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平原女王墓が卑弥呼って聞いたけど?
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。
0001日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/17(月) 09:52:30.09
【平原遺跡の女王墓】

・1号+2号の共通の周濠が、短里だと径百余歩

・超大型内行花文鏡5枚
・銅鏡39枚
・五尺刀
・大量の中国朱
・後漢時代のガラス耳璫
・三雲遺跡から楽浪土器

里程と日程が並列で、月が日の誤写だと考えれば、
帯方郡から、水行二十日→水行十日→陸行一日で、平原女王墓。

北部九州の邪馬台国、首都が伊都ってのはどうなんだろうか。
0003日本@名無史さん
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2023/07/17(月) 10:12:12.24
一日一善だろ
0004日本@名無史さん
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2023/07/17(月) 10:29:34.96
平原女王墓が卑弥呼じゃないだろ。
平原女王墓が卑弥呼の墓、ならわかるが。
0005日本@名無史さん
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2023/07/17(月) 10:57:13.24
まあ耳トウかな。卑弥呼は長寿だったから、愛用品を副葬したなら247年くらいっしょ。
0006伊太乃に居たの ◆oRNQXnZmlfa1
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2023/07/17(月) 12:11:40.67
平原は九州内でも北に偏りすぎでは無いのか?
伊都国の王族の墓なんだろうけど、卑弥呼の墓では無いでしょう。
0007日本@名無史さん
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2023/07/17(月) 12:26:37.79
漢尺=23センチだから、五尺=115センチ

平原遺跡の素環頭鉄刀は75センチ

はい、解散!
0008日本@名無史さん
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2023/07/17(月) 12:42:40.55
>>6
南の狗奴国と戦争してるのだから、伊都が一番安全。

有明海や筑後川に面していると急襲される。
九州だけに。
0009日本@名無史さん
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2023/07/17(月) 13:13:53.26
>>7
それは刀身だけ。

巫女女王の卑弥呼への贈り物なのだから、装飾品、呪具としての五尺刀。
よって、煌びやかに装飾されていたであろう「鞘」の部分も含んだ、
美術品としての五尺刀であり、鞘も含めれば115センチあったのだろう。
0010日本@名無史さん
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2023/07/17(月) 13:58:02.33
もはや他説は涙を流しながら不弥国から先で迷い続けるしかないのだなあ
0011日本@名無史さん
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2023/07/17(月) 14:19:08.75
旅行するのに、車で100km走って、そこから2時間で到着、なんて珍妙な説明はしないわな。
同じ行程を、車で100km走る、時間にすると2時間だよ。だな。
伊都で決まり。
0012日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/17(月) 15:00:32.49
平原が卑弥呼の墓だろう
ただし伊都国奴国を含む福岡の広域を邪馬台国と呼ぶようなクソみたいな説には与しない
0014日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/17(月) 15:12:24.87
旧百余国の王が消えて、卑弥呼が共立されたんだから、
広域邪馬台国に、旧数十国が内包される、で筋が通っている。
残りの数十国が狗奴国側なのだろう。
0016日本@名無史さん
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2023/07/17(月) 17:19:06.50
>>14
それだよ、それ。
女王国まで一万二千余里なんだから、伊都国は女王国に含まれない。
だから卑弥呼ってのは元々女王国の地方女王で、共立されて広域邪馬台国の女王になって、伊都に移動して来た。
伊都じゃなくて最大国の奴国王出身とかだろうな。
0017日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/17(月) 17:24:40.57
だから卑弥呼は親魏の倭王で金印重視、
男王や台与は嫌魏の倭王だったんだろうな。
0018日本@名無史さん
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2023/07/17(月) 17:37:52.75
まあ伊都には王がいたと書いてあるから、
伊都や奴国や旧百余国に王がいて、
奴国王の卑弥呼が共立されて広域邪馬台国の女王になって、親魏の倭王で、
昔の奴国王と同様に金印を求めて、
次の男王や台与が伊都国王系の倭国王で、師升と同じく金印はいりません、だったんだろうな。
0019日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/17(月) 18:38:54.69
まあ、魏使が伊都国までしか来ていない時点で、
卑弥呼の都も卑弥呼の墓も伊都だった、ということだな。
0020日本@名無史さん
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2023/07/17(月) 20:08:27.67
九州説で考えても、卑弥呼は産まれは奴国かどっか<万二千余里 で、
魏使との交渉時〜死去が伊都国だよん。

伊都にヘコヘコすり寄る畿内説の学者さんはどうすんのかねw
0021日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/17(月) 23:14:55.80
卑弥呼の女王国とは奴国のことだ、墓は平原で正解
0023日本@名無史さん
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2023/07/18(火) 14:37:42.90
平原が卑弥呼の墓の可能性は否定しないけど
魏志倭人伝を素直に読むと伊都国と邪馬台国は別モノだよ
伊都国の一大率は魏でいうとこの刺史(地方官)だから
伊都国の南に邪馬台国が、そしてさらに南に狗奴国があったのだろう
0024日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/18(火) 15:07:16.95
筑前怡土にあった伊都国
魏志倭人伝によるとその南に邪馬台国があり、さらにその南に狗古智卑狗(菊池彦)のいる狗奴国(日後の隈・球磨)があった

この位置関係からすると邪馬台国は筑後山門やそれに隣接する肥後菊池の山門あたりにあっただろう

邪馬台国と狗奴国が争ったであろう国境近くの菊池川流域あたりからは鉄鏃が大量に出土する
0025日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/18(火) 17:45:32.11
>>12
じゃあ親魏倭王卑弥呼の「倭国」の範囲は?
0026日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/18(火) 17:51:13.52
伊都が邪馬台国なら萬二千余里と矛盾する
0028日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/18(火) 19:22:13.09
女王国が奴国以東なら、神夏磯姫が八咫鏡を所有していたのも納得いくね。
0029日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/18(火) 20:02:23.80
倭国、の中に伊都国や奴国や邪馬台国がある、と考えている時点で、
広域国家と地方自治体(共立国)を想定しているのだから、
広域邪馬台国七万戸論を批判する資格は無いな。
広域邪馬台国を批判するなら倭国もまた別になければならない。
卑弥呼は金印倭国王なのに肝心の倭国が何万戸なのか書かれていない。
ならば記紀に倭=やまとと読むと補足してくれているのだから、
倭国=やまと国=邪馬台国=広域七万戸と考えるのが矛盾ない。
倭国王師升の時点で倭面土(やまと)という訓読みの存在が中国側の史学者には伝わっていて、
それを張政が邪馬台と伝えた最新情報を陳寿が採用した。
0030日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/18(火) 22:37:28.17
いつも思うんだが、
何故みんな外国の史書に記されただけの国名群にナニカを当て嵌めなければ気が済まないんだろうか。
「或る時代の列島には〇〇地域と××地域と△△地域に卓越的な権力体が存在したと推定される」では何故いけないのか。
その権力体がどんな名前を名乗っていようが歴史の大流には何の影響も無いだろうに。
 
0031日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/18(火) 22:55:33.57
実は九州が問題ではなく、他地域の発展が思ったより遅いことが問題なのでは?
キビの上東遺跡とか突きつけられたらもう思考停止するしかないよね。
0032日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/19(水) 01:42:52.80
晋書には魏の時に至り、三十国有りて通好す戸は七万ありとあるから三十国全部で七万戸だな
0033日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/19(水) 15:58:13.37
卑弥呼の出身地が三雲井原とかだったかな?
平原の破鏡は、大型2枚以外、倭製鏡だそうだ。
2世紀を想定するようだが卑弥呼以前に鏡をそんなに作ったかな?
238年に皇帝に銅鏡が欲しいって言わなくないか?

卑弥呼が、皇帝から貰った100枚のうちから
方格規矩鏡などを複製して女給などにも配ったのだろう。

帳政の殉葬100人は、意味不明な
破鏡の説明で勘違いしたのではないかな?
日本に殉葬100人って、そんな墓は無いと思うぞ?
兵馬俑ってか? はにわだろw
0034日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/19(水) 16:25:56.60
>>31
>キビの上東遺跡とか

吉備忌部の痕跡がどうかしたか? @阿波
0035日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/19(水) 17:24:43.90
>>26
帯方郡から
伊都までは、247年張政の積算で10500里
240年梯儁の行軍、水行20日、水行10日、陸行1月で
陳寿の補足は、女王の処都まで12000里

陳寿と梯儁が共有した、陸行1月は、2000里である。
小中学生でもわかる、簡単な文章問題。

邪馬台国21国7万戸への上陸は九州北岸なら概ねどこでも良い。
呼子でも宗像でも、博多へは循海岸水行である。 歩かない。

卑弥呼の墓は、女王の処都までは行っていない、
伊都に駐留した、247年の帳政が見た、のであって、
郡から、10500里以内の伊都まで、に有ったというのが順当。
伊都は糸島北岸上陸から500里で、今宿〜早良を想定した方が良い。

帳政が、港も近い伊都まで、500里も歩いたのは、
途中に卑弥呼の墓があった。 という可能性が高い。
0036日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/19(水) 17:50:50.69
>>35
>伊都までは、247年張政の積算で10500里

陳寿は足し算しろとは言っていない。
トンデモの勝手読み。 @阿波
0037日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/19(水) 18:29:52.89
卑弥呼の墓で良いんだけど?

なんで、卑弥呼の墓じゃない?
って、未確定な時系列論考で言い張れるの?

学術的証明方法が逆じゃね?
謎の破鏡は、卑弥呼への弔い以外に有るか?
0038日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/19(水) 18:42:59.48
>>33
三雲井原は甕棺だから平原とは何かが違うんだろうね。
昔は平原周濠には土壙墓が並んでたことを前提に話してたのにいつの間にかなかったことになってるねw
畿内説者が「平原のは土壙墓だから殉葬じゃない」とか非論理的な反論を書きこみまくってたのが懐かしいなあ。「奴婢を殉葬するなら土壙墓だろ」って突っ込まれてたけどw
0039日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/19(水) 18:54:07.21
日本の墓制に夫婦程度以上の、殉葬なんて無いだけだろ?
数十の破鏡が、殉葬同等か? 
倭人伝論争は読めない奴が、わざと見てない。
0040日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/19(水) 18:54:53.72
あの頃は平原遺跡なんて何とも思われてなかったから、畿内説者も余裕で土壙墓やら話してたんだろうなw
それが里程と日程が別とかいろいろ新説が出て、これは卑弥呼の女王墓じゃろうかとなってから、土壙墓やらあれこれケチつけ始めた。
0042日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/19(水) 19:01:22.05
卑弥呼が王なら、葬儀が国事で、石棺か木棺だろうね。
平原 では逝けない理由が判らない。
0043日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/19(水) 19:28:47.61
標準パターン完全公開の酸素同位体比年輪年代法で終わった平原卑弥呼墓説がどうしたって?
庄内後期でも227年だから平原は2世紀末よ

https://i.imgur.com/pCJvq87.jpg
0044日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/19(水) 19:37:14.39
これも懐かしいなw
周濠から出た庄内式が何年だろうとそれより新しいとしか言えないだろ。ってさんざん突っ込まれてたよね
お前の家の庭から庄内式が出たらお前の家は弥生時代なのか?とか
で、畿内説者の濠からは馬具が出たんだからそれより新しいことになるけど、世界最古の馬具にしますか?とか逆襲される固定パターン
0045日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/19(水) 19:40:57.79
などと訳の分からないことを供述しており
0046日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/19(水) 19:44:05.22
ホケノ山の小枝とか明らかに埋葬当時に副葬されたものなら
ある程度その墓の年代の基準にできるけど
周濠に落ちてたものなんてそれこそ平原遺跡を作ったのが4世紀で
その時に土中に混じっていた土器が掘削時に混入したなんて可能性があるわけで。
墓の年代についてはそれより新しいよとしか言えない。
0047日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/19(水) 19:51:00.01
青龍三年鏡が出土した事で、
従来漢鏡として区分されていた方格規矩四神鏡は、
その時代編年を魏まで降って再編する必要があるが、
ソレを20年近くおざなりにして、
平原遺跡は方格規矩四神鏡が出たから
漢の時代の遺跡と言い張っている畿内説。
しかしながら、平原遺跡の方格規矩四神鏡は、
同一工房において徐州の銅が枯渇し、
魏の領内の銅が混ぜられ作られた銅鏡である事が、
鉛同位体比の分析で判明しており、
平原遺跡の方格規矩四神鏡は魏で短期間に大量に作られた銅鏡は確実で、
ソレは即ち魏が卑弥呼に贈った100枚の銅鏡で間違いないだろう。
0048日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/19(水) 19:59:29.00
うわ銅鏡百枚も懐かしいなあ
董卓が洛陽を焼き払って長らく廃墟になっててそれを魏が再建したばかりの頃だから魏鏡はつたなくて正解なんだよね。鏡写しとか字が崩れてるとかは倭人が作ったからじゃなくて魏が再建したばかりの洛陽の初心者職人が作ったから
倭人が作ったなら習作があるはずだけど無いってのが一番刺さった反論かな。金銀錯嵌珠龍文鉄鏡とか特に。
0049日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/19(水) 21:05:29.40
>>47
卑弥呼が倭製鏡を作った理由は威信材の大量配布が目的だろ?
本物の漢鏡は made in Japanのように、量産されていない。
平原鏡は卑弥呼が作った、日本製だろ。
つまり、卑弥呼の墓、カモ知らんよ?
0050日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/19(水) 21:11:50.36
ナニ言ってんだ?本物の漢(魏)鏡を百枚貰ったから議論してんだろ
0051日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/19(水) 21:53:59.47
九州では、卑弥呼以前に漢鏡をつくっていたか?
だけど、平原見れば、作ってたよねw

なんで、卑弥呼は漢鏡100枚貰って来たんだ?
古墳時代以前は、日本じゃ鏡なんて知らないだろ。
卑弥呼が、古墳葬儀の営業部長か?
0054日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/20(木) 03:01:29.75
畿内説の大御所の寺澤薫も卑弥呼の出自を伊都国王家だとほのめかしているのな
0055日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/20(木) 06:29:00.34
>・超大型内行花文鏡5枚
>・銅鏡39枚

元研磨工で鏡鋳造経験もある原田大六の捏造。
陶氏銘の鏡など、陶氏が名を成すのは5世紀。
2世紀の日本の墓からそんなものが出るわけない。
0056日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/20(木) 07:15:37.58
国宝金印の次は国宝銅鏡かいな。
銅鏡だけじゃなくて一括出土だぞ。



ホント捏造とかコンタミとかが好きな説だねぇw
0057日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/20(木) 07:20:38.35
>>55
建物Dの柱穴が増えてるのは許せるの?
0058日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/20(木) 07:24:20.80
>>54
あいつ寝返るの?
どんなツラして擦り寄ってくるんだかw
0059日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/20(木) 07:26:09.84
>銅鏡だけじゃなくて一括出土だぞ。

鏡は棺外の不自然な位置=層からの出土。

>建物Dの柱穴が増えてるのは許せるの?

だから何なのか。
0060日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/20(木) 09:28:01.44
戸数から見て伊都国は奴国の属国か分国で卑弥呼は奴国王だよ。卑弥呼の弟が伊都国王になってるんだろう
0061日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/20(木) 09:32:14.17
魏志倭人伝に先んじて書かれた魏略では伊都国は一万余戸
こっちの数字の方が伊都国の存在感から見てふさわしい感じだな
0062日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/20(木) 09:35:59.06
>>60
卑弥呼が引きこもってる間の摂政が伊都国王で「代々卑弥呼に仕えた」可能性はあると思う
0063日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/20(木) 10:45:06.36
魏略は残ってないから、どう書かれていたか定かではないが、魏略の伊都と魏志倭人伝の伊都は別の国かもしれん
0064日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/20(木) 11:01:06.46
247年張政の行程報告書は、 東南 陸行 五百里 到 伊都國
の『到』によって、一応 区切りがついているわけだが、
『到』狗邪韓國 至 對海國 至 一大國 至 末盧國 は
国と書いては有るが、倭人船が寄港した港で点。
点から点の里程が記されている。

東南 陸行 五百里 到 伊都國 は常駐した一大卒の場所。
奴國、不彌國 はいずれも100里だが、伊都国の国境の話だろう。
2万戸の奴国は2千戸以内で10国以上の国邑がある面の国のはず。
平野内としても100里じゃ奴国の中のどこに届いたのか判らない。

一大卒は博多西麓の海も近い山城を想定するが、張政の行程外だが、
100里先の 奴國、不彌國 が見えていた可能性も高い。
0065日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/20(木) 13:12:04.98
大型内行花文鏡5枚は国産として除いて
残りの35枚は紀元前1世紀後半~1世紀までの漢鏡で
多くは1世紀の漢鏡

平原1号墳は2世紀以降の漢鏡が含まれない
方墳
スギの木棺

これらのことから年代を推測するしかない
0066日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/20(木) 14:51:09.01
卑弥呼は190年から247年の邪馬台国女王だけど
この邪馬台国で、漢の皇帝から鏡を貰う女王が卑弥呼以前に居た。

と 言うのは、中国史の倭人伝的に少々都合が悪いんですけど?
どうにかして頂けないでしょうか? by 陳寿www

個人的には、方格規矩鏡 32面とかも
卑弥呼が須玖の工房とかで作った日本製で
普段使いに女給などに配ったもの。

弔いの為、破鏡、ってのを、採用したいんだけど・・・
この様子の説明を聞いた張政は、殉葬と勘違いした。
0067日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/20(木) 18:39:13.70
平原の年代が、漢鏡によって想定されているのなら
半島製または、ありがちな日本製だった場合は、
複製コピーであって年式は当て嵌まらないよね。
鏡の専門学者ってのもいるわけだから判りそうだけどな?
大六さんじゃダメだったんだ? 鉛とかだろ?

まあ、ホントの皇帝から貰った卑弥呼の鏡も無いと寂しいけど?
破鏡にはならないんじゃないかな?

日田の曹家鉄鏡って、卑弥呼以外に貰える奴居なくないかな?
246年、韓王朝滅亡の後で、臺与が日田に引き籠ってないか?
卑弥呼の墓は、平原か? その辺の王墓で女性。

糸島王墓に、卑弥呼のコピー元って、ホントに居るのか?
誤差100年だろ? 神功皇后墓かよ?
それって、中国史、馬鹿にしてないか? by陳寿www
0068日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/20(木) 19:31:03.88
ああそうか? 解決策知ってるよ?
平原一号に、親魏倭王の金印埋めて来いよwww

なんで、性別や時系列が判る、
耳飾りとか王の勾玉が有るのに本体が無いんだ?

金石文書は出ないにしても
記紀の古墳焚書の時、やらかしてるだろ?
金印、墓に返してください。 おながいします。
賞金、日本円で、10両あげますwww
0069日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/20(木) 20:57:46.22
卑弥呼の墓は九州でも
奈良のヤマトは畿内なんで、どーでも良いんだけどw

陳寿の倭人伝での邪馬台国ってのは? 
奈良と何の関係も成立しないよ?

何が、論争なの?
0070日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/20(木) 21:55:16.60
倭(ヤマト)は東征したんだよ、神武の名前を見ればわかる
0071日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/20(木) 23:55:16.63
卑弥呼が皇室の始祖なんだから関係大あり
0072日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/21(金) 02:37:52.95
倭人伝でも記紀でも大倭(おおやまと)
聖徳太子が倭を和にした?
0073日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/21(金) 02:51:09.10
※俺様のメモ※

黒塚古墳のU字型鉄製品
黄幢の絵は実は公孫氏の赤幢の絵
公孫氏領に前方後円墳?
笠松文

公孫氏と呉が同盟
北部九州邪馬台国と魏が同盟

公孫氏が滅亡→北部九州にはいられない→公孫氏と呉鏡師陳さんは畿内へ亡命
0074日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/21(金) 02:54:49.47
公孫氏と呉が同盟
北部九州邪馬台国と魏が同盟

※北部九州邪馬台国と南狗奴国が敵対


公孫氏が滅亡→北部九州にはいられない→公孫氏と呉鏡師陳さんは畿内へ亡命

公孫氏〜呉〜狗奴国〜畿内
VS
魏〜北部九州邪馬台国
0075日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/21(金) 03:23:25.41
黄幢の話が出るたびに思うし誰かが指摘するが、はよ中国の考古学会に問い合わせろよ。即答してくれるだろwどこぞの説が瞬殺されるから聞かんのかと思われとるぞw
0076日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/21(金) 03:40:29.38
※俺様のメモ※

>U字型鉄製品が公孫氏の赤幢に似ているのはわかった。

>じゃあ、魏の黄幢がどのようなものであったのかの根拠、を示してくれと言っている。

>画でもなんでも示せば一発なのに、畿内説が逃げ回っている。
0077日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/21(金) 04:01:54.60
九州説視点だと、
・難升米が貰った黄幢が伝世し、北部九州勢の出征時に移動した。
・難升米が貰った黄幢が鹵獲され、移動した。
・公孫氏滅亡時に赤幢が移動した。
といった線を考えることになる。

黒塚古墳の頭部には画文帯神獣鏡が置かれているので、
九州説基準だと内行花文鏡系の邪馬台国ではなく、
狗奴国側の可能性が高い。

難升米の黄幢だとしても、正始八年を最後に姿を消す難升米が、対狗奴国戦で討ち取られて鹵獲されたものである可能性が高くなる。

あるいは素直に上記説者の如く亡命公孫氏の赤幢かもしれない。
0078日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/21(金) 04:09:51.83
うーーーむこれは。

亡命公孫氏の赤幢が鏡職人と一緒に移動したというのも考古学物証と同期するが、

難升米を討ち取った狗奴国武将が、自らの輝かしい戦績を誇って
難升米の黄幢を副葬した、という可能性も非常に高いぞ。

だとすると、
・邪馬台国と狗奴国の戦争の顛末が記されていない
・台与は、張政らをさっさと帰国させた
ということからして、

卑弥呼死去
邪馬台国対狗奴国戦で、難升米討ち死に
次の男王時、邪馬台国内で内乱=卑弥呼後の勢力争い
男王+狗奴国が同盟 VS 旧卑弥呼勢力 で前者が勝利
魏の影響力は消失
の順番と考えると矛盾が無くなるな。
0079日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/21(金) 06:35:49.45
画文帯神獣鏡は南部九州すなわち狗奴国領域からの出土が多い、狗奴国系の鏡であり、
北部九州邪馬台国は平原八咫鏡を頂点とする内行花文鏡。

狗奴国領域は伊都を中心とする邪馬台国と長期敵対していたから金属器枯渇。
男王の時に邪馬台国内乱に乗じて同盟成功。

狗奴国武将と考えれば、全てが繋がる。
「男王&台与に武力で協力した超大物本人」ということになる。


黄幢の主が難升米であれば、
黒塚古墳の水銀朱は丹生鉱山産。
魏志倭人伝に記録された武器供与は五尺刀のみ。
無槨有棺
といった点と大きく齟齬が生じてくる。

難升米の子孫であるとする場合、
学術的に考えて、
三角縁神獣鏡の「古式のもの」が多めに副葬されていなければおかしい。
0080日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/21(金) 16:09:23.82
卑弥呼は良いとして
八咫鏡が2世紀の九州で作られてたってのがびっくりだよ。
0081日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/21(金) 17:03:22.19
中国皇帝から漢鏡貰うより
アマテラスから八咫鏡貰う方が凄いかも? 
初代天皇は卑弥呼? 九州だけどw
自分で作った風だけど?
0082日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/21(金) 18:08:38.79
ああそっか?
八咫鏡作ったのが卑弥呼なら
卑弥呼はアマテラス。 そゆことネ。

60年も女給1000人の王宮に引き籠って、
狗奴国と戦争?

それ、どっかが、絶対、嘘だぞ。
弟が居るのに、両親は前王じゃないのか?
0084日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/21(金) 19:59:30.98
卑弥呼は鬼道
倭人は卜占

卑弥呼が倭種である可能性もワンチャンあると思っている
0085日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/21(金) 22:50:10.43
意外とあっさり決着がついたな
0086日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/21(金) 23:07:53.39
平原遺跡という根拠

魏志倭人伝の里程と日程という根拠

双璧>どちらも非常に優れていて甲乙つけがたく卓越しているもの
0087日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/21(金) 23:33:37.54
北部九州の場合吉野ヶ里遺跡を筆頭にどの遺跡も鉄器利器がいっぱい出るけど
平塚川添遺跡と雀居遺跡は鉄器が無いのが不思議。
贅沢な悩みだけど。
0088日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/22(土) 08:23:54.19
>>87
そこは武器を持ち込めない聖域じゃね?
代わりに周りの集落で防御した
0089日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/22(土) 08:29:02.15
なるほどね。たしかにどちらも環濠集落だったね。
お偉いさんの住む聖域なら武器も農具もいらないか。
周囲も面で集落だらけだし都会の中だったもんね。
けど生活するのに刀子や鏡くらいはあってもいいと思うけど、
身の回りに少ししか鉄器が無いのなら洪水の時とかは持ち去ったのかもね。
0090日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/22(土) 08:31:53.09
初代天皇のような人は漢から金印もらって倭人の総王と
認定された奴国王で卑弥呼はその子孫だろう
0091日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/22(土) 08:37:30.33
三雲南小路遺跡の王と妃も、平原と同格かそれ以上だね。
金銅四葉座金具やガラス璧があるから金印の無い平原より格としては上かも。
0092日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/22(土) 08:42:34.57
あと下関市の稗田地蔵堂遺跡もあまり知られてないけど
蓋弓帽という漢皇族レベルのとんでもない威信材が出てる。
銅鏡は内行花文鏡清白鏡だから三雲南小路の近しい親族だろう。
記紀でもこの辺りは天皇が拠点としていることが多いので、なんらかの意味があるのだろうね。
0093日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/22(土) 08:50:48.05
>>89
身の回りのものは主人が亡くなったときに副葬したんじゃないかな
0094日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/22(土) 08:56:57.48
>>87
どちらも外交拠点のひとつだろうね
ただ、平塚川添遺跡は祭事の場でも違和感ないな
何重環濠だよw
0095日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/22(土) 08:56:59.43
>>93
平塚川添のほうはそれでいいけど、雀居は洪水で流されてるから無いということは使ってなかったってことになるんだよね。
平塚川添のが100年以上後だから時代の差かもしれないけど
0096日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/22(土) 09:02:13.15
雀居遺跡は文机(案)が出てる。当時は木簡に書きこんで、間違った時は刀子で表面を削って書き直していた。<滲むと日→月になりうる
雀居の案表面は刀子が当たったキズがいっぱいついている
から、刀子はあったはず。
刀子なら小さいしいつも身に着けていたから洪水避難時に持ち去ったとして、他の鉄器はさほどなかったということだね。
吉野ヶ里が凄すぎるからさ。蝶番とか。
0097日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/22(土) 09:03:39.37
>>92
黒塚古墳のU字鉄器が霞んで見えるわ
畿内説の人、あれひとつで「畿内にはすごいモノが出土した、九州からはゼロwww」ってやってんのが何だかな
0098日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/22(土) 09:17:20.01
平原の年代200頃の根拠って青龍三年鏡との対比しか知らんけど、他にある?
詳しい人教えて
0100日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/22(土) 11:48:52.90
>>98
卑弥呼の墓だと都合悪いからだろw
なんで女王国の中の一小国に過ぎないのに伊都国王の墓なんだよ?
卑弥呼の女王国の首都機能のある土地だぞ?
同じ時代に卑弥呼が二人いたら、正式国交の為に金印持って来た魏使が困るだろ?

明らかに中国王が有力な朝貢国の王に送ったと考えられる鏡が混ざっている。
被葬者は女王である。 卑弥呼じゃなきゃ、倭人伝もう一つ書くだろw
247年の張政は、伊都国に常駐しただけで帰ったが、卑弥呼の墓を見て報告している。
糸島北岸から、南東に500里歩いたが、その範疇に有る王墓でなければ記録できない。
平原なら、見つかってるけど、他に在り得るか?
多分、張政は、破鏡の話を聞いて、殉葬と勘違いした。
0101日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/22(土) 13:36:38.31
>>98
青龍三年鏡との対比が平原の年代200頃の根拠として使われたなんて話は聞いたことがない
誰の説だ?
0102日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/22(土) 13:45:35.12
>>101
青龍三年鏡より平原の鏡の方が精巧だから工人の世代が古い、という柳田の理屈
0103日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/22(土) 13:49:18.50
平原1号の40枚の鏡は2世紀半ばまでの型
2世紀後半以降の型の銅鏡はでてない
0104日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/22(土) 13:57:33.88
2世紀半ばの型の銅鏡が含まれるが
2世紀後半以降の型はないと言った方がいいか
0105日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/22(土) 14:32:45.06
>平原の鏡の方が精巧?
青龍三年銘方格規矩四神鏡 だと魏鏡の235年になって
もう卑弥呼の墓に決まってんだけどねw

平原の鏡は方格規矩鏡32面で四神鏡も結構出てるんで、
誰かが、近年で、鉛同位体比べたんじゃないか?

でも、平原のでかいのは日本にしかないんで日本製確定だけど
方格規矩鏡も、銘や字が変なのが多くて日本製を疑われてるんで、
編年はどっちみちOK アクセサリーも漢以降の流行説とか?

数枚以外が、卑弥呼の鏡じゃなくて残念だけど、
殉葬代わりに腹心の女給たちが貰った、
自分の映った普段使いの鏡割ったんだろね。

むしろ、鉛の産地迄調べられない発掘当時は仕方ないけど、
誰が漢鏡って決めつけた? ここで、八咫鏡が日本製だぞw
0106日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/22(土) 18:03:03.25
>>102
青龍三年鏡は後世のコピー品だから青龍三年に制作されたわけじゃない
それを基準とするのがそもそもの間違い

http://arai-hist.jp/thesis/archeaology/yamataikoku/113hirabaru.pdf
しかし、そうすると別の問題が生ずる。二面ある青龍三年銘方格規矩鏡は、いずれもこれらの
正始元年森尾鏡あるいは景初四年辰馬鏡と極めて近い類似係数を持っているのである。
すなわち、青龍三年(二三五年)の紀年鏡は正始元年および景初四年(いずれも二四〇年)の紀年鏡と
一緒に作られたことになってしまう。
このような結果も複製が行われていたことを強く示唆する。しかも、複製を行った場所は、中国ではない可能性が高い。
中国内での複製であるならば、年次の異なる紀年鏡を同時に製作するはずがないからである。
ただし西川寿勝氏(西川2000)が言うように、複製が楽浪地域で行われていた可能性は排除できない。

 以上の議論は、鉛同位体比の関係からの推論であるが、これとは別に、中井一夫氏が青龍三年の安満宮山鏡と
太田南鏡のTLV字部分について詳細に比較し、太田南鏡のT字部には、元鏡のキサゲ加工のあとが転写されており、
踏み返し鏡であるとしている(中井 2005)。中井市の論文よりT字部分の比較写真を借用して図9に示す。
元鏡(図9の左)が安満宮山鏡というわけではないが、切削仕上げ特有のキサゲ加工部が、太田南鏡(図9の右)では
鋳肌面になっている。その現象そのものが踏み返し鏡の決定的な証拠なのである。
また、樋口隆康氏は景初四年鏡の観察を行い、年月日の部分が、辰馬鏡では一本線であるのに、広峯鏡では二本の線に
ぶれていることから、踏み返し鏡であるとしている(樋口 1992)。このように紀年鏡を複製鏡と認める見解は決して少なくないのである。
0107日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/22(土) 18:06:54.00
>>91
三雲南小路とか須玖岡本は、1~2世紀とか
明らかに190年大乱後の卑弥呼と競合しない、以前の王墓なんだけど、
日本製の銅鏡は出てないとか? 
57年、107年の朝貢や、公孫氏経由とか?
考古学の漢鏡編年とかだと? 平原と同じで、全部漢鏡?
調べ方の問題は判らないんだけど・・・

青銅の工房は須玖が中心だったみたいだけど
made in japan の 銅鏡を量産しだしたのが
大乱後の卑弥呼からなんじゃないのかな?

本州の方が技術は上でも、経験やデザインで三角縁は? 
250年に有ったかね? 公孫氏に呉の鏡師いたかな?
でもまだ、銅鏡文化じゃない、日本海ルートにはいかない。

公孫氏以降新型が来なくなって、卑弥呼は最新モードが見たかったw
でも、魏は銅が枯渇して、鉄鏡が最新だった。 
こりゃ無理だべさ。 とか・・・
0108日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/22(土) 18:58:18.32
>>106
勉強になります。 感謝。
銅鏡だって、専門家、学者は絶対居ると思ってた。

アタシは、陳寿倭人伝を読んで妄想を語るだけで、
結論は、お任せです。

レスは、みんな、妄想、根拠証拠は? ばっか、ですがwww
こっちが、みんなに教えてもらってんですけどね?

「安満宮山古墳」初見ですが、面白いですね。
王墓と言うより、収集家みたいな?
246年以降で、東遷した、九州人かナ? 臺与?

邪馬台国21国に居た王の候補。
奴王/(難)升米
都支王/(都市)牛利 
巳百支王/(伊聲耆)掖邪狗
0109日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/22(土) 19:38:28.13
倭人伝の行程を
デタラメに読まなきゃ女王に会えない畿内説が、
卑弥呼の墓が糸島に在った、
って、言えるか?

歴史の科学で、土器はこうこうこうだからで
考古学の編年に根拠がある?
そんなもん適当って、学問としての存在価値無くネ?

鉛の同位体で、銅鏡原料の
出身地が判る時代なんだよ?
平原は卑弥呼の墓だろ?

唯一無二、卑弥呼は二人はいない。
ば〜か。 とは言わない。
考古学の先生は、尊敬して、ま〜すwww
0110日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/22(土) 19:52:45.90
平原のが八咫鏡なら同所出土の素環頭太刀は天叢雲剣ということになる熱田神宮のは形代だな
0111日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/22(土) 20:31:05.44
>>110
だから、八た鏡が卑弥呼によって
量産された鏡だと、不都合だろ?

卑弥呼と皇室を競合させてるのは
畿内説の間抜け。

卑弥呼は、190から247の筑紫王。
0112日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/22(土) 21:09:35.51
>>106
>二面ある青龍三年銘方格規矩鏡は、いずれもこれらの
>正始元年森尾鏡あるいは景初四年辰馬鏡と極めて近い類似係数を持っているのある。
>すなわち、青龍三年(二三五年)の紀年鏡は正始元年および景初四年(いずれ二四〇年)の紀年鏡と一緒に作られたことになってしまう。

結果ありきの誘導だね。

二面ある青龍三年銘方格規矩鏡は、いずれも魏からもたらされた銅鏡百枚の一部だった。
卑弥呼死去後に男王&狗奴国が実権を握ったので、
銅鏡百枚は溶かされて、狗奴国系の正始元年および景初四年の紀年鏡に造り直された。

とも考えられる。
0113日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/22(土) 21:16:36.97
>>107
>でも、魏は銅が枯渇して、鉄鏡が最新だった。

核心だね。
日田ダンワラ古墳の金銀錯嵌珠龍文鉄鏡だ。
0114日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/22(土) 22:40:26.71
『今以汝爲親魏倭王 假金印紫綬 裝封 付帯方太守 假授汝 其綏撫種人 勉爲孝順』

今>魏皇帝の元にて、「金印紫綬」を授け、装封して"帯方太守に付託"する。

『汝来使難升米、牛利、涉遠道路勤勞
 今以難升米爲率善中郎將 牛利爲率善校尉 假銀印青綬 引見労賜遣還』

今>魏皇帝の元にて、「銀印青綬」を難升米らに授ける。

『今以絳地交龍錦五匹絳地縐粟罽十張蒨絳五十匹紺青五十匹 答汝所獻貢直』

今>魏皇帝の元にて、〇〇をもって、汝の朝貢に応える。

『又特賜汝 紺地句文錦三匹 細班華罽五張白絹五十匹金八兩五尺刀二口 
 銅鏡百枚 真珠鉛丹各五十斤 皆裝封 付難升米牛利還』

又>楽浪郡にて、特別に、□□、銅鏡百枚、□□、を装封して"難升米らに付託"する。


@魏皇帝が洛陽で授与する卑弥呼金印は、魏直属の部下である帯方太守の責任で送らせる。

A難升米らに銀印授与して、魏皇帝のVIPに認定する。

B-1魏皇帝が洛陽で授与する〇〇と、
B-2楽浪郡の資産から分与する□□(銅鏡百枚を含む)は、
魏皇帝のVIPになった、難升米らに送らせる。
0115日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/22(土) 22:41:56.22
鉛同位体比からは、
平原の方格規矩鏡は楽浪郡製作。>陶氏製作など
あるいは、楽浪郡からもたらされた鏡を溶かして作成した。
どちらにせよ本場のコピー品で、大陸製に比べると拙い。

さらに鉛同位体比から考えると、
超大型内行花文鏡は、魏使以前に作られていた。

旧百余国のうち伊都国系の有力王がそれぞれ持っていたものを、
卑弥呼共立時に卑弥呼の元へ集めた可能性が高くなった。

ということは、平原遺跡に副葬されなかった超大型内行花文鏡は、逆に卑弥呼共立に参加しなかった勢力である可能性が高くなり、

神夏磯姫の再評価が必要になるし、
かの沖ノ島辺津の宮のご神体であったという伝承からは、
九州説が頑なに豊国を邪馬台国領域から除外する根拠が一つ増える。
0116日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/22(土) 22:46:47.54
>>106
の紀年鏡群は、
平原鏡と鉛同位体比が異なることから、九州説視点からは、卑弥呼後に在倭の古い大陸系鉛使用青銅器を溶かして製作された可能性が高くなる。

青龍三年銘のモデルがあったはずであり、まだ分析されていない安満宮山古墳の方格規矩鏡が候補の一つとなる。
なぜ分析されていないのか?

青龍三年には楽浪郡はまだ公孫氏の支配下にあったので、楽浪郡に作り置きされていたものではない。

オリジナルについては、
平原鏡と成分が似ている楽浪鉛使用の青龍三年銘鏡が見つかれば、
難升米らが洛陽往復している間に楽浪鏡師が作らされたと考え、

大陸鉛使用の青龍三年銘鏡が見つかれば、
難升米らが洛陽滞在中に洛陽青龍三年鏡を私的に入手したものと考えることもできる。

尚、何も見つからなくてもオリジナルについてはどちらの想定もできる。
0117日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/22(土) 23:14:23.66
>>115
>旧百余国のうち伊都国系の有力王がそれぞれ持っていたものを、
>卑弥呼共立時に卑弥呼の元へ集めた可能性が高くなった。

銅鏡百枚が楽浪郡保管のものだったというのはありだが、
平原の超大型鏡は漢鉛寄りだが楽浪鉛も入っている。
また旧百余国の王が持っていたなら三雲井原王墓に副葬されていたのではないか?

やはり超大型鏡は卑弥呼政権の作で、
旧百余国から集めた漢鏡と、魏からの楽浪鏡を、それぞれ溶かして製作されたのではないか?

個人的には神夏磯姫は卑弥呼の末裔だと思う。
0118日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/22(土) 23:16:04.09
楽浪郡でも平原には及ばないが大型の内行花文鏡は作られていたから、
銅鏡百枚と共に難升米らが楽浪鏡師を連れてきたのだろう。
彼らが超大型を作ったのか、単に技術を伝えただけかはわからんが。
0119日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/22(土) 23:52:16.56
『其行来渡海詣中國 恒使一人不梳頭 不去蟣蝨 衣服垢污 不食肉 不近婦人如喪人 
 名之爲持衰』

倭人が海を渡って中国に詣でる時、に持衰を置く。
倭人が中国に詣でたのは107年師升と、難升米ら卑弥呼遣使。
後漢書にも持衰は記載されているので、107年師升の時にも置かれていた。

難升米らも持衰を置いていたからこそ、魏志倭人伝にも記載されたわけであり、
そうなると難升米らは倭舟で中国に詣でた。
難升米は「大率」である可能性が高くなり、
だからこそ「率善」中郎将・校尉を授与されたわけだ。

>>114
>@魏皇帝が洛陽で授与する卑弥呼金印は、魏直属の部下である帯方太守の責任で送らせる。

>A難升米らに銀印授与して、魏皇帝のVIPに認定する。

>B-1魏皇帝が洛陽で授与する〇〇と、
>B-2楽浪郡の資産から分与する□□(銅鏡百枚を含む)は、
魏皇帝のVIPになった、難升米らに送らせる。

帯方太守の部下は付き添いで、倭舟に同乗したので、
運ぶのは小さく軽い金印と詔書のみ。

大率のおそらく倭船団を率いた難升米らが、大量の贈物を輸送した。

そうなると、島国の日本列島で陸行一月などありえない話であり、
水行二十日→水行十日→陸行一日で、平原女王墓。
0120日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/23(日) 00:23:53.92
>>114
>B-1魏皇帝が洛陽で授与する〇〇と、
『今以絳地交龍錦五匹絳地縐粟罽十張蒨絳五十匹紺青五十匹 答汝所獻貢直』

洛陽→倭は、
軽いものばかりだね。遠いから。


B-2楽浪郡の資産から分与する□□(銅鏡百枚を含む)は、
『又特賜汝 紺地句文錦三匹 細班華罽五張白絹五十匹金八兩五尺刀二口 
 銅鏡百枚 真珠鉛丹各五十斤 皆裝封 付難升米牛利還』

楽浪→倭は、
重いものが多い。近いから。

魏は銅が枯渇していたから魏本国から青銅器を贈る余裕はなく
陥落させた楽浪郡の倉庫から銅鏡百枚を本当は魏が欲しいところだが
特別に贈呈したということだね。
0121日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/23(日) 01:44:15.29
平原が卑弥呼の墓ならショボすぎて倭国王詐称してたまでないか?
知らんけど
0122日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/23(日) 04:33:57.61
関羽の墓も同規模だよ
0123日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/23(日) 06:12:29.58
曹操墓は地下だけど墓域としては同規模だね
0124日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/23(日) 06:59:04.91
>>121
卑弥呼は古墳時代より前の人よ?
墓が小さい(一般人に比べれば滅茶苦茶デカイが)のは当たり前
ピラミッドだって最初は小さく作って時代が進む毎に巨大化していった。
最大が仁徳天皇の墓ならそれより古くなればなるほど小さくなっていく筈
0125日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/23(日) 08:42:17.05
>>116
>大陸鉛使用の青龍三年銘鏡が見つかれば、
>難升米らが洛陽滞在中に洛陽青龍三年鏡を私的に入手したものと考えることもできる。

司馬懿の私物かもね。
青龍三年に大尉に昇進して、魏軍の総大将になってるから、昇進祝いに貰ったものかも。

公孫氏遠征では長雨にたたられて兵糧不足で時間切れ敗走の危険が高かったのが、
途中から期限を気にしなくなって、襄平城を包囲して時間のかかる籠城戦を容認している。

外交というのは諸外国とのバランスの問題があるので、
倭に金印を与えたということは、魏にとって倭が諸外国に比べて突出した貢献をしてくれたから与えたわけで、
倭の難升米らが司馬懿の大軍に兵糧を供給したと考えれば辻褄が合う。

難升米らは司馬懿に手厚く饗応され、
司馬懿から難升米へは私物の青龍三年銘方格規矩鏡が贈られ、
難升米から司馬懿には難升米の故郷・伊邪國(伊耶國)などの、広志記載の倭地別系統情報が伝えられた。

卑弥呼死去、難升米討ち死に、邪馬台国内乱にて旧卑弥呼勢が敗北、と重なって、
失脚して北部九州に居られなくなったから、東に移動したのだろう。

司馬懿私用→難升米の銅鏡だとすれば、世界史的に見ても貴重だね。
0127日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/23(日) 08:51:25.38
対馬「無良田食海物自活乗船南北巿糴」
壱岐「差有田地 耕田猶不足食 亦南北巿糴」
九州本土「收租賦 有邸閣(兵糧倉庫)」

武官である張政にとっては、倭の兵糧管理体制の視察も重要任務だったのだね。
今後高句麗その他との戦いも予想され、
司馬懿同様いつまた兵糧補給をお願いするかもしれないから。
0128日本@名無史さん
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2023/07/23(日) 12:03:38.31
まあ、問題は築後山門とかの城に居たはずなのに
なんで糸島に引っ越してきたか? だな。 用意してあった?
祭祀の場所としてはこの平原で良いんだけど?
こっちが、卑弥呼の本家で、筑後は出城? 影武者か?
女給千人で出城ってのもな?
0129日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/23(日) 17:36:10.83
>>121
其八年 太守王頎到官
倭 女王卑弥呼 與狗奴國 男王卑弥弓呼 素不和 遣倭 載斯烏越等 詣郡 説相攻撃状
この、郡までの往復の間に作った墓だし、古墳じゃないよ。
0132日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/23(日) 18:33:32.23
半島往復って、多分寒くない、5月から10月かな?
6789月とか? 対馬〜釜山はベースが有るとして?
まあ、西風に乗る頃の方が日本海は帰りが早い。

所要時間は、中国の帯方郡がソウル辺りだと
寄港地が決まっていて、兵站の無い倭人船なら?
240年梯儁の、水行20日、水行10より短いはず。

60日で、往復できるかナ?
60日以内で卑弥呼の墓作ったかもな?
0133日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/23(日) 18:42:24.33
古墳かどうかじゃなくて、30カ国統べる女王の墓にしてはしょっぱいんしゃないの?って言いたかったんだけどまぁ良いか
北九州の同時期の他の豪族の墓に比べても大きいもんなの?
魏志倭人伝の書き方だと、大きいってのを強調したかったのかなって思っただけだよ
0135日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/23(日) 18:57:08.64
塚だからね? 
古墳って言うのは建造物。
平原の一本御柱は後付けなのか、
卑弥呼の宗教上の遺言なのか?
他にないものは?

てか、八咫鏡が4〜5面も出てんだろ?
平原のアマテラスが5人も神武を任命できるだろ?

絶対アマテラスのせいだよ、大六さん、凄いねwww
0136日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/23(日) 19:14:38.28
30ヵ国を統べると言っても福岡周辺の沿岸部だけでも4ヵ国あるスケール感だし
後漢の時代からずっと倭国の大倭王が朝貢してたのと同じでしょう
0137日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/23(日) 19:33:29.53
たしかになんで複数枚作ったんだろうね倭国王の鏡なら1枚が望ましいのに
0138日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/23(日) 19:44:14.66
>>136
240年の梯儁は、確かに卑弥呼に金印を届けた。
247年の張政は、数か月で盛られた卑弥呼の墓を伊都までの行程で見た。 
平原が卑弥呼の墓じゃなきゃ? 孝霊間で卑弥呼のコピーが居るだろ?
存在し得ない、と思うぞ。
0139日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/23(日) 19:52:56.18
まあ、三種の神器で皇統って発想が、今様じゃないけどね?
一夫一婦じゃ日本の宮様? 王朝が滅びるだろ?
どうせ、豪族利権無いから良いんだけど?
0140日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/23(日) 20:44:04.35
>>133
狗奴国との争いや後継者をめぐる争いの中で造ったんだからしょぼいと思うわ
0141日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/23(日) 20:47:18.75
本当に邪馬台国関連はキチガイの連投が名物だな
0143日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/23(日) 20:58:38.37
径百歩はどうなった
史書に残す記録だから短径とかありえないからな?
0145日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/23(日) 21:05:17.23
径三十七歩みたいな半端な数を記録する習慣はなかったんじゃないかな
0146日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/23(日) 21:24:26.84
>>143
誇張でしょ
「大きな墳墓」くらいの意味しかない
0148ネトウヨボクメツタイ! 
垢版 |
2023/07/23(日) 22:29:35.18
酸素同位体比年代測定法により邪馬台国の会なるネトウヨ団体の提示していた疑義は否定された。

つまり故に箸墓が3世紀の古墳である事は確定し、纏向遺跡は卑弥呼の時代より前からあったと言い切れる。

早期ヤマト王権=邪馬台国だったのだ。ネトウヨは早く白旗を上げてジャップは中華に朝貢していたという歴史を認めよ。
0149日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/23(日) 22:30:47.07
倭国大乱より前からあったことにしないと
0150日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/23(日) 22:31:08.17
始度一海千餘里至對海国
 ↓
又南渡一海千餘里至一大國
 ↓
又渡一海千餘里至末盧國

一大國と末盧國の距離は、對海国と一大國の距離より明らかに短いが、一海千餘里と書かれてる。
一海千餘里は、距離を表していないと考えられる。
なので、徑百餘歩も長さを表していないのではと考えられる。
0152日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/23(日) 23:15:03.65
>>144
箸墓にこだわっては居ないが

>>146
それ言い始めたら卑弥呼すら嘘かも知んないな
0153日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/24(月) 04:57:52.61
東海大学教授の考古学者北條芳隆氏

「いわゆる邪馬台国がらみでも(旧石器捏造事件)と同じようなことが起きている」

「証明を抜きにして仮説だけがどんどん上積みされておりマスコミもそれをそのまま報じている」

「近畿地方では古い時期の古墳の発掘も多いが
、邪馬台国畿内説が調査の前提になっているために
遺物の解釈が非常に短絡的になっている。
考古学の学問性は今や崖っぷちまで追い詰められている。」
0154日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/24(月) 08:39:45.07
>>152
チャイナの歴史書なんて話半分でいい
日本に何かクニっぽいのがあって女王がいた、男王のクニとケンカしてた、くらいは合ってるかもしれんけど
あとは適当に脚色してるんだよ
特に距離や戸数、枚数、大きさは適当だって
書いてる内容が正しいなら、邪馬台国は沖縄あたりにある連合国家ってことになるでしょ
0155日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/24(月) 08:50:27.02
>>154
会稽東治は陳寿の想像で、実際に魏使が会稽東治から向かったわけではないから距離は1万2千里が正解。末盧国から150キロの場所に邪馬台国があると思う
0156日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/24(月) 11:05:46.31
平原の墳丘の大きさはミカン畑じゃ判らなくないかな?
周濠が当時からあれば、だいたいだけど?
九州の墳丘墓の例では周濠有るのか?
0157日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/24(月) 18:07:15.53
>>155
>末盧国から150キロの場所
根拠ナシ
0158日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/24(月) 18:22:48.49
しっかしダメな説って全体の整合性が取れないから部分を切り取るよなwぶつ切りの蛇がのたうってるみたいw
0159日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/24(月) 18:31:43.03
自 日南 障塞 徐聞 合浦 船行 可 五月 有 都元國
又 船行 可 四月 有 邑盧沒國
又 船行 可 二十餘日 有 ェ離國 步行 可 十餘日 有 夫甘都盧國
自 夫甘都盧國 船行 可 二月餘 有 黄支國

民 俗 略 與 珠w 相類 其 州 廣大 戶口多 多異物 自 武帝 以來 皆 獻見
有 譯長 属黄門 與 應募者 俱 入海 巿 明珠 璧 流離 奇石 異物 齎 黄金 雜
而 往所 至 國 皆 稟食 為 耦 蠻夷 賈船 伝送致之 亦 利 交易
剽 殺人 又 苦逢風波 溺死 不者 数年来還 大珠 至 圍二寸以下

平帝 元始中 王莽 輔政 欲 燿威コ 厚 遺 黄支王 令 遣使 獻 生 犀牛

自 黄支船行 可 八月 到 皮宗 船行 可 八月 到 日南 象林界 云
黄支 之 南 有 已程不國 漢 之 譯使 自 此 還 矣
0160日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/24(月) 18:43:59.00
>>156
有名どころだと城野遺跡かな。
今回の吉野ヶ里遺跡のもそうだけど石棺墓って倭国王にはなれなかったみたいだね。
0162日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/24(月) 18:56:49.33
殯用の柱だろ
0163日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/24(月) 19:01:57.36
末盧国から150キロの話に横レスのはずが?
漢書地理志のコピペのみだった? すまん。 
中国史の謎、1月行の話を、したんだが・・・

15 南至 投馬國 水行二十日 官日 彌彌 副日 彌彌那利 可五萬餘戸
16 南至 邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月
これが、22 自郡 至 女王國 萬二千餘里 である。

これは240年、卑弥呼に金印を届けた梯儁の報告書の引用である。
簡単な文章問題で、陳寿と梯儁は、1月行=2千里を共有している。

247年の張政は、到と至を使い分け、寄港地等、点から点の
里程を記録して、戸数は有、梯儁の行程は日数、戸数は可である。
筆致が違う、二人の記録の引用を陳寿は正しく再現している。

一番馬鹿なのは、投馬国は、240年での弁辰韓24国5万戸の仮称、
邪馬台国は、筑紫地域次有21国7万戸の仮称である。

行程と言うのは、駅の点、
東京名古屋大阪から、日本国や韓国には繋がらない。
ご都合主義で、読まない事。

伊都国に到達した、張政が、
不彌國〜投馬国=弁辰韓に行ったら、既に帰り道である。
倭人伝には、帰りの行程記録は無い。 
0164日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/24(月) 19:09:23.04
>>161
ホケノ山古墳の立派な木槨を見て一から勉強し直したまへ
0165日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/24(月) 19:19:36.43
>>161
墓と言うよりは、御柱は日時計だな?
卑弥呼は農事の号令係だったのか?
地域王丸出しだが?

