って居ないと思います。魏使のルートとは明らかに違います。
https://i.imgur.com/CTPLoPu.jpg
0352邪馬台国を探すノマド
垢版 |
2023/01/14(土) 01:34:38.81
>>347
良かったです。ありがとうございます
0354日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 01:35:43.11
>>351
都斯麻国を経てねえじゃん
0355畿内説支持@百襲姫命が卑弥呼です
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>348
伊都には代々王が居たので、伊都を設けていたというか一大率を送っていたってことすかね?
0356日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 01:37:07.75
>>273
そうだよ。奴国から共立されたら
伊都国へ行く、奴国は王の都だったになる。
いちいち、動かない。
0357畿内説支持@百襲姫命が卑弥呼です
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

隋書倭国伝

『都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也
都は邪靡堆。(都は邪靡堆という。つまり、魏志の言うところの邪馬臺である。)』
0358邪馬台国を探すノマド
垢版 |
2023/01/14(土) 01:40:46.76
>>354
経るは通過するで至るが到着すると解釈します
0359日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 01:40:59.97
>>355
私はそう思いますね。瀬戸内海ルートが使えるようになったのも北部九州の方に一本化された為かと。
やはり廣志の方に奴国が登場しないのはやはり変だろう。
0360日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 01:42:37.48
>>355

糸島東部の属国伊都国は楽浪系韓人の国なので、
糸島水道の東側の今津湾沿岸に一大率を置いて港を押さえて
異民族の交易を統制した
0361日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 01:48:08.69
>>356
なに言ってるか意味わからない
0362日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 01:50:18.10
南を全て東に書き換えたってのも否定しないどころかその可能性が高いと思う
ただ竹斯国とか伊都国とか場所を決めつけるのは反発したいし
先ず疑ってもいいんじゃないか?
0363日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 01:54:00.68
瀬戸内海は護衛艦がぶつかってるし随の時代であっても航行出来たのかなあ?
0364畿内説支持@百襲姫命が卑弥呼です
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

竹斯國=筑紫國であるのは日本書紀の対応記事から分かります
那津官家があったからここで饗したんじゃないすかね
0365畿内説支持@百襲姫命が卑弥呼です
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

即大唐使人裴世清 下客十二人 従妹子臣 至於筑紫
0366日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 01:59:10.85
>>356
伊都国が王都で
代々の王の出身地が違うて事か?
0367日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 02:15:08.32
>>366
倭国と伊都国と邪馬台国と女王国と
どういう関係と思っているのか
ぜんぜん考えが伝わって来ない
0368日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 04:01:09.23
>>367
すまん、君も意味がわからん
0369日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 04:25:13.72
>>368
倭国と伊都国と邪馬台国と女王国と
どういう関係と思っているのか

という言葉の意味がわからないの?
それは日本語が不自由すぎない?
これらの国の地理的な包含関係や力関係を聞かれていると理解できないとしたら、日本での社会生活において致命的ではないかな
0370日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 04:45:23.03
>>369
さらにわからない、放置だな
>>356
つまり、邪馬台国以外の人物が共立された場合も
伊都国で職務をするて考えでいいのか?
0371邪馬台国を探すノマド
垢版 |
2023/01/14(土) 05:16:03.23
倭奴国と伊都国は本家分家関係か姻戚関係もしくはその両方であったと考えます。伊都国女王の本家は倭奴国王家だったのではないだろうか。古事記では天照大神は金印が出た志賀島の目と鼻の先で生まれていますがそこは倭奴国の聖なる場所でもあります。倭奴国王の世継ぎ問題が倭国大乱になってしまった事で、分家から卑弥呼(平原女王か子女)を担ぎ出したのが共立なのではないでしょうか?
私ごとではありますが、祖父はA家に養子で婿入りしましたが嫁が程なく死んでしまいました、そこで親族はこのままではA家の血筋が絶えると言うことを憂慮しA家の親戚筋から養子の後妻を出したのです、それが私の祖母になります。
卑弥呼の共立とはそう言う物だったのではないでしょうか。
0372日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 05:21:22.74
>>370
なんだ、逃げちゃうのか
0373日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 05:34:06.71
>>371
どんな理由で、そんなふうに考えるの?
0374日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 05:36:59.45
>>372
わからんもんは、わからん
こじしないだけだよ。
0375邪馬台国を探すノマド
垢版 |
2023/01/14(土) 05:47:55.43
>>373
古代から血の結びつきは第一なのだと思う、
物部氏、蘇我氏、藤原氏、が外戚として権力を持った事からも想像できる。
0376日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 06:04:28.99
>>374
>わからんもんは、わからん

基礎用語の意味を明らかにしないと
その言葉が使えなくなるんじゃないの?
自分でも意味を知らない言葉を使ったら他人と会話が通じないもの
0377日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 06:06:35.95
>>375
>古代から血の結びつきは第一なのだと思う、

それが第一であることは
「倭奴国と伊都国は本家分家関係か姻戚関係もしくはその両方であったと考え」る理由にならないでしょ?
このこと、わかる?
0378日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 06:10:39.54
>>370
それでいいよ
中心国でもないんだな
0379邪馬台国を探すノマド
垢版 |
2023/01/14(土) 06:13:28.37
>>377
別にあなたに理解してもらおうとは考えていない。
自分の自分の考えを述べたまでだ。
イメージ出来る人がいれば幸いである。
0380邪馬台国を探すノマド
垢版 |
2023/01/14(土) 06:17:21.53
>>377
他人の説を否定するだけでなく、あなたの持論を述べよどうせろくな物でないことは想像できるがなw
0381邪馬台国を探すノマド
垢版 |
2023/01/14(土) 06:18:40.24
どうせポンコツ畿内説だろw
0382日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 06:21:52.16
>>370
行ていたら、或いは中心国ならば
水行20日、10日陸1月にはならんと思うけど?
又、卑弥呼に関して謁見したと思うが
年齢長大とか夫ないはあるが入れ墨があったのか(男子のみ)?服装とかの記述がない。
0383日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 06:23:51.23
>>381
九州説の致命的な欠陥を、畿内説信者が的確に攻撃し
畿内説の致命的な欠陥を、九州説信者が的確に攻撃する。
互いの弱点を知り尽くして、トンデモ同士の行き詰まり。   @阿波
0384邪馬台国を探すノマド
垢版 |
2023/01/14(土) 06:24:55.90
負のオーラを持った人は私に絡まないで欲しいと強く思うこの頃です。
0385日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 06:25:42.10
>>380
>他人の説を否定するだけでなく、あなたの持論を述べよ

自分がそう主張する理由が言えないの?
それって相手が誰だかとか無関係に
キミにとって相当恥ずかしいことだよ
0386日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 06:26:34.30
>>384
それ、逃亡する理由にならないから
0387日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 06:27:52.27
>>382
>行ていたら、或いは中心国ならば
>水行20日、10日陸1月にはならんと思うけど?

思う理由は?
0388邪馬台国を探すノマド
垢版 |
2023/01/14(土) 06:29:45.89
>>385
持論も述べられないヘタレですか?
相手にされると思ってたら...ですな。
0389日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 06:31:33.22
>>382
>又、卑弥呼に関して謁見したと思うが
>年齢長大とか夫ないはあるが入れ墨があったのか(男子のみ)?服装とかの記述がない。

必要なくね?
だって「男子無大小皆黥面文身:だよ
0390日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 06:31:39.27
>>387
あんた誰、370か?
邪魔だよ
0391日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 06:33:15.19
>>389
それは入れ墨の事
服装とか装飾は?
0392日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 06:34:31.95
>>388
>持論も述べられないヘタレですか?
>相手にされると思ってたら...ですな。

煽っても無駄
自分が先に聞かれたことに答えず
後から質問したことを先に答えろって言うの?
それってすごく軽蔑される詐欺行為だよ
0393日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 06:37:21.41
みなさん、かまって君は無視が吉^^
0394日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 06:37:37.65
>>389
女子はまったく入れ墨はないのか?
0395日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 06:38:54.76
>>391
>それは入れ墨の事

「入れ墨があったのか(男子のみ)?服装とかの記述がない。」
と言ってたけど
入れ墨の事は書いてなくていいと認めるんだな?

>服装とか装飾は?

魏の王宮まで来た使者の服装とか装飾も書いてないが
卑弥呼の服装とか装飾を書いてないと
何か問題でもあるのか?
0396日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 06:40:56.03
>>394
>女子はまったく入れ墨はないのか?

知らんな
少なくとも、あるという理由はない
0397日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 06:41:43.35
>>392
他人の貴重な時間を奪うのはやめてくれ、タイムイズマネーなの、君のタイムイズノーマネとは違います。わかった?
レスは不要。
0398日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 06:41:53.92
>>393
逃げ回り君も困ったものだな
0399日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 06:42:16.78
>>395
問題って?何?
0400日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 06:43:23.08
>>399
問題はないって事でいいね?
0401日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 06:46:52.23
>>400
ないよ。あっさりだからだよ。
卑弥呼を示す物があればいいと思っただけだな
0402日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 06:48:40.42
卑弥呼は九州へは異常
0403日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 06:51:48.82
サイコパスっているんだねw
0404日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 06:52:27.78
>>396
知らんなら放置だな。
0405日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 06:54:57.95
>>402
君も異常だな
0406日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 06:54:58.12
>>397
答えられなくて逃げちゃうのか
九州説ってば情けないなあ
すぐ論破されちゃうんだもの
0407邪馬台国を探すノマド
垢版 |
2023/01/14(土) 06:56:08.90
>>392
くだないレスに応える義務は無い。
0408日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 06:56:09.73
>>403
名乗らんでいい
知ってるから
0410日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 06:59:03.78
>>407
>くだないレスに応える義務は無い。

自分がそう主張する理由が「くだらない」ってことは
キミのその主張は「くだらない」って事なんだけどね
0411邪馬台国を探すノマド
垢版 |
2023/01/14(土) 07:00:10.38
ここはスルー推奨ルールあり
0413邪馬台国を探すノマド
垢版 |
2023/01/14(土) 07:01:22.61
>>410
構って欲しかったらまずお願いしますだろ
0414邪馬台国を探すノマド
垢版 |
2023/01/14(土) 07:02:55.54
ストーカーがうざいので一旦コテ外します
0415日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 07:04:22.43
ハイバイキン^_^
0416日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 07:13:48.22
>>409
タイヤル族やセデック族に、女性が婚姻の時いれる文身とか結婚する資格の証として入れる文身があったと聞いた
0417日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 07:14:54.23
>>414
そこまでして逃げるほど致命的に論破されたの?
0418日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 07:15:06.62
>>416
南方系民族でか?
0419日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 07:16:32.68
>>411
逃亡の言い訳ミットモナイ
0420日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 07:17:07.40
>>417
自分が嫌われている事を自覚した方がいい。、、
0421日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 07:17:46.15
>>419
構って欲しいの?
0422日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 07:18:25.73
>>418
昔の台湾女性の刺青の話だな
0423日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 07:19:17.75
>>420
皆から嫌われてるのは連句点な
0424日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 07:22:17.55
沖縄 琉球には既婚者が手のこうに入れ墨とかある。
お歯黒も日本はいつの頃からだろうか?
0425日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 07:23:05.28
良かった、卑弥呼は九州に好かれても困る、、、
0426日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 07:24:52.79
>>423
言っとくがお前を好きな人はこのスレにはいない
0430日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 07:28:25.27
>>424
この前youは何しにのうちなんちゅう祭りでやってたのを見た
0432日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 07:38:29.51
>>426
自分の主張の根拠を聞かれるとそんなふうにヒステリーを起こす人は特殊
0433日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 07:41:30.49
>>432
ならば卑弥呼は九州の根拠をお聞きしたい?
0434日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 07:41:51.18
>>431
書いていません
0435日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 07:42:58.28
>>434
書いてるよめくらか
0436日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 07:46:05.73
>>435
書いていません。
シャブやってんのか?
0437日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 07:46:06.81
奴国は倭国の主体
0438日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 07:47:48.15
>>436
失礼なバカだな、死ね
0439日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 07:48:58.64
>>438
メクラとか?
0440日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 07:49:45.59
>>436
思い込みの強い例の病気の人だ
説得は無理
0441日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 07:50:04.73
>>437
主体より女王国の範囲だよ。
0442日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 07:50:33.26
>>440
君も無理
0443日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 07:51:21.60
>>440
シャブ中か?
0444日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 07:53:41.52
ニートで生活保護の気狂いだな
0445日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 07:54:29.69
>>439
イメクラはいいぞ
0446日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 07:56:02.61
>>443
シャブが好きなのか?
0447日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 07:56:32.07
>>445
男てバカだな
0448日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 07:57:08.28
>>447
お前オカマかw
0449日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 07:59:21.78
>>447
オカマ的には邪馬台国はどこよ
0450日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 08:00:03.99
>>446
よ、シャブ中
0451日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 08:00:44.98
>>450
お前の脳内はシャブだけか
0452日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 08:03:23.73
>>450
ホモが邪馬台国に興味持つんじゃねえよ、ブタ男めが🐖
0453日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 08:05:14.25
>>451
あら、ズボシだった
0454日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 08:05:21.68
>>450
息してる?
0455日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 08:06:10.88
>>452
ホモ、オカマになるのか?
男てバカだな
0456日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 08:06:51.45
>>454
シャブしてるの?
0457日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 08:10:58.08
>>456

你脑袋没问题吗?
0458日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 08:12:45.22
>>455
Putain de Merde!
0459日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 08:12:57.79
>>457
中国人?売人か?
0460日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 08:14:30.86
>>459
la concha de la lora
0461日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 08:14:42.75
>>458
あらま、別な国も?
0462日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 08:15:52.81
禁断症状?
0463日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 08:16:26.79
>>461
на хуй
0464日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 08:16:40.01
誰かがコテ消して荒らしに変身したな
0465日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 08:28:37.19
>>443
> シャブ中か?

しゃぶしゃぶは好きだ
0466日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 08:30:50.55
>>456
邪馬台国はどこですか?のお答えください
0467日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 08:39:11.25
>>464
荒らしは人をシャブ中呼ばわりする鼻くそのお前だ
0468日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 08:56:16.93
九州説の致命的な欠陥を、畿内説信者が的確に攻撃し
畿内説の致命的な欠陥を、九州説信者が的確に攻撃する。
互いの弱点を知り尽くして、トンデモ同士の無限糞バトル。   @阿波
0469日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 08:59:41.04
邪馬台国なら畿内で既に確定済み。
北部九州にあるのは伊都、その横には奴国。
伊都とは元々は出雲の事を指す。
0470日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 09:03:38.35
阿波の致命的な欠陥は七万戸、ここが北部九州より多い戸数なんて全く該当しない。よって既に論外だよ。
また一部四国説で剣山山上説なんてあるが、こんなものは魏志倭人伝を全く読んでいないとしか言いようがない。
基本的に海人の国じゃないとダメ。
0471日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 09:09:07.03
>>470
>阿波の致命的な欠陥は七万戸、ここが北部九州より多い戸数なんて全く該当しない

碌な弥生集落遺跡や鍛冶炉遺構の無い北部九州に、「邪馬臺国」など興る訳がない。   @阿波   
0473日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 09:21:25.65
>>469
奴国が女王の都なので邪馬台国は北部九州限定です
あとは東の倭種の国
畿内は鉄器文化の遅れた開発途上国だった時代だよ
0474日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 09:24:48.14
>>473
>奴国が女王の都なので邪馬台国は北部九州限定です

そもそも論として、九州北部・畿内は、「倭地温暖・植生」でアウト! 不適合!   @阿波
0475日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 09:28:51.22
北部九州には100%邪馬台国はございません。九州には弥生時代まともな丹山もないから、倭国は少なくとも紀伊半島までを範疇とするのが当然の話。
0476日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 09:39:53.71
>>265

作り話にしてはネガティブな内容だし、実際に纏向遺跡にはそれらしき建物があるので、崇神のときにあったのは本当でしょう。
その実年代は不明ですが。
0478日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 09:41:07.15
纒向遺跡の建築

日本書紀をみると、王宮では崇神天皇が天照大神(あまてらすおおみかみ)の御霊代(みたましろ)を祭っていた。
天皇は御殿で「同床共殿(どうしょうきょうでん)」の祭祀(さいし)を行っていたが、神の霊威(れいい)を恐れて、宮内の大庭にホコラを建てて、大神(おおみかみ)のご神体である宝鏡をお納めした(神宮雑例集)。
これが建物Cである。
それでもまだ恐れ多いので、垂仁天皇の時代に伊勢に社を造り、宝鏡をお移しした。
それが伊勢神宮であり、建物Cの復元形態は神宮の正殿と極めてよく似ている。
神明造(しんめいづくり)の形が倉庫と近いのは、王宮における建物Cが宝庫だったことによるのである。

建物Dは正面の柱間数が偶数の四間であることが大きい特徴である。
出雲大社本殿も正面柱間数が偶数の二間である。偶数柱間だと正面中央に柱が来るから、王宮や寺社は奇数柱間が常識である。
だから偶数柱間の建物Dと出雲大社本殿は著しい類似性を持つといえる。
出雲大社本殿の建設は、古事記垂仁天皇の条に記述がある。皇子(おうじ)が出雲の大神のたたりで言葉を発しなかったが、大神に祈ったところ皇子が治癒した。
そこで大神のために天皇の御殿に似せて出雲大社を造ったというのである。建物の性格としても、両者はともに外から拝礼するのではなく、内部で祭りごとを行うので、偶数柱間で差し支えないのである。

