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邪馬台国畿内説 Part853
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2023/01/20(金) 18:23:06.44
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4~6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1673977553/50

◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にありえない。
0002◆n7jxAxKCBhb6
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2023/01/20(金) 18:24:02.92
◆1(女王所都)
 奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)

 現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に配置された大型建物等(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。庄内3式期のSD-2001、庄内3〜布留0式期のSM-1001,SD-1007が建物BとDをそれぞれ破壊し、建物Fが庄内2式期のSX-1001埋没後築造なので建物群の存続期間は庄内2〜3の中に絞り込まれた。
 居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。

 この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。

 箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある。
 乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。

 この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。
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2023/01/20(金) 18:24:36.58
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
 前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
 また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。

 血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
 つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。

 纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
 築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。

 この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。

 その始発点が、a.元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から、b.或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。
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2023/01/20(金) 18:25:45.81
◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
 その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
 このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
 箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
 換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ。
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである

 また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前の情報が窺知できる。

 乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
 女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。

 紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。
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2023/01/20(金) 18:26:32.84
◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
 纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
 同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。

 威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
 しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
 代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。

 共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他なるまい。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
 それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。

 定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
 もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
 後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
 この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。

 初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。
0006◆n7jxAxKCBhb6
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2023/01/20(金) 18:27:02.72
◆5(倭国の形成と気候変動)
 1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
 2に、河内と吉備の交流の深さ
 この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
 共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
 これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。

 2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
 この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
 寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
 弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。

※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
 クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。
0007◆n7jxAxKCBhb6
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2023/01/20(金) 18:27:33.61
◆6(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
 これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
 これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
 先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。

 析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
 後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。

 やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
 分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
(本項 続く)
0008◆n7jxAxKCBhb6
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2023/01/20(金) 18:28:26.66
(承前)
◆6−2
 方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
 二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。

 この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。

 高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。

 巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。

 ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
 一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。

 この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
 このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。
0009◆n7jxAxKCBhb6
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2023/01/20(金) 18:29:01.08
◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
 3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
 北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相~布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FAQ43参照)
 つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240~248年が位置すると考えられる。

 庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。

 上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
 逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
 外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
(本項 続く)


(承前)
◆7ー2

 1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
 2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
 これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。

 北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。

 その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
 糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。

 この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。
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2023/01/20(金) 18:29:32.02
◆8(結語)
 日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
 原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
 原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。

 その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
 前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。

 博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。

 遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
 この現象は、寒冷化に起因する列島での社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
 この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。

 土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末~3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
 そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。
0011◆n7jxAxKCBhb6
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2023/01/20(金) 18:30:04.96
◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
 寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf

◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」


◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)

○弥生時代後期
  1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
  2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃 
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
  3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
  4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
  4世紀第4四半期〜5世紀中頃
   (古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)

※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
 庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
 同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
 庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
 IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
 IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III  ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山                  
  IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III    ●箸墓、権現山51号
  IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V  ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
                           浦間茶臼山、西求女塚
  IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
                           メスリ山、行灯山、祇園山
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2023/01/20(金) 18:30:38.58
◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!

A:九州は倭国の一部なので問題ない。
 郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
 逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。
壹岐一国では観察されたが首都で観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
 畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
 水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。

 北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
 また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
 倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。

◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
  魏使は九州を出ていないではないか!

A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
   「泝(+固有名詞川名)が7回
 倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
 倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
 以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。
0013◆n7jxAxKCBhb6
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2023/01/20(金) 18:31:10.97
◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!

A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
 「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。

 以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
 三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。
また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。

 筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。

 実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
 このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く)
0014◆n7jxAxKCBhb6
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2023/01/20(金) 18:31:52.12
(承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
 遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
 予章郡:雒陽南二千七百里  南海郡:雒陽南七千一百里
 蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
 交趾郡:雒陽南萬一千里
 (雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)

 倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
 以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。

 また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。
0015◆n7jxAxKCBhb6
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2023/01/20(金) 18:32:31.34
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!

A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
 纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
 また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。

 畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
 また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
 中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇田と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。

◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!

A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
 佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)

 小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
 対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
 ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。

 むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
 このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。


◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?

A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。
0016◆n7jxAxKCBhb6
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2023/01/20(金) 18:33:22.34
◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
  纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?

A:そのような事実はなく、当然交流があった。
 畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
 このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)


◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?

A:読み替えない。
 行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
 これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
 古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。


◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
  女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
  女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?

A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
 これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
 中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
 倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
 いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
 王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。
0017◆n7jxAxKCBhb6
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2023/01/20(金) 18:33:56.56
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
  年代が判るという考古学者はおかしいではないか!

A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
 陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。

 封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
 しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。


◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
  それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?

A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
 後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
 使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。
0018◆n7jxAxKCBhb6
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2023/01/20(金) 18:34:40.26
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
  畿内説は倭人伝と合わないのではないか?

A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
 福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
 弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
 以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、
実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。

 当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと


 3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。

 倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
 倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
 当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。

 なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
記紀においてもヤリとホコの区別が無いことは、天日槍を知らぬ者を除き常識である。
 加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
 の指摘は今日も有効である。
0019◆n7jxAxKCBhb6
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2023/01/20(金) 18:35:12.56
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
  古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!

A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なる概念である。よって否定材料にならない。

呂覧に「題湊之室棺槨数襲、積石積炭以環其外」と見える如く、古代中国人の耳目には竪穴式石室の側壁或いは現代考古学に言う礫槨・木炭槨の類は室外を環る地中構造物と認識される。そして棺槨は室内に重ねられるのである。
石を槨の表、黄腸を裏とする鄭玄註は、題湊が木槨壁面に接合する時期を経た塼室墓時代の意識として整合性がある。

 現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
 古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。

 現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて韓地経由の楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響ではあるものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状である。
就中、ホケノ山は床板が無く、石室構築のための仮設の板壁を石室完成後に撤去した木蓋石室墓とする復元案(真鍋2018)も有之、古代中国人が認識する木槨とは程遠い。
これを槨と称するならば、北部九州に多い箱式石棺も歴然と槨である。

 畿内で一般的な墓は木棺直葬の方形周溝墓で「有棺無槨」に適合している。


◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?

A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能である。

 伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
 糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
 このような状況下で、畿出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。
0020◆n7jxAxKCBhb6
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2023/01/20(金) 18:35:45.86
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!

A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
 宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。

 一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと推定できる。
 他に、使用痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄など、遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧とがある。

 鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後~古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後~古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後~古墳初)など。

 纒向での鉄利用状況については、遺跡建設当初の庄内0期遺物から鉄器による加工痕が認められる。
 纒向大溝建築材実測図 https://i.imgur.com/EPtpzEw.png 矢板列支柱(左)に角の明瞭な貫穴、矢板(右)に鱗状手斧痕。倶に鉄器による加工の特徴を示す。
 纒向遺跡メクリ地区に「大型の鉄製品を砥ぐという行為が行われていたのは間違いがな」いとされている大量の砥石があり、廃棄時期は3世紀前半~中頃、最も古いものは「庄内2式期の可能性」(『纒向遺跡発掘調査報告書2』桜井市教委2009)とされる。
 大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析では、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
 と結論されている。

 弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。事実、鉄製品の腐食に最も影響力の強い硫化物が海成粘土層が畿内中枢部の深層に分布している。
 また併せて、纒向遺跡で脱炭鋼を製造していた布留0期の鍛冶遺構に於て鉃滓は共伴するが成品が発見されない状況は、官製工房的な管理の強化・貫徹を想定するに足る。
古墳時代に入ると「鉄器が普及したと同時に、首長層へ鉄器が集中した」(橋口2002)
という視点に立てば、首長級墳墓への集中と生活遺構での不在という鉄器の偏在は理解しやすい。
0021◆n7jxAxKCBhb6
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2023/01/20(金) 18:36:18.41
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
  九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!

A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。


◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!

A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
 また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
 よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
 このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。


◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!

A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
 万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
 したがって測定は存在しない。

 また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
 「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
  則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。
0022◆n7jxAxKCBhb6
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2023/01/20(金) 18:36:53.04
◆FAQ 19
Q:釜山~対馬あるいは対馬~壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
  これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!

A:1~2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。

 新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山~佐須奈間は34海里(=63km)である。
 江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
 まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。

 逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。


◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5~1/6
  これで説明が付く!

A:そのような整合性は認められない。
 考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
 対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)

 信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
 郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。

 九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。
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2023/01/20(金) 18:37:27.30
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
  箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!

A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
 箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
 このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。

 中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国出土(李家山59号墓)青銅製容器蓋装飾の騎馬像に鋳出された脚親指に装着する革鐙が報告(菅谷1994)されている。
郡県内では湖南省西晋墓(長沙金盆嶺第21号)の陶俑に描かれた片鐙(永寧2,西暦302年埋葬)が紀年の明かな最古発見例であるが、これと同時期或いは遡るとされる類似の発見例が数あり、中国の複数の調査者が木芯包革式鐙の存在を3世紀中葉まで遡ると考えている。
現物は西晋末〜東晋初(四世紀第1四半期末から第2四半期頃)の河南省・遼寧省出土例まで降る。

 湖南省西晋墓陶俑図 https://i.imgur.com/oM4NXR6.png

 三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
 西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度に鐙が一般的存在であったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で上図タイプ1の国産模倣品現物が出ることに不合理はない。
0025◆n7jxAxKCBhb6
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2023/01/20(金) 18:38:00.75
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240~260年と発表した! これは信用ならない!
  同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380~550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
 もう一個が1σ西暦110~245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
 つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。

 考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
 炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。

 逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
 これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018)この桃核12測定例の平均値をIntcal20で歴年代較正して次に掲げる。
https://i.imgur.com/VKIld2Q.png
 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、
そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。
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2023/01/20(金) 18:38:32.67
◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!

A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
 また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
 基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
 よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。

箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築 
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。

 1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
 2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
 スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
 隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png

 前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。

 方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く)
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2023/01/20(金) 18:39:18.90
(承前)
◆FAQ 23−2

◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。

◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
 ・ 森将軍塚   :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
 ・ 前橋王山古墳 :上毛 ・ 持塚二号墳  :上総
 ・ 高千穂七号墳 :上総 ・ 山伏作一号墳 :上総
 ・ 長沖八号墳  :武蔵 ・ 温井一五号墳 :能登
 ・ 見手山一号墳 :但馬 ・ 西穂波16号墳 :東伯 
 ・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
 ・ 高鼻二号墳  :伯耆 ・ 日拝塚古墳  :筑前
 ・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
 ・ 朝日谷2号墳 :伊予ー布留0古(梅木1998)
◯朝日谷2号で後円部上に棺設置後、覆土と同時に前方部の盛土開始が判明していること
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等


◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!

A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
 黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
 両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
 古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、

 このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
0028◆n7jxAxKCBhb6
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2023/01/20(金) 18:39:54.54
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!

A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。

 旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
 
 後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
 このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。


◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
  ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!

A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
 統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。

 遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。

 さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。
なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
 ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
 古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。
0029◆n7jxAxKCBhb6
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2023/01/20(金) 18:40:32.32
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!

A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
 ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。


◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
  卑弥呼の墓があるのは九州だ!

A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
 また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。

 参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
 日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。

 墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。


◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!

A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
 高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
 九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
 一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
 九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。

「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
 正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。

 以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があった。
 九州説にとって不利な条件と言える。
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2023/01/20(金) 18:41:05.10
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
  箸墓の築造と時間差があるだろう!

A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
 隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
 以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。

 なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
 また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
 このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
 解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀彧)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。

 なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。
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2023/01/20(金) 18:41:39.62
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?

A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
 考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
 もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
 氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。

 弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
   https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
 また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
 これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。

 優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
 吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
 弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核には、この地域を想定するのが妥当である。

 畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
 これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。
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2023/01/20(金) 18:42:12.61
◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?

A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
 3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。

 これが部分的利用に留まる所以である。


◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある!
  海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!

A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。

 「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
 「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国
0033◆n7jxAxKCBhb6
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2023/01/20(金) 18:42:46.54
◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
  伊都国は隆盛のさなかである!

A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半~弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
 原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
 副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。

 当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
 国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。
それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
 残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
 大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)

 後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
 平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
 いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。

 後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
 このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。

 以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。
0034◆n7jxAxKCBhb6
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2023/01/20(金) 18:43:20.54
◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!

A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
 ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。

 以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
 ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)

 一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
 それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
 国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。

 弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
 同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。

※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。
0035◆n7jxAxKCBhb6
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2023/01/20(金) 18:43:52.57
◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!

A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
 博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)

 文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
 また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
 吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。

 なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
 那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。

 伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。


◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
  纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!

A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
 外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
 これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。

 ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
 古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
 ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。
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2023/01/20(金) 18:44:25.38
◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
  仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!

A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
 意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
 金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。(FAQ79参照)

 古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
 この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。

「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
 とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
 纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
 霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。

 大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
 にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、
弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
 侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
 新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。
0037◆n7jxAxKCBhb6
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2023/01/20(金) 18:45:00.50
◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
  邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?

A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。

 女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。


◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
  九州でいいではないか!

A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
  http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
 福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
 ◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。

 会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
 沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
 東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
 このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。

 捜神記や太平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。
太平広記はその書名が示すとおり太平興国年間に編纂された類書であり、当該箇所は東晋代成立の捜神記から採録している。則ち太平興国の時点で原テキストに東越閩中の所司が「東治都尉」とあったことが判明する。
東越閩中に置かれた都尉の治は東候官に他ならず、三国志等の版本が成立した北宋太平興国の修史活動期における編集従事者の認識が窺知される。

 倭人伝中の「会稽東治」については、中華書局が既に「東冶」と校訂しているが、丁謙・盧弼らの考證に先立ち、成都書局が同治10年に殿本を校訂して「東冶」に改めている。跋文に四川総督呉棠、四川学政翰林院編集夏⼦鐊ら同治年間の人士の名が見える。
https://i.imgur.com/E6TFLyl.png
0038◆n7jxAxKCBhb6
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2023/01/20(金) 18:45:33.76
◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
  九州には古くから三種の神器がある!
  大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?

A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
 出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
 また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
 記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)

 畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。

 弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
 平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
 これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。

 この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。
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2023/01/20(金) 18:46:07.27
◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
  新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!

A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
 弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。

 申敬澈は慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
 定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。

 申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
 良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。
これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
 参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。

 嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
 このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。
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2023/01/20(金) 18:46:39.85
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
  炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
  確かな根拠などないだろう!

A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
 1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
 また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。

その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である

以上から
 1B II型式新段階(2世紀末~3世紀前葉:塼室墓最盛期、遼東系)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期、非遼東系)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行(高久2009)する。
凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。

 楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
 また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
 よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。

以上述べた楽浪の対外活動に列島における楽浪土器の出土量を対応させ(◆7参照)
 活発期:2世紀末~239A.D.:久住IA期
 衰退期:塼室墓から遼東系が消え魏へ定期職貢あり:240〜247A.D.:久住IB期
 残存期:魏へ定期職貢途絶から最終朝貢記録まで:248〜266A.D.:久住IIA期
 途絶期:日本列島から楽浪土器消失:267A.D.〜:久住IIB期
の目安が得られる。
 三国鏡の雲紋編年において魏景元四年(263)銘鏡に一致するのが三角縁201番鏡(唐草文帯群、岸本V期)であることとも整合性が良い。
0041◆n7jxAxKCBhb6
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2023/01/20(金) 18:47:12.23
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
  国産に決まっている!

A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
 史料上で抹殺された年号は珍しくない。
 このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。

 中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
 この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
 最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。

 この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。

 景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。
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2023/01/20(金) 18:47:47.29
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?

A:◆1で略述したとおりである。
 ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
 箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
 その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
 倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
 ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
 同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
 文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。

 また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
 その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。


◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
  これが魏晋鏡だろう?

A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
 2世紀の鏡である。

 内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
  内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
 という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
 蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。

 この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
  A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
 2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
 雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。
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2023/01/20(金) 18:48:20.28
◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
  2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?

A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。

 魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
 これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。

 少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)

 倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。


◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
  考古学的に確認されているのか?

A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。

 桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。

 広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
 このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。
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2023/01/20(金) 18:48:48.33
◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?

A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
 今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
 また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
 魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
  「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
 さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。

 固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
 また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。


◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
  どこにでもありそうだ。

A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
 画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
 纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
 単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。
0045◆n7jxAxKCBhb6
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2023/01/20(金) 18:49:51.88
◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
  壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!

A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
 灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
 郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
 壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。

 弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
 日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
 卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無い。
壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
 ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。

 五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
  新方・森之宮(摂津)
  雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
  唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
 ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。
0046◆n7jxAxKCBhb6
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2023/01/20(金) 18:50:25.09
◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?

A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
 奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
 巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。


◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?

A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。

 刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
 秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
 この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。
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2023/01/20(金) 18:50:57.91
◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
  以北ってことは女王国も含むんだぞ!

A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
   (三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
   (三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
   (同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。


◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
  狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!

A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
    山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
    海中の島国がカンボジアと「接」

 狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。
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2023/01/20(金) 18:51:33.48
◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!

A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。

「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
 殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
  ※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
  ※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。

「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有增損。
 太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
  ※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
  ※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
  ※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
  ※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
   昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
   当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
  ※百世に亘って代々を想定
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2023/01/20(金) 18:52:06.37
◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
  必然性がない!

A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
 法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことが明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。

 加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。

 畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。
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2023/01/20(金) 18:52:38.73
◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!

A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)

「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
 参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。

「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
 より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
 備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。

 また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
 以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。

 さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
 また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。

 以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。
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2023/01/20(金) 18:53:10.61
◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
  の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!

A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。

また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。


◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
  「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
  所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!

A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。

(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
     北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
    南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
    東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
    西與犂「革偏に于」・條支接。
    行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
    …東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
    …東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
                (漢書西域)
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2023/01/20(金) 18:53:42.92
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
  これは実測したとしか考えられない!
  誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!

A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。

 戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
 或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
(「長安城方六十里、 經緯各十五里、十二城門、積九百七十三頃、百二十亭」漢旧儀)

 また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
              (後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)

 さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。

 このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。
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2023/01/20(金) 18:54:27.73
◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!

A:定説に従う。

 金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
 帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。

 二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。

 以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。

 楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
 

◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!

A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。

◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
  径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!

A:基礎知識の誤りである。
  現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する

ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通)
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2023/01/20(金) 18:55:00.00
◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
  倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!

A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
 殷商:約16cm
 西周:約20cm
 戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
 後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
 南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
 先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
 後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。

 また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
 ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。

《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
——————————MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く)
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2023/01/20(金) 18:55:25.61
(承前)
◆FAQ 65−2
 『禮記』王制には
 「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
  古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
  古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」

とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。

 ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。

 この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎——黄鐘律管が容積・重量の基準——になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。


 秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
  古者周尺 17.3cm
  今周尺  21.0cm
  秦漢尺  23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。
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2023/01/20(金) 18:55:59.82
◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
  本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!

A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。

 当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
 乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。

 なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。


◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
  なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
  倭人伝にある方位に間違いはないのだ!

A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
 東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。

 ・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
 ・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
 ・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。

 ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png

 因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
 地名が実際の地勢と著しく異なる。
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2023/01/20(金) 18:56:31.87
◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
  奈良県の三角縁はもっと新しい!

A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。

 ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
 しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。

 箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。


◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!  
  このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
  魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
  護軍将軍である淵の任地は都である!

A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
 上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
 淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。

 長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
 
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2023/01/20(金) 18:57:07.93
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
  乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
  襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!

A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
 魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
 銭大昕・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。

 襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。


◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!

A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。

 中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
 魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。

 当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
 を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。
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2023/01/20(金) 18:57:43.23
◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
 「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
  畿内は「東征」を受けた毛人だ!

A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
  「服」は他動詞として使う。
  「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。

 「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。


◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
  これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!

A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
 「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
 『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png

 能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。
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2023/01/20(金) 18:58:13.51
◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
  大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!

A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。

 大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
 畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。

 庄内大和型甕と庄内河内型甕は、庄内 I 段階に大和川河口地域に成立した初期庄内甕(庄内式古相)から分化して、庄内 II 段階に至り倶に確立した。胎土・製作技法・形態により識別されるのみならず、分布域も明瞭に区分可能である。

 生駒西麓型とも呼ばれる庄内河内型甕は、中河内地域で圧倒的なシェアを占める一方で、摂津・和泉並びに大和盆地では低シェアという、極めて特徴的な偏在を示す。
これが、中河内地域の排他性を意味しないことは、中河内地域主要遺跡の持つハブ港的性格を鑑みれば明瞭である。事実、吉備の文化は中河内を経由地として纏向に極めて濃厚に転移している。


◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
  畿内説は皇国史観の徒である!

A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。

 遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
 複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。
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2023/01/20(金) 18:58:46.81
◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
  最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
  8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
  古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!

A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
本Qに見られるような直線的進歩史観で歴史が理解できないことは言うまでもない。

 古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。

 弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。


◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
 前方後円墳体制など、夢想だ!

A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。

 萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
 当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。

 奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。
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2023/01/20(金) 18:59:19.26
◆FAQ 78-1
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
  里数が書いてないではないか!
  つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
  投馬国は南九州でよいのだ!

A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。

 『九章算術』巻第六「均輸」に
 「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
 甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。

 これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」
「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。

 また、「今有甲發長安、五日至齊、乙發齊、七日至長安。今乙發已先二日、甲乃發長安。問、幾何日相逢?」の出題では
「術曰、幷五日・七日以爲法。以乙先發二日減七日、餘、以乘甲日數爲實。實如法得一日」と解く。
これを劉徽が註して「『減七日』者、言甲乙倶發。今以發爲始發之端、於本道里則餘分也」とする。
 即ち、長安〜齊の里数は当然等しいが、乙が2日先発しており、甲の出発時には「道里」に猶ほ「餘分」がある。そこで7日から先行した2日を減ずる計算をしている。
 明らかに「道里」が日数表記されている実例である。

 ここでは同じ固定区間が甲にとっての道里五日、乙にとっての道里七日である。甲の出発時に乙は先行した道里二日を七より減じた乙の道里七日のうち五日が未消化な「余分」である。つまり七五三十五の最小公倍数を法(分母)とすれば三十五分の二十五である。従って、改めて甲乙が同時に出発したと考えれば五と七の和十二分の二十五、即ち二日と十二分の一後に甲乙が出会う。
 この計算には里数が一切登場せず、日数のみで道里を計算していることが明らかである。

 本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。
(本項 続く)
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2023/01/20(金) 18:59:51.71
◆FAQ 78-2

(承前)
三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
 旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
 其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
 不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
 逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」

とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝でも、各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。

 もとより倭人伝は倭人の国々を
  1)自女王国以北、其戸数道里可得略載、
  2)其余国遠絶、不可得詳
と截然と二分類しており、「自女王国以北」と「其余」で悉皆である。
戸数・到達所用日数・官の情報が既知である投馬国を「遠絶ゆえに不可得詳」のグループに配することは極めて不合理であり、投馬国については戸数と道里が略載されている。

倭人伝に於て投馬国が「女王国以北」と認識されていること明瞭である。
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2023/01/20(金) 19:00:23.21
◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
  ただの倉庫だろう?

A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)

 建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
 建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
 建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。

 強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。


◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
 「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
  魏志に邪馬臺と書かれていたのではない! 
  ただ当時の風説を書いたのだ!

A:初歩的な誤りである。
 子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
 子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
 動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。

 助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
 よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。
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2023/01/20(金) 19:00:57.64
◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
  だから邪馬台国は畿内ではない!

A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
 後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。

 三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。

 魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。

 三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
https://i.imgur.com/XIb0RqF.png

◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
  このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!

A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。

 「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。

 三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
 黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。

 このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。
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2023/01/20(金) 19:01:33.21
◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
  鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!

A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。

●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。

●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
 大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君冝高官」「保子冝孫」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。

 国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君冝高官至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。

 両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
 
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2023/01/20(金) 19:02:03.06
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
  古墳とは違うのだ!

A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
 但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。

 孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。

 類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。

 魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。


◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!

A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。

 K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものであろう。
 庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭頃の実年代が与えられている。
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2023/01/20(金) 19:02:37.07
◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
  日本の古墳は平坦で、高くない!
  卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!

A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
  驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png
https://i.imgur.com/EyIx7C7.png


◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
  「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
  特鋳説の根拠にはならない!

