X



邪馬台国畿内説 Part892
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。
0001◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/13(土) 18:13:28.37
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4~6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1683712141/l50

◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にありえない。
0002◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/13(土) 18:14:32.09
◆1(女王所都)
 奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)

 現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に配置された大型建物等(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。庄内3式期のSD-2001、庄内3〜布留0式期のSM-1001,SD-1007が建物BとDをそれぞれ破壊し、建物Fが庄内2式期のSX-1001埋没後築造なので建物群の存続期間は庄内2〜3の中に絞り込まれた。
 居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。

 この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。

 箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある。
 乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。

 この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。
0003◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/13(土) 18:15:06.48
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
 前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
 また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。

 血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
 つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。

 纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
 築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。

 この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。

 その始発点が、a.元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から、b.或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。
0004◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/13(土) 18:15:39.85
◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
 その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
 このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
 箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
 換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ。
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである

 また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前の情報が窺知できる。

 乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
 女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。

 紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。
0005◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/13(土) 18:16:13.02
◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
 纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
 同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。

 威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
 しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
 代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。

 共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他なるまい。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
 それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。

 定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
 もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
 後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
 この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。

 初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。
0006◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/13(土) 18:16:46.77
◆5(倭国の形成と気候変動)
 1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
 2に、河内と吉備の交流の深さ
 この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
 共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
 これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。

 2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
 この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
 寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
 弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。

※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
 クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。
0007◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/13(土) 18:17:20.29
◆6(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
 これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
 これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
 先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。

 析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
 後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。

 やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
 分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
(本項 続く)
0008◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/13(土) 18:17:54.07
(承前)
◆6−2
 方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
 二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。

 この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。

 高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。

 巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。

 ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
 一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。

 この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
 このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。
0009◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/13(土) 18:20:04.12
◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
 3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
 北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相~布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FAQ43参照)
 つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240~248年が位置すると考えられる。

 庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。

 上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
 逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
 外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。

 1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
 2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
 これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。

 北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。

 その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
 糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。

 この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。
0010◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/13(土) 18:20:38.11
◆8(結語)
 日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
 原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
 原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。

 その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
 前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。

 博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。

 遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
 この現象は、寒冷化に起因する列島での社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
 この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。

 土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末~3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
 そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。
0011◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/13(土) 18:21:12.52
◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
 寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf

◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」


◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)

○弥生時代後期
  1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
  2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃 
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
  3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
  4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
  4世紀第4四半期〜5世紀中頃
   (古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)

※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
 庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
 同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
 庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
 IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
 IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III  ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山                  
  IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III    ●箸墓、権現山51号
  IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V  ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
                           浦間茶臼山、西求女塚
  IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
                           メスリ山、行灯山、祇園山
0012◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/13(土) 18:21:46.59
◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!

A:九州は倭国の一部なので問題ない。
 郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
 逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。
壹岐一国では観察されたが首都で観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
 畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
 水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。

 北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
 また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
 倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。

◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
  魏使は九州を出ていないではないか!

A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
   「泝(+固有名詞川名)が7回
 倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
 倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
 以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。
0013◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/13(土) 18:22:20.31
◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!

A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
 「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。

 以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
 三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。
また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。

 筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。

 実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
 このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く)
0014◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/13(土) 18:22:53.88
(承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
 遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
 予章郡:雒陽南二千七百里  南海郡:雒陽南七千一百里
 蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
 交趾郡:雒陽南萬一千里
 (雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)

 倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
 以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。

 また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。
0015◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/13(土) 18:23:29.27
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!

A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
 纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
 また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。

 畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
 また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
 中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇田と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。

◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!

A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
 佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)

 小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
 対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
 ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。

 むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
 このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。


◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?

A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。
0016◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/13(土) 18:24:02.93
◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
  纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?

A:そのような事実はなく、当然交流があった。
 畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
 このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)


◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?

A:読み替えない。
 行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
 これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
 古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。


◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
  女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
  女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?

A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
 これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
 中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
 倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
 いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
 王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。
0017◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/13(土) 18:24:36.53
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
  年代が判るという考古学者はおかしいではないか!

A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
 陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。

 封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
 しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。


◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
  それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?

A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
 後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
 使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。
0018◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/13(土) 18:25:11.08
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
  畿内説は倭人伝と合わないのではないか?

A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
 福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
 弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
 以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、
実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄矛の後継品であったと思われる矛の後継品であったと思われるに劣後したためと考えられる。

 当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。

 3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。

 倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
 倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
 当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。

 なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
記紀においてもヤリとホコの区別が無いことは、天日槍を知らぬ者を除き常識である。
 加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
 の指摘は今日も有効である。
0019◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/13(土) 18:25:45.85
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
  古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!

A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なる概念である。よって否定材料にならない。

呂覧に「題湊之室棺槨数襲、積石積炭以環其外」と見える如く、古代中国人の耳目には竪穴式石室の側壁或いは現代考古学に言う礫槨・木炭槨の類は室外を環る地中構造物と認識される。そして棺槨は室内に重ねられるのである。
石を槨の表、黄腸を裏とする鄭玄註は、題湊が木槨壁面に接合する時期を経た塼室墓時代の意識として整合性がある。

 現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
 古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。

 現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて韓地経由の楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響ではあるものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状である。
就中、ホケノ山は床板が無く、石室構築のための仮設の板壁を石室完成後に撤去した木蓋石室墓とする復元案(真鍋2018)も有之、古代中国人が認識する木槨とは程遠い。
これを槨と称するならば、北部九州に多い箱式石棺も歴然と槨である。

 畿内で一般的な墓は木棺直葬の方形周溝墓で「有棺無槨」に適合している。


◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?

A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能である。

 伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
 糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
 このような状況下で、畿出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。
0020◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/13(土) 18:26:16.74
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!

A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
 宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。

 一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと推定できる。
 他に、使用痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄など、遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧とがある。

 鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後~古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後~古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後~古墳初)など。

 纒向での鉄利用状況については、遺跡建設当初の庄内0期遺物から鉄器による加工痕が認められる。
 纒向大溝建築材実測図 https://i.imgur.com/EPtpzEw.png 矢板列支柱(左)に角の明瞭な貫穴、矢板(右)に鱗状手斧痕。倶に鉄器による加工の特徴を示す。
 纒向遺跡メクリ地区に「大型の鉄製品を砥ぐという行為が行われていたのは間違いがな」いとされている大量の砥石があり、廃棄時期は3世紀前半~中頃、最も古いものは「庄内2式期の可能性」(『纒向遺跡発掘調査報告書2』桜井市教委2009)とされる。
 大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析では、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
 と結論されている。

 弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。事実、鉄製品の腐食に最も影響力の強い硫化物が海成粘土層が畿内中枢部の深層に分布している。
 また併せて、纒向遺跡で脱炭鋼を製造していた布留0期の鍛冶遺構に於て鉃滓は共伴するが成品が発見されない状況は、官製工房的な管理の強化・貫徹を想定するに足る。
古墳時代に入ると「鉄器が普及したと同時に、首長層へ鉄器が集中した」(橋口2002)
という視点に立てば、首長級墳墓への集中と生活遺構での不在という鉄器の偏在は理解しやすい。
0021◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/13(土) 18:26:47.64
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
  九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!

A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。


◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!

A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
 また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
 よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
 このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。


◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!

A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
 万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
 したがって測定は存在しない。

 また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
 「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
  則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。
0022◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/13(土) 18:27:18.53
◆FAQ 19
Q:釜山~対馬あるいは対馬~壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
  これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!

A:1~2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。

 新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山~佐須奈間は34海里(=63km)である。
 江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
 まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。

 逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。


◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5~1/6
  これで説明が付く!

A:そのような整合性は認められない。
 考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
 対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)

 信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
 郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。

 九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。
0023◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/13(土) 18:27:49.67
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
  箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!

A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
 箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
 このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。

 中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国出土(李家山59号墓)青銅製容器蓋装飾の騎馬像に鋳出された脚親指に装着する革鐙が報告(菅谷1994)されている。
郡県内では湖南省西晋墓(長沙金盆嶺第21号)の陶俑に描かれた片鐙(永寧2,西暦302年埋葬)が紀年の明かな最古発見例であるが、これと同時期或いは遡るとされる類似の発見例が数あり、中国の複数の調査者が木芯包革式鐙の存在を3世紀中葉まで遡ると考えている。
現物は西晋末〜東晋初(四世紀第1四半期末から第2四半期頃)の河南省・遼寧省出土例まで降る。

 湖南省西晋墓陶俑図 https://i.imgur.com/oM4NXR6.png

 三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
 西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度に鐙が一般的存在であったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で上図タイプ1の国産模倣品現物が出ることに不合理はない。
0024◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/13(土) 18:28:20.51
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240~260年と発表した! これは信用ならない!
  同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380~550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
 もう一個が1σ西暦110~245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
 つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。

 考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
 炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。

 逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
 これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018)この桃核12測定例の平均値をIntcal20で歴年代較正して次に掲げる。
https://i.imgur.com/VKIld2Q.png
 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、
そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。
0025◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/13(土) 18:28:52.05
◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!

A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
 また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
 基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
 よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。

箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築 
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。

 1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
 2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
 スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
 隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png

 前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。

 方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く)
0026◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/13(土) 18:29:25.32
(承前)
◆FAQ 23−2

◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。

◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
 ・ 森将軍塚   :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
 ・ 前橋王山古墳 :上毛 ・ 持塚二号墳  :上総
 ・ 高千穂七号墳 :上総 ・ 山伏作一号墳 :上総
 ・ 長沖八号墳  :武蔵 ・ 温井一五号墳 :能登
 ・ 見手山一号墳 :但馬 ・ 西穂波16号墳 :東伯 
 ・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
 ・ 高鼻二号墳  :伯耆 ・ 日拝塚古墳  :筑前
 ・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
 ・ 朝日谷2号墳 :伊予ー布留0古(梅木1998)
◯朝日谷2号で後円部上に棺設置後、覆土と同時に前方部の盛土開始が判明していること
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等


◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!

A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
 黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
 両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
 古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、

 このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
0027◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/13(土) 18:29:57.38
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!

A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。

 旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
 
 後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
 このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。


◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
  ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!

A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
 統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。

 遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。

 さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。
なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
 ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
 古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。
0028◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/13(土) 18:30:28.91
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!

A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
 ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。


◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
  卑弥呼の墓があるのは九州だ!

A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
 また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。

 参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
 日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。

 墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。


◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!

A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
 高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
 九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
 一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
 九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。

「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
 正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。

 以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があった。
 九州説にとって不利な条件と言える。
0029◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/13(土) 18:30:59.91
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
  箸墓の築造と時間差があるだろう!

A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
 隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
 以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。

 なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
 また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
 このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
 解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀彧)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。

 なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。
0030◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/13(土) 18:31:30.41
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?

A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
 考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
 もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
 氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。

 弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
   https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
 また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
 これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。

 優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
 吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
 弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核には、この地域を想定するのが妥当である。

 畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
 これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。
0031◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/13(土) 18:32:01.53
◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?

A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
 3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。

 これが部分的利用に留まる所以である。


◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある!
  海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!

A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。

 「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
 「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国
0032◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/13(土) 18:32:32.80
◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
  伊都国は隆盛のさなかである!

A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半~弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
 原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
 副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。

 当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
 国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。
それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
 残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
 大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)

 後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
 平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
 いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。

 後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
 このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。

 以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。
0033◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/13(土) 18:33:03.82
◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!

A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
 ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。

 以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
 ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)

 一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
 それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
 国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。

 弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
 同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。

※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。
0034◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/13(土) 18:33:34.82
◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!

A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
 博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)

 文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
 また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
 吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。

 なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
 那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。

 伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。


◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
  纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!

A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
 外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
 これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。

 ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
 古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
 ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。
0035◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/13(土) 18:34:05.59
◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
  仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!

A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
 意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
 金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。(FAQ79参照)

 古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
 この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。

「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
 とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
 纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
 霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。

 大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
 にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、
弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
 侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
 新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。
0036◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/13(土) 18:34:37.05
◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
  邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?

A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。

 女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。


◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
  九州でいいではないか!

A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
  http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
 福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
 ◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。

 会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
 沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
 東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
 このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。

 捜神記や太平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。
太平広記はその書名が示すとおり太平興国年間に編纂された類書であり、当該箇所は東晋代成立の捜神記から採録している。則ち太平興国の時点で原テキストに東越閩中の所司が「東治都尉」とあったことが判明する。
東越閩中に置かれた都尉の治は東候官に他ならず、三国志等の版本が成立した北宋太平興国の修史活動期における編集従事者の認識が窺知される。

 倭人伝中の「会稽東治」については、中華書局が既に「東冶」と校訂しているが、丁謙・盧弼らの考證に先立ち、成都書局が同治10年に殿本を校訂して「東冶」に改めている。跋文に四川総督呉棠、四川学政翰林院編集夏⼦鐊ら同治年間の人士の名が見える。
https://i.imgur.com/E6TFLyl.png
0037◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/13(土) 18:35:08.78
◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
  九州には古くから三種の神器がある!
  大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?

A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
 出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
 また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
 記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)

 畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。

 弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
 平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
 これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。

 この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。
0038◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/13(土) 18:35:40.35
◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
  新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!

A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
 弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。

 申敬澈は慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
 定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。

 申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
 良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。
これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
 参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。

 嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
 このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。
0039◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/13(土) 18:36:12.04
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
  炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
  確かな根拠などないだろう!

A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
 1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
 また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。

その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である

以上から
 1B II型式新段階(2世紀末~3世紀前葉:塼室墓最盛期、遼東系)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期、非遼東系)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行(高久2009)する。
凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。

 楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
 また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
 よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。

以上述べた楽浪の対外活動に列島における楽浪土器の出土量を対応させ(◆7参照)
 活発期:2世紀末~239A.D.:久住IA期
 衰退期:塼室墓から遼東系が消え魏へ定期職貢あり:240〜247A.D.:久住IB期
 残存期:魏へ定期職貢途絶から最終朝貢記録まで:248〜266A.D.:久住IIA期
 途絶期:日本列島から楽浪土器消失:267A.D.〜:久住IIB期
の目安が得られる。
 三国鏡の雲紋編年において魏景元四年(263)銘鏡に一致するのが三角縁201番鏡(唐草文帯群、岸本V期)であることとも整合性が良い。
0040◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/13(土) 18:36:43.48
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
  国産に決まっている!

A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
 史料上で抹殺された年号は珍しくない。
 このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。

 中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
 この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
 最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。

 この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。

 景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。
0041◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/13(土) 18:37:14.75
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?

A:◆1で略述したとおりである。
 ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
 箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
 その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
 倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
 ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
 同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
 文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。

 また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
 その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。


◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
  これが魏晋鏡だろう?

A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
 2世紀の鏡である。

 内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
  内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
 という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
 蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。

 この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
  A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
 2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
 雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。
0042◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/13(土) 18:37:46.04
◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
  2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?

A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。

 魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
 これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。

 少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)

 倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。


◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
  考古学的に確認されているのか?

A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。

 桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。

 広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
 このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。
0043◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/13(土) 18:38:17.63
◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?

A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
 今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
 また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
 魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
  「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
 さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。

 固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
 また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。


◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
  どこにでもありそうだ。

A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
 画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
 纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
 単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。
0044◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/13(土) 18:38:49.58
◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
  壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!

A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
 灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
 郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
 壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。

 弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
 日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
 卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無い。
壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
 ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。

 五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
  新方・森之宮(摂津)
  雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
  唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
 ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。
0045◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/13(土) 18:39:21.03
◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?

A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
 奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
 巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。


◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?

A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。

 刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
 秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
 この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。
0046◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/13(土) 18:39:52.95
◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
  以北ってことは女王国も含むんだぞ!

A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
   (三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
   (三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
   (同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。


◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
  狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!

A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
    山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
    海中の島国がカンボジアと「接」

 狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。
0047◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/13(土) 18:40:23.79
◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!

A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。

「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
 殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
  ※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
  ※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。

「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有增損。
 太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
  ※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
  ※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
  ※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
  ※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
   昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
   当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
  ※百世に亘って代々を想定
0048◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/13(土) 18:40:55.41
◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
  必然性がない!

A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
 法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことが明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。

 加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。

 畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。
0049◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/13(土) 18:41:26.71
◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!

A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)

「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
 参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。

「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
 より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
 備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。

 また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
 以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。

 さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
 また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。

 以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。
0050◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/13(土) 18:41:58.70
◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
  の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!

A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。

また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。


◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
  「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
  所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!

A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。

(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
     北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
    南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
    東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
    西與犂「革偏に于」・條支接。
    行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
    …東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
    …東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
                (漢書西域)
0051◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/13(土) 18:42:33.16
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
  これは実測したとしか考えられない!
  誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!

A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。

 戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
 或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
(「長安城方六十里、 經緯各十五里、十二城門、積九百七十三頃、百二十亭」漢旧儀)

 また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
              (後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)

 さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。

 このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。
0052◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/13(土) 18:43:05.04
◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!

A:定説に従う。

 金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
 帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。

 二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。

 以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。

 楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
 

◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!

A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。

◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
  径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!

A:基礎知識の誤りである。
  現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する

ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通)
0053◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/13(土) 18:43:40.66
◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
  倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!

A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
 殷商:約16cm
 西周:約20cm
 戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
 後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
 南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
 先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
 後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。

 また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
 ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。

《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
——————————MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く)
0054◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/13(土) 18:44:11.55
(承前)
◆FAQ 65−2
 『禮記』王制には
 「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
  古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
  古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」

とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。

 ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。

 この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎——黄鐘律管が容積・重量の基準——になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。


 秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
  古者周尺 17.3cm
  今周尺  21.0cm
  秦漢尺  23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。
0055◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/13(土) 18:44:43.35
◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
  本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!

A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。

 当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
 乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。

 なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。


◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
  なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
  倭人伝にある方位に間違いはないのだ!

A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
 東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。

 ・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
 ・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
 ・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。

 ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png

 因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
 地名が実際の地勢と著しく異なる。
0056◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/13(土) 18:45:15.90
◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
  奈良県の三角縁はもっと新しい!

A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。

 ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
 しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。

 箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。


◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!  
  このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
  魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
  護軍将軍である淵の任地は都である!

A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
 上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
 淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。

 長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
 
0057◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/13(土) 18:45:47.00
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
  乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
  襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!

A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
 魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
 銭大昕・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。

 襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。


◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!

A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。

 中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
 魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。

 当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
 を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。
0058◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/13(土) 18:46:18.45
◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
 「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
  畿内は「東征」を受けた毛人だ!

A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
  「服」は他動詞として使う。
  「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。

 「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。


◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
  これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!

A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
 「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
 『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png

 能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。
0059◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/13(土) 18:46:49.81
◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
  大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!

A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。

 大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
 畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。

 庄内大和型甕と庄内河内型甕は、庄内 I 段階に大和川河口地域に成立した初期庄内甕(庄内式古相)から分化して、庄内 II 段階に至り倶に確立した。胎土・製作技法・形態により識別されるのみならず、分布域も明瞭に区分可能である。

 生駒西麓型とも呼ばれる庄内河内型甕は、中河内地域で圧倒的なシェアを占める一方で、摂津・和泉並びに大和盆地では低シェアという、極めて特徴的な偏在を示す。
これが、中河内地域の排他性を意味しないことは、中河内地域主要遺跡の持つハブ港的性格を鑑みれば明瞭である。事実、吉備の文化は中河内を経由地として纏向に極めて濃厚に転移している。


◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
  畿内説は皇国史観の徒である!

A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。

 遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
 複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。
0060◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/13(土) 18:47:27.15
◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
  最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
  8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
  古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!

A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
本Qに見られるような直線的進歩史観で歴史が理解できないことは言うまでもない。

 古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。

 弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。


◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
 前方後円墳体制など、夢想だ!

A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。

 萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
 当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。

 奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。
0061◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/13(土) 18:47:58.68
◆FAQ 78-1
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
  里数が書いてないではないか!
  つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
  投馬国は南九州でよいのだ!

A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。

 『九章算術』巻第六「均輸」に
 「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
 甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。

 これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」
「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。

 また、「今有甲發長安、五日至齊、乙發齊、七日至長安。今乙發已先二日、甲乃發長安。問、幾何日相逢?」の出題では
「術曰、幷五日・七日以爲法。以乙先發二日減七日、餘、以乘甲日數爲實。實如法得一日」と解く。
これを劉徽が註して「『減七日』者、言甲乙倶發。今以發爲始發之端、於本道里則餘分也」とする。
 即ち、長安〜齊の里数は当然等しいが、乙が2日先発しており、甲の出発時には「道里」に猶ほ「餘分」がある。そこで7日から先行した2日を減ずる計算をしている。
 明らかに「道里」が日数表記されている実例である。

 ここでは同じ固定区間が甲にとっての道里五日、乙にとっての道里七日である。甲の出発時に乙は先行した道里二日を七より減じた乙の道里七日のうち五日が未消化な「余分」である。つまり七五三十五の最小公倍数を法(分母)とすれば三十五分の二十五である。従って、改めて甲乙が同時に出発したと考えれば五と七の和十二分の二十五、即ち二日と十二分の一後に甲乙が出会う。
 この計算には里数が一切登場せず、日数のみで道里を計算していることが明らかである。

 本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。
(本項 続く)
0062◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/13(土) 18:48:30.52
◆FAQ 78-2

(承前)
三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
 旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
 其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
 不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
 逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」

とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝でも、各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。

 もとより倭人伝は倭人の国々を
  1)自女王国以北、其戸数道里可得略載、
  2)其余国遠絶、不可得詳
と截然と二分類しており、「自女王国以北」と「其余」で悉皆である。
戸数・到達所用日数・官の情報が既知である投馬国を「遠絶ゆえに不可得詳」のグループに配することは極めて不合理であり、投馬国については戸数と道里が略載されている。

倭人伝に於て投馬国が「女王国以北」と認識されていること明瞭である。
0063◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/13(土) 18:49:01.52
◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
  ただの倉庫だろう?

A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)

 建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
 建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
 建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。

 強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。


◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
 「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
  魏志に邪馬臺と書かれていたのではない! 
  ただ当時の風説を書いたのだ!

A:初歩的な誤りである。
 子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
 子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
 動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。

 助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
 よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。
0064◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/13(土) 18:49:32.79
◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
  だから邪馬台国は畿内ではない!

A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
 後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。

 三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。

 魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。

 三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
https://i.imgur.com/XIb0RqF.png

◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
  このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!

A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。

 「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。

 三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
 黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。

 このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。
0065◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/13(土) 18:50:04.15
◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
  鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!

A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。

●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。

●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
 大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君冝高官」「保子冝孫」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。

 国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君冝高官至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。

 両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
 
0066◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/13(土) 18:50:36.07
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
  古墳とは違うのだ!

A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
 但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。

 孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。

 類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。

 魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。


◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!

A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。

 K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものであろう。
 庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭頃の実年代が与えられている。
0067◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/13(土) 18:51:07.90
◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
  日本の古墳は平坦で、高くない!
  卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!