纒向遺跡の建物Cは伊勢神宮の直接の起源であり、建物Dは出雲大社と関連が深いことがお分かりいただけただろうか。

黒田龍二

結論: 纒向遺跡は崇神天皇の磯城瑞籬宮。
本殿と拝殿の間の中庭に八咫鏡を納めていた倉があるのが特徴。
全体を囲む柵が瑞籬。
0479日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 09:41:38.11
【伊都国】

伊都には高祖宮(高祖神社)があり、後世にはその東側の高祖山とクシフル山の山頂を囲む中国式山城(奈良時代は怡土城、戦国時代は高祖城と呼称される)があった。
高祖山を越える峠が日向峠であり、筑紫の日向のクシフル山にあり彦火々出見を祭る高祖宮の古名が高千穂宮であったと考えられる。

アマテラスの孫のニニギはクシフル山に降臨してその西側に埋葬されたとあり、三雲南小路遺跡、井原鑓溝遺跡などが、魏志において倭国大乱の前の男王の時代70〜80年を担った彦火々出見ら日向王家の王墓であると考えられる。
倭国の王と王妃の墓である三雲南小路遺跡の拝殿である細石(さざれいし)神社は木花佐久夜毘売を祭神とし、墓は天孫ニニギと木花咲耶姫の墓と考えられる。
平原遺跡や三雲南小路遺跡などの特徴は三種の神器に相当する副葬品があることであり、筑紫の伊都が記紀にあるように倭国王家である日向三代の都であった証拠である。

魏志倭人伝では伊都国の官は爾支と記されているが、ニニギ、ニギハヤヒなどと同じ系統の名であり、神道における神職を意味する禰宜にも通じる。
平原遺跡には鳥居などの遺構があり、いわゆる神道の形式が整いつつあった。
高千穂宮から始まる神武東征の時、神武が天の子は太陽を背にするべきだと発言している。
高祖宮は伊都から日の出の方にあり、倭王は太陽を背にして君臨していた。この様式は大和の三輪山などと同じ配置である。
伊都は神道の基本である太陽信仰の都だったのだろう。

伊都国の平原遺跡は3世紀頃の女王墓であり、方格規矩四神鏡と内行花文鏡、玉を中心とする豪華な副葬品を持ち、後漢の頃には見られなかった巨大な国産の内行花文鏡、いわゆる八咫の鏡が5面含まれていたことから、倭国大乱後の倭国の王権が伊都国にあったことがわかる。
2世紀の倭国大乱以降では卑弥呼が最初の女王であるため、平原遺跡の被葬者の最有力候補が卑弥呼である。
魏志において伊都国は人口が1000戸と少ないが、魏志に卑弥呼の王宮の下女は1000人とることと一致する。
近隣の世俗の商業都市としての博多奴国と、政治・祭祀・外交のための聖なる王都である伊都が分離されていたと考えられる。
0480日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 09:43:10.26
>>475
絹 青玉 真珠もあるね。
0482日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 10:03:48.12
>>479
平原遺跡は弥生時代後期から晩期の遺跡
卑弥呼の時代にはすでに埋葬された墓だった
卑弥呼の墓とするのはありえない
0483日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 10:06:41.51
魏志倭人伝の時代の日本列島の文化圏は考古学的に見て4ブロック存在していました。
北部九州、山陰北陸、大阪南部、毛人の4つですね。
魏志倭人伝には、女王国の南は狗奴国、東には海が有りその先に倭種の国々があったと書いてあります。
という事は女王国は一番西のブロックだとわかりますね。
つまり邪馬台国は北部九州という事ですよ。
0484日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 10:13:03.16
祇園山古墳が高良大社の麓にあることは、ほとんどの本州人は知らないので、困ったことですね(大和説の陰謀?!^^)。

まず、魏志倭人伝「女王国(九州)東渡海千里複有国皆倭種(本州)。又有侏儒国(四国)在其南、去女王(之所都)四千里」で、九州で決まり。
さらに「(女王国)其南有狗奴国(長官・狗古智卑狗=菊池彦)」ですから、邪馬台国七万戸は、菊地平野の北に隣接する筑紫平野しかないですね。

そして3世紀中頃の築造で、殉葬者66人が確認されている王墓は祇園山古墳しかなく、その尾根上にある筑紫国一之宮・高良大社で決まりです(おめでとうございます)!

ちなみに「不弥国から南水行二十日で投馬国に至る。さらに南水行十日陸行一月で邪馬台国に至る」は、「その道里を計るに、まさに会計東冶(帯方郡から12,000里)之東(沖縄と台湾の中間)にあるべし」と結論するために、陳寿が中国大陸側の行程を倭国に転用した方便(嘘)とすると、投馬国五万戸(宮崎都万)も九州内に収まりますよ。
なんだか双六の「ふりだしに戻る」みたいで呆気ないものですね( *´艸`)
0485日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 10:15:22.58
>>484
「卑弥呼以死 大作冢 径百歩」〜卑弥呼は直径(円墳)百歩(140m)の冢を大いに作(るを以)って死んだ〜 のカラクリ

@265年、曹魏から禅譲を受け、280年、ついに呉を平定し中国を再統一。天下に再び平和と繁栄をもたらした西晋の功績を後世に書き残すための正史「三国志」を編集中、30年前の魏使の報告書「径百尺(25m)」を見た陳寿は、当時の倭国はすでに古墳時代に突入し、王墓だけはやたらと長大という情報を、官僚だけに読み知っていた。
A(膨大な餓死者を出しておきながら黄巾の乱を放置した後漢皇帝たちの厚葬に呆れた)曹操の薄葬に従ったのだろう卑弥呼でも、「径百尺(25m)」の墓ではいくらなんでも小さすぎる。地方豪族級の小さい墓しか作れない倭王に明帝曹叡が親魏倭王の金印を授けるはずがない。
Bおそらく「径百歩」の誤りであろう。ついでに「以+【大】作冢」と補足しておこう。

こうして陳寿は仕方なく、形状◎(直径=円墳)や数値「百」はそのままに、単位「尺(25cm)→歩(1.4m)」だけ刷り替えた。
(もし誰かが気付いたとしても誤記と言い逃れればよい。少なくとも倭国にわざわざ渡海してまで確かめようとする者ももはやいまいw)

そして時は流れ、1740年後の日本…
当然のことながら、祇園山古墳(九州説)も箸墓(大和説)も「径百歩」に該当せず、短里だ長里だ、南だ東だと、果てしない水掛け論が継続中w

もしも箸墓(全長280m)が卑弥呼の冢だったら…
→魏使は「卑弥呼以死 作【大冢】 『長』二百歩」と記録→陳寿は魏志倭人伝にそのまま転載(×不正解)
もしも祇園山古墳(直径25m)が卑弥呼の冢だったら…
→魏使は「卑弥呼以死 作冢 径百尺」と記録→陳寿は「卑弥呼以死 【大作】冢 径百【歩】」と盛る→魏志倭人伝(○正解)

祇園山古墳は上方下円墳で、天(上)から見ると方格規矩(四神相応)鏡そのもの。鏡マニアの倭王に相応しい。

「殉葬者奴婢百人」は、曹魏の薄葬に従いつつも、死後の孤独に怯えた卑弥呼の面従背腹であろう。
面白いのでそのまま転載しようw(陳寿、心の声)
0486日本@名無史さん
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2023/01/14(土) 10:17:49.88
>>479
平原王墓に殉葬はあるの?
0487日本@名無史さん
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2023/01/14(土) 10:32:35.05
隋の時代の都は邪靡堆で邪馬臺國と同じ場所でしょう
0488日本@名無史さん
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2023/01/14(土) 10:33:14.04
>>484
陳寿の蛇足(嘘)…中国大陸沿岸の行程日数を、倭国内の行程日数として描写している(なぜか?↓)
└→「その道里を計るにまさに会稽東冶(帯方郡から12,000里)の東(呉の背後)にあるべし」(と結論付けるため)

帯方郡【女王国(九州)島】〜【女王国東渡海千里複有国(本州)皆倭種】
↓「南水行二十日」〜〜〜〜〜【又有侏儒国(四国)在其南↖去女王(之所都)四千里】
建業【投馬国島】宮崎・都万
↓「南水行十日」〜
東治┌▲奄美大島┐〜
↓〜│邪馬台国島│↓「南陸行一月」580q(≒19q×30日)
東冶│女王之所都│←「その道里を計るに、まさに会稽東冶(呉越国境&12,000里)の東にあるべし=陳寿の嘘」
↓〜│「狗奴国」│〜〜〜
↓〜│其余傍之国│〜〜〜
↓〜│遠絶・不可│〜〜〜
↓〜└─┐得詳┌┘〜〜〜
儋耳朱崖└─幻┘←「所有無與儋耳朱崖同(服装・産物・動物・武器)倭地温暖冬夏食生菜」
南越(ベトナム)
0489日本@名無史さん
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2023/01/14(土) 10:34:10.70
>>483
狗奴国が倭国の南側ということ
倭種の国は倭国とは違う国を指す
それは魏と交流のなかった四国のこと
0490日本@名無史さん
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2023/01/14(土) 10:38:03.71
>>488

ついに「南水行十日陸行一月」の謎が解けたyo!

魏志倭人伝の核心は「計其道里 當在会稽東冶之東(その道里を計るに、まさに会稽東冶の東にあるべし)」の一文。

1.西晋初代・武帝司馬炎は、祖父・司馬懿仲達(秀吉)を後見人に指名してくれた大恩人・曹叡(信長)の、(実は呉より北にいた)卑弥呼を特別待遇してしまった判断ミスを正当化し、呉を滅ぼす先鞭を付けた賢帝に仕立てる必要があった。
→曹魏の帝都・洛陽から見て東南にある孫呉との戦いにおいて、その背後に倭国「女王之所都」があれば、最高の牽制となる。
→孫権の帝都・建業とほぼ同緯度の会稽郡「東治(シ・さんずい)」ではなく、そこから更に約580km南で、帯方郡から12,000里の「東冶(ン・にすい)」の東にあると思わせたい。
2.ところで倭国の気候風俗(服装、産物、動物、武器)は、南越(ベトナム)国境にある儋耳朱崖に似ている。
3.しかし本当の位置も残さなければならない。

そこで陳寿が行った忖度が、女王国(九州)島が、狗邪(伽耶)韓国の南から儋耳朱崖(ベトナム)まで届く、中国大陸をすっぽり包み込む、南北に細長〜い「2つの島」であるように思わせる印象操作。
まず「奴国」を2回使って「女王之所都」が「奴国だよ、奴国だよ」と正解の【奴国1】を暗示(ダチョウ倶楽部「押すなよ、押すなよ」→2回目の念押しがポイント)。
次に、投馬国(宮崎)から南水行十日にある奄美大島を海南島までグィ〜ンと引き伸ばして、女王国島のパラレルワールド「邪馬台国島」を、そこに東治⇔東冶間の「陸行一月」を転用して幻の【奴国2】を創り、「東冶(ン・にすい)」の東に「女王之所都」を合わせた。
同時に倭国に行ったことがある中国知識人には「陸行一日(奴国)」の間違いとすぐに気が付くようにもした(「日」の両端の棒を下に延ばし日+Л→「月」)。
卑弥呼は、漢委奴国王以来の奴国王・帥升「其國本亦以男子為王 住七八十年」の男系女子(孫娘)で、先祖である歴代倭王(死者=鬼)の神託を聞くイタコとして(鬼道政治)、北部九州30カ国から共立された巫女(斎王)。
◆邪馬台国七万戸=奴国二万戸(福岡平野)+(南の狗奴国に狙われた)後背地・筑紫平野五万戸◆
0491日本@名無史さん
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2023/01/14(土) 10:38:53.41
>>490の模式図だyo!【倭人伝の「東冶≒女王之所都」プロパガンダ】
   ┏━━┓帯方郡  ┏┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
←┐┃黄海┗狗邪韓国┛(伽耶)〜〜〜日本海〜〜
洛陽┃〜〜〜↓↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━━━━━━━━━━━━━━━━
【魏】┃〜対馬▲↓南「水行10日」〜〜〜〜┃「女王国東渡海1,000里 複有国 皆倭種」 
 ↓ ┃「瀚海」↓↓玄界灘〜〜〜〜〜〜〜┗━━━━━━━━━━━┓(出雲・吉備=墳丘祭祀)
   ┃〜壱岐▲↓〜〜〜〜┌南「水行10日」┐関門海峡〜〜〜〜〜▲┃(大和・東海=銅鐸祭祀)
v✖s┃〜〜┏末盧国━━━↑━━━━━┓↓〜〜〜〜┏━━━┓〜┃ 
   ┃〜〜┃伊都国→不弥国▲▲▲▲▲▲↓国東半島┃侏儒国┃〜┗━━━┛
 ↑ ┃〜〜┃▲↘「陸行1日」(正)‗▲▲▲▲↓豊後水道┗━━━┛「在其南 人長3〜4尺(少彦名)
【呉】┃〜〜┃♀【奴国1】女王之所都▲▲┛↙〜〜〜〜〜〜〜〜〜←去女王(之所都)4,000里」
建業┃〜〜┃狗奴国▲▲▲▲投馬国←←┘宮崎平野=南「水行20日」
   ┃〜〜┗━━女王国島━┛↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜
会稽┃〜東シナ海〜┌南「水行10日」〜〜〜〜〜〜〜〜
東治┃〜〜┌─┌←▲奄美大島┐↙陳寿の創作(女王国島のパラレルワールド…幻)
 ↓ ┃〜〜│〜↓「陸行1月」_〜│←「※自女王國以北其戸数道里可得略載」(北部九州30カ国=30日=1ヶ月)
   ┃〜〜│〜↓▲沖縄〜〜〜│〜〜↓「自帯方郡至女王国 12,000里」
東冶┃〜〜│♀【奴国2】(幻).〜│★【(女王之所都)計其道里 當在会稽「東冶」之東】(魏晋のプロパガンダ…嘘)
   ┃〜〜│▲台湾〜〜〜〜〜│〜〜↑「此女王境界所尽 其南有狗奴國 不属女王」
香港┃〜〜└┐〜〜〜〜〜〜〜│←「※其余旁国遠絶(幻)不可得詳」
┏▲海南島〜└邪馬台国島(幻)┘〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
┃↖儋耳朱崖〜〜南シナ海〜〜「所有無與儋耳朱崖同(服装・産物・動物・武器)倭地温暖冬夏食生菜…本当」
┛←南越(ベトナム)〜〜〜〜〜↘▲裸国フィリピン〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜↘▲黒歯国インドネシア▲パプアニューギニア「複在其【奴国2】(幻)東南 船行1年…大げさ」
0492日本@名無史さん
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2023/01/14(土) 10:40:17.05
>>484
>祇園山古墳の発掘調査報告書でも、墳裾外周で検出された66人分以上の墓群について、半世紀ほどの期間で造営されたとみられることから、祇園山古墳の被葬者を盟主とする集団の集団墓と捉えている
0493日本@名無史さん
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2023/01/14(土) 10:43:37.57
>>484
高良大社は、7世紀飛鳥時代の倭王・阿毎多利思比孤@阿蘇山麓が、卑弥呼の王宮跡に建てて上げた、古墳時代の旧敵国&新同盟国・高句麗の大使館ジャマイカ?
祇園山古墳の周りには、須恵器が副葬されている高句麗系の集団墓地があることもそれを裏付ける。
0494日本@名無史さん
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2023/01/14(土) 10:44:19.88
>>485
陳寿が三国志をつづった際、原資料があったのは当然
またその原資料は陳寿以外の人も閲覧が可能なものだったろう
君の説のように陳寿一人が改変することなどできない
0495日本@名無史さん
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2023/01/14(土) 10:46:53.00
>>484
>>491
卑弥呼の魏帝への朝貢目的は、(蜀の牽制として西のインド・クシャーナ朝「親魏大月氏王」同様)呉の牽制として東の「親魏倭王」として、帯方郡が管理していた「伽耶の鉄」の倭国における輸入独占権(郡宛て鉄の発注書用の封泥金印「親魏倭王」)。
つまり狗奴国戦争における後方支援要請だったわけで、南の狗奴国の位置が決まれば、自動的に北の邪馬台国の位置も決まることになる。
長年続く邪馬台国所在地論争の核心は、実は▶狗奴国の位置◀であることに留意されたい。
そこで九州説、畿内説の狗奴国を検討すると、以下のようになる。

−女王国「東渡海A」千余里 「複有国B」皆倭種
〇九州説…「東渡海A」関門海峡「複有国B」本州、✕畿内説…「東渡海A」鈴鹿山脈「複有国B」北海道
−「其南有狗奴国 不属女王」
〇九州説…熊本もしくは薩摩、✕畿内説…仲良し東海+河内(大阪)彦←支離滅裂

