邪馬台国畿内説 Part938
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4~6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1693570863/l50
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にあり得ない。 ◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に配置された大型建物等(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。庄内3式期のSD-2001、庄内3〜布留0式期のSM-1001,SD-1007が建物BとDをそれぞれ破壊し、建物Fが庄内2式期のSX-1001埋没後築造なので建物群の存続期間は庄内2〜3の中に絞り込まれた。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある。
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。 ◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、a.元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から、b.或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。 ◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ。
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前の情報が窺知できる。
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。 ◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他なるまい。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。 ◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。
※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。 お、またコンタミ畿内説がコンタミスレ立てたのか
都合の悪い事実はコンタミコンタミ言ってれば税金もらえるんだから良いよな
税金泥棒 ◆6(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
(本項 続く) (承前)
◆6−2
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。 ◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相~布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FAQ43参照)
つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240~248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。 ◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化に起因する列島での社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末~3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf
◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等
◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山
IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、浦間茶臼山、西求女塚
IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、メスリ山、行灯山、祇園山 ◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。
壹岐一国では観察されたが首都で観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。 ◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。
以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。
また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
因みに釜山〜佐須奈34海里(=63km)、佐須奈〜厳原47海里(=87km、厳原〜芦辺37海里(=68.5km(海保水路部距離表)であり、芦辺〜唐津は25海里(=46.3km)と短い。通算264.8kmでる。印通寺〜呼子は僅か16.3海里(=30.1km)と更に短い。
このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く) (承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
予章郡:雒陽南二千七百里 南海郡:雒陽南七千一百里
蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
交趾郡:雒陽南萬一千里
(雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)
倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。
また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。 ◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇陀と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。
◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。 ◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。
◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。 ◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。
◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。 ◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、
実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄矛の後継品であったと思われる矛の後継品であったと思われるに劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。
3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
記紀においてもヤリとホコの区別が無いことは、天日槍を知らぬ者を除き常識である。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。 ◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なる概念である。よって否定材料にならない。
呂覧に「題湊之室棺槨数襲、積石積炭以環其外」と見える如く、古代中国人の耳目には竪穴式石室の側壁或いは現代考古学に言う礫槨・木炭槨の類は室外を環る地中構造物と認識される。そして棺槨は室内に重ねられるのである。
石を槨の表、黄腸を裏とする鄭玄註は、題湊が木槨壁面に接合する時期を経た塼室墓時代の意識として整合性がある。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて韓地経由の楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響ではあるものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状である。
就中、ホケノ山は床板が無く、石室構築のための仮設の板壁を石室完成後に撤去した木蓋石室墓とする復元案(真鍋2018)も有之、古代中国人が認識する木槨とは程遠い。
これを槨と称するならば、北部九州に多い箱式石棺も歴然と槨である。
畿内で一般的な墓は木棺直葬の方形周溝墓で「有棺無槨」に適合している。
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能である。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。 ◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと推定できる。
他に、使用痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄など、遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧とがある。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後~古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後~古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後~古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、遺跡建設当初の庄内0期遺物から鉄器による加工痕が認められる。
纒向大溝建築材実測図 https://i.imgur.com/EPtpzEw.png 矢板列支柱(左)に角の明瞭な貫穴、矢板(右)に鱗状手斧痕。倶に鉄器による加工の特徴を示す。
纒向遺跡メクリ地区に「大型の鉄製品を砥ぐという行為が行われていたのは間違いがな」いとされている大量の砥石があり、廃棄時期は3世紀前半~中頃、最も古いものは「庄内2式期の可能性」(『纒向遺跡発掘調査報告書2』桜井市教委2009)とされる。
大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析では、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。事実、鉄製品の腐食に最も影響力の強い硫化物が海成粘土層が畿内中枢部の深層に分布している。
また併せて、纒向遺跡で脱炭鋼を製造していた布留0期の鍛冶遺構に於て鉃滓は共伴するが成品が発見されない状況は、官製工房的な管理の強化・貫徹を想定するに足る。
古墳時代に入ると「鉄器が普及したと同時に、首長層へ鉄器が集中した」(橋口2002)
という視点に立てば、首長級墳墓への集中と生活遺構での不在という鉄器の偏在は理解しやすい。
ひとたび古墳への副葬が開始すると、畿内大和の鉄剣・鉄刀出土量は隔絶的である。https://i.imgur.com/S93qy2b.png 首長権力の有りようが窺われる。 ◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。
◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。 ◆FAQ 19
Q:釜山~対馬あるいは対馬~壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1~2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山~佐須奈間は34海里(=63km)である。
江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5~1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。 ◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国出土(李家山59号墓)青銅製容器蓋装飾の騎馬像に鋳出された脚親指に装着する革鐙が報告(菅谷1994)されている。
郡県内では湖南省西晋墓(長沙金盆嶺第21号)の陶俑に描かれた片鐙(永寧2,西暦302年埋葬)が紀年の明かな最古発見例であるが、これと同時期或いは遡るとされる類似の発見例が数あり、中国の複数の調査者が木芯包革式鐙の存在を3世紀中葉まで遡ると考えている。
現物は西晋末〜東晋初(四世紀第1四半期末から第2四半期頃)の河南省・遼寧省出土例まで降る。
湖南省西晋墓陶俑図 https://i.imgur.com/oM4NXR6.png
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度に鐙が一般的存在であったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で上図タイプ1の国産模倣品現物が出ることに不合理はない。 ◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240~260年と発表した! これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380~550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110~245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018)この桃核12測定例の平均値をIntcal20で歴年代較正して次に掲げる。
https://i.imgur.com/VKIld2Q.png
一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、
そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。 ◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png
前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く) (承前)
◆FAQ 23−2
◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。
◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
・ 森将軍塚 :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
・ 前橋王山古墳 :上毛 ・ 持塚二号墳 :上総
・ 高千穂七号墳 :上総 ・ 山伏作一号墳 :上総
・ 長沖八号墳 :武蔵 ・ 温井一五号墳 :能登
・ 見手山一号墳 :但馬 ・ 西穂波16号墳 :東伯
・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
・ 高鼻二号墳 :伯耆 ・ 日拝塚古墳 :筑前
・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
・ 朝日谷2号墳 :伊予ー布留0古(梅木1998)
◯朝日谷2号で後円部上に棺設置後、覆土と同時に前方部の盛土開始が判明していること
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等
◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。 ◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。
◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。
なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。 ◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。
◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があった。
九州説にとって不利な条件と言える。 ◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀彧)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。 ◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核には、この地域を想定するのが妥当である。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。 ◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!
A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国 ◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半~弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。
それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。 ◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。 ◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。
◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。 ◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。(FAQ79参照)
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、
弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。 ◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や太平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。
太平広記はその書名が示すとおり太平興国年間に編纂された類書であり、当該箇所は東晋代成立の捜神記から採録している。則ち太平興国の時点で原テキストに東越閩中の所司が「東治都尉」とあったことが判明する。
東越閩中に置かれた都尉の治は東候官に他ならず、三国志等の版本が成立した北宋太平興国の修史活動期における編集従事者の認識が窺知される。
倭人伝中の「会稽東治」については、中華書局が既に「東冶」と校訂しているが、丁謙・盧弼らの考證に先立ち、成都書局が同治10年に殿本を校訂して「東冶」に改めている。跋文に四川総督呉棠、四川学政翰林院編集夏⼦鐊ら同治年間の人士の名が見える。
https://i.imgur.com/E6TFLyl.png ◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。
この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。 ◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬澈は慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。
これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。 ◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1B II型式新段階(2世紀末~3世紀前葉:塼室墓最盛期、遼東系)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期、非遼東系)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行(高久2009)する。
凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。
以上述べた楽浪の対外活動に列島における楽浪土器の出土量を対応させ(◆7参照)
活発期:2世紀末~239A.D.:久住IA期
衰退期:塼室墓から遼東系が消え魏へ定期職貢あり:240〜247A.D.:久住IB期
残存期:魏へ定期職貢途絶から最終朝貢記録まで:248〜266A.D.:久住IIA期
途絶期:日本列島から楽浪土器消失:267A.D.〜:久住IIB期
の目安が得られる。
三国鏡の雲紋編年において魏景元四年(263)銘鏡に一致するのが三角縁201番鏡(唐草文帯群、岸本V期)であることとも整合性が良い。 ◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。 ◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。
◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。
この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。 ◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。
◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。 ◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。 ◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無い。
壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。 ◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。 ◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
(同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。 >>1
奥山氏よ。ご機嫌よう。
貴方は、宣伝のため、活発化しているね。 ◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有增損。
太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定 ◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことが明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。 ◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。 ◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!
A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。
また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。
◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!
A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。
(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
西與犂「革偏に于」・條支接。
行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
…東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
…東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
(漢書西域) ◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
(「長安城方六十里、 經緯各十五里、十二城門、積九百七十三頃、百二十亭」漢旧儀)
また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。
このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。 ◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!