A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
  驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png
https://i.imgur.com/EyIx7C7.png


◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
  「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
  特鋳説の根拠にはならない!

A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量であり、市中から発丘獲得物を含む雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しい。

 全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
 この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
 このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
 また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。

 銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。
0068◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/13(土) 18:51:39.67
◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!

A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
 中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。

 また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。

 江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
 参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
 https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。

 このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。


◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
   3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!

A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。

 下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
 この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。

 夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
https://i.imgur.com/EXTU3lu.png
0069◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/13(土) 18:52:11.48
◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
  短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!

A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。

「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步、高六丈六尺」(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
 明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
 ※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
 ※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
「帝王世紀曰。(洛陽)城東西六里十一歩、南北九里一百歩」
「晋元康地道記曰。城内南北九里七十歩、東西六里十歩」(後漢書劉昭注)
 ※晋元康年間:291〜299
「洛陽十二門、南北九里」(太平寰宇記所引陸機『洛陽記』)
 ※陸機(261〜303)」呉陸遜孫、晋入朝289
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
 ※「皇覽」(魏文勅撰)


◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
   10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!

A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。

 実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。
0070◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/13(土) 18:52:43.60
◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
  周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!

A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。

 六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。

『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。

 また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。

 八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
 よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。


◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!

A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。

 北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
 西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
 南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
 東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
 ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
改新詔における畿内国の定義が畿内第V様式圏に酷似する事実の指摘(濱田2014)は注目に値しよう。
0071◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/13(土) 18:53:14.87
◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
  畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!

A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。

 IB期に庄内系(庄内2〜3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
https://i.imgur.com/zJCqyag.png
https://i.imgur.com/KTMQyfU.png
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。

 畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。


◆FAQ 95
Q:森井貞雄によれば西暦258の年輪年代が与えられた二口かみあれた遺跡が庄内3だ!
  布留0の箸墓が3世紀中頃である筈がない!

A:布留0の実年代を西暦260〜280頃とする寺澤の見解(橿考研2002)と齟齬がない。

ただし森井が二口かみあれたを庄内3併行と判断したという点について出典がない。
森井は青龍三年(西暦235)銘鏡を出土した大田南5号墳の「庄内3」あるいは「布留0」併行を弥生終末期の終わりの一つの定点(森井1999)としており、本Qは本人の著述と齟齬があって疑わしい。

科学年代西暦258をVI-3様式期(布留0古相)の年代観と対照する森岡(2014)。
上記年輪年代(光谷1995)が古墳時代初頭・布留0併行の暦年代を提出したとする河合(石川埋文2000)。
これらと突合すると、光谷の上記暦年代データは箸墓の築造年代を3世紀後半初とする見解と整合性がある。
0072◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/13(土) 18:53:46.44
◆FAQ 96
Q:「銅出徐州」というが銅山があるのは呉領だった徐州南部のみ!
  彭城銅山県は名ばかりの存在で漢書・後漢書に銅山のあった記録もない!

A:彭城銅山県(現・徐州市銅山区)は北宋の元豊年間に宝豊監が置かれ鋳銭が行われていた。宋銭「元豊通宝」の鉛同位体比は三角縁神獣鏡に酷似している。
のち廃坑となり地名のみが今に残る。
 これと別に、隣接する利国には鉄冶を主する監が置かれていた。

 呉の領有した徐州南部とはもと揚州の属であった広陵郡南端の極めて限られた地域のみで、徐州の殆どは魏領である。
漢書地理志広陵国・続漢書軍国志広陵郡とも鉄を産することを記すのみで銅山があった記録がないことは彭城と同じである。


◆FAQ 97
Q:纒向は蛙を食う貧困な寒村だ!

A:西漢は皇帝の宗廟に羊・兎・食用蛙を供えるのが常であった。
  東漢にあっても普通に食用であった。
  「羔、菟、鼃所以供祭也」霍光伝師古注
  「鄭司農注云蟈蝦蟇、玄謂蟈今御所食蛙也」周礼両鄭注
 纒向土壙祭祀において今人が高級食材とする鯛・鴨・桃などと並んで神饌とされることに不自然はない。


◆FAQ 98
Q:纒向は古墳築造のための施設であって都などではない!

A:合理的な理由がない。
 纒向の建設は庄内0式段階で運河掘削が開始する。
 一方、90m級にまで巨大化して弥生墳丘墓の域を超えた墳丘墓の築造は庄内2式段階に開始する。
よって遺跡内への搬入土器が広域に亘る特異性発現、運河掘削ともに、大型墳丘墓築造開始より1世代を超えて先行しており、因果関係が認め難い。
また辻地区の大型建物は3式段階には廃絶しており、箸中山古墳の築造開始に先行する。
よって此の因果関係も求め難い。

 纒向型土壙祭祀の開始も大型墳丘墓築造に先行する。その祭祀内容には葬送儀礼との関係が窺えず、寧ろニヒナメヲスクニや鎮火祭といった服属儀礼や鎮護国家的行事との関連性が指摘されている。
導水施設における祭祀も池上曽根や伊勢遺跡に先行事例が求められ、墳墓との関連がうかがえない。ことに木樋を用いた祭祀は首長居館周辺で執行される特異な祭祀として後世に残っている。

以上より、纒向は祭祀に特化した特異な大遺跡であるが古墳祭祀には特化しておらず、古墳造営とのみ結びつけるのは不合理である。
0073◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/13(土) 18:54:18.35
◆FAQ 99
Q:ホケノ山古墳の年代は古木効果の影響を受けない小枝資料の炭素年代によるべきだ!
  4世紀後半だ!

A:後代の混入物として除外する通説が正しい。
 墓室内に落下していた丸底坩と加飾壺は、他古墳での類例を鑑み、墳頂に囲繞配列されていた祭祀用土器と見るのが妥当と思われる。明らかに混入物である小枝資料は天井崩落時のコンタミであろう。
 ラジオカーボンによる暦年代の較正に当たっては古墳寒冷期に対応する炭素14濃度の乱高下を考慮する必要がある。3世紀末にかけて大幅な炭素14濃度の上昇が観察される。また4世紀後半にはラジオカーボンの崩壊速度に見合う濃度上昇があり、これが撹乱要因となって較正曲線によって絞り込める暦年代が拡散している。
 Intcal20から見た炭素14濃度は西暦270年頃をボトムとして大きく上昇しており、布留1古相のyBP値が新相のそれより高く出る実態と合致している。また、同時代資料と見られる小枝の確率密度分布ピークが一方は4世紀中葉後半、他方が4世紀末から5世紀初頭の値を示すことも、気候変動による撹乱要因が深刻であることを読み取れる。逆に270年頃のピークは両資料とも適切に合致しており、より信頼度が高い。ここから、天井崩落の時期を布留0末から布留1初頭と推察する。
 周濠底のS字甕Aの年代(庄内3)に属する多数の測定例と整合している。
https://i.imgur.com/nHtnTXO.png


◆FAQ 100
Q:会稽東治は蘇州だ! いや上海だ! 長江河口近辺だ いや淮河より北だ!

A:卑弥呼が通交した時代の会稽郡は現在の浙江省および福建省、単独で「会稽」と言えば常に現・紹興市越城区にあった会稽郡治「会稽山陰」を指す。
 「越王句踐、其先禹之苗裔而夏后帝少康之庶子也。
  封於會稽、以奉守禹之祀」(史記越王句踐世家)
 「禹周行天下、還歸大越、登茅山以朝四方羣臣、封有功爵有德。崩而葬焉。
  至少康、恐禹迹宗廟祭祀之絶、乃封其庶子於越、號曰無餘。」(吳越春秋)
 「會稽郡山陰、會稽山在南,上有禹冢」(後漢志郡国四)
✳︎茅山:会稽山の別称
 秦の王翦が楚を滅した時、楚に併合されていた呉越を分離して会稽郡とした。
 会稽郡治が現・蘇州市にった時期、当地は呉本国、呉県と呼ばれ、会稽は依然会稽山麓に所在す。
 以降変転を経て順帝永建四年(199A.D.)に呉郡を分割し、以降の会稽郡治は会稽山陰である。
「会稽東治」が呉郡や徐州に存在しないことは明らかである。

「東冶」は『捜神記』や『太平広記』並びに書陵部蔵三国志 南宋刊「紹熙」本に登場し、すべて越が楚に滅された後の越族の都となった閩越(卑弥呼朝貢当時の「東侯官治」)を指している。
(参考:FAQ40)
0074◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/13(土) 18:54:50.16
◆FAQ 101
Q:纒向の大型建物Dというのは東西二間しか見つかってないではないか!
  四間x四間に復元して大型大型というのはインチキだ!

A:「本来の建物規模は調査の状況や建築学的な検討から東西も4間であったと」
 と調査機関は公式発表している。

 事実、東西6・2m、南北19・2mはアンバランスに長大である。一般に偶数柱間の総柱建物は居館の系譜と考えられており、このような形態は異例であろう。
 建物Bと建物Cの間隔は建物Cの東西二間に等しく計画的に設計されている。
 建物Dで発見された柱列西端から建物Bまでの間隔は建物Dの東西四間に等しい。
 また建物Dと南柵列との間隔は建物Dの南北一間(束柱をカウントすれば南北二間)である。
 全体が規則的・計画的な配置であることを考慮すれば、総柱建物が正方形を志向する傾向も鑑み、建物CとDの間隔も建物Dの東西二間に等しく復元することは合理的である。つまり建物Dを東西四間、南北四間とした復元は合理的かつ妥当である。
 建物Dを破壊している溝SX-1001、建物Cを破壊している溝SX-1002ともに底の僅かな深さしか残存しておらず、両建物のあった地表面への削平が深かったことが窺知される。

大型建物群配置図 https://i.imgur.com/4W4mle2.png
同空撮 https://i.imgur.com/A1eBwbR.png
建物B空撮 https://i.imgur.com/HytoKvD.png
Dより西を望む https://i.imgur.com/LB1oG3k.png

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
0075◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/13(土) 18:55:22.99
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
 荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】なし
0076日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 03:28:25.69
卑弥呼が纏向にいたなんて考えるのは絵に描いた餅に等しい、なぜなら卑弥呼が共立された2世紀の纏向はムラも無い未開の地だったのである。畿内説は絵に描いた餅だったのです。
0078日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 04:47:54.42
天照大神にしろ大物主にしろ畿内オリジナルの神では無い。
卑弥呼も畿内のオリジナルでは無いと考えた方がいい。
0079岡上 ◆Lv09mLa3HM
垢版 |
2023/05/14(日) 08:19:11.07
「通志、194巻(四夷)」には、「卑弥呼已に死す」とあります。
これで卑弥呼の死亡時期は247年にて確定しました。

★参照リンク
浙江大学オンライン図書館:https://archive.org/details/06059276.cn
(リンク先150ページ)
動画解説:https://youtu.be/GKafuQJTj58

通行本成立時とほぼ同時期の最高峰の知識人の解釈です。
日本でも内藤湖南、藤堂明保など、かんぶん・中国語のスペシャリストは皆、「已=以」を通用させて解釈しています。
ここのFAQの「特殊な解釈云々」というのは、誤りになりますので、訂正お願いします。
0080岡上 ◆Lv09mLa3HM
垢版 |
2023/05/14(日) 08:23:43.07
「冊府元亀」。巻九百六十八、外臣部、朝貢第一。
https://i.imgur.com/diY98qH.jpg

冊府元亀の編者も「卑弥呼已死」と捉えてますから、その結果として、
「正始八年条で始まる記事は正始八年に完結している」という当たり前過ぎる解釈に
なっています。

他の読みは、トンデモ級っていう常識がないのが邪馬台国論争。
みなさん集団痴呆症にかかってるんじゃないですか?
0081岡上 ◆Lv09mLa3HM
垢版 |
2023/05/14(日) 08:24:45.83
何度も書きますけど、張政の帰国が正始八年以降にずれたのなら、
倭人伝の編者は、「明年」の二つ文字を書き足すことが出来たのです。
ていうか、普通にそうするものでしょう??

それが無いのに勝手に後にズラすのは、まさしく「勝手読み」なんですよ。
0082日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 08:27:11.53
>>79
張政が見たのは箸墓では無かったという事でいいのかな?
0083日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 08:40:22.53
蒼天已に死す
0084日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 08:40:42.77
>>82
そうなるな
0085日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 08:43:37.60
平原の様な墓なら数ヶ月で完成するだろうな
0086日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 08:52:13.62
検察官「桃が出てきた!桃は鬼道の象徴だ!犯人卑弥呼は箸墓にいた!」

裁判官「この人なんで検察官になれたの?本当に司法試験合格したの?」
0087岡上 ◆Lv09mLa3HM
垢版 |
2023/05/14(日) 08:56:14.51
まぁテンプレ的畿内説はこれで破綻かもしれませんね。
箸墓を三世紀後半において、かつ卑弥呼の墓と考えることは、もうできません。

寺澤先生は、もちろん畿内説ですから、畿内説自体に打撃ということは、
一切ないと思いますけどね。
0088日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 08:57:18.64
方角がおかしいのが畿内説
距離も方角もおかしいけど脳内では整合性がある九州説
0089日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 09:03:09.41
・魏晋南北朝史学会副会長の陳長崎氏 
・世界漢字学会会長のゲンコクワ氏
・台湾大学の周徳望教授

3人の権威が魏志倭人伝を読んで出した答えが九州
0090日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 09:03:33.17
>>88
はい、次の痴呆症患者さんどうぞ。
0092日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 09:06:45.65
さして説得力ないのに「事実」「確定」とかの言葉のチョイスがダメなんだろうね
0093日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 09:07:03.49
大作冢
大きいのは間違いないでしょう
0094日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 09:08:09.40
>>92
本当にそれ
0095日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 09:09:54.24
「殉葬百余人」をガン無視する畿内説は霊感商法詐欺

卑弥呼の墓の大きさ径百歩は陳寿の想像です

魏志倭人伝における卑弥呼の墓に関する記事は倭人からの伝聞であり
距離の単位である里すら知らない倭人が歩という単位を使って墓の大きさを説明するはずがない
陳寿は倭人からの伝聞記録にあった殉葬100余人という情報をもとに、その大きさを中国人にも分かりやすく径100余歩と記述したのである
なので墓の大きさは不明であり、重視するべきは卑弥呼の後を追って死んだ者が多数居たという事です
前方後円墳ではないという事は確かですね
卑弥呼の墓はおそらく祇園山古墳のような状態であると考えられます
https://i.imgur.com/pjfObaD.png
0096日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 09:10:46.92
岡上の異常性は複数の人が指摘しているね
0097日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 09:11:16.58
>>95
殉葬百余人の墓なんて無いでしょ
何処だと言いたいの?
0098日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 09:14:07.58
仲間割れはよくない
0099岡上 ◆Lv09mLa3HM
垢版 |
2023/05/14(日) 09:21:39.68
>>96
文献的事実に誹謗中傷で対応ですか?
0100日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 09:23:12.20
247年 張政は卑弥呼の墓を見て帰国

布留0式土器全く届かず畿内説は敗北したのであった。
0101日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 09:25:02.49
ある辞書によると、中国では多いものを「千」少ないものを「百」と表すことがあるそうです。
いつ頃からこうなのか知らないが、「千」「百」は、簡単に言えば、多い、少ない、なのかもしれない。
0102日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 09:27:01.20
もし卑弥呼が伊都国の近くにいたなら
卑弥呼の墓も伊都国の近くにある
帯方郡使が見ていないのは不自然だ
だから殉葬奴婢100人も径100余歩も正確な情報で、100余歩は魏の単位でなければならない
そんなものはないので、卑弥呼は伊都国からは遠い場所にいた
0103日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 09:28:08.70
祇園山古墳ならそれで良いんだけどだったら平原遺跡関係ねえじゃんとなるわけで
0107日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 09:37:20.11
岡上さんとは意見は違うが、彼の言うことはまだ論理的筋道が立っている。
0108日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 09:37:46.62
>>99
文献の珍解釈を絶対正しいと言い張る態度に多くの人が異常性を感じているのが事実
0109日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 09:38:15.71
>>107
どんなふうに?
0110日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 09:40:32.84
畿内説はまず筑紫に王権があったことを認めろよ。
日本の歴史書である記紀も、中国の多々の歴史書も、筑紫がかつて倭の王都であったことを述べている。
0111日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 09:40:56.24
平原の真東には宗像三女神が降臨した宇佐嶋がある。卑弥呼は宇佐に葬られている
0112日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 09:42:36.40
>>100
当然、わざわざ遠方の邪馬台国にはいかず
岡上さんのおかげで、地動説が正しい。
邪馬台国は近畿であり
共立により卑弥呼は九州にいたのである。

まあ、卑弥呼の死亡は
帯方郡の新任の月、倭国からの使者が
いつ着いたがわかれば確定しそう。
いまの所246年か247年
0113日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 09:43:12.13
>>110>>111
文献の珍解釈を絶対正しいと言い張る態度に多くの人が異常性を感じているのが事実
0114日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 09:44:44.27
>>111
魏志倭人伝でいうとなんて言う国

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0115日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 09:50:16.46
情報量が少ないので
247年に帰国と推測
せめて男王の名前ぐらい欲しかったな

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0116日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 09:52:13.81
>>80

倭人伝は年号が正始八年までしか書かれていない

「遣倭載斯烏越等 詣郡」
「更立男王 國中不服 更相誅殺」
「復立卑彌呼宗女壹與」
「送政等還 因詣臺」

これらが正始八年中ということはない
0119日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 09:59:30.23
>>116
当然、正始八年1月だとしたら
246年に使者が倭国を離れた後に
卑弥呼の死亡も考えられる

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0120日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 10:01:50.99
>>118
その考えもあるよ

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0121日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 10:09:23.04
>>119
追加 渡航できる期間も考慮だな。
厳冬期には無理だろうな

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0122日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 10:25:54.92
>>112
不弥国こと卑弥国
0123日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 10:33:39.62
>>122
で逆たどれば、九州上陸地がわかるんでは?
別に当方と違っても構わないし、
気にもしない

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0124日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 10:36:19.18
>>123
神武の岡田宮があったあたりが末盧国だろうな、宗像も近い
0125日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 10:42:13.45
>>124
つまり、壱岐から東ね
壱岐から南の呼子は否定とことで
糸島市を通らないルート。
鵜呑みにしない事には賛成だな
当方は前レスで書いた通り

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0127日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 10:46:57.04
楽浪帯方土器出土地の糸島市が伊都国は動かないよ。
しかも三種の神器が出る王墓が集中するのも糸島市。
倭国の王都は伊都国、現在の糸島市。
0128日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 10:49:31.64
>>126
平原付近も末盧国だったかもしれない
0129日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 10:53:13.41
伊都の伊は新羅の骨品(姓骨)の伊伐?(イボルチャン) 、伊尺?(イチョッチャン)の伊だろうね
0130日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 10:56:40.27
はっきりさせないと何を想像してるか姿が見えない
0131日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 10:57:10.44
・太守王頎が赴任する
・倭女王卑弥呼が郡に載斯、烏越等詣を遣わす
・張政等が倭に来て檄告喻
・男王が立つ
・国中不服
・壹與が立って国中遂に定まる
・政等が壹與を檄告喻
・掖邪狗等が使者として洛陽に行く

これが247年一年間の出来事だと思います?
常識的に考えて・・
0132日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 10:57:49.26
>>127
ご自由にどうぞ。
知った事ではないし動かすぜ
0133日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 10:58:18.89
>>99
文献的事実
「蒼天已に死す」
0135日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 11:01:25.47
>>131
どこが常識なのか?
狗奴国と緊張状態
1、2が逆になる
0136日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 11:05:01.41
陸行ひと月だから糸島ではない
どうしても言い張るならじゃあ邪馬台国とはなんなのかとか説明しないと
王宮も無く記述とも合わないんだから無理がある事を自覚しろ
0137日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 11:08:53.97
沿岸部から上陸して陸行一月かかる土地など日本列島のどこにも存在しない。
0138日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 11:09:57.31
>>137
だから何よ?はっきり言えよ
0139日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 11:10:02.15
それを言うなら畿内だって無理じゃん。
大阪湾から奈良纒向まで陸路で一月かかるのか?
0141日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 11:13:19.33
>>137
で君の思う邪馬台国はどこよ?
0142日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 11:13:35.60
>>139
帯方郡→水行二十日で投馬国(対馬)→水行十日で伊都国(出雲)→陸行ひと月で伊勢遺跡
0143日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 11:16:00.79
畿内に卑弥呼と壹与がいたのならば、卑弥呼は女性ファーストエンペラーであり、壹与は女児エンペラー。
そして、卑弥呼の死後、畿内から九州に至る大帝国の
男天皇になるとその大帝国は反乱を起こし、内乱状態。
福岡・大分・佐賀・熊本・宮崎・長崎・山口・広島・島根・鳥取・岡山・愛媛・香川・高知・徳島・兵庫・京都・大阪・奈良で内戦状態。

しかし、その記録は一切ない。
すなわち、女王国は大帝国ではなかった。
0144日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 11:17:37.01
>>143
何を想像してるのかわからない
0145日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 11:22:52.16
方角は中国史書に常に出てくる一文
東南大海之中
これが正しい
0146日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 11:23:36.40
>>135
>1、2が逆になる

なにが1、2だかわからない
自分にしか分からない文章書いても意味がない
0147日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 11:27:10.08
3世紀から19世紀までずっと我が国の首都だった畿内。
にも関わらず、女性ファーストエンペラー卑弥呼と、唯一無二女児エンペラー壹与の記録が一切ない。

なぜだ?
0148日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 11:28:44.84
>>139
近畿一周だろうな。
使者御一行様が通るならね
まあ、古墳工事等も邪馬台国である。
中心国とか支配とかは当方にはない。
共立されたのは卑弥呼、邪馬台国ではない。
女王之所都の記述による勇足思考や願望が先行じゃないの?お宝豊富、長安まではいかなくても
立派な建物が並ぶとか、そう思う人はその方面で
探せばいいだけの話

行く必要がないんだよな
なので南至るで詳細な事ない

南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月
官有伊支馬 次日彌馬升 次日彌馬獲支 次日奴佳鞮 可七万餘戸の紹介で終わるだけの事


邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0149日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 11:28:58.33
>>147
何故ファーストなのかわけわからん
0150日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 11:30:08.39
>>146
最初 1行と2行目だよ
0151日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 11:30:33.54
>>138
陸行一月は間違いだってこと
ただ、単純に一日の写し間違いと取るのも安直だ
0152日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 11:31:05.86
>>149
推古天皇より前だから
0153日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 11:31:29.45
>>140

その異人の集まりには博多を中心とした筑前は入っていない
博多の首長層は畿内との交流が密接
0154日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 11:32:06.02
>>150
勝手に倭人伝を書き換えて解釈したいって意味か?
0155日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 11:33:28.14
>>154
どこが書き換えなんだよサッパリだよ
0157日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 11:35:03.03
>>152
卑弥呼と推古天皇の血筋がつながってるかわかんないし
卑弥呼の時代は歴史が断絶してるからその間に何があったかわかんねえ
0158日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 11:36:20.34
>>156
ちょっと違うのでは?
で起点はどこだい
邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0159日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 11:37:17.97
>>151
・以北じゃなく以西だー
・東じゃなくて南だー
・臺と壹は間違えただけだー
・月は日の間違いだー

いじりまくり畿内説
0160日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 11:40:01.58
>>159
あら月は日の間違いだ
と言う祇園山、九州説もいたじゃないの?