畿内説はいずれも当てはまらない上、「女王国東渡海千里複有国皆倭種(→東)」と「其南有狗奴国(↓南)」が共に「東」で重複する。
また、鉄製武器(軍事力)も文字も駅伝制(通信手段)もない3世紀の畿内にいて、遠隔の北部九州を安定支配するのは物理的に不可能(倭地に牛馬なし)。
消去法により、九州説が正しい。
では、狗奴国が熊本か鹿児島かだが、邪馬台国七万戸を統治する倭女王をして、魏帝に援軍要請させるほど窮地に陥れる国の軍事力を考えると、
その人口は邪馬台国と同等(七万戸)もしくはそれ以上の人口(八万戸)を想定。
面積から見て、川内平野でゎ「平野面積≒戸数」となる3世紀の開墾能力では無理があると思われ、狗奴国は菊地平野(狗古智卑狗の本拠)+熊本平野+八代平野の3平野を合わせた超大国と考定して、
北の邪馬台国は、北岸の吉野ヶ里遺跡を始め、弥生拠点集落の宝庫「筑後(川)の賜物」筑紫平野、卑弥呼王宮はその最高所・甘木朝倉を、
卑弥呼の冢「大作冢径百余歩(尺)=直径25m」は、3世紀中頃の築造で、筑紫平野を一望でき、かつ同時期(甕棺墓)の殉葬者が少なくとも66人以上確認されている「有棺無槨」祇園山古墳を比定。
0496日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 10:58:59.14
反論があっても一切無視
壊れたレコードプレーヤーのように飽きずに同じ文章を貼るだけ
一心不乱にお題目を唱える宗教のようなもの
すでに学問上の主張を展開する態度とは趣が異なっている
0497日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 11:02:58.96
>>487
魏志倭人伝の時代とは関係ありませんね
隋の時代なら河内沼の整地に追われていた頃でしょう
0498日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 11:03:15.39
>>485
卑弥呼の冢…祇園山古墳(殉葬66人)
台与の墓…那珂八幡山古墳2号主体(本殿下の1号主体は父「男弟」)
神武の墓…箸墓(吉備特殊器台)東征ルート(日向→宇佐→筑紫→安芸→【吉備→大和】)
0500日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 11:03:56.06
>>496
>>1
0501日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 11:09:59.26
>>495
末盧国・伊都国(一大率)・奴国・不弥国(女王国以北)
女王国→東渡海千里複有国(皆倭種)=本州
 ↓〜〜又有侏儒国在其南=四国
其南有狗奴国=熊本

筑紫平野しかないだろw
0502日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 11:10:52.96
>>499
>>500

スレ主の主張は私の主張と一部異なっているが、極めて精緻に論を展開している
君たちとは雲泥の差がある
0503日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 11:12:14.99
>>502
でも結論ありきの思い込みだから、精緻な議論もないよw
0504日本@名無史さん
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2023/01/14(土) 11:12:22.94
>>497
関係ないと決めつけるのは違う
漢魏時代を分かった上で訂正してるから
0505日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 11:13:41.97
吉備特殊器台の箸墓に殉葬なし!
0506日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 11:17:09.50
隋の時代に関しては隋書の記述が正確でしょう
0507日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 11:20:50.16
>>503
精緻な論考を経て彼なりの結論を得て発表をしている
それに反論があるなら君がそれを展開すればいいだけ
0508日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 11:21:59.93
>>498
>>505
特殊器台の高度な直弧紋細工・焼成技術から見て、箸墓は大和(唐古鍵)王ではなく、大和を征服した吉備(楯築弥生墳丘墓)王の墓と見て良いだろう。
百々襲姫♀の墓うんぬんは8世紀天武朝の適当(いい加減)な比定に過ぎず、その比定に乗っかりつつ、築造年代を繰り上げてできたのが畿内説(箸墓=卑弥呼♀の冢)なのだろう。

西殿塚が手白香姫♀(継体妃)の墓という事になっているのと同じで、8世紀の記紀編纂時には何が何だか判らなくなっていたせいだろう
百舌鳥古墳群も、伝履中(兄)陵→伝仁徳(父)陵→伝反正(弟)陵という変な順番になっている

また景初8(247)年に卑弥呼が帯方郡の新太守・王頎に遣いを出して、狗奴国と戦争中で(負けそうだから)援軍を要請していることから、箸墓や西殿塚を連続して造ってる余裕なんかないだろう
箸墓の築造年代はどんなに早く見ても、西晋朝成立の265年を遡らないだろうし、西殿塚に至っては300年前後とするのが自然
0509日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 11:23:07.97
>>507>>1 w
0510日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 11:25:01.24
>>495
そこはアウト
0511日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 11:25:01.75
>>495
そこはアウト
0512日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 11:27:01.80
>>509
重篤な全1病でもの笑いの種
0513日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 11:28:42.36
>>485
>>508
「親魏倭王」が魏帝の墓より巨大な箸墓造ってて、狗奴国との戦争に負けそうだから援軍送ってください!なんて言ったら、ふざけるな!ってなる罠w
0514日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 11:46:16.69
>>513
古代史のひろゆきハッケソ!w
>>1
冗長なオレオレ詐欺を瞬時に論破されてしまった畿内説乙w
0515日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 11:46:52.55
相変わらず九州説の妄想が酷すぎるなw
箸墓が神武天皇の墓とか、本当にバカじゃないかと思うぞ。
論を組むならまず根拠、証拠を挙げろよ。だから九州説は無知な素人の集まりとバカにされる。
0516日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 11:48:39.18
>>505
確かにw
0517日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 11:50:19.42
黒塚には黄幡らしい謎の鉄器もあるからな。
これは石室内部でも頭部に近い場所、つまり水銀朱と同様に重要な物のだと言えるだろう。
0518日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 11:51:41.81
ヤマト王権の王墓の築造年代を早めて、邪馬台国の遺跡としているのが畿内説ってことだねw
0519日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 11:53:16.81
3世紀半ば以降に箸墓のような巨大な墓をいくつも作れるのは、当たり前だが畿内周辺が七万戸の国の証拠でしかないんだからなw

こんな単純な話理解出来ないのは、ちょっとヤバいんじゃないの?
0520日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 11:53:43.65
オレオレ詐欺の畿内説は、なんでもかんでも邪馬台国と繫げたがるんだなぁw
0521日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 11:55:33.11
伊勢遺跡だ
0522日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 11:56:15.49
文字使用の痕跡なし楼観なし厳設城柵なしの纏向大型建物には、鍬の再利用の木製仮面と桃の種が大量に出土している
0523日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 11:56:17.71
>>518
それが困るから無理な難癖つけてごねてるのが九州説の先生方なんだよなw
0524日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 11:58:22.52
記述もないのに鉄が邪馬台国の証拠とでっち上げるとかw
涙ぐましいね、みっともないと思わないと。
0525日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 11:59:56.86
>>498
>>508
箸墓のモモソ姫説や西殿塚の手白香姫説が天武持統朝の誤比定で、ヤマト王権初代大王・磐余彦神武の箸墓(吉備特殊器台)だとすれば、ピタリだな
西殿塚は欠史八代の墓だろう
0526日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 12:01:20.02
本当にご都合主義な九州説、妄想はいいからもっと勉強しないとな。
0527日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 12:01:25.33
>>513
確かにw
0528日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 12:05:00.19
天武持統朝の誤比定、バカかw
理由も何も説明せずに持論に合わせるだけとか、本当に頭大丈夫かよ?
0529日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 12:06:56.11
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125






.
0530日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 12:07:28.97
>>524
弥生時代から淡路島や琵琶湖近くの鉄器工房で鉄の河口が行われていたのは考古学的な証拠に裏付けられた事実
0531日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 12:08:17.17
>>525
手白香姫って、継体妃(6世紀)だからなw
0532日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 12:11:35.13
>>371

日本書紀で天照大神と一緒に生まれた住吉三神が
日向國橘小門之水底所居なので
天照大神は金印が出た志賀島の目と鼻の先で生まれていない
0533日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 12:19:29.06
奈良県において神武天皇の存在は明治維新前は扱いが軽かったんだよ。
それまでは橿原神宮辺りもひっそりとして。
まあ三世紀末の大規模古墳なら箸墓より桜井茶臼山古墳の方がまだ神武天皇の可能性はある。
場所的にも他の古墳より異質で水銀朱200キロは特筆事項だろう。何よりも近く宗像神社の存在もある。
まあ私は桜井茶臼山は崇神天皇の可能性もあるという説だが。
0534日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 12:25:18.60
>>498
>>525
箸墓≠モモソの墓、西殿塚の墓≠手白香姫(継体妃6世紀の人物)が明らかになったわけで、まとめると、

卑弥呼の冢…祇園山古墳(殉葬66人)
台与の墓…那珂八幡山古墳2号主体(本殿下の1号主体は父「男弟」)
神武の墓…箸墓(吉備特殊器台)東征ルート(日向→宇佐→筑紫→安芸→【吉備→大和】)
欠史八代(の誰か)の墓…西殿塚(吉備特殊器台)
0535伊太乃に居たの ◆oRNQXnZmlfa1
垢版 |
2023/01/14(土) 12:34:05.69
九州説の人は、畿内説スレなんかほっといて九州説のスレを盛り上げれば良いのでは無かろうか?

なぜ畿内説スレに出張って来るのだろうか?
0536日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 12:36:12.64
>>505
確かに!
0537日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 12:43:10.91
>>533
磐余彦(神武)が実在の人物なのか、(聖徳太子=阿毎多利思比孤+厩戸皇子のように)複数の人物の合成なのかは不明だが、
東征により、日向投馬国→筑紫邪馬台国→吉備(特殊器台)国→大和国を結ぶキーマンであることは間違いない
よってそれらをすべて繋いだヤマト王権の初代大王として、箸墓はその墓に相応しいだろうということだ
0538日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 12:43:17.44
九州説の妄想は本当に稚拙、ネットで集めたゴミみたいなネタの組み合わせだなw
0539日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 12:46:50.64
>>513
自称「精緻な議論」畿内説がオレオレ詐欺でしかないという事がよく判るねw
0540日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 12:48:06.67
>>537
まず吉備で神武天皇自体そんなに重視されてないからダメだな。
対し百襲姫や吉備津彦は神扱いだぞ?
それに箸墓は元々女性の墓だという伝承だから。
何なら神武天皇は女性だった!という説でも妄想すればいいんじゃないの (鼻くそでもほじりながら)
0541日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 12:49:06.96
>>540
>>525
0542日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 12:52:14.15
そんなヒロシ(記紀の誤比定)に騙されて・・・畿内説!w
0543日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 12:58:47.21
初代倭国王がイワ大神の可能性もあるね
イワ大神の国作りはオワリで完了したみたいだ
イワが始まりみたいな共通認識があったのかもね
0544日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 13:00:01.59
>>541
そのゴミみたいな書き込みをどうしろと?

吉備の神は吉備津彦、讃岐は百襲姫。
備中、讃岐の一宮での存在感はこの二人で神武天皇の影がない。
実際瀬戸内海で神武伝承とうのはこの二人に比べると皆無に等しいから。

そもそも神武天皇は奈良県では御所から橿原の辺り、また宇陀辺りが故地なので大市なんかに墓造る理由なんて何もないのに。
不勉強にも程があるよ、あんたw
0545日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 13:05:02.85
つまりここの九州説の人は「この一番大きい前方後円墳、箸墓こそ神武天皇に相応しい!」と言ってる?
アホか、ガキかよ。そんな恥ずかしく書き込みよく出来るなとマジで思った。
0546日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 13:05:45.15
>>483

首狩りや頭ど変形の風習を持つ甕棺墓がど没落した後の北部九州は、
糸島東部三雲(及び深江)に楽浪系韓人の集落、
そのすぐ西側の平原蘇塗跡に吉野ヶ里と共通する馬韓系祭祀の部落、
洪水地帯の何もない荒地の筑後
これらの弥生前期に朝鮮半島南西部に数万基ある支石墓が分布した範囲に囲まれたのが
支石墓が無い福岡平野と壱岐、対馬で
3世紀には九州で最も発展している中継貿易外港都市博多が
畿内に誕生した初期ヤマト王権と密接に結びついた
0547日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 13:09:32.11
>>544
>>545
あんた、口が悪いだけで中身なしw
0548日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 13:12:06.78
>>544
>>545
社会生活はムリなヒッキーの典型w
0549日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 13:13:28.70
那珂八幡型古墳が糸島地方に点在する事実は、
博多湾岸と初期ヤマト王権を結ぶ政治関係性が伊都国圏に楔を打ち込み
その交易ルートを統制し始めたことを示すとも考えられよう (久住)
0550日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 13:24:51.64
もうまともな論者なんて九州説にはいないのか。期待はしてないけどさすがに議論するレベルではない。
以前いたコテ付けてた連中はもう居ないんだな。
0552日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 13:39:44.36
>>549
まあその伊都国圏というのも衰えてボロボロだったようだね
0553日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 13:42:15.96
纏向遺跡の中の古墳には箸墓より古いホケノ山古墳や纏向石塚古墳などがあるので箸墓が神武天皇では説明がつかないな
箸墓は倭迹迹日百襲姫、それより古い古墳が神武や欠史八代の誰かに当たると考えて差し支えないだろう

ただし、3世紀に突発的に出現した纏向は九州・吉備系の文化が色濃くそれまでの畿内の出雲系青銅器祭祀を一掃したと見られるので、1世紀ないし2世紀初頭から連続的に続いているはずの倭国/邪馬台国政権とはどう見ても関係ないけどな
0554日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 13:57:40.07
国作りが始まる前弥生時代中期〜後期初頭、畿内から卜骨が出ている
卜骨の集団が持つ風習に抗った人々がいたんじゃないか
その後纏向遺跡誕生まで畿内から卜骨は消える
卜骨と入れ替わってできたのが伊勢遺跡であり近畿式銅鐸であり
伊勢遺跡誕生前に瀬戸内海から東征とかあったら面白い
旧石器時代、縄文時代からの狩猟民移動民が卜骨の風習を持つ農耕民に抗って、国作りが始まったのかもね
同じ時期に出雲の民も迎え入れて1世紀半ば国作りが始まったんやろね
0555琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/01/14(土) 14:00:48.57
神武なんてのが居たとしてもタタラ姫が奈良に居た、は卑弥呼の時代の後の話だな。タタラは任那なんだよ。鉄で稼いだ娘か知らんが、この話は作り話くさい、というのが基本だろ、何故?信じるのか、不思議?
0557日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 14:08:52.43
>>554
その纏向遺跡からもト骨が出土なんだが?
0558日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 14:11:16.68
鍬の再利用の木製仮面と桃の種で卑弥呼の王宮と決めるオレオレ詐欺やねw
0559日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 14:15:25.09
>>558
女王の都って
宗教的な場所では?
山中とか海とか?
0560日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 14:19:11.20
>>556
寺沢薫「首長霊継承の諸要素について、そのための施設として、巨大な墓壙や槨の造営、また、覆屋や立石を建造して「聖なる空間」を演出することなどの点では北部九州・イヅモ(出雲)・瀬戸内地方の要素が採り入れられている。」
「鏡・玉・武器・腕飾類、あるいは鉄器の多量副葬など、威信財・副葬品に関しては、いずれも前代の北部九州の強い影響をみてとれる。」
0561日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 14:20:30.47
唐古・鍵遺跡の外来系土器から見えるもの  桑原久男 天理大学

Ⅱ期(中期前葉)には伊勢・伊賀・尾張・三河など「東海系」が卓越していたのが、
Ⅳ期(中期後葉)には「瀬戸内系」( 吉備・播磨)が逆に主流を占めるようになる。
「瀬戸内系」の卓越はV期(後期初頭)に終焉を迎え、
今度は、それと入れ替わるように、「近江系」が著しく増加する。
しかし、奈良盆地では、古墳時代の初頭(纒向遺跡の時期、2世紀末~3世紀)になると、
「東海系」が再び勢いを増すと同時に、「瀬戸内系」も復活し、
広範な地域の外来系土器が出土するようになる。
0563日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 14:23:43.22
>>561
近畿及び周辺で共同体が形成されたと思う。
0565日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 14:29:49.43
つまり、倭人の風習である黥面が描かれた土器が多量に出ている
瀬戸内と東海が大和に集まっているということだな
そして倭人の風習である卜骨は弥生前期から古墳初まで出ているということ
0566日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 14:30:38.76
卑弥呼共立により
乱がおさまり鉄が各地へ流通するようになる。
0567日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 14:35:50.31
>>560
つまり「纏向の色濃い九州の文化」というのは妄想で
「北部九州・イヅモ(出雲)・瀬戸内地方の要素」
つまり西日本ぜんぶの総合だよね
ほかに東海や近江、越前なんかも色濃いよね

副葬品に関する厚葬の部分が北部九州由来
そしてそれは古墳文化の一要素だから、あなたが>>553に書いた考えは全くの間違いということなんだ
0570日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 14:42:47.04
>>567
間違いだと思いたいという願望だな
纏向に吉備などと共に九州の文化は色濃く見られる
その最後に2行などはロジックとして成立していない
関西考古学村はそれ(ロジックの通らない主観の押し付け)だから、同じ近畿人以外に畿内説が全く説得力を持たないのだ
0571日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 14:44:28.57
キナイコシが議論に勝ちたい気持ちはわかるけど通らないロジックでは勝てないからね 笑
0574日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 14:49:39.97
弥生時代後期初頭から纏向遺跡誕生まで畿内から卜骨が消える
その間も稲作は盛んに行われていた
環濠もなくなり平和な時代で米もわけわけしていたかもね
卜骨とか殉葬などの風習を拒否したのかもね
生き物や命に対する価値観が違いすぎたかのか
0575日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 14:49:42.76
>>555
>卑弥呼の時代の後の話だな。
全くその通り。畿内説の箸墓年代捏造がややこしくしてるだけ。
0576日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 14:54:56.91
日本人の歴史は旧石器時代から
天地開闢で最終に生まれたのは葦の芽
国作りは葦原中国から
この辺は重要だろう
0577日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 14:56:24.37
神風の伊勢、神風の八坂
日本の守り神
0578日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 15:13:17.82
>>575
>畿内説の箸墓年代捏造がややこしくしてるだけ

なんの根拠もなく執拗に捏造呼ばわりするのが
九州説らしい捏造行為だな
嘘も千回連呼すれば本当と思ってもらえるというのは
なんとも浅ましい願望だ
0579日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 15:29:47.73
>>570
どの辺りが?
九州との関係はどう見ても薄いだろ
0580日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 15:33:20.06
>>579
それは君の主観
というか、纏向が九州との関係が薄かったらそもそも伊都国に一大率を置くようなことが現実的な話ではなくなるのだがいいのか?
0581日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 15:35:46.41
>>580
伊都国は出雲なんだが
0583日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 15:37:28.38
>>570
>纏向に吉備などと共に九州の文化は色濃く見られる

あなたの言うこと、いつも具体性ゼロでしょ
妄想ってわかりやすいよ

>その最後に2行などはロジックとして成立していない

ほら、どうして成立しないのか全く説明できない
あなたにはロジックが無い
0584日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 15:37:47.23
>>582
伊勢遺跡説だ
0586日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 15:44:16.15
>>571
>キナイコシが議論に勝ちたい気持ちはわかるけど通らないロジックでは勝てないからね 笑

      ↑
  通らないロジックの典型

と言うか、ロジックなんてキーワードだけ格好つけて使うだけで
論理そのものが欠如している
理由を決して言わない人だからw
聞かれると逆ギレするし
0587日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 15:45:45.47
>>296

> そもそも九州に邪馬臺国あったら近いんだし里数で書くでしょ
> 遠すぎて倭人からの伝聞しか使えなかったから投馬からいきなり里程が日数になってるのよ

だから里数が尽きる九州北部が邪馬台国だろ。
0588日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 15:46:56.67
九州説なんて既に相手するレベルのモノではないよ、このスレ見ててもまともな話が皆無。
全部が妄想ばかりだしな。
0589日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 15:49:50.59
>>587
伊都国、不彌国、奴国の後に
邪馬台国には里数はなく
日数表示。
0590日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 15:49:57.31
三国志、魏志倭人伝を読んで北部九州に七万戸の国が入る、なんて妄想してる時点で恥かしいと思わないと。

そんなのに古代史やる資格はない、つまり九州説論者にはまともなのは居ないという事。
0591日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 15:52:39.44
>>482

そこまで正確な年代推定は科学的にあり得ない。
あなたの主張には科学的根拠がない。
0592日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 15:53:35.80
青玉 真珠、丹がでる範囲
0593日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 15:56:23.60
>>580
話を捻じ曲げてはダメ
纒向に九州の文化的影響はむしろ薄いという主張を
政治的繋がりが無いと言う話にスリかえたでしょ

纒向に対して九州の文化の影響が濃厚だという
誰が考えても?な話に疑問を呈した相手を
纒向にある王権が九州に一大率を置いている事で否定しようとするのは無理筋
0594日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 15:56:32.61
文字がないので当然戸籍などない時代
七万戸は陳寿の観念的な数字だ
0595日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 15:58:49.38
>>591
>そこまで正確な年代推定は科学的にあり得ない。

ありえないという科学的根拠は?

