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邪馬台国畿内説 Part857
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2023/01/30(月) 22:45:54.94
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4~6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1674903134/l50

◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にありえない。
0002◆n7jxAxKCBhb6
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2023/01/30(月) 22:47:05.54
◆1(女王所都)
 奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)

 現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に配置された大型建物等(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。庄内3式期のSD-2001、庄内3〜布留0式期のSM-1001,SD-1007が建物BとDをそれぞれ破壊し、建物Fが庄内2式期のSX-1001埋没後築造なので建物群の存続期間は庄内2〜3の中に絞り込まれた。
 居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。

 この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。

 箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある。
 乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。

 この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。
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2023/01/30(月) 22:47:36.93
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
 前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
 また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。

 血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
 つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。

 纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
 築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。

 この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。

 その始発点が、a.元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から、b.或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。
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2023/01/30(月) 22:48:15.67
◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
 その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
 このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
 箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
 換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ。
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである

 また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前の情報が窺知できる。

 乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
 女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。

 紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。
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2023/01/30(月) 22:48:46.48
◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
 纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
 同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。

 威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
 しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
 代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。

 共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他なるまい。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
 それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。

 定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
 もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
 後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
 この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。

 初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。
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2023/01/30(月) 22:49:17.22
◆5(倭国の形成と気候変動)
 1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
 2に、河内と吉備の交流の深さ
 この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
 共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
 これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。

 2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
 この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
 寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
 弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。

※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
 クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。
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2023/01/30(月) 22:49:49.25
◆6(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
 これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
 これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
 先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。

 析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
 後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。

 やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
 分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
(本項 続く)
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2023/01/30(月) 22:50:21.69
(承前)
◆6−2
 方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
 二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。

 この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。

 高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。

 巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。

 ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
 一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。

 この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
 このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。
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2023/01/30(月) 22:51:00.19
◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
 3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
 北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相~布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FAQ43参照)
 つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240~248年が位置すると考えられる。

 庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。

 上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
 逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
 外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。

 1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
 2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
 これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。

 北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。

 その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
 糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。

 この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。
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2023/01/30(月) 22:51:43.84
◆8(結語)
 日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
 原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
 原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。

 その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
 前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。

 博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。

 遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
 この現象は、寒冷化に起因する列島での社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
 この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。

 土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末~3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
 そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。
0011◆n7jxAxKCBhb6
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2023/01/30(月) 22:52:17.15
◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
 寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf

◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」


◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)

○弥生時代後期
  1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
  2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃 
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
  3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
  4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
  4世紀第4四半期〜5世紀中頃
   (古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)

※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
 庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
 同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
 庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
 IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
 IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III  ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山                  
  IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III    ●箸墓、権現山51号
  IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V  ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
                           浦間茶臼山、西求女塚
  IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
                           メスリ山、行灯山、祇園山
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2023/01/30(月) 22:52:58.88
◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!

A:九州は倭国の一部なので問題ない。
 郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
 逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。
壹岐一国では観察されたが首都で観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
 畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
 水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。

 北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
 また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
 倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。

◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
  魏使は九州を出ていないではないか!

A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
   「泝(+固有名詞川名)が7回
 倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
 倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
 以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。
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2023/01/30(月) 22:53:31.47
◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!

A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
 「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。

 以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
 三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。
また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。

 筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。

 実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
 このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く)
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2023/01/30(月) 22:54:06.82
(承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
 遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
 予章郡:雒陽南二千七百里  南海郡:雒陽南七千一百里
 蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
 交趾郡:雒陽南萬一千里
 (雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)

 倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
 以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。

 また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。
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2023/01/30(月) 22:54:40.39
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!

A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
 纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
 また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。

 畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
 また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
 中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇田と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。

◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!

A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
 佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)

 小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
 対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
 ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。

 むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
 このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。


◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?

A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。
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2023/01/30(月) 22:55:16.00
◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
  纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?

A:そのような事実はなく、当然交流があった。
 畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
 このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)


◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?

A:読み替えない。
 行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
 これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
 古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。


◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
  女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
  女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?

A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
 これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
 中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
 倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
 いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
 王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。
0017◆n7jxAxKCBhb6
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2023/01/30(月) 22:55:47.36
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
  年代が判るという考古学者はおかしいではないか!

A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
 陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。

 封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
 しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。


◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
  それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?

A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
 後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
 使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。
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2023/01/30(月) 22:56:20.42
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
  畿内説は倭人伝と合わないのではないか?

A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
 福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
 弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
 以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、
実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。

 当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと


 3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。

 倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
 倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
 当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。

 なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
記紀においてもヤリとホコの区別が無いことは、天日槍を知らぬ者を除き常識である。
 加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
 の指摘は今日も有効である。
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2023/01/30(月) 22:56:52.90
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
  古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!

A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なる概念である。よって否定材料にならない。

呂覧に「題湊之室棺槨数襲、積石積炭以環其外」と見える如く、古代中国人の耳目には竪穴式石室の側壁或いは現代考古学に言う礫槨・木炭槨の類は室外を環る地中構造物と認識される。そして棺槨は室内に重ねられるのである。
石を槨の表、黄腸を裏とする鄭玄註は、題湊が木槨壁面に接合する時期を経た塼室墓時代の意識として整合性がある。

 現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
 古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。

 現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて韓地経由の楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響ではあるものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状である。
就中、ホケノ山は床板が無く、石室構築のための仮設の板壁を石室完成後に撤去した木蓋石室墓とする復元案(真鍋2018)も有之、古代中国人が認識する木槨とは程遠い。
これを槨と称するならば、北部九州に多い箱式石棺も歴然と槨である。

 畿内で一般的な墓は木棺直葬の方形周溝墓で「有棺無槨」に適合している。


◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?

A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能である。

 伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
 糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
 このような状況下で、畿出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。
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2023/01/30(月) 22:57:25.71
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!

A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
 宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。

 一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと推定できる。
 他に、使用痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄など、遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧とがある。

 鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後~古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後~古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後~古墳初)など。

 纒向での鉄利用状況については、遺跡建設当初の庄内0期遺物から鉄器による加工痕が認められる。
 纒向大溝建築材実測図 https://i.imgur.com/EPtpzEw.png 矢板列支柱(左)に角の明瞭な貫穴、矢板(右)に鱗状手斧痕。倶に鉄器による加工の特徴を示す。
 纒向遺跡メクリ地区に「大型の鉄製品を砥ぐという行為が行われていたのは間違いがな」いとされている大量の砥石があり、廃棄時期は3世紀前半~中頃、最も古いものは「庄内2式期の可能性」(『纒向遺跡発掘調査報告書2』桜井市教委2009)とされる。
 大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析では、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
 と結論されている。

 弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。事実、鉄製品の腐食に最も影響力の強い硫化物が海成粘土層が畿内中枢部の深層に分布している。
 また併せて、纒向遺跡で脱炭鋼を製造していた布留0期の鍛冶遺構に於て鉃滓は共伴するが成品が発見されない状況は、官製工房的な管理の強化・貫徹を想定するに足る。
古墳時代に入ると「鉄器が普及したと同時に、首長層へ鉄器が集中した」(橋口2002)
という視点に立てば、首長級墳墓への集中と生活遺
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2023/01/30(月) 22:58:02.06
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
  九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!

A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。


◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!

A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
 また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
 よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
 このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。


◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!

A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
 万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
 したがって測定は存在しない。

 また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
 「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
  則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。
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2023/01/30(月) 22:58:33.59
◆FAQ 19
Q:釜山~対馬あるいは対馬~壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
  これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!

A:1~2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。

 新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山~佐須奈間は34海里(=63km)である。
 江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
 まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。

 逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。


◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5~1/6
  これで説明が付く!

A:そのような整合性は認められない。
 考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
 対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)

 信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
 郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。

 九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。
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2023/01/30(月) 22:59:05.00
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
  箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!

A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
 箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
 このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。

 中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国出土(李家山59号墓)青銅製容器蓋装飾の騎馬像に鋳出された脚親指に装着する革鐙が報告(菅谷1994)されている。
郡県内では湖南省西晋墓(長沙金盆嶺第21号)の陶俑に描かれた片鐙(永寧2,西暦302年埋葬)が紀年の明かな最古発見例であるが、これと同時期或いは遡るとされる類似の発見例が数あり、中国の複数の調査者が木芯包革式鐙の存在を3世紀中葉まで遡ると考えている。
現物は西晋末〜東晋初(四世紀第1四半期末から第2四半期頃)の河南省・遼寧省出土例まで降る。

 湖南省西晋墓陶俑図 https://i.imgur.com/oM4NXR6.png

 三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
 西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度に鐙が一般的存在であったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で上図タイプ1の国産模倣品現物が出ることに不合理はない。
0024◆n7jxAxKCBhb6
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2023/01/30(月) 22:59:36.72
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240~260年と発表した! これは信用ならない!
  同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380~550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
 もう一個が1σ西暦110~245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
 つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。

 考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
 炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。

 逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
 これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018)この桃核12測定例の平均値をIntcal20で歴年代較正して次に掲げる。
https://i.imgur.com/VKIld2Q.png
 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、
そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。
0025◆n7jxAxKCBhb6
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2023/01/30(月) 23:00:17.62
◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!

A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
 また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
 基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
 よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。

箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築 
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。

 1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
 2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
 スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
 隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png

 前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。

 方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く)
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2023/01/30(月) 23:00:53.14
(承前)
◆FAQ 23−2

◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。

◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
 ・ 森将軍塚   :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
 ・ 前橋王山古墳 :上毛 ・ 持塚二号墳  :上総
 ・ 高千穂七号墳 :上総 ・ 山伏作一号墳 :上総
 ・ 長沖八号墳  :武蔵 ・ 温井一五号墳 :能登
 ・ 見手山一号墳 :但馬 ・ 西穂波16号墳 :東伯 
 ・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
 ・ 高鼻二号墳  :伯耆 ・ 日拝塚古墳  :筑前
 ・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
 ・ 朝日谷2号墳 :伊予ー布留0古(梅木1998)
◯朝日谷2号で後円部上に棺設置後、覆土と同時に前方部の盛土開始が判明していること
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等


◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!

A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
 黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
 両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
 古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、

 このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
0027◆n7jxAxKCBhb6
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2023/01/30(月) 23:01:31.67
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!

A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。

 旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
 
 後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
 このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。


◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
  ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!

A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
 統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。

 遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。

 さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。
なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
 ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
 古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。
0028◆n7jxAxKCBhb6
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2023/01/30(月) 23:02:04.05
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!

A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
 ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。


◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
  卑弥呼の墓があるのは九州だ!

A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
 また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。

 参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
 日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。

 墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。


◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!

A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
 高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
 九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
 一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
 九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。

「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
 正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。

 以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があった。
 九州説にとって不利な条件と言える。
0029◆n7jxAxKCBhb6
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2023/01/30(月) 23:02:36.38
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
  箸墓の築造と時間差があるだろう!

A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
 隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
 以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。

 なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
 また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
 このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
 解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀彧)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。

 なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。
0030◆n7jxAxKCBhb6
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2023/01/30(月) 23:03:11.55
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?

A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
 考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
 もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
 氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。

 弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
   https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
 また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
 これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。

 優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
 吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
 弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核には、この地域を想定するのが妥当である。

 畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
 これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。
0031◆n7jxAxKCBhb6
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2023/01/30(月) 23:03:46.17
◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?

A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
 3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。

 これが部分的利用に留まる所以である。


◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある!
  海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!

A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。

 「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
 「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国
0032◆n7jxAxKCBhb6
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2023/01/30(月) 23:04:18.70
◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
  伊都国は隆盛のさなかである!

A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半~弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
 原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
 副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。

 当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
 国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。
それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
 残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
 大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)

 後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
 平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
 いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。

 後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
 このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。

 以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。
0033◆n7jxAxKCBhb6
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2023/01/30(月) 23:04:50.74
◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!

A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
 ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。

 以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
 ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)

 一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
 それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
 国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。

 弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
 同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。

※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。
0034◆n7jxAxKCBhb6
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2023/01/30(月) 23:05:30.60
◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!

A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
 博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)

 文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
 また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
 吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。

 なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
 那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。

 伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。


◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
  纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!

A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
 外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
 これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。

 ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
 古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
 ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。
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2023/01/30(月) 23:06:04.47
◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
  仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!

A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
 意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
 金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。(FAQ79参照)

 古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
 この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。

「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
 とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
 纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
 霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。

 大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
 にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、
弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
 侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
 新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。
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2023/01/30(月) 23:06:36.22
◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
  邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?

A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。

 女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。


◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
  九州でいいではないか!

A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
  http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
 福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
 ◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。

 会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
 沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
 東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
 このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。

 捜神記や太平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。
太平広記はその書名が示すとおり太平興国年間に編纂された類書であり、当該箇所は東晋代成立の捜神記から採録している。則ち太平興国の時点で原テキストに東越閩中の所司が「東治都尉」とあったことが判明する。
東越閩中に置かれた都尉の治は東候官に他ならず、三国志等の版本が成立した北宋太平興国の修史活動期における編集従事者の認識が窺知される。

 倭人伝中の「会稽東治」については、中華書局が既に「東冶」と校訂しているが、丁謙・盧弼らの考證に先立ち、成都書局が同治10年に殿本を校訂して「東冶」に改めている。跋文に四川総督呉棠、四川学政翰林院編集夏⼦鐊ら同治年間の人士の名が見える。
https://i.imgur.com/E6TFLyl.png
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2023/01/30(月) 23:07:01.95
◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
  九州には古くから三種の神器がある!
  大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?

A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
 出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
 また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
 記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)

 畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。

 弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
 平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
 これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。

 この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。
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2023/01/30(月) 23:07:46.24
◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
  新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!

A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
 弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。

 申敬澈は慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
 定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。

 申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
 良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。
これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
 参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。

 嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
 このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。
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2023/01/30(月) 23:08:16.55
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
  炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
  確かな根拠などないだろう!

A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
 1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
 また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。

その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である

以上から
 1B II型式新段階(2世紀末~3世紀前葉:塼室墓最盛期、遼東系)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期、非遼東系)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行(高久2009)する。
凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。

 楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
 また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
 よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。

以上述べた楽浪の対外活動に列島における楽浪土器の出土量を対応させ(◆7参照)
 活発期:2世紀末~239A.D.:久住IA期
 衰退期:塼室墓から遼東系が消え魏へ定期職貢あり:240〜247A.D.:久住IB期
 残存期:魏へ定期職貢途絶から最終朝貢記録まで:248〜266A.D.:久住IIA期
 途絶期:日本列島から楽浪土器消失:267A.D.〜:久住IIB期
の目安が得られる。
 三国鏡の雲紋編年において魏景元四年(263)銘鏡に一致するのが三角縁201番鏡(唐草文帯群、岸本V期)であることとも整合性が良い。
0040◆n7jxAxKCBhb6
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2023/01/30(月) 23:08:47.21
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
  国産に決まっている!

A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
 史料上で抹殺された年号は珍しくない。
 このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。

 中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
 この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
 最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。

 この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。

 景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。
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2023/01/30(月) 23:09:21.45
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?

A:◆1で略述したとおりである。
 ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
 箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
 その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
 倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
 ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
 同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
 文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。

 また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
 その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。


◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
  これが魏晋鏡だろう?

A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
 2世紀の鏡である。

 内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
  内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
 という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
 蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。

 この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
  A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
 2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
 雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。
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2023/01/30(月) 23:10:00.31
◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
  2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?

A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。

 魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
 これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。

 少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)

 倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。


◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
  考古学的に確認されているのか?

A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。

 桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。

 広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
 このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。
0043◆n7jxAxKCBhb6
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2023/01/30(月) 23:10:46.49
◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?

A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
 今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
 また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
 魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
  「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
 さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。

 固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
 また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。


◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
  どこにでもありそうだ。

A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
 画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
 纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
 単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。
0044◆n7jxAxKCBhb6
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2023/01/30(月) 23:11:16.77
◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
  壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!

A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
 灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
 郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
 壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。

 弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
 日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
 卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無い。
壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
 ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。

 五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
  新方・森之宮(摂津)
  雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
  唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
 ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。
0045◆n7jxAxKCBhb6
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2023/01/30(月) 23:11:47.46
◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?

A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
 奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
 巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。


◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?

A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。

 刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
 秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
 この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。
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2023/01/30(月) 23:12:21.79
◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
  以北ってことは女王国も含むんだぞ!

A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
   (三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
   (三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
   (同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。


◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
  狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!

A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
    山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
    海中の島国がカンボジアと「接」

 狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。
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2023/01/30(月) 23:13:00.82
◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!

A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。

「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
 殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
  ※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
  ※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。

「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有增損。
 太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
  ※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
  ※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
  ※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
  ※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
   昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
   当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
  ※百世に亘って代々を想定
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2023/01/30(月) 23:13:31.19
◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
  必然性がない!

A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
 法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことが明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。

 加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。

 畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。
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2023/01/30(月) 23:14:01.42
◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!

A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)

「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
 参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。

「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
 より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
 備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。

 また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
 以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。

 さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
 また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。

 以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。
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2023/01/30(月) 23:14:32.96
◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
  の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!

A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。

また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。


◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
  「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
  所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!

A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。

(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
     北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
    南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
    東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
    西與犂「革偏に于」・條支接。
    行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
    …東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
    …東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
                (漢書西域)
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2023/01/30(月) 23:15:11.20
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
  これは実測したとしか考えられない!
  誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!

A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。

 戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
 或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
(「長安城方六十里、 經緯各十五里、十二城門、積九百七十三頃、百二十亭」漢旧儀)

 また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
              (後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)

 さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。

 このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。
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2023/01/30(月) 23:15:43.18
◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!

A:定説に従う。

 金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
 帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。

 二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。

 以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。

 楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
 

◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!

A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。

◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
  径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!

A:基礎知識の誤りである。
  現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する

ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通)
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2023/01/30(月) 23:16:17.92
◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
  倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!

A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
 殷商:約16cm
 西周:約20cm
 戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
 後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
 南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
 先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
 後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。

 また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
 ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。

《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
——————————MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く)
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2023/01/30(月) 23:16:49.32
(承前)
◆FAQ 65−2
 『禮記』王制には
 「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
  古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
  古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」

とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。

 ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。

 この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎——黄鐘律管が容積・重量の基準——になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。


 秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
  古者周尺 17.3cm
  今周尺  21.0cm
  秦漢尺  23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。
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2023/01/30(月) 23:17:21.87
◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
  本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!

A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。

 当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
 乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。

 なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。


◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
  なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
  倭人伝にある方位に間違いはないのだ!

A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
 東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。

 ・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
 ・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
 ・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。

 ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png

 因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
 地名が実際の地勢と著しく異なる。
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2023/01/30(月) 23:17:57.41
◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
  奈良県の三角縁はもっと新しい!

A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。

 ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
 しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。

 箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。


◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!  
  このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
  魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
  護軍将軍である淵の任地は都である!

A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
 上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
 淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。

 長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
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2023/01/30(月) 23:18:26.91
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
  乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
  襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!

A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
 魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
 銭大昕・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。

 襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。


◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!

A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。

 中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
 魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。

 当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
 を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。
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2023/01/30(月) 23:18:57.18
◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
 「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
  畿内は「東征」を受けた毛人だ!

A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
  「服」は他動詞として使う。
  「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。

 「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。


◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
  これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!

A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
 「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
 『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png

 能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。
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2023/01/30(月) 23:19:31.36
◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
  大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!

A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。

 大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
 畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。

 庄内大和型甕と庄内河内型甕は、庄内 I 段階に大和川河口地域に成立した初期庄内甕(庄内式古相)から分化して、庄内 II 段階に至り倶に確立した。胎土・製作技法・形態により識別されるのみならず、分布域も明瞭に区分可能である。

 生駒西麓型とも呼ばれる庄内河内型甕は、中河内地域で圧倒的なシェアを占める一方で、摂津・和泉並びに大和盆地では低シェアという、極めて特徴的な偏在を示す。
これが、中河内地域の排他性を意味しないことは、中河内地域主要遺跡の持つハブ港的性格を鑑みれば明瞭である。事実、吉備の文化は中河内を経由地として纏向に極めて濃厚に転移している。


◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
  畿内説は皇国史観の徒である!

A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。

 遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
 複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。
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2023/01/30(月) 23:20:02.97
◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
  最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
  8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
  古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!

A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
本Qに見られるような直線的進歩史観で歴史が理解できないことは言うまでもない。

 古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。

 弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。


◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
 前方後円墳体制など、夢想だ!

A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。

 萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
 当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。

 奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。
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2023/01/30(月) 23:20:31.78
◆FAQ 78-1
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
  里数が書いてないではないか!
  つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
  投馬国は南九州でよいのだ!

A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。

 『九章算術』巻第六「均輸」に
 「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
 甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。

 これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」
「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。

 また、「今有甲發長安、五日至齊、乙發齊、七日至長安。今乙發已先二日、甲乃發長安。問、幾何日相逢?」の出題では
「術曰、幷五日・七日以爲法。以乙先發二日減七日、餘、以乘甲日數爲實。實如法得一日」と解く。
これを劉徽が註して「『減七日』者、言甲乙倶發。今以發爲始發之端、於本道里則餘分也」とする。
 即ち、長安〜齊の里数は当然等しいが、乙が2日先発しており、甲の出発時には「道里」に猶ほ「餘分」がある。そこで7日から先行した2日を減ずる計算をしている。
 明らかに「道里」が日数表記されている実例である。

 ここでは同じ固定区間が甲にとっての道里五日、乙にとっての道里七日である。甲の出発時に乙は先行した道里二日を七より減じた乙の道里七日のうち五日が未消化な「余分」である。つまり七五三十五の最小公倍数を法(分母)とすれば三十五分の二十五である。従って、改めて甲乙が同時に出発したと考えれば五と七の和十二分の二十五、即ち二日と十二分の一後に甲乙が出会う。
 この計算には里数が一切登場せず、日数のみで道里を計算していることが明らかである。

 本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。
(本項 続く)
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2023/01/30(月) 23:21:01.46
◆FAQ 78-2

(承前)
三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
 旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
 其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
 不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
 逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」

とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝でも、各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。

 もとより倭人伝は倭人の国々を
  1)自女王国以北、其戸数道里可得略載、
  2)其余国遠絶、不可得詳
と截然と二分類しており、「自女王国以北」と「其余」で悉皆である。
戸数・到達所用日数・官の情報が既知である投馬国を「遠絶ゆえに不可得詳」のグループに配することは極めて不合理であり、投馬国については戸数と道里が略載されている。

倭人伝に於て投馬国が「女王国以北」と認識されていること明瞭である。
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2023/01/30(月) 23:21:32.46
◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
  ただの倉庫だろう?

A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)

 建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
 建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
 建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。

 強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。


◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
 「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
  魏志に邪馬臺と書かれていたのではない! 
  ただ当時の風説を書いたのだ!

A:初歩的な誤りである。
 子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
 子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
 動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。

 助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
 よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。
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2023/01/30(月) 23:22:14.70
◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
  だから邪馬台国は畿内ではない!

A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
 後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。

 三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。

 魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。

 三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
https://i.imgur.com/XIb0RqF.png

◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
  このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!

A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。

 「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。

 三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
 黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。

 このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。
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2023/01/30(月) 23:22:46.34
◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
  鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!

A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。

●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。

●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
 大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君冝高官」「保子冝孫」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。

 国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君冝高官至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。

 両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
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2023/01/30(月) 23:23:20.33
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
  古墳とは違うのだ!

A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
 但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。

 孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。

 類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。

 魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。


◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!

A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。

 K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものであろう。
 庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭頃の実年代が与えられている。
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2023/01/30(月) 23:23:57.64
◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
  日本の古墳は平坦で、高くない!
  卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!

A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
  驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png
https://i.imgur.com/EyIx7C7.png


◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
  「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
  特鋳説の根拠にはならない!

A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量であり、市中から発丘獲得物を含む雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しい。

 全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
 この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
 このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
 また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。

 銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。
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2023/01/30(月) 23:24:31.48
◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!

A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
 中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。

 また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。

 江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
 参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
 https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。

 このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。


◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
   3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!

A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。

 下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
 この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。

 夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
https://i.imgur.com/EXTU3lu.png
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2023/01/30(月) 23:25:11.70
◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
  短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!

A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。

「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步、高六丈六尺」(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
 明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
 ※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
 ※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
「帝王世紀曰。(洛陽)城東西六里十一歩、南北九里一百歩」
「晋元康地道記曰。城内南北九里七十歩、東西六里十歩」(後漢書劉昭注)
 ※晋元康年間:291〜299
「洛陽十二門、南北九里」(太平寰宇記所引陸機『洛陽記』)
 ※陸機(261〜303)」呉陸遜孫、晋入朝289
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
 ※「皇覽」(魏文勅撰)


◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
   10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!

A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。

 実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。
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2023/01/30(月) 23:25:42.91
◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
  周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!

A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。

 六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。

『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。

 また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。

 八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
 よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。


◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!

A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。

 北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
 西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
 南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
 東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
 ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
改新詔における畿内国の定義が畿内第V様式圏に酷似する事実の指摘(濱田2014)は注目に値しよう。
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2023/01/30(月) 23:26:25.82
◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
  畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!

A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。

 IB期に庄内系(庄内2〜3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
https://i.imgur.com/zJCqyag.png
https://i.imgur.com/KTMQyfU.png
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。

 畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。


◆FAQ 95
Q:森井貞雄によれば西暦258の年輪年代が与えられた二口かみあれた遺跡が庄内3だ!
  布留0の箸墓が3世紀中頃である筈がない!

A:布留0の実年代を西暦260〜280頃とする寺澤の見解(橿考研2002)と齟齬がない。

ただし森井が二口かみあれたを庄内3併行と判断したという点について出典がない。
森井は青龍三年(西暦235)銘鏡を出土した大田南5号墳の「庄内3」あるいは「布留0」併行を弥生終末期の終わりの一つの定点(森井1999)としており、本Qは本人の著述と齟齬があって疑わしい。

科学年代西暦258をVI-3様式期(布留0古相)の年代観と対照する森岡(2014)。
上記年輪年代(光谷1995)が古墳時代初頭・布留0併行の暦年代を提出したとする河合(石川埋文2000)。
これらと突合すると、光谷の上記暦年代データは箸墓の築造年代を3世紀後半初とする見解と整合性がある。
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2023/01/30(月) 23:26:58.85
◆FAQ 96
Q:「銅出徐州」というが銅山があるのは呉領だった徐州南部のみ!
  彭城銅山県は名ばかりの存在で漢書・後漢書に銅山のあった記録もない!

A:彭城銅山県(現・徐州市銅山区)は北宋の元豊年間に宝豊監が置かれ鋳銭が行われていた。宋銭「元豊通宝」の鉛同位体比は三角縁神獣鏡に酷似している。
のち廃坑となり地名のみが今に残る。
 これと別に、隣接する利国には鉄冶を主する監が置かれていた。

 呉の領有した徐州南部とはもと揚州の属であった広陵郡南端の極めて限られた地域のみで、徐州の殆どは魏領である。
漢書地理志広陵国・続漢書軍国志広陵郡とも鉄を産することを記すのみで銅山があった記録がないことは彭城と同じである。


◆FAQ 97
Q:纒向は蛙を食う貧困な寒村だ!

A:西漢は皇帝の宗廟に羊・兎・食用蛙を供えるのが常であった。
  東漢にあっても普通に食用であった。
  「羔、菟、鼃所以供祭也」霍光伝師古注
  「鄭司農注云蟈蝦蟇、玄謂蟈今御所食蛙也」周礼両鄭注
 纒向土壙祭祀において今人が高級食材とする鯛・鴨・桃などと並んで神饌とされることに不自然はない。


◆FAQ 98
Q:纒向は古墳築造のための施設であって都などではない!

A:合理的な理由がない。
 纒向の建設は庄内0式段階で運河掘削が開始する。
 一方、90m級にまで巨大化して弥生墳丘墓の域を超えた墳丘墓の築造は庄内2式段階に開始する。
よって遺跡内への搬入土器が広域に亘る特異性発現、運河掘削ともに、大型墳丘墓築造開始より1世代を超えて先行しており、因果関係が認め難い。
また辻地区の大型建物は3式段階には廃絶しており、箸中山古墳の築造開始に先行する。
よって此の因果関係も求め難い。

 纒向型土壙祭祀の開始も大型墳丘墓築造に先行する。その祭祀内容には葬送儀礼との関係が窺えず、寧ろニヒナメヲスクニや鎮火祭といった服属儀礼や鎮護国家的行事との関連性が指摘されている。
導水施設における祭祀も池上曽根や伊勢遺跡に先行事例が求められ、墳墓との関連がうかがえない。ことに木樋を用いた祭祀は首長居館周辺で執行される特異な祭祀として後世に残っている。

以上より、纒向は祭祀に特化した特異な大遺跡であるが古墳祭祀には特化しておらず、古墳造営とのみ結びつけるのは不合理である。
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2023/01/30(月) 23:27:31.73
◆FAQ 99
Q:ホケノ山古墳の年代は古木効果の影響を受けない小枝資料の炭素年代によるべきだ!
  4世紀後半だ!

A:後代の混入物として除外する通説が正しい。
 墓室内に落下していた丸底坩と加飾壺は、他古墳での類例を鑑み、墳頂に囲繞配列されていた祭祀用土器と見るのが妥当と思われる。明らかに混入物である小枝資料は天井崩落時のコンタミであろう。
 ラジオカーボンによる暦年代の較正に当たっては古墳寒冷期に対応する炭素14濃度の乱高下を考慮する必要がある。3世紀末にかけて大幅な炭素14濃度の上昇が観察される。また4世紀後半にはラジオカーボンの崩壊速度に見合う濃度上昇があり、これが撹乱要因となって較正曲線によって絞り込める暦年代が拡散している。
 Intcal20から見た炭素14濃度は西暦270年頃をボトムとして大きく上昇しており、布留1古相のyBP値が新相のそれより高く出る実態と合致している。また、同時代資料と見られる小枝の確率密度分布ピークが一方は4世紀中葉後半、他方が4世紀末から5世紀初頭の値を示すことも、気候変動による撹乱要因が深刻であることを読み取れる。逆に270年頃のピークは両資料とも適切に合致しており、より信頼度が高い。ここから、天井崩落の時期を布留0末から布留1初頭と推察する。
 周濠底のS字甕Aの年代(庄内3)に属する多数の測定例と整合している。
https://i.imgur.com/nHtnTXO.png


◆FAQ 100
Q:会稽東治は蘇州だ! いや上海だ! 長江河口近辺だ いや淮河より北だ!