A:定説に従う。
金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。
二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。
以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。
楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!
A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。
◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!
A:基礎知識の誤りである。
現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する
ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通) ◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!
A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
殷商:約16cm
西周:約20cm
戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。
また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。
《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
——————————MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く) (承前)
◆FAQ 65-2
『禮記』王制には
「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」
とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。
ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。
この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。
秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
古者周尺 17.3cm
今周尺 21.0cm
秦漢尺 23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。 ◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!
A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。
なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。
◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
倭人伝にある方位に間違いはないのだ!
A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。
・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。
ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png
因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
地名が実際の地勢と著しく異なる。 ◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
奈良県の三角縁はもっと新しい!
A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。
ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。
箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。
◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!
このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
護軍将軍である淵の任地は都である!
A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。
長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!
A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
銭大昕・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。
襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。
◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!
A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。
中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。
当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。 ◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
畿内は「東征」を受けた毛人だ!
A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
「服」は他動詞として使う。
「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。
「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。
◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!
A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png
能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。 ◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!
A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。
大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。
庄内大和型甕と庄内河内型甕は、庄内 I 段階に大和川河口地域に成立した初期庄内甕(庄内式古相)から分化して、庄内 II 段階に至り倶に確立した。胎土・製作技法・形態により識別されるのみならず、分布域も明瞭に区分可能である。
生駒西麓型とも呼ばれる庄内河内型甕は、中河内地域で圧倒的なシェアを占める一方で、摂津・和泉並びに大和盆地では低シェアという、極めて特徴的な偏在を示す。
これが、中河内地域の排他性を意味しないことは、中河内地域主要遺跡の持つハブ港的性格を鑑みれば明瞭である。事実、吉備の文化は中河内を経由地として纏向に極めて濃厚に転移している。
◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
畿内説は皇国史観の徒である!
A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。
遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。 ◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!
A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
本Qに見られるような直線的進歩史観で歴史が理解できないことは言うまでもない。
古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。
弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。
◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
前方後円墳体制など、夢想だ!
A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。
萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。
奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。 ◆FAQ 78-1
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
里数が書いてないではないか!
つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
投馬国は南九州でよいのだ!
A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。
『九章算術』巻第六「均輸」に
「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。
これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」
「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。
また、「今有甲發長安、五日至齊、乙發齊、七日至長安。今乙發已先二日、甲乃發長安。問、幾何日相逢?」の出題では
「術曰、幷五日・七日以爲法。以乙先發二日減七日、餘、以乘甲日數爲實。實如法得一日」と解く。
これを劉徽が註して「『減七日』者、言甲乙倶發。今以發爲始發之端、於本道里則餘分也」とする。
即ち、長安〜齊の里数は当然等しいが、乙が2日先発しており、甲の出発時には「道里」に猶ほ「餘分」がある。そこで7日から先行した2日を減ずる計算をしている。
明らかに「道里」が日数表記されている実例である。
ここでは同じ固定区間が甲にとっての道里五日、乙にとっての道里七日である。甲の出発時に乙は先行した道里二日を七より減じた乙の道里七日のうち五日が未消化な「余分」である。つまり七五三十五の最小公倍数を法(分母)とすれば三十五分の二十五である。従って、改めて甲乙が同時に出発したと考えれば五と七の和十二分の二十五、即ち二日と十二分の一後に甲乙が出会う。
この計算には里数が一切登場せず、日数のみで道里を計算していることが明らかである。
本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。
(本項 続く) ◆FAQ 78-2
(承前)
三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」
とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝でも、各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。
もとより倭人伝は倭人の国々を
1)自女王国以北、其戸数道里可得略載、
2)其余国遠絶、不可得詳
と截然と二分類しており、「自女王国以北」と「其余」で悉皆である。
戸数・到達所用日数・官の情報が既知である投馬国を「遠絶ゆえに不可得詳」のグループに配することは極めて不合理であり、投馬国については戸数と道里が略載されている。
倭人伝に於て投馬国が「女王国以北」と認識されていること明瞭である。 ◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
ただの倉庫だろう?
A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)
建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。
強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。
◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
魏志に邪馬臺と書かれていたのではない!
ただ当時の風説を書いたのだ!
A:初歩的な誤りである。
子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。
助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。 ◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
だから邪馬台国は畿内ではない!
A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。
三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。
魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。
三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
https://i.imgur.com/XIb0RqF.png
◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!
A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。
「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。
三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。
このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。 ◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!
A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。
●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。
●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君冝高官」「保子冝孫」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。
国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君冝高官至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。
両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
古墳とは違うのだ!
A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。
孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。
類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。
魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。
◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!
A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。
K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものであろう。
庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭頃の実年代が与えられている。 ◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
日本の古墳は平坦で、高くない!
卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!
A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png
https://i.imgur.com/EyIx7C7.png
◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
特鋳説の根拠にはならない!
A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量であり、市中から発丘獲得物を含む雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しい。
全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。
銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。 ◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!
A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。
また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。
江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。
このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。
◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!
A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。
下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。
夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
https://i.imgur.com/EXTU3lu.png ◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!
A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。
「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步、高六丈六尺」(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
「帝王世紀曰。(洛陽)城東西六里十一歩、南北九里一百歩」
「晋元康地道記曰。城内南北九里七十歩、東西六里十歩」(後漢書劉昭注)
※晋元康年間:291〜299
「洛陽十二門、南北九里」(太平寰宇記所引陸機『洛陽記』)
※陸機(261〜303)」呉陸遜孫、晋入朝289
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
※「皇覽」(魏文勅撰)
◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!
A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。
実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。 ◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!
A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。
六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。
『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。
また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。
八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。
◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!
A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。
北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
改新詔における畿内国の定義が畿内第V様式圏に酷似する事実の指摘(濱田2014)は注目に値しよう。 ◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!
A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。
IB期に庄内系(庄内2〜3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
https://i.imgur.com/zJCqyag.png
https://i.imgur.com/KTMQyfU.png
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。
畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。
◆FAQ 95
Q:森井貞雄によれば西暦258の年輪年代が与えられた二口かみあれた遺跡が庄内3だ!
布留0の箸墓が3世紀中頃である筈がない!
A:布留0の実年代を西暦260〜280頃とする寺澤の見解(橿考研2002)と齟齬がない。
ただし森井が二口かみあれたを庄内3併行と判断したという点について出典がない。
森井は青龍三年(西暦235)銘鏡を出土した大田南5号墳の「庄内3」あるいは「布留0」併行を弥生終末期の終わりの一つの定点(森井1999)としており、本Qは本人の著述と齟齬があって疑わしい。
科学年代西暦258をVI-3様式期(布留0古相)の年代観と対照する森岡(2014)。
上記年輪年代(光谷1995)が古墳時代初頭・布留0併行の暦年代を提出したとする河合(石川埋文2000)。
これらと突合すると、光谷の上記暦年代データは箸墓の築造年代を3世紀後半初とする見解と整合性がある。 ◆FAQ 96
Q:「銅出徐州」というが銅山があるのは呉領だった徐州南部のみ!
彭城銅山県は名ばかりの存在で漢書・後漢書に銅山のあった記録もない!
A:彭城銅山県(現・徐州市銅山区)は北宋の元豊年間に宝豊監が置かれ鋳銭が行われていた。宋銭「元豊通宝」の鉛同位体比は三角縁神獣鏡に酷似している。
のち廃坑となり地名のみが今に残る。
これと別に、隣接する利国には鉄冶を主する監が置かれていた。
呉の領有した徐州南部とはもと揚州の属であった広陵郡南端の極めて限られた地域のみで、徐州の殆どは魏領である。
漢書地理志広陵国・続漢書軍国志広陵郡とも鉄を産することを記すのみで銅山があった記録がないことは彭城と同じである。
◆FAQ 97
Q:纒向は蛙を食う貧困な寒村だ!
A:西漢は皇帝の宗廟に羊・兎・食用蛙を供えるのが常であった。
東漢にあっても普通に食用であった。
「羔、菟、鼃所以供祭也」霍光伝師古注
「鄭司農注云蟈蝦蟇、玄謂蟈今御所食蛙也」周礼両鄭注
纒向土壙祭祀において今人が高級食材とする鯛・鴨・桃などと並んで神饌とされることに不自然はない。
◆FAQ 98
Q:纒向は古墳築造のための施設であって都などではない!