あなたの主張には科学的根拠がない
ブーメランだったね
0596日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 15:59:22.71
>>519
>当たり前だが畿内周辺が七万戸の国の証拠でしかないんだからなw

当たり前だが、碌な弥生集落遺跡や鍛冶炉遺構の無い畿内に、「邪馬臺国」など興る訳がない。   @阿波   
0597日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 16:00:34.26
>>594
>文字がないので当然戸籍などない時代
>七万戸は陳寿の観念的な数字だ

九州説さん、また倭人伝無視を主張
0598日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 16:03:59.38
>>594
不正確だけど数えてはいたと思うけどな
集落に何人いるかわからんてのは考えにくい
0599日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 16:05:18.01
>>598
当たり前だが、碌な弥生集落遺跡や鍛冶炉遺構の無い畿内・九州に、「邪馬臺国」など興る訳がない。   @阿波  
0600日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 16:10:19.93
七万戸を筑後平野に収納するのは難しいが筑後平野よりずっと狭い奈良盆地にはもっと無理
0601日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 16:16:17.45
>>591
概要のところで
>平原遺跡は弥生時代後期から晩期の5つの墳丘墓を合わせた名称である。
0603日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 16:20:40.33
畿内説は別に奈良盆地を邪馬台国、と主張してる訳ではないのだがw
そういう人も居るだろうが、石野氏のように七万戸なら畿内全域でもよいレベルと考えるのがまともな考古学者。

それに七万戸だけではなく北部九州説では奴国や投馬国も収める必要性があるのに、その時点でもう無茶苦茶な暴論でしかない。
0604日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 16:24:07.62
>>600
本州に入ってからは、投馬国と邪馬台国の2国
人口の構成から見て本州に入ってから、5対7の比率で領有する面積を考えるべき
奈良は都だが、邪馬台国自体は一定の範囲を持った国
0605日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 16:26:56.75
投馬国は宮崎鹿児島やろね
そこから紀伊の港にワープ
竹内宿禰も利用したルートだ
海流に乗ると1日に150km進むからね
0606日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 16:34:37.90
>>603
>石野氏のように七万戸なら畿内全域でもよいレベルと考えるのがまともな考古学者。

大河四国三郎吉野川流域と対照的に、
当たり前だが、碌な弥生集落遺跡や鍛冶炉遺構の無い畿内・九州に、「邪馬臺国」など興る訳がない。   @阿波  
0608日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 16:51:32.73
>>607
>阿波に七万戸は勿論無理

大河四国三郎吉野川流域と対照的に
当たり前だが、碌な弥生集落遺跡や鍛冶炉遺構の無い畿内・九州に、「邪馬臺国」など興る訳がない。   @阿波  
0609日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 17:04:56.94
2年前に発表された母系遺伝子の研究
あれは興味深かったよな
母系から見ると日本人はかなり地域性のある8つのグループに大別できるという結果だった
九州沖縄、高知、徳島、新潟福井香川、島根鳥取、奈良滋賀、三重東海、東北富山石川和歌山
京都大阪が1番近いのは東北グループで、東京や関東は東北とは離れた位置だった

弥生時代末期の卜骨の地、吉備と東海
東海は母系遺伝子からも1つのグループを形作っている
東海と吉備はどちらも黥面土器が見つかっており文身の風習があった
東海は日本一下戸が多い地域であり吉備も下戸が多い
卜骨の始まりは殷であるが、彦の漢字の成り立ちからも文身の風習があったと推測される
殷滅亡後一部の一族が河南に封じられたりしており、滅亡後に南に向かった殷の民もいたんじゃなかろうか
殷は酒で滅んだとも言われており酒に弱かった可能性もある
倭人は殷の影響が強い日本人のグループかもしれないね
0610日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 17:08:42.81
>>600

畿内説の七万戸は斉一性が高い畿内第Ⅴ様式圏
洪水地帯の筑後は九州でもっとも開拓が遅れた地域
所謂河原者が住む土地
0611日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 17:11:59.47
>>610
>畿内説の七万戸は斉一性が高い畿内第Ⅴ様式圏

畿内第Ⅴ様式の旧弥生土器に、斉一性などない。

斉一性が高いのは、「東阿波型土器」   @阿波
0612日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 17:16:47.62
>>611
理由は?
0614日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 17:19:28.53
弥生土器Ⅴ様式期に小形丸底鉢(東阿波型土器)が倭国(阿波)で発明され、
「倭人(阿波勢力)」によって、瞬く間に全国へと広まった。   @阿波
0615日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 17:19:33.75
>>519

邪馬台国と関係ない辺境の地だよ。
何戸あろうが関係ない。
魏どころか半島との交流の痕跡すらないのだから。
0616日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 17:19:53.69
まーだやってらっしゃるのか





卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)





ハイ終了

解散!
0617日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 17:20:24.23
>>530

> >>524
> 弥生時代から淡路島や琵琶湖近くの鉄器工房で鉄の河口が行われていたのは考古学的な証拠に裏付けられた事実

卑弥呼の時代には鉄を手に入れられなくなり、衰退した。
0618日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 17:20:28.92
阿波國鮎喰川下流集落群では、弥生終末期には軽量薄型の土器が生み出される。
中・東部瀬戸内から大阪湾岸地域、淀川地域・山城地域に搬出された阿波を代表する土器であり、「東阿波型土器」と呼んでいる。
企画性が強く、器壁内面にヘラケズリと指頭圧痕を残す製作技法に特徴がある。土器製作専業集団によるものだろう。
類似技法による土器は讃岐・吉備に拡がり、薄型土器の南北軸を形成している。   @阿波
0619日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 17:20:28.96
纏向遺跡ができる2世紀末までは近畿地方は銅鐸と勾玉の国で一心同体
2世紀末以降の畿内全域の土器の微妙な変化を数年単位で把握できてんのかな?考古学者は
3世紀前半、南河内から纏向遺跡みたいな外来系土器が見つかってんのか?
0620日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 17:22:58.27
>>614
小形丸底鉢て出土あるのか?
0621日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 17:23:15.52
>>532

> >>371
>
> 日本書紀で天照大神と一緒に生まれた住吉三神が
> 日向國橘小門之水底所居なので
> 天照大神は金印が出た志賀島の目と鼻の先で生まれていない

天照大神とともに生まれた住吉三神が志賀島の目と鼻の先の博多に祭られている。
筑紫の日向の小戸は博多湾のこと。
ちなみに立ち鼻の岬より東の大戸が博多港、西側の小戸は伊都に近い福岡市西区小戸。
0622日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 17:24:15.49
ヤマト政権の誕生は河内側で負けて先に奈良を平定して始まるんでしょ
ヤマト政権誕生時には河内側に敵対する勢力がいたんじゃないの
0623日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 17:25:50.06
>>617
逆だよ。流通したんだな。
0624日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 17:26:29.13
>>533

神武から欠史八代までは事績がないから、饒速日の国に滞在を許された居候だったのだろう。
崇神天皇は母方が物部氏なので、宮も石上・三輪に近い磯城・纒向となっている。
つまり崇神天皇からは物部氏の権威の女系相続により奈良盆地の実権を掌握したわけだ。
0625日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 17:26:53.68
>>620
>小形丸底鉢て出土あるのか?

徳島県埋蔵文化財センターへ見に来い!   @阿波
0626日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 17:29:14.85
邪馬台国=卑弥呼の女王国=古の倭奴国(旧唐書による)=福岡県=弥生文化の中心地=倭国の都=豊葦原中国=筑紫の日向(記紀による)=天皇家の祖である天孫邇邇芸や山幸彦(彦火火出見=伊都高祖宮の祭神、邇邇芸の子、神武の祖父)の国
投馬国=宮崎県都万=隼人の祖である海幸彦の国
狗奴国(官の名が菊池彦)=熊本県=熊襲の国
日本国=畿内=倭の別種=ヤマト王権=物部氏の祖である天孫饒速日の国(日本は日下において饒速日が命名した)

福岡県糸島市(伊都)の細石神社と、宮崎県西都市(妻)の都万神社は、どちらも天孫邇邇芸の妻であり山幸彦と海幸彦の母親である木花咲耶姫を祭っている。
宮崎県は日向国と呼ばれるが、糸島市を含む福岡県北西部も筑紫の日向と呼ばれ、奇妙な対比を呈している。
魏志倭人伝では、邪馬台国七万戸と投馬国五万戸はそれぞれ帯方郡から水行十日陸行一月(1日の誤りか?)と水行二十日と対比されて記載されている。
0627日本@名無史さん
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2023/01/14(土) 17:29:20.45
>>625
なんで徳島なんだ?
畿内の話だよ。畿内のどこだよ
0628日本@名無史さん
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2023/01/14(土) 17:31:25.20
>>627
小林行雄氏に聞け! 無理かw  わははははは   @阿波
0630日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 17:32:02.90
>>621

博多の住吉神社は、
国史では、天安3年【859年】に筑前国の「住吉神」の神階が【無位】から従五位下に昇叙

住吉大社は、
延暦3年(784年)6月に正三位勲三等、
同年12月に従二位、大同元年【806年】に【従一位】に昇叙
0632日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 17:33:51.34
>>613
根拠となる文章がスレに常に掲げられている
それについて意見があるのなら
精緻な議論で挑めばいい

君は何述べずにあしざまに言うだけ
それは、下劣な行為
0633日本@名無史さん
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2023/01/14(土) 17:36:24.32
>>631
出土する神獣鏡や近畿系土器もか?
0635日本@名無史さん
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2023/01/14(土) 17:37:46.18
>>615
弥生時代から淡路島と琵琶湖周辺に鉄を加工する工房があった
材料の鉄は朝鮮半島から輸入したもの
淡路島の工房は倭国大乱の需要もあり、大乱以前100年の間稼働していた
その間朝鮮半島から鉄を輸入していたということ
これは、考古学的発見による動かしがたい事実
0636日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 17:39:24.32
>>631
>前方後円墳も、博多から吉備、畿内へと伝播したのかもね。

そんなアホな。
博多へも、倭国(阿波)から「前方後円墳」や「東阿波型土器」が伝播した。   @阿波
0637日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 17:40:24.53
>>603
畿内全域より北部九州の方がはるかに広い
実際多くの墓地が発見されそれなりの数の定住者がいた事も事実

で畿内は?
住民の墓地も溶けたってか?
0639日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 17:41:34.34
>>629
実在しない発言を創作する九州説の
捏造体質に草萌える
0640日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 17:42:15.69
>>634
>那珂八幡古墳の前に造られたのが纏向石塚古墳

その纏向石塚古墳は、葺石墓だから、4世紀以降の築造。   @阿波
0641日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 17:43:17.37
>>635
>淡路島の工房は倭国大乱の需要もあり、大乱以前100年の間稼働していた

そりゃ、倭国(阿波)なんだから。   @阿波
0642日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 17:43:34.18
>>617
大乱が終わり武器の生産の需要は減ったのだろう
また、大乱の原因となる武器について、生産を控える動きがあったのかもしれない
これが、卑弥呼・台与の邪馬台国政権の特徴だったのかもしれない

鉄を加工する技術はすでに確立されていて、あるいは違う場所で生産活動があったのかもしれない
要は、作る意志さえあれば作れるということ
それを不可能にする外的な条件が発生したわけではない
0643日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 17:43:47.37
>>626
お前もしつこいなぁw
「高祖」は渡来系由来の名前で彦火火出見を祭神にするのは後世の付会だと言ってるだろ。いい加減にしないか?もう、バレてんだよ!
完全なる間違いを繰り返してゴリ押しされると迷惑なんですよ。建設的ではないだろう?
0644日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 17:46:06.26
>>637

首狩りや頭ど変形の風習を持つ甕棺墓がど没落した後の北部九州は、
糸島東部三雲(及び深江)に楽浪系韓人の集落、
そのすぐ西側の平原蘇塗跡に吉野ヶ里と共通する馬韓系祭祀の部落、
洪水地帯の何もない荒地の筑後
これらの弥生前期に朝鮮半島南西部に数万基ある支石墓が分布した範囲に囲まれたのが
支石墓が無い福岡平野と壱岐、対馬で
3世紀には九州で最も発展している中継貿易外港都市博多が
畿内に誕生した初期ヤマト王権と密接に結びついた
0645日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 17:50:43.35
>>644
>畿内に誕生した初期ヤマト王権

大河四国三郎吉野川流域とは対照的に
当たり前だが、碌な弥生集落遺跡や鍛冶炉遺構の無い畿内に、「初期ヤマト王権」など興る訳がない。   @阿波
0646日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 17:59:31.80
>>645
>弥生集落遺跡や鍛冶炉遺構の無い
遺構が無くても当時にあればいいんじゃないのか?
過去に存在すれば必ず残っており発見されるという根拠は?
弥生時代の推定人口の何%分の集落が発見されている?
0647日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 18:09:05.22
鉄の流通からわかることは、卑弥呼の時代に筑紫の一強となり、出雲も瀬戸内も半島へのアクセスを失った。
卑弥呼が亡くなると、畿内など各地に鉄が分散するようになった。
0649日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 18:12:19.49
>>589

里数と日数は別記事。
邪馬台国までの里程は帯方郡から一万二千里の九州北部で終わり。
0650日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 18:14:04.20
後漢書における邪馬台国までの里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
(楽浪郡は)その(邪馬台国の)西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の南界を極める。

魏略逸文における里程
帯方(郡)より女(王)国に至る万二千余里。

魏志倭人伝の邪馬台国までの里程
帯方郡(朝鮮北部)から狗邪韓国(朝鮮半島南岸)まで七千里、(帯方郡から)女王国まで一万二千里。
※対馬海峡が三千里であるため、帯方郡から九州上陸までで一万里となり、上陸後二千里の邪馬台国の位置は九州北部になる。

魏志倭人伝の邪馬台国までの日程
帯方郡から邪馬台国(福岡県)まで水行10日、陸行1月(1日の誤りか)
また、帯方郡から投馬国(宮崎県)までは水行20日
0652日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 18:17:29.53
>>603

邪馬台国と投馬国は他の国邑の記事と分けて書いてあるので、明らかに複数の国邑からなる領域を想定している。
それぞれ、九州北部と九州南部で説明がつく。
九州北部の邪馬台国は、現在の福岡佐賀長崎あたりとすると、奴国二万戸か含まれる。
0653日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 18:20:21.02
>>630

それは畿内政権が畿内の神社を贔屓していたから。
摂津の住吉大社は、博多の住吉神社が元社であることを認めている。
そもそも住吉三神は筑紫の生まれであり、摂津の生まれではない。
0654日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 18:20:45.02
摂津国一宮 住吉神社 筑紫で生まれた住吉の神を祭る
河内国一宮 枚岡神社 筑紫に降臨した天児屋根命を祭る
和泉国一宮 大鳥神社 天児屋根命の子孫を祭る
山城国一宮 上賀茂下鴨神社 筑紫からの神武の東征を助けた三島溝杭耳を祭る
紀伊国一宮 日前宮、国懸宮 筑紫に降臨した天道根命が持っていた鏡を祭る

ここまで筑紫と東征関連。
例外はこれ。
大和国一宮 大神神社 大物主を祭るとされる。
三輪山の神とは、現在の桜井市一帯を拠点としていた物部氏のことであり、その祖は筑紫から来た天孫ニギハヤヒである。
河内から大和にかけての地域を日本と名づけたのもニギハヤヒである。
日本は倭の別種の小国。
畿内は筑紫からの入植地ですね。
0655日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 18:22:29.30
>>635