A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量であり、市中から発丘獲得物を含む雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しい。

 全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
 この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
 このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
 また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。

 銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。
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2023/01/20(金) 19:03:13.36
◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!

A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
 中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。

 また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。

 江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
 参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
 https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。

 このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。


◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
   3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!

A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。

 下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
 この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。

 夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
https://i.imgur.com/EXTU3lu.png
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垢版 |
2023/01/20(金) 19:03:56.75
◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
  短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!

A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。

「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步、高六丈六尺」(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
 明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
 ※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
 ※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
「帝王世紀曰。(洛陽)城東西六里十一歩、南北九里一百歩」
「晋元康地道記曰。城内南北九里七十歩、東西六里十歩」(後漢書劉昭注)
 ※晋元康年間:291〜299
「洛陽十二門、南北九里」(太平寰宇記所引陸機『洛陽記』)
 ※陸機(261〜303)」呉陸遜孫、晋入朝289
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
 ※「皇覽」(魏文勅撰)


◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
   10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!

A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。

 実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。
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2023/01/20(金) 19:04:33.87
◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
  周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!

A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。

 六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。

『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。

 また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。

 八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
 よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。


◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!

A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。

 北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
 西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
 南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
 東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
 ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
改新詔における畿内国の定義が畿内第V様式圏に酷似する事実の指摘(濱田2014)は注目に値しよう。
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2023/01/20(金) 19:05:04.58
◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
  畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!

A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。

 IB期に庄内系(庄内2〜3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
https://i.imgur.com/zJCqyag.png
https://i.imgur.com/KTMQyfU.png
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。

 畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。


◆FAQ 95
Q:森井貞雄によれば西暦258の年輪年代が与えられた二口かみあれた遺跡が庄内3だ!
  布留0の箸墓が3世紀中頃である筈がない!

A:布留0の実年代を西暦260〜280頃とする寺澤の見解(橿考研2002)と齟齬がない。

ただし森井が二口かみあれたを庄内3併行と判断したという点について出典がない。
森井は青龍三年(西暦235)銘鏡を出土した大田南5号墳の「庄内3」あるいは「布留0」併行を弥生終末期の終わりの一つの定点(森井1999)としており、本Qは本人の著述と齟齬があって疑わしい。

科学年代西暦258をVI-3様式期(布留0古相)の年代観と対照する森岡(2014)。
上記年輪年代(光谷1995)が古墳時代初頭・布留0併行の暦年代を提出したとする河合(石川埋文2000)。
これらと突合すると、光谷の上記暦年代データは箸墓の築造年代を3世紀後半初とする見解と整合性がある。
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2023/01/20(金) 19:05:33.34
◆FAQ 96
Q:「銅出徐州」というが銅山があるのは呉領だった徐州南部のみ!
  彭城銅山県は名ばかりの存在で漢書・後漢書に銅山のあった記録もない!

A:彭城銅山県(現・徐州市銅山区)は北宋の元豊年間に宝豊監が置かれ鋳銭が行われていた。宋銭「元豊通宝」の鉛同位体比は三角縁神獣鏡に酷似している。
のち廃坑となり地名のみが今に残る。
 これと別に、隣接する利国には鉄冶を主する監が置かれていた。

 呉の領有した徐州南部とはもと揚州の属であった広陵郡南端の極めて限られた地域のみで、徐州の殆どは魏領である。
漢書地理志広陵国・続漢書軍国志広陵郡とも鉄を産することを記すのみで銅山があった記録がないことは彭城と同じである。


◆FAQ 97
Q:纒向は蛙を食う貧困な寒村だ!

A:西漢は皇帝の宗廟に羊・兎・食用蛙を供えるのが常であった。
  東漢にあっても普通に食用であった。
  「羔、菟、鼃所以供祭也」霍光伝師古注
  「鄭司農注云蟈蝦蟇、玄謂蟈今御所食蛙也」周礼両鄭注
 纒向土壙祭祀において今人が高級食材とする鯛・鴨・桃などと並んで神饌とされることに不自然はない。


◆FAQ 98
Q:纒向は古墳築造のための施設であって都などではない!

A:合理的な理由がない。
 纒向の建設は庄内0式段階で運河掘削が開始する。
 一方、90m級にまで巨大化して弥生墳丘墓の域を超えた墳丘墓の築造は庄内2式段階に開始する。
よって遺跡内への搬入土器が広域に亘る特異性発現、運河掘削ともに、大型墳丘墓築造開始より1世代を超えて先行しており、因果関係が認め難い。
また辻地区の大型建物は3式段階には廃絶しており、箸中山古墳の築造開始に先行する。
よって此の因果関係も求め難い。

 纒向型土壙祭祀の開始も大型墳丘墓築造に先行する。その祭祀内容には葬送儀礼との関係が窺えず、寧ろニヒナメヲスクニや鎮火祭といった服属儀礼や鎮護国家的行事との関連性が指摘されている。
導水施設における祭祀も池上曽根や伊勢遺跡に先行事例が求められ、墳墓との関連がうかがえない。ことに木樋を用いた祭祀は首長居館周辺で執行される特異な祭祀として後世に残っている。

以上より、纒向は祭祀に特化した特異な大遺跡であるが古墳祭祀には特化しておらず、古墳造営とのみ結びつけるのは不合理である。
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2023/01/20(金) 19:06:07.39
◆FAQ 99
Q:ホケノ山古墳の年代は古木効果の影響を受けない小枝資料の炭素年代によるべきだ!
  4世紀後半だ!

A:後代の混入物として除外する通説が正しい。
 墓室内に落下していた丸底坩と加飾壺は、他古墳での類例を鑑み、墳頂に囲繞配列されていた祭祀用土器と見るのが妥当と思われる。明らかに混入物である小枝資料は天井崩落時のコンタミであろう。
 ラジオカーボンによる暦年代の較正に当たっては古墳寒冷期に対応する炭素14濃度の乱高下を考慮する必要がある。3世紀末にかけて大幅な炭素14濃度の上昇が観察される。また4世紀後半にはラジオカーボンの崩壊速度に見合う濃度上昇があり、これが撹乱要因となって較正曲線によって絞り込める暦年代が拡散している。
 Intcal20から見た炭素14濃度は西暦270年頃をボトムとして大きく上昇しており、布留1古相のyBP値が新相のそれより高く出る実態と合致している。また、同時代資料と見られる小枝の確率密度分布ピークが一方は4世紀中葉後半、他方が4世紀末から5世紀初頭の値を示すことも、気候変動による撹乱要因が深刻であることを読み取れる。逆に270年頃のピークは両資料とも適切に合致しており、より信頼度が高い。ここから、天井崩落の時期を布留0末から布留1初頭と推察する。
 周濠底のS字甕Aの年代(庄内3)に属する多数の測定例と整合している。
https://i.imgur.com/nHtnTXO.png


◆FAQ 100
Q:会稽東治は蘇州だ! いや上海だ! 長江河口近辺だ いや淮河より北だ!

A:卑弥呼が通交した時代の会稽郡は現在の浙江省および福建省、単独で「会稽」と言えば常に現・紹興市越城区にあった会稽郡治「会稽山陰」を指す。
 「越王句踐、其先禹之苗裔而夏后帝少康之庶子也。
  封於會稽、以奉守禹之祀」(史記越王句踐世家)
 「禹周行天下、還歸大越、登茅山以朝四方羣臣、封有功爵有德。崩而葬焉。
  至少康、恐禹迹宗廟祭祀之絶、乃封其庶子於越、號曰無餘。」(吳越春秋)
 「會稽郡山陰、會稽山在南,上有禹冢」(後漢志郡国四)
✳︎茅山:会稽山の別称
 秦の王翦が楚を滅した時、楚に併合されていた呉越を分離して会稽郡とした。
 会稽郡治が現・蘇州市にった時期、当地は呉本国、呉県と呼ばれ、会稽は依然会稽山麓に所在す。
 以降変転を経て順帝永建四年(199A.D.)に呉郡を分割し、以降の会稽郡治は会稽山陰である。
「会稽東治」が呉郡や徐州に存在しないことは明らかである。

「東冶」は『捜神記』や『太平広記』並びに書陵部蔵三国志 南宋刊「紹熙」本に登場し、すべて越が楚に滅された後の越族の都となった閩越(卑弥呼朝貢当時の「東侯官治」)を指している。
(参考:FAQ40)
0075◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2023/01/20(金) 19:06:40.49
◆FAQ 101
Q:纒向の大型建物Dというのは東西二間しか見つかってないではないか!
  四間x四間に復元して大型大型というのはインチキだ!

A:「本来の建物規模は調査の状況や建築学的な検討から東西も4間であったと」
 と調査機関は公式発表している。

 事実、東西6・2m、南北19・2mはアンバランスに長大である。一般に偶数柱間の総柱建物は居館の系譜と考えられており、このような形態は異例であろう。
 建物Bと建物Cの間隔は建物Cの東西二間に等しく計画的に設計されている。
 建物Dで発見された柱列西端から建物Bまでの間隔は建物Dの東西四間に等しい。
 また建物Dと南柵列との間隔は建物Dの南北一間(束柱をカウントすれば南北二間)である。
 全体が規則的・計画的な配置であることを考慮すれば、総柱建物が正方形を志向する傾向も鑑み、建物CとDの間隔も建物Dの東西二間に等しく復元することは合理的である。つまり建物Dを東西四間、南北四間とした復元は合理的かつ妥当である。
 建物Dを破壊している溝SX-1001、建物Cを破壊している溝SX-1002ともに底の僅かな深さしか残存しておらず、両建物のあった地表面への削平が深かったことが窺知される。

大型建物群配置図 https://i.imgur.com/4W4mle2.png
同空撮 https://i.imgur.com/A1eBwbR.png
建物B空撮 https://i.imgur.com/HytoKvD.png
Dより西を望む https://i.imgur.com/LB1oG3k.png

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0076◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2023/01/20(金) 19:07:12.07
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
 荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】なし
0077日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/20(金) 19:07:25.99
https://www.eonet.ne.jp/~temb/index.htm
おそらくこの人の翻訳を引用してる人が結構居ると思うけど
いろんな史書を翻訳しててそれぞれ考察も書いている
それが正しいかはともかく魏志倭人伝だけが正しいとするのは間違ってる
この人のように比較する事は必要
0078日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/20(金) 21:04:24.49
どんな切り口からでも、「阿波」一択。   @阿波
0079日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/20(金) 21:14:05.18
「邪馬臺国(粟国)」は、真っすぐ東西に80kmをも貫く大河「四国三郎吉野川」流域集落国家群。

「狗奴国(長国)」は、「辰砂鉱山」と「温暖で豊かな海」に恵まれた県南部の阿南市周辺弥生後期集落遺跡群。   @阿波
0080日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/20(金) 21:30:09.02
阿波と伊都の偽史活動が潰えますように・・・(-m-)” パンパン
0081日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/20(金) 21:43:25.50
【霊感商法による壺(畿内説)の押し売り詐欺にご注意ください】
卑弥呼の墓の大きさ径百歩は陳寿の想像です

魏志倭人伝における卑弥呼の墓に関する記事は倭人からの伝聞であり
距離の単位である里すら知らない倭人が歩という単位を使って墓の大きさを説明するはずがない
陳寿は倭人からの伝聞記録にあった殉葬100余人という情報をもとに、その大きさを中国人にも分かりやすく径100余歩と記述したのである
なので墓の大きさは不明であり、重視するべきは卑弥呼の後を追って死んだ者が多数居たという事です

卑弥呼の墓はおそらく祇園山古墳のような状態であると考えられます
https://i.imgur.com/pjfObaD.png
0082日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/20(金) 22:07:27.90
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)





久 努 国 ( く の の く に )





久 努 国 ( く の の く に )





馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
0083日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/20(金) 22:48:59.32
>>81
考えられません。
0084日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/20(金) 23:20:46.55
実際にはなかった歴史をまことしやかに叙述したのが「偽史」。正統的な歴史研究からは否定されながら、今に至るまで偽史は常に一定の人々の支持を集め続けている。なぜ人は偽りの歴史に引きつけられるのか。

偽史は「本当の歴史はかくあってほしい」という人々の願望を映す。人々の迷妄を正す意味で偽史研究を進める意味は大きい。

阿波や伊都と言った辺境。いわば現代社会から忘れられ置いてけぼりにされた「ど田舎」が実は皇国の発祥の地【だったらいいのにな】。これ以上にないくらい物凄くわかりやすい捏造理由。
然るに、「邪馬台国畿内説」という無理矢理な捏造は何を原動力にしたものか?大和は誰が何を言おうがヤマト王権所縁の地でありその地位は不動である。全く奇妙な現象だ。
0085日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/20(金) 23:41:15.26
邪馬台国自がただ広い、ど田舎なのに
過大評価と妄想だな。
0087日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 05:50:19.38
>>86
証拠にならないよ。
0088◆DjiC0Fu/w6
垢版 |
2023/01/21(土) 06:02:15.24
弥生時代前期後半(約2500〜2400年前)奈良県御所市の中西遺跡、秋津遺跡
があるが崇~の頃?
水没している。
復興、開拓、宗教地
0089日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 06:03:07.70
>>86
遺跡は?
0090日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 06:20:57.63
記紀原理主義は遺跡等も示すことだな。
なんら証拠にすらならない。
0091日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 06:30:53.11
>>90
証拠を示せられるのは、「阿波」だけだろ?  わははははは   @阿波
0092日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 06:41:02.35
>>91
農、天下之大本也 「日本書紀巻第五 崇~天皇」てどこよ?
0093日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 06:48:25.03
>>90
日本書紀バカ・大物主バカには、遺跡証拠を示せられない。  ただの妄想屋。  わははははは   @阿波
0094日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 06:50:20.04
>>92
そりゃ、遺跡証拠がある「阿波」だ。 当たり前のこと。   @阿波
0095日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 06:53:02.56
>>94
どこだよ?
大柿遺跡・南蔵本遺跡も水没だしな
0096日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 06:55:36.64
>>95
名東遺跡   @阿波
0097日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 07:05:03.00
>>95
>大柿遺跡・南蔵本遺跡も水没だしな

縄文時代から中世にかけての集落が確認された複合遺跡だ。   @阿波
0098日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 07:06:40.64
>>96
ショボい 農地だが?
0099日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 07:07:37.31
>>97
卑弥呼の時代?
0100日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 07:11:53.45
>>99
卑弥呼の時代だけじゃない。   @阿波
0101日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 07:15:39.94
>>98
>ショボい 農地だが?

日本書紀バカ・大物主バカには、遺跡証拠を示せられない。  ただの妄想屋。  わははははは   @阿波
0102日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 07:17:45.82
>>101
記紀原理主義ではないので
俺に言ってもな。
0103日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 07:21:02.45
>>102
いずれにせよ、遺跡証拠を示せられない。  ただの妄想屋。  わははははは   @阿波
0104日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 07:25:52.65
>>103
いずれにせよショボい
0105日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 07:30:32.14
>>104
ショボくない遺跡証拠を示せられない。  ただの妄想屋。  わははははは   @阿波
0106日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 07:36:51.42
>>105
意味不明
わからんから聞いている。
ショボいのばっかりでガッカリ
0107日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 07:40:45.50
>>106
意味不明。 ショボくない遺跡証拠を示せられない、ただの妄想屋。  わははははは   @阿波
0108日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 07:47:50.79
阿波にはないことが
わかった。
中西遺跡に近い遺跡は?
0109日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 07:55:32.70
>>91
阿波が温暖である科学的証拠を示せ
0110◆DjiC0Fu/w6
垢版 |
2023/01/21(土) 07:57:29.48
>>108
下之郷遺跡とか?
服部遺跡とか鎌倉時代までの複合
滋賀県守山市近辺。
彦根市近辺の稲部遺跡等
妻木晩田遺跡もあるが?
吉備 百間川遺跡群
0111日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 08:01:55.57
>>108
>中西遺跡に近い遺跡は?

近いとは?   @阿波
0112日本@名無史さん
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2023/01/21(土) 08:02:49.73
>>109
>阿波が温暖である科学的証拠を示せ

米の二期作が出来る。   @阿波
0113日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 08:07:43.47
>>110
>下之郷遺跡とか?

弥生時代中期に埋没した消滅遺跡。   @阿波
0114日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 08:14:05.96
>>110
意味不明。 ショボくない遺跡証拠を示せられない、ただの妄想屋。  わははははは   @阿波
0115◆OPb3r6Vs1g
垢版 |
2023/01/21(土) 08:16:20.61
>>113
別に近く播磨田東遺跡等に移動だ
弥生後期には消滅、環濠時代の終わりになる。
まあ、阿波はショボい。
0116日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 08:18:39.83
>>114
ショボくない遺跡を示す事ができない
妄想爺
0117日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 08:19:34.70
>>115
>弥生後期には消滅

ショボくない遺跡証拠を示せられない、ただの妄想屋。  わははははは   @阿波
0118日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 08:24:56.38
>>112
耕作面積が少ない為の苦肉の策だな
0119日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 08:30:19.22
>>118
「倭地温暖」だから出来る。  わははははは   @阿波
0120日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 08:38:51.36
>>119
連作障害を知らない無知な阿波
0121日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 08:40:58.67
>>120
>連作障害を知らない無知な阿波

連作障害??  水田が連作障害?? 連作障害を知らない無知なアホ!  わははははは   @阿波 
0122日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 08:45:11.64
どんな切り口からでも、「阿波」一択。   @阿波
0123日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 09:05:14.07
>>122
どんな切り口でも阿波は除外
0124日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 09:23:08.41
阿波にレスつけること自体が正常な議論進行の妨害だ
自重すべき
0125日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 09:32:08.06
>>124
(1)碌な弥生集落遺跡群や鍛冶炉遺構の無い畿内に、「邪馬臺国」など興る訳がない。
(2)そもそも論として、大和盆地 は、「倭地温暖・植生」でアウト! 不適合! 

この二つで、畿内は押し黙る。  わははははは   @阿波 
0126日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 09:46:43.35
>>120
水稲栽培は連作障害は起きないが、二期作での収量は一期作の約1.5倍、二倍の手間がかかるのに、収量は少なく実は効率が悪い。
北部に水田が少なく米に困った阿波だからこそ二期作が奨励されたので有ろう。

現在のように他所から米を簡単に買ってこれない藩政時代には有効だったので有ろう。
0127日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 09:51:28.80
>>125
倭地とは九州や四国も含む日本列島の南西部の事なので何の問題もない。
中国大陸の北部からみたら温暖。
0128日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 10:00:27.52
>>127
北朝鮮から来た人なら当然だ
0129日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 10:01:34.87
>>126
「倭地温暖」の「阿波」だから。  わははははは   @阿波
0130日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 10:03:11.14
>>127
>中国大陸の北部からみたら温暖。

中国大陸の北部からみても、北部九州や畿内は温暖でない。  わははははは   @阿波
0131日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 10:04:01.33
祇園山古墳が高良大社の麓にあることは、ほとんどの本州人は知らないので、困ったことですね(大和説の陰謀?!^^)。

まず、魏志倭人伝「女王国(九州)東渡海千里複有国皆倭種(本州)。又有侏儒国(四国)在其南、去女王(之所都)四千里」で、九州で決まり。
さらに「(女王国)其南有狗奴国(長官・狗古智卑狗=菊池彦)」ですから、邪馬台国七万戸は、菊地平野の北に隣接する筑紫平野しかないですね。

そして3世紀中頃の築造で、殉葬者66人が確認されている王墓は祇園山古墳しかなく、その尾根上にある筑紫国一之宮・高良大社で決まりです(おめでとうございます)!

ちなみに「不弥国から南水行二十日で投馬国に至る。さらに南水行十日陸行一月で邪馬台国に至る」は、「その道里を計るに、まさに会計東冶(帯方郡から12,000里)之東(沖縄と台湾の中間)にあるべし」と結論するために、陳寿が中国大陸側の行程を倭国に転用した方便(嘘)とすると、投馬国五万戸(宮崎都万)も九州内に収まりますよ。
また、高良大社は7世紀・飛鳥時代の倭王・阿毎多利思比孤(@理由もなく噴煙を吹き上げる阿蘇山に祈祷)が、卑弥呼の王宮跡地に建ててあげた新同盟国・高句麗の大使館だとすると、麓の祇園山古墳の周囲には、須恵器が出土する高句麗系の集団墓地があることの説明が付きますよ。
なんだか双六の「ふりだしに戻る」みたいで呆気ないものですね( *´艸`)
0132日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 10:12:18.25
弥生時代(吉備楯築墳丘墓・ホケノ山)には殉葬がないのに、古墳時代(箸墓)になって突然野蛮な殉葬を始めたとする時代錯誤な畿内説!w
0133日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 10:13:08.76
高良の神は東国、出雲方面から来た神なので九州にいた神ではありません。
よって邪馬台国ではなく伊都の男王。
祇園山古墳も方墳なので卑弥呼とは無関係ですよ、常識ですw
0134日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 10:16:21.02
和歌山の方が徳島より暖かいからな。

阿波の神、オオゲツヒメも伊勢から来た神だったなw
スサノオ神話と合わせてもやはり高天ヶ原の舞台は葛城、吉野、高野山を想定している。
空海がその証拠だろう。
0135日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 10:22:14.98
箸墓のような墓はマイルストーン的な物。あの大きさだし、神と人が協力して造った墓だと明記されている。
それだけでも卑弥呼の墓に相応しい。
勿論労働力も相当な数が必要だからな。七万戸の国があった証拠。
0136日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 10:29:39.43
>>132
>・・古墳時代(箸墓)になって突然野蛮な殉葬を始めたとする時代錯誤な畿内説!w

お手製ニセ畿内説をいくら作っても九州説がみじめになるだけ
0137伊太乃に居たの ◆oRNQXnZmlfa1
垢版 |
2023/01/21(土) 10:32:00.67
>>130
また懲りずにどくんだら言いよるんやなぁ、
北部九州が温暖でなければ、阿波も温暖では無いし、
阿波が温暖で有るなら、北部九州も温暖で有る、
この関係はどうやっても覆すことはできません。

これを認めない限り、おまはんの説もどきはトンデモと人でされ続ける。

事実に向き合う勇気を持ちなはれ。
0138日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 10:40:53.90
>>137
荒らしの阿波に返事するな
反応するのも荒らしです
0139日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 10:50:15.24
>>131
「卑弥呼以死 大作冢 径百歩」〜卑弥呼は直径(円墳)百歩(140m)の冢を大いに作(るを以)って死んだ〜 のカラクリ

@265年、曹魏から禅譲を受け、280年、ついに呉を平定し中国を再統一。天下に再び平和と繁栄をもたらした西晋の功績を後世に書き残すための正史「三国志」を編集中、30年前の魏使の報告書「径百尺(25m)」を見た陳寿は、当時の倭国はすでに古墳時代に突入し、王墓だけはやたらと長大という情報を、官僚だけに読み知っていた。
A(膨大な餓死者を出しておきながら黄巾の乱を放置した後漢皇帝たちの厚葬に呆れた)曹操の薄葬に従ったのだろう卑弥呼でも、「径百尺(25m)」の墓ではいくらなんでも小さすぎる。地方豪族級の小さい墓しか作れない倭王に明帝曹叡が親魏倭王の金印を授けるはずがない。
Bおそらく「径百歩」の誤りであろう。ついでに「以+【大】作冢」と補足しておこう。

こうして陳寿は仕方なく、形状◎(直径=円墳)や数値「百」はそのままに、単位「尺(25cm)→歩(1.4m)」だけ刷り替えた。
(もし誰かが気付いたとしても誤記と言い逃れればよい。少なくとも倭国にわざわざ渡海してまで確かめようとする者ももはやいまいw)

そして時は流れ、1740年後の日本…
当然のことながら、祇園山古墳(九州説)も箸墓(大和説)も「径百歩」に該当せず、短里だ長里だ、南だ東だと、果てしない水掛け論が継続中w

もしも箸墓(全長280m)が卑弥呼の冢だったら…
→魏使は「卑弥呼以死 作【大冢】 『長』二百歩」と記録→陳寿は魏志倭人伝にそのまま転載(×不正解)
もしも祇園山古墳(直径25m)が卑弥呼の冢だったら…
→魏使は「卑弥呼以死 作冢 径百尺」と記録→陳寿は「卑弥呼以死 【大作】冢 径百【歩】」と盛る→魏志倭人伝(○正解)