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0161日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 11:41:39.77
>>157
では卑弥呼の時代の天皇は誰?
0162日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 11:43:03.07
>>161
先ず天皇は居ない
0163日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 11:43:07.12
>>155

弓遵が245or6年に韓の反乱で死んだ後、正始八年(247)に新太守王?が着任したから
女王は載斯烏越等を遣わした
0164日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 11:44:14.01
>>162
記紀を全部無視?
仁徳も無視?
0165日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 11:45:20.21
ヤマト政府高官A「卑弥呼ってガチで誰?」
ヤマト政府高官B「我が国最初の女帝は推古天皇だ」
ヤマト政府高官C「でも、中国人は卑弥呼っていう女王がいたと言ってる」
ヤマト政府高官D「九州辺りにいた地方豪族の女首長を倭国王と思ったんじゃねーの?」

ヤマト政府高官E「ニーハオ!中国人さん、あなた達、多分勘違いしてます。卑弥呼なんて知らないし、そもそも推古天皇まで女帝がいません。
ヤマト政府高官F「元々ヤマトは小国で次々に他国を併合したんですよ」

旧唐書【元々ヤマトは小国で、その後倭国を併合したとも言っている】
0166日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 11:50:23.27
>>164
はい
仁徳と今の天皇家の血筋がつながってるかわかるわけない
阿毎多利思北孤がアマテラスで記紀の歴史なんてそんなもん
それ以前の歴史はわからん
0168日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 11:52:20.48
>>159
方位が間違いなのは確定
壹が間違いで臺が正しいのも確定
月が日の間違いとは言ってない
0169日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 11:59:30.58
旧唐書の
「日本國者,倭國之別種也。
以其國在日邊,故以日本為名。
或曰:倭國自惡其名不雅,改為日本。
或云:日本舊小國,並倭國之地。
其人入朝者,多自矜大,不以實對,故中國疑焉。」
は、内容が一致していない
おそらく、唐に留学したいろいろな者から聞いた情報だろう
0170日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 12:00:25.85
阿毎多利思北孤がアマテラスなら伊勢神宮の創建とも合致するだろ
極めて自然な考え方
0171日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 12:01:21.18
>>163
其八年王頎到官
  倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素 不和 遣倭載斯烏越等 詣郡 説相攻撃状
  遣塞曹掾史張政等 因齎詔書黄幢 拝假難升米 為檄告喩之

ここね。太守あてである。
新任なのか亡くなった事を知らないじゃないの?又は緊張状態だし大使が誰になるのかわからないまま先に出発だよ。詣も兼ねる

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0173日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 12:08:13.30
>>151

陸行一月が何かの誤りなら、陸行一日の可能性が一番高い。
それなら帯方郡から水行十日、陸行一日の九州北部、伊都国でよい。
0174日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 12:08:21.62
>>155
>どこが書き換えなんだよサッパリだよ

・太守王頎が赴任する
・倭女王卑弥呼が郡に載斯、烏越等詣を遣わす
をあんたは「1、2が逆になる」って主張してるんだから

勝手に倭人伝に書いてある順番を書き換えて珍解釈したいって意味なんだろ?
0175日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 12:10:02.54
>>173
>陸行一月が何かの誤りなら、陸行一日の可能性が一番高い。

一番高いって理由は?
0176日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 12:10:26.84
>>153

くどい。
魏志倭人伝からは、博多は首長層に乏しく、扱いも伊都国よりはるかに低く、伊都国を畏怖する立場だったと思われる。
しかも博多が密接な関係だったのは出雲などだ。
畿内との関係は希薄であり、しかも畿内が一方的に博多に貢いでいただけだった。
0177日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 12:10:27.78
>>172
全然、中国視点という事をお忘れじゃないの?

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0178日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 12:11:44.90
>>157

記紀の歴史に断絶はない。
だが卑弥呼の半世紀にわたる治世は記紀のどこにも当てはまらない。
ならば卑弥呼の女王国は記紀が記した畿内の歴史とは関係ないということ。
0179日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 12:12:39.02
>>173
伊都国までだと1万2千里に足りないんですけど
足りない九州説さんは、またも倭人伝無視?
0180日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 12:13:14.50
>>160

松浦から一日では祇園山までちときつい。
末盧国がどこであったかはとりあえず置いておいて、陸行一日なら糸島市三雲の伊都国がせいぜい。
0181日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 12:15:14.99
>>170

タリシヒコは天皇の和風諡号ではわりとポピュラーだぞ。
例えば景行天皇は大帯日子忍代別命という具合に。
0182日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 12:15:37.28
>>169の追加

入朝して多自矜大というのは、使節の態度としておかしい
おそらく唐に滅ぼされた百済系の留学者であろう
0184日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 12:16:25.46
>>180
俺もそう思う。1日なら里数表示があったもいいと思うが?祇園山坊はどう思うかはわかりませんがね

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0185日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 12:17:03.60
>>166
仁徳ですら作り話?
0186日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 12:20:17.77
>>180
まあ、俺は唐津から吉野ヶ里だよ。
邪馬台国は近畿だけどね

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0187日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 12:22:38.98
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125






.
0188日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 12:23:43.34
>>180
たった一日で着くところで、郡使が何度も行ってる場所なら
ちゃんと何里か書くよ
0189日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 12:24:47.99
>>176

糸島は大木を立てる馬韓系の祭祀や
辰韓人と同じように弥生中期末から楽浪土器が出る異人の隷属国
3世紀に九州でもっとも発展している博多は大和の供献土器、纏向石塚古墳を模倣制作した畿内と密接な外港都市
朝鮮人が住んだ糸島説が福岡の学者の研究成果を人種的に拒絶している
0190日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 12:28:09.20
>>180
誤解される所だった
上陸地も伊万里方面も候補
水銀鉱脈からね。
南に至る水行20日は伊都国か不彌国からだよ

行く必要がないから省かれだけ

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0191日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 12:31:25.86
伊都国から出発できる港湾施設があるならそもそも初手で
末盧で降りる必要ないんだわ
当初から邪馬台目指してないなら別だけど
0192日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 12:33:20.90
や同じだな
伊都に港があるなら末盧から伊都の道のりに意味がない
末盧で降りなきゃいけないなら伊都には港は無い
0194日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 12:36:20.91
宇美も内陸だしな
えーこれ放射説いけちゃう感じ?
港も無い伊都が海人国家な訳なくなるけど
0195日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 12:36:50.32
>>191
当然、目指してない
行っていたら、詳細な方向、停泊先、里数
記述すると思う。最終目標は到のある伊都国。
不彌国には、行っているけどね。

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0196日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 12:38:18.01
>>195
だな。卑弥呼にはワンチ会ってても、邪馬台国には行ってない
0197日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 12:39:09.93
水行20日
水行10日
陸行一月

全部概数
同時代の他の記録を見なければならないが、明代の琉球への行程だと5日とか6日とか7日とか8日とか具体的な日数を挙げている。
なぜ、魏志倭人伝はテキトーなのか?
0198日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 12:40:28.33
>>193
当然だけど、中国視点が正解とは限らないんだな。その内、日本は中国の一部でもなるかもしれんよ。

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0199日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 12:41:57.87
>>185
仁徳天皇なんて居ないから
0200日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 12:42:06.14
司馬氏によって帯方郡から万二千里が先に決定しているからだ。
0201日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 12:42:12.36
瀬戸内海を渡り切るのに20日と言うイメージだよ
例えば門司から難波津で。これ以上は幾ら昔でも時間かけ過ぎだ
国内なら10日弱余るかなぁ。博多湾出発の線なく無い?
0202日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 12:42:35.28
>>196
君も地動説かい?
当方が思う邪馬台国の場所が違っても
いいね

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0203日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 12:43:19.41
>>199
こいつの中では明治天皇すらいない。異常者。
0204日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 12:44:19.00
>>197
10日、20日、1月(30日)

太陽が昇る国として、十干表記は当たり前w
0205日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 12:44:28.08
>>191

つまり、
草木茂盛し前行く人も見えない、官がいない異人の末盧國を
東南に陸行するのは、女王が使者を魏都や郡に派遣したり、郡使が倭国に来るときに使うルートではない
0206日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 12:44:35.60
>>202
邪馬台国の場所は確定できなくても、卑弥呼が九州で使いと会っても変じゃ無い
0207日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 12:46:05.46
>>206
おk
いいね

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0208日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 12:46:29.46
>>199
理由は?
0210日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 12:47:24.61
>>205
でしょ。出典は不明だけど、中国の正使が自分で歩いた体験を書いた内容では無い
ならなぜわざわざ末盧の話を入れたのか。
何か意味があるか、伊都に港が無いかどっちか
0211日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 12:47:43.60
>>208
天皇自体居ないでしょ
0212日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 12:48:20.27
卑弥呼が畿内から九州に安全に移動できるほどの大国を悩ませる狗奴国が想定できない。
0214日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 12:48:46.49
>>198

中国から見た倭とは、博多湾沿岸だろうね。
卑弥呼はその女王。
畿内は中国からは視界に入ってない。
本州と四国をひっくるめて倭種としている程度。
0215日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 12:49:56.52
>>214
倭人在帶方東南大海之中
0216日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 12:50:19.89
>>211
天皇は後世の呼称としても、畿内に王はいた
0217日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 12:50:53.02
>>191

畿内を目指すならそもそも末盧国で上陸する必要もないんだよ。
帯方郡からの里程の半分もまだ消化していない。
伊都国で荷を改める?
まだ半分以上も道のりが残っているのに?
伊都で荷を改めたのは、底が最終目的地またはその目の前だからだよ。
0218日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 12:51:18.73
>>215
Googleマップ見れば?
帯方郡から東南を見ればそこに九州がある
0219日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 12:51:21.77
>>216
相手にすんなよ。
0220日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 12:51:39.22
まあ五十迹手は怡土?から長門まで出張ってるんだから
その途中の那津に港湾施設持っててもいいんだけど
末盧がどうしても余計
0221日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 12:52:21.36
>>201

陸行一月はどうするんだよ。
それに、瀬戸内海の寄港地が一つも記載されていないのはなぜだ?
関門海峡を通過したなら、珍しいから記録したはずだしな。
0222日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 12:52:40.61
>>217
なら伊都か那津で下船すればいいのよ
なぜ末盧
0224日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 12:53:41.07
>>216
遺跡から勿論王は居た
あんな大きな墓は余程の権力者じゃなきゃ造れない
でも誰やねんて話
0226日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 12:54:34.30
>>209
水行はどこ?
0227日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 12:54:44.41
>>221
日本海でもいいけど。どっちにしても正使本人は行ってない派
なおかつ、方角だけでなく日数も持て余す可能性を言ってるのよ
陸行ももちろんだが
0228日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 12:55:15.16
>>216

そうだね。
そして邪馬台国とは関係ない。
記紀の記した畿内の日本史に卑弥呼の約半世紀に及ぶ治世を挿入する余地はない。
0229日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 12:56:11.03
>>218
重要な事だしどの史書も一番最初にずっと書いてるのよ
新羅東南大海の中とかね
0230日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 12:56:21.45
>>227

じやあ郡使はどこで卑弥呼に金印を渡した?
卑弥呼はその時どこにいた?
0231日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 12:57:25.21
>>229

帯方郡から伊都国への道のりは、南東南南。
つまり帯方郡からは伊都国でさえ東南海中なんだよ。
0232日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 12:57:38.63
>>229
新羅などないよ。韓伝読んだけど?
0233日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 12:59:31.49
>>230
卑弥呼の館だけは見たように書いている気がするから伊都国内か
0234日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 12:59:53.68
>>232
旧唐書 新羅東南大海中
0235日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 13:00:04.81
>>224
それが天皇
要するに仁徳天皇は、天皇とは呼称せずとも倭国の王として君臨していたわけだ。
0236日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 13:00:13.61
>>222

たまたまその便だけ潮目を見誤ったとかだと思ってる。
本来なら博多湾に着くつもりが、失敗したんだよ。
だからこそ、里程記事は郡使の直接の記録だろう。
0238日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 13:01:10.07
>>228
その通り
0239日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 13:02:11.94
>>236
なるほどねえ…
0240日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 13:02:14.18
>>235

倭国ではないだろう。
中国から見た倭とは、後漢書では狗邪韓国から倭奴国の間にだしね。
魏志倭人伝でもその東に渡海するとまた倭種がいるとある程度。
0241日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 13:02:46.97
>>209
>日数と里数は別

理由もなく思考停止って
これだから九州説はw・
0242日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 13:02:55.98
>>235
誰だかわからないだけでそこは否定してない
巨大前方後円墳という遺跡があるからだよ
0243日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 13:03:06.26
>>234
なんで飛ぶんだ。新羅も盛衰だよ
どの時代の話しなんだ?
0244日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 13:03:36.94
>>237
だからこそ別途、邪馬台国について、女王の都する処という注意書きを入れたんかねと
0245日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 13:05:01.92
>>234
新羅からGoogleマップで見ると九州は東南になるが、畿内は東に見える。
ワンチャン東南とも言えなくもないが
0246日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 13:05:38.15
>>240
失礼
倭国ではないな
0247日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 13:06:20.09
>>243
ずうっとこの一文は常に史書に書いてるから
○○東南大海之中
0248日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 13:06:59.81
>>242
仮に畿内説をとるならば、正始1・4・6・8年の4回も中国と行き来があり、中国の史書にもあり、しかも女性ファーストエンペラーたる卑弥呼のインパクトはとんでもなく大きい。
絶対に記紀に出てくるはずだ。

ところが、出てこない
0249日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 13:08:45.41
>>248
500年前の事なんて覚えてねえよ
0250日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 13:09:50.07
「倭國在百濟、新羅東南、水陸三千里、於大海中」(北史)
「?国在百済新羅東南水陸三千里於大海之中」(隋書)
「倭國者,古倭奴國也。去京師一萬四千里,在新羅東南大海中。」(旧唐書)
0251日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 13:10:43.33
何かが居たってのは遺跡があるからだと言ってるだろ
0252日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 13:11:12.33
>>239

ちなみに伊都国には本来なら港がある。
糸島平野は博多湾にも面している。
博多湾には当時は岬があり、立ち鼻つまり橘と呼ばれていたらしい。
その東側の海岸が大戸で、那津つまり現在の博多港。
西側の伊都に近い海岸を小戸と呼んだ。現在ではヨットハーバーがある。
つまり伊都の港は、イザナギ大神が禊をした神道の聖地である筑紫の日向の橘の小戸ということになる。
本来ならここに郡使を迎えるはずだったと思われる。
0253日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 13:12:30.60
>>247

そしてそれはおそらく九州北岸、博多湾沿岸を指している。
畿内だとしたら、そこからさらにはるかに東に向かう必要がある。
0254日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 13:13:50.84
神道で最も重要な祝詞は、倭国の王都が何処であるかを明確に示している。
筑紫の日向の小戸は、糸島市に近い福岡市西区小戸にあり、伊都の港である。

■ 大祓の祝詞

掛けまくも畏き 伊邪那岐大神
かけまくもかしこき いざなぎのおほかみ

筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に 
つくしのひむかのたちばなのをどのあはぎはらに

禊ぎ祓へ給ひし時に 生り坐せる祓戸の大神等
みそぎはらへたまひしときに なりませるはらへどのおほかみたち

諸々の禍事・罪・穢 有らむをば
もろもろのまがごとつみけがれ あらむをば

祓へ給ひ清め給へと 白すことを聞こし召せと
はらへたまひきよめたまへと まをすことをきこしめせと

恐み恐みも白す
かしこみかしこみもまをす
0256日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 13:14:44.26
>>240
東千里の狗奴国でなく枸国
属さないだけで争いの記述はない。
山陰山陽にある女王国の中に属さない国の事
魏の時代で消滅かな。
狗奴国の間違いという説もあるが
方向も違う。漢の時代だから1里400m
周りの女王国に統合かな?
0257日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 13:16:00.93
イザナギ大神が禊をして生まれた神は日向国の海中にいるから
福岡市西区小戸ではない
0258日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 13:16:03.63
>>249
ところが、神武・綏靖・安寧・懿徳・孝昭・孝安・孝霊・孝元・開化・崇神・垂仁・景行・成務・仲哀・応神・仁徳など、
卑弥呼より前に存在したと考えられる天皇(誰がどの時代に存在したかは分からない)がいて、実在した天皇もいる中で、
なぜか女性ファーストエンペラー卑弥呼と、13歳女児天皇壹与が全く登場しない。
記紀では女性ファーストエンペラーは推古天皇となる。
0259日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 13:21:44.86
>>255
中国の史書は否定してないが
讃・珍・済・興・武は居ただろうよ
0260日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 13:21:52.11
伊都国と奴国の境界は高祖山とかの山々じゃなくて、室見川だよな
0261日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 13:22:55.86
>>258
天皇なんか居ないから
それ誰やねん?
0262日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>248
百襲姫でしょ
彼女の墓は日本最初の定形型前方後円墳だし天皇陵より遥かにデカイんだから即位してたに決まってる
0263日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

百襲姫って神の嫁であり神の言葉を代弁出来るんだから、彼女の言葉は神の言葉だぞ
天皇よりも権力強いよ
というか天皇より権力強いから天皇陵よりデカイ墓が築かれたわけで
0264日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>248
めっちゃ書いてあってワロタ
【魏志倭人伝&日本書紀対応表】


①『倭国大乱を収めるために卑弥呼擁立した』:魏志倭人伝
①『流行り病で国民の半数が死に、百姓が流浪し背いて治める事すら難しくなった時に百襲姫(大物主憑依状態)を祀った』:日本書紀

②邪馬台国で卑弥呼に仕える官「弥馬獲支(ミマワキ)」:魏志倭人伝
②「“ミマキ”イリヒコ(崇神天皇)」:日本書紀


③邪馬台国で卑弥呼に仕える官「伊支馬(“イキマ”)」:魏志倭人伝
③崇神の子ども「“イクメ”イリヒコ(垂仁天皇)」:日本書紀

④卑弥呼の後に女王になった「臺与(トヨ)」:魏志倭人伝
④崇神の娘で日本最初の斎王「豊鍬入姫(“トヨ”スキイリヒメ)」:日本書紀

⑤径100余歩(約150m)とされる巨大な卑弥呼の墓:魏志倭人伝
⑤『昼は人が造り、夜は神が造る』と評されたほど尋常ではない百襲姫の大市古墳に対応。大市古墳の後円部(主体部が眠る)も156m:日本書紀

⑥魏志倭人伝『卑弥呼が死んだ後に乱が起きた』:魏志倭人伝
⑥百襲姫死亡の次の記事に崇神帝による四道将軍派遣:日本書紀
0265日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 13:26:55.30
福岡平野と糸島平野の境界は長垂山
長垂山の西側の今宿、今山に博多の3世紀前半筑前型庄内甕が多量に搬入されている
0266日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 13:28:11.36
>>260
>伊都国と奴国の境界は高祖山とかの山々じゃなくて、室見川だよな

理由を言わないのがトンデモ説の証明
0267日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 13:28:36.48
>>262
百襲姫と卑弥呼が全然合致しない
引きこもり独身の卑弥呼と、旦那がいる百襲姫
0268日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 13:29:09.07
宮崎市にも小戸があり、阿波岐原もある
福岡の現人神社とは別に、元住吉を名乗る社も近隣にある
西区を推す者もこれくらいは知っているはずだが
0269日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>267
はぁ?巫女が独身な理由知らないの?神と結婚してるという体裁だからだぞ
だから百襲姫は実際には誰とも結婚してないし子どもも残してない
0270日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

逆に天照が卑弥呼とか言ってるやつは大間抜け
天照は子どもいるからね
0271日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 13:33:05.33
>>260

一理ある。
高祖山そのものは伊都国だろうね。
筑紫の日向の高千穂宮。
0272日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

百襲姫で少し調べたらすぐ『神婚譚』というワードくらい目につくだろうに
それすら知らない大間抜け
0273日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 13:34:49.51
>>271
理由を言わないから一理も無い
0274日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 13:34:51.02
>>268

博多湾の地名は九州全体に、福岡県内の地名は近畿一帯に拡大再配置されている。
0275日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 13:34:56.44
>>269
孝元天皇を差し置いて、百襲姫が親魏倭王の称号を贈られる意味も分からない
0276日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 13:35:19.86
住吉三神は神功皇后の強烈なイメージにより博多の神といって相違ない
なのにファーストエンプレスとして彼女の名前に一言も触れない
記紀がむしろ卑弥呼の候補者として彼女に合わせようとしているという主張にも関わらずだ
神功皇后説が否定されるのは主として考古編年によるが。
それに神功皇后が歴代天皇から外されたのは明治に入ってからだろう
0277日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>275
で、孝元天皇の墓の大きさは?
0278日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 13:35:34.14
崇神天皇120歳とか垂仁天皇140歳とか名前も時代もわからんのに
まともに考えてたら混乱するするだけだ
0279日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>百襲姫が親魏倭王の称号を贈られる意味も分からない

なんで分からないの?
百襲姫は神と同格だし、そもそも日本最初で超巨大な箸墓古墳がその強大な権力を物語ってるでしょ
0280日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

そもそも男王で国が纏まらんから女王共立したんだろ
孝元天皇じゃだめじゃん
0281日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 13:38:48.93
百襲姫が中華皇帝の使者と交流したような記述も一切ない
0282日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 13:39:49.54
>>280
記紀に女王共立の記述がない
0283日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 13:39:52.53
魏志倭人伝
流行り病など記述はありませんが?
百襲姫で徇葬者は奴婢、百余人などないよ
倭人伝ネタに脚色ていう感じ
ネタだから当然、一致に近くなるわな

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0284日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

大王家の人間で(※畿内)
弟が吉備津彦で(※吉備)
夫が大物主という体裁の(※出雲)

百襲姫が一番共立に相応しいのだよ
彼女以上に共立に相応しい人間は後にも先にも存在しない
0285日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 13:40:27.24
>>271

高祖は、「筑前国嶋郡川辺里戸籍断簡」や『東大寺文書』の宅蘇吉志(韓鍛冶)
つまり、朝鮮起源説
0286日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 13:40:27.90
成務天皇もよく分からん。倭建が若年で薨去したから即位できたようだが
倭建も倭建で父帝と事績が重なり合う。仲哀は熊襲の矢で崩御する
応神は仲哀の子とは思えない
あの辺りが怪しすぎるのだ
0287日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>283
百姓が流浪し叛乱で背いて治める事すら難しくなったと書かれてますよ

それに奴婢殉葬は垂仁天皇の時代にやっと終わったわけですから、逆に考えると先代の百襲姫や崇神はやってたってことですよ
0288日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 13:41:29.64
もともと日本書紀編纂者は畿内説に近いが、どう読んでも魏志倭人伝は九州のことばかりなので、折衷案として神功皇后を持ち出したのだろう。
しかしよもや千年以上経ってから、神功皇后が卑弥呼より120年も後の人物であることが暴かれてしまうとは、思ってもいなかったろう。

九州にいた卑弥呼を畿内の歴史の誰かに比定する畿内説のような試みは、何度も挫折しているわけだ。
0289日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>282
大王家の人間で(※畿内)
弟が吉備津彦で(※吉備)
夫が大物主という体裁の(※出雲)

百襲姫が一番共立に相応しいのだよ
彼女以上に共立に相応しい人間は後にも先にも存在しない


共立の物証もある
https://i.imgur.com/DNfxkjm.jpg
0290日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 13:42:02.81
日本に王朝があったと考えるのは中国の史書があるからで
時代もわからん記紀なんか信用できない
0291日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 13:42:09.66
住吉三神は、
審神者曰「今不答而更後有言乎。」
則對曰「於 【日向國】 橘小門之水底所居 而水葉稚之出居神、名表筒男・中筒男・底筒男神之有也。」(日本書紀巻第九)

なので、伊弉諾尊が濁穢を秡除して神々が生まれた「筑紫日向小戸橘之檍原」は【日向國】
「又沈濯於海底、因以生神、號曰底津少童命、次底筒男命。
又潛濯於潮中、因以生神、號曰表中津少童命、次中筒男命。
又浮濯於潮上、因以生神、號曰表津少童命、次表筒男命。
凡有九神矣。其底筒男命・中筒男命・表筒男命、是?住吉大神矣。
底津少童命・中津少童命・表津少童命、是【阿曇連】等所祭神矣。
然後、洗左眼、因以生神、號曰天照大神。復洗右眼、因以生神、號曰月讀尊。
復洗鼻、因以生神、號曰素戔嗚尊。」
(日本書紀巻第一)

阿曇連が祀る綿津見三神(少童三神)も住吉三神も天照大神も素戔嗚尊も
日向國で生まれた神
0292日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 13:42:46.79
>>287
だから魏志倭人伝にあるの?
0293日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>292
魏志倭人伝に倭国大乱があるでしょ?
百姓が流浪して叛乱を起こし治めるのも難しいって倭国大乱でいいじゃん
0294日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 13:44:27.33
>>288
だなー
0295日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 13:45:12.01
>>289
記紀に狗奴国と争った記述もない
0296日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 13:45:40.58
>>293
疫病がなぜ倭国大乱になるの?
0297日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 13:46:05.94
日本書紀はウソで、自分だけが絶対的に正しいというのが
朝鮮人が住んだ糸島説=朝鮮起源説
0298日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 13:46:27.63
>>288
57年や107年王と万世一系の為の造作部類
もじった字をあてるとか?
倭人伝から官名をもじった?