大乱以前に稼働していたのに、大乱が収まった卑弥呼の時代には鉄が入手できなくなり廃れた。
0657日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 18:26:23.35
>>643

歴代の王の誰を祭るかというのは、その時代の政治状況の影響を受ける。
彦火火出見の他に高磯姫というのがいたわけだが、それこそ卑弥呼本人だったのではないか?
卑弥呼から約半世紀後に筑紫には神夏磯姫という女王が三種の神器を持っていたことが日本書紀に書かれている。
伊都の高磯姫との関係は?
0659日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 18:28:33.57
>>647
君の議論の前提は卑弥呼の時代に出雲や畿内に人々が暮らしていた事実があるということ
それを魏の役人が知らなかったということはあり得ない
魏志倭人伝は all about wajin
九州の倭人人口の6倍以上の倭人が本州に住んでいた
そのことについて記さなければ魏志倭人伝は成り立たない
君の説は荒唐無稽ということになる
0660日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 18:30:51.56
>>650
君の説のように読解する中国人がいるのか教えてほしい
0661日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 18:32:44.68
>>652
>邪馬台国と投馬国は他の国邑の記事と分けて書いてある

具体的にどういうことなのか説明してほしい
0662日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 18:40:32.81
>>655
大乱以前に100年の間稼働していた工房があったということが重要
九州説諸君は畿内には鉄が流通していないようなことを言っていたのではないのか
実際はそんなことはなかったということ

仮に卑弥呼の政権が九州にあったとしても、本州の倭人人口はその6倍
それらの人々は倭国に含まれないとしたら、卑弥呼はどうしてそれらの人々に言うことを聞かせられたのか
何の権限があってできたのか
まったく荒唐無稽な説としか言えない
0663日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 18:41:42.05
>>637
現状では弥生時代で最大級の水田跡が確認されてるのが葛城山の麓だけど?
しかも弥生時代中頃の時点でな。
そもそも弥生末期以降大規模な古墳が造れるのは、そこに人がいるから七万戸を想定出来るんだぞ、単純な話だ。
北部九州は戦争ばかりだと七万戸の国を維持は出来ないぞw
0664日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 18:42:17.69
>>656
考古学的事実を説明する解釈を述べた
大事なことは考古学的な事実は動かせないということ
0666日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 18:46:57.90
>>647

倭人の風習が無い筑紫は、
卑弥呼の時代に博多が畿内と密接な交流関係になった
纏向では卑弥呼の遣使以降に副葬される鉄器が増える(遣使前の纏向石塚の鉄器は不明)
0667日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 18:52:08.95
>>624
欠史は奈良の葛城地方において色んな逸話を残しているけどな。そこは蘇我の本拠地でもあるから歴史から消されたにすぎない。
だが橿原辺りでは明治以前蘇我贔屓の集落も多かったぞ。
0668日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 18:52:22.84
>>648

定型化古墳の埴輪は吉備の影響
副葬品は中国の葬送文化の影響
墳形は神仙思想の影響
0669日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 18:55:25.28
>>655
逆だよ。増えたよ
0670日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 18:57:14.94
>>653

ヤマト王権の編纂した日本書紀に書かれているのが
住吉三神は、日向國橘小門之水底所居
摂津の住吉大社の博多の住吉神社が元社であるという文献は何時のものか?
0672日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 18:59:06.16
>>671
増えてるな。
0673日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 19:01:23.00
>>657

高祖は、「筑前国嶋郡川辺里戸籍断簡」や『東大寺文書』で韓鍛冶宅蘇吉士が居住した土地
0674日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 19:04:27.52
>>658

博多を中心とした2万戸の奴国は女王国の構成国
千戸の伊都国は30年ほど女王国の統制に属した隷属国
0675日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 19:07:53.35
二上山のサヌカイトが使われ始めたのは氷河期の旧石器時代
水田よりはるか昔だ
その頃から奈良や大阪には日本人が住んでいた
日本最古の竪穴式住居も二上山の麓から見つかっている
始まりは重要なんだよな
二上山に眠るのは大津皇子だが、二上山に何らかの関係があったのかもね
二上山の枕詞は玉櫛笥、玉櫛笥は葦城の川の枕詞でもある
葦城の川は筑紫野の川らしい
筑紫の君磐井の本拠地辺りだな
興味深い繋がり

珠匣 葦木乃河乎 今日見者 迄萬代 将忘八方
0676日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 19:14:03.38
木は城、国の境守る砦だな
天地開闢で最初に生まれたのは葦の芽で、国作りでできたのが葦原の国だ
ちなみにアイヌ語で葦原はサルという
葦城は葦原の国を守る砦、岩戸だろう

磐井が眠るのは岩戸山だな
0677日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 19:17:16.01
岩戸山古墳の石像は超貴重、国宝だよ
0678日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 19:20:26.66
>>671
邪馬台国は近畿だな。
卑弥呼が九州へ
無論、共立時代なので
邪馬台国は中心国でもない
女王国の国々の一つに過ぎない。
卑弥呼連合があって邪馬台国連合ではない。
0679日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 19:29:02.26
邪馬台国は奈良でヤマト政権
狗奴国は河内
これやね
0680伊太乃に居たの ◆oRNQXnZmlfa1
垢版 |
2023/01/14(土) 19:31:26.72
>>675
西日本では約7300年前の鬼界カルデラ噴火の影響で、
人口が激減しており、文明の継承は厳しい状況に陥っている。
縄文時代は、継続的に、東日本の人口が西日本を圧倒しており、
決して文明がずっと継続的に続いてる訳ではない。
0681日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 19:31:35.93
>>670
古事記を読め
0682日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 19:45:53.91
二上山は神の山、にじょうざん、ではなくふたかみ山だからな。
元々はかつらぎ山でもある。
武内宿禰の竹内集落や近つ飛鳥、蘇我の本拠地でもある。奈良盆地の塩は実はこの竹内集落辺りから配られたとも言われている。
また飛鳥地方その他の石室用の石の提供場所。
0683日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 19:53:58.46
鬼界カルデラ噴火後に作られた三内丸山遺跡は遼河文明の影響が強い遺跡
栗や胡麻などの栽培、柱を使った建物など当時の最先端をいく集落だったようだ
先住民にとっては神に見えたかもねえ
遼河文明はNの集団の文明と言われていて今でも青森はNの割合が高い
この集団は弥生時代に一世風靡したんじゃないか
遼河文明は龍トーテム、大蛇だね
東北には龍の黒神の伝承が残っている
この勢力が神魂、イザナミ、神々の母なんじゃないか?

イザナミが眠る地は熊野の有間だ
母系遺伝子の研究では東北富山石川和歌山は同じグループで、京都大阪が1番近いのはこのグループだった
唐古・鍵遺跡や池上曽根遺跡からは龍の絵画土器が見つかっている

黄泉に逃れたイザナミ、道敷大神
黄泉は常世、常世は竜宮城
根の国島根と熊野の有間の間に黄泉の国があるんじゃないの?
狗奴国かもねえ
池上曽根遺跡や和歌山からは卜骨は見つかっていない

祇園祭や天神祭はヒオウギは床の間や軒先に飾る花として愛好されている
ヒオウギの黒い種はぬば玉と言って黒の枕詞

八坂の神や天神さまの母は龍の黒神?
0685日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 19:58:59.24
>>671
他所の人の古墳の副葬品をあたかも奈良産のように装う詐欺事件

なんたって畿内説が改ざんした図だからなw
元はコレ
魏志倭人伝に倭人が「鉄のやじり」を使っている記述があり、この時代の日本には既に鉄器文化が到来していたことがわかります。
また、『3世紀の中国の歴史書「魏志東夷伝弁辰条(ぎしとういでんべんしんのじょう)」には、朝鮮半島南部の地域に鉄が多く出て、「韓、注意1(ワイ)、倭みなしたがってこれをとる。
諸市買うにみな鉄をもちい、中国の銭をもちうるがごとし」と記されています。
鉄を求めて、弥生人がさかんに朝鮮半島南部に出かけていった様子が描かれています。』

よって弥生時代の鉄器の出土量が多い地域が、当時の倭人達の経済共同体であったと見なせます。

弥生時代の鉄器出土量
https://i.imgur.com/UKtbTwc.png
0686日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 20:00:12.86
旧石器時代からいる集団、三内丸山遺跡の集団、そして岩の隙間に巣を作るミソサザイ
3者が協力して国作りが行われたのかもねえ
0687日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 20:00:34.16
そもそも3世紀時点で河内も大和洲も存在していない

『仁徳期の治水事業により、河内湖の水域が減少するとともに、流入している大和川枝川等が河口に三角州をつくります。
そして湿地・草原あるいは堤防敷となり、その後、河内低地の陸地化が始まります。』
0688日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 20:03:15.23
>>685
九州説の改ざんデータだな。
0689日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 20:04:03.89
纒向の桃の種が発見されたのは何故か柵列の下であり建物とは関係の無い遺構なのです
https://i.imgur.com/J2EZhbs.png
建物とお供え物の桃が同時期に存在していたわけでも無いのにまるで桃がお供え物であったかのうように
作り話を展開している畿内説は霊感商法詐欺に相当する
0690日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 20:04:06.61
>>687
筑紫も出雲も存在しない
0693日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 20:06:10.72
>>691
嘘つき。データも古い
0694日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 20:07:42.57
常に自己都合に合わせて関係ないものを資料に追加してきたのが畿内説の低辺学者どもだ
0695日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 20:08:19.66
>>694
必死だな
0696日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 20:08:20.40
>>685
>他所の人の古墳の副葬品をあたかも奈良産のように装う詐欺事件

他所の人の古墳とは、「倭人(阿波勢力)」の古墳だ。   @阿波
0699日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 20:22:49.66
箸墓を作ったのは物部氏です。
0701日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 20:25:22.51
九州に渡来人由来のDNAが少ないのだから、当時の先進的な文明をもった渡来人は畿内周辺にで先進的な文明国家を築いたって事なのかね?
0702日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 20:26:32.91
>>699
その物部氏は、「倭人(阿波勢力)」の一派です。   @阿波
0706日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 20:28:12.15
>>700
銅鐸文化は別の文化圏に征服されたのでしょうね
0708日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 20:29:58.86
静岡や熱海あたりをよく調べれば木製仮面が出てくるはずだ
0709日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 20:30:31.87
>>705
吉野ヶ里遺跡からも銅鐸が出てきてますが、その点そのように考えますか?

>>704
渡来人は半島系では無いでしょ。半島はあくまで通り道に過ぎません。
0710日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 20:30:59.63
>>705
銅鐸文化圏も銅矛文化圏も、「阿波」が起点。   @阿波
0711日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 20:34:21.06
>>709
>吉野ヶ里遺跡からも銅鐸が出てきてますが、その点そのように考えますか?

小銅鐸と銅鐸文化圏の銅鐸は全くの別物だ
小銅鐸は中国に伝わる物
日本の大型銅鐸は発祥地もその用途も不明
0713日本@名無史さん
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2023/01/14(土) 20:37:21.25
>>702
物部氏のルーツ伊邪那岐なので【橘の生い茂った筑紫】から大和に向かう経由地ではあったかもしれませんね
https://i.imgur.com/rdFT0xe.jpg
0715日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 20:38:18.68
>>711
>小銅鐸は中国に伝わる物

小銅鐸と言えば、銅鐸王国「阿波」   @阿波
0718日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 20:44:29.07
3世紀になると突然銅鐸は作られなくなり前方後円墳が作られるようになる。ゆうたら、宗教スタイルが変化したのかも。
0719日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 20:48:10.05
>>718
阿波では30遺跡、43口の銅鐸が知られる有数の銅鐸出土地域だが、
銅鐸埋納と相前後して、記号や絵画とは異なる、
思想を表現した「弧帯文土器(直線と曲線の組合せにより表されている)」 が、
「矢野遺跡」、「黒谷川郡頭遺跡」、「井出上遺跡」から出土している。   @阿波
「弧帯文土器」
http://www.infokkkna.com/ironroad/2010htm/iron6/10iron04gaisetsu01.pdf#search=%27%E5%BC%A7%E5%B8%AF%E6%96%87%E5%9C%9F%E5%99%A8%27
0720日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 20:52:06.11
>>719
作成者不明のつぎはぎだらけのPDFに直リンするなよw
そんなええ加減な資料なら何回貼っても無駄。
0721日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 20:52:06.45
>>681

古事記の禊祓によって神々が生まれた竺紫日向之橘小門之阿波岐原の日向は、
日本書紀の日向國橘小門之水底所居によって
日向國のことだとわかる
0722日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 20:52:43.94
かと言って、銅鐸文化圏に意味がなくなるわけではなく
そこには依然として埋納されている地域と殆ど埋納されていない地域という状況は残る
0723日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 20:54:38.82
>>701
九州に渡来したと言う人たちは元々倭人だったのでしょう、渡来ではなく同族の国に帰国した感じなのでは?
一方関西人の遺伝子は応神の代に大挙して渡来したのは倭人では無い本物の渡来人だったのでしょう。
0724日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 20:55:03.47
銅鐸が殆ど残っていない九州は平和的に祭祀の交代が行われたが
逆に銅鐸が残された地域というのは強い抵抗があったと推測できる
0725日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 20:57:57.37
>>722
昔の教科書にも銅鐸文化園と銅矛文化園って載っていたからそれに縛られるはしょうがないとは思うが、
現在はその概念は否定されています。

和辻哲郎がそんな間違いをしでかすとは思わないものね、仕方ないよ。
0726日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 21:03:11.87
>>721
日本書紀は、眉唾が確定済み。   @阿波
0728日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 21:07:04.96
>>725
その概念が否定されるのは、起点が「阿波」だと分かってしまったから。  わははははは   @阿波
0729日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 21:07:56.34
記紀の神功皇后応神の時代は4世紀後半やね
住吉さんが畿内に来た時代かもね
竹内宿禰や葛城の時代でもある
佐紀陵山型古墳の時代
葛城の枕詞は青柳で、イトに掛かる枕詞でもある
伊都国と関係があるのかな?
柳の七不思議が周防灘の姫島に残っているね
阿迦留姫の伝承が残る周防灘の姫島は黒曜石の産地でもある
姫島には元々大蛇が棲む池があったが大蛇ごと埋められ田にされたという七不思議も残っている
摂津風土記によると、九州の地は追手が来るからと赤玉を持つ阿迦留姫は良い【風】に導かれなにわの姫島に帰ったとある
なにわの姫島では阿迦留姫は住吉の神と共に祀られ、やり直しの神さまとして大切にされている

百舌鳥古市古墳群は5世紀に入ってからだね
アカルヒメと住吉の神はやり直しの神さまなんだな
日本書紀だったか古事記だったかに、姫島で雁が卵を生んだ話が載っている
やり直しの結果が百舌鳥古市古墳群かもね
山にススキに月、山にススキに雁
0730日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 21:08:07.50
九州でも銅鐸は利用はされていたはずである
一般論として貴重な銅を廃棄するとは考えづらいので使わなくなった銅鐸は再利用されたのだろう

ところで銅鐸の発見場所には何度も掘り返した跡がある
結局、銅鐸を埋納した個人・集団が何等かの理由で最終的に回収しなかった地域を、銅鐸圏と呼んでいるだけのことである
埋めていたのは略奪に備えていたからではないのか
最終的に回収できなかったのは彼らが捕らえられたからではないのか

つまり銅鐸が残っている本州四国はその時期に一方的な侵略や略奪にさらされており
逆に、銅鐸が殆ど残っていない九州は少なくとも一方的な侵略はなかったものと推測できる
0732日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 21:11:43.64
田は争いを生むんだな
土地の縄張り争いだけでなく水の所有権を巡る争いも引き起こす
播磨風土記にも水を巡って村々が争った話が載っているね

周防灘の姫島には元々田はなく、大蛇が棲む池があった
龍やろね
石神さまと龍の黒神が協力して黒曜石をとる地だったんじゃないの
池は石切場の跡だった?
0734日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 21:16:24.24
>>732
>播磨風土記にも水を巡って村々が争った話が載っているね

しかし、畿内の風土記にも九州の風土記にも、天皇に纏わる話は一切載っていない。

天皇に纏わる話が載っているのは、跡にも先にも阿波国風土記だけ。   @阿波
0736日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 21:17:35.03
>>733
>女王国は鉄器文化圏だから銅鐸なんてどうでもいい話だな

鉄器文化も銅鐸文化も勾玉文化も、「阿波」。   @阿波
0738日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 21:18:55.45
>>735
時系列がまったく逆!   @阿波
0740日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 21:20:09.71
>>730

九州でも銅鐸を作って使ったことはわかっているが
首狩りや頭ど変形の風習を持つ甕棺墓族は
朝鮮式小銅鐸やワイ伝に載る大きな矛のほうが好きだったようである
銅矛は中央アジアステップ地帯のアンドロノヴォ系青銅器文化
0741日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 21:21:07.93
>>739
>城野遺跡の玉作り工房では

水銀朱も勾玉も、「倭人(阿波勢力)」の証。   @阿波
0743日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 21:23:49.99
神嶋。伊刀嶋の東にある。神嶋と称される所以は、この嶋の西の辺りに石神があり、その形は仏像に似ていたので この名が付いた。
この神の顔には5色の玉が付いている。胸には涙の流れた跡があり、これもまた5色である。
泣いた所以は、品太天皇の御世に新羅から客人が来朝し、この神の顔に付いていた奇偉で思いの外に珍しい玉を見て、これを取ろうと顔をほじったところ、眼を一つ掘り潰してしまった。よって神は泣いたのである。
それから神は大いに怒り、暴風を起こして客船を打ち壊してしまった。この船は海を漂って沈み、やがて高嶋の南の浜に漂着したが、乗っていた人は悉く死んでしまった。よって、その浜に埋葬した。故に韓濱と名付けられた。今でも此処を通過する者は、韓人に拘らず盲の事を戒めて謹んで渡るようになった。