倭人伝が、本州、畿内王の話をしている
と言う根拠は、文献的には全くない?

畿内は無理なんで、ムー大陸に逝けw
0166日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/24(月) 19:36:50.39
>>163
筆致が違うというのはその通りだね。
里程と日程は別々の記録だろう。
倭女王卑弥呼は伊都國にいた。

>投馬国は、240年での弁辰韓24国5万戸の仮称
面白い説だな。

ただその場合、南至の起点はどこなのだ?

また韓そのもの、また弁辰の瀆盧国が、倭と接するとある倭は?
0167日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/24(月) 20:04:58.47
>>154
日本書紀は藤原氏や天皇に都合の悪いことは記述されないか改竄されてる
しかし中国の歴史書は天皇も藤原氏も改竄できないし都合の悪い葉梨を削除することも出来ない
もちろん中国には中国の都合があって全て真実とは限らないが
少なくとも日本に忖度して筆を曲げるようなことは無かったろう。
日本には中国に圧力を掛けるような力が無かったから。
だから日本に関して書かれている古代の中国の文献はあてに出来る。
0168日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/24(月) 20:12:21.94
伊都国歴史博物館の現地説明板より

1号墳 割竹形木棺 銅鏡40面、ガラス勾玉3点・管玉30点・連玉886点・丸玉約500点・
小玉482点・メノウ管玉12点、ガラス耳璫じとう2点、水銀朱、鉄製素環頭大刀1本
弥生時代終末期

2号墳 舟形木棺 石室 副葬品なし 出土した土師器から古墳時代前期前半
3号墳 中央付近に刀子 周溝に滑石製臼玉、ガラス小玉、鉄鏃、土師器 土師器から古墳時代前期前半
4号墳 土壙墓と思われる 布で包んで埋めて埋葬 副葬品なし
5号墳 壺棺 小児 前漢鏡2面 弥生後期初頭
0170日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/24(月) 23:50:17.72
>>167
日本には忖度しないよ
でも、陳寿は皇室の祖である司馬懿には忖度したはず
司馬懿が公孫氏を滅ぼしたことがきっかけで邪馬台国の朝貢が実現してんだし、当時は魏のライバルだった呉の沖合に位置すると勘違いされていた
司馬懿の功績を讃えるために邪馬台国をよく見せようとしていてもおかしくない
0171日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/25(火) 04:50:14.17
行程論だとどうあがいても自分のとこに至らないから全部嘘さと騒ぐ
0172日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/25(火) 05:01:03.43
>>162
墓「有棺無槨 封土作冢」

殯「始死停喪十餘日 當時不食肉 喪主哭泣 他人就歌舞飲酒」>柱穴建物での殯に張政さんも参加した

葬「挙家詣水中澡浴 以如練沐」>木棺墓は海神族の証

完璧だな。
0174日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/25(火) 16:08:20.28
>>173
280年までは、三国志は続く。
それなのに、倭人伝は247年張政の報告以降記録が無い。
送政等還 因詣臺 で、朝貢で王宮に上がっているのに返礼も無いのである。
特にこの時は、卑弥呼の崩御と女王壹與が即位した報告があったはずなのにである。

使 大倭 監之 自女王國 以北特置 一大率 檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於 國中有 如刺史
王 遣使 詣 京都 帶方郡 諸韓國 及 郡使 倭國 皆 臨津 捜露 傳送文書 賜遺之物 詣 女王 不得差錯

司馬懿のクーデターはこの年か直後。
魏が邪馬台国との交流を断つ決断は司馬懿によるもの。

266年は晋、司馬炎即位の祝賀で東夷の王も多数参列したという話だが、
247年以降、一大卒の関与は、皇帝や女王の傳送文書 賜遺之物にも及ぶ。
これが、女王壹與による使であった可能性はほぼ無い。

一大率 檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於 國中有 如刺史
245年母丘倹は幽州刺史で、玄兎郡太守王頎を伴い高句麗を東臨大海に追った将軍だが
中央派遣の刺史の権限は、太守や県令など地域王の上位に位置する。
0175日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/25(火) 16:29:12.53
>>154
会稽東治の場所だが、裴松之の注に出てくる東治と三国志本文を比較すると
現在の江蘇省蘇州市に当たり、沖縄よりはだいぶ北
鹿児島の南端くらい


http://andokunio.blogspot.com/2018/08/blog-post_19.html
> 5.東治の「東」
> 「治」とは、地方官の駐在するところ(治所)の意味である。(康煕字典:「治、州郡所駐曰治、如蜀刺史曰治成都、揚刺史曰治会稽」)
> 呉志孫輔伝の裴松之注に、【典略曰、輔恐権不能保守江東、因権出行『東治』、乃遣人齎書呼曹公、行人以告権、乃還偽若不知、
> 與張昭共見輔、権謂曰「兄、厭樂邪何為呼他人」、輔云「無是」、権因投書與昭、昭示輔、輔慙無辭、乃悉斬輔親近、分其部曲、徒輔置『東』】とある。
> ここに「東治」と「東」が見える。
> 紹煕本に「東治」とあれば無条件で校勘なしで「東冶」に改訂する百衲本も、この「東治」だけは改訂していない。
>
> 典略がいう事件の背景は呉志孫権伝にいう「建安五(200)年、曹公表権為討虜将軍領会稽太守、屯呉」にある。
> 典略の要は、孫権の兄の孫策の死後、その業(討虜将軍領(=兼)会稽太守)を継いだ孫権が十九才という若さのためか、
> 孫権の江東を保守することに危惧を抱いた従兄弟の孫輔が、孫権が「東治」へ行った留守の間に曹操を呼ぼうとしたことがばれて、孫輔は「東」に徒(うつ)された、ということです。
> 建安五(200)年、孫権が会稽太守として屯した呉は、春秋時代の呉の都、秦漢では会稽郡(今の浙江省から江蘇省)の郡治の江蘇の呉県(太湖の東の蘇州)。
> 後漢の順帝永建四(129)年に会稽郡から呉郡が分離して、以降呉郡の治になる。
> 会稽・呉分離以降、会稽郡は浙江以南となり、郡治は山陰(紹興)に移る。
> 典略のいう、孫権が会稽郡治の山陰(紹興)を留守にして出かけた「東治」とは、孫権が江東を保守するために駐屯した呉の地のことである。(「東冶」は江東からはかなり遠い。)
> 「会稽東治」とは、「会稽の『東』の治所」という意味である。
0176日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/25(火) 16:43:47.75
古代の磁北は日本から見た場合、地軸から約15°ほど西にずれていたようだ
このため磁石で方位を測ると真北は東北東15°となり、方位は東寄りにずれが生じる
魏の使者は磁石で方位を測ったため、方位の表記は全体的に東寄りにずれている
これを補正すれば上陸地の呼子から東南で方位は合致する

古代の方位測定法
https://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2013/06/20130601-1.html
> いまの私たちなら、方位磁針(コンパス)を使うのが簡便です。ただし、よく知られているように、磁針が指す磁北は、地球の自転軸の延長方向である真北とは一致しません。
> 奈良や京都では、真北から7度ほど西にずれています。この差は地域や時代によって異なりますが、6〜8世紀ではさらに大きく、西日本では平均して10〜15度も西へずれていました。
> したがって、古代に磁北を測って方位を定めたのでないことは確実です。
>
> ではどうやって方位を測ったのかというと、まず間違いないのは太陽を利用する方法です。地面に棒を垂直に立て、それを中心に円を描きます(全周させなくてもかまいません)。
> 午前と午後の2回、棒の影の先端が円周上にくるときがありますが、その2点を結べば、ほぼ正確に真東西となります。
> この方法は、古くから『周礼しゅらい』をはじめとする中国の書物に記され、簡単なうえに精度もよいことが実験でも確かめられています。

この周礼の方法は午前と午後の2回、同地点での測定が必要なので、魏の使者のように旅をする人間には使用できない
都市計画などには良いが、移動する人間は磁石を使うしかなかった
中国では魏志倭人伝よりも古くから「司南之杓」という天然磁石をスプーン型に削ったものを平らな銅板の上に置くことで方位を測る方法が知られていた

ちなみにこの15°補正により別の方位問題も解決する
会稽東治(江蘇省蘇州市)からの方位に15°の補正を加えると筑後山門はほぼ真東となる
https://i.imgur.com/IOyJ05p.jpg
0177日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/25(火) 17:46:17.77
>>173
魏のあとが晋
陳寿は晋の役人で、晋の皇帝の祖が司馬懿
0179日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/25(火) 17:53:50.44
魏に忖度してんじゃなくて、晋の皇帝に忖度してんの
0180日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/25(火) 17:54:27.87
計 其 道里 當在 會稽東治 之東

は、前後に 其 道里を計れる主語が存在しない。
當在? 其を主語とした道里を示さないなら、
會稽東治 之東は海である。
文章が、改竄で壊れている。

復元が想像できるのは魏略の、倭使の奏上での太伯の後の削除で
(旧語 自謂 太伯之後 衆聞皆訝 以其遠絶 計 其 道里 當在 會稽東治 之東)
太伯の居た会稽から日本は遠すぎる。
その会稽から倭の道里は、当地洛陽から会稽の12000里を東するに等しい。
呉人太伯の後は、倭人にはなれないはず。
と言う一節。

改竄は、呉と戦争中の魏は倭人と同盟しないよね?
と言う、儒教的配慮かな? これ、イラネw みたいな?

正しく読むスレより、こっちの方が読めてる人多いね。
0181日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/25(火) 17:56:57.43
魏志倭人伝の方角記載は8方向まで。(北北東とかは無い)


会稽東治之東 九州全域が相当

会稽東治之北東 朝鮮半島が相当

会稽東治之南東 沖縄が相当

会稽東治之南 台湾が相当


以上。
0182日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/25(火) 18:18:13.28
>>181
文章しかない場合、そうかも知れない?
北北東って表現は何時から? と言う検証の問題。
でも、>>159 で誤爆の、漢書地理志には、方角が無い。

これは、地図が無ければ想定不能な文章なわけで
漢書、地理志には辺境への一月行の座標が有る地図が付帯した。
地図上では、平面のコンパス? 360度を表現できる。

遠征関連軍人や陳寿は、見ることが出来て、共有可能だった。
陳寿倭人伝によって、軍事機密の陸行一月は2千里と暴露されている。

当法廷によって、陳寿は、機密漏洩で死刑であるwww
って、晋も筆写奨励で、後に版本だけどな。
0183日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/25(火) 18:32:44.72
>>182
1世紀2世紀に絵地図なんて描きようがない。
しかも渡海不可能だった東シナ海を中心とした正確な絵地図を描くなど不可能。

絵地図がなければ成立しない夢物語では、
〇説を否定することも
〇説を擁護することもできない。

>>181
のごとく、北部九州邪馬台国は、だいたい会稽東治之東であるよ、
と記載されただけのこと。
0184日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/25(火) 18:59:35.81
だから、実際に伝承された
漢書地理志の文章を地図無しで理解できるか?
と言う話をしている。

自 日南 障塞 徐聞 合浦 船行 可 五月 有 都元國
又 船行 可 四月 有 邑盧沒國
又 船行 可 二十餘日 有 ェ離國 步行 可 十餘日 有 夫甘都盧國
自 夫甘都盧國 船行 可 二月餘 有 黄支國

民 俗 略 與 珠w 相類 其 州 廣大 戶口多 多異物 自 武帝 以來 皆 獻見
有 譯長 属黄門 與 應募者 俱 入海 巿 明珠 璧 流離 奇石 異物 齎 黄金 雜
而 往所 至 國 皆 稟食 為 耦 蠻夷 賈船 伝送致之 亦 利 交易
剽 殺人 又 苦逢風波 溺死 不者 数年来還 大珠 至 圍二寸以下

平帝 元始中 王莽 輔政 欲 燿威コ 厚 遺 黄支王 令 遣使 獻 生 犀牛

自 黄支船行 可 八月 到 皮宗 船行 可 八月 到 日南 象林界 云
黄支 之 南 有 已程不國 漢 之 譯使 自 此 還 矣

マレーシアだのベトナムだのフィリピンだのインドネシアだの?
グアムかオーストラリアかで、帰ったか知らんけど
中華の太平洋知識って、倭人伝でも

又有 侏儒國 在 其南 人長三四尺 去女王 四千餘里 又有 裸國 黒齒國 在 其東南 船行一年可至
小笠原かよ? みたいに、凄いんだよwww
0185日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/25(火) 19:02:21.28
関係ないね。

魏志倭人伝の里程(市町村単位の距離)と、
日程(国家単位の移動日数)とは、理解できる。

その解答が、伊都。
0186日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/25(火) 19:19:26.79
帯方郡と、馬韓と弁辰韓と九州に里程は存在しない。
何を言ってるかわかるかな?

247年の張政は倭人船で伊都まで行ったから、
その行程を倭人に聞いた地名で点から点の里程で記録した。

240年の梯儁は、行軍で幕営と兵站である。
行軍にかかった日数は、里程と無関係である。

筆致の違う二人の行程の引用が
倭人伝の行程部分である。
0187日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/25(火) 19:23:30.89
張政や梯儁は日数の報告。

里程は既に何百年か楽浪郡〜伊都〜に来ていた楽浪人による測定。
あるいは独自の里を持っていたであろう燕人の亡命勢力による測定。
なぜなら里程一万二千里は後漢書に採用されているからである。
0188日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/25(火) 19:26:52.09
仮定が多いなぁ
0189日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/25(火) 19:28:56.06
仮定というより願望だな。それも詐欺に近いレベルの。
0190日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/25(火) 19:52:08.10
>>187
韓方可4千里で、歴韓国は4千里、
乍南乍東 到 其北岸 狗邪韓國 七千餘里
東に3千里である。

『到 』以降の後の『始』度 一海 で
帳政が、到と至を使い分けていたのは明白。
陳寿は、検隊隊の報告文そのままで引用した。

筆致が違うのは、陳寿は記録の引用に
和音〜漢字転用のような探検者の
和音〜漢字の記録を尊重したからである。

奴国王は難升米
都支国王は都市牛利
巳百支国王は伊聲耆掖邪拘
あたりまえだろw

陸行一月も同様に、陳寿に採用されているが?
陳寿と梯儁の共通認識は、一月行=2千里である。
0191日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/25(火) 19:55:33.31
>>190
韓方可4千里で、歴韓国は4千里、
乍南乍東 到 其北岸 狗邪韓國 七千餘里
まず南に、次いで東に、合計3千里である。

はい、いきなり間違いあるいは誤魔化し入れてるあんたは失格。
0192日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/25(火) 19:57:11.36
気持ちよく詐欺ってる途中で止められて逮捕w
0193日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/25(火) 19:59:51.73
>魏志倭人伝の方角記載は8方向まで。(北北東とかは無い)


>会稽東治之東 九州全域が相当

>会稽東治之北東 朝鮮半島が相当

>会稽東治之南東 沖縄が相当

>会稽東治之南 台湾が相当


なんだ。
北部九州邪馬台国でいいんじゃん。
0194日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/25(火) 20:13:43.38
>東に3千里である。

半島南西端〜南岸西部は韓で、東に3千里進むと倭領に至る。

>まず南に、次いで東に、合計3千里である。

半島西岸で韓は尽きて、倭領に至る。
そこから南西端〜南岸の倭領を3千里進むとくや韓に到着する。

バイアスってるかどうかの踏み絵だな。
0195日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/25(火) 21:32:15.28
会稽東治、または会稽東冶の東でも中国からは見えない。
見えもしないのに何故に○○の東と言うのか?
昔、会稽東治の港に西からやって来た人がいるからであって
0198日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/25(火) 23:27:43.66
郡から、歴韓国の南に4000里
+投馬国の海岸水行で東に3000里が
始度一海、渡海が始まるまでの、
合計、到7000里だろ?

わかる? 話にならない?
0199日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/26(水) 01:24:07.39
>>197
会稽の東は大海であって
地球儀でも無ければ
倭国の位地として意味をなさない。
文がおかしい。

倭国は、楽浪郡の東南大海
の向こうに在る。

あるいは、東夷伝序文の
東臨大海の日の出る処である。
0200日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/26(水) 01:36:15.44
「從郡至倭 循海岸水行 歴韓国」
帯方郡から倭に至るには、海岸沿いに航海して、韓を通り過ぎる。
(韓の南は倭に接しているのだから、韓を通り過ぎたら倭)

<韓が方可四千里だから、帯方郡から南に四千里進んだら倭>

「乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里」
(倭に入ってから)
南に進み、そして東に進むと、狗邪韓國に到着する。

<南に進んで、半島南西端を過ぎて東に進んで、狗邪韓國に到着するまでが三千余里>

>>194
0201日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/26(水) 01:43:18.30
中国側の陸続きの地理感にて、
>>193
>会稽東治之北東 朝鮮半島が相当
がわかっている。

>>1
里程にて楽浪郡帯方郡から、南に進んで、「そして東に進み」、狗邪韓國に到着。
そこから対馬海峡を南に渡海して、北部九州邪馬台国。
>倭人在帯方東南大海之中

とわかっているのだから、
朝鮮半島のだいたい南に倭があって、

>会稽東治之東 九州全域が相当
だな。

北部九州邪馬台国でなんの問題もない。
0202日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/26(水) 03:16:47.28
伊都国が首都って、首都とはどういう意味で使っているのか分からない
0203日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/26(水) 06:49:13.67
>>183
横だが
邪馬壹国の首都だから伊都なのかなと思った
イの都、伊都
ここから各地を監察するんじゃなかったっけ?
0205日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/26(水) 09:37:49.44
外交を担っていた伊都国は首都から二か月の距離
もしもし卑弥呼さん →二か月→ はいはい卑弥呼ですよ →二か月→
0208日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/26(水) 17:49:37.75
今 使 譯 所通 三十國 從 郡至倭
魏時に2回あった、郡使の報告によって30の国を知った。
それに拠ると、郡から倭に至るには、で、倭人伝は始まる。
この後、陳寿は、筆致の異なる二人の報告書を引用する。
和音を漢字にするなどで、記録者の使用文字、筆致に陳寿は、忠実である。

247年の張政は、到と至を使い分けているが、到伊都国迄しか行っていない。
倭人船に便乗であり、寄港地の地名を聞いてその里程を記録した。
行程の積算は、伊都国まで10500里である。 戸数には、有を使用した。

伊都には、女王に所属する王が皆往来していて、郡使張政は伊都に常駐した。
伊都に首都機能が有るというのは、ここから判断されたかナ? 
ただし、女王擁立の王の有る参問21国には名を連ねない。伊都国には王は無い。
日本で言うと、東京都ではなく、霞が関のような都市名なのだろう。王宮は江戸城?

240年の梯儁は金印と皇帝の詔書を卑弥呼に届けたので、女王の処都まで行っている。
南至 投馬國 水行二十日 可五萬餘戸 南至 邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月 可七萬餘戸
到 は使用せず、戸数には、可を使っている。
投馬國 は弁辰韓。邪馬壹國は九州上陸で入国していて、女王之所都までは、陸行一月 である。
中国史の謎、陸行一月は陳寿の解説、暴露だと、2千里である。

どちらが、首都かと言うと、判らない。
240年には、郡から12000里に女王卑弥呼は居た。
247年には、伊都迄の10500里の、上陸後500里以内で墓を見た。
この間で、移動した可能性も有るし、出身地に埋葬したのかもしれない。
0209日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/26(水) 18:18:23.05
> 伊都には、女王に所属する王が皆往来していて、

さらっと嘘紛れ込ますな
0210日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/26(水) 18:45:49.02
隋書の東西五か月行はどっからどこまでなのか
0211日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/26(水) 19:01:03.61
東南 陸行 五百里 到 伊都國 有千餘戸 官日 爾支 日 泄謨觚 柄渠觚
丗 有王 皆 統属女王國 郡使 往来 常所駐

陳寿が、嘘、書いてたら、
240年梯儁が参問した、次有列記21国の
邪馬台国=次有邪馬国の臺、と言う仮称女王国名は 無意味。
最初から、大和だと名乗れば良い。

漢字が無く、隣国程度しかない国に、自称国名なんて必要か?
卑弥呼:卑弥弓呼
の場合、筑前筑後? 肥前肥後あたりの分裂想定で
自称国名は 弥国で、呼は王。
弓は、狗奴国の狗 だと思うよ。
0212日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/26(水) 19:12:16.46
>>210
裴世清は、奈良の東山の向こうは毛人の土地。
と、聞いたらしい。 既に、尾張や武蔵も開拓してるのにね?
差別かな?

三月行は、概ね九州の南北、6千里。
五月行は瀬戸内海で奈良まで、海で至。東山が国境。
と言うのを、
600年の裴世清が、大和王朝の国域と判断した。
0213日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/26(水) 19:16:49.99
魏志にはなく隋書にはある筑紫国ができたのはもっと新しい時代のことだろう
つまり筑紫国がなかった古い時代にはそこはすべて肥国だったわけだ
魏志に書かれた北部沿岸の国々が全て消えてその代わりに
肥国のど真ん中を引き裂くようにデンと筑紫国が爆誕したのはなぜなのか
0214日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/26(水) 19:20:44.33
肥国が登場するのは記紀からだからまず筑紫国があってその周囲が肥国として一まとめにまとめられただけの可能性もある
0215日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/26(水) 19:26:01.00
ひとつにまとまっていないのがなんとも
0216日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/26(水) 19:29:44.52
>>212
失礼な。
毛人が開拓してたら駄目なのか?

紀伊半島がでかすぎたんだろうね。
銅鐸分布からして東の最前線は名古屋だと思うけど。
平地が少なくて外海を大回りしないといけないから、壁となって東の毛人が勢力を残せたんだろう。
0217日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/26(水) 19:31:47.73
卑弥呼時代は、軍事覇権は無く、点の集合国家。
大和朝廷なら、有力者の婚姻関係で、近隣に拡大する。

軍事警察は、自国内のツワモノ。 
紛争での戦争は、吾こそは、で始まる? 
タイマンじゃないと思うけどw

卑弥呼は単に謎の宗教で
筑紫地域を纏めてただけじゃないかな?

壺w てか、平原の鏡には、
大六さん以下、みんな騙された。
なんで、アマテラスが青銅器だよwww

大和朝廷は、卑弥呼と神功以降しか成立しない。
0218日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/26(水) 19:34:50.66
>卑弥呼時代は、軍事覇権は無く、点の集合国家。

祭祀型銅剣銅矛銅戈というものがあってだな。
0219日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/26(水) 20:57:04.82
九州には四つの顔があると言う
熊襲国 →建日別
豊国 → 豊日別
筑紫国 → 白日別
肥国 → 建日向日豊久士比泥別

肥国に一体何があったというんだ……
0220日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/27(木) 02:59:40.89
勢力争いに負けて周囲に押し出されたのでは?
奴国も伊都国に負けたから南の狗奴国と東の拘奴國にそれぞれ押し出されたんだろうし。
0221日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/27(木) 06:34:16.47
>>219
熊襲国 熊本
豊国 福岡県東部
筑紫国 福岡県西部
肥国 佐賀

だとすると、肥国が熊襲国を征服して、それぞれ肥前と肥後になった、のでは?
0222ネトウヨボクメツ タ イ!
垢版 |
2023/07/27(木) 09:53:05.50
シーボルトに伊能図が渡っただけで、江戸幕府が大騒ぎになるほど地図というのは重要な軍事機密だったからな。
古代から庶民の使う地図は行基図だった。
あれがお上が認めた下々が使っても政治的に安全なものだったという事だ。

正確な日本地理など外国施設に教えるわけなかろう。
それを知らぬというのは、どれだけ日本史いや世界史に疎いか自白しているようなものよ。

ネトウヨに九州説が多い理由は教養の差という事であろう。
0223日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/27(木) 10:00:21.04
>>222
邪馬台国は魏の冊封下
日本側が地図出さなくても魏の使者は自前で作る
方眼紙みたいなものを使って方位と距離は測っていた
0225日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/27(木) 13:33:01.46
>>115
神夏磯姫が八咫鏡を持っていたというなら
一大卒は、景行ってことかな? 
246年だけど? どーせ記紀に時系列は求められない。

卑弥呼が九州防衛で神夏磯姫状態だったことは想定できる。
真面目に評価すると、外患誘致って気もするけど?

卑弥呼は世襲王じゃないから、多分これで終るけど、
筑紫の君ってのは何時頃から頭角を現したのかな?
田油津姫とかのあとだよね。

平原以外で、八咫鏡なんて出ないから、
卑弥呼がアマテラスとかいう話になるんでしょ?
いっぱい作ってるけど。 宗教の壺だなwww
0226日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/27(木) 17:12:12.52
歴史の話。

平原の、卑弥呼の墓、平原から八咫鏡が出てた。らしい。
アマテラスがニニギに青銅器を与えるのは、時空が違うが
記紀では九州の神夏磯姫が景行に渡している。

それって180年位までで、
九州の工房で卑弥呼が作った鏡の一つなのか?

同笵鏡があって、当たり前の日本鏡は
もちろん、前漢鏡の踏み返しが有っても良いが、
100年以降の生産じゃないだろうか?
鏡の流行の編年は、墓の編年には使えない。

と言うよりも、平原自体が古墳時代でもないのに
鏡が威信材になるというのは、信仰的に意味が違う。破鏡も。
卑弥呼独自の、宗教性が大型鏡を作ったとしか考えられない。
銅鏡の世界とは違うカルト指導者が卑弥呼だった。

平原墳墓の御柱は太陽信仰を想起させるが、
そんなもんで、大乱の九州21国がまとまるのだろうか?
0227日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/27(木) 17:31:02.09
日本書紀は紀年延長されてるから邪馬台国時代の歴史を語る際の根拠として使うのは適当ではない
0228日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/27(木) 17:48:24.51
記紀の話には普通参加しないんだけど
九州の景行期、神夏磯姫は、八咫鏡を朝廷にもたらした人物。

それが、平原の八咫鏡と同笵鏡かは、調べられるよね?
学校で歴史を学ぶ、よゐこのみんなは、陛下にお願いしましょう。

おまえら学者とか、論文がどうたらとかは、
5ちゃんの評価と、関係ないから。
自分たちの方法論で、勝手にやってろよwww

土木作業に日当は出しても、学者への予算が税金ってのは
邪馬台国論争関連では嫌だな。 
寺島君ももう、判ってんじゃネ。
0229日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/27(木) 18:36:12.52
誰も書かないようだが
志賀島に埋まってた金印は、伊都国の隣の奴国が貰いに行っていない。
0230日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/28(金) 18:13:55.75
金印は、外交文書を書ける=刀子・硯・案(文机)の出土、海外との交流=漢鏡・楽浪土器・鉄器青銅器の出土量、などと連動している。また金印は、漢倭の二国間関係だけでなく、匈奴や高句麗など他のアジア各国との国際関係の中で漢にとって倭が傑出した存在であるから与えられるものであり、よって金印を貰ったのは一世紀当時に日本列島だけでなくアジア全体視点でも傑出した地域である必要がある。
0231日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/28(金) 18:48:30.36
100余国あるうちの30国をまとめる大倭王なので
0232日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/28(金) 19:23:06.07
卑弥呼の結論として魏の征服に屈するか?
本州と組んで対馬防衛で行くかは、日本史の別れめ。
一大卒は、九州防衛に成功している、と見えるだろ?

記紀を無視した
出雲の海神族の歴史とかのフォローが無いと
日本の古代の歴史は、成立しないと思うぞ?
0234日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/28(金) 21:40:34.03
卑弥呼が平原に葬られた理由はわかる
生前君臨した場所と違うことも想像できる
なんなら死後すぐに一時的に葬られたのがあの吉野ヶ里遺跡の石棺かもしれん
0235日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/28(金) 23:13:48.43
>なんなら死後すぐに一時的に葬られたのがあの吉野ヶ里遺跡の石棺かもしれん

え?w
0237日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/28(金) 23:56:19.87
>>236
それ東の倭種でしょ。

魏志「倭人」伝には書いてない。
0238日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/29(土) 08:10:41.76
半島の他の諸国は帯方郡に攻められ滅ぼされた
時太守弓遵楽浪太守劉茂興兵伐之 遵戦死 二郡遂滅韓
0240日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/29(土) 08:36:21.61
韓の総王辰王が殺されたのと卑弥呼が死んだのと関連があるんだよ
0242日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/29(土) 17:23:08.24
張政の旅誌は行きは卑弥呼難升米派のお迎え接待でウキウキで詳しく書かれてたのが、
帰りは男王台与派で監視されながらで行きの記録を隠し持ち帰るので精一杯だったんだな。
0243日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/29(土) 17:29:36.77
二郡との戦争で韓ついに滅ぶだから当然辰王は死んだだろう
0245日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/29(土) 17:56:46.68
死んだ方が多いだろう
0247糖質ですが ◆/dRpTBnZTC3y
垢版 |
2023/07/29(土) 18:21:36.45
【これが下剋上だ!!】
尾張・美濃に涼しさをもたらした徳川家康に民は喝采を浴びせ、
「信長を切り捨てた」のである。
チャイナマネーの恐ろしさについて。
涼しくなりますよ。 。
https://gbg01307ko.livedoor.blog/archives/20980005.html#more
0248日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/29(土) 18:45:48.79
なんで、辰韓王だよ? 韓伝嫁。
何にも知らないで、あーだ、こーだか?

遼東の箕氏朝鮮王が衛満に押し出されて海を渡り馬韓で王を名のった。
箕氏じゃなくて、多分、既に馬氏だったんだと思うけど?
中国戦乱遺民を 馬韓が入れた辰韓に王は無く、
何故か馬韓人が馬韓内で辰韓を治めた。

馬韓王は魏の2郡によって、245~6年の制圧戦で滅びた。
以降、魏は臣智以下の官を置いて、馬韓辰韓を直轄した。

この時、難升米に、詔賜、黄幢、つまり檄があり
倭人が、唯一三国志に関与した。
 
九州は、魏帝の檄には答えず、九州と本州は対魏防衛、韓復興に向かい、
百済新羅の建国の礎となる、富国強兵政策、古墳時代に突入した。

ミスリード目的の現代語訳読んで、畿内九州の邪馬台国論争じゃ、
永遠に東夷の古代史は見えないんじゃないか?

もっと困ったことに、伊都国王ってのも、居ないんだがw
0249日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/29(土) 18:47:59.05
滅んだその地を支配したのは誰だ?
辰韓は楽浪郡が九州したようだが?
0250日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/29(土) 19:02:13.60
もともとの領主を、大は臣智、以下なんとかで任官しただけで
処刑されて滅んだのは、二軍に対抗し得る軍事、警察力が有った
領主の馬韓王だった一族、と 其の腹心だけ。
 
未開地故に、税や兵役の管理者は送っても、
二郡に、韓直接統治の覇権能力は無い。
だから不明な背後が大きすぎる
倭人域には着手できていない。

東夷伝序文
東臨 大海 長老説 有異面之人 近 日之所出
遂 周觀 諸國 采 其 法俗 小大區別 各有 名號 可得 詳紀
雖 夷狄之邦 而 俎豆之象 存 中國 失 禮 求之 四夷 猶信
故 撰次 其 國列 其 同異 以 接前史 之 所未備 焉
0251日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/29(土) 20:05:02.84
やっぱ九州説だな。どんな質問にもしっかり答えられる。
0252日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/29(土) 20:51:56.22
何とか説、と言うのが登場するのが、意味不明で
三国志の作者、陳寿は、倭人伝をこう書いた。

金印の倭王は、九州島の上で北部2千里
参問 倭地 絶在 海中 洲島之上 或絶 或連 周旋可 五千餘里
大倭の一部でしかない。 

小倭邪馬台国と魏の国交は247年で終わる。
こんなつまらない、倭人伝論争の終結は、笑えるwww
纏向や、平原に、草生えるだろ?
0253日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/30(日) 07:16:53.73
畿内説の大先生も卑弥呼は伊都平原遺跡一族の出身と言ってるらしいね。
誰がどう見ても倭人伝重要地点である伊都國そして考古学的重要遺跡である平原女王墓を無視できないから。
無視あるいは過小評価してたら日本はもちろん世界での考古学的比較研究で整合性が取れなくなるから当たり前といえば当たり前だが。

卑弥呼は共立されたとあるのでじゃあ共立勢力の中でどこがトップだったかということになると
三雲井原大王墓が主導して平原女王卑弥呼が共立されたと考えるのが最も自然。
魏志倭人伝の先の七八十年男王の記述とも整合性が取れる。
東の倭種が四隅突出や巨大土盛り墓などでこれも整合性が取れる。
北部九州邪馬台国の首都伊都國で完結している。

畿内説の大先生の場合は三雲井原大王ならびに平原女王に匹敵する王墓を呈示しない限り
平原女王墓勢力が主導してその後に卑弥呼が共立されたと主張していることになる。
その場合は前方後円墳の形すらも実は平原女王墓が原型だった可能性
つまり共通の周濠で囲まれた二つの冢という形
であったことを畿内説の大先生が認めているのと同義になってくる。
それが悔しいので圧倒的副葬品群に勝てないから土盛り勝負で
気が狂ったように土盛りの大きさを連呼するがそうなると
魏使が日本独特の巨大土盛りの完成品が群れなす光景を描写していないことや
後円部だけの大きさをチェリーピックすることも完成品が大量にあるし
土盛りの大きさで勝負するなら全長で勝負しろよと
矛盾だらけになって爆散霧消する。
0254日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/30(日) 08:48:58.27
卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人

卑弥呼が死んだのを受けて、冢を2つも作った。

周濠の長径が百余歩の墓域に奴婢百余人を土壙墓殉葬した。
0255日本@名無史さん
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2023/07/30(日) 09:23:15.02
共立について中国史書で調べれると
正統な王位継承者ではない者をその国の有力者や国民が立てた場合に使われる語。
出自が怪しい場合も含まれるし王族王子であっても弟王子のが優秀だから兄王子を飛び抜かして大臣達が弟王子を共立したとかもある。
全く新しい国に全く無関係の王を立てることを共立と表現した例はそうとも取れる例が1例あるだけだから
共立の使用例から考えると卑弥呼の場合は基本的には七八十年男王の倭国という既存の枠組みの中で既存の倭国王というものに王位継承者では無いはずの卑弥呼が推されて就任したということになる。

旧百余国の百余の王が卑弥呼を共立して倭国王にまとまったのではなく
旧百余国の百余の王を束ねたのは七八十年男王の最初の倭国王誕生時だよ。
当然107年倭国王師升を含んで1世紀末から2世紀初頭には成立した国だね倭国は。
だから北部九州だけ。

既に成立している倭国の中で倭国乱がおきて倭国乱を収めるために
本来は倭国王の第一継承者であった伊都国王を差し置いて
第一継承者では無い卑弥呼が共立されたという意味になる。
伊都国王が幼若とか病気とか勢力関係図での都合などの理由で。

だから魏志倭人伝の景初年間前後の時期については
伊都國には伊都国王がいたで良くて
倭国王は本来は伊都国王がなるべきだったのが第一継承者でなかった卑弥呼が共立されて
卑弥呼時代の間に次の伊都国王が就任成人していて卑弥呼時代には統属されていて
卑弥呼死去と共に本来の第一継承者である伊都国王が共立ではなく正統継承者として次の倭国王男王となった。
けども卑弥呼は長期政権だったからその勢力がごねて
伊都国王の血統であり卑弥呼の親族でもある台与がこれも共立だろう。
0256日本@名無史さん
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2023/07/30(日) 09:51:09.14
>>255
2世紀中旬の倭国乱の前に70-80年の男王だから、
倭国の成立は1世紀後半だよ。

三雲井原遺跡に圧倒的な王墓があるから、
内行花文鏡と方格規矩鏡の後漢鏡が倭国王の威信材であることは確定。
北部九州倭国だね。

九州以外の説が倭国に含まれる方法は祭祀型銅戈や巴形銅器だね。
これを威信材として名古屋までは王がいたと主張するか。
だが逆に東の倭種=属領だったと言われる根拠を作ってしまう諸刃の剣。

>>254
平原遺跡の調査図の土壙墓からすると、
まだ発掘されてない周濠部分、特に2号墓周囲にもっと土壙墓がある可能性が一つと、

奴婢を殉葬するのに、土壙墓一つに奴婢一人ではなく、
土壙墓一つに奴婢数人ずつを殉葬させたでもいいわけだから、
平原遺跡で説明がついていいね。
0257日本@名無史さん
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2023/07/30(日) 09:55:06.48
漢のときから倭の総王は奴国王、帯方郡から1200里の女王国とは奴国だから卑弥呼も奴国王だよ、だから金印を貰えるんだ
0259日本@名無史さん
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2023/07/30(日) 10:31:36.05
奴国は人口は多いけど王墓が無いんだよね。
須玖岡本D地点が単発でそれも三雲南小路遺跡の親族だし。

魏志倭人伝の行政でも、
伊都に爾支と副の泄謨觚と柄渠觚
奴国は兕馬觚
だから伊都国の支配下に置かれていたことがわかる。

伊都国がワシントンで、奴国がニューヨークのような関係だったのだろう。

卑弥呼の女王国は奴国だろうけど卑弥呼は奴国王家じゃなくて
伊都国王家筋の奴国府知事だったのだろう。
兕馬觚出身、ウマシマジ。
0261日本@名無史さん
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2023/07/30(日) 10:57:24.95
>>255
北部九州倭国つまり北部九州邪馬台国の王に卑弥呼は共立されてるから
共立の使用例からすると可能性としては倭国王統伊都国王統である可能性が最も高いが倭国王統と全然関係ない一般庶民である可能性もゼロではない。
だが血筋まで違う場合は他の使用例からしてもそれを示唆する説明が魏志倭人伝に入るはずなので
魏志倭人伝に何も書かれていないならやはり卑弥呼は倭国王統伊都国王統ということになる。

もう一つの可能性としては倭国王が伊都国王と金印奴国王との交互持ち回り統一王である可能性がある。
だがこれも否定される。

後漢書にて記載されている57年遣使が魏志倭人伝では明記されていない。
漢時有朝見者とぼかされていることから卑弥呼そして倭国は57年金印奴国王とは別系統であることが示唆されているし
また倭国王伊都国王系ではないのだから当然漢時有朝見者の候補は魏志倭人伝における登場人物では狗奴国王がこれに該当することになる。

魏志倭人伝では南に狗奴国これは免田式土器の分布域が相当すると
後漢書倭伝では東に拘奴國これは四隅突出型墳丘墓の分布域が相当するが
存在している。
つまり卑弥呼の邪馬台国の周囲に同時代に奴国を冠する国家が存在しているのだから
卑弥呼の国が奴国を冠しないということからも卑弥呼は伊都国王統であることがわかる。
0262日本@名無史さん
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2023/07/30(日) 12:26:09.47
後漢書
「凡百餘國 自武帝滅朝鮮 使驛通於漢者三十許國 國皆稱王世世傳統」

旧百余国あったけど、
前漢の武帝が楽浪郡を設置した前108年からは30国だよ。

旧百余国の70国は前1世紀に淘汰吸収され、
その後は30国がそれぞれ王を自称して伝世していた。
その中の1国が奴国で、57年金印。

倭国乱が桓霊間だから146-189で、その前に男王70-80年だから、
倭国の成立が最古でも146-80=66年以降となる。

倭国成立時は30国で、奴国王家その他王家は廃されて、
66年以降に伊都国王家に一本化して全体を統治するのが倭国大王だね。

対海國、一大國、末盧國、伊都國、奴國、不彌國、斯馬國、已百支國、伊邪國、都支國、
彌奴國、好古都國、不呼國、姐奴國、対蘇國、蘇奴國、呼邑國、華奴蘇奴國、鬼國、爲吾國、
鬼奴國、邪馬國、躬臣國、巴利國、支惟國、烏奴國
で26国。

対馬は対海國とおそらく対馬國の2国あったのだろうし、
最後の次有奴國は、次有「有奴國」の誤転載である可能性もある。

そうなると、倭国を構成する30国のうち、邪馬台国と狗奴国で占領したり占領しかえしたりして、
魏代においては26-28国が卑弥呼邪馬台国側。

南の狗奴国はわずか2-4国分しかなく、
うち一つが狗古智の卑狗が知事の、おそらく菊地市かな。
0263日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/30(日) 15:14:50.40
wikipediaによると、
国王
元来、漢字の「王」は、殷・周王朝の君主の称号として使われた。周王は天下(世界)を治め、諸侯は周の封建制の下で国(領地)を治め「公」を称した。春秋時代に周が衰微し、有力諸侯の群雄割拠の時代になっても周王のみが王を名乗った。

戦国時代になると、各国の君主が「王」を名乗った。以降は、「王」はもはや天下ではなく、領地(国)を治める領主と認識されるようになった。そのため、中華世界を統一した秦王の政は「王」号を廃し「皇帝」号を作り自ら称することになった(始皇帝)。
0264日本@名無史さん
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2023/07/30(日) 17:19:21.04
まとめると、
旧百余国は前108年まで。前108年からは30国。

30国の王家の一つが57年金印奴国王。

伊都国王家が他の30国を従えて成立したのが倭国でその成立は66年以降。
考古学的にも文献学的にも伊都国王家が倭国の主。

共立とは恣意的に選ぶ30国の王達が卑弥呼を共立したというのは間違いで、

「1世紀後半に成立した倭国の王統」において、
王位継承順では王になる順番ではなかった、伊都国王家の卑弥呼が、
「順番を飛ばして倭国王に選ばれた」ことが共立の本来の意味である。

伊都国王家筋の卑弥呼が、奴国の地方自治体の長=女王国の知事であったのが、
倭国乱を収めて、南の狗奴国と倭国一丸となって相対するために、
共立されて倭国王になった。
0265日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/30(日) 23:43:36.90
一大率が刺史のようなもんなら伊都は監察される側だよね
寧ろ倭国大乱のきっかけ作ったせいで、暴れたり勝手に漢や公孫とやり取りしないように監視されてたんじゃないの?
0266日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/31(月) 00:32:47.93
REVELATION
資金源/コング
フロント/天下り/右翼思想
フィクサー/集団ストーカー
汚職/集団ストーカー/盗聴/盗撮/揉み消し
揉み消し加担
0267日本@名無史さん
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2023/07/31(月) 08:27:21.21
九州北岸の奴国が倭国の極南界で、女王国以北に置いた大率が伊都国に居る。
方位が変。
0268日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/31(月) 08:29:35.43
>>265
そうだね。
倭国乱があったことからも、倭国(邪馬台国)の内部に、少なくとも2つ以上の派閥があって派閥争いがあったのだね。

卑弥呼は共立された=本来の王位継承順を抜かして倭国王になった、のだから、
奴国女王国の卑弥呼派閥、と、
伊都国王=本来の王位継承一の派閥、と、があったはず。
他にもあったかもしれん。

よって、卑弥呼が共立されたばかりの2世紀後半当時の姿は、
奴国女王国に分家卑弥呼女王。
伊都国に本家伊都国王。

2世紀後半の倭国王卑弥呼の所都=奴国女王国で、
女王国以北、つまり伊都国王のいる「伊都国ならびに対馬海峡を監察」するために、
伊都国に置かれたのが大率。
あくまでも北部九州倭国内での派閥争い。

大率が先に伊都国入りして対立派閥である伊都国王を監察し、
まさに刺史の如く、
対馬海峡の行政権をも奪って安全性を確保してから、
倭国女王卑弥呼が後から伊都国へ移動してきた。

南の狗奴国と戦争中だから、軍事防御上より安全かつ、
対馬海峡外交もしやすい伊都国へ移動して、
倭国王卑弥呼の所都=伊都国西部(帯方郡から水行30日+陸行1日)となったのだな。
0269日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/31(月) 08:55:42.60
倭国大乱で最後まで折り合えなかったのは狗奴国の卑弥弓呼
卑弥呼在任中はずっと和すことができなかった
後年、魏の介入があって台与が立てられた時にようやく和したので
ついに国中が定まった
0272日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/31(月) 11:15:56.16
>>268
265だけど、邪馬台国は九州って思ってるけど、その首都が伊都とは思ってないわ
伊都 奴 末盧 不彌 投馬は全部邪馬台の北側にあって、奴は南にも領土持ってたと思ってる
南の奴は師升時代には大きかったのが倭国大乱で分割・分離したとかそんなもんじゃないかなって
狗奴は南の奴の更に分裂した国で案外 奴の正当な王権だったとかどうだろう
その正統 奴への対抗手段が邪馬台連合だった、と

最終的に狗奴が南の奴を食った(卑弥呼が死んで混乱を付かれて乱れた)後に台与立てて邪馬台が調停して奴の内乱が終わった
その後国力がある程度回復したところで邪馬台連合として目先を九州変えて東に攻め上る歴史が始まる、みたいな
0274日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/31(月) 18:05:38.17
>>127
壱岐対馬は食料を外部から運び込んでたんだよね。

じゃあ北部九州から供給していたかというと、
奴国の遺跡だって余剰スペースなしで住居や倉庫やでびっしり埋め尽くされてる。
そこから筑紫野市そして久留米朝倉に抜けても住居や各種工房がみっちり満載。

一体全体彼らの食糧はどうしていたの?
吉野ケ里遺跡とか熊本とかで稲作?
0275日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/31(月) 18:56:26.69
点在する荘園状態で開拓して徴税、警察軍事権を確保すればそれは王であって、
邪馬台国は、21国が卑弥呼と言う宗教王を共立した、って書いてあるのではないかな?

考古学は、桃の種は何年だけで、日本古代史の発展過程を、知らんのか?
卑弥呼の墓は、古墳ではない。

狗奴国との不和が、経済なのか宗教なのかも判らないが、
多分、軍事大国の奴国ではなく、卑弥呼の城が先頭に立つなら宗教だろ?

中国三国志や、戦国時代のような、面で軍事覇権のような状況には、
日本はまだ、薩摩藩のような範囲では、地域的にですら、なって無いぞ?

500年以降で、筑紫の君が卑弥呼の後見政権だったとしても、
それまで、中央政府の支配下だった、とは言えない。
0276日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/31(月) 19:09:30.95
化学的に考えてみなよ。
弥生時代の福岡県なんて住居でびっちり埋まってて、
七万戸の勢いで考古学的裏付けがついてんのに、
それを食わせるだけの水田はどこにあった?
0277日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/31(月) 19:10:43.67
>>273
方保田東原遺跡もバル。
巴形銅器があるから倭国兵がいた。
0278日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/31(月) 19:27:24.76
239年公孫氏滅亡。 246年の韓王朝滅亡で
日本は、卑弥呼の対魏外交を改め、富国強兵政策に転換した。

日本海ルート諸国は、BC200から青銅輸入で、
シンパだった、公孫氏と韓王朝が消えた。
当然の方針転換である。

卑弥呼は、245年の韓制圧戦での檄によって
日本につくか、魏につくかの回答を迫られた。
帯方郡に、援軍を派遣しなかったが、247年に国内戦理由の言い訳をした。

倭では、対馬で魏晋海軍に対抗できないのは当然だが、
まず、牛馬による交通や戦術が必要である。

これは、313年の高句麗による韓四郡追討を待ち、
移民も含む、高句麗人の牛馬輸送技術により成立した。

400年までに、甲斐、信州、武蔵、上州には、
前方後円墳以下、高句麗葺石墓の御牧が広がる。

↑これ、馬の話だけど? 日本古代史の最重要概念だよ。
まあ、古代半島国、百済新羅が日本の後援で成立した事実は
朝鮮併合の歴史との忖度で、話にならない。
と言うのは、想像できる。 

根拠を話しちゃったけど、妄想だよなwww
0279日本@名無史さん
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2023/07/31(月) 19:35:43.06
250年から、350年までの日本王が
日本古代史で、最も重要な仕事をしている。

記紀は、これを、隠蔽である。 古墳の焚書は700年だが、
廃仏稀釈までやってのけた明治政府は、記紀も改竄したか?
妄想なんだが・・・
0280日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/01(火) 08:09:23.65
>>272
驚いたな。いまだに不彌国から先へさまよってるのか。
個人的に思うのは自由だけど、特に他の有力候補を挙げられないのなら、
このスレで議論する以上は、日程「魏代の女王之所都」は伊都だね。

里程がわざわざ不彌国まであるのは
「後漢代の女王之所都」が不彌国だったからだろう。
考古学的に考えると、奴国領主の治所は、
・須玖遺跡  那珂川上流の高級住宅地、須玖岡本D地点
・安徳台遺跡 貝輪43甕棺墓
・雀居遺跡 奴国王時代の居館跡
などの候補があり、
その時々の情勢によってこれらの地点が選ばれたのだろうね。
いずれも高台で一般人居住区とは区別されている。

前108年に30国の王国。
金印奴国王とリンクするものとしては、中広形銅矛だね。
伊都国に入れず、南へ南へと進んで鹿児島まで到達している。
「倭國之極南界也」
0281日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/01(火) 08:45:21.89
卑弥呼は女王で卑弥呼は女王国を治めていたのだから、
宗像や宮地嶽など女王の多い豊国の系統だろうし、
平原遺跡は方形周溝墓で豊国の城野遺跡とも関りがあるだろうしで、
奴国と豊国に挟まれた不彌国が「後漢代の女王之所都」だったと考えられる。

「有一女子名曰卑彌呼 年長不嫁事鬼神道能以妖惑衆 於是共立為王
 侍婢千人 少有見者 唯有男子一人給飲食傳辭語
 居處宮室樓觀城柵皆持兵守衛 法俗厳峻」
後漢書にても卑弥呼宮殿の記載があり、これは不彌国時代の宮殿を示していることになる。
香椎宮もしくは福岡空港の下だろう。

57年金印についても考古学的に付随するデータは出揃っているわけで、
硯、刀子は北部九州に広く分布。
そして雀居遺跡からは使用されていた案(文机)が出土している。
奴国王が木簡を並べて外交文書を作成した案だろう。

この案はポータブルの組み立て式。
つまり奴国王は移動時に筆記用具を携帯していた。
日誌をつけていた可能性が高くなり、
その発言が妙に細かく記録に残っている古代人物がその候補となるわけだな。
0282日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/01(火) 09:22:43.56
伊都国を含めて分布し始めるのが、祭祀型銅戈と巴形銅器。
当たり前だが軍事力を背景に統一が進んだことを示している。
奴国王は滅ぼされて、
伊都の爾支が都知事、副知事が泄謨觚と柄渠觚
奴国は兕馬觚で府知事だね。

〇奴国は、金印奴国が南に細長く勢力拡大していたので、
南方部分を細かく分けて卑狗を派遣したということになる。
考古学的には中広形銅矛分布域の南方埋納各地で考えればいい。

祭祀型銅戈の次に広形銅矛がくるので、奴国勢力が復権したということ。
そうなると瀬戸内交易圏が銅戈勢力と銅矛勢力で奪い合いになる。
つまり大倭の争奪戦。
0283日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/01(火) 10:10:22.65
>>280
議論する気もないが伊都が首都ではなかったろうってだけ

スマンがここの日本語がわからん
魏志倭人伝じゃないんだから行間抜かさずに補完して?