A:卑弥呼が通交した時代の会稽郡は現在の浙江省および福建省、単独で「会稽」と言えば常に現・紹興市越城区にあった会稽郡治「会稽山陰」を指す。
 「越王句踐、其先禹之苗裔而夏后帝少康之庶子也。
  封於會稽、以奉守禹之祀」(史記越王句踐世家)
 「禹周行天下、還歸大越、登茅山以朝四方羣臣、封有功爵有德。崩而葬焉。
  至少康、恐禹迹宗廟祭祀之絶、乃封其庶子於越、號曰無餘。」(吳越春秋)
 「會稽郡山陰、會稽山在南,上有禹冢」(後漢志郡国四)
✳︎茅山:会稽山の別称
 秦の王翦が楚を滅した時、楚に併合されていた呉越を分離して会稽郡とした。
 会稽郡治が現・蘇州市にった時期、当地は呉本国、呉県と呼ばれ、会稽は依然会稽山麓に所在す。
 以降変転を経て順帝永建四年(199A.D.)に呉郡を分割し、以降の会稽郡治は会稽山陰である。
「会稽東治」が呉郡や徐州に存在しないことは明らかである。

「東冶」は『捜神記』や『太平広記』並びに書陵部蔵三国志 南宋刊「紹熙」本に登場し、すべて越が楚に滅された後の越族の都となった閩越(卑弥呼朝貢当時の「東侯官治」)を指している。
(参考:FAQ40)
0074◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2023/01/30(月) 23:28:02.63
◆FAQ 101
Q:纒向の大型建物Dというのは東西二間しか見つかってないではないか!
  四間x四間に復元して大型大型というのはインチキだ!

A:「本来の建物規模は調査の状況や建築学的な検討から東西も4間であったと」
 と調査機関は公式発表している。

 事実、東西6・2m、南北19・2mはアンバランスに長大である。一般に偶数柱間の総柱建物は居館の系譜と考えられており、このような形態は異例であろう。
 建物Bと建物Cの間隔は建物Cの東西二間に等しく計画的に設計されている。
 建物Dで発見された柱列西端から建物Bまでの間隔は建物Dの東西四間に等しい。
 また建物Dと南柵列との間隔は建物Dの南北一間(束柱をカウントすれば南北二間)である。
 全体が規則的・計画的な配置であることを考慮すれば、総柱建物が正方形を志向する傾向も鑑み、建物CとDの間隔も建物Dの東西二間に等しく復元することは合理的である。つまり建物Dを東西四間、南北四間とした復元は合理的かつ妥当である。
 建物Dを破壊している溝SX-1001、建物Cを破壊している溝SX-1002ともに底の僅かな深さしか残存しておらず、両建物のあった地表面への削平が深かったことが窺知される。

大型建物群配置図 https://i.imgur.com/4W4mle2.png
同空撮 https://i.imgur.com/A1eBwbR.png
建物B空撮 https://i.imgur.com/HytoKvD.png
Dより西を望む https://i.imgur.com/LB1oG3k.png

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0075◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2023/01/30(月) 23:28:32.91
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
 荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】なし
0076日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/30(月) 23:49:17.57
テンプレ

中文が読めない
反論は出来ない
中傷と妨害しか出来ない
対話が出来ないコミュ障の特徴丸出しで安価不使用のつぶやき連発
口に出す悪口は自分に一番に該当
当然ながら何事にも証拠は絶対に出さず、出せと言われると逆ギレしてワメき出す
行き詰ると脳内幻覚に現れる九州王朝説と戦いだす
これ、畿内説盲信者の特徴
0080日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 00:01:54.62
関西の反日有害活動九州王朝説を迷惑だと考えてるのは九州の九州説
0085日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 00:18:20.53
九州の九州説というのは、もう日本の学術研究成果を許容することが難しくなってしまった、
頭部も寂しくなってしまった夢見る後期高齢者
関西の反日有害活動九州王朝説のように日本の学者を罵ったりはしない(一部を除いて)
0086日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 00:22:53.79
>>邪靡堆者 古邪馬臺也とは書いてないな
>>しかも随分と後世の文献であり中国では信憑性>>の無い史書と言われている ?

でさらに新しい旧唐書、唐書の文献を書く
九州説であった
0087日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 00:28:26.59
>>86
旧唐書には
古邪馬臺也の記述はない。
57年の倭王の事だな。
0088日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 00:39:02.74
57年のは倭王ではなくて(後漢末期に女王が共立された)倭国の一番南にあった倭奴国
0089日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 02:58:38.78
>>88
後漢末期に女王が共立されたとかの記述はない
0090日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 02:59:31.42
>>88
後漢末期に女王が共立されたとかの記述はない
0091日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 03:37:53.53
魏志倭人伝には畿内の事は何一つ記載されていない、
なので畿内説はただの絵空事である。
0093日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 05:12:14.71
邪馬台国は近畿である
ト骨、出真珠青玉 其山有丹、絹
鏡出土、卑奴母離がない
一大卒もない、なんら中央としての記述がない
水行30日陸1月の遠方の女王の都であって
女王国の都でも中心国でもない。
共立されて九州へ行ったのである。
共立されたのは卑弥呼であって
邪馬台国ではない。
0094日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 05:34:47.26
>>93

卑弥呼共立は2世紀、纏向遺跡は3世紀だから時代が合わない
0095日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 05:38:39.85
>>94
201年は何世紀?
0096日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 05:42:24.48
>>91
それ、循環論法な
0097日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 05:43:30.63
纏向も2世紀末から4世紀前半にかけての遺跡である。
0098日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 05:43:52.92
>>95

霊帝の在位期間は?
0099日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 05:45:11.67
>>98
先ずは、自分で調べて書けよ
0100日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 05:47:02.37
201年は何世紀?
0101日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 05:50:41.92
卑弥呼共立は桓帝と霊帝の在位期間(西暦147年から189年)の間
0102日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 05:56:53.62
>>101
2世紀末だな。近畿説
纏向もひとつに過ぎない。
滋賀、丹後、兵庫、京都、三重等と
遺跡が点在する。可7万戸の
範囲広い、官4名いる。
0103日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 06:01:29.65
>>102
倭種の国から倭国王を共立するとは考えられない
0104日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 06:03:06.18
>>103
倭国だから共立すると考えられる
0105日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 06:29:56.35
九州説は阿保過ぎ
北部九州或いは九州のみで
翡翠とか真珠、青玉、丹があるのか?
痕跡や遺跡あるのかな?
0106日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 07:08:11.64
思考まで簡単に破綻する畿内説w
0107日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 07:14:31.99
>>105
まあ、近畿説ですが
女王国の範囲は広いと思う
糸魚川周辺もあるだろうな。
富山にも絹が出土。
東千里餘里の倭種は遠州、関東あたり
0108日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 07:20:04.89
>>107
遠州、関東という理由は?
0109日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 07:22:51.24
>>108
ト骨出土、鉄の出土
入れ墨の土偶等で倭種だよ。
0110日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 07:23:27.37
>>107
狗奴国は?
0111日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 07:25:42.71
>>110
邪馬台国は近畿ですが
卑弥呼が共立で九州だから
熊本あたりだよ。
0112日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 07:32:33.67
倭国大乱で多くの首長が死んでしまい、そんな中
民衆をまとめる事が出来るのが卑弥呼だったそうだ

畿内説は卑弥呼の晩年から墓が多く造られた事になり
主張してる事が逆なんだよ
0114日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 07:36:56.29
>>112
要する九州説は間違いて事
0115日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 07:43:03.46
>>114
邪馬台国には立派な建物があり
お宝が豊富という願望定義が先行しているかも?
0117日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 08:06:50.93
祇園山古墳が高良大社の麓にあることは、ほとんどの本州人は知らないので、困ったことですね(大和説の陰謀?!^^)。

まず、魏志倭人伝「女王国(九州)東渡海千里複有国皆倭種(本州)。又有侏儒国(四国)在其南、去女王(之所都)四千里」で、九州で決まり。
さらに「(女王国)其南有狗奴国(長官・狗古智卑狗=菊池彦)」ですから、邪馬台国七万戸は、菊地平野の北に隣接する筑紫平野しかないですね。

そして3世紀中頃の築造で、殉葬者66人(差し違え2体を含む)が確認されている王墓は祇園山古墳しかなく、その尾根上にある筑紫国一之宮・高良大社で決まりです(おめでとうございます)!

ちなみに「不弥国から南水行二十日で投馬国に至る。さらに南水行十日陸行一月で邪馬台国に至る」は、「その道里を計るに、まさに会計東冶(帯方郡から12,000里)之東(沖縄と台湾の中間)にあるべし」と結論するために、陳寿が中国大陸側の行程を倭国に転用した方便(嘘)とすると、投馬国五万戸(宮崎都万)も九州内に収まりますよ。

また、高良大社は7世紀・飛鳥時代の倭王・阿毎多利思比孤(@理由もなく噴煙を吹き上げる阿蘇山に祈祷)が、卑弥呼の王宮跡地に建ててあげた新同盟国・高句麗の大使館だとすると、麓の祇園山古墳の周囲には、須恵器が出土する高句麗系の集団墓地があることの説明が付きますよ。

なんだか双六の「ふりだしに戻る」みたいで呆気ないものですね( *´艸`)
0118日本@名無史さん
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2023/01/31(火) 08:09:48.19
>>112
>畿内説は卑弥呼の晩年から墓が多く造られた事になり

主張してる事が意味不明よ
0119日本@名無史さん
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2023/01/31(火) 08:10:56.11
多くの民衆に支持された卑弥呼だから
墓も多くの民衆の墓に囲まれてるだろうね
今のところ祇園山古墳しかないね
0120日本@名無史さん
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2023/01/31(火) 08:12:50.07
>>117
祇園山古墳と、(卑弥呼を「親魏倭王」に叙した明帝曹叡の祖父・曹操高陵と同じ金銀錯嵌珠龍文鉄鏡が出土した)日田市ダンワラ古墳は、GoogleMapで見ると東西一直線(太陽の道)に並ぶ

卑弥呼の鏡「可能性高い」大分・日田で出土の鉄鏡 〜中国・曹操高陵の発掘責任者が見解〜

「三国志の英雄」として知られる曹操(155〜220年)の墓「曹操高陵」を発掘調査を担当した中国・河南省文物考古研究院の潘偉斌(ハン・イヒン)氏が、大分県日田市のダンワラ古墳出土と伝わる国重要文化財「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡(きんぎんさくがんしゅりゅうもんてっきょう)」を、邪馬台国の女王・卑弥呼がもらった「銅鏡百枚」の一枚である可能性が高いとする見解を明らかにした。
卑弥呼がもらった鏡は、邪馬台国の謎を解明する重要な鍵とされており、今回の指摘は邪馬台国論争に一石を投じそうだ。
ダンワラ古墳の鉄鏡は直径21.1cm。鉄の鏡体の背面に金や銀を埋め込む象眼「金銀錯」が施され、朱色のうるしで彩色した珠がはめ込まれている。手足の長い龍のような怪獣が多数描かれ、銘文は「長=。孫」(欠落部分の■は「子」と推測される)の四文字が刻んである。九州国立博物館が管理している。

潘氏は、九州国立博物館でダンワラ古墳出土鉄鏡を確認した上で「金錯や銀錯が施される鏡は王宮関係に限られる。この鏡は国宝級の貴重なものであり、公式なルートで日本に伝わったと考えられる」と述べた。

「魏志倭人伝」は、景初3(239)年に卑弥呼の使いが魏の皇帝から「銅鏡百枚」を下賜されたと記している。ダンワラ古墳の鏡は鉄製だが、潘氏は「倭人伝が『銅鏡』と表現したのは、鏡の大多数が銅鏡だったためだろう。その中に「親魏倭王」卑弥呼専用に鉄鏡1枚が含まれていたとしても不自然ではない」と解説した。
「魏の側からすれば、▶最高品質の鉄鏡◀を贈ることで、倭に工業技術の高さを示そうとしたのだろう」と推測する。

潘氏は、「三国志展」のため来日し、九州大学、東京国立博物館、九州国立博物館の研究者らとともに、ダンワラ古墳出土鉄鏡と、曹操墓出土鉄鏡の共通点などを議論した。
2つの鉄鏡は直径が21cmと同一で、曹操高陵の鉄鏡もX線調査の結果、金錯が確認できた。研究者らは「いずれも2〜3世紀の中国において皇帝クラス最高級に位置付けられる貴重な鏡である」という見方で一致した。
0121日本@名無史さん
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2023/01/31(火) 08:14:57.57
>>117
>>119

「卑弥呼以死 大作冢 径百歩」〜卑弥呼は直径(円墳)百歩(140m)の冢を大いに作(るを以)って死んだ〜 のカラクリ

@265年、曹魏から禅譲を受け、280年、ついに呉を平定し中国を再統一。天下に再び平和と繁栄をもたらした西晋の功績を後世に書き残すための正史「三国志」を編集中、30年前の魏使の報告書「径百尺(25m)」を見た陳寿は、当時の倭国はすでに古墳時代に突入し、王墓だけはやたらと長大という情報を、官僚だけに読み知っていた。
A(膨大な餓死者を出しておきながら黄巾の乱を放置した後漢皇帝たちの厚葬に呆れた)曹操の薄葬に従ったのだろう卑弥呼でも、「径百尺(25m)」の墓ではいくらなんでも小さすぎる。地方豪族級の小さい墓しか作れない倭王に明帝曹叡が親魏倭王の金印を授けるはずがない。
Bおそらく「径百歩」の誤りであろう。ついでに「以+【大】作冢」と補足しておこう。

こうして陳寿は仕方なく、形状◎(直径=円墳)や数値「百」はそのままに、単位「尺(25cm)→歩(1.4m)」だけ刷り替えた。
(もし誰かが気付いたとしても誤記と言い逃れればよい。少なくとも倭国にわざわざ渡海してまで確かめようとする者ももはやいまいw)

そして時は流れ、1740年後の日本…
当然のことながら、祇園山古墳(九州説)も箸墓(大和説)も「径百歩」に該当せず、短里だ長里だ、南だ東だと、果てしない水掛け論が継続中w

もしも箸墓(全長280m)が卑弥呼の冢だったら…
→魏使は「卑弥呼以死 作【大冢】 『長』二百歩」と記録→陳寿は魏志倭人伝にそのまま転載(×不正解)
もしも祇園山古墳(直径25m)が卑弥呼の冢だったら…
→魏使は「卑弥呼以死 作冢 径百尺」と記録→陳寿は「卑弥呼以死 【大作】冢 径百【歩】」と盛る→魏志倭人伝(○正解)

祇園山古墳は上方下円墳で、天(上)から見ると方格規矩(四神相応)鏡そのもの。鏡マニアの倭王に相応しい。

「殉葬者奴婢百人」は、曹魏の薄葬に従いつつも、死後の孤独に怯えた卑弥呼の面従背腹であろう。
面白いのでそのまま転載しようw(陳寿、心の声)
0122日本@名無史さん
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2023/01/31(火) 08:15:41.39
>>119
まあ、邪馬台国は近畿て事だな。
冢は九州でも畿内でも構わない。
邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0124日本@名無史さん
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2023/01/31(火) 08:21:13.12
>>120
>>121
近年の考古学の進展により、記紀による比定【伝承・言い伝え】の誤りが続々と明らかになってきた。

伝履中陵(兄)→伝仁徳陵(父)→伝反正陵(弟)の順番がおかしいことは有名だが、決定的なのが西殿塚≠手白香姫♀陵(継体妃。6世紀の人物)であること。
ということは、箸墓≠モモソ姫♀陵も誤りである可能性が高い。

女性♀の墓という記紀による伝承(洗脳)を、そのまま卑弥呼♀の墓という匂わせに悪用しているわけだ。
まとめると、

卑弥呼の冢…祇園山古墳(殉葬66人。うち刺し違え2体を確認)
台与の墓…那珂八幡山古墳2号主体(本殿下の1号主体は父「男弟」)
ニギハヤヒの墓...ホケノ山
神武の墓…箸墓(吉備特殊器台)東征ルート(日向→宇佐→筑紫→安芸→【吉備→大和】)

細かい順不同はともかく、概ね記紀の系譜と築造編年がほぼ合う比定
@箸墓A黒塚B中山大塚C椿山大塚D西殿塚E柳本大塚F桜井茶臼山G東殿塚Hメスリ山H行燈山I渋谷向山
@神武A綏靖B安寧→C懿徳→D孝昭→E孝安→F孝霊→G孝元→H開化→I崇神
0125日本@名無史さん
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2023/01/31(火) 08:22:48.56
大きい墓の無い九州には、大きい権力は無かったんだろう
0126日本@名無史さん
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2023/01/31(火) 08:26:19.66
>>124
弥生時代(吉備楯築墳丘墓・ホケノ山)にも殉葬がないのに、古墳時代(箸墓)になって突然野蛮な殉葬を始めたとする時代錯誤な畿内説!w
0128日本@名無史さん
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2023/01/31(火) 08:31:10.56
>>124
>>126
初期ヤマト王権の大王墓の築造年代を早めて、邪馬台国の遺跡とオレオレ詐欺してるのが畿内説ということだぬw
0130日本@名無史さん
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2023/01/31(火) 08:33:57.63
>>117
>>120
福岡平野(末盧国←伊都国【一大率】→奴国・不弥国)→女王国東渡海千里複有国(本州)皆倭種
 ↑〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜又有侏儒国(四国)在其南、去女王四千里
筑紫平野(卑弥呼・男弟→祇園山・ダンワラ古墳)
 ↓
菊池平野(狗古智卑狗)
熊本平野(卑弥弓呼)

JKの割れ目クッキリ競泳水着みたいにピッタリだ!
0132日本@名無史さん
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2023/01/31(火) 08:35:38.17
>>130
陳寿の蛇足(嘘)…中国大陸沿岸の行程日数を、倭国内の行程日数として描写している(なぜか?↓)
└→「その道里を計るにまさに会稽東冶(帯方郡から12,000里)の東(呉の背後)にあるべし」(と結論付けるため)

帯方郡【女王国(九州)島】〜【女王国東渡海千里複有国(本州)皆倭種】
↓「南水行二十日」〜〜〜〜〜【又有侏儒国(四国)在其南↖去女王(之所都)四千里】
建業【投馬国島】宮崎・都万
↓「南水行十日」〜
東治┌▲奄美大島┐〜
↓〜│邪馬台国島│↓「南陸行一月」580q(≒19q×30日)
東冶│女王之所都│←「その道里を計るに、まさに会稽東冶(呉越国境&12,000里)の東にあるべし=陳寿の嘘」
↓〜│「狗奴国」│〜〜〜
↓〜│其余傍之国│〜〜〜
↓〜│遠絶・不可│〜〜〜
↓〜└─┐得詳┌┘〜〜〜
儋耳朱崖└─幻┘←「所有無與儋耳朱崖同(服装・産物・動物・武器)倭地温暖冬夏食生菜」
南越(ベトナム)
0133日本@名無史さん
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2023/01/31(火) 08:45:14.95
>>117
>>132

ついに「南水行十日陸行一月」の謎が解けたyo!

魏志倭人伝の核心は「計其道里 當在会稽東冶之東(その道里を計るに、まさに会稽東冶の東にあるべし)」の一文。

1.西晋初代・武帝司馬炎は、祖父・司馬懿仲達(秀吉)を後見人に指名してくれた大恩人・曹叡(信長)の、(実は呉より北にいた)卑弥呼を特別待遇してしまった判断ミスを正当化し、呉を滅ぼす先鞭を付けた賢帝に仕立てる必要があった。
→曹魏の帝都・洛陽から見て東南にある孫呉との戦いにおいて、その背後に倭国「女王之所都」があれば、最高の牽制となる。
→孫権の帝都・建業とほぼ同緯度の会稽郡「東治(シ・さんずい)」ではなく、そこから更に約580km南で、帯方郡から12,000里の「東冶(ン・にすい)」の東にあると思わせたい。
2.ところで倭国の気候風俗(服装、産物、動物、武器)は、南越(ベトナム)国境にある儋耳朱崖に似ている。
3.しかし本当の位置も残さなければならない。

そこで陳寿が行った忖度が、女王国(九州)島が、狗邪(伽耶)韓国の南から儋耳朱崖(ベトナム)まで届く、中国大陸をすっぽり包み込む、南北に細長〜い「2つの島」であるように思わせる印象操作。
まず「奴国」を2回使って「女王之所都」が「奴国だよ、奴国だよ」と正解の【奴国1】を暗示(ダチョウ倶楽部「押すなよ、押すなよ」→2回目の念押しがポイント)。
次に、投馬国(宮崎)から南水行十日にある奄美大島を海南島までグィ〜ンと引き伸ばして、女王国島のパラレルワールド「邪馬台国島」を、そこに東治⇔東冶間の「陸行一月」を転用して幻の【奴国2】を創り、「東冶(ン・にすい)」の東に「女王之所都」を合わせた。
同時に倭国に行ったことがある中国知識人には「陸行一日(奴国)」の間違いとすぐに気が付くようにもした(「日」の両端の棒を下に延ばし日+Л→「月」)。
卑弥呼は、漢委奴国王以来の奴国王・帥升「其國本亦以男子為王 住七八十年」の男系女子(孫娘)で、先祖である歴代倭王(死者=鬼)の神託を聞くイタコとして(鬼道政治)、北部九州30カ国から共立された巫女(斎王)。
◆邪馬台国七万戸=奴国二万戸(福岡平野)+(南の狗奴国に狙われた)後背地・筑紫平野五万戸◆
0134日本@名無史さん
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2023/01/31(火) 08:46:07.14
>>119
つまり殉葬者がいないと確定した祇園山は卑弥呼の墓ではない
0135日本@名無史さん
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2023/01/31(火) 08:48:30.77
>>139だが、訂正

✕祇園山→〇箸墓
0136日本@名無史さん
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2023/01/31(火) 08:49:03.24
>>134
祇園山古墳で確定だよ
一般的な殉葬のことでは無いから
卑弥呼の後を追って多くの人が死んでいったんだよ
0137日本@名無史さん
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2023/01/31(火) 08:49:24.24
>>133の模式図だyo!【倭人伝の「東冶≒女王之所都」プロパガンダ】
   ┏━━┓帯方郡  ┏┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
←┐┃黄海┗狗邪韓国┛(伽耶)〜〜〜日本海〜〜
洛陽┃〜〜〜↓↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━━━━━━━━━━━━━━━━
【魏】┃〜対馬▲↓南「水行10日」〜〜〜〜┃「女王国東渡海1,000里 複有国 皆倭種」 
 ↓ ┃「瀚海」↓↓玄界灘〜〜〜〜〜〜〜┗━━━━━━━━━━━┓(出雲・吉備=墳丘祭祀)
   ┃〜壱岐▲↓〜〜〜〜┌南「水行10日」┐関門海峡〜〜〜〜〜▲┃(大和・東海=銅鐸祭祀)
v✖s┃〜〜┏末盧国━━━↑━━━━━┓↓〜〜〜〜┏━━━┓〜┃ 
   ┃〜〜┃伊都国→不弥国▲▲▲▲▲▲↓国東半島┃侏儒国┃〜┗━━━┛
 ↑ ┃〜〜┃▲↘「陸行1日」(正)‗▲▲▲▲↓豊後水道┗━━━┛「在其南 人長3〜4尺(少彦名)
【呉】┃〜〜┃♀【奴国1】女王之所都▲▲┛↙〜〜〜〜〜〜〜〜〜←去女王(之所都)4,000里」
建業┃〜〜┃狗奴国▲▲▲▲投馬国←←┘宮崎平野=南「水行20日」
   ┃〜〜┗━━女王国島━┛↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜
会稽┃〜東シナ海〜┌南「水行10日」〜〜〜〜〜〜〜〜
東治┃〜〜┌─┌←▲奄美大島┐↙陳寿の創作(女王国島のパラレルワールド…幻)
 ↓ ┃〜〜│〜↓「陸行1月」_〜│←「※自女王國以北其戸数道里可得略載」(北部九州30カ国=30日=1ヶ月)
   ┃〜〜│〜↓▲沖縄〜〜〜│〜〜↓「自帯方郡至女王国 12,000里」
東冶┃〜〜│♀【奴国2】(幻).〜│★【(女王之所都)計其道里 當在会稽「東冶」之東】(魏晋のプロパガンダ…嘘)
   ┃〜〜│▲台湾〜〜〜〜〜│〜〜↑「此女王境界所尽 其南有狗奴國 不属女王」
香港┃〜〜└┐〜〜〜〜〜〜〜│←「※其余旁国遠絶(幻)不可得詳」
┏▲海南島〜└邪馬台国島(幻)┘〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
┃↖儋耳朱崖〜〜南シナ海〜〜「所有無與儋耳朱崖同(服装・産物・動物・武器)倭地温暖冬夏食生菜…本当」
┛←南越(ベトナム)〜〜〜〜〜↘▲裸国フィリピン〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜↘▲黒歯国インドネシア▲パプアニューギニア「複在其【奴国2】(幻)東南 船行1年…大げさ」
0138日本@名無史さん
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2023/01/31(火) 08:51:54.92
最近吉野ヶ里で発掘してる集団墓地も卑弥呼の死と同時期かもな
0139日本@名無史さん
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2023/01/31(火) 08:54:26.43
>>137
>裸国フィリピン

週末、東京狛江の強盗殺人の指示役「ルフィ」の件でニュースで見たけど、フィリピンの刑務所ってみんな上半身裸なんだよね。

>黒歯国パプアニューギニア

ウィキによると、
「研究者によっては、インドネシアと関連する国ではないかと考察されており、論拠として、インドネシアではベテルチューイング(日本ではキンマと呼ばれる)という檳榔樹と石灰で作ったガムのようなものを噛む習慣があり、時々赤黒い汁を出しながら話をするとされ、『三国志』の記述にある水路の行程・地理からも指摘される」だって。
0140日本@名無史さん
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2023/01/31(火) 08:54:42.29
>>135
ウソをつく狂人
0141日本@名無史さん
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2023/01/31(火) 08:55:45.90
>>134だが、訂正

✕祇園山→〇箸墓
0142日本@名無史さん
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2023/01/31(火) 08:55:58.78
畿内説は統一狂会の壺だから
0143日本@名無史さん
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2023/01/31(火) 08:56:28.74
>>136
須恵器が出てる
時代が違う
祇園山アウト
0144日本@名無史さん
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2023/01/31(火) 08:57:21.06
>>117
祇園山の須恵器ってそういうことか!
0145日本@名無史さん
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2023/01/31(火) 09:02:12.28
>>117
卑弥呼の魏帝への朝貢目的は、(蜀の牽制として西のインド・クシャーナ朝「親魏大月氏王」同様)呉の牽制として東の「親魏倭王」として、帯方郡が管理していた「伽耶の鉄」の倭国における輸入独占権(郡宛て鉄の発注書用の封泥金印「親魏倭王」)。
つまり狗奴国戦争における後方支援要請だったわけで、(其南有)狗奴国の位置が決まれば、自動的に北の邪馬台国の位置も決まることになる。
長年続く邪馬台国所在地論争の核心は、実は▶狗奴国の位置◀であることに留意されたい。
そこで九州説、畿内説の狗奴国を検討すると、以下のようになる。

−女王国 東渡「海A」千余里 「複有国B」皆倭種
〇九州説…「東渡海A」関門海峡「複有国B」本州、✕畿内説…「東渡海A」鈴鹿山脈「複有国B」北海道
−其南有狗奴国 不属女王
〇九州説…熊本もしくは薩摩、✕畿内説…仲良し東海+河内(大阪)彦←支離滅裂

畿内説はいずれも当てはまらない上、「女王国東渡海複有国皆倭種(→東)」と「其(女王国)南有狗奴国 不属女王(南↓)」が共に「→東」で重複する。
また、鉄製武器(軍事力)も文字も駅伝制(通信手段)もない3世紀の畿内にいて、遠隔の北部九州を安定支配するのは物理的に不可能(倭地に牛馬なし)。
消去法により、九州説が正しい。
では、狗奴国が熊本か鹿児島かだが、邪馬台国七万戸を統治する倭女王をして、魏帝に援軍要請させるほど窮地に陥れる国の軍事力を考えると、
その人口は邪馬台国と同等(七万戸)もしくはそれ以上の人口(八万戸)を想定。
面積から見て、川内平野でゎ「平野面積≒戸数」となる3世紀の開墾能力では無理があると思われ、狗奴国は菊地平野(狗古智卑狗の本拠)+熊本平野+八代平野の3平野を合わせた超大国と考定して、
北の邪馬台国は、北岸の吉野ヶ里遺跡を始め、弥生拠点集落の宝庫「筑後(川)の賜物」筑紫平野、卑弥呼王宮はその最高所・甘木朝倉を、
>>121
卑弥呼の冢「大作冢径百余歩(尺)=直径25m」は、3世紀中頃の築造で、筑紫平野を一望でき、かつ同時期の殉葬者が少なくとも66人以上(刺し違え2体)確認されている祇園山古墳を比定。
0146日本@名無史さん
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2023/01/31(火) 09:03:49.41
>>141
ナリスマシまでして平気でそんな
ウソをつく九州説の異常性
0147日本@名無史さん
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2023/01/31(火) 09:04:55.25
>>145
すると、欽明(現皇室開祖)の父にして、古代史の謎である継体の正体(呉の南の「越」王の分家=狗奴国王・卑弥弓呼の末裔。鯨魚@八代淡海→近江琵琶湖)も判明!古代史は以下のように一挙に解明できるのである!

