邪馬台国畿内説 Part858
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4~6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1675086354/50
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 >>848
>じゃあ日本は?
6世紀から7世紀頃に、漢字を読み書きできる能力を持った人が増え始めた倭国(阿波)の役人が、
中国の文献にある「邪馬臺」「倭」をヤマトと呼び習わしたものだろう。 @阿波 >>823
ちょっと待て
畿内初の朝貢ってどれのことだ?
遣唐使のことでいいのか? >>853
>倭(ワ)はJapanと同じだからな
日本人が倭(ワ)を、「やまと」と読んだだけのこと。 @阿波 ひょっとすると秦王国というのが邪馬台国の末裔だったのかもしれない
3世紀時点ですでに文字を使い文通が出来た国だ
場所は大分あたり >>837
日本と書いてヤマトと読むのは8世紀以降かと >>856
違う、逆だ
倭をヤマトなんて読むわけがない
ヤマトに倭の文字をあてたんだよ >>845
> >>836
> 日本という名称は東日本を指すんだよ
日本という国号は、饒速日が鳥見の里を見渡す哮ヶ峯(生駒山)で国見をし、「虚空(そら)にみつ日本(やまと)国)」【訳「 空から見た日本の国」または「空に光り輝く日本の国」】と賛じたことに因む。
それまでの畿内は日本ではなく長髄彦らが治めるため鳥見と呼ばれていた(長髄彦は出雲の事代主の末裔である登美家の族長)。 >>858
「邪馬臺」も「倭」も「日本」もみんな「やまと」と呼び習わしただけのこと。 @阿波 ジャパンが先かニッポンが先かって話だからな
当然ニッポンが先だ >>857
アホか
倭王の都が邪馬台国だと後漢書にも魏志倭人伝にもある
秦王国はその東にある別の国だろ
それが大分のこと
倭の邪馬台国は福岡だろ >>859
史書に日本の文字が登場するのは8世紀以降 >>859
>倭をヤマトなんて読むわけがない
6世紀から7世紀頃に、漢字を読み書きできる能力を持った人が増え始めた倭国(阿波)の役人が、
中国の文献にある「邪馬臺」をヤマト読み、
同じく「倭」もヤマトと呼び習わしたものだろう。 @阿波 >>860
鳥見町というのが奈良県の富雄にある
生駒山は遊園地に言ったことがあるから知ってるが富雄あたりは見えないよ
というか東側はあまり見渡せる景色じゃない
大阪の夜景は綺麗だったが 倭面土国という表記もある
倭がヤマト
日本は倭の国号を冒したと旧唐書にある >>866
邪馬臺は言葉に文字をあててるから
当然ヤマトだよ >>869
だから河内の方を見て読んだんだよ。
前方後円墳だって一番大きいものは河内にあるだろ?
大和はいわゆるヤマト王権にとってさえも中心とは言えない
畿内で最初の条坊制の都も難波京だっけ?
畿内説は肝心の畿内についてさえ土地勘がないアホ揃い 最終的に倭を統一して残ったのが大和朝廷だけど、どの時代の倭もヤマトって訳じゃないかもしれないし、そうかもしれない。 関西の発展は、海運に有利な大阪湾沿岸か、内陸なら河川交通が容易な淀川流域だろ。
大和?
桜井市?
あんな不便なところが都になるかよアホウ >>872
何の話か理解できてないのか?
ヤマトという言葉に文字をあてたら絶対に邪馬臺という文字にはならないという話で盛り上がってるんだけど >>862
「邪馬臺」は音を聞いて中華が書き記しただけ。 >>875
最終的に8世紀以降に奈良に都が置かれることになるけれど、卑弥呼が即位した2世紀末では奈良盆地はどうしようもない田舎。
何百年時代を間違えているんだか。 もう、発音的な当て字ではないと俺は答え導いてます
373 日本@名無史さん sage 2022/11/23(水) 00:51:07.48
邪馬台国の「馬」って
邪馬国や弁辰彌烏邪馬国もあるので
単なる発音的な当て字? いやいや
馬韓(マハン)が
騎馬民族(ハン=干)で、旗も服も赤色って理由を知って
赤色! 倭人も赤の刺青だな
それで馬の字もあるなーw みたいな
邪は、琅邪の「邪」から
馬は、騎馬民族の赤色から
単なる発音的な当て字とは思えないねw
489 日本@名無史さん sage 2022/11/28(月) 19:11:37.98
馬が居ないのに邪馬台国
邪が琅邪から来てるのは確定なので
(もちろん、邪の語源+徐福伝説から、この字をあてた)
じゃあ、馬は? そこから深掘り邪推
馬韓の名の由来にたどり着き
>>373 で書いた
曹魏は騎兵大国だから
倭人の海戦に期待したのは事実だろうね >>879
だからヤマトではなくヤマダだったんだよ本当は >>877
そうなの?