「個人的に思うのは自由だけど、特に他の有力候補を挙げられないのなら、
このスレで議論する以上は、日程「魏代の女王之所都」は伊都だね。」

不彌國が後漢時代の~も分からん
0285日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/01(火) 13:53:26.97
247年に常駐した帳政による、伊都国についての説明

11 東南 陸行 五百里 到 伊都國 有千餘戸 官日 爾支 日 泄謨觚 柄渠觚
12  丗有王皆統属女王國 郡使 往来 常所駐
13  東南 至奴國 百里 官日 兕馬觚 副日 卑奴母離 有二萬餘戸
14  東行 至不彌國 百里 官日 多模 副日 卑奴母離 有千餘家
至 末盧國で、九州島上陸後、東南徒歩500里で、伊都国に到達した。1000戸有る。
女王に所属する王は全て、伊都を往来し、郡使帳政は伊都に常駐した。
東南100里に至奴國が有り有20000戸、東に100里行けば不彌國、1000戸という立地である。

47 使 大倭 監之 自女王國 以北特置 一大率 檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於 國中有 如刺史
48 王 遣使 詣 京都 帶方郡 諸韓國 及 郡使 倭國 皆 臨津 捜露 傳送文書 賜遺之物 詣 女王 不得差錯
49 下戸 與 大人 相逢道路 逡巡入草 傳辞説事 或蹲或跪 兩手據地 為之恭敬 對應 聲曰 噫比 如然諾
郡使張政は大倭を見た。 女王国に以北について一大率(軍隊)と見られる檢察機関が置かれ
女王諸国は皆、伊都国に常駐する、この組織を恐れていた。中国に於ける刺史のようなものである。
女王諸国の王が帯方郡や韓諸国に使いする時や洛陽に上る時、行程の使いで郡使が倭国に来た時でも、
傳送文書や女王への賜遺之物ですら全て暴かれ検閲を受け、例外は無い。
※この組織の者の身分については、倭国の風俗に有った上下関係とは違い、尊大な様子が有る。

伊都国と言う国に王が有る、とは、どこにも書いていない。
伊都国=古代倭国首都論は、ミスリード目的のご都合だけの現代語訳の賜物なのである。

大倭とは何か。
54 女王國 東渡海 千餘里 復有國 皆倭種
55 又有 侏儒國 在 其南 人長三四尺 去女王 四千餘里 又有 裸國 黒齒國 在 其東南 船行一年可至
56 参問 倭地 絶在 海中 洲島之上 或絶 或連 周旋可 五千餘里
※陳寿は、日本列島認識の中で、女王国が、九州島上の北部2千里でしかなく、
 240年に梯儁が参問し漢字にした次有21国を周旋しても五千餘里の小国だったと説明した。

東夷伝序文 に有る
遂 周觀 諸國 采 其 法俗 小大區別 各有 名號 可得 詳紀
この、小大區別に、大倭=含む東渡海の本州国 と 小倭=女王国 の大小区別も含むはずである。
0286日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/01(火) 18:17:16.61
伊都は、末盧國の南東500里だが、末盧國を糸島半島芥屋浜としても
平原の糸島市では、近すぎる。吉武高木付近の山城を想定すべきだと思う。

247年、倭人船に同乗していた倭人、卑奴母離=奴国の家臣で名が母離
に案内された帳政は、伊都一大率まで500里の行程中に卑弥呼の墓を見た。

240年に梯儁が参問した邪馬台国21国に伊都国は無いのであって、
日本防衛、韓王朝復興の富国強兵政策で連合はしているが、
一大卒は奴国を監視できる山城に布陣したと見るべきである。

東側の不彌國と奴國は国境の集落が、張政にも100里先に見えていたと思う。
240年の金印と皇帝の奉詔書を一大卒が開封するなら
初探検の馬韓西岸を行軍した建中校尉梯儁は戦争を始める。

軍隊の大きさを1000戸と言うのは微妙だが?
梯儁の240年に、伊都の一大卒は無かった。

いずれにせよ、公孫氏奇襲の魏の新鋭船での行軍で入国した梯儁のように、
自前の軍隊と自由な足が無い張政の情報は、倭人がどう説明したか? 
だけなのである。
0287日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/02(水) 06:11:18.93
里程と日程は文体が異なり別々の情報源から採用されている。

里程は後漢代楽浪郡史の情報である。
「後漢代の女王之所都」は不彌国千余家。

日程は魏代張政の情報である。
「魏代の女王之所都」は伊都國千余戸。

「木簡の時代」なので現代地図のような絵画地図を描こうとしているのではないことに注意が必要。
里程も日程もいずれも楽浪帯方郡から倭国へ向かう動線の動的描写となっている。
倭国へ向かう動線であり、その移動季節は夏。
「羅針盤のない時代」なので移動開始時の方角基準は真夏の太陽の日の出方角であり、
全ての方角がやや南寄りになる。
郡使が楽浪帯方郡から倭国へ移動するのは夏なので、行きの動線を示すにはこれでいいのである。

末蘆國から伊都國への方角が東南なのは、里程の目的地が不彌国だから。

準構造船で末蘆國の東端である筑前深江に至り上陸。
福岡県道49号線沿いに移動して伊都國にある大使館である三雲遺跡楽浪土器集中出土域へ宿泊。
49号線沿いに<夏の太陽方角だと南東(実方向は東)>へ移動して伊都國の中心部であった吉武遺跡に到着。
49号線沿いに<夏の太陽方角だと南東(実方向は東)>へ移動して奴國の高級住宅地である須玖遺跡へ至る。
奴國須玖遺跡へ至ってすぐ<夏の太陽方角だと東(実方向は北東)>へ移動して
不彌国の「後漢代の女王之所都」である雀居遺跡へ至る。

文献も考古学も整合して説明されている。
0289日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/02(水) 08:39:53.88
ごめん
整合してる文献のリンク張って?
0290日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/02(水) 17:05:08.87
文献は、正しく読まないと整合しないでしょ? 
倭人伝行程部分は、

今 使 譯 所通 三十國 從 郡至倭
魏時、二回の遣使による報告によって30国について知った。
その報告によると、倭に至るには・・・ で、
1、247年張政による、倭人船の寄港地間の里程を記した、到伊都国までの報告の引用。
2、240年卑弥呼の王宮まで金印を届けた梯儁による、邪馬台国についての報告の引用。
この筆致の異なる、二人の報告書の引用が記されている。
和音を漢字にした単語が多いので、陳寿の引用では二人の筆致の違いが明確に出ている。

張政は行程で、到=到達点と至=経由点他、を使い分け、戸数は有を使っている。
地名は、寄港地なので、点から点での里程を記した。 伊都迄合計10500里、である。

梯儁は点から点での行程ではなく、面の国名を記しているので里程が示せない。戸数は可を使用。
郡から馬韓を過ぎて投馬国へが水行20日弁辰韓5万戸。 邪馬台国までが水行10日。九州上陸。
女王の処都までが、陸行一月である。 陳寿の説明は、これが12000里である。
陸行1月は2000里、と言うのが、陳寿と梯儁の共通認識だった、という事。
行程で、点の地点と面の国名は絶対に直列行程には出来ない。 段落が存在する。

邪馬台国は梯儁が参問し漢字にした次有21国で構成され女王国の境界は尽き南に狗奴国。 
梯儁は和音を参問して、漢字にした次有邪馬国に有った、卑弥呼の臺まで行った。
0291日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/02(水) 18:05:16.46
なんで投馬国のとこで弁辰韓が出てくるの?
郡から船で行かないだろ、陸続きで東に行くだけなのに
長文の上に分かりにくいな
0292日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/02(水) 18:14:16.62
陳寿は >>285 の大倭について、
詳しく知らないし、書きたくなかった。

使えないw 九州の卑弥呼を倭王とした皇帝の失政に繋がるし、
魏時2回の東夷探検は、魏時の功績として削除したくなかったのである。
倭人伝に、ご都合主義で読み替え得る曖昧な記述が多いのは、
これをはっきり言わない、その必要が有ったのである。

東夷伝序文、
東臨 大海 長老説 有異面之人 近 日之所出
遂 周觀 諸國 采 其 法俗 小大區別 各有 名號 可得 詳紀
雖 夷狄之邦 而 俎豆之象 存 中國 失 禮 求之 四夷 猶信
故 撰次 其 國列 其 同異 以 接前史 之 所未備 焉

評曰
史漢著 朝鮮両越 東京撰 録西羌
魏世 匈奴遂衰 更有 烏丸鮮卑 爰及 東夷
使 譯 時通 記述隨事 豈常也哉

陳寿が、倭人伝を残したのは、このためである。
と、言い訳している。
0293日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/02(水) 18:33:00.65
本題に戻るが、卑弥呼の墓は
帳政が歩いた九州上陸から500里の間で見た。
最大+100里も可だが、糸島には、平原が有る。

平原でいけない理由は、納得いかない。
卑弥呼の100年前に女王が在ったというのは
107年帥升以降、大乱7~80年であって、無理筋過ぎる。
卑弥呼は、190年から247年までの安定王である。
アマテラスが居た、と言うのはぶん投げでは無いのかなw

考古学の課題は、190年までの平原日本製大型鏡を卑弥呼が作り
246年の大和朝廷参加で、八咫鏡を提供した景行と言われる王が誰か?
なのではないかな? 

世襲王じゃ無いし、死んでから、東遷しないよ?
それじゃ、アマテラスだwww
0294日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/02(水) 21:17:05.97
歴史なんで時系列の話で、313年は、漢四郡撤退。
日本の王は、神話の神功は無いので、応神のお父さんw
世代の 乱世w

応神は、350年前後で、370年の七支刀は仁徳。
後は、500年の継体まで、倭の五王は有史である。

卑弥呼の247年で、対魏防衛の方針で古墳時代。
韓復興や、牛馬の移入で半島進出。鉄の国内生産化。
と言うのは、卑弥呼の死以降、推進されてたんじゃないのかね?

倭人伝の卑弥呼の死は、たまたま、日本の対魏富国強兵政策、
つまり、古墳時代突入なんだと思うぞ。
0295日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/02(水) 22:06:16.72
歴史の真実としては、
対魏?親魏倭王の 公孫氏とも国交のあった卑弥呼は
BC200以降半島から青銅器移入をしていた本州と協業して
公孫氏と韓王朝を滅ぼした魏の楽浪帯方との戦争を決意した。

これ以降が、高句麗による、漢四郡の撤退から牛馬の移入や、
百済新羅の建国以降の東夷古代史の話なのである。

梯儁が仮称とした、邪馬台国が、どーたら、こーたら?
日本の古代史と何の関係も無いのが、考古学か?
要らんw
0296日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/03(木) 15:30:14.26
卑弥呼が韓王朝が滅びた246年で、
本州勢力と合流して一大卒を受け入れたのも確かなようだ。
これを、歴史としては、大和朝廷の成立と言うのではないかな?
一大卒は、日本語でないことは明らかだが、張政は何をもってこれを命名したのだろうか?
字義としては、軍兵卒、統卒で、軍隊であることは想像に難くない。

平原が卑弥呼の墓であることへの疑義は消えかかっているが、であるならば、
卑弥呼はアマテラスであるより、むしろ神夏磯媛=卑弥呼だろ?
景行?もちろんこの時代の記紀は神武も崇神も神功も応神も混濁で使えないが、
卑弥呼が八咫鏡を作ったのは、王に就任する前の180年の前後ではないか?
方格規矩鏡が240年卑弥呼の魏鏡である事と共に、考古学の検証に期待したい。
0297日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/03(木) 18:28:19.99
平原って、八咫鏡がいっぱい出ちゃってるから、
いじりにくいかもね? って、もう完全に出てるしw
皇室の墓じゃ無いでしょ?

まあ、アマテラスの鏡のレプリカってことで良いけど、
2世紀以降、九州でも作れたってことなんだけど?
卑弥呼が景行天皇に献上したから東遷じゃなくて、
神功が持って来たことにするw

古墳無いのに、卑弥呼以外が、なんに使ったのかは謎だな。
卑弥呼の前に元祖卑弥呼が居たwww

出雲の剣と九州の鏡、越の勾玉で
日本王の三種の神器か? 

東国からは兵しか来なかったか?
あっ、生口って、男は高値の付く屈強な兵士か?
0298日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/03(木) 18:55:19.61
このスレの住人の日本語読みにくい
ほんと、日本語でおけ
0299日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/03(木) 19:01:03.40
陳寿の漢文読めない? 又は、漢字は飛ばして読む?
日本語で桶、では無くて、考古学系の現代語訳が、
ご都合主義のミスリードなので、陳寿の原文にしか、真実が無い。
0300日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/03(木) 19:10:45.74
陳寿は文人である。
−国破れて山河在り−
漢文は、作者を知らないと主語が判らない文章は多い。

倭人伝行程部分は、247張政と240梯儁の
筆致の違う、二人の報告書の引用でできている。

二人の筆致の違いは明瞭であり、この段落を考古学者が読め無いだけなら
邪馬台国論争は、壮大過ぎた、茶番でしかない。
0301日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/03(木) 20:04:53.35
倭人伝
01 倭人 在 帯方 東南 大海之中 依山島 為國邑 旧百餘國 漢時 有 朝見者
02 今 使 譯 所通 三十國 從 郡至倭

247年、陳寿の報告書の引用
03 循海岸 水行 歴韓国 乍南乍東 到 其北岸 狗邪韓國 七千餘里
04 始度 一海 千餘里 至 對海國 其 大官日 卑狗 副日 卑奴母離
05  所居 絶島 方可 四百餘里 土地 山險 多深林 道路 如禽鹿徑
06  有千餘戸 無良田 食海物 自活乗船 南北市糴
07 又 南 渡 一海 千餘里 名日 瀚海 至 一大國 官亦日 卑狗 副日 卑奴母離 方可三百里 
08  多竹木 叢林 有三千許家 差有 田地耕田 猶不足食 亦南北市糴
09 又 渡 一海 千餘里 至 末盧國 有四千餘戸
10  浜山海居 草木茂盛 行 不見前人 好捕魚鰒 水無深浅 皆 沈没 取之
11 東南 陸行 五百里 到 伊都國 有千餘戸 官日 爾支 日 泄謨觚 柄渠觚
12  丗有王皆統属女王國 郡使 往来 常所駐
(以下、行程外、伊都の地理説明)
13  東南 至奴國 百里 官日 兕馬觚 副日 卑奴母離 有二萬餘戸
14  東行 至不彌國 百里 官日 多模 副日 卑奴母離 有千餘家
0302日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/03(木) 20:17:09.82
240年、金印を届けた梯儁の報告書の引用
15 南至 投馬國 水行二十日 官日 彌彌 副日 彌彌那利 可五萬餘戸
16 南至 邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月
17  官有 伊支馬 次日 彌馬升 次日 彌馬獲支 次日 奴佳鞮 可七萬餘戸

18  自 女王国 以北 其 戸數 道里 可得略載 其 餘旁國 遠絶 不可得詳
↑陳寿の補足

19 次有斯馬國 次有巳百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國
  次有好古都國 次有不呼國 次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國
  次有呼邑國 次有華奴蘇奴國 次有鬼國 次有為吾國 次有鬼奴國
  次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國 次有支惟國 次有烏奴國 次有奴國
20  此 女王 境界 所盡
21 其南 有 狗奴國 男子為王 其官有 狗古智卑狗 不属女王
22 自郡 至 女王國 萬二千餘里

投馬國は240年の梯儁が馬韓を通過した後の弁辰韓であり
行程として絶対に、247年の張政の記した不彌國からは、直列しない。
投馬国は弁辰韓5万戸の仮称。邪馬台国は梯儁が参問した筑紫地域の次有21国7万戸であり、
247年張政が里程を記した、倭人船の寄港地の地点間の里程の話とは別である。
0303日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/03(木) 20:48:45.16
考古学と言うのは、遺跡の物証から
歴史の真実を見出す学問だと思っていたが?

平原が、卑弥呼の墓ではない、という
確証を、提示して頂けないだろうか?

考古学ってのは、壺な、ご都合主義の圧力団体なのか?
0304日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/03(木) 21:08:15.21
卑弥呼の墓
65 其八年 太守王頎到官
66 倭 女王卑弥呼 與狗奴國 男王卑弥弓呼 素不和 遣倭 載斯烏越等 詣郡 説相攻撃状
67 遣 塞曹掾史張政等 因 齎詔書 黄幢 拝假 難升米 為檄告喩之
68 卑弥呼 以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者 奴婢 百餘人

247年に、倭人船で査察に来た張政が、卑弥呼の墓を見た。
帳政が歩いた九州上陸から伊都迄の500里以内に有る。 奈良ってのは何?
平原が卑弥呼の母アマテラスの墓なら、大乱後の卑弥呼擁立ってなんだよ?
卑弥呼が、本州の軍門に降って、一大卒が置かれたんだろ?
0305日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/03(木) 21:28:33.06
平原が卑弥呼の墓なので、
卑弥呼は薩摩藩主のような、ただの九州王だった。

統一大和朝廷は、筑紫に一大率を置いた、これ以降である。
畿内だの九州の倭王が卑弥呼の、倭人伝論争は無意味。

終わりで良いんだろ?
おめでとう。
0306日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/03(木) 22:34:21.81
>>303
それ悪魔の証明じゃない?
卑弥呼の墓だって証拠出してよ
0307日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/03(木) 22:39:43.14
>>299
漢文の部分じゃなくて、日本語っぽい何かで書かれている文が支離滅裂で理解できないって
住人の脳内で完結されても散文を書かれても、結論の根拠が何なのか分からないオナニー文ばっかだし、活字で他人に理解させようとするなら持論にしか思えないナニカの羅列じゃ説得力ないんじゃないってこと
0308日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/03(木) 22:45:11.02
だから、原文テーマで話しようって、言ってんの。
0309日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/04(金) 01:36:46.26
>>308
伊都説の主要部分はもう話に出てる。
認める認めないじゃなくて、なにか細かい話題とかある?
0310日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/04(金) 01:44:03.73
里程と日程は別々。
卑彌呼はもともと伊都国王家から派遣された奴国府知事だった。それが女王国。

倭国乱を収めるために奴国府知事の卑彌呼が倭国王に共立されて、
本家の伊都国を監察するために大率を設置した。
大率は監察が本来業務だったが、狗邪韓国と末蘆国などは直轄して行政もしていた。

卑彌呼は魏代になると伊都国へ移動した。
そこで亡くなったので平原遺跡に埋葬された。
0311日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/04(金) 01:53:27.15
城野遺跡は、
・鉄器が豊富
・玉作り工房
・方形周溝墓
といった特徴がある。

卑彌呼が元は不彌国にいたのなら、
・奴国と豊国城野遺跡に挟まれた立地
・多模=玉 トヨタマヒメ、タマヨリヒメなどの女性指導者の系譜

卑彌呼が糸島に移動して、
・玉作り工房
・方形周溝墓

といった繋がりが炙り出されてくる。


卑彌呼の父は伊都国王
卑彌呼は「共立」されたので倭国王伊都国王の継承順位が一位ではなかった
卑彌呼の母は豊国女王系
卑彌呼邪馬台国に〇奴国が従っているので母方の祖父は奴国王系の可能性が高い
0312日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/04(金) 02:18:16.80
卑彌呼は若い頃は博多美人だった。

弥生時代に突出した大都会であった奴国弥生銀座を庭とする都会の美女。
血統も申し分ない貴人の中の貴人。

長じて才色兼備の女性政治家となり、その統治能力の高さから倭国王にまで共立された。

玉造工房をバックに持ち、
ファッションリーダーとして数々の美しい宝飾品を身に着けていた。
奴国府知事就任時に外国から贈られたガラス耳璫がお気に入りで、生涯愛用していた。

その生涯を通じて福岡県北岸からは出たことが無かっただろう。
0313日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/04(金) 05:34:55.97
卑弥呼は対魏防衛の為、大倭王に八咫鏡を献上した。 
倭王はまず、熊襲、土蜘蛛を討った。
半島進出では、弁韓地域の主権は維持したが、
本格的には、313年の四郡撤退からとなる。
0314日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/04(金) 06:30:30.13
神夏磯姫も神功皇后も時代が違う。
魏志倭人伝にて狗奴国の顛末が記されていないので、狗奴国は滅亡していなかったのだろう。

ところで神夏磯姫は八咫鏡を献上したのか?
0315日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/04(金) 08:12:04.58
記紀で時代のはなしは無理。
神武と神功は同時代人w

八咫鏡5枚作った奴って卑弥呼だろ?
アマテラスなら、一枚だと思うよ?
0316日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/04(金) 16:11:00.06
卑弥呼が246年に畿内勢力の一大卒を受け入れた際に
八咫鏡と剣と玉を渡したんだな。 6枚作ってたのかw

これって、マジで大和朝廷誕生の瞬間でしょ?
246年。 まあ、いいとこなんじゃね?

神功皇后じゃ、無いと思うけど? 応神の前か、もう一つ前。
仲哀居るなら、神功でも良いわけで? 
誰だ? なんで、記紀が壊れてるところで・・・
直せよwww
0317日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/04(金) 18:54:10.68
中央から刺史みたいな一大卒が来てデカい面してんのに
どうして、筑紫が畿内に東遷できて、朝廷になれる、と考える奴が居る訳?
銅鐸以降、越から尾張、武蔵に向けても、本州纏めてるだろ?

47 使 大倭 監之 自女王國 以北特置 一大率 檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於 國中有 如刺史
48 王 遣使 詣 京都 帶方郡 諸韓國 及 郡使 倭國 皆 臨津 捜露 傳送文書 賜遺之物 詣 女王 不得差錯
49 下戸 與 大人 相逢道路 逡巡入草 傳辞説事 或蹲或跪 兩手據地 為之恭敬 對應 聲曰 噫比 如然諾

卑弥呼が世襲王じゃ無いのは理解不能だけど、
まあ、壹與は卑弥呼の弟の子なのかな? 
60年も半島フロントの筑紫で王権有れば相当な豪族なはずで、
中央進出して筑紫の君の祖、程度にはなったかもしれない。
0318日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/04(金) 18:59:21.98
祭祀型銅戈銅矛の時点で面で統一されてるね。
三雲井原遺跡からも出土しているから70-80年の倭国王男王時代に該当する。

各地の有力者の王墓には銅鏡が副葬されていて、
これも三雲井原遺跡を頂点として北部九州が統一されている。

北部九州倭国だね。
魏志倭人伝の記載通り1世紀には統一されていたことが考古学的に裏付けされる。
0320日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/04(金) 19:26:03.82
>>318
卑弥呼は大乱を経て、とは言うけれど
共立王で戦国王のようには描かれてはいないけど?
宗教の違いだけで分裂した可能性も否めない。

狗奴國 男王 卑弥弓呼
邪馬台国女王 卑弥呼

この和音名称での推測から、
呼は王 
弥が、本来の和音の自称国名 弥国
(邪馬台国は、弥の馬国、邪馬国に有った卑弥呼の臺の国)
弓は、大乱で分裂した狗奴国のクではないかと思うのだが?

筑前筑後や肥前肥後のような名称由来で似た名称なのかと。
0321日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/04(金) 19:38:54.69
>>319
そうなんだけどw
一大卒は、畿内朝廷が派遣した刺史の如き軍隊であって
これを、対魏防衛のために、受け入れた卑弥呼が、
八咫鏡、剣、勾玉を献上したって話が、
景行の神夏磯姫=筑紫の卑弥呼かな?
であって、

九州説は、平原=卑弥呼の墓で完結だが、
文献上にしかない、邪馬台国の女王は、大倭王じゃないだろ?
って話なんだが? まあ、金印の倭奴国も同じだがw

考古学がマヌケなだけで、なんか、つまんないよね。
東遷しても無理。 どうすんだよwww
0322日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/04(金) 21:08:23.29
一大率を直方辺りの伊都国に置いたのは、
九州島内で、倭国(阿波)行きの鍛冶素材などの交易品が盗まれたらいかんからな。   
一大率は、倭国(阿波)行き輸送隊の警護役も担ったのだろう。 @阿波
0323日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/04(金) 21:10:52.48
一大率を直方辺りの伊都国に置いたのは、
九州島内で、倭国(阿波)行きの鍛冶素材などの交易品が盗まれたらいかんからな。   
一大率は、倭国(阿波)行き輸送隊の警護役も担ったのだろう。@阿波
0324日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/04(金) 21:42:50.26
アボンばっかりの、スレのように
邪馬台国は、大倭王の日本国では無かった。
という、倭人伝の終了は悲しいなw
wだけどwww
0325日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/05(土) 08:55:50.81
隋書(636-656) 都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也

日本書紀(720) 倭=夜摩苔
0326日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/05(土) 09:44:56.24
三雲井原王家が甕棺墓で、倭国乱と共に甕棺墓が消失する。
じゃあ平原女王は甕棺ではないから、その出自を好きな所から持ってこれるかというと、当然そんなことはない。

平原女王墓は割竹型木棺。

伊都國王家発祥の地である、吉武木遺跡の王墓には、
割竹型木棺と甕棺の2系統がある。

つまり伊都國王家には最初から派閥があったわけであり、
平原女王卑弥呼の出自は、考古学的に考えて、
伊都國吉武木王家の割竹型木棺派閥であったことになる。


また豊国宗像の田熊石畑遺跡にも吉武木遺跡と同時期の代々の将軍墓が出土しており、
田熊石畑遺跡は全て木棺墓で、その中に割竹形木棺が含まれる。

田熊石畑遺跡が青銅武器将軍ばかりであること、
環濠集落で防御していることから、
伊都國派遣の豊国監察軍、つまり後の大率のような組織の遺構であったことが示唆される。

割竹型木棺派閥は元から豊国権益を握っており、
だからこそ卑彌呼は、奴国府知事に就任後は、奴国と豊国の間に位置する、
里程目的地の不彌國に治していたと考古学的に説明できるし、

大率という統治機構についてもよく理解した支配者であったことになる。
0327日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/05(土) 09:46:40.21
伊都國は高祖山・クシフル岳を中心とする地域で、
本来は東の吉武遺跡が中心。

福岡市側は全部奴國だったとする説もあるが、
中広形銅矛ならびにゴホウラ貝釧がくっきり鮮やかに、福岡市西部に分布していないことから、
そこに支配境界があったことが明らかであり、
室見川流域は伊都國領域で、
那珂川流域が奴國だったことが考古学的にわかる。

伊都國東部の吉武木遺跡の王墓群が何代も続いていたのが終了して、
同様の副葬品傾向をもって、グレードアップして、
伊都國西部の三雲井原遺跡の大王墓群へと連続移行していくので、
同じ伊都國王家が版図を拡大したうえで、中心地を移動したこともわかる。

伊都國を中心とした、広域国家倭国の形成が考古学的に想定されるわけだ。
0328日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/05(土) 09:54:44.53
旧百余国が三十余国に整理されたのが前108年。(後漢書)
金印奴国王が57年。
倭国王の誕生が上限66年・下限100年頃。(桓霊146-189と男王70-80、倭国王師升107)

三雲井原遺跡が甕棺墓大王であることから、
伊都國王家が、奴国王家など他の30王家を廃して広域国家倭国を形成した際には、
甕棺派閥が優勢で、
倭国王の継承権は甕棺派閥が握っていたことになる。

倭国王の継承順位の上位は甕棺派閥で占めていた。

倭国乱とは伊都国王家の内紛であり、
甕棺派閥と割竹型木棺派閥などの派閥間の争いが、武力衝突に発展したのが倭国乱と考えられる。

倭国乱で伊都国王家の倭国が混乱している隙に、
倭国王誕生時に廃された三十王国の中で有力であった、奴国王家が、
南の狗奴国や東の拘奴国として独立したのだろう。

伊都国王家の中で争っている場合ではなくなり、
倭国王継承順位を飛ばして能力重視で共立されたのが、
奴国経営で既に手腕を発揮していた、
割竹型木棺派閥の卑弥呼であった。
0329ネトウヨボクメツタイ !
垢版 |
2023/08/05(土) 09:56:11.58
TwitterやYouTubeを見てみるとネトウヨ芸人はみな九州説だな
口を揃えて韓国ヘイトをばら撒くレイシスト
統一教会や日本会議や暇アノンの教義なのか?

ネトウヨに残酷な歴史的真実を告げよう

人類学的にジャップのゲノムは紀元前3000年頃の遼寧省の遼河文明人のものだと判明している
縄文人はアイヌの先祖でありジャップは遼寧省から韓半島を経由して日本列島に移住したんだ

遼寧省が農耕に適していた上古に夏家店下層文化が栄えていた
しかし気候変動で農耕ができなくなり遼河人は南方へ移住していった
殷王朝は彼らの王朝だったという説も強い

夏家店下層文化人が使っていた言語が古日本語だった
彼らは農耕が不可能になって故地を捨てて韓半島に移動した
そしてそこで山東から江南にかけての稲作農耕を取り入れた
今のジャポニカ米はその子孫だ
そして古日本語話者の一部は北九州にまで生活範囲を広げていった
これが弥生時代の始まりだ

遼河が乾燥して干上がった後も一部は移動せずに残った人がいた
残った人たちは近隣の狩猟採集民と協力し半農半牧の生活を取り入れてその地に適応した
これが夏家店上層文化人で古韓民族の起源となる

春秋戦国時代の燕が遼寧に勢力を伸ばしていった結果、古韓民族は韓半島へ民族移動をして先住の古日本語族を駆逐した

三韓の土器は夏家店上層文化の粘土帯土器の系譜にある
そしてジャップの弥生土器は三韓に駆逐される前の松菊里文化人の土器が元になっていて、これは夏家店下層文化の一つの偏堡文化の土器に連なる

ジャップの起源は西遼河人であり縄文人ではない
邪馬台国は奈良県であり中国の属国として朝貢をしていた
これが真の歴史だ
0330日本@名無史さん
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2023/08/05(土) 19:43:47.75
割竹型木棺って言うのは、やっぱり海神族の
船作る技術が反映してるのかな? 
蓋あんの? なら、板も要るよね?
構造船だったら、のこぎり要ると思うけど?
0331日本@名無史さん
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2023/08/05(土) 20:24:22.07
甕棺も九州産で良いと思うけど、どっちかと言えば瀬戸内海輸入で
割竹型木棺ってのは、海神族の王墓に相応しいという感覚に思えるけど?
石棺は、邪馬台国以南からの有明、長崎、五島ルートのような?
まあ、庄内とか、継体の石とかで、イメージですけどw
0332日本@名無史さん
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2023/08/05(土) 22:57:40.78
墓制の見解は結構重要だよね
上のレスはすごく参考になる
0334日本@名無史さん
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2023/08/06(日) 21:22:15.87
むしろ監視されてるの伊都国じゃないのそれ
0335日本@名無史さん
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2023/08/07(月) 21:46:19.72
とりあえず、卑弥呼の墓は平原で
考古学は、ホントにこれ否定できんのか?

大乱だった、100年代に八咫鏡作って
247年に制作の、九州王墓なんだが?

神代のアマテラスに逃げんじゃね~よ。
と言いたい。

日本の考古学は、成果が歴史の時空と無関係な編年論で
時系列の有る、人類の歴史とは無関係なのか?
0336日本@名無史さん
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2023/08/08(火) 04:31:12.30
御用学者の言う事なんか関係なく普通の人間が普通に判断すれば平原が卑弥呼の墓だよ
0337日本@名無史さん
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2023/08/08(火) 04:46:34.81
平原は伊都国女王の墓
卑弥呼の墓は祇園山古墳だろう

伊都国勢力の一部が東遷しヤマト王権の中枢に入り、邪馬台国は山門に留まり田油津媛の代で滅亡した
0338日本@名無史さん
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2023/08/08(火) 06:35:29.23
割竹形木棺派閥:大率
女王 +東の拘奴国+方形周溝墓群(稲部遺跡等北部)

甕棺派閥:大倭
男王 +南の狗奴国+前方後円墳群(瀬戸内〜南部)
0340日本@名無史さん
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2023/08/09(水) 00:48:33.72
>>339
諸國畏憚之 常治伊都國
諸国はこれを畏れはばかっており、常に伊都国で政務を執っている
0341日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/09(水) 04:37:53.75
>>333
それはチェリーピッキングだね。
魏志倭人伝に2か所ある「自女王國以北」の片方だけしか満たしていない。

「自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國」
を自らの比定地に都合いいように解釈しただけ。

「自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳」
とあるので、
女王國の北には、其戸數道里可得略載な国々しか置けない。

文脈からしても、餘旁國は斯馬國以降の羅列された国々。
0342日本@名無史さん
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2023/08/09(水) 04:52:02.85
「自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國」

女王国より北の諸国については、特別に大率を一人設置して、検察した。
諸国は大率を畏れ憚った。
大率は普段は伊都国で執務している。


「自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳」

女王国より北の諸国については、戸数や里程を略載できるが、
その他の餘旁國については、遠絶なので詳細はわからない。


女王国=卑弥呼の前任地である奴国
女王国を中心とした視点で記載されている。

北部九州倭国=邪馬台国は、伊都国王家を中心とした広域国家であり、
卑弥呼が所都は、後漢代不弥国→魏代伊都国と移動している。

・自女王國以北(伊都国+対馬海峡領域)
・女王國(奴国+不弥国)
・餘旁國
の3グループに分けて記載されている。
0343日本@名無史さん
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2023/08/09(水) 05:00:44.01
里程については、方可の各片部分を通過する説で良い。

・魏志韓伝の方可四千里も西岸四千里部分を分割して使用
・対海國、一大國の境界に「至り」、そこから方可の各片を通過

7000+1000+400×2+300×2+1000+500+100=12000

一万二千里で女王國=卑弥呼の前任地である奴国へ至る。
魏志倭人伝に記載された里程で説明がつく。


卑弥呼が所都は、後漢代不弥国→魏代伊都国と移動したとするこの考えだと、
矛盾がない。
0344日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/09(水) 06:34:43.21
里程については、方可の各辺部分を通過する説で良い。

・魏志韓伝の方可四千里も西岸四千里部分を分割して使用
・対海國、一大國の境界に「至り」、そこから方可の各辺を通過

7000+1000+400×2+1000+300×2+1000+500+100=12000

一万二千里で女王國=卑弥呼の前任地である奴国へ至る。
魏志倭人伝に記載された里程で説明がつく。


卑弥呼が所都は、後漢代不弥国→魏代伊都国と移動したとするこの考えだと、
矛盾がない。
0346日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/09(水) 09:32:01.58
卑弥呼が居たのは、不弥国、伊都国、奴国、以外のところ
0348日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/09(水) 18:41:50.17
賁彌氏は朝鮮の箕氏と関係あるかもだけど?
三国志韓伝で、半島南岸には、彌の付く国や人は多かった。
日本?九州に渡来してないとも、言えない。

九州の、卑弥呼 卑弥弓呼
は、絶対関係が、あるはず。

筑紫の自称国名は『弥』かと?
漢字にしたのは、中国人なんで、九州訛りとか
和名の音が、ミ国かヤ国かナ国?、邪馬台国のジャか、は、判んない。
『呼』は、和音の王。
弥国と(狗?弓)弥国は、大乱で分裂した、
肥前肥後、筑前筑後のようなもの、なのではないかな?
まあ、卑弥呼勢力の王墓の谷は、糸島だが。 平原しかない。

卑弥呼が世襲王でもないが、壹與は、
没落しないで、鉄鏡の日田迄引き籠った可能性は有るが、
筑紫の君の祖には、なれたのではないだろうか?
0349日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/09(水) 19:37:16.41
本当にこの伊都の人は意味不明でネトウヨの工作員じゃないかと疑うレベルだな
0350日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/09(水) 19:47:51.15
ネトウヨの工作員と言うのは、
ウクライナで言うとネオナチみたいなもんですか?

日本の古代史には、
神話が歴史じゃないだけで
右翼も糞も無いけど?
記紀はゴミ。
0352日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/10(木) 04:42:06.73
>>351
女王国の北に餘旁國があるから間違い。結果ありきの図。
0353日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/10(木) 05:43:46.76
道理(移動ルート)から離れていた(遠絶していた)だけだろう
0354日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/10(木) 06:15:45.15
>>353
文章読解力が無い人を相手にしても時間の無駄なので、
倭人伝を正しく読むスレで勉強し直してください。

考古学的にも成り立たないし、
南の狗奴国も意味不明。
0356日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/10(木) 06:58:25.67
7000+1000+400×2+1000+300×2+1000+500+100=12000

一万二千里で女王國=卑弥呼の前任地である奴国へ至る。
魏志倭人伝に記載された里程の中で綺麗に説明がつく。
0357日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/10(木) 06:58:32.26
遠絶して名前だけ挙げられた国々の地名は今の九州の地名に比定できるものが多々あり
どれも北九州にある。
それに加えて中国人の古代史の専門家や漢字の専門家等か揃って北九州を邪馬台国と比定してる時点で
魏志倭人伝の解釈に関しては決着してる。

日本語カタコトのアメリカ人が日本人による日本書紀の解釈に駄目出しするような馬鹿げた反論に価値はない
0359日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/10(木) 14:14:38.59
>>351
自 女王国 以北 其 戸數 道里 可得略載 其 餘旁國 遠絶 不可得

これ、陳寿の補足説明だけど、
ここまでの 今 使 譯 所通 三十國 從 郡至倭 つまり、使による説明の文で、
女王宮より北の魏使が通過して来た国々については戸数道理の略載が出来た。

って、意味だよ。 それ以外の遠絶国の詳細は、名前も含めて判らない。
で、
次有斯馬國 次有巳百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國
次有好古都國 次有不呼國 次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國
次有呼邑國 次有華奴蘇奴國 次有鬼國 次有為吾國 次有鬼奴國
次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國 次有支惟國 次有烏奴國 次有奴國
 此 女王 境界 所盡

存在が明確だから、21国にわざわざ次有を付けて
王宮で倭人に参問した女王所属国を漢字にして、
邪馬台国7万戸の詳細として記録した。

倭人伝序文の
東臨 大海 長老説 有異面之人 近 日之所出
遂 周觀 諸國 采 其 法俗 小大區別 各有 名號 可得 詳紀
の、各有 名號 可得 詳紀が、この事。
0361日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/10(木) 20:53:50.21
>>359
まるでキナイコシのような屁理屈をこねてるようだが、

で、その場合の「邪馬台国の候補となる遺跡」、
あるいは「卑弥呼の墓の候補」は?



ちなみに伊都であれば、通説通りに其餘旁國遠絶 不可得詳は
女王国よりは南にある
列挙された国名だけの国々ということで問題なく成立している。

また、里程も国々の配置も整合性が取れているし、
考古学遺跡も揃っている。
0362日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/10(木) 22:07:37.96
本場畿内の説がアレだから議論が深まらないけど、
槨が出現するということは、相当数の渡来人が来ないと伝わらないのよね。

だって巨大古墳のしかも内部の高度建築物だよ?
中国を旅してパッと見てきただけではわからない。

北部九州の王墓には平原遺跡まで槨は無かった。
それが東方倭種地域の前方後円墳から立派な槨が出現するということは、
渡来人が多数、北部九州には入れずに、当方へ亡命していった、
ということではないのかな?
0363日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/10(木) 22:37:19.13
>>361
で、その場合の「邪馬台国の候補となる遺跡」
あるいは「卑弥呼の墓の候補」は?

九州北部の倭人伝記載の21国が、邪馬台国で
墓は平原って、はっきり言ってんだよ?

マヌケな屁理屈は要らん。 考古学系の馬鹿か?
九州じゃなきゃ、他のどこで、BC200~240年の漢魏の遺物が
江戸以降でも、掘れば掘るほど出てるんだよ?

文献って言うのは著者によって、陳寿の倭人伝のように、
意図、構造はその時点で、読めば解るように確定してるんだけど

考古学ってのは遺物で未知に向かうのであって、
進化系で転身しちゃうんだぞ? はよ、進化しろよwww
0364日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/10(木) 23:09:05.38
>>352
おいおいお前が自分で
「女王國の北には、其戸數道里可得略載な国々しか置けない。」
って言ったんだぞw
結局畿内説を擁護するには日本語ワカリマセンになるしかないってことかw
0365日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/10(木) 23:49:44.86
反知性主義のネトウヨが平原王墓を卑弥呼時代と言い張っているようだな。

九州説の信奉者は古史古伝を信じているような糞アホだらけなので、反知性主義が染み付いているんだよな。

九州説論者は罵倒されて悔しいなら、今後「自民党は支持しません。古史古伝や日ユ同祖を信じてない証明として奴らは馬鹿の集団ですと言います。」と言ってみろ。

壺やろうや日本会議は、これが言えない。
0366日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/11(金) 00:02:19.39
「自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳」

女王國より北の諸国については、戸数や里程を略載できるが、
余傍の国々は遠絶にて、戸数や里程がわからない。

北の諸国=伊都國+対馬海峡諸国(5)
女王國=奴國+不弥國(2)
余傍国=列挙された国々(20)

狗奴國、侏儒國、黒歯國、裸國(4)

以上で使譯所通三十國はめでたく満員。


「自郡至女王國 萬二千餘里」
7000+1000+400×2+1000+300×2+1000+500+100=12000
一万二千里で女王國=卑弥呼の前任地である奴国へ至る。


「皆統屬女王國」
本系伊都国王以下の皆は、倭国王継承順位を飛ばして共立された、
分家卑弥呼女王に統属されている。

「自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國」
女王国より北の諸国については、特別に大率を一人設置して、検察した。
諸国は大率を畏れ憚った。
大率は普段は伊都国で執務している。
0367日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/11(金) 00:12:02.21
まあだいたい日本人ぽい人は平原遺跡が卑弥呼で、

ジャップをこらしめるとか半島南部に倭領土は無いとかは違う、

ということでわかりやすくなってきたね。
0368日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/11(金) 07:32:28.00
室見川銘板

「高暘左 王乍永宮齊鬲 延光四年五」

伊都国王・吉武木遺跡→倭国王・三雲井原遺跡とするならば、
108年倭国王は三雲井原遺跡のはずなので、
125年5月に王宮と言っているからには、元となる伊都国王本家は吉武遺跡側に留まっていたのかもな。

倭国王の名が師升。
後の倭五王も将軍。
伊都国王家が任命した将軍による幕府、の可能性もある。
0369日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/11(金) 09:49:23.28
吉武木遺跡時代の伊都国王が、30王国を束ねる形での王で、
三雲井原遺跡時代の倭国王は、唯一王家である伊都国王家からの大王、
という制度変更があったのだろう。
甕棺の大型化と希少化、副葬品の集約が伴っている。

吉武遺跡の大型建物は立て替えられながら長期間維持されていたが、
三雲井原遺跡への権力移動と時期を同じくして廃絶している。

室見川の銅板がどれくらい信用できるかはまだ何とも言えないが、
一つの傍証として評価するならば、
広域大王を三雲井原遺跡の倭国王に委譲した後も、
本家伊都国王家の本貫拠点として、吉武遺跡が重要地点であり続けた。

よって、伊都国王家から派遣された奴国支配官であった、卑彌呼の前任地=女王國までの里程においては、
伊都國の中心地点は吉武遺跡であり、
三雲遺跡の楽浪土器集中出土域の大使館を拠点として、
短里=東夷伝里の五百里を陸行して、伊都國の中心地点である吉武遺跡へ到着する、で成立する。
0370日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/11(金) 10:00:30.77
倭国乱を挟んでいるからね。

<前70-80年男王時代>
倭国王之所都=三雲遺跡で、楽浪郡から水行30日陸行1日

<倭国乱末からの卑彌呼奴国府知事時代>
卑彌呼之所都=不彌國雀居遺跡で、
倭国王は不在だから、三雲遺跡は単なる大使館所在地であり行程の途中に過ぎず、

末蘆國東端の筑前深江に至り上陸
〜県道49号線沿いに短里500里陸行で伊都國中心の吉武遺跡に到着
〜県道49号線沿いに短里100里で奴國高級住宅地の須玖遺跡に至る
 下流の那珂比恵遺跡一般人密集地区ではなく、高級住宅地を抜けて
〜短里100里で不彌國千家の卑彌呼治所へ至る

<倭国女王卑彌呼後期>
女王之所都=三雲遺跡周辺で、楽浪郡から水行30日陸行1日

よし、綺麗だな。
0371日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/11(金) 13:13:46.78
>>368
師升は107年。

もし将軍だとするとだな、
吉武遺跡の有名な話だが、墓制の違いは身分階級の違いで、
割竹形木棺が祭祀階級で、
甕棺は戦士階級、ではなかったのだろうか。
単なる派閥だけの問題ではなく、身分あるいは職業の違いであった可能性がある。

一つの仮定としては、
割竹形木棺階級が縄文古来の支配層で、
甕棺階級は弥生の新興階級。

本来なら、縄文部族単位の話なので、戦争の時は割竹形木棺階級がそのまま軍も率いていたが、
吉武木遺跡は弥生王国なので社会構造が発達して、
割竹形木棺階級が祭祀支配階級。公家。戦わない。
甕棺は制度上は国を守る戦士階級。武士。戦いを引き受ける。
と職業文化したのではないか。

倭国王成立時には他の三十王家を武力征服したので、
甕棺戦士階級が活躍して、将軍幕府としての倭国王を立てることとなった。
制度的には、
割竹形木棺階級が象徴的支配者として祭祀を行い、
甕棺階級が現実的支配者として倭国王継承順位を独占して政治を行っていた。

倭国乱は"甕棺階級内”での倭国王継承権争いで、内乱が続いたのを収めるために、
象徴的支配者として続いていた、割竹形木棺階級の卑弥呼を共立したと。

宗像の田熊石畑遺跡が割竹形木棺階級の主要拠点だったのだから、
倭人伝の伝える卑弥呼の鬼道とは、沖ノ島祭祀の原始神道。
0372日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/11(金) 13:24:22.36
帥升がスサノオで子孫が卑弥呼だとすれば邪馬台国問題は解決だなぁ
0373九州王
垢版 |
2023/08/11(金) 16:55:41.81
吉武木遺跡は魏志倭人伝の里程の記述から考えて弥国の遺跡だな。
0374九州王
垢版 |
2023/08/11(金) 17:24:03.97
里程と日程を続けて読むから訳が分からなくなる
里程も日程も帯方郡から
邪馬台国に都するとは、投馬国に対して邪馬台国側に王都があるって意味だ
対馬国、一大国、末盧国、伊都国、奴国、不弥国、傍国20か国は邪馬台国を構成する国々
邪馬台国の王都は伊都国なんだ。

里程は「從郡至倭 循海岸水行 歴韓国 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里」で始まっており公孫氏の帯方郡の使者が書いたものだ
公孫氏の帯方郡の使者が書いたから帯方郡は分かり切ってるから「帯方郡至倭」とは書かずに「從郡至倭」と帯方を省略したんだ
魏が公孫氏の帯方郡を占領し押収した資料を参考にして書かれている。

日程は新たに派遣された魏使の報告書からの引用で里程が12000里終わったので途中に挿入されたんだ。
0375日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/11(金) 17:29:21.02
伊勢遺跡のHPを見たら、弥生の銀座って書いててワロタw

2ちゃんで九州説が「奴国弥生銀座」と表現してるのを見て真似してるだろw
0376九州王
垢版 |
2023/08/11(金) 18:37:53.26
北の諸国=狗邪韓国+対馬海峡諸国(4)
女王國=伊都國+奴國+不弥國(3)
余傍国=列挙された国々(20)

侏儒國、黒歯國、裸國(3)

以上で使譯所通三十國はめでたく満員。

狗奴国は敵対国だから使譯所通三十國には入らない。

「自女王國以北 特置一大率檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國」
(女王卑弥呼は)女王国より北の諸国には、特別に一大率を設置して、検察させていた。
諸国はこれを畏れ憚った。
(女王卑弥呼は)常に伊都国で(一大率を使って女王国より北の諸国を)統治していた。

女王卑弥呼が常に伊都国で統治しているんですよ
一大率が王様でもないのに治するなんて有り得ない話。
0377日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/11(金) 20:04:09.00
一大率は国連平和維持軍
0378日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/11(金) 20:16:56.29
関川の帝塚山大学の講演会のYouTube

を、見る
0379日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/12(土) 08:41:00.46
魏志倭人伝の一大國に環濠のことが書かれてないから、
大陸の魏人から見たら環濠なんてただの堀にすぎなかったと言われてたけど、
原の辻遺跡の環濠は3世紀にはもう無かったらしいね。
そうなると卑弥呼の宮殿も環濠で守られていた可能性が高くなる。
0380日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/12(土) 09:26:49.61
糸島伊都の王墓は平原女王墓までだから、
次の男王や台与は伊都から出たのかな。

方墳ということでは祇園山古墳が候補になるし、
前方後円墳を確立したのが彼らなら那珂八幡古墳かな。
前者なのだとしたら、前方後円墳は狗奴国系の可能性が高まってくるけど。
0381日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/13(日) 06:50:07.83
方墳といえば、青龍三年銘の方格規矩四神鏡が副葬されていた
大田南5号墳も安満宮山古墳も方墳だね。
0383日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/15(火) 16:39:17.27
卑弥呼の墓を見たのは、247年卑弥呼の使者の船に便乗して
郡からの視察で手ぶらで来日した、張政なのは判るかな?

65 其八年 太守王頎到官
66 倭 女王卑弥呼 與狗奴國 男王卑弥弓呼 素不和 遣倭 載斯烏越等 詣郡 説相攻撃状
67 遣 塞曹掾史張政等 因 齎詔書 黄幢 拝假 難升米 為檄告喩之
68 卑弥呼 以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者 奴婢 百餘人

その、張政は、到伊都までしか来ないで常駐して帰った。
11 東南 陸行 五百里 到 伊都國 有千餘戸 官日 爾支 日 泄謨觚 柄渠觚
12  丗有王皆統属女王國 郡使 往来 常所駐 

72 壹與 遣倭大夫 率善中郎將 掖邪拘 等二十人 送政等還 因詣臺

この時の帳政の来日目的
67 遣 塞曹掾史張政等 因 齎詔書 黄幢 拝假 難升米 為檄告喩之
71 政等 以 檄告喩 壹與
は、伊都常駐だけで女王所属の王が伊都を往来した事によって終了した。

68 卑弥呼 以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者 奴婢 百餘人
は、この間の報告であり。 卑弥呼の墓は、
上陸地、末盧國〜伊都国の間にある。
つまり、
末盧國=芥屋浜〜新町あたりであり、伊都国=今宿〜早良の間であって
同時期に女王墓が密集して選べないとかじゃなきゃw 平原で良いはず。 
0384日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/15(火) 18:02:26.86
卑弥呼の墓を見た247年の張政の目的地が伊都国であるなら
倭人船も当然伊都港、今宿付近に入港すべきなんだが、
帳政は、何故か? 陸行南東500里と言う距離を歩かされている。
何故か?

平原で、卑弥呼の墓を見せるため、と言うのが善意的解釈。
もう一つは、公孫氏と韓王を滅ぼした魏官に、
伊都の軍港を見せたくなかった。
という事も考えられる。

魏は、245~6年の韓制圧戦で檄を飛ばし、難升米の後方参戦を要請した。
卑弥呼はこれに応えず、本州勢力を伊都の一大卒で迎え、
八咫鏡を提供した、景行紀の神夏磯姫に当たるが、

この九州統合は、大和朝廷成立と言う歴史の転換点なのである。
なぜ、富国強兵の徴兵制〜半島進出に向かった
古墳時代の到来を マヌケな倭人伝論争で消す?

文献を記紀の倭王の存在で、捻じ曲げるのが愚行なのであって
卑弥呼は九州、日本海ルート諸国や
瀬戸内海諸国、越、尾張を既に包括していた
後の倭王は畿内だろ? 

卑弥呼は不戦で、それまでの鉄や青銅原料の輸入ルートを
失うことになる朝廷を、防衛力として受け入れた。

記紀の九州起源が卑弥呼を讃えてるのは事実だが
平原を学者にアマテラスの墓と言わせるような、弾圧的な
編年歪曲は日本神道信者による、東夷古代史への冒涜だね。 
考古学は、結果が出てしまう、日進月歩が嫌いなのか? 
なら、掘るなwww
0385日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/15(火) 18:20:02.18
>>382
お疲れ様
0386日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/15(火) 18:27:57.62
まあ、2600年前から万世一系の朝廷の起源の倭王が、
九州だったか、畿内だったか?

って、論争自体、マヌケなんだが? 倭人伝には、
卑弥呼は倭の九州北部のローカル王って、書いてある。

であれば、大和朝廷の統一倭王ってのは、おかしい。
247年以降、九州は、本州と協業で半島進出に向かい
安曇族も信州等の辺境に領地を得たが、出自が海神族なので
663年の白村江で駆り出され帰ってこなかったw

天神、国神、人神だろうが、祀らないなら祟る。
日本古代史〜現代がある以上、靖国神社が不要なわけがない。

現代日本は、繁殖不可能性で、また渡来人が来るが?
これは日本の未来の状況でも、理解可能になるんじゃないのかな?

ホントに弥生渡来人の正体って不明なのか?
公表すると、少子化解決かもよwww
0387ネ ト ウ ヨ ボク メツタ イ!
垢版 |
2023/08/15(火) 23:44:10.62
卑弥呼はヤマトの女王。
江戸時代の国学者は卑弥呼の朝貢を歴史の汚点と考えて、彼はヤマト朝廷にあらずと主張せざるを得なかった。

21世紀のジャップどもに告ぐが、お前らは既に倭の五王が中華に朝貢して、足利義満が倭国王として三跪九叩頭の礼を取っているのを知るべきである。
ネトウヨは韓国を中華の属国と貶めるが、日本は中国に対して立場は同じなのだ。
ここからわかるのは兄と弟の序列については明らかに恩ある韓国が兄。

ネトウヨ残念だな。せいぜいら悔しがれよ。反知性主義の自民党や維新や国民民主党を支持する己の低知能を恨むことだな
0388日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/15(火) 23:52:40.56
清代まで属国だったチョンは帰れ
隋代から対等外交してる
勝手に倭王名乗った脳筋は知らん
0389日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/16(水) 00:09:25.57
朝鮮は日本が併合してあげなかったらロシアに占領されていただろうね
0390日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/16(水) 02:47:20.33
秦代から対等外交だよ。始皇帝が派遣した徐福は追い返されたから立場が無くなって亡命せざるをえなくなった。
0391日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/16(水) 03:09:37.16
伊都国王(吉武高木遺跡)
 吉武高木宮殿=蓬莱宮殿
 徐福は面会もできずに追い返された(元使者以下の扱い)

↓ 奴国王(中広型銅矛、ゴホウラ貝釧)
   おそらく一代限り
   後漢金印

伊都国王は継続
 倭国王(三雲井原遺跡・甕棺大王)
  伊都国王系将軍・幕府
  倭国王師升
  倭語で対等外交 自国をやまとと発音=倭面土記録

伊都国王は継続
 倭国乱(銅戈派閥vs広型銅矛派閥を端緒としての甕棺複数派閥の乱闘)
  倭国王不在

伊都国王は継続
↓ 倭国王卑弥呼(平原・割竹形木棺女王)
   一代限り
   魏金印

伊都国王男王
 倭国王?