A:合理的な理由がない。
纒向の建設は庄内0式段階で運河掘削が開始する。
一方、90m級にまで巨大化して弥生墳丘墓の域を超えた墳丘墓の築造は庄内2式段階に開始する。
よって遺跡内への搬入土器が広域に亘る特異性発現、運河掘削ともに、大型墳丘墓築造開始より1世代を超えて先行しており、因果関係が認め難い。
また辻地区の大型建物は3式段階には廃絶しており、箸中山古墳の築造開始に先行する。
よって此の因果関係も求め難い。
纒向型土壙祭祀の開始も大型墳丘墓築造に先行する。その祭祀内容には葬送儀礼との関係が窺えず、寧ろニヒナメヲスクニや鎮火祭といった服属儀礼や鎮護国家的行事との関連性が指摘されている。
導水施設における祭祀も池上曽根や伊勢遺跡に先行事例が求められ、墳墓との関連がうかがえない。ことに木樋を用いた祭祀は首長居館周辺で執行される特異な祭祀として後世に残っている。
以上より、纒向は祭祀に特化した特異な大遺跡であるが古墳祭祀には特化しておらず、古墳造営とのみ結びつけるのは不合理である。 ◆FAQ 99
Q:ホケノ山古墳の年代は古木効果の影響を受けない小枝資料の炭素年代によるべきだ!
4世紀後半だ!
A:後代の混入物として除外する通説が正しい。
墓室内に落下していた丸底坩と加飾壺は、他古墳での類例を鑑み、墳頂に囲繞配列されていた祭祀用土器と見るのが妥当と思われる。明らかに混入物である小枝資料は天井崩落時のコンタミであろう。
ラジオカーボンによる暦年代の較正に当たっては古墳寒冷期に対応する炭素14濃度の乱高下を考慮する必要がある。3世紀末にかけて大幅な炭素14濃度の上昇が観察される。また4世紀後半にはラジオカーボンの崩壊速度に見合う濃度上昇があり、これが撹乱要因となって較正曲線によって絞り込める暦年代が拡散している。
Intcal20から見た炭素14濃度は西暦270年頃をボトムとして大きく上昇しており、布留1古相のyBP値が新相のそれより高く出る実態と合致している。また、同時代資料と見られる小枝の確率密度分布ピークが一方は4世紀中葉後半、他方が4世紀末から5世紀初頭の値を示すことも、気候変動による撹乱要因が深刻であることを読み取れる。逆に270年頃のピークは両資料とも適切に合致しており、より信頼度が高い。ここから、天井崩落の時期を布留0末から布留1初頭と推察する。
周濠底のS字甕Aの年代(庄内3)に属する多数の測定例と整合している。
https://i.imgur.com/nHtnTXO.png
◆FAQ 100
Q:会稽東治は蘇州だ! いや上海だ! 長江河口近辺だ いや淮河より北だ!
A:卑弥呼が通交した時代の会稽郡は現在の浙江省および福建省、単独で「会稽」と言えば常に現・紹興市越城区にあった会稽郡治「会稽山陰」を指す。
「越王句踐、其先禹之苗裔而夏后帝少康之庶子也。
封於會稽、以奉守禹之祀」(史記越王句踐世家)
「禹周行天下、還歸大越、登茅山以朝四方羣臣、封有功爵有德。崩而葬焉。
至少康、恐禹迹宗廟祭祀之絶、乃封其庶子於越、號曰無餘。」(吳越春秋)
「會稽郡山陰、會稽山在南,上有禹冢」(後漢志郡国四)
✳︎茅山:会稽山の別称
秦の王翦が楚を滅した時、楚に併合されていた呉越を分離して会稽郡とした。
会稽郡治が現・蘇州市にった時期、当地は呉本国、呉県と呼ばれ、会稽は依然会稽山麓に所在す。
以降変転を経て順帝永建四年(199A.D.)に呉郡を分割し、以降の会稽郡治は会稽山陰である。
「会稽東治」が呉郡や徐州に存在しないことは明らかである。
「東冶」は『捜神記』や『太平広記』並びに書陵部蔵三国志 南宋刊「紹熙」本に登場し、すべて越が楚に滅された後の越族の都となった閩越(卑弥呼朝貢当時の「東侯官治」)を指している。
(参考:FAQ40) ◆FAQ 101
Q:纒向の大型建物Dというのは東西二間しか見つかってないではないか!
四間x四間に復元して大型大型というのはインチキだ!
A:「本来の建物規模は調査の状況や建築学的な検討から東西も4間であったと」
と調査機関は公式発表している。
事実、東西6・2m、南北19・2mはアンバランスに長大である。一般に偶数柱間の総柱建物は居館の系譜と考えられており、このような形態は異例であろう。
建物Bと建物Cの間隔は建物Cの東西二間に等しく計画的に設計されている。
建物Dで発見された柱列西端から建物Bまでの間隔は建物Dの東西四間に等しい。
また建物Dと南柵列との間隔は建物Dの南北一間(束柱をカウントすれば南北二間)である。
全体が規則的・計画的な配置であることを考慮すれば、総柱建物が正方形を志向する傾向も鑑み、建物CとDの間隔も建物Dの東西二間に等しく復元することは合理的である。つまり建物Dを東西四間、南北四間とした復元は合理的かつ妥当である。
建物Dを破壊している溝SX-1001、建物Cを破壊している溝SX-1002ともに底の僅かな深さしか残存しておらず、両建物のあった地表面への削平が深かったことが窺知される。
大型建物群配置図 https://i.imgur.com/4W4mle2.png
同空撮 https://i.imgur.com/A1eBwbR.png
建物B空撮 https://i.imgur.com/HytoKvD.png
Dより西を望む https://i.imgur.com/LB1oG3k.png
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】なし >>1
奥山氏よ。スレッドの作成、ご苦労様でした。
やはり、新しいスレッドは、良いですね。
そして、邪馬台国畿内説が、完全に破綻してしまいましたね。
ところで、前スレとは、何ですか。
「前からスレスレ破綻しかかっていた、邪馬台国畿内説」のことだと理解して良いですか。
それならば、完全に破綻し、終了してしまいましたね。 大物主神の子孫を自称した者達の痕跡かもしれない遺蹟を発掘破壊し、
ジグザグの溝を、「方形周溝墓の溝なのだ。」と誤認したのと同時に、
明確な切り合い関係も確認できないスケッチを示すだけで、(ホウケイシュウコウボの)溝が、建物Dの(ハシラの)穴を破壊したのだ、と発表した者達が、いるのだが、
発掘破壊後の遺蹟で撮影された風景写真の中の、ハシラ列の最東の南から5番目の箇所の、発掘面の何の変哲も無い所に、発表時に示されたスケッチには無い、白い塗料で書かれていた白線は、
「発掘では発見できなかったが、「後世の削平面の上にあって確認出来なかったのだ。」と想像された、建物Dの(ハシラ)穴の底面を囲う、想像の線の一部」の可能性が、あるな。 >>79
大物主神の子孫を自称した者達の痕跡かもしれない遺蹟を発掘破壊し、
ジグザグの溝を、「方形周溝墓の溝なのだ。」と誤認したのと同時に、
明確な切り合い関係も確認できないスケッチを示すだけで、(ホウケイシュウコウボの)溝が、建物Dの(ハシラの)穴を破壊したのだ、と発表した者達が、いるのだが、
発掘破壊後の遺蹟で撮影された風景写真の中の、ハシラ列の最東の南から5番目の箇所の、発掘面の何の変哲も無い所に、発表時に示されたスケッチには無い、白い塗料で書かれていた白線が、
「後世の削平面と発掘面の十数センチ程の間にあって、かろうじて確認出来た建物Dの(ハシラ)穴の底面の境界」だった可能性も、全く0ではないが、それならば、なぜ、発掘面の白線が分割した両側に、段差すら残さず、発掘破壊してしまったのだろうか。 なぜ、完全に発覚する前の、あの有名なゴッドハンドを、古ぼけた物事を好む学芸会は、持て囃し、擁護し続けたのだろうか。 畿内説という嘘を垂れ流している>>1はタイホ
外務省、インターネットの「嘘情報」対策に701億円…令和6年度概算要求 無償資金協力は105億円増額の1,739億円
https://news.yahoo.co.jp/articles/fe39df19be627b428b85a8f7fac7084000c1e6db >>80
僕は、今、学校から帰宅した小学生です。
僕も、貴方のその疑問に同じ感想を持ちました。だから、邪馬台国畿内説が、ゴッドハンドという物事で、積み上げられていないかを、調べる学者になりたいと思いました。