新羅の人は石神の眼の玉を1つ握り潰したので、石神さまの怒りに触れたんだよな
五色の玉を持つ石神は、堺に降臨し五色の玉を埋め、岩山を作った五色に光るえべっさんかもね
0744日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 21:24:32.56
>>731
>それは根拠不明のあなたの個人的な見解なのでスルーさせていただく。

分布図が証明している。   @阿波
弥生時代中期の青銅祭器の分布
http://bbs10.aimix-z.com/gbbsimg/e_asia/188_73.png
0745日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 21:25:24.71
【結論】畿内説は作文でした。韓国式歴史捏造と同類

魏志倭人伝において「里数」の行程は中国国内の伝承であり「日数」の行程は朝貢に来た倭人からの伝聞である。
卑弥呼の使者が魏に来たので改めて女王国までの行程を確認したところ
<以下、倭人による行程説明>
・帯方郡から船で20日南下し、半島南部の投馬国
・更に船で10日南下して九州北部の邪馬台国に上陸
・上陸後、女王の都までは陸路です
・計30日(1か月)の道のりであります

このように倭人が距離を日数で答えたり、半島南部の投馬国、北部九州の邪馬台国など初耳の地名が
次々と出てきたため中国側は混乱し、誤解釈して記録してしまった。

行程図:https://i.imgur.com/yUjuU71.png、倭の国々:https://i.imgur.com/L3EsH9c.png

この邪馬台国を北部九州と限定すれば九州説、日本列島全体を指すと解釈すれば全国何処とも考えられる。
しかし倭人伝において女王国の西側の国については一切触れられていないことから、女王国は倭の最も西に位置するものと考えられる。
以下、抜粋
・女王国の東には海が有り、それを渡るとまた倭種の国々があった。
・南に敵対する狗奴国があり、卑弥呼時代に戦争が勃発した。
・後漢時代の倭は100国あったが女王国は30国である。(馬韓が50国なので割と小規模)

■その他の文献記録
・韓国は東西が海に面し、南は倭と接する4千里四方の国である(魏志韓伝)
・倭人が鉄をとりに半島まで来ていた(魏志韓伝)
・倭人は「里」を知らず「日」を使って距離を表現していた(隋書)
・伊都国の又南、至る邪馬薹国(翰苑 広志逸文)
・日本書紀 崇神記65年「任那者去筑紫国二千余里北阻海以在鶏林之西南」
 半島南部の任那から北部九州の筑紫までの距離が約2000里と記されている
 魏志倭人伝と同様に短い里が使用されている
0747日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 21:27:22.79
銅鐸といえば吉野ヶ里と出雲の兄弟銅鐸
争いの多い九州は銅鉾が増え、
少ない地域が銅鐸が増えたんだな。
それが青谷上寺地遺跡で崩れるんだな。
妻木晩田遺跡の消滅とか
西からの侵略があたんのだろう。
因幡のウサギのモチーフかもしれん
0748日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 21:28:04.72
>>745
成る程、邪馬台国は近畿
0749日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 21:28:13.85
>>731
>それは根拠不明のあなたの個人的な見解なのでスルーさせていただく。

分布図が証明している。   @阿波
弥生時代中期の青銅祭器の分布
http://shosuzki.blog.jp/archives/80931430.html
0750日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 21:28:45.85
>>737

ⅠB期に比恵遺跡群において大和型庄内甕を母体として筑前型庄内甕が成立し、
ⅠB期新相に周濠に囲まれた那珂八幡古墳(85m)が築造される
供献土器と首長墓が畿内の影響を受けている
0752日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 21:30:50.91
>>750
>供献土器と首長墓が畿内の影響を受けている

畿内にそんな勢力は存在しない。  「阿波」の影響を受けている。   @阿波
0753日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 21:32:27.78
邪馬台国調査の実績

[佐賀県]高貴な人が住んでいたと思われる警備厳重かつ頑丈な建物
吉野ヶ里の大型建物と人
https://i.imgur.com/NHwxcAf.png

吉野ヶ里周辺建物と人
https://i.imgur.com/ieqxWzX.png


[奈良県]古墳完成までの遺族向け宿泊所と思われる無防備で貧弱な平屋物件
纒向の大型建物
https://i.imgur.com/rJscQF5.png

纏向の大型建物の柱と人
https://i.imgur.com/LL8YcSm.png
0754日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 21:33:34.00
>>753
邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州だな
0756日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 21:34:02.80
>>749
それも古いデータに基づく図だね。
自称歴史学者(実はただの歴史ファン)の限界が良くわかる。
0757日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 21:34:23.27
>>753
掘っ立て柱倉庫など、「邪馬臺国」調査にならない。   @阿波
0758日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 21:36:11.71
>>755
>わかりやすい図だな

その概念が否定されるのは、起点が「阿波」だと分かってしまったから。   @阿波
0759日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 21:36:50.47
>>752
だな。
近畿系、瀬戸内系の部類
0761日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 21:37:12.76
畿内説は何か掘り出すたびに邪馬台国から遠ざかっていく感じだね
0762日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 21:38:06.16
>>760
朝鮮人おつ

奈良時代ごろ、飛鳥地方の住民の80%~90%が朝鮮人であったことは、「続日本紀」「姓氏録」に書かれており、
「飛鳥は日本人の心のふるさとだと言っているが、そこに住んでいたのは朝鮮人であった。」と井上光貞・山本健吉は述べている。

また、司馬遼太郎・上田正昭・金達寿の対談集によれば「飛鳥は朝鮮文化をぬきには語れない」と語り、
「飛鳥における政治の実権は蘇我氏<朝鮮人>の掌中にあった。このころの天皇とは蘇我氏のことである。」と亀井勝一郎氏は述べている。

「飛鳥の朝廷を調べると、いたるところに百済人だらけである。常識的に言って、百済語が公用語だったとしか考えられない。」と佐々克明は述べている。
0763日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 21:40:33.66
>>700
だから女王国連合はそこくらいの範囲で九州とは関係が薄いんじゃないか
0764日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 21:40:40.00
古墳が出来るまでそれなりに時間がかかるはずだが
その間被葬者の遺体はどこに置いていたのか?

【纒向は古墳造営キャンプ場でした】

纒向遺跡調査結果
・定住者がほとんどいない大集落
・東海・伊勢産の飯炊き土器と残飯各種
・大型建物(古墳完成までの遺族向け宿泊所?)
・木製の土木用具一式
・東日本で流行った仮面(木製)
・大型建物の炸裂の下の穴に捨てられていた桃の種
・同じく蛙の骨
・箸墓古墳で出土した馬具(中国のより古い4世紀初のもの)

奈良盆地は唐古鍵閉鎖後は墓場として周辺国に利用されており、大型古墳を建造する際には遺体安置所兼遺族の宿泊所を設置し、
東海地方から来た労働者たちが野宿をしながら古墳建造に従事していたものと思われます。
0766日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 21:41:42.53
>>761
水行30日陸1月の遠方だぞ。
どんどん近づいて行く。
邪馬台国の定義が違うんじゃないの?
0767日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 21:42:21.81
>>701
何故渡来人が先進なんだ?
そういう人も居たかもしれんが
0768日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 21:45:38.46
>>763
既に否定されている40年以上前の説に基づく図を根拠にしてる時点でアウト。
0769日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 21:46:52.80
渡来人に簡単に占拠されてしまう奈良盆地(畿内中央集権教のメッカ)

産経新聞(2018.11.28)
最古の大壁建物跡か 奈良・高取の遺跡で発見
https://www.sankei.com/west/news/181128/wst1811280010-n1.html
~ 大陸から来た渡来人の重要施設とみられる国内最大級の ~
建築年代は4世紀末~5世紀初めと推定され、最古の大壁建物跡の可能性もある。
渡来人が入植を開始したのは5世紀後半と考えられていたが、大幅に早まる可能性が出てきた。
~ 省略
白石太一郎・大阪府立近つ飛鳥博物館名誉館長(考古学)は、建物の時期についてはさらに
検討が必要としながらも、「(現場に)居館や祭祀施設など渡来系の人たちが営んだ重要な
施設があったことは間違いない」とみている。
遺構は、すでに埋め戻されており、現地説明会は開かれない。
0770日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 21:47:11.70
九州は農耕社会の形成が遅れた島

安定した稲作社会はいつ頃形成されたのであろうか。
そのかぎを握っているのは製塩業の展開である。
米は良質のたんぱく質を内臓しているが、
ナトリウムイオンがなければ体内に吸収することができない。
つまり米を主食とするには塩が必要になってくる。
弥生時代の中期後半(紀元前1世紀)頃になると大阪湾や備讃瀬戸で製塩土器が出現し、
塩の専業がはじまることが確認されている。
3世紀になると玄海灘や紀淡海峡、若狭湾でも
こうした専業の製塩業の出現が認められるようになる。
専業の製塩集団が形成されることは、それを可能にする稲作栽培の本格化を物語るものである。
熊本県では製塩土器が出るのは6世紀の天草型製塩土器が最初であり、
稲作栽培を中心とした農耕生産が本格化するのはこの頃であったことが窺えるのである。

「農耕社会の形成」(甲元眞之 熊本大学名誉教授)
0771日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 21:47:20.13
>>766
邪馬台国近畿説
卑弥呼は九州へ。

願望定義だからね。
復興地、開拓地等が邪馬台国の定義
まあ、内陸部に着手て頃かな?
0772日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 21:48:20.82
>>742
どこからの資料なのか?

石器時代から明治までの時代区分があるのは興味深い
0773日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 21:48:29.31
>>767
少なくとも文字文化は大陸からもたらされている。大陸からの文字文化の移入なしには文明の発展はあり得ないからね。
0774日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 21:48:30.29
畿内説は祭祀統一国家だったとか言い張ってたが>>769の通り
簡単に外国人が自前の祭祀を持ち込めた時代だw
0776日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 21:54:18.02
>>754
誰の説?
0777日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 21:54:41.62
>>756
新しいのはどうなってるか書いてくれ
0778日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 21:56:10.82
>>768
重要な事だからどう変わったか書いて
0779日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 21:57:15.79
>>773
卑弥呼以前も文明はあったでしょ
0780日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 21:58:39.84
>>769

4世紀末~5世紀初めのヤマト政権の王墓は奈良市北西部の佐紀盾列古墳群
高取町あたりは空き地
3世紀後半から遺構が増加する西新町遺跡は渡来人が多く住んだ集落
朝鮮半島で見られるL字形カマド(床暖房)が検出されている
0781日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 22:08:12.17
考古学がまともだった頃の実績を
畿内説ありきの捏造作文で上書きしている考古学会は
テロ組織に認定されるべき
0782日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 22:14:56.06
銅鐸文化圏の概念が変わったならどう変わったか書いてくれ
俺も吉野ケ里遺跡は気にはなってるが現状考えを変える程じゃない
0783日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 22:21:14.51
>>782
>昔の教科書にも銅鐸文化園と銅矛文化園って載っていたからそれに縛られるはしょうがないとは思うが、
>現在はその概念は否定されています。

その概念が否定されるのは、起点が「阿波」だと分かってしまったから。
分布図が証明している。   @阿波
弥生時代中期の青銅祭器の分布
http://shosuzki.blog.jp/archives/80931430.html
0784日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 22:24:30.66
>>775
名前から(おそらく習歴というハンドルネームなのだろう)中国の歴史愛好家なのだろうが
古墳時代に倭が始まるということになっているのは残念な点

少なくともこのスレにいる人は古墳時代に倭が始まるとは認識していないはずだ゛

倭国大乱が終わったのは桓帝・霊帝の治世の間(146年 - 189年)
189年だとするとそれ以前70~80年は倭国大乱の時代
淡路島の鉄器工房は189年あたりまで100年間稼働していた 稼働を開始したのは89年頃となる
初代の倭国王帥升は107年に後漢に遣使した
つまり倭国がてきた時期とほぼ同じ時期に淡路島の鉄工房は操業を始めたことになる

この工房は鉄を恒常的に朝鮮半島から輸入していた
北九州を経由した流通経路だったろう

安定した流通が確保できる確信があったから大規模な加工工房を造り操業を開始したはずだ
なぜ淡路島の工房は安定した鉄の輸入ができると考えたのだろうか

それは淡路島も北部九州も倭国であり、流通を妨げるものを想定できなかったからだろう

倭国ははじめ100余国に分かれていた
卑弥呼の時代は倭国統合を経て29か国、それに狗奴国

この100国余の領域を考えてみると倭国の建国以来の領域は北部九州から関東のあたりまでと卑弥呼の時代とほぼ同じだったと推察できる
理由は国の数がほぼ同じだから

淡路島の鉄工房遺跡の発見で我が国の古代のありようがくっきりと見えてきたことになる
0785日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 22:25:02.42
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)





久 努 国 ( く の の く に )





久 努 国 ( く の の く に )





馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
0786日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 22:25:24.31
吉野ケ里のあの規模だと当時から王様が居ると全国に知られてたと思うわ
それと女王国に属してるかは別の話し
これは東北も同じ
0787日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 22:32:39.40
>>786
>吉野ケ里のあの規模だと

吉野ケ里遺跡といい、 纏向遺跡といい、伊勢遺跡といい、
単発の遺跡で妄想できる、トンデモたち。  わははははは   @阿波
0788日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 22:43:14.88
魏志倭人伝を読めば邪馬台国は北部九州の東には無い
要するに畿内説はスタートから躓いているのである
0790日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 22:56:05.90
筑紫の日向の橘の小戸の阿波ぎ原
これで、九州説は論破できる
0792日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 23:01:38.11
>>788
新井白石が古代の中国語の発音には無知なオランダ語の通訳の読み方を取り入れるまで日本人は邪馬台国をヤマトと呼んでいた
魏志倭人伝が日本書紀に登場するように、昔から日本人に読まれてきたが、みな自然にヤマトと呼んで違和感がなかった
方角の間違いがあるのに、南ではなく東とするのはおかしいなどとは考えなかった
なぜなら、写本というものは往々に間違いがあるものだから、その一か所を写本の間違いと解釈すれば女王の都は奈良で何の問題もない
0793日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 23:02:35.18
>>790
神武東遷説信者なのかな
0795日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 23:11:52.04
>>792
やまとで入力すると予測変換候補で九州の地名が出てくるよ
決して奈良だけに限定される物では無い
0796日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 23:13:27.38
>>794
九州は生産量最多じゃ無いか一番少ないのが宮崎県
0797日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 23:26:10.37
本家本元の大和市は神奈川にある
0798日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 23:27:29.44
>>776
俺の説
0799日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 23:29:32.16
>>740
記録で斬首が記録に残っているのは、伊邪那岐が自分の子供の首を切ったのが最初だね
0800日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 23:30:30.34
>>798
信じるものが一人もいない説
0801日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 23:30:45.67
>>795
私のIMEでは1 大和、2 倭、3 ヤマトの順
使っている人の使用頻度で順番が決まるのでしょう
0802日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 23:32:20.14
もう時間を無駄にするなよ、邪馬台国なんて畿内以外に有り得ないだろw
0803日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 23:32:39.11
>>800
知った事じゃないよ
0804日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 23:37:14.81
既存説の崩壊だな。
他説が出る
0805日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 23:40:17.76
>>803
雑音でしか無い
0806日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 23:41:44.65
>>804
パラノイアだろ
0807日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 23:49:05.43
それにしちゃあ、愛媛みかんとか静岡みかんが有名だよね
0808日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 23:53:27.67
>>807
住んでいる場所で産地は変わってくるだろう、
九州みかんの多くは地元で消費されるのではないのかな
0809日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 23:55:35.47
>>805
おまえがな
0810日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 23:57:06.57
>>799

日本神話の火の神カグツチの死体からは神々が生まれている
北部九州の甕棺墓の首狩りは人骨、神ではない
甕棺墓はカリマンタンなどの島嶼部が由来とされるので、
カリマンタンの首狩り族に伝わる神話が
北部九州ではど没落して残されなかった神話の手掛かりになるかもしれないから
調べてみるといい
0811日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 23:57:22.10
>>806
既存説に論理もないからな。
0812日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/15(日) 00:03:29.39
>>810
あなたの使う首狩と言う言葉には悪意が感じられる
0813日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/15(日) 00:10:32.35
獄門は江戸時代の公式な刑罰ですな
0814日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/15(日) 00:12:39.52
>>812

首狩りは、その民族にとって宗教的な儀式であって
差別的な偏見をもってはいけない
0815日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/15(日) 00:17:25.46
>>814
九州で儀式として首を切ったと認められる例は何例ある?
0816日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/15(日) 00:17:41.61
>>806
腐ったもんに寄生しやすいしな
0817日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/15(日) 00:21:43.19
>>816