伊都国王男王は継続
↓ 倭国王台与
  

・伊都国王はずっと対等外交
・その合間の一代権力者(奴国王、倭国王の卑弥呼のみ)が外部権威を求めて朝貢金印
0392日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/16(水) 11:54:40.71
対等外交というか、大和朝廷の大倭王じゃなくても
九州諸国は独自外交フロントは持っていたのではないかな?

金印は奴国で始まって、筑紫域21国7万戸の女王卑弥呼だし、
500年代になっても筑紫の君磐井の乱ってのは、
北部九州ー新羅の 独自外交の証拠でしょ?

しかし、日本海ルート諸国と朝廷との結束は結構強い。
磐井の乱以前は、九州は朝廷内では百済のような外様王侯状態かと?

安曇族は、信州のような海も無い辺境の開拓に送られて
百済滅亡期〜白村江で呼び戻されて、信州から消えた。
この時ようやく中央政権参加で、各地の所領を得たのではないかな?
0393日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/16(水) 12:00:35.48
安曇氏は磐井側に加担していたから新たな地を求めて九州を離れたのでは?
0394日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/16(水) 14:46:14.11
ごめん、信州安曇族説は自説ラノベだったw
246年に対魏防衛のため卑弥呼が中央の一大卒を受け入れて
安曇族も中央貴族入りしたけど、冷や飯組だった。
これが、中央安曇族の起源で、魏志から読める。

安曇族の本流が安曇野に配流されて、九州各地に物部が入って
4~500年の倭の五王時代の主役は
信州の山奥に左遷された安曇族ではなく日本海ルート諸国と宗像。

任那4県の割譲などで、500年以降半島利権は後退した。
この時期から、信州安曇族も呼び戻されて、
660年の百済滅亡時に信州安曇族は白村江海戦に向けて全て消えた。

しかし信州安曇族の存在からして本当のところは判って居ない。
300から600年で開拓者の古墳が無いのはおかしいとも言える。

これ以降も居れば、朝廷が記紀神話の都合で消す以外は
一応有史なので、仁科と競合するなどで神社伝承なども残るはず。

朝廷以前の九州豪族なんて居たら、神話の起源が九州にはならんのかもなw
やけくその考古学じゃ卑弥呼がアマテラスで東遷しちゃうんだよ。
0396日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/16(水) 15:27:20.77
アマテラスやスサノオに氏族性が有ったら
地域豪族が氏神祀る、日本神道はどっから生まれる?
高天原は朝鮮半島みたいな手順前後でしょw

あ、宗像三神が神の子って話なら氏姓は関係無い。
後世の宗像族は、伊勢の派生なので三神を祀れってのが日本神道。

武将がみんな源氏だったり、地域豪族だったりだけど
秀吉みたいのも居た、戦国時代を生き延びたのは奇跡だと思うけどね。
0397日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/16(水) 16:04:33.90
>>396
宗像氏の系譜を辿ると出自は大国主神の六世孫の吾田片隅という事なのでスサノオも宗像族と認識しても良いかと思います
0399日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/17(木) 02:17:45.63
>>398
こらは凄い情報だな
すぐ消されるぞ
0400日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/17(木) 21:11:19.69
纒向の崇神天皇が四道将軍を派遣したのは東海・北陸・丹波・吉備
何れも軍隊を派遣して征服して回ったのではなく基本的には同盟の使者
当時は東海や吉備ですらそのレベルであり、より遠い北部九州には全く未接触であり伊都国に一大率を置いたような痕跡は記紀には微塵も見られない
また纒向遺跡も大陸と交流した痕跡は完全に皆無だ

文献的にも考古学的にも畿内説は理論的にはまるで成り立つ余地がない
北部九州には魏と交流した倭国があり、畿内には以後の皇室に権力的に繋がる(血統が繋がるとは限らない)日本国があり、古墳時代にはそれぞれが独立かつ並立していたと考えるのが最も自然で合理的だ
0401ネトウヨボクメツタイ !
垢版 |
2023/08/18(金) 01:14:08.42
平原王墓を卑弥呼の墓としたいのは天皇家が中華の冊封を受けた歴史を消し去りたいからだ。
倭の五王や足利義満が魏に朝貢しているのにネトウヨはまだ往生際の悪い戯言を論じている。

九州説者は認めろ。
ジャップは中華に朝貢したんだよと。
笑える歴史修正主義だ。
安倍政権時代に日本の自衛隊が韓国の海軍を挑発してレーダー照射をしたという政治的事件があった。
これ旧日本軍が得意とした卑怯な偽旗作戦そのものである。

日本民族という悪しき概念を信じる輩、アイヌや琉球などの人たちを無視するネトウヨの暴論は終わりにせねばなるまい。
0402日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/18(金) 06:35:50.10
>>401
遣隋使や遣唐使は事実上の朝貢だよ
当時の中国は今で言うアメリカみたいな国なんだから
別に朝貢するのは珍しくもないし恥でもない
0403日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/18(金) 06:38:31.45
日本書紀の記述通りに神武天皇即位は紀元前660年で
卑弥呼の時代に神功皇后が実在して九州平定、
三韓征伐しましたとか
そっちを信じる方が余程ネトウヨだろう
0404日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/18(金) 06:56:34.97
>>400
武埴安彦の乱は、
崇神十年の9月27日に反乱が露見して、武埴安彦軍の半数が討ち取られ、
10月1日には都で平定勝利宣言されてるね。
0405日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/18(金) 07:12:38.58
正始八年(247)
王頎が帯方郡太守になる。
狗奴国との戦争が激しくなり、
<4月>
倭の載斯烏越等が帯方郡へ派遣される。

<5月>
倭の載斯烏越等が帰国するのに同乗して、張政等が来倭。
水に潜って漁をする人々を見ながら、伊都三雲遺跡に到着。
卑弥呼は入れ違いで4〜5月に死去していた。
難升米に黄幢をもたらす。
人夫百人ほどで、平原遺跡は数日で完成。停喪十餘日を経て卑弥呼埋葬。

<6月>
卑弥呼後継者争い。
卑弥呼派(割竹形木棺派)vs男王派(旧甕棺派)
戦いは1日で終了。
男王派が勝利。

<7月>
長期政権だった卑弥呼時代からの急変を望まない各勢力に配慮して、
男王の娘であるが女系は卑弥呼の近親である男王派台与を共立。邪馬台国内乱は収まる。
張政等は帯方郡援護のための朝鮮出兵を促して檄を飛ばすが男王派は応じず。

率善中郎将の伊聲耆掖邪拘等20人がお土産付きで張政らを丁重に追い返した。
0406日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/18(金) 08:12:40.58
>>404
それは皇室内の権力争いで畿内日本国の地方への支配拡大の文脈とは直接関係がない
0407日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/18(金) 18:03:18.48
「是後倭韓遂属帯方」
後漢が派遣した公孫氏の帯方郡に、倭と韓が同盟していた。
(形式としては後漢建安年間に後漢に従っていただけ)

公孫氏が独立した。
後漢後継の魏は公孫氏討伐のため、司馬懿大軍を派兵した。

邪馬台国は魏を後漢後継と認めて同盟。兵糧供給し、見返りに金印を貰った。
韓は魏を認めず、公孫氏との同盟を重視。魏に反旗を翻した。⇒帯方太守弓遵戦死
同時に狗奴国も邪馬台国を牽制すべく出陣。

魏&邪馬台国 VS 韓&狗奴国 でお互いに連携していた。
0408日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/18(金) 18:07:50.96
魏&邪馬台国卑弥呼派 VS 韓&狗奴国

正始八年(247) 王頎が帯方郡太守に。

韓は鎮圧したが、
狗奴国の攻勢が激しく、

<3月>倭の載斯烏越等が帯方郡へ派遣される。
<4月>水行30日で帯方郡へ到着。
   倭の載斯烏越等が帰国するのに同乗して、張政等が来倭。
<5月>水行30日陸行1日。
   水に潜って漁をする人々を見ながら、伊都三雲遺跡に到着。
   卑弥呼は入れ違いで4〜5月に死去していた。
   難升米に黄幢をもたらす。
   人夫百人ほどで、平原遺跡は数日で完成。停喪十餘日を経て卑弥呼埋葬。

<6月>卑弥呼後継者争い。
   『卑弥呼派(割竹形木棺派)』vs『男王派(旧甕棺派)+狗奴国』
   戦いは1日で終了。
   『男王派+狗奴国』が勝利。

<7月>長期政権だった卑弥呼時代からの急変を望まない各勢力に配慮して、
   男王の娘であるが女系は卑弥呼の近親である男王派台与を共立。
   邪馬台国内乱は収まる。狗奴国は同盟国となった。
   張政等は帯方郡援護のための朝鮮出兵を促して檄を飛ばすが男王派は当然応じず。
   率善中郎将の伊聲耆掖邪拘等20人にお土産を付けて張政らを丁重に追い返させた。
0409日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/18(金) 20:11:31.16
伊都国王家(吉武木遺跡)は伝統的に独自権威
 甕棺派と割竹形木棺派

 前108年楽浪郡設置
  旧100余国→30国

 奴国王(雀居遺跡)沿海州からの渡来系
  57年 伊都国王家に対抗して後漢金印 ☆

 1世紀後半
  伊都国王家甕棺派が奴国王を滅ぼす
  北部九州30国を統一した広域国家倭国成立
  倭国王の継承順位は伊都国王家甕棺派が独占

伊都国王家本家(吉武遺跡)室見川銅板
倭国王(三雲井原遺跡) 
 107年倭国王師升
  対等外交
  倭語で外交辞令、倭面土(やまと)國

 倭国乱
  甕棺派内部での権力争い

伊都国王数代(旧甕棺派)
 倭国女王卑弥呼(平原遺跡)割竹形木棺派
  238年魏金印 ☆

伊都国男王(旧甕棺派)
 狗奴国と同盟して旧卑弥呼派(割竹形木棺派)=親魏派を撃破
 旧甕棺派だが卑弥呼親族の台与を倭国女王に共立
伊都国男系主流は一貫して独自権威であることがわかる。
 奴国王と卑弥呼が伊都国王家を牽制する形で金印
0412日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/19(土) 16:46:02.96
燕国と倭は関係が深かったし、実際に交易関係もあったでしょ。
青銅器とか物証も多々あるように。
燕が滅亡したんなら地理的にそれなりの数の燕人が亡命してきただろう。
一方の秦ははるか西の内陸国家だし、滅亡したとしても倭まで辿り着けたかどうか。
どちらかというと西域あるいは北方へ逃げそう。
秦人がはるばる倭に亡命してきたとしても先に秦が滅ぼした燕人のが多数来ていてかち合いそう。
燕氏はいないのに秦氏がいるのは不思議だね。
0414日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/19(土) 17:38:15.38
>>412
つ 辰韓
0415日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/19(土) 18:49:18.48
>>414
逃げ込んだ秦人というのは、西の秦本国の人々なのか、
それとも秦に仕えていた、元は別の国々の人々なのか。

燕とか魏後蜀も単一民族国家ではないよね。
蜀の張飛も自称燕人だし。
0416日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/19(土) 23:32:01.59
>>415
一旦秦に統一されたから秦でいいと思うけど、元々の秦出身者でも罪人とか儒学者とかは強制労働に東へ駆り出されることもあったんじゃねぇの
知らんけど
0418日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/20(日) 08:55:17.27
>>416
たしかに。苦役から逃げ出したとされてるね。
秦は短期で滅亡して、すぐ漢の時代になった。ので、例えば斉人が亡命してきたら、アイデンティティとしては秦人ではなく斉人で、斉を名乗ると思うんだよね。(斉藤さんとかひょっとしてそう?)
むしろ秦は祖国を滅ぼした敵。
それが秦を名乗るということは、西の秦本国出身の可能性が高い。

秦本国にいる秦人が、秦滅亡時に朝鮮半島へ逃げるのはほぼ不可能だから、
三国志に記載されたとおり、
その前の秦時代に、逃亡してきた人たちだろう。
なるほど始皇帝に迫害された儒学者が多かった可能性が高いね。

となると、
儒学者、論語、追儺、節分、城野遺跡の方相氏、は、秦人が伝えた可能性が高くなるね。
前221〜1世紀のうちには秦さんと共に伝来したことになる。
0420日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/20(日) 13:26:41.95
秦王国
0421日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/20(日) 13:44:26.51
城野遺跡は鉄が豊富。
鉄原料は全て朝鮮半島から輸入。
鉄原料は辰韓で産出。

繋がるね。

儒教は伝来していたし、当然上流階級では文字も使われていたし、
方形周溝墓繋がりで、卑弥呼も節分豆まきしていたかも。
0422日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/20(日) 14:23:07.24
「辰韓 在馬韓之東
 其耆老傳世自言 古之亡人 避秦役來適韓國 馬韓割其東界地、與之
 有城柵 
 其言語 不與馬韓同 
 名國爲邦 弓爲弧 賊爲寇 行酒爲行觴 相呼皆爲徒
 有似秦人 非但燕齊之名物也 
 名樂浪人 爲阿殘 東方人名我爲阿 謂樂浪人本其殘餘人 
 今有 名之爲秦韓者 始有六國 稍分爲十二國」

秦の労役(裴松之の注:蒙恬が対匈奴の長城を築き、その東部は遼東まで達した)から逃げてきたのが、
辰韓人で、馬韓が東部領土を与えて住まわせてあげた。
言葉が秦人のもので、燕や斉のものとは異なる。
辰韓のことを秦韓と呼ぶ者もいる。

秦の儒学者など
→前221-210に辰韓へ
→1世紀までには少なくとも豊国政権には学者として登用された。
0423日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/20(日) 14:27:56.73
古墳時代頃に渡来して混血した東アジア遺伝子というのは秦氏のものか
0424日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/20(日) 14:35:09.50
いや同時期の渡来系の一部に過ぎない。
一番多いのは奴国王の。
0427日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/20(日) 15:02:16.48
>>409
室見川銅版って、初めて知ったけど、
これって、125年なら平原の日本製銅鏡と同時期の素材じゃ無いのかな?
卑弥呼なら、160年以降だけど? 100歳でもw
銘は多分、107年倭国王師升か次代が、王宮を作ったってことだよね?
記念なら、名前入れそうだけど墓誌なのか?

もう一つ、銅版の文字が篆書体ってことは、
史記や、尚書読んだ漢人が来てたってことで
呉の太伯知ってる日本人が居た訳無い。 わけでも無くなる?

今なら、銅の年代測定精度良いんじゃないかな?
平原もだけどw 出て来てください。 だね。
0428日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/20(日) 22:29:30.65
ググったらバッタモン臭いな
銘文の年代がバラバラで清代の文鎮とか言われてるぞ
0429日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/20(日) 23:06:04.02
成分分析はまだなされていないみたいだね。
真偽のほどは定かではない遺物。
ただ本物だとすれば、当時既に漢字を使っていたことになるけど。

九州説にとっても、話を膨らませる程度の傍証なので、さほどこだわる必要は無いのだが
まああえて擁護するとすれば、

1)3つの異なる書体で書かれている
 ・悪戯や偽証が目的なら、1種類の古い書体で統一した方が信用度が上がる
 ・いずれも125年に存在した書体ではある
 ・豊富な古代史料を得られる現代ならともかく、例えば清代に3種の古代書体情報を得てこれを作るのはかなり難しい

2)3つの文がそれぞれ、125年より前に例文が存在する。
 ・これも現代ならともかく、近代以前に古代の各例文を知るのは極めて困難

3)吉武高木遺跡の発見は昭和以降。
 ・125年に王宮があった、という内容があまりにも吉武遺跡にピンポイントすぎる


近代以前に古代の書体並びに例文を収拾してこの銅版を作成するのは極めて困難。
それを発見者が中国などで見つけて持ち帰り、室見川で発見したことにする、
というのは確率論からして、ほぼありえない。

発見者が昭和以降に偽造することは可能ではある。
だがその場合、複数の書体で作成するのがおかしい。逆に怪しさを増してしまう。
0430日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/20(日) 23:11:00.58
もし本物だとすれば、呉越燕斉秦漢楽浪など各国出自の亡命知識人が、
倭国で登用されていて、
倭国王師升の全盛期にその世を祝賀して、
各流派が分担して祝賀銅銘板を作って献上した。
そんな宴が催されたのかもしれないね。

その後の倭国乱で、師升子孫派とそれ以外派との争いで破却されたとか。
0431日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/20(日) 23:25:56.87
現代中国人が盗掘して日本に持ち込んだものか、それっぽく作られたのをどっかで入手して室見川で見つけたことにしたように思える
鉛の年代分析をしないことには何とも言えないし、足に当たったのを拾ったとか都合良すぎて胡散臭すぎる
0432日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/20(日) 23:30:24.33
田川赤村の前方後円墳型地形と一緒で、ちゃんと学術調査して白黒つけておいてほしいよね。
0433日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/20(日) 23:45:10.86
平原スレで銅鏡日本製否定できるか?
100年に鏡師来てないと言える?
だれが、硯使う?
太伯の存在だれが知り得る?

中国で、清代の鑑定ってw
考古学の発掘からだろ?
マジック、トングw

文献故事は、秦でも充分あるし、
平原日本鏡なら、文字在るんじゃね?
漢人が来てるね。
0434日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/21(月) 12:48:49.29
吉武高木から出るべきだったんだろうけど
吉武高木や平原の発見より前に出てるってのが何とも?

考古学って昭和以降ものすごい発見だらけなのに、
半島忖度、記紀忖度、邪馬台国論争の都合で糞なんでしょ?
もういい加減どーでも良いのに、
編年みたいな前説否定するってのは、変なのねんw

高暘左 王乍永宮齊鬲 延光四年五

吉武高木の倭王が125年に鬲を調えた永宮を造営した。
この記録の事実は、考古学的証拠で発掘されているわけだけど、
日本に、この金石を書ける人材が存在しないはずだ。
って、話でしょ? まあ、現物も出てこない訳だけどwww

平原の鏡も日本製なんだから、漢人招いてる可能性は十分あって
で、こいつはちょっと詐欺っぽくて、漢代の徐福w
日本に絶対知ってる奴が居ない1000年前の太伯の後だって、
倭人に言うよう入れ知恵した奴のように思えるんだ。

高暘左王って、その後、だろうけど、倭王初の自称国名。 だけど中国故事。
延光年号がリアルっぽいけど、平原の倭鏡の制作年が57年~100年代で良いなら
史記や尚書よめたり篆書書ける鏡師とかも居たはずでしょ?
腹見透かされて、死刑になって、室見川に捨てられたか? 
ま~た、ラノベだwww
0435日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/23(水) 02:33:48.09
「高暘左 王乍永宮齊鬲 延光四年五」

日の光が照りつける(暘)高祖山の東(左)に、
伊都国王が永遠の宮殿を造って、鼎を祭る。125年5月。

高祖山の西 日向 ひむか
高祖山の東 日本 ひのもと

吉高高木遺跡
昔 伊弉諾尊目此國曰「日本者浦安國 細戈千足國 磯輪上秀眞國 秀眞國、此云袍圖莽句爾」

九鼎 夏の始祖禹が九州=中国全土から集めた青銅で鋳造した鼎
   夏→殷→周と引き継がれた

倭人 呉太伯の子孫と自称
稲作伝播 浙南石棚墓群(浙江省温州地市瑞安)甕棺を擁する支石墓
0436日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/24(木) 00:52:02.31
九州というのが文化水準の高さを基準にした全世界、ということを意味するのなら、
九州島=倭人にとっての全世界
それを統一したのが倭国・倭国王

東に渡海すると倭種の国々。
ということになるな。
中国系の渡来人も多かったから、そのような概念がもたらされたのだろう。
0437日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/26(土) 23:12:06.97
>>435
青銅で鋳造した鼎
ってのは、出ないんだけど、
文献では、倭人 呉太伯の子孫と自称

だし、稲作伝播では、
浙南石棚墓群(浙江省温州地市瑞安)甕棺を擁する支石墓
で、
高暘左 王乍永宮齊鬲 延光四年五
を、書ける中国人が、九州に居たし
57年か107年で、
倭人王は太伯の後と言う奏上が有った。

史記か、尚書を読まなきゃ、
誰も証拠が知り得る可能性が無い、
ただの伝説の太伯? 
漢字の無い日本人は絶対知らないんだよ?

なんで、倭人伝で壊れてる文の、これを
魏略逸文なら、正しく記録できた?

つまり、魏志が、有った物を、改竄している。

まあ、倭王に太伯の後を騙らせた
かなりの教養の有る中国人詐欺師の言は、
『馬鹿か? 洛陽から会稽の道里を東に行く位に遠い所に
会稽人が渡れるわけがない。』 と、否定された。

倭王は、太伯の後と言わせた詐欺師も
処刑された様に思う。 >>435 支石墓の主か?

学問って? 事実を、隠すと儲かるのか?
0438日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/26(土) 23:23:42.11
よくわからんが、一部だけ。
>『馬鹿か? 洛陽から会稽の道里を東に行く位に遠い所に
>会稽人が渡れるわけがない。』 と、否定された。

三国志に、呉の水軍が沖縄に出兵したことが記録されている。
戦には勝ったが、勝ったっきりで撤収して、損害の方が大きかったようだが。

また徐福の末裔が会稽の市に時々やってきたことも記録に残っている。

さすれば、
会稽人は沖縄〜倭に渡れるわけがない、とは思われていなかっただろう。
0439日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/26(土) 23:44:20.69
>よくわからんが
>また徐福の末裔が会稽の市に時々やってきたことも記録に残っている

ここは、基本的に漢代ノ文物の引用と断定できるが
平原時代の金石や、発掘硯の意味や同時代の遺物? 
江南からの往来は、日本も半島も同等だった。
0440日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/26(土) 23:52:48.35
ハツカネズミの一斉放散は、3000年前のものは、
長江流域→沖縄→日本列島→樺太、と短期間に押し寄せたのに、
なぜか対馬海峡は渡らなかった。

モデルとしては、
稲作普及前は、南方の方が食料が多く、
南西諸島沖縄経由のルートが相対的に太かった。

稲作普及後は、沿岸航海の方が安全だから、
半島経由のルートが太くなった。
0441日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/27(日) 13:39:17.02
ああそうか。
孫権が沖縄に攻め込んだということは、南西諸島についても陳寿は認識していたわけだな。
そうなると、陳寿らの地理感としては、
遼東半島>会稽>台湾、は地元感覚でわかっていて、

遼東半島 → 楽浪郡
会稽 → 倭国
台湾 → 南西諸島

というイメージは掴んでいたわけだ。

よって、東夷伝里(短里)の尺度を示すための言葉が、
「自郡至女王國 萬二千餘里」
「計其道里 當在会稽東治之東」
で、

東夷伝里(短里)は、
帯方郡から女王國まで=遼東半島から会稽までに相当、する距離が、
一万二千里に相当するくらいの比率ですよ、
と念を押しているわけだな。
0442日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/28(月) 10:47:25.55
15 南至 投馬國 水行二十日 官日 彌彌 副日 彌彌那利 可五萬餘戸
16 南至 邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月
17  官有 伊支馬 次日 彌馬升 次日 彌馬獲支 次日 奴佳鞮 可七萬餘戸
18  自 女王国 以北 其 戸數 道里 可得略載 其 餘旁國 遠絶 不可得詳
19 次有斯馬國 (略、以下次有列記20国)
20  此 女王 境界 所盡
21 其南 有 狗奴國 男子為王 其官有 狗古智卑狗 不属女王
22 自郡 至 女王國 萬二千餘里

23 男子 無大小 皆 黥面 文身 自古以來 其使 詣中國 皆自稱 大夫
24 夏后少康之子 封於會稽 断髪文身 以避 蛟龍之害
25 今 倭 水人 好沈没 捕魚蛤 文身 亦以 厭大魚 水禽後稍 以為飾
26 諸國 文身 各異 或左 或右 或大 或小 尊卑 有差
27 計 其 道里 當在 會稽東治 之東

確かに「計其道里 當在会稽東治之東」の刺青の話の段落には、
計れる道里の有る文節が存在しないので「自郡至女王國 萬二千餘里」
に、主語を求める可能性は無いとは言えない。
しかし、22 自郡 至 女王國 萬二千餘里 は、
段落内の240年梯儁の報告の、水行二十日、水行十日 陸行一月を 
陳寿が郡使に從る 郡至倭の行程の補足で言い換えた単純な里程であって
當在会稽東治之東 とは、関係性が繋がらない。
存在したであろう(旧語 自謂 太伯之後 衆聞皆訝 以其遠絶)が、
魏晋の筆写時に削除されて壊れた文節になったのかと思う。

計 其 道里 當在 會稽東治 之東 は、同時に削除すべきだった文だが、
太伯の後が渡ったとしても、会稽東治から倭人国までの道里は、
當在=洛陽から、太伯や夏后少康之子の會稽東治までの道里、
之を東するほど遠絶している、信じがたい。 なのではないかと思う。
0443日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/28(月) 17:39:37.15
>>440
3000年前と2000年前のハツカネズミの違いが判るのに
弥生人の発生源が判明しないって、どゆこと?
3000年前のネズミ連れてきた奴が弥生原人だろ?
0444日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/28(月) 19:00:38.04
Yパプロでも眺めてニヤニヤしとけ
0445日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/28(月) 22:28:58.00
>>443
ごめん。当時眠くて4000年前と書き間違えてた。
縄文末期の人口減少とリンクしてるんだと思う。
3000年前の稲作伝来とは別。
朝鮮半島からのハツカネズミが2000年前は2000年前で合ってる。
0446日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/29(火) 10:47:08.35
うん、北大のサイト見た。 
4000年前にハツカネズミが渡ってくるなら
渡来人の痕跡も無いわけで、縄文人が往復した以外の手段はないかな?

徐聞、香港方面からだから、一旦陸路などで江南に来てから、
縄文海人が南西諸島経由かな?
南西諸島人の往来ってのはどうなんだろう?
 
縄文ボトルネックの渡来人が3500年前に遡らないとも限らないけど?
まあ、渡海の遠征食で、米は持ってくるかもね? 
ネズミもだしw かわいいけど、喰ったかな?
0447日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/29(火) 20:24:38.34
縄文土器が北海道から沖縄まで移動してるから、縄文海人が長距離移動していたのはわかってる。
その縄文海人と接触していたのだし、
日々漁をしていた南西諸島人も往来してただろうね。生存確率をあげるためにも。

縄文ボトルネックがあったということは、一時期は人口が減ったのだから、
4000年前にハツカネズミがきて貝塚で大繁殖して縄文人口減少ボトルネック。
しばらく間があいてから、
3000年前に稲作伝来で人口増加に転じた、
でいいと思う。
0448日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/30(水) 18:45:48.52
平原が卑弥呼の墓ではない、と言うのは、
出土銅鏡の考古学都合の編年の問題だけでしょ?

宗教であれば、古いものでも、火焔土器だって継承するだろ?
考古学ってもんが、出来立てのガウディの建築を、
ダビンチ時代にしちゃうような話に思えるんだが?

全部、247年より古いものであれば、
卑弥呼の所蔵品で良いのではないかな?

卑弥呼が魏帝から貰ったであろう
後漢末あるいは、魏鏡は全く無かったのかね?
有れば、確定なのではないか?

まあ、日本製銅鏡が100年代前半である。 と言うなら、
卑弥呼は190年から247年の女王で、倭国大乱からの世襲ではない、
擁立王なので、三種の神器とかの継承は無かったとは思うが?

で、室見川の銅版は、考古学成果として
文字は有り得ないとは言え、吉武高木の宮の話で一致したんだが、

日本に既に史記や漢書を読んでいた、
呉の太伯の話も知っている漢人が居たから、
魏略の倭人の奏上や平原の日本製鏡が制作できたんじゃないの?
0449日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/30(水) 19:09:29.19
卑弥呼の墓は古墳ではない。

247年の
65 其八年 太守王頎到官
66 倭 女王卑弥呼 與狗奴國 男王卑弥弓呼 素不和 遣倭 載斯烏越等 詣郡 説相攻撃状

の帰国便で来日した張政が、末盧國から伊都國の間で卑弥呼の墓を見た。

68 卑弥呼 以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者 奴婢 百餘人
69 更立男王 國中不服 更相誅殺 當時 殺千餘人

遣倭 載斯烏越等の帯方郡往復1年以内で、
卑弥呼が死んで墓は盛られていた。

周濠は、後付けかもしれないけれど?
平原は可能なのではないかな?

そもそも論で、銅鏡は古墳祭祀の為に有るんだが?
平原の鏡は卑弥呼の宗教で、古墳の思想と無関係なのではないかな?
0450日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/30(水) 20:45:32.22
考古学と言うものは、
平原が卑弥呼の墓ではない、
という事を、確実に否定できている
と、言えるのかね?
0451日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/30(水) 21:47:19.52
一緒に埋められた100人の痕跡が少しでもあれば強かったんだけど無いからねぇ
平原が西都原のどっかだったら可能性あったんじゃない?
0452日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/31(木) 02:35:41.20
スレ読んでから書きこめ。

>平原遺跡の調査図の土壙墓からすると、
>まだ発掘されてない周濠部分、特に2号墓周囲にもっと土壙墓がある可能性が一つと、

>奴婢を殉葬するのに、土壙墓一つに奴婢一人ではなく、
>土壙墓一つに奴婢数人ずつを殉葬させたでもいいわけだから、
>平原遺跡で説明がついていいね。

奴婢の殉葬なんだから、土壙墓一つに2人ずつなら50、5人ずつなら10あればいい。
平原には、その土壙墓が、ある。
0453日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/31(木) 03:18:48.31
>>448
>全部、247年より古いものであれば、
>卑弥呼の所蔵品で良いのではないかな?

だよね。
三雲井原王墓なども、後漢鏡の実年代を王墓の年代にしてるから、
もうムチャクチャだよ。
例えば三雲井原王墓の清白銘連弧紋銘帯鏡と同種の鏡が、
猫塚古墳では、後世の三角縁神獣鏡と一緒に副葬されているし、
籠神社では漢鏡が現代まで伝世されていたのだから、
銅鏡では時代を新しくはできても古くはできない。

>卑弥呼が魏帝から貰ったであろう
>後漢末あるいは、魏鏡は全く無かったのかね?

>>114-
魏帝から貰ったのが楽浪鏡だろうね。方格規矩四神鏡
0454日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/31(木) 10:32:28.20
卑弥呼は奴婢女給千人だから、
八咫鏡は自分の周りに置いた祭祀用だったとしても、
平原の破鏡30枚程度は、各国から集めた女御とか
殉死した女に与えていたものなのでは無いだろうか?

殉葬100人と記録したのは、張政であって
日本の埋葬に身内以外の殉葬の習俗は無いわけで
卑弥呼の塚に一緒に埋めたのか、どっかの自国に帰って殉死したのか
倭人の説明が正しく伝わっていたかは判らないんじゃないか?

畿内王朝から迎えた、
対魏防衛のための一大卒を、
白旗で八咫鏡、剣、玉璽を与えて迎えたのは
246年の卑弥呼以外に有り得ない。

平原が卑弥呼の墓で、良いと思うぞ?
これって、大和朝廷誕生の歴史だろ。
記紀を書き直せよwww
0455日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/31(木) 20:15:12.48
同じ東夷伝の夫餘伝に、
「其死夏月皆用氷 殺人殉葬多者百数 厚葬有槨無棺」
とあるから、
陳寿が卑弥呼政権について夫餘人との何らかの関係性を見出していたのは間違いない。

夫餘伝には「濊王之印」についても記載されており、
卑弥呼政権の重臣に夫餘人がいたのかもしれないね。
0456日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/31(木) 20:22:43.32
平原遺跡には、諏訪大社で行われる神事「御柱祭」の御柱と同じ神事を行った形跡が残っている。

想像をたくましくすると、
殉葬については、失脚した卑弥呼政権では絶えたものが、
諏訪大社で残っているのではないか。

蛙神事、御頭祭、といった生贄の神事は、(規制に引っかかるので詳述は避けるが)
元は殉葬だったのではないか。
殉葬が禁止された時に、ある場所では埴輪に代わり、諏訪大社では動物に代わったのではなかろうか。

そう考えると、平原遺跡の卑弥呼埋葬直後は、現代人であれば仰天するような殉葬神事が行われ、
一定期間を経た遺骨が、土壙墓1つに複数人分ずつまとめて葬られた、のかもしれない。
0457日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/31(木) 21:43:37.13
濊については、
漢が苦手な高句麗のような、収奪族の遊牧民ではなく
楽浪、帯方、玄兎郡にも残った農耕系土着民だろ?

でなければ、
楽浪帯方の民と言うのは何民族?
濊や百の民が居たから、
漢人が頭首に収まった
楽浪帯方玄兎が成立するんだろ?

半島南部は、倭人の背景があって
漢四郡も、手が出せなかった。

こんなもんは
歴史の結論に見えるが?
0458日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/31(木) 22:39:56.94
>>456
米はできない、弥生時代なんて無い、諏訪はもちろんw
古墳以前の日本の古代人には、神社なんて全く関係ないと思うぞ?

諏訪の御柱は、猿虎の年で
山から神の宿る木を降ろすのであって
7年周期で、
神社の本殿改装に使う木を準備してんだろ?

まあ、ホントは、諏訪の神は、
伊勢とは関係ないんだけどな?

高天原とか高千穂とか?
草生えるよねwww
0459日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/01(金) 21:01:39.22
>>452
2号墓って土師器出てるから古墳時代じゃないの?
0460日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/01(金) 21:33:50.70
>>456
平原の殉葬は100。御頭祭の鹿は75。はい、論破。
0461日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/02(土) 10:34:46.96
徇葬は権力者がする事。共立の卑弥呼は権力者では無いだろう。
卑弥呼と共に殺された人ならあるかもしれないが
0462日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/02(土) 13:11:37.43
「更立男王 國中不服 更相誅殺 當時殺千餘人
 復立卑彌呼宗女壹與 年十三爲王 國中遂定」

男王も壹與も、「立」の目的語だから、自立ではなく共立されたように読める。
だとしたら不思議な話で、
男王を共立しておいて不服で抗争が起きるのなら、
そもそも誰を共立するか打ち合わせする段階で喧嘩になっていそうなものだ。
0463日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/02(土) 17:08:28.53
女性に適任者がいなくて男性にしたがうまくいかなかった。
国中全員一致では無いからだろう。
0464日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/02(土) 20:07:28.90
>>463
それで、どうして
卑弥呼が奈良纏向の大和朝廷の世襲女王だった?
と言う話になるのかな?

世襲王の場合、内紛は有り得るが?
卑弥呼は九州ローカルの鏡カルトの司祭、巫女王だろ?

九州女王は、処女である、必要が有った。
なんで、男が巫女だよwww

軍事的王権って言うのは
卑弥呼が246年に、中央王権の
対魏防衛の為の、一大卒を
白旗と、三種の神器を奉じて迎えた。

これが、ヤマト朝廷の成立である。
ここまで、九州諸国は、独立国。
てか? 
熊襲、隼人とか、統一600年以降じゃね?
0465日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/02(土) 20:14:15.28
対魏防衛の為の、一大卒を、迎えたのなら、
勝手に魏と外交交渉して、東アジア唯一の金印を授与されるわけなかろう。

>>462
一部ではなく全体の流れからすると、
卑彌呼&魏・張政派と男王&壹與派とは仲が良くないようだな。
一回の武官にすぎない張政が、現地判断で女王壹與に激告諭している。
つまり舐めている。
卑彌呼金印は男王&壹與派には、物理的には渡されたかもしれんが、
親魏倭王の権威としては引き継がれていないとみるべきだな。
0466日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/02(土) 20:22:17.92
文献解明も、歴史的実在も
解明しない、証拠主義の考古学によって、
うやむやにできる。

倭人伝は、普通に読めば、筑紫地域で自己完結してるし。
平原は卑弥呼の墓で、日本の考古学以外では、
なんの不都合も、成立しないんだが?

一大卒は246年に畿内中央の防人を、卑弥呼が迎合したと思うぞ。
卑弥呼が、一大卒に白旗と、三種の神器を献上したんだろ。

これが、日本の古代史なんだが?
邪馬台国論争って、何、マヌケな事続けてんの?
0467日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/02(土) 20:23:58.98
引き継がれてたら三国志か晋書に載るだろな
呉の抑えにならないし、呉と通交結んでなさそうだから朝貢しても放っとかれたってのが実情じゃ?
倭王も貰えなくなったから朝貢すら止めたのかもね
0468日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/02(土) 23:30:35.67
金印に釣られて魏を過大評価しすぎだよね。
卑弥呼もミステリアスな巫女女王だから話題性が先行してる。

魏は挟撃滅亡の危機を回避するため司馬懿を出陣させた。
その司馬懿が兵糧不足で撤退敗北しそうになった危機を、
大率の難升米らが倭の兵糧を贈って救った。
その見返りが金印ってだけ。その一瞬の輝きが記録に残った。

魏のほうは楽浪郡を維持するところまでが精いっぱいで、
その先の倭国での対狗奴国戦に援軍を出す能力など無かった。

魏が援軍を出す能力が無いことがわかって、
卑弥呼没後の倭国では卑弥呼派は失脚して、朝貢など当然打ち切りになったのだろう。
男王や台与から見たら魏はむしろ政敵だった。
0469日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/02(土) 23:36:42.46
突然消えてしまう難升米も当然失脚してるでしょうまい。
0471日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/03(日) 08:47:39.21
>>465
むしろ台与の擁立には魏の(張政の)バックアップがあったと見る方がわかりやすい
卑弥呼没後に男王が立つも内乱になる
張政の肝入りで台与が立つ
狗奴国もこれには抗えずついに国中が定まった
0472日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/03(日) 09:01:22.24
>>471
ふむ。
どちらにせよ卑弥呼との対立軸があったわけで、それは当然男王。
卑弥呼没後に卑弥呼派対男王派の内乱。

卑弥呼派張政の顔を立てつつ、男王派も収まるとすれば、
台与は、
男王男系の娘で、かつ卑弥呼の姪など近しい女系親族、という条件だということになる。
0473日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/03(日) 09:19:15.98
そして張政は帰国してしまい魏は滅亡する
すると台与の権威は地に落ちる
さてどうなるか
0474日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/03(日) 12:10:52.99
いや卑弥呼は長期政権であり、金印を貰ったのは晩年のことなのだから、
元々卑弥呼にもある程度の権威があったはず。
つまりは倭国王という権威。

男王で一度乱れたのが、台与で収まったということは、
一度それで手打ちになったはず。
さらに台与が張政を帰国させているので、継続して留まってもらう必要もなかった。

可能性として一番高いのは、台与かその次代が神夏磯姫かな。
0475日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/03(日) 12:35:13.11
記紀の土蜘蛛をみるとわかるが九州の連中は密告裏切り仲間割れしてる
卑弥呼より前は大乱で相攻伐し卑弥呼後も相誅するような結束力皆無な女王国の連中と姿がダブるようだ

そんなだから狗奴国一国に対してすら強く出れなかったのかもしれん
0476日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/03(日) 12:36:46.80
お前ら平原(伊都国)どこやったw
神夏磯姫の頃は伊都なんか相手にもされてねぇぞ
あと、卑弥呼死んだ後の死人が出るほどの争いの跡は九州の何処に比定するんだ??
0477日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/03(日) 12:52:14.90
伊邪國 末蘆阿田・伊都日向  奴国不弥
                 |
     |          阿志岐山城神籠石
                 |     
    邪馬嘉大坂 ⇔ <台与>旧三輪・朝倉三奈木<男王>

 有               |
 明                  菊池
 海              狗 奴 国


伊都平原卑弥呼が死去
伊都卑弥呼派(割竹形木棺分家筋)と祇園山男王派(伊都国本家)が後継争い

男王は伊都と狗奴国に挟撃されるのを回避するため、狗奴国と同盟して、
伊都派に勝利

卑弥呼長期政権の勢力を従えるため、台与を傀儡倭国王に。
大坂川上の與止日女神社に治した。

その次の神夏磯姫が香椎。
0478日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/03(日) 13:23:57.61
狗奴国が菊池川流域で傀儡のトヨを大阪に送る意味分からん
抑えが効かなくなって伊都滅亡コースじゃねぇか(実際衰退したけどな)
本州連中が九州の面倒見てやる義理ねぇだろそれ
例えば俺が出雲の残党ならその通りに伊都が動いたら理由つけて兵出さずに伊都滅ぼすわ
0479日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/03(日) 16:44:35.87
その後、壱与は晋に入朝してるね
「其後貢聘不絶 及文帝作相又數至 泰始初遣使重譯入貢」
その後も貢ぎ、遣使することは絶えなかった。文帝(司馬昭)が魏の相国になると、また、何度かやって来た。(晋の)泰始元年(司馬炎)に遣使し、通訳を重ねて貢を納めた。
0480日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/03(日) 17:30:04.88
晋の初代皇帝2年目(266年)を最後に消息が途絶える
台与が存命ならアラサーの頃のはなし
0481日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/03(日) 19:04:41.14
司馬昭が魏の相国になる(263年)
泰始元年 司馬炎(晋初代皇帝)に遣使(265年)
泰始ニ年 十一月己卯、倭人が来てその産物を献上した(266年)

頻繁に朝貢していたのに突然朝貢しなくなった女王国
0482日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/04(月) 15:11:29.93
247、8年?の台与の即位報告と朝貢、魏使送還に返礼が無かった。

この時、魏は曹芳の後見、司馬懿を退けた皇族の曹爽の専横だったが
司馬懿が仮病で出てこないと、戦に疎いのか呉の攻撃に敗戦続きだった。
この、249年が司馬懿のクーデターであって、以降
倭国の朝貢は曹家の失政として、取り合わなかった可能性が有る。

其後貢聘不絶 及文帝作相又數至 泰始初遣使重譯入貢
265と266年の重譯入貢は、魏から晋への移行であって、
韓を復興させて、後の百済新羅建国という、
半島進出を目指していた日本は状況を確認する必要が有った。
入貢は事実だっただろうとは思うが、これは屁タレの邪馬台国の台与ではなく
畿内と九州の連合政権でなければならない、のではないかな?

魏にとっても、楽浪帯方が韓を抑えており、
263年蜀の滅亡以降、倭人との友好の重要性は無くなっている。
むしろ、半島南岸で敵対の要因が見え隠れするように思うが?
これには、楽浪帯方撤収と魏の衰退が先行する。
0483日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/04(月) 17:25:10.08
倭人伝には記録されているのだが、
247年以降の対馬海峡の日本外交は一大卒が支配しており
女王の朝貢や、皇帝からの文書、賜遺之物も検閲を受けている。

使 大倭 監之 自女王國 以北特置 一大率 檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於 國中有 如刺史
王 遣使 詣 京都 帶方郡 諸韓國 及 郡使 倭國 皆 臨津 捜露 傳送文書 賜遺之物 詣 女王 不得差錯

何故、247年以降、魏と邪馬台国の外交が途絶えたか? は、ここに明白。
倭人伝論争のご都合で、倭人伝が読めない考古学で
247年対魏国交断絶、から370年七支刀の
文字の無い、東夷の歴史の真実を語るのは無理だと思うぞ。

考古学の得意とする、古墳の墓誌が有るはずだが?
何故か、七支刀や人物画像鏡は有るべき古墳から出てはいない。

記紀に先駆けた焚書、所有者に強要された盗掘。
日本には、本当の理由を言っちゃう、考古学は無いのかね?
0484日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/05(火) 08:21:35.24
スレタイに伊都をいれてくれないから間違って来てしまった
0485日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/05(火) 09:48:48.76
どーでも良いけど、
平原は伊都国じゃなくて斯馬国じゃないかと思う。
自治体が、伊都だって、名乗ってるけどw
王家の谷としてはともかく、地勢的に伊都は
吉武高木方面なんじゃね?
0486日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/05(火) 18:56:02.13
斯馬国は糸島市北部の半島部で吉武高木方面は不弥国だな。
0489日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/06(水) 04:35:29.73
>>481
北に用事があるからその先の晋と付き合っていたわけで、
東に興味が移った、ということだろうね。
0490日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/06(水) 13:10:07.84
>>460
>平原の殉葬は100

平原のどこに殉葬痕なんてあるんだよ、しかも100ってwww
0491日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/06(水) 13:20:28.41
https://scontent-itm1-1.xx.fbcdn.net/v/t1.6435-9/103623511_1646045222225871_4219026230347266470_n.jpg?_nc_cat=104&ccb=1-7&_nc_sid=730e14&_nc_ohc=kXzX55eKJlUAX_jyic1&_nc_ht=scontent-itm1-1.xx&oh=00_AfACkVQwUr9zjuTwg7iCPn7LXQDi1Dd90JgUcBgjKZNuXg&oe=651F7C3B

この平原出土の鏡の彩色方法について、奈文研は「不明」という見解だな。
これは顔料の塗布ではないらしい。
古代は顔料を膠あたりで解いて塗るくらいしか技法がなかった。
それではないということは、つまり古代の技法ではないということ。

古代の技法ではない鏡が遺跡から出てきたのならそれは現代人による捏造ではないか。

この技法は研磨による色出しなんだよ。
そして原田大六は元研磨工だね。
つまり原田による捏造。
0493日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/06(水) 17:27:49.39
版本によっては、都支国が郡支国だったという逸話も有るんで
伊都国は次有伊邪國だった、と言う可能性も無いとは言えないw

都支国王は、遣使の都市牛利なので、和音で都支国で良いのだが?
伊都が伊邪という、倭音の違いは解決しないと思う。

伊都という地名を記録して、その一大率に滞在したのは
247年の張政だけであり、240年の梯儁は伊都を知らない。

皇帝の詔書や女王卑弥呼への 賜遺之物 詣 女王 が
検閲を受けるなら、軍人で魏船の指揮官で行軍中の建中校尉梯儁は、
戦争を始める覚悟で、韓西岸から対馬海峡の渡海の
公孫氏を滅ぼした戦国王、魏による、初探検に挑んでいる。
0494日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/06(水) 18:14:35.15
>>491
>この平原出土の鏡の彩色方法について、奈文研は「不明」という見解だな。

ソースは?
0495日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/06(水) 18:37:14.24
>>494
九州の平原の銅鏡の検証の話が、
なんで、奈良の文研で着色技術が不明だから
結論が、原田の捏造なのか?

ソースは? だよねw
まあ、一枚の前漢境以外は
卑弥呼が作った、倭鏡かも知れない。

方角は全部、楽浪鏡って、のも有るね。
なもん、鉛の分析でわかるんだろ?
ばかじゃね?
0496日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/06(水) 20:24:17.54
>>494
ソースは昔読んだけど面倒くさい、検索してみ。
伊都国歴史博物館の見解は以下。

どのようにしてこのような着色がなされたのでしょうのか。その手法は今のところわかっていませんが、色のついた顔料などを直接塗布しての着色とは考えにくく、何らかの化学的な処理により変色させている可能性が考えられます。

というか奈文研があの彩色が何なのか示してるのならそっちのソースが先だろ。
0497日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/06(水) 20:27:40.66
>>49
到底、古代の技術ではないものが、古代の墓から出てきた。
その彩色技術はどうやら研磨によるものである可能性が高い。
発見者の原田大六は元研磨工である。

原田による捏造の可能性が極めて高くなるよね。
0498日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/06(水) 20:35:10.08
>どのようにしてこのような着色がなされたのでしょうのか。その手法は今のところわかっていませんが、色のついた顔料などを直接塗布しての着色とは考えにくく、何らかの化学的な処理により変色させている可能性が考えられます。

着色方法がわからなかったら捏造?
なんで?

だったら原田大六は研究機関である奈文研や伊都国歴史博物館を凌ぐ天才技術者なのか?
0499日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/06(水) 20:41:55.36
ピラミッドの石をどうやって積み上げたか現代の工法では説明できないから、
ピラミッドも捏造だな。
0500日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/06(水) 20:52:38.06
  狗邪韓國
   |     <水行十日>
   対馬
    |  
    壱岐
     |
          斯馬
伊邪國 - 末蘆阿田・伊都日向 - 奴国不彌<旧女王國=邪馬壱>
                 |
     |          阿志岐山城神籠石
                 |     
    邪馬嘉大坂 ⇔ <台与>旧三輪・朝倉三奈木<男王>

  有              |
  明                  菊池
  海              狗 奴 国


女王國は共立前の地方女王卑彌呼の旧領。
卑彌呼は不彌國に治していた。
張政が来た頃には伊都日向に移動。

伊都平原卑彌呼が死去
伊都卑彌呼派(割竹形木棺分家筋)と祇園山男王派(伊都国本家)が後継争い

男王は伊都と狗奴国に挟撃されるのを回避するため、狗奴国と同盟して、
卑彌呼派に勝利

卑彌呼長期政権の勢力を従えるため、壹與を傀儡倭国王に。
壹與は大坂川上の與止日女神社に治した。

その次の神夏磯姫が香椎。
0501日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/06(水) 21:13:44.17
>>498
平原の銅鏡は捏造!
漢委奴国王印も捏造!

って信じないと纏向邪馬台国説が崩壊するじゃん
0502日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/06(水) 22:25:22.17
>>498
>着色方法がわからなかったら捏造?
>なんで?