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0299日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>296
どんだけ疫病に拘るんだよ
じゃあ別に疫病は無かったことにしてもいいよ

百姓が流浪して叛乱し治めるのが難しくなったという記録は普通にあるからね
0300日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 13:48:29.66
無理やり記紀にあてるのも?
どうかと思うが?

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0301日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>295
建沼河別
豊城入彦
ヤマトタケル

の三代に渡って東国攻撃してるのに?ヤマトタケルに至っては殺されかけてるんだから超強敵が東海地方に居たと考えていいよ
0302日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 13:49:11.67
大乱とは、国体が危うくなる事態を指し、王位継承などが混乱することを指す。
中国の史書において飢饉程度では大乱ではない。
0303日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>300
邪馬台国が畿内なのに卑弥呼が九州とかわけわからん主張してる人は記紀どころか魏志倭人伝すら読んでないね
0304日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 13:49:40.17
だから阿毎多利思北孤(西暦600年)がアマテラスで記紀の歴史はここから始まってるんだよ
0305日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>302
武埴安彦が王位奪おうとしてきてるからそれでいいね
0307日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 13:51:50.61
大綿津見も宗像三女神も福岡にある
その地の利はデカい
南九州は、海幸彦の火照が隼人としてそこに留まっていることくらいかね
海人国家の由縁としては
0308日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 13:52:16.93
日本書紀編纂者は歴史の神話化に取り組んだが、どう読んでも魏志倭人伝にオオヒルメの事が書かれている。天界から神に朝貢させる訳にもいかず神功皇后を持ち出したのだろう。念のためにトヨ=万幡豊秋津師比売命の名前を隠蔽したが千年以上経ってから神功皇后が卑弥呼より120年も後の人物であることが暴かれてしまうとは思ってもいなかったろう。
九州にいた卑弥呼を畿内の歴史の誰かに比定する畿内説のような試みは、何度も挫折しているわけだ。
0309日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>308
オオヒルメは子どもがいるから違いますね
0310日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 13:53:33.75
トナカイさんは、記紀絶対なんだね。
記紀上の話しは否定はしないけど

遺伝子とか医学的な調査がない限り
確かめようがない部類

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0311日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

ミマワキもイキマもオオヒルメの時代には登場しないから違いますね
崇神紀には登場するのにな
0312日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 13:55:00.08
>>309
卑弥呼に子がないと倭人伝のどこかに書いてましたかな?
0313日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 13:55:37.98
>>308
大日孁貴が卑弥呼である必要はないが
考古編年が変わらない限り、神功皇后説は一旦お休みせざるを得ない
0314日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

オオヒルメの時代には大乱の記述もない
ミマワキもイキマも現れない
共立要素も無い


全然違いますね
0315日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 13:56:17.41
>>311
ミマワキ、イキマなんて人は日本書紀に登場しません。
0316日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 13:56:46.79
地の利ではなくて、我が国の日本神話には神産みは日向国と書いてある
そして、朝鮮人が住んだ糸島の式内社は志登神社だけなので関係ない
0317日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 13:56:54.51
記紀には女性ファーストエンペラー卑弥呼も、13歳女児エンペラー壹与も出てこない
0318日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 13:57:07.32
>>314
スサノオに攻め込まれてますね。
0319日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>317
ファースト前方後円墳を築いた百襲姫
そして次代斎王『豊鍬入姫(“トヨ”スキイリヒメ)』
0320日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

オオヒルメ周辺にはトヨに該当しそうな人物は出てこない
神代に卑弥呼を求めるなんて意味不明
0321日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 13:58:45.81
>>316
高祖宮と細石神社は式内社じゃないの?
0322日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 13:58:50.45
>>301
だから何?
卑弥呼が苦戦して、中華皇帝に泣きついた原因になった狗奴国が記紀に出てこない
0323日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 13:59:20.88
>>314
スサノオに王位を与えたくなかったタカムスビはオオヒルメを妻に差し出して女王にした。共立ですね。女で混乱が収まる説明も出来てしまいますね。
0325日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>322
東海地方のことでしょ
久努国や久能山、久野などの地名が集中しているね
0326日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>323
え?妻にしたの?なら卑弥呼じゃありませんね
どっちも神なので神婚とかじゃないですし
0327日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 14:01:00.09
>>324
さんきゅ
0329日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 14:01:29.71
神社なんか存在しない
0330日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 14:02:19.04
>>326
卑弥呼は「生涯独身」って倭人伝のどこに書いてありますか?調査時に夫がいない。それだけですよ。
0331日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 14:03:04.50
>>326
神話化ですよ。神話化。たかが3世紀の話ですよ。神話な訳ないですね。
0332日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>330
え?夫にして共立したって君書いてあるけど
じゃあ共立以前に調査したってこと?(笑)
0333日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 14:04:19.13
>>332
???
スサノオが死んで独身になった。それだけですが。
0334日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>331
天照が三世紀?
なんでニニギやホオリやウガヤフキアエズや神武や欠史八代を無視してるの?
崇神即位をいつごろだと思ってんの?
0335日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 14:05:40.49
>>334
4世紀前半だろうね。
0336日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 14:05:59.69
記録も無い昔の話を憶えてるわけねえじゃん
0337日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 14:09:00.29
門司には隼人社という別名を持つ和布刈神社が月の神と称して
撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(内宮の荒御魂)を祭るけど
隼人といえば南九州だわな
壱岐氏もそうだが隼人も、海の民は月の神を祭りがち
0338日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

卑弥呼に子どもがいたらおかしいんだよね
後を継いだのは宗女であって息子でも娘でもないんだから
0339日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 14:10:46.94
>>336
だったら百襲姫も同様では?何で畿内説は平気で百襲姫を持ち出す?
0340日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>339
神代のことを持ち出すほど馬鹿じゃねえよ
欠史八代以降の記述ならまだ信頼出来るというのが歴史学会の通説だ
0341日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 14:12:19.39
クレームは宮内庁へ
0342日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

箸墓古墳築造に大坂山の石を使ってるとか
ある程度の信頼性はあるからな
0343日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 14:13:20.93
記紀には、百襲姫が中国と関わったことが一切触れられてない
少なくとも、日本側から4回は帯方郡に行っているのにだ
0344日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 14:13:26.57
>>340
だから神話化だってのに。
0346日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 14:15:23.98
>>345
関わっちゃいかんだろwww
0347日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 14:16:01.76
>>343
触れたく無いから触れなかっただけ
0348日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

600年献使とか記紀から消されてるし、倭の五王だって該当しそうなのは応神天皇と雄略くらいだし

紀に載ってなくても別におかしくないんだよな
0349日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 14:16:26.01
>>339
知らんよ
そんな奴居ねえだろ
0350日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 14:17:02.07
>>347
なぜ神功皇后なら良いのか?
0351日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 14:24:00.25
>>347
倭国大乱もない、狗奴国との争いもない、旦那もいる、引きこもりじゃない、共立もない
卑弥呼と百襲姫は全く不一致
0352日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 14:25:11.51
「引きこもり」と言えば天照大神だな。
0353日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 14:28:55.73
>>350
それは注
0354日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

あーでも卑弥呼が天照大神とか言ってる人達っておそらく邪馬台国東遷論者だもんね
酸素同位体比年輪年代法の結果で来年には消滅してる連中だからどうでもいいか
0355日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 14:31:18.14
>>354
あーでも卑弥呼が百襲姫とか言ってる人達っておそらく邪馬台国畿内説論者だもんね
酸素同位体比年輪年代法の結果で来年には消滅してる連中だからどうでもいいかw

ってかサンプルの年代幅が少な過ぎて無理だったんじゃないの?
0356日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 14:32:06.62
纒向遺跡と箸墓が3世紀中頃だと分かれば東遷説は完全崩壊するな
特に安本美典氏は大打撃を受けるんじゃないか?彼の天皇在位年数論とかが全てパーになる
0357日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 14:32:15.88
日本書紀編纂者A「卑弥呼は売国奴。書くな、消せ!」
日本書紀編纂者B「卑弥呼は神功皇后様だ!」
0358日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 14:33:07.96
五王もそうだが、遣使の記録は注意深く除いたんだろうね
意図をもって何かを書かなかったという論はあまり好まないが
0359日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>355
年層内分析でも高精度な年代特定が出来る事が分かってるのよ
つまり年輪を二分割するってやり方ね
0360日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 14:36:00.34
>>359
どこがやるんだ?歴博の息がかかった所はダメだよね。
0361日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>360
息がかかったとかどうでもよくて酸素同位体比年輪年代測定法ならデータが完全公開されてるから誰でも検討できる奴だよ
もうケチつけようなくなる
0362日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 14:37:40.38
>>357
この二律背反の指摘は秀逸。
0364日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 14:39:39.42
残念ながら、卑弥呼は九州にいた地方豪族の首長に過ぎない
0366日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 14:40:55.04
>>360
完全公開されてるデータの方がすでに仕込みだったら?
旧石器にも関わってる歴博関連は一切信用出来ない。無関係の組織なら良いが。
0368日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

まあ畿内説を応援していた人が『興味深い年代』と言ってるんだからもう3世紀中頃説でだいたい決まってるんだろうね
具体的な反論は出来ずに「理由はないけど信用できない!」と言い張るしか無くなるのだろうか...
0369日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 14:46:15.88
>>367
歴博関連の組織じゃなければそれでいいんだ。
0370日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 14:49:55.50
>>368
>畿内説を応援して
その時点で少し信用出来ないよ。ただ粛々と調査する検屍官のような人でないとな。少なくとも意志が介在出来るからな。
0371日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>370
信用できないなら結果が出たとき検討してみればいいよ
もはや何も反論できないだろうけどね
0372日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

邪馬台国東遷説はもう既に死に体だから、死に体が完全に消滅するってだけで大勢には影響しなさそうなのが残念

だって今ブームなのは『邪馬台国ヤマト王権と何も関係ない説』でしょ?
0373日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 14:56:17.77
DNA鑑定とかも、検察側の鑑定者と弁護側の鑑定者で結果が全然違うことがあるしな。
検察側鑑定を、DNA鑑定のプロではなく、統計学のプロが崩して、裁判長に「筑波大◯◯教授、あなた弁護側が言ってる意味を理解してます?」と注意され、
教授のDNA鑑定を手伝った助教授も「弁護側がおっしゃる通り、このDNA鑑定は破綻していると言って差し支えない」と述べ、
無罪確定、裁判長が「真犯人は別にいる!」としたみどり荘事件みたいなこともある。
0374日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 14:56:26.39
ブームとかは頭の悪い奴が乗るものだからどうでも良いよ。
不要な説が消えるのは良い事だと思う。ただ、畿内説有力となると記紀が完全に作り話ってなるのは非常に残念だがね。
0375日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>374
邪馬台国畿内説と紀は完全に整合するよ
0376日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 14:57:59.08
>>375
いや、全くw
0377日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 14:59:46.07
崇神はミマキにイリ彦なんだから、元々のミマキの官もいるんでないの
正直ミマキに関連するのかは当方懐疑的なり
0378日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

いや邪馬台国東遷説消えた所で、まだ決着はつかないだろう
元々邪馬台国東遷説なんて存在しないようなもんなんだし
0379日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 15:05:31.34
畿内説も歴博がやらかす前は存在しないような物だったしな。下らない事を書くな。
0380日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

Youtubeに『纒向は卑弥呼じゃなくて崇神の宮で、崇神天皇の崩年は318年です』とかドヤ顔でアップロードしてる人達は纒向遺跡の年代がわかっちゃったら人生どうなるんだろう
0381日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

今までの自分が築いてきた考察がもうすぐ完膚なきまでに叩き潰されるわけだが
部屋の隅でがたがたブルブル震えてるのかな
0382日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 15:12:30.40
纏向遺跡 3世紀初頭~;4世紀初め
伊勢遺跡 1世紀後半~;2世紀後半
まあそんなもんでしょう
俺は移転したと思ってて年代は多少誤差があるつもりで昨日書いたけど
歴博を信用仕切ってる人が居てこれじゃだめなんだって
0383日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 15:25:07.22
殺人事件のDNA鑑定見たら分かる通り、昔のブツをいくら測定しても、結果は鑑定者のさじ加減。
みどり荘事件では、筑波大のDNAの権威に対し、「科学の名に値しない」と裁判長が吐き捨てるほどだった。

炭素年代測定もその中身をしっかり見ないと信用できない
0384日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 15:29:56.01
土器編年も最初からやり直してほしいわ
それで九州説が固まっても構わない
出来んだろ?実際。学会の仕組みとして
0385日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 15:33:07.58
それでも絶対年代は難しいんだよな。
何か決定的な絶対年代の基準が見つからないとね。
0386日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 15:34:57.08
纒向は卑弥呼の宮ですとかドヤ顔で言っていた人達は纒向遺跡の年代がわかっちゃったら人生どうなるんだろう
0387琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/05/14(日) 15:35:28.33
測定は発表されるかね?
未だ疑問で終わらしとくと思うがね。
何れにしろ、箸墓が道教の指導者、卑弥呼の墓。そして鬼道は五斗米道、老子道徳経。
神器は剣と鏡と印璽。
列島の骨を築いたんだよ。
だがそれを認めないだろう、倭じゃないからな。
三船は時の政治は道教を認めないと記しとる。
箸でつついちゃぁダメだわ。全部見えた。
0388日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

というか、纒向は卑弥呼の都でもあり崇神の都でもあるんだよな
ヤマト王権と邪馬台国って同じだから
0389日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 15:37:54.50
>>364

ヤマト王権から見れば地方豪族のように見えても、漢や魏が倭王に冊封すれば中国の史書の上ではそれが倭王だけどな。
記紀では一度も倭王に冊封された話が出てこない。
0390日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 15:38:44.15
纒向建物をあたかも宮殿であるかのように霊感商法を繰り返す畿内説は詐欺です


■魏志倭人伝に書かれた卑弥呼の居住区の様子
『宮室樓觀城柵嚴設常有人持兵守衛』
宮殿や高楼は城柵が厳重に作られ、常に武器を持った人が守衛している。

[佐賀県]高貴な人が住んでいたと思われる警備厳重かつ頑丈な建物
吉野ヶ里の大型建物と人
https://i.imgur.com/NHwxcAf.png

吉野ヶ里周辺建物と人
https://i.imgur.com/ieqxWzX.png

■畿内説にとって唯一の頼みの綱
[奈良県]古墳完成までの遺族向け宿泊所と思われる無防備で貧弱な平屋物件
纒向の大型建物
https://i.imgur.com/rJscQF5.png

纏向の大型建物の柱と人
https://i.imgur.com/LL8YcSm.png
0391日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>389
じゃあ倭の五王も冊封された話が出てこないし九州王朝の人間ってことか?
0393日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>390
九州説は国から沢山カネが出て、こんな復元建物作れるんだか羨ましいわ
利権よな
0395日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 15:40:16.33
一昔前は鏡と剣の副葬は騎馬民族(笑。この時代では高句麗すら歩兵)
のものって言われてなかった?騎馬民族(笑)の鏡と、漢鏡や魏鏡って違うよね
0396日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 15:42:03.08
つまり九州の邪馬台国は東遷すらしていない。
畿内大和がそもそも全国政権だった記録がない。
何度か遠征はしているけど、8世紀に律令制ができるまで、全国支配はそもそもできていない。
ヤマト王権は地方政権の一つに過ぎないのさ。
0397日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 15:43:20.15
>>394
まあ、日本にとっては
0398日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 15:45:13.45
>>340

つまり崇神天皇からは史実の可能性が高い。
そこに卑弥呼の記事はない。
纏向遺跡は崇神天皇の磯城瑞垣宮。
真ん中に八咫の鏡を納めた神明造の倉があるのが証拠。
0399日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 15:45:26.01
九州王朝は阿波と同じだぞ
いいのか?
0400日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 15:46:12.98
>>397

そもそも卑弥呼がいた倭と、畿内で記紀をまとめた日本は別の国なんだろうね。
0402日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 15:49:05.12
>>388

日本では、王宮は男女で屋根の形が違うから、男女で共有しないんだよ。
纏向遺跡が崇神天皇の宮なら百襲姫とは関係なくなる。
0403日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>398
卑弥呼(百襲姫)の記述あり
崇神天皇陵より大きな墓で、天皇よりも強大な権力を保持していた
0405日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 15:50:55.38
>>400
同じヤマトだ
0406日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 15:52:10.26
>>316

志登神社

『延喜式神名帳』に十九式内社の一社でとして糸島で唯一記載せられた式内小社です。

主祭神
豊玉姫命とよたまひめのみこと

相殿神
和多津見神わたつみのかみ、彦火火出見尊ひこほほでみのみこと、息長帯姫命おきながたらしひめ、武内宿禰命

御祭神は海神である大綿津見神の娘、豊玉姫命です。
龍宮で身籠った豊玉姫命が彦火々出見命(山幸彦)を慕って陸に上がったのが当地とされ、昔は浮島となっており、海上から参拝するようになっていました。
対馬の和多都美神社より当地に降臨したとも伝えられ、水と海運、富と権力、縁を結び、子孫繁栄を保証する女神、福を招き、出世を約束する女神とされています。
古は志摩郡・怡土郡の総社として、この地方に於ける最も有力な神社として中央にも認められ、郡民一体の崇敬を集めていました大社であったと伝えられています。

以上、志登神社のHPより引用。
つまり伊都こそ皇祖である倭王天孫族の王都。
三種の神器を副葬された甕棺墓は倭王の王墓。
0408日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 15:53:05.97
卑弥呼の時代は邪馬台国が地方
律令でいう吉備、丹後、越等が中心である。

邪馬台国は近畿
卑弥呼が九州へ
0410日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>408
中心は7万余戸の邪馬台国ですよ
0411日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 15:54:41.20
>>396
しかも、鉄すらろくになかった3世紀の畿内が九州から畿内まで支配できたとは思えない
0412日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 15:54:52.50
>>361

で、その方法だと年代推定の幅は標準偏差で何年くらいになるんだ?
早く答えてくれよ。
纏向説が崩壊するのが怖くてガタガタ震えているのか?
0413日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 15:55:35.38
天下統一なんか目指さないよ
この時代に戦国時代みたいな事が起きてたと思うのか?
0414日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 15:55:36.90
喧嘩しなくないけど肝心なところが頓珍漢なのはご愛嬌?
0415日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 15:55:38.21
>>400
だね
0416日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 15:56:11.19
卑弥呼は撞賢木厳之御魂天疏向津比賣命のモデルやろな

サカキであるイワの御魂を撞いて、塞がるものを取り除き天を通した、向かいの津の姫
神風の伊勢の国の、百伝ふ度逢県の、拆鈴五十鈴宮にます神、名は撞賢木厳之御魂天疏向津媛命なり
神風のは伊勢や八坂にかかる枕詞
拆鈴のは五十鈴宮にかかる枕詞 
拆はやぶるという意味
卑弥呼は銅鐸の国を倒したんだろう
伊勢津彦は伊賀に石の城を作っていたがヤマト政権誕生時に敗れシナノに逃れたという伝承がある
播磨国風土記によれば伊勢津彦はイワ大神の子らしい
伊賀の名張に当時の要塞のような遺跡が見つかっている
卑弥呼と卑弥呼を共立した東海の勢力に滅ぼされたんだろうね
0417日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 15:56:33.95
『旧唐書』倭国・日本国伝

日本國者、倭國之別種也。
以其國在日邊、故以日本為名。
或曰:倭國自惡其名不雅、改為日本。
或云:日本舊小國、併倭國之地。
其人入朝者、多自矜大、不以實對、故中國疑焉。
又云:其國界東西南北各數千里、西界、南界咸至大海、東界、北界有大山為限、山外即毛人之國。

日本国は、倭国の別種なり。
その国は日の出の場所に在るを以て、故に日本と名づけた。
あるいは曰く、倭国は自らその名の雅ならざるを憎み、改めて日本と為した。
あるいは日本は昔、小国だったが倭国の地を併せたという。
そこの人が入朝したが、多くは自惚れが大にして不実な対応だったので、中国はこれを疑う。
また、その国の界は東西南北に各数千里、西界と南界いずれも大海に至り、東界と北界は大山があり、限界となし、山の外は、すなわち毛人の国だという。


『新唐書』日本伝

其王姓阿毎氏、自言初主號天御中主、至彦瀲、凡三十二世、皆以「尊」為號、居筑紫城
彦瀲子神武立、更以天皇爲號、徙治大和州

王姓は阿毎氏、自ら言うには、初めの主は天御中主と号し、彦瀲に至るおよそ三十二世、
皆が「尊」を号として、筑紫城に居住した。
彦渚の子、神武が天皇を号として、大和州を治めた。
0418日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 15:56:51.37
どう考えても倭も日本もヤマトだろ
0419日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 15:57:42.79
>>366
>旧石器にも関わってる歴博関連は一切信用出来ない。