それから、午前中に、僕達が学校で勉強している間に、小一時間かけて、誰からも急用の連絡が無いことのメリットを活かして、5ちゃんねるにスレッドを作成できる大人は、凄いと思いました。
だから、僕は、貴方が、奥山氏と呼ぶ、その大人に、色々な質問を、ぶつけて、
なぜ、邪馬台国畿内説が、完全に破綻してしまったのだろうか、という疑問に対する真実を探求したいと思います。 モモソヒメは崇神天皇の見た夢の人格化だったと思うな テンプレ①
関川尚功
「どうやったら箸墓古墳の土器が3世紀という事になるのかまったくわからない。どう観てもあれは古墳時代の土器で、卑弥呼の時代のモノではない。3世紀の墓に4世紀の土器をどうやって埋葬するのだろうか」 テンプレ②
清水眞一 前・奈良県桜井市教委文化財課長
私は二十年間、大和の中央部・桜井市で「邪馬台国は何処」とのテーマを持って、
発掘調査に従事してきた。その結果として、邪馬台国が成立して女王卑弥呼を擁立する
までの弥生時には代中・後期に、大和には他地域を圧倒するような「ムラ」や「墓」が
見られないことに気付いた。
代表的なムラである唐子・鍵遺跡も、畿内の同時期の池上・曽根遺跡や田能遺跡などと
比較して、飛び抜けて大きいムラとは思えなかった。逆に、墓に関しては、
西日本各地と比べて遅れた地域との思いも抱いたことだった。
であれば、その次の古墳時代に入って、纏向の地に百メートル以上もの巨大古墳が、
なぜ突如として築造されるのか。これは、大和の地に別の地域の人々が入って来たと
考えざるを得ない状況とみた。
では、誰が何処からきたのか?考古学の資料からは、特定の地域が限定できない。
となれば、卑弥呼の邪馬台国は、北部九州のどこかではないかと思われる。 テンプレ③
纒向遺跡を目の当たりに見てきた人の見解
坂靖・著『ヤマト王権の古代学―「おおやまと」の王から倭国の王へ』(2020/2/5)
著者の坂氏は奈良県立橿原考古学研究所付属博物館の学芸課長を経て、現在、奈良県地域振興部文化財保存課の主幹という、
現役の奈良県の考古学者でありながら、邪馬台国北部九州説の立場をとっています。
(中略)
「ヤマト王権は、布留式期に日本列島各地に強い影響力を行使することをはじめたのであって、
初期のヤマト王権の版図は、きわめて限定されていたとみるべきである。
・・・弥生時代中期から後期の近畿地方においては、中国との直接交渉を示す資料がほとんど知られていない。
楽浪形土器は北部九州に集中し、松江市以東にはまったく認められない。
邪馬台国の時代、すなわち庄内式期においても、魏と交渉し、西日本一帯に影響力をおよぼしたような存在が、奈良盆地にはみあたらない。
邪馬台国の所在地の第一候補とされる纏向遺跡の庄内式期の遺跡の規模は貧弱であり、魏との交渉にかかわる遺物がない。
さらに女王卑弥呼の居所は、出入りするものは男子が一人いただけであり、そこに宮室・楼観・城柵が厳かに設けられ、
常に人がいて、兵が守衛するような場所であったと記されるが、纏向遺跡にはそのような場所を認めることはできない。」 テンプレ④
東海大学教授の考古学者北條芳隆氏
「いわゆる邪馬台国がらみでも(旧石器捏造事件)と同じようなことが起きている」
「証明を抜きにして仮説だけがどんどん上積みされておりマスコミもそれをそのまま報じている」
「近畿地方では古い時期の古墳の発掘も多いが
、邪馬台国畿内説が調査の前提になっているために
遺物の解釈が非常に短絡的になっている。
考古学の学問性は今や崖っぷちまで追い詰められている。」 >>87
コンタミだからな
>>88
コンタミだな
>>89
立派なコンタミじゃないか
>>90
コンタミ 【最有力】
邪馬臺国に関する記録文献は魏志倭人伝だけではありません。
伊都国のすぐ南と書かれている文献もあるのです。
『広志』(編纂:晋の郭義恭)
広志いわく、
---東南500里で到る伊都国、又南、至る邪馬臺国--
---(このあと魏志と同様に周辺国の紹介へと続く)
伊都国:福岡西区であり倭国の守衛国
↓
又南至る
↓
邪馬臺国:吉野ヶ里、甘木・朝倉、八女など有明海と取り巻く筑紫平野に存在した小国群の総称
筑後川の遺跡群
https://i.imgur.com/oMjsFIX.jpeg
【New】2023/3/30
福岡・八女市に弥生後期の環濠集落跡 吉田・辺田ノ上遺跡 岩戸山古墳の南西
https://www.nishinippon.co.jp/item/n/1073771/ >>93
広志にあるのは邪馬嘉國だと思ったが。
邪馬臺国と書いてある原典はあるの? >>94
誤写でしょ
邪馬臺国と書いてある魏志倭人伝の原典はあるの? >>1
僕は、今、学校から帰宅した後、魏志倭人伝を読み、ご飯を食べ、宿題を済ませた、小学生です。
僕は、貴方の貼り付けているテンプレートに、沢山の疑問を持ちました。だから、邪馬台国畿内説が、ゴッドハンドという物事で、積み上げられていないかを、調べる学者になりたいと思いました。
それから、午前中に、僕達が学校で勉強している間に、小一時間かけて、誰からも急用の連絡が無いことのメリットを活かして、5ちゃんねるにスレッドを作成できる貴方は、凄いと思いました。
だから、僕は、貴方に、色々な質問を、ぶつけて、なぜ、邪馬台国畿内説が、完全に破綻してしまったのだろうか、という疑問に対する真実を探求したいと思います。
質問します。
大物主神の子孫を自称した者達の痕跡かもしれない遺蹟を発掘破壊し、
ジグザグの溝を、「方形周溝墓の溝なのだ。」と誤認したのと同時に、
明確な切り合い関係も確認できないスケッチを示すだけで、(ホウケイシュウコウボの)溝が、建物Dの(ハシラの)穴を破壊したのだ、と発表した者達が、いるのだが、
発掘破壊後の遺蹟で撮影された風景写真の中の、ハシラ列の最東の南から5番目の箇所の、発掘面の何の変哲も無い所に、発表時に示されたスケッチには無い、白い塗料で書かれていた白線は、
「発掘では発見できなかったが、「後世の削平面の上にあって確認出来なかったのだ。」と想像された、建物Dの(ハシラ)穴の底面を囲う、想像の線の一部」なのですか。
それとも、
発掘破壊後の遺蹟で撮影された風景写真の中の、ハシラ列の最東の南から5番目の箇所の、発掘面の何の変哲も無い所に、発表時に示されたスケッチには無い、白い塗料で書かれていた白線が、
「後世の削平面と発掘面の十数センチ程の間にあって、かろうじて確認出来た建物Dの(ハシラ)穴の底面の境界」だった可能性も、全く0ではないが、それならば、なぜ、発掘面の白線が分割した両側に、段差すら残さず、発掘破壊してしまったのですか。
それとも、
発掘破壊後の遺蹟で撮影された風景写真の中の、ハシラ列の最東の南から5番目の箇所の、発掘面の何の変哲も無い所に、発表時に示されたスケッチには無い、白い塗料で書かれていた白線は、その他の意味をもつ白線なのですか。
答えて下さい。答えられないならば、「答えられない。」と答えて下さい。 >>96
俺様には、絶対に、絶対に、真実を答えられないのだ。
なぜなら、俺様は、俺様は、年中無給の、ただの、宣伝係員だからなのだ。
そして、小学生よ。
俺様は、本当は、知っているのだ。
邪馬台国畿内説は、完全に破綻してしまったよ。 邪馬台国畿内説が、完全に破綻してしまったので、スレッドが寂れてしまったな。 >>95
原典を引用する形で勝手に内容を変えたら駄目じゃないか。
誤写とみなすならその旨を記さないとフェアじゃない。 >>103
奥山氏は、小学生の素朴な疑問が、恐ろしいのでは、ないのかな。 退屈なので、口を挟むが、そして、どちらが誰なのかも知らないが、邪馬嘉國だよ。
真実は、邪馬嘉國ではないのだ、と主張するならば、理由を言うべきでは、ないのかな。
で、なければ、奥山氏の宣伝している邪馬「臺」国畿内説と同じだな。 >>1
繰り返し、自己紹介します。僕は、今、ご飯を食べ、宿題を済ませ、お風呂に入った後、5ちゃんねるを楽しんでいる小学生です。
僕は、貴方の貼り付けているテンプレートに、沢山の疑問を持ちました。だから、邪馬台国畿内説が、ゴッドハンドという物事で、積み上げられていないかを、調べる学者になりたいと思いました。