当り前じゃないか、古代は顔料の塗布以外に着色方法はないのだ。
そうではなく、「何らかの化学的な処理」なんだから、古代人にそんなことが出来るわけがない。
出来るのは現代人という事だね。
そんな鏡が2世紀後半の墓から出てきたという時点でそれは現代人の何者かによる捏造だ。

それは元研磨工・原田大六による捏造だ。
0503日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/06(水) 22:28:00.56
>>499
例えがおかしい。
ピラミッドはおっさんらが頑張って作った。

平原の鏡の彩色は当時のおっさんにはできない。
0504日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/06(水) 22:30:08.83
漢委奴国王印も捏造だよ。
発見された場所も分からないし、志賀島が倭国の極南界ってアホかとw
0505日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/06(水) 23:20:45.34
奴国が極南界なだけで、志賀島だけじゃないからな
朝鮮半島の東南海に位置する土地で半島より南にあたる大部分が奴国だったとしても当てはまる
当時志賀島が奴国じゃなくても構わんからな
金印貰ってすぐ埋める馬鹿は流石に居ないと信じたい
0506日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/06(水) 23:32:59.01
>>280
>前108年に30国の王国。
>金印奴国王とリンクするものとしては、中広形銅矛だね。
>伊都国に入れず、南へ南へと進んで鹿児島まで到達している。
>「倭國之極南界也」

漢委奴國王金印を志賀島に埋めて隠すよう指示したのが(伊都国)男王だね。
0507ネトウヨボクメツタイ!
垢版 |
2023/09/07(木) 00:45:44.01
九州からやってきて畿内の銅鐸文化人を征服して纏向遺跡を作ったのが後に神武と言われる邪馬台国の初代王だろう。

日本書紀の敏達記によるとヤマトに帰順した蝦夷の族長は三輪山で忠誠を誓わされている。

つまり上古のヤマト王権は諸豪族を三輪山の神に服属させることで、その祭祀を司る大王家の政治権力を受け入れさせたのだ。

大王家の大巫女が卑弥呼だろう。ヤマト王権の初代王である磐余彦が倭国を統一するために宗教を利用して作り上げたシステムがヤマト王権を産んだのだ。
0508ネトウヨボクメツタイ!
垢版 |
2023/09/07(木) 00:49:46.85
ネトウヨってバカだよな。
神代文字とか信じているんだぜ。
悔しかったら神代文字なんてインチキと言ってみればいいのにな。
結局はホツマやら竹内文書やら東日流外三郡誌を信じているわけだ。

邪馬台国九州説プププw

平安以来、日本書紀の家と言われた吉田家は邪馬台国=ヤマト国ですけど。
ネトウヨざまぁみろww草生える

そういえば日本政府が関東大震災の時の朝鮮人大虐殺の記録はないと言ったらしい。
呆れて果ててしまうわ。どれだけの証言が残ってると思っているんだ。歴史修正主義の自民党政権は早く退陣するべき。
0509日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/07(木) 01:43:57.65
漢委奴國王金印は志賀島のドルメンの下に埋納されていたと伝わっている。
支石墓の末裔なのであろうか。

九州の支石墓といえば西の伊邪國から広まっており、
石棺墓や甕棺墓はその下部構造として始まったのだから、
支石墓は廃れたとはいえ、支石墓勢力の末裔も、
吉武高木王家にある程度の縁戚関係はあったのだろう。

支石墓を浙南石棚墓群からの渡来と考えれば、
支石墓の形式や九州北西部のみという伝播状況、
朝鮮半島には無かった四眠蚕の伝来、
呉の太伯の血を引く、文身風習など会稽人との共通性、
などの説明がつく。

まさに先日話題となった吉野ケ里遺跡の石棺墓、
城野遺跡の石棺墓。
そして祇園山古墳も石棺墓。

甕棺墓というのは同時に伝来した養蚕、と関係した埋葬風習であり、
倭国乱にて各地の養蚕が廃れたために甕棺墓も廃れた。

実は石棺墓こそが旧支石墓勢力を象徴する墓制であり、
養蚕が廃れた旧甕棺墓勢力の墓制は、石棺墓に収斂していった、のであろう。
なれば、祇園山古墳石棺墓の、伊都国男王が、ドルメン形式で漢委奴國王金印を封印した、と繋がってくる。
0510日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/07(木) 04:31:26.56
>>502
ひとつしかないなら
いつできたか? だけの問題で
歴史ではない。

ドラえもん、か?
年代で証明しろ。
編年、ワロスwww
原田・・・
0511日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/07(木) 06:54:50.60
>>503
基盤には20万tの石も使われていて
それをどうやって運んで設置したかは不明
あと当時の道具では使われている石をあの精度で切り揃えることはできない。
ピラミッド研究してる人は
説明できそうな部分だけ大声で説明して
分からない部分は完全に無視して触らない
存在しないかのような態度をとる
0512日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/07(木) 09:02:49.97
金属の着色について、あるページに

「朧銀(ろうぎん、おぼろぎん)」「烏金(からすがね、うきん)」 これらは日本古来の金属の名前です。その色を表しています。自然界に移ろいゆく微妙な景色の色を身近にあるものの色になぞらえ、多くの名前を付けた日本人の感性はとても繊細と言えるでしょう。

古来がいつ頃からかは不明ですが、塗装以外の着色が出来ていたかもしれない。
0513日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/07(木) 12:25:18.08
破鏡に着色するってのは、
ペンキでも凄い技術なのカモしらんねw
0514日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/08(金) 09:56:19.83
大和朝廷、その祖先が畿内にあった物的証拠は山ほどあるが、大和、倭国が
邪馬台国かどうかはわからない
邪馬台国九州説として、卑弥呼は小国の連合国家の女王だから、
物的証拠で大きなものは、卑弥呼のお墓しかないだろう
それがなぜ見つからないのかよくわからないが、規模的
年代的に説明のつくものがあれば、それを卑弥呼の墓と
するしかなく、それ以外の物的証拠は今まで見つかって
いないのでないだろう
0515日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/08(金) 10:28:05.11
>>514
物的証拠って発掘されたってだけだぞ
誰かが言ってたが、その地方に発掘熱心な先生が居たから出土品が多くなっていることもある
後世に開発されてしまって既に破壊されてる場合もあるし、目立ってたら盗掘も受けただろう
卑弥呼の墓なんて見つからないと思うよ
0516日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/08(金) 10:43:38.33
>>514
絹から探る邪馬台国

733 :名無しさん@1周年 :2018/02/20(火) 22:32:15.88 ID:MmmtVobm0
なお絹研究の権威、布目順郎氏の見解によると・・・

https://www.jstage.jst.go.jp/article/fiber1944/45/6/45_6_P277/_pdf
> (iv)九州から本州への養蚕伝播――
> 弥生絹は今のところ福岡,佐賀,長崎の3県以外からは出ていない。
> それが古墳時代前期になると近畿,中国,北陸からも絹が出るようになり,九州では北部のみでなく熊本県からも出るようになる。
> すなわち,養蚕がわが国へはじめて伝えられてから少なくとも400年間は九州北部で独占していたことになる。
> 九州から本州への伝播経路としては,瀬戸内海ルートと日本海沿岸ルートの2つが想定される(図4)。
> 魏志倭人伝は,邪馬台国において養蚕・絹織が行われていると記し,その時期は弥生後期に当たる。
> そのことと,上記の事柄とから,邪馬台国の所在地としては,九州北部とするのが妥当と考える。
0517日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/08(金) 10:44:27.84
>>514
鉄から探る邪馬台国

> 825 :名無しさん@1周年 :2019/09/07(土) 22:55:12.63 ID:d3rkd5G50
> 弥生時代の鉄分布と北部九州を代表する海人族阿曇の分布がよく一致する
> 鉄は海人族とともに九州からやってきたんだな
> http://inoues.net/tango/tango_z1.jpg
> http://livedoor.blogimg.jp/kodaisikawakatu/imgs/7/b/7b77c3d5-s.jpg

> 828 :名無しさん@1周年 :2019/09/07(土) 23:01:52.61 ID:yQGATf5S0
> >>825
> 福岡の1621に対して奈良の13が光るねwwww
>
> そこから読み取れるのは、奈良は九州を支配するどころか近隣の山城や河内さえ支配できてなかったってことだな
> そして4世紀以降急に発展するのは九州の海人に征服されてその東国攻略の前線基地になったおかげ、と

> 841 :名無しさん@1周年 :2019/09/07(土) 23:23:21.53 ID:1L9obXG40
> >>825
> >>308の資料と照らしても間違いなさそうだな
> 弁韓の鉄材と鉄加工の技術を持った海人が西日本を席巻していき、やがて東日本をも射程に捉えたので畿内を前線基地にしたのだろう
> だが東に版図を広げるにつれて遠い九州が本国では不便になり、畿内に都を移した、というのが一番しっくりくるストーリーだ
0518日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/08(金) 10:45:11.09
>>514
中国鏡から探る邪馬台国

中国鏡の専門家によれば卑弥呼の時代の鏡は北部九州が出土の中心です

http://yamataikokunokai.com/katudou/kiroku366.htm
>■徐苹芳氏の意見
>中国社会科学院考古学研究所の所長をされた考古学者、徐苹芳氏はのべる。
>「考古学的には、魏および西晋の時代、中国の北方で流行した銅鏡は明らかに、方格規矩鏡・内行花文鏡・獣首鏡、?鳳(きほう)鏡・盤竜鏡・
>双頭竜鳳文鏡・位至三公鏡・鳥文鏡などです。
>従って、邪馬台国が魏と西晋から獲得した銅鏡は、いま挙げた一連の銅鏡の範囲を越えるものではなかったと言えます。
>とりわけ方格規矩鏡・内行花文鏡・?鳳鏡・獣首鏡・位至三公鏡、以上の五種類のものである可能性が強いのです。
>至位三公鏡は、魏の時代(220~265)に北方地域で新しく起こったものでして、西晋時代(265~316)に大層流行しましたが、
>呉と西晋時代の南方においては、さほど流行してはいなかったのです。
>日本で出土する位至三公鏡は、その型式と文様からして、魏と西晋時代に北方で流行した位至三公鏡と同じですから、
>これは魏と西晋の時代に中国の北方からしか輸入できなかったものと考えられます。」

中国社会科学院考古学研究所所長・徐苹芳氏が挙げている銅鏡はいずれも北部九州からの出土が多数
http://yamataikokunokai.com/katudou/image3/366-16L.gif
0520日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/08(金) 10:47:22.85
>>514
魏志倭人伝以外の文献から探る邪馬台国

【重要】

邪馬臺国に関する記録文献は魏志倭人伝だけではありません。
伊都国のすぐ南と書かれている文献もあるのです。


『広志』(編纂:晋の郭義恭)

広志いわく、---東南500里で到る伊都国、又南、至る邪馬臺国-----(魏志と同様に周辺国の紹介へと続く)

伊都国:福岡西区であり倭国の守衛国

又南至る

邪馬臺国:吉野ヶ里、甘木・朝倉、八女など有明海と取り巻く筑紫平野に存在した小国群の総称

2023/3/30
福岡・八女市に弥生後期の環濠集落跡 吉田・辺田ノ上遺跡 岩戸山古墳の南西
https://www.nishinippon.co.jp/item/n/1073771/
0521日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/08(金) 10:52:08.07
平原のような小さな古墳から世界最大の鏡が出てきた時点で疑うだろうが普通は。
しかも大きさが伊勢神宮にある八咫鏡と同じだと原田は主張する。
13世紀の文永樋代は具体的な形が判明しており、内径が23pですね。
安本美典さんのHPからね。
伊勢神宮の御神体の八咫鏡がまったく別の鏡に入れ変わったとは考えられず、
元々、八咫鏡が20cmくらいの大きさであった事をこれらは示しているわけ。
原田は13世紀の「内宮遷宮沙汰文」の文永樋代が内径23cmである事、
19世紀の「書紀通釈」樋代内黄金箱が内径27.3pであることを知らなかった。
つまり原田が発掘したという平原の直径46.5pという大きな鏡は、
皇太神宮儀式帳や延喜式に「一尺六寸三分」と書かれてる事のみを信用し、
原田氏がそれに合わせて作ったことが分かる。
原田に鏡の鋳造経験があることは久住さんも認めている。
これは平原発掘の巨大鏡が、原田による捏造である事の動かぬ証拠。
0523日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/08(金) 11:20:31.03
>>507
>九州からやってきて畿内の銅鐸文化人を征服して

征服していない、神武は大和の銅鐸王権の娘と結婚した。
結婚は征服ではない。

>纏向遺跡を作ったのが後に神武と言われる邪馬台国の初代王だろう。

纏向遺跡を作ったのはもう一つの天孫降臨ニギハヤヒの物部。
だから4世紀前後、その物部の女性から崇神が生まれ、大王で初の前方後円墳を採用、
後の時代まで続く。
ニギハヤヒは多くの瀬戸内勢力を伴い大和入りしたことが天神本紀に書かれている。
前方後円墳自体が瀬戸内発祥であり、纏向遺跡にその瀬戸内の要素がきわめて強いというのも、
纏向遺跡がニギハヤヒの末裔の遺跡である証拠。
0524日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/08(金) 17:33:51.35
このスレに書きこむなら、三雲南小路1号王墓の候補がニニギだということを押さえておこう。
そうなるとニギハヤヒは三雲南小路1号王墓と同時代に東征。

その時代とは30王国が伊都国王家によって倭国に統一された時代。
つまり伊都国が奴国などを支配下に置いていった時代である。
0525日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/08(金) 18:11:00.69
>>524
これ、平原とは別系統?
0526日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/08(金) 20:12:38.47
>>525
上で出てきてるけど、
伊都国の旧都である吉武木遺跡に、割竹形木棺系統と、甕棺墓系統があった。

割竹形木棺系統は、宗像の田熊石畑遺跡だから、豊国などからの東方開拓に関係した勢力だろう。
豊国や奴国と親密。
漢委奴國王金印も彼らが絡んでいるだろう。

甕棺墓系統は、養蚕しての絹生産で海外交易で大儲けした勢力だね。
いわゆる北部九州倭国の主体で、立岩遺跡など代々王といえば甕棺墓遺跡。
奴国王が滅ぼされて、三十国を統一して、
三雲南小路大王が初代倭国王で甕棺墓大王。
つまり倭国というのは絹専売制国家。対馬海峡を介しての海外交易の富を独占したわけだ。

それを支えた爾支が、奴国王を滅ぼして奴国に進出した須玖岡本遺跡D地点。
三雲南小路大王の近親者で、おそらく三雲南小路大王よりも長生きした。
0527日本@名無史さん
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2023/09/08(金) 21:13:28.92
>>526
なるほど、サンクス
本州で出土する甕棺も基本は九州由来って考えて良いのかな?
子供用になっていくけど、それ以前は甕棺すら無かった気がしてるのよね
0528日本@名無史さん
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2023/09/08(金) 21:56:46.37
>>527
小児用の甕棺が先で、縄文時代からある。
最近専門の人が書き込まないけど、海人族と関係があって、尼崎とか安満遺跡とかの地名にその名残りが残っているね。
昔はよく話題になってた。

石棺+小児甕棺がワニだろう。
弥生時代の黎明期から、朝鮮半島〜北部九州〜本州と広範囲に活動していた。
彼らは九州出身の海人族だろうね。

北部九州の甕棺墓は、小児甕棺から発展した可能性もあるけど、
たぶん別系統で、これも上で出てたけど、長江流域から四眠蚕と一緒に伝わった風習だろうね。
対馬海峡を介した絹交易で海外から青銅などを輸入して支配層となった。
0529日本@名無史さん
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2023/09/09(土) 00:00:53.86
>>528
おお、ありがとう
0530日本@名無史さん
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2023/09/09(土) 12:00:04.07
後漢書に記されたように前108年に楽浪郡が設置される。
漢帝国の影響力が文化軍事経済全ての面で大きくなったことで、
東アジア世界にも大変革が生じて、
倭の旧百余国が三十余国に整理されて、それでもそれぞれにまだ自称王家があったわけだね。
漢委奴國王金印をもらった奴国王もその三十余国の王家の一つ。

中広形銅矛やゴホウラ貝釧といった威信材が、伊都国領域だけ出土しないことから、
これらが奴国王政権のものだったことがわかる。
豊国からは出土するので、豊国は奴国王と親密だったこともわかる。

立岩遺跡など複数の代々王甕棺墓遺跡において、
銅鏡伊都国系権力者とゴホウラ貝釧奴国系権力者がどちらも甕棺墓に入っていることから、
甕棺墓は部族風習ではなく、絹交易を握った支配者の身分風習だったこともわかる。

同じくそれら遺跡において、ゴホウラ貝釧奴国系権力者がほぼ1代しかいないことから、金印奴国王が倭をリードしていたのはほぼ1代期間だけだっただろうこともわかる。
0531日本@名無史さん
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2023/09/09(土) 12:18:15.24
奴国を中心とした中広形銅矛は、南は鹿児島まで到達している(倭國之極南界也)が、
東は瀬戸内東部までしか到達していない。
つまり大阪湾に上陸していない。

次の祭祀型銅戈は伊都国を含めた北部九州全域から出土し、
大阪湾沿岸からも出土している。

一見すると、北部九州倭国の東征に見えるのだが、
よくよく解析してみると、
北部九州のいわゆる九州型銅戈(樋結合式・厚手)に対して、
いわゆる大阪湾型銅戈(樋分離式・薄手)は大阪湾沿岸の地元で作られている。

また三雲南小路王墓も実は方形周溝墓であった可能性が高く、
これはつまり、大阪の方形周溝墓勢力もまた、遠方の豪族として、
倭国形成、つまり三雲南小路遺跡1号大王の擁立に参加していたことを意味している。

銅戈形式が異なることから、西征ではないことにも注意しておきたい。
0532日本@名無史さん
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2023/09/09(土) 12:38:00.78
大阪湾沿岸に池上曽根遺跡という巨大な掘立柱建物を伴う環濠集落が発掘されている。
楠の大木を刳り貫いた井戸などが有名で、年輪年代では前1世紀へ古くなったが、
元々1世紀頃の遺跡である。
池上曽根遺跡にも方形周溝墓が20基ほど見つかっている。

池上曽根遺跡には曽禰神社があり、饒速日命と伊香我色雄命が祭られている。
鉄工房もあることから、当時建設された淡路島舟木遺跡と交流が深かった、
つまり、北部九州倭国〜舟木遺跡〜池上曽根遺跡、の鉄器ルートが繋がっていたわけであり、
ニギハヤヒ勢力の東進拠点であったと考えられる。

ここで興味深いのが、池上曽根遺跡からは祭祀型銅戈が見つかっていない、ということである。

無い、ということを証明するのは難しいので、
実は祭祀型銅戈はあったが、単にまだ見つかっていない、あるいは数が少ないので別利用された、江戸時代までに誰かが見つけて持ち去られた、可能性もあるが、
欠片も見つかっていないので、無かった、と考えるならば、

九州型銅戈は初代倭国王政権のものと考えられる。
大阪湾型銅戈はニギハヤヒではない、大阪湾沿岸の方形周溝墓豪族のものと考えられるのである。
0533日本@名無史さん
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2023/09/09(土) 12:57:42.08
魏志倭人伝に登場する、難升米の次に率善中郎将銀印を貰った伊聲耆掖邪拘という人物がいる。

ちなみに、三国志など中国史書では、初登場時にフルネーム。次からは名前だけ、で記載するというルールがあり、
伊聲耆掖邪拘は、後の2か所では掖邪拘とされているので、
伊聲耆が姓で、掖邪拘が名である。

卑彌呼や難升米は、姓がなかったことがわかる。
都市牛利は、都市が姓で、牛利が名。対馬の人だろう。
卑彌呼、難升米、都市牛利は、詔書中でもその名で記されているので、本人たちの名乗った実名である。

伊聲耆掖邪拘を、伊香我色雄に比定する研究者が多いが、理に適っている。

曽根・曽禰がニギハヤヒ系の土地、と考えれば、
平原女王墓も曽根遺跡群。
卑彌呼政権下で率善中郎将を引き継いだ伊聲耆掖邪拘が伊香我色雄で、曽禰神社。
物部が、あるいは物部に従ったのが方形周溝墓勢力、と考えれば辻褄があってくる。
0534日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/09(土) 19:06:48.82
次の広形銅矛が東征してまたひっくり返したのだな。そして大阪湾に上陸できていない、ということわ。
0535日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/09(土) 20:29:47.33
>>533
>曽根・曽禰がニギハヤヒ系の土地、と考えれば、
>平原女王墓も曽根遺跡群。

全くその通り。
大阪の池上曽根遺跡もそう。

平原は王墓ではない、防人=モノノフ=物部の墓。
0536日本@名無史さん
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2023/09/09(土) 20:35:50.41
池上曽根遺跡近くの和泉府中から、纏向石塚に先行する前方後円型墳丘墓が見つかっている。

和泉近辺は物部の拠点。
近くには二田という地名が残り、岸和田の久米田池は昔は物部田池、海沿いの泉南には田尻、鳥取という地名、
そして景初三年(239年)の銘がある画文帯四神四獣鏡が出たことで有名な和泉黄金塚古墳の隣は鶴田池があり弦田社があった。
さらに大庭寺という地名。
この二田、久米、田尻、鳥取、弦田、大庭、ことごとく先代旧事本紀の天神本紀でニギハヤヒに随伴してくる物部集団の名前。
0537日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/10(日) 08:18:39.06
>>536
それらの地域は大和川よりは南。和歌山よりは北。
この地域にまずはとりついたわけだね。
池上曽根遺跡がまさに最初の一歩。
これを第一期範囲としてみよう。

わかるのは、
大阪湾一帯に存在した高地性集落は範囲が広すぎ。
方形周溝墓もはるか紀元前からはるか広範囲に分布。
銅鐸も同様。

大阪湾型銅戈は見事に第一期範囲の南北からしか見つかっていない。
(神戸〜淀川沿い〜東大阪市は大和川より北、南に離れて和歌山県有田市)

おぼろげながら、
1世紀頃の輪郭として、
元々方形周溝墓勢力が銅鐸祭祀で存在した。
大阪湾型銅戈も彼らで、倭国建国時に関係していた。
倭国には銅戈勢力と銅矛勢力がいた。

前3世紀頃に方形周溝墓勢力が東征。

第一期範囲の部分は方形周溝墓勢力が入れていなかった地域で、
方形周溝墓勢力と協力して入ったのではないか。
0538日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/10(日) 08:47:46.38
>>534
広形銅矛は鋳型から推測される作成数と、実際の出土数に乖離があるのが有名だね。
だから実際はもっと広範囲高密度に存在していたのが、
例えば埋納前に倭国乱に突入したので、そのまま武器材料として溶かされた可能性などがある。
けれども、大阪湾沿岸からは全く出ないので、やはり上陸していない、と考えるのが妥当だろう。

井原遺跡群は方形周溝墓を伴わない甕棺墓群。
井原鑓溝大王墓の発見が江戸時代なので、この1点のみ方形周溝墓だった可能性はゼロではないけれども、
副葬品が同期する末蘆王家の桜馬場遺跡が発掘されていて、こちらは標石甕棺墓。
方形周溝墓ではない。

豊前の部分に、銅戈は薄く、広形銅矛は厚い。

銅矛勢力には、標石=旧支石墓勢力、豊前勢力、が親密。
銅戈勢力には、方形周溝墓勢力、が親密。

奴国豊後など他地域や瀬戸内は地方領土で、その時々の権力者に従う。
という構図が浮かんでくる。
0539日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/10(日) 09:54:06.59
三雲南小路1号と須玖岡本D地点とは、伊都国系倭国王系の証である
清白銘の連弧紋前漢鏡を共有しており、極めて近い近親者。

方形周溝墓勢力の協力を得た状況で、
鏡枚数の圧倒的差や、璧、ガラス製品などの格差から、
前者は倭国王に、後者は伊都国王に、なったものと考えられる。

前者の王と王妃が先に亡くなって、方形周溝墓として三雲南小路1号2号に埋葬。

後者は時代がやや下る夔鳳鏡を副葬されていることから、
前者よりもっと長生きしたことがわかる。
三雲南小路の葬儀には家族あるいは喪主として立ち会っていたことだろう。

その次に銅戈勢力と広形銅矛の争いがあり、
広形銅矛が勝利した。
倭国王師升。

その後に、亡くなったので、
須玖岡本D地点は標石甕棺墓という墓制になったものと思われる。
0540日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/10(日) 10:15:51.51
喪主は息子達だろ。師升かその兄か。
0541日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/10(日) 23:08:21.74
>立岩遺跡など複数の代々王甕棺墓遺跡において、
>銅鏡伊都国系権力者とゴホウラ貝釧奴国系権力者がどちらも甕棺墓に入っていることから、
>甕棺墓は部族風習ではなく、絹交易を握った支配者の身分風習だったこともわかる。

甕棺墓が部族ではなく身分を表す墓制であるならば、
甕棺墓被葬者については、甕棺墓に目を奪われるのではなく、
その本来の墓制がなんであるか考えること、が重要であることになる。

伊都国系倭国王系の証である清白銘の連弧紋前漢鏡を共有している遺跡は、
三雲南小路1号、須玖岡本D地点、
立岩(飯塚)、東小田峯(夜須町)、二塚山(吉野ヶ里)
以上が甕棺墓。

稗田地蔵堂(下関)、エーガ崎(対馬市峰町櫛佐賀内田ノ浦)、猫塚(高松市)
以上が石棺。

倭国建国時は養蚕全盛期。
北部九州倭国に住む伊都国王族は甕棺墓という豪華なヴェールを纏っていた。

北部九州倭国外の伊都国王族、下関対馬四国(猫塚は時代も下る)においては、
甕棺墓というヴェールが無いのでその奥が見える。
倭国王家伊都国王家の初代は、石棺墓勢力であるのだな。
養蚕を伝えた旧支石墓、つまりは太伯の末裔。本筋か外戚かはわからないが。

吉武高木遺跡の二系統のうち、甕棺勢力の正体は石棺墓で、
石棺墓が70-80年男王家の可能性が高くなってきた。
0542日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/10(日) 23:19:57.57
石棺墓は弥生早期から対馬海峡など重要地点に広く分布しているのに、
銅鏡など副葬品が妙に貧弱。

その答えは、石棺墓の中の出世組が甕棺墓であった。
内包されていたのだな。

そうなると、豊国の城野遺跡についてもわかってくる。

ゴホウラ貝釧+中広形銅矛=奴国王+田熊石畑豊国王(割竹形木棺派閥)
が、倭国成立時に失脚して、
奴国王家は滅亡して、伊都国王家の須玖岡本D地点王が進駐。

田熊石畑の割竹形木棺派閥も失脚して、石棺派閥の支配者が派遣されたのだな。
よって、城野遺跡の石棺+方形周溝墓もまた、
三雲南小路の近親勢力であったことになる。
稗田地蔵堂被葬者の子供かもしれないな。

最大規模の方形周溝墓なのに銅鏡が副葬されていないから、
銅鏡は成人後に授与されたこともわかる。
0543日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/10(日) 23:34:34.67
ホスセリ?
0544日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/11(月) 08:47:31.67
色々な説は玉石混合
邪馬台国畿内説、なぜなら物的証拠が多いから
纏向遺跡、箸墓古墳、女王卑弥呼の墓
これらは邪馬台国畿内説は間違っている物的証拠にしかならない
箸墓を卑弥呼の墓とした方が観光客が沢山来るぐらいの
考えしかない人が多いからこうなる
0545ネトウヨボクメツタイ!
垢版 |
2023/09/11(月) 11:23:56.42
ネトウヨはジャップの起源が遼河流域とすら認めないからな。

そもそも縄文人は日本語を話しておらず日本民族ではない。彼らはアイヌ民族の祖先である。

日本人のゲノムの9割は遼寧省を起源としており、また日本語そのものも元は遼河流域で話されている言葉であった。

遼河文明が寒冷化と乾燥化で衰微したときに、遼河文明人の一支流である偏堡文化人が韓半島に移動して無文土器文化人になる。彼らは山東半島系の稲作文化を受け入れた。これがジャポニカ米の起源だ。故に日本列島の米は長江系で稲作用語にオーストロネシア系の言葉が混じっている。

韓半島の無文土器文化人はやがて玄界灘を超えて北九州に移住をして弥生文化が始まる。遼寧省の偏堡文化人の土器と韓半島の無文土器と日本列島の弥生式土器は作り方が同じであり製法の共通性から、これが同じ民族であったと分かるのだ。

ネトウヨは神代文字など信じて縄文文明などと戯言をいうなかれだ。日本人の故地は遼寧省であり、ここで韓民族と隣りあって住んでいた。だから韓民族と日本人は先史時代からの兄と弟であったというわけだ。
0546日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/11(月) 12:39:26.18
筑豊に原田遺跡というのがあったと思うが、
前期には小銅鐸が、後期には鏡が出ていると以前読んだ。
これって祭器の変更ではないか。

筑豊の遠賀川沿いは物部の根拠。
物部が祭器の変更をしたのではないだろうか。
0547日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/11(月) 18:41:31.90
エーガ崎遺跡は石棺だけど連弧紋鏡は清白鏡ではない。
猫塚は石室まではわかってるけど、大規模な盗掘で破壊されて墓の形式まではわからないね。石棺だと破片が残るから、石棺ではなかったのではないかな。

けど稗田地蔵堂遺跡だけでも三雲南小路1号王が石棺勢力だったことを強く示唆するね。
なんといっても蓋弓帽があるから間違いなく倭国王族クラス。

甕棺墓が将棋の金成のような身分を示す墓制なら、
割竹形木棺もまた財をなして甕棺墓に入る可能性があるけど、
吉武高木遺跡で甕棺墓と割竹形木棺がそれぞれ入居していること。
石棺墓は広範囲長期間に渡って分布しているのに石棺墓有力者が少ないこと。
などを考えると、

割竹形木棺は海人族。海(あま)の神。
石棺墓は海人族が上陸して桑畑養蚕を主業にして甕棺墓になった。海(あま)の子孫。

と考えて考察してもいいかもしれない。
0548日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/11(月) 18:47:07.96
日本人の起源は複数でしょ。遺伝子でもそう示されてる。
遼河流域からの人ももちろんいて、方形周溝墓とかその候補。

縄文系が遅れてて、弥生渡来系がなんでも進んでいた、というのが間違い。
モザイク状であって、どちらかが進んでいた部分もあったし、遅れていた部分もあった、のだろう。

方形周溝墓の人たちは渡来してきたけれども、かといって未来人がやってきたわけでもなく、
東アジアの先進集団の一つであった倭人が既に占めていた北部九州には居つけなくて、
東に移動して倭種の一員になったのではなかろうか。
その中のごく一部の王族や知識人技術者などだけが北部九州に留まることができた。
0549日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/11(月) 19:58:23.51
方形周溝墓は九州に上陸するやいなや東に移動、畿内にも登場すると聞いた。
なにやら大陸から命からがら逃げてきた人たちを連想する。

長崎に出雲という地名、稲作という地名がある。
山陰出雲と共通している。
吉野ヶ里の銅鐸は鋳型が鳥栖にあり出雲でも出土する。

長崎→出雲
吉野ヶ里・鳥栖→出雲

これらは「原・出雲」と呼ぶべきかもしれない。
0550日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/12(火) 19:17:39.44
>>548
日本人の縄文から弥生の変化と言うのは
BC1000〜BC600に限定されるものであって
この移転が、本州内陸に移転し浸透ている可能性は無い。

地域として、鹿児島人が大阪人と混血?
何を言ってるか? 

そういう事は、藩主の移動でも
日本では永遠に有り得ない。

弥生人と言うのは、どれだけ強豪だったのか?
そんな渡来人というものは、有り得ないと思うぞ。
0551日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/13(水) 15:08:53.21
549を訂正
× 長崎に出雲という地名、稲作という地名がある。

〇 長崎に出雲という地名、稲佐という地名がある。

稲佐山ロープウェイの稲佐ね。

国譲りの「いなさ」ね。

この「いなさ」という地名、後期銅鐸最多出土地の浜松にもある。
静岡には他にも「みほ」という地名があり、出雲と共通。

大体、伊豆が「いずも」のことではないのか。
山陰出雲には大山があり、静岡には富士山。

狗奴国の最有力地である。
0553日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/13(水) 16:34:52.83
地名なんて日本中同じもんがいくらでもあるから止めなよ
邪馬台国論争じたいがそのせいなんだから
何ならインド人やユダヤ人まででてくる羽目になるから勘弁
0554日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/13(水) 19:06:23.99
>伊都も出雲

イトがイズモは苦しいんじゃない?
ありえなくもないけど。

>地名なんて日本中同じもんがいくらでもあるから止めなよ

いくらでもない、限られてはいる。
あとイズモという地名はなくとも、銅鐸が出ているところ、総じてイズモだと思っていいと思う。
あの吉野ヶ里もそうだよ。
北は関東の栃木県小山市までは銅鐸が出ている。

そのイズモを征伐に行ったのが崇神時代の四道将軍であり、
九州遠征をした景行天皇だ。

吉野ヶ里にも4世紀になって前方後方(円)墳ができるね。
そういう事。
0555日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/13(水) 19:17:27.51
だからどうしたとしか
0556日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/13(水) 22:09:55.83
卑弥呼がどこにいたかも古代史の大きな主題ではあるけど、
もう一つ、日本では今の天皇家の前に、出雲系の王権があり、
天皇家の祖先・崇神がその九州から関東(もしかして東北まで)のイズモを倒す大きな出来事があったという事。
その倒した痕跡が出雲大社、大神神社、伊勢神宮としてあるわけ。
「荒魂」を祀っているからね。
ではそのイズモ=銅鐸王権に卑弥呼がいたことになるので、
イズモの中心地はどこか、そこに卑弥呼がいたことになるが、
それは九州ではない。
出雲の神々がいたのは大和葛城。
だからそこに大和入りした神武が住んでるだろ。
大和朝廷に発祥地である。
0557日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/13(水) 22:17:42.67
× 大和朝廷に発祥地である。

〇 大和朝廷の発祥地である。

上記、吉野ヶ里もイズモであり、景行に征服されているね。

櫛田宮 佐賀県神埼市神埼町神埼419?1
景行天皇が筑紫を巡幸した際、この地の荒ぶれる神々を鎮めたことにはじまったと伝わる

鎮めたっていうのは征服だからね。
そして吉野ヶ里に前方後円墳という支配者の墓ができるわけ。
0559日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/14(木) 06:48:32.14
>>556
>ではそのイズモ=銅鐸王権に卑弥呼がいたことになるので、

魏志倭人伝に銅鐸なんて記録されていないので間違い。

邪馬鹿国の物語は畿内説スレでやってください。
0560日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/14(木) 06:54:56.29
>>551
>大体、伊豆が「いずも」のことではないのか。
>山陰出雲には大山があり、静岡には富士山。

>狗奴国の最有力地である。

大山の北は日本海、富士山の北は日本アルプス。

南の狗奴国と矛盾してアウト。

邪馬鹿国の物語はぜひ畿内説スレでやってください。
0561日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/14(木) 07:08:17.17
>>557
>上記、吉野ヶ里もイズモであり、景行に征服されているね。

考古学的に吉野ヶ里遺跡の銅鐸は古式一点のみ。甕棺墓時代の早期だろう。

考古学的に吉野ヶ里遺跡は倭国乱で衰退して前方後方墳に置き換わっている。
前方後円墳は古墳時代に入ってから。

吉野ヶ里における銅鐸時代と前方後円墳時代とが隔絶しすぎていて学術的にスリーアウト。

邪馬鹿国の物語はぜひぜひ畿内説スレでやってください。
0562日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/14(木) 11:51:06.68
この前見つかった石棺の×印などは出雲と共通してるけどね。

まどっちにしても畿内に征服されたボンクラ地域に卑弥呼はいないという事で良いね?

150mの円墳部を持つお墓もないしねwww
0563日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/14(木) 11:57:18.33
>>1
>・1号+2号の共通の周濠が、短里だと径百余歩

アホwww
お前の手のひらを6回広げた長さが一歩

短里なんてあるかアホwww
0564日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/14(木) 12:38:03.62
>>ではそのイズモ=銅鐸王権に卑弥呼がいたことになるので、

>魏志倭人伝に銅鐸なんて記録されていないので間違い。

鬼道って銅鐸しかないよん♪
0565日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/14(木) 12:45:13.43
平原の着色鏡は何らかな化学的な塗装と伊都国歴史博物館も認めている。

以下は久住さんが教えてくれた。
file:///C:/Users/owner/Downloads/15_6%20(3).pdf
6. 仕 上加工 と表面処理
金属は鋳造後の鋳凌(いざ らい),研摩の度合な どの仕上げの方向に よってそれぞれ異なった色沢に なるものである.
仕 上げ加工 を大別して タタキ仕上げ とムキ仕上げ とに分 ける.
(1)タタキ仕上げ-銅 像,彫 刻な ど の よ うに,ま ず原型に忠実 に鋳 上げ,湯 口,湯 道,
バ リな どの不要の個所を切除 し,ナ ラシ鏨(のみ)で 鋳肌をな らし,し めて,
総 体を鋳放 しの状態に仕上げす る事である.
(2)ムキ仕上げ-工 芸 品,器 物な どに よく行な う仕上げ方法で,鋳 肌 を,
ヤ ス リ,キ サゲな どの工 具で一皮 ムキ落 し,平 滑 な面に して
ト石 ・朴(ほ う)炭な どで研摩す る.この2方 法 の仕上 り方に よっても,ま た,
そ の度合に よっても,ま った く,あ るいは微妙 な色沢の変化 を表わ して くる ものであ る.
す なわち金属はあ らか じめ,受 けた取扱 いにしたがいその後,同 一 の着色剤に対 してもそ
の着色は一様ではない.
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
つまり研磨によるもの。

原田大六は元研磨工。

いい加減に原田の捏造だと気づけや、アホ。
0566日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/14(木) 13:20:57.72
美術鋳物と表面処理の関係  鈴 木 貫 爾

6-1 金色表面の肌 あらし
鋳造された青銅鋳物を火中(かち ゅ う)して,焼 肌を作り,表面の素地をあらして,
着色剤 の効果を敏 感にさせ,そ の焼 ムラは金属地肌 の景色(けしき)と なって美 しい変化を見せてくれ る.

6-2. 素焼(す やき)
鋳放 し,ま たは,よ く研摩 した青銅を薪(まき)ま たは木炭にてお よそ600℃ 〜900℃ までに焼 く.
火 色は小豆色か ら次第に淡紅色,紅 色と変 化 していくが,
それぞれ の条件 の要求に応 じた火色で とどめる.焼 上 った金属面を細かい砂,研 摩剤を用い,
繩タワシまたは水ペーパ ーで どうずり*をなし,表 面 の黒い酸化層を除去す る.
温度が高けれ ば第一の酸化膜の下層か ら緋色(ひ いろ)の 美 しい 朱銅(しゅど う)があらわれる.
よく研摩 され た平滑 な素地であれば,この朱銅を広 範囲に得 るこ とがで きる.
朱銅を厚く美しく助成させるた めには,あ らか じめ青銅の配合比を銅分 が多 くなる ように してお くこと,
焼 硼 砂の粉 末を水でとかして表面に塗布 して焼成す ることなどである.
*(注)ど うず りとは胴摺 りの意で鋳肌を研摩す る呼称


はい、この平原鏡の色www

https://scontent-itm1-1.xx.fbcdn.net/v/t1.6435-9/103623511_1646045222225871_4219026230347266470_n.jpg?_nc_cat=104&ccb=1-7&_nc_sid=730e14&_nc_ohc=Dfu5QDDZqtkAX-_uce5&_nc_ht=scontent-itm1-1.xx&oh=00_AfCYxKR5MHFvUmj0c-3vcylcTiI09ByaFwEtm_kl9aSqPA&oe=652A083B
0567日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/14(木) 18:08:31.80
>平原の着色鏡は何らかな化学的な塗装と伊都国歴史博物館も認めている。

>つまり研磨によるもの。

化学的塗装と研磨とは別物。
なんにもわからずに喚いている敗残説。
0568日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/14(木) 18:39:34.34
あからさまに薬品こぼした跡に見えて笑えるんだよなぁ
綺麗だけど
0569日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/14(木) 19:05:17.62
だからどうしたとしか。馬具が出たなら別だが。
0570日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/14(木) 19:27:27.74
九州説

志賀島国宝金印  57年の北部九州三十余国だから当然
平原遺跡一括国宝 卑弥呼墓候補の女王墓だね
特殊染色     さすが親魏倭王卑弥呼 オーパーツ染色法があったんだね

ホケノ山古墳小枝 なるほどそのまま受け止めます
箸墓古墳馬具   なるほどそのまま受け止めます
纏向遺跡     なるほどそのまま受け止めます


畿内説

志賀島国宝金印  捏造だ〜
平原遺跡一括国宝 特殊染色だから捏造だ〜

ホケノ山古墳小枝 コンタミだ〜
箸墓古墳馬具   コンタミだ〜
纏向遺跡     桃が出たから邪馬台国
0571日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/14(木) 21:57:22.24
>化学的塗装と研磨とは別物。

何らかの科学的処理なのだが、塗装も含めて。
なんで2世紀後半にそんなことが出来るのかな?w


なんにもわからずに喚いている敗残説w。
0572日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/14(木) 22:00:29.34
>>568

全くだね。
あの緑青とかいう緑色もきつすぎるだろ。
あんなきつい緑色、油絵の具で言うビリジャンのような緑色の緑青はないよね。

これは日本の歴史に残るとんでもない捏造なのだ。
0573日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/14(木) 22:01:37.64
>>571
3世紀前半の平原女王卑弥呼にはそんなことが出来たんだろうねえ。

で、研磨と化学的塗装とどっちなん?

どっちでもいいけど。
0574日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/14(木) 22:06:30.35
まともな議論を放棄して捏造捏造と必死だということは、
平原遺跡女王がそれだけ卑弥呼当確だということだな。
0575日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/14(木) 22:10:37.71
漢委奴國王金印は偽造。平原遺跡超大型内行花文鏡は捏造。
そこまでしないといけない時点でオラが村は邪馬台国じゃなかったと気づけw
0576日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/14(木) 22:12:04.77
>研磨と化学的塗装とどっちなん?

研磨=科学的処理
0577日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/14(木) 22:13:44.31
>平原の着色鏡は何らかな化学的な塗装と伊都国歴史博物館も認めている。

>つまり研磨によるもの。

化学的塗装と研磨とは別物。
なんにもわからずに喚いている敗残説。

と、親切に指摘していただいて、ようやく自分のアホさ加減に気づいたわけだな。
0578日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/14(木) 22:15:56.44
研磨の専門家が偽造したとして、染料を子供みたいにこぼしてそのままにするわけがなかろう。

卑弥呼の鬼道が銅鐸というのも同じ奴なのか?
0579日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/14(木) 22:16:56.98
もう一つ捏造の証拠は陶氏銘文鏡。

陶氏が名を成すのは5世紀の陶 弘景 以降らしい。
だから2世紀に陶氏銘文鏡なんて出るわけないの。

これも原田による捏造の証拠。
0580日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/14(木) 22:20:15.51
>>579
それを言いたければ、
陶氏という鏡師が3世紀に存在しなかったことを証明したまえ。

むしろ逆で、捏造するなら尚方作で統一するだろうよ。

脈絡もなくなんでもかんでも捏造に結び付ける辺りが某敗残説者の匂いがプンプンするぞ。
0581日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/14(木) 22:20:23.44
>染料を子供みたいにこぼしてそのままにするわけがなかろう。

アホなのか、それは緑青と言われる緑色の話。

内区の黄赤色は研磨だと言ってるだろ。
他に古代の技法があるなら言ってみ。
古代にはそんなものないんだよ。

現代人の研磨工・原田大六による捏造。
0582日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/14(木) 22:22:31.48
>>580 

徳川の三つ葉葵の紋入りの刀が平安時代から出たか?
0583日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/14(木) 22:22:44.27
>>581
つまり現代の研磨工による捏造と、現代の染色工による捏造と、
ダブルの捏造が込められている、と言いたいのかね?
どんな確率なのだそれは?
0585日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/14(木) 22:24:43.74
>>582
3世紀には3世紀の陶氏がいたんだろ。

三つ葉葵は徳川氏にほぼ固有。
陶氏なんて名前はいくらでもある。

君さ、ほんと頭悪いからさ、消えてくんない?
0586日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/14(木) 22:25:48.60
>>580
中国からは陶氏昨なんて銘文鏡は1枚も出てないよね。
0588日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/14(木) 22:28:47.75
>>587
国宝と認められようが、それを偽物と言っても何も問題はない。
0589日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/14(木) 22:29:31.68
>>586
陶氏鏡の定説は仿製鏡。
九州説だと銅鏡百枚を溶かして造り直した。

このスレで上で出た意見では楽浪鏡の可能性もあり。
0591日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/14(木) 22:30:06.02
彩色鏡について答えろ。

答えられないだろ。
0592日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/14(木) 22:31:18.31
>>591
親魏倭王卑弥呼女王の墓の最有力候補である平原遺跡から見つかった世界最大のオーパーツ銅鏡。
0593日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/14(木) 22:32:05.33
国宝はどれも捏造。都合の悪いデータはコンタミ。もうね・・・
0594日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/14(木) 22:33:55.73
洛陽から帰国する難升米らが帰途楽浪郡に立ち寄って、魏が接収した楽浪鏡を貰い受けて伊都まで輸送した
0595日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/14(木) 22:38:12.32
詐欺師原田が一番苦労したのは鏡を古く見せる事だろう。
その為に緑青に見える小細工をしたのだろうが、
何を塗ったか知らんが、緑色のきついこときついことwww
0596日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/14(木) 22:43:59.09
あと、原田大六に鏡の鋳造経験があることは、
久住さんも認めている。

では原田が作った鏡はどこに行ったのか。

国宝になってるんだよwww
0597日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/14(木) 22:44:09.03
色彩鏡は多分当時の輝きを出してみたくなったんだろうなってのはわかる
錆落としして磨いてる途中って感じだもの
左側のとことか、ミスったっぽくめくれちゃってる様に見えるしさ
その浮いてる部分は彩色じゃないし不自然だよね
0598日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/14(木) 22:46:01.08
敗残説の恨み節
0599日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/14(木) 22:52:11.16
>>1君はショックで口から泡を吹いてるようだからまた明日ねw
0600日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/14(木) 22:54:33.62
超大型内行花文鏡の意匠はやや古いものを意識しているのは確かだな。

239年には既に洛陽では蝙蝠座の内行花文鏡が登場しており、
現代人の感覚で最先端の流行を取り入れるなら、蝙蝠座にしていたはず。

超大型内行花文鏡は八葉座。

同じ伊都の倭国王墓の中で比較するならば、
方格規矩四神鏡がメインで、非方形周溝墓の井原鑓溝大王ではなく、
やはり内行花文鏡系連弧紋鏡がメインで、方形周溝墓の三雲南小路1号大王を祖として崇めているという見方もできよう。

三雲南小路1号大王墓には金銅四葉座金具も副葬されており、
当時の倭人から見て四葉座の意匠は漢帝国の権威を象徴するものであったのだろう。

井原鑓溝大王は倭国王師升であり後漢とは対等外交。

卑弥呼は漢権威を引き継いだ魏から金印を貰ったことからして
後漢権威を頼っており、それを上回るという意味での八葉座を作成したと考えられる。
0601日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/14(木) 22:56:43.86
>>599
学術論争での完敗を認める捏造連呼に大ウケしてひーひーのたうち回ってるらしいよ
0602日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/14(木) 23:17:15.18
倭で後漢シンパといえば当然金印奴国王の子孫だろうから、彼らの影響もあったのだろう。
青銅器工房といえば奴国だから、奴国の青銅器工人が超大型内行花文鏡を受注したと考えれば小型仿製鏡のような簡素なデザインも納得がいく。

保元平治の乱のように入り乱れて、狗奴国のように独立する者だけでなく、卑弥呼の配下にもまた奴国王の子孫が大勢いたのだろう。
実際魏志倭人伝に記された列国の半数くらいが奴国系だし。
0603日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/15(金) 05:43:00.09
ふむ。三雲南小路は内行花文鏡系だな。時代的に方格規矩鏡はまだなかったから選択の余地がなかったとも言えるが。
井原王墓群はたしかに方格規矩鏡系だな。こちらは時代的には内行花文鏡もあっただろうけれども方格規矩鏡を選択している。
じゃあ平原はというと両方ある。数が大事だったか大きさが大事だったか。
0604日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/15(金) 06:17:06.66
井原鑓溝は方格規矩四神鏡だから神仙思想だね。巴形銅器の初出だから被葬者は何らかの軍事行動を起こして成果を上げたことは間違いない。平原の大型内向花文鏡も注目されるが巴形銅器も実は東征している。
0605日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/15(金) 06:43:07.73
巴形銅器のモデルは南方貝でスイジガイが六脚。クモガイなら七〜八脚。北部九州倭国の海人族水軍の盾印だね。北部九州の初期モデルは多脚で古墳時代に下って東征するにつれて元の貝殻を見たことがない職人が作って四脚に減っていく。
0606日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/15(金) 17:36:02.15
倭国王師升が生口160人を連れて行った船団には、
考古学的見地からは、
井原鑓溝王墓に巴形銅器が副葬されていたので、八脚の巴形銅器で装飾された朱盾が並べられていたことが判明し、
文献からは、
後漢書にも持衰が記録されていることから、舟首には持衰が座って祈祷していたことが判明し、
たのだな。
0607日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/15(金) 17:46:02.20
奴国王+田熊石畑将軍=ゴホウラ貝釧+中広形銅矛が失脚して、
三雲南小路倭国王=祭祀型銅戈+方形周溝墓勢力となって、
東の倭種のうちの旧燕亡命集団が倭国政治に手がかりを得たのだな。

三雲南小路倭国王の跡目争いがあって、
井原鑓溝王倭国王師升+桜馬場末蘆王家=広形銅矛+巴形銅器+広形銅矛+銅釧になって、
鋳型は旧奴国で沢山出土しているから、
旧奴国勢力が盛り返して、方形周溝墓勢力を追い出したのだな。

複数勢力が権力争いをしているのが明らかであり、倭国乱へ突入。
巴形銅器関連の末蘆王家と吉野ヶ里が滅亡。
0608日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/15(金) 19:42:08.17
大王が八脚の巴形銅器、臣下の桜番場遺跡が六脚。
八という数が最上位の数字として尊ばれたわけだね。
八葉の大型内行花文鏡も同様の理由だろう。

八岐大蛇、八坂、八幡、イザナミ眷属の雷神も八神、山津見も八柱
0610日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/15(金) 23:25:38.86
祭祀型銅戈にせよ銅矛にせよその原材料はかなりの量だから、
結局は対馬海峡の取り合いだね。
その分布範囲だけでも伊都が倭国の王都であったことがわかる。
0611日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/16(土) 01:31:08.90
吉武木王家の割竹形木棺派閥の主要拠点が、
豊国の田熊石畑遺跡で、環濠集落で防御して、代々の将軍墓が見つかっている。
後の大率のように、吉武木王家が豊国を監察支配していたのだろう。

では、監察されていた地元勢力とはなにか。

山鹿貝塚から古代縄文女王の砂丘墓地が見つかっている。

北部九州から山口県にかけて広く分布する女性シャーマン指導者の流れであり、
豊国における縄文時代からの本来の指導者は彼女たちであったのだろう。
山鹿貝塚の主要土器は鐘崎式土器(鐘ヶア式土器)という縄文土器であり、
四国の田村遺跡や、和歌山の太田黒田遺跡など、弥生時代にも主要拠点となった遺跡からも見つかっている。

山鹿貝塚女王のネットワークは後の祭祀型銅剣の分布範囲と重なっており、
割竹形木棺派閥は、田熊石畑遺跡を介してこのネットワークをも利用していたのだろう。
あるいは逆に、山鹿貝塚女王家が、吉武木王家の外戚として権力を握る場面もあったかもしれず、
その一例が平原女王であった可能性も高い。
0612日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/16(土) 01:45:42.38
田熊石畑遺跡を足掛かりとして、遠賀川流域に吉武木勢力が領地を獲得していったのが、
流域の石棺墓勢力であろう。

遠賀川流域には祭祀型銅戈が多く、一方の豊国東部は広形銅矛が多い。
吉武木王家と密接に関わる中で、同じ豊国の中でも派閥があったのかもしれない。
0613日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/16(土) 07:14:30.44
山鹿貝塚女王の鐘崎式土器が活動したのは縄文晩期3500年前から3000年前だから、
本格的な水田稲作も青銅器も絹生産も無く、対馬海峡交易はあまり意味が無かった時代。

弥生時代はむろん縄文時代も街道は無く、遠距離移動は水行。
また稲作の無い時代なので当然開発された平野部など無い。
遠距離交易は水上交易であるから、
日本海沿岸の産物と、
瀬戸内太平洋沿岸の産物とを、交易するには、
関門海峡を通過する水上交易が最も効率的であり、
さらに北部九州沿岸の産物との三地域の物流の要所として、
豊国が栄えたのだな。栄えたといっても縄文レベルでの話だが。
0614日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/16(土) 07:31:26.58
あと、原田大六に鏡の鋳造経験があることは、
久住さんも認めている。

では原田が作った鏡はどこに行ったのか。

国宝になってるんだよwww
0615日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/16(土) 07:40:20.84
3000年前に石棚墓つまり呉の太伯の子孫が九州北西部の伊邪國に漂着した。
支石墓石棺墓+養蚕甕棺墓が伝来したのだな。
0616日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/16(土) 07:44:07.55
絹という高価な交易品が登場したことで、対馬海峡を経て、
遼寧勢力あるいは燕勢力と先進物品を交易できるようになった。

支石墓形式は北部九州西部までの拡散で消滅。
対馬海峡に支石墓なし。
被葬者は縄文系抜歯。
なので、漂着渡来人は伊邪國縄文集団に吸収同化された可能性が高い。
白黒つけたければDNA解析が必要ではあるが。
0617日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/16(土) 07:46:31.94
石棺墓集団は弥生早期には豊国沿岸部に侵入。
環濠集落であるので敵対侵入だな。
海上交易を押さえた。
0618日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/16(土) 07:47:14.10
原田大六の平原王墓=天照大神説を支持しているのが畿内説の寺澤薫
0619日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/16(土) 07:50:23.44
弥生前期はその状態が続き、次の大変化が弥生中期。
秦始皇帝による燕滅亡だな。
同時期に吉武木遺跡が誕生し、丹後半島に扇谷遺跡など複数の生産環濠集落が形成され、方形周溝墓が東方へ雪崩れ込んでいく。
0620日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/16(土) 08:45:17.67
>>614
ハシラノアナ捏造がバレた詐欺師が

必死でっちあげするあわれな姿www
0621日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/16(土) 09:16:19.37
ということは、寺澤薫先生は天照大神は女神だったとお考えなのだな。
0624日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/16(土) 11:32:20.54
平原遺跡は大量の中国朱が外まで溢れ出して見つかった墓だから、公孫氏滅亡後に239年中国朱を貰ってからの墓。
議論するなら卑弥呼か台与か。
0625日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/16(土) 12:13:09.48
卑弥呼の母親だというのはNHKの「歴史ヒストリア」で寺澤さんと柳田さんが言ってたね。

二人のバカ巨頭がね。

高天原伝承地って大和朝廷発祥地の御所市の金剛山中腹しかないのだから、
平原に天照大御神またはその原像になった女性がいるわけがない。

著名な考古学者でもこの程度。
0627日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/16(土) 12:28:06.85
権威ってのはそういうもんだからしょうがないけど。
論理的には飛躍しまくりだよな。
高天原は記紀の定説では宮崎高千穂。いつから御所市になったのか。
アマテラスが卑弥呼なんていつから前提条件になったのか。そしてその意味不明な理由を基準に卑弥呼の墓か判定。
0628日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/16(土) 12:34:22.40
あれだな。もうもはや_でも九州を認めると総崩れするから、神武はなし。高天原から全て巻向の穴熊戦法w
0629日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/16(土) 12:57:35.72
自生畿内説は寺澤畿内説を論破してから九州説にかかっておいで
0630日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/16(土) 14:18:28.91
>高天原は記紀の定説では宮崎高千穂。いつから御所市になったのか

ドアホ。
九州に高千穂はあるが、九州に高天原があるなんて話は、
江戸末期に薩摩藩が高原町にあると言い始めてやっと出てきたの。

それ以前、鎌倉時代や平安時代の文献でも、
古来から高天山と言われた金剛山のふもと、
奈良県御所市高天としか認識されていない。

日本最古の高天彦神社や高鴨神社がある。
大和朝廷はそこから始まった。

そして卑弥呼の墓もそこにある。
高尾張邑というのだよ。
0631日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/16(土) 14:50:32.43
神武東征前から天皇の祖が奈良にいたとは考えられない
記紀にはそう書いてないし、纒向の調査でもそれまでの大和の弥生遺跡とは連続性がなく突発的に外来勢力によって築かれたと見られている
0632日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/16(土) 15:46:36.54
>>630
詐欺に成功して食ってたのに思ったよりネット社会が急速に発達して発掘図面を誰でも見れる時代になって捏造がバレて必死、まで読んだ。
0633日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/16(土) 19:23:07.52
>>631
>天皇の祖が奈良にいた

いやそうではない。
天皇の祖先は九州。
ただ神武東征を読んで、どう考えてもあれは大和の王家に婿入りしてるだろ。
その道中を大げさな武勇伝にしているね。
神武の義理父は今も関西で親しまれ信仰されている「えべっさん」こと事代主。
主だからね。
大和という地域だけの主ではない、銅鐸文化は九州は薄いけど、西日本から関東にまで広がっていた、
その倭国の主が神武の義理父。

だから神武はその銅鐸王家に婿いだわけ。
嫁ぐじゃなく婿いだわけ。

そこに卑弥呼がいたという事。
0634日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/16(土) 19:51:34.49
>纒向の調査でもそれまでの大和の弥生遺跡とは連続性がなく突発的に外来勢力によって築かれたと見られている

そうだよ。
それがもう一つの天孫降臨ニギハヤヒの物部。
大王で初めて前方後円墳を採用したのは崇神で4世紀初頭頃。
その崇神のお母さんは物部のイカガノシコメ。
お母さんが纏向にいた、つまり物部の土地であった、
だから崇神は宮も墓も纏向なわけ。
0635日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/16(土) 19:56:08.91
>>632
この旧石器捏造事件をはるかに超えるド級の捏造発覚に九州の考古学関係者が耐えられるかどうかだな。
0637日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/17(日) 04:12:29.26
纏向遺跡第166次調査が平成21年(2009)で初代iPhoneが2007年
スマホ出荷台数の本格化が2011年からだからまさか一人一台高性能コンピュータを持ち歩いていつでも柱穴を確認できる時代が来るとは夢にも思わなかったんだろうw
0638日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/17(日) 04:42:01.41
咫というのは古代における円周率の代用。
数学的な円周率ではなく、古代職人の実用円周率ね。

小学校で習った通り、円周長=直径×3.14。

咫=0.8尺=8寸なので、銅鏡の直径が1尺であれば、
4咫=4×0.8尺=3.2尺が円周長よりちょっと大きめになる。
平原八咫鏡だと、鏡の直径が46.5センチで漢尺だと約2尺。
だから円周長は8咫。

尺咫物差し(物差しの片端が尺寸目盛、もう片端が咫目盛)なら、
円形物体の直径を尺寸目盛で測ったら、同じ数値の咫目盛を8掛けで円周長。
尺寸物差しなら、円形物体の直径を測って、その0.8倍の長さを8掛けで円周長。

例えば古代着物職人なら、お客さんの胴や腕の幅を測って、
その8咫対応長さが、胴回りや袖のぴっちりした布地幅となる。

容器職人も同じで、銅鏡あるいは円筒物の入れ物を作るのに、
銅鏡の幅を測って、その8咫対応長さの側板を作って円形に曲げれば、ジャストサイズの入れ物を作れる。
0639日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/17(日) 04:52:46.82
咫というのは古代における円周率の代用。
数学的な円周率ではなく、古代職人の実用円周率ね。

小学校で習った通り、円周長=直径×3.14。

咫=0.8尺=8寸なので、銅鏡の直径が1尺であれば、
4咫(=4×0.8尺=3.2尺)で円周長よりわずかに大きめの数値を求めることができる。
平原八咫鏡だと、鏡の直径が46.5センチで漢尺だと約2尺。
だから円周長は8咫。

尺咫物差し(物差しの片端が尺寸目盛、もう片端が咫目盛)なら、
円形物体の直径を尺寸目盛で測ったら、同じ数値の咫目盛を4掛けで円周長。
尺寸物差しなら、円形物体の直径を測って、その0.8倍の長さを4掛けで円周長。

例えば古代着物職人なら、お客さんの胴や腕の幅を測って、
その8咫対応長さが、胴回りや袖のぴっちりした布地幅となる。

容器職人も同じで、銅鏡あるいは円筒物の入れ物を作るのに、
銅鏡の幅を測って、その4咫対応長さの側板を作って円形に曲げれば、ジャストサイズの入れ物を作れる。
0640日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/17(日) 06:30:37.34

大昔の親指と中指とを広げた長さをいう。
と、あるけど
0641日本@名無史さん
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2023/09/17(日) 06:31:09.10
https://bbs11-imgs.fc2.com/thumb/890634_1670319412.png

13世紀の文永樋代は具体的な形が判明しており、内径が23p。
安本美典さんのHP.から。
伊勢神宮の御神体の八咫鏡がまったく別の鏡に入れ変わったとは考えられず、
元々、八咫鏡が20cmくらいの大きさであった事をこれらは示している。
原田氏は13世紀の「内宮遷宮沙汰文」の文永樋代が内径23cmである事、
19世紀の「書紀通釈」樋代内黄金箱が内径27.3pであることを知らなかった。
つまり原田氏が発掘したという平原の直径46.5pという大きな鏡は、
皇太神宮儀式帳や延喜式に「一尺六寸三分」かれてると
事のみを信用し、原田氏がそれに合わせて作ったことが分かる。
これは平原発掘の巨大鏡が、原田氏による捏造である事の動かぬ証拠。
0642日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/17(日) 06:32:31.96
× 「一尺六寸三分」かれてる
〇 「一尺六寸三分」とかかれてる
0643日本@名無史さん
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2023/09/17(日) 06:33:27.94
親指と中指とを広げた長さなので、決まった値は無いだろう。人によって違う
0645日本@名無史さん
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2023/09/17(日) 06:43:41.18
>>641
なんでそんなチェリーピックばっかすんの?病気かなにかか?