こういうデマを流して研究成果を否定しようとする九州説は一切信用できない
0420日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 15:59:13.51
日中いずれの史書も、もともと筑紫に王都があったことになっている。
その年代については異説が多いけどね。
で、畿内説ではいつまでが筑紫の王権なんだ?
それとも全ての史書を無視して、ヤマト王権がウジみたいに自然発生したのか?
はじめの天皇は九州から来たのではなく、木の股から生まれてきたのか?
0421日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 15:59:37.26
伊勢神宮は遷宮の度に、興玉神の岩が増えていく仕組みになっている
まるで20年に一度岩の神さまの墓標が増えていくようだ
未来永劫続く鎮魂の仕組み、数万年後伊勢は岩だらけに
0422琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/05/14(日) 16:00:31.81
卑弥呼の時代以前に倭に原始道教は無い。
それを布教したのが卑弥呼。また、それ以前に魏度量衡の墓は無い。北枕の墓も無い。
つまりは中華人が来たということだよ。
どうにもならんと思うがね。
0423日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 16:01:35.21
>>420
始めの天皇はダラダラっと天皇になったんでしょう
天皇じゃなく王だけど
0424日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 16:01:39.26
日本書紀編纂者C「なに?倭女王卑弥呼、親魏倭王卑弥呼だと?それなら絶対に伝承として残ってるはずだ!」
日本書紀編纂者D「卑弥呼ってガチで誰?」
日本書紀編纂者E「神功皇后がそれっぽいな。では神功皇后ということにしておこう」

卑弥呼は九州にいたのだから、ヤマトの連中が分からなくて当然
0425日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 16:01:46.54
花の都、邪馬台国など願望に過ぎない
君たちg
0426日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 16:02:06.92
>>416
伊勢津彦が対峙したのは天日別で中臣系の伊勢国造だね
年代は東征の時代だから卑弥呼関係あるかな
彼が東国へ逃れたので、諏訪の建御名方と同一視されたり、
伊勢津彦自身が東国に行く前に諏訪に身を寄せたとかいう話が出来たりした
伊勢津彦自身は、武蔵や相模などの国造の祖先になった
天津神系出雲氏族の流れだね
0427日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 16:02:36.64
>>418
誰もそうは思わんらしい
0428日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 16:03:57.46
>>427
じゃあなんだ?
日本人が倭(ワ)なんて言ってたのか?
0429日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 16:05:09.59
「ヒ素が林真須美宅の物と一致!」というと、素人のみんなは一致したと考える。
では、林真須美宅のヒ素と一致したとはどういうことなのか?
それを知ってる国民は1%もいない。

炭素年代測定も中身を見せてもらわないと何とも言えない
0430日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 16:05:25.84
>>423
開拓民ですから、
勇ましい話やら、ドラマチック、
スペリチュア、戒め話やらが好まれるのは
古今東西好まれるだけの事
0431日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 16:07:15.52
>>428
中国の史書での記述だから、日本人の当時の口頭や認識は関係ないんじゃない?
まあそれはそれでいいとしても他に言ってることが割合まともなだけに余計頓珍漢に聞こえる
0432日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>420
日中双方ではないだろ
新唐書って日本書紀の記述をそのまま丸写ししただけじゃん
0433日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 16:08:50.39
卑弥呼がヤマトにいたなら、少なくとも3世紀〜19世紀まで天皇家は畿内にいたわけだ。
まさに、盤石の畿内王権。
それなのに、なぜか東遷とかが出てくる。
意味不明である
0434琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/05/14(日) 16:09:20.93
卑弥呼の時代に筑紫なぞ無い。ゆえに女王国の王都ではない。倭は皆王といい、隋代には秦王国があり、当然宇佐あたりに秦王がおったんだろう。
新唐書高麗伝には秦王神武がおったらしいな。
0435日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 16:09:27.66
伊勢遺跡時代と纏向遺跡時代はどっちも王が居たけど
治めてた範囲は違うと思ってる
そこに九州が含まれるか知らない
0436日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 16:09:46.39
何でもせめて両論併記しようよと
0438日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

1年単位で特定できるけどね
0439日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>433
1世紀くらいに東遷があったんでしょう
2世紀東遷説とかあるけど、流石に新天地にやってきて一朝一夕であんな巨大新都・古墳造営するのは無理よ
0440日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 16:11:59.29
>>431
倭と日本は当時の日本(ニッポン)ではなんと言ってたかだから
これに関しては中国は関係ない
0441日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

日本は8世紀頃に使われ始めた国号だから紀元前から使われてる倭と同列に比べられない
0442日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

倭をヤマトと読むのもヤマト王権が全国制覇してからの話だろう
漢委奴國王を漢のヤマトのナの国王とでも読むつもりか?ちゃんちゃらおかしいよ
0443日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 16:14:16.71
>>440
知る術はないよ。
後は個人の思い込み
0444日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 16:14:34.76
>>441
紀元前に日本に文字はない
0445日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 16:15:28.58
>>443
だから倭建命と日本武尊
0447日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 16:16:25.08
>>440
表記に囚われている人は多い
倭を良しとせず日本と国号を変えた
読みを変えたとまでは言ってないのに読みは違うとか
果ては国が違うといいだす始末だが
0448日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 16:16:27.39
石見神楽は古代史を考える上でのヒントを与えてくれるかもな
天地開闢より前にいた存在がある
それは五色の、五柱の神の姿で顕現した
その垂跡は事解男と速玉男
伊勢の内宮外宮には片そぎの千木、五柱の神の妻かな?祀られている

旧石器時代、瀬戸内海がまだ陸地の時代から五色台や二上山にはサヌカイトの石器を使う人々がいた
天地開闢より前にいた神さまのことかもね

切目「「それ神といつぱ、天地未分の昔より、虚空円満におはします。これは即ち一元の神、又五行別像のその理はいかに。」
介添「木火土金水、青黄赤白黒の色を得て、五柱の神と現はれたまふ。」
切目「さてその垂跡は」
介添「事解男、速玉の男、伊弉諾の神社。」
切目「無念の鼓は。」
介添「父母の声。」
切目「羯鼓太鼓は。」
介添「幼兒の声。」
切目「みな神風の源は。」
介添「重波よする伊勢の宮。古歌に曰く、片そぎの千木は内外に變れども誓ひは同じ伊勢の神風。」
0449日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 16:17:09.69
>>446
何故当たり前なのか?倭なんて文字は無いんだぞ
0450日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 16:18:12.80
東遷したのはほぼ間違いないな。
それはトナカイも認めた。
すなわち、神武の時代までの伝承はしっかりと伝わっていた。
であるならば、女性ファーストエンペラー卑弥呼、13歳女児壹与天皇はさらに新しい時代のことであるから、当然知っていたはずだ。

だが、記紀に卑弥呼も壹与も出てこない
0451日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 16:18:32.35
>>445
それも、思い込み
漢字だし、当てはめるただけ
字が導入時代の呼び方
卑弥呼の時代の呼び方とは違うかもしれない
君の思い込みでいいと思うが?
0452日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>440
『日本』という概念が生まれた8世紀の話なら倭も日本もヤマトと読む
もっと昔は倭はワと読む
0453日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 16:19:22.95
>>447
日本人が、「俺らは元々小国で倭国を併合した」と言ってるから当然
0454日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>450
日本書紀崇神紀にかなり詳しく記載されてるよ
0456日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 16:20:21.71
>>453
つまみ食いはいけないゾ
0458日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 16:20:36.80
>>452
もっと昔は文字は無い
0459日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

壹与天皇とか言ってるのも意味不明
『斎王』を知らないのか?斎王と天皇は別物だぞ
0460日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 16:21:36.84
>>457
さすがにそこに異論は無し
0462日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>458
中国人に倭(wa)と名付けられて自分たちの国が倭(wa)であることを認識したに決まっている
0463日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 16:21:58.45
>>453
別の日本人が違うって言ったらどうなるの?
聞いた人が決めるしかない。
0464日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 16:22:05.99
>>451
卑弥呼の時代に文字は無い
0465日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>461
頭のおかしな九州王朝説
一切根拠無し
0466日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 16:22:11.08
>>461
これですわ
0468琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/05/14(日) 16:23:27.59
個人的には倭と日本は別だと思っとるよ。明らかに倭王武の上奏文と日本のとは質が違うと思うからな。普通誰でも受け取った側は解るだろ?
必要以上に追及しないだけだな。が妹子はとても見せられないんで海に捨てただろ?
0469日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 16:23:28.96
>>462
知ってる人も居たでしょう
でも自国の事をワと言ってたかは疑問
0470日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 16:23:48.00
>>464
ないのに、交流できたんだ
不思議だな

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0471日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>461
唐代の史料はみな、倭と日本が同種である旨を明示してある
倭日本別種説は唐滅亡後に現れたトンデモ解釈。国号の変更=国の交代だと誤解したのは明白
https://i.imgur.com/64e4Sjh.jpg
0472日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>467
スサノオ神話に根拠となる論文も何もねえだろ
0473日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 16:25:05.30
>>470
だって痕跡が何も無いからな
0474日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 16:25:08.85
>>459
男天皇が立つと内乱になり、それを治めたのが13歳女児の壹与天皇
畿内〜九州に至る大帝国の内乱を治めるほどの偉大な天皇
0475日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>470
卑弥呼は魏皇帝に上表文送ってるしな
0476日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 16:25:51.56
>>463
違うって言った人もいるだろうね
でも、中国側は総合的に判断してこう書いた
0477日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>474
1000人しか死んでないみたいだから大した内乱じゃないし、13歳なら本人に実権は無いだろ
0478日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 16:26:21.96
倭の五王の家系図と、同時代の畿内の天皇家の家系図は一致しない。
0479日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 16:26:31.62
国家間の遣使を待つまでもなく青銅器の材料からお墓の形まで
ハントーや大陸から持って来てんのよ
文字があるか無いかは知らないけど、無いから交流が成り立たないとも言えない
0481琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/05/14(日) 16:28:40.00
国名が変わるのは継続性があるかね?じゃぁ倭に戻そうもあるかね?
0482日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>480
国体護持とか近代の価値観持ち込んでくるのが謎だが、それにしても死者は1000人程度なので大した戦争じゃなかったんだろう
0483日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 16:30:11.35
日本書紀編纂者C「なに?倭女王卑弥呼、親魏倭王卑弥呼だと?それなら絶対に伝承として残ってるはずだ!」
日本書紀編纂者D「卑弥呼ってガチで誰?」
日本書紀編纂者E「神功皇后がそれっぽいな。では神功皇后ということにしておこう」

卑弥呼は九州にいたのだから、ヤマトの連中が分からなくて当然
0484日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 16:30:30.50
>>473
痕跡がないからないとは限らないけど?
魏志倭人伝では倭とは一切文字を使わなかったのか?魏志倭人伝自体が痕跡である。
0485日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 16:31:14.02
ワとかヒノモトとか記紀編纂時に言ってた記録が無いでしょ
0486日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 16:31:23.42
山海経にも倭のことは書いてんのよ
(倭は燕に属する)
ただ倭のことを書いた記事がいつのものか分からないのがこの書の欠点
BC500年ごろの北京の燕かもしれないし、燕とも呼ばれた公孫氏政権の事かもしれない
0487日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 16:33:23.61
>>484
土器にも文字が無いからな
全く痕跡が無いんだから無いと考えるしかない
0488日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 16:33:27.91
>>483
当然、邪馬台国には行かずだ
行く必要がない。卑弥呼がいるのだからね

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0489琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/05/14(日) 16:34:34.50
>>483.藤氏家伝には三國志も引用している。当然卑弥呼のことは知ってる。
0491日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 16:36:38.80
>>486
あくまで中国の事だから日本人が倭(ワ)と言ってた証拠がない
0492日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 16:37:15.96
>>487
君の場合はね。
壺に周の文字があったけど
何遺跡だったか忘れたけど
稀だな。なので吉野ヶ里の発掘等に期待だな
0493日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 16:37:26.06
>>489
残念ながら、知らないから今日まで論争になってる
0494日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 16:37:43.54
国号変更の直前に、倭の陸海の戦力の大半を失った白村江の戦い、さらには国内では古代最大の戦乱となる壬申の乱があった。
しかもそれ以前の文献は綺麗さっぱり国内に存在しない。
記紀の主張をそのまま丸呑みにしろと言われても無理な話。
神武即位以来、畿内ヤマト王権が列島を支配していましたなんて、記紀の編纂者の主張に過ぎない。
0495日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

三重県民が3世紀に文字書いてるんだからヤマト王権の卑弥呼(百襲姫)が魏皇帝に上表文送れるのも当然
0496日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 16:38:40.72
>>491
そりゃそーだ
0497日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 16:38:46.78
>>490
田の字な
それに何の意味があるかわからんし文字かどうかもわからん
0498日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

というか魏志倭人伝では上表文送ってるんだぞ
しかも伊都国では文章の管理をしてるとまで記載されてんだから文字使えるやつ居たに決まってんだろ
0500日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 16:43:18.78
畿内説をとると、少なくとも3世紀から19世紀までずっと天皇は畿内にいたのに、卑弥呼のことも壹与のことも知らなかったということになる
0501琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/05/14(日) 16:43:36.83
494.まあ、そういうことなんだろうねぇ、
493.知らないはありえないな。
大体、賢い大陸人には必ず尋ねられたと思うね。
当然、妹子らもね。
0503日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 16:45:04.97
最古の文字と言えるのは祇園山古墳の鉄剣だろう
でもあれ日本語の文法ではない
0505日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 16:45:27.19
>>500
別に九州でもいいから、共立30カ国の内一つだけでも覚えてくれてたら良かったのに
0506日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 16:45:41.81
>>500
いや、神武以来ずっとだから、紀元前から19世紀までずっと畿内だな
0507日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 16:46:53.24
記紀に卑弥呼いないなら、天照大神でもないんだな?
神代の名前出すのは勘弁してほしいわ
時代考証まるまる免責のパワープレイだよ
0508日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>500
百襲姫のことも豊鍬入姫のことも記憶されていたね
0509琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/05/14(日) 16:47:16.17
祇園山は牛頭山だよ、スサノオの言葉だな。
0510日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 16:49:00.67
>>507
記紀もない時代
何故?記紀が絶対なんだろうか?
記紀絶対という思い込みかな?
0511琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/05/14(日) 16:49:22.58
>>500.知っていたと言っとるだろ。だから、箸墓が崇神よりりっぱな女性墓なんだよ。
0512日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 16:50:19.69
>>510
チャイナの記録よりは史実のカケラでも伝えているだろう
各論は各論で検討よ
0513日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 16:51:48.58
>>507

そもそも卑弥呼は神代の時代ではないし、神武より後の時代のはずなんだよな。、
0514日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 16:53:03.19
>>511
日本書紀編纂者は神功皇后が卑弥呼とかほざいてるんだが?
0515日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 16:53:22.04
>>513
そうなんだよな。神武より後
崇神も神功も知らんが、これだけは鉄板
0516日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 16:55:02.98
神功皇后は九州で活躍したからな。
日本書紀編纂者も、卑弥呼なら九州ゆかりの人物でないとおかしいだろと考えたんだな。
0517日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 16:55:06.86
>>512
君の場合はね。
記紀も中国の文献も
疑問だらけけどね
何を信じるのかは自由である
0518日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 16:55:12.43
神功皇后の古墳は別にすごく無い
宮は磐余若櫻宮。纏向から離れる
0519日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 16:55:47.27
畿内派も神武東征を認めてる
すなわち、漢委奴国王を与えられた九州の国王とは別に、畿内には天皇がいた
0520日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 16:56:07.39
つまり邪馬台国の東遷は無理だし、畿内の歴史に卑弥呼の記録なし。
0521日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 16:56:39.62
>>520
その通り
0523日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 16:57:18.76
>>517
俺は違うと思うがな
中国の史書には間違いはあっても嘘はない
記紀は嘘
0524日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 16:57:48.43
>>520
九州には邪馬台国はないよ

卑弥呼が
0525琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/05/14(日) 16:59:00.97
>>514、俺は編纂者じゃあないからなぁ、
尋ねられた時に答える為だと思うけどね。
0526日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 16:59:52.24
>>523
嘘とか本当とかは言っていないけど
疑問に思う。一致すれば確定
合わないならさて?
だな
0527日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 17:00:14.46
神武の時代には、彼の諱からではあるが、奈良盆地はヤマトと呼ばれていただろう
後の時代、九州に卑弥呼がいて、なおかつ邪馬台国が九州なら、
九州もあるいは本家としてヤマトを名乗ったか。もしくはヤマイ?
0528日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 17:02:12.45
>>527
なんで奈良がヤマトなんだよ?
0529日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 17:03:42.51
>>527
そういう仮定はないな。
邪馬台国は九州にはない
又邪馬台国には卑弥呼がいない。
当然、いないから書けない、物語を作るしかないのである

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0530日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 17:03:48.14
範囲はわからんが国号がヤマト(邪馬台)
0531琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/05/14(日) 17:03:50.38
神武の時代に筑紫も吉備も無いよ。なんて名か?知らなかったんだな。
0532日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 17:03:55.70
奈良盆地は鳥見の里と呼ばれていた
富雄、登美、登弥など
中臣は山科の地名と言われるが、中臣のトミもこっちじゃないかね
いずれにしても長閑な響きがする
0533日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 17:04:36.08
>>528
カムヤマトイワレヒコ
0534日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 17:06:06.45
>>531
神武の時代があったという立証もできず
記紀だけは絶対なんだね
0535日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 17:08:13.03
だから国号を倭(ヤマト)から日本(ヤマト)に変えたんでしょ
0536日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 17:10:57.97
>>87

> まぁテンプレ的畿内説はこれで破綻かもしれませんね。
> 箸墓を三世紀後半において、かつ卑弥呼の墓と考えることは、もうできません。
>
> 寺澤先生は、もちろん畿内説ですから、畿内説自体に打撃ということは、
> 一切ないと思いますけどね。

トナカイとお話し合いをしてください😉
0537琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/05/14(日) 17:11:42.56
>>534.記紀だけは絶対とは何かね?
卑弥呼以前に倭を纏めた者なぞ存在しないと言い続けているんだか。
0538日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 17:12:14.71
倭(ヤマト)は文字が雅じゃないから嫌で日本(ヤマト)にしたんでしょ
0539日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 17:14:23.64
>>406

「対馬の和多都美神社より当地に降臨したとも伝えられ」

対馬から勧請した神社
対馬の和多都美神社は貞観元年(859年)に従五位上の神階(即位の際の恩典)
大神神社は貞観元年(859年)2月、正一位
0541日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 17:15:48.63
>>537
神武の時代とか出てくるからだよ。
記紀上での話とか前置きがあるといいけどね
0543琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/05/14(日) 17:16:50.74
かもしれん。が上奏文を読み比べるだけで違いがわかる。明らかに教養が違う。
その証拠に、裴世が出向くと詫びてる、が必要なものを得ると途端に疎遠にもなる。
0545日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 17:20:20.22
>>539

それは後世の畿内政権による序列だからだろ。
筑紫王権を何ランクも低く見積もったんだよ。
0546日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 17:20:31.67
>>522
当然、邪馬台国は近畿
ヤマト政権の台頭は後の時代

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0547日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 17:21:52.66
>>539
同じ日に伊弉諾神宮が正一位に昇進している
大神神社すごいね。淡路が田舎すぎなのかな
0548日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 17:24:44.14
伊弉諾神宮は同じ年の1月27日だったわ
0549日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 17:46:07.68
酸素同位体比年輪年代法って既に問題が指摘されてるのか?