パラノイア(英: paranoia)は、 不安や恐怖の影響を強く受けており、他人が常に自分を批判しているという妄想を抱くものを指す[1]。妄想性パーソナリティ障害の一種。妄想症とも。
0818日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/15(日) 00:24:05.22
>>817
君の事だよ
0819日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/15(日) 00:27:28.82
>>817
スルーできないパラノイア。
0820日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/15(日) 00:28:24.96
倭人の卜骨の風習をもたない甕棺墓のもう一つの特異な風習として
頭蓋顔面ど変形の風習がある
前原長溝遺跡から北部九州の系統に属する甕棺が22基出土し、うち3基に人骨があった
甕を二つ合わせた形のものから、頭が変形した女性の人骨が見つかった
別府大学助教授坂田邦洋は、
頭を変形する事例は世界中にあるがアジアでは少ない
頭を高くする風習はハワイあたりでもあったが
「顔の変形は世界中を探しても見当たらない」と語る
こういう風習も北部九州の弥生時代の宗教観を探求するうえで非常に有用な事例だと思われる
0821日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/15(日) 00:28:32.00
>>818
ミスター雑音を診断してあげたのだよ
0822日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/15(日) 00:30:28.49
>>821
よ、パラノイア
気になってしょうがないんだね
0823日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/15(日) 00:36:07.93
>>820
エジプトになかったけ?
0824日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/15(日) 00:40:12.51
>>820
://karapaia.com/archives/52193587.html
こういうサイト見つけた
0825日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/15(日) 00:45:44.82
>>820

> 倭人の卜骨の風習をもたない甕棺墓の

壱岐からは甕棺墓も卜骨も出土している
0826日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/15(日) 01:00:40.05
頭蓋変形は韓国でも見つかっているが、
中央アジアのフン族のエフタルに頭蓋変形の風習が見られるという
0828日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/15(日) 01:09:04.48
>>827
どちらも棺有りて槨なしですな
0831日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/15(日) 01:22:51.69
>>828
弥生中期。
0832日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/15(日) 01:23:58.72
倭人伝に出てくる邪馬国は山国の事なので、邪馬台国の邪馬も山の事だと思う、奈良のヤマトは山と言う漢字は使わないのではないか。 山台国、あと一歩ですな。
0833日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/15(日) 01:50:57.75
『古事記』では、山跡とも表記される。
『日本書紀』では、野麻登、椰麼等、夜麻苔などとも表記され、
『万葉集』では、山常、也麻等、夜末等、夜万登、八間跡などなどの表記が見られる。

だからヤマトという語が先にあって、後に漢字を当てている
夜麻登波 久爾能麻本呂婆という歌からすると
おそらく、温和・平和な所を意味する「やはと」、「やわと」だろう
0834日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/15(日) 02:11:20.66
邪馬臺国
言葉に文字をあてたとは思うが臺を使ってるのがな
これで王の居城がある場所という考えが捨てきれなかった
0835日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/15(日) 02:35:45.82
>>834
捨てろよ
そういう意味はないから
0836日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/15(日) 02:36:22.18
>>659

倭人世界が統一されていないことに魏の役人は気がついていたが、それでも接触した相手が九州北部の倭人だけだったから、九州北部についてしか記さなかったのは当然だよ。
その記録の中に邪馬台国や卑弥呼の話がある。
0837日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/15(日) 02:38:13.85
台、臺、臺どれもトとは読めないよね
0838日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/15(日) 02:39:27.39
>>662

九州北部の卑弥呼は本州になど興味がなかった。
言うことを聞かせる必要もない。
神武が九州から畿内まで何年もかかったように、本州と九州はそれほど活発に行き来があったわけではないのだろう。
だから各地域はバラバラに活動していて、九州北部だけが半島や大陸と交渉していた。
もちろん、魏志倭人伝に記録されていたのは九州北部の話だけ。
0839日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/15(日) 02:40:31.36
>>664

解釈は事実ではない。
ここのスレ主もそうだが、事実とそれに対する考察の区別がついていない。
0840日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/15(日) 02:42:22.69
>>666

その博多は伊都に従属する立場に過ぎないのだから、博多と関係があろうがなかろうが、畿内まで郡使の目が届くはずもない。
大率が検察して回るときに這いつくばっている者の背景まで、御輿に担がれた郡使が気にするわけがない。
0844日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/15(日) 02:47:40.67
>>729

神功皇后ゆかりの住吉の神が畿内に来たのは確かに4世紀かもしれない。
0845日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/15(日) 02:50:04.17
>>750

影響を受けているというあやふやな表現で誤魔化しているだけで、実は何も証明できていない。
0846日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/15(日) 02:52:14.47
>>760

朝鮮半島から楽浪帯方の土器を持ち込んでいたのは、郡使だよ。
畿内から帯方郡と交流した痕跡が見つからないからといって、やぶれかぶれの差別発言は見苦しい。
0847日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/15(日) 02:53:46.26
>>763

女王卑弥呼は銅鐸ではなく銅鏡を持っていた。
なにしろ魏から百枚ももらっていた。
邪馬台国は銅鐸文化圏ではなく銅鏡文化圏だよ。
0849日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/15(日) 02:57:05.19
>>784

関東はまだ倭人すら住んでいない。
日本アルプスから東はかなり後までまだ毛人つまり蝦夷の地とされている。
0851日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/15(日) 02:58:34.55
>>794

スーパーに行け。
関東のうちの近所でも九州産のみかんが山のように積まれている。
0853日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/15(日) 03:01:06.71
>>814

日本人なら斬首と呼ぶべきだ。
あなたの表現には差別的な響きがある。
日本はその後も千数百年に渡り斬首が行われていた。
0854日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/15(日) 03:03:28.84
>>833

水門に対する山門だろう。
魏志倭人伝は戦乱の話が多く、とても平和ボケした奈良盆地は当てはまらない。
0858日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/15(日) 03:10:16.86
>>850
奴国御三家、奴国 伊都国 邪馬台国。伊邪那岐の子孫の国
0859日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/15(日) 03:10:23.64
>>846

糸島の楽浪土器は弥生中期末から出ている
ピークはⅡA期(2世紀後半)
0860日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/15(日) 03:14:52.38
>>845

福岡の学者の研究成果で
畿内と密接な交流関係の博多と何の関係も無い荒地の山門が拒絶してるだけ
0861sage
垢版 |
2023/01/15(日) 03:18:07.11
>>860

> >>845
>
> 福岡の学者の研究成果で
> 畿内と密接な交流関係の博多と何の関係も無い荒地の山門が拒絶してるだけ

博多は西日本各地および朝鮮半島とも密接な交流をしている。
畿内だけが相手ではない。
何の意味もない。
0862sage
垢版 |
2023/01/15(日) 03:19:00.36
>>857

> >>854
>
> 洪水地帯の山門は最下層民の住む土地
> 博多にとって不要な土地

山門ってどこだと思っているんだよ。
博多こそ最下流なんだぞ。
0863日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/15(日) 03:22:48.41
>>861

糸島は畿内と交流していない
畿内と密接な博多の筑前型庄内甕が多量搬入されるのは今津湾沿岸も今山・今宿
0865日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/15(日) 03:26:28.45
>>862

博多はⅠA期から外港都市としての整備が始まっている
ⅠB期には最大の前方後円墳が築造される
洪水地帯山門には何も無い
0867日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/15(日) 03:32:42.46
>>866

古墳時代を遡る弥生時代、この地域には大集落が営まれていました。安武町の塚畑遺跡
や大善寺町の道蔵遺跡、三潴町の高三潴遺跡です。特に高三潴遺跡では銅剣や小銅鐸などの青銅器、日本で数例しか出士していない玉が発見されており、
筑紫平野の中でも有力な集落だったと考えられます。
これらの集落を束ねた有力者が、

水沼の君に成長していきました。
0868sage
垢版 |
2023/01/15(日) 03:59:54.57
>>863

王都である伊都に関われていない畿内勢力は外様だから、郡使に会わせてすらもらえなかっただろう。
0869sage
垢版 |
2023/01/15(日) 04:01:01.94
>>864

筑紫の君は、記紀が倭王を一ランク下げて表現したものだろうね。
0870日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/15(日) 04:02:16.28
>>863

密接なという曖昧な言葉で誤魔化しているだけで、よく読むと何も証明できていない。
畿内説が得意する詐欺師の論法。
0871日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/15(日) 04:46:20.70
>>847
そんな事わからんし銅鐸はおそらく個人の所有物ではない
0872日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/15(日) 04:52:28.92
>>869
なるほど、筑紫の君の領地イコール倭国なのかもしれませんね、水沼氏は安心院で三女神社を祭り、磐井は豊前に落ち延びたと言う説もありますから豊前も筑紫の君の支配地だったかもですね。あと気になるのが水沼氏と宗像氏の関係ですが同族と考えても良いのかも。
0873日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/15(日) 06:04:18.36
ヤマトは元々山門ではない、ヤマトは大八洲の真ん中の場所の意味。だから大和と充てられたのである。
また宗教の都市としての真ん中の意味。
だから奈良は盆地でもヤマトと言うのである。
0874日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/15(日) 06:20:19.87
3世紀に北部九州や畿内という纏まりは無い。
「阿波」一国でさえ、粟国(邪馬台国)と長国(狗奴国)に分かれていた。   @阿波
0875日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/15(日) 06:20:39.55
まあ、邪馬台国は近畿
共立で卑弥呼が九州へ行っただけだな。
なんら中心国でも女王国を構成する国々の
一つ。
0876日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/15(日) 06:52:13.09
>>836
それは君の思い込み

>正始元年(240)、(帯方郡)太守、弓遵は建中校尉の梯儁等を派遣し、梯儁等は詔書、印綬(=親魏倭王という地位の認証状と印綬)を捧げ持って倭国へ行き、倭王に授けた。  並びに、詔(=制詔)をもたらし、金、帛、錦、?、刀、鏡、采物を下賜した。倭王は使に因って上表し、詔の有難さに感謝の意を表した。

帯方郡から派遣された梯儁等は倭王に謁見し詔書・印綬を手渡している


また帯方郡は正始八年(247)に塞曹掾史の張政を派遣した
この後、卑弥呼が崩御し倭国は乱れるが台与を王と為して治まった
このとき、一貫して張政のサポートがあったはず

この張政が帰国するときに、台与は大夫ら二十人を派遣し張政を帯方郡まで送らせ、臺(中央官庁)に参上させ、男女の生口三十人を献上し、白珠五千孔、青大句珠二枚、模様の異なるいろいろな錦二十匹を貢いだ。

張政が台与の元にいたとき、造成中だった卑弥呼の墓を実際に見て、それが「卑弥呼は死に、冢を大きく作った。直径は百余歩」に反映されたのだろう
この時点で箸墓の円墳部以外で、径百余歩の冢を張政が目にすることはなかったはずだ

>>838
淡路島の鉄加工工房が大乱の後に生産を停止したのは卑弥呼の指示があったからだろう
この時代では、一大国家プロジェクトでそれを行わせたのも中止させたのも倭国王からの指示だったと思われる

>>839
私自らが自分の解釈だと述べたもの
0877日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/15(日) 07:03:00.19
狗奴国との関係はどうなったんだ?
卑弥呼が亡くなって男王(誰)たつもおさまらず
千人亡くなった壹与をたて抑えまる。
冢を作る
その期間は?
0878日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/15(日) 07:07:10.50
卑弥呼の死亡
247年ではないだろうな。
0880琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/01/15(日) 08:08:56.57
まだ、そんなこと信じてるのか?文字も無く、百済からそれを教わる(どんな文字、何語か知らんが)とされる国が、400年も後に家系図なぞまともな訳があるまい。誰々の子だとか、何代孫とか、何で正しいと考えるのか?そんな話を信じると思うのか。
0881琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/01/15(日) 08:22:27.94
精査できないように古い物は燃やされてる、そんな状況の物で卑弥呼の時代を語れないと考えるがね。そしてそういう物でさえ父と形状が違い女性墓とする箸墓が卑弥呼の墓なんだよ。纏向が卑弥呼の道観、邪馬臺。何とかの宮が間違い。
0882日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/15(日) 08:32:26.41
蘇我蝦夷が燃やしてしまった、なんて歴史隠匿しましたと言ってるようなもんだしな。
女王に反対したという狗奴国だけど、元々はかなり近い関係なんだろう。
なので卑弥呼が死んだ後は狗奴国から男王がでた可能性もある。
それなら確かに国中荒れるだろうからな。
0883日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/15(日) 08:33:38.80
>>881
自分では矛盾に気がつかない?「父」って誰だね?
なぜ、そこは信用できるんだ?w
墓の形にも流行り廃りがあるし比較するなら「母」の方だろう。
てか、お前ガチキモなんだけど中国人卑弥呼様は家系図くらい書けるだろ。
まさか、一人で大陸から大和まで来たんか?
0884日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/15(日) 08:42:08.50
>>879
>245年では?

なんで遡る?
0885日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/15(日) 08:44:10.20
皇室の前方古墳作りをビジネスモデルにした物部氏が箸墓を作ったが、卑弥呼は皇室ではないので箸墓の被葬者では無い。
0886日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/15(日) 08:47:59.83
可住地面積:人が住むことの出来る土地の面積
https://i.imgur.com/b6pzfwV.png

奈良は47都道府県中47位
しかも3世紀の大阪はまだ海だった時代
近畿における人の住む場所は限られていました
0887日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/15(日) 08:51:05.89
>>884
でいつ?
0888琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/01/15(日) 08:56:50.85
信用してないよ。違うんだもの、矛盾してる訳だ、だから父じゃないと言ってるわけだよ。
繋げたがるのは良く解るよ、しかし、それは学問とは違うだろ。
0889琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/01/15(日) 08:58:16.46
1人で来るわけないだろ、何考えてんだよ?
0890日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/15(日) 09:15:21.48
>>537
細かい点はともかく、おおまかには年代が合うみたいw
 
@箸墓A黒塚B中山大塚C椿山大塚D西殿塚E柳本大塚F外山茶臼山G東殿塚Hメスリ山H行燈山I渋谷向山
@神武A綏靖B安寧→C懿徳→D孝昭→E孝安→F孝霊→G孝元→H開化→I崇神
0891琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/01/15(日) 09:20:30.86
また訳のわからないことをやりだすのか?
箸墓=神武、何を根拠なんだ?出鱈目だよ。
0892日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/15(日) 09:22:16.12
>>505
確かに!
0894琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/01/15(日) 09:27:08.84
殉葬と陳寿が記した事柄はその後前方後円墳では行われていない。カリスマ性の証であろう。
卑弥呼を慕い後を追ったもの達とするのが自然。
0895日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/15(日) 09:29:07.24
>>890
君、いいねぇ〜w 筋がいいよ 
崇神からは記紀に騙されてやるけど、神武東征には騙されないぞ!っておかしな話だw

>>892
箸墓の祖先・吉備楯築弥生墳丘墓にも殉葬がないからねw
0896日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/15(日) 09:32:17.46
>>893
西殿塚は継体妃(6世紀)っていう言われがあるよんw
0897琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/01/15(日) 09:33:12.82
知能指数が滅茶苦茶低いのを相手にしなきゃならないのか?こりゃあ大変だわ、阿波に刺史を置き九州を監察させるわ。
0898日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/15(日) 09:34:27.48
>>542
なるほど
0899日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/15(日) 09:36:46.81
>>895
ホケノ山にも殉葬ないがw
0900日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/15(日) 09:39:30.62
>>518
そういうこと
0901日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/15(日) 09:49:26.55
卜骨の件
「その風俗では、何かをする時や、何処かへ行き来する時、気がかりがあると、すぐさま骨を焼いて卜し吉凶を占う。」

要するに、魏使が陸行した場所では何処でも卜骨をやっていたと言う事だ、当然末盧から奴国へ行く道中でも卜骨は見た事だろう?だから記録している。
0902日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/15(日) 09:50:07.44
畿内説=冤罪+オレオレ詐欺+町興し(奈良県立橿原考古学研究所+纏向学研究所)
0903日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/15(日) 09:55:00.04
>>901
出土が少ないんだな。
卑弥呼の時代と思われるのは
九州では有明海沿い。
0904日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/15(日) 09:56:13.84
>>902
「卑弥呼の里」桜井市立纏向学研究所w
0905日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/15(日) 10:00:05.04
>>903
出土が無いから魏使は通らなかったと言う論法は乱暴じゃ無いかな。もしそうなら魏使の行程を教えて欲しい。
0906日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/15(日) 10:01:51.44
畿内説石野船長「南→東と読み替えて、不弥国から東に進み投馬国(出雲)を目指そう!次は女王卑弥呼の纏向だw全速前進!」
畿内説寺澤機関長「順風満帆!やはりこちらが正しかったですねw天も我々を祝福しているかのようですw九州説の警告なんて無視して良かったw」
畿内説橋本航海士「我々の進行方向、左右両舷をすっぽり取り囲むような三日月形の巨大な氷山脈発見!!!→)」
畿内説石野船長「エンジン逆回転!!!全速後退!!!←)」
畿内説寺澤機関長「なんで方角を読み替えたんだよ!!!船長のくせに!!!このハゲェ〜ッ!!!(豊田真由子元衆院議員)」
畿内説橋本航海士「フル回転中の逆回転でギア全損!!!エンジン大爆発!!!間に合いません!!!!!」
(フルスピード→ノーブレーキで氷山に正面衝突して、乗り上げ、反対側で再び着水する畿内説タイタニック号)ガツン!ドカン!ザブン!
(船側&船底外板を船首から船尾まで横一直線に切り裂く音)ギギギギギギギ!!!
ザァアアアアアアア!!!(全隔壁に一気に浸水、瞬時に沈む畿内説タイタニック号)
畿内説石野・寺澤・橋本「ぎゃあああ!!福永伸哉のマジックハンドに騙されたぁああ!!」(ごく僅かな庄内式土器と大量の布留式土器と三角縁神獣「銅鏡五百枚」と共に海底に引き摺りこまれ、海の藻屑と化す畿内説タイタニック号)
一方、九州説オリンピック号でゎ…
九州説A「畿内説タイタニック号から遭難信号SOS傍受!!」
九州説B「あれほど警告したのに、なんで東(4世紀のヤマト王権遺跡)に向かったんだろう?直ちに救助に向かおう!」
九州説C「手遅れになる前に早く救助に向かおう!」
不弥国の東の海上に到着した九州説オリンピック号が見た光景は…
因幡の白兎同様、サメの餌食となった畿内説タイタニック号の乗客乗員の遺体の一部と思しき夥しい肉片&骨片が散乱…血で真っ赤に染まった波間に石野船長と寺澤機関長のものと思しきメッキ縁眼鏡がキラキラ&プカプカ浮かんでいる…
茫然自失の九州説ABC「だから船乗りの方角間違え(南→東)は漂流(全滅)しちゃうからあり得ない、纏向は(記紀の後付け地名)ヤマト王権ってあれほど言ったのに...orz」
0907日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/15(日) 10:09:45.46
>>905
ないんはなく論より物証という事
鉄も同じだよ。
0908日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/15(日) 10:10:53.26
大和さくらい 卑弥呼の庄(やまとさくらい ひみこのさと)
は、かつて奈良県桜井市倉橋にあった農業公園型テーマパーク。2010年(平成22年)3月に農業再生法人「大和さくらい」によって開設されたが、営業不振により僅か7か月後に閉鎖された。同年10月より債権者が設立した株式会社倉橋が運営者となり、くらはし農村公園 卑弥呼の庄(くらはしのうりんこうえん ひみこのさと)として再オープンするも、2012年(平成24年)5月30日に閉鎖された。桜井市との土地売買を巡るトラブルが問題視され、支払い能力のない事業者と安易な取引を行った市政が批判された。

ざまぁねえな。騙され体質の桜井市www
0909日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/15(日) 10:10:55.98
>>886
可住地の大半は沖積平野なので大阪に限らず大体の大都市は古代は湿地や海の中ですよ。

例えば平安時代に京都に都がおかれたのも「現代基準で可住地が広かった」訳では無いでしょう?