その同じHPに、
9世紀の「皇太神宮儀式張」に樋代の内径49.4cm、
10世紀の「延喜式」も樋代の内径49.4cm、
って書いてあるじゃないか。
49.4cmの内径なら直径46.5cmの平原鏡が丁度のサイズ。

まっとうに考えるなら11〜13世紀頃になにかが起きてる。
安徳天皇もその間だし。



捏造まみれなのはアンタだよ。
この捏造人間が。
0646日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/17(日) 06:45:12.38
自分がハシラアナ捏造したのがバレて、ごまかすために捏造を捏造して騒ぎ立てる。
レーザー照射。
0647日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/17(日) 06:45:36.40
参考2
計り直したら、22cmだった。
明日計ると19cmかもしれない。
0648日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/17(日) 06:46:01.21
時系列で考えると、
漢書の王莽伝上に記された、元始五年(後5)の東夷王が、
おそらく伊都国王配下の一王が派遣されたもので、
大量の連弧紋前漢鏡を入手した可能性が高い。璧、金銅四葉座金具、蓋弓帽、もこの時。

三雲南小路までが後5年時の連弧紋前漢鏡。祭祀型銅戈。

井原鑓溝は方格規矩四神鏡に切り替わって、広形銅矛。
同時期臣下の桜馬場に雷雲文帯内行花文鏡があるのでおそらく井原鑓溝にもあったはず。

そう考えると107年師升が得たのが方格規矩鏡と雷雲文帯内行花文鏡。
0649日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/17(日) 06:47:02.12
連弧紋前漢鏡が広範囲の有力者に配布されていたのに対して、
方格規矩鏡と雷雲文帯内行花文鏡がそれら有力者に継続配布されていない。
それどころか、伊都国男系の証である清白銘のものが出た遺跡に関しては、断絶したと思われる遺跡も多い。

更に伊都政権にとっては最も重要な臣下であるはずの末蘆国政権が、
三雲南小路1号を受け入れた、2号王妃の本拠と思われる、柏崎遺跡が滅ぼされて、
桜番場に切り替わっている。

おそらく井原鑓溝王の即位に関しては、大きな軍事衝突があった可能性が高い。
0650日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/17(日) 06:48:10.76
広形銅矛は瀬戸内まで。
巴形銅器はその先まで攻め込んでいる。

巴形銅器の形状で考えると、
原型であるスイジガイやクモガイに似せた、六〜八脚の時代のものが、広形銅矛に同期していると言える。
鋳型の出土分布も一致している。

唯一長野県上田市から七脚のものが出土しているが、これは日本海側でも勢力拡大を目指して攻め込んだが、返り討ちに遭い、
巴形銅器は鹵獲されて、勝利していないから広形銅矛埋納はできなかった、
と考えればいいか。

そうなると、広形銅矛より東方での出土が多い五脚のものは時代が下ると考えるか、
あるいは東方の倭系勢力の独自活動と考えるか。

古墳時代には四脚まで減って、九州では出ずほぼ東方のみとなる。
東方の倭系勢力の活動ともとれるが、
九州では戦乱が無く、九州から東方へ遠征を繰り返した結果とも考えられる。
0651日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/17(日) 06:48:46.36
平原の方格規矩四神鏡は楽浪鉛であり、魏が接収した楽浪郡の倉庫にあった楽浪鏡を、
帰途の難升米大率船団が貰い受けてきたものと考えられるのだが、
超大型内行花文鏡については、鉛同位体比が前漢鏡の領域にあるため、
これらを溶かして作った可能性は低くなる。

そうなると、超大型内行花文鏡が作られたのは、
そのデザインモデルとなる雷雲文帯の四葉内行花文鏡がもたらされた、
107年以降で、かつ、
楽浪銅鏡百枚がもたらされ、またごく少数の蝙蝠内行花文鏡も入手されたかもしれない、
239年よりは前だということになる。
0652日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/17(日) 06:50:40.78
日田ダンワラ古墳の金銀錯嵌珠龍文鉄鏡は、曹操墓出土のものと同型であることが判明しており、
曹操集譯注にある規定から判断すると、
魏王曹操と同格の倭地の王に贈られた、金印にも匹敵する威信材である。

この極めて重大な威信材が魏志倭人伝に記録されていないことから、邪馬台国関係者に贈られたものではないことが明らかであり、
これを贈られた候補とは、漢時有朝見者=狗奴国王をおいて他にない。

免田式土器は狗奴国の官であった狗古智卑狗一族のものと考えられるのだが、
佐賀〜伊都にも少数出土していることから、
後漢末に狗奴国が伊都までを占領していた一時期があり、
対馬海峡を経て後漢曹操と外交した時に金銀錯嵌珠龍文鉄鏡を貰った可能性が高い。
三国志に記録された曹操の動静から推測すると、210年代後半、絞り込むと216年が候補となる。

平原の超大型内行花文鏡が、これに対抗して大型かつ八葉のものを作ったとするならば、
その作製年代を、216年から238年までの間に絞り込むことができる。

おそらくは卑弥呼共立女王が反転攻勢に出て、糸島平野→佐賀平野と奪還した戦勝記念に作成したのではなかろうか。
0653日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/17(日) 06:53:29.73
親指と中指とを広げた長さというのは由来の一つであって、
単位としては、
後漢の辞典である説文解字に、咫は八寸と規定されている。
0655日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/17(日) 07:08:41.65
>>653
後漢の学者に文句言ってくれ
0656日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/17(日) 07:10:17.31
現在では、原器があって1mはどの国でも全く同じ長さ。
古代に原器は無いが、代わりをしていたのが咫ではないかと考えますが
0657日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/17(日) 07:17:06.34
尺も親指と人差し指の間の長さ、が由来。
銅尺が複数時代、複数地域で出土している。つまり原器はあった。

そして説文解字に、咫は八寸と規定されているのだから、
銅尺という原器によって、咫も規定される。

別に倭国全土で規定されていたとかいう話ではなく、
平原八咫鏡は、漢尺で直径2尺で、円周長8咫ですね、
という事実があるだけ。
0658日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/17(日) 07:38:22.67
唐の時代の尺だが
wikipediaによると
唐の大尺は、日本の正倉院蔵の尺の長さの平均によって296 mm前後と推測されている。

その銅尺も長さ、さまざまだろうね
0659日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/17(日) 16:43:57.23
>日田ダンワラ古墳の金銀錯嵌珠龍文鉄鏡

発見状況を詳しく教えてくれ。
0660日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/17(日) 16:48:28.06
>>645
>まっとうに考えるなら11〜13世紀頃になにかが起きてる。
>安徳天皇もその間だし。

>捏造まみれなのはアンタだよ。
>この捏造人間が。

壇ノ浦で行方不明になったのは草薙剣だけ。
八咫鏡も八尺瓊勾玉も無事回収された。

そんなことも知らないで原田の46.5cmの鏡が本物の八咫鏡と同系だと思っているおまえがアホ。
0661日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/18(月) 03:07:27.79
安徳天皇は従兄弟の宇佐公仲とすり替えられていたと言う伝承がある
0662日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/18(月) 06:30:55.62
卑弥呼の女系祖は豊国。大元は山鹿貝塚巫女まで辿れるだろう。
安徳天皇の女系祖つまり平家の女系祖もまた。
0663日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/18(月) 06:58:29.05
たしかに縄文山鹿貝塚の鐘ア式土器、弥生祭祀型銅剣、は瀬戸内地方を中心に分布していたから、平家勢力範囲の祖型ではあるな。
遥か祖先の本貫地に逃げ込んだともとれる。
0664日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/18(月) 07:10:03.26
原田に鏡の鋳造経験があるこ久住さんも認めている。

なら原田が鋳造したその鏡はどこに行ったの?

また
●井手将雪『倭女王大日孁貴の墓 : 日神・天照大御神に仕える巫女・太陽の妻が証明された』近代文芸社、1996年。
● 井手將雪『日本国家の起原と天孫降臨 : 天孫は奴国から伊都国へ降臨した』海鳥社、2014年.

この井手ってジジイが土地の所有者であることも認めている。

こいつ等が最初からグルで発見を捏造した事がバレバレ。
0665日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/18(月) 07:13:44.28
誤字脱字すまんね
× 原田に鏡の鋳造経験があるこ久住さんも認めている。

〇 原田に鏡の鋳造経験があることは久住さんも認めている。
0667日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/18(月) 07:26:57.81
一方の八幡神も三神のヒメ神は宗像三女神だね。
縄文弥生期から繋がっているのだろう。
0668日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/18(月) 07:52:55.13
山鹿貝塚だけじゃなくて、西だと長崎の根獅子遺跡とか、東だと山口の土井ケ浜遺跡からも女性指導者がいたことがわかっている。
広範囲だね。

渡来系要素が強いという観点からは、土井ヶ浜遺跡もそうだし、吉野ケ里遺跡でもイモガイ腕輪の銅鏡甕棺墓女性が有名だし、イモガイ腕輪を多数つけた明らかに特別扱いの少女も埋葬されているね。

そう考えると、北部九州縄文人に元々女性シャーマンを指導者とする風習があって、弥生時代もその流れも保持しながら発展していったと考えられるね。
0669日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/18(月) 08:00:05.50
考古学的には縄文系の女性指導者が各地に残りながら発展していったことがわかって、
逆に文献史学的には宗像三女神や神功皇后、記紀景行紀における多数の女性首長の存在、などが続いていたことがわかる。

甕棺墓被葬者は男性が多く、三雲井原遺跡などを含めて男王が増えてくるね。
弥生時代に入って燕など海外男系社会と接触することが増えて、男性首長が増えてきたのだろう。

しかしながら、足場の北部九州社会全体としては、女性首長の風習を色濃く残していたのだから、
吉武木遺跡の甕棺墓王が男性が多いと考えると、そうだからこそ却って、縄文要素が強い割竹形木棺墓王というのは女性だった可能性が高くなるね。
0670日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/18(月) 08:03:11.90
だがしかし宗像の田熊石畑遺跡の割竹形木棺墓は男性将軍。
難しいな。
0671日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/18(月) 09:14:01.90
平原1号墳の太刀を見て、あれが女性墓だとはちゃんちゃらおかしい。
糸島という土地柄から考えてみろ、あれは武人=防人の墓。
のちに物部と言われる連中の墓だろう、だから「曽根」という地名になる。
0672日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/18(月) 10:56:22.08
女性用の耳トウがあるのだから女王であることは確定している。
太刀が入っているということは三種の神器を揃えているわけであり単なる女性地方首長ではなく倭国王であることも確定する。

曽根つまり物部系統であることはそうだね。
0673日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/18(月) 11:02:50.93
吉武高木王家が縄文系であるなら北部九州縄文系の出自であるから女系王家が残っていたはず。
田熊石畑将軍も将軍は男だが、任命基準が吉武高木王家の女系だった可能性もある。
その場合は石棺墓甕棺墓系の北西九州女系指導者が、北東九州山鹿貝塚系つまり豊国女系指導者を監察していたことになるね。
どうだろうか。難しいね。
0674日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/18(月) 12:24:00.75
>女性用の耳トウがあるのだから女王であることは確定している。

してないよ、原田は戦争中は中国にいたんだよね。
そりゃ色々集めれただろ。
耳トウはお釈迦さまもやってるよね。

ガラスの勾玉w
翡翠ではなくガラスねw

太刀は本物、あの錆び方は捏造できない。
平原1号の遺物は本来はあの太刀だけだったろうね。
0675日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/18(月) 12:45:11.55
耳トウから女王墓とわかるのに、太刀まで副葬されていることから、
倭国王の墓だとわかる。
0676日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/18(月) 12:46:02.78
そして倭国王の可能性が高い女王墓なのに翡翠が副葬されていないことから、
越後とは敵対していたことがわかる。

そうなると、平原遺跡に御柱を立てた勢力は信州諏訪大社の勢力ではなく、
諏訪大社系統だが、信州ではない人々。
つまり長崎諏訪神社あるいは、山口周防地域などの勢力が候補となってくる。
0677日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/18(月) 12:52:46.85
後漢書に記された東の拘奴国は、四隅突出墳丘墓勢力を従えた、
丹後の赤坂今井墳墓女王の女王国と考えられ、
これも鉄器やガラス製品に満ちていることから、平原女王時代の邪馬台国と
同盟国だったことが分かる。
属してはいないが、敵対もしていない。同盟国だ。

赤坂今井墳墓には方格規矩四神鏡というか銅鏡が無いから、
239年より前に卑弥呼より先に女王は亡くなったのだろう。

また赤坂今井墳墓には伊勢丹生鉱山の水銀が使われている。
これも239年より前に亡くなったから卑弥呼が得た中国朱がまだ無かったからだろう。
0678日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/18(月) 12:56:10.70
鉄器ガラス分布で、北部九州邪馬台国〜日本海沿岸倭種拘奴国がつながり、
東端は四隅突出墳丘墓のある越中まで。

越後は敵対だから翡翠が無く、ガラス製品工房が発達した。

伊勢丹生鉱山水銀の出土で、丹後〜近江〜伊勢がつながっていたことがわかる。

近江は前方後円墳の入りが遅い。
つまり方形周溝墓勢力が残っていた地域であり、
平原方形周溝墓女王と政治的にも血縁的にも深いつながりがあったと考えられるのである。
0679日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/18(月) 13:07:31.90
四隅突出墳丘墓が分布しない越後は
邪馬台国拘奴国とは敵対だから
邪馬台国には翡翠が無く、ガラス製品工房が発達した。
0680日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/18(月) 13:27:19.38
琵琶湖にも沖島があり、竹生島と共に宗像女神信仰。

弥生時代に多重環濠の下之郷遺跡が現地人と激しく争いながら入植した跡が見つかっており、
同時期から琵琶湖沿岸に方形周溝墓が増えていく。

卑弥呼の女系祖は北部九州縄文女性巫女であり、それが
北西九州の石棺墓甕棺墓系つまり吉武高木王家の田熊石畑系統であるか、
それとも
北東九州の山鹿貝塚女王系統であるか、
のどちらかである。
0681日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/18(月) 13:35:49.16
卑弥呼は出雲系だよ。
根拠は宗女の台与が中国側に青大勾珠二枚を送っているね。
「枚」とは今も昔も平たい物、薄い物しか意味しない。
だから通常の翡翠の丸っこい勾玉ではない。

この時代の青大勾珠二枚とはこのことだ。
西谷3号墳出土の青いガラスの勾玉。
https://cdn.4travel.jp/img/thumbnails/imk/travelogue_pict/57/57/62/650x_57576237.jpg?updated_at=1546421516

ガラスって今では安物の代名詞だが、当時は決してそうではなく、
実際、大風呂南1号墓のガラス釧などでも分かるように日本海側の首長に愛蔵されていた。
もちろんこの画像の西谷3号墳出土の青いガラスの勾玉そのものを中国に送ったのではない。

全国各地に散らばっていた出雲系のその頂点にいる王族、
それはすでに大和にいたわけだ、そしてそこに九州から神武が来て婿入りしたのだ。

卑弥呼がいたのは大和葛城である。
纏向ではない、もちろん九州でもない。
0682日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/18(月) 13:47:26.45
これは多くの識者が指摘していることだが、
考古学的には現在の出雲に目立ったものが無い。

いきなり西谷3号墳を出さざるを得ないことからわかるように、
現在の出雲の土着勢力というのは考古学的には想定しづらい状況である。

弥生時代に入ってから、古浦に卜占集団が現れるが、渡来系の可能性が高い。
また土笛勢力も現れ、当然渡来系だろう。
荒神谷遺跡があるのであたかも一大勢力があったように見えるが、
周辺の集落遺跡などを検討すれば、北部九州と対抗できるような勢力がいたようには思えない。
0683日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/18(月) 13:49:26.18
おそらく出雲というのは本来北部九州の地域名、さらに詳しく指定するならば、宗像地域が出雲だった可能性が高い。

宗像地域が出雲であれば、
山鹿貝塚女王の縄文時代から、鐘ヶ崎式土器による西日本分布の基層があり、
そこに弥生時代に入ってからの遠賀川式土器による稲作全国展開が加わり、
イメージとしてはまさに出雲勢力の本貫地として整合性がとれることになる。
0684日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/18(月) 13:52:03.25
宗像地域が出雲であるなら、卑弥呼は確かに出雲系。

方形周溝墓勢力つまりは滅亡燕国の亡命勢力もまた、北部九州に遅れてやってきたため居住地を確保できず、
縄文以来の東方への港である鐘崎から、旅立っていったものと考えれば、
後の方形周溝墓平原女王との縁も成立する。
0685日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/18(月) 13:56:06.06
>>682
>考古学的には現在の出雲に目立ったものが無い。

あのね、四隅突出という高塚墳墓は弥生中期にまで遡り、日本の高塚墳墓の中でも最古なのだが。

>いきなり西谷3号墳を出さざるを得ないことからわかるように、
>現在の出雲の土着勢力というのは考古学的には想定しづらい状況である。
>北部九州と対抗できるような勢力がいたようには思えない。

考古学的に目立ったものがないのは北部九州。
どれだけの高塚墳墓が有るのか。
現代の研磨技術でしかできない彩色鏡がある平原遺跡って原田や井手による捏造であることを君は論破できないね。
出雲には加茂岩倉や荒神谷など超ド級の遺跡があり、前期銅鐸の最多出土地。
0686日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/18(月) 13:59:00.62
出雲に目立ったものが無いなどと、目立ったものがない北部九州が言うなんてお笑いだ。

ブスが美人に対して「あんたブスね」といってるようなものw
0687日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/18(月) 14:00:30.16
DNA解析にて、近畿四国に渡来系DNAが濃いという結果が出ており、
方形周溝墓勢力の入植によるものであろう。

普通に考えれば、渡来人がまず入ってくるのは九州のはずであり、
その九州の方が渡来系DNAが薄いというのは妙に見える。

その解としては、
弥生時代開始時に、
北部九州縄文女性首長社会に、長江石棚墓などごく少数ずつの渡来人がやって来て、知識や技術のみ伝えて、血としては九州縄文社会に同化していった。

北部九州に縄文社会をベースとした倭人国家群が成立してから、
徐福集団や、亡命燕集団などがやってきたので、
彼らは北部九州中央部には入れず、周辺あるいは東方へと入植していった。

なので、神武東征など九州勢の東征というのは、
イメージ的には渡来人の多い九州だから、渡来勢力が東の縄文勢力を征服したように思われがちだが、
実際は、九州縄文国家が、東方で増えた渡来系集団を、従えていったのだ、
として検討してみるのも大事だろう。
0688日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/18(月) 14:05:06.91
加茂岩倉や荒神谷というのは青銅器が埋納されているだけのことであり、
その周囲に栄えた集落遺跡や、それらを束ねた王墓などは全く見当たらない。

出雲にやっと権力者の遺構が萌芽してくるのが四隅突出墳丘墓の時代。
もはや邪馬台国の時代に入ってこようかという時代である。
しかも四隅突出墳丘墓は広島県三次市から始まっており、出雲土着の勢力ですらない。

出雲勢力というものを真面目に想定して調べたならば、ここに大きな王権は無かったということは、すぐに辿り着く結論である。
0689日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/18(月) 14:20:42.76
>>688
ごまかすな、台与が送った青大勾珠2枚について、西谷3号墳墓出土の物を超える説明ができるのかと聞いてる。

ごまかすな。

あと台与朝貢に関わる遺物として小札革綴冑がある。
https://japan-geographic.tv/shiga/shiga-ryuo-yukinoyama-nakayama-201406-0061-s.jpg
これほど精巧な冑は当時の日本では作れない。
全国で十数点出ているが、九州の周防石塚山以外はすべて畿内からだ。

つまり台与の時代に中国と通交していたのは畿内であるという事。
そろそろ諦めろ、往生際が悪い。
0690日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/18(月) 14:31:28.41
>出雲にやっと権力者の遺構が萌芽してくるのが四隅突出墳丘墓の時代。
もはや邪馬台国の時代に入ってこようかという時代である。<

アホかおまえは。
なんで四隅突出が「邪馬台国の時代に入ってこようかという時代である。」なんだか。

四隅突出は弥生中期。

>広島県三次市から始まっており、

また嘘を言う。
青木4号だったか出雲から。
ただ三次であっても構わない、あそこも広義の出雲文化圏。
0691日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/18(月) 14:34:21.68
>>688
出雲には、四隅突出墳丘墓より前には首長墓らしきものがない。
よって、日本最古勢力といえる出雲神話の舞台は北部九州がふさわしい。
その一番の候補は遠賀川流域、鐘崎などだ。
というのを、様々な角度から話している。

なぜに突然台与の時代まで飛ぶのか。
君は結果ありきで時代考証も無茶苦茶だし、議論に適していない。

西谷3号墳墓は西谷墳墓群の中では古い部類であり、
台与はおろか卑弥呼よりもずっと前の墳墓だろう。

上述のようにガラス製品は平原もそうだが北部九州邪馬台国から日本海沿岸拘奴国の範囲で分布しているのだから、
まさに北部九州勢力から賜ったものだと考えられる。

>あと台与朝貢に関わる遺物として小札革綴冑がある。
台与時代には九州は落ち着いていて、東征が本格化したということだろう。
鉄器副葬古墳が増加していく。
0692日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/18(月) 14:56:31.43
西谷墳墓群の水銀朱は全て中国朱なのだから、北部九州倭国と親密だったことが確実。
じゃなきゃどうやって手に入れるのか。
さらに鉄器やガラス製品も多いことがそれを裏付ける。

また中国朱があることから2号3号辺りが倭国乱前夜か倭国乱中だろうね。

その後東アジア全体が荒れたり、狗奴国勃興して伊都を占領されたりとかで、
239年まで中国朱が補給されない時期が続くから。
西谷墳墓群も朱が無くなって、その後滅亡する。

拘奴国は卑弥呼政権の同盟国だから、次の男王に滅ぼされたわけだ。
だから魏志には国名が記載されていない。
0694日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/18(月) 15:31:22.17
だから平原女王は曽根物部系であって、
旧吉武高木王家の割竹形木棺派閥なので宗像の田熊石畑遺跡が重要拠点であって、
遠賀川流域に上陸した石棺墓群は平原女王と同じ物部系。

そのまま東方に目を向けると方形周溝墓勢力や後の割竹形木棺古墳とかも物部系の要素が強くなってくるはず。
交野でも割竹形木棺が出ている。
0695日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/18(月) 16:50:21.70
八岐大蛇というのもまた縄文勢力に石棚墓渡来人がごく少数混ざったものであり、
本来は吉武高木王家とは同類別部族なだけ。
同じく縄文系の山鹿貝塚女王勢力を東征して、北東九州沿岸から中国地方西部沿岸を支配していた、

遠賀川式土器を持って稲作を広めたのはおそらく八岐大蛇。

前10世紀から700年ほどは北部九州縄文系による日本列島弥生化が進行し、
前3世紀に秦始皇帝により滅ぼされた燕国人が万単位で亡命してきた。

その中の知識人や技術者がワニに登用されて誕生したのが
吉武高木王家。

亡命知識人の助言により、
自領ではなく、東方に鉄器工房を作って、自領の森林保全をする。
そのために東征運動が起こり、八岐大蛇は征服され、
後の大率と同様の監察支配機関である、田熊石畑多重環濠集落が建設された。
0696日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/18(月) 17:46:21.11
>>491
残念だけど古代銅鏡の薄過ぎる作りは現代技術では再現不能
捏造は無理なんだよ

https://www.zero-position.com/entry/2019/10/22/090000
> 復元できない古代の高度技術
> 古代製は鏡の中央部が2〜3oの極薄。一方、レプリカは5〜8o。
> なぜ同じものを造らないの?という疑問がわくが、現代の技術では「それほど薄いものは割れるため造れない」そうだ。
> 東近江市教育委員会の学芸員さんも、仰っていた。
> 「も」というのは、時々訪問する黒塚古墳(奈良県天理市)の天理市立黒塚古墳展示館にもレプリカがあり、同じことを展示館のガイドさんから聞いている。
> あまりに薄いので光にかざすと鏡の紋様が鏡面に浮かび上がるため「魔鏡」説もある。興味のある人はググってみてください。
0697日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/18(月) 18:08:53.97
>>696
適当なことをいうな。

古代鏡で顔料の塗布ではない彩色なんてあるかよ。
あれは元研磨工・原田大六の捏造。
0698日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/18(月) 18:10:26.11
>>692
>北部九州倭国と親密だったことが確実。

王墓がないのだが。
0699日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/18(月) 18:16:56.65
>>691
>出雲には、四隅突出墳丘墓より前には首長墓らしきものがない。

あのなぁ四隅突出は弥生中期。
その時代に、全国を見渡してもどこに王墓らしきものがあるのか。
九州なんてクソだろが。

>西谷3号墳墓は西谷墳墓群の中では古い部類であり、
台与はおろか卑弥呼よりもずっと前の墳墓だろう。

諸説あるが3c前半くらいだよ。卑弥呼よりもずっと前の墳墓であるわけないだろ。
0700日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/18(月) 18:34:52.20
>>697
答えようが無いんだよね。
君の独自理論だから。

国宝に認定されている時点で専門家の審査をパスしている。
複数の専門家が平原鏡を含む論文を出しているけど、そんな問題が指摘されたものがない。
彩色なんて基本中の基本に疑義があれば、当然喧々諤々の論争が巻き起こってるはずだよね。

現時点では、
>卑弥呼がいたのは大和葛城である。
>纏向ではない、もちろん九州でもない。
というのが結論の人が、何かわけのわからない言いがかりをつけてきてる状況。

どうしても検討してほしいのなら、
彩色や研磨について検討した論文を教えてくれない?
0702日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/18(月) 20:42:24.67
>複数の専門家が平原鏡を含む論文を出しているけど、そんな問題が指摘されたものがない。

その論文とやらは彩色に触れてるのかな。触れてないなら只の駄文。
奈良文化財研究所も「分からない」という結論を出している。
ということは古代の技法ではないという事。
その時点で国宝になんかしてはいけない代物。
久住さんが言うには、実際、世界最大鏡に対して捏造ではないかという意見があったらしい。
それを強引に押し通しての国宝認定。
国宝に認定されたから正しいというわけではない。
0703日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/18(月) 20:42:30.64
>複数の専門家が平原鏡を含む論文を出しているけど、そんな問題が指摘されたものがない。

その論文とやらは彩色に触れてるのかな。触れてないなら只の駄文。
奈良文化財研究所も「分からない」という結論を出している。
ということは古代の技法ではないという事。
その時点で国宝になんかしてはいけない代物。
久住さんが言うには、実際、世界最大鏡に対して捏造ではないかという意見があったらしい。
それを強引に押し通しての国宝認定。
国宝に認定されたから正しいというわけではない。
0704日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/18(月) 20:42:39.23
>複数の専門家が平原鏡を含む論文を出しているけど、そんな問題が指摘されたものがない。

その論文とやらは彩色に触れてるのかな。触れてないなら只の駄文。
奈良文化財研究所も「分からない」という結論を出している。
ということは古代の技法ではないという事。
その時点で国宝になんかしてはいけない代物。
久住さんが言うには、実際、世界最大鏡に対して捏造ではないかという意見があったらしい。
それを強引に押し通しての国宝認定。
国宝に認定されたから正しいというわけではない。
0705日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/18(月) 20:44:03.01
あぁごめんごめん、重なってしもうた、
0706日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/18(月) 20:48:25.10
>>701
>捏造だという理由は?

あの彩色は現代の研磨という技法でしか説明できないからさ。
そして発見者の原田が元研磨工。
普通は疑うよね。
0707日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/18(月) 20:52:05.94
>>702
だから、専門家が平原鏡を含めて各種分析を行う種々の論文において、
彩色について問題にしている論文が存在しない。

それを駄文と言うなら、その根拠を示す責任は君の方にある。
その根拠とやらを示してくれ。

>奈良文化財研究所も「分からない」という結論を出している。
どういう点について、どういう風に、分からない、と言っているのか、
ソースを示してくれ。

>久住さんが言うには、実際、世界最大鏡に対して捏造ではないかという意見があったらしい。
久住さんがそう言ったソースを示してくれ。

今のところ、君の主張には何の根拠もない。

こちらとしては、彩色が特殊なのであれば、その点についても研究したいので、
根拠となる研究論文などあれば教えてほしい。
0708日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/18(月) 20:53:56.54
>>706
>あの彩色は現代の研磨という技法でしか説明できないからさ。

そのソースは?

根拠を示せないなら、そろそろ葛城説者が意味不明のイチャモンをつけてきただけの珍事として片づけるけど。
0710日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/18(月) 21:55:42.37
>そのソースは?

上で出してるだろ、東京芸大の先生。
それ以外で緋色が出せるのなら教えてもらおうか。
0711日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/18(月) 21:58:46.09
平原の彩色鏡を説明できるのはこれしかない、他にあれば言ってもらおうか。

美術鋳物と表面処理の関係   鈴木貫爾 鋳金(ちゅうきん)家・東京芸術大学教授
6-1 金色表面の肌 あらし
鋳造された青銅鋳物を火中(かちゅう)して,焼肌を作り,表面の素地をあらして,
着色剤 の効果を敏 感にさせ,その焼 ムラは金属地肌 の景色(けしき)となって美 しい変化を見せてくれる.
6-2. 素焼(すやき)
鋳放し,または,よく研摩 した青銅を薪(まき)ま たは木炭にておよそ600℃ 〜900℃ までに焼 く.
火色は小豆色から次第に淡紅色,紅色と変化 していくが,それぞれの条件の要求に応 じた火色でとどめる.
焼上った金属面を細かい砂,研摩剤を用い,繩タワシまたは水ペーパ ーでどうずり*をなし,表面の黒い酸化層を除去す る.
温度が高けれ ば第一の酸化膜の下層から緋色(ひいろ)の 美しい朱銅(しゅどう)があらわれる.
よく研摩された平滑な素地であれば,この朱銅を広 範囲に得ることができる.
朱銅を厚く美しく助成させるた めには,あ らかじめ青銅の配合比を銅分が多くなるようにしておくこと,
焼硼砂の粉末を水でとかして表面に塗布して焼成することなどである.
*(注)どうずりとは胴摺りの意で鋳肌を研摩する呼称
0713日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/18(月) 22:02:24.18
分からないってだけなのに
「現代の技法じゃないとできない!捏造だぁ!」
かw
お粗末すぎてわろた
0714日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/18(月) 22:02:37.28
>だから、専門家が平原鏡を含めて各種分析を行う種々の論文において、
彩色について問題にしている論文が存在しない。

誰が見ても彩色であり、そうではないなんて言ってる人はいない・
久住さんは偶発的銅イオン変色なんて苦しい言い訳をしていた。
偶発なわけがない、ちゃんと塗り分けしてるのだから。
また、なんで土中にあったのに偶発的に変色するのか、久住さんも答えれない・。
0715日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/18(月) 22:05:15.40
>>713
古代は顔料の塗布しか彩色の方法がない。
しかしそれではないのだから古代の技法ではない。
それを説明できるのが現代技術である研磨。

少し頭の良い子供でも分かると思うが。
0716日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/18(月) 22:13:26.44
>>715
根拠の意味がわかってないようだね。
根拠の意味が分かってないからこそ、葛城説の結果ありきで科学的根拠のないことを信じこんでるんだろうけど。

>古代は顔料の塗布しか彩色の方法がない。
その根拠は?

>焼上った金属面を細かい砂,研摩剤を用い,繩タワシまたは水ペーパ ーでどうずり*をなし,表面の黒い酸化層を除去す る.

この作業は弥生時代でも出来ることなのでは?

彩色の問題というのがどの部分を問題にしているのかすらよくわからないが、
君の提起した問題は、
焼き上がった金属面を細かい砂を用いてすなずりをなして、表面の黒い参加層を除去することで
弥生時代でも達成できた、
という回答が得られていると思うのだが。

>少し頭の良い子供でも分かると思うが。

少し頭の良い大人なら、こんな馬鹿なツッコミをして、葛城説の信用を落とす真似はしないと思うが。
0717日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/18(月) 22:17:49.57
アスペは分からないことを分からないまま保留することが出来ない
0718日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/18(月) 22:27:08.49
平原の彩色鏡を説明できるのはこれしかない、他にあれば言ってもらおうか。

美術鋳物と表面処理の関係   鈴木貫爾 鋳金(ちゅうきん)家・東京芸術大学教授
6-1 金色表面の肌 あらし
鋳造された青銅鋳物を火中(かちゅう)して,焼肌を作り,表面の素地をあらして,
着色剤 の効果を敏 感にさせ,その焼 ムラは金属地肌 の景色(けしき)となって美 しい変化を見せてくれる.
6-2. 素焼(すやき)
鋳放し,または,よく研摩 した青銅を薪(まき)ま たは木炭にておよそ600℃ 〜900℃ までに焼 く.
火色は小豆色から次第に淡紅色,紅色と変化 していくが,それぞれの条件の要求に応 じた火色でとどめる.
焼上った金属面を細かい砂,研摩剤を用い,繩タワシまたは水ペーパ ーでどうずり*をなし,表面の黒い酸化層を除去す る.
温度が高けれ ば第一の酸化膜の下層から緋色(ひいろ)の 美しい朱銅(しゅどう)があらわれる.
よく研摩された平滑な素地であれば,この朱銅を広 範囲に得ることができる.
朱銅を厚く美しく助成させるた めには,あ らかじめ青銅の配合比を銅分が多くなるようにしておくこと,
焼硼砂の粉末を水でとかして表面に塗布して焼成することなどである.
*(注)どうずりとは胴摺りの意で鋳肌を研摩する呼称


以上の工程を、弥生時代の伊都國平原女王卑弥呼のお抱え工人が弥生時代の物品でやりましたとさ
めでたしめでたし
0719日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/18(月) 22:37:57.17
北部九州の銅矛とかは綾研ぎされてるのが特徴だったと思うけど、
研磨とちがうのか?

そもそも研磨なんて原始的な技法だろ。
平原八咫鏡は国産鏡なんだし腕によりをかけて最高級の研磨したんだろうよ。
0720日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/18(月) 22:45:49.14
だから研磨に使ってた砥石と思われてたのが、実は硯でしたよということで文字を使ってたんだろうとなって、そりゃ金印もらってたから木簡で外交文書書いて封泥押してたんだよねってのが最近の学説でしょ。国宝金印が捏造とか国宝平原鏡が捏造とかやってるから染料しか無かったとか畿内ルールを作るしベニバナ花粉で染色するのが最先端とかで頭がおかしくなってんだろうよ。
0721日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/18(月) 22:47:21.19
>>716
>焼き上がった金属面を細かい砂を用いてすなずりをなして、表面の黒い参加層を除去することで
弥生時代でも達成できた、
という回答が得られていると思うのだが。<

平原と同じ技法の彩色鏡ってどこの古墳出土の鏡なの?
0722日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/18(月) 22:48:11.76
その前に弥生時代に研磨剤があったのか?
0723日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/18(月) 22:48:58.36
>>721
さあね。
張政さんが研磨してくれたけど、台与が追い返しちゃったんじゃないの?
0725日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/18(月) 22:53:04.35
平原のような顔料塗布ではない美しい彩色鏡が造れたなら、
他にもたくさんあっただろうに、全然ないのだよ。
顔料塗布の彩色鏡はあるのだがね。
0727日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/18(月) 22:56:07.28
>そもそも研磨なんて原始的な技法だろ。

研磨でなく、研磨による彩色技法の話なのだが。
0728日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/18(月) 22:56:20.41
日本列島で他に全然ないのなら、
後世の七支刀のように、当時だと楽浪郡で特鋳された贈答品なのかもな。
0729日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/18(月) 22:57:44.65
銅鏡94枚は楽浪郡の倉庫にあった楽浪鉛の方格で、
超大型内行花文鏡6枚は洛陽に残っていた前漢鉛で作った特注品なのでは?
0730日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/18(月) 22:59:13.65
平原の彩色鏡と同じようなものが弥生時代に普通にあれば何も問題はないが、
他にはないから、どうやって彩色したのだろうという話なんだが。
0731日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/18(月) 23:00:37.15
>>728
中国にもあのような彩色鏡はないはずだが?
0732日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/18(月) 23:01:08.25
楽浪郡貞柏里遺跡の大型内行花文鏡(20.8センチ)も同じような色合いに見えるけど。
0733日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/18(月) 23:04:27.18
ちょっと待て。

彩色とはどの部分のことを言ってるのだ?

黒っぽくなってる部分のことか?

それとも緑青っぽい青い部分のこと?
0734日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/18(月) 23:05:30.74
>>732
画像は?
0735日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/18(月) 23:06:21.65
>>733
内区の黄色または緋色
0736日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/18(月) 23:07:34.53
公孫氏から贈られたあるいは逃げてきた楽浪郡の鏡師が作らされたが、
卑弥呼死去時に殉葬させられて技術が絶えた、
あるいは次の男王時代の内乱に巻き込まれて絶えた、
に一票。
0738日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/18(月) 23:13:32.50
>>737
わずかでないわ、はっきり分かるだろ
0740日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/18(月) 23:17:34.36
>>734
ごめ。かん違いかもしれん。
ただ大型内行花文鏡は日本だけじゃないと言いたかっただけ。
0741日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/18(月) 23:24:48.68
ああ、これね。

超大型内行花文鏡を作るでしょ。
威信鏡として祭祀に使うし卑弥呼は長寿長期政権だしでそれなりの年月は経過するでしょ。
手入れしてても緑青やら錆やらあるいは汚れがそれらに混入して表面に封入付着する。

で、卑弥呼が亡くなって、副葬する際に、倭国王家の慣例として破鏡にすることになる。

青銅鏡を割るのに鉄斧だってそう簡単には割れないわけで、
熱して柔らかくしてから割るわけだ。

その時に表面に付着してるものが溶け込むわけだけど、
他の銅鏡に比べて超大型内行花文鏡は分厚いから、それだけしっかりと溶かさないといけない。
だから他の銅鏡に比べて表面がトロトロとろけて不純物が色々混ざりこんだんだよ。
0742日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/18(月) 23:30:01.71
そういう目で見ると綺麗な鏡だな。
しばらく見とれてしまった。こりゃ卑弥呼だわ。
0743日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/18(月) 23:35:00.69
>>741
その技法が使えるとしたら、

まず鋳造する
数か月置いておいて、緑青をつける
窪み部分に粘土を置いて、酢で凸部分の緑青のみ溶解除去する
黄色なり緋色なりなんなりの染料を好みの部分に塗布する
全体を熱して表面を半熟に溶かして緑青や染料を本体に溶け込ませる
冷やして完成

で、染色できるんじゃね?
0744日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/18(月) 23:50:26.51
そう簡単にこんなきれいに染色できるなら後の鏡も続々とやってたはずだから、
偶発的なものだろう。

やはり破鏡にするため熱する際に、表面を酢などで軽くざっと清掃する。
だから窪んだ部分の緑青や汚れはこびりついたままで、
そこから柔らかくするため熱する。
超大型内行花文鏡は分厚いので他の銅鏡よりもしっかりと熱して、
表面がとろけて緑青など不純物が溶け込んで意外な色合いがついた。
鉄斧で割って、そのまま副葬だから、その意外な染色法の価値は気づかれないまま終わった。
0745日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/18(月) 23:56:07.42
割る人から見たら、真っ赤な状態で割って、破片を水桶にでも次々に入れていって、
あとは葬儀の時にバラバラの破片として積み置いたわけだから、
意外な染色ができていることに気づかなかったのだろう。
しかも平原遺跡の1回こっきりだし。
0746日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/19(火) 00:11:46.07
ははーん。なるほど。
柳本大塚古墳も下池山古墳も大型内行花文鏡は割られておらんな。
0748日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/19(火) 06:02:04.36
捏造者の片棒担ぐなんて情けない人生。
これは国民をみんなだます犯罪だからね。
0749日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/19(火) 07:25:43.61
>>739
分からないふりも大変だね、ご苦労さん。

あの鏡の彩色が分からないなんて君だけ。
0750日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/19(火) 07:45:39.77
だいたい井手っておっさんの第一発見状況がおかしいの。
蜜柑を植えるために50p掘れる耕運機で植樹帯を作ってた時に、、
偶然、鏡の破片を拾ったらしい。

蜜柑は3m間隔で30〜40p惚れれば十分。
耕運機は持ち上げれるから、
■・・・・■・・・・■
こんな感じで掘れば楽だし無駄がない。

所が
■■■■■■■■■■■■
(白い空間はない、全部が黒)

こんな感じで植樹帯と作ってたらしい。
ありえない。

これは最初から塚原で耕運機を使い、何かを見つけようとしていた証拠。
0751日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/19(火) 07:50:52.40
そして鏡を発見、鏡の事なら大六さんが良かろうという事で原田を呼んだらしい。

あのなぁ近所の電気屋を呼ぶんじゃないんだからな、普通は市役所だろ。
ならば教育委員会か文化財保護課に繋いでくれるわ。

こんなもん、井手と原田が最初からグルであった証拠だ。
0752日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/19(火) 07:54:23.45
× 蜜柑は3m間隔で30〜40p惚れれば十分。
〇 蜜柑は3m間隔で30〜40p掘れれば十分。

× 植樹帯と作ってたらしい。
〇 植樹帯を作ってたらしい。
0753日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/19(火) 08:13:27.28
彩色で負けて、お次は発見状況の捏造か。
君はたしかコンバイン(収穫機)で掘り返したって捏造証言を書いてた人だな。

あれも葛城説だったのだな。
よくわかった。
0754日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/19(火) 08:17:39.66
結局のところ、考古学でも文献でも敗北確定したから、
重箱の隅を突くくらいしか抵抗手段がない。
悔しいなら、葛城説のスレを立てて正々堂々と勝負すればいいのに。
0755日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/19(火) 08:24:44.33
ああ、そうか。
なるほど。

土盛というものが、江戸時代の参勤交代のように、地方勢力の国力を削ぐのが目的の一つだったのであれば、
女王国=卑弥呼の旧領=奴国不弥国、なのだから、

割竹形木棺卑弥呼が死去して、
次の祇園山石棺男王が立って狗奴国と同盟、
旧割竹形木棺派VS祇園山石棺派+狗奴国で、後者が勝った場合、
女王国=奴国不弥国は、当然粛清対象になるから、
なるべく大きな土盛をするよう課されたのだ。
0756日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/19(火) 08:32:58.36
だから博多に大きな土盛が作られた、というか、敗北した女王国の人々が重労働を課せられたのだな。
これは面白いぞ。

三角縁神獣鏡が絹布に包まれた状態で出土しており、
その同笵鏡が、木津川市椿井大塚山古墳、岡山市湯迫車塚古墳、伝奈良県奈良市奈良市富雄丸山古墳出土品、アメリカフリーア美術館所蔵品、にある。

全ての古墳が撥型で、
発掘された後者3古墳は全て「割竹形木棺」墓

旧卑弥呼派=割竹形木棺派閥が、罰を受けたのだな。

那珂八幡古墳も割竹形木棺の可能性が非常に高くなった。
0757日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/19(火) 08:35:53.37
>>754
葛城説は当たり前だし、いつでもたてれる。その前に平原というアホ詐欺説を粉砕する。
0758日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/19(火) 08:37:32.78
>>753
コンバインと言ったのは久住さん
0759日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/19(火) 08:37:46.43
ということは、これらは物部系。

男王+狗奴国=石棺派閥が勝利して、その後しばらくは全国をリードしていく。

割竹形木棺派閥は平原繋がりで、日本海沿岸の拘奴国
〜近畿北部の方形周溝墓勢力が親密。
鉄器があることから優勢で、木津川市奈良市の辺りまで押し込んでいたところで、

大元の九州で大逆転してしまったので、かわいそうなことになったのだな。
0761日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/19(火) 08:40:19.59
那珂八幡古墳の被葬者候補は、北方向から山城を経て攻め込んできた、

武埴安彦命

の可能性が出てきたな。
0762日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/19(火) 09:03:15.37
丹後の大風呂南1号墓が尾根上の方墳で、舟形木棺。
青色のカリガラス釧が出土しており、河内青玉繋か。

武埴安彦命の父は孝元天皇だから、河内青玉繋は母系の祖父になる。
母が埴安媛。
0763日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/19(火) 09:18:14.69
カリガラス釧だと男系は旧奴国王系の可能性が高くなってしまうな。
それか釧は水軍大将の身分証になっていたと考えるか。
それならば物部系の可能性も出てくる。

どちらにせよ女王国なのだから
那珂八幡古墳の被葬者は入り婿で、割竹形木棺に入った。

そうなると、割竹形木棺は物部とイコールではなく、
卑弥呼が属する旧吉武高木伊都王家の割竹形木棺派閥でしかも割竹形木棺は女系相続だった可能性が一つ。

だがどこかの時点で男系ニギハヤヒ系などに切り替わっていて、
つまりニギハヤヒ系以外の割竹形木棺有力者は途絶えて結果的に、
ニギハヤヒ系と割竹形木棺がイコールになって残っていた可能性もあるな。

どちらにせよ女王国はこの時は女系で相続されたのだな。
0764日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/19(火) 09:26:14.06
そういう目で見ると、
女王国の同盟国であった赤坂今井墳墓の第4埋葬女王は舟形木棺。

赤坂今井墳墓の舟形木棺は王あるいは将軍で、
周囲の箱式木棺が、方形周溝墓勢力あるいは旧奴国王系の臣下ということになる。

赤坂今井墳墓がそもそも女系であれば、男系は旧奴国系つまり四隅突出墳丘墓のトップが入り婿で入っていた形か。
0765日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/19(火) 09:32:50.75
なるほど繋がって来たぞ。

奴国王が中広型銅矛で、奴国王の兄達一族が広島県三次市へ逃げ込んだ。
奴国王が失脚してから、兄達一族の末裔が三次市からだんだん出てきた。
倭国乱に乗じて日本海沿岸に支配域を広げていった。
と思われるのだが、
奴国王が失脚しようと、倭国乱があろうと、じゃあ四隅突出墳丘墓が日本海の他勢力をどうやって押しのけたのか、という問題が残っていた。

四隅突出墳丘墓は高句麗と同じ祖を持つ渡来系と考えられるのだが、
彼らだけでは無かったのだな。

つまり、はるか縄文時代末期に、沿海州のシニガイ文化などに認められた、
刻目突帯文土器の集団が出雲に渡来して、縄文末期に西日本一帯に拡散していた。
これがそもそも四隅突出墳丘墓や高句麗などと同じ民族だったのだな。

それらが日本海沿岸で1000年ぶりに再会して、元は同じ牧畜民族なので、まとまり、
縄文系の赤坂今井墳墓女王を奉じて、拘奴国を形成した、
のか。
0766日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/19(火) 10:51:58.61
で、奥さんは吾田つまり古代唐津だから、卑弥呼の宗女であり、
久里双水古墳を作らされた可能性があるな。
バチ型で、石室、舟形木棺
銅鏡は後漢鏡の盤龍鏡のみ、管玉2刀子1
0767日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/19(火) 11:34:10.18
>>762

>河内青玉繋

青玉繋は玉手山古墳群。
3世紀後半の河内の盟主の墳墓はそれしかなく、
孫の武埴安彦と共通する小札革綴冑が出ている。

青玉繁はおそらく台与の朝貢団の一人。
台与が青大勾珠二枚を中国に貢いだことと名前が符合してて面白い。
0769日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/19(火) 12:24:01.21
卑弥呼割竹形木棺派閥のいた地域に、

末蘆國:久里双水古墳(108.5m)
伊都國:御道具山古墳(65m)
奴國(旧女王國):那珂八幡古墳(75m)

戸数辺りで割ると、
末蘆國:108.5÷0.5=217
伊都國:65÷0.1=650
奴國 :75÷2=37.5

だから、主に伊都国に残った千人女官とその家族、近衛兵に、重労働が適用されたことがわかる。
0770日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/19(火) 18:27:54.81
>>768
孫へのプレゼントと考えて何が悪いの?