漢委奴国王=1世紀(弥生後期)
帥升=2世紀(倭国大乱)
卑弥呼=3世紀(弥生終末)邪馬台国(帯方郡張政の仲介で狗奴国を併合)…伊都国王神武「更立男王国中不服」を、紀伊半島西部水銀鉱床で栄えていた大和纏向に東征させ「奥津城」として(帯方郡の鉄の代価)隠蔽&独占。
崇神朝=4世紀(前期古墳)伊都国(台与死後「複立男王並受中国爵命」)…垂仁、伊勢神宮を創建し紀伊半島東部も聖域化。紀伊半島の水銀鉱床完全独占。
応神朝=5世紀(中期古墳)邪馬台国(仲哀を武内宿彌&神功が暗殺)…魏晋【宋/斉/梁】南朝へ朝貢再開。479年「武」上表「安東大将軍倭王」任命(悲願達成)。
継体朝=6世紀(後期古墳)狗奴国(武烈死後、倭王磐井を暗殺「百済本紀531年、日本の天皇・皇太子・皇子共に薨去」、筑紫君と矮小)…阿蘇邪靡堆へ遷都。倭国独自(九州)年号創設。
日出処「天子」倭王阿毎多利思比孤、新羅の朝貢を契機に隋煬帝に対し対等外交宣言607年
欽明朝=7世紀(飛鳥時代)…仏教による墓制(国家祭祀)変更のため、欽明皇子、蘇我稲目と共に奥津城(王家の谷)に下向。大和分家として飛鳥疎開宮造営。
用明&推古…物部守屋を誅殺し前方後円墳廃止。大和分家を乗っ取ろうとした蘇我氏を九州本家の天智が誅殺し、近江大津宮へ東遷(大化の改新)。
天武朝=8世紀(奈良時代)記紀編纂→唐外交の火種【九州年号&多利思比孤】を抹消すべく、崇神朝〜応神朝〜継体朝の歴代倭王権@九州本家の交代が、すべて大和分家で起こっていたように史実歪曲。
畿内を記紀の歴史テーマパーク化(九州の地名をそっくり移植。阿蘇外輪山→三輪山、八代淡海→近江琵琶湖など)
桓武朝=9世紀(平安時代)

まとめると、
九州本家…卑弥呼台与(邪馬台国)→崇神朝(伊都国)→応神朝(邪馬台国)→継体朝(狗奴国/阿毎多利思比孤)→天智東遷(難波宮大津宮)→桓武(平安京)
大和分家…神武(伊都国)東征→崇神朝奥津城造営(紀伊半島の水銀鉱床目的)↘欽明朝(推古摂政厩戸)→天武持統(飛鳥宮藤原京)→元明(平城京)
0149日本@名無史さん
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2023/01/31(火) 09:06:42.02
>>145
邪馬台国女王・台与の死後、倭王となった伊都国王・崇神「複立男王並受中国爵命」の玄孫(4世孫)・仲哀から王権を相続(奪還)した応神(胎中天皇)は、仲哀の実子ではなく、
筑紫女王・神功皇后(記紀が邪馬台国「卑弥呼」と混同させられる理由)と大臣・武内宿彌の子供説(リンク参照)がある(仲哀崩御の十月十日後に筑紫で出生)。
仲哀の息子(応神の異母兄)たち(籠坂かごさか&忍熊おしくま皇子)の反乱もこれが原因である。

その応神朝@筑紫(邪馬台国♂武内宿彌&♀神功皇后)を筑紫君磐井の乱で下剋上した狗奴国王・継体@阿蘇は、仁賢皇女・手白香姫を娶って欽明皇子を産ませることで、歴代倭王統の維持を図った(倭国大乱の再発予防)。

この欽明皇子が義理の父・蘇我稲目とともに、古代東アジア標準の中央集権強化手段=仏教への国家祭祀(墓制)変更のため、奥津城(王家の谷)大和に下向して大和分家(飛鳥)を築き(継体の大和入り20年に仮託)、
その次男・用明の代で、ついに強硬な廃仏派である大連・物部守屋を滅ぼして前方後円墳築造を廃止。用明の妹・推古が仏教の国教化を成就。
しかし、全国の官寺建設で国家予算を恣にした蘇我蝦夷・入鹿父子が大和分家の皇族を次々に粛正し、乗っ取ろうとしたため、九州本家の天智@太宰府(瓦葺き)が飛鳥(板葺)宮に下向。三韓大使の目の前で誅殺(乙巳の変)。
その後、663年に白村江海戦での完敗により、唐・新羅の連合艦隊による倭王征伐がいよいよ現実味を帯びたため、継体→安閑・宣化→阿毎多利思比孤系統の九州本家・天智が、近江大津宮に東遷。

ここに倭王権は史上初めて北部九州を出て、近江大津宮→飛鳥浄御原宮→新益藤原京→平城京→平安京へと続く畿内中心の歴史が始まるのである!
欽明以前の「畿内」には、崇神朝・応神朝はもちろん、直前の継体朝(樟葉・筒城・弟国・磐余玉穂)ですら記紀伝承地に大王宮が一つも出土せず(明治政府設置の石碑のみ)、巨大王墓と倉庫しか出土しないのは、そのためである。
0150伊太乃に居たの ◆oRNQXnZmlfa1
垢版 |
2023/01/31(火) 09:06:57.11
このスレで、他説を力説したり、畿内説を貶している人たちってかわいそう。

自分から、私はアホウですって宣伝してるのとほぼ同じ事なのだから、そんなにアホウを晒したいのかなあ?

九州説なら九州説のスレ、阿波説なら阿波説のスレでやれば良いじゃ無いの、
なんでわざわざ他説のスレを荒らしに来るのか、さっぱり理由がわからん。
0151日本@名無史さん
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2023/01/31(火) 09:07:40.43
魏志倭人伝の卑弥呼の墓に関する記述は朝貢記録の一部として記述されている
当然ながら倭国の状況は倭人が説明した内容です。
倭人は中国で使われていた里など距離を示す単位は知りません。
そんな倭人が墓の大きさを中国の歩という単位を使って説明するわけがありませんから、規模は殉葬百余人とだけ伝えたはずです。
よって径百余歩という記述は、
陳寿が推定さた大きさを追記した
あるいは何歩だと聞かれた倭人が歩の事を足の大きさだと勘違いし径約25mを径百余歩と換算して伝えた

と考えられる。
0152日本@名無史さん
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2023/01/31(火) 09:08:51.16
>>149
ワ(もしくはイ)としか読めない倭(大和)をヤマト と読ませるのはなぜか?
邪馬台国があったからではなく、その逆で、唐王朝に対し、新益藤原京を新設した「畿内」に、筑紫邪馬台も阿蘇邪靡堆もあったと思わせたかったからなのである!

白村江海戦惨敗で東遷した九州本家の天智の死後、壬申の乱で倭王権を獲得した大和分家の天武が正史記紀を編纂し(唐を刺激する九州本家=継体創始の倭国独自年号&日出処「天子」多利思比孤を抹消)、
それに合わせて九州の地名をそっくり移植し、「畿内」をその歴史テーマパーク化していったからで、そのテーマパークの名前が「大倭」(ヤマト)なのである!

7世紀唐(飛鳥時代)までの中国歴代王朝には、倭国は九州島のみと認識されていたことが判る。
魏志倭人伝「女王国(九州)東渡海千里複有国皆倭種(本州)又有侏儒国在其南(四国)」
隋書倭国伝(倭王阿毎多利思比孤@阿蘇邪靡堆)、旧唐書(原文略)
日本の使者Aは「日本国(本州)は昔の倭国(九州)とは別の国だったが、日辺(→東)にあったので、日本と名付けた」
別の使者Bは「倭(九州)と言う名前が優雅でないから日本(本州)と改名した」と言い、
また別の使者Cは「日本(本州)は昔小国だったが、倭地(九州)を併せた」と言った。
来朝した使者ABCの態度が尊大で、真実を言っている様子がなかったので、中国は彼らを疑った。

事実は逆で、白村江海戦惨敗で九州本家が近江大津宮に東遷後、実際はすべて北部九州で展開していた「倭国」の歴史テーマパークにするため、後漢書東夷伝の「大倭」@九州を借用しつつ、
発音は北部九州時代の都であった筑紫邪馬台&阿蘇邪靡堆(ヤマト)としたということなのである!
ゆえに「魏志倭人伝」の年代記述に合わせて、初代大王墓(箸墓)の築造年代を繰り上げて生まれた「畿内」説、ならびに古墳時代「畿内」にあったとされる「ヤマト王権」(定説)は、
唐外交を最優先課題とせざるを得なかった天武・持統朝が国家事業として強行した、この複雑なからくりに惑わされて生まれた幻想で、
記紀(後付け地名=ヤマト)という虚構のゴール地点からの牽強付会に過ぎず、どこまで史実歪曲&洗脳を定着させられるのか?という、社会実験に過ぎないのである(紀元前660年の奈良は縄文時代晩期)。
0153日本@名無史さん
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2023/01/31(火) 09:14:53.95
>>152
まとめると、今から1360年前、663年8月の白村江海戦で(互いに先陣を競って無秩序な突撃を繰り返す)倭国水軍を全滅させた大艦隊を擁し、その気になれば、完全に無防備〔もはや陸軍のみ→夥しい神籠石(高句麗)式&朝鮮(百済)式山城の築造ラッシュ〕となった倭国に来襲して、天智の首都・太宰府を殲滅できた超大国・唐(外交)への忖度で生まれた記紀が消そうとしたのは、

A.倭国史上初めて北部九州を出て、近江大津宮に東遷した天智@太宰府以前の倭王権(崇神朝→応神朝→継体朝)がすべて北部九州(筑紫邪馬台→阿蘇邪靡堆→天智太宰府)にあったこと
→3王朝ともその奥津城(王家の谷)&新益藤原京を新設したばかりの「畿内」にあったことにした〔記紀の歴史テーマパーク「大倭」→「大和」聖徳太子(以和為貴)へ〕。
B.さらに、磐井の乱で応神朝@筑紫を乗っ取った、継体朝@阿蘇がやらかしていた3つの不都合な史実なのである!

1.(武寧王の百済を完全属国化した)継体が中国の南北朝二帝並立の隙に創始してしまった(時間の支配者=中国皇帝の冊封からの独立を意味する)倭国独自(九州)年号
→天智の【倭京】(太宰府)以前は全て抹消!(下記参照)
2.鉄の産出により高句麗&百済に形勢逆転した新羅からの朝貢で調子に乗り、南北朝を再び統一した隋の「天子」煬帝相手に日出処「天子」を名乗ってしまった阿毎多利思比孤(冠位十二階)
→同時期の大和分家・厩戸皇子と合成し、憲法十七条「聖徳太子(倭→和へ書き換え=以和為貴)」を捏造&抹消!
3.白村江海戦惨敗で唐新羅連合艦隊の倭王成敗(王族9親等全員処刑)に怯えた九州本家・天智@太宰府の、(裏口から船で高句麗に脱出できる)近江大津宮への避難・遷都(臆病風→周辺国の笑い草)
→舒明♂皇極♀の長男=斉明皇太子として大和分家に接続&統合!(皇極=斉明重祚&天智≧天武兄弟の秘密)

-継体朝@阿蘇による倭国独自(九州)年号一覧
継体・善記・正和・教知・僧聴・明要・貴楽・法清・兄弟・蔵和・師安・和僧・金光・賢称・鏡當・勝照・端政・告貴・願転・光元・定居・【倭京】・仁王・僧要・命長・常色・白雉・白鳳・朱雀・朱鳥・大化・大長
-熊本県玉名市和水町前原の石原家文書
0154日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 09:16:34.24
今城塚古墳に眠る大王のピンクの石は、なぜ遠路はるばる運ばれてきたのだろう。。。
0156日本@名無史さん
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2023/01/31(火) 09:28:56.10
>>153
古代史って壮絶やね…
0157日本@名無史さん
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2023/01/31(火) 09:36:33.41
>>153
実年代=古事記の没年補正(卑弥呼=魏志倭人伝、※神功=日本書紀)+対中朝貢記録
◆奴国@博多【後漢の冊封を受けて外交デビュー→大陸や半島との貿易本格化】
漢委奴国王(情報なし)…57年(光武帝、金印下賜=鉄輸入開始!)
帥升(情報なし)…107年(安帝に謁見。生口160人を献上=鉄輸入急増→タウポ山大噴火→大飢饉(黄巾の乱)発生→倭国大乱へ)
◆邪馬台国@筑紫【狗奴国と戦争→曹魏皇帝に水銀朱と引き換えに帯方郡の鉄、独占輸入権要請→親魏倭王】
卑弥呼(〜247年)…238年/240年/243年/245年
台与(235年〜?)…247年
◆伊都国@博多(崇神朝)…国内統一→半島派兵(新羅攻撃)開始→任那日本府設置(鉄資源独自確保)
10祟神(〜318年)…266年(西晋武帝へ)、四道将軍派遣270年頃。
11垂仁(情報なし)…330年頃没。伊勢神宮創建(紀伊半島の水銀鉱床独占)。
12景行(情報なし)…343年頃没。日本武尊の東征335年頃。 大臣・武内宿禰
13成務(〜355年)…国造/県主設置(国内統一完成)  
14仲哀(〜362年)…新羅征伐(関門海峡開削=北朝/高句麗艦隊の瀬戸内海侵入リスク)に反対、神罰で崩御(暗殺)
神功(※〜389年)…「旨」(「泰和4年」369年銘石上神宮七支刀→372年百済・近肖古王より贈呈)
◆邪馬台国@筑紫(応神朝)…半島派兵(高句麗戦争&百済支援)本格化→大将軍位を求めて南朝(東晋/宋/斉/梁)に朝貢
15応神(〜394年)…「禰(でい)」
16仁徳(〜427年)…「讃」(413年/421年/425年)
17履中(〜432年)…「倭国王」(430年)┐
18反正(〜437年)…「珍」(438年)…「弟、珍立つ!」
19允恭(〜454年)…「済」(443年/451年)
20安康(情報なし)…「興」(460年/462年)
21雄略(〜489年)…「武」@(477年/478年)「獲加多支鹵大王」…辛亥(471)年銘稲荷山鉄剣+江田船山鉄剣
22清寧(情報なし)/23顕宗(情報なし)/24仁賢(情報なし)
25武烈(情報なし)…「武」A(502年)
◆狗奴国@阿蘇(継体朝)…倭王磐井暗殺→日出処天子・阿毎多利思比孤→欽 明皇子を本州の飛鳥へ分家→現在の天皇家へ
26継体(〜527年)…「男弟王」癸未(503)年銘人物画像鏡(隅田八幡宮)
0158日本@名無史さん
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2023/01/31(火) 09:41:05.07
つまり畿内説は存在する理由が無い
0159日本@名無史さん
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2023/01/31(火) 09:45:45.47
>>157
>17履中(〜432年)…「倭国王」(430年)┐
>18反正(〜437年)…「珍」(438年)…「弟、珍立つ!」

俺の珍も勃つ!
0160日本@名無史さん
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2023/01/31(火) 09:47:48.23
九州説の相変わらず稚拙な作文、あんなの恥ずかしくないのかなw
0161日本@名無史さん
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2023/01/31(火) 09:49:03.54
>>141
脱洗脳&改心おめでとう!
0162日本@名無史さん
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2023/01/31(火) 09:50:09.07
>>138
邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
期待する。九州になければ
畿内に移動もありうる。
0163日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 09:50:47.84
大倭だから大和、ヤマトを大八洲の真ん中の都と考えると疑問なんて全く違和感ないからな。
こんな簡単な事も解らないようじゃ、九州説なのも仕方ないかもしれないね。
0164日本@名無史さん
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2023/01/31(火) 09:52:15.60
>>152
天武持統朝(記紀)の後付け地名に騙されて、畿内説w
0166日本@名無史さん
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2023/01/31(火) 09:57:07.14
>>139
漏れも見た。囚人はみんな上半身裸だったね
0167日本@名無史さん
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2023/01/31(火) 09:59:50.24
>>151
>欽明以前の「畿内」には、崇神朝・応神朝はもちろん、直前の継体朝(樟葉・筒城・弟国・磐余玉穂)ですら記紀伝承地に大王宮が一つも出土せず(明治政府設置の石碑のみ)、巨大王墓と倉庫しか出土しないのは、そのためである。

たしかに。一体どういうことなんだ?
0168日本@名無史さん
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2023/01/31(火) 10:00:29.26
邪馬台国の位置とは元々畿内を指している。これは旧国名でヤマ◯という国が畿内にしかないので証明されている。
ピンポイントでヤマと付く地名なら各地にあるが、国名は畿内にしかないからな。
邪馬台国の東遷なんて物はなく、あるとすれば有力者が畿内の邪馬台国に入って主権を取った、と考えるのが普通だから。
0169日本@名無史さん
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2023/01/31(火) 10:01:47.46
>>128
なるほど
0170日本@名無史さん
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2023/01/31(火) 10:05:46.24
畿内説石野船長「南→東と読み替えて、不弥国から東に進み投馬国(出雲)を目指そう!次は女王卑弥呼の纏向だw全速前進!」
畿内説寺澤機関長「順風満帆!やはりこちらが正しかったですねw天も我々を祝福しているかのようですw九州説の警告なんて無視して良かったw」
畿内説橋本航海士「我々の進行方向、左右両舷をすっぽり取り囲むような三日月形の巨大な氷山脈発見!!!→)」
畿内説石野船長「エンジン逆回転!!!全速後退!!!←)」
畿内説寺澤機関長「なんで方角を読み替えたんだよ!!!船長のくせに!!!このハゲェ〜ッ!!!(豊田真由子元衆院議員)」
畿内説橋本航海士「フル回転中の逆回転でギア全損!!!エンジン大爆発!!!間に合いません!!!!!」
(フルスピード→ノーブレーキで氷山に正面衝突して、乗り上げ、反対側で再び着水する畿内説タイタニック号)ガツン!ドカン!ザブン!
(船側&船底外板を船首から船尾まで横一直線に切り裂く音)ギギギギギギギ!!!
ザァアアアアアアア!!!(全隔壁に一気に浸水、瞬時に沈む畿内説タイタニック号)
畿内説石野・寺澤・橋本「ぎゃあああ!!福永伸哉の口八丁に騙されたぁああ!!」(三角縁神獣「銅鏡五百枚」と共に海底に引き摺りこまれ、海の藻屑と化す畿内説タイタニック号)
一方、九州説オリンピック号でゎ…
九州説A「畿内説タイタニック号から遭難信号SOS傍受!!」
九州説B「あれほど警告したのに、なんで東(4世紀の崇神纏向王宮)に向かったんだろう?直ちに救助に向かおう!」
九州説C「手遅れになる前に早く救助に向かおう!」
不弥国の東の海上に到着した九州説オリンピック号が見た光景は…
因幡の白兎同様、サメの餌食となった畿内説タイタニック号の乗客乗員の遺体の一部と思しき夥しい肉片&骨片が散乱…血で真っ赤に染まった波間に石野船長と寺澤機関長のものと思しきメッキ縁眼鏡がキラキラ&プカプカ浮かんでいる…
九州説ABC「だから船乗りの方角間違え(南→東)は漂流(全滅)しちゃうからあり得ない、纏向は(記紀の後付け地名)ヤマト王権ってあれほど言ったのに...orz」
0171日本@名無史さん
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2023/01/31(火) 10:05:57.93
大な王墓を造るには当然人足が必要だからな。三世紀半ば以降にそれが多くある場所は、可七万戸の大きな証拠でしかない。
この点からも既に畿内一択です。
0172日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 10:08:05.94
>>126
なるほど
0173日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 10:08:27.44
>>168
IQが低く偏差値が低く低収入で髪が少ない人はたいていそういう結論に至る
0174日本@名無史さん
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2023/01/31(火) 10:13:13.49
>>171
だったらもっと明確に
「巨大古墳群とそれを建造する大勢の作業員が野宿する国が邪馬台国なのだ!」
と定義しろよ
0175日本@名無史さん
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2023/01/31(火) 10:16:40.76
>>174
ウソの定義は出来ません
やったら信用を失うから
0176日本@名無史さん
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2023/01/31(火) 10:17:03.10
反論出来ないと誹謗中傷に走る、解りやすい敗北者の行動ですねw
0177日本@名無史さん
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2023/01/31(火) 10:19:50.94
魏志倭人伝をなるべく正確に解釈すれば、可七万なんだから大規模工事も可能。ごく当たり前の指摘なんだけどねw
訳判らん理屈捏ね回す九州説は、こんな単純な話も理解出来なくなってるのか。
0178日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 10:20:25.04
>>168
大正解

3Cの国名で考えれば倭人伝の国名の位置は簡単に解けるんだよ

当時の国名で頭にヤマと付くのはヤマトとヤマシロだけ

3Cに吉備はないからタマと呼ばれていた岡山が投馬国

3Cに駿河はないからクノと呼ばれていた静岡が狗奴国
0179日本@名無史さん
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2023/01/31(火) 10:20:48.03
>>175
考古学的にそう定義するしか無いだろ
今の纒向とか
0180日本@名無史さん
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2023/01/31(火) 10:25:41.89
>>177
7万戸に相当する弥生時代の住居が無いんだから証明出来ないだろ
畿内説がいくら言い張っても纒向など古墳建造時の奴隷部落にしかならないんだよ

住民の集団墓地すら無いだろ?
社会形成が遅れていた事を示す指標だぞ?
0181日本@名無史さん
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2023/01/31(火) 10:26:13.54
巻向周辺には弥生時代後期の遺跡なんて鍵唐古を始め桜井、橿原方面にかけて連鎖的にある。
それに三国志の資料でも七万戸なら本来は国レベルの戸数なのは言うまでもない。九州説が一番巻向に拘りすぎなんだよw
0182日本@名無史さん
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2023/01/31(火) 10:27:33.53
>>178
それ東の倭種の国だろ
畿内説のそういう頭の悪さは昔から指摘されてるけどな
0183日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 10:29:14.70
邪馬台国七万戸なら大阪河内湖から奈良の矢田丘陵、桜井エリアが該当エリアといえるだろう。
ここは古い地名でもシキ。エシキ、オトシキも行き来している場所だからな。
0184日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 10:29:21.32
>>181
年代が同時期では無い
連続していない

それを畿内説ありきでこじつけてるあたりが低能の証
0186日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 10:30:19.12
>>183
大壁住居しか出てこないだろ
0188日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 10:31:31.49
畿内説の特徴

中文が読めない
反論は出来ない
中傷と妨害しか出来ない
対話が出来ないコミュ障の特徴丸出しで安価不使用のつぶやき連発
口に出す悪口は自分に一番に該当
当然ながら何事にも証拠は絶対に出さず、出せと言われると逆ギレしてワメき出す
行き詰ると脳内幻覚に現れる九州王朝説と戦いだす
これ、畿内説盲信者の特徴
0189日本@名無史さん
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2023/01/31(火) 10:35:35.87
>>184
なにも根拠を出さない
ダダこねるだけの九州説みじめ
0190日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 10:38:37.94
>>188
上から6項目って、九州説にしか該当してないぞ
0191日本@名無史さん
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2023/01/31(火) 10:42:55.28
半島側の戸数と合わせて考えると高句麗で三万戸だからな。
さすがにこれは戦乱で荒れている時期を考えても少なすぎるが。
それでも馬韓でも大国が一万戸で合計が十万戸。
この点でも北部九州は二万プラス周辺諸国が妥当なところ。
ここに14万戸を比定する事なんて資料無視も甚だしいんだぞw
0193日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 10:56:18.45
>>179
>考古学的にそう定義するしか無いだろ

という根拠は?
九州説さん、考古学って知ってますか?
0194日本@名無史さん
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2023/01/31(火) 11:08:25.79
>>193
畿内説の言う考古学的結論
 纒向遺跡は広大で住居も無く生活痕がほとんどないが
 七万戸の大集落だったニダ
0195日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 11:09:29.95
>>192
唐古鍵と纒向遺跡に連続性や共通点は見られない

と書いてあるよ
0196日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 11:13:10.84
ちなみに、投馬国や邪馬台国の日数表記の行程は倭人が説明した内容だ
と言う事は五万戸や七万戸というのは倭人の自己申告となる
勘違いして世帯でなく人口を伝えたのでは無いか?
0197日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 11:21:01.29
>>180
>畿内説がいくら言い張っても纒向など古墳建造時の奴隷部落にしかならないんだよ

いやそれ、九州説さん幾ら言い張っても説得力ないから
だって理由が言えないでしょ?
0198日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 11:22:00.87
>>195
何に?
0199日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 11:29:39.73
>>195
場所的には目とはなの先、しかもどちらも大和川流域なんですが?
また実は箸墓辺りから田原本町、河内町へは弥生時代末期の古道跡なんてのも確認されている。
0200日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 11:37:56.19
>>194
そういう捏造ばかりしているから
九州説は信用を失ない皆から馬鹿にされる
0201日本@名無史さん
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2023/01/31(火) 11:40:02.79
>>196
>ちなみに、投馬国や邪馬台国の日数表記の行程は倭人が説明した内容だ

根拠ある?
無いよね
0202日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 11:42:30.55
>>199
知ってるよ
しかし唐古鍵の住人は一斉に纒向では無いどこかへ移住したとの事
卑弥呼時代より前の時代にな(卑弥呼共立は2世紀末)
発掘調査にあたった学者の言葉をよく覚えてるよ
ほんの少しだが卑弥呼時代には届かないと言ってたよ
纒向遺跡は唐古鍵とは全く異なる集団によって造られた別種の遺跡とも言ってたな
大きな古墳が近くにあるからそっちに掛けてみるとか言ってたかな
0203日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 11:44:57.99
>>201
隋書曰く、倭人は里を知らず日を以て表現する

そもそも中国人が測定した情報だったなら里数で書くだろ
0204日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 11:47:07.64
もう一つ、畿内説が言うように万二千里が観念的表現ならば、邪馬台国までの道のりも里数で書いたはずだ
0205日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 11:50:49.94
畿内説は絵空事。
0206日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 11:51:28.54
>>202
結局いつも情報源不明な九州説
0207日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 11:57:54.22
壺編年はインチキ
0208日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 12:00:43.42
>>203
>そもそも中国人が測定した情報だったなら里数で書くだろ

行っても測定してなきゃ書かないし
行ってなくても書いている
根拠にならない

>もう一つ、畿内説が言うように万二千里が観念的表現ならば、邪馬台国までの道のりも里数で書いたはずだ

万二千里がそれでしょ
0210日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 12:06:35.41
いにしえの倭奴国には畿内は含まれていないよな
0211日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 12:09:43.90
>>208
10700里で九州奴国or不彌国なら残り1300里で・・・
結局畿内は無いなw
0212日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 12:12:38.12
>>207
年代年輪法はもっとインチキ
0213日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 12:16:04.22
いにしえの委奴国は伊都国のこと
冊封されたから代々王がいる
0214日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 12:18:56.75
>>202
発掘調査なら当時は私も一応関係者ではあったぞ。
人が移動して新たに入ったところで、鍵唐古が後も継続していた事にはかわりないんだけどね、その点理解しないと。
0215日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 12:19:43.68
>>207
そうやって
誹謗中傷しかできない九州説
何も反論できない九州説
明らかに敗残者だ
0216日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 12:21:22.12
だからあ、投馬国は対馬海峡の北岸であり、
邪馬台国は漠然と南側の日本沿岸という事よ
そして北岸に50000人、九州側に70000人居た
倭人が魏に報告したのはその程度よ
0217日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 12:21:57.63
>>213
>いにしえの委奴国は伊都国のこと

根拠がいっさい無いんですけど
0218日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 12:22:16.49
邪馬台国まで万二千なんて記述はないぞ、あるのは女王国だからな。
なので瀬戸内海辺りが百襲媛の活動エリア、つまり女王国なんだから距離の問題なんて畿内説には何も無いんだよw
0219日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 12:22:51.30
>>216
>だからあ、投馬国は対馬海峡の北岸であり、

根拠ないですね
0220日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 12:22:51.55
>>89

桓靈間倭國大亂 更相攻伐歴年無主 有一女子名曰卑彌呼 年長不嫁事鬼神道能以妖惑衆 於是共立為王
霊帝の184年に起きたのが黄巾の乱
だから女王が共立されたのは後漢末期
0223日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 12:23:41.68
畿内は金印とは全く関係のない国
0224日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 12:25:57.29
>>216
その考え方でいいなら、日本の神話では出雲は半島を一部領土にしたとあるだろ。
だから投馬が出雲、その南には畿内邪馬台国、という事なんだよ。
結局は畿内に落ち着くからw
0225日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 12:26:03.76
>>215
インチキでは無い証拠を出せない畿内説
0226日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 12:26:26.72
>>223
なんたって東の倭種の国ですから

女王国北部は詳細確認できたと書いてあるが
東の倭種(元銅鐸文化圏)の国は詳細不明
0228日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 12:28:39.03
>>222
根拠は沢山あるだろw
倭人伝の記述そのままだし百襲媛は讃岐、吉備の一宮で神扱いだからな。
瀬戸内海は吉備津彦と百襲媛の活動エリアだ。
0229日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 12:28:41.97
>>211
正にそれ。江戸時代ならともく言い出しっぺが阿保すぎ。
0231日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 12:28:50.32
方向音痴の畿内説
0232日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 12:29:21.76
>>211
>10700里で九州奴国or不彌国なら残り1300里で・・・

残り1300里で562km
特に問題は無さそうだな
0233日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 12:31:15.34
>>227
方向オンチなんだなw
ちなみに出雲大社は元々丹波の亀岡に出雲大神宮があるだろう。
0235日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 12:31:28.12
>>232
おいおい対馬壱岐間が千余里だぞ?
足し算引き算しか学んで無いから比率計算はできないのかな?w
0237日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 12:32:11.30
>>228
百襲媛は後世のこじつけ。むやみに神社伝承学を使ってはいけない。調べるなら徹底的に。
0240日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 12:33:32.51
>>229
短里説は九州説内部でも否定されてるよ
非学問的だから
0241日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 12:34:05.58
>>138
四国が侏儒(小人)国か!! 少彦名伝承にピタリと一致してるやん!w
>>139
裸国がフィリピン、黒歯国がインドネシア、もう何から何までピッタリやん!
0243日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 12:36:43.55
>>240
当たり前。10倍報告だっての。
0244日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 12:37:23.56
>>238
何度も行ってるが?
そもそも出雲なら結びつきは畿内の方が遥かにあるだろう。
それに出雲大神宮の位置なんて実質京都だ。保津川使えばそれこそ奈良まで向かえる。しかも百襲媛が生まれたのは保津遺跡辺りだしなw
0245日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 12:39:50.59
>>241

フィリピンのタボン洞穴とベトナム中部のサフィン文化、台湾南部の卑南文化に甕棺墓が分布し
副葬品が類似している
0246日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 12:40:32.27
畿内説君、歴史の改竄は犯罪です
0247日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 12:40:42.72
まあ出雲に出てくる三保津媛なんて、ハッキリと言えば百襲媛そのものだろう。
同一人物を視点を代えて神格化してる存在だな。
出雲地方は孝霊天皇の逸話だらけだし。
0249日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 12:56:22.49
>>226

銅鐸文化時代に
倭人の風習である卜骨が出てるのは九州を除く本州の関東まで
本州の瀬戸内、近畿地方と同種は東海、関東
黥面土器が多く出てるのも瀬戸内と東海
首狩り頭顔面ど変形の風習をもつ北部九州の甕棺墓と同種は朝鮮半島南部
北部九州では2世紀までにど没落したが全羅南道では6世紀まで存続する
0250日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 12:59:15.32
日本の地形の特長を覚えておいた方がいいぞ。本州を南北縦断するのなら一番行程差が無いのは丹後あたりから瀬戸内海東部へ河川沿いに越えるのが一番だからな。
加古川辺りなら確か行程差は100mもない。
0251日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 13:07:46.64
ど没落した甕棺墓の在地系最終期は4世紀初の博多方形周溝墓(石棺)の周溝隅に埋められている
これが祇園山集団墓地裾の甕棺墓と同じ在地系最終期
0252日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 13:10:11.25
>>250
水行10日は河川とでも言いたいのかな?w

山陰沿岸を水行すれば毎日海に沈む夕日を見る事になる
夕日を見て左方向が南だ
脳が正常なら方角を間違える事はない
0253日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 13:12:42.57
>>243
>当たり前。10倍報告だっての。

根拠皆無
否定材料あり
0255日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 13:16:05.25
>>239
>お前の妄想願望何かより一億倍は信用出来るだろう。

ただの悪口は反論にならない
0257日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 13:20:43.26
>>211
卑弥呼がいた伊都国、不彌国、奴国
までで万二千餘里だよ。周旋5千里と一致。
投馬国、邪馬台国はさらに遠方。
0258日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 13:27:13.32
>>239
お前の妄想願望とは?