「樹木年輪サンプル」と「サンプルの絶対年代データ」が必要。では、サンプルと絶対年代はどうやって集めたのだろうか?
奈文研の光谷氏から試料の 提供と酸素同位体法への参加を募ったとされていることから、【年輪年代法で特定された年代が基準】に なって、マスタークロノロジーが作成されたものと推定する。

年輪年代法のズレが指摘されまくってる中で、これ意味ないんじゃね?
0550日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 17:46:47.71
>>535
日本は、にほん又はにっぽんと読みます
0551日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 17:48:37.63
『私は年輪年代法や日本での研究の蓄積は尊重する。しかし、いかんせん、それをチェックする同業 者がいない。自然科学の実験データや操作は互いにチェックし合う者がいないほど危ういものはない』 と、奈良県立橿原考古学研究所(現:纒向学研究センター):寺沢薫氏。
0552日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 17:52:53.16
まーだやってらっしゃるのか





卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)






ハイ終了

解散!
0553日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 17:53:25.25
歴博発表も然り、日本の考古学界ってのはやる人の思いが反映されまくる危険性が強いんだな。
0554日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 17:56:06.31
>>551
林真須美のヒ素も、中井教授は「同一」とし河合教授は別物としてるからな
結局さじ加減
0555日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 17:57:21.71
情報公開請求と訴訟について
• 経緯
– 2021年7月13日 国立文化財機構奈良文化財研究所へ「情報公開請求書」を正式提出
– 2021年9月22日 国立文化財機構より公開拒否の回答

• 情報公開請求したもの
– 奈文研が開発・確立した年輪年代法に関して
• 年輪の「ものさし」となる暦年標準パターン(5種類)の数値データ – 標準パターン作成に使用した樹木試料と年輪パターンなどのデータ
• 年輪の「ものさし」を使って年代測定した7件について
– 使った「ものさし」の種類と暦年標準パターンの数値データ – 対象となった樹木試料と年輪パターンなどのデータ

公開拒否?これ何かやらかしてません?
0556日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 17:59:09.57
>>554
だよね、ある説を贔屓な人が行った測定なんて全く信用出来ないね。中立が保てない。
0557日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 18:00:02.01
>>545

対馬から勧請する前までは
朝鮮人が住んだ糸島には0ケだったということだな
0558日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>555
無駄無駄
酸素同位体比年輪年代測定法で東遷説は終了だから
0559日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 18:02:45.99
また、歴博発表の時のように、中身を全く理解していないマスゴミを使ってセンセーショナルに「新たな畿内説の有力証拠!」とかやるんだろうな。目に見えてるw
0560日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 18:04:29.73
>>558
そう、デマゴーグで潰されるんだろうね。記紀は嘘っぱち確定で反日大勝利だな。目に見えるよ。
0561日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>560
デマゴーグだと思うなら反論すればいい
酸素同位体比は標準パターンが完全公開されてるから
0562日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 18:06:39.45
>>561
だから、その標準パターンってが正しい証拠はよ?
0565日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

これからは科学(邪馬台国畿内説)vs科学(邪馬台国筑紫の女酋長説)の戦いになるのであって、エセ科学(邪馬台国東遷説)の出る幕は無いのである
0566日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 18:11:30.39
>>563
測定精度の高さはわかったけど測定された数値の「物差し」はどこから拾ってきたかってんだよ?
0567日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 18:13:41.79
公開公開って古く出るものが公開されてちゃ意味ないっしょw
0568日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>566
樹種を選ばないんだから酸素同位体比で繋ぎ合わせていけば逆算で何年の物か分かるだろ
物差しの信頼性もクソもねえんだよ
小学生だって出来る話だろうが
0569日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

まあ、これからは科学と科学の戦いになるからね
エセ科学東遷説は九州王朝説と戯れててくださいな
0570日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 18:18:24.94
>>567
新しい方が意味ないだろ
0571日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>紀元1世紀代という年輪年代の測定結果は、土器の編年によって推定された
古墳時代前期(紀元3-4世紀)という年代観とあまりにもかけ離れている。
• 酸素同位体比クロノロジーは、年輪年代法の年代に基づいて作成されているものと
この事例から判断される。

全然推測されないっすね、はい。
樹皮に到達するまでもっと距離があるだけでは?
0572日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>紀元1世紀代という年輪年代の測定結果は、土器の編年によって推定された
古墳時代前期(紀元3-4世紀)という年代観とあまりにもかけ離れている。

• 酸素同位体比クロノロジーは、年輪年代法の年代に基づいて作成されているものと
この事例から判断される。

ごめんこれ理解出来ないの俺だけ?
0573日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 18:39:50.73
>>555

こりゃアウトだな。
客観的証拠を提示できないなんて、科学ではない。
データを示せないなら、普通は捏造と同じ扱いを受ける。
0574日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 18:40:57.18
このスレに東遷説なんていたっけ?
畿内説は誰と戦っているんだ?
0575日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 18:41:08.52
>>555
こういう自分に都合の悪い情報は隠すんだよ
殺人事件見れば分かる
捜査機関は都合の良い証拠しか出さない
たまにリークで都合の悪い証拠を隠してたことがバレるけどな
0576日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

真実が一つならばどんな手法使っても似たような年代出るのは当たり前だろ
スギなんて慶長杉が残ってる通り500年以上余裕で生きるんだから外側に年輪200あっても何もおかしくなくね?
0578日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>574
あれ?居ない扱い?
まあそうよね。あの人達は非科学だしな
0579日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 18:44:48.25
>>316
朝鮮人で一くくりにするなよ
渡来系なんか半島にいた漢人が殆どだろ 
伊都国も名前からしてそっち系
0580日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 18:48:17.13
有名な政治家だったあの伊尹と同じ氏族で子孫が王だから伊都国だったはず
0581日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 18:48:30.64
>>555
よくこんな状態で科学とかほざけるな
0584日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 18:49:58.07
>>582
お前は縄文人か?
0585日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 18:52:04.91
五十迹手は神器を持ってたから、世世王が居たにも符合する
けど仲哀期にお互い初見みたいなやりとりしているのは、畿内説にとっては解せないな
卑弥呼時代に伊都国に一大率を置いてたはずだから
0586日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 18:52:15.57
そんなに疑うなら中途半端に信じるなよって話しだわな
0587日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>585
邪馬台国が一大率をおいてたとか書かれてないし
0588日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 18:56:09.69
>>587
あらそうなる感じか
0589日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 18:56:39.26
>>559
>また、歴博発表の時のように、中身を全く理解していないマスゴミを使って

九州説の人は、中身を全く理解していないので歴博に反論できず
0590日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

というか伊都国関連ならイトデの前に崇神朝末期のイツツヒコがいるでしょ
倭王僭称した人ね。まあ僭称というか元々伊都王が倭王だったから再独立しただけなんだろいけど
0591日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 18:57:46.67
考古学とても評判悪いけど考古君はどう思うわけ?
纏向閥の京大さん
0592日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>588
地理的にも投馬(出雲)が占領していたんだろう
だから出雲振根は筑紫に往来していたんだ

その出雲振根が崇神天皇に潰されると一大率も瓦解し、伊都国は再独立を果たしイツツヒコが倭王を僭称するという一連の流れが日本書紀に記載されている
0593日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>591
京大とか関係なくね?東大も九州大も畿内説一色よ
0594日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 19:01:12.44
>>590
伊都都比古おもろw都怒我阿羅斯等から倭の下賜品奪い取った新羅って
こいつらじゃねーのという説は見たことある
0595日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

平原王墓副葬品の豪華さから見ても、女王国連合興隆以前の日本の支配者が伊都国だったことは明白だろう
0596日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 19:02:57.69
>>592
出雲振根が筑紫に何しに行ってたかは興味あるけど
あの兄弟の話も倭建とかぶってて実に怪しいが
0597日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

イツツヒコを単なる穴門の首長とか考えるのはおかしい
穴門の首長如きが倭王僭称出来る物か。イトデだって穴門に来てるんだから北九州一帯から関門海峡まで伊都国の勢力圏だったのだよ
0598日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 19:03:53.34
>>593
あなた若いのかしら。九州説は東大が音頭取ってたらしいんだが 違ったっけなー
0599日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 19:04:37.10
>>595
日本の支配者か
えらい評価高いな
0600日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 19:05:09.70
>>597
それは分かる
0601日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 19:05:18.87
おまえの判断で信じたり信じなかったりはやめてくれ
どうせおまえ分かってないんだから信じないなら全部信じるな
0602日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

伊都国はデロス同盟に於けるアテナイの様な物。北九州港市国家群の中の覇者
0603日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 19:10:08.89
>>579
伊都国 糸島説ではないが交流があったと見るけど?

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0604日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 19:10:24.51
>>598
それは大日本帝国時代
0605日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 19:11:20.23
>>595

サビ色塗装鏡など誰も欲しがらないし、
そもそも古代にそんな鏡はない
0607日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

草薙剣で出雲の支配権、八咫鏡で筑紫島の支配権を畿内の皇室が継承したんだろうけど、勾玉ってあれどこなん?
0608日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 19:13:57.44
>>601
怒らないからアンカつけてくれ。
私は畿内説である。記紀には欠史、そして倭建前後で怪しい箇所アリ
しかしこれは考証の杜撰ではなく読者にある種の読みを促しているのではないかとも読む
だから一方的に疑っているわけではないので安心してくれ
0609日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 19:14:21.50
>>584

縄文時代の後の北部九州の首狩り甕棺墓は
ベトナム中部のサーフィン文化よりもカリマンタン島が古いとされている
0611日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 19:15:20.72
>>604
そっかー
0613日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

八頭花崎八葉の鏡は平原大鏡しか存在しません
これを否定出来る人間はいない
0614日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 19:16:18.05
>>591
>考古学とても評判悪いけど

九州説に都合の悪いこと言ったから九州説の人の間で評判悪いけど
そんなこと気にしてたら学問は出来ないしね
少数派の人に評判が悪くても実害ないし
0615日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 19:17:03.71
>>613
果たしてそうかな?
0616日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 19:19:18.56
>>608
年代測定の事だ
俺も知らないし鵜呑みにするけど幅があるものとして折り合いを付けてる
俺の判断で正しいとか間違ってるとか言うと無茶苦茶になる
0617日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 19:20:39.43
>>606
そうなの?比較したい
写真ないかな?

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0618日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 19:21:37.66
>>616
それはごめんやして
0619日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>616
年代測定に詳しいなら聞きたいんだけど

>紀元1世紀代という年輪年代の測定結果は、土器の編年によって推定された
古墳時代前期(紀元3-4世紀)という年代観とあまりにもかけ離れている。
• 酸素同位体比クロノロジーは、年輪年代法の年代に基づいて作成されているものと
この事例から判断される。

☝これどういう意味か分かる?俺には全然理解出来ない
https://i.imgur.com/GhAMl94.jpg
0621日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>616
あーごめんレス読んでなかったわ
知らないのね
0622日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 19:25:30.52
土器編年を一からやり直せという科学からの助言か
0623日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 19:26:41.18
>>619
俺も理解できないから発表されたものを鵜呑みにする
ただし幅があるものだと思ってる
0624日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

そもそも土器の編年とかけ離れててもなんの問題もないんだけど
だってこの木材、心材だろ
0625日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 19:28:43.97
>>620
なんだないんだ。残念
邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0626日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 19:29:50.83
>>585

> 五十迹手は神器を持ってたから、世世王が居たにも符合する
> けど仲哀期にお互い初見みたいなやりとりしているのは、畿内説にとっては解せないな
> 卑弥呼時代に伊都国に一大率を置いてたはずだから

大率を置いていた卑弥呼は畿内と関係ない九州の女王だったと言うことでしょ。
そもそも神功皇后の時代は卑弥呼から120年も後なので、4世紀になって半島人が入り込んでいたというだけなんだけどね。
それは畿内だって同じだよね。
いや、むしろ畿内の方が半島出身者が多いんだっけ?
0627日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 19:30:07.58
>>609
土器棺墓は世界中に見られてルーツ探査にはサッパリ使えない

だが弥生の甕棺墓は半島南部の壺棺墓を取り入れて進化したものだという
解釈が一般的

弥生の甕棺墓は出現当初は壺棺墓だったからだ
0628日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 19:31:35.74
>>622
何回もやり直さないといけないな
殺人事件における再審請求と同じ
技術の進歩で何回も鑑定をやり直して、大体自己に都合の良い結果が出る
試料を費消して有耶無耶になって終わるけど
0629日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 19:32:25.43
例えば桃の種の年代測定が何故ダメなのかわかんないのよね
堆積物に依って周辺との年代はわかるでしょう
その上で年代測定してるわけでそれが何故ダメなのかわからない
0630日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 19:33:16.79
要するに筑紫倭国の王都である伊都は、その主人が頻繁に入れ替わっていたんだよ。
なぜならそこを治める者こそ倭王になれるから。
だから魏志倭人伝でも倭国は乱で支配者層が何度も入れ替わったことが書かれている。
イトデの話は卑弥呼から120年後であり、その前に王権は何度も入れ替わっているはず。
0632日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 19:35:48.08
>>631
出た数値が正しいか間違ってるかなんてそれこそ全くわからない
0633日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 19:37:16.42
>>626
まあ一見畿内説にとっては解せない。
なぜなら一般に百襲姫のことを指すからね
けど神功皇后説なら矛盾はしないんだよ
神功皇后説は編年が弱点だからわざわざ言わなかったのよ
皇后が2〜3世紀の人間だとしたら、まだまだ渡来人ラッシュの前だわね
0634日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>632
だからこそ酸素同位体比年輪年代法年層内分析で決着が付く
0635日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 19:37:47.59
>>629
そもそも3世紀半ばの桃の種があったらそこが邪馬台国というのが無理がある
それは多数ある桃の種のごく一部が、3世紀半ばの巻向人に食べられたという証拠にしかならない
0636日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>626
邪馬台国が一大率を置いてたってどこに書いてあるの?
0637日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>635
だからこそ酸素同位体比年輪年代法で決着が付く
0638日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 19:38:35.20
>>597

それなら魏志倭人伝にも通じるものがあるな。
大率は女王国以北すなわち玄界灘諸国を検察していたとあるからな。
実質的には、伊都高祖宮と筑紫岡田宮が穴門豊浦宮の王を倭王に共立して筑紫香椎宮に迎えた話だろ。
卑弥呼が共立された時も、香椎宮すなわち不弥国に迎えられたのかもしれない。
0639日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 19:39:49.61
桃も疑惑のまま。何もかも。

【箸墓古墳の築造年代】INTCAL20によって、弥生・古墳時代の年代観が大きく変わった。

箸墓周辺の布留0土器の炭素14年代は1800BPである(上図 。この1800BPをINTCAL20較正曲線で実年代(暦年代)に補正(変換)すると、AD250年頃と 4世紀前半(AD300~AD350年の二つ候補があるが、上図4で分かるように4世紀前半の可能性がより高い。

https://nihonkodaishi.net/knq/20dec/jcal-integrated-into-intcal1.html
0640日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 19:40:17.78
>>635
俺もネタで桃食ってたとか言ってるけど実は食べた痕跡が無いんだよね
0642日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 19:40:48.55
>>637
桃の種を3世紀半ばの巻向人が食べていたら、なぜそこが邪馬台国になるんだ?
0643日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>641
ではない
『女王の都する所』なんだから連合体ではない
0644日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>642
いや年輪年代(酸素同位体)って言ってるでしょ
桃の種関係ないから
0645日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 19:42:34.38
>>607

勾玉は越国だろ。
筑紫、出雲、越が古代の主要な勢力。

大和?知らない子ですね。
0646日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 19:42:44.34
>>644
年輪年代がなぜ邪馬台国の証拠になるんだ?
0647日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 19:43:00.32
>>639
そこにケチつけるとなると測定の原理とか理解してないとできないでしょ
だから発表されたものを鵜呑みにするだけ
0648日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>646
とりあえず邪馬台国東遷説は終わる
0649日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 19:45:12.04
>>645
滋賀もね
0650日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

『年輪年代法で特定された年代が基準になって~』とか理解不能な推測してる時点で、邪馬台国東遷論者にとって酸素同位体比年輪年代測定法がかなり【都合の悪い】物だってことが分かってしまった

マトモに反論も出来てないあたり、発表されるとかなりヤバいんだろうな
0651日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 19:49:01.65
>>647
測定の原理なんて誰も知らないし、だから貴殿の仰る通り鵜呑みにする
DNAが一致したとなると、やっぱりソイツが犯人だったんだとなる
しかし、第三者(弁護人)がその中身を見ると適当だったということがよくある
0653日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 19:51:49.60
>>645
丹後も忘れずに
0654日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 19:52:09.57
>>651
よくあるのはわかるけど俺とかおまえの判断で正しいとか間違ってるとか判断するわけにいかんでしょ
間違ってると思うなら全部否定しろって話し
0655日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>652
年輪酸素同位体比ならその幅がほぼ無くなって東遷論者の人生が終わる
0656日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 19:53:05.45
>>582
つまり元々は古朝鮮があったとこなんすよね 殷王朝系の そこ滅ぼした衛氏朝鮮とかも漢人ですやん 高句麗が滅ぼしたから王族貴族の漢人達は南下しはったんでしょうね
0657日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 19:53:19.88
>>633

神功皇后は4世紀後半だよ。
もう渡来人はたくさん畿内にも到着している。
イトデの話はその頃のもの。
0658日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>654
いやまあ今の段階だと年代観を巡って争いになるのもしょうがない
来年には決着ついてるだろうけどね
0659日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 19:54:20.81
歴博に「証拠を見せろ」って言ってる団体には、弁護士がついてるね
弁護士はこういうの崩すのが得意だからな
だから、歴博は拒否
0660日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 19:54:23.71
>>655
その理屈がわからん
東遷はなくても人の流れは双方にあるのでは?
0661日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 19:54:33.92
>>652
具体的に何を無視してるかわからん
基本的には発表されたものを信じるんだぞ
0662日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 19:54:42.24
>>636

> >>626
> 邪馬台国が一大率を置いてたってどこに書いてあるの?

卑弥呼が置いていたんだよ。
伊都国には特に一大率を置き、諸国を検察させたとある。
0663日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 19:55:40.82
>>657
ところが、日本書紀編纂者は神功皇后が卑弥呼だと言ってる。
すなわち、何にも知らないで「多分神功皇后」ぐらいの感覚。
0664日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 19:56:55.90
>>647

> >>639
> そこにケチつけるとなると測定の原理とか理解してないとできないでしょ
> だから発表されたものを鵜呑みにするだけ

理解している立場から言わせてもらうと、年代推定に幅があるのに、それを無視してピンポイントで卑弥呼の時代であるかのような宣伝をする畿内説は、完全に似非科学なんだよ。
それも悪意のある嘘つきの。
0665日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>660
邪馬台国東遷説はだいたい纒向は4世紀で崇神の宮ってのが前提になってるから
そこ崩れたら全部パーになる
0666日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 19:57:34.53
>>659
あほな事やってるな
考古学は不確かななのは当たり前なのに弁護士に追求されたら答えられないよ
0667日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 19:57:46.64
>>650

発表できていないあたり、畿内説にはかなり不利なデータが出たのだらう。
0668日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>664
理解してるからこそ、年輪酸素同位体比で完膚なきまで徹底的に壊滅させられるのが怖いんだよな
もう反論できないもんな
0670日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 19:58:50.73
>>655

狭くはなるが、誤差はなくならない。
誤差がないかのように宣伝するのは似非科学か詐欺。
0671日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>667
いやこないだの『纒向学の最先端』で目下鋭意年層内分析途中って話だったんだからそんなすぐには出てこないよ
0672日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 19:59:16.49
>>664
だから俺はその上で幅があるものだと思ってるんだって
0674日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>670
誤差は限りなく小さくなるよ
東遷説は終了。九州の女酋長説は生き残るけどね
0675日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>670
もしかしてお主、消滅寸前、風前の灯火、邪馬台国東遷説を奉じているわけではあるまいな
0676日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 20:02:00.06
>>662
諸国とは半島の国々や中華も含むか?

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0679日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 20:03:58.27
>>673
なにか怪しいだけで全部否定するわけにいかんのよ
俺にとって年代の根拠を無くすから
0680日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 20:05:39.11
>>669
交流があった証拠だな

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0681日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 20:09:13.81
>>678
別にそこは聞いてない。
後漢書のみ倭な。倭の居住地はある

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0683日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 20:11:01.50
>>682
阿保、引き算、残りは何%
0684日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 20:13:02.91
倭人が高麗と百済と新羅を平気で混ぜる
高麗と言いながら降臨した場所は蔚山と言ってる
都怒我阿羅斯等の来日は、畿内と半島の通路が開いたということ
だからそれより後に仲哀と五十迹手が始めましてになっているのはやはり変なんだな
悩ましい
0685日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 20:13:51.22
>>675
そう言うお主、心肺停止状態に電気ショック(歴博発表)で脳死状態の邪馬台国畿内説を奉じているわけではあるまいな
0686日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 20:16:03.98
>>667
だろうな
捜査機関や弁護団がよくやるやつ
自分に都合の良い結果が出るまで何回でもやる
良い結果の方だけ発表して、悪い結果の方は発表しない
0687日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

【日本で一つしか見つかっていない『U字形鉄製品』─黒塚古墳出土】

①鉄製の中空構造で高度な鍛冶技術を要するため大陸製である事が明白
②織物が面的に付着し内部に紐状のものが確認できるため「旗」として使われていた。
https://i.imgur.com/uKIYeNo.jpg
https://i.imgur.com/j2hq4kr.jpg

完全に魏から倭に渡された黄幢(黄色の軍旗)だな。当然九州では見つかっていない


※参考:中国壁画に描かれた幢(旗)
https://i.imgur.com/aFtmzf2.jpg
0688日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>686
検証可能だから良いデータとか悪いデータとか無いよ
0689日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 20:18:05.52
渡来人(とらいじん)とは、広義には、日本列島に渡って来た人々を意味する。
歴史用語としては、3世紀から7世紀頃に朝鮮半島などから日本に移住した人々(移民)を指すことが多い。
人類学では、弥生時代以降にユーラシア大陸から渡来した人々(渡来系弥生人など)の総称として用いられることが多い。
0690日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

径100余歩の墓は畿内のみ
黄幢も畿内のみ

数理科学で分かった
邪馬台国は99.9%九州ではない!
0691日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 20:18:55.88
>>686
町おこしに協力してると忖度と言うか空気を読むと言うかそういうのもあると思うけどね
0692日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 20:20:00.65
>>688
良いデータを出したサンプルだけ拾う手法じゃない?
0693日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 20:20:37.09
九州人は弥生人の血すら薄い
だから明るい茶色の目をした人が多い
これは縄文の血である
0694日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 20:22:16.11
>>688

実験データは揺らぎがある。
誤差がない計測などない。
バラツキがあるデータのうち、都合がいいデータだけを出して、そうでない方を隠すのは、学問の世界では捏造の一種とされる。
歴博や畿内説がやっているのはそういうこと。
あれは似非科学。
0695日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 20:22:36.91
>>690
無論 邪馬台国は九州ではないが
箸墓の工期を鑑み
引っ越し先ではないか?
黄幢も移動できる物

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0696日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

狗奴国と戦うための黄幢が黒塚古墳から見つかったってことは狗奴国も大和の近く、つまり東海地方にあったということなのでね
もうゲームセットですわ
0697日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 20:23:35.86
考古学なんて不確かななのは当たり前
その上で答えを期待されてるわけで
そういうのも考慮して批判してるのか?
0698日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 20:23:59.01
狗奴国は熊本だろー
古いの?考古君まで沼津説だし
0699日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>694
これからの邪馬台国東遷説は、都合がいいデータだけを必死に収集するトンデモ集団と化すよ
酸素同位体比年輪年代法に反論できるわけが無いんだから
0701日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 20:24:32.85
>>696
狗奴国は九州

邪馬台国は近畿
卑弥呼が九州へ
0702日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 20:26:10.72
ハシカンだよハシカン
地理的に閉ざされた長野にもあんな人いる
実物見たら本当にビビる
0703日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

三角縁神獣鏡とかどうでもいいんだよ
銅鏡100枚なんて特定できる筈が無い。重要な物は日本で一つしか見つかっていない『軍旗』なのさ
0704日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 20:28:30.48
>>700
当然だろ、素通りで中央へ
邪馬台国は国際都市へ変貌する

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0705日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

悔しかったら旗を見つけたまえ
なぜ旗が出てこないんだい?(笑)
0706日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 20:30:17.71
>>705
誰に言っているの?
0709日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 20:32:59.09
飯塚事件(クマミチトシ死刑執行済)の鑑定は確か2人に依頼して、2人の鑑定者で意見が割れた
2人に依頼した捜査機関は立派だが、科学鑑定なんてそんなもん
0710日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 20:33:59.96
>>697

期待されたからと言って捏造はまずいんだよ。
旧石器時代の反省がまだ足りないのか?
0711日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 20:34:22.00
47z(日本固有)は静岡以東に偏ってるからね
基本どこにでも居て、九州にも居るけど。多くはない
0712日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 20:34:50.31
>>699

畿内説はすでに都合がいいデータだけを発表する似非科学になっている。
0714日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 20:34:54.44
>>707
引き算してみー
残り60%以上いる。
どの時代の時点なのかわからんけど?

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0715日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>712
九州説は径100余歩の墓が見つからず、黄幢も見つからないという点で論外
0716日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 20:36:11.69
>>710
違ってたとしても後で訂正すればいいだろ、なんて言ってた

常にそうやって作り話で飯食ってるような簾中だよ
0717日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 20:37:39.20
そりゃ倭国王権は稲作などを博多湾沿岸に持ち込んだ弥生人つまり渡来人だからな。
つまり博多湾が倭国王権の本貫地であることは、自明なんだよ。
0718日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 20:38:02.87
けど呉越と縄文人を結んでくるとは思わなかった笑
負けました
0719日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 20:38:51.69
金属片一つに頼るしかない畿内説。
王権の象徴である三種の神器くらい出せないのか?
0720日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>719
これ怖くね?魏志倭人伝のどこに三種の神器とか書いてあるんだっけ
0721日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

何が見えてるんだ。この人達...
0723日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 20:40:28.32
>>710
それを根拠に全部否定すると俺自身の根拠が無くなる
だからって俺が正しいとか間違ってるとか判断するわけにいかんでしょ
0724日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 20:40:43.89
>>719
九州からは出たけど
0725日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 20:41:52.78
>>718
呉越から先に九州に渡って来た人たちが倭人と呼ばれた
半島で混血し、山陰地方から入植したのがヤマトだ
0726日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>722
径100余歩だぞ
メインの被葬者は後円部に埋葬され、前方部は祭壇だから墓に含まれない
0727日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 20:43:42.19
>>724
そりゃ、卑弥呼以前からあるよな。
壹与あたりから取り入れたのかな?