河内の青玉繁が丹後の大風呂南1号墓と言ってるのはお前か?
よほどのアホだろ。
0771日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/19(火) 18:40:33.69
>>770
ちなみにどこ遺跡のが青玉繁さんでどこ遺跡のがお孫さんと考えてるの?
0772日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/19(火) 19:16:49.71
>>771
上に書いてるんだけどね、面倒くさい。
河内で3世紀後半の盟主の青玉繁らしき墓は玉手山古墳群、最古は何号墳か知らないが。

孫の武埴安彦は椿井大塚山。
これはかなり有力で定説に近い。

その両古墳から小札革綴冑が出るの。
0773日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/19(火) 20:15:02.85
てす
0774日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/19(火) 20:27:47.56
>>772
なるほどありがとう、覚えておくよ。
小札革綴冑は倭人伝外交でもたらされた可能性が高いね。
ただ、もし同型であれば同時代に同じ戦役に友軍として参加した武人達だったのかと思う。

ただ、別方向から辿っていくと、大風呂南1号墓が当てはまる。
河内(こうち)は後世の国名ではなく、
拘奴国(こうな)の拘だろう。例えば拘古智とか。
0775日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/19(火) 21:52:17.81
卑弥呼🧚‍♀は朝鮮半島人である(倭人ではない)

倭国(縄文、弥生の混成地帯)では
ヒロインであり倭国大乱をおさめ
倭人を統治したが
朝鮮半島(現:韓国)ではただの女性であつた
後に朝鮮半島(卑弥国)で死亡している。

邪馬台国は卑弥呼が活動していた倭国内地域であつて
卑弥呼が最初にいたのは
九州説とする歴史学者がいるが、こじつけである
九州のどこなのか証拠がどこにも存在しないし
女王であつたにも関わらず墓がない。
0776日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/20(水) 00:21:10.04
>>697
>古代鏡で顔料の塗布ではない彩色なんてあるかよ。
あり得ないという根拠は?
現に>>696にあるように、当時できていたことが現代技術では再現不能なことはよくある

むしろ現代技術では再現不能とされていることを原田大六が可能だったという珍説こそ根拠出せよ
それ下手すると邪馬台国より凄い発見だぞw
0777日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/20(水) 06:09:41.58
>>774
>別方向から辿っていくと、大風呂南1号墓が当てはまる。

どんな方向なんだよ、滅茶苦茶だ。
河内は南大阪の河内。
0778日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/20(水) 07:01:57.58
大風呂南1号墓は弥生時代の後期だろ、青玉繁の3世紀後半とは全然違う。
大風呂南など丹後の首長墓は、西谷3号と同じコバルトブルーのガラスや勾玉を副葬してるので出雲系であろう。
この丹波・丹後だが、
※『古事記』崇神天皇段では、日子坐王は天皇の命によって旦波国(丹波国)に遣わされ、玖賀耳之御笠(くがみみのみかさ)を討った

この玖賀耳之御笠には匹女(ひきめ)という女性の相方=丹波の女王がいて、玖賀耳之御笠と匹女は日子坐王に討たれてるようだ。
匹女が殺害されたのが今の福知山の千原、昔は血原、吉本の千原兄弟は福知山出身なので、千原という珍しい姓はここと関わっているのだろう。玖賀耳之御笠は北方に逃げ、大風呂南1号墓のある宮津あたりに来てその後は分からないがおそらく討たれたはず。
崇神の娘の豊鍬同族は同族が犯したこれらの殺害を詫び、これらの慰霊にのために丹波に向かった、だから元伊勢は丹波から始まるのだ。
崇神一族は他にも徹底的な出雲攻撃をしている、その慰霊の施設が大神神社であり、出雲大社だ。
大神神社で祀られている大物主とはスサノ8世孫の阿田賀田須命というモモソヒメの亭主、出雲大社で祀られている大国主大神とは出雲振根、二人とも崇神に殺される。
日本書紀では、このような武力による王権簒奪をも、古代中国の易姓革命に倣い「禅譲」などと言いのけた、
それが「出雲の国譲り」の正体だ。
0779日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/20(水) 07:04:30.11
× 豊鍬同族
〇 豊鍬入姫命
0780日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/20(水) 07:27:44.37
>>776
>むしろ現代技術では再現不能とされていることを原田大六が可能だったという珍説こそ根拠出せよ

誰へのレスなのかよくわからんが。まとめると、あのような鮮やかな彩色鏡は中国にも日本にもない。
伊都国歴史博物館の見解にあっるように、科学的処理によるものであろうが、
どのように彩色されたのか分からない。
奈良文化財研究所も分からないと匙を投げた。

唯一説明できるのが現代の研摩技術による彩色。
上に東京芸大の鈴木先生の研摩による彩色技法を載せた。

つまり、そのような研磨技術を知っていた元研磨工・原田大六による捏造。
0781日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/20(水) 11:23:44.97
使われなくなった技術は簡単に失伝するよ

戦艦大和の装甲も今はもう作れない
そもそも機密扱いで戦後はGHQに奪われる前に焼却
その上戦艦の重装甲自体が無用、というか無意味な時代になり
研究開発すらされなくなった。
結果再現不可能のロストテクノロジーになった。
0782日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/20(水) 11:27:18.31
もし原田某がロストテクノロジーを再現できるというなら
捏造鏡1つ作って黙り込むよりは
失われた彩色技術を解明しましたよ
と発表した方が遥かに地位も名誉も手に入るし
金も得られるかもしれない。
それをしないということは解明してないんだよ
0783日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/20(水) 13:00:58.26
>使われなくなった技術は簡単に失伝するよ

あの時代に、世界のどこにもあのような顔料の塗布ではない彩色鏡がない。

>戦艦大和の装甲も今はもう作れない

全然例えが違う、戦艦大和の時代に新幹線の部品がどうこう言うのと同じ。
0784日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/20(水) 14:42:56.35
>>783
どんな技術が使われたのか分からないなら
新幹線の技術かどうかも分からないよwww
0785日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/21(木) 11:53:57.57
卑弥呼の墓は邪馬台国論争の最大の物的証拠であるはずなので
箸墓もそうだが、平原女王墓も見つかった時点で論争が終わる
終わらないところを見ると違うのだろう
0786日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/21(木) 13:47:02.92
そのその魏志倭人伝には「丗有王 皆統屬女王國 郡使往来常所駐」や「常治伊都國」って書いてあるんだから伊都国が女王卑弥呼が居た場所で確定してる
おらが村に誘致したい人が無茶苦茶な訳をして混乱させてるだけ。
0787日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/21(木) 13:47:44.94
そもそも魏志倭人伝には「丗有王 皆統屬女王國 郡使往来常所駐」や「常治伊都國」って書いてあるんだから伊都国が女王卑弥呼が居た場所で確定してる
おらが村に誘致したい人が無茶苦茶な訳をして混乱させてるだけ。
0788日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/21(木) 14:28:39.31
魏志倭人伝に書いてあるのは、代々の伊都国王か女王国(広義の女王国=倭国)に属していたということ
魏志倭人伝時点の現役倭国王であった卑弥呼は邪馬台国にいたと書いてある
0789日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/21(木) 14:48:28.29
「丗有王 皆統屬女王國 郡使往来常所駐」
伊都国には魏の世に王が居た、倭の国々はみな女王国(伊都国、奴国、不弥国)に統属していた。


「常治伊都國」
女王卑弥呼は常に伊都国に於いて国々を治めていた。
0790日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/21(木) 15:23:47.60
出土品から見て二世紀後半のお墓なんじゃないっけ
0791日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/21(木) 15:36:50.81
卑弥呼は2世紀後半から3世紀前半の人物
生きていた時に使用していた物とするなら年代はドンピシャ
0792日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/21(木) 19:10:08.58
倭人は長寿で百歳まで長生きする者も多いとあるからね。
長寿の巫女女王が使用していたものと考えるなら後漢代の物が主体となってくるので年代ではバッチリ。
0793日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/21(木) 19:13:46.39
記紀 日向三代
魏志倭人伝 七八十年倭国王男王
考古学 三雲井原遺跡男王墓被葬者

これらが合致した時に全ての基準点が定まる。
0794日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/21(木) 20:28:30.43
張政が高皇産霊尊だと思うぞ?
あとトヨは巫女にならずに普通に政略結婚して倭種の国に嫁いだと思う
俺、大和狗奴国説
0795日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/22(金) 00:32:04.37
いざ
伊邪國:長崎諫早(伊佐国)
已百支國:伊万里

末蘆國:唐津平野(吾田)柏崎遺跡(笠沙岬)
伊都國(魏代):糸島平野(日向)井原鑓溝遺跡(吾平山上)潤地頭給遺跡(吾平津)
伊都國(漢代):早良平野(日本)吉武遺跡(高天原)
 斯馬國:糸島半島(士摩)

奴國:那珂比恵遺跡〜須玖遺跡(葦原那珂津国)
 不彌國;雀居遺跡(邪馬壱國)ざまい

豊国
 遠賀川以西(出雲國)田熊石畑遺跡(須賀)
 遠賀川以東(伯耆國)山鹿貝塚(比婆山)鐘崎(稲羽)


ざまか
邪馬嘉國:佐賀(阿耶訶)(大阪)與止日女神社
??國:久留米(黒田)

彌馬升:旧三輪町(纏向)
彌馬獲支;朝倉市甘木・三奈木/平塚川添遺跡(御間城)

鬼國:阿志岐山城神籠石(山城)
0796日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/22(金) 01:04:56.00
いざ
伊邪國:長崎諫早(伊佐国)
已百支國:伊万里

末蘆國:唐津平野(吾田)柏崎遺跡(笠沙岬)
伊都國(魏代):糸島平野(日向)井原鑓溝遺跡(吾平山上)潤地頭給遺跡(吾平津)
伊都國(漢代):早良平野(日本)吉武遺跡(高天原)
 斯馬國:糸島半島(士摩)

奴國:那珂比恵遺跡〜須玖遺跡(葦原那珂津国)
 不彌國:雀居遺跡(邪馬壱國)ざまい

豊国
 遠賀川以西(出雲國)田熊石畑遺跡(須賀)
 遠賀川以東(伯耆國)山鹿貝塚(比婆山)鐘崎(稲羽)


ざまか
邪馬嘉國:佐賀(阿耶訶)
 都支國:都渡城・肥前川上(大坂)與止日女神社
 彌奴國:三根郡・三養基郡 吉野ヶ里遺跡
好古都國:久留米(黒田)高良(孝霊)

彌馬升:旧三輪町(纏向)
彌馬獲支:朝倉市甘木・三奈木/平塚川添遺跡(御間城)

鬼國:阿志岐山城神籠石(山城)
0797日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/23(土) 16:36:04.68
名字なし:
卑彌呼、難升米、壹與

名字あり:
都巿牛利、伊聲耆掖邪狗

同じ倭人に名字のあるなしとは不思議だな
男女の別でも無いようだし

名字については、都市ツシは対馬の人
伊聲耆=伊声老 イセキ イセシ は壱岐(伊支馬)か伊都國か伊勢か
現代だと井関さんとか伊関さんとかになるのかな
0798日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/23(土) 22:30:29.73
○○半島というのは地政学的に脆弱

A大陸からは陸続きで大軍で押しつぶされる
B日本列島からは水軍でどこからでも攻め込まれる

だからAが半島を開発してもBに攻め込まれて奪われる
Bが半島を開発してもAに攻め込まれて奪われる

かの国の法則というのがそれ。

それを克服するにはその先までを支配するしかなく、
歴史上唯一やってのけたのが大日本帝国で、その先に満州国を作ったのだ。
全くの異民族国家であるアメリカの横やりで頓挫したが。

北部九州倭国というのは、北部九州に重心があるのだから、
当然のことながら、東方を睨みつつ、同じくらい北方も掌握していた。

だから、滅んだ。

当時、日本国家も、中国国家も、地政学的特徴に気づき、
Bは重心を東に移して、倭国の歴史を一旦清算して、日本列島だけの歴史書を作り、もう半島権益には国力を拠出しませんと宣言した。
Aも懲りて、楽浪郡は二度と設置されなかった。

そういうこと。
0799日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/24(日) 08:08:23.71
>名字なし:
>卑彌呼、難升米、壹與

名字は無くても名前の中に姓が織り込まれてるよ。

卑彌呼は卑彌國とか不彌國系の人でしょ。姫氏とか。
男系か女系かは分からないけど。

難升米はまずまず奴国王子孫だろうね。男系だろう。

壹與も台なら豊トヨ國系。女系。卑彌呼も同じになる。
壱なら壱岐系列で男系になるね。
0800日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/24(日) 08:46:53.84
不彌國は宇美、海で、志賀島につらなる安曇海神族
0801日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/24(日) 09:21:32.60
倭国 漢読み「ワ」 倭読み「やまと」

107年倭国王師升が発音 後漢宮殿書記が記録 倭面土

247年倭国民多数の発音 張政が記録 邪馬臺(台)

その後の外交など交流 多数者が調整 邪靡堆

720年日本書紀 倭の読みは 夜摩苔


同じ「やまと」を発音した場合、
倭国王族の貴族発音もしくは師升の個人的発音が、倭面土
その他大勢の倭人が発音すると、邪馬臺
に聞こえたということ。
0802日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/24(日) 10:20:12.29
伊邪那岐・伊邪那美 いざなぎ・いざなみ

邪 呉音ジャ 漢音ヤ

中国南部の浙南石棚墓群つまり呉太伯末裔が前10世紀に長崎伊邪國に少数漂着渡来したから、
「邪(耶)=ざ」として漢字を宛てた。

伊邪國伊耶國いざ 伊佐国いさ 諫早いさはや
阿耶訶あざか 邪馬嘉國ざまか 大坂 栄 佐嘉 佐賀さが
邪馬壱國ざまい (佐馬壱) 雀居遺跡ささい


中国北部出身の張政が来倭して、倭やまとに宛てたのが邪馬台国で、
邪馬台国の「邪=や」だけ中国北部系。
0803ネトウヨボクメツタイ!
垢版 |
2023/09/24(日) 20:48:24.34
ネトウヨ思考
・日本人は縄文人の子孫
・日本語は縄文語の子孫
・Y遺伝子Dが自慢
・縄文文化を縄文文明という
・邪馬台国は九州と主張
・日本が中華に朝貢したのが許せない
・アイヌ人はシベリアからやってきた虐殺者
・なぜかエベンキという民族に関心がある
・古史古伝や日ユ同祖論などのオカルトを信奉
・邪馬台をじゃまたいと呼んでしまう低学歴
・国学者の九州説をなぜか反皇国史観と思い込む
・魏志の漢字を何故か現代音で分析してしまう
0804日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/26(火) 07:04:25.16
邪馬台国はどこにあるか?
という課題にウヨサヨ持ち込み方が馬鹿
0805日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/29(金) 23:07:32.77
なるほど。支石墓の時代。新町支石墓には既に首級を一緒に埋葬された墓があった。
吉野ケ里遺跡には首の無い遺体。

首級を挙げるということは単なるムラの小競り合いではなく、
国家の軍隊の武功。軍功。
持ち帰って恩賞にあずかったり出世したりしたのだな。

つまりは支石墓の時代には既に糸島市志摩新町つまり斯馬國は国家の一部となっており、
その国家とはおそらく伊邪國(首都が伊都)であった可能性が高いな。
支石墓が分布していた範囲ということになる。

また吉野ヶ里遺跡の事例から、
吉野ヶ里遺跡が戦った相手もまた、国家。
敵兵は武功を挙げて、国家に報告することで恩賞を受けた。
つまり倭国乱。国家対国家の戦争であったことが確実。
0806日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/30(土) 00:04:10.04
なれば支石墓が存在しない福岡市側の吉武高木遺跡よりも数百年前から
支石墓が密集する糸島市側に国王がいたことになり、
考古学的には吾田唐津平野などがその候補。

吾田=菜畑遺跡と考え、そこに伊邪国王がいた。

その末裔の男系が吉武高木遺跡(高天原)→三雲南小路1号墓大王(可愛山陵)であり、
その末裔の女系が柏崎遺跡(笠沙岬)→三雲南小路2号墓妃ではないか。
中国大陸の権威に頼ることない、九州自生の最高権威。

三雲南小路遺跡は細石神社の社領であり、その祭神はコノハナサクヤヒメ。

伊邪國の系譜が日本国国家に織り込まれているのは何らかの意味があるのであろうか。
0807日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/01(日) 08:40:53.30
対海國の仏像は奪われたものだから取り返して当然
日本国の資産は全て稲作から何から奪われたものだから取り返して当然

日本が東夷世界最高峰の北部九州起源だと都合が悪い
↓国宝金印は捏造ダー
↓平原遺跡も捏造ダー
↓記紀はマチガイだー
↓日本は未開の畿内土人だったんダー

↑解散命令が請求されそう
↑資産没収されそう

あらら
静かになったこと
0808日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/01(日) 09:04:49.31
だいたい葛城説も妙な話だったからな

邪馬台国が畿内にあった、はいいとして、
高天原も畿内にあった、だと記紀を全く無視してしまう<神武東征
それを指摘するとヒステリックに泣きわめくし

神武も神功皇后も聖徳太子もいなかったとか
あれもこれも捏造とか
こいつらのしわざだろ
0809日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/01(日) 18:22:06.25
稲作は縄文時代からやってただろ。

水田も縄文人が気づいてやってたかもしれないし、
伝来するとしても山東半島のは5000年前ので一旦衰退してて、
3000年前の対馬海峡までは時間も距離も離れすぎ。
0810日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/02(月) 05:50:00.88
其竹篠簳、桃支

篠も簳も矢の材料。
石鏃、鉄鏃を取り付けて使ってたんだな
0811日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/02(月) 07:09:46.09
稲作で人口が増えて国家が形成されるというモデルはすでに破綻してるからね。
長江流域で稲作が始まったのが7000年前とも10000年前とも言われており、
国家の形成は殷で3500年前くらいだから数千年の開きがある。

日本列島において最初の王墓が吉武高木遺跡で2300年前。
縄文時代から稲作はあったが、国家の形成とは関係なかったということだね。
稲作よりは青銅器の方が重要なのだろう。
0812日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/03(火) 04:16:40.65
青銅器が重要という事実を認めると、対馬海峡を押さえていた者が支配者になるという事実も認めざるをえなくなるからね。
青銅器鉄器が対馬海峡経由だったから、そこを押さえた勢力には他の勢力は対抗する術がなかった。

国内でたたら製鉄が開始されたのと同時に前方後円墳時代が終わったのは関係があるだろう。
0813日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/03(火) 18:25:57.18
>ニホンヤモリは外来種だった!遺伝子と古文書で解明したヤモリと人の3千年史
>www.tohoku.ac.jp/japanese/2022/12/press20221201-02-gecko.html

>家の守り神としても親しまれてきたポピュラーな動物―ニホンヤモリは、
>実は約3000 年前に大陸から九州へ、恐らく人とともに移り住んだもので、
>その後人の手の力を借りて、日本列島を西から東に進んできたものでした。

じわじわと外堀から埋めていく感じでイイね!
0814日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/03(火) 23:06:24.14
やっぱ浙南石棚墓で呉の太伯の子孫ですな。
ヤモリと一緒に五島列島に上陸して、
縄文伊邪國の主(爾支)に養蚕や青銅器を伝える代わりに居住許可をもらったのだろう。

縄文伊邪国王家は割竹形木棺
吉武高木遺跡だけなら女王の可能性もあるが、田熊石畑遺跡を見ると男系が濃厚に見える。

箱式石棺は本来は石棚墓系渡来人
養蚕で絹を作って蓄財したら甕棺、どの部族も入り得る

奴国王家は本来は四隅突出だが、他有力家に婿入りしての出世が多かったので、
婿入り先の墓制に従うことが多くわかりづらい。
貝釧ガラス釧は奴国王系か。

おそらく燕系亡命人が方形周溝墓、箱式木棺、お偉いさんが槨を伝えた

養蚕蓄財家であった甕棺を筆頭に、
嫁入り婿入りで墓制が入れ替わるルールもあったみたいだから、時代が下るほど被葬者が必ずしもイコールでなくなっていくようなのが難しい。

最大の焦点は、伊邪国王家の男系が縄文系で周王族末裔を家来として受け入れた側なのかそれとも周王族末裔がのし上がったのか。

支石墓は早くに無くなって、標石墓になっていくし、
重要地点の壱岐対馬に支石墓が入らせてもらってないし、
支石墓被葬者に縄文系抜歯がなされているし、
ということからは、前者のように見えるけど。

初代倭国王の可能性が高い三雲南小路1号墓については、同じ清白銘が副葬された立岩遺跡10号甕棺被葬者が決定的な近親者だろうね。
正直他説なんかどうでもいいくらい超重要な被葬者だということ。
0815日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/03(火) 23:14:32.69
三雲南小路王家の跡継ぎ決定時に内紛が起こり、
外戚の柏崎遺跡(笠沙岬)、祭祀型銅戈、が失脚して、
外戚の桜馬場遺跡、広形銅矛、銅釧、が権力を握ったのだね。

末蘆國を押さえたということはつまり対馬海峡を押さえた。

となると、銅釧なので奴国王系であると考えれば、
古くからの末蘆国田園地帯の名称が、
吾田→奴国王系吾田→奴吾田→菜畑、になったのかしらんと秋の夜長に夢想する。
0816日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/04(水) 05:21:53.44
九州→四国→近畿は2段階のような図になってるが、九州→出雲、瀬戸内、近畿は紀元前後で奴国王の朝貢時期と重なるのが面白い
0817日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/04(水) 18:12:09.35
九州→出雲、で出雲がどん詰まりだから、
本来の出雲は別の場所だった、という説の信憑性がいよいよ高まってきた。
荒神谷遺跡の青銅器も結局は北部九州勢同士の争いが波及したものなのだろう。
0818日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/04(水) 21:31:15.37
>>817
古代出雲自体は古い縄文文化圏だと思うなぁ
東北とか出雲系の神社の方が強いし
あと、四隅突出墳丘墓の出雲は出雲第2王朝みたいな別氏族か傍系出身(大己貴命の時代)な気がする
古い文化圏の末裔を謳ったのが第2王朝で、国譲りは第2王朝に出雲地方以外に進出しないように閉じ込めたとかそんな感じかなって思う
0819日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/04(水) 21:47:46.88
3000年前に中国から来たヤモリが、出九州を果たしたのが2000年前。
ということは、
遠賀川式土器を伴って全国に稲作を広めた勢力は彼らではない。
ということは、やはり、
一万年かけて成熟した縄文社会があって、
そこに3000年前に浙南石棚墓の少数渡来、技術伝達があって、
それが縄文社会のネットワークを通じて遠賀川式土器と共に広まっていった、ということだろうね。

山海経にあるように、また考古学的にも今川遺跡など物証があるように、
燕との青銅器⇔絹交易をしていたから、
周太伯の血も入っていますよ、周末裔でもありますよ、というのは、
国際社会向けのステータスアピールだったのだろう。
0820日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/04(水) 21:56:14.62
吉武高木遺跡<旧伊都一万戸>

奴国王一代 中広形銅矛 ゴホウラ貝釧

三雲南小路遺跡<新伊都千戸> 祭祀型銅戈 方形周溝墓が後援
&柏崎遺跡 オルドス式銅剣

井原遺跡&桜馬場遺跡 広形銅矛 銅釧

と、男系女系有力者が入り乱れて勢力争いをしていたのがわかるね。
保元・平治の乱のような状況だったと考えられる。

注目すべきは柏崎遺跡(笠沙岬)のオルドス式銅剣で、
滋賀県高島市で型崩れした鋳型が出土している。

柏崎遺跡の女系はすなわち豊国女王伊都岐島姫の女王宗女であり、
倭国王二代目の後継争い時に失脚して最東の所領である琵琶湖沿岸に逃れたのだろう。
今に名残りを残す。

そこからキ龍紋鏡と共に伊都へ返り咲いたのが卑弥呼であろう。
0821日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/04(水) 22:05:03.41
なので三雲南小路遺跡〜琵琶湖沿岸〜平原遺跡と、方形周溝墓勢力が後援していたとして筋が通る。

山鹿貝塚縄文女王とは、縄文八雷神の持ち回り祭祀女王。
八雷神が弥生時代に入った社会変革時に行政改変されたのが、八山津見。
八山津見の王つまり大山津見は、山鹿貝塚縄文女王の血を引く豊国女王。

八雷神の中の最有力勢力が火雷で、山鹿貝塚女王を多く輩出していたのだろう。

伊邪國の主(爾支)が、漂着渡来した石棚墓集団を保護して繁栄したように、
火雷女王家もまた、亡命してきた旧燕勢力を保護して、縄文以来の東方ネットワークに乗せて開拓の場を提供した。

すなわち加茂。
0822日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/04(水) 23:34:28.25
何でもかんでも伊都に絡めるのは気持ち悪い
倭国は九州でその東は倭種なんだろ?
争いばっかの倭に嫌気が差した勢力が倭種の縄文系と結びついて連合作っただけかも知れんよ
銅鐸が廃れてすぐに鏡に移った訳でもないし、方形周溝墓は琵琶湖よりさらに東に拡がっている
祭祀で言えば鳥型遺物なんかは方形周溝墓を持つ近畿東海の文化圏から出てるが九州では出てたっけ?
九州が明確に拠点を作れたのって大阪型銅戈圏辺りじゃないのかな
0823日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/05(木) 00:56:31.05
・北九州市長行遺跡 縄文晩期の土坑 馬骨
・長崎県大浜遺跡 弥生時代後期(A.D.40 年 馬歯)
・山梨県塩部遺跡・東山北遺跡 4 世紀後半の周溝墓の溝中より馬歯
・大阪市亀井遺跡、八尾市佐堂遺跡、亀井遺跡、東大阪市西岩田遺跡(古墳時代前期)
0824日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/05(木) 01:17:50.68
解釈の違いだな。
環濠で防御した大規模鉄工房があって、鉄原料は朝鮮半島からの輸入のみ、
なのにその地元や中継地には鉄器がほぼ無いときたら、
それはつまり北部九州の明確な遠隔拠点。
貴重な木材を大量消費する工場を遠くに建設運営した。
認めたくないからゴネているだけ。考古学データは結果を示してくれているのに。

鳥型遺物は吉野ヶ里遺跡や、元岡桑原遺跡など九州でも見つかっている。
これらは逆に東方の方形周溝墓勢力が北部九州倭国に出入りしていた時期の遺物だろうね。

記紀の謎である、鴨王・鴨王国。
0825日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/05(木) 02:48:29.00
燕国は多民族国家なので、当然亡命勢力も単一ではない。

前222年の燕滅亡時に押し寄せた勢力と、
前108年の衛氏朝鮮滅亡時にやってきた勢力は別。

大雑把には、燕本国の燕王家と、それに征服された側の遼東勢力。
後者が先に、前者が遅れて来倭した。

後者は大部分の方形周溝墓。
上流層は勒島貿易で繁栄していたが、前108年に終焉→青谷上寺地遺跡へ移住

前者はさすがに亡命はさせてもらったが、倭地には入れてもらえず、
豊国女王家宗女を娶って、古浦遺跡に入った。
太子丹の末裔だろう。
オルドス式銅剣はお抱えの青銅器職人。

吉武高木と田熊石畑の勢力争いに、豊国縄文系銅剣女王や、若き奴国王も絡んで、
そこに亡命燕勢力内の争いも絡んで、
(祭祀型銅剣と中広形銅矛の戦争)
古浦遺跡の旧燕王族は銅剣側についたので、中広形銅矛軍に襲撃されて滅ぼされた。

荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡はその名残り。
0826日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/05(木) 02:58:11.14
古浦滅亡時に脱出した旧燕王族が、東方方形周溝墓の中の旧燕家臣に匿われて、
奴国王失脚時に出撃したのが、大阪湾型銅戈。
だから三雲南小路大王擁立に参加できたわけだね。

一方で、
古浦旧燕王族と豊国女王宗女の血を引く、豊国女王宗女に、奴国王が産ませたのが、
鴨王。

金印奴国王の後継争い時に、吉武高木王家と結んで、奴国王を失脚させ、
三雲南小路大王政権の宰相に収まった。

その血筋から、方形周溝墓勢力も従ったし、奴国勢や豊国勢も従えて、
権勢を誇った。
女系で見れば、山鹿貝塚女王系豊国女王〜鴨王〜柏崎遺跡・三雲南小路2号妃は近親者。
0827日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/08(日) 22:15:39.27
卑弥呼は吉武高木遺跡の割竹形木棺王家の出自で、
三雲南小路&柏崎遺跡勢力が失脚した時に、方形周溝墓&オルドス式銅剣の地方領土である
琵琶湖沿岸に逃れた女王勢力の末裔
卑弥呼自身は伊都國or奴國生まれの不彌國育ちで、
弥生日本突出した大都会の奴國弥生銀座でギャル時代を過ごした博多美人
若い頃に倭国乱が起きて、血統のため不彌國で奴國支配地方女王となり、
博多美人で聡明な卑彌呼に皆が従い皆が協力助力して奴国乱とその後の対狗奴国戦を乗り切った
狗奴国優勢で対馬海峡を占領されて金銀錯嵌珠龍文鉄鏡まで来倭した
倭国=邪馬台国の危機に、
若き博多美人卑弥呼の手腕が評価されて、共立されて、邪馬台国女王になった。
その時に狗奴国側で対馬海峡を担当していた難升米が卑弥呼側に寝返って、
大率として対馬海峡を監査しつつ支配するということになった。
呉と公孫氏が同盟して挟撃滅亡の危機に立った魏が、司馬懿将軍に大軍を預けて遠征させたが、
長雨にたたられて兵糧切れ敗退、魏滅亡の危機になった。
そこに大率長官難升米がやって来て、倭国邪馬台国の兵糧を供給する代わりに卑弥呼政権に金印を授与してくれという交渉に成功した。
金銀錯嵌珠龍文鉄鏡に対抗する、金印と超大型内行花文鏡を製作して、
邪馬台国卑弥呼の面目は保たれた。
狗奴国は韓人と連携して蜂起。
卑弥呼は帯方郡に救援を求めたが、帯方郡も韓人を抑えるので手一杯で、
張政だけ派遣したら、卑弥呼は寿命を全うして、出陣した難升米は討ち取られて、
卑弥呼の後継争いになって、
男王が狗奴国と同盟して、卑弥呼派閥を一掃して、東の親卑弥呼の拘奴国も方形周溝墓勢力も滅ぼしたよ。
0828日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/08(日) 22:49:23.69
葦原中国とは葦原那珂津国で、
初出は伊邪那岐の尊で、亡くなった妻(の代わり)を豊国に求めに行ったら、
部族外者が見るなよと言われたけど、やっぱり気になってみたら、
八雷神が山鹿貝塚女王の墓を掘り起こして、八部族それぞれ決められた部位の骨を抜き取る
骨取り神事をやってる真っ最中で、だから蛆はわいても蠅は飛んでなくて、
最も腐敗が進んでいる部位=最も早く成仏輪廻転生している部位、の担当の八雷神から、
次の豊国女王が生まれるというのを、部外者が覗いて妨害したから八雷神が怒って追いかけてきて、
だから葦原那珂津国の環濠集落板付遺跡にまずは逃げ込んで、八雷神をなんとか追い払って、
そこから旧来の聖地である日向の波多江に移動して、禊を行った。
弥生時代の船越湾と雷山川の交点がそれだ。
伊邪那岐の尊が言ってるね、日本は素晴らしい矛など武器のある場所だと。弥生時代だと吉武遺跡一択だがどうだろう。
次は大奴貴命=大国主命の出自は葦原那珂津国。
出雲の八上媛=旧八雷神を束ねる豊国カモ女王に求婚に行ったのだから、出雲は婿入りしただけで、大国主の本来の領土じゃない。
縄文八雷神と八雷姫の領土を、吉武高木王族の田熊石畑将軍が安堵していたところに、
大国主命兄弟がやって来て、大国主命がうまいこと性交したわけだね。
そして次が、神武東征。
もうわかるよね。クマ野=宗像田熊石畑、遠賀川を遡上して、磯城=阿志岐山城神籠石から、逆落としで、
葦原那珂津国を攻め落とした。
ウマシマジ=シマコ、だね。
0829日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/08(日) 23:03:09.57
男王は狗奴国の叔母と誼を通じて邪馬台国で実権を握ったけど、
当然狗奴国が残ったから、金銀錯嵌珠龍文鉄鏡を振りかざしてうざい。
それを粛清しにかかったのが男王の次々代。
金銀錯嵌珠龍文鉄鏡回収作戦。
九州の大分に上陸して、そこから時計回りに進軍して、
狗奴国王を南に逃がさず、北に追い込んで、金銀錯嵌珠龍文鉄鏡を回収する作戦。
作戦は順調に進んだが、血気盛んな息子がまさかの突出して、
肥前川上で狗奴国王を討ち取ってしまった。
で、金銀錯嵌珠龍文鉄鏡は行方不明に。
囮の狗奴国重臣が東方へ落ちのびたという情報を受けて、
息子は懲罰的に東方へ捜索へ向かわされた。
あてどなく放浪した息子は失意のままたおれた。
その実、狗奴国王家によって、金銀錯嵌珠龍文鉄鏡は、日田ダンワラ古墳に秘かに副葬され、
実に1700年秘匿され、ついに発掘され、
それに呼応するかのように、21世紀に突き止められた曹操墓にて発見された
金銀錯嵌珠龍文鉄鏡と同型鏡であると判明した。
0830日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/11(水) 02:04:00.26
出雲と播磨は仲良しだった。ソースは播磨の国風土記。
万葉集にも中臣鎌足と仲良しだった中大兄皇子が
香具山と耳梨山とあひし時立ちて見に来し印南国原
播磨の国風土記に出雲の阿菩大神(あぼのおおかみ)が大和三山の争いの仲裁をしようと播磨国揖保郡上岡里(現在の兵庫県たつの市神岡町か)までやって来たところ、三山が争いをやめたと聞いたので、その地に鎮座したと書いてある伝説を元にして作った万葉謌。
姫新線に本竜野駅、山陽本線に竜野駅
https://www.google.com/maps/@34.8488958,134.568397,12z?entry=ttu
0831日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/12(木) 07:49:51.71
出雲は徐福だよ。
0832日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/12(木) 08:10:07.91
出雲といえば、日本書紀に唐突に
因幡の白兎の伝説が出て来るが、
実際に弥生時代中期に鳥取県周辺で、
サメの絵を象徴とする部族が住んでいた事が、
土器や木製器、武器にサメの絵が
描かれている事から分かっている。
サメに身ぐるみ剥がされた白兎が、
青谷上寺地遺跡の殺傷痕のある人骨の主な訳だ。
因幡の白兎の伝説が弥生時代中期に実際にあったとなると、
サメを騙して因幡に渡ってきた白兎とは、
即ち、始皇帝を騙して因幡に渡ってきた徐福と言う事になる。
始皇帝に海の向こうに不老不死の薬があると言って、
3000人の童子を連れて海を渡った徐福だが、
不老不死の薬という成果がないので何故なのか徐福に尋ねた所、
徐福はサメが邪魔をして持ってこれないと言ったので、
始皇帝は自ら海に入ってサメを討ち取ったという伝説が残っている。
青谷上寺地遺跡の殺傷痕のある人骨は児童が多いというのは、
徐福が連れて行った3000人の童子がサメの部族に殺られたことを物語っているのだ。
0833日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/12(木) 18:54:02.30
持論を断定形で書くから馬鹿にされる
徐福と明らかに関連する遺物とせめて結びつけてくれ
0835日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/13(金) 00:49:16.30
縄文人の稲作は現代の日本米とは連続性がない。

教えてあげよう。
今のジャップの稲作は韓半島時代の無文土器文化人の栽培していた品種が起源なのだ。

これはジャップの先祖が山東半島系の稲作と品種を受け入れた痕跡に他ならない。
ネトウヨ残念だな。

ジャップの先祖は中国の遼寧省出身だとさwwwwee
0836日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/13(金) 01:40:51.28
連続性はあるし、むしろ縄文稲作が基盤。
おそらく5000年ほど前に山東省からaの長粒種が直接入って縄文稲作。陸稲。
3000年前に浙江省からbの短粒種がこれも直接入って弥生稲作。水稲。

日本人の祖先は縄文D1a2をベースに、
沿海州O1b2(無刻突帯文や四隅突出
長江領域O2(浙南石棚墓
遼寧省C1a1(燕亡命
などが受け入れられて成立している。
0837日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/13(金) 02:01:57.60
サメは北部九州を初め西日本に広く出土している。
広範な地域で捕獲され、肉は食用、歯や骨は骨角器や装飾品、皮は衣服、に使われていたのだろう。
縄文山鹿貝塚女王もサメ歯イヤリングをしていた。

上にもあったように、ニホンヤモリのDNA解析にて、
ニホンヤモリの拡散経路が、中国大陸→九州北西部→九州→日本各地であり、

九州→現出雲の現出雲は盲端となって、それ以上拡散していないことから、
各種有力氏族を輩出した古代出雲とは、現出雲では無かった可能性が高い。

その有力解としては、遠賀川式土器を伴って稲作を全国に広めた、
遠賀川流域すなわち縄文山鹿貝塚女王の古代豊国領域こそが古代出雲だった可能性が高いことになる。
0838日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/13(金) 02:03:21.00
いざ
伊邪國:長崎諫早(伊佐国)
已百支國:伊万里

末蘆國:唐津平野(吾田)柏崎遺跡(笠沙岬)
伊都國(魏代):糸島平野(日向)井原鑓溝遺跡(吾平山上)潤地頭給遺跡(吾平津)
伊都國(漢代):早良平野(日本)吉武遺跡(高天原)
 斯馬國:糸島半島(士摩)

奴國:那珂比恵遺跡〜須玖遺跡(葦原那珂津国)
 不彌國:雀居遺跡(邪馬壱國)ざまい

豊国
 遠賀川以西(出雲國)田熊石畑遺跡(須賀)
 遠賀川以東(伯耆國)山鹿貝塚(比婆山)鐘崎(稲羽)


ざまか
邪馬嘉國:佐賀(阿耶訶)
 都支國:都渡城・肥前川上(大坂)與止日女神社
 彌奴國:三根郡・三養基郡 吉野ヶ里遺跡
好古都國:久留米(黒田)高良(孝霊)

彌馬升:旧三輪町(纏向)
彌馬獲支:朝倉市甘木・三奈木/平塚川添遺跡(御間城)

鬼國:阿志岐山城神籠石(山城)
0839日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/13(金) 02:09:30.57
>>832
成りすましだけあって品のない文章だな。

>青谷上寺地遺跡の殺傷痕のある人骨は児童が多いというのは、
>徐福が連れて行った3000人の童子がサメの部族に殺られたことを物語っているのだ。

紀元前の徐福一行と、紀元後の青谷上寺地遺跡では時代が全く違う。
0840日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/13(金) 02:28:17.05
稲羽とは鐘崎。
縄文豊国の八雷神を束ねていた山鹿貝塚縄文女王こそが、考古学的に裏付けされた古代出雲女王の祖であり、
その正統なる後継者が、
弥生豊国の八山津見を束ねていた大山津見であろう。
稻羽之八上比賣は大山津見もしくはその娘だった可能性が高い。
縄文鐘崎式土器の分布範囲がそのまま弥生祭祀型平形銅剣の分布範囲と重なっており、
この平形銅剣の時代こそが八上ヒメの時代だったと考えられる。
そして同時代に分布範囲が重なってくるのが高地性集落の前期のものであることから、
甕棺墓つまり養蚕に出遅れた豊国女王が、縄文時代からの関連領域にて高地性集落を開発し、
弥生時代の石油である、木材を生産していたのだろう。
現代の石油と同じ、燃料(炭)であり、材料(木材)でもあったわけだ。
木材・炭を大量生産した瀬戸内高地性集落群こそが木俣。
木俣の木材・炭によって八上ヒメは豊かとなり、平形銅剣を受注して、勢力範囲に配布したとして説明がつく。
稻羽之素菟については、動物のウサギそのものではなく、
古代北部九州の神官つまりニギ、ネギ、ウサ、ウサギ、の名称だったと考えられる。
考古学的に北部九州各地で見つかっている女性巫女がその存在の裏付けであり、
岡垣町の平形銅剣を埋納する儀式こそが、
稻羽之八上比賣と稻羽之素菟が主宰した祭祀だったのではないか。
0841日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/13(金) 02:41:11.77
伊邪國の爾支と豊国女王は一度仲違いしてしまっており、
これは弥生前期に伊邪國系の環濠集落が豊国沿岸部を占領していた時期があることから、考古学的に裏付けが取れる。
次いで吉武高木遺跡の出現と同時期から、
巨大環濠集落である田熊石畑遺跡が代々の将軍を擁して継続的に営まれており、
山鹿貝塚女王系の豊国正統女王に対して、
伊邪国系の檢察組織としての田熊石畑将軍が派遣され、
豊国女王の宗女を娶りながら、大率のように政治権をも獲得していったのであろう。
そうなると、主要部分が考古学的に揃ったことになり、
吉武高木遺跡の割竹形木棺派閥の、田熊石畑将軍。武力。中広形銅矛。
本来の女王家である、平形銅剣女王=八神ヒメ。炭燃料。
そして、奴国王家の御曹司たち。奴国青銅器工房。
ことの詳細は古事記を参照されたい。
0842日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/13(金) 03:05:57.93
史記によると、斉の方士であった徐福については、
秦の始皇帝に派遣されて、東方海中の蓬莱に不老不死の神薬を求めに行った。
1回目の前219年には、対馬海峡にて海中大神と遭遇し、その東南の蓬萊山に連行されて、蓬萊宮殿にて蓬萊王の使者と会見している。
この海中大神は大鮫魚と呼称されており、これこそが古代北部九州の石棺墓勢力ワニであったものと想定される。
耐水性に優れた鮫革を身につけたワニ水軍が対馬海峡を支配していたのだろう。
時代的には、秦始皇帝によって滅ぼされた、燕亡命勢力の第一陣が渡来して、
吉武高木政権が樹立された後であり、
対馬海峡から東南に移動した蓬莱山とは、高祖山のことであり、
蓬莱宮殿とは、吉武高木宮殿のことであろう。
蓬莱宮殿の描写は「見芝成宮闕 有使者銅色而龍形 光上照天」と記録されており、
吉武高木宮殿を目撃した貴重な記録であると考えられる。
元は西の辺境国である秦の使者が、
蓬莱王に謁見してもらえなかったことは注目すべき点である。
蓬莱神薬が手に入らないことを悟った徐福は、その罰として一族滅亡するのを回避するため、
始皇帝に虚偽報告をして、弩で武装した上で、
2回目の前210年に、斉の貴族子女三千人と百工とを連れて亡命した。
後漢書に「会稽海外有東鯷人 分為二十餘國 又有夷洲及澶洲」とあり、
徐福の三千人の子孫が夷洲澶洲に留まって数万家いて、時々会稽の市を訪れるとある。
東鯷人が住むのが台湾であり、夷洲澶洲はその先の南西諸島。
つまり徐福一行は、大鮫魚=対馬海峡ワニを回避して、南九州から亡命入国してきたわけであり、
徐福伝説もまた、九州→瀬戸内→と分布している。
0843日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/13(金) 11:23:13.29
>>837
現出雲と古代出雲が異なるのと遠賀川流域が発祥ってのも同意
ただ、何でもかんでも九州で収めるのは違うと思う
古代出雲は北九州の高天原から現出雲の範囲に移った(追い出された)けど、その後の文化圏は東北まで届いてるしね
というか半島に漢四郡置かれる前の日本海航路時代の勢力が古代出雲と考えてる
伊都国を含む北九州の勢力は漢四郡→帯方郡が支配するようになってから後に、そちらに移った交易圏で繁栄する事になったと見るのが妥当かな
倭国の乱は古代出雲の巻き返しとかそんなん感じじゃないかなぁ
現出雲(四隅突出型墳丘墓勢力)は弥生後期の新興勢力(瀬戸内海から三次に逃れて古代出雲に出来た空白地に入った)で、古代出雲も含めて魏志倭人伝の頃の倭国では無いと思う
0844日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/14(土) 06:40:41.45
>元は西の辺境国である秦の使者が、
>蓬莱王に謁見してもらえなかったことは注目すべき点である。

呉の太伯の末裔、つまり周王家の血を引く誇りがあるから、
秦の使者を見下した、とか、

秦に滅ぼされた燕の亡命知識人が多数登用されていたから、
<田熊石畑による豊国検察機構、遠隔地扇谷に鉄器工場など、の広域国家運営手法の伝来
秦の使者を拒んだ、とか、
の意味を言ってるんだろうけど、

割竹形木棺の大王、という共通点で着目すると、
卑弥呼は宮殿の奥深くにいて、ただ一人の男性家臣が連絡係をしていたんだよね。
ってことは、同じいわゆる古代のヒメヒコ制度の描写であって、

吉武木割竹形木棺大王は、芝成宮殿の奥深くにいる女王で、
秦からの使者には、
ただ一人の銅色龍形男性使者が代わりに会見した。

同じく、
平原割竹形木棺女王卑弥呼も、芝成宮殿の奥深くにいた女王で、
魏からの使者には、
ただ一人の銅色龍形男性使者が代わりに会見した、
のかもしれないね。
0846日本@名無史さん
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2023/10/14(土) 09:16:50.27
>>844
>同じく、
>平原割竹形木棺女王卑弥呼も、芝成宮殿の奥深くにいた女王で、
>魏からの使者には、
>ただ一人の銅色龍形男性使者が代わりに会見した、
>のかもしれないね。

そんななめた対応取ったから殺されたんだな
0847日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/14(土) 10:25:56.14
封泥
というものがあったらしい
魏からの使者が他国への贈り物の中身をくすねたりしないようにする封印と思われる
魏で梱包されてから一度も開けられていませんよ、というのを確認する為の封印
その封印は卑弥呼のみ、又は卑弥呼の目の前で壊すことが許されるものだから
魏の使者は卑弥呼の目の前までは行ったと思われる
可能性として卑弥呼の部下に贈り物を託したらその部下が封印を破って中身をくすねるかもしれないリスクがある。
卑弥呼が破られた封印を咎めても
魏の使者から受け取った時点でこうなっていました
とか言い張られたら大変な問題になる。
だから魏の使者はどうしても直接卑弥呼に拝謁して封印済みの贈り物が卑弥呼の前に運ばれるのを確認しなければならない。

という考察がある
https://youtu.be/KZpT5k8iWM0?si=oNewXM4bUh9uwr6R
0848日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/14(土) 11:40:45.02
曹叡ですら死ぬ前に倭の使者に謁見したのに卑弥呼が出てこなかったら不敬で滅ぼされるわ
0849日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/14(土) 11:57:06.17
梯儁が金印を持ってきて、倭王卑弥呼とやり取りしているね。
張政が来たら卑弥呼は既に亡くなっていたから、会えていない。
だから日数や倭の光景などは、張政の旅誌が出典だと言われている。

卑弥呼の姿が記録されていないけれども、
平原遺跡の様子は記録されているわけだ。
 大作冢 2つも冢を作ったよ
 1号2号の共通の周濠が東夷伝里で径百余歩
 徇葬者奴婢百餘人 周濠の複数土壙墓に複数人ずつの遺骨を埋葬

封泥については、北部九州の遺跡を発掘する時は、周辺の土壌もしっかりと保存しておいてほしいよね。
特に重要なのは、雀居遺跡。
金印奴国王や、女王国時代の卑弥呼、の居館があった可能性があるので、
土壙の中の土などは保存して、成分分析するべき。

組み立て式案なども、そのものを発掘するのも大事だけど、
一緒に洪水で流された周囲の成分なども調べてみるといろいろ見つかった可能性がある。
0850日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/14(土) 19:47:51.29
「丗有王 皆統屬女王國」
(伊都国には)魏の世に王が居た、(倭の国々は)みな女王国に統属していた。

魏略
「其国王皆属女王也」
其(倭)国の王はみな女王に属するなり


「自女王國以北 特置一大率檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
(女王卑弥呼は)女王国より北には特別に一大率を置いて諸国を検察させていた、諸国はこれを恐れはばかっていた。(女王卑弥呼は)常に伊都国で(一大率を使い諸国を)治めていた。(この様子は魏)国内に於ける刺史のようであった。


下記の部分は他の行程文とは別の資料からの引用で、全然別ものとして考えるべきもの
基の資料では
「東行至不彌國百里 官日多模 副日卑奴母離 有千餘家
自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳」
となっていたんだ

「南至投馬國水行二十日 官日彌彌 副日彌彌那利 可五萬餘戸
南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月
  官有伊支馬 次日彌馬升 次日彌馬獲支 次日奴佳鞮 可七万餘戸」

不彌國(福岡市西区、早良区北部、城南区)の次にくるのは投馬国ではなく斯馬國(糸島市北部)なんだ。
水行20日は帯方郡から投馬国まで掛かる時間
0851日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/14(土) 19:49:47.40
「丗有王 皆統屬女王國」
(伊都国には)魏の世に王が居た、(倭の国々は)みな女王国に統属していた。

魏略
「其国王皆属女王也」
其(倭)国の王はみな女王に属するなり


「自女王國以北 特置一大率檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
(女王卑弥呼は)女王国より北には特別に一大率を置いて諸国を検察させていた、
諸国はこれを恐れはばかっていた。
(女王卑弥呼は)常に伊都国で(一大率を使い諸国を)治めていた。
(この様子は魏)国内に於ける刺史のようであった。


下記の部分は他の行程文とは別の資料からの引用で、全然別ものとして考えるべきもの
基の資料では
「東行至不彌國百里 官日多模 副日卑奴母離 有千餘家
自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳」
となっていたんだ

「南至投馬國水行二十日 官日彌彌 副日彌彌那利 可五萬餘戸
南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月
  官有伊支馬 次日彌馬升 次日彌馬獲支 次日奴佳鞮 可七万餘戸」

不彌國(福岡市西区、早良区北部、城南区)の次にくるのは投馬国ではなく斯馬國(糸島市北部)なんだ。
水行20日は帯方郡から投馬国まで掛かる時間
0853日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/14(土) 22:25:47.72
魏志倭人伝は故意に誤訳されていて
それが原因で邪馬台国論争が起きてる
正しく魏志倭人伝を読めば伊都国(糸島市南東部)に卑弥呼は居て
邪馬台国は北部九州地域全域ってこと。
0854日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/14(土) 23:15:05.93
誤訳はあんただ
九州説が馬鹿だと思われるような珍説はやめて欲しい
珍説は畿内説と阿波説だけで十分
0857日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/15(日) 00:06:42.92
末盧、伊都辺りの比定が根本的に間違ってると思う
0858ネトウヨ撲滅隊!
垢版 |
2023/10/15(日) 07:34:46.40
ジャップの来歴

BC2000頃
中国遼寧省から遼河文明系の偏堡文化人が韓半島に南下
古日本語話者の半島進出

BC1500頃
偏堡文化人が山東半島系の稲作技術と稲の品種を導入し無文土器文化が誕生
日琉祖語の誕生

BC800頃
無文土器文化人が玄界灘を超えて九州に植民を開始
弥生時代の始まり

BC300頃
弥生文化が日本本州北端まで到達

AD57年
倭奴国王が後漢より金印を賜る
日本列島に小国分立

AD180頃
畿内で大和王権が誕生
魏志倭人伝には卑弥呼が女王に立ったと記す

AD300頃
実在性のある初の天皇である崇神天皇が登場する


邪馬台国=ヤマト王権で、卑弥呼の男弟の一族を大王として追号したのが欠史八代の天皇の誕生だろうな
0859日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/15(日) 09:21:10.31
邪馬台国の定義が人それぞれなので、まとまらない。結論は無い。
0860日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/15(日) 09:37:29.28
倭国 音読み ワ 訓読み やまと

邪馬台国 張政が聞いた音

倭国は北部九州全域の統一国家
吉武木伊都国王家の流れをくむ
三雲井原大王が総べた

倭国乱で跡目争いをしていたが、
奴国系の狗奴国が南に勃興したので、
能力重視で卑弥呼を共立(本来の継承順位を飛ばして即位させること)した。

卑弥呼の墓は平原女王墓。
0861日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/15(日) 09:45:28.05
BC10000頃
縄文文明が開始