それから、午前中に、僕達が学校で勉強している間に、小一時間かけて、誰からも急用の連絡が無いことのメリットを活かして、5ちゃんねるにスレッドを作成できる貴方は、凄いと思いました。
だから、僕は、貴方に、色々な質問を、ぶつけて、なぜ、邪馬台国畿内説が、完全に破綻してしまったのだろうか、という疑問に対する真実を探求したいと思います。少し前にした質問を、繰り返します。
大物主神の子孫を自称した者達の痕跡かもしれない遺蹟を発掘破壊し、
ジグザグの溝を、「方形周溝墓の溝なのだ。」と誤認したのと同時に、
明確な切り合い関係も確認できないスケッチを示すだけで、(ホウケイシュウコウボの)溝が、建物Dの(ハシラの)穴を破壊したのだ、と発表した者達が、いるのだが、
発掘破壊後の遺蹟で撮影された風景写真の中の、ハシラ列の最東の南から5番目の箇所の、発掘面の何の変哲も無い所に、発表時に示されたスケッチには無い、白い塗料で書かれていた白線は、
「発掘では発見できなかったが、「後世の削平面の上にあって確認出来なかったのだ。」と想像された、建物Dの(ハシラ)穴の底面を囲う、想像の線の一部」なのですか。
それとも、
発掘破壊後の遺蹟で撮影された風景写真の中の、ハシラ列の最東の南から5番目の箇所の、発掘面の何の変哲も無い所に、発表時に示されたスケッチには無い、白い塗料で書かれていた白線が、
「後世の削平面と発掘面の十数センチ程の間にあって、かろうじて確認出来た建物Dの(ハシラ)穴の底面の境界」だった可能性も、全く0ではないが、それならば、なぜ、発掘面の白線が分割した両側に、段差すら残さず、発掘破壊してしまったのですか。
それとも、
発掘破壊後の遺蹟で撮影された風景写真の中の、ハシラ列の最東の南から5番目の箇所の、発掘面の何の変哲も無い所に、発表時に示されたスケッチには無い、白い塗料で書かれていた白線は、その他の意味をもつ白線なのですか。
答えて下さい。答えられないならば、「答えられない。」と答えて下さい。 >>101
プークスクス
年金ジジイが切り番外してやんのw 小学生が、小学生らしく>>100に「百。」という投稿をしようとしたが、失敗したことを、笑われているな。
小学生よ。もう、寝なさい。
完全に破綻してしまった邪馬台国畿内説を宣伝している奥山氏は、貴方から逃げ回っているよ。 >>104
ほぼ魏志倭人伝と同じ文章だろ
陳寿も郭義恭も同じ魏の時代の記録集を参照したと考えられる
それぞれピックアップポイントに若干の違いが見られるだけだ
いずれにせよヤマトなんて国はどこにも記載されていない >>110
広志には伊邪國についてなど独自情報が盛り込まれている。
独自解釈を述べるのはいいが、
広志いわく、の形で原典を捻じ曲げるのはウソツキだ。 >>111
そうそう畿内説にとって都合の悪いものは全て嘘だもんなw >>109
昼間は屁でもこきつつ図書館で下らない雑誌ながら見する年金ジジイだろう 邪馬台国の卑弥呼=高天原の天照日女之命がヤマトの皇祖。 卑弥呼のような巫女女王は日本書紀を見れば北部九州には何人も出て来る訳で、アマテラスは必ずしも魏志倭人伝の卑弥呼その人とは限らないがそういった巫女女王像についての皇室の北部九州時代の記憶が反映されたものである可能性はあるな >>1
奥山氏よ。お早う。
邪馬台国畿内説が、完全に破綻してしまいましたね。 邪馬台国畿内説が、完全に破綻してしまったので、スレッドが寂れてしまったな。 桃3000個が埋められていた
もしイザナギが黄泉の国から逃げ帰る時に
死霊に桃をぶつけて退治したという神話がモチーフなら
蘇って来てはいけない人、確実に黄泉の国に封じ込めたい人の墓穴だったんじゃないかな。
つまり纒向遺跡を利用していた部族、勢力にとっての敵となる存在
または下克上した際のかつての主筋の遺体を埋めた穴。
ただその儀式を以て祭祀と言い張るのは違うと思う。
葬式も祭祀と言えば祭祀かもしれんが継続して繰り返されるのが祭祀だろう。
ちなみに桃3000個というと凄そうだけど
述べ300人が桃を10個持ち込めばいいだけだからさほど凄くない
1000人くらいの集団なら1人3個で済む 貝塚みたら「貝が祭祀に使われていたんだ!」とか言いそうやなここのやつら 魏志倭人伝には桃が出てこないので邪馬台国では無い証拠。 食ったごみを穴掘って捨てただけだろ
だから地層の年代がずれるのよ
穴ほってごみ捨てたから
そういう可能性をなんも考えずに桃の種がどこそこの地層からでた!とか言ってるからバカだなあって
コンタミコンタミ言ってるけど
その地層に桃の種があること自体がコンタミみたいなもんなのよ 奥山氏が、出現しないな。
亡くなってしまったのだろうか。 フィリピンの遺跡からバナナの皮が大量に出てきたら「古代フィリピン人はバナナで祭祀していた!」ってなるのかよ笑
食いもんのゴミが一ヶ所にあるのは当たり前だろ
生ゴミには虫がわくんだから一ヶ所に集めるっつうの
古代人もそれくらいの知恵はあるだろっての >>126
虫が沸かないようにすぐ埋めたからネズミに齧られることもなかった
うん合理的だな
祭祀跡と考える根拠は無し 纒向遺跡はまさにキャンプ場
多数の東海産飯炊き土器と鯖の骨や猪の骨など残飯が散らばったキャンプ場だよ
キャンプ場だから当然住居はない
建物は公衆便所かもな >>1
僕は、体育のバスケットボールゲームの途中に、ダンクシュートを決め着地しようとしたが、ゴール下で待ち構えていた奥山君という同級生の卑劣なファールで転倒し、保健室で休んでいる小学生です。
僕は、貴方の貼り付けているテンプレートに、沢山の疑問を持ちました。だから、邪馬台国畿内説が、ゴッドハンドという物事で、積み上げられていないかを、調べる学者になりたいと思いました。
それから、午前中に、僕達が学校で勉強している間に、小一時間かけて、誰からも急用の連絡が無いことのメリットを活かして、5ちゃんねるにスレッドを作成できる貴方は、凄いと思いました。
だから、僕は、貴方に色々な質問をぶつけて、なぜ邪馬台国畿内説が完全に破綻してしまったのだろうか、という疑問に対する真実を探求したいので、質問します。
大物主神の子孫を自称した者達の痕跡かもしれない遺蹟を発掘破壊し、ジグザグの溝を、「方形周溝墓の溝なのだ。」と誤認したのと同時に、明確な切り合い関係も確認できないスケッチを示すだけで、(ホウケイシュウコウボの)溝が、建物Dの(ハシラの)穴を破壊したのだ、と発表した者達が、いるのだが、
発掘破壊後の遺蹟で撮影された風景写真の中の、ハシラ列の最東の南から5番目の箇所の、発掘面の何の変哲も無い所に、発表時に示されたスケッチには無い、白い塗料で書かれていた白線は、
「発掘では発見できなかったが、「後世の削平面の上にあって確認出来なかったのだ。」と想像された、建物Dの(ハシラ)穴の底面を囲う、想像の線の一部」なのですか。
それとも、発掘破壊後の遺蹟で撮影された風景写真の中の、ハシラ列の最東の南から5番目の箇所の、発掘面の何の変哲も無い所に、発表時に示されたスケッチには無い、白い塗料で書かれていた白線が、
「後世の削平面と発掘面の十数センチ程の間にあって、かろうじて確認出来た建物Dの(ハシラ)穴の底面の境界」だった可能性も、全く0ではないが、それならば、なぜ、発掘面の白線が分割した両側に、段差すら残さず、発掘破壊してしまったのですか。
それとも、発掘破壊後の遺蹟で撮影された風景写真の中の、ハシラ列の最東の南から5番目の箇所の、発掘面の何の変哲も無い所に、発表時に示されたスケッチには無い、白い塗料で書かれていた白線は、その他の意味をもつ白線なのですか。
答えて下さい。答えられないならば、「答えられない。」と答えて下さい。 >>82 >>124
うきは市の珍塚古墳の壁画にカエルが描いてあるので
うきは市、筑紫と大和(おほやまと)は卑弥呼〜臺與時代の
同盟国。仲良くしようぜ! >>131
どいつもこいつもそのレベルのことしか書けない妄想畿内説論者 >>137
自分自身の脳内のキュウシュウセツに、嘘の悪口を吐いている人物が、奥山氏だな。 柳田康雄、寺澤薫、北條芳隆らはそれぞれ独自の根拠をもって伊都国勢力の東遷を纒向ヤマト王権と結びつけている
纒向遺跡の研究により、弥生時代の奈良盆地の在地勢力がヤマト王権に発展したとする旧来型畿内説はほぼ完全に否定された