彦五十狭芹彦命(吉備津彦命)の姉神として扱われるため、旧吉備国の周辺地域(主には備前国・備中国・備後国・讃岐国)に根強い吉備津彦信仰において女性の守護者ないしは水神として祀られる事が多い。特に讃岐国一宮である田村神社では【地域の水神と習合】し、主祭神として扱われている。
習合ってわかる?www
0259日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 13:28:00.90
>>246
九州説だろー
0260日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 13:30:01.27
>>202
>ほんの少しだが卑弥呼時代には届かないと言ってたよ
絶対こんな細かいことまでわかんねえ
他の遺跡もここまでわかる前提で言ってるんだろうな?
0261日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 13:31:43.38
>>253
根拠は帯方郡からの里が明らかにおかしい事。
で、否定材料ありなら書けよ。
0262日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 13:34:10.85
>>202
>>纒向遺跡は唐古鍵とは全く異なる集団によ
>って造られた別種の遺跡とも言ってたな

誰が?ト骨は両遺跡の出土あるが?
0264日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 13:34:44.73
>>260
誰が言ったかさえ不明って、アホでしょ
0268日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 13:39:21.81
>>261
>根拠は帯方郡からの里が明らかにおかしい事

そんなの、10倍にニセ報告する理由にならない
つまり根拠皆無ってこと
否定材料?
全然10倍になってないこと
ウソつくにしても少しは考えてから言えよ
0269日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 13:42:08.01
>>266
>根拠がない妄想には反論しようがないんだからなw

それはデタラメ
根拠がない妄想であることを立証することが反論だ
根拠がない妄想だーと叫ぶだけなのは
敗北宣言と同じ
0270日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 13:43:28.18
まーだやってらっしゃるのか





卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)





ハイ終了

解散!
0271日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 13:43:45.34
>>252
夕日の位置なんて四季で相当変わる、また日本の海岸線、山岳地帯はいりくんだ地形もあるから。
そもそも出雲大神宮は亀岡だからなw
それに出雲地方と結びつきが強いのが畿内方面なのは動かしようのない事実。
0273日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 13:46:31.47
神社を根拠にするならその時代からあった事を考古学的に証明しないと
何の根拠もなく弥生時代からあったと言われてもな
0274日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 13:48:20.03
神社の遺跡なんて全くなんもねえじゃん
0275日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 13:50:07.88
>>272
>現実と妄想の区別がついてないんだよ、君はw

それも立証できない君は、まったく反論ができないということ
つまり論争の敗北者だ
0276日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 14:02:19.76
>>265
アホもここまで行くのか?
天照は大日如来と習合してるんだけど天皇は大日如来の子孫?
本来違うものを同一視するのが習合。
0278日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 14:36:31.99
寺の遺跡はあるしこっちの方が古いんじゃないかってくらい神社はない
0279日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 14:43:43.28
方向音痴の畿内説、バカです
0280日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 14:49:30.73
>>279
東南を途中から北東に変える
一部の改変、九州説はいますが?
0281日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 14:51:40.42
550年以降で
古墳時代を終わらせるのが
地神、氏神指定からの、
神仏信仰なのであって

寺だの神社伝承だのってのは、
古墳以前、200年以前からの
邪馬台国では、話にもならない。
0283日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 14:53:17.75
>>279
方角を間違えたとも記録を写し間違えたとも言ってない
結果として間違ってるという事実を言ってるだけだ
だから方向音痴とか言うのは当たらない
0284日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 14:56:48.35
>>280
道が曲がっているからな
0285日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 14:57:47.33
>>283
それを方向音痴と言う
0287日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 15:03:40.56
呼子から一大率のある場所は見えない。
見えない場所の方角を記すのは不可能
よって進んだ方角を記したと言うのが事実だろう
0288日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 15:06:04.27
>>286
訂正では無い、倭人伝と倭国伝では航路が違う

○隋書での航路

度百濟行至竹島 
南望聃羅國經都斯麻國逈在大海中 
又東至一支國

百済へ度り、行きて竹島に至る。
南に耽羅国を望み、逈(はる)かな大海中に在る都斯麻国を経る。また東し、一支国に至る。


https://i.imgur.com/n2h5JIB.jpg


○魏志倭人伝の航路

狗邪韓國
  ↓
始度一海千餘里至對海(對馬)国
  ↓
又南渡一海千餘里 名日瀚海 至一大國

始めて一海を度ること千余里にして対海国
又、南に一海を渡ること千余里、名は瀚海と曰ふ、一大国に至る。

隋書が南を東に言い換えたわけでなく、倭人伝の航路とは変わっただけです
0289日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 15:08:43.84
>>137
四国が侏儒(小人)国か!! 少彦名伝承にピタリと一致してる!
>>139
裸国がフィリピン、黒歯国がインドネシア、もう何から何までピッタリやん!
0290日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 15:12:33.57
隋書『倭国は邪靡堆に都する。 則ち魏志のいわゆる邪馬台国なる
0291日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 15:15:03.96
>>290
魏使が畿内に行った証拠は無い
0292日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 15:16:40.73
>>290
倭国ってのは中国人が言ってるだけで日本人は言ってないでしょう
だったら日本語では何?
0293日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 15:18:52.46
>>139
1月なのに上半身裸なの?
0294日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 15:25:05.03
>>284
で方向転換の記述がない?
不彌国や奴国は?直線か?
0295日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 15:26:33.26
>>291
記紀に記述あったと思うけど?
0297日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 15:32:37.77
>>296
だから何よ?
Japanは邪靡堆に都する。
0299日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 15:36:21.29
>>298
何も反論できないの?
0300日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 15:40:15.27
隋唐の倭国=日本の都は3世紀と同じ邪馬臺
倭人の言葉には基本「連母音」がない
隋唐人がiamataiと聞き取ったのはヤマト(乙)@畿内のこと
もちろん魏人がiamataiと聞き取ったのも倭人のいうヤマト(乙)@畿内
0301日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 15:45:20.64
畿内説は希望的観測で事実と断言する病気なのか?
故意にやってるならデマ発信という犯罪だぞ?
0302日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 15:50:38.30
>>300
俺とは考えが違うんだろうが邪馬台=ヤマトは何を指してるか?
俺は統一国家大和朝廷だと思ってる
だから奈良県を指してるんじゃない
0303日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 15:53:54.22
>>302
邪馬台=ヤマトは何を指してるかなんてどうでもよろしいがな。  
漢・魏と誼を通じ、たびたび大陸・半島と往来し、
鉄素材や中国鏡や中国朱などを交易していたのは、
倭国(阿波)の国々以外に無いんだから。  わははははは   @阿波
0305日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 15:55:51.73
大和王権誕生の前段階とか言われるけど前段階って何?
0306日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 15:57:24.97
>>294
雨や曇りだと方位はわからなくなる
0307日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 15:57:54.37
>>305
>大和王権誕生の前段階とか言われるけど前段階って何?

遷都前の倭国(阿波)   @阿波
0308日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 15:59:25.59
>>306
>雨や曇りだと方位はわからなくなる

しょっちゅう行き来している「倭人(阿波勢力)」に任せとけ。  わははははは   @阿波
0310日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 16:03:27.09
>>308
関門海峡を通りたいなと魏使が言ったらどうするのじゃ
0311日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 16:10:38.08
>>310
通れられるのであれば通ればよい。
伊都国(直方辺り)へ立ち寄らなければいけないので、まず無理。   @阿波

   
0312日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 16:12:52.89
>>311
はいトンデモ阿波説頂きました
0314日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 16:18:06.80
>>305
>大和王権誕生の前段階とか言われるけど前段階って何?

どういう文脈で、いつ誰が言った言葉?
0315日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 16:20:43.61
>>314
大和王権誕生前夜
0316日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 16:25:24.03
>ネタとしても完成度が低いのが阿波説
大陸・半島と往来している数世代後が阿波内を40km東征www
0317日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 16:28:54.29
ネタにすらならない畿内説
0319日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 16:33:32.19
そもそもヤマトいう地名は無い
当時存在したのはヤマイ、ヤマダ、ヤマタイのいずれかであり、ヤマトと読む地名は記録文献のどこにも書いて無い

市の監視役だった大倭は書いてあるが読みはダーワとなる
中国史だから当然だがな
0320日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 16:34:53.79
>>316
>大陸・半島と往来している数世代後が阿波内を40km東征www

大陸・半島と往来して、鉄器を自前で製作できる国々が居並ぶ「阿波」国内を
神武天皇は、統一するために奮闘した物語が、「神武東征」。   @阿波
0322日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 16:38:47.73
>>306
数回行っているが?
帰路の記述がないので
同じであろう。
0324日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 16:42:08.97
南と言いつつ東に向かい出雲へ
さらに南と言いつつ北へ進む畿内説
極度の方向音痴なので中国へ戻れず記録が無い

なるほど
0326日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 16:44:14.94
>>324
東南を北東という阿保な一部の九州説
と同等ですな
0327日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 16:53:12.15
>>324
出雲から吉備に向かうんだよ
0328日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 16:55:07.21
>>326
対馬壱岐の位置関係が南北と記述されているので呼子→伊都国は東南で合ってるが?

もはや難癖つけるしかない反論不能な畿内説はキナイコシ
0329日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 16:55:59.73
>>327
もう一行程水行10日があるのを忘れてるぞw
0330日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 17:00:07.29
>>328
なんで呼子なんだ?
上陸の千里が短いし
何故、直接行かない?
良港なんだろう?
0331日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 17:00:35.09
>>322
>数回行っているが?

魏使はな。 「倭人(阿波勢力)」はしょっちゅう行き来している。   @阿波
0332日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 17:01:01.95
>>330
一部の九州説は阿保
0333日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 17:02:06.00
>>331
魏使の観点であって下郎は関係ない
0334日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 17:02:22.47
>>328
対馬壱岐の位置関係が南北などと、どこにも記述されていない。   @阿波
0335日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 17:03:20.28
>>330
伊都国に入るためにはちゃんとルートが決まってるんだよ
直接博多湾に入ったら防衛部隊(一大率)に即ぬっ殺されるだろ
0336日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 17:03:27.14
>>329
帯方郡→水行二十日で対馬→水行十日で出雲
0337日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 17:03:47.02
>>333
魏使を案内するのは、「倭人(阿波勢力)」  大いに関係する。   @阿波
0338日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 17:05:17.28
>>316
>大陸・半島と往来している数世代後が阿波内を40km東征www

大陸・半島と往来して、鉄器を自前で製作できる国々が居並ぶ「阿波」国内を
神武天皇は、統一するために奮闘した物語が、「神武東征」。   @阿波
0339日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 17:05:41.71
>>335
卑弥呼の方から求めた
魏使だろう。阿保過ぎ。
0340日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 17:06:47.51
>>337
記述はないな
0341日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 17:07:06.48
>>339
魏使を案内するのは、「倭人(阿波勢力)」  大いに関係する。   @阿波
0342日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 17:08:57.64
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)





久 努 国 ( く の の く に )





久 努 国 ( く の の く に )





馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
0343日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 17:10:05.25
>>335
呼子から船でいいだろう。
何故、500里なんだよ
0344日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 17:11:22.46
>>343
トンデモだから。   @阿波
0345日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 17:12:52.26
>>339
無線とか無い時代だぞ
見えるものは何でも矢でいる時代だ
0346日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 17:14:46.68
>>343
魏志倭人伝の通り葦の生い茂る中にちゃんと秘密のルートが作ってあるんだよ
そのあたりの知恵は古代遺跡に共通してるだろ
0347日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 17:19:09.04
魏志倭人伝には、釜山から対馬、対馬から壱岐、壱岐から九州北岸がそれぞれ千余里と記されているが、最短渡海距離で考えれば、釜山南端から対馬北端まで約50Km、対馬南端から壱岐北端まで約50Km、壱岐南端から九州北岸(糸島半島の付け根)まで約50Kmなので、「正確に10倍した千余里」にほぼ合致する。

なぜ邪馬台国の使いがそれほど魏の皇帝を喜ばせたのであろうか。それは司馬懿仲達が帯方郡から邪馬台国までの距離、千二百里を十倍にして万二千里と報告したため、邪馬台国は洛陽から万七千里彼方の国とされたためである。
ちょうど十年前に司馬仲達のライバルだった曹爽の父親が西方の大月氏国の使いを万六千里彼方から連れてきたことがあったのである。邪馬台国はその大月氏国よりさらに遠い国だと司馬懿仲達は触れ回ったのである。
その記録は当然魏の公式文書に残され、後に陳寿が倭人伝を書く資料になった。

畿内説などそもそもあり得ないのである。
0348日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 17:25:31.76
>>330
僻地すぎるよねw

徒歩が、山野だしw
最悪でも唐津までは船。
伊万里の方が良いかも?
どこ行くんだ? 
迷子になるだろw

目的地が筑紫平野なら
呼子に着いても、普通は
また、博多湾まで船だろ?

出雲や敦賀行くなら、
壱岐から糸島半島見ながら
宗像から土井ヶ浜方面どころか
ず~っと風に乗れる船旅だぞ?

季節中に帰ってこれるかは知らん?
冬の日本海とかw
0349日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 17:34:20.81
>>348
それ現代感覚しか無いからだろ

例えばマッドマックスのような荒れくれた時代を想定しろ

本来、倭というのは野蛮という意味だぞ
0350日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 17:37:06.79
>ヤマトにとってヒノモトとは

ヤマトにとってヒノモトとは、日下。

「日下姓の起源」
古い由来の姓に「日下(くさか)」姓がある。
日下姓は、聖徳太子の時代には存在していた名前である。 
「古事記 中つ巻」の冒頭に日下の名前が登場するので、神代の時代から人代の時代に入った時には、
もう既に存在していた名前である。
勿論、日本書紀にも出てくる。
阿波国(あわのくに:徳島県)の蜂須賀藩家臣成立書に、日下姓が見られる。 
また、隣の香川県も日下姓が多く、高知県高岡郡日高村にも日下の地名がある。
徳島県全体としては、徳島市に集中しており、日本一「日下姓」が多い地域である。
香川県全体としては、高松市に集中しており、日本一の徳島市に続いて「日下姓」が多い地域である。
このことから、西日本に存在する日下姓の大半は、徳島県や香川県等、四国地方を起源にしていると考えられ、
この日下姓をとってみても、記紀は東四国地方を記したものと言える。   
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。   @阿波
0351日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 17:38:40.70
そもそも博多までヤマトが牛耳る統一国家だったのなら

狗耶韓国から渡海したら至ヤマト国

で行程説明は終わってるはずだよな
0352日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 17:41:37.46
>>351
博多なんか知らん
出雲(伊都国)は女王国に統属
0353日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 17:42:59.69
>>345
呼子で確認できたんだろう。
何故、500里 陸路なんだ
0354日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 17:43:08.68
>>351
だから、「阿波」までの行程説明がある。   @阿波
0356日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 17:43:45.57
>ヤマトにとってヒノモトとは

ヤマトにとってヒノモトとは、日下。

「日下姓の起源」
古い由来の姓に「日下(くさか)」姓がある。
日下姓は、聖徳太子の時代には存在していた名前である。 
「古事記 中つ巻」の冒頭に日下の名前が登場するので、神代の時代から人代の時代に入った時には、
もう既に存在していた名前である。
勿論、日本書紀にも出てくる。
阿波国(あわのくに:徳島県)の蜂須賀藩家臣成立書に、日下姓が見られる。 
また、隣の香川県も日下姓が多く、高知県高岡郡日高村にも日下の地名がある。
徳島県全体としては、徳島市に集中しており、日本一「日下姓」が多い地域である。
香川県全体としては、高松市に集中しており、日本一の徳島市に続いて「日下姓」が多い地域である。
このことから、西日本に存在する日下姓の大半は、徳島県や香川県等、四国地方を起源にしていると考えられ、
この日下姓をとってみても、記紀は東四国地方を記したものと言える。   
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。   @阿波
0357日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 17:45:12.82
>>347
釜山から対馬だと、対馬の千里が、
循海岸水行になってしまう。

これは、BC200から続く、
日本海ルート諸国の青銅輸入ルート。

対馬からの帰りは、
風に流されながらどこに着いても良い。

247年帳政の里程を示した報告書からの引用の
西岸から見た、対馬 方可400里も有り得なくなる。

博多湾を目指す九州船の帰国ルートであれば、目視で
確実に壱岐~呼子から糸島を目標に博多湾を目指す。

呼子は田舎過ぎて王船の母港にはならなくないかな?
0358日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 17:45:26.71
>>355
魏志倭人伝では、対馬←→壱岐の方角を南北と記述されていない。   @阿波
0359日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 17:47:05.91
>>353
呼子(末盧国)に官は居ない
そこまで細かーい事を気にするなら
畿内説もそれ相応の行程説明を添えろよ
0360日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 17:49:18.29
>>357
当時の唐津は現代と地形が違う可能性もある
今ある唐津港は随分と南下している
昔の上陸点はもっと北にあったんだよ
過去の交通網を調べれば出てくるはずだ
0361日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 17:50:45.15
>>358
あまりに相手にされず文盲に成り下がったか
0362日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 17:52:58.53
>>361
魏志倭人伝では、対馬←→壱岐の方角を南北と、どこにも記述されていない。   @阿波
0363日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 17:54:07.31
畿内説で確定してるのによくやるよ、九州とか阿波とか時間無駄だぞw
0364日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 17:58:03.96
>>362
対馬の説明で不作の時は船で南北に買いに行くと書いてあるだろ
そして続けて南至一支国の紹介文が来るわけだ

よほど馬鹿で無い限り位置関係は理解できるだろ?
0365日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 17:59:12.16
>>363

中文が読めない
反論は出来ない
中傷と妨害しか出来ない
対話が出来ないコミュ障の特徴丸出しで安価不使用のつぶやき連発
口に出す悪口は自分に一番に該当
当然ながら何事にも証拠は絶対に出さず、出せと言われると逆ギレしてワメき出す
行き詰ると脳内幻覚に現れる九州王朝説と戦いだす
これ、畿内説盲信者の特徴
0366日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 18:00:43.58
>>364
>対馬の説明で不作の時は船で南北に買いに行くと書いてあるだろ

対馬の説明でも壱岐の説明でも、不作の時は船で島内を南北に買いに行くと書いてある。   @阿波
0367日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 18:01:05.77
>>363
畿内説で確定しているという発言=畿内説は池沼と確定
0368日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 18:01:45.52
>>366
それこそ書いてないし狭いし島なんだから歩いていけるだろ馬鹿
0369日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 18:05:48.73
>>359
畿内説は、倭人伝の行程は直列で、
帯方郡から女王宮の合計、萬二千里の残り、
つまり、九州島内の不彌国から

総計、萬二千里の十分の一程度の残りの

1300里が、
水行20日、水行10日、陸行1月
の行程の合計なんだろw

で、陳寿の計算結果と畿内説の
ご都合主義の漢文算数文章問題の回答は
目的地の奈良で、辻褄が合うのかね?

なんで、不彌国以降、すっ飛ばしてんだ?
魏使は行って無いから、倭人伝に記録も無いけどw
0370日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 18:06:33.23
>>359
帯方郡→水行二十日で投馬国(対馬)→水行十日で伊都国(出雲)→伊勢遺跡
0371日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 18:09:29.26
>>368
>狭いし島なんだから歩いていけるだろ

歩くより、沿岸水行の方が楽で荷物の運搬も容易だ、馬鹿!   @阿波
0372日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 18:11:33.35
>>328
>対馬壱岐の位置関係が南北と記述されているので呼子→伊都国は東南で合ってるが?

じゃ、伊都から真東にある須玖岡本が東南なんだから
大和へは南水行でいいな?
0373日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 18:13:16.95
>>372
呼子でも東南ではないな
0374日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 18:15:12.45
>>370
対馬(女王国内)から出雲は東なのでそこは倭種の国です
0375日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 18:16:37.49
>>368
>狭いし島なんだから歩いていけるだろ

歩くより、沿岸水行の方が楽で荷物の運搬も容易だ、馬鹿!   @阿波
0376日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 18:17:59.84
>>359
畿内説?
卑弥呼は九州にいるんだが?
0377日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 18:20:54.40
>>374
全部東南の大海の中にある邪馬台国だから関係ない
0378日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 18:20:57.57
>>372
いや須玖岡本も東南だからその辺りが奴国だよ
古の倭奴国だよ

大和?
ああそれは市の監視バイトの事だよ
中文ぐらい読めるようになってから発言しろ
0379日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 18:22:40.81
>>378
お前以上に読める人間は腐るほどいるぞ
0380日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 18:23:57.26
>>379
お前以下は居ないがな
0381日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 18:24:16.17
>>376
ト骨がある地域
筑後平野 佐賀、福岡、熊本では?
0382日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 18:28:15.20
>>365
これ。九州説だけに該当するのが
1〜6項
ブーメランで大笑い
0383日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 18:28:23.34
>>369
つまり、1300里が、
水行20日、水行10日、陸行1月
の行程の合計なんだろw

渡海3回は目視渡航であって1日で渡り切るはず。
日行に関しては、実際の補給や休養、天候、潮待ち
という、
海神たり得る知識で対応した結果の
日数を示した のではないのかな?

1300里の行程が、
水行20日、水行10日、陸行1月
の行程の合計なんだろw

渡海1000里は、一日で渡海可能。
日行、月行が、何の単位なのか?
知らんのに、倭人伝の話になるのか?
0384日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 18:30:20.22
>>380
こういう幼稚園児っぽい言い返しが九州説信者の特徴です
0386日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 18:35:57.55
>>383
いや日で書いてある行程は倭人が帯方郡に朝貢したときに説明した内容だよ
つまり帯方郡から奴国・不彌国=帯方郡から投馬国・邪馬台国であり
投馬国は半島南部、邪馬台国は北部九州ということ
0388日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 18:40:54.32
>>381
>ト骨がある地域
>筑後平野 佐賀、福岡、熊本では?

ト骨が見つかっているのは有明海沿いの2遺跡だけ
筑後平野 佐賀、福岡、熊本?
無理なゴリ押しだ
0389日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 18:44:16.33
>>388
それに関しては何処かで誰かが見たで矛盾はない
0390日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 18:48:39.50
>>385
その典型が>>365だな
たとえば
・対話が出来ないコミュ障の特徴丸出しで安価不使用のつぶやき連発
・口に出す悪口は自分に一番に該当
・当然ながら何事にも証拠は絶対に出さず、出せと言われると逆ギレしてワメき出す

これ、>>365にピッタリ合ってる
どれも客観的に確認できる
0391日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 18:49:17.12
卑弥呼の鬼道だって何やってたかわからんし銅鐸カンカン鳴らしてたかもしれん
0392日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 18:51:02.56
>>390
それ鏡の中の自分だぞw
0393日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 18:51:28.96
>>387
そもそも論として、九州北部は、「倭地温暖・植生」でアウト! 「魏志倭人伝」に不適合!   @阿波
0394日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 18:51:57.73
>>389
>それに関しては何処かで誰かが見たで矛盾はない

w
局地的な特徴を倭人全般の習俗みたいに嘘ついたと言う主張?
それも「何処かで誰かが見た」って
九州説って、それ言ってて恥ずかしくないの?
0396日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 18:55:32.91
>>392
>それ鏡の中の自分だぞw

ほら
・反論は出来ない
・口に出す悪口は自分に一番に該当
・当然ながら何事にも証拠は絶対に出さず、出せと言われると逆ギレしてワメき出す


お前にもろ該当する
0397日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 19:01:52.99
>大陸・半島と往来している数世代後が阿波内を40km東征www

大陸・半島と往来して、鉄器を自前で製作できる国々が居並ぶ「阿波」国内を
神武天皇は、統一するために奮闘した物語が、「神武東征」。   @阿波
0398五芒星
垢版 |
2023/01/31(火) 19:49:24.61
日下公人さんていらっしゃいますよね
0399日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 20:20:39.10
>>385
>脳が少ない人は自分にブーメランが刺さってる事に気付かない

九州説信者は脳が少ないってことでOK?
0400日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 20:22:23.96
互いの弱点を知り尽くして、 トンデモ同士の無限くそバトルww   @阿波
0402日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 20:28:55.23
足軽山の金太郎の相模には何かあるかもな
猪の拠点か
獅子の頭の寒川神社の謂れも何か関係しているかもな
温泉の地でもある
0403日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 20:29:15.97
>>401
>脳が少ない人は自分にブーメランが刺さってる事に気付かない

証拠は?

・反論は出来ない
・中傷と妨害しか出来ない
・対話が出来ないコミュ障の特徴丸出しで安価不使用のつぶやき連発
・口に出す悪口は自分に一番に該当

>これ、畿内説盲信者の特徴

証拠、出せる?
0404五芒星
垢版 |
2023/01/31(火) 20:32:41.00
徳島って。お魚は一体何が釣れるんだろう?
0405日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 20:42:53.33
伊豆もな
スクナヒコナが湯を開いた話
伊豆の楠の軽船、相模の杉の足が軽い船
伊豆は聖徳太子が治めたから古き狩場の法が残ったらしい

たしか聖徳太子は富士山辺りから黒馬に乗って河内の磯長の峰に降り立ったんだよな
相模の隣はシナガ国だな
0406日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 20:56:31.73
おまじないだわ
眉マユに唾ツバをつけて妖に惑わされないようにしないとな
眉から作られた楠と、ツバの木椿を追えば古代史の真相が見えてくるかもな
0407日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 20:58:35.16
そもそも邪馬台国時代にヤマトという地名も言葉も存在していない
中国史書全てにおいてヤマトという文字は記載されていない
ヤマイもしくはヤマダ、ヤマタイと読む国名は記載されている

魏志倭人伝には大倭は市の監視役だと書いてある
後世のヤマトはそれを読んで理解できたはずなのに何故この大倭をヤマトの当て字に選んだのか?
ちなみに万葉集の大倭の情景には海が存在する
よほど頭が悪かったのだろうか?
0408日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 21:05:20.67
相模の昔話に白サギから守ってくれる鐘を大切にしていた蟹の話、背中の赤い蟹の昔話がある
ある日火が襲ってきて鐘を守ろうと蟹たちは必死で戦ったが、多くの蟹が亡くなり生き残った蟹の背中は赤くなっていた

相模には弥生時代末期で営みを終えた銅鐸の集落の遺跡がある
白サギはヤマトタケル
伊豆が焼け野原になったエピソードがあるよな
足軽山の猪と伊吹山の猪は同じか?
猪たちは伊吹山に逃げたのか?
0409日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 21:15:50.39
隣の駿河には天女とわたつみの話が風土記に残っている
松にかけてあった天女の軽い衣を漁人が奪い返してくれと頼んだが断られ夫婦になったとか
後に天女は衣を取り返し雲に乗り天に帰ったとか

鳥取にも同じプロットの話が残っている
鳥取は松ではなく岩だけど
0410日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 21:17:20.86
>>407
>万葉集の大倭の情景には海が存在する
それ、「秋津島のヤマトの国」だろ。 当時のヤマト王権下の支配地域。広く日本をさす言葉だよ。
お前がただの馬鹿なだけだから心配すんな。
0412日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 21:21:51.17
>>388
牟田寄 佐賀県佐賀市
西蒲池池淵 福岡県柳川市
佐賀と福岡だよ。
0413日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 21:24:39.73
>>402
足軽山?
足柄山では?
ギャグだと思うけど念の為。
0414日本@名無史さん
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2023/01/31(火) 21:26:04.78
聖徳太子の黒馬

東北の伝承では北に追いやられたのは龍の黒神だったな
鹿島神宮が抑え込んでいる大鯰は龍である説があるな
東北への抑えの地
おかしな話だ
一昨年発表された母系遺伝子の研究では、東北と同じグループは富山石川和歌山で京都大阪が1番近かったのはこのグループだ
0415日本@名無史さん
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2023/01/31(火) 21:29:21.07
>>412
上陸は唐津だよ。佐賀市と柳川市
東南500里、魏志倭人伝にピッタリ
0416日本@名無史さん
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2023/01/31(火) 21:30:13.54
何でアホってそろって言う事が同じなんだろうか?
阿波国古代研究所も「舒明天皇の歌」を持ち出して奈良に海はないから阿波だとw
0417伊太乃に居たの ◆oRNQXnZmlfa1
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2023/01/31(火) 21:38:12.70
本居宣長先生は、邪馬台国は大和、卑弥呼は神功皇后としつつ、
魏に朝貢したのは、九州の偽物の卑弥呼で有ると言うかなり複雑な主張なんですよね。

邪馬台国は大和の国であるが、魏に朝貢したのは、偽物のヤマトの王、かなり屈折してます。

立場とか、色々あったんではないでしょうかね。
0419日本@名無史さん
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2023/01/31(火) 21:41:12.10
>>417
九州であっても、その官名から
天孫系はまず間違いないので偽者とは言えない
0420日本@名無史さん
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2023/01/31(火) 21:49:29.64
>>417
倭人伝は平均脳以上で読めば九州だからですよ。
皇紀を信じていた彼らにとって矛盾を説明するには偽物しかなかったのです。
さて、皇紀が疑わしいと知っていたら・・・
0421伊太乃に居たの ◆oRNQXnZmlfa1
垢版 |
2023/01/31(火) 22:54:48.09
本居宣長先生は、魏志倭人伝に書いてある距離や方角は、全く当てにならないとしつつ、
その一方で、九州の熊襲の王が邪馬台国の王であると偽って魏の使いを騙したと言う主張です。

邪馬台国は大和の国の事で、卑弥呼は神功皇后の事だが、
魏に朝貢したのは偽物の邪馬台国の王、

なんとも複雑な筋立てではないですか、

なんでこんな事考えついたんでしょう?
0422日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 23:05:09.03
蛇行剣の富雄丸山古墳は興味深い
トミの枕詞は射目立てて、ウカ狙う
ウカはウカノミタマか
0423日本@名無史さん
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2023/01/31(火) 23:09:40.59
>>421
 >>420