その時代時代で条件をそろえて比較しないと意味がありません。
0910日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/15(日) 10:13:30.14
>>907
卜骨至上主義の畿内説は卜骨の出ていない場所は通れませんな、一大率にも行かなかったのかな?
九州に上陸しないで畿内まで行ったのかな??
0911日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/15(日) 10:14:27.31
>>902
+考古学者の予算獲得手段
0912日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/15(日) 10:17:01.28
>>910
なんで俺に聞くのか畿内説でもない。
0913日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/15(日) 10:17:10.23
>>911
九州説はなんで平気で嘘つくの?
0914日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/15(日) 10:18:59.58
鉄至上主義の九州説は鉄の出ていない場所は通れませんな、一大率にも行かなかったのかな?
も言えるだろ。
0916日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/15(日) 10:22:49.83
>>914
言えない
0917日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/15(日) 10:23:49.77
>>915
女王国の範囲にあればすむもんを
邪馬台国にあるもんのすり替えだよ。
0918日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/15(日) 10:25:35.11
>>916
鉄が一個も出ない地域てどこよ?
0920日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/15(日) 10:26:36.50
>>902
このスレを、壮大な歴史考古学冤罪・畿内説に洗脳されてしまった香具師らを救うスレとしたいが、諸兄のご意見や、如何に?
>>1
消せ
0921日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/15(日) 10:28:26.22
>>918
魏使は九州を通ったのだろう?
違うの??
0922日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/15(日) 10:28:55.47
>>872

伊都にいた王族を怡土県主としたり、畿内の王であった物部を大連としたり、まあそれが日本書紀のやり方だということ。
まるきり嘘ではないけれど、少し歪めて後世の誤解を誘導すると。
大王と大連と大臣と、どれが一番高い位なのか分からなければ、真実もわからなくなる。
0923日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/15(日) 10:29:55.55
>>920
新しいスレを作るならタイトルを考えて
0924日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/15(日) 10:32:54.20
>>923
ただウソついてるだけじゃ九州説の評判落とす以外の結果は出ないね
0925日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/15(日) 10:33:48.63
>>890

そもそも神武の年代なんて不明。
あと、欠史八代までは墓も小さかったと思う。
物部氏と合流した崇神天皇からは宮が纒向に移り、墓も物部氏の墓制である前方後円墳になっただろう。
0926日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/15(日) 10:38:04.48
>>924

妄想を書き並べただけのテンプレが延々と続く畿内説の惨めな姿を見て、畿内説の評判は落ちないのかな?
0928日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/15(日) 10:42:16.49
>>921
当然、通る。不彌国か奴国止まり
で女王国の範囲とは言えない。
鉱物資源や食物の分布。
宮室樓觀城柵嚴設常有人持兵守衛

とか。
0929日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/15(日) 10:47:02.55
>>928

其俗 擧事行來有所云為 輒灼骨而卜以占吉凶
通った所には必ず卜骨があったと言う事だよ。
0930日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/15(日) 10:49:02.11
>>929
当然だな。だから現在は見つからないけど
ないにはならない。鉄も絹も同様。
0931日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/15(日) 10:49:26.46
>>926
そりゃ落ちないさ
落ちるのは妄想と中傷しかできない九州説の評判だけ
0932日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/15(日) 10:50:20.51
>>929
目的地にも無いとおかしい
0933日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/15(日) 10:51:12.19
>>929
まあ、まず物証がある所で考えましょうて
所だな。
0934日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/15(日) 10:55:53.18
>>932
卜骨は道案内の一大率の役人あたりが、道中の往復でやっていたと考える
0935日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/15(日) 10:57:27.53
>>933
それならまず九州に上陸していない説を証明しないとな
0936日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/15(日) 10:58:17.73
九州説にはサイコパスしかいないのがよく判るスレだな。
0937日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/15(日) 10:59:57.84
>>936
返答に困ると朝鮮論法
0938日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/15(日) 11:04:25.04
>>935
意味不明、誰が上陸していないと書いた?
0939日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/15(日) 11:05:48.52
【畿内説の主張】

・希望的観測の結果、魏志倭人伝の南は実は東だったニダ
・畿内も鉄器があったが鉄が溶けやすい地質なので残って無いニダ
・畿内式土器とよく似た土器がある地域は畿内政権の傘下だったニダ
・纏向建物の柱穴より深い別の遺構で出土した桃の種が3世紀だったので建物は卑弥呼の宮殿ニダ
・纏向遺跡は住居跡がほとんど無い大集落なので女王の都だったニダ
・日本書紀に筑紫~任那の距離が2千余里と書いてあるが1里は0.435Kmだったニダ
・博多湾から投馬国までの水行20日の道中は無人地帯だったニダ
・投馬国から水行10日+陸行一月の道中も無人地帯だったニダ
・3世紀の奈良盆地の東は海だったニダ
・卑弥呼が100枚貰った銅鏡は600枚以上発見されている三角縁神獣鏡に違いないニダ
・島根県で景初三年の紀年鏡が出土したので畿内説が正しいニダ
・中国産の銅しか無い時代に作られた銅鏡の成分が中国産なので鏡の製造地も中国で間違いないニダ
・中文は日本の漢文と同じ解釈でよいニダ
・平均偏差値30台の考古学会の畿内説は最も正しい説ニダ
0940日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/15(日) 11:07:01.34
>>938
九州に上陸した時から案内人が卜骨をやっていたと言う事だよ
0941日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/15(日) 11:08:08.18
>>934
弥生後期から古墳初期にかけての卜骨出土遺跡に絞って考えると、やはり
伊予・備中・備前・摂津・大和という組み合わせが目立つ
0942日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/15(日) 11:08:35.96
>>937
そのまま返すよ。
メディア工作ばかりする九州説なんてまんま朝鮮のやり方じゃんw
0943日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/15(日) 11:09:01.83
卜骨をやっていてもいなくてもどうでもよろしいがな。  
漢・魏と誼を通じ、たびたび大陸・半島と往来し、
鉄素材や中国鏡や中国朱などを交易していたのは、
倭国(阿波)以外に無いんだから。  わははははは   @阿波
0944日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/15(日) 11:09:54.59
>>940
卑弥呼の時代のもんではないんだな
0945日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/15(日) 11:10:18.15
>>943
阿波は倭国じゃなくて粟国
0946日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/15(日) 11:10:20.58
>>942
メディア工作w
そのまんま畿内説だ
本当は読売と組みたかったんだよな
毎日にいくら積んだんだろうかw
0947日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/15(日) 11:10:45.20
wikipediaを改竄、アンケート至上主義なんて本当にお隣さんそっくり。
0948日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/15(日) 11:11:04.04
>>941
有明海沿いもあるけど?
0949日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/15(日) 11:12:00.78
>>945
粟国 でもどうでもよろしいがな。  
漢・魏と誼を通じ、たびたび大陸・半島と往来し、
鉄素材や中国鏡や中国朱などを交易していたのは、
倭国(阿波)以外に無いんだから。  わははははは   @阿波
0951日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/15(日) 11:12:56.90
魏使は有明海から上陸して吉野ヶ里に行ったで決定だな
0953日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/15(日) 11:13:23.33
>>939
他人のありもしない主張を創作する九州説の捏造体質
読者ほとんど吐き気を催すんじゃないの?
0954日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/15(日) 11:14:09.72
>>948
だな。既存の伊都国が間違い。
魏志倭人伝には楽浪郡の事は記述があるが
土器についての記述はない。
0955日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/15(日) 11:15:32.82
>>952
畿内説で何か悪いの?
0956日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/15(日) 11:16:07.58
いくら畿内説がメディア工作してる!なんて主張しても無駄だな。
九州説の広報みたいなのが邪馬台国の会なんて名乗る時点でね、もう言い逃れは出来ないからw
0958日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/15(日) 11:16:23.54
>>954
途中で北東になるしな。
0959日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/15(日) 11:17:05.76
九州説の致命的な欠陥を、畿内説信者が的確に攻撃し

畿内説の致命的な欠陥を、九州説信者が的確に攻撃する。

互いの弱点を知り尽くして、トンデモ同士の無限糞バトル。   @阿波
0960日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/15(日) 11:17:34.37
>>954
あらゆる分野で定説からどんどん遠ざかる九州説に復活の目ナシ
0961日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/15(日) 11:17:46.78
>>952
へー、毎日新聞の記者は全員畿内説なのか、初耳w
解雇させられたのなら毎日新聞の方針は九州説という事になるのだがw
0963日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/15(日) 11:24:48.15
>>958
狗奴国の位置
東千里の倭種もあるね。
0964日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/15(日) 11:27:02.44
>>962
また捏造と中傷にはげむ九州説
0965日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/15(日) 11:30:00.73
>>963
既存説の限界
0966日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/15(日) 11:31:25.26
>>965
視点や考え方の硬直だよ
0968日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/15(日) 11:34:05.56
>>966
だな。九州説でもいろいろ。
田川、博多、大野、八女etc
0969日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/15(日) 11:40:54.16
>>966
畿内説は纏向説一本かな?
0970日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/15(日) 11:44:58.31
>>969
知らん。畿内説に聞け。
当方は近畿説、卑弥呼が九州へ。
邪馬台国は中心国でもない女王の都に過ぎない。
国々による共立時代。支配とかまだまだ後の話
0971日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/15(日) 11:47:46.83
>>970
めんどくせえからコテつけろ
0972日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/15(日) 11:48:17.14
◆狗奴国 人物比定

・卑彌弓呼 彦火火出見こと山幸彦
      さらに神武天皇と同一人物?

・狗(拘)古(右)智卑狗 槁根津日子こと、珍彦(うづひこ)
※神武東征において登場する、のちの倭国造の祖
(まさに神武天皇の知恵袋)

狗奴国は、天津サイドに相対する国津サイドの国(素より不和)

◇山幸彦東征
日向から海沿いに北上してきた山幸彦は筑紫で相攻撃状!
天津サイド(伊都国含む女王連合)は交戦状態を魏に報告する

すると、じつは山幸彦もまた天津サイドだと分かり
(ニニギに国津の子だと言われてたのが原因)
(また山幸彦が上陸した北部九州の宗像以東(うけいの境界から)は
国津サイドの地ゆえに起こった、すれ違い)

伊都国の官・爾支ニギハヤヒと合流一緒となり
山幸彦はそのあと東征することに
(神武東征時のイワレヒコとニギハヤヒのくだりの元の話となった?)
(山幸彦は伊都国の副官・泄謨觚に。柄渠觚は海幸彦となる)

話の流れは、こんな感じw

これにて狗奴国の方角は南でも東でもどっちでもいい
となります、俺は
0973◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2023/01/15(日) 12:17:53.15
新スレ立てました。
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1673750114/l50
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*本スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
0975日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/15(日) 12:32:22.68
巻向を邪馬台国なんていう畿内説は少ないだろ、巻向は祭祀場所であり卑弥呼が鬼道を使う場所という見解が多い。
当たり前だよね、畿内説は魏志倭人伝を尊重して七万戸を正しく理解してるから。
0976日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/15(日) 12:34:27.64
>>908

桜井市のことは市政から公衆便所の利用状況までよく知ってるが
九州のことは何も知らない雑多九州説
0978◆DjiC0Fu/w6
垢版 |
2023/01/15(日) 12:37:02.66
>>971
これでいいか?
0979日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/15(日) 12:37:40.82
>>820
wikipedia によると
卜骨・卜甲(ぼっこつ・ぼっこう)、あるいは甲骨(こうこつ)は、鹿・猪などの獣骨や、亀の甲羅に傷を付けて火で焼き、亀裂の入り方で吉凶を判断する占術(太占=骨卜・亀卜)において、それらに用いられた獣骨・亀甲のこと。日本では弥生時代から古墳時代・古代(奈良時代・平安時代)にかけての祭祀系考古資料(遺物)として各地の遺跡から出土する。中国では、しばしば甲骨文字が刻まれている。

渡来であり、倭人の習慣ではない。
0980日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/15(日) 12:39:43.00
>>975
畿内説は二種類いるんだな?
纏向説と纏向含む説
0982日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/15(日) 12:42:55.51
>>977
倭人の道案内係が末盧からずっとやっているのよ。
0983日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/15(日) 12:43:09.88
>>978
いいね
0985日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/15(日) 12:44:29.65
>>979

伊弉諾尊、伊弉冉尊が国土生成(国産み)の折りに、いかにして良き子を得ることができるか問うたところ、
天つ神が占って教えてくれたのが太占=卜骨
0986日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/15(日) 12:44:53.72
>>877
>狗奴国との関係はどうなったんだ?
卑弥呼の訴えに応じて帯方郡は塞曹掾史の張政等を派遣し詔書、黄幢をもたらして難升米に授け、檄文をつくり、これを告げて諭した。
この黄幢は皇帝の軍の印の旗、難升米はすでに魏の官位も受けていたからこの旗を持つことで魏の軍を指揮するということになる
実際は魏の軍が参戦したということはなく旗だけだったろうが、この旗の威力はすさまじく水戸黄門の印籠を見た悪代官がひれ伏すように狗奴国は退散しただろう

そうこうするうちに卑弥呼が崩御し張政等は女王の都に赴いた
倭国は新たに男王が立つが国中が不服で争いが起きるが、台与を立てて王と為し、国中が遂に治まった

これらの経過がどのくらいの期間だったのかについては記載がないが
正始八年(247)の王?が帯方郡太守に着任以来発生年の表記がないので同じ年にすべてのことが起こったのだと思う
0987◆DjiC0Fu/w6
垢版 |
2023/01/15(日) 12:45:17.46
>>982
物証主義を取って
見たのは有明海沿いでいいのか?
0989日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/15(日) 12:46:51.34
舟出す時に占って今日は日が悪いとか想像できる
0990日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/15(日) 12:50:11.10
>>985
大和が書いた書物が元なら、大和の文化だな。
縄文時代からやってれば倭人の文化だと思うが。
0991日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/15(日) 12:50:56.07
>悪代官がひれ伏すように狗奴国は退散
増援軍が来ないのを聞いてニヤニヤ笑いながら徹底抗戦決めただろう。
0992日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/15(日) 12:51:45.07
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)





久 努 国 ( く の の く に )





久 努 国 ( く の の く に )





馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
0993日本@名無史さん
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2023/01/15(日) 12:52:56.21
>>990

縄文時代は倭人とは呼ばれていない
弥生前期から卜骨が出るのは出雲、愛媛、大和
0995日本@名無史さん
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2023/01/15(日) 12:54:37.11
戦乱が起きたのは卑弥呼の死後であって生きてた時は魏の権威で抑え込んだのよ
0996日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/15(日) 12:55:11.09
>>987
魏使の通訳件道案内が末盧国から出発する時の進行方向を決める時、伊都国から奴国に向かう進行方向を決める時、奴国から不弥国に向かう進行方向を決める時に、卜骨を絶えず見ている。それを倭人伝では

「その風俗では、何かをする時や、何処かへ行き来する時、気がかりがあると、すぐさま骨を焼いて卜し吉凶を占う。先に卜する目的を告げるが、その言葉は中国の占いである令亀法に似ている。火によって出来た裂け目を見て、兆しを占うのである。」

と記しているのである。決して埋まっている骨を見たわけでは無い。
0998日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/15(日) 12:57:24.04
>>995
畿内説では「魏の権威」などが狗奴国の想定国に届くのかねwww
0999日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/15(日) 12:57:41.64
纒向は掘れば掘るほど邪馬台国じゃなくなるし
実は東日本の遺跡だある事が浮き彫りになってくるからなあ
卑弥呼を売りにしてる奴がいる間は予算は回ってこないだろうね
1000sage
垢版 |
2023/01/15(日) 12:58:14.55
弥生時代とは、筑紫に倭国が成立して稲作を全国に広めた時代のこと。
これで文化と国家をあわせて論じることができる。
倭国女王卑弥呼は筑紫にいた。
筑紫は狭義の倭と同義であり、広義の倭つまり大倭の王都。
10011001
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