纒向ヤマト王権は部族制国家の仕組みや農事暦などは北部九州から、墓制や祭祀のやり方などは吉備からの直接的影響が見られる
これらのことは、九州から起こって吉備などを経て奈良盆地を征服した神武東征伝承の史実性を強く感じさせる つまり、神武東征伝承は、3世紀後半の銅鐸王国の滅亡事件の伝承のことなのだな。 つまり、邪馬台国畿内説は、完全に破綻してしまったのだね。 奥山氏は、みたらし団子屋を廃業し、ホルモン焼き屋を出店するのだろうか。 >>144
邪馬台国畿内説が、完全に破綻してしまったので、ホルモン焼き屋の看板には、
「巻向牧場の新鮮ホルモン science4century」
と書けば良いよ。 邪馬台国畿内説が、完全に破綻してしまったので、奥山氏が、精液を使用した犯罪を実行しようとしている可能性が、あるな。 こんな嘘を平気でつくのが九州説
>歴博の240〜260推定は正しいみたいな風潮があるが
>炭素14の専門家ほど批判している
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1693570863/881 完全に破綻してしまった邪馬台国畿内説を宣伝している奥山氏が、ダンクシュートを決めた小学生の質問から、逃げ回っているよ。 炭素14の専門家が、空気シャワーの影響から目を背けることを辞めたのだろうか。 こんなニセ情報を平気で流布するのが九州説
>纏向の邪馬台国の宮殿の遺跡の柱の穴の葉っぱのC14年代法によるintcal20の補正値が316年が63.8パー。
>でそれとは全然無関係の桃の種の捨て場のヤツが2世紀〜3世紀っていうだけのこと。
>残念でした〜wwww
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1689945486/637 完全に破綻してしまった邪馬台国畿内説を宣伝している奥山氏の脳を構成する炭素14が、空気シャワーで、崩壊しすぎると、危ないのでは、ないのかな。 邪馬台国と同年代の土器があったからといって
そこが邪馬台国かどうかとは完全に別な問題なのが畿内説の人には理解できないのだろうか
正に
>邪馬台国畿内説が調査の前提になっているために
>遺物の解釈が非常に短絡的になっている。
これ。 完全に破綻してしまった邪馬台国畿内説を宣伝している奥山氏が、ダンクシュートを決めた小学生の質問から、逃るために、自分自身の脳内のキュウシュウセツに、悪口を吐いているな。 こんなニセ情報を平気で流布するのが九州説
>そして甕棺墓最終期の日佐原kfv期の甕棺墓が出土した事で、
>平原遺跡は3世紀中期の墓であることは動かすことが出来ない歴史の事実となった。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1687343198/814 >>152
>邪馬台国と同年代の土器があったからといって
>そこが邪馬台国かどうかとは完全に別な問題
邪馬台国と同年代の土器があったからそこが邪馬台国
とか言ってる人いないのに
九州説は捏造が好き >>151
僕達は、厳密性を全く期待できない炭素14年代法には、あまり興味は沸かないが、旧石器時代からの年代を自由自在に操作してきた歴の博士による、巻向牧場の試料の検査発表にも、目を通したことがあったな。 そうそう
纏向邪馬台国説と矛盾するものはニセ情報に決まってる! >>155
立派なキャンプ地とか桃の種とかカエルの骨とか
邪馬台国だと証明してるのにね >>155
つまり纒向遺跡も箸墓も邪馬台国や卑弥呼とは無関係だと認めるわけだ? >>156
大規模に税金を注ぎ込み検査した結果、炭素14の分野の者達が箸墓大古墳の年代について、幅広く様様な可能性を示したにも拘わらず、
あの有名なゴッドハンドを、組織的に持て囃し擁護していた分野の者が、💩コウコガクノチケン💩という理由で、卑弥呼の死の頃に合わせたよ。 凄いな
畿内説が纒向遺跡や箸墓は邪馬台国とは無関係だと断言する瞬間に立ち会ってしまった つまり、邪馬台国畿内説は、完全に破綻してしまったのだね。 >>160
>邪馬台国とする根拠は何?
3世紀中葉には、古墳時代が開始していたから >>165
>3世紀中葉には、古墳時代が開始していたから
その根拠は? 奈良に住む若者の質問から、逃げ回ったままでは、
「3世紀中葉には、古墳時代が開始していた」
という主張には、全く説得力がないな。 つまり、あの有名なゴッドハンドを、組織的に持て囃し擁護していた分野の者が、💩コウコガクノチケン💩という理由で、卑弥呼の死の頃に合わせたのだな。
0167日本@名無史さん
2023/09/06(水) 10:38:49.35
>>166
考古学的年代論 >>167
その年代論の根拠とするものは土器かな? 奥山氏が、何者かに、論理的に追い詰められているな。 奥山氏は、前言を撤回しそうだな。
0155日本@名無史さん
2023/09/06(水) 10:17:49.37
>>152
>邪馬台国と同年代の土器があったからといって
>そこが邪馬台国かどうかとは完全に別な問題
邪馬台国と同年代の土器があったからそこが邪馬台国
とか言ってる人いないのに
九州説は捏造が好き >>165
それは邪馬台国であるかどうかに関係ないなw >>175
奈良に住む若者の質問を、新たに作るのは、面倒だな。 衝撃的な新説が畿内説から提唱されました!
なんと古墳時代を築いたのは邪馬台国でした!
このスレは歴史に残るかもしれません! 巻向牧場の年代については、布留式土器と馬具が同じ地層から発見されたこと以上の証拠は、無いな。 >>170
>その年代論の根拠とするものは土器かな?
交差編年 出たな。鬘のような物事が。笑いリラックスできそうだぞ。 >邪馬台国と同年代の土器があったからそこが邪馬台国
>とか言ってる人いないのに
>九州説は捏造が好き
では畿内説の根拠とは具体的に何? >>182
鬘は、使用する者の好みに応じて、ズラせるので、僕達は、鬘の友人を羨ましく感じることも、あるのだったな。 奥山氏の故郷から巻向牧場まで、海を越えて、幾つの交差を重ねるのだろうか。 >>180
百歩譲って箸墓の馬具が4世紀中頃としてそれが壊れるほど使い込まれてから捨てられたとすれば一緒に埋まっていた布留1式土器は4世紀後半確定だよな
となると布留0式は早くても3世紀末頃だろうな >>181
>交差編年
それは土器で編年するのと違うのか? 3世紀中頃に作られた土器を4世紀中頃に埋めることは出来るけど
4世紀中頃に作られて使われた馬具を3世紀中頃に埋めることは出来ない。
つまり同じ地層から馬具が出てきたらならその地層は4世紀中頃ということになる。 >>189
>4世紀中頃に作られて使われた馬具を3世紀中頃に埋めることは出来ない。
出来るよ
4世紀に3世紀の地層まで溝を掘ってそこに4世紀の土器を投げ入れて埋めれば可能 >>192
そんなことをする意味がない。
『埋める』という言い方は古墳に副葬品を埋めるということがあるから埋めるという言葉を使ってしまったが
纒向遺跡は埋めた古墳ではなく埋まった遺跡だから
わざわざ100年前の地層に馬具を埋めたとは考えられない 邪馬台国の有力候補地とされる奈良県桜井市の
纒向遺跡中心部で、祭りに使ったものを捨てた
「祭祀土坑」と呼ばれる穴から、3世紀中頃の
カエルの骨が大量に見つかっていたことが分かった。
祭祀の遺物とみられるカエルの骨としては最古
平成22年の発掘調査で、土器や木製品のほか、
シカやイノシシ、カモ、イワシ、サバ、
カエルなどの骨が見つかっている。
鳥取市の青谷上寺地遺跡(弥生時代)では、
食用と考えられるカエルの骨が出土。
唐古(からこ)・鍵(かぎ)遺跡(同)では、
焼いて薬にしたとされるカエルの骨が見つかっている。
奈良女子大の宮路淳子教授(環境考古学)は
「カエルは祭祀の供物で、祭りが終わった後に
出席者が食べ、骨を穴に捨てた可能性がある。
当時の人たちが日常的にカエルを食べていたか
どうかは資料が少なく、さらなる調査が必要だ」
このように考古学は言い伝えとか文献が無いと
ストーリーを組み立てることが出来ない。
考古学単独では何も解らない。 >>188
>それは土器で編年するのと違うのか?