>距離や方角は、全く当てにならない
え?これ本当?
0424日本@名無史さん
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2023/01/31(火) 23:17:58.14
>>420
九州脳の妄想はこの程度
0426日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 23:23:59.71
宣長は基本的に邪馬台(ヤマト)国は大和国、卑弥呼は神功皇后のことであると考えました。 その上で、魏と通好を持ったのは神功皇后をかたる偽物であると主張しました。 『魏志倭人伝』の記述から、魏の使者が来たところは九州としか考えられないからです。 また宣長はこの偽物を熊襲の類とは言っていますが、女酋長とは言っていません。
「『日本の皇室が中国に朝貢するなどありえない』という立場から」などというのは、 何の根拠もない憶測です。宣長の学問の特徴は、憶断を持たず、古い文献によって物事を 明らかにすることです。文献によらず、自分の好みの結論に理屈を付けて強弁するような事は、 彼が最も嫌ったことです。
これは>>424のような畿内脳の捏造です。
0427日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 23:28:19.43
その他、宣長に関する畿内説の捏造。
【邪馬台国を最初にヤマタイコクと読んだのは本居宣長である】
これも皇国史観を理由に。嘘です。『馭戎慨言』で『後漢書』を引用した中で、 「邪馬臺」には「ヤマト」としっかりルビが振ってあります。
0428日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 23:29:43.45
【おさらい】
・倭人伝は中国の史書なので、倭国の地名も倭人の発音に合わせて中国漢字で表記されています

・魏志倭人伝に書いてあるのは邪馬「壹(壱)」国であり、魏の公用語であった呉語(上海語)で読むと「シャマイ」国となる

・以降の史書に出てくる「邪馬臺」や「邪摩堆」は語尾が「タイorダー」であり「ト」と発音する文字は一切使われていない
※トと発音する場合は「都」という文字が使われている→伊都国(イトコク)

・後世のヤマトは識字能力が低かったのか、邪馬壹=ヤマトと読んでいたが、新井白石と本居宣長がこの誤読に気付き、邪馬台国論争が始まった

・「大和」は、魏志倭人伝では女王国で市場の監視役として使われていた「大倭」と記載されている
※魏志倭人伝より『国国有市 交易有無 使大倭監之』
参考:https://i.imgur.com/YN7VCTk.png
0429日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 23:32:45.16
古田の亡霊は消えてくれ。本当に恥ずかしい主張なのがまだわからないの?
0430日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/31(火) 23:54:55.67
>>428
それ、言語学を無視した妄想な
0431琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/02/01(水) 00:03:26.57
宣長?これがしょうもない奴だよ、伊勢に生まれながら。まあ、御用学者という奴だわね。
0432日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 00:19:30.83
駿河の天女の話は何処に繋がるのかやな
弟橘媛かな
最終的には住吉まで繋がるのか?
0433日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 00:21:47.33
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125






.
0434日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 02:04:49.61
ヤマト王権は九州人が作った
0435日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 02:14:03.73
そもそも邪馬台国の「邪」は琅邪台から来ている

>邪/よこしま - 語源由来辞典
漢字の「邪」は、元々「琅邪」という中国の古地名を表した字だが、「牙」に「食い違い」の意味があることから、よこしまに「邪」の字が当てられた。 「邪」の「牙」は、二本の柱に切りこみを入れ、噛み合わせて繋いださまを描いた象形文字で、ちぐはぐに噛み合う歯を表す。

↑この噛み合わせが、ちぐはぐじゃなく
ちゃんと合ってると「與」って字になる

イヨトヨ壹與で、噛み合ったってわけ
(陳寿さん、ここでも筆法使ってますw)


>三国志01 魏書01 武帝紀第一
>冬、作銅雀臺。

銅雀台(銅雀臺、どうじゃくだい)は、
魏の太祖、曹操が魏王に昇爵した時に鄴(ぎょう)
(現在の河北省邯鄲市臨漳県三台村)に造営した宮殿。
210年の冬に造営された。

たぶん、同じ意味

邪馬の臺を作った国、そこに女王のところの都
0438日本@名無史さん
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2023/02/01(水) 07:33:02.07
>>388

だから卑弥呼は肥国女王なんだろ。
ただ、それが筑紫を含めた倭国の女王に共立された。
0439日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 07:34:56.01
後漢書

大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。

つまり、倭国とは狗邪韓國から倭奴国まで。
畿内は倭国の中に含まれず、まして倭国女王卑弥呼がいたはずもない。
畿内にいたのは、墓が大きいだけの地方豪族、倭の別種である。
0440日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 07:35:12.87
「世有王皆統属女王国」
理解しやすくするため同じSVO型言語である英語に訳すと
At all times, there is a king.
Everyone belong to queendom.
となる。
代々の倭王は全て伊都国にいる。
全ての者は女王国(伊都国)に統属している。
0443日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 07:40:52.97
>>440
>代々の倭王は全て伊都国にいる。
>全ての者は女王国(伊都国)に統属している

しかし、「神武東征」とは、
大陸・半島と往来して、鉄器を自前で製作できる国々が居並ぶ「阿波」国内を、
神武天皇が統一するために奮闘した物語が、「神武東征」。   @阿波
0444日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 07:43:36.03
伊都国は倭国最大の工業地帯だった。
だが工業地帯は単体で成立できない。
労働者の住居や、食糧生産の地域が付随する必要がある。
すなわち、単体の環濠集落で完結する国邑ではなく、複数の国邑が機能を分化させて担っていたのである。
これが連合国家または領域国家としての邪馬台国である。
そしてその中で最大の権威として周辺諸国から畏れられていたのが伊都国であった。
魏志倭人伝は、その支配機構を大率と記録している。
率は帥と同音同意であり、後世の大宰の帥と同じく、国王の代理人である。
郡使は常に伊都に滞在し、女王に謁見していた。女王が畿内にいたら不可能な話である。
0445日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 07:44:04.79
畿内が元々邪馬台国なのは延喜式の神社の数見れば一目瞭然だよ。
やはり山城、大和とヤマが付く国のエリアが中心となる。
筑紫方面でも全然少ない、古来からの都はやはり畿内でしかない。
0446日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 07:44:36.85
邪馬壹国70,000戸の内訳は下記の計算で算出されている

1,000戸(對馬国)+3,000家(一支国)+4,000戸(末盧国)+1,000戸(伊都国)20,000戸(奴国)+1,000家(不彌国)+20×2,000戸(斯馬国-烏奴国の20国分)

斯馬国~-烏奴国の20国の戸数は記の計算で算出されている
(1,000戸+3,000家+4,000戸+1,000戸+1,000家)÷5国=2,000戸/国
奴国を除く対馬国、一支国、末盧国、伊都国、不弥国の5カ国の戸数から1国邑当たりの平均値2,000戸を求め、斯馬国-烏奴国の戸数もこれと同じ戸数として計算

陳寿はマメなやつだ。
0447日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 07:46:03.78
こんな簡単な話を延々やるのは本当に時間の無駄だぞ、結局畿内しかありませんよ。
0448日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 07:46:34.27
>>444
>そしてその中で最大の権威として周辺諸国から畏れられていたのが伊都国であった。

しかし、「神武東征」とは、
大陸・半島と往来して、鉄器を自前で製作できる国々が居並ぶ「阿波」国内を、
神武天皇が統一するために奮闘した物語が、「神武東征」なのである。   @阿波
0449日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 07:46:49.36
【平原遺跡の年代】

副葬品に武具がほとんどなく宝飾品が大量にあったことから被葬者は女性であったと考えられる。
特に耳璫は女性専用の飾りであると考えられている。
世界最大の銅鏡である八咫鏡は国産品であり、後漢との交流が途絶えた倭国乱より後の様式である。
技術的には古墳時代に多くみられる国産の大型内行花文鏡に属する。
玉と鏡に五尺刀を一振りだけ加えてあえて三種の神器の様式を整えてあったことから、被葬者は倭王の地位にあったことがわかる。
寺沢薫氏ら畿内説の学者を含め、平原遺跡が王墓であることに反対している学者はいない。

平原の管玉と同類のものは日本からは出土せず、韓国の江原道東海市松亭洞一号住居跡や慶尚南道金海郡良洞里三四号木椰墓から多量に出土していて、
時期は共伴している土器や鉄器から3世紀前半から4世紀と考えられている

耳璫は漢末六朝初期(2世紀末~3世紀)に流行した形状である。
金層ガラスを用いて作られているが、国内のその他の金層ガラスは4世紀以降の出土例しかない。

周溝から出土した土器片が庄内並行期と見られることから、200〜250年頃である。
鏡の編年で言えば、舶載鏡であることがほぼ確実な内行花文鏡・虺龍紋鏡の「長宜子孫」銘は漢鏡最後の第六期(〜190年)に多く見られるものであり、平原遺跡はそれ以降といえよう。
また、国産の超大型内行花文鏡はその後の畿内の前方後円墳から出土する大型内行花文鏡の先駆けである。

結論
平原遺跡は後漢滅亡後の3世紀頃に作られた倭国の女王墓である。
卑弥呼の前の倭王は男王とされているので、その年代の倭国女王は卑弥呼と壹與しかいない。
0450日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 07:47:52.15
畿内方面が最大戸数の国だから、大規模な古墳をバンバン造れたんだからな。
これも猿でも判る簡単な事だろう。
0451日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 07:48:31.78
>>445
>式内社(名神大社)は圧倒的に奈良、伊勢が多い(名神大社は奈良に次いで京都)

それらはすべて、「阿波」から勧請された分社にすぎない。  
なぜなら、古事記神話の神名が付く神名延喜式内社がほとんど存在しない。
一方、徳島は古事記神話の神名が付く延喜式内社の数が他の県に比べると圧倒的に多いことがわかる。
例えば、徳島県の式内社50社のうち19社に古事記神話の神名がついているのに対して、
奈良県は286社のうち3社、島根県の出雲は187社のうち0社である。
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外にはどこにも存在しない。   @阿波
0452日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 07:49:37.99
>>438
>ただ、それが筑紫を含めた倭国の女王に共立された。

共立した者が、お目付けを置かれて畏憚する?
統属されちゃう?
違うね
女王共立で大勢力になった「女王国」に抑え込まれたのが北部九州だ
その証拠が、東から来た前方後円墳体制に組み込まれて行ったと言う現実
0453日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 07:49:38.49
摂津国一宮 住吉神社 筑紫で生まれた住吉の神を祭る
河内国一宮 枚岡神社 筑紫に降臨した天児屋根命を祭る
和泉国一宮 大鳥神社 天児屋根命の子孫を祭る
山城国一宮 上賀茂下鴨神社 筑紫からの神武の東征を助けた三島溝杭耳を祭る
紀伊国一宮 日前宮、国懸宮 筑紫に降臨した天道根命が持っていた鏡を祭る

ここまで筑紫と東征関連。
例外はこれ。
大和国一宮 大神神社 大物主を祭るとされる。
三輪山の神とは、現在の桜井市一帯を拠点としていた物部氏のことであり、その祖は筑紫から来た天孫ニギハヤヒである。
河内から大和にかけての地域を日本と名づけたのもニギハヤヒである。
日本は倭の別種の小国。
畿内は筑紫からの入植地ですね。
0454日本@名無史さん
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2023/02/01(水) 07:50:02.27
>>447
>結局畿内しかありませんよ。

結局畿内は、「倭地温暖・植生」でアウト! 「魏志倭人伝」に不適合!   @阿波
0455日本@名無史さん
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2023/02/01(水) 07:50:32.29
大率が検察していたのは伊都ではなく、伊都から北の対馬海峡の国々である。
それらの周辺諸国は伊都の大率を畏怖していた。
伊都が畏怖していたとは書いてない。

江戸幕府の将軍を諸藩が畏怖したというときに、江戸は将軍の支配下だから植民地だなどとは言わない。
むしろ直轄地の権威は高いのが普通だ。
各地の官とは別に広域を支配する大率の本拠地が伊都にあるということは、伊都が女王の直轄地、すなわち女王国であるということだ。
事実、大率が検察する地域は「女王国から北」と書かれており、伊都が女王国に含まれることは明白だ。
畿内説では、伊都の大率はどこまで支配していたのだろうか?
伊都の大率が若狭湾まで検察していたのだろうか?
陳寿の意図は明らかで、伊都を女王国の都として書いているのである。
0456日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 07:51:48.07
倭国の都は筑紫の伊都。
魏志には帯方郡から12000里で女王国とされ、10000里で九州北岸に到着している(対馬海峡の幅が3000里とされている)。
福岡県を出ることはまずない。
狭い糸島水道と日向峠以外には進入路がない一方、クシフル山からは糸島平野も博多湾も一望できた。
伊都の東側にクシフル山があり、その日向峠に山城を築き、高千穂宮と呼ばれた。
邇邇芸が、ここは日の出も夕日も照って、朝鮮半島にもまっすぐ道が続く良いところだと評した。
防衛にも外交にも非常に有利だった。
奈良時代には怡土城、戦国時代には高祖城と呼ばれた。
伊都国の東にそびえる王宮は太陽信仰や神仙思想といった初期の神道の舞台でもあり、魏志には日本独自の神道が鬼道の呼称で記された。
魏志には、伊都に代々王がいると書かれている。
伊都より北には一人の大率という役職を置き検察させ、南は狗奴国(熊本)、東には海を渡ってやはり倭人の住む倭地(本州)があるとされている。
伊都は王権の象徴である金印や八咫の鏡が継承されてきた倭国の都である。
倭国女王である卑弥呼は死後に伊都の平原遺跡に埋葬され、八咫の鏡を含む三種の神器が副葬され、鳥居が建てられた。
0457日本@名無史さん
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2023/02/01(水) 07:51:49.48
>>450
>畿内方面が最大戸数の国だから、大規模な古墳をバンバン造れたんだからな。

大規模な古墳をバンバン造ってたのは、「倭人(阿波勢力)」だよな、高齢中よ。  わははははは   @阿波
0458日本@名無史さん
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2023/02/01(水) 07:52:12.76
倭国は筑紫を中心に、肥国、豊国、海を渡り出雲、越などから構成される連合国家である。
一時期は出雲が覇権を掌握したが、国譲り以降は筑紫が復権したというのが記紀の内容。
中国との交易は一貫して筑紫が独占していたことが、三雲南小路遺跡や平原遺跡などの豪華な出土品から考古学的に明白である。
博多湾沿岸に稲作が上陸し、初期の倭国王権が成立した。
イザナギが矛(武力)で獲得したはじめの領土は能古島(おのころ島)であり、イザナミと別れてから禊をしたのが、筑紫の日向の小戸(現在の小戸公園)とされている。

筑紫の特に玄界灘周辺の勢力は、対馬海峡の権益を独占して力をつけ、海人の国、天津国と呼ばれ、その王族は天津神(アマツカミ)として九州や本州の王族である国津神と区別された。
博多湾以外で海人族の勢力の中心にあったのが、宗像氏族が聖地としていた沖ノ島であり、その磐座信仰がおそらくは高天原(タカアマハラ=祖なる海の城)の天照(アマテラス=海を支配する王)に対する祭だろう。
宗像氏族が支援したのが高天原から筑紫への天孫降臨であり、降臨先が筑紫の日向(博多湾沿岸)とされている。
降臨した天孫ニニギが大山積から娶った姫が木花咲耶姫(細石神社)であり、天孫の息子である彦火々出見(山幸彦)を祭る宮が高祖宮である。
しかし記紀によると天孫族による筑紫の支配は三代で終わったとされている。
四代目の彦火々出見は筑紫の日向の高千穂宮を出て大和へ移り、後に神武と呼ばれた。

卑弥呼は肥国の山門の出身で、それまでの伊都国王統を継承するために都である伊都に行き、倭国全体を統治したのだろう。
特に敵対的だった伊都より北の国々(狭義の倭国=天津国)には一人の大率を任命して監視した。
しかしそれは卑弥呼が筑紫の王のようになってしまうこととなり、肥後狗奴国の王と肥国の家督争いを招いたのかもしれない。
後に山門は有明海に向かって拡大する筑紫に飲み込まれて筑後となる。
これにより肥国は肥前と肥後に分裂する。
卑弥呼は死後に都の平原遺跡に葬られた。
0459日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 07:54:00.99
一大率についての原文:
「自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」

三国志において"A+治+地名B"は、
「A自らの中心拠点を(Aの管轄域の主要地である)Bに設置した」の意味で使われている。
0461日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 07:54:29.86
【倭国】

弥生時代前期末に玄界灘沿岸に倭が成立して前漢と国交を持ち、後漢の頃には漢委奴国王印により倭国王が冊封された。後漢書では、倭は朝鮮半島南岸の狗邪韓国から九州北岸の倭奴国までの、対馬海峡の海洋国家として書かれている。
対馬海峡における貿易の権益が、天津神すなわち海の神を中心とした倭の形成の原動力であったと考えることができる。

記紀の国生み神話で、イザナギが矛を使って最初に得た領土である淤能碁呂島は、銅矛文化圏の中心である博多湾の能古島のことである。
それに続きイザナギとイザナミの生んだ国土のうち、天の冠詞がつく隠伎之三子島(天之忍許呂別)、伊伎島(天比登都柱)、津島(天之狭手依比売)、
女島(天一根、姫島)、知訶島(天之忍男、五島列島)、両児島(天両屋、男女群島)が天つ国(海の国)の本来の領域である。
これは倭が博多湾沿岸を都として対馬海峡に広がるという後漢書の記事とよく対応している。

連合国家である倭の盟主は海神の故郷である筑紫であり、他に九州北部には豊国、肥国があった。本州の出雲、越などは倭の別種と書かれている。
博多湾岸を中心として対馬海峡から朝鮮半島南岸へ、日本海から山陰や北陸に広がる国が古代の倭の姿である。
その中で、大陸や半島との交易は博多湾沿岸勢力が独占していて、その支配機構が大率(大宰の帥)であった。

卑弥呼の時代には倭は九州内陸へ拡大していく。
九州で出土した副葬品の分布地図
http://www.netpia.jp/history/map-fukusohin237.gif
この地図は邪馬台国と狗奴国(熊本)を合わせた九州北部の倭の範囲を示している。
これに属州としての日本海沿岸、瀬戸内海沿岸の倭地が付随する。
卑弥呼の時代の畿内は、奈良も京都も大阪もまだ湿地帯であり、畿内の交通の大動脈は肥国女王の與止日女命の名を受けた淀川であった。
奈良は交易路からはずれた辺境の沼地。

2世紀の倭国大乱後の女王の墓として3世紀に平原遺跡が作られた。
副葬された八咫の鏡などの三種の神器は、筑紫伊都が倭国の王都であったことを示している。
0462日本@名無史さん
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2023/02/01(水) 07:57:33.95
>>455
刺史ってのは州全体を検察するんだよ
刺史治のある郡も対象だ
その郡の太守も刺史の部下
伊都国王は邪馬台国にいる女王に従属し、彼女の置いた代官を畏憚するしょうこくの王様にすぎない
0463日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 07:57:49.69
鬼道は神仙思想、初期道教の事だが、これが元々の神道等に取り込まれ融合した結果が神社の数となったのだろう。
つまり数の集中具合で鬼道使いの宮があったのは畿内と必然的に結果がでる。
それほど延喜式での神社数では明確。
0464日本@名無史さん
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2023/02/01(水) 07:59:11.38
>>463
>式内社(名神大社)は圧倒的に奈良、伊勢が多い(名神大社は奈良に次いで京都)

それらはすべて、「阿波」から勧請された分社にすぎない。  
なぜなら、古事記神話の神名が付く神名延喜式内社がほとんど存在しない。
一方、徳島は古事記神話の神名が付く延喜式内社の数が他の県に比べると圧倒的に多いことがわかる。
例えば、徳島県の式内社50社のうち19社に古事記神話の神名がついているのに対して、
奈良県は286社のうち3社、島根県の出雲は187社のうち0社である。
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外にはどこにも存在しない。   @阿波
0465日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 08:01:59.25
阿波は神社数が少ないので所詮は一地方の国でしかない。むしろ延喜式の時点で神が他へ移ってるのはダメだね。
神社が集中する場所こそ都であるのは明白だろう。
山城、大和にこそ邪馬台国七万戸の資格があるという事。
0466日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 08:02:25.98
「阿波の式内社の特徴」
一つ目の特色は、日本の国造りの根幹に関わったとされる神を祀る神社が多いことです。
二つ目の特色は「欠史8代」の天皇に関わる登場人物をご祭神とする神社があることです。
三つ目の特色は、以上のほかにも記紀神話に登場する方をご祭神とし、神様の名前そのままを冠した神社が多いことです。   @阿波
https://yottyan.blog.ss-blog.jp/2011-10-26
0468日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 08:06:06.87
阿波の国体、オオゲツヒメは伊勢から移動して阿波で国作したのが事実。
0469日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 08:06:57.20
平原1号に葬られたのは対外貿易の独占力を失った斜陽の王
大きな墓を作る権力もない
後継の伊都国王も平原2号以降ちっさな墓に被られる小国の王
周囲の国々の首長はもっと大型の墓に葬られている
結局、一大率が土着して王位を奪い、伊都の王家は消えていった
0470日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 08:08:59.03
つまり四国阿波は神が逃げ出した黄泉の国、死の国だった。
0471日本@名無史さん
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2023/02/01(水) 08:09:51.97
畿内説は韓国脳によるウリナラ起源だから
0472日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 08:13:48.63
元々日本の歴史では畿内が中心だから。

それに反して九州だ阿波だと主張する方がウリナラ思想そのものなんだぞw
0473日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 08:14:05.34
神さまは黄泉の国に行くんじゃないの?
0474日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 08:17:48.01
>>472
>元々日本の歴史では畿内が中心だから。

確かに、8世紀からな。   @阿波
0475日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 08:22:11.56
>>472
いやいや日本という名は東日本という意味だぞ?
ヤマトは日本に屈した勢力だ
0476日本@名無史さん
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2023/02/01(水) 08:24:58.74
>>475
妄想乙
0478日本@名無史さん
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2023/02/01(水) 08:26:59.10
335 名前:日本@名無史さん 2023/02/01(水) 08:20:00.17
>>330
魏志倭人伝なんて内容自体の間違いだらけじゃないか

あの誤書をまともに読んでたら邪馬台国は大隅半島か種子島あたりになっちまうだろ

大隅半島から種子島あたりに3Cの径百余歩クラスの墳墓なんてないし、
3Cの鏡の出土も全然ないし、それに頭にヤマと付く人口数万人クラスの
大規模集落があった国の痕跡すらないだろ
 
あんな単なる誤書を文面通りに解釈しようとする事自体ムリがあるだろうに
0479日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 08:31:00.90
>>470
>つまり四国阿波は神が逃げ出した黄泉の国、死の国だった。

その通り!   @阿波   

①高越山②山ぶどうの実がなる(上勝町雄中面おなかづら・生実・喰田)③竹の子(那賀町竹ケ谷

④モモの種(桃ノ木谷)⑤千引の岩(内山千引の岩)⑥黄泉の比良坂(ヨミ坂トンネル・ユヤの坂)⑦橘の阿波岐原
0481日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 08:57:00.82
神社数が少ない阿波が都であった事は一度もないよw
地方の一集落でしかないな。
0482日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 08:58:20.53
四国は邪馬台国ではないのは明白だが、確かに黄泉の国に相応しいと思うけどな。
0483日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 09:06:47.27
>>481
>神社数が少ない阿波

「阿波」が元社なんだから、当たり前。 全国に分社が拡散しているだけのこと。  わははははは   @阿波
0484日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 09:07:27.34
伊都国のトップが一大率
つまり、一大率=伊都国王
0485日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 09:09:01.65
>>482
イザナギ逃走ルート   @阿波
①比婆山(高越山 イザナミ神陵)②山ぶどうの実がなる(上勝町雄中面おなかづら・生実・喰田)③竹の子(那賀町竹ケ谷)
④モモの種(桃ノ木谷)⑤千引の岩(内山千引の岩)⑥黄泉の比良坂(ヨミ坂トンネル・ユヤの坂)⑦橘の阿波岐原
0486日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 09:11:03.63
>>481
>神社数が少ない阿波

「率川坐大神神御子神社」「石上坐布都御魂神社」「多坐彌志理都比古神社」「鏡作坐天照御魂神社」
「大和坐大国魂神社」「村屋坐弥冨都比売神社」「高市御県坐鴨事代主神社」「飛鳥坐神社」など
奈良の神社は、「坐」が付く神社だらけ。
「坐」が付く神社は、どこかから勧請された神社。  
当然、「阿波」からだろう。 
片や「阿波」には、一つもそんな「坐」が付く勧請された神社など存在しない。     
まあ、当たり前といえば当たり前なんだが。  わははははは   @阿波
0487日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 09:19:25.39
畿内は、古事記神話の神名が付く延喜式内社の数が
「阿波」に比べて圧倒的に少なすぎる。   @阿波
0488日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 09:23:23.86
>>484
なんで平気でそんなウソつくの?
0489日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 09:25:01.86
延喜式内社が中世には痕跡もなく消滅したのが神と無縁の地阿波
0491日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 09:31:53.26
>>488
郡使は検察したり護衛するのを見てそれを率いる一大率が刺史のようだと思ったんだろう
一大率てのが何を意味するかわかんねえからな
0492日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 09:37:06.51
はっきりと言うと、延喜式の資料をみる限り、神が定着した場所こそが都には相応しんだよなw
だから神社数の少ない場所に都の資格はない。
鬼道、最大戸数の点、旧国名からも邪馬台国=山城、大和だよ。もう確定事項です。
0493日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 09:43:35.29
下戸與大人相逢道路逡巡入草傳辭説事或蹲或跪  
兩手據地為之恭敬對應聲曰噫比如然諾
下戸は大人に会うと道路を譲るとかの記述も
郡使が実際護衛してもらってる時に見たんでしょう      
0494日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 09:46:50.92
>>493で書き忘れたけどそれが自女王國以北特置一大率檢察諸國畏憚之の記述でしょう 
 
0496日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 09:52:04.13
>>486
>「坐」が付く神社は、どこかから勧請された神社。
全く根拠がない。
天照坐皇大御神 (あまてらしますすめおおみかみ)は天照大神に対する最上級の名称である。
0497日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 09:52:45.23
魏志倭人伝の邪馬台国の方角は、陳寿が会稽東冶の東あたりと想定しているので、南と記録されていたのは間違いないですね。

そして女王国の東は海、そしてその海を渡ればまた倭種の国があると記載されています。

しかし女王国の西側についてはいっさい触れられていません。

という事は、女王国は帯方郡から南の遠方にある島国の西の端に位置するということになります。

畿内説を主張する理由はありません。
畿内説を主張する考古学は霊感商法で歴史捏造を企む詐欺とも考えられます。
0498日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 09:55:01.30
傳辭説事或蹲或跪兩手據地為之恭敬對應聲曰噫比如然諾    
これも大名行列に町人が直訴する姿を想像する
「お殿様ー」とか言ってるの 
0500日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 10:05:51.17
江戸時代の国学者の思考を捏造しまるで皇国史観から九州説が生まれたような嘘をまき散らす畿内説はオワコン。誰が読んでも倭人伝の使者が来たのは九州。
0501日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 10:06:20.05
あまり説明になってないかもしれんけど
お殿様=伊都国王って事で
領民に慕われてる人じゃなきゃ
0503日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 10:10:42.52
>>500
99%は九州だよ
間違いない
それより考古学者の低能さは異常だ
0505日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 10:15:31.20
邪馬台国は近畿ですね。
0507日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 10:17:27.34
>>503
九州には邪馬台国はない
卑弥呼はいるけど?
0509日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 10:21:55.96
畿内説とは皇紀が絶対的に疑われなかった江戸時代の遺物で、その残りカスを食べた内藤湖南なるド低能のウンカス。
0511日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 10:48:03.44
そのウンカスを味噌だと言い張るのが反日歴博。
0512日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 11:02:59.93
>>492
>鬼道、最大戸数の点、旧国名からも邪馬台国=山城、大和だよ。

山城、大和は、そもそも論として、「倭地温暖・植生」でアウト! 「魏志倭人伝」に不適合!   