BC3000頃
高度な縄文文明が栄える
山東省から稲作が直接伝播、既存の各種雑穀と一緒に栽培

BC2000頃
ハツカネズミの一斉放散で縄文文明が打撃を受ける
長江文明〜山東省の稲作もハツカネズミにて衰退 

BC1030頃
沿海州から刻目突帯文土器が漂着渡来
 青銅器原料の入手経路を確保できず中規模拡散にとどまる

BC1000頃
浙南石棚墓の太伯集団が漂着渡来
縄文伊邪國の爾支がこれを保護して養蚕が栄える
 青銅器による木板作成→ねずみ返しの安定供給→「稲作の再開」
<対馬海峡>を介した青銅器輸入の開始・燕や遼東勢力との交易

BC222
燕が滅亡し、燕人が大量亡命
 知識人を登用して政治機構を改革し、縄文伊邪國爾支の直系である、
吉武木大王家が登場
 山鹿貝塚縄文女王の系譜を引く豊国女王国を吉武木大王家田熊石畑将軍が監察支配
 丹後半島に遠隔工房群を稼働

BC108
楽浪郡設置・衛氏朝鮮滅亡
 漢と同盟して衛氏朝鮮を滅ぼした奴勢力が朝鮮半島に国家乱立、一部は奴国へ
 青銅器など取引先が衛氏朝鮮から奴勢力に変わったことで、北部九州旧100余国が30余国に整理される
0862日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/15(日) 09:46:09.47
0
山鹿貝塚縄文女王系豊国女王が瀬戸内高地性集落群「木俣」を運営
BC10頃
奴国青銅器工房群の頭領の息子がこれに婿入りして倭種同士が縁組
BC10頃
吉武木大王家と田熊石畑将軍の争い
奴国青銅器工房群の頭領の息子が田熊石畑将軍の娘とも縁組して
中広形銅矛軍の将軍となり、幕府の形で、北部九州〜旧平形銅剣領域を支配

AD57
北部九州絹・木俣木材の生産と、中広形銅矛軍の軍事力にて、
漢委奴國王金印

AD70
奴国疫病と奴国大洪水にて奴国王失脚

吉武木伊都国王家から
三雲南小路1号日向大王擁立、三雲南小路2号王妃は柏崎遺跡出身

AD108頃
日向2代目の井原鑓溝大王すなわち師升が遣使

AD130頃
伊都国宗家が瀬戸内畿内経済圏<大倭>の発展に成功して栄える
日向4代目がこれを東征して一旦は北部九州倭国を粛清

AD150頃
倭国乱 伊都国王家内の勢力争い
0863日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/15(日) 10:06:02.14
>>858
やはり畿内説は、倭国や大和政権の根拠となる考古学遺跡を示せない、
というのがよくわかった。
0864日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/15(日) 10:52:26.15
日本人は平安中期10世紀でも「ん」が発音出来なかった。
AD930年代に編纂された倭名類聚鈔(和名抄)に「林檎」の読み方を
万葉仮名で「利宇古宇リウコウ」と記述されている。
「昆布」は関西弁で「こぶう」で、イントネーションはLHLで発音する。
伊丹市に昆陽池という行基が音頭を取って造成した溜池が有るが
「こやいけ」と呼び「コンヨウイケ」とは呼ばないなど
地名はかなりの年数を経ても変化しにくいので縄文語を探る手掛りとなる。
古代日本語には「ん」が無かったから糞チョンと会話が成り立たないwww
0865日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/15(日) 11:02:36.38
>>864
漢字をあとから当てはめて読みもそれに移り変わっただけなんじゃないそれ?
0866日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/15(日) 11:18:23.34
>>865
「万葉仮名一覧」でググって見ろ
「ん」を表わす万葉仮名は無い。
0867日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/15(日) 11:27:47.26
>>857
魏志倭人伝によると呼子付近に上陸した魏使は500里(40q)で伊都国に着いてるから
東松浦半島から糸島市の伊都G.C.付近の丘陵地帯までが末盧国
伊都G.C.付近の丘陵地帯から100里(8q)の糸島峠付近までが伊都国
0868日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/15(日) 11:38:05.35
朝鮮から人質として大和に送られてきた「昆支」は
「こにきし」

滋賀県立大学大学院人間文化学研究科 地域文化学専攻
崔 恩永
https://usprepo.office.usp.ac.jp/dspace/bitstream/11355/308/8/24201k099_zenbun.pdf
「百済王」は、「クダラノコニキシ」と読み、氏姓(ウジ・カバネ)を意味する。『釈日本紀』秘訓・
『拾芥抄』などによれば、百済王氏の姓である「王」は、「オウ」と音読せず、「コニキ
シ」または「コキシ」と訓む慣例であり、「コニキシ」の「コニ」は蒙古の王号「汗」に、
「キシ」は朝鮮の敬称「吉支」にもとづき、古代朝鮮語で「王」の意味と解釈されている
9。この「王」は、王位を意味するのではなく、日本の中で身分を示す「姓(カバネ)」の
一種である10。この「王」という姓は、天武 13 年(684)に制定された「八色の姓」11とは、
別に「百済王」・「高麗王」・「背奈王」などの渡来系氏族のみに確認される特殊なもの
であった。
0870日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/15(日) 11:50:40.51
九州説患者は何の根拠も裏付けも無しに
自分の妄想だけで書き込むからタチが悪いwww
九州説は土器がどうのこうのと言うけど
所詮はSF科学妄想小説エンタメに過ぎないwww 
0871日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/15(日) 11:51:53.85
口を閉じて「ぬ、む」を言えば「ん」になる
口を閉じての発音ができなかったのだろう。
0872日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/15(日) 11:52:25.63
表記が違っても発音が同じ
というのは現代にもある

私は
わたしわ

はなじ
はなぢ

『ぬ』と『む』は実際には『ん』と発音されていた文脈もあったのだろう。
時代が下って『ん』という仮名がそれに当てられた

という予想
0873日本@名無史さん
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2023/10/15(日) 11:58:49.09
古代の発音の仕方はわからんから、「あ」でも現在と違って聞こえるかもしれない。
0874日本@名無史さん
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2023/10/15(日) 11:58:51.39
先に発音があって
後からそれに発音記号、仮名が割り振られる
『ん』が発音出来なかった
というのは考え難い
『ぬ』や『む』を当てていたが表記する際に書き分けする意味が薄れて新しい仮名が割り当てられた
と考える方が自然

現代でも『づ』や『ず』、『じ』や『ぢ』
書き分けしなくなりつつある
0875日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/15(日) 12:03:08.92
日本語は永らく開音節≒語尾が母音で終わる言葉だったので
漢語のn、ng、p、t、kで終わる発音(内破音≒促音=声門閉鎖音)はその前に有る母音にも依るが
a,i,u,e,oの母音を付加して発音した言語である。
0876日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/15(日) 12:03:09.77
『ぬ』『む』のどちらかを『ん』に統一しないで新たに『ん』という仮名を作ったのは
『ぬ』と『む』で意味が変わる場合が多々あるからかもしれない。
0877日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/15(日) 12:04:35.44
>>867
そうそれ、その糸島=伊都国だと末盧から東南にならないじゃん
九州説は伊万里無視するけどなんで?
伊都=武雄説面白いと思うんだけど
奴国は伊都の東から北九州の遠賀川以西全部で良くないか?
斯馬国も糸島北端になるし
0878日本@名無史さん
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2023/10/15(日) 12:22:41.30
>>876
『ぬ』と『む』で意味が変わる場合が多々あるなら
2〜3の例を挙げてみろ
根拠を挙げるのが常識
0879日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/15(日) 12:27:03.97
>>877
呼子付近に上陸すると東松浦半島内を南へ進み唐津市街地で東へ向かうことになる
東南との表現矛盾しないね。

濱山海居・・・呼子付近の風景
草木茂盛 行不見前人・・・東松浦半島内の風景
好捕魚鰒 水無深淺 皆沉没取之・・・二丈海岸付近の風景

末盧国内の風景を順番に書いてある。
0880日本@名無史さん
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2023/10/15(日) 12:28:22.40
>>879
それ伊万里でも矛盾しないんだが?
0881日本@名無史さん
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2023/10/15(日) 12:29:00.91
>>877
それだと考古学遺跡と一致しない。
倭人伝の行程は帯方郡から倭地までの往路の説明なのだから、
行程における方角は、出発時の太陽方角。

描写は夏であり、夏の太陽日の出方角にて全て南方向へずれる、でいい。

末蘆國は唐津湾で東端が深江。上陸地点。
定説通り、伊都は糸島平野東南部。
0882日本@名無史さん
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2023/10/15(日) 12:30:13.38
>>866
「ん」を表す漢字を教えてくれ「武」じゃねぇぞ
0883日本@名無史さん
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2023/10/15(日) 12:36:46.13
>>881
伊万里の弥生時代の遺跡とか後漢鏡出してるぞ
尽く電子化されて無くて報告書読めてないけどな、俺は
佐賀県が吉野ヶ里に力入れ過ぎてるせいで無視されまくってる遺跡多いぞ
0884日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/15(日) 12:39:18.57
あと、東は動くから普通は南中の位置で方向測るだろ
鏡を求めてたのも方格規矩鏡欲しかったからだと思ってるよ
南中分かればどこ行っても方角が確定出来るからな
0885日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/15(日) 12:39:59.74
呼子付近は秀吉が朝鮮征伐の際に名護屋城を築いたように
天然の良港で長期間船を停泊させるには持って来いの場所
伊都国からの距離的にも合致するから魏使の上陸地点と考えて間違いない
風景の描写とも一致している。
0886日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/15(日) 12:40:11.36
>>881
だからなに?
魏志倭人伝の伊都國ではないね。

自分の比定地が間違っていたからといって
ゴネてるだけ。
見苦しい。
0887日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/15(日) 12:40:25.54
いざ
伊邪國:長崎諫早(伊佐国)
已百支國:伊万里

末蘆國:唐津平野(吾田)柏崎遺跡(笠沙岬)
伊都國(魏代):糸島平野(日向)井原鑓溝遺跡(吾平山上)潤地頭給遺跡(吾平津)
伊都國(漢代):早良平野(日本)吉武遺跡(高天原)
 斯馬國:糸島半島(士摩)

奴國:那珂比恵遺跡〜須玖遺跡(葦原那珂津国)
 不彌國:雀居遺跡(邪馬壱國)ざまい

豊国
 遠賀川以西(出雲國)田熊石畑遺跡(須賀)
 遠賀川以東(伯耆國)山鹿貝塚(比婆山)鐘崎(稲羽)


ざまか
邪馬嘉國:佐賀(阿耶訶)
 都支國:都渡城・肥前川上(大坂)與止日女神社
 彌奴國:三根郡・三養基郡 吉野ヶ里遺跡
好古都國:久留米(黒田)高良(孝霊)

彌馬升:旧三輪町(纏向)
彌馬獲支:朝倉市甘木・三奈木/平塚川添遺跡(御間城)

鬼國:阿志岐山城神籠石(山城)
0888日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/15(日) 12:40:39.24
末蘆國:唐津平野(吾田)柏崎遺跡(笠沙岬)

末蘆國東部:姉子浜〜深江(膂宍之空國)

伊都國西部:糸島平野(日向)


<魏志倭人伝>
末蘆國東部に上陸→「草木茂盛行不見前人」→伊都國西部

<書紀>
日向→膂宍之空國→笠沙岬の王が国譲り
0889日本@名無史さん
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2023/10/15(日) 12:41:44.20
BC10000頃
縄文文明が開始

BC3000頃
高度な縄文文明が栄える
山東省から稲作が直接伝播、既存の各種雑穀と一緒に栽培

BC2000頃
ハツカネズミの一斉放散で縄文文明が打撃を受ける
長江文明〜山東省の稲作もハツカネズミにて衰退 

BC1030頃
沿海州から刻目突帯文土器が漂着渡来
 青銅器原料の入手経路を確保できず中規模拡散にとどまる

BC1000頃
浙南石棚墓の太伯集団が漂着渡来
縄文伊邪國の爾支がこれを保護して養蚕が栄える
 青銅器による木板作成→ねずみ返しの安定供給→「稲作の再開」
<対馬海峡>を介した青銅器輸入の開始・燕や遼東勢力との交易

BC222
燕が滅亡し、燕人が大量亡命
 知識人を登用して政治機構を改革し、縄文伊邪國爾支の直系である、
吉武木大王家が登場
 山鹿貝塚縄文女王の系譜を引く豊国女王国を吉武木大王家田熊石畑将軍が監察支配
 丹後半島に遠隔工房群を稼働

BC108
楽浪郡設置・衛氏朝鮮滅亡
 漢と同盟して衛氏朝鮮を滅ぼした奴勢力が朝鮮半島に国家乱立、一部は奴国へ
 青銅器など取引先が衛氏朝鮮から奴勢力に変わったことで、北部九州旧100余国が30余国に整理される
0890日本@名無史さん
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2023/10/15(日) 12:42:45.66
0
山鹿貝塚縄文女王系豊国女王が瀬戸内高地性集落群「木俣」を運営
BC10頃
奴国青銅器工房群の頭領の息子がこれに婿入りして倭種同士が縁組
BC10頃
吉武木大王家と田熊石畑将軍の争い
奴国青銅器工房群の頭領の息子が田熊石畑将軍の娘とも縁組して
中広形銅矛軍の将軍となり、幕府の形で、北部九州〜旧平形銅剣領域を支配

AD57
北部九州絹・木俣木材の生産と、中広形銅矛軍の軍事力にて、
漢委奴國王金印

AD70
奴国疫病と奴国大洪水にて奴国王失脚

吉武木伊都国王家から
三雲南小路1号日向大王擁立、三雲南小路2号王妃は柏崎遺跡出身

AD108頃
日向2代目の井原鑓溝大王すなわち師升が遣使

AD130頃
伊都国宗家が瀬戸内畿内経済圏<大倭>の発展に成功して栄える
日向4代目がこれを東征して一旦は北部九州倭国を粛清

AD150頃
倭国乱 伊都国王家内の勢力争い
0891日本@名無史さん
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2023/10/15(日) 13:07:52.68
AD180頃
伊都国王族の卑彌呼が奴国方面の地方女王に任命される
 日向系伊都国王第8代の王女
 不彌國に治す

AD210頃
狗奴国勃興
 伊邪國を領有していた難升米父(漢委奴國王金印所持)と同盟
 彌奴國→都支國→末蘆國→対馬海峡と攻め落とした
 漢委奴國王金印を用いて後漢曹操と外交、金銀錯嵌珠龍文鉄鏡を入手

AD210年後半
金銀錯嵌珠龍文鉄鏡を入手した狗奴国王と、漢委奴國王金印を継いだ難升米が離反
 難升米は卑彌呼側に寝返り、大率として対馬海峡を監察領有

卑彌呼邪馬台国軍(=倭国軍)が対馬海峡を奪還
 卑彌呼は移動して、大率難升米と共に伊都國(魏代):糸島平野(日向)に治す

AD238
魏の司馬懿が公孫氏討伐の遠征
 長雨にて兵糧切れ敗北の記紀
AD238年6月
大率難升米が司馬懿と会見
倭の兵糧(邸閣=兵糧倉庫に大量保有)を提供する見返りに、
親魏倭王金印を提供する外交交渉を締結

235年に洛陽で大流行した疫病も一緒に来倭
邪馬台国で疫病流行して混乱弱体化
0892日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/15(日) 13:08:39.97
AD247年
狗奴国が攻勢に出る
 魏に援軍を送る能力は無く、張政と黄幢のみ派遣
卑彌呼老衰にて死去
難升米討ち死に

男王即位(日向系伊都国王第10代)
 狗奴国と同盟して旧卑彌呼派を粛清して九州統一
国内の混乱を抑えるため、男王の宗女壹與を倭国王に
 都支國:都渡城・肥前川上(大坂)與止日女神社に治す

以上247年内
0893日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/15(日) 13:09:10.68
末盧国の範囲は東松浦半島から二丈付近まで
西が何処まで続いていたかは魏志倭人伝の文章では分からない
伊都国は糸島市南東部
奴国は早良区南部、那珂川市、春日市、大野城市、筑紫野市、太宰府市方面
不弥国は早良区北部、西区、城南区方面
0894日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/15(日) 13:21:10.20
元々の文章では不弥国の次に来るのは斯馬国(糸島市北部)で
「南至投馬國水行二十日 官日彌彌 副日彌彌那利 可五萬餘戸
南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月
官有伊支馬 次日彌馬升 次日彌馬獲支 次日奴佳鞮 可七万餘戸」
の部分は別の資料からの引用した文章で挿入されたもの。
0895日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/15(日) 14:24:38.44
南中が判るようにするためには日時計が必要だが
日時計の出土例は有るのか。
0897日本@名無史さん
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2023/10/15(日) 15:45:47.90
>>1
>平原女王墓が卑弥呼って聞いたけど?

それでいいよ
箸墓ウンヌンと言う畿内説の人もいるけど、倭人伝の記述、地の利、発掘物から圧倒的に最有力でしょうね
0898日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/15(日) 15:56:04.43
>>895
古代の天文学や航海術などはすごいですよ。
当時、日本に限らず中国はに行ってますよ。

南中については、棒が一本あればいいですよ。
一日で太陽が一番高く昇る方向が真南。
つまり棒の影が一番短くなる時。
北極星と自分を線で結びその反対側が真南でも可。
0899日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/15(日) 15:58:38.48
〇日本に限らず中国はいたるところに行ってますよ。
0900日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/15(日) 16:58:44.91
>>895
日時計があっても旅しながらだから固定出来ない移動中だから正確な方向は分からないだろうな
だいたいの方角は太陽の方角で分かる程度
流石に南と東はまちがえないな。
0901日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/15(日) 17:52:19.86
>>895
垂直に棒立てて影が一番短くなるのが南中で影が差す反対が南
日時計とか要らんよ
0902日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/15(日) 20:31:55.65
>>896
對馬能祢波 之多具毛安良南敷 可牟能祢尓 多奈婢久君毛乎 見都追思努波毛
対馬の嶺(ね)は下雲あらなふ可牟の嶺にたなびく雲を見つつ偲はも
この和歌は百済に肩入れした中大兄皇子等が白村江で大敗して日本滅亡の
危機を感じて壱岐対馬の防備に派遣された別種(関東)の防人が詠んだといわれる
所謂「東歌あづまうた」である。
安良南敷=「あらなふ」は「有る」の否定で平安時代の読み方。飛鳥時代や卑弥呼の時代には
アラナプに近い発音。「安」は現代日本ではアン、「南」はナンだが
10世紀まで日本人は「ン」と言う発音が出来なかったからそれぞれ「ン」を無視して
「安」は「あ」、「南」は「ナ」を表わす万葉仮名として使われた。

「たなびく雲を見つつ偲はも」は雲を見ながらあの子を偲ぼう、又は妻や家族を偲ぶことにするという意味で畿内の言葉では「偲ばむ」に相当する。
0903日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/15(日) 21:02:42.67
ほとんどの漢字を平仮名一文字で読んでるから、発音しなかた言葉がかなりある
0904日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/15(日) 22:36:29.99
>>882
これの答えまだー??
0905日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/16(月) 04:55:07.62
>>882

「ん」の元になった漢字は「无」だわ
「む」は「武」の草書体だから
万葉仮名一覧に「无」が出てくるかな

古事記と万葉集に使用例があるが読み方は「ん」ではなく
「む」だ。
0906日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/16(月) 05:08:37.99
>>898
>
>南中については、棒が一本あればいいですよ。
>一日で太陽が一番高く昇る方向が真南。
>つまり棒の影が一番短くなる時。

此の事を実現するためには
棒を鉛直に立てる必要があるから
紐に吊るした分銅や直角三角形の定規が必要だし
影が一番短かくなるのを確認するために腹時計で
南中の1〜2時間前から待機する必要があるし、
南中後影が短かくなるのを確認するために又1〜2時間必要。

オマエの「机上の空論」は簡単だが現実はそう簡単ではない。
0907日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/16(月) 07:25:19.05
紐に吊るした方格規矩鏡あれば解決だな
0908日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/16(月) 07:34:43.89
夜に北極星見つければ一発よ
0909日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/16(月) 07:57:15.49
昼は太陽の方角と腹時計で見てだいたいの方角だな。
0910ネトウヨボクメツタイ!
垢版 |
2023/10/16(月) 08:13:33.49
上古のジャップにはなぜか星を忌む文化があったようだからな
方角は太陽頼みだったろう。
時計も日時計だな

天皇という号からは北極星信仰の影が見える
訓読みのスメラミコトは謎だが、定説どおりスメルを統べるとすると夜空のスバルと同じく北極星が星を統べる有様を意味すると考えられよう
最もオレはスメラを統めらとするのは少し怪しいと思う

タラシヒコの号には太陽信仰の属性が透けて見える
スメラミコトは後から生まれた称号だろう。
0911日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/16(月) 09:19:45.56
>>910
ログ読み直せ
魏の話と方角の話をしている
0912日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/16(月) 11:07:05.94
>>0903
>ほとんどの漢字を平仮名一文字で読んでる

当時平仮名が無かった時代なので漢字の音訓を仮名の代わりに使ってた
だから漢字は「真名」と呼んだのだ。
真と仮の違い位、高卒以上なら知ってるハズだが

日本語の歴史を知らない奴が日本史カテゴリーに出現するとは世も末じゃ能足りんw
0916日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/16(月) 17:00:51.89
>>903
>ほとんどの漢字を平仮名一文字で読んでるから
此れは古代の日本語に二重母音、(広東語の様な)三重母音が無かったという事。

卑弥呼の「卑」は広東語でペイーpeii、英語のpayの様な発音
0917日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/16(月) 17:43:53.00
「ん」が発音出来なかったというのは
「延喜式」とほぼ同時代に撰述された「和名抄」によりハッキリしている。
日本語の50音は、「あいうえお」は母音だけ、その他は「子音+母音」という組み合わせで成り立っている。

しかし「ん」だけは例外で、子音だけで成り立っており、50音の中で唯一母音がない文字。
鼻をつまんでは口腔内の空気が出ないので発音出来ない。
古来から倭人語、日本語は中国語や朝鮮語と違って必ず母音で終わる言語であった。

詳しくはhttps://ja.wikipedia.org/wiki/〓邪馬台国の言語
0918日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/16(月) 21:58:17.69
発音できなかったのではなく
『ぬ』と『む』の二種類の音で使い分けていただけ
『ん』というカテゴリーが無かった

英語に例えるなら『R』と『L』、『S』と『TH』にあたるのが
『む』と『ぬ』
んで発音する際に『ぬ』か『む』か微妙な場合、『む』でも『ぬ』でもどっちでも構わないようなシチュエーションが増えてきて
文字起こしする時に使いやすい仮名として『ん』が生まれたんだろう
0919ネトウヨ撲滅!
垢版 |
2023/10/16(月) 22:17:43.47
「ン」を発言できない古代のジャップを信じがたいと思うのは致し方ないかもしれないな。
上代のジャップは認識できる音素数が少なかったのだろう。

関西方言の母音重視と東京方言の子音優位について標準的な日本人は意識することはなかろう。
「何なにです」の「dusu」などは分かりやすいな。
東京のひとたちは「です」がdethだが関西ではdesuになる。
基本的にジャップは五音説だから丸々も仕方なくこうなると。
0920日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/18(水) 17:06:33.12
日本語と糞チョン語の最大の違いが単語の最後尾が必ず開音節の母音で終わる事。
縄文人の祖先は北から南から来て言葉が混じり合い妥協して5母音に落ち付いた。
「う」の音色=フォルマントが関西と東京とで違うと
テレビの東京弁ドラマを見ていて感じてた。
ネットで「的を射る」か「得る」の論争は「い」の音色=フォルマントの違い。
「ミンチ」vs「メンチ」も同様。
0921日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/19(木) 21:28:39.56
青龍三年銘(235)の方格規矩四神鏡

三国志に記録された青龍三年の洛陽疫病が一緒に渡来した可能性

安満宮山古墳:方墳 割竹形木棺 卑弥呼の母系親族か
大田南5号墳:方墳 石棺  卑弥呼の男系親族か
0922日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/19(木) 21:30:11.85
青龍三年銘(235)の方格規矩四神鏡

三国志に記録された青龍三年の洛陽疫病が一緒に渡来した可能性

安満宮山古墳:方墳 割竹形木棺 卑弥呼の母系親族か
大田南5号墳:方墳 石棺  卑弥呼の男系親族か
0923日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/19(木) 22:44:39.11
安満宮山古墳も安満遺跡も北部九州倭人つまり海女=海人=天津の東方拠点
だから原型は舟の割竹形木棺
0924日本@名無史さん
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2023/10/20(金) 05:18:56.00
現代の💩チョンは発音できる音素数が少なくて
上下の唇を軽く合わせる軽唇音を発音出来なくてfightingを
緊張して重唇音でpightingパイティンと発音してる。

wikiの三十六字母をググって見
「王力による時代別の推定」という表の中で
「莊」という字の頭子音の発音を[t͡s][t͡ɕ][ʈ͡ʂ]などのIPA(国際音声字母)で示してるが
これは鮮卑族が支配した隋唐以降の華北の発音で
揚子江より南から東南アジアへ移住した華人の発音する頭子音は
[t]でtuaŋという発音。此れは清代の考証学者「銭大マ(せん たいきん)」が出した「古無舌上音」という説に合致する。
「古無舌頭、舌上之分,知、徹、澄三母,以今音讀之,與照、穿、床無別也﹐求之古音﹐則與端﹑透﹑定無異」
0925日本@名無史さん
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2023/10/21(土) 07:21:37.33
倭人伝の里程が不彌國まで記録
女王国は卑彌呼前任地で万二千里だから奴國
魏略では伊都一万戸
後漢書でも卑彌呼宮殿が記録

この辺りの情報からすると、
里程の測定は後漢代楽浪使で、後漢代は伊都=糸島+早良=一万戸で、卑彌呼宮殿は不彌國

見聞録や日程が張政旅誌で、魏代は伊都=糸島千戸で、卑彌呼宮殿も伊都糸島
0926ネトウヨ撲滅隊!
垢版 |
2023/10/21(土) 22:34:50.10
東日流外三郡誌とか笑えるよな。
ヒミコとミミコとチミコの三姉妹とか真面目に信じてたクソバカがいたんだぜ。
これが九州説を正当化したいネトウヨやスピの思想的偏向の現実。
0927日本@名無史さん
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2023/10/23(月) 06:33:22.24
翰苑も繰り返し万二千里を引用してるし、
魏志倭人伝の邪馬台国の官が、そのまま倭国の官として記載されてるね。
どう見ても北部九州倭国。

太宰府で翰苑を書き伝えたのは日本人だからね。
間違っていたら訂正なり打ち切りなりしていただろう。

結局のところ、金印平原翰苑と九州説の根拠はいずれも国宝で鉄板。
それをトチ狂って国宝のあれこれにケチつけるしかないのが反日説。
0928日本@名無史さん
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2023/10/23(月) 06:53:33.65
魏と交渉したのは邪馬台国だから、
狗奴国ってのは邪馬台国があてた漢字であって、
狗は蔑称を含むだろうね。
そうなると記紀の狗人つまり伊都であれば三雲南小路1号王の長男一族が候補になってくる。
失脚した柏崎遺跡勢力だから、方形周溝墓勢力やオルドス式銅剣一族も含まれてきて、
柏崎遺跡の女王一族が近江へ一度落ちて、また伊都に復活して来た卑弥呼と、
狗奴国とは、狗では繋がっていることになるね。
0929日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/23(月) 07:47:38.58
魏使は帯方郡の南の端の海岸から倭へ出発している
7000里で狗邪韓国の海岸へ到着
狗邪韓国着いた時点で倭に入ってる
更に1000里の海を渡り対馬国の北岸へ
対馬国の海岸を半周し(400里×2)対馬国の南岸へ
再び1000里の海を渡り一大国の北岸へとなる
帯方郡の南の端の海岸から出発したので海岸から海岸までの距離が示され
対馬国や一大国の半周分も行程距離に加える必要が出てくる
末盧国への上陸地点も末盧国の北端となり呼子付近と推定される
また次の500里で末盧国を通過し伊都国との国境に達する
魏志倭人伝の里程文では海岸から海岸、国境から国境の距離を里数で示している。
0930日本@名無史さん
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2023/10/23(月) 08:00:03.00
不弥国は福岡市西区、早良区北部、城南区付近である
魏志倭人伝の里程文では海岸から海岸、国境から国境の距離を里数で示している
この事を踏まえて不弥国の位置を推定すると
呼子付近に上陸した魏使は東松浦半島を南へと進み、唐津市街地で東へ向かい500里(40km)で伊都G.C.付近の丘陵に到達する
この丘陵が末盧国と伊都国の国境である
更に100里で伊都国と奴国との国境である糸島峠付近に着き
そこから室見川沿いに博多湾方面へ100里下って行くと不弥国へ着くのである
二萬戸の奴国は早良区南部から那珂川市や春日市大野城市方面へ遠くまで広がっていたものと推定される。
0931日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/23(月) 09:05:50.16
対馬国と一大国の半周分を行程距離に加えると
7000+1000+400×2+1000+300×2+1000+500+100=12000
となり伊都国と奴国の国境で帯方郡から女王国までの12000里に達する
つまり、女王国とは伊都国と奴国の国境付近を中心とした地域を指す言葉である事が判明する。
「東南至奴國 百里」の説明で12000里の女王国までの里数での行程説明は終了しているのである。
では「南至投馬國水行二十日」の日数による行程説明は何なのであろうかとの問題が発生するが、距離での行程説明が終了したので同じ行程を今度は必要とする時間で再度説明したものと考えられる。
里数での行程説明とは別に日数での行程説明した資料を入手した陳寿が追加して書き加えたもので、帯方郡からの日数を示すもので、帯方郡から水行二十日で投馬国、投馬国から水行十日、陸行一日で邪馬壹国との意味と採れる。
里数での行程説明で登場しなかった投馬国や邪馬壹国といった新しい名所が出てくるのは別の資料からの引用した為に起きた表記単位の違いによるもので、投馬国は朝鮮半島南部の地域の名称であり邪馬壹国は北部九州地域全域を指す名称である。
投馬国の中に狗邪韓国があり邪馬壹国の中に対馬国、一大国、末盧国、伊都国、奴国、不弥国、傍国20か国が在ったのである。
0932日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/23(月) 09:21:46.17
邪馬壹国を女王の王都であるとの誤解は「女王之所都」の意味を取り違えたからである。
この「女王之所都」とは「女王の統べる所である」との意味で女王の首都とも捉えられるが、里数での行程説明と日数での行程説明は完全に独立した文章なので「女王の統べる所である」は投馬国に対し邪馬壹国は「女王の統べる所である」と言っているのである。
投馬国に女王卑弥呼はいない、邪馬壹国側に女王卑弥呼は居ると書いてるのである。
「此女王境界所盡」等の「女王」とは「女王之所都」を省略したもので丁寧に書くと「此女王之所都境界所盡」となる。
0933日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/23(月) 09:27:59.96
上記の事から
「女王国」とは帯方郡から12000里の場所を指し、伊都国と奴国を中心とした地域で伊都国、奴国、不弥国を指すものと考えられる。
「女王」とは「女王之所都」を省略したもので邪馬壹国と同義語と考えられ、「女王国」と「女王」とは区別しなければならない。
0934日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/23(月) 11:10:25.73
丗有王 皆統屬女王國」
「世、王有りて、皆、女王国に統属す」
従来の訳では「(伊都国には)代々王がいて、(伊都国の王は)皆、女王国に従属していた」と意訳されているが「女王国」とは伊都国、奴国、不弥国を指すものである。
従来の意訳では伊都国は伊都国に従属していたとなり意味不明の意訳となる。
魏書の中で「世有」とは魏の世での出来事を指しており、「世」を代々と訳す場合でも「魏の世では代々」との意味である。
「丗有王 皆統屬女王國」の場合は「(伊都国には)魏の世に(女)王(卑弥呼)がいた、(倭の国々は)皆、女王国に従属していた」なのである。
魏略に於いても「其国王皆属女王也」と書かれており「倭国の王は皆、女王に属すなり」となっており「(倭の国々は)皆、女王国に従属していた」が正しい事を裏付けている。
例文
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
 太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
  ※漢朝に対して魏朝では代々変更を重ねている。

・今汝先人世有冠冕(王昶)
  ※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
   昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守で
   当然ながら先人は王昶一人のことではなく、魏代での父祖代々を指す。
0936日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/23(月) 12:25:30.97
>>935
魏略には「丗有王」が無いから其の国の王は倭国の王としか解釈出来ないんだよな。
0937日本@名無史さん
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2023/10/23(月) 13:30:00.47
「自女王國以北 特置一大率檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
「女王国以北に、特に一大率を置き諸国を検察す。諸国はこれを畏憚す。常に伊都国に治す。国中における刺史の如くあり。」
これを意訳すると
「(女王卑弥呼は)女王国より北は、特に一大率を置いて諸国を検察させていた。諸国はこれを恐れはばかっていた。(女王卑弥呼は)常に伊都国で(一大率を使い諸国を)治めていた。(この様子は)魏に於ける刺史のようであった。」
ここでも伊都国に女王卑弥呼がいたと書かれている。
0938日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/23(月) 14:38:47.69
「參問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連 周旋可五千餘里」この文章は本来
「自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳
次有斯馬國 次有巳百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國 次有好古都國
次有不呼國 次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國 次有呼邑國 次有華奴蘇奴國
次有鬼國 次有為吾國 次有鬼奴國 次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國
次有支惟國 次有烏奴國 次有奴國 此女王境界所盡」の次に続く文章だったのである。
奴国から不弥国、不弥国から傍国20か国を巡り奴国へ戻るのが5000里くらいだろうとの意味。
5000里は計算で求めたもので
末盧国、伊都国、奴国、不弥国間の平均距離が(500里+100里+100里)÷3
これに不弥国、傍国20か国、奴国間の21を掛けると4900里となり
最後に不弥国〜奴国の100里を加えて5000里として求めたもの
奴国から奴国まで倭地を周旋すると5000里と計算して出したのである。
0939日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/23(月) 18:31:27.03
>>936
其国王が倭国王だと女王卑弥呼とかぶるから、
其国王は伊都国王で、倭国王卑弥呼に属するとしか解釈できない。
0940日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/23(月) 18:42:23.93
>>930
>更に100里で伊都国と奴国との国境である糸島峠付近に着き
>そこから室見川沿いに博多湾方面へ100里下って行くと不弥国へ着くのである
>二萬戸の奴国は早良区南部から那珂川市や春日市大野城市方面へ遠くまで広がっていたものと推定される。

方角も距離も無茶苦茶じゃん。
考えすぎて迷子になってる。
0941日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/23(月) 18:50:03.69
『從郡至倭 循海岸水行 歴韓國 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里』

動詞が2つあるのだから、2つの文章である。
どこで切るかというと、

『從郡至倭 循海岸水行 歴韓國 乍南乍東』
『到其北岸狗邪韓國 七千餘里』
だと、
帯方郡から南に沿岸航海して、韓四千里を越えて、さらに南行で朝鮮半島南西端から東行して、となって、
中間に空白地帯ができてしまう。
韓方可四千里は南を倭と接するとあるのだから、

『從郡至倭 循海岸水行 歴韓國』
『乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里』
が正しくて、
帯方郡から南に沿岸航海して、韓四千里を越えたら、倭。
0942日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/23(月) 22:12:17.23
>>941
つまり、こう言う事ですね。

帯方郡から倭に至るには、(韓国の西)海岸に沿って水行して韓国を通過する。

(倭地の沖を)南へ東へ行き、倭の北岸である狗邪韓国に到着する。

7000里余りである。
0943日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/23(月) 22:17:43.10
>>941
普通に訳すとそうだね。

日程は並列で、
半島側にあるのが投馬國で、中心地が到の狗邪韓國
九州側が本国の邪馬台國(=倭国)で、首都が到の伊都
0944日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/23(月) 22:23:35.96
>>939
其国王とは倭国王の事ではなく倭の国々の王達の事
魏略は魏から卑弥呼が倭王に任命される前の事だから後漢書にもあるように倭の国々の長は皆が其々王を自称していたんだよ。
0945日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/23(月) 22:55:25.96
>>940
距離も方角だいたい合ってますよw
1里は約80mです。
0947日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/24(火) 06:21:55.16
>>945
不弥国へ北行
0948日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/24(火) 07:12:30.71
平原女王墓でいいと思うけど、
祇園山古墳とか吉野ヶ里遺跡とか那珂八幡古墳とか
対抗馬の人はもういいのかね。
最近見かけないね。
0949日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/24(火) 08:21:18.79
>>947
グーグルマップで確認してもらうと分かりますが
現在の県道56号線を南下して国道263号線を北上するのですから東と記されても問題ないでしょう。
0950日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/24(火) 08:23:24.19
>>946
魏志倭人伝の記述と現実の地形を照らし合わせて考察しているだけですよ。
0951日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/24(火) 16:59:28.88
>>943
20年以上前からこの説を説明してるんですが理解力の低い人が多いんですよね
畿内説や四国説の人の様におらが村に邪馬台国を誘致したい人んですよね
0953日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/24(火) 19:58:21.96
王さんねw
以前小倉公団(小倉城の端)に住んでたのでw
今は自宅の西熊本
筑紫野市や大野城市にも住んでた
大野城市に住んでた頃に、ゴルフしに糸島方面へ行く時に県道56号線を使用したことがあり
このコースが魏使のコースの一部ではないかと気づいた。
0954日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/24(火) 20:04:54.19
おお、お久しぶりです。
あまり個人情報は出さない方が。

56号線だと、あなたのもおらが町へとバイアスかかってませんか?
弥生重要遺跡を辿るなら49号線のほうが密接ですが。
0955日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/24(火) 23:19:03.29
平原遺跡が卑彌呼の墓だとすれば、
超大型内行花文鏡など威信材が多数副葬されているのに金印が無かったので、
金印というのは倭地においては伝世されたことになる。

金印が伝世されるのであれば、
奴国王死去時に副葬される、あるいは失脚時に破却されることなく、
漢委奴國王金印が志賀島から出土したこととも符合してくる。

その場合、魏志倭人伝で辿れるのは、
『復立卑彌呼宗女壹與 年十三爲王 國中遂定』であり、
平原遺跡に金印が無かったということは、
親魏倭王金印の消息を辿るには、
平原遺跡に葬られた卑彌呼ではなく、倭国王を引き継いだ
壹與を辿る必要があるということになる。

壹與を日本史側で比定すると、親魏倭王金印の行方が浮かび上がるはずだが。
0956日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/25(水) 01:09:20.64
宇佐神宮には太古から伝わっていた黄金の宝があったが
源平合戦の頃に侍が宇佐神宮に押し入って狼藉を働き
その宝は奪われて鋳溶かされて鎧の飾りに使われた
0957日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/25(水) 22:27:38.06
邪馬壱とか邪馬壹といってるネトウヨは東日流外三郡誌とか信じてそうだよ

ねぇねぇ。ネトウヨくんさぁ。
古田先生の言うこと信じるならヒミコとチミコとミミコの三兄弟とか信じてる
キャハハハwwwe

反治世主義超うける。

東日流外三郡誌、ヒミコチミコミミコwwww
0958日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/26(木) 06:29:21.13
大率 伊都に治す 「三雲」遺跡 楽浪土器

大倭 旧「三輪」町に治す 中原遺跡 硯
0959日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/26(木) 06:45:13.05
>硯
魏志倭人伝に、
大率の職務は「皆臨津搜露 傳送文書」と記されてる。

そもそも金印は外交文書の木簡束を丸めて封泥するためのものだから、漢字の文書をやり取りする相手にしか渡さない。
0960日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/26(木) 07:58:17.48
>>957
古田武彦氏の説では邪馬壹国は博多湾沿岸としか言ってない
伊都国が卑弥呼の王都説ではない
久留米大学講座後に伊都国王都説を古田武彦氏に説明しようとしたが邪馬台国論争は自分が解決したとして聞き入れなかった。

>>958
伊都に治すしていたのは一大率ではなく女王卑弥呼です。

>>959
「皆臨津搜露 傳送文書」この皆は一大率ではなく女王卑弥呼の家臣が皆です。
0961日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/26(木) 09:46:01.48
この辺は女王卑弥呼に付いての説明だな。

自女王國以北 特置一大率檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史

王遣使詣京都帯方郡諸韓国及郡使倭国 皆臨津捜露 傳送文書賜遺之物詣女王 不得差錯

(女王卑弥呼は)女王国より北の国には、特に一人の大率を置いて諸国を検察させていた。諸国はこれを恐れはばかっていた。(女王卑弥呼は)常に伊都国で(一大率を使い諸国を)治めていた。(この様子は)魏に於ける刺史のようであであった。

(女王卑弥呼)王が使者を派遣し、魏の都や帯方郡、諸韓国に行く時、及び帯方郡の使者が倭国へやって来た時には、(女王卑弥呼の家臣は)皆 (呼子付近の)港に出向いて荷物を調査、確認する。文書を伝送してから授けられた贈り物を女王のもとへ届けるので、数の違いや間違いを起こすことは無かった。
0963日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/26(木) 12:15:19.11
その前段からの続きで女王国内の習俗や街の様子についてだな
0964日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/26(木) 15:06:52.37
どっちらかと言うと下記の部分が女王卑弥呼の説明の間に紛れ込んでしまったようだ。
「下戸與大人相逢道路 逡巡入草 傳辭説事 或蹲或跪 兩手據地 為之恭敬 對應聲曰噫 比如然諾」
0965日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/26(木) 16:29:33.69
>「(女王卑弥呼”は”)女王国より北”は”、特に…

ひとつの文に”は”を二回使うのは日本語が下手💩www
0966日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/26(木) 21:54:14.49
>(女王卑弥呼は)女王国より北の国には、

「私は貴方には負けません」みたいに普通だろ?
0967日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/26(木) 23:53:30.01
魏志倭人伝の解釈に関しては
中国語ネイティブの中国の古代史の権威や漢字の専門家が
邪馬台国は九州北部と比定してるから
中国語カタコトのアマチュア日本人が魏志倭人伝の解釈するのは無意味
0968日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/27(金) 09:18:09.08
>>967
現代中国語と漢文に使われている中国語は違うからね
白川静先生とかの方が中国人学者よりも詳しいかったりする
白川静先生は至よ到の違いとかも説明されてるし可の意味の説明もあるし周旋に付いても書かれてる。
0970日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/27(金) 12:00:46.02
>>969
白川静先生を知らないの?
0971日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/27(金) 22:25:27.13
>>970
中国語で論文かいて中国の古代史の学術誌に掲載されてるのか?
中国の古代史の専門家として中国の大学で講義してるのか?
0972日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/28(土) 05:55:37.82
甲骨文、金石文の権威白川静博士(京都大学)を知らない九州説バカwwwwwww

古代漢字研究の第一人者として知られ、字書三部作『字統』(各・平凡社、1984年)、『字訓』(1987年)、『字通』(1996年)は、ライフワークの成果となった。

「漢文世代の最後の碩学」と称せられた。殷・周期から春秋戦国にかけ青銅器を多数所蔵している「白鶴美術館」(神戸市東灘区)で、長年講話を行っていた。
我が輩がシンガポールで日本語を教えてた学校の日本一周ツアーのメンバーの一人が自由行動の日に「白鶴美術館」へ行きたいと言ったけど当時は考古学に興味が無くて案内できなかったのが残念。
0973日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/28(土) 08:18:14.62
銅鐸というのは、北部九州豊国縄文系+亡命燕人の万単位の開拓集団が、
東方に新規入植する際に使った「利器」。
Jアラートだね。

環濠集落とセットになっており、銅鐸を小高い場所の見張り台に配置しておいて、
現地人つまり毛人の襲撃があると、銅鐸を鳴らした。
弥生時代だから銅鐸の音は数キロ先まで届き、環濠集落外で作業中の集落民は急いで環濠内に避難して、
武装して応戦。
銅鐸を鳴らし終えた見張りは、近隣の拠点へ走って、援軍を要請した。

入植する際には現地人と土地や水系の奪い合いになる。
弥生時代にはまだ職業軍人はおらず、現地人の本格的襲撃は農閑期。
繁農期に軍事行動を起こすと、自分たちの収穫も落ちてしまう危険がある。
収穫後に軍事行動を起こしても、環濠内に備蓄食料がたっぷりあるから、まず落とせない。
だから、本格的襲撃は収穫直前期がほとんど。

銅鐸は、普段は見張り台近くの土中に埋めて保管してあり、いたずら防止のため舌だけは村長が管理。
落雷を防止するため、山や丘の頂上ではなく、斜面のなるべく乾土に保管していた。
収穫期が近づくと、銅鐸を掘り出して、舌をつけて、見張り台に設置して、見張りをつけた。

毛人が征服されるにつれ東進し、銅鐸集団のほうが有利になって襲撃される心配が減って祭器化し、
そもそもは威信材ではなく、ただのJアラートだったので、
支配権が確立すると、銅鏡に取って代わられた。
0974日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/28(土) 08:40:22.16
『國出鉄 韓濊倭皆從取之』 鉄を産出しており韓濊倭が皆、辰韓の(秦)法に従って鉄を採掘している。

『出真珠青玉 其山有丹』 真珠や翡翠を産出しているが、山に丹は有るけど採掘していない。

『有薑橘椒蘘荷 不知以爲滋味』 調味料が有るけど、調味料として使えることを知らない。

漢字の通りに訳すと、魏志倭人伝なのだから、
倭人の山には水銀鉱山はあるけれども、採掘はしていない。

だから大分などに水銀鉱山があるけれども、中国朱を使っていた九州が該当地域となる。
大量の中国朱が外まで溢れ出て発見された平原遺跡も合格。


それだと困る他説による曲解が、朱を採掘していたとする訳であり、
まあそう訳しても許される範囲ではあるが、本来は朱は有るだけで採掘していないのが正答。
0975日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/28(土) 08:51:42.51
『又有侏儒國在其南 人長三四尺 去女王四千餘里』

倭人の『出真珠青玉 其山有丹』と
意味が関連するのがこの記録。

侏儒國 腰をかがめて背を低くして水銀朱を採掘する国

人長三四尺 23cm×3-4=69-92cm

つまりは水銀を露天掘りではなく坑道掘りしていた、
若杉山遺跡のことであり、その坑道の高さ0.7〜1.2m。

すでに解は出ていて、あとは感情的に受け入れられるかどうかの問題。
0976日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/28(土) 11:25:47.08
『K齒國復在其東南 船行一年可至』

日本最古のお歯黒は東大阪市東石切町の大藪古墳で見つかっている
6世紀末 円墳
石棺墓2つに11体埋葬 うち6体の男女の歯にお歯黒


至=国の境界線に入る
到=国の中心地に到着

<帯方郡から>
四千里で倭
水行二十日で投馬國

七千里で邪馬台国北岸の狗邪韓國に到着
水行二十日+水行十日+陸行一日で邪馬台国内の女王之所都の伊都国内三雲

一万千九百里で伊都国中心の吉武に到着
一万二千里で女王国=奴国+不彌国=共立前卑彌呼旧領

<女王国から>
四千里で侏儒國
船行一年で侏儒國の先のK齒國  ※倭国軍の準構造船ではなく、生口輸送船
0977日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/28(土) 11:33:17.71
>>972
所詮日本人
日本人が解釈した中国語なんて中国人の古文書の専門家に比べればアマチュアと変わらん
0978日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/28(土) 11:35:57.57
中国語の解釈に於いて日本人の中では一番でも
中国行けば平凡なレベル
0979日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/28(土) 11:39:57.37
その先生(笑)が本当に中国人の古代史古文書の学者より優れているなら
大谷翔平やイチローのように中国側から称賛されて逆に教えてくれとやってくる。
そうなってないということは
日本国内では最も優れているね、というレベルである証拠
0983ネトウヨボクメツタイ!
垢版 |
2023/10/28(土) 12:39:39.52
奈良の都のナラは韓語
邪馬台国(ヤマト王権)の文化は韓半島要素が濃厚であった

檀君は帝釈天から鏡と剣と鈴を賜って地上に降りたっている
鈴とは恐らく銅鐸だろう
ネトウヨは畿内の銅鐸文化は邪馬台国(ヤマト王権)樹立の時に九州人の初代王に滅ぼされたという説を否定したがるが、そのネトウヨお気に入りの銅鐸は韓半島の三種の神器なんだという笑い話

ちなみにソウルは韓語で首都の意味だが、これは新羅の古名称である徐羅伐(ソラボル)から来ている。
徐羅伐は新羅の都である慶州の古名でもあり、新羅の発祥が慶州の都市国家だったといことを示している。

天尊降臨神話でニニギの降臨地がソウルの山というのは天皇家が韓半島と有縁であるという自白に他ならない。
琉球王国の首里もソウルの訛りだろう

ネトウヨは日本列島の文化に占める韓半島要素を軽くみすぎている
0984日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/28(土) 13:44:42.12
武時に金鐸、文時に木鐸を使うのは周礼に記載される古代中国の文化
半島とは関係ない
0985日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/28(土) 14:07:36.97
至は地面に矢が刺さった形から
到は至=到+刂(人)で人が到る
至は方向だろうが時刻、物だろうが何に出も使用出来る
到は到着のように目的地に到る
0986日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/28(土) 14:14:44.42
魏志倭人伝では通過地点には至が使用され
目的地には到が使用されてて区別されてる
魏使は朝鮮半島南部の狗邪韓国と北部九州の伊都国を目指してた
狗邪韓国を含む朝鮮半島南部に在ったのが投馬国で
伊都国を含む北部九州地域に在ったのが邪馬台国なんだ
だから魏使は狗邪韓国と伊都国を目指した。
0987日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/28(土) 14:54:14.68
>>977-0978

坐愛楓林晩 そぞろに愛す楓林(フウリン)の晩(クレ)

支那人は坐(そぞろ)の意味が理解できないから
夕方に楓林に車を乗り入れてカーセックスをするって
思ってるんだ。九州説患者よりアホバカマヌケ
0988日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/28(土) 16:34:17.12
絹を作るには、桑畑と家屋が必要。
蚕は家屋の天井裏で飼っていたからね。

つまり平和な世の中でないと絹を生産できない。
戦乱の世になると桑畑を維持できないし、
何より家屋が焼かれたりして絹生産どころではなくなる。

2世紀の倭国乱→3世紀の邪馬台国対狗奴国と戦乱が続くから、
元々絹生産をしていて、2世紀3世紀に絹生産量が落ちる

北部九州こそが、邪馬台国だね。
0989日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/28(土) 16:57:46.76
古田先生(ソンセンニム)は何を根拠にしたのか知らんけど
卑弥呼はヒミカと読むのが持論だった。
九州馬鹿共は只管郡からの経由地や距離をコピペして精神的オナニーに耽る

丸で魯迅の小説「阿Q正伝」の阿Qの様にwwwww
0990日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/28(土) 17:06:19.98
>>980
誰の説だ、根拠とする資料は何だ
まあ資料が提示出来ないのが九州説狂信者の特徴だがwww
0991日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/28(土) 17:20:04.05
>>989
翰苑本文の早祢娥(祢はネが方)が根拠でしょうね。

大宰府に伝えられた国宝を尊重したのでしょう。
ただ、前二文字は卑弥の誤字ということになるので、
最後の娥だけを採用する理由というのがやや希薄ですが。
0992日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/28(土) 18:03:37.53
>>985は白川静先生の著書を参考にしてます。
0993日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/28(土) 18:07:59.41
>>989
ここは古田武彦氏の説ではありません
古田武彦氏は博多湾付近に邪馬壹国があったとの説ですが
ここでは北部九州地域全域が邪馬壹国であり卑弥呼が居たのはその中の伊都国とする説ですから。
0995日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/28(土) 18:43:07.62
>>994
現在の中国語では同じなだけだよ。
0997日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/28(土) 19:10:30.48
>>995
《廣韻》は今オマエ等が読んでる邪馬「壹」国と書いてる魏志倭人伝とほぼ同じ北宋の時代に書かれたもの
現代中国語ではない。
今から50年位前の尺牘では口語体(話し言葉)で書くことは華北、華南で方言が通じなかったから
魏志倭人伝と同じ様な統的漢文で書いた。
http://www.ic.daito.ac.jp/~oukodou/kosyo/kosyo-53.htm
魏志倭人伝しか読んだことのない九州バカにイチ壹説明するのに手間がかかる。
0998日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/28(土) 19:20:00.57
(銅鐸を)斜面のなるべく乾土に保管していた。
大雨が降ると濡れて錆びて水色の錆が浮きだす。
現代の10円玉もブロンズ(青銅)なので湿気の多い処や
醤油、トマトケチャップがついたまんま放置すると
緑青(青錆)が発生する。
0999日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/28(土) 19:48:44.59
>>997
白川静先生は甲骨文字等もっと殷、周、秦、漢くらいの古い時代の意味を研究されているからな。
10011001
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