隋書 都斯麻国
伊都国=イツ国って何処だっけ? >>877
だから、
6世紀から7世紀頃に、漢字を読み書きできる能力を持った人が増え始めた倭国(阿波)の役人が、
中国の文献にある「邪馬臺」をヤマト読み、
同じく「倭」もヤマトと呼び習わしたものだろう。 @阿波 >>874
あなた、ちょっと無知すぎない?
時代が違うでしょ >>883
実際問題として、九州の山田は邪馬台の名残だと思う。 >>877
>ヤマトという言葉に文字をあてたら絶対に邪馬臺という文字にはならないという話で盛り上がってるんだけど
それ、理由がひとことも言えなくて論破されてんでしょ 纏向古墳群とは誰の墓なのか。
私は崇神の母系の物部ではないかと思ってます。
当時は母親の実家で子供を育てたわけですから、崇神の住んだ纏向は母親のイカガノシコメが住んでいた所でしょう。
つまり物部の土地である。
また大阪交野(かたの)に箸墓の縮小サイズである雷塚古墳(森古墳群)があります。
この雷塚古墳は箸墓と同時期か少し後と言われています。
箸墓は260~280年くらいでしょう。
つまり雷塚古墳は崇神時代より少し前です。
ところでこの森古墳群、前期古墳にしては珍しく被葬者をほぼ特定できます。
交野の語源になった肩野物部集団です。
被葬者として推定できるのは彼らしかいません、一択です。
つまり崇神の前に【物部が前方後円墳を造っていた】という事になります。
しかも彼らは箸墓とも強い関りがあることになります。
というわけで纏向古墳群は瀬戸内海洋集団・物部の墓である。
ここに卑弥呼はいないという事です。
アホの>>1
アホの>>1 纒向遺跡の建築
日本書紀をみると、王宮では崇神天皇が天照大神(あまてらすおおみかみ)の御霊代(みたましろ)を祭っていた。
天皇は御殿で「同床共殿(どうしょうきょうでん)」の祭祀(さいし)を行っていたが、神の霊威(れいい)を恐れて、宮内の大庭にホコラを建てて、大神(おおみかみ)のご神体である宝鏡をお納めした(神宮雑例集)。
これが建物Cである。
それでもまだ恐れ多いので、垂仁天皇の時代に伊勢に社を造り、宝鏡をお移しした。
それが伊勢神宮であり、建物Cの復元形態は神宮の正殿と極めてよく似ている。
神明造(しんめいづくり)の形が倉庫と近いのは、王宮における建物Cが宝庫だったことによるのである。
建物Dは正面の柱間数が偶数の四間であることが大きい特徴である。
出雲大社本殿も正面柱間数が偶数の二間である。偶数柱間だと正面中央に柱が来るから、王宮や寺社は奇数柱間が常識である。
だから偶数柱間の建物Dと出雲大社本殿は著しい類似性を持つといえる。
出雲大社本殿の建設は、古事記垂仁天皇の条に記述がある。皇子(おうじ)が出雲の大神のたたりで言葉を発しなかったが、大神に祈ったところ皇子が治癒した。
そこで大神のために天皇の御殿に似せて出雲大社を造ったというのである。建物の性格としても、両者はともに外から拝礼するのではなく、内部で祭りごとを行うので、偶数柱間で差し支えないのである。
纒向遺跡の建物Cは伊勢神宮の直接の起源であり、建物Dは出雲大社と関連が深いことがお分かりいただけただろうか。
黒田龍二
結論: 纒向遺跡は崇神天皇の磯城瑞籬宮。
本殿と拝殿の間の中庭に八咫鏡を納めていた倉があるのが特徴。
全体を囲む柵が瑞籬。 >>889
>時代錯誤は畿内説
理由がひとことも言えない九州説
つまりトンデモ説 纏向遺跡が崇神天皇の磯城瑞籬宮だとわかると、遠くの溝もあわせて纏向遺跡と呼ぶのは不適切だとわかる。
近くには景行天皇の纒向日代宮など他の宮もあったはずであり、それらと範囲が被るからである。
周囲に住居跡が少ないこととあわせて考えると、用水路で区画された田畑の間に王宮が点在していたのだろう。
王宮といっても平屋の高床建物なので、風景としては昭和の頃の奈良盆地とたいしてかわらぬ様子だったろう。
突如として出現した大都市など、畿内説の夢の中の物語に過ぎない。 >>888
で、その山田国は4世紀ごろはどうなってんの? 現物を見てみよう
[佐賀県]高貴な人が住んでいたと思われる警備厳重かつ頑丈な建物
吉野ヶ里の大型建物と人
https://i.imgur.com/NHwxcAf.png
吉野ヶ里周辺建物と人
https://i.imgur.com/ieqxWzX.png
↑魏志倭人伝に書かれている卑弥呼の宮室とよくマッチしている
[奈良県]古墳完成までの遺族向け宿泊所と思われる無防備で貧弱な平屋
纒向の大型建物
https://i.imgur.com/rJscQF5.png
纏向の大型建物の柱と人
https://i.imgur.com/LL8YcSm.png
↑魏志倭人伝の記述に合致するものが一切無い遺跡 帯方郡→水行二十日で投馬国(対馬)→水行十日で伊都国(出雲)→伊勢遺跡
国家である邪馬台(ヤマト)の伊勢遺跡だよ まーだやってらっしゃるのか
卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)
卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)
ハイ終了
解散! >>901
東南の大海の中にある邪馬台(ヤマト)だよ >>902
帯方郡から九州へは、朝鮮半島西岸に沿って南行四千里、半島南岸を東行三千里、対馬海峡を南に渡海三千里なので、九州が東南という認識だね。 >>897
>魏志倭人伝の記述に合致するものが一切無い遺跡
証拠は? >>903
後漢書 倭在韓東南大海中
魏志 倭人在帶方東南大海之中
隋書 百済新羅東南水陸三千里於大海之中
旧唐書 新羅東南大海中
宋書 倭国在高麗東南大海中
これ程口を酸っぱーーくして書いてるのにまだわからんか? >>876
>桜井市?