もう確定事項です。   @阿波
0513日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 11:06:18.49
>>497
天照坐皇大御神も、天照に勧請された皇大御神。   @阿波
0514日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 11:09:47.66
>>500
>江戸時代の国学者の思考を捏造しまるで皇国史観から九州説が生まれたような嘘をまき散らす畿内説はオワコン。

いや、実施に江戸時代の国学者の皇国史観から九州説が生まれた
これは常識
抵抗しても無駄
0515日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 11:19:06.01
皇国史観と言ったり記紀を否定してると言ったりなんなんだ?
0516日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 11:21:44.49
つまり畿内説は存在理由が無い
0517日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 11:25:40.26
>>514
その常識は「通説」畿内説と同様の汚いやり方で定着したのでしょうが。
0518日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 11:28:21.26
>>517
はいそうです
0519日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 11:31:04.32
畿内説はドカタの妄想作文
韓国の反日団体がやってる手口と全く同じ
0520日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 11:36:21.32
>>515
畿内説は記紀を盲信しない
皇国史観丸出しの九州説を嫌っている
0521日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 11:37:58.62
>>496
天照坐皇大御神も、天照に勧請された皇大御神。  

「坐」が付く神社は、どこかから勧請された神社。   @阿波
0522日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 11:41:05.99
>>500
その通り、伊都のある九州へは間違いなく来ているよ。
でもそこが邪馬台国でないのも魏志倭人伝を読めば直ぐ判るだろう?
間違いなく邪馬台国は畿内、丹山も鬼道の痕跡も一番多い場所だからな。
0523日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 11:43:58.94
>>522
>間違いなく邪馬台国は畿内

間違いないく畿内は、「邪馬臺国」でない!  「倭地温暖・植生」でアウト! だ高齢中よ。   @阿波
0524日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 11:46:43.27
狗奴国は東海なのに、河内(大阪)彦とはこれ如何に?w
0525日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 11:48:42.74
>>524
東海も河内(大阪)彦も、「狗奴国」に無関係。   @阿波
0526日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 11:49:21.52
>>524
河内(大阪)彦なんて珍説は畿内説とは無縁だから
0527日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 11:50:36.25
>>524
邪馬台国が大和で、狗奴国が尾張とすると、その国境(関ヶ原〜鈴鹿山脈〜伊勢湾)には、戦乱の痕跡があるはずだよねw
0528日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 11:53:48.11
>>526
畿内説の狗古智卑狗は不明のまま?w
0530日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 11:55:07.90
>>527
>戦乱の痕跡があるはずだよねw

それは無理。  戦闘に関連する地名は残る可能性はある。   @阿波
0531日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 11:57:23.05
古い国、地名が残るから邪馬台国とは大和、山城国のあるエリアになります。常識だねw
0532通りすがり
垢版 |
2023/02/01(水) 11:58:04.45
>>128
なるほど
0533日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 11:59:24.69
>>164(ヒロシ) 
そんなヒロシに騙された畿内説w
0534日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 11:59:50.14
邪馬台国の時代、狗奴国は基本的に九州、四国の太平洋側の国々だよ。
邪馬台国は畿内河内湖から桜井エリアだね。
女王国は瀬戸内海から紀伊半島東エリアまで。傍国はそれを説明しています。
0535日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 12:01:29.14
>>531
邪馬台は間違いなくヤマタイです
邪馬都などいう国は史書には出てきません
0536日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 12:02:14.07
>>534
河内は女王国の東の倭種の国です
0537日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 12:04:25.44
>>534
と、なんとなく、もやっと思うらしい。  わははははは   @阿波
0539日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 12:11:26.81
>>531
邪馬台とは大和で間違いないが卑弥呼の時代は東遷前なんだよなぁ。
0541日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 12:14:09.56
畿内説は全て作り話です
0542日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 12:20:46.40
>>541
九州説と同じ位だな
0543日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 12:22:35.24
ヤマトとは、万葉集の時代に出来た言葉である
まだ漢字がよく読めない時代に魏志倭人伝の邪馬壹をヤマトと読んでいたのがヤマトの始まりだ
中国では壹を臺と誤写してしまったが故に邪馬臺として以降の史書に引き継がれてきたが、実は邪馬壹国で正しいのです
0545日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 12:37:45.29
>>543
>中国では壹を臺と誤写してしまった

真逆だな。   @阿波
0546日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 12:43:51.24
>>544
倭人は魏志倭人伝しか読んだことが無い
そして中国の文献を持ち帰ったのは7世紀頃だ
0548日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 12:50:10.73
唐が作成した翰苑は倭人が文字を勉強するための文例集だが、そこにもヤマトなどという言葉は出てこない
ヤマトというのは何処かの誰かが何かを見て誤読した事で広まったいわゆるスラングなんだよ
0551日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 12:51:31.02
>>547
倭国が南朝宋と交流していた時代に、中国で本来の邪馬「臺」の漢字に戻した。   @阿波
0553日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 12:53:06.65
>>469

平原遺跡は当時の海外からの財宝が一手に集中しているよ?
何をもって独占力を失ったと言っているのかまったく意味不明。
むしろ伊都への一極集中というのが考古学的な見解だよ。
0554日本@名無史さん
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2023/02/01(水) 12:53:24.76
>>552
構わん
0556日本@名無史さん
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2023/02/01(水) 12:56:00.96
>>475

日本という国号は、饒速日が鳥見の里を見渡す哮ヶ峯(生駒山)で国見をし、「虚空(そら)にみつ日本(やまと)国)」【訳「 空から見た日本の国」または「空に光り輝く日本の国」】と賛じたことに因む。
それまでは畿内は日本ではなく長髄彦らが治めるため鳥見と呼ばれていたことがわかる(長髄彦は出雲の事代主の末裔である登美家の族長)。
神武に続く欠史八代に事績がないのは、饒速日の庇護の下の居候だったからだろう。
物部氏を母に持つ崇神天皇は、物部氏の本拠地である石上神宮の近くに宮を構え、後にそれが纏向遺跡として発見された。
0557日本@名無史さん
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2023/02/01(水) 12:57:50.00
>>553
伊都国は最初の王国だったかもしれないが邪馬台国時代は南の女王国を守る守衛だよ
0559日本@名無史さん
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2023/02/01(水) 12:58:12.98
伊都に置かれた大率が検察した対象は、伊都そのものではなく周辺諸国なんだよ。
諸国はこれを畏怖したと書かれている。
伊都こそ最高権力だった。
0560日本@名無史さん
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2023/02/01(水) 12:59:14.42
>>515

畿内説は記紀を都合よくつまみ食いしているんだよ。
だから信用されない。
0561日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 13:00:47.01
>>559
今で言えばソマリアのような海賊国家だったかもしれない
周辺に船とか沈んでないかな?
0562日本@名無史さん
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2023/02/01(水) 13:01:51.98
>>556
だったらヤマトとはなんだ?
日本をヤマトとは読めない
0563日本@名無史さん
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2023/02/01(水) 13:02:59.53
>>560
そうかもな
だから全否定で良いんだよ
0566日本@名無史さん
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2023/02/01(水) 13:20:46.56
>>556
と、なんとなく、もやっと思うらしい。  わははははは   @阿波
0567日本@名無史さん
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2023/02/01(水) 13:21:16.82
邪馬台国
山門→吉野ヶ里→日田(卑弥呼時代)→宇佐(台与)→大和朝廷に取り込まれる→田油津姫反乱
                 →丹後(海部)→奈良(合流)
0569日本@名無史さん
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2023/02/01(水) 13:24:12.39
>>567
と、なんとなく、もやっと思うらしい。  わははははは   @阿波
0570日本@名無史さん
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2023/02/01(水) 13:28:36.99
>>565

倭寇というのは倭とは呼ばれなくなった時代の日本の海賊に対する蔑称
日本では高麗盗人と呼ばれた
0571日本@名無史さん
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2023/02/01(水) 13:29:35.50
邪馬台国(卑弥呼時代:本名八女津姫)
山門→吉野ヶ里→日田

(卑弥呼死後の倭国大乱)
宇佐  丹後 分裂

(台与時代)
宇佐

(熊襲征伐時代)
山門:田油津姫
0574日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 13:30:38.88
>>571
と、なんとなく、もやっとそう思うらしい。  わははははは   @阿波
0575日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 13:31:49.79
【壹與と與止日女】

肥前国一宮である與止日女神社(佐賀県佐賀市大和町川上)があり、かつては河上神社と呼ばれていた。
その祭神は與止日女命(ヨドヒメ)といい、豊比咩(トヨヒメ)、世田姫(ヨタヒメ)、淀姫(ヨドヒメ)とも呼ばれる。
與止日女神社を流れる佐嘉川は江戸時代の治水工事までは佐賀平野において筑後川に流入していた。
魏志に記された末盧国に比定される松浦にも淀姫神社(長崎県松浦市志佐町)があり、そこから松浦川を上った上流にも河上大明神こと淀姫神社という神社がある(佐賀県伊万里市大川)。
與止日女神社の末社は福岡県から熊本県、長崎県、対馬まで分布している。
後に淀姫神社は畿内にも勧請され、豊臣時代の淀川や淀姫の名前の由来でもある。
かつて豊前国一宮は今の宇佐八幡宮(大分県宇佐市)ではなく香春三山の香春宮(香春神社、福岡県田川郡)であったとされており、三の岳の祭神が豊比咩命といい、同一人物の可能性がある。
この領域は邪馬壹国連合の一部であり、その主である豊比咩は卑弥呼の権威を受け継いだ壹與そのものだろう。
熊襲の由来が卑弥呼の敵であった肥後の狗奴国であれば、卑弥呼のいた筑後でも伊都国のあった筑前でも狗奴国のあった肥後でもなく、肥前から壹與が共立されることで、狗奴国は倭国に統合されたと考えることができる。

壹與は卑弥呼の宗女とも書かれているので、卑弥呼本人も肥国の女王だったのかもしれない。
それを裏付けるのが、魏志倭人伝にある卑弥呼と狗奴国の卑弥弓呼はもとより不仲という一文だろう。
邪馬台国と狗奴国の対立は、火の国の王座をめぐるお家騒動だったのである。
卑弥呼の時代、伊都の天孫族は倭王の座を失い、卑弥呼の下で伊都国の官「爾支」と呼ばれていた。
爾支の名は、神道における禰宜や天孫邇邇芸に通じる名前だろう。
0576日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 13:31:59.53
この與止日女神社の西に大願寺廃寺跡(佐賀市大和町大字川上大願寺)という遺跡がある。
ここに熊襲の王であるクマソタケル、名をトロシカヤ(取石鹿文)という人物の墓が伝わる。
この地に伝わる伝承では、筑紫を根城としていたトロシカヤが筑紫の穴倉陣で小碓命に襲われて肥前川上に脱出してくる。
小碓命は船で肥前堀江、蠣久と追跡し、大願寺の山中でトロシカヤの宮の新築祝いに女装して潜入し、トロシカヤを暗殺する。
死の間際にトロシカヤはクマソタケルの名を返上してより小さな地域の王の名であるカワカミタケル(川上梟帥)と名を改め、小碓命にヤマトタケル(倭建命)の名を献上する。

ここで重要なのは熊襲がこの時代に筑紫を拠点に九州北部を治めていて、倭国の王家そのものと考えられる点である。
また、その本拠地は壹與と見られる人物の本拠地でもある。狗奴国として分裂していた肥国王統から女王壹與を迎えることで、倭国は安定を手に入れたのである。
0577日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 13:40:32.79
九州王朝バカはガチでキモい。
いくら間違いを指摘されても全くおかまいなしだな。
0579日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 13:42:37.54
>>564
畿内説は一丸で卑弥呼は中国人で斜面に死体遺棄だったか?
0583日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 13:59:59.46
出羽三山だよな
月山、羽黒山、湯殿山
温泉の地は何かあるよな
足軽山、道後、有馬、白浜、
池上曽根遺跡のある摩湯丘陵にも温泉が湧いて栄えた集落の伝承が残っている
堺辺りの海岸線は井戸を掘れば塩湯が湧いたらしい
奈良時代平安時代から都の人々が湯浴みに通っていたとか
明治時代においても奈良から婦人たちが列をなして堺の塩湯に行っていたとか
定住の遺跡からは見えない古代のありようがあったのかもな
移動民の生き様
0584日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 14:00:09.53
>>581

つまりこいつは日本の権力には従わないというスローガンを掲げた関西の九州王朝説
0587日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 14:06:25.87
豊比刀iユ・タ・ヒ・メ)!!!!!!
0588日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 14:10:16.87
辺境って人の心を歪めるんだな。阿波人にせよ伊都人にせよ。
0589日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 14:10:44.96
>>555
国産みの順番が全てだよ。淡路島や四国をまず最初に造るのだから、母体は畿内しかないんだからなw
0590日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 14:10:49.88
昔の教科書では倭寇といえば倭が古墳時代に半島に侵攻していたことを意味していて、後世の海賊はオマケ扱いだった。
今ではオマケが主となり、古墳時代の倭寇はなかったことになっているんだな。
戦前は神功皇后の侵攻は華々しい成果として宣伝されていたのに、都合が悪いものには蓋をするということか。
畿内説はどこまでも歴史を改竄しないと気が済まないらしい。
0591日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 14:11:43.08
普通の都市に生まれ育ってよかったかな。郷土愛とかさらさらないけど。
辺境蛮族どもの思考がガチでキモイwww
0592日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 14:12:14.09
>>587

なんでそれでユタヒメになるんだよ。
どこの神社にそう書かれているんだ?
0593日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 14:13:54.76
>>535
倭名抄でもヤマダイ郷は畿内にあるからな。ヤマシロ、ヤマトの国名は当然そこが邪馬台国の所在地からに他ならない。
0596日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 14:16:18.46
これでいいか?

【壹與と與止日女】

肥前国一宮である與止日女神社(佐賀県佐賀市大和町川上)は、かつては河上神社と呼ばれていた。
その祭神は與止日女命(ヨドヒメ)といい、豊比咩(ユタヒメ)、世田姫(ヨタヒメ)、淀姫(ヨドヒメ)とも呼ばれる。
與止日女神社を流れる佐嘉川は江戸時代の治水工事までは佐賀平野において筑後川に流入していた。

以下略

要するに、佐賀平野は筑後平野と連続していて、肥前は筑後川の流域だった。
個人的には佐賀が壹與の時代の邪馬台国の中心だが、筑後説とそう遠くはないということ。
邪馬台国七万戸は奴国二万戸を含む、福岡佐賀長崎の三県だと思う。
0597日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 14:18:54.02
>>588
キナイコシのココロが一番歪んでいると思うぞ
0598日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 14:20:09.29
ツガル偽書でドジをこいてしまったマヌケが関西の九州王朝説
0600日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 14:20:48.80
ヨドやヨダとかユタ呼ばれた姫を宗女トヨと無理矢理くっつけるんじゃないって事。
0601日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 14:23:36.78
畿内は九州人が征服した場所
0602日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 14:24:54.94
>>597
そいつらは頭が悪いだけ。辺境人の心の歪みは最早、人外。
0603日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 14:28:19.32
>>602
今の奈良は辺境で阿波と変わらん
0604日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 14:32:02.18
>>603
一理あるな。個人的に古都、大物主大神の鎮座地として勝手に点数を上げてたのかも。
0606日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 14:33:11.60
>>594

畿内説は無知なドカタの妄想作文
関西の九州王朝説というのは畿内説の脳内に存在する幻覚
0608日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 14:38:27.99
>>605
福岡市人口160万
奈良県人口130万
奈良市人口35万
随分と差がありますなあ
0612日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 14:48:31.27
>>610
福岡への転勤族が永住したくなる町だよ、東京から転勤して行った友人の話だが。
0614日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 14:53:50.90
なるほど筑後が大人しくて、敗戦国伊都筑後がやかましい理由がわかった。
0615日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 14:55:01.37
筑前
0616日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 14:56:30.45
畿内説は何十年も引き篭ってるから別世界のガイジンみたいな感覚なんだなw
0617日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 14:59:01.56
奈良は治安が悪い、卑弥呼を守れるわけない
0618日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 14:59:56.71
福岡市のことを書いてるが、
ここの北部九州説は糸島、筑後山門だろ
3世紀の博多が密接な交流関係なのは畿内
0619日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 15:01:49.66
奴国 邪馬台国 不弥国は伊都国御三家
0620日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 15:03:33.19
>>608
延喜式の神社数では福岡辺りも少ないねw
やはり鬼道使いの都には相応しくない。
0623日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 15:05:29.14
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125






.
0625日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 15:08:46.98
たまのくにのコピペ野郎もかなり病んでるよな。
0627日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 15:13:59.64
英彦山は飛鳥時代の役行者(賀茂氏)が開祖である修験道の霊場
0628日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 15:32:20.48
>>618
> 3世紀の博多が密接な交流関係なのは畿内

このストーカー妄想気持ち悪いよな

畿内の土器屋が大都会博多まで祭祀土器の売り込みに来てたって話

勝手に密接な交流関係とか印象操作してるから霊感商法って言われるんだがw
0629日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 15:35:53.16
>>628
>畿内の土器屋が大都会博多まで祭祀土器の売り込みに来てたって話

九州説は妄想しすぎ
0630日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 15:39:35.87
>>629
土器職人が博多で地元の胎土使って土器を作ってみせたんだろ?

どうでっしゃろ?とか言ってw

あんまり流行らんかったみたいやけどw
0631日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 15:41:18.24
博多の交流相手は主に出雲だろ。
それに畿内からは博多の土器が出ない以上、密な交流とは言えない。
0634日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 15:49:50.88
>>632

天忍穂耳命の母親が天照大神
0635日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 15:52:42.80
>>628
>畿内の土器屋が大都会博多まで祭祀土器の売り込みに来てたって話

結局、密接な交流関係があるという話
0636日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 15:56:45.15
大帯姫と竹内宿禰は本当に新羅征伐に行ったのか
新羅の神、鹿春神が田川の辺りに住み始めたり
むしろ迎えに行ったようにも思える
0637日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 15:57:38.98
>>634

それは記紀が年代の入れ替えとかしていると思う。
天照の孫の邇邇芸が、卑弥呼より前の伊都にいた倭王だと思う。
0638日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 15:58:53.64
>>635

畿内から生口が連れてこられていただけだと思う。
畿内からは博多の土器が出ないから、密接な交流ではない。
0639日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 16:00:49.51
>>636

中朝国境付近の広開土王碑は、その辺りまで侵攻してきた倭国軍を蹴散らして半島南岸まで押し戻して壊滅させたことを記念した碑。
0640日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 16:05:43.26
>>638
畿内系の土器は集落単位で広まり、上層階級まで使用
纒向では博多製の庄内式が出土
九州説は間違いだらけ
0641日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 16:07:24.89
>>635
何処の誰か知らない田舎者が勝手に売り込みに来てただけだろ

ストーカーキモいw
0642日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 16:07:39.77
国堅大神の御子神である爾保都比賣命は新羅をよく治めて我が前に奉れと言ったが
結局平定しただけで終わりにして帰ってきたと播磨風土記にある
その後爾保都比賣命は紀伊国の藤代の峰に祀られる
神の意思を裏切って鎮魂したということか
0643日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 16:09:18.36
>>640
> 纒向では博多製の庄内式が出土

纒向は博多の傘下だったんだなw

畿内説の屁理屈を基準にすればw
0645日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 16:16:12.55
>>597
誰を見てもキナイコシと言う九州説信者の脳が歪んでいる
0646日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 16:18:04.88
>>644
そのダブルスタンダートとやらは実在しない
あった証拠がない
妄想だ馬
0647日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 16:19:18.03
魏志倭人伝によると、博多は伊都を畏怖する立場であり、上層階級などいない。
人口が多いだけの騒がしい庶民の町、商都博多。
0648日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 16:20:34.96
纒向遺跡への搬入土器(全体の15%)の出身地割合
伊勢・尾張系 : 49%
北陸・山陰系 : 17%
河内系 : 10%
吉備系 : 7%
近江系 : 5%
関東系 : 5%
播磨系 : 3%
西部瀬戸内海系 : 3%

纒向には魏の使いが滞在していた筑紫からの搬入物がない。
邪馬台国が交流していたはずの楽浪・帯方郡からの土器も出ない(四捨五入で1%に満たない)。
目と鼻の先の河内との交流も乏しく、畿内の他の地域のような瀬戸内海や淀川の水運の利益を受けられない、尾張の影響下の後進地域であった。
河内が狗奴国とする畿内説もあるが、その場合、纒向は半島大陸への玄関口である瀬戸内から九州北部へのアクセスルートがなくなり、魏と交流できた可能性は低い。
東海地方を狗奴国とする畿内説もあるが、纒向への東海からの土器の流入を説明できない。
尾張氏は饒速日の末裔であり、記紀では大和も饒速日の支配下であったとされる。
邪馬台国とは関係ない。
0649日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 16:28:11.17
>>648
とても中国に朝貢してた遺跡とは思えないな

橿考は理屈抜きで邪馬台国は畿内で間違いないニダと言ってるそうだがw

こういう宗教的行為を野放しにするのは今後の日本にとって悪影響にしかならないな
0650日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 16:32:49.05
>>648
>纒向には魏の使いが滞在していた筑紫からの搬入物がない。

ウソ

>邪馬台国が交流していたはずの楽浪・帯方郡からの土器も出ない(四捨五入で1%に満たない)。

そんな遠くから重たい土器など持ち込まない
ばかですか

>河内が狗奴国とする畿内説もあるが、

畿内説ではない

>東海地方を狗奴国とする畿内説もあるが、纒向への東海からの土器の流入を説明できない。

説明されている
ばかが他人の話を聞いていないだけ
0651日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 16:34:30.97
>>643
>畿内説の屁理屈を基準にすればw

そんな基準はない
ばかの捏造
0652日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 16:34:34.51
楽浪帯方つまり中国からの土器が出るのは圧倒的に糸島。
郡使が常に駐在すると魏志倭人伝に明記される。
卑弥呼もその近くにいたはず。
0653日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 16:35:36.11
そもそも邪馬台国は南だから畿内は東の倭種の国以外の何者でも無い
0654日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 16:35:36.44
>>650

東海からは伊賀の山を越えて土器を持ち込んでいる。
思いから運ばないなどとは言い訳として成り立たない。
0655日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 16:37:04.34
>>652
>卑弥呼もその近くにいたはず。

根拠なし
妄想
0656日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 16:37:49.25
>>654
>東海からは伊賀の山を越えて土器を持ち込んでいる。

証拠は?
0657日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 16:39:09.05
>>656

纒向遺跡への搬入土器(全体の15%)の出身地割合
伊勢・尾張系 : 49%
北陸・山陰系 : 17%
河内系 : 10%
吉備系 : 7%
近江系 : 5%
関東系 : 5%
播磨系 : 3%
西部瀬戸内海系 : 3%
0658日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 16:39:29.02
>>650
>そんな遠くから重たい土器など持ち込まない
>ばかですか

そうか、そんなんじゃ朝貢も出来ないな

畿内説が朝貢していなかった(出来なかった)と自白しましたよw
0659日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 16:39:42.04
>>648
各地から集められた奴隷みたいのが古墳作らされてただけの場所よ。
ピラミッドとその作業員の休憩所みたいのがあっただけの所って感じ。
行ったらわかる。
俺は畿内説だったけど
あ、ここじゃねぇって笑いがでた。
そもそも昔から開拓されてたような場所じゃなかったからポンポン古墳作れるんだよ。
0660日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 16:44:28.04
>>658
>畿内説が朝貢していなかった(出来なかった)と自白しましたよw

捏造
0661日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 16:46:58.93
>>659
ほんとそれ

まあピラミッドの場合はちゃんと労働者の住居も用意されてたみたいだけど
纒向遺跡の場合はせいぜいテントぐらいかな
0662日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 16:47:23.31
>>658
卑弥呼以外に朝貢した国てどこ?
何か文献あるのか?
0664日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 16:48:59.79
畿内の土器は船に乗せると割れるポンコツ土器だそうだ、方や九州製土器は半島で発掘されている。おそらく畿内からは中国どころか朝鮮にも行けてない。
0666日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 16:51:00.11
>>663
>重いものは運べないんだろ?w

九州説また捏造
心が腐ってるな
0667日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 16:51:16.34
>>665
どの国々が貢いだのよ?
文献あるのか?
0668日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 16:52:45.73
>>664
>畿内の土器は船に乗せると割れるポンコツ土器だそうだ

熱効率のため厚さ1ミリの高級品
0669日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 16:54:55.49
>>666
自分の言った事を20分ほどで忘れるとはw
すでに認知症では?

650:日本@名無史さん:2023/02/01(水) 16:32:49.05
>>648
>纒向には魏の使いが滞在していた筑紫からの搬入物がない。

ウソ

>邪馬台国が交流していたはずの楽浪・帯方郡からの土器も出ない(四捨五入で1%に満たない)。

そんな遠くから重たい土器など持ち込まない
ばかですか
0671日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 16:58:23.87
そもそも纏向には人が住んでないし
0672日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 16:59:48.01
>>669
>自分の言った事を20分ほどで忘れるとはw

「重いものは運べない」などという発言なし
九州説信者は捏造狂
心を病んでいるな
0673日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 17:00:59.44
>>670
女王国30国=九州〜近畿・越
だよ。ウジ
0675日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 17:04:09.87
>>673
そんな奇説で現実逃避さてるつもりか?w
東の海とその千余里先の倭種の国は何処なんだよ?
0676日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 17:05:12.23
>>674
九州説の捏造体質はもう病気
「重いものは運べない」などという発言なし
0677日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 17:05:17.59
毎日毎日あっけなく破綻する畿内説って存在価値あんの?
0678日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 17:06:29.31
マスコミが見出しに「卑弥呼」と載せるために炭素年代測定をいいように解釈して箸墓を3世紀にしてしまったためにどんどん考古学的におかしくなってるのになんで気付かないのか。
巻向が卑弥呼の神殿だったら偉いことになる。ガヤガヤ古墳作る作業員がうるさいそんなとこで国の大事な祭りやってたわけないっての。めちゃくちゃ狭いぞあそこ。
0679日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 17:06:43.74
>>676
じゃなぜ大陸や半島の土器が出土しないんだ?
礼品は素手で持ち帰ったのか?w
0680日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 17:06:56.83
>>675
駿河だな。
0681日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 17:07:06.27
>>657
それ、制作地じゃないから
数字も間違いだし
0682日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 17:08:28.65
>>679
なんでわざわざ重たい土器に入れて運ぶと?
0683日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 17:10:48.10
>>675
貢ぎ物はなんだよ?
交易品は何?
翡翠や青玉、真珠、丹
さて?九州のみから?
0684日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 17:13:02.77
土器を何処で作ったかは重要
運んだか現地で作ったかで意味が違ってくる
0685日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 17:14:25.42
奈良と大阪の土器には違いがあまりないと読んだ
0686日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 17:15:59.09
>>678
>マスコミが見出しに「卑弥呼」と載せるために炭素年代測定をいいように解釈して箸墓を3世紀にしてしまったためにどんどん考古学的におかしくなってるのになんで気付かないのか

そんなお前の捏造情報は誰も信じないよ
ソースないだろ?

お前の創作だ
捏造だよ捏造
九州説の捏造体質丸出し
0687日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 17:18:05.46
>>684
それを調べてないのが関川の統計な
しかも集計間違い付き
0688日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 17:18:53.64
今使譯所通三十國
中国朱の出土等がある地域
0689日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 17:19:02.86
年代なんて多少誤差があっても仕方がないと思っとかないと
だって奈良に限らず何処でもそうでしょう
0690日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 17:20:14.10
>>688
半島関連では鉄の出土がある地域
0691日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 17:21:34.69
>>630

3世紀前半の筑前型庄内甕は
在地の弥生土器の特徴が残った在地土器制作者による模倣制作
0692日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 17:21:35.44
>>689
わかるものはわかる
わからないものはわからない
なんでも無視して空想を優先するのが九州説
だから学問の世界から消えた
0693日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 17:22:24.11
>>690
>>688
近畿だよ。翡翠以外はある
0694日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 17:23:47.10
>>690
鉄は条件次第ですぐ溶けちゃうんで信頼性は薄い
0695日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 17:24:46.55
>>694
意味不明。あるかないかであって。
0696日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 17:27:48.96
>>688
それ後漢時代
0697日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 17:29:43.64
>>690
邪馬台国は近畿
関東まで出土あるね。
物流網は広い
0698日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 17:30:14.16
女王国とは
邪馬台国と出雲国が同盟を組んで
北九州から日本海側若狭湾まで伸びた
貿易連合国だよ
敵は熊襲(熊本)のみ越とか岡山とかは中立
0699日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 17:30:26.53
>>696
卑弥呼の時代は?
0700日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 17:31:06.62
>>686
卑弥呼は下女1000人侍らせる。
んー?
巻向のどこに住んでたのかなー。
天の岩舟で空から出勤かな?
どんどん苦しくなるぞー。
てか、わざと見苦しい真似して九州説のなりすましのような気がする。
0701日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 17:32:31.99
>>698
丹後にも国産朱出土があるけど?
瀬戸内系土器も出土
0703日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 17:38:22.10
>>699
後漢書・・・凡百餘國自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國
倭は100国あって武帝が朝鮮を滅ぼして(紀元前108年)から使役が通ずるのは30国

 
0704日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 17:40:56.16
>>676

数レス遡るとすぐ見つかることを否定するなんて、畿内説は嘘が身につきすぎてない?
0705日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 17:40:56.77
>>701
海部氏は卑弥呼(八女津姫)の家来と仮説
台与に強力せず、大和朝廷に強力したと妄想している
0706日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 17:41:08.53
>>652

糸島の弥生中期末以来の楽浪土器のピークはⅡA期(2世紀後半)
つまり、辰韓と同じ楽浪郡からの逃亡者
畿内と密接な博多の筑前型庄内甕が多量に運ばれるのは今山・今宿
なので楽浪系韓人の隷属国伊都国の港を押さえて統制しているのが女王国の一大率
0707日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 17:41:28.59
>>702
近畿だけど、翡翠で富山あたりまでだな。
九州説は鉄や中国朱を得る為に何と交換したのだろうか?
九州以外と交易がないというのか?
0709日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 17:44:24.69
>>706

魏志倭人伝で伊都国に帯方郡からの郡使が滞在していたことが明記されているのだから、年代比定の方に誤りがあるんだよ。
0710日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 17:45:02.65
滋賀
九州、半島からの
出土しないオルドス剣とか出土ある。
0711日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 17:45:13.09
>>708
>>703
0712日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 17:45:14.29
卑弥呼(八女津姫)は女上杉謙信みたいな奴と思われる
部下はまったく旨味がない、奴隷
戦の天才
死ねばみんなバラバラになり
大和朝廷に田油津姫として大虐殺されたのさ
0713日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 17:45:27.74
>>707

九州が代表として交易すればいいだけだよ。
だから商都博多に各地からの物産が集まる。
0714日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 17:45:40.17
卑弥呼が巫女ばかり住まわしたのは勿論三輪山周辺の集落だろう。
大神神社周辺の逸話見てもそういう記述だからな。
他にそのような場所はないからな。
神武神話においてもこの地で神の娘を娶る逸話もちゃんとあるぞ。
この娘は倭の海人の娘ではなかったのは、刺青で驚いていた点でも判る。
0715日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 17:47:09.41
>>712

田油津姫の実年代は、神功皇后と同じで卑弥呼から120年後。
田油津姫の2代前の神夏磯姫で壹與の娘くらいの年代。
0717日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 17:48:14.42
>>713
女王国の範囲は九州より広いて事だよね
0718日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 17:48:55.82
>>716
根拠無し
0719日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 17:49:43.42
100国あって使役が通ずるのが30国てのは中国が国として認識してるのが30国でしょう
紀元前108年の話
0720日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 17:50:08.08
伊勢遺跡が活動していた時代は日本海ルルート、卑弥呼こと百襲媛が瀬戸内海で活動出来た頃は瀬戸内海を使えたんだよな。
なので巻向に宮を設けていた。
三世紀半ば以降に伊勢や宇陀水銀目当ての連中は奈良盆地、三輪山を目指してたということ。
0722日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 17:51:58.22
>>589
>国産みの順番が全てだよ。

畿内は、最後のオマケだ。   @阿波
0723日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 17:53:50.97
>>713

九州ではなくて、学者が博多湾貿易と呼んでいる時代
有明海沿岸は関係ない
0724日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 17:54:54.73
>>629以降の畿内説はまさにコレw

中文が読めない
反論は出来ない
中傷と妨害しか出来ない
対話が出来ないコミュ障の特徴丸出しで安価不使用のつぶやき連発
口に出す悪口は自分に一番に該当
当然ながら何事にも証拠は絶対に出さず、出せと言われると逆ギレしてワメき出す
行き詰ると脳内幻覚に現れる九州王朝説と戦いだす
これ、畿内説盲信者の特徴
0725日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 17:57:22.44
>>724

雑多九州説は日本の学術研究成果に基づいていない
韓流自己絶対正義=自分だけが絶対的に正しいという主張
0726日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 17:58:38.42
>>723
有明海貿易もあるが?
中国朱とか
まあ、津(港)はいたる所にあるけどね
伊都国が管理
0728日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 18:00:25.97
伊都国が管理でなく
伊都国に置くだな。
スマソ
0729日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 18:01:21.98
>>725

自称畿内説は日本の学術研究成果に基づいていない
韓流自己絶対正義=自分だけが絶対的に正しいという主張
0730日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 18:01:40.38
>>727
博多のみなのか?
貿易港て?
0733日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 18:03:12.16
>>727
学者は博多以外は貿易はないと
言っているのか?
0734日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 18:03:38.18
>>668
>熱効率のため厚さ1ミリの高級品

そりゃ、「東阿波型土器」なんだから。  わははははは   @阿波
0736日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 18:04:57.81
>>735
学説?
必要か?
0737日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 18:06:28.41
>>736
ないわけね
0739日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 18:07:58.93
>>693
>近畿だよ。翡翠以外はある

なんの工房も無い。 論外!  @阿波
0740日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 18:08:22.62
>>737
ある必要性もない
0741日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 18:09:58.89
>>739
稲部遺跡あるけど?
絹出土
兵庫や丹後もあるけどね
0742日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 18:10:37.87
>>668
>熱効率のため厚さ1ミリの高級品

高齢中よ、そりゃ、「東阿波型土器」なんだから。  わははははは   @阿波
0743日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 18:12:16.00
>>741
>稲部遺跡あるけど?