祇園山古墳は上方下円墳で、天(上)から見ると方格規矩(四神相応)鏡そのもの。鏡マニアの倭王に相応しい。

「殉葬者奴婢百人」は、曹魏の薄葬に従いつつも、死後の孤独に怯えた卑弥呼の面従背腹であろう。
面白いのでそのまま転載しようw(陳寿、心の声)
0141日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 11:01:33.44
箸墓の被葬者は女性、しかも地元民では昔からオイチさん、大市墓とされてきた墓。
大市自体は中国側文献資料にも登場してる。
百襲媛の別名も神大市姫で、また日女命の名前も持つのだからこれはやはり卑弥呼の事である。

他の日本で卑弥呼の墓候補なんてあり得ない訳で、この事実の前にはいくら妄想しようが無駄。
0142日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 11:06:43.94
>>131
陳寿の蛇足(嘘)…中国大陸沿岸の行程日数を、倭国内の行程日数として描写している(なぜか?↓)
└→「その道里を計るにまさに会稽東冶(帯方郡から12,000里)の東(呉の背後)にあるべし」(と結論付けるため)

帯方郡【女王国(九州)島】〜【女王国東渡海千里複有国(本州)皆倭種】
↓「南水行二十日」〜〜〜〜〜【又有侏儒国(四国)在其南↖去女王(之所都)四千里】
建業【投馬国島】宮崎・都万
↓「南水行十日」〜
東治┌▲奄美大島┐〜
↓〜│邪馬台国島│↓「南陸行一月」580q(≒19q×30日)
東冶│女王之所都│←「その道里を計るに、まさに会稽東冶(呉越国境&12,000里)の東にあるべし=陳寿の嘘」
↓〜│「狗奴国」│〜〜〜
↓〜│其余傍之国│〜〜〜
↓〜│遠絶・不可│〜〜〜
↓〜└─┐得詳┌┘〜〜〜
儋耳朱崖└─幻┘←「所有無與儋耳朱崖同(服装・産物・動物・武器)倭地温暖冬夏食生菜」
南越(ベトナム)
0143日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 11:08:58.77
>>132
つまり初期ヤマト王権の大王墓の築造年代を早めて、筑紫邪馬台国の遺跡と喧伝工作しているのが畿内説ということだね。
0144日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 11:12:27.16
北部九州には100%邪馬台国なんて存在しません、そんなのは当たり前の話。
0145日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 11:13:57.97
>>143
近年の考古学の進展により、記紀による比定の誤り
西殿塚≠手白香姫♀陵(継体妃。6世紀の人物)ということは、箸墓≠モモソ姫♀陵・・・女性♀の墓という記紀比定の定着を悪用し、そのまま卑弥呼♀の墓匂わせに悪用
伝履中陵(兄)→伝仁徳陵(父)→伝反正陵(弟)が続々と明らかになってきたわけで、まとめると、

卑弥呼の冢…祇園山古墳(殉葬66人)
台与の墓…那珂八幡山古墳2号主体(本殿下の1号主体は父「男弟」)
饒速日の墓...ホケノ山
神武の墓…箸墓(吉備特殊器台)東征ルート(日向→宇佐→筑紫→安芸→【吉備→大和】)

細かい順不同はともかく、概ね記紀の系譜と築造編年がほぼ合う比定
@箸墓A黒塚B中山大塚C椿山大塚D西殿塚E柳本大塚F桜井茶臼山G東殿塚Hメスリ山H行燈山I渋谷向山
@神武A綏靖B安寧→C懿徳→D孝昭→E孝安→F孝霊→G孝元→H開化→I崇神
0146日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 11:16:47.73
櫟イチイと鰐の話か
0147日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 11:19:44.22
>>134
>阿波の神、オオゲツヒメも伊勢から来た神だったなw

居もしない馬に乗ってか?  アホ草  わははははは   @阿波
0148日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 11:20:37.49
>>135
>七万戸の国があった証拠。

「阿波」にな。   @阿波
0149日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 11:21:11.58
>>142

ついに「南水行十日陸行一月」の謎が解けたyo!

魏志倭人伝の核心は「計其道里 當在会稽東冶之東(その道里を計るに、まさに会稽東冶の東にあるべし)」の一文。

1.西晋初代・武帝司馬炎は、祖父・司馬懿仲達(秀吉)を後見人に指名してくれた大恩人・曹叡(信長)の、(実は呉より北にいた)卑弥呼を特別待遇してしまった判断ミスを正当化し、呉を滅ぼす先鞭を付けた賢帝に仕立てる必要があった。
→曹魏の帝都・洛陽から見て東南にある孫呉との戦いにおいて、その背後に倭国「女王之所都」があれば、最高の牽制となる。
→孫権の帝都・建業とほぼ同緯度の会稽郡「東治(シ・さんずい)」ではなく、そこから更に約580km南で、帯方郡から12,000里の「東冶(ン・にすい)」の東にあると思わせたい。
2.ところで倭国の気候風俗(服装、産物、動物、武器)は、南越(ベトナム)国境にある儋耳朱崖に似ている。
3.しかし本当の位置も残さなければならない。

そこで陳寿が行った忖度が、女王国(九州)島が、狗邪(伽耶)韓国の南から儋耳朱崖(ベトナム)まで届く、中国大陸をすっぽり包み込む、南北に細長〜い「2つの島」であるように思わせる印象操作。
まず「奴国」を2回使って「女王之所都」が「奴国だよ、奴国だよ」と正解の【奴国1】を暗示(ダチョウ倶楽部「押すなよ、押すなよ」→2回目の念押しがポイント)。
次に、投馬国(宮崎)から南水行十日にある奄美大島を海南島までグィ〜ンと引き伸ばして、女王国島のパラレルワールド「邪馬台国島」を、そこに東治⇔東冶間の「陸行一月」を転用して幻の【奴国2】を創り、「東冶(ン・にすい)」の東に「女王之所都」を合わせた。
同時に倭国に行ったことがある中国知識人には「陸行一日(奴国)」の間違いとすぐに気が付くようにもした(「日」の両端の棒を下に延ばし日+Л→「月」)。
卑弥呼は、漢委奴国王以来の奴国王・帥升「其國本亦以男子為王 住七八十年」の男系女子(孫娘)で、先祖である歴代倭王(死者=鬼)の神託を聞くイタコとして(鬼道政治)、北部九州30カ国から共立された巫女(斎王)。
◆邪馬台国七万戸=奴国二万戸(福岡平野)+(南の狗奴国に狙われた)後背地・筑紫平野五万戸◆
0150日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 11:22:30.97
卑弥呼が職名で何代もいたんだとすれば、

卑弥呼の墓もいっぱいあることになる
0151日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 11:22:38.12
>>141
箸墓古墳は、葺石墓だから4世紀以降の築造。 残念でした。  わははははは   @阿波
0152日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 11:22:52.06
>>149の模式図だyo!【倭人伝の「東冶≒女王之所都」プロパガンダ】
   ┏━━┓帯方郡  ┏┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
←┐┃黄海┗狗邪韓国┛(伽耶)〜〜〜日本海〜〜
洛陽┃〜〜〜↓↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━━━━━━━━━━━━━━━━
【魏】┃〜対馬▲↓南「水行10日」〜〜〜〜┃「女王国東渡海1,000里 複有国 皆倭種」 
 ↓ ┃「瀚海」↓↓玄界灘〜〜〜〜〜〜〜┗━━━━━━━━━━━┓(出雲・吉備=墳丘祭祀)
   ┃〜壱岐▲↓〜〜〜〜┌南「水行10日」┐関門海峡〜〜〜〜〜▲┃(大和・東海=銅鐸祭祀)
v✖s┃〜〜┏末盧国━━━↑━━━━━┓↓〜〜〜〜┏━━━┓〜┃ 
   ┃〜〜┃伊都国→不弥国▲▲▲▲▲▲↓国東半島┃侏儒国┃〜┗━━━┛
 ↑ ┃〜〜┃▲↘「陸行1日」(正)‗▲▲▲▲↓豊後水道┗━━━┛「在其南 人長3〜4尺(少彦名)
【呉】┃〜〜┃♀【奴国1】女王之所都▲▲┛↙〜〜〜〜〜〜〜〜〜←去女王(之所都)4,000里」
建業┃〜〜┃狗奴国▲▲▲▲投馬国←←┘宮崎平野=南「水行20日」
   ┃〜〜┗━━女王国島━┛↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜
会稽┃〜東シナ海〜┌南「水行10日」〜〜〜〜〜〜〜〜
東治┃〜〜┌─┌←▲奄美大島┐↙陳寿の創作(女王国島のパラレルワールド…幻)
 ↓ ┃〜〜│〜↓「陸行1月」_〜│←「※自女王國以北其戸数道里可得略載」(北部九州30カ国=30日=1ヶ月)
   ┃〜〜│〜↓▲沖縄〜〜〜│〜〜↓「自帯方郡至女王国 12,000里」
東冶┃〜〜│♀【奴国2】(幻).〜│★【(女王之所都)計其道里 當在会稽「東冶」之東】(魏晋のプロパガンダ…嘘)
   ┃〜〜│▲台湾〜〜〜〜〜│〜〜↑「此女王境界所尽 其南有狗奴國 不属女王」
香港┃〜〜└┐〜〜〜〜〜〜〜│←「※其余旁国遠絶(幻)不可得詳」
┏▲海南島〜└邪馬台国島(幻)┘〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
┃↖儋耳朱崖〜〜南シナ海〜〜「所有無與儋耳朱崖同(服装・産物・動物・武器)倭地温暖冬夏食生菜…本当」
┛←南越(ベトナム)〜〜〜〜〜↘▲裸国フィリピン〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜↘▲黒歯国インドネシア▲パプアニューギニア「複在其【奴国2】(幻)東南 船行1年…大げさ」
0153伊太乃に居たの ◆oRNQXnZmlfa1
垢版 |
2023/01/21(土) 11:38:19.16
>>148
阿波に7万戸は到底無理なのは明らかな事実、
1000年単位で存在した住居跡の延べ数を数えて、
勘違いしとるんとちゃうかな?
0154日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 11:42:41.21
>>139
>>152
卑弥呼の魏帝への朝貢目的は、(蜀の牽制として西のインド・クシャーナ朝「親魏大月氏王」同様)呉の牽制として東の「親魏倭王」として、帯方郡が管理していた「伽耶の鉄」の倭国における輸入独占権(郡宛て鉄の発注書用の封泥金印「親魏倭王」)。
つまり狗奴国戦争における後方支援要請だったわけで、(其南有)狗奴国の位置が決まれば、自動的に北の邪馬台国の位置も決まることになる。
長年続く邪馬台国所在地論争の核心は、実は▶狗奴国の位置◀であることに留意されたい。
そこで九州説、畿内説の狗奴国を検討すると、以下のようになる。

−女王国 東渡「海A」千余里 「複有国B」皆倭種
〇九州説…「東渡海A」関門海峡「複有国B」本州、✕畿内説…「東渡海A」鈴鹿山脈「複有国B」北海道
−其南有狗奴国 不属女王
〇九州説…熊本もしくは薩摩、✕畿内説…仲良し東海+河内(大阪)彦←支離滅裂

畿内説はいずれも当てはまらない上、「女王国東渡海複有国皆倭種(→東)」と「其(女王国)南有狗奴国 不属女王(南↓)」が共に「→東」で重複する。
また、鉄製武器(軍事力)も文字も駅伝制(通信手段)もない3世紀の畿内にいて、遠隔の北部九州を安定支配するのは物理的に不可能(倭地に牛馬なし)。
消去法により、九州説が正しい。
では、狗奴国が熊本か鹿児島かだが、邪馬台国七万戸を統治する倭女王をして、魏帝に援軍要請させるほど窮地に陥れる国の軍事力を考えると、
その人口は邪馬台国と同等(七万戸)もしくはそれ以上の人口(八万戸)を想定。
面積から見て、川内平野でゎ「平野面積≒戸数」となる3世紀の開墾能力では無理があると思われ、狗奴国は菊地平野(狗古智卑狗の本拠)+熊本平野+八代平野の3平野を合わせた超大国と考定して、
北の邪馬台国は、北岸の吉野ヶ里遺跡を始め、弥生拠点集落の宝庫「筑後(川)の賜物」筑紫平野、卑弥呼王宮はその最高所・甘木朝倉を、
卑弥呼の冢「大作冢径百余歩(尺)=直径25m」は、3世紀中頃の築造で、筑紫平野を一望でき、かつ同時期(甕棺墓)の殉葬者が少なくとも66人以上確認されている「有棺無槨」祇園山古墳を比定。
0155日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 11:43:16.85
>>143
それは両者を同じ基準で比較しないと
0156日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 11:47:05.45
北部九州にも畿内にも100%邪馬台国なんて存在しません、そんなのは当たり前の話。   @阿波
0157日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 11:48:52.87
(1)碌な弥生集落遺跡群や鍛冶炉遺構の無い畿内に、「邪馬臺国」など興る訳がない。
(2)そもそも論として、大和盆地 は、「倭地温暖・植生」でアウト! 不適合! 

この二つで、畿内は押し黙る。  わははははは   @阿波 
0158日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 11:50:33.53
>>143
神武天皇が何故吉備系の特殊器台で祭祀行われるんだ?
謂われが全くないから無理だぞw

瀬戸内海の神は吉備津彦に百襲姫のふたり。女性の墓なら百襲姫一択しかない。
0159日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 11:54:00.31
阿波は結局伊勢からきたオオゲツヒメを迎えた、丹生採掘の飯場の位置付けしかない。
邪馬台国なんて100%比定不可能なのは確定。
まあ三世紀まで中国人が目指したのは琵琶湖経由で伊勢、だから墨書土器も松阪辺りから出るのだろう。
0160日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 11:55:00.01
>>145
なるほど 良い筋だ
0161日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 11:55:07.09
>>158
>瀬戸内海の神は吉備津彦に百襲姫のふたり

瀬戸内海というより、「阿波」「讃岐」の東四国だ。   @阿波
0162日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 11:56:01.01
>>159
>阿波は結局伊勢からきたオオゲツヒメを迎えた

居もしない馬に乗ってか?  アホ草  わははははは   @阿波
0163日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 11:56:29.07
>>158
箸墓の次の大王墓と目される西殿塚には、継体妃(6世紀の人物)の墓という謂われ(伝承)があるよんw
0164日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 11:57:37.61
>>158
そんな謂われ(記紀)に騙されて、畿内説w
0165日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 12:02:17.74
>>145
>>163
欠史八代がすべて神武の子だったとして、即位した大王と即位しなかった大王がいて、即位した大王が西殿塚に葬られたとすれば、辻褄が合うな
0166日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 12:12:31.79
>>165
欠史八代がすべて神武の子ではなければ?
0167日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 12:13:36.37
>>158
汚舞、見事なまでの畿内説脳(【箸墓=女の墓】→卑弥呼の墓)の持ち主だなw
0168日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 12:21:18.08
>>165
BC660年の奈良橿原神宮はまだ縄文晩期w
神武は鉄剣を携えて東征「日向→宇佐→筑紫→安芸→吉備特殊器台王国→大和」していることから、
3世紀後半に活躍した人物と見られ、3世紀第4四半期・箸墓の時代相が一致する。
さらに崇神は4世紀初頭の人物と見られ、あるいは欠史八代と崇神は兄弟だった可能性が出てくる。
ハツクニシラス大王は神武+崇神の2人いることから、それは裏付けられよう。
0169日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 12:21:51.49
当たり前だが、畿内脳も何もここは畿内説スレなんだからなw

そんな事も理解せずただ九州だ阿波だとアホな妄想垂れ流してソントしてるから出自が怪しまれる。
0170日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 12:22:23.56
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)





久 努 国 ( く の の く に )





久 努 国 ( く の の く に )





馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
0171日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 12:23:46.69
西殿塚が6世紀なんてする奴は今は流石にいないぞw

むしろ台与の可能性ならあるな。
0172日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 12:25:19.57
女の墓だから卑弥呼の墓、そんな謂われにコロッと洗脳された畿内説w
0173日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 12:25:53.49
>>169
(1)碌な弥生集落遺跡群や鍛冶炉遺構の無い畿内に、「邪馬臺国」など興る訳がない。
(2)そもそも論として、畿内大和盆地 は、「倭地温暖・植生」でアウト! 不適合! 

この二つで、畿内は押し黙る。  わははははは   @阿波 
0174日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 12:28:22.09
>>163
西殿塚も女の墓だから台与の墓、畿内説w

>>132
0175日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 12:43:39.73
>>156
魏使が阿波に行った行程は?
0176日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 12:46:09.84
オオゲツヒメのルーツとされる伊勢郷多気だがこの地が多木で食物がよく採れた場所という話もある。
またこの地は丹生大神宮、ここの神は実は空海でもある。
空海は帰国後に最初この地を聖地とする予定から、丹生都姫神社の近く高野山に決めた経緯もある。
やはり四国出身の空海は紀伊半島こそ聖地だと色々知っていたのである。
0177日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 12:50:11.75
阿波に行く行程は説明不可能だからな。

廣志においても邪馬台国へは伊都から隣接していて海を渡る記述がないから、
その点でも阿波は邪馬台国候補から除外確定済みだね。
0180日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 13:14:29.85
>>175
「阿波」に聞く前に、お前がまず示せ。   @阿波
0181日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 13:15:55.60
>>176
>オオゲツヒメのルーツとされる伊勢郷多気

居もしない馬に乗って「阿波」へか?  アホ草  わははははは   @阿波
0182日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 13:18:08.00
>>177
>廣志においても

お前ひとり、拝んでろ!  わははははは   @阿波
0183日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 13:19:26.71
>>178
>阿波は食料生産地

まさに、古代において、それ以上のものはない。 践祚大嘗祭しかり。   @阿波
0184日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 13:19:42.36
>>180
ヨウツベの行程と同じだったらアップしてやろうかと思っていたのだがな
0185日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 13:22:14.24
多気郷は縄文時代からの丹生鉱山だからな。
以下は引用だが伊勢の丹生鉱山の概略。

縄文時代から丹生鉱山とその近辺で辰砂の採掘が行われていた。丹生鉱山に隣接する池ノ谷・新徳寺・天白遺跡からは、粉砕した辰砂を利用した縄文土器が発掘されており、辰砂原石や辰砂の粉砕用に利用したと見られれ石臼も発見されている。
さらに40か所以上に及ぶ採掘坑跡が付近から発見されており、辰砂の色彩を利用した土器製造と辰砂の採掘が行われていた。

なのでオオゲツヒメ媛はこの地から阿波へ移った裏付けも完全に証明済み。
阿波へは採掘をしに出かけていた一族がいた図式となる。

馬云々は勿論脚色。阿波の本来の一宮の神社の伝承を嘘つき呼ばわりするなよ、阿波w
0186日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 13:22:29.09
>>179
なんせ「庄・蔵本遺跡」や「南蔵本遺跡」のお膝元だからな。 自然と力が入る。   @阿波
0187日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 13:24:49.79
>>184
これだ。

帯方郡(沙里院市)
↓【南 或は 東】海岸水行7000里( 直線距離 500km)1里=71m
狗邪韓国(巨済島)
↓海渡1000里 (70km)1里=70m
津島国(方400里、千戸)(着岸地 上対馬町  出航地 厳原町)
↓【南】海渡1000里 (50km)1里=50m
一支国(方300里、三千家)(着岸地 勝本町  出航地 郷ノ浦町)
↓海渡1000里 (対馬→壱岐と近似)(70km)1里=70m
末盧国(四千戸)(福津市辺り・万津浦)
↓【東南】陸行500里 (25km)1里50m 福津市→猿田峠越え→直方
伊都国(千戸)※大率が置かれる (直方辺り)
↓【東南】100里 (15km)1里150m
奴国(二万戸)(田川辺り)
↓【東】100里 (25km)1里250m
不弥国(千家)(築上町辺り)
↓【南】水行20日
投馬国(五万戸)(土佐国宿毛・太平洋沿岸一帯)
↓【南】水行10日 【又は】 陸行1月(旧土佐街道)
邪馬台国(女王之所都)(七万戸)(阿波国鮎喰川下流弥生後期集落群)
↓【東】渡海(紀伊水道)1000里(50km)1里=50m
女王国東渡海千余里復有国皆倭種 (阿波から東へ1000里 紀伊水道渡海→紀伊半島   @阿波

帯方郡(沙里院市)→女王国(阿波)万二千里( 直線距離 900km)1里=75m   @阿波
∴1里=70mは、概ね妥当。   @阿波
https://blog-imgs-50-origin.fc2.com/a/z/u/azuminodiary/141102_photo_01.jpg
0188日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 13:27:41.92
>>185
>阿波へは採掘をしに出かけていた一族がいた図式となる。

つまり、多気郷では辰砂が採れなかったって訳だ。  わははははは   @阿波
0189伊太乃に居たの ◆oRNQXnZmlfa1
垢版 |
2023/01/21(土) 13:27:50.00
>>179
おお!カンゾ山古墳人骨の分析があるでないで!
ホネはのこっていたのね。

なんちゃなかったって言う話しを聞いていたけど、
お骨以外めぼしい宝物は無かったっちゅう話やったんやなぁ。

まあ、副葬品は既に取り出し済みと言うのは、
昔の資料に書いてあるんやけど。
0190日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 13:31:14.39
まあオオゲツヒメなんて名前も多気都媛からの呼称かもよ、これはオレの推測だけどなw
0192日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 14:01:17.72
>>191
ざっと見た。 考え方は同じのようだ。

で、どこがトンデモなんだ?  言ってみな。   @阿波
0193日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 14:10:28.77
>>192

倭人伝には、大率が伊都国から港に出向いて調査、確認するとある。阿波の説はこれに矛盾する
0194日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 14:15:36.44
>>193
>阿波の説はこれに矛盾する

なんで矛盾するんだ?   @阿波   
0195日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 14:20:08.84
>>194
皆臨津捜露 大率が伊都国の港でチェック済みなので直方まで行く必要は無い
0196日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 14:22:04.59
>>195
>大率が伊都国の港でチェック済みなので

港があるのは、「末盧国」。

伊都国に港は無い。   @阿波
0197日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 14:43:09.46
>>196
糸島半島の両脇に良港はあるが
0198日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 14:46:33.70
>>197
東南陸行500里なんだ?
0199日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 14:58:10.04
>>198
名護屋辺りからならまずは東南に向かうしかあるまい
0200日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 15:02:35.63
>>197
糸島は無関係。   @阿波
0201日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 15:06:52.68
百襲姫の父は孝霊でしょ
孝霊の足跡は日本海側に多く残っている
簡単に言えば牛鬼退治
牛鬼は古い椿の根で、古い海神さま
弥生時代末期頃、古墳時代初頭に営みを終えた山陰の遺跡と言えば、青谷上寺地遺跡がある
鳥取は牛鬼退治の伝承と天女の伝承が残っている
鳥取の海は様々な鰐がいた場所でもある
岩の上に置かれた天女の羽衣を見つけた漁師は、羽衣を隠した為天女が帰れなくなり、仕方なしに天女は漁師と結ばれる
【2人】の子どもが生まれる
子どもが羽衣の隠し場所を教えてくれたので、天女は羽衣を取り返し夫と子どもを残し天に帰っていく

氏族の始まりのエピソードかもね
神の娘を手にして、氏族が始まる
0202日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 15:07:31.41
つまり畿内説は壺
0203日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 15:08:14.57
>>199
なんで直接行かない?良港なんだろう
下賜品もある
0204日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 15:11:29.88
青谷上寺地遺跡の人骨の二つはC 1a1だった
クロマニョン人の親戚でもある古いタイプの遺伝子
旧石器時代から日本列島にいた人々の後裔かもね
羽衣が置かれていた【岩】と関係してたら面白い
0205日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 15:11:38.55
>>203
直接行ったという説もある。
0206日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 15:13:41.34
>>205
なんで東南陸行500里なんだ?
0207日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 15:20:26.62
>>200
一大率が出向いた津は糸島市の加布里で間違い無いだろう、遣唐使船も使っている
0208日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 15:23:00.44
>>207
大間違いだな。
0209日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 15:24:32.59
>>207
東南陸行500里なんだけど?
0210日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 15:26:46.33
畿内説同様に方向を変えるか?
0211日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 15:27:58.16
魏使は2度倭国に来ているが2度とも同じ航路では無いのだろうと推測する
0212日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 15:29:18.05
>>209
何度も書くが名護屋からは東南に進むしか道は無い
0213日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 15:29:26.41
>>211
記述がない。帰路の記述もない。
往復と推測する。
0214日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 15:30:15.48
>>210
方向変えなきゃ伊都国にも着かないし
無理筋でしょ九州説
0215日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 15:31:31.70
>>212
>何度も書くが名護屋からは東南に進むしか道は無い