>あんな不便なところが都になるかよアホウ
実際になってるわけだが >>907
つまり
>あんな不便なところが都になるかよアホウ
はウソ >>863
ひのもと、にほん、にっぽん、訓読み、音読み、どちらが先なんでしょうね? 鬼道の都なら桜井程相応しい場所なんて他にない。
何せ桜井茶臼山古墳からは大量の鏡と同時に水銀朱200キロ使われている事実がある。神仙思想の影響下なのはいうまでもない。 >>908
避難疎開遷都するには、好都合だったから、止むを得ずだな。 @阿波 >>905
それは倭人地帯の位置を説明しているだけだ
だから倭種の国々も含んだるんだよ >>909
どれが先かは知らんけど、ひのもとはジャパンにはならんだろ
一番最初はヤマトだろうけど また神武神話でも三輪山周辺から神の娘を娶る逸話もあるからな。
巫女ばかり集められた逸話も御済み。
日本中を探してもそんな場所はない。 >>917
だから、
6世紀から7世紀頃に、漢字を読み書きできる能力を持った人が増え始めた倭国(阿波)の役人が、
中国の文献にある「邪馬臺」をヤマト読み、
同じく「倭」もヤマトと呼び習わしたものだろう。 @阿波 >>910
>>913
新唐書 日本古倭奴也去京師萬四千里直新羅東南在海中
全部同じ方向にある >>917
それで良いんじゃないの?
日本なんて国号無いんだから >>919
日本列島(倭地)の事だからいつの時代も変わらないだろ馬鹿 >>905
朝鮮半島から渡海三千里だから、九州北部だよね。 ヤマトは大八島の真ん中の意味だから。
大倭から大和の時が充てられた理由も問題なし。3世紀以降勿論邪馬台国は畿内でしかない。
常識だな、今さら九州説とか本当に下らない。 女王国の位置を探ってんのに倭の位置を持ち出す馬鹿は猿と畿内説(近畿説)だけ >>909
生駒山の麓には日下という地名もあってね… 北部九州にある主要国は奴国でしかないので邪馬台国なんてある訳ないだろw
投馬国は出雲、伊都はその主張所だ。 >>923
距離が見直されてるのよ
九州は百済新羅の東南じゃないでしょ 「春日の滓鹿」「飛鳥の明日香」「日下の草香」
日下 の「下」を縁起が悪く思い「本」に改める→ 日本(ひのもと)
日本の漢字を見た中華がジッパンと読んだ。 >>922
2-3世紀の遺構で全国規模の共通点は見られない
倭国大乱などもありそんな簡単に広域国家が成立するわけないだろ
どんだけ世間知らずなんだよw >>920
三国史記の新羅本紀には「670年、倭国が国号を日本と改めた」、新唐書にも670年に「日本と號す」とある 女王国なんて瀬戸内海諸国に決まってるだろ。後紀伊半島東部まで。
東海の先が倭種の住む房総半島だよ。 >>928
距離は帯方郡から道のりで12000里(1里=75m)なので北部九州で完結 丸山古墳の出土品で私の説の正しさが証明されたしな。
邪馬台国の主要エリアは生駒山東側。 >>924
奈良時代にはまだ東北地方がヤマト王権の支配下にない。 >>932
とことんヤマトと名乗った記録は無いだろ?
面白い事だと思わないか?
歴史家はヤマトありきで頭フリーズして認知症に入りつつあるようだがw >>926
>生駒山の麓には日下という地名もあってね…
勿論、「阿波」の劣化コピーだ。 @阿波 >>925
倭が博多湾沿岸のことなのだから、倭の位置でいいんだよ。 >>942
倭は東南海中にあり、邪馬台国までの道のりは南なんだよ
会稽東冶の東までな >>927
郡使が駐在する外交の要所、周辺国を検察していた内政の要所を兼ねていて、代々の王がいた要所でもある伊都国を忘れるなよ。
あれ?
これって王都だということか? >>944だから倭の西部に邪馬台国があったと言う事よ 伊都国が千戸だからこれは離れ島的なエリア。
元々は出雲が伊都、だから国譲りの話がある。 ヤマト王権自体が空想
三王朝説とかの方が正しいんじゃないかな?w レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。