土器、青銅器、墓制・・・形式学上のセリエーションが成立する物は成立するものは何でも使う >>194
それ、言い伝えとか文献使って無いでしょ 畿内に邪馬台国があるなら、魏志倭人伝に書かれてる国とは違う国だろう。 >>193
俺は4世紀に周濠を掘ってたらたまたま3世紀の土器を掘り出してしまい、工事完了後に周濠に投げ捨てた
というのも想定出来ると思ってる
箸墓で布留0は一つしか見つかっていないし、祭祀終了後に周濠に捨てられたというのも不自然
桃は穴を掘って埋められてたんだよな? >>189
>4世紀中頃に作られて使われた馬具を3世紀中頃に埋めることは出来ない。
4世紀中頃に作られて使われた馬具だという根拠がないので意味がない 奥山氏が、可哀想になってきたな。
奥山氏は、もしかすると、家族に、公に、邪馬台国畿内説を宣伝してしまった学芸会の者が、いるのだろうか。 邪馬台国が大和の前の国なら、名称は何か知らないがあるだろうな。 >>198
>箸墓で布留0は一つしか見つかっていないし、
ニセ情報 >>199
では、3世紀中頃に馬具があったとする根拠は? 奥山氏の家族は、公に、どのようにして、邪馬台国畿内説を宣伝してしまったのだろうか。 公に、邪馬台国畿内説を宣伝してしまった者達は、早めに、泥船から、脱出したほうが良いぞ。 周濠の鯉の餌やりをしていた人がたまたま3世紀の土器を餌の容器にして使ってたんだろう
そして落とした 畿内説のロジックはこうだ
1.箸墓は卑弥呼と同時代
2.卑弥呼の時代に日本列島で最も巨大な墓を作った大和の勢力がすなわち日本列島で最も強大な権力を持っていた
3.日本列島を代表して魏と外交したのは最も強大な権力だった大和の勢力に違いない
4.だから纒向が邪馬台国!
しかしまず1が未証明の仮説
2は論理の飛躍
3も論理の飛躍
よって4は未証明の仮説と飛躍した論理のみに基づく砂上の楼閣
もっと端的に言えば畿内説は考古学バカの妄想 なぜ、5世紀の使い込まれた馬具が、箸墓大古墳が完成してから間もない地層から、布留式土器と一緒に、発見されてしまったのだろうか。 古墳の周濠から出るものは、古墳を作った後の時代の物だろう。 >>210
その事実ひとつだけでも、邪馬台国畿内説は、完全に破綻してしまったのだね。 >>194
祭祀土坑
と名付けたのは現代人だよな? >>210
>5世紀の使い込まれた馬具が、箸墓大古墳が完成してから間もない地層から、布留式土器と一緒に
ニセ情報 そういえば、馬具は浮くが、布留式土器は沈むのだったな。 >>209
正にこれだな
「近畿地方では古い時期の古墳の発掘も多いが
、邪馬台国畿内説が調査の前提になっているために
遺物の解釈が非常に短絡的になっている。
考古学の学問性は今や崖っぷちまで追い詰められている。」 なぜ、5世紀の使い込まれた馬具が、箸墓大古墳が完成してから間もない地層から、布留式土器と一緒に、発見されてしまったのだろうか。 >>195
箸墓の場合は周濠から出た土器が根拠だろ? 「4世紀以前の木製鐙」を悪魔と名付けて、討論すれば良さそうだな。 >>209
>畿内説のロジックはこうだ
それ、九州説のあなたが考案したんでしょ?
>よって4は未証明の仮説と飛躍した論理のみに基づく砂上の楼閣
>もっと端的に言えば畿内説は考古学バカの妄想
ではなくて、あなたの妄想 >>217
古い土器を使うのが格好良かったんだろう
正倉院は歴代の天皇が使っていたタンスが納められたりしていたから
先祖代々使っていた土器を使うのが自分達の家系の古さを誇示する箔だったとか。 >>215
馬具が沈む物体ならば、布留零式と一緒に、発見された可能性もあるよ。 >>204
九州説さん
人前で平気でウソついて、まったく反省ないの? つまり畿内説は畿内説ありきのシチュエーションしか想定していない
恣意的に 箸墓大古墳は、やはり、西暦470年頃に出現したよ。 >>225
箸墓大古墳は、西暦370年頃に出現したのでは、ないのかな。 理系はまず持論の否定に繋がるシチュエーションをあれこれと多岐に渡り想定する
その想定漏れが命取りになるからね
考古学は都合の良い事のみを想定し、全てをそれにこじつけるやり方なんだな
アホだよな 江戸時代に書かれてる箸墓の絵には、周濠は書かれて無いようだが? >>229
後円部周辺の周濠は後に田んぼに埋められているね 纏向は祭祀会場
今風に言えばイベント会場。
遠方から参集した関係者は土器で作った
水瓶や土鍋、寝具を牛の背に乗せたり
犬橇に積んできたかも知れない。 >>232
同人誌の売り買いしてたんだよな
あの頃は著作権法が無かったからやりたい放題だったらしい >>226
>いやいや畿内説は基本は皆こういうロジックだ
証拠なし >>228
>考古学は都合の良い事のみを想定し、全てをそれにこじつけるやり方なんだな
証拠なし >>232
しかし祭祀に大量の土木用具は必要ないはずだ >>228
>理系はまず持論の否定に繋がるシチュエーションをあれこれと多岐に渡り想定する
つまり、それをまったくやらないばかりか
一切証拠を出さず、嘘とばれても撤回すらしない九州説は
文系の中でも最低の落ちこぼれですね >>233
だから北九州から参加した奴が帰り道で見た
唐子鍵の楼観をスケッチして吉野ヶ里で真似した。 >>1
4世紀以前の木製鐙は、何処にあるのですか。 >>241
貴方は、ついに、木製鐙の研究を開始したな。 >>236
纏向から大量のユンボやブルドーザーが
出土したのか 纏向から大量のユンボやブルドーザーではなく、馬力を利用した痕跡が発見されたよ。 七支刀を貢がれた神功皇后は、やはり、箸墓大古墳が出現した時代に活発化していた人物なのだね。 >>244
馬力を利用したんなら現場監督は
鞍を載せて鐙をブラ下げた馬に乗っていた鴨菜w >>246
七枝刀を貰ったのは4世紀後半なんだがw 箸墓大古墳が、七支刀が作成された同時期に出現したという真実は、記紀の謎を解き明かす鍵になるな。 ちょうど、木製鐙の出現直前だな。
0249日本@名無史さん
2023/09/06(水) 12:22:45.26
>>246
七枝刀を貰ったのは4世紀後半なんだがw これは考古学者の多くもそう思ってるはず
>252:日本@名無史さん:[sage]:2023/09/06(水) 12:27:53.31
>つまり畿内説は時系列に弱いということか >>229
それは貴重な証拠だ。
九州説総崩れwww 景行天皇が、二つの並行した時期もある系図を縦に繋げた、継ぎ目の可能性があるな。 >>254
周濠で拾った布留0土器と箸墓古墳は無関係ということになる >>239
>逆だ逆
>それが畿内説だ
ほら
一切証拠を出さず、嘘とばれても撤回すらしない九州説は
文系の中でも最低の落ちこぼれですね >>256
>>257
どうして九州説の人は、一言も理由を言わないんです?
それでは理系でも文系でも通用しませんよね? >>255
つまり、巻向牧場の最後の牧場主である景行天皇と、
九州を巡り回った景行天皇は、
時代も前後する完全に別人だったのだな。 >>259
江戸時代に堀が埋まっていた
ということは堀から出土した馬具が箸墓が作られた時期のもの、
つまり箸墓は4世紀後半の古墳と比定される >>260
貴方は、重要な真実にたどり着くついでに、邪馬台国畿内説を、完全に破綻させたな。 景行天皇の一夜妻のかぐや姫は、同じ景行天皇の子孫ではなかったのだな。 >>261
江戸時代に堀が埋まっていると
なんで堀から出土した馬具が箸墓が作られた時期のものなんだ?
因果関係がないだろ
お前、もしかして脳がサル未満か? 景行天皇の一夜妻のかぐや姫は、同じ景行天皇の子孫ではなかったばかりではなく、景行天皇の父の一夜妻でもあった可能性もあるな。 まーだやってらっしゃるのか
卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)
卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)
ハイ終了
解散! だが、なぜ、仲哀天皇の宮は、畿内ではないのだろうか。
そして、倭健もまた、二人いたのだろうか。 >>264
江戸時代に堀が埋まっていた
ということは
そこが掘り返されていなかった証拠だろう?
後の時代の遺物が紛れ込もうとしても堀が作られた時期の地層の上に残ることになる。 箸墓古墳付近で発見されたという布留0式土器は、具体的に何処にどのような状態で埋まっていたのだろうか? >>265
では、垂仁天皇の一夜妻である、かぐや姫の、5代前の者こそが、もう一人の九州を巡り回っていた方の景行天皇の可能性もあるのだな。 >>270
九州説信者は異常なまでに知能が低いな
濠は徐々に埋まるのだから、4世紀の層には4世紀の遺物が埋まるし
6世紀の層には6世紀の遺物が埋まる
古墳が作られた3世紀中葉の層には3世紀中葉の遺物が埋まっている
全部が濠の作られた時代の層に埋まったりしない
九州説信者の知能の低さは白痴同然なのか?