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0728日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 20:43:44.58
>>725
あっそうか刺青の話なんかも踏まえてるのね
少なくとも大物主の娘には奇妙に見えたようで
0729日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 20:45:50.81
渡来人と縄文人の混血は半島ではなく倭地だと思うけどね
最初の渡来が山陰だったのは分かるけど
半島からではなく沿海州から来たと言わないと考古君がダッシュで訂正しに来るよ
0730日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 20:49:05.05
○○説は人それぞれあっていいけど年代測定は俺知らないし
ちゃんと調べたたと言ってるものは信用するしか無いのよ
俺が正しいとか間違ってるとか判断するわけにいかんでしょ
0732日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 20:49:52.83
朝鮮人は刺青してないもんなぁ
O1b2はL682も47zも刺青しないのかな
アイヌの刺青はクチビルオバケみたいなのしか知らないけど
0733日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 20:50:46.28
>>731
うわまたこの糖質だ
0734日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 20:51:29.46
>>731
縄文人は半島に定住してないから!ってまた発狂する…
0737日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 20:55:17.01
>>735
出土しちゃったよね【日本で一つしか見つかっていない『U字形鉄製品』─黒塚古墳出土】が


①鉄製の中空構造で高度な鍛冶技術を要するため大陸製である事が明白
②織物が面的に付着し内部に紐状のものが確認できるため「旗」として使われていた。
https://i.imgur.com/uKIYeNo.jpg
https://i.imgur.com/j2hq4kr.jpg

※参考:中国壁画に描かれた幢(旗)
https://i.imgur.com/aFtmzf2.jpg
0738日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 20:55:33.44
>>725

そしてその九州の倭人の国が倭国であり、卑弥呼はその女王。
畿内は関係ない。
0739日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 20:56:26.29
畿内説の岡上氏でさえ箸墓=卑弥呼の墓説を否定しているのな
https://i.imgur.com/MfhL9Oz.jpg
0740日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 20:56:40.31
>>736
年代の事なんて俺知らんもん
どうやって調べれば的確かも知らんし
0741日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 20:57:30.96
入れ墨は信憑性に疑問が残る
言葉は日本語に同化して中国語を捨てたのに、入れ墨は大多数の日本人が渡来人の影響を受けたということになる。
0742日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 20:57:37.74
>>731

半島の倭人居住地は狗邪韓国。
投馬国は水行二十日だから邪馬台国より帯方郡から遠く、九州南部。
0744日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 20:58:12.43
>>739
だってあいつ東遷説だもの
0746日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 20:58:58.75
>>739
箸墓は百襲姫の墓だからな
で、日本書紀編纂者は卑弥呼は神功皇后だと言ってる
0747日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 20:59:13.94
>>738
君の願望はわかるけどね

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州
0748日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 20:59:25.61
>>741

都合が悪いことは信用しないダブルスタンダード。
畿内説の常套手段。
それが畿内説が似非科学と呼ばれる所以。
やってはいけないことをやっている。
0749日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>741
入れ墨は事実
だけど邪馬台国の習俗なんて一文字も書かれてないから問題ない
0750日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 21:00:27.51
>>736
年代否定するなら全部否定して
おまえが正しいとか間違ってるとか判断するんじゃない
0751日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

入れ墨が邪馬台国の習俗とか、どこにも書かれてないからね
曲解野郎多すぎ
0752日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 21:02:51.27
>>743
お前がメクラだろ
0753日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 21:02:52.57
>>751
当然、倭人の風習と捉えることができる
邪馬台国人は倭人である
0754日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>752
うわーまじか
本当に理解力ないんだね君
0755日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>753
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
0756日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 21:06:02.78
>>755
駐するなどという言葉は無い
0757日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

778 岡上 ◆Lv09mLa3HM 2023/05/13(土) 08:42:13.06
5ch論者の論点傾向纏め。間違ってたらごめんなさい。
ちょっと調整
___________【スレ主】【トナカイ】【岡上】
卑弥呼墓____:__箸墓 ____箸墓____箸墓
投馬国_____:__吉備____出雲____出雲
王権の源泉___:__ 自生論___道教?___伊都国
銅鏡シンボル__:__???___画文帯___内行花文
平原銅鏡=八咫鏡:___ ×_____○______○
卑弥呼以死___:_もって___ すでに____すでに

基本的には私はトナカイさんとかなり近いところにいるのかと思いますね。
他の方はトリップやコテがないので、正直把握できてません。
九州説の方は、何か目印つけないと議論になりませんよ。
それは名無し化して出てこない1さんも同じ。
0758日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 21:09:30.63
地図のO1b2が朝鮮系渡来人で、飛鳥京でオンドル使ってた人たちだとしても
卑弥呼が神功皇后より前の人なら、そこまでまだ渡来人は来てないから
卑弥呼当時、九州と畿内の人種差はそれほど大きくなかったと思いたいところ
まあけど神武時代の媛蹈鞴五十鈴媛には大伴氏の従者がしてた入れ墨がとても印象的だったみたい

神武が入れ墨をしていたとは書いてないね
後代にも馬飼部がおそらく馬の血液で入れ墨してて
近所からクレーム来てやめさせられたとかなんとか
0759日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 21:11:20.80
説の意味

①とく。ときあかす。考えを述べる。「説明」「演説」
②せつ。意見。考え。「新説」「学説」
③はなし。ものがたり。また、うわさ。「小説」「風説」


このスレは③が多いように思う。
0760日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 21:12:38.93
>>754
お前は馬鹿か
0761日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>760

778 岡上 ◆Lv09mLa3HM 2023/05/13(土) 08:42:13.06
5ch論者の論点傾向纏め。間違ってたらごめんなさい。
ちょっと調整
___________【スレ主】【トナカイ】【岡上】
卑弥呼墓____:__箸墓 ____箸墓____箸墓
投馬国_____:__吉備____出雲____出雲
王権の源泉___:__ 自生論___道教?___伊都国
銅鏡シンボル__:__???___画文帯___内行花文
平原銅鏡=八咫鏡:___ ×_____○______○
卑弥呼以死___:_もって___ すでに____すでに

基本的には私はトナカイさんとかなり近いところにいるのかと思いますね。
他の方はトリップやコテがないので、正直把握できてません。
九州説の方は、何か目印つけないと議論になりませんよ。
それは名無し化して出てこない1さんも同じ。
0762日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 21:21:53.82
>>742
まあ、倭人が集住していたのは確実だからな
秦王国は華夏人と隋書で言ってるのと同じ
0763日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 21:28:18.40
神功皇后の実年代が4世紀後半なら、崇神天皇だって3世紀後半がせいぜいだ。
崇神天皇の宮であった纏向遺跡だってその時代のはず。
畿内説は記紀の百襲姫は採用するのに、記紀にはない広大な計画都市とやらを吹聴する。
おかしいだろ。
0765日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 21:30:57.75
奈良盆地は鳥見の里だから、ヤマトの名は神武が持って来たのかもよ
東遷説ってそんなにおかしいかな
0766日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 21:32:00.85
饒速日でもいいけど
日本をヤマトと読むなマンが多いので言わへんけど
0767岡上 ◆Lv09mLa3HM
垢版 |
2023/05/14(日) 21:33:22.09
お、トナカイさん。
私の考えた位置付け、大体合ってますかね??

邪馬台国関係でバッチリ嵌るという意味では、崇神記の記載と魏志倭人伝、
それから箸墓・西殿塚の様相の三者で、立体的に歴史像を復元するというあたりも、
吃驚するぐらいにトナカイさんと一致していますよ。

三角縁なんて副次的な遺物であんまり重視しないという点も一致しますね。
0768日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 21:34:56.13
山海経で半島南部に住み、楽毅将軍のいた燕に属するとある倭人は越人のこと
0769日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 21:37:21.64
>>763
しかも、日本書紀の編纂者は神功皇后が卑弥呼と言ってる
0770岡上 ◆Lv09mLa3HM
垢版 |
2023/05/14(日) 21:37:22.13
あと、私がテンプレに反対している点は主に下記三つです。

@箸墓が二世紀後半ごろとする考えに合わせて、倭人伝の読み(卑弥呼の死亡時期)を恣意的に行なっている点
A日本海ルートを優位としない点
B伊都国への評価に悪意しか感じない点

箸墓の成立が早まれば、平原と箸墓の間が縮まる事になりますから、
平原の巫女王の次代がモモソヒメ=卑弥呼という私の考えに近づきますから、
私は当然、大いに期待して待っています。
0771岡上 ◆Lv09mLa3HM
垢版 |
2023/05/14(日) 21:39:23.10
ああ、@は、三世紀後半、の間違いです。
スレ汚し、すみません
0772日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 21:41:58.58
>>766

饒速日が国見をした生駒山の麓に日下がある。
日下と日本…
実は饒速日はヒノモトと呼んだのではないか?
0774日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 21:44:40.87
>>761

張政が見たのは箸墓では無かったという事でいいのかな?
という岡上氏へのレスの返答なんだけど
0775日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 21:46:00.64
>>768
時代は合うけどね
数ある倭人の系統の一つにとどまらず
魏使と渡り合い史書に記された有力な種族としてのその倭人か…
考古君が見てませんように
0776日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 21:48:30.51
>>772
ありますねえ日下…
虚見つにわざわざ日本を当てているのは当然生駒を意識したと思うけど
0777琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/05/14(日) 21:50:14.74
やまとととびももそひめ、神仙思想の女性の名よ。
大物主もアマテラスも皆んな卑弥呼だと思うがね。骨を拵えた女王なんだから。
卑弥呼じゃなきゃ誰が魏尺の古墳を作り始め、隋代まで影響を与える巫道を布教し、何処で誰によって教えられたのか?って話だわね。
張魯の元で身に付けたのよ。倭人にそんな環境はないだろ。無駄だな
0778日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 21:50:31.98
>>770
・太守王頎が赴任する
・倭女王卑弥呼が郡に載斯、烏越等詣を遣わす
・張政等が倭に来て檄告喻
・男王が立つ
・国中不服
・壹與が立って国中遂に定まる
・政等が壹與を檄告喻
・掖邪狗等が使者として洛陽に行く

これが247年一年間の出来事だと思います?
常識的に考えて・・
0779日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 21:55:49.18
>>776

神武が饒速日を頼って大阪湾に辿り着き上陸しようとしたのもここです。
日下江または草加江といい、饒速日の配下の名がにより撃退されたところです。

基本的に神武は饒速日の足跡を辿っています。
宇佐や吉備に立ち寄ったのも、饒速日の足跡そのままです。吉備から特殊器台や前方後円墳を持ち込んだのも、饒速日でしょう。
0780日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 21:56:31.38
>>774
張政は完成した卑弥呼の墓を見てるからな
箸墓が3世紀後半なら、248年までしか邪馬台国にいなかった張政が見た墓は箸墓ではないことになるな
0781日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 21:57:10.68
日本書紀編纂者A「おい、魏志倭人伝とかいうやつに卑弥呼とかいう女王が出てくるぞ。誰こいつ?」
日本書紀編纂者B「しかも、倭女王とか親魏倭王とか呼ばれてる」
日本書紀編纂者C「それなら、絶対に俺らが持ってる資料の中の誰かであるはずだ!」
日本書紀編纂者D「神功皇后が一番近い!だから神功皇后が卑弥呼!」

卑弥呼を知らなかった日本書紀編纂者は、当てずっぽうで神功皇后に比定してしまったが、大間違いだった。
すなわち、卑弥呼は畿内にはいなかった。
0782日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 21:58:21.14
崇神天皇や百襲姫の実年代は卑弥呼と一致しないなら、もうどうしようもないだろ。
畿内説はオワコン
0783琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/05/14(日) 21:59:13.61
卑弥呼の時代に畿内に多々良姫という半島加羅の姫が居たとは思えん。
0784日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 21:59:36.52
まあ、神功皇后は九州で活躍したんだけどな。
日本書紀の編纂者は、卑弥呼が九州の人物であることは気が付いていたと思うよ。
0786日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 22:00:41.56
>>780
張政が248年までしか邪馬台国にいなかったと言う根拠なし
0787日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 22:02:13.15
卑弥呼は神武天皇よりは後ですってば
0789琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/05/14(日) 22:04:08.37
781.またそんな幼稚な話か。
藤氏家伝で確りとこの時代を勉強しているのは残されてる。知ってて記してないのだ。
0790日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 22:04:34.43
>>786
一年以上いる理由もない
0791日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 22:07:16.46
>>758
オンドルとか言ってるが元々は中国東北部とか燕があったあたりの発祥やろ。朝鮮半島がオリジナルなんてことはないから
0792日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 22:07:56.63
>>612

鎌倉時代に内宮と対立した下宮の渡会が書いてる八頭花崎八葉は八綾鏡
大きさ関係ないから
0793日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>792
一面者八百万神尊以石凝姥神奉鋳寶鏡也是崇伊勢太神宮也一名日像八咫鏡是也八咫古語八頭也【八頭花崎八葉形】也故名八咫也【中臺圓形】座也

中臺圓形なので八綾鏡ではありませんね
0794日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

もうね
無駄なのよ
0795岡上 ◆Lv09mLa3HM
垢版 |
2023/05/14(日) 22:12:50.56
>>778
常識で考えても仕方ないでしょう。
文献にどう書いているか、という点を見極めしないと。
正始八年条の記事での出来事というのが大前提です。

ちなみに常識で考えても一年の間で十分全部完結できると思いますよ。
張政らが到着した時には、すでに卑弥呼は死んでいて、倭国は混乱状態で揉めていたが、
最終的にトヨが立てられたので、それに告諭して帰ってきただけのことです。
0796日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 22:14:21.01
>>795
再確認ですが張政は箸墓を見ていたと思いますか?
0797日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 22:14:37.18
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)





久 努 国 ( く の の く に )





久 努 国 ( く の の く に )





馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
0798日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

見ていただろうね
寿陵なんだよ、結局は
0799日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 22:15:37.80
>>791
まあそれでもよろしゅおま
この時代の渡来人は遺構としてはいいとこ満州から半島くらいの
連続性を持つ様式らしくて
どうも華北人の生活様式ではないらしいのよね
遺伝子だけは、石川県の古墳の古人骨がそうであるように
典型的な華北人みたいだけどね
0800日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 22:15:51.16
古畑任三郎のシリーズパート2の『動機の鑑定』

・犯人である春峯堂の主人は「5時〜6時にその壺を見た」と言った。
・ところが、壺が完成したのは6時半だった。
・6時半に完成した壺を、5時〜6時までしか部屋にいなかった春峯堂の主人が見ることは不可能であった。
・このことを突きつけられた春峯堂の主人は、ついに犯人は確かに自分であることを白状した。

張政が247年頃に見た卑弥呼の古墳と、3世紀後半の箸墓古墳はこれに似てる。
張政が3世紀後半に完成した箸墓古墳を見ることは不可能だった。
0801日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

筑紫君磐井も寿陵だったし
崇神も死後8ヶ月で古墳に埋葬されてるから寿陵

古代は寿陵が一般的だったのだよ
0802琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/05/14(日) 22:16:42.93
卑弥呼死に、冢を築き、男王が立ち争い、岱與が立ち世が落ち着き、岱與に諭した。そして御礼を受けた。張政がどの辺りに倭に来たのか?はわからんが帯方出てから1年くらいは過ぎてるだろう。
0803日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>800
箸墓築造の上限は240年

無駄なのよ
0804日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 22:17:49.53
>>753
ト骨もだね

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0806日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 22:19:49.81
>>803
下限は?
0807日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 22:19:57.80
>>803
頭が悪いのですか?
0808日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 22:20:40.05
>>803
そういうこと言うと畿内説がインチキ臭くなりますよ
0809岡上 ◆Lv09mLa3HM
垢版 |
2023/05/14(日) 22:20:59.72
>>796
正直にいいますと、なかなかこれが判断難しい。

張政は、邪馬台国には来ていなかった、というのが私の考えです。
どうも倭人伝には、張政らが伊都国で居座っていたことに対するエクキューズばかり
書かれているのではと思っています。
0810日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>792
御樋代の大きさは約50cmと書かれてるのだよ
大きさ関係あるからもう無駄なのよ
0811日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 22:22:48.99
墓、見たんかねえ
0812日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 22:22:49.69
>>809
箸墓は見ていなかったに1票だと感じ取れます
0814日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 22:23:47.15
伊都国が邪馬台国の中心国邑なら何の問題もない。
それでほとんどの矛盾は解消する。
0815日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 22:24:09.42
>>809
初めから行っていないよ。
行程からわかるよ
あれでどうやって到着するのか?
行程の議論は尽きない

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0817日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>815
拝仮倭王だから邪馬台国まで行ってる
0818日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 22:24:56.37
>>763
崇神天皇なんて居ないんだし逆だろうが
0820日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 22:26:05.33
古畑任三郎は警部補なのに、検察官より鋭い
0821日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 22:26:08.43
>>817
卑弥呼が伊都国に出向いたとも考えられる
0822琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/05/14(日) 22:26:36.65
歳も歳だからな、準備はしていたと思うね、そしてその為に印璽が必要だったのも朝貢の理由の1つと考えているがね。
で、もし生前に円丘があるならば方形臺に南円丘は紛れもなく中華の都だよ。
0823日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>819
50cmの器に30cmの銅鏡収めるやつはいないだろう
0824日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 22:28:34.50
>>809

>箸墓を三世紀後半において、かつ卑弥呼の墓と考えることは、もうできません。

これの意味することを精密に解説してください
0826日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 22:29:44.20
>>817
行っただろうね
完成した卑弥呼の墓も見ただろうね
ただし、箸墓は3世紀後半の墓であり、張政が見ることは不可能であった。
0827日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>825
銅鏡ってだいたい大きくても30cm程度だろ
0828日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 22:30:18.33
>>824
古畑任三郎のシリーズパート2の『動機の鑑定』

・犯人である春峯堂の主人は「5時〜6時にその壺を見た」と言った。
・ところが、壺が完成したのは6時半だった。
・6時半に完成した壺を、5時〜6時までしか部屋にいなかった春峯堂の主人が見ることは不可能であった。
・このことを突きつけられた春峯堂の主人は、ついに犯人は確かに自分であることを白状した。

張政が247年頃に見た卑弥呼の古墳と、3世紀後半の箸墓古墳はこれに似てる。
張政が3世紀後半に完成した箸墓古墳を見ることは不可能だった。
0829日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>826
酸素同位体比年輪年代法が傍証となり、箸墓3世紀中頃築造説がますます信憑性を高めるだろうね
まあその日までは好きなだけ喚き給え
0830日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 22:31:40.21
>>829
お前がな
0831日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 22:31:45.96
>>817
別に卑弥呼が九州にいれば済む
共立王なんだから、女王の都とする邪馬台国では
遠方過ぎ、魏との交流、報告受けたり指示とか30日なんてナンセンス

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0833日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>830
ムホホ
愛いのうw愛いのうw
0834日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>831
九州から特殊器台は見つかっていないので
九州は共立に参加していません
0835日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 22:33:50.44
>>833
クソガキがw
0836日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 22:33:53.96
箸墓が3世紀後半でも良いけどその根拠が崇神天皇の宮殿てバカかよ?
0837日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>832
そもそも日像なのだから内行花文鏡でいい
無駄だよ
0838琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/05/14(日) 22:35:42.42
伊勢の鏡が卑弥呼の鏡である保証がない。系図と同じだよ、伊勢の造られた時代もわからんしな。
0839日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>836
勝山古墳の祭祀に使われたと言われる木材を酸素同位体比年輪年代法で鑑定すればいい
そうすれば箸墓の築造時期もだいたい分かる
0840岡上 ◆Lv09mLa3HM
垢版 |
2023/05/14(日) 22:37:40.27
>>824

>>箸墓を三世紀後半において、かつ卑弥呼の墓と考えることは、もうできません。
>これの意味することを精密に解説してください

言葉の通りですよ。247年には卑弥呼は死んでいるのです。
箸墓が三世紀後半の成立だとすると、卑弥呼の墓ではないという事になります。
逆に、箸墓が247年の成立であれば、卑弥呼の墓で合ったも良い、ということです。

私は後者の考えで、自然科学がそれを証明せんとしている状況と理解しています。
0841日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 22:38:28.64
張政が見てもいない箸墓を卑弥呼の墓だと言う畿内説はキチガイだろ
0842日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 22:39:15.54
あくまで九州は出張先だからな
0843日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 22:39:42.25
>>837

八咫古語八頭也【八頭花崎八葉形】也故名八咫也
これが鏡の形
中臺圓形座也
これが座の形

大きさの記載は無し

これが鎌倉時代に内宮と対立した渡会が公表した内宮のご神体
0844日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 22:40:01.98
>>840
なるほど説得力のあるお言葉ですね
0845日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 22:42:31.03
>>834
特殊器台は出雲、吉備が
奈良で古墳造りだな
3カ国ですかいな?