名護屋から東南に進む道は無いから
0216日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 15:31:33.18
>>212
何度でも書くが途中で北東へ進む記述はない。
畿内説同様だな
0217日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 15:35:44.56
>>213
1度目で学習するだろう
0218日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 15:35:56.12
大寒禊の流れは弥生時代〜古墳時代の歴史の流れかもな
鳥船の漕ぎ手→フル→禊開始で祓戸四神
0220日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 15:36:37.60
>>207
>一大率が出向いた津は糸島市の加布里で間違い無いだろう

間違いだ。 一大率が出向いた津は、福津市辺り。


>遣唐使船も使っている

そんな帆船時代の話ではない。   @阿波
0221日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 15:37:08.13
>>217
他の経路の記述はない
0222日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 15:39:53.40
>>214
まっすぐな道などあり得ない、使者は案内人の言われるまま東南に進んだから東南と記した、その後の道のりは紆余曲折で記述するだけで何百字も必要になる。だから割愛したのだ。
0223日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 15:43:47.58
>>222
>紆余曲折で記述するだけで何百字も必要になる。

そんな何百字も必要はない。 出発地から到着地の方角を示せばよいだけ。   @阿波 
0224◆DjiC0Fu/w6
垢版 |
2023/01/21(土) 15:44:32.70
>>221
ないな。なんで楽浪式土器が証拠なんだろう?
国賓なのに、宿泊施設や安全性の高い遺跡あるのだろうか?
0225日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 15:45:18.69
>>220

郡使往来常所駐

糸島からは楽浪土器が出土しているが直方からは出土していない。一大率が直方にあれば出土するはずだ。
0226日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 15:45:30.80
>>222
畿内説も同じ事になるが?
0227日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 15:48:53.38
>>226
当然よ。博多方面説は畿内の南を東の
間違いは認めている。
0228日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 15:51:19.39
>>225
>一大率が直方にあれば出土するはずだ。

はずとは限らない。 出土するかもしれない。  楽浪土器の出土が伊都国を決定させるものではない。   @阿波
0229日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 15:51:53.30
>>227
わかった、博多方面説は畿内説の南から東の間違いは認めているのだな
0230日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 15:52:55.90
>>227
>博多方面説は畿内の南を東の間違いは認めている。

だから、九州説も畿内説も「阿波」からトンデモと言われる。   @阿波
0231日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 15:53:20.11
>>220
> そんな帆船時代の話ではない。   @阿波
 
伊都国に良港があったということだ。
0232日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 15:54:26.57
魏志倭人伝が記した方角に間違いは無い
0233◆DjiC0Fu/w6
垢版 |
2023/01/21(土) 15:55:17.92
>>230
博多方面説な。
0234日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 15:55:25.84
>>231
伊都国に港は無い。 港の「末盧国」から東南陸行500里の内陸だ。   @阿波
0235日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 15:56:29.17
>>232
博多方面説は没
0236日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 16:01:12.50
>>234
一大率がいちいち500里も歩いて検察するなど非現実的だ、直方からでは船は見えないから密輸や密入国は取り締まれない。
0237日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 16:02:49.23
>>236
>一大率がいちいち500里も歩いて検察するなど非現実的だ

至って現実的だ。 魏使はめったに来ない。   @阿波
0238日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 16:11:08.86
>>237
一大率は倭国内の取り締まりが仕事だろ、魏使の為だけのものでは無い
0239日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 16:14:08.29
波戸から平原古墳に向かうとすると、しばらくは東南の方角に進む事になる
https://i.imgur.com/7RYUvtk.jpg
0240日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 16:29:06.05
>>239
座礁させるのか?
0241日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 16:29:46.93
>>239
意味不明
なんでわざわざ?
0242日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 16:37:32.21
>>241
トンデモの成せる技だからさ。  わははははは   @阿波
0243日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 16:37:34.98
>>240
座礁したから船を降りたとも考えられるな、魏の船は大型船だろうし
0244日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 16:38:59.40
手漕ぎで海流を利用しながら渡海しなければならいので、
おのずと往路復路のルートは異ならざるを得ない
0245日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 16:39:34.82
>>243
数回来ているが?
帰路の記述もない。
0246日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 16:39:38.36
>>244
その通り!   @阿波
0247日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 16:40:59.21
>>240
呼子からでも東南に進む
0248日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 16:43:21.22
>>244
魏の船は帆船じゃないのか?
0249日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 16:43:28.69
>>247
良港なんだろう
何故、もっと近づかない?
0250日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 16:45:34.48
>>249
壱岐から最短だから
0251日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 16:45:45.57
>>249
そりゃ、自説が崩れるからだろ。  わははははは   @阿波
0252日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 16:46:45.73
>>250
伊都国から遠方だよ。
荷物もあるだろう
0253日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 16:47:48.12
>>250
最短だから、渡海千里に合わない。 アウト!   @阿波
0254◆DjiC0Fu/w6
垢版 |
2023/01/21(土) 17:05:30.88
既存説て鵜呑みさんが多いんだな。
0255日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 17:05:40.85
>>201
弥生時代後期では最大の遺跡である妻木晩田遺跡も名前の由来が孝霊天皇。
出雲、中国地方に多くスサノオの話とも重なるしな。
0256日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 17:08:35.62
愛知の朝日遺跡
愛知は纏向遺跡の外来系土器の主なルーツ
朝日遺跡は元々近畿地方と同じ木棺墓、勾玉、銅鐸の集落だったが1世紀頃、銅鐸は埋められ勾玉はなくなり甕棺墓の集落に変わってしまう
甕棺の勢力がいち早く倭国大乱よりはるか以前に愛知に侵入したのかもね
0257日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 17:08:57.77
>>254
新説は妄想が多いね
0258日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 17:10:29.12
>>253
対馬-壱岐の距離と大差ないが
0259日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 17:11:02.75
>>256
>甕棺の勢力がいち早く倭国大乱よりはるか以前に愛知に侵入したのかもね

甕棺の勢力は九州を出ていない
0260日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 17:11:31.89
>>257
それ以上に既存説は妄想が多い。
0261日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 17:12:16.95
>>258
どの位?
0262日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 17:13:47.72
>>258
大差だ。   @阿波
0263日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 17:15:05.09
>>259
>甕棺の勢力は九州を出ていない

甕棺も「阿波」。   @阿波
0264日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 17:17:06.69
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125






.
0265日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 17:17:12.21
>>262
5キロくらいだな
0266日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 17:17:12.45
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125






.
0267◆DjiC0Fu/w6
垢版 |
2023/01/21(土) 17:18:02.89
>>263
丹後にもあるよ
0268日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 17:18:58.86
>>176
伊勢から来たとされるのは大宜津比売と習合したいずれかの女神であって大宜津比売ではないぞ。そもそも上一宮は大宜津比売の神社ではなかったからだ。
あるいはその由緒は捏造(大粟八神って知っているか?)だから歴史に組み込むなら細心の注意が必要。どうしようもないバカには、神社伝承学は使えないからお前には無理だよw
0269日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 17:20:26.69
>>265
大差だ。   @阿波
0270◆DjiC0Fu/w6
垢版 |
2023/01/21(土) 17:21:08.83
岩手 下船渡貝塚
縄文後期にもあるな
0271日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 17:33:49.21
>>259
遠賀川式土器も「阿波」。   @阿波
0272日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 17:42:36.05
どこを切っても、「阿波」。  わははははは   @阿波
0273日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 17:48:54.68
>>268
勝手に勘違いして騙されてるのは君じゃないの?
何故そのような社伝が必要なのかだな。
オオゲツヒメ自身は阿波の国名でもある、その人物が伊勢から来たと伝承が明記されてる事自体が重要なんだ。
それに空海が絡んでいる時点で重要な話なのは間違いない。
0274日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 17:50:59.36
一人で暴れるバカのお陰で阿波のイメージダウンも甚だしい
0275日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 17:55:47.96
>>274
トンデモ相手なんだから、一人で十分だ。  どこを切っても、「阿波」。  わははははは   @阿波
0276日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 17:56:34.11
>>269
5キロの差と30キロの差、どっちが大差かな?
0277日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 17:58:53.05
阿波ですトンデモやって10年です、阿波です
0278日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 18:00:02.71
トンデモと言いつつ畿内説が気になって仕方なくずっと入り浸る泡男、サイコパスだなw
0279日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 18:00:24.01
>>274
阿波が荒らしをするせいで、阿波説の評判は地に堕ちたな
0280日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 18:03:45.37
>>273
阿波国の延喜式50座にオオゲツヒメが存在するかね?無いんだよ馬鹿者めw
上一宮大粟神社は阿波国名方郡 天石門別八倉比売神社 大 月次新嘗の論社。
何故って大粟八神と共に降臨したと言う捏造設定の為だよ。
阿波の神社の由緒はほぼほぼ捏造なんだから上っ面の知識で偽史を構築する手助けをするな。バカには無理だから。

須佐宮 八坂神社(すさのみや やさかじんじゃ)
刻宮 津々姫神社(ときのみや つつひめじんじゃ)
斎宮 倭姫神社(いつきのみや やまとひめじんじゃ)
星宮 妙見神社(ほしのみや みょうけんじんじゃ)
開宮 皇道神社(ひらくのみや こうどうじんじゃ)
治宮 皇子神社(しらすのみや おうじじんじゃ)
穂宮 葦稲葉神社(ほのみや あしいなばじんじゃ)

以上八社を『大粟八神』と言う。
0281日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 18:08:42.84
>>280
抜けてた。
+腰宮 葛倉神社。で八神。
全く、共通点のない神々w
0282日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 18:08:46.83
>>276
そもそも、5キロの差ってどこのことなんだ?   @阿波
0283日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 18:10:27.40
>>280
つまり上一宮大粟神社の社伝を君は否定した訳だな。
では何の為に伊勢の多気郷から来た逸話が伝承されたんだ?
まずその理由を説明しなきゃ単なるアホな妄想だぞ。
0284日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 18:12:34.49
神社伝承学は「諸刃の剣」
バカが使えば偽史を目論む連中の手先に成り下がるって事さ。高祖宮とかな。
0285日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 18:16:53.07
そもそも大宜都比売とは記紀の記述でも阿波の国そのものなんだが?
これは延喜式とかに出てくる以前の話だと思うけどね。
0286日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 18:18:50.32
>>284
御託はいいから。ほれ、伊勢から来た伝承の理由を延べなさい。
あんたは謂われを否定したんだからな、きちんと理由をあげなさい。
0287日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 18:26:23.08
>>285
古事記は平安時代まで秘されていた。
そんな国玉設定は誰も知らなかったのは当然で、だから神社もなかった。
四国の他の国玉も同様である。
記紀に登場しない阿波固有の女神は次第に大宜津比売に置き換えられていった。
だから、仮に伊勢から移住した女神を奉じる一族が居たにせよオオゲツヒメと習合した誰かであってオオゲツヒメ自身ではないだろう。
俺の推定では大粟八神と共にいつもの捏造由緒だ思う。なぜならその丹の郷とやらは明治以前は現在の和歌山県所属で伊勢国ってのはお笑いだから。
0288日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 18:27:25.43
>>244
もちろん、風と対馬海峡の潮流は重要だけど
それ以前に、目標目視航海なんだけど・・・

まず方向があって、
干満の時間差による潮流や風の変化の
時間が一致するか? だろ?

潮流の変化が激しい対馬海峡の場合、
海流は、あまり関係ない。
0289日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 18:27:58.26
本当にビックリだわ、大宜都比売が阿波一宮と無関係、でっち上げだ!なんて主張する奴がいるとは。

この大宜都比売は四国阿波とは無関係だと主張したいのかな?
0290日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 18:28:19.10
神社伝承学は「諸刃の剣」
バカが使えば偽史を目論む連中の手先に成り下がるって事さ。
現在の由緒だけで云々言うのは愚かすぎる。せめて延喜式くらい考慮して下さい。
0291日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 18:33:05.59
>>289
君は本物だなw 会話にならんよ。
平安時代以前に阿波国にオオゲツヒメを祀った神社は存在しない!
何故か?バカにはわからないんだろうけど。
上一宮は延喜式当時は八倉比売を祀っていたから。
お前とじゃ@阿波の方が遥かに理解力あるわ。はっきり言って最底辺バカ。
0292日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 18:34:30.36
>>288
>潮流の変化が激しい対馬海峡の場合、
>海流は、あまり関係ない。

真逆だ。
海流の変化が無い対馬海峡の場合、
潮流は、あまり関係ない。   @阿波
0293日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 18:36:21.73
>>287
何それ、そんな理由で主張してたの?
話にならん。それに多気郷は元々丹生とも関連が深い多気郷であり、空海由縁の場所だから重要だと思うけどな。

和歌山藩の領地であった事が何の問題があるのかさっぱりわからないぞw
どんな話があるのかと期待して損した。
0294日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 18:38:33.54
>>291
じゃ、阿波スレで仲良く泡と籠ればいいのでは?わざわざ畿内説スレ来なくても。
0295日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 18:39:31.16
>>293
オオゲツヒメが馬で大粟八神と共に伊勢から阿波に来たんだね。よかったね。
すごいすごいwww
0296日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 18:44:49.56
>>276
そもそも、5キロの差ってどこのことなんだ?   @阿波
0297日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 18:47:42.18
阿波一宮の由緒どころか阿波の国の名前でもある大宜都比売を神ではない!
存在否定か、スゲーな、ついでに古事記も偽書扱いw

大宜都比売は阿波に居なかった!いや凄い発言だわ、本当にw
0298日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 19:00:47.19
>>287
伊勢国飯高郡丹生の里はきちんと存在してるのだが、なんで和歌山県だと勘違いしてるの???
0299日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 19:03:05.87
補足、伊勢国の丹生の里は当初飯高郡で、後に多気郡に編入されています。
0300日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 19:03:16.45
>>297
「邪馬台国はなかった」と同じだな
0301日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 19:07:01.10
>>297
強いて言えば、大宜津比売ではなく阿波国で大宜津比売と習合している埴生女屋神だろう。
上っ面バカにはわからんよwww
0302日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 19:07:15.04
驚きのポイント。
多気郷は三重ではなく江戸時代は和歌山だ、だから伊勢じゃないとw
伊勢の丹生鉱山のある場所なのに?

笑わせたいのか?地図見てこいよ、多気の所在地をw
0303日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 19:08:40.43
紀伊半島は凄いよなイザナミが眠る有間もある
0304日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 19:10:26.47
元々山は狩場、石切場であったのが大前提
ここがスタート
0305日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 19:10:53.09
>>301
で、大宜都比売は阿波ではどんな存在だと君は思ってるの?
まさか平安時代以降に捏造で阿波と関連付けられた神なの?
仮に以降一宮に組み入れられたのなら、それはどんな理由で?
0306伊太乃に居たの ◆oRNQXnZmlfa1
垢版 |
2023/01/21(土) 19:15:00.77
大宜津比売が伊勢から来たと言う伝承は、おそらく相当古い時代の伝承で、
わたし個人の考えとしては、縄文時代、鬼界カルデラ破局噴火後、無人の荒野となっていた阿波の地に、再び東日本から人々が移住して来た事の古い記憶の伝承が変化したものだと考えます。

古過ぎて、当時はまだ居なかったであろう馬とかが混じっていますが、
5000年ぐらい前からの伝承なので、多少の矛盾は仕方ないのでは無いかと考えます。
0307伊太乃に居たの ◆oRNQXnZmlfa1
垢版 |
2023/01/21(土) 19:20:14.62
大宜津比売に比べたら、忌部一族は、後から来た新参者に過ぎません、
しかし、忌部一族が居たから阿波は皇室の需要な役割を担う存在日本列島なったと考えます。

先住の大宜津比売一族と、後から来た忌部一族が、どう交流したのかは分かりませんが、
ある程度折り合いをつけて習合し、阿波の古代外国人始まりました。
0308伊太乃に居たの ◆oRNQXnZmlfa1
垢版 |
2023/01/21(土) 19:21:40.37
変換ミスったので再投稿

大宜津比売に比べたら、忌部一族は、後から来た新参者に過ぎません、
しかし、忌部一族が居たから阿波は皇室の需要な役割を担う存在になったと考えます。

先住の大宜津比売一族と、後から来た忌部一族が、どう交流したのかは分かりませんが、
ある程度折り合いをつけて習合し、阿波の古代が始まりました。
0309◆DjiC0Fu/w6
垢版 |
2023/01/21(土) 19:23:38.27
双方中円墳も三重にもある。
岡山、福岡うきは市?香川、奈良
0310伊太乃に居たの ◆oRNQXnZmlfa1
垢版 |
2023/01/21(土) 19:24:59.25
天石門別八倉比賣神は、皇室の祭祀を担った忌部一族ゆかりの神で、
大宜津比売は、忌部一族の根拠地阿波に前から居た神、
そう言う事なんでは無いかな?

あれ?このスレの趣旨と関係なかったですね、失礼しました。
0311日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 19:27:37.65
蚕、穀物を生むのに鬼界カルデラ噴火後から間もないとか全く根拠がない
三内丸山遺跡でやっとどんぐりやごま、豆などの農耕が始まったのがこの時代
0312日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 19:30:08.17
>>311
>蚕、穀物を生むのに鬼界カルデラ噴火後から間もないとか全く根拠がない

アホだから、勘弁してやって。   @阿波
0313日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 19:37:28.68
2年前に発表された母系遺伝子の研究によれば日本人はかなり地域性のある8つのグループに大別できるようだ
九州沖縄、高知、徳島、新潟福井香川、島根鳥取、奈良滋賀、三重〜東海、東北富山石川和歌山
混血の大阪京都が1番近いのは和歌山と同じ東北グループ
徳島に近いのは混血だが愛媛、広島だった
母系から見るとどちらかと言えば瀬戸内海西部と近いのが徳島
0314日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 19:42:47.27
カッシーニのアベマリアの動画に、
観音様らしきものが立っている地に向かって、船が来ている。
当然、日本渡来を表していると思われる。
マリア様の時代は、紀元ころだから、
きっと、邪馬台国とも関係がありそうだ
0315日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 19:46:17.33
世界の人は、教会や美術館を見て、
真相をよくご存知なのかもしれない。
意外と世界には親日知日派が多い
0316日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 19:46:50.21
>>311
いやだから、忌部系の伝説と古い土着の神様の伝説が輻輳おこして絡まってるのだと思いますよ。
0317日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 20:01:01.98
穀物の性質が消えたら唯の女やけどな
0318日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 20:02:21.26
>>305
宮司家も交代してんだよ。ちゃんと調べろよ。おまえは無知すぎて面倒。
0319日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 20:06:34.66
>>310
延喜式の時点で阿波人が大宜津比売を完全無視していたのは?
その後、阿波の女神の祭祀を怠り祭神が大宜津比売に
すり替わって行った理由は?何一つ説明出来てませんねw
0320伊太乃に居たの ◆oRNQXnZmlfa1
垢版 |
2023/01/21(土) 20:07:51.62
なんか続けても良さそうな雰囲気なので^_^
続けます。

阿波には、鬼界カルデラ破局噴火後、東日本から移住して来た一団、(現在に続く最古のグループ)と、弥生時代に移入して来た先進的な技術集団忌部一族を基層として、更に渡来系の秦氏や都から派遣された国司の末裔、鎌倉時代の守護家の末裔、室町時代の守護家の末裔、安土桃山時代の土佐からの移住者や、尾張からきた蜂須賀と家臣団などなど、さまざまな支配層の変遷があります、

支配層の中には、歴史を恣意的に書き換えた不届きな方々も居たと推測されます。

まあそう言うわけで、どこをどう切り取るかによって、
解釈の幅が広がるのは仕方ないと思います、
か、しかし、そこが面白いところでもあるのでは無いでしょうかね?
0322日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 20:13:11.64
古事記の少なくとも「序」が後世に追加された偽物なのは確定事項だと思っていたが。
どうにも香ばしいな。さすが機内説スレw
0323日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 20:19:32.85
>>321
両方俺www
0324日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 20:21:54.57
>>323
アホだから、勘弁してやって。   @阿波
0325日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 20:24:45.90
祓戸四神
瀬織津姫これは伊勢の荒魂の神だな

速開都比売神 -- 河口や海の底で待ち構えていてもろもろの禍事・罪・穢れを飲み込む
この神さまが阿波の神なら納得、水戸神
阿波というより瀬戸内海の神さまかな?

気吹戸主神 -- 速開都比売神がもろもろの禍事・罪・穢れを飲み込んだのを確認して根の国・底の国に息吹を放つ
ヤマトタケルが亡くなるきっかけになった伊吹山の神さまか?
0326日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 20:27:56.47
母系から見ると徳島は独立グループで近いのは愛媛と広島
速開都比売神なら矛盾しないな
伊勢から来たというエピソードにも繋がる
0327日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 20:28:57.57
要するに近畿は東の倭種の国
0328日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 20:30:57.74
>>324
仕方がないから免じてやろうwww
阿波の女神に感謝せよ。
0329日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 20:32:29.46
邪馬台国、ヤマト政権、卑弥呼、アマテラス

東国へ版図を広げる 阿波が大活躍

ヤマトタケルが伊吹山に赴き亡くなる

ばらばらに、大陸みき九州などから来た新たな勢力に上書きされていく
0330日本@名無史さん
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2023/01/21(土) 20:40:39.77
>>318
全く答えにはなってないな、書き換えられたのなら重要なのは何故大宜都比売が一宮で祭られるようになったかの理由だ。
阿波の名前でもある媛が祀られていなのはおかしいからではないの?
また伊勢の多気郷からきたとされる理由もな。
それも捏造だと否定出来るのかな?
0331日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 20:47:26.28
>>330
細かな話で申し訳ないのだが、伊勢の丹生は多気郷でなく、元々飯高郡ね
0332日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 20:50:43.14
>>305
「天石門別八倉比賣大神御本記」も本物だと思ってるの?
阿波の神社は捏造が大好きなんですよ。わかりませんか?
それとも「八倉比売が大日霊女の別名」だと言うのか?アホめw
0333日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 20:55:57.10
昨日は大寒禊だった
鳥船の漕ぎ手→フル→祓戸四神
鳥船は磐樟船
フルの謂れは刀が流れてきて布で受けたら留まった
フルは朝鮮語で流れるの意味
葦原シコオやイワ大神と戦った朝鮮半島の人物、天日槍かもね
卑弥呼の次の男王、桃太郎に退治された鬼、丑寅みさきかもね

元々、鳥船、磐樟船の漕ぎ手だった集団だったが、鳥船が天日槍に敗れ、天日槍の配下の集団になったのかもね
吉備とされる勢力の一面
東海や山陰の勢力と共にヤマト政権を開いたが親玉のフルが亡くなり、ヤマト政権の兵として東国平定に向かう
その後伊吹山の荒ぶる神平定に向かうが敗れて配下の兵たちはばらばらに

こういうストーリーもあり得るんじゃないか?
0334日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 21:01:35.79
>>332
話ずらしてもダメだぞ。
結論、君は大宜都比売は阿波にとって重要な人物ではない、後世に捏造で組み入れられた無関係と言いたい訳だ。
それでいいのだな?
それなら俺はバカらしいからもう相手にしないけどなw
0335日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 21:06:10.65
阿波の姫神は秋津姫だろう
水戸神、櫛八玉神とも関係するんじゃないか?

布都主、武甕槌の葦原中国平定の件で料理をする神さま
食べ物にも関係しているね
0336日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 21:11:18.81
関東にも楠の大木が生えていたが切り倒され、その枝が下総と上総になったと風土記にある
香取神宮とかの力の源は倒された楠の元にいた兵たちかもしれないね
0337伊太乃に居たの ◆oRNQXnZmlfa1
垢版 |
2023/01/21(土) 21:12:07.80
今はお大宜津比売神と、天石門別八倉比賣神が同一神とされているが、
大宜津比売神が阿波の先住民の神で、天石門別八倉比賣神が忌部氏由来の神様なのでは無いかと思います。

古事記では、大宜津比売が阿波の神とされており、
忌部氏のストーリーとは必ずしも一致していませんね。
0338日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 21:12:19.74
>>331
多気郡多気郷の地名なら倭名抄にも登場するのだが。勿論丹生大神宮の所在地だし。
0339日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 21:19:30.88
五色台や二上山に関係する旧石器時代からの集団
鬼界カルデラ噴火後に渡来し弥生時代にかけて一世風靡した三内丸山遺跡の集団、龍の黒神でイザナミのモデルだろう
東北とイザナミが眠る和歌山は母系から見ると同じグループで大阪京都が1番近いのはこのグループ

倭国大乱前はこの二大勢力が中心に国作りが行われたんじゃないか?
葦原中国
0340日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 21:33:59.95
渡来人に抗っていたのが近畿の在地の人々
ヤマト政権誕生時にも在地の人々は抗った
在地の人々がヤマト政権に抗ったという点で近畿も東国も同じなんだよな
0342日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 21:36:42.66
>>335
中西・秋津遺跡からの避難民
0345日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 21:45:05.20
>>344
鳴門金時は、海砂を利用して栽培しているので、薩摩やパプアニューギニアとはちょっと違う。
0346日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 22:17:13.48
>>339

イザナミの黄泉の国から逃げ出したイザナギは、陸路で黄泉比良坂を越えて筑紫の日向に逃げ帰った。
海路ではなく。
それはつまりイザナミの国も九州。
0347日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 22:19:45.21
>>322

序の偽書説は太安万侶の墓の発見により否定された。
昭和からタイムスリップでもしてきたのか?
0348日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 22:26:47.30
まーだやってらっしゃるのか





卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)





ハイ終了

解散!
0349日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 22:30:08.46
>>231

博多湾に昔は岬があり、立ち鼻つまり橘と呼ばれていた。
橘より東の水門が大戸、西が小戸と呼ばれた。
大戸は後の那津つまり博多港であり、庶民の国である商都奴国の港だ。
小戸は王都であった伊都の港だ。
イザナギが禊した筑紫の日向の橘の小戸とは、伊都の港という意味になる。
そして博多湾を見下ろす高祖山つまり筑紫の日向の高千穂への入り口が、山門である。

この文章を声に出して音読するといい。
水門、大戸、小戸、伊都、山門
すべて一貫した地名であることがわかるだろう。
0350日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 22:30:40.14
■ 大祓の祝詞

掛けまくも畏き 伊邪那岐大神
かけまくもかしこき いざなぎのおほかみ

筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に 
つくしのひむかのたちばなのをどのあはぎはらに

禊ぎ祓へ給ひし時に 生り坐せる祓戸の大神等
みそぎはらへたまひしときに なりませるはらへどのおほかみたち

諸々の禍事・罪・穢 有らむをば
もろもろのまがごとつみけがれ あらむをば

祓へ給ひ清め給へと 白すことを聞こし召せと
はらへたまひきよめたまへと まをすことをきこしめせと

恐み恐みも白す
かしこみかしこみもまをす
0351日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 22:36:40.21
>>374
>墓の発見により否定された
何でやねんwww
安万侶の墓誌が見つかったからといって偽書説は消滅したのだという発言は、論理的に成り立たないということを言いたいのです。太朝臣安万侶という人物が実在したということ自体は、初めからわかっていたわけで、誰もその実在を疑ってなどいませんでした。つまり、安万侶の墓誌が出土しようとしまいと、古事記に対する問題は、ほとんど変わりがないといってもいいわけです。
0352日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 22:37:31.00
>>347
だった。もうね、君www
0353日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 22:39:44.31
まおすことをきこしめせだから、
これは、伊弉諾大神への御言割りの歌だね
イザナギイザナミとは誰だろうかね
ナザレのヨセフが、淡路島の、恐らくは伊弉諾神宮に墓所がある。
0355日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 22:42:19.94
大宜津比売は羽山戸神の妻ですwww
0356日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 22:44:11.36
>>350
魏志倭人伝の頃にはない
0357日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 22:44:49.02
みんな女神国玉設定が大変お気に入りのようでwww
阿波の国玉が大宜津比売でも別に構いません。
「倭大国玉神」は阿波とは無関係って事なんだしw
0358日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 22:47:03.47
伊弉諾イザナミは、国産みの神とされているが、ソロモンは、剣山が墓所だから、違うし、阿波さんの、古事記の御神名は邪馬台国のことという説に則れば、あながち、間違ってると断ぜないだろう。
0359日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 22:49:23.16
邪馬台国の創設者は、
阿波さんによれば、ソロモンとシバのはずだ
すると、国産みの解釈も自ずと違ってくるはずだ
0360日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 22:50:23.77
何故か、伊弉諾神宮がある淡路島に、ナザレのヨセフの墓所がある
0361日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 22:53:39.47
>>219

馬鹿か?
帯方郡からの郡使は常に伊都に駐在したと魏志倭人伝にある。
その物的証拠が楽浪帯方からの土器だろう。
伊都は三方が山に囲まれた守りの堅い土地だ。
残る北方の玄界灘の制海権を掌握すれば最も安全な土地になる。
制海権については、大率が北方の国々を検察し、諸国はこれを畏怖したとあることから、玄界灘の制海権を伊都が掌握していたことは間違いない。
つまり伊都は安全な王都であった。
0362日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 22:56:52.91
>>133

質問!
高良の神の起源については初耳なのですが、具体的にどのような話ですか?
0364日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 23:05:00.43
>>351

古事記は日本書紀より古い様式の説話を含み、それは万世一系の天皇中心の史観には不利だった。
だから偽書と決めつける。
日本国ではなく倭国について書かれていて、古の筑紫や出雲の王権の話が含まれすぎている。
それを詳しく読めば、倭国王朝が万世一系などではないことが自ずと明らかだからだ。
0365日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 23:08:29.78
イザナギとイザナミが銅矛で最初に手に入れた領土が博多湾の能古島すなわち淤能碁呂島。
博多湾沿岸は銅矛文化の発祥の地であり、ここから海人族とりわけ天津神(海人アマの王の意)が西日本や東日本を征服した。
0366日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 23:20:33.38
>>361
物的証拠にならない。
居住地があるだけだよ。
0371日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 23:29:42.71
いくら記紀を読んでも魏志倭人伝とは合わない
つまり畿内は東の倭種の国であり邪馬台国は無関係
0372日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 23:29:43.65
>>369
無視?
出土があっただけで伊都国とはいえない。
なんで纏向が出てくる?
0373日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 23:31:28.61
>>371
嘘はいかんよ
0374日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 23:36:19.40
九州北部は弥生文化の発祥の地。
西日本も東日本も、九州北部、それも博多湾の文化が席巻し、現代まで継承されている。
畿内の銅鐸は破棄され、筑紫の日向の伝承とともに銅矛、銅鏡、水稲稲作が伝統となった。
0375日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 23:37:47.58
>>371

そうでもない。
伊都は記紀と魏志倭人伝の両方に記された歴史の特異点だ。
0376日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 23:40:51.22
邪馬台国絞った記述は、
南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月
官有伊支馬 次日彌馬升 次日彌馬獲支 次日奴佳鞮 可七万餘戸のみ。

後は女王国にあればいい。
0377日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 23:47:31.60
>>372

土器は明確な考古学的証拠だよ。
郡使は糸島に滞在し、卑弥呼に謁見した。
0378日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 23:49:11.53
邪馬壹国70,000戸の内訳は下記の計算で算出されている

1,000戸(對馬国)+3,000家(一支国)+4,000戸(末盧国)+1,000戸(伊都国)20,000戸(奴国)+1,000家(不彌国)+20×2,000戸(斯馬国-烏奴国の20国分)

斯馬国~-烏奴国の20国の戸数は記の計算で算出されている
(1,000戸+3,000家+4,000戸+1,000戸+1,000家)÷5国=2,000戸/国
奴国を除く対馬国、一支国、末盧国、伊都国、不弥国の5カ国の戸数から1国邑当たりの平均値2,000戸を求め、斯馬国-烏奴国の戸数もこれと同じ戸数として計算

陳寿はマメなやつだ。
0379日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 23:52:08.30
>>377
とは言えない。
建物は?
伊都国に滞在して卑弥呼と謁見をした。
0380日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 23:52:47.56
>>378
水行は?
0381日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 23:54:30.25
>>368

細型銅剣銅矛の起源は北方ユーラシアのアンドロノヴォ青銅器文化
車馬が欠落する遼東から韓半島で短剣、短矛が主流となり、
弥生青銅武器の武装様式の起源となった
0382日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/21(土) 23:56:52.51
>>377
宮室樓觀城柵嚴設常有人持兵守衛は?
0384日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 00:01:36.95
ト骨
対馬や壱岐にはト骨についての記述はない
上陸後からの記述だよな
0385日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 00:03:26.84
>>383
隷属という記述はないが
伊都国に居るんだろう。
不彌国か?
0386日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 00:08:05.23
女王国の範囲
種禾稻紵麻蠶桑 緝績出細紵縑緜
出真珠青玉 其山有丹
0388日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 00:15:35.37
>>387
邪馬台国に居るも記述がない。
リンク先、何が言いたいのかさっぱり
0389日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 00:17:13.80
>>387
皆統屬女王國である
0390日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 00:19:10.21
>>388

邪馬台国が女王之所都とだけ書かれているから
女王は邪馬台国に居る
漢典見てさっぱりなら漢籍理解するのは無理
0391日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 00:20:56.77
>>390
限らないだろー。
3番目を取っただけだろう
0392日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 00:21:20.66
>>390
鵜呑みさん
0393日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 00:21:24.00
>>389

丗有王 皆統屬女王國

(伊都国の)三十年ほどの王たちは皆女王国に隷属する
0394日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 00:22:36.99
>>393
隷の字はない
0395日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 00:23:38.70
>>393
共立ですが?
0399日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 00:27:26.45
>>394
伊都国は女王国の属国で、女王の都は邪馬台国にある
だから伊都国はいない
誰にでもわかる話
0400日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 00:28:12.50
>>396
统辖だな。
0401日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 00:30:32.76
>>399
残念ながら奴国も不彌国等も属国である
狗奴国は属せず
0402日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 00:31:13.18
>>399
居るの字がない。
0404日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 00:32:42.15
>>403
统辖だな
0405日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 00:34:10.88
>>402
>居るの字がない。

普通書かないよ
王は都に居る
0407日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 00:34:56.92
>>405
限らないよ
0408日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 00:35:45.34
>>404
>统辖だな

どっちにせよ属国だ
倭女王の都じゃない
0409日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 00:36:01.80
>>405
都だった所だな
0410日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 00:37:09.02
>>408
そうだよ。都でもない。
邪馬台国は女王国の都でもない
0411日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 00:37:26.56
>>404

女王卑弥呼が魏に遣使して倭王と認められたのだから
三十年ほど王が有る伊都国は女王国の隶属(隸属)国
0412日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 00:38:15.69
>>407
特別なケースなら、そう特記するだろう
都と別の所にいると書いてないなら、都に居る
0414日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 00:41:39.78
>>412
とは限らない。
邪馬台国には、軍隊や租税等に関する記述がない
0415日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 00:42:18.38
>>387
先ず女王が居る邪馬台国とは何か説明しろ
0416日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 00:42:21.70
>>410
>邪馬台国は女王国の都でもない

当たり前
邪馬台国は女王国の都がある場所だ
伊都国には女王の都はない
属国だから
0417日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 00:43:22.12
>>413
当然、故郷だよ。
国々の集まり。
卑弥呼や邪馬台国出身以外は都でもない
0418日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 00:44:06.76
>>416
邪馬台国は女王国の都の記述がない
0420日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 00:46:14.85
>>414
>邪馬台国には、軍隊や租税等に関する記述がない

記述が必要なの?
世界中のあらゆる都について
邪馬軍隊や租税等に関する記述がある?
とは限らないよ
つまり、そんな記述は必要ない
都と書けば、王宮があって王が居る所だ
0422日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 00:47:50.87
>>419
つまり行程で連なってる集落の一つなのか?
どうもその辺が伝わってないのよ
0423日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 00:48:37.89
>>417
なに言ってるか意味わからない
邪馬台国は女王国の都がある場所だ
伊都国には女王の都はない
0424日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 00:49:08.37
>>420
限らない
なんで伊都国に一大卒や大倭を書いたんだ?
誰が大倭をどこから誰が使ったんだ?
0425日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 00:51:03.83
>>423
邪馬台国は女王国の都とは書いていない。
女王之所都である
0427日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 00:51:52.19
>>424
集落の蓄えを売り買いするんだし監視の大倭はそれぞれに居る
0428日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 00:52:01.84
>>422
>つまり行程で連なってる集落の一つなのか?

都だから集落というレベルじゃないが、邪馬台国までの行程は「従郡至倭」から順番に繋がって書かれている
0429日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 00:53:01.02
>>426
それじゃどんなのを想定してるか伝わってないよ
0430日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 00:53:43.82
>>427
誰が使ったの?どこから?
0431日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 00:54:05.38
>>424
>なんで伊都国に一大卒や大倭を書いたんだ?

女王や中央官僚が遠方から統括するためでしょ
0432日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 00:54:33.02
>>428
書かれているはいいんだけど、おまえがどんなのを想定してるかわかんねえのよ
0433日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 00:55:22.02
>>430
女王や中央官僚が遠方の邪馬台国にある女王の都から
0434日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 00:55:30.77
>>431
記述はないよ。
0435日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 00:55:58.19
>>430
集落の共有財産を売り買いするんだし監視くらい居るだろ
0436日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 00:56:11.84
>>424

伊都国には三十年ほど王が居る
つまり女王を共立した倭人の国ではない
だから女王国が伊都国に楔を打って統制している
0437日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 00:56:14.65
>>429
>それじゃどんなのを想定してるか伝わってないよ

あんた以外の全人類に伝わってます
0438日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 00:56:23.42
>>433
記述はない
0439日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 00:57:02.75
>>436
楔を打って?
0440日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 00:58:57.83
>>432

お前は伊勢遺跡説だろ
お前の「邪馬台国は日本列島」というほうがわかんねえよ
0441日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 01:00:27.21
>>434
>記述はないよ。

あります
(伊都国)官曰爾支、副曰泄謨觚、柄渠觚。有千余戸。世有王、皆統属女王国
0443日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 01:01:37.93
>>439
=釘を刺して
0444日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 01:02:26.44
>>440
邪馬台国はヤマトで日本だと説明してんじゃん
だから行程に並んでるのは陳寿の勘違いだと
中国にとって日本は倭であってヤマトじゃないのよ
0445日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 01:02:49.23
>>401
>残念ながら奴国も不彌国等も属国である

そんなことは倭人伝に書いてない
0446日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 01:04:07.71
>>444
あなたが説明しても誰も納得しない
史料と違うから
0447日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 01:05:06.04
>>441
伊都国にはある。
邪馬台国にはない。
卑弥呼が中心であって邪馬台国は国々のひとつに
過ぎない女王の都。なんら中心国でもない。
行程での記述でわかる。
0449日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 01:06:22.32
>>445
女王国の都も書いていない
王がいないだな。共立王が卑弥呼。
0450日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 01:07:34.63
>>449
邪馬台国が女王所都と書いてあるが
0451日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 01:07:58.18
>>448
邪馬台国傘下がどこまでかわかんねえしそこまでは言えない
0452日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 01:08:29.19
>>450
女王国所都とは書いていない
0453日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 01:09:17.92
>>451
邪馬台国傘下などない
卑弥呼傘下ならある
0454日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 01:10:09.15
>>453
邪馬台国はヤマトだと言ってるだろ
0455日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 01:10:25.38
>>447

女王の都がある国は邪馬台国しかない
お前は有明海沿岸が倭国の中心にしたいが
有力な遺跡がないから卑弥呼だけ連れてきたと言い張ってるだけ
0456日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 01:11:27.13
>>452
>女王国所都とは書いていない

倭女王の所都だよ
倭国の都だ
0458日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 01:13:25.90
>>457
関東は含むのかとか東北はどうかとかわかんねえよ
0459日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 01:13:54.49
>>453
>邪馬台国傘下などない
>卑弥呼傘下ならある

世有王、皆統属女王国
女王国の傘下
0460日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 01:14:21.26
>>455
連れてきた?
共立されたんだけど?
邪馬台国には力がない、あれば卑弥呼なしで
武力等で抑え込む。
0462日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 01:15:19.27
>>459
邪馬台国の傘下ではない。
女王国の傘下だな
0463日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 01:15:35.40
>>461
そんなの言い張ったら出鱈目だろ
0464日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 01:15:52.62
九州説は史料無視
0465日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 01:16:50.63
>>456

倭女王の所都だよ

倭国の都ではない
0466日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 01:18:08.69
>>460

近畿の熊野あたりから有明海沿岸に連れて来たんだろ
伊都国は女王を共立していないから三十年ほど王がいる
0467日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 01:19:03.24
>>465
>倭女王の所都だよ
>倭国の都ではない

倭女王は倭国の王
九州説は史料無視しすぎ
0468日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 01:20:18.72
女王国なんて卑弥呼が居なきゃ女王国じゃないしおかしいだろ
後漢書・・・其大倭王居邪馬臺國
0469日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 01:20:21.94
>>466
伊都国も女王を共立したんだよ。
伊都国王の名の記述はない。
いるのではなく いた なんだな
0470日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 01:21:16.89
>>460
>邪馬台国には力がない、あれば卑弥呼なしで
>武力等で抑え込む。

最大国で女王の都があるのに
なんでそんな妄想できるの?
0472日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 01:21:49.26
>>468
居た所の邪馬臺國だな
0473日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 01:22:02.15
>>469
>伊都国も女王を共立したんだよ

根拠は?
0474日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 01:23:26.75
>>472
今は違う所にいるなんて書いてないのだから
女王は女王の都にいると読むのが正常な脳
0475日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 01:24:16.04
>>471
俺の事は良いけどとにかく邪馬台国が何を指してるかつたわってないのよ
0476日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 01:24:38.80
九州説は狂ってるな
0477日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 01:24:53.23
>>469

伊都国には三十年ほど王がいた、その王たちは皆女王国に隷属したという解釈では、
今はどうなんだということになる
0478日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 01:26:06.30
>>475
あんた一人が理解したくないだけだ
0479日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 01:26:31.67
>>470
君が妄想だからね。人数が多いだけだしな。
見積もりかもしれん。
0481日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 01:27:16.86
>>478
どのくらいの範囲なのかとか全然わかんねえよ
0482日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 01:27:29.27
>>477
王はいない卑弥呼が王
0483日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 01:28:23.51
>>482
女王に統属してる王が居るだろ
0484日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 01:29:04.49
平原の王墓は一号以降数代続いて古墳時代初期まである
ちっこいが
0485日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 01:29:25.58
>>483
いないよ。王の名は?
0486日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 01:30:19.48
>>485
女王に統属してる王が居るとしか書いてないよ
0487日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 01:30:32.90
>>483
不彌国の王は?投馬国の王は?
奴国の王は?名は?
0488日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 01:31:11.73
>>486
王が居たとしか書いていない
0489日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 01:33:26.39
>>488
魏の時代に女王国に統属した王が居た、だっけ?
0490日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 01:36:08.01
>>489
そうだよ。
0491日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 01:36:26.35
>>482

倭の国々は王を称していた
女王が共立されたので倭人伝では各国は官と書かれているが
伊都国だけは三十年ほど王が有ると書かれているので
魏の265年から遡って235年くらいから王が有る
つまり卑弥呼が遣使するあたりから女王国の隷属國になっている
0492日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 01:36:54.45
>>490
統属してる王が居るじゃん
0493日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 01:37:50.65
>>491
あったと書かれているよ
0494日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 01:38:45.16
九州説は史料無視が酷すぎ
0495日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 01:39:02.56
>>492
統属していた王が居たじゃん。
0496日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 01:39:30.58
>>495
魏の時代にな
0498日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 01:42:27.23
>>496
当然、卑弥呼の時代は卑弥呼が共立王
邪馬台国も国々のひとつに過ぎない。
親魏倭王は倭王卑弥呼に与えられたもん
邪馬台国という限定したもんではない。
0499日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 01:43:11.88
>>497
過去だよ。
0500日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 01:44:59.33
>>498
俺は邪馬台国はヤマトを想定してるからそれで問題ないけど
おまえの想定する邪馬台国とは何?
0501日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 01:48:27.90
>>500
女王国を構成する国々のひとつ
女王の都、宗教地で復興、開拓地でもある
0502日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 01:49:47.19
>>501
邪馬台国は後漢時代からあるから
0503日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 01:52:28.13
>>500

俺ではなくて、日本の学問の通説畿内説では
テンプレに書かれているように邪馬台国は斉一性が高い畿内第Ⅴ様式圏
0505日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 01:53:56.15
>>503
そんなの知らんし要らんから
0507日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 02:05:20.68
>>501
邪馬台国は女王の都じゃない
女王の都がある国だ
0508日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 02:06:21.61
>>504
ぜんぜん、中心にしたいというのはない。
吉野ヶ里以上のもんがあれば変えるだけだから
一国が支配など後の時代。
0509日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 02:07:05.78
>>507
国だけだから
0510日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 02:09:13.19
>>508
九州説はデタラメ言うばかり
0511日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 02:11:37.86
日本の国家形成を韓国より遅いことにしたい反日思想だけで歴史歪曲したい人だよね
捏造大好き国民
0512日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 02:13:42.93
>>508

日本の学問では3世紀の連合に支配という語は使っていない
何も心配しなくてもお前たちの聖地である日本の中の古代韓国吉野ヶ里は倭国とはまだ関係ない
0513日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 02:15:40.21
>>512
ぜんぜん、心配しないでも
倭国だから。
0514日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 02:21:57.24
>>513
当時の倭国は韓国の分国だったと言いたいんだよなお前たちは
0516日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 02:22:51.72
>>513

吉野ヶ里は大木を立てる馬韓の祭祀だから倭人と呼ばれた我々大和民族とは別の民族地域
3世紀はまだ初期ヤマト王権が博多を中心とした奴国と結びついて、
異民族統制のために糸島伊都国の港に楔(一大率)を打ち込んだばかりの時期
九州でヤマト王権と結びつくのがもっとも遅い有明海北部沿岸は何も心配しなくてよい
0517日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 02:26:52.00
>>516
残念ながら倭国。心配はいらないんだな。
三種の神器も出土、銅鐸の系譜
近畿地方等の土器も出土。
0518日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 02:27:31.14
伊都国の支配階級は韓国系の血筋
マレー人の国の真ん中に中国系が築いた富裕国シンガポールみたいな感じかもね
0519日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 02:28:46.84
>>518
違いますね。
博多の方面でしょう
0520日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 02:31:23.79
>>519
楽浪式土器が出土する所が
中国系が築いた富裕国だろうな。
0522日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 02:36:27.06
>>521
当然、原型。神話に証拠はいらないからね
0523日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 02:42:53.63
>>520

ⅡA期をピークに楽浪土器が集中して出土し、楽浪人が居住する
三雲番上地区、サキゾノ地区、深江伊牟田は豊富な舶載品は無い
これとは別の馬韓の祭祀の平原蘇塗跡1号(200年頃)で中央アジアと同類のガラス製品などが出ている
0524日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 02:43:50.23
>>519
もちろん吉野ヶ里は伊都国なんかじゃない
鏡もろくに出ないし王家も無い
0526日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 02:46:41.71
>>524
行ったことないんだろうな。
鏡もあるよ。ト骨出土の近辺だしな
0527日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 02:47:39.10
>>525
だから原型、神話になっていくんだからな
0529日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 02:50:11.95
首を狩られてる北部九州の人々は、南島系の国と対立してたのかもね
みんな混ざって現代日本人の祖先だけど
0530日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 02:51:38.22
>>528
後の天皇じゃないか?
0531日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 02:53:50.21
>>526

吉野ヶ里と吉備、大和系のト骨が出た弥生後期に出現した集落は別の勢力
0533日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 02:57:31.06
>>532
別に肥人とは言っていないけど?
0534日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 02:58:24.81
>>531
でも記述があるよ。
0536日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 03:08:07.39
>>535
531か?
>>大和系のト骨が出た弥生後期に出現した集落は>>別の勢力
横からはよしてくれ。
0537日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 03:10:54.52
>>531
なんで断定できるんだ?
関係あるかもないかもしれない。
定かではないがト骨の出土はある
0538日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 03:14:42.96
>>520
地域だろうな。
伊都国の一部
0539日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 03:15:29.94
>>538
成る程
0540日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 03:17:31.00
>>536
だから、なんの記述がどこにあるの?
あんた 日本語が不自由すぎる
0541日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 03:19:20.14
>>540
倭人伝読んでね
0542日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 03:50:32.97
>>541
なんの記述がどこにあるか言えないなら
お前は倭人伝を読んでない
0543日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 04:46:12.91
日本国は倭国の別種である
0544日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 05:01:22.75
>>543
>日本国は倭国の別種である

同じ民族で違う政権という意味だね
天武天皇の認識だが、あまり一般的にはならなかったようだ
平安時代にまた倭国と名乗っちゃってるから
0545日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 05:13:09.80
古事記に日本は出てこない
0546日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 05:25:59.55
>>542
倭人伝読んでんね。
0547日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 05:30:28.43
>>542
日本人?
0548日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 05:34:00.80
つまり 九州説は壺
0549日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 06:47:55.56
>>365
いや、オノコロ島は、忌部の郷 吉野川中流域に出来た、日本最大の「粟島」「舞中島」などの砂洲。
「こをろこをろとかき回し矛を持ち上げると、滴り落ちた潮が積もり重なって島となった」
吉野川の洪水で、川底が「こをろこをろ」とかき回され、
砂が積もり重なって砂洲「粟島」「舞中島」などがオノコロ島となった。
海に浮かぶ博多湾の能古島や淡路島の沼島では、「積り重なって」が説明できない。   @阿波
0550日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 06:59:40.53
阿波は地割れした不吉な場所
0551日本@名無史さん
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2023/01/22(日) 07:05:20.66
淡路は、読んで字のごとく名前からして太古より倭国(阿波)   

だから、銅鐸や鉄器が出土する。   @阿波
0552日本@名無史さん
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2023/01/22(日) 07:06:15.10
阿波の遺跡には陰湿感が漂っている
0553日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 07:06:29.54
「倭人(阿波勢力)」は大洪水時代に灌漑稲作ができなくなると、

イネに替わりアワ・キビ・ヒエなどの雑穀栽培法を開発し、生き延びる糧とした。   @阿波
0554日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 07:07:26.83
日本のイネは、日本固有種。

「阿波」は、米の二期作が出来る所。
日本のイネが日本固有種であることと、人が大陸からやってきたことは、まったく別問題。  
大陸のイネを日本に持ってきた訳じゃない。
長江流域でアワとかヒエとか米が原産する環境があるなら、「阿波」でも原産する環境がある。
日本のアワとかヒエとか米は、「阿波」が原産地だと言って誰が否定できるというのか。   
なぜなら「阿波」は、米の二期作が出来る温暖多雨地域なのである。   @阿波

「ジャポニカ米の栽培部分布」 
3vUnnv2.jpg (750×550) (imgur.com)
0555日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 07:08:53.56
「倭人(阿波勢力)」は、海部(あまべ)とともに日本各地に進出して、麻、穀を植え、

農業、養蚕、織物、製紙、建築、芸能などを伝えた祭祀族、海民族、産業技術集団。   @阿波
0556日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 07:09:49.71
灌漑稲作に代わる雑穀栽培法や古墳の築造技術(葺石・竪穴式石室など)や副葬品(水銀朱・勾玉・鉄器など)を目の当たりにして、

関東の土民も、朝鮮半島の土民も、九州の土民も、畿内の土民も、出雲山陰の土民も、北陸の土民も、

「倭人(阿波勢力)」の超先進文化の移入を喜び受け入れ、尊敬し、「倭人(阿波勢力)」を王と仰いだことだろう。   @阿波
0557日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 07:10:30.10
阿波には犬神憑きという精神異常が代々受け継がれている、@阿波も犬神憑きの一人であると考えられる
0558日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 07:14:18.72
@阿波のうわごとは犬神憑きの現れである
0560日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 07:18:57.11
徳島県立博物館にある。美馬市の民家に伝わる室町時代の古文書「飯尾常連奉書」で、犬神に関する最古の記録として広く知られる。

 阿波の奉行人が「国中に犬神を操る者がいると聞くので、早く探し出して処罰するように」と命じた内容で、犬神が治安上の問題になった様子がうかがえる。
0561日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 07:39:10.50
8世紀の記紀編纂者にとっては、「卑彌呼」および「壹與」は

大日霊女命でもあり、天照大神でもあり、大宜都比売でもあり、豊玉比売命でもあり、

みんな同じ阿波の女神なのである。   @阿波
0562日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 07:40:39.81
>天空の高天原を追放された神様スサノオが、空腹を覚えてオオゲツヒメに食物を求めると

「阿波の神様 大宜都比売」=「天石門別八倉比売命」=「大日霊女命」=「天照大神」

この神話の舞台が、まさに「阿波」であることをこれ以上示すものはない。   @阿波 
0563日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 07:41:26.47
阿波のは天照犬神
0564日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 08:12:22.17
九州や畿内では語ることのできない「阿波」の女神。

「阿波の神様 大宜都比売」=「天石門別八倉比売命」=「大日霊女命」=「天照大神」

この神話の舞台が、まさに「阿波」であることをこれ以上示すものはない。   @阿波 
0565日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 08:33:03.80
えらいやっちゃは犬神憑きの事
阿波踊りは犬神踊り
0566日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 08:35:29.38
>>547
九州説は声闘専門の韓流インチキ説ってことか
日本人とろくに意思疎通もできない下手な文章書いてるし
0576日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 09:07:05.18
>>426

二万戸の国邑は奴国。これが東夷世界で最大。
邪馬台国七万戸は奴国を含む領域。
0577日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 09:08:16.09
>>431

官有十六品。
長曰左平、次大率、次恩率、次徳率、次杆率、次奈率、次將徳:服紫帶、次施徳:皂帶、次固徳:赤帶、次李徳:青帶、對徳以下皆黄帶、次文督、次武督、次佐軍、次振武、次剋虞、皆用白帶。
(隋書 東夷 百濟)

大率は高位の中央官僚であり、都から出かけて地方を検察する様子が魏志倭人伝において刺史のようだと記載されているのである。
大率そのものが置かれた伊都が倭の王都である。
魏志倭人伝においては、女王国以北すなわち倭の生命線とも言える対馬海峡を検察していたと書かれている。
0578日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 09:08:54.91
>57年の王も伊都国にいたかも?
どこの誰が倭王になっても伊都国かな?
例えば
国連事務総長がどこの誰だろうがNY国連本部にいる。国連事務総長の都は出身地となる。
0581日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 09:12:09.68
伊都とは本来は出雲の事だから。北部九州にあるのは元々伊都の出張所。
こちらが徐々に便利だから魏志倭人伝の記述ではこちらが伊都。
その様子が描かれたのが出雲の国譲りになる。
これが結論だね。
0582日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 09:12:12.69
>>469

伊都国王というものそのものが記述がない。
伊都国の説明で出てくる王は倭王のことと考えるべき。
0583日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 09:14:04.93
57年、107年の王が倭国
邪馬台国が別種だった。
倭国になったんだな。
日本と改める。
0587日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 09:15:54.90
>>582
倭国だよ。一国の王ではない。
0588日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 09:17:21.36
邪馬台国は別種だったんだな
0589日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 09:18:06.03
>>517

むしろ近畿が九州北部の属国だろ。
博多湾沿岸も有明海沿岸も甕棺や三種の神器を共有する同じ倭だよ。
むしろ博多あたりにたむろしていた雑種が畿内。
純系の王都が伊都。
0590日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 09:18:35.76
魏志倭人伝の記述には奴国が登場するが廣志には邪馬台国までの行程にない、大国のはずなのにないのは明らかに変だろ。
それに上陸地点に松浦も登場しない。
これは明らかに違うルートで出雲、丹波を経由して邪馬台国へ向かう証拠となる。
0593日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 09:21:29.75
>>584
>魏志倭人伝や後漢書と矛盾する

何がどう矛盾する?
具体的な話が全くできない九州説はもう「説」たりえないね
0594日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 09:21:54.07
>>525

そうだな。
最初の国産鏡、特に八咫の鏡が確認されるのが平原遺跡からだな。
だから伊都が女王の王都だろう。
0595日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 09:23:00.58
出雲本来伊都説の証拠として硯の出土もある。恐らく伊都の機能として重要な書類や荷の検査だからな。
硯が出土してるのが北部九州と出雲地方の二ヵ所在るのは見逃せない事実だろう。
0596日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 09:23:47.41
>>590
大国でなく、見積もりだよ
女王の都は中心国でもないからね。
詳しく載せる必要性もない。

或いは出真珠青玉 其山有丹のありかを
伏せたかったかもしれん
0599日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 09:25:03.94
>>590
廣志って断片しか残ってないので
「登場しない」という理屈は使えないよ
なんの証拠にもならない
0601日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 09:26:36.63
>>583

> 57年、107年の王が倭国
> 邪馬台国が別種だった。
> 倭国になったんだな。
> 日本と改める。

後漢書にも倭王は邪馬台国にいるとあるから、57年の倭奴国王も邪馬台国にいた。
0603日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 09:27:49.80
>>596
>女王の都は中心国でもないからね。

王都が中心でないとか、根拠もなく非常識なこと言っても
人は耳を傾けない
0604日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 09:28:30.48
女王が都する邪馬台国という記述なら、そこが中心という意味だな。
津の意味あいがあり、交易であったり人が集まる場所の意味。
まあ三世紀末だと巻向のある奈良盆地は大いに資格有りだよ。
卑弥呼は鬼道使いでもあるからな。
0605日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 09:30:10.32
>>595

出雲の先進性は認める。
だが記紀において、出雲の大国主は国を譲って、天孫が筑紫の日向に王権を確立したとあるんだよ。
考古学的にも、出雲の最盛期は魏志倭人伝の時代より前になる。
0606日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 09:30:46.37
>>597

卑弥呼の前の倭王は男王だったということ。
そして倭王は邪馬台国にいた。
0607日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 09:31:45.85
>>582
>伊都国の説明で出てくる王は倭王のことと考えるべき。

デタラメは通用しないよ
あなた以外の全員がそう読まないのは
絶対そう読めない文章だから
0608日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 09:31:55.62
>>598
>砂州なら海の中道があるけど?

忌部の郷は無い。   @阿波
0609日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 09:33:35.86
>>604

東海と細々としかつながっていなかった大和は可能性なし。
大阪とも京都とも切り離されて、淀川も利用できない大和は地理的に不利。
津があり畿内も半島も大陸も交易相手であり栄えていたのは圧倒的に伊都国と奴国だよ。
那の津というくらいだし、津といえば博多。
0611日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 09:34:28.87
>>600
出雲は国譲りをしている。魏志倭人伝の投馬国が今でいう出雲の事。
これが伊都を北部九州側に移した事の話なんだろう。

だから魏志倭人伝では投馬国と邪馬台国だけ距離表示が異なる。
こちらが廣志側の行程となり、複数の資料を混同してるから方角その他に混乱が生じている。
0613日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 09:35:12.94
楽浪土器がほとんど出土しない纏向は問題外
0615日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 09:36:05.43
>>602
>つまり倭王は伊都にいた。

倭人伝を完全否定する九州説って
何考えてんの
0616日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 09:36:25.35
>>609
那の津が奴国だろ?廣志には登場しなかったのは北部九州に行かなかった証拠。
0617日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 09:37:33.76
>>614
>投馬国は宮崎。

邪馬台国はもっと南ということになるんだが
九州説は倭人伝無視なんだね
0618日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 09:37:48.37
>>614
邪馬台国との南北関係が成立しないから無理だな、邪馬台国が沖縄説なのか?
0619日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 09:39:02.42
>>616
「廣志には登場しなかった」は根拠になりません
0620日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 09:40:01.02
出雲の国作りも記紀編纂時の創作かもしれない
真相はイザナミの玉を誰かに託す話かもね
イザナミは神魂
0621日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 09:40:28.18
>>605
魏志倭人伝より先なんだから正に北部九州に伊都を移した事は一致するだろう。
その事で瀬戸内海ルートも使えるようになった。
0622日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 09:40:29.90
>>618
>邪馬台国との南北関係

県北の粟国が「邪馬臺国」
県南の長国が「狗奴国」   @阿波
0623日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 09:40:49.11
>>609
>東海と細々としかつながっていなかった大和は可能性なし。
>大阪とも京都とも切り離されて、淀川も利用できない大和は地理的に不利。

九州説はどうして平気でウソつくの?
0624日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 09:41:10.34
つまり南海トラフで水没していた阿波は論外
0625日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 09:42:23.54
>>619
いやなるだろうw
魏志倭人伝の方には行程に明らかに混乱があるのは、複数の資料を参照したに他ならないからな。
0626日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 09:42:54.54
>>613

> 楽浪土器がほとんど出土しない纏向は問題外

なら伊都で確定しないか?
0627日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 09:43:04.34
>>616
伊都国の又南、至る邪馬臺国
又とは、連続した行程を意味する
0628日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 09:43:13.27
大国主と宗像三女神の多紀理毘売の婚姻話は大神神社がパクってモモソヒメの伝説としたのである
0629日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 09:43:18.27
>>621
>魏志倭人伝より先なんだから正に北部九州に伊都を移した事は一致するだろう。

何と何が一致するのか
人類にわかる文章書いてほしい
0630日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 09:43:44.87
>>615

そっちが魏志倭人伝を読めていない。
陳寿は伊都の権力機構を詳しく述べているのに。
0633日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 09:45:13.68
>>620

魏志倭人伝も記紀も無視しなければ成り立たない畿内説って、日本史ですらない。
0635日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 09:47:31.05
>>629
まず旧人類からまともな人類に進化してください。

北部九州の方が大陸に渡るには便利だし、海人が拠点として便利な場所に伊都を移しただけの事。
0636日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 09:47:33.83
記紀編纂時の朝廷には神璽に勾玉がない
草薙剣に祟られたエピソードもある
草薙剣に似た(本物かも)剣が播磨辺りに流れた話も残っている
色々怪しい時代
0637日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 09:47:35.93
>>627
>伊都国の又南、至る邪馬臺国
>又とは、連続した行程を意味する

信憑性の高い倭人伝を否定して信頼性のない史料を採用すると
ひとに信用されない説ができます
0638日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 09:47:40.47
>>628

当時の大和では、父親が不明な子は全て三輪山の神の子にしただけだよ。
0639日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 09:48:49.00
>>635

海人の本拠地は志賀島というのが通説。
出雲の始祖であるスサノオも筑紫の日向の生まれ。
0640日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 09:49:47.07
伊という文字にはこれという意味がある、
伊都国、これ倭国の都であるという意味である
0641日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 09:50:19.83
>>637

伊都の南というと吉野ヶ里があるが、考古学的に伊都には見劣りする。
畿内は論外だけどな。
0642日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 09:50:57.77
>>627
伊都を出雲とすると正に出雲とヤマトの関係にピッタリだろう。
出雲大神宮は元々京都の亀岡にあるしな。
つまりヤマトとは正に連続して位地する事になる。
0643日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 09:51:55.33
>>638
モモソヒメは子供を産んでいないが
0645日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 09:52:55.61
>>640

人を使うという意味だったはず。
まあ、倭人の長である国邑の意味だろうけど。
あと、倭は卑字なので、好字である伊を使い、まさに倭の都の意味も掛けていただろう。
伊都には漢字を操れる倭人がいたんだよ。
あと、倭奴国を伊都国にすり替えた疑惑もある。
0646日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 09:53:00.30
>>635
>まず旧人類からまともな人類に進化してください。

いやそれ、まともな人類しか言っちゃいけないセリフだから

>北部九州の方が大陸に渡るには便利だし、海人が拠点として便利な場所に伊都を移しただけの事。

伊都は海人の拠点じゃないし
伊都を移すという言葉からしてもう日本語じゃない
0648日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 09:55:01.86
>>603
別に知った事ではないのでね
0649日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 09:55:05.06
>>645
>あと、倭は卑字なので、好字である伊を使い、まさに倭の都の意味も掛けていただろう。

発音のぜんぜん違う文字だから、当然間違った妄想だ
0650日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 09:55:18.47
>>646

横からですまんが、博多湾沿岸が海人の本拠地だというのはキナイコシ以外は同意するところだよ。
0651日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 09:56:10.16
>>649

日本文化は掛け言葉が好きなんだよ。
少しの発音の差は問題ではない。
0652日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 09:56:27.94
平原の王墓は方墳だしな、正に出雲の出張所だった証拠だろう。
また高良の神は他から土地を借りてそのまま居着いたとある。
高良とは孝霊の事かもな。孝霊天皇には出雲辺りの伝承が数多く残っている。
0653日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 09:57:48.41
>>604
中心国ではないだな。
0654日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 09:59:29.30
>>637
魏志と廣志が違うことが書いてあるとは言えない
0655日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 09:59:57.26
>>640
>伊都国、これ倭国の都であるという意味であ

勝手に「倭国の」とか書き加えれば
どんな意味でも捏造できて便利だね
九州説はすごいな
0656日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 10:03:00.11
博多湾沿岸は当然海人の本拠地である。
そこが需要が高いから当然の話でそこは奴国エリア。
そこが繁栄するのは当たり前だよ。だから元々伊都の出張所からこちらに比重が移り、奴国の南側に位地する狗奴国と争ったという事。
0657日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 10:03:13.41
後漢の頃は博多湾沿岸を全て倭奴国と呼んでいたのに、郡使が訪れるようになった魏の時代に情報の解像度が飛躍的に上がったというのはある。
奴国の王は風浪宮から志賀島にわたり祭りごとをしたという伝承もあるから、筑紫全体が一つの勢力圏として機能していただろう。
その中心には吉武高木がある。
0658日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 10:04:01.86
>>654
>魏志と廣志が違うことが書いてあるとは言えない

そりゃそうだ
魏志に書いてあったことを写したんだろうからね
そして廣志はコマ切れパーツしか残っていない
つまり廣志を根拠にはできない
そんなことをする説は信用がない
0659日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 10:04:40.16
>>657
特産品もないのに?
0660日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 10:04:45.52
>>656

出雲から筑紫への政権移行には賛成するんだな?
しかし出雲を伊都と呼んだ記録はないのだが?
0661日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 10:05:24.56
>>657
考古学的には否定されてるね
0662日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 10:06:21.08
>>659

> >>657
> 特産品もないのに?

伊都は九州北部の金属器加工の本拠地。
最古の鉄器生産遺跡は最近では糸島になっている。
最古の国産銅鏡も糸島。
0664日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 10:07:43.27
>>660
>出雲から筑紫への政権移行には賛成するんだな?

あり得ない
同時期にそれぞれ王墓がある
0665日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 10:08:56.79
そもそもスサノオの伝承の中にも、大山祇つまり博多湾沿岸の倭王が他にいることが示唆されている。
出雲の王権の根拠も、博多湾沿岸なんだよ。
記紀は認めたくないから明記しないが、書かないことには話の順序がおかしくなるから書かないわけにはいかない。
0667日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 10:12:16.18
>>660
伊都を北部九州に一本化したと元々そう言ってるよ。
イズモはイツモでもありイセ、イツは本来は同意でもあるだろうな。

魏志倭人伝は遠方由縁の不確定要素もあり、資料を混同した為行程表記に混乱が生じたのである。
間違いなく邪馬台国とは畿内にある。
0669日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 10:14:57.81
>>656
伊都国に港は無い。 港の「末盧国」から東南陸行500里の内陸だ。   @阿波
0670日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 10:15:51.76
当時のシルクロードは博多沿岸が終着点であり折り返し地点であった
0671日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 10:16:14.08
出雲と音が瓜二つなのは和泉で、清水が豊かな場所でもある
八雲を出た人々がいたんでしょう
それが出雲
0672日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 10:16:43.03
しかし私は北部九州には伊都があり、畿内には邪馬台国がある、で何の問題があるのか正直解らないんだよね。
わざわざ邪馬台国を北部九州から畿内へ持って行くより伊都を動かすだろ!と思ってるのだが。
0673日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 10:16:58.44
出雲と筑紫の間で争いがあったのだろう。
沖ノ島が高天原なら、三つ巴の争いだったかもしれない。
沖ノ島は考古学的には宗像に属するから、九州北部でも筑紫とは少し違う。
0674日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 10:17:03.90
>>669
船が見えないだろ、馬鹿か
0677日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 10:19:05.47
>>668
根拠は大有りだろ、丹山に七万戸。
3世紀末に中国との関係の深い、丹山もある七万戸のエリアなんて畿内以外何処にあるんだよw
0679日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 10:20:38.88
>>677

中国と関係深くないだろ。
邪馬台国七万戸を福岡佐賀長崎とすれば、長崎に丹山あり。
0680日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 10:21:12.77
>>676
伊都=邪馬台国はあり得ないでしょ。
邪馬台国は更に遠方の国なんだし。
0681日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 10:21:17.65
【邪馬台国と周辺の国】
1番 斯馬国は志摩(嶋)郡(福岡県糸島市)または島原(斯馬原)(長崎県島原市・伊佐早市)
2番 己百支国は伊万里(佐賀県伊万里市)
3番 伊邪国は平戸島(長崎県平戸市)または伊佐早(長崎県諫早市)
4番 都支国は早岐(長崎県佐世保市早岐)
5番 彌奴国は長崎県長崎市(または長崎県西彼杵郡)または嶺(佐賀県みやき町三根)
6番 好古都国は高来郡(長崎県雲仙市)
7番 不呼国は須古(佐賀県杵島郡白石町)
8番 姐奴國は曽根(佐賀県神埼市神埼町本堀曽根ヶ里)
9番 對蘇国は鳥栖(佐賀県鳥栖市柚比町)の安永田遺跡
10番 蘇奴国は?
11番 呼邑国は佐賀県小城市
12番 華奴蘇奴国は佐賀県神埼市の吉野ケ里遺跡
13番 鬼国は?
14番 爲吾国は伊古(長崎県雲仙市瑞穂町伊古遺跡)
15番 鬼奴国は小郡(福岡県小郡市)
16番 邪馬国は八女(福岡県八女市)の広川、高良台、室岡・亀ノ甲遺跡
17番 躬臣国は玖珠(大分県玖珠郡玖珠町)
18番 巴利国は杷木(福岡県朝倉市)または針磨(福岡県筑紫野市針摺、浮羽郡)
19番 支惟国は基肄城趾(佐賀県三養基郡基山町)
20番 烏奴国は大野城趾(福岡県大野城市)
21番 奴国は那の縣(福岡県福岡市)の再掲
邪馬台国の範囲はおおむね筑紫と肥国から肥後狗奴国を除いた範囲であり、半時計回りに周旋5000里である(対馬海峡が3000里)。
魏志倭人伝には、東に海をわたったところにも倭人がいると記載され、本州と四国のことと考えられる。
狗邪韓国 朝鮮半島南岸
対海国 長崎県対馬市、一大国 長崎県壱岐市
末廬国(諸説あり)
伊都国 糸島市(旧怡土郡)、奴国 福岡市(那の津)
不彌国 福岡市東区(香椎宮)
ここまでが邪馬台国(女王の都するところ)
投馬国 宮崎県西都原市(都万神社)
https://i.imgur.com/lo1K3BJ.jpg
0682日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 10:23:29.25
>>679
鬼道と神仙思想が畿内では定着している。神獣鏡と神仙思想がその証拠だね。
弥生時代後期に丹山が阿波や紀伊半島にしか確認されてないのは既に常識だよ。
0683日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 10:23:30.60
>>680

後漢書は読んだ?
倭王は邪馬台国にいた。
金印をもらったのは倭奴国王。
九州北部と博多湾沿岸の二重構造は後漢の頃からあった。
0685日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 10:24:37.12
>>681
邪馬国は山国(現在の中津市)だと思う
0686日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 10:24:46.30
>>664
そう丹後や吉備、近江とかね。
0687日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 10:25:18.60
>>676
良いんだけどその場合邪馬台国とはなんなのか説明が必要
0688日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 10:25:45.81
つまり畿内説はガセ
0689日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 10:25:55.95
そもそも卑弥呼は超古代ではなく、記紀ならすでに崇神とか景行の頃だろ。
崇神が八咫の鏡にうなされていた頃に神仙思想も何もない。
明確に神道の時代だよ。
0690日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 10:28:43.53
三種の神器が吉武高木に登場してから何百年経っていると思っているんだよ。
今さら神仙思想なんて持ち出しても無駄。
魏志倭人伝にある鬼道とは、古代神道における祖先崇拝のこと。
祖先と言っても一番重要視されたのは皇祖であるイザナミとアマテラスだろうけど。
イザナギを祭るなら筑紫の日向、アマテラスを祭るなら沖ノ島。
いずれにしても九州北部で完結する。
0691日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 10:29:51.61
>>687

邪馬台国とは、卑弥呼の権力が届く範囲のこと。
福岡佐賀長崎。
南の狗奴国や投馬国、東の倭種は含まない。
0692日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 10:30:58.10
邪馬台国と続きのシマ国とは今の近つ飛鳥辺り、蘇我の本拠地の事だな。
だから蘇我馬子は嶋大臣の別名もある。
(家に池があるから嶋大臣なんてよくよくおかしな話でそれなら池大臣だろw)

二上山の西側辺りで
百襲媛の時代だと河内青玉が居た辺り。
邪馬台国とは畿内でも生駒山から桜井辺り、大和川より北側エリアと奈良盆地の北側辺りになる。
0694日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 10:32:25.92
>>677
三重の丹山もあるからね
又、糸魚川の翡翠もあるからね。
もっと広域だよ女王国て
邪馬台国は近畿だな。
東西の海路及び陸路による物流網構築中か?
内陸部に着手の頃だな。
0695日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 10:33:25.62
>>690
イザナギとかイザナミとかアマテラスとか何をどうやって拝むの?
太陽を見てアマテラス様とか言ってたのか?
0696日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 10:34:44.28
>>691
邪馬台国は行程に出てくるよな
そこの整合性
0697日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 10:35:42.19
>>689
現実に世紀以降に神獣鏡が畿内中心に出土する説明が出来ないだろ。
神獣鏡と水銀朱、それに桃の種なら神仙思想、つまり鬼道そのものだから。

また三国志には鬼道とは初期の道教として扱っているぞ?
魏志倭人伝にも卑弥呼は黄幡なんて貰ってるからな、これは道教的な意味がないとワケわからないだろ。
0698日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 10:37:25.17
>>692

地名の移転。
嶋は旧志摩郡、つまり今の糸島。
推古天皇の豊浦宮だっておかしいだろ。
海がないのに豊浦?
穴門豊浦宮は関門海峡の仲哀天皇の宮の名だから、そこからの地名の移転なのは明白。
蘇我氏の祖は武内宿禰だしね。
0700日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 10:38:54.15
>>694

構築中?
完成してないだろ?
フロンティアだよ。
数百年続く王都ではない。
倭は前漢の頃から朝貢している。
卑弥呼は初代ではなく、後漢書にも倭王は邪馬台国にいると書かれている。
0703日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 10:42:33.38
>>695

こう唱えるんだよ。
今でも神社の宮司はそうしている。

■ 大祓の祝詞

掛けまくも畏き 伊邪那岐大神
かけまくもかしこき いざなぎのおほかみ

筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に 
つくしのひむかのたちばなのをどのあはぎはらに

禊ぎ祓へ給ひし時に 生り坐せる祓戸の大神等
みそぎはらへたまひしときに なりませるはらへどのおほかみたち

諸々の禍事・罪・穢 有らむをば
もろもろのまがごとつみけがれ あらむをば

祓へ給ひ清め給へと 白すことを聞こし召せと
はらへたまひきよめたまへと まをすことをきこしめせと

恐み恐みも白す
かしこみかしこみもまをす
0704日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 10:43:15.12
>>698
当時は河内湖の時代だから生駒山の西側は海が直ぐ。それに弥生時代半ばの時点で鏡の出土が信貴山や葛城地方にあるのは元々畿内が拠点だった証拠だろう。

近つ飛鳥と飛鳥、二か書存在するのは水害のせいで奈良盆地と河内を移動した為だな。
0705日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 10:43:44.61
>>700
書かれていないな。
解釈違いに過ぎないけど。
完成していないよ。纏向も4世紀には消滅
災害にあったかもしれん。
奈良が都になるのは藤原京とかの時代。
それまでは、滋賀や難波とかに移動だな
0706日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 10:44:00.73
>>701
今の神社なら形があるよな
何もない野原で御座敷いて太陽に向かってアマテラス様とか言ってたのか?
0707日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 10:45:10.85
うる星やつらのサクラさんの、はらったまきよったま!はまさにこれ。
あれがイザナギ大神への祝詞。
神道の教義の中心。
0708日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 10:45:32.54
>>702
それは無理だな。九州には弥生時代の丹山がない。
中国人から見て興味対象から外れている。
0710日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 10:46:31.69
>>696
九州には整合性はないな。
交易品があるのか?
0711日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 10:47:00.53
>>709
倭国だよ。
0712日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 10:48:13.33
>>706

吉武高木の頃から高殿はあった。
纏向遺跡などは明確に現在の神社の様式そのままだし。
まあ、沖ノ島だけは岩上祭祀だったが、あれはアマテラスの磐座を祭るためだろうな。
0716日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 10:48:55.69
>>679
でどこに丹は使われたの?
0723日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 10:50:24.80
>>579

同じ卜骨の風習をもっている同種は本州の西日本と関東までの東日本
九州は首狩りと頭顔面ど変形なのでまったくの別種
0724日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 10:50:49.41
>>712
様式がそうであっても王宮であれば神社とは違う
それとも王自身が神様だったのか?
0725日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 10:51:46.63
纏向遺跡が崇神天皇の磯城瑞籬宮だとわかると、遠くの溝もあわせて纏向遺跡と呼ぶのは不適切だとわかる。
近くには景行天皇の纒向日代宮など他の宮もあったはずであり、それらと範囲が被るからである。
周囲に住居跡が少ないこととあわせて考えると、用水路で区画された田畑の間に王宮が点在していたのだろう。
王宮といっても平屋の高床建物なので、風景としては昭和の頃の奈良盆地とたいしてかわらぬ様子だったろう。
突如として出現した大都市など、畿内説の夢の中の物語に過ぎない。
0728日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 10:53:22.62
>>717
女王国傘下国から流通品が集まる場所だよ。
魏との交流や輸入輸出の要
わざわざ、遠方の邪馬台国にいては不便だろー
0729日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 10:53:27.60
朝鮮半島南岸は倭国の領土
0730日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 10:53:52.89
>>721
結局畿内説を否定してる連中はそれだよね、だからネット工作のやり方も隣国そっくり。
0731日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 10:54:09.72
>>703
>筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に 

それは「ひむか」ね
糸島にるのは「ひなた」峠
ぜんぜん別のものね
0732日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 10:55:08.25
>>723

ごく一部の特殊な遺体を持ち出してくだらないことを書いても、畿内説の信用を落とすだけ。
戦乱で首を落とすのは戦国時代までやっていた日本の伝統だけどな。
0734日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 10:56:19.92
>>683
>倭王は邪馬台国にいた。

それ卑弥呼のことだから
0735日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 10:57:08.77
>>589

首狩り、頭顔面ど変形の風習をもつ甕棺墓は2世紀までに
ど没落している
0739日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 11:02:22.12
古事記の上巻は倭国の伝承
0741日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 11:02:56.48
>>738
それ論破されただろ
0742日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 11:04:40.82
>>739
500年前の事を書いてたとしたら出鱈目でしょう
0746日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 11:10:54.96
神社の建物には本殿と拝殿がある。
これを玉垣や瑞垣で囲んでいる。
纏向遺跡はまさにそれ。
ただしこの時代は王宮と宗教施設は分離していなくて、崇神天皇までは八咫の鏡を枕元に置いていた。
それで崇神天皇がうなされたため、中庭に倉を立ててそこに八咫の鏡を納めるようになった。
纏向遺跡の建物が3棟なのはそのため。
中央の建物は、現在の伊勢神宮の八咫の鏡を納める本殿と同じ神明造。
纏向遺跡は崇神天皇の磯城瑞垣宮。
0747日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 11:12:12.67
>>739

> 古事記の上巻は倭国の伝承

その通り。
そこには筑紫と出雲、高天原の話が書かれていて、大和は最後に少しだけ出てくる。
0750日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 11:15:45.02
>>744

博多は伊都を畏怖していた。
博多にとって大和は沢山ある取引相手の一つにすぎない。
博多と結びつきが強いのはむしろ出雲。
そして大和には博多の土器は出ない。
大和から博多に移住したお上りさんがいただけ。
0751日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 11:15:47.20
>>742
伝承には真実が内包されている
0752日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 11:16:14.35
>>737
>後漢書はそうではない

後漢書倭国伝は倭人伝の焼き直しだよ
0753日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 11:16:42.86
纒向遺跡への搬入土器(全体の15%)の出身地割合
伊勢・尾張系 : 49%
北陸・山陰系 : 17%
河内系 : 10%
吉備系 : 7%
近江系 : 5%
関東系 : 5%
播磨系 : 3%
西部瀬戸内海系 : 3%

纒向には魏の使いが滞在していた筑紫からの搬入物がない。
邪馬台国が交流していたはずの楽浪・帯方郡からの土器も出ない(四捨五入で1%に満たない)。
目と鼻の先の河内との交流も乏しく、畿内の他の地域のような瀬戸内海や淀川の水運の利益を受けられない、尾張の影響下の後進地域であった。
河内が狗奴国とする畿内説もあるが、その場合、纒向は半島大陸への玄関口である瀬戸内から九州北部へのアクセスルートがなくなり、魏と交流できた可能性は低い。
東海地方を狗奴国とする畿内説もあるが、纒向への東海からの土器の流入を説明できない。
尾張氏は饒速日の末裔であり、記紀では大和も饒速日の支配下であったとされる。
邪馬台国とは関係ない。
0754日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 11:17:39.41
>>750
これも考古学を知らない人の妄想だね
だから九州説は滅んだ
0755日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 11:17:59.23
卑弥呼中心に物流が活発になる。
各地の特産品が九州から諸外国へ。
代わりに鉄が入る農業生産、建築、土木も進む
近畿は東西の経路、海路以外に
陸路による道路網を構築中。
吉備、丹後、近江、東海等と合同事業だよ
0756日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 11:18:38.77
>>752

魏志倭人伝の帯方郡を後漢書では楽浪郡としていたり、ちゃんと時代考証はされている。
それでも後漢代から倭王は邪馬台国にいた。
0757日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 11:20:01.33
>>756
范曄の解釈かもね。
正しいとは言えず
0758日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 11:20:19.68
>>755

卑弥呼の時代、鉄を含む物資はむしろ筑紫が独占するようになる。
近畿の鉄生産遺跡は廃れてしまう。
各地の特産品は筑紫に集まる。
0759日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 11:20:55.24
>>755
続き
なので邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0762日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 11:22:52.09
>>758
嘘こけ
0763日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 11:23:29.44
>>761
無視?范曄の見方だよ
0765日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 11:25:37.73
>>761
君も無視している。
魏志倭人伝とかね。
0766日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 11:25:39.58
>>751
伝承だけだととてもそうは思えんが
0767日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 11:27:01.66
>>766
比喩とかモデル、中国文献の引用とかはあるだろうな
0768日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 11:28:54.15
>>760
北からの南下もあるんだな。
0769日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 11:29:56.61
>>760
九州系の土器出土
徳島にひとつのみ
0770日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 11:31:00.72
>>766

弥生人の視点というフィルターがかかっているだけ。
彼らの理解の程度、事実認識の問題。
0772日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 11:31:39.71
500年前だと室町時代、これを伝承だけで伝えるのは無理でしょう
0773日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 11:32:24.33
>>768

それは歴史に残っていない。
なぜなら今の日本は海人族の末裔だから。
0774日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 11:32:58.88
>>674
>船が見えないだろ、馬鹿か

なんで一大率が見張らにゃならんのだ?  馬鹿か!   @阿波
0775日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 11:33:11.78
>>772

> 500年前だと室町時代、これを伝承だけで伝えるのは無理でしょう

500年はどこから出た数字?
0778日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 11:33:50.65
>>773
とは限らない。
0779日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 11:34:01.91
>>677
>丹山もある七万戸のエリアなんて畿内以外何処にあるんだよw

「阿波」。   @阿波
0780日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 11:34:25.85
>>775
卑弥呼の時代と記紀編纂
0781日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 11:35:11.85
>>776

輸出する必要ないだろ?
国が豊かになるためには輸入だよ。
富国強兵には自国の鉄工業を盛んにしなければ。
0783日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 11:35:43.42
>>682
>弥生時代後期に丹山が阿波や紀伊半島

紀伊半島に辰砂鉱脈はあっても、採掘していたのは「阿波」だけ。   @阿波
0786日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 11:37:08.99
>>692
>邪馬台国とは畿内でも生駒山から桜井辺り

そもそも論として、生駒山から桜井辺りは、「倭地温暖・植生」でアウト! 不適合!   @阿波
0787日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 11:37:42.94
>>782
根拠なし
0788日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 11:37:51.51
>>785

4世紀になり多くの半島人が渡来しただけ。
それは畿内も同じこと。
神功皇后紀は4世紀の話だからな?
0789日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 11:39:03.86
>>783
その時代の遺跡があるのは阿波だろうが前後で採掘してるから無理がある
0790日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 11:40:15.76
>>784
ほぼね
遺跡がある場合は考慮する
0791日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 11:40:44.59
日向国の旧国府の一つが都万神社。
つまり日向国が魏志倭人伝の投馬国。
邪馬台国つまり九州北部の福岡佐賀長崎の七万戸に対して、投馬国つまり九州南部の宮崎鹿児島が五万戸。
九州北部は山幸彦こと彦火火出見の国、九州南部は隼人の祖である海幸彦の国。
皇祖は彦火火出見の方であり、筑紫が倭の王都。
0792日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 11:41:23.97
>>777
>交易の管理は大率の役割だろ?

下っ端が報告すれば済む話。 馬鹿か!   @阿波
0794日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 11:42:28.08
志登神社

『延喜式神名帳』に十九式内社の一社でとして糸島で唯一記載せられた式内小社です。

主祭神
豊玉姫命とよたまひめのみこと

相殿神
和多津見神わたつみのかみ、彦火火出見尊ひこほほでみのみこと、息長帯姫命おきながたらしひめ、武内宿禰命

御祭神は海神である大綿津見神の娘、豊玉姫命です。
龍宮で身籠った豊玉姫命が彦火々出見命(山幸彦)を慕って陸に上がったのが当地とされ、昔は浮島となっており、海上から参拝するようになっていました。
対馬の和多都美神社より当地に降臨したとも伝えられ、水と海運、富と権力、縁を結び、子孫繁栄を保証する女神、福を招き、出世を約束する女神とされています。
古は志摩郡・怡土郡の総社として、この地方に於ける最も有力な神社として中央にも認められ、郡民一体の崇敬を集めていました大社であったと伝えられています。
0795日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 11:42:33.19
>>789
>前後で採掘してるから無理がある

?? なんのこっちゃ。   @阿波
0797日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 11:43:26.96
板付、伊都、大分、虎杖、伊達、鼬、イタコ
イタ、イトの系譜がありそうなんだけどな
卑弥呼の時代九州にいた様々な勢力が4世紀後半や6世紀に一世風靡し後々東北に逃れて蝦夷の頭になったんじゃなかろうか?
おしらさまは養蚕の神さまやしな
元は馬韓とか朝鮮半島にルーツがあるいくつかの集団かもね
0798日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 11:44:15.23
>>795
歴史で言えば縄文時代から室町時代だったかな?
採掘している
0800日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 11:45:08.44
>>792
そんな事は国王が許さない
0801日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 11:45:16.78
>>796
500年前のことなんて憶えてねえよ
0802日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 11:45:24.44
摂津国一宮 住吉神社 筑紫で生まれた住吉の神を祭る
河内国一宮 枚岡神社 筑紫に降臨した天児屋根命を祭る
和泉国一宮 大鳥神社 天児屋根命の子孫を祭る
山城国一宮 上賀茂下鴨神社 筑紫からの神武の東征を助けた三島溝杭耳を祭る
紀伊国一宮 日前宮、国懸宮 筑紫に降臨した天道根命が持っていた鏡を祭る

ここまで筑紫と東征関連。
例外はこれ。
大和国一宮 大神神社 大物主を祭るとされる。
三輪山の神とは、現在の桜井市一帯を拠点としていた物部氏のことであり、その祖は筑紫から来た天孫ニギハヤヒである。
河内から大和にかけての地域を日本と名づけたのもニギハヤヒである。
日本は倭の別種の小国。
畿内は筑紫からの入植地ですね。
0803日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 11:47:11.93
>>801

日本書紀は多くの文献を引用しているから、されより前から歴史書があったことは確実。
現存していないだけ。
0805日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 11:48:36.59
>>736

記紀では、橘小門は日向国

「於 【日向國】 橘小門之水底所居 而水葉稚之出居神、名表筒男・中筒男・底筒男神之有也。」(日本書紀巻第九)
0807日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 11:50:29.75
>>803
中国の文献じゃないか?
つまり適当に歴史を作った
0808日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 11:50:44.12
イトや葛城の枕詞は青柳の
柳の枝で地面を叩いて鬼を呼び出すしな
花札のアメの札は柳だが、鬼の札もある
0809日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 11:51:34.94
>>749

奈良時代以前に早良平野に日向という地名はない
おそらく江戸時代くらいだろう
0810日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 11:53:10.75
>>802
弥生時代にそれらがあったと思うのか?
0812日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 11:53:44.82
>>811
ない
0813日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 11:54:05.45
>>750

福岡の学者の学術研究を無視した妄想
紀元前から盗品を副葬する糸島は楔を打たれた異民族の土地
0814日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 11:54:24.79
>>810

4世紀以降に畿内への入植が本格化するから、それ以降のものもあるだろうね。
0815日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 11:54:31.66
むしろ奈良に都のあったヤマト政権の大部分は鬼の源になったということもあり得る
記紀の裏が現代に続くのかもな
0816日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 11:55:33.52
遺跡がある場合は多少考慮すると言っている
神社の遺跡などない
0817日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 11:56:30.96
>>758

卑弥呼の遣使ころから鉄器の副葬が急増するのが纏向
糸島には何も集まらない
0818日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 11:56:43.53
>>814
弥生時代から人が住んでるけど
0819日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 11:57:49.14
>>812

じゃあ適当なこと書くな。
日本の皇祖について日本書紀はいくつもの異説を引用していて、記紀以前から多くの文献が残されていた。
どの話も中国の文献とは異なる日本だけの歴史だ。
古事記も序文でそれ以前の書を読み込んでまとめて書いたということが書いてある。
0821日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 11:58:25.25
>>819
>>816
0822日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 11:59:20.78
>>816

崇神天皇までは宗教施設と王宮は区別されていない。
王宮となる高殿は紀元前からある。
0824日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 12:01:19.43
>>817
纏向の鉄はごく一部豪族の支配層が所有しただけだろう、民百姓は石で我慢していた
0825日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 12:01:57.44
>>822
>>802に書いてる神社とは何の関係もないな
0826日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 12:02:18.24
>>818

何回も入植しているんだよ。
近畿の鉄器生産遺跡は卑弥呼の頃にいったん廃れている。
鉄は福岡と熊本に集中する。
邪馬台国と狗奴国だな。
4世紀になり、九州や朝鮮半島から畿内への入植が再び本格化した。
0827日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 12:03:30.33
>>795
最古の採掘、精製跡なら伊勢や吉野だけどな。
だから阿波の国そのものであるオオゲツヒメも、伊勢から阿波へ採掘に出かけた一族が居た事の証拠だったしな。
空海はその事知ってしまったので紀伊半島に聖地を求めたのさ。
0828日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 12:03:37.27
>>824
纏向に生活の痕跡はないから民百姓なんて住んでない
0829日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 12:04:25.23
>>825

畿内の神社は3世紀、4世紀頃の九州からの入植によるものだからね。
それ以前の畿内の銅鐸文化は消滅して、銅鐸は破棄された。
畿内大和は筑紫から運ばれた八咫の鏡を神宝として今日まで伊勢神宮に祭っている。
0830日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 12:04:42.36
>>781

福岡には特産物がないから何かを輸出して半島から鉄素材を輸入する中継貿易
初期ヤマト王権と博多が結びついた3世紀が博多湾貿易
糸島の盗品交易時代は終わった
0831日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 12:05:18.70
>>826
何も根拠がないから妄想だね
0832日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 12:05:36.19
>>826
淡路島と近江の湖東に大規模な鉄工房があるのに?
それに近江の鉄工房の一族は直ぐに信貴山辺り大県に移動している。
0838日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 12:07:57.82
>>829
そんな遺跡が何処にあるんだよ?
0839日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 12:10:00.65
>>836

年代比定が曖昧だろ?
まあそもそも数十年の精度で推定することが無理なんだろうけど。
0841日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 12:10:49.35
>>804

斬首ではなくて首狩り、頭顔面ど変形の風習が甕棺墓
甕棺墓はカリマンタンなど島嶼部由来で、ベトナム中部のサーフィン文化が鉄器、前漢鏡を副葬する
歴史的被差別地域の朝鮮半島南西部には6世紀まで残る
0842日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 12:12:25.12
>>837
支石墓のない対馬から出雲→近畿に来た
0843日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 12:13:04.16
纒向遺跡の建築

日本書紀をみると、王宮では崇神天皇が天照大神(あまてらすおおみかみ)の御霊代(みたましろ)を祭っていた。
天皇は御殿で「同床共殿(どうしょうきょうでん)」の祭祀(さいし)を行っていたが、神の霊威(れいい)を恐れて、宮内の大庭にホコラを建てて、大神(おおみかみ)のご神体である宝鏡をお納めした(神宮雑例集)。
これが建物Cである。
それでもまだ恐れ多いので、垂仁天皇の時代に伊勢に社を造り、宝鏡をお移しした。
それが伊勢神宮であり、建物Cの復元形態は神宮の正殿と極めてよく似ている。
神明造(しんめいづくり)の形が倉庫と近いのは、王宮における建物Cが宝庫だったことによるのである。

建物Dは正面の柱間数が偶数の四間であることが大きい特徴である。
出雲大社本殿も正面柱間数が偶数の二間である。偶数柱間だと正面中央に柱が来るから、王宮や寺社は奇数柱間が常識である。
だから偶数柱間の建物Dと出雲大社本殿は著しい類似性を持つといえる。
出雲大社本殿の建設は、古事記垂仁天皇の条に記述がある。皇子(おうじ)が出雲の大神のたたりで言葉を発しなかったが、大神に祈ったところ皇子が治癒した。
そこで大神のために天皇の御殿に似せて出雲大社を造ったというのである。建物の性格としても、両者はともに外から拝礼するのではなく、内部で祭りごとを行うので、偶数柱間で差し支えないのである。

纒向遺跡の建物Cは伊勢神宮の直接の起源であり、建物Dは出雲大社と関連が深いことがお分かりいただけただろうか。

黒田龍二

結論: 纒向遺跡は崇神天皇の磯城瑞籬宮。
本殿と拝殿の間の中庭に八咫鏡を納めていた倉があるのが特徴。
全体を囲む柵が瑞籬。
0845日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 12:13:45.47
>>840
ごっちゃにして誤魔化すのやめて
纏向遺跡と住吉大社は関係ないから
0848日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 12:15:01.95
>>834
ほら、また証拠が出せなくて逃げる
やっぱり九州説は妄想でした
0849日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 12:15:09.73
>>824

畿内は北部九州のように朝鮮半島からの移住が少ないから
鉄器入手の窓口が限られ、管理されていた
0851日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 12:15:42.79
>>847
>年代前倒し

だという証拠は?
九州説はデマばかり
0852日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 12:16:18.44
私どもが行った現代日本人頭骨の分析から見ても、近畿人、特に畿内人は目立って朝鮮の集団に近いという意味で『特殊な日本人』ともいえる
(埴原和郎・国際日本文化研究センター名誉教授)

畿内古代人は韓国朝鮮現代人に類似する畿内現代人と同じグループに属している
(池田次郎・京都大学名誉教授)

大阪を中心とする近畿地方の人たちは、百済地方の人たちと匹敵するほど頭の形が丸い
(欠田早苗・兵庫医科大学名誉教授)

関西人には細い目をした髭の薄いのっぺり顔が多いが、沖縄の人は眉や髭が濃く、ぱっちりした二重まぶたの人が多い
(中橋孝博・九州大学大学院教授)

熊本は古来より北からの流れと南からの流れが見事に交錯してきた美人の産地
(松下孝幸・土井ヶ浜人類学ミュージアム館長)
0855日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 12:17:12.10
>>850
知らねえ
平安時代か鎌倉時代かそんなもんじゃないか?
0858日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 12:18:07.10
>>854
捏造は全国の神社だよ
0859日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 12:18:56.56
>>857
だったら遺跡で証明しろよ
0860日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 12:19:12.93
まーだやってらっしゃるのか





卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)





ハイ終了

解散!
0861日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 12:20:30.88
纏向遺跡は、神社建築の成立を解き明かす重要な遺跡なんだよ。
邪馬台国は関係ない。
0863日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 12:21:05.00
>>860
高尾山古墳には神社があったらしいな
明らかに後の時代だろうけど
0864日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 12:22:39.37
>>862
だから纏向遺跡と住吉大社をごっちゃにするなと言ってるだろ
纏向は王宮だろう
0865日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 12:23:46.95
>>856

神社は倭人=大和民族が住む本州の信仰文化だから
馬韓伝にある大木を立てる蘇塗が糸島平原や吉野ヶ里の信仰文化
0866日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 12:25:30.46
纏向は殯宮今でいう葬儀場
0867日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 12:25:33.03
>>861
それは否定しない
後の神社な
0868日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 12:27:12.32
式内社が多い國 式内社 名神大社(座数)

1 大和 286 50
2 伊勢 253 4
3 出雲 187 2
4 近江 155 13
5 但馬 131 14
6 越前 126 2
7 山城 122 29
8 尾張 121 8
9 河内 113 9
10 陸奥 100 15
11 伊豆 92 5
12 摂津 75 18
13 丹波 71 5
14 丹後 65 6
15 遠江 62 2
16 和泉 54 1
17 阿波 50 3
17 播磨 50 7
17 因幡 50 1
20 信濃 48 7
0869日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 12:27:26.69
九州の式内社 名神大社(座数)

筑前 19 16
筑後 4 2
豊前 6 3
豊後 6 なし
肥前 4 1
肥後 4 1
日向 4 なし
大隈 5 なし
薩摩 2 なし
壱岐 24 6
対馬 29 6
0870日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 12:48:41.32
>>826
嘘こけ
0871日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 12:54:17.87
>>798
>採掘している

妄想だけ。   @阿波
0872日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 12:57:04.46
>>800
>そんな事は国王が許さない

アホか! 下っ端が到着を一大率に報告すれば済む話だ。 馬鹿か!   @阿波
0873日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 12:59:42.24
>>827
>最古の採掘は、「阿波」だけ。   @阿波
0874日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 13:04:31.50
>>872
一大率の仕事はパシリで済まされる仕事ではない、阿呆か

傳送文書賜遺之物詣女王 不得差錯
0876日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 13:05:32.90
>>800
伊都国に港は無い。 港の「末盧国」から東南陸行500里の内陸だ。   @阿波
0877日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 13:08:28.72
>>874
>一大率の仕事はパシリで済まされる仕事ではない、阿呆か

アホか! 下っ端の報告を受けてから「末盧国(福津周辺)」に出向けばよい話。 馬鹿か!   @阿波
0878日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 13:09:27.93
>>875

越前でも陸奥でも伊豆でも遠江でも多い
高麗盗人の島だけが極端に少ない
朝鮮統治時代に日本が半島に作った数くらいしかない
0880日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 13:14:02.68
九州は神仏習合が畿内より早かったのだよ
0883日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 13:28:53.07
>>882
分離していないんじゃなくて王宮だろ
神社なんか存在しない
0884伊太乃に居たの ◆oRNQXnZmlfa1
垢版 |
2023/01/22(日) 13:29:16.88
>>873
若杉山の辰砂採掘遺跡が残されたのは、
採掘した跡が残っているのは古墳時代初期に採掘しなくなり、
坑道がそのままにされていたから。

それ以上の理由は無い、鉱脈が再発見され、
採掘が再開したのは明治以降、

1000年以上忘れられていた理由はなんなんだろうね。
0886日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 13:34:21.43
物部神道はユダヤ
0887日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 13:37:10.08
伊勢遺跡や纏向遺跡は神社の形態
依って神社は当時から存在した・・・ ねえよ
0888伊太乃に居たの ◆oRNQXnZmlfa1
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2023/01/22(日) 13:43:39.97
神社建築が確立したのは仏教伝来後の話でしょう、
それまでは御神体の山や石、湖なんかを拝む遥拝所みたいなのが有ったかどうか。
0889日本@名無史さん
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2023/01/22(日) 13:56:57.50
我々大和民族は農耕民族なので、
自然災害が多い日本列島では自然が一番の脅威であり恵みでもある
だから神(自然神)に祈り、豊作を祝う
0890日本@名無史さん
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2023/01/22(日) 13:59:14.16
池上曽根遺跡に石器の祠っぽいのがあるな
万物に神が宿るみたいな信仰があったのか
岩や大木だけでなく、銅鐸を崇めたり石器を崇めたりしてたら面白い
0891日本@名無史さん
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2023/01/22(日) 14:04:03.58
>>890
神道を全否定してるんじゃないから
ただ弥生時代から人だか神様だかを祀ってたてのが疑わしい
0892日本@名無史さん
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2023/01/22(日) 14:04:48.53
銅鐸を祭る文化は滅んだ。
筑紫の銅鏡文化に取って代わられた。
0893日本@名無史さん
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2023/01/22(日) 14:06:21.61
>>887

伊勢遺跡は神奈月に各地の首長が集まって祭りをしたもの。
あそこは出雲の文化圏だからな。
0896日本@名無史さん
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2023/01/22(日) 14:11:24.68
>>888

仏教伝来で確立したのは寺院の伽藍建築。
塔と回廊が特徴。
瓦や礎石を使うようになる。
纏向遺跡はどちらもないが、様式としては神社そのもの。
0897日本@名無史さん
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2023/01/22(日) 14:12:28.61
だから纏向遺跡は卑弥呼の鬼道ではなく崇神天皇の神道。
0898日本@名無史さん
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2023/01/22(日) 14:12:48.67
糸魚川の神社では奴奈川姫てのを祀っててこの人を翡翠の女神に仕立て上げようとしている
何故なら糸魚川が翡翠の産地だという事を最近まで知らんかったから
伝承なんてそんなもんだ
0899日本@名無史さん
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2023/01/22(日) 14:14:29.12
>>891
>ただ弥生時代から人だか神様だかを祀ってたてのが疑わしい

じゃあ、縄文時代後期の「円形配石遺構」はなんなんだ? 

人だか神様だか自然だかを祀ってたんじゃないのか?   @阿波
0900日本@名無史さん
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2023/01/22(日) 14:18:26.66
>>899
自然だかを祀ってたんだろう
でも自然を人に見立てることなんてできる?
御座敷いて太陽に向かって跪いてその太陽を人に見立てられる?
0901日本@名無史さん
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2023/01/22(日) 14:22:43.37
>>897
>だから纏向遺跡は卑弥呼の鬼道ではなく崇神天皇の神道。

その論理じゃ、崇神天皇の神道だと証明しないと
卑弥呼の鬼道であるという主張を否定できないよ
0904日本@名無史さん
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2023/01/22(日) 14:28:20.34
纒向遺跡の建築

日本書紀をみると、王宮では崇神天皇が天照大神(あまてらすおおみかみ)の御霊代(みたましろ)を祭っていた。
天皇は御殿で「同床共殿(どうしょうきょうでん)」の祭祀(さいし)を行っていたが、神の霊威(れいい)を恐れて、宮内の大庭にホコラを建てて、大神(おおみかみ)のご神体である宝鏡をお納めした(神宮雑例集)。
これが建物Cである。
それでもまだ恐れ多いので、垂仁天皇の時代に伊勢に社を造り、宝鏡をお移しした。
それが伊勢神宮であり、建物Cの復元形態は神宮の正殿と極めてよく似ている。
神明造(しんめいづくり)の形が倉庫と近いのは、王宮における建物Cが宝庫だったことによるのである。

建物Dは正面の柱間数が偶数の四間であることが大きい特徴である。
出雲大社本殿も正面柱間数が偶数の二間である。偶数柱間だと正面中央に柱が来るから、王宮や寺社は奇数柱間が常識である。
だから偶数柱間の建物Dと出雲大社本殿は著しい類似性を持つといえる。
出雲大社本殿の建設は、古事記垂仁天皇の条に記述がある。皇子(おうじ)が出雲の大神のたたりで言葉を発しなかったが、大神に祈ったところ皇子が治癒した。
そこで大神のために天皇の御殿に似せて出雲大社を造ったというのである。建物の性格としても、両者はともに外から拝礼するのではなく、内部で祭りごとを行うので、偶数柱間で差し支えないのである。

纒向遺跡の建物Cは伊勢神宮の直接の起源であり、建物Dは出雲大社と関連が深いことがお分かりいただけただろうか。

黒田龍二

結論: 纒向遺跡は崇神天皇の磯城瑞籬宮。
本殿と拝殿の間の中庭に八咫鏡を納めていた倉があるのが特徴。
全体を囲む柵が瑞籬。
0905日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 14:29:47.32
纏向遺跡が崇神天皇の磯城瑞籬宮だとわかると、遠くの溝もあわせて纏向遺跡と呼ぶのは不適切だとわかる。
近くには景行天皇の纒向日代宮など他の宮もあったはずであり、それらと範囲が被るからである。
周囲に住居跡が少ないこととあわせて考えると、用水路で区画された田畑の間に王宮が点在していたのだろう。
王宮といっても平屋の高床建物なので、風景としては昭和の頃の奈良盆地とたいしてかわらぬ様子だったろう。
突如として出現した大都市など、畿内説の夢の中の物語に過ぎない。
0906日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 14:32:51.93
畿内説は崇神天皇や景行天皇などの日本の歴史を捨てて、どこへ行こうとしているのか。
0907日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 14:33:10.60
立派な神社は権威付け
逆に神社で太陽を祀るのもおかしいでしょ
外に出て来いよって話しで
0908日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 14:33:21.90
三世紀半ばから畿内の奈良盆地周辺に神獣鏡の出土が増えるのは間違いないんだからな。
鬼道は三国志に記述があるように初期の道教。黄巾の乱位はさすがに知っているだろ。

卑弥呼が黄幡を授かるのは、我々が正義だ的な意味合いで、これは狗奴国側も意味を知っている事にもなる。
黒塚古墳にある謎の鉄器はこの黄幡だと言われている。
0909日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 14:36:10.70
日本は言霊やまじないの国だと思うけどね
占いオタクと物信仰の鉄ちゃんの国

氏神信仰はその地の支配者の祖先を崇める風習を作り民を統治するシステムだろう
兵が溢れて留まったところに神社を作ったりしたんじゃないか
物部の地が藤原氏の荘園になり藤原氏の氏神を祀る神社ができるとかも同じやね
0910日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 14:36:45.27
神仙思想の宮だと回りに住居が多数あると逆におかしいんだからな。

河をずっと遡った先にある神仙の宮、丹山が背後にあり、辺りに桃が沢山なら正に巻向なんてピッタリなんだからな。
0911日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 14:39:37.49
>>903
掘っ立て柱小屋は、神明造。   @阿波
0912日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 14:46:13.45
>>910

神道の神社だって本来はそうだよ。
道教である根拠にはならない。
王宮の周りが騒がしくていいはずはない。
筑紫の王宮が奴国から伊都国に移動したのも同じ理由だろう。
0914日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 14:53:46.89
伊都の高祖宮は彦火火出見の宮だが、クシフル峯を背にして糸島平野を見下ろしている。
つまり人々は日の出の方向に向かって参拝することになる。

神武(またの名を彦火火出見)曰く、我々は天神の子だから、太陽に向かって戦ってはいけない。太陽を背にするべきだ。

この配置は三輪山も同じ。
参拝者は東に向かって遥拝する。
大和は筑紫から持ち込まれた神道により成り立っている。
ちなみに現在の天皇の宮中祭祀は東にあたる鹿島香取に向かって遥拝する。
0915日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 14:55:18.06
>>913
棟のある掘っ立て柱小屋には棟持柱が必要。   @阿波
0916日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 14:56:47.33
収租賦有邸閣國國有市交易有無使大倭監之 
これが棟持ち柱の建物でしょう 
0917日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 15:01:14.48
>>910

その神仙思想は神道そのもの。
崇神天皇が磯城纏向に宮を立てたのは物部氏の家系だからだが、物部氏がそこに居着いたのは大和川の川上だからだ。
ちなみに記紀だと九州の権力者は揃って川上にいた。
その代表が川上タケルこと熊襲タケル。
肥前国一宮の與止日女神社は、元の名を河上神社といった。
川を遡ったところにある宮というのも筑紫からの伝統そのもの。
最も古くは、那珂川の川上の吉武高木遺跡まで遡る。
言うまでもなく、最初の三種の神器がある遺跡だ。
纏向遺跡は明確にその伝統の上にある神道の影響が見られる。
纏向遺跡を囲う塀は、神社の様式にある瑞垣そのもの。
まあ、崇神天皇の磯城瑞垣宮だから、当然なんだが。
0918日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 15:02:59.46
>>915

纏向遺跡でも、建物Bや建物Dには棟持柱はない。
明らかにCのみが八咫の鏡のための建物なんだよ。
あれは崇神天皇の宮であり、神道の建物。
0919日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 15:07:25.42
まあ、纏向遺跡に瑞垣があることも、纏向遺跡が崇神天皇の磯城瑞垣宮だという根拠になるのかな。
0920日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 15:16:30.01
棟持ち柱建物はそんなに珍しくなくて関東にもあるし倉庫でしょう
0921日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 15:17:20.66
>>918
>纏向遺跡でも、建物Bや建物Dには棟持柱はない。

棟のない方丈屋根だったんだろう。   @阿波
0923日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 15:17:58.94
>>919
ならないな
0928日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 15:32:20.45
済州島、五島列島は橘の自生地域
0930日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 15:40:54.53
>>926
>まともな反論できない畿内説はオワコン

まともか否かの判断を誰がしてんのw
0931日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 15:45:20.29
>>929
当然、持衰ルートの話。
0932日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 15:54:01.37
>>931

済州島は、頭剃りくり下半身丸出しど短小の州胡がブタを飼っていたところ
馬韓の南だが西と書かれている
0933日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 15:59:25.77
ブタ、イノシシ、シカは日本にいた?
日本狼もいた時代
0934日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 16:02:46.22
『肥前国風土記』には、五島の海士は「容貌、隼人に似て、常に騎射を好み、
その言語は俗人に異なれり」と記されている
0935日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 16:06:01.59
弥生輸入ブタは塩基解析により九州・四国の西日本西部地域に限られている
0938日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 16:15:30.96
言語的にどうであろう?
東海と九州は言語が通じたのだろうか?
0939日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 16:41:49.97
>>931
37 其行來 渡海 詣中國 恒使一人 不梳頭 不去蟻蝨 衣服垢汚 不食肉 不近婦人 如喪人
38 名之 為持衰 若行者吉善 共顧 其生口 財物 若有疾病 遭暴害 便欲殺 之謂 其持衰不謹

持衰の話と言うのは、倭人船が単に海峡とか帯方郡ではなく
詣中國、つまり皇帝への朝貢という話、であるなら、

147(8)年の
73 壹與 遣倭大夫 率善中郎將 掖邪拘 等二十人 送政等還 因詣臺
74 獻上 男女生口三十人 貢 白珠五千孔 青大句珠二枚 異文雑錦二十匹
以外には、無いと思うが?

魏志の138年の難升米以下は、帯方郡への朝貢で、
魏船で洛陽へ上がったと思うが

57年と107年の2回は洛陽に上ったのだろうか?
生口100人献上とか無理っぽいけどな?
0941日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 17:00:26.42
要するに纒向説は超妄想
0942日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 17:00:56.27
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)





久 努 国 ( く の の く に )





久 努 国 ( く の の く に )





馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
0944日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 17:02:54.34
>>922
当り前です。

16 南至 邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月

女王の王宮は、投馬国=弁辰韓から水行十日で上陸。
さらに、陸行一月=2千里の歩行で到達しています。

この里程の合計は、陳寿の計算によって、

247年の張政の九州上陸迄の里程、水行1万里と
伊都迄の五百里を含む陸行一月の2千里の合計で

22 自郡 至 女王國 萬二千餘里

と記録されました。 これが倭人伝です。
王宮は、九州上陸から2千里の陸行です。
0945日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 17:23:51.60
卑弥呼の墓は、数か月以内で作られている。
古墳ではない。 墓域に古墳時代が訪れたのであって
印象的には、筑紫の君の古墳の下に卑弥呼の墓は有る。

あるいは、糸島北岸の丘陵、志賀島の金印の地。
絶対王権によって、盗掘に会わない、塚では有り得ない。

絶対王権による古墳は記紀成立で
金石墓誌の焚書だろwww

卑弥呼の墓が、記紀の箸墓だと良かったか?
そういうもんは韓国朝鮮以外じゃ、学問、真実とは言わんよ?

まあ、職業学者と語ってるとも思ってないがw
0946日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 17:44:32.87
卑弥呼の墓の発見が絶対条件
なら、絶対見つからない、論争の為の論争煽りだ。

卑弥呼の墓は、多くい盛土=塚でも、古墳ではない。
大王墓古墳は皇室の祖先で良いんだけど
卑弥呼には、墓を守る子孫が居ないのである。

糸島は卑弥呼の領域で、墓を糸島北岸にと言うのは渡来人ロマン。
帳政は、博多湾岸の伊都迄の500里で卑弥呼の墓を見た。

なら、卑弥呼の墓は糸島ダネ。
247年の張政が、卑弥呼の墓を見ないで
径百歩って、目視の単位はありえない。

好立地なら城や神社や古墳になってる。
文献では、九州上陸から2千里が宮城。

敵国になる九州北岸から2千里の
筑紫平野の南限に、卑弥呼の王宮は在った。
0947日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 17:50:26.45
>>944
不彌国かな?
万二千餘理由
周旋5千里と合う
0948日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 17:50:37.77
>>917
三世紀末以降巻向周辺の古墳から出土例が増える三角縁神獣鏡が神道の物といいたいのか?
それはかなりおかしいと思うけどね。
0949日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 17:52:50.33
>>948
那珂八にも出土だよな。
どうなんだろう?
0950日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 17:55:21.32
>>946
邪馬台国の位置の絶対条件は七万戸が可能かどうかだよ。
墓を邪馬台国に造ったと書かれた訳ではないからな。
それと卑弥呼が用いた鬼道に相応しい宮があるかどうか。
まあ結局邪馬台国は畿内しかない。
0951日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 17:57:13.19
>>949
そもそも鏡作神社の所在地は奈良の田原本にあり鍵唐古の近く、つまり百襲媛出生地の直ぐ近所だからな。
0952日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 17:58:32.75
>>950
>まあ結局邪馬台国は畿内しかない。

まあ結局、そもそも論として、畿内は、「倭地温暖・植生」でアウト! 不適合!   @阿波
0954日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 17:59:18.07
>>950
ただの願望乙
0955日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 18:01:15.52
>>948
歴史の話だがw
古代の土器編的に
時系列が無意味なんだけど

古墳時代が終わらないと・・・
じゃなくて、記紀は日本の古代史を
無価値、宗教化で、混乱させる道具だよ。

いまだに半島併合忖度とか?
日本の学者って、救いようないね。

歴史を忘れた民族には、
何か が無い。 
何だっけ?
0956日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 18:01:55.67
箸墓の特筆すべきはやはりあの巨大なサイズだからな。
三世紀末にあれが造れるのは大人数が必要なのは明白で七万戸の証拠でしかない。
巻向周辺における鬼道=初期道教の浸透といい、もうどう足掻いても畿内説で確定です。
0958日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 18:04:07.10
>>956
>もうどう足掻いても畿内説で確定です。

もうどう足掻いても、そもそも論として、畿内は、「倭地温暖・植生」でアウト! 不適合!   @阿波
0959日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 18:04:23.80
>>956
妄想乙
0960日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 18:06:39.76
>>955
何言ってるのか意味不明だぞ?
三角縁神獣鏡の出土が三世紀末から奈良盆地南部から出土例が増えるのは事実でしかない。
神獣鏡自体も三世紀初頭から増え始め、中国における初期道教の台頭と歩調を合わせているだろう。
0962日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 18:09:31.00
日本国は、倭国の別種なり。
0963日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 18:09:45.78
>>961
心配スンナ。
そもそも論として、九州も、「倭地温暖・植生」でアウトだ! 不適合!   @阿波
0964日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 18:11:51.64
阿波は馬鹿だからあぼーん設定に限る
0965日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 18:17:11.37
>>964
どうぞどうぞ。  わははははは   @阿波
0966日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 18:18:17.62
>>964
そう言いながら、気になってチラ見かよ。  わははははは   @阿波
0970日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 18:24:26.56
>>960

3世紀初と3世紀末では全然事情が違うだろ。
卑弥呼が亡くなってから何年経っているんだよ。
そんなの根拠になるかよ。
0971日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 18:28:48.70
>>967
>平原遺跡

というより、平原墳墓だな。  めぼしいのは1号墳だけ。   @阿波
0972日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 18:40:54.99
>>970
根拠になるだろ、画文帯神獣鏡が三世紀初頭から半ばにかけて畿内方面から出土がはじまり、
恐らくそれを基に国産されたであろう、三角縁神獣鏡が三世紀末位から出土しだすのだから。
実際にそれら神獣鏡が用いられたのはちょうど卑弥呼の活動時期に被る。
0975日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 18:50:02.64
那珂八幡古墳が220年とすると
200年前後かな?
0976日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 18:50:47.18
>>973
なんでこんな周溝墓にこだわるのか理解できない。   @阿波
0979日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 19:16:31.54
>>978
卑弥呼の墓は国府町矢野の八倉姫神社の奥の山にある。   @阿波
0980日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 19:29:08.25
>>975
続き
千葉にも神門5号墳
3世紀中葉の前方後円墳もあるな。
0982日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 20:00:02.92
>>981
矢野杉尾明神は神山に在り相傳へて【天岩門別八倉比売祠と為すも疑わし】阿和志云接するに【八倉比売社は名東郡の一宮なり】寛延の勧進帳序に見えたり先輩の説も然り扨此社は郡中の大社なれば郡第一たる社の内にて一宮といひしならん此 【矢野村杉尾社は大御和神社なるべし】さるは杉は三輪神の因由なり。
0984日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 20:06:13.51
>>981
式内小社大御和神社がいつの間にか式内大社天岩門別八倉比売神を勝手に名乗るようになったと書かれておるようやな。
0985日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 20:15:56.42
古墳は東日本に2世紀からある
そこで開発された前方後方墳の後継が前方後円墳だ
0986日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 20:31:42.58
>>974
その倭種があんな大規模な古墳群を造れるのかw
だとすれば九州の倭人ショボすぎだぞ。
0988◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2023/01/22(日) 20:35:21.30
新スレ立てました。
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1674383568/50
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*本スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
0989日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 20:36:09.31
>>983
今はその個説の真偽はさておき、いずれにせよ、矢野周辺に女王がいたようだな。  わははははは   @阿波
0990日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 20:38:26.94
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125






.
0992日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 20:50:41.03
>>991
>墓や神社が偽物かもしれないのに

その個説に偽物などとどこにも書かれていない。 

いずれにせよ、矢野周辺に女王がいたようだな。  わははははは   @阿波
0993日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 20:52:12.01
>>991
>墓や神社が偽物かもしれないのに

その個説に偽物などとどこにも書かれていない。 神社の位置に疑問を抱いているだけのこと。 

いずれにせよ、矢野周辺に女王がいたようだな。  わははははは   @阿波
0994伊太乃に居たの ◆oRNQXnZmlfa1
垢版 |
2023/01/22(日) 21:05:59.67
今の大御和神社の元社が今の八倉比売神社、

鎌倉時代に神職の家が乗っとられて由緒や祭神がわからなくなっていた阿波一宮天石門別八倉比賣神社の由緒をしれっと簒奪したのが今の八倉比売神社。

八倉比売神社を無批判で受け入れるのは、
歴史なんかどうでも良いええ加減な人。
0996日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 21:17:32.56
>>991
>墓や神社が偽物かもしれないのに

その個説に偽物などとどこにも書かれていない。 神社の位置に疑問を抱いているだけのこと。 

いずれにせよ、矢野周辺に女王がいたようだな。  わははははは   @阿波
0997日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 21:18:06.04
>>984
その通りです。では現在、大御和を名乗っている神社は何だったかと言うと
べっbz
0998日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 21:20:18.46
弁財天の十五童子の筆頭。印鑰童子を祀る印鑰大明神でした。
0999日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 21:21:44.78
>>997
>墓や神社が偽物かもしれないのに

その個説に偽物などとどこにも書かれていない。 神社の位置に疑問を抱いているだけのこと。 

いずれにせよ、矢野周辺に女王がいたようだな。  わははははは   @阿波
1000日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/22(日) 21:24:30.39
1000なら徳島商工会議所青年部の「邪馬台国は阿波だった!?」プロジェクト終了。
10011001
垢版 |
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