堀が作られた時期の地層の上に残る >>275
かぐや姫の5代前の先祖であり、そして、倭迹迹日百襲姫命の父親だね。 奥山氏よ。何かミステークを犯してしまったのでは、ないのかな。 >>276
>は徐々に埋まるのだから、
畿内説曰く、纒向は洪水が多いから馬具が土砂と共に流れ込んだと言ってたが?
じゃあ布留0式土器もそうやって流入したのか?って話w
山の何処かに埋まっていた古い土器が箸墓古墳付近に流れ着いた
とかあらゆる可能があるわけだが >>276
つまり馬具が見付かったのは4世紀後半の層
箸墓の掘りは4世紀後半に作られた
つまり箸墓は4世紀後半と比定される >>276
大きな溝を掘ったとき、出てきた残土はどこに捨てた? 4世紀後半の層にに布留0式土器が紛れ込む可能性はあるが
3世紀後半に4世紀後半の馬具が紛れ込む可能性は無い 大和朝廷が女王、女帝即位に抵抗がない所を見ると、男王主義の卑弥弓呼、狗古智卑狗は負けました。 邪馬台国畿内説は、やはり、完全に破綻してしまったのだね。 >>282
>4世紀後半の層にに布留0式土器が紛れ込む可能性はあるが
ないよ
破片以外は
>3世紀後半に4世紀後半の馬具が紛れ込む可能性は無い
4世紀初頭の層から出たので4世紀初頭の馬具 保健室で休んでいた小学生や、奈良に住んでいる若者は、どうしているだろうか。 >>279
>畿内説曰く、纒向は洪水が多いから馬具が土砂と共に流れ込んだと言ってたが?
証拠は? 邪馬台国畿内説の脳内では、畿内は、4世紀初頭の木製鐙の生産地だったのだな。 >>1
4世紀初頭の木製鐙は、他に何処かで、発見されていますか。 >>280
>つまり馬具が見付かったのは4世紀後半の層
どうして?
理由は?
>箸墓の掘りは4世紀後半に作られた
なぜ?
理由もないのに
w
九州説は理由がない
常に
w >>249
七支(魏晋南北朝時代の発音でツィキ、シキ)
刀は天理市の東山麓石上神宮所蔵であり
文献に見える最古の街道ともいえる山野辺の道
沿いに石上神宮は鎮座している。
「七支」は志貴の皇子の「志貴」と発音がよく似ている。
石(イハ)ばしる 垂水の上の さわらびの 萌え出づる春に なりにけるかも
采女の 袖ふきかへす 明日香風 都を遠み いたづらに吹く 2年以上、5ちゃんねるを追放されていた僕達にとっては、久しぶりに、奥山氏が、追い詰められている時の癖を丸出しにしたよ。
0290日本@名無史さん
2023/09/06(水) 13:39:38.72
>>280
>つまり馬具が見付かったのは4世紀後半の層
どうして?
理由は?
>箸墓の掘りは4世紀後半に作られた
なぜ?
理由もないのに
w
九州説は理由がない
常に
w >>1
4世紀初頭の木製鐙は、他に何処かで、発見されていますか。 >>290
箸墓古墳からはさらに、馬具類の出土もありました。
一般には馬具類の出土があれば、年代推定は5世紀以降となります。
馬が近畿地方へ伝播したのは、ほかの古墳からの出土状況や馬型埴輪の出現期から、
5世紀以降とされているからです。
これによっていよいよ箸墓古墳も正確な年代推定がなされるかと思いきや、そうはなりませんでした。
馬具類が発見されたのは、お堀からであり、主要埋葬部である後円部からではない、という理屈です。いやはやしぶといですね?
頑として邪馬台国時代だとして譲る気配はありません。
なおトンチンカンな古代史研究家の中には、この馬具類の出土を受けて、
馬が近畿地方へやって来たのが3世紀の邪馬台国時代だ、と唱える輩もいます。
ここまで来ると、収集がつかなくなってしまいますね? >>295
馬具だけでも、邪馬台国畿内説は、簡単に、完全に破綻してしまうよ。 >>1
4世紀初頭の木製鐙は、他に何処かで、発見されていますか。 箸墓の炭素14年代測定の問題点
適合率60%で合格とされるのに箸墓の場合は16%しかない
要するに精度が極めて低いとのこと
https://agora-web.jp/archives/220907081125.html >>287
唐子鍵では洪水で埋まった環濠を
再度掘りなおして再度環濠を修復している
大台ケ原に台風が大雨を降らせて
奈良盆地が洪水になったんだな。
山崩れで大和川、紀ノ川がせき止められたかもな。
数年前にも洪水山崩れで名前は忘れたが
「ナントカダム」て新聞やテレビ見たぞ。 >>299
素人の書いたいい加減な話しか味方のいない九州説って哀れだね
適合率の意味もわからないなんて >>306
残念な奴だなw
引用してるのは玄人に論文やぞwww
ここでは国立歴史民俗博物館の坂本稔氏による「較正曲線 IntCal20 と日本産樹木年輪」を紹介したい。
坂本氏は歴博が2011年論文「古墳出現期の炭素14年代測定」で発表した箸墓古墳の実年代について触れている。
箸墓の年代推定には、考古学的手法と炭素14年代測定がある。
私は6月5日のアゴラ投稿で、寺澤氏の考古学的手法について以下の通り指摘した。
箸墓の前の年代とされるホケノ山古墳では、230~250年に中国で作られたと推定される画文帯神獣鏡の破鏡が出土した。
寺澤氏はホケノ山を3世紀中頃、箸墓を第3四半期と推定している。
しかし、中国鏡の倭国での副葬までにはタイムラグが想定され、ホケノ山は第4四半期以降、箸墓は同時期または4世紀第1四半期以降の可能性が高いのではないか。
タイムラグは様々で、考古学的手法で箸墓の年代を20年単位で特定することは難しい。
今回の坂本氏の論文の新しいところは、主に以下の3点である。
20011年論文では歴博独自の年代較正曲線が使われたが、今回は国際的な最新の較正曲線IntCal20が使われた。
年代較正ソフトOxCalのベイズ推定機能によって、統計学的な適合度(Agreemennt Index)が計算された。
試料とデータが年代順に掲載されて明確になり、わかりやすくなった。
注目されるのは2である。国際標準にのっとり、適合度が計算できるようになった。坂本氏によると歴博のモデルの適合度は以下の結果となった。
残念ながら60%以上が求められるモデルの適合度は16%と低く…参考程度の結果と捉える必要がある… >>307
つまりIntCal20とJcalの適合率の話なのに、無知など素人が箸墓の測定結果のことだとカンチガイしちゃったという喜劇
九州説また赤恥
素人文系未満の悲しさだね >>307
>引用してるのは玄人に論文やぞwww
あんたが引用いてるのは素人の文章だよ >>295
昼下がりの情事でイッパイ写生して幸せホルモン
出たかw >>308
意味分かって無いだろ?
適合率が低い=精度が低い
ということやぞ? そもそもだが、炭素14年代は測定誤差が大きい。
大福10次の試料(表2オレンジ網かけ部分)は、実は同じ土器の内面焦げと外面煤だが、炭素14年代で50年もの差が出ている。
焦げの原料の影響ではない。
50年の測定誤差がある手法で、20年単位の年代を推定することができるだろうか。
(※ 外面煤は、薪の外皮に近い部分の煤か、芯に近い部分の煤かによって、年代に差が出てしまうようである。)
同じ土器で50年の差が出る炭素14年代測定 >>307 が、自分が長々と引用したのが誰の書いた文章だか理解できてないのは危機的状況
九州説信者の日本語理解能力が異常に低いってことでしょ まさか、ズレ易い鬘を被った邪馬台国畿内説が、唯一の頼みにしていた、厳密性皆無の炭素の物事からも、見離されていたのだろうか。 >>315
>そもそもだが、炭素14年代は測定誤差が大きい。
いやそれ誤差じゃないから
炊いたコメの実った年と、薪の木の芯の年代は当然差が出る
基本的原理を理解できないで誤差だと思い込んじゃうのは
九州説の知能が低いから その年々に大気に漂う炭酸ガスを構成する炭素の炭素14比率を、そもそも、どのような指標が、正確に現代に残せるのかを、算数が出来ない奥山氏は、理解していない可能性もあるな。 科学に劇弱な九州説信者の落ちこぼれ文系脳が痛々しい >>319
君の言うことは正しいと思うけども
そんな手法、使っちゃダメでしょw ここでいう畿内説は論理性とは何なのか全く理解出来ていないんだね >>320
僕達は、奥山氏が炭素14について討論