近畿まで広げて、そこだけか?  わははははは  論外!   @阿波
0744日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 18:13:26.15
>>733
ガリバ的独占に近いが、他が無いとは言ってない
完全独占するような、そんな権力は古代にはない
0745日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 18:14:02.80
>>743
摂津、淡路とあるけど?
0746日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 18:15:22.42
>>744
独占て?占有率は?
0747日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 18:15:30.62
>>745
>摂津、淡路とあるけど?

摂津
0748日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 18:16:30.70
>>745
>摂津、淡路とあるけど?

摂津? どこや?

淡路? 阿波だ。  わははははは   @阿波
0749日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 18:16:33.99
紀元前108年から使役を通じる国が30国あって大倭王は邪馬台国に居る
池上曽根遺跡も唐古鍵遺跡はあったし滋賀には下之郷遺跡があった
この時代から伊勢遺跡の前身の遺跡がまだ埋まってるかもと思ってる
0750日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 18:17:41.52
>>729
>自称畿内説は日本の学術研究成果に基づいていない
>韓流自己絶対正義=自分だけが絶対的に正しいという主張


証拠出せないから、それ妄想
まさにあんたが韓流の感情第一ウリナラ起源説タイプだね
0751日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 18:18:14.95
アホの畿内説が霊感商法やってもすぐ破綻するだけだねえ
0752日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 18:18:15.95
>>749
>紀元前108年から使役を通じる国が30国あって大倭王は邪馬台国に居る

鉄器王国「阿波」の国々だ。   @阿波
0753日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 18:19:31.47
>>746
そんな統計はない
圧倒的と言うことが分かるだけ
0754日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 18:22:53.10
魏志倭人伝では、対馬←→壱岐の方角を南北と記述されています。
それを基準として行程を見てみると

https://i.imgur.com/t1La2wr.png

陳寿は里数を計算すれば、会稽東冶の東あたりだと書いてます
まあ邪馬台国が南方角である事は間違いないですね
0755日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 18:23:13.44
>>748
両方とも兵庫だけど?
0756日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 18:23:51.88
>>754
近畿も入るね
0757日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 18:25:24.82
>>754
魏志倭人伝では、対馬←→壱岐の方角を南北などと、どこにも記述されていない。   @阿波
0758日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 18:26:13.69
>>755
>両方とも兵庫だけど?

明治からな。  わははははは   @阿波
0759日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 18:27:08.74
阿波ではないですね
0760日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 18:29:24.84
>>756
入ってないよ池沼
0761日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 18:29:41.60
>>759
太古より、読んで字のごとく、「阿波」だ。  わははははは   @阿波
0762日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 18:34:36.09
>>755
近畿という広大な地域にまで大風呂敷を広げなくても、わずか「阿波」一国だけで間に合う。   

漢・魏と誼を通じ、常時大陸・半島と往来し、鉄素材や中国鏡や中国朱などを交易している。   @阿波
0763日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 18:37:58.23
>>760
充分 東南ですね。
真南なら、九州もほとんど成り立たない。
0764日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 18:38:23.32
>>761
阿波ではないですね。
0765日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 18:38:57.82
>>762
ト骨、絹が出ない
0766日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 18:39:08.43
>>736

日本の学問の通説畿内説では、
3世紀の畿内と外港都市博多を中継とした貿易体制のことを博多湾貿易と呼んでいる
有明海沿岸でも吉野ヶ里で馬韓の大木を立てる祭祀、外土塁柵内環壕で逃げられないようにしてたのだから
倭国とは関係ないところで民族的に何かやってただろう
0767日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 18:40:32.65
>>766
勝手すれば?
交易はあるんだから
0768日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 18:40:50.59
>>763
東南だと高知抜けて太平洋だが?
お前の角膜は魚眼レンズか?
0769日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 18:42:46.20
>>768
何故、その方向なのか?
充分東南ですね
0770日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 18:42:47.91
>>765
>ト骨、絹が出ない

そんな物、漢・魏からのものでない! 論外!   @阿波
0771日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 18:43:37.21
>>766
まずその畿内というのを具体的に遺跡名で答えろ
そして博多の何がいつそこへ運ばれたのか答えろ
さらにその頻度と継続年数を答えろ

学問舐めるのもいい加減にしろよ
0772日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 18:43:43.61
まーだやってらっしゃるのか





卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)





ハイ終了

解散!
0773日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 18:44:06.32
>>770
風習がないので阿波は論外
0774日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 18:45:00.65
>>766
その通説って誰だよ?
0775日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 18:46:24.01
>>771
ぜんぶテンプレに書いてあるよ
学問舐めんなよ素人児戯の九州説
0776日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 18:47:23.67
>>775
無いぞ?
何処だよ?
ネット舐めんなよ自称研究者
0777日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 18:48:55.71
>>773
まぁ、縄文時代晩期末~7世紀末までは、「阿波」がすべての起源と思ってくれてよいから。  
「泥質片岩製石棒」「緑色片岩製柱状片刃石斧」「刻目突帯文土器」「水銀朱」「鯨面土製仮面」
「稲作」「鉄器」「銅鐸」「弧帯文土器」「東阿波型土器」「前方後円墳」「勾玉」「三角縁神獣鏡」
「論語木簡」「白鳳寺院」などなど。   @阿波
0778日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 18:55:04.05
>>773
近畿という広大な地域にまで大風呂敷を広げなくても、わずか「阿波」一国だけで間に合う。   

漢・魏と誼を通じ、常時大陸・半島と往来し、鉄素材や中国鏡や中国朱などを交易している。   @阿波
0779日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 18:55:16.47
>>771

博多湾貿易という語を使って交易体制を説明してるのは福岡の白井や久住の研究者だから
ど素人舐めるのもいい加減にしろよの間違いだろ?
0780日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 19:02:06.43
>>749
王がいるのは伊都国って書いてあるだろ。世王有って書いてあるんだから。
だからじゃそいつが従ってる卑弥呼はどこ?って話だろ。
それも信じないならもう何も調べないでいいよ。倭人伝は間違ってるってスタンスに変えた方が良い。
0781日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 19:10:41.38
>>780
九州説は」現代人の日本語もデタラメに翻訳できる才能もちだから
古典なんて改造は自由自在よ
0782日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 19:11:14.02
>>780
九州説は」現代人の日本語もデタラメに翻訳できる才能もちだから
古典なんて改造は自由自在よ
0783日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 19:13:25.89
>>782
畿内説信者・九州説信者は、互いの弱点を知り尽くして、 トンデモ同士の無限くそバトルww   @阿波
0784日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 19:18:12.39
>>779
二人だけ?
0785日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 19:20:07.57
>>754
当時の人は上空から見たのか?
或いはどこの山から見たのか?
0786日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 19:30:46.48
>>784
皆から常識として受け入れられた
0787日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 19:31:17.47
>>780
女王国に統属してる王が居たんでしょ
後漢書では邪馬台国になる
0788日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 19:33:04.73
女王国なんてのは卑弥呼が居なきゃ女王国じゃないからな
0789日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 19:54:32.44
>>788
あと壹与だな。
共立されたのは卑弥呼
遠方にある女王の都の邪馬台国が
中心国になるという不思議な現象
0790日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 20:12:53.30
>>789
邪馬台国はヤマトで日本の事だと思うんだがなあ
0791日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 20:27:40.21
卑弥呼は邪馬台国に居たってのが奈良に居たでも日本に居たでも間違いではないからな
0792日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 20:30:14.23
河内に対して山の向こう側くらいの意味でしょ
内うちはチ、外ソトはトと言うしな
山外で普通の地名
偶々対狗奴国の前線基地として女王が長くいたので、それに連なる後々の勢力の拠点にされただけだろう

元々大和も河内も銅鐸と勾玉の国で一心同体だったと思うけど
0793日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 20:32:20.51
>>668
船での交易を想定していないという事だな
0794日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 20:33:33.67
当時のヤマトの範囲まではわかんないよ
もしかすると近畿だけの統一王朝かもしれんし
0796日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 20:39:37.22
>>749

かつては本州日本海沿岸を含む100ヵ国が漢と通じていたが、魏の時代には九州北部30ヵ国のみが交流していたということだよ。
0797日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 20:41:53.69
>>766

吉野ヶ里は伊都国、奴国と同じ甕棺墓の倭国の一員だ。
ど田舎の畿内とは格が違う。
墓制の統一は支配者層の統一だから、筑前筑後肥前まで一つの倭国、これが邪馬台国だ。
0798日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 20:44:51.65
>>790

> >>789
> 邪馬台国はヤマトで日本の事だと思うんだがなあ

後世の記紀編纂者にころっと騙されているんだよ。
0799日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 20:46:45.18
>>791

> 卑弥呼は邪馬台国に居たってのが奈良に居たでも日本に居たでも間違いではないからな

卑弥呼は倭国の女王だ。
日本国の女王ではない。
畿内は饒速日の王国、日本国だろ。
倭の別種、つまり筑紫の分家だ。
魏志倭人伝の時代にはまだ従属する立場だ。
0800五芒星
垢版 |
2023/02/01(水) 20:49:36.38
対外純資産411兆円!!
阿波さんはこれをどう思いますか?
0801五芒星
垢版 |
2023/02/01(水) 20:50:08.42
個人資産も、無茶苦茶膨大だ
0802日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 20:51:45.72
>>794

> 当時のヤマトの範囲まではわかんないよ
> もしかすると近畿だけの統一王朝かもしれんし

それはこの時代にはヤマトではなく、饒速日の王国、饒速日だ。
0803日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 20:53:08.54
日本という国号は、饒速日が鳥見の里を見渡す哮ヶ峯(生駒山)で国見をし、「虚空(そら)にみつ日本(やまと)国)」【訳「 空から見た日本の国」または「空に光り輝く日本の国」】と賛じたことに因む。
それまでの畿内は日本ではなく長髄彦らが治めるため鳥見と呼ばれていた(長髄彦は出雲の事代主の末裔である登美家の族長)。
神武に続く欠史八代に事績がないのは、饒速日の庇護の下の居候だったからだろう。
物部氏を母に持つ崇神天皇は、物部氏の本拠地である石上神宮の近くに宮を構え、後にそれが纏向遺跡として発見された。
0804日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 20:55:01.45
>>796
違うわ
100か国あって交易してるのが30
0805日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 20:56:09.76
>>798
だったら日本の事を日本人はなんと言ったんだ?
0806日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 20:57:41.25
残りの本州の70ヵ国は中国との交流が途絶えたんだよ。
そもそも後漢書では倭国とは半島南岸から九州北岸まで。
本州は倭国ではなく倭種の地。
0807日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 20:58:15.16
>>799
当時の日本の範囲まで知らねえって
北海道は含んでないし東北も含んでないでしょう
0808日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 21:00:08.41
日本という国名ができたのは難波京の孝徳天皇の時代でしょ 
ニホの海、ニホツ姫、邇本鳥のニホと日が昇る国、日の本という概念をくっつけてできたんじゃないか
0809日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 21:00:20.07
>>805

饒速日が船で到着したのは生駒山の麓の日下。
饒速日が名付けた名は日本。
わかるかな?
日下と日本、つまりヒノモトだよ。
これが畿内の本来の名だ。
0810日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 21:01:46.35
>>809
当時ヒノモトと言ってたのか?
0811日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 21:03:59.35
俺はそう思う。
まさか中国語で倭と呼んでいたわけでもあるまい。
0812日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 21:04:44.60
>>811
日本=ヤマトだろ
0813日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 21:06:50.80
>>812

日本書紀にころっと騙されているな。
直前の古事記では倭をヤマトと呼び、日本はヤマトとは呼んでいない。
日本と書いてヤマトと読むわけないだろ!
0815日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 21:08:09.01
大和が奈良県の事だと言えるか?
大和魂は明らかに違う
0816日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 21:08:12.37
ヒント:神倭
0817日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 21:08:48.46
>>813
日本武尊
0818日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 21:09:23.51
『旧唐書』倭国・日本国伝

日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本為名。
或曰:倭國自惡其名不雅、改為日本。
或云:日本舊小國、併倭國之地。其人入朝者、多自矜大、不以實對、故中國疑焉。

(日本語訳)
日本国は、倭国の別種なり。
その国は日の出の場所に在るを以て、故に日本と名づけた。
あるいは曰く、倭国は自らその名の雅ならざるを憎み、改めて日本と為した。
あるいは日本は昔、小国だったが倭国の地を併せたという。
そこの人が入朝したが、多くは自惚れが大にして不実な対応だったので、中国はこれを疑う。
0819日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 21:10:43.47
>>817

だから騙されているんだよ。
天武天皇による日本史の捏造に踊らされているんだ。
0820日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 21:11:54.43
>>819
読んでるんだから騙すもなにもない
0821日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 21:14:20.70
倭でも何故この字がヤマトなんだ?
0822日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 21:17:49.06
>>820

日本書紀はあくまでも後世の書なんだよ。
後漢書はあくまでも倭とは狗邪韓国から倭奴国まで。
魏志倭人伝ではもう少し倭が拡大しているが、本州は倭種に過ぎない。
日本という名前が歴史書に登場するのは7世紀末以降だ。
0823日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 21:18:42.55
日本もヤマト、倭もヤマト、大和朝廷もヤマト、じゃあヤマトってなんだ?
0824日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 21:21:12.94
>>821

福岡佐賀長崎つまり倭国の倭人側の呼び名が邪馬台つまりヤマトだった。
その名を後世の畿内が冒したんだよ。
0825日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 21:25:53.34
倭国は筑紫を中心に、肥国、豊国、海を渡り出雲、越などから構成される連合国家である。
一時期は出雲が覇権を掌握したが、国譲り以降は筑紫が復権したというのが記紀の内容。
中国との交易は一貫して筑紫が独占していたことが、三雲南小路遺跡や平原遺跡などの豪華な出土品から考古学的に明白である。
博多湾沿岸に稲作が上陸し、初期の倭国王権が成立した。
イザナギが矛(武力)で獲得したはじめの領土は能古島(おのころ島)であり、イザナミと別れてから禊をしたのが、筑紫の日向の小戸(現在の小戸公園)とされている。

筑紫の特に玄界灘周辺の勢力は、対馬海峡の権益を独占して力をつけ、海人の国、天津国と呼ばれ、その王族は天津神(アマツカミ)として九州や本州の王族である国津神と区別された。
博多湾以外で海人族の勢力の中心にあったのが、宗像氏族が聖地としていた沖ノ島であり、その磐座信仰がおそらくは高天原(タカアマハラ=祖なる海の城)の天照(アマテラス=海を支配する王)に対する祭だろう。
宗像氏族が支援したのが高天原から筑紫への天孫降臨であり、降臨先が筑紫の日向(博多湾沿岸)とされている。
降臨した天孫ニニギが大山積から娶った姫が木花咲耶姫(細石神社)であり、天孫の息子である彦火々出見(山幸彦)を祭る宮が高祖宮である。
しかし記紀によると天孫族による筑紫の支配は三代で終わったとされている。
四代目の彦火々出見は筑紫の日向の高千穂宮を出て大和へ移り、後に神武と呼ばれた。

卑弥呼は肥国の山門の出身で、それまでの伊都国王統を継承するために都である伊都に行き、倭国全体を統治したのだろう。
特に敵対的だった伊都より北の国々(狭義の倭国=天津国)には一人の大率を任命して監視した。
しかしそれは卑弥呼が筑紫の王のようになってしまうこととなり、肥後狗奴国の王と肥国の家督争いを招いたのかもしれない。
後に山門は有明海に向かって拡大する筑紫に飲み込まれて筑後となる。
これにより肥国は肥前と肥後に分裂する。
卑弥呼は死後に都の平原遺跡に葬られた。
0826日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 21:26:55.94
【倭国】

弥生時代前期末に玄界灘沿岸に倭が成立して前漢と国交を持ち、後漢の頃には漢委奴国王印により倭国王が冊封された。後漢書では、倭は朝鮮半島南岸の狗邪韓国から九州北岸の倭奴国までの、対馬海峡の海洋国家として書かれている。
対馬海峡における貿易の権益が、天津神すなわち海の神を中心とした倭の形成の原動力であったと考えることができる。

記紀の国生み神話で、イザナギが矛を使って最初に得た領土である淤能碁呂島は、銅矛文化圏の中心である博多湾の能古島のことである。
それに続きイザナギとイザナミの生んだ国土のうち、天の冠詞がつく隠伎之三子島(天之忍許呂別)、伊伎島(天比登都柱)、津島(天之狭手依比売)、
女島(天一根、姫島)、知訶島(天之忍男、五島列島)、両児島(天両屋、男女群島)が天つ国(海の国)の本来の領域である。
これは倭が博多湾沿岸を都として対馬海峡に広がるという後漢書の記事とよく対応している。

連合国家である倭の盟主は海神の故郷である筑紫であり、他に九州北部には豊国、肥国があった。本州の出雲、越などは倭の別種と書かれている。
博多湾岸を中心として対馬海峡から朝鮮半島南岸へ、日本海から山陰や北陸に広がる国が古代の倭の姿である。
その中で、大陸や半島との交易は博多湾沿岸勢力が独占していて、その支配機構が大率(大宰の帥)であった。

卑弥呼の時代には倭は九州内陸へ拡大していく。
九州で出土した副葬品の分布地図
http://www.netpia.jp/history/map-fukusohin237.gif
この地図は邪馬台国と狗奴国(熊本)を合わせた九州北部の倭の範囲を示している。
これに属州としての日本海沿岸、瀬戸内海沿岸の倭地が付随する。
卑弥呼の時代の畿内は、奈良も京都も大阪もまだ湿地帯であり、畿内の交通の大動脈は肥国女王の與止日女命の名を受けた淀川であった。
奈良は交易路からはずれた辺境の沼地。

2世紀の倭国大乱後の女王の墓として3世紀に平原遺跡が作られた。
副葬された八咫の鏡などの三種の神器は、筑紫伊都が倭国の王都であったことを示している。
0827日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 21:27:40.01
ヤマトは奈良県を指してるんじゃないんだよ
0828日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 21:30:17.59
東京から巨大なヒスイの勾玉が見つかっているからね
倭国大乱前の国作りは一極ではなく三極だったかもしれん
三貴子いうくらいやからな
瀬戸内海〜九州の伊波比、近畿、関東〜伊豆
武蔵国風土記がないのは本当悔やまれる
0829日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 21:31:46.37
大和風土記の天津神と石津神の三都のまぐわいは何を意味しているのか?
0830日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 21:32:51.98
関東の神社を見ればわかる。
武蔵国は出雲の系列だ。
倭国つまり博多湾沿岸の海人族の拠点は鹿島香取の方だ。
0831日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 21:34:56.65
弥生時代に神社など存在しない
0832日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 21:37:20.82
寺の遺跡は出てきても神社の遺跡なんて聞いた事がない
0833日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 21:39:09.03
つまり西日本も東日本も、筑紫の支配下になった。
だから筑紫の王墓と同じ三種の神器を今の天皇家も奉り続けている。
日本の史書も、中国の史書も、九州北部が倭の王都であると記録している。
そもそも弥生文化そのものが博多湾沿岸に発生し、西日本も東日本も席捲した。
それは支配者層がそのように広がったからだ。
そして筑紫に都する倭国の女王が卑弥呼だ。
畿内を含めて本州は倭種の地に過ぎない。
0835日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 21:43:39.49
>>834
災害もあるのにあり得ないね
0836日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 21:48:37.79
神社の歴史こそ歴史の改竄じゃないのか?
立派な寺の仏教に神道が劣勢になった
それで立派な神社を建てて神話を作り権威付けをした
0837琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/02/01(水) 21:49:33.37
卑弥呼は隋代まで影響力を与えていたカリスマだよ。現代では例えようのない女性だよ。その影響下にあった者らが住むのが地勢東高西下、奈良盆地。根拠のない400年後の書物で説明されても受け入れられない。照らし合わせるにも証拠を消され、これを信じなさい、では学問ではないだろ。信仰。九州信仰では歴史と違うな。
0838日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 21:49:36.84
>>835

関東最古の大社、鷲宮は洪水で移転した伝記はある。
逆に言うと、否定する理由はないんだよな。
0839日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 21:50:19.82
>>833
卑弥呼は九州〜南関東の有力なクニグニを連合させてると思うわ
環濠集落と銅鐸文化が消滅した理由がこれ
平和になり、宗教が変わったのだろう

ただ、首都が筑紫のままか、筑紫から畿内に移動したあとかは分からん
仮に筑紫のままでも畿内に第二都市を作ってそう
0840日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 21:51:04.08
>>838
あれば遺跡として出てくるだろ
0841日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 21:52:55.16
>>836

つまり、仏教伝来より前の支配層の象徴、拠点は神社なんだよ。
神社の様式である高床建物が弥生時代に登場したのは学校で習ったよな?
それが考古学的証拠だよ。
最初の高床建物、高宮は筑紫の吉武高木遺跡にある。
0842日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 21:54:36.14
>>841
だから御座敷いてお供え物して祈ってたんじゃないか?
0843日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 21:56:01.06
>>794
邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ

共立でっせ、統一王朝などまだまだ先の話。
本来、男王 イレギュラーと見ている
0844日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 21:56:15.18
旧石器時代から縄文時代草創期になるとユーラシア大陸の影響が現れ、更に勾玉が作られるようになる
縄文時代前期になると定住の漁労と貝塚が千葉などで盛んになる

旧石器時代のC 1a1→ユーラシア大陸のN→漁労民のD1
この順で日本列島にやってきたのかもな
現在の関東は近畿よりも東北の母系の要素は少ない(混血だが九州に引っ張られた位置)が、関東の内陸に於いては弥生時代迄は東北や日本海側の影響が優勢だったかもね
0845日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 21:56:51.85
>>839

平和になったかどうかは知らんが、卑弥呼が作らせた八咫の鏡とそのミニチュアが広まったのは事実だ。
畿内に広がる三角縁神獣鏡も、平原遺跡の八咫の鏡より後に、同じ技術で作られている。
0846日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 21:57:03.35
>>797

首狩り頭顔面ど変形の甕棺墓は2世紀までにど没落している
同時期にベトナム中部サーフィン文化の甕棺で鉄器、前漢鏡を副葬している越族だろう
0847日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 21:58:46.38
>>842

日本書紀にもあるだろ?
筑紫の女王は榊を根こそぎ抜き、そこに三種の神器を掲げて神威を示したんだよ。
平原遺跡にも榊を立てたと思われる柱の跡があるだろ?
それが古代神道の姿だよ。
0848日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 22:00:19.30
>>803
と、なんとなく、もやっとそう思うらしい。  わははははは   @阿波
0849日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 22:01:26.32
>>847
そら証拠はと問い詰められるわ
0850日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 22:02:55.02
>>809
>生駒山の麓の日下

「日下姓の起源」
古い由来の姓に「日下(くさか)」姓がある。
日下姓は、聖徳太子の時代には存在していた名前である。 
「古事記 中つ巻」の冒頭に日下の名前が登場するので、神代の時代から人代の時代に入った時には、
もう既に存在していた名前である。
勿論、日本書紀にも出てくる。
阿波国(あわのくに:徳島県)の蜂須賀藩家臣成立書に、日下姓が見られる。 
また、隣の香川県も日下姓が多く、高知県高岡郡日高村にも日下の地名がある。
徳島県全体としては、徳島市に集中しており、日本一「日下姓」が多い地域である。
香川県全体としては、高松市に集中しており、日本一の徳島市に続いて「日下姓」が多い地域である。
このことから、西日本に存在する日下姓の大半は、徳島県や香川県等、四国地方を起源にしていると考えられ、
この日下姓をとってみても、記紀は東四国地方を記したものと言える。   
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。   @阿波
0851日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 22:05:00.97
>>828
>東京から巨大なヒスイの勾玉が見つかっているからね

「倭人(阿波勢力)」の関東進出グループだ。   @阿波
0852日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 22:05:27.57
>>846

甕棺墓の伊都国王家すなわち倭王天孫族が倭国大乱で饒速日の王国に身を寄せて筑紫を去って、そのあとに木棺墓の平原遺跡が成立した。
平原遺跡の女王は初めて銅鏡を国産化し、世界最大の八咫の鏡を作り上げた。
天照大神のモデルが卑弥呼なら、それは八咫の鏡が副葬された筑紫の女王しかない。
0853日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 22:07:02.98
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)





久 努 国 ( く の の く に )





久 努 国 ( く の の く に )





馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
0854日本@名無史さん
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2023/02/01(水) 22:07:21.95
>>838
>関東最古の大社、鷲宮

鷲を冠する神社は、「倭人(阿波勢力)」の祖神「天日鷲命」に由来している。   @阿波
0855日本@名無史さん
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2023/02/01(水) 22:08:08.84
>>839
と、なんとなく、もやっとそう思うらしい。  わははははは   @阿波
0856日本@名無史さん
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2023/02/01(水) 22:09:17.09
>>849

日本書紀という文献と、それに一致する平原遺跡という考古学的証拠を挙げたぞ?
0857日本@名無史さん
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2023/02/01(水) 22:12:33.62
>>847
>それが古代神道の姿だよ。

古神道、古鳥居と言えばやっぱり忌部の郷でしょう。
忌部の郷 徳島県吉野川市山川町忌部山字黒岩 

「忌部神社旧社地 真立石(上古神社鳥居)」    @阿波
http://i.imgur.com/aaVKHYN.jpg
0858日本@名無史さん
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2023/02/01(水) 22:14:42.92
>>847
榊を抜く。
伊勢神宮の瀧祭神は瀬織津姫?
0859日本@名無史さん
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2023/02/01(水) 22:16:23.82
大国主系排除
0862日本@名無史さん
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2023/02/01(水) 22:24:04.77
【八咫鏡】

平原遺跡から出土した5枚の超大型内行花文鏡の直径は46.5cmであり、史上最大の銅鏡である。
『延喜式』の『伊勢大神宮式』でも、『皇太神宮儀式帳』でも、神鏡を収めている樋代の内径が一尺六寸三分(約49センチ)としている。
径1尺の円の円周が4咫であり、これらの鏡は直径2尺、円周が8咫であることから三種の神器の一つである八咫鏡と考えられる。

伊勢神宮の宝鏡は、『神宮儀式帳』によると内行花文鏡であるという。
『伊勢二所皇御大神御鎮座傳記』(新道五部書)によれば「八頭花崎八葉形、圓外日天八座」とある。
八葉とは、鈕孔を巡る八葉座のことであるが、通常の内行花文鏡は四葉座である。
平原遺跡の超大型内行花文鏡の八葉座は他に例がないため、これが伊勢にある八咫鏡と同汎鏡と考えられる。

内行花文鏡は、前漢時代の日光鏡や清白鏡の系譜上にある太陽を象った太陽信仰の象徴である。
伊都にある王墓の代表である三雲南小路遺跡の甕棺墓から発見された内行花文鏡には「見日之光天下大明」という銘文があり、内行花文鏡が太陽光を象った鏡であることがわかる。
内行花文鏡は中国で王侯に下賜されていた形式であり、倭国は内行花文鏡を王権の象徴として漢王朝の冊封の元での祭政一致王権をとっていたことになる。
八咫鏡はニニギら日向王家の象徴であるが、それが日向峠のある高祖山周辺にあったことで、伊都が記紀に伝えられる倭国の旧都、筑紫の日向であったことがわかる。

石凝姥命が八咫鏡に先立って鋳造した同等の鏡として、紀国一宮である日前宮(ひのくまみや)の日像鏡、國懸宮(くにかかすみや)の日矛鏡がある。
伊勢が大和の東の出口、日前は西の出口にあり、伊勢とほぼ同等の力を持っていたといわれている。
筑前国風土記では、宗像大社辺津宮の神宝も八咫鏡と記録されている。
これを含めた八咫鏡の総数は、伊勢内宮、宮中賢所、日前宮、國懸宮、辺津宮、伊都平原に5枚で、最低でも10枚は存在していたことになる。
この他に日本書紀では筑紫の帥である神夏磯姫が所有していたことが記録されているが、顛末は記録されていない(上記のいずれかと重複している可能性がある)。
0863日本@名無史さん
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2023/02/01(水) 22:26:31.46
>>852

平原遺跡は馬韓の大木を立てた蘇塗跡
楽浪土器が集中して出る三雲の平野部は楽浪系辰韓人
だから今で言うと鶴橋商店街とか新大久保
0864日本@名無史さん
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2023/02/01(水) 22:27:26.48
まぁ、事程左様に「阿波」は何かにつけて「邪馬臺国」の話題に事欠かない。  わははははは   @阿波
0865日本@名無史さん
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2023/02/01(水) 22:27:27.64
神道で最も重要な祝詞は、倭国の王都が何処であるかを明確に示している。