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0846日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>842
その通り
前時代の支配者であって、邪馬台国時代には一大率の支配下
0847日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 22:43:20.76
>>840
布留0式って247年もカバーしてますか?
0849日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 22:45:18.87
>>848
イカサマのお前に聞いてない
0850日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 22:47:10.96
支配などの記述はないけど?
邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0851日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

年輪年代やC14年代だと、庄内0式は177年が上限だし、布留0式も240年ごろが上限になる

無駄だよ
0852日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 22:48:32.55
>>851
トナカイさんが無駄と思う

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0853日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 22:48:37.39
>>851
クソガキのお前に聞いてない
0854日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 22:50:10.43
自治は認めたが動向の監視は続けたということやね
共立国家への振る舞いではないですね
伊都国の立ち位置がいかに異常かが分かる
0855日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>853
君、未だに脳内が80年代吉野ケ里ブームで止まってるみたいだね
若い意見も聞いたほうがいいよ
0856日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 22:50:25.04
福岡弁護士会は「邪馬台国は九州」と言ってるな。
ホームページに載ってる。
まあ、おらが村根性に見えなくもないが、みどり荘事件で犯人とされた輿掛良一さんのDNA鑑定の杜撰さを突いて輿掛さんを無罪に導いたのも九州の弁護団。
さらに、みどり荘事件では裁判長が、「輿掛さんは犯人ではない。真犯人が別にいる!」とさえ踏み込んだ。

裁判長に「真犯人は別にいる!」とまで言わしめた福岡弁護士会はかなり有能。
普通は疑わしきは罰せずで無罪に持ち込むのに、裁判長が真犯人は別にいると確信させるほどに、福岡弁護士会は裁判長は納得させたのだ。
0857琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/05/14(日) 22:50:46.06
箸墓以外に卑弥呼の墓は存在しないのだよ。箸墓は原始道教の指導的人物の墓ですと箸で突いているんだから。仮に10年50年ずれると判断されても原始道教を知る女性が他にはいないだろ。
鬼道の墓なんだよ。九州は鬼神、かまど。
0858日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 22:50:55.70
箸墓は、引っ越し先に仮決定だな

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0859日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 22:51:35.53
一大率は伊都国で一番偉い人な
0860日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 22:52:15.55
>>840
卑弥呼が畿内にいたという証拠は何だと考えますか?
0861日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>860
逆に九州に居た証拠はなんだね

径100余歩の古墳も無い。
黄幢(U字形鉄製品)も無い。
魏の紀年銘鏡は一枚のみ。

何もないじゃないか
0862日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 22:53:50.73
>>857
国王がホトを箸を突いて死んだという国民は恥ずかしいだろ
0863日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 22:55:39.04
>>861
魏にとって海軍力が必要だったのだよ、奈良盆地には海軍力が無い
0864日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

鉄鏃は大和に無い無いと騒いでいたら
ホケノ山古墳から75点以上出土してしまった

大陸の遺物が大和には無い無いと騒いでいたら
黒塚古墳からU字形鉄製品が出土してしまった




無駄だよ
0865日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 22:57:20.11
>>817

邪馬台国まで行った。
しかし伊都国から遠く離れてもいない。
ならば邪馬台国は伊都国の近く、または邪馬台国は伊都国を含む連合国。
0866日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>863
魏にとって~とか意味不明
倭ごときが呉と戦うとでも?ましてや九州説の想定する、北九州しか支配できていない超弱小国を頼りにするとでも言うのか?
0867琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/05/14(日) 22:57:56.35
>>862.倭の大衆は文字なぞ知らんし読めん。そんな話は作り話だと思っている。
0868日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 22:58:11.92
箸墓が260年ごろなら卑弥呼の墓の可能性は十分あるだろうよ
箸墓が寿陵ではなく卑弥呼が死んでから築造を開始したなら、完成まで10年以上かかっても全然おかしくない
0869日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>865
水行20日・水行10日・陸行1月でも離れていないとはこれ如何に
0870日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>868
箸墓築造伝承「昼は人が作り、夜は神が作る」

つまり昼夜問わずの急ピッチで造ったということ。5年で行けるよ
0871日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 23:00:04.30
魏にとって奈良盆地は無意味な国、安曇氏や宗像氏の様な海人族こそ味方につけたい勢力。
0872日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

いや、5年もかからないかね
3年で行けるかもしれない
0873日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>871
なるほど?しかし魏の紀年銘鏡は九州からは一枚しか出土していないね
スルーされていたのは九州のようだ
0874日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 23:02:03.86
>>867
百襲姫の逸話はフィクションてか、えろ話。
0875日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 23:02:42.68
>>868
張政は見ていない説
0876日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 23:03:07.52
畿内説だが
博多から難波まで沿岸航行して30日もかかるだろうか
陸行は考えなくていいと思うけど
もしかしたら投馬国から邪馬台国は陸でも行けて
10日船で行くか30日歩くかどちらか選べ、かもだけど
0877琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/05/14(日) 23:03:58.24
個人的には寿陵だと思うね、岱與も後継指名だろう、準備はしてあったと思うがね。
大体13歳に敗れる男王なかなかおらんよ。記紀だと誰だね。
0878日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

U字形鉄製品の話をすると、サァッ...と九州論者の顔が青ざめていくんだよね
0880日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 23:06:50.53
>>873
魏が奈良盆地と通じても何のメリットも無い、ちょっと朝鮮まで来てくれるかなと言われても奈良盆地は何も出来ないが、安曇氏や宗像氏ならいざ鎌倉で即応出来る。
0882日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 23:08:22.72
>>876
水行ひと月陸行ひと月が行程の全てだから単純な行程
0883日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 23:08:28.83
>>878
畿内を東征したイクメが持ち込んだのだろう
0884日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 23:08:50.87
>>870
へんてこ解釈
0885日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>880
北九州しか支配していない小国にその働きは無理

『親魏倭王』が北インド全域を手中に収めていた大月氏に対する称号に匹敵する物であることを勘案すると、女王国の版図は西日本全域くらいが丁度良い
0887日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>878
ガヤガヤ...ドヨドヨ...

『嘘だろ...』
『先生に教わったことが』
『聞いてなかった...』
『オイオイ大和には大陸の遺物なんて無かったんじゃなかったのかよォー』
『もうダメだ。九州説やーめた』
『なにぃ!裏切り者ォ!』
『グワァーーっやめろぉー!』
0888日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 23:10:24.29
>>885
畿内には王がいた実績も無い
0889日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 23:10:55.14
黄幢の用途を考えたら金印よりも移動するものだよな
0890日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 23:11:39.03
>>882
水行30日の日程を消化したうえで、かつ船を降りてひと月
歩かなければいけないところが無いかんねえ
0891日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>889
移動するかい?黄幢は魏が滅亡した瞬間から軍事的には無用な物になるから、わざわざ移動させる意味を感じないがね
0892日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 23:12:19.07
>>878
大笑いだよ
0893日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

265年以降に黄幢を移動させる意味なんてないし実際移動させてない
東国(狗奴国)と戦った豊城入彦の墓、つまり黒塚古墳に収められたのだよ
0894日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

土徳の王朝は滅んだ
266年には晋が興り、倭女王も献使した
もはや黄幢は単なる記念品でしかない。ということで対狗奴国戦争を指揮した豊城命と伴に葬られたのさ
0895日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

失礼
265年、正確には263年でもあるか
0896琪瑛教大蔡酒
垢版 |
2023/05/14(日) 23:16:17.69
中華の戦略的意味で倭と結んだというのは意味はないな。帯方は自ら抑えてあるし、それなら晋も親しく継続しただろう。
中華との縁は魏滅亡と共に遠ざかる。
0897日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

宣帝之平公孫氏也,其女王遣使至帶方朝見,其後貢聘不絕。【及文帝作相(263)】,又數至。泰始初,遣使重譯入貢。
0898日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 23:19:49.16
>>896
銅のネックレスより女より金のネックレスをあげる女の方が大切って事だろ
0899日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

【日本で一つしか見つかっていない『U字形鉄製品』─黒塚古墳出土】=【黄幢】


①鉄製の中空構造で高度な鍛冶技術を要するため大陸製である事が明白
②織物が面的に付着し内部に紐状のものが確認できるため「旗」として使われていた。
https://i.imgur.com/uKIYeNo.jpg
https://i.imgur.com/j2hq4kr.jpg

※参考:中国壁画に描かれた幢(旗)
https://i.imgur.com/aFtmzf2.jpg
0900日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 23:20:04.78
>>890
帯方郡→水行二十日で投馬国(対馬)→水行十日で伊都国(出雲)陸行ひと月で伊勢遺跡
0901日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 23:20:18.30
>>893
盗品じゃないの?
0902日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 23:21:52.33
>>893
実際w、見てきたかの様に嘘を言い
0903日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

【黒塚古墳出土遺物】

《鏡》
・画文帯神獣鏡1面
・三角縁神獣鏡33面

《武器》
・鉄刀17点(素環頭大刀3点)
・鉄剣3点
・鉄槍14点
・鉄鏃280点

《防具》
・小札
・帯状鉄板
・円頭鉄板

ククク...まさにヤマト最強の“率”
対狗奴国戦争、黄幢の旗手に相応しい被葬者だよ
0904日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 23:26:23.14
>>900
投馬国は5万戸だよ。対馬なら千戸程度ではなかろうか
伊都が出雲もなかなかどうして。
邪馬台国は水行の選択肢がない、すごい内陸なのは分かる
ここ瀬戸内航路も希少種なんだけど、伊勢遺跡なら淀川から行けるから水行出来ちゃう
0905日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 23:27:39.92
>岡上さん
卑弥呼が2世紀の未開の纒向で共立されたという神話を精密解説して欲しいですな
0906日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

九州説だと免田式土器が分布する範囲が狗奴国なんだっけ


ふーん、でさ、その狗奴国と戦った武将の墓はどこだい?
0907日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 23:31:06.74
>>904
半島と列島の単純な行程
0908日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 23:31:36.58
>>906
狗奴国と戦ったのかな?
0909日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

九州説「畿内は鉄器後進国!」

黒塚古墳(鉄刀17点,鉄剣3点,鉄槍14点,鉄鏃280点)「お゛前...ネ゛ット゛でおでの゛悪口言ってた゛よな゛?」

九州説「ひ..ひえぇえええええ!(失禁)」
0910日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 23:34:04.13
>>909
畿内は石器で稲作、吉野ヶ里は鉄器で稲作。
0911日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

纒向石塚とか纒向矢塚とかってなんで埋葬施設開けないの?
0912日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 23:36:16.92
>>907
一言主さま、それは放射説でも近畿に行けるということですね
日本海航路なら、例えば舞鶴までは船に乗っていられると思いますが
出雲から歩かなくても
0913日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

なんで目と鼻の先に埋葬施設あるのに開けないの?そんなに金無いの?寄付募ればいいじゃん
0914日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 23:38:14.43
黒塚古墳は纏向があったのに何故こんな所に墓造ったんだろ?
0915日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

東殿塚とかも絶対重要なのに
0916日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 23:40:32.75
倭国とヤマト王権は別物と考えた方がいい
0918日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 23:41:26.10
>>912
放射説と言うより不弥国までの行程なんかなんも関係ないから
誰か行った人が居て里数を書き残したのかもね
0920日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 23:43:53.77
>>918
それも日数で数える倭人の里で、です
0921日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 23:44:10.06
奈良盆地のクニにオリジナルな物は無い。
天照大神も大物主もオリジナルでは無いし、卑弥呼もオリジナルでは無い。
0922日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 23:45:15.31
>>917
トンデモのクソガキはお前
0923日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 23:46:05.57
>>912
伊都国の場所は自信はないし舞鶴かも知れん
何処であろうと入管だから必ず伊都国には行かなきゃいけない
0924日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 23:49:15.94
>>920
何言ってるかわからんがずっと船だし里数より日数が重要でしょう
陸行は案内が居るし
0925日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 23:49:36.33
宮内庁は卑弥呼を皇族としていないのだから卑弥呼はヤマト王権とは無関係じゃねえの?
0926日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 23:52:07.33
>>923
出発地から投馬国を経て邪馬台国に行く道筋の
その途中に伊都を置く考え方は初めてです
音の類似(糸島)に本当に囚われないんですね
舞鶴ルートは少し前にごく一般のポータルサイトのweb記事に紹介されていました
何かの雑誌の電子版だと思います。著者は、これに違いないと興奮していました
0927日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 23:52:46.24
>>919
八世紀以前は?
0928日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 23:54:22.50
>>926
伊都国は必ず立ち寄る場所だし入国管理局でしょ
そこから王の元に大率に送ってもらう
0929日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 23:55:53.02
>>926
出雲は青銅器がたくさんあるし輸入ルートだよ
0930日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 23:56:30.06
>>924
簡単に言えば中国人は距離をメートルで、
日本人はたとえば大阪から博多まで船で何日かかるかを距離の単位にしていました
帯方郡を、日数記事の出発地にするのは、放射説という読み方です
倭人が、自ら帯方郡を出発地にして、日を数えながら投馬国を経て
邪馬台国に行ってみた者がいるんだなということです
中国人がこの作業に加わっていれば、必ずメートルに直して書いたでしょう
0931日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 23:57:53.95
>>928
そこまで言われれば普通は糸島を思い浮かべますよ笑
頭が柔らかいんですね
0932日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 23:58:38.92
>>930
ずっと船だから中国人にも日数の方が大事でしょ
里数なんか役に立つか?
0933日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 23:59:11.37
>>929
歩きが辛くないなら出雲で船を降りるのは構わないんですが
あくまで邪馬台国を目指す場合どうするだろうかと
0934日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/15(月) 00:00:48.73
>>932
玄界灘を里数で書き切った人がそうするかな
半島西岸では東作南作と、まあ大雑把ですが
0935日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/15(月) 00:01:09.12
>>933
だから大率に送ってもらわないと危ないでしょ
0936日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>927
それ以前はそもそも日本という語が生まれていないから
0937日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/15(月) 00:03:27.28
>>934
日数行程だけが正しいから違うから
海流に流されて出雲に着く
0938日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/15(月) 00:03:43.16
>>935
あー大率も一緒に歩くのか
0939日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/15(月) 00:06:25.61
>>937
なるほどねえ。あるダイヤが決まっているようなものと考えましたが
確かにコンディションによって日数は変動します
上りか下りによっても変わりますね
0940日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/15(月) 00:06:35.23
>>938
伊都国の港で荷物の受け渡ししたら日本側の責任だから
0941日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/15(月) 00:08:33.75
>>939
多少の変動はあるかも知れんが目安だから
里数なんか役に立たんでしょ
0942日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/15(月) 00:12:40.79
投馬国も邪馬台国も帯方郡(?)からかなり遠いということですね
里数を数えるのが無意味なほど
万二千里は帯方郡から倭本土最初の港くらいの目安でしょうか
0943日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/15(月) 00:14:56.33
>>942
短里は存在しないし万二千里は実際の数字ではない
0944日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/15(月) 00:16:48.25
魏志倭人伝による倭国の政治的出来事

①倭国大乱
②卑弥呼女王共立
③狗奴国との戦争
④男王を立てるも内乱勃発
⑤台与女王共立
そして「やっと」平和になった(AD266年頃)

畿内説の主張内容はすべてお門違い
0945日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/15(月) 00:17:49.99
>>943
まあ測れるわけないですもんね
0946日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/15(月) 00:22:41.80
>>945
ただし陳寿は万二千里が実際の里数だと判断してそれに合わせようとした
だから行程の里数は出鱈目な数字だと思うけどね
0947日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/15(月) 00:30:17.58
>>946
短い距離は百里、長い距離は千里という調子で書いたんだって話が出てましたね
0948日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/15(月) 00:35:12.71
>>947
思うと書いたのはもしかすると実際の里数を5倍とかにして
万二千里に合わせようとしたかもしれん
それだと出鱈目とは言えん
大雑把な数字で実際測ったとは思えんが対馬と壱岐の記述は詳しいから調べたかも
0949日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/15(月) 00:42:18.85
>>948
けど読者の側で万二千のつじつまを合わせなくていいので
自由に読めますよね。実際水行陸行計40日に万二千は収まらないですし
0950日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/15(月) 00:46:12.52
>>949
陳寿は世界の大きさとか知らないから万二千里と言われればそうなのかと
航海もどのくらいとか距離感も掴めないだろうし
0951琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/05/15(月) 00:48:08.73
距離をなんとかして九州にしようとしたところで畿内には魏尺の古墳、建物があり、神獣鏡が中心地として拡がり、北枕があるのをどう説明づけるのかね。道とは理念でもあり国を纏めるには必要なもので倭にはそれが元からなかった。
0952日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/15(月) 00:49:23.00
>>951
帯方郡→水行二十日で投馬国(対馬)→水行十日で伊都国(出雲)→陸行ひと月で伊勢遺跡
0953日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/15(月) 00:55:35.51
ps://www.sinkan.jp/pages/gishiwajinden/index.html

本書では畿内の中でも現在の奈良県にあたる大和にあった
とする理由として、「魏志倭人伝」のオリジナル版
(写本ではない原本)の中で「邪馬台国」の「台」が旧字の
「䑓」ではなく「壹(トウ)」を使って「邪馬壹国」と
されていたことを挙げている。
つまり「邪馬台(やまたい)」という読み方がそもそも間違いで
「邪馬壹(やまとぅ=大和)」だったのではないか。


この一文の前に日本海航路(舞鶴ですが)について書いてます。
記者が自分で調べた記事のように思ってましたが
ネットで今見つかるのは書評でした
ヤマイチの話はあまり最近されないですけど
0954日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/15(月) 00:55:59.87
伊都国が糸島ってのは原田大六という素人考古学者が力を持ってたからだよ
常識的に考えれば該当する遺跡も無いのになんで糸島なんだよ?
0955日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/15(月) 00:58:32.54
>>954
末盧(まつら)松浦と来て、伊都(いと)糸島ですからね
決め手は音の類似かと
0956日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/15(月) 01:00:21.80
>>955
原田大六が糸島出身だからだろ
0957日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/15(月) 01:02:02.93
>>956
そんな個人的な笑
0958琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/05/15(月) 01:06:21.93
伊勢遺跡は謎のひとつではあるね。でも湖があるとはどれにも書かれてないからな。
0959日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/15(月) 01:11:54.33
>>958
卑弥呼が居たかも知れんが年代で考えれば既に移転してるだろ
帥升は居ただろう
0960日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/15(月) 01:17:54.90
纏向遺跡だって100年程で移転してるし伊勢遺跡も100年
王宮の移転なんか当たり前
0961◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/15(月) 03:22:45.24
新スレ立てました。
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1684085912/l50
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*本スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
0962日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/15(月) 04:00:42.32
記紀でも宮をよく移す
開拓等の比喩と思う
0963日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/15(月) 04:09:54.07
>>916
邪馬台国にヤマト政権でき別物になったんだな。
0965日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/15(月) 04:59:44.72
>>963
根拠をまったく言わないのはトンデモ説な証拠
0966日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/15(月) 05:08:29.29
>>936
日本は北九州の倭国と奈良のヤマト王権が合併して出来た国だろう
0967日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/15(月) 05:32:09.47
>>965
別におまえに対するレスではないけど?
後ろめたい事があるのか?
0968日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/15(月) 05:57:51.26
>>963
入れ墨やト骨の風習がヤマト政権台頭と思われる時期に消えていく 遺跡忘れたけど大阪湾や伊勢湾に入れ墨した絵があった記憶がある

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0969日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/15(月) 06:20:42.86
>>840
でも張政は奈良盆地には行っていないのでしょう、つまり箸墓は見ていないという結論ですよね。
0970日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/15(月) 06:29:10.42
中国視点から
さほど重要視されていないおもわれる
南至邪馬壹國〜可七万餘戸の紹介程度で終わる
広範囲に何があったのだろうか?

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0971日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/15(月) 07:29:22.89
>>970
魏略にも記載がない
投馬国邪馬台国は倭国の新規植民地だよ
0972日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/15(月) 07:29:41.25
>>969
根拠のない考えから出る結論には根拠がない
0973日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/15(月) 07:45:04.14
>>972
箸墓が卑弥呼の墓だという根拠はあるのか?
0974日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/15(月) 07:50:58.88
箸墓を卑弥呼の墓に仕立て上げようと霊感商法詐欺が必死ですね
0976日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/15(月) 07:57:20.64
>>971
植民地に近いだろうな
唐古・鍵遺跡もあるから復興地もある。
吉備、丹後、越、東海等による国造りと思う。
経済とか、物流網とかね。
乱からの避難民の受け皿としたかもしれん
様々人が集まるから当然、揉めだろう。
卑弥呼の鬼道はまとめるには最適だな。
広範囲が卑弥呼らの修験地だったと思われる

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0977伊太乃に居たの ◆oRNQXnZmlfa1
垢版 |
2023/05/15(月) 07:59:21.34
箸墓古墳は、3世紀後半から4世紀初頭の築造なのでは無いかと考えます。
よって年代的には卑弥呼の時代より随分離れております。
何も無理に箸墓古墳を卑弥呼の墓とする必要性は無いでしょう。
0979日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/15(月) 08:19:49.12
>>971
丹産出でガラと変わるんだな。
四国 徳島も同様だな。
なので投馬国は四国。

支配とか、お宝豊富とか、立派な建物がお望みな方は、ご勝手にだな。

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0982日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/15(月) 08:42:05.32
証拠無き架空の世界から証拠を要求する畿内説は明らかに精神病

またはアルツハイマー
0984伊太乃に居たの ◆oRNQXnZmlfa1
垢版 |
2023/05/15(月) 09:23:39.75
塚の築造年代的には纒向石塚古墳が3世紀初頭、弥生時代末期から古墳時代初頭に該当する、それと比べると、
箸墓古墳は明らかに新しい。
0985日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/15(月) 09:38:39.58
>>980
魏志倭人伝に記された卑弥呼の墓の大きさ
卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩
に一致
0986日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/15(月) 09:45:23.57
>>985
そこがわからない。
なんで尺ではないのだろう?
魏の律なのか?
たんに倭人(歩数は数えられる)から聞いたことか?
0987日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/15(月) 09:54:02.12
なんで箸墓にそこまで確信を持ってるのかわかんねえな
平原のショボい墓にも言えるけど
0988日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/15(月) 09:55:26.12
>>986
尺も歩も身体尺だが距離を表すときは歩を用いた
右足を踏み出し、次に左足を踏み出した時の、起点から踏み出した左足までの長さ(現代日本語でいう「2歩」)を「1歩」とする身体尺
遠い距離を測定するときに便利
0990日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/15(月) 10:03:59.65
卑弥呼の陵の比定地すら存在しない九州説の抵抗が笑える
0992日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/15(月) 10:09:13.55
>>988
なので、それがわからない
倭人がたんに歩数数えていて
聞いたとかの想定もないのか?
0994日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/15(月) 10:19:41.76
インチ畿内説
0996日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/15(月) 10:21:43.09
宮内庁はそれなりの根拠を以ってモモソヒメの墓だと比定している
畿内説は希望的観測のみで勝手に卑弥呼の墓だと言い張ってるだけ
0997伊太乃に居たの ◆oRNQXnZmlfa1
垢版 |
2023/05/15(月) 10:23:37.37
昔は墓誌が存在してないので、誰の墓か特定するのは困難。
遺骨が残っていれば、男性、女性、年齢などがかろうじて分かる程度。
0998日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/15(月) 10:24:19.64
>>992
その想定はありえない
距離を測り記録することは魏の役人の基礎的な行為
これを不正確な記述で残すことは考えられない

台与が王となったとき
張政たちは檄をもって壱与に教え諭したとある
つまり張政たち魏の役人は台与と共にいた
卑弥呼の墓について記述したのはその役人たちの経験が生きているはず

その後調整たち一行は帰国するが
台与は倭の大夫、率善中郎将、掖邪拘等の二十人を遣はし、政等の還るを送る。因って、臺に詣り、男女の生口三十人を献上し、白珠五千孔、青大句珠二枚、異文雑錦二十匹を貢ぐ。とある
0999日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/15(月) 10:25:14.52
>>996
たぶん、宮内庁は資料あるのでは?
NASAの極秘ファイルみたいだな

マスコミ受けしそう
10011001
垢版 |
Over 1000Thread
このスレッドは1000を超えました。
新しいスレッドを立ててください。
life time: 1日 16時間 12分 5秒
10021002
垢版 |
Over 1000Thread
5ちゃんねるの運営はプレミアム会員の皆さまに支えられています。
運営にご協力お願いいたします。


───────────────────
《プレミアム会員の主な特典》
★ 5ちゃんねる専用ブラウザからの広告除去
★ 5ちゃんねるの過去ログを取得
★ 書き込み規制の緩和
───────────────────

会員登録には個人情報は一切必要ありません。
月300円から匿名でご購入いただけます。

▼ プレミアム会員登録はこちら ▼
https://premium.5ch.net/

▼ 浪人ログインはこちら ▼
https://login.5ch.net/login.php
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。

ニューススポーツなんでも実況