■ 大祓の祝詞

掛けまくも畏き 伊邪那岐大神
かけまくもかしこき いざなぎのおほかみ

筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に 
つくしのひむかのたちばなのをどのあはぎはらに

禊ぎ祓へ給ひし時に 生り坐せる祓戸の大神等
みそぎはらへたまひしときに なりませるはらへどのおほかみたち

諸々の禍事・罪・穢 有らむをば
もろもろのまがごとつみけがれ あらむをば

祓へ給ひ清め給へと 白すことを聞こし召せと
はらへたまひきよめたまへと まをすことをきこしめせと

恐み恐みも白す
かしこみかしこみもまをす
0866日本@名無史さん
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2023/02/01(水) 22:29:20.75
鹿島は大鯰を抑えこんでいるが大鯰は実は大蛇或いは龍という話もある
関東の風土記では猿の村があったり大蛇が沢山いるところがあったり土蜘蛛がいたり楠の大木が立っていたりした
切り倒されたり騙し討ちに合わせて皆焼き殺したりかなりえぐいことをしている
0867日本@名無史さん
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2023/02/01(水) 22:29:55.23
伊都高祖宮の近くには倭国大乱より古い王墓である三雲南小路遺跡とその宗廟である細石神社がある。
そして倭国大乱後の最初の女王墓と考えられている平原遺跡がある。
博多湾沿岸の伊都国(糸島市)こそ、漢代から魏代まで継続して倭国の王都であった。
そもそも、弥生時代を特徴する稲作文化は玄界灘沿岸に上陸し、博多湾を中心に銅鏡銅矛文化、鉄器文化が弥生時代をリードしてきた。
後漢書でも倭とは狗邪韓国を北限、倭奴国を南限とする対馬海峡国家であり、女王国から北にある対馬海峡を支配するのが伊都国に置かれた大率である。
魏の使いが滞在して外交の舞台でもあった伊都国こそ、倭の王都、卑弥呼の王城がある邪馬台国の中枢である。
そして三雲南小路遺跡が伝承通りに木花咲耶姫(と邇邇芸)の墓であるならば、伊都国は記紀における神代の倭の王都、筑紫の日向でもある。
高祖宮には木花咲耶姫の息子である彦火々出見が祭られており、かつては細石神社まで御渡り神事があったという。
三雲南小路遺跡や平原遺跡から日の出の方角にそびえる高祖山(クシフル山)にある高祖宮、怡土城は、邇邇芸や彦火々出見の王宮であった高千穂宮の実体だろう。
天孫族の王たちや卑弥呼は、日の神として太陽を背にして天神として君臨したのである。
神武「我々は天神の子なので日の出に向かって戦ってはいけない」
すなわち天神は王都の東側の神奈備に日の出を背にして鎮座するという考え方があったことになる。
伊都なら高祖神社、京都なら八坂神社、奈良なら大神神社(三輪神社)が同じ位置関係にある。
0869日本@名無史さん
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2023/02/01(水) 22:34:06.88
>>867
宮跡とかあったの?
0870日本@名無史さん
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2023/02/01(水) 22:41:16.58
「阿波天皇家と縁がない九州や畿内」
阿波忌部は今現在も、天皇陛下即位式である大嘗祭に、麁服を調進する大役を担い、天皇家と繋がっている。 
それは、「阿波」が天皇家の出身地だから。
宮中祭祀第一の祭典である大嘗祭、新嘗祭の起源が『日本書紀』の斎庭(ゆにわ)の稲穂の神勅に示されている。 
今の天皇家が九州や畿内出身なら、天皇陛下即位式である大嘗祭において、蚊帳の外には置かんわな、そりゃ。
九州や畿内に倭王権があれば、有り得ない話である。   @阿波
0871日本@名無史さん
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2023/02/01(水) 22:49:36.35
>>867
そこ、ただの小国だから
倭人伝にそう書いてある
0872日本@名無史さん
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2023/02/01(水) 22:59:56.26
>>868

志登神社

『延喜式神名帳』に十九式内社の一社でとして糸島で唯一記載せられた式内小社です。

主祭神
豊玉姫命とよたまひめのみこと

相殿神
和多津見神わたつみのかみ、彦火火出見尊ひこほほでみのみこと、息長帯姫命おきながたらしひめ、武内宿禰命

御祭神は海神である大綿津見神の娘、豊玉姫命です。
龍宮で身籠った豊玉姫命が彦火々出見命(山幸彦)を慕って陸に上がったのが当地とされ、昔は浮島となっており、海上から参拝するようになっていました。
対馬の和多都美神社より当地に降臨したとも伝えられ、水と海運、富と権力、縁を結び、子孫繁栄を保証する女神、福を招き、出世を約束する女神とされています。
古は志摩郡・怡土郡の総社として、この地方に於ける最も有力な神社として中央にも認められ、郡民一体の崇敬を集めていました大社であったと伝えられています。

以上、志登神社のHPより引用。
つまり伊都こそ皇祖である倭王天孫族の王都。
三種の神器を副葬された甕棺墓は倭王の王墓。
0873日本@名無史さん
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2023/02/01(水) 23:02:31.37
邪馬台国=卑弥呼の女王国=古の倭奴国(旧唐書による)=福岡県=弥生文化の中心地=倭国の都=豊葦原中国=筑紫の日向(記紀による)=天皇家の祖である天孫邇邇芸や山幸彦(彦火火出見=伊都高祖宮の祭神、邇邇芸の子、神武の祖父)の国
投馬国=宮崎県都万=隼人の祖である海幸彦の国
狗奴国(官の名が菊池彦)=熊本県=熊襲の国
日本国=畿内=倭の別種=ヤマト王権=物部氏の祖である天孫饒速日の国(日本は日下において饒速日が命名した)

福岡県糸島市(伊都)の細石神社と、宮崎県西都市(妻)の都万神社は、どちらも天孫邇邇芸の妻であり山幸彦と海幸彦の母親である木花咲耶姫を祭っている。
宮崎県は日向国と呼ばれるが、糸島市を含む福岡県北西部も筑紫の日向と呼ばれ、奇妙な対比を呈している。
魏志倭人伝では、邪馬台国七万戸と投馬国五万戸はそれぞれ帯方郡から水行十日陸行一月(1日の誤りか?)と水行二十日と対比されて記載されている。
0874日本@名無史さん
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2023/02/01(水) 23:05:52.89
「世有王皆統属女王国」
理解しやすくするため同じSVO型言語である英語に訳すと
At all times, there is a king.
Everyone belong to queendom.
となる。
代々の倭王は全て伊都国にいる。
全ての者は女王国(伊都国)に統属している。
0875日本@名無史さん
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2023/02/01(水) 23:08:10.64
博多湾に昔は岬があり、立ち鼻つまり橘と呼ばれていた。
橘より東の水門が大戸、西が小戸と呼ばれた。
大戸は後の那津つまり博多港であり、庶民の国である商都奴国の港だ。
小戸は王都であった伊都の港だ。
イザナギが禊した筑紫の日向の橘の小戸とは、伊都の港という意味になる。
そして博多湾を見下ろす高祖山つまり筑紫の日向の高千穂への入り口が、山門である。

この文章を声に出して音読するといい。
水門、大戸、小戸、伊都、山門
すべて一貫した地名であることがわかるだろう。
0876日本@名無史さん
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2023/02/01(水) 23:27:15.71
日本各地に祠があるが祠の語源はほくら、神庫、宝倉という説がある
池上曽根遺跡にあった石器の祠は、祠の原始的な形かもねえ
0877日本@名無史さん
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2023/02/01(水) 23:34:01.08
聖徳太子は本当偉大なんだな
楠の母を持つ耳であり無数の結界石で守られている存在
和を以て貴しとなす
0878日本@名無史さん
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2023/02/01(水) 23:44:56.32
卑弥呼を祭っていると噂になっている神社
・宇佐神宮(九州説、邪馬台国)
・元伊勢(投馬国)
・ハ女津神社(卑弥呼の修行の場)
0880日本@名無史さん
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2023/02/02(木) 00:05:08.95
>>873
福岡県糸島市(伊都)の細石神社は、おそらく細石を祀っていたであろう神社に木花咲耶姫を祀るしたたかさ。その由緒が江戸時代を遡らない神社を何の証拠に仕立て上げようと言うのか?
宮崎県西都市(妻)の都万神社も本来の祭神は柧津比売命(つまつひめ)であるとも言われる。
「都万」を「投馬」にあてる説が正しいとすれば、妻であるから木花咲耶姫と言うのは神話から逆算した後世の付会であるのはバレバレである。
このように神話ありきで祭神が変更される例は少なくはない。薄っぺらな解釈で偽史を構築するのは安易だが神社伝承から歴史を探るには細心の注意が必要。
0881日本@名無史さん
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2023/02/02(木) 00:26:13.40
>>873
いません。
0882日本@名無史さん
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2023/02/02(木) 00:44:00.04
地名に漢字使ってるけど文字はないから
0883日本@名無史さん
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2023/02/02(木) 01:08:04.02
>>127
畿内のはインチキな卑弥呼の墓
0884日本@名無史さん
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2023/02/02(木) 01:30:16.35
ツマはとどのつまりのツマと同じで端という意味
0886日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/02(木) 06:56:16.36
朝貢には安曇族の船が使われ通訳も安曇族が担当したと思われる。卑弥呼も安曇族だった可能性が高い
0887日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/02(木) 07:44:10.49
>>879

対馬の和多都美神社も糸島の志登神社も
「阿波」から勧請したんだろ。

御祭神を豊玉比賣とする神社は、全国各地に鎮座しているが、豊玉比賣を神社名に冠する延喜式式内社「豊玉比賣神社」は倭国(阿波)にしかない。
そして、倭国(阿波)には二つもの延喜式式内社「豊玉比賣神社」が存在する。
一つは「天石門別豊玉比賣神社」(あまのいわとわけとよたまひめじんじゃ)
一つは「和多都美豊玉比賣神社」(わだつみとよたまひめじんじゃ)である。   @阿波
0889日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/02(木) 08:04:30.23
福岡県人口510万人
奈良県人口132万人
徳島県人口72万人
なんか阿波が哀れすぎる
0890日本@名無史さん
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2023/02/02(木) 08:08:44.92
魏志倭人伝の記述と異なる箸墓を卑弥呼の墓であるかのように印象操している畿内説は霊感商法詐欺
0891日本@名無史さん
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2023/02/02(木) 08:08:56.70
福岡は子孫繁栄
阿波は子孫衰退、哀れじゃ
0892日本@名無史さん
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2023/02/02(木) 08:20:38.98
>>887
外で御座敷いてお供え物して豊玉比賣とやらを信仰の対象にしてたのか?
おかしいだろ?
0893日本@名無史さん
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2023/02/02(木) 08:23:17.37
>>886

安曇は倭王のことだが、倭王の王統にはいくつかあるので、卑弥呼が安曇だとは限らない。

参考資料(志賀島 山誉め祭りの神楽より)

禰宜二良(櫓を執る)
   君が代は千代に八千代にさざれ石のいわおとなりてこけのむすまで
   あれはやあれこそは我君のめしのみふねかや
   うつつらがせ身骸に命千歳とゆう花こそ咲いたり
   沖の御津の汐早にはえたらん釣尾にくわざらん
   鯛は沖のむれんだいほや
別当一良
   志賀の浜長きを見れば幾世経ぬらん
   香椎路に向いたるあの吹上の浜千代に八千代まで
   今宵夜半につき給う御船こそ、たが御船なりけるよ
   あれはやあれこそは安曇の君のめしたまう御船になりけるよ
   ゆるかよゆるか 汐早のゆるか 磯良が崎に鯛つるおきな
0894日本@名無史さん
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2023/02/02(木) 08:31:33.72
>>889
碌な弥生集落遺跡や鍛冶炉遺構の無い九州や畿内に、「現代の人口」がいくら有ったところで

弥生時代の九州や畿内は、片田舎。  わははははは   @阿波
0895日本@名無史さん
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2023/02/02(木) 08:32:24.43
>>880

細石神社の場合は実際に王墓が後から見つかっているので、考古学的にも矛盾がない。
神社の由来には気をつけろという話は一般論としては理解するが、実際に王妃の墓も見つかったのであれば、それは誰の墓なんだということになる。
0896日本@名無史さん
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2023/02/02(木) 08:33:46.99
>>892
>外で御座敷いてお供え物して豊玉比賣とやらを信仰の対象にしてたのか?

なんにもおかしくない。   @阿波
0897日本@名無史さん
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2023/02/02(木) 08:34:27.39
>>894
阿波は未開で観念だけの土地
0898日本@名無史さん
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2023/02/02(木) 08:35:03.83
>>879
対馬の和多都美神社も糸島の志登神社も
「阿波」から勧請したんだろ。

御祭神を豊玉比賣とする神社は、全国各地に鎮座しているが、
豊玉比賣を神社名に冠する延喜式式内社「豊玉比賣神社」は倭国(阿波)にしかない。
そして、倭国(阿波)には二つもの延喜式式内社「豊玉比賣神社」が存在する。
一つは「天石門別豊玉比賣神社」(あまのいわとわけとよたまひめじんじゃ)
一つは「和多都美豊玉比賣神社」(わだつみとよたまひめじんじゃ)である。   @阿波
0900日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/02(木) 08:36:47.83
>>892

細石神社の場合、神社そのものが三雲南小路遺跡の王墓の祭殿であったであろうと考えられている。
神社に使われる高床建物が弥生時代に登場した建築方法であるというのは日本人として共通の知識でいいんだよな?
義務教育で習っただろ?
三雲南小路遺跡は弥生時代の代表的な弥生王墓だ。
0901日本@名無史さん
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2023/02/02(木) 08:44:05.17
>>900
三雲南小路遺跡は弥生時代のありふれた墓だ。   @阿波
0902日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/02(木) 08:44:20.19
>>900
三雲南小路遺跡は弥生時代のありふれた墓だ。   @阿波
0903日本@名無史さん
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2023/02/02(木) 08:49:25.59
>>900
細石神社とやらの遺跡は?
墓参りしてただけだろ
0904日本@名無史さん
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2023/02/02(木) 08:58:11.58
>>893
筑紫の君と安曇氏の関係から考えると卑弥呼は安曇氏だったと思います。アズミが訛った安心院に三女神社を祀った水沼氏も安曇氏だったのでしょう。
0905日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/02(木) 08:58:44.70
太陽や山を拝むのはわかるのよ
建物もなんもない所で人なんか信仰の対象になるのか?
0906日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/02(木) 09:01:20.57
前方後円墳の向きがめちゃくちゃな時点で太陽信仰とは無関係
0908日本@名無史さん
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2023/02/02(木) 09:05:30.93
>>906
あれは埋まってる王ではなく生きてる王が信仰の対象でしょう
0909日本@名無史さん
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2023/02/02(木) 09:07:11.02
明日香の大口真神原に大口の神という狼、犬の神さまがいたらしい
0910日本@名無史さん
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2023/02/02(木) 09:08:28.61
3世紀の近畿地方と北九州地方との繋がりは
元伊勢、丹後地方の遺跡しか出てきてないんだよな
0911日本@名無史さん
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2023/02/02(木) 09:13:50.37
>>900
高床建物だけで延喜式にない神社の何がどうだと!?アホすぎ。
0912日本@名無史さん
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2023/02/02(木) 09:17:48.32
立派な神社があってこそ人を信仰できる
なんもない所でできるか!
0913日本@名無史さん
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2023/02/02(木) 09:22:03.19
細石神社の場合、神社そのものが三雲南小路遺跡の王墓の祭殿であったであろうと伊都説をゴリ押しする狂人どもに考えられている。
0914日本@名無史さん
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2023/02/02(木) 09:27:38.73
仏教の仏様に対抗するものが必要だったんでしょう
0915日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/02(木) 09:29:20.80
>>912
本来は社殿なしの神体山などの遥拝所。
遠方から拝むためのものが御霊別けされた神社。
0916日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/02(木) 09:34:42.28
神社の歴史は寺より浅い
ただお供え物して祈るくらいは弥生時代もやってたでしょう
0917日本@名無史さん
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2023/02/02(木) 09:36:54.55
>>910
根拠は?
0918伊太乃に居たの ◆oRNQXnZmlfa1
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2023/02/02(木) 09:39:13.10
神社建築は、基本的には拝殿で有って、御神体は山だったり
、湖だったり、岩だったり。

神様自体を祀るようになったのは、ずっと後の時代の話なのではないのかな。

明治期の合祀令後、一カ所でいろんな神様をまとめて祀るようになった所は、
立地とか、もう関係無いから残念ですね。
0919日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/02(木) 09:43:43.07
>>905
>建物もなんもない所で人なんか信仰の対象になるのか?

今も英雄が信仰の対象となっている事実があるではないか。   @阿波
0920日本@名無史さん
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2023/02/02(木) 09:46:32.54
>>912
>立派な神社があってこそ人を信仰できる

真逆だ。 立派な人が居たからこそ、後に神社を創建して祀った。   @阿波
0921日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/02(木) 09:48:53.23
>>916
>神社の歴史は寺より浅い

しかし、祀られる神々は、寺より遥かに古い。   @阿波
0922日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/02(木) 09:49:14.77
>>919
それぞれ人の心の中にはあるな
でも人が集まって信仰するには何かないと想像できない
0923日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/02(木) 09:50:32.92
>>920
後付けだろう
0924日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/02(木) 09:52:17.27
阿波は一の宮すら中世に痕跡残さず消滅するぐらい神とは無縁の地
0925日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/02(木) 09:54:06.59
>>921
神々が山とか岩とかでしょ
0926日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/02(木) 09:55:36.72
>>922
神は山稜に宿るもの。
そもそも、卑弥呼のような大王墓は奈良盆地や福岡平野のような平地なんぞに築かない。  
卑彌呼などの大王墓は、今も古代も山稜に、こじんまりとした円墳、若しくは円墳に近い形状の墳墓を造営するもの。
あろうことか、前方後円墳など何をか言わんや 無礼極まる話である。   @阿波
0927日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/02(木) 09:57:10.45
>>923
>後付けだろう

勿論、神社そのものは後世の造営だ。   @阿波
0928日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/02(木) 10:00:08.01
日光東照宮は徳川家康を神として祀ってる
でもあの立派な建物があってこそでしょう
0929日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/02(木) 10:00:18.76
>>925
>神々が山とか岩とかでしょ

というより、偉大な英雄を、山とか岩に見立てた。   @阿波
0930日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/02(木) 10:01:47.83
>>928
>でもあの立派な建物があってこそでしょう

真逆だ。  立派な徳川家康が居たから、日光東照宮が出来た。   @阿波
0931日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/02(木) 10:07:26.69
>>928
偉大な英雄が「阿波」に居たから、
「阿波」は古事記神話の神名が付く延喜式内社の数が他の県に比べると圧倒的に多い。   @阿波
0932日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/02(木) 10:09:36.06
>>930
建物があるから信仰の対象になる
でも弥生時代の神社の遺跡なんてない
後世に建ててアマテラスとか作り上げたんでしょう
0933日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/02(木) 10:13:35.71
>>932
>建物があるから信仰の対象になる

真逆だ。 偉大な英雄が居たから、建物を後から建てた。   @阿波 
0935伊太乃に居たの ◆oRNQXnZmlfa1
垢版 |
2023/02/02(木) 10:47:12.30
>>924
阿波の一之宮は、鳴門市大麻町(旧板野郡)の大麻比古神社ですよ。
逃げも隠れもしておりません。

大粟神社は、名方郡の一ノ宮でございます。
0938伊太乃に居たの ◆oRNQXnZmlfa1
垢版 |
2023/02/02(木) 11:10:54.41
>>937
でっち上げとは酷いこと言いますね、一宮自体由来もはっきりしていません、
民衆の崇敬の厚い神社を選んで結果が大麻比古神社だったという事でしょう。
お参りに行くのが不便な大粟神社や、正体のはっきりしない八倉比賣神社、何処か本社がわからない忌部神社などが選ばれなかったは当然の事だと思いますよ。
0939日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/02(木) 11:17:20.03
国司の巡回形跡のない神社は一の宮ではない。少し違う例だが武蔵国一の宮は本来小野神社だが中世以降氷川神社にとってかわられている上に現在の一の宮会には小野神社は未加入
0940日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/02(木) 11:23:57.36
東照宮になると、古墳信仰とあまり変わらんけど?
地域に根差した豪族の祖霊信仰は仏教よりも古い。

古墳は不死の可能性を排除して無くて、
仏教以降は、不死を求めず成仏させるんだろw

神道によって、古墳信仰は死の穢れに変わってる。
だから、子孫からも大切にされて無かった。

地神信仰は、鎭守、氏神、産土と言うもん。
ただ、朝廷は日本神道を創作したので、
伊勢神話に血縁が生まれて、?事実縁もあるかもだけどw
出雲に代表されるような、神々の伝承が後付けされている。

諏訪に見るような、
冬が過ぎて山から神が下りて来る
みたいな、古い地神信仰にはタテミナカタがやって来た、とか
神が来て八岐大蛇を退治した、とか関係ないから。

でっち上げと言うか、山が、でーだらぼっち、の足跡って話は知ってる。
お伊勢に御柱建てて、狩った鹿の首お供えすんのかよ?
山奥だと、たまにそういう、なんで土着化神社? もあるなwww
0941日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/02(木) 11:31:30.57
そもそも延喜式と卑弥呼が関係あるのか?
0942日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/02(木) 11:34:16.61
鏡は頂いたけど
卑弥呼がどういう使い方を
したのか定かではない
0943伊太乃に居たの ◆oRNQXnZmlfa1
垢版 |
2023/02/02(木) 11:39:37.19
>>939

> 国司の巡回形跡のない神社は一の宮ではない。

えらい乱暴な説ですね。
その神社に国司が巡回したかどうかの記録ってどうやって調べたら良いんでしょ?
0945日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/02(木) 12:07:47.73
>>937
>大麻比古神社を一の宮にでっち上げたのは中世の細川氏

その通り!   @阿波
0947伊太乃に居たの ◆oRNQXnZmlfa1
垢版 |
2023/02/02(木) 12:18:43.19
>>945
でっち上げたのではない、民衆の崇敬の厚い大麻比古神社が選ばれただけで有ります。

大粟神社と一宮神社は一宮氏がこねくり回して祭神が怪しい、
八倉比賣神社はそもそもその当時は杉尾神社で何やらよく分からん、

忌部神社はどこに行ったかよう分からん、

大麻比古神社は、連綿と歴史を繋いでいるし、民衆の崇敬が厚い、
そして何より守護所から近い、阿波の守である細川氏が祀るのはここしか無かったと言うのが現実でしょう。
0948日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/02(木) 12:26:07.20
>>947
一の宮でないものを一の宮と称すのはでっち上げ。即ち阿波の国技捏造は中世に遡る
0950日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/02(木) 12:32:54.04
>>931
仮説としては阿波国では祭神のすり替えが横行し社名を祭神名にするよう朝廷から強制されたのだと考えられる。史実、八倉比売の祭司を怠ったとして注意されている。おそらくオオゲツヒメに差し替える動きを察知されたのだろう。
0951日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/02(木) 12:35:06.79
>>946
纒向が古墳造営基地だなんてヨタ話に耳を貸す人は居ないけどね
あり得ない花沿いばかりしていれば九州説の信用はどんどん落ちていく
つまり自滅
0953日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/02(木) 12:37:00.23
阿波の捏造糾弾者である俺も一宮を捏造とは思わんな。力関係で決まっていくのもあるだろうし名乗ったもの勝ちな側面もあろう。
0955日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/02(木) 12:43:59.62
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)





久 努 国 ( く の の く に )





久 努 国 ( く の の く に )





馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
0956日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/02(木) 12:45:16.03
>>918

祖先崇拝として墓参りのための拝殿だったのが細石神社でしょう。
今の概念で神様と呼んでいるだけで、当時としては何年か前に亡くなった婆様のお墓参りみたいな。
ただ、それが倭王だと国家的祭祀や国葬になりますからね。
0957日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/02(木) 12:49:36.55
>>925

どうしてそんなものが神様になるのか
記紀を読む限り、古代の日本にそのような考え方があったようには読めない
0958日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/02(木) 12:53:24.20
>>932

高床建物は弥生時代にはすでにあったでしょう
義務教育で習わなかったかな?
最近の考古学者は、さもわかった風に首長の館ではないかみたいな言い方をするけれど、生前の宮を死後も祭殿と使うえば、神宮となるのですよ。
0959日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/02(木) 12:54:13.52
>>922
神は山稜に宿るもの。
そもそも、卑弥呼のような大王墓は奈良盆地や福岡平野のような平地なんぞに築かない。  
卑彌呼などの大王墓は、今も古代も山稜に、こじんまりとした円墳、若しくは円墳に近い形状の墳墓を造営するもの。
あろうことか、前方後円墳などと何をか言わんや。 無礼極まる話である。   @阿波
0960日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/02(木) 12:55:18.54
>>879
対馬の和多都美神社も糸島の志登神社も
「阿波」から勧請したんだろ。

御祭神を豊玉比賣とする神社は、全国各地に鎮座しているが、
豊玉比賣を神社名に冠する延喜式式内社「豊玉比賣神社」は倭国(阿波)にしかない。
そして、倭国(阿波)には二つもの延喜式式内社「豊玉比賣神社」が存在する。
一つは「天石門別豊玉比賣神社」(あまのいわとわけとよたまひめじんじゃ)
一つは「和多都美豊玉比賣神社」(わだつみとよたまひめじんじゃ)である。   @阿波
0961日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/02(木) 12:55:52.49
>>889
碌な弥生集落遺跡や鍛冶炉遺構の無い九州や畿内に、「現代の人口」がいくら有ったところで

弥生時代の九州や畿内は、片田舎。  わははははは   @阿波
0962日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/02(木) 12:57:57.76
>>959
なんで?卑弥呼の塚はサイズの記載は有るけど、立地の記載はないよね。
0964日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/02(木) 13:01:08.20
>>961
阿波は南海トラフで何回も流されてるから
0966日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/02(木) 13:05:23.28
>>942

卑弥呼は記紀では崇神天皇や景行天皇や神功皇后の時代だろ。
鏡の使い方はわかっている。
天皇が寝床で枕元に置いたり、三種の神器として榊にかけて祭ったりしたんだよ。
0967日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/02(木) 13:09:44.51
>>953

たな。
時代により一宮が変わることもある。
宮崎県の都万神社は一宮ではないが、一宮の制度ができるより前に国府があったとも言われている。
近隣には日本最大の西都原古墳群が控えている。
後世の一宮でなくても、重要な神社はいくらでもある。
細石神社もしかり。
明らかに弥生時代の王墓に付随する施設だからね。
延喜式のようなはるか後世の格付けなどどうでも良い。
0971日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/02(木) 13:26:39.06
摂津国一宮 住吉神社 筑紫で生まれた住吉の神を祭る
河内国一宮 枚岡神社 筑紫に降臨した天児屋根命を祭る
和泉国一宮 大鳥神社 天児屋根命の子孫を祭る
山城国一宮 上賀茂下鴨神社 筑紫からの神武の東征を助けた三島溝杭耳を祭る
紀伊国一宮 日前宮、国懸宮 筑紫に降臨した天道根命が持っていた鏡を祭る

ここまで筑紫と東征関連。
例外はこれ。
大和国一宮 大神神社 大物主を祭るとされる。
0973日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/02(木) 13:30:53.42
>>969
さすがにこれは阿波人だが板野が正しい。

「一の宮」は、平安時代から鎌倉時代初期にかけて逐次整った一種の社格です。
朝廷や国司が特に指定したものでなく、諸國において由緒の深い神社、信仰の篤い神社が勢力を有するに至って、おのずから神社の序列が生じ、その最上位にあるものが「一の宮」とされ、以下二の宮・三の宮・四の宮と順位がつけられたのです。
しかし、時代の変遷とともに変化もあったようで、一国内に二社以上の「一の宮」が存在するのはそのためです。
0974日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/02(木) 13:33:54.16
>>971
山城国一宮 賀茂別雷神 賀茂御祖神社
賀茂氏は阿波忌部の出だろうに。何でも筑紫マンめ、いい加減にしなさい。
0975日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/02(木) 13:36:05.79
>>973
違います。国司の巡回順です国司の機能が消滅した室町期に一の宮と称した大麻比古神社は細川氏による捏造です
0976日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/02(木) 13:36:50.87
>>960
「天石門別豊玉比賣」と「和多都美豊玉比賣」は同名異神という説が有力だろう。
お前がそんな事でどうする。
0978日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/02(木) 13:37:52.28
>>975
捏造もなにも「一の宮」自体に根拠がないだろうに。
0980伊太乃に居たの ◆oRNQXnZmlfa1
垢版 |
2023/02/02(木) 13:49:36.69
まあ、更に言うと、南朝方に付いて戦っていた一宮氏の祀る一宮神社や大粟神社を一宮にして置くわけには行かなかったと言う苦しい事情も有ったのかも。
0981日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/02(木) 13:50:31.89
>>979
一の宮から五の宮へ細川が国司として巡回したとでも言うならそれで良いが、どうせ阿波人だからやってるワケがない
0982日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/02(木) 13:57:00.59
つまり阿波は古代からの歴史が中世で断絶しているからこのスレにはふさわしくない
0984伊太乃に居たの ◆oRNQXnZmlfa1
垢版 |
2023/02/02(木) 14:01:09.69
>>982
歴史が断絶?

まあ、八十八箇所の札所も、ほとんど長曾我部に燃やされた事になっていて、断絶しまくりやしなぁ、
0985日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/02(木) 14:05:08.81
阿波って戦国で言えば雑賀衆みたいなもんじゃね
都合の良いときに邪馬台国側に付き
吉備側に付き、大和朝廷側に付くという
0987◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2023/02/02(木) 14:08:36.42
新スレ立てました。
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1675311815/l50
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*本スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
0989日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/02(木) 14:16:36.65
>>985
細川氏の大麻比古神社なんぞ、どうでもいいけど、
偉大な英雄が「阿波」に居たから、
「阿波」は古事記神話の神名が付く延喜式内社の数が他の県に比べると圧倒的に多い。   @阿波
0992日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/02(木) 14:25:27.38
「阿波」の偉大な英雄の末裔が、
縄文時代晩期末~7世紀末まで、「阿波」でこれらを発明した。  
「泥質片岩製石棒」「緑色片岩製柱状片刃石斧」「刻目突帯文土器」「水銀朱」「鯨面土製仮面」
「稲作」「鉄器」「銅鐸」「弧帯文土器」「東阿波型土器」「前方後円墳」「勾玉」「三角縁神獣鏡」
「論語木簡」「白鳳寺院」などなど。   @阿波
0995日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/02(木) 14:33:26.06
とにかく、「阿波」の古神社は、女性の神様を大事にお祀りする傾向がある。   @阿波
0996日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/02(木) 14:40:21.57
「卑彌呼」以来、「阿波」は女性でもっているようだ。 女性社長率も日本一とかw   @阿波
1000日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/02(木) 15:12:27.03
>>942
記紀の信憑性も半信半疑
三種の神器とは違うかもしれないな。
ト骨から亀に変わるは、いつからだろうか?
入れ墨文化衰退がいつ頃、なのか?
と疑問があるな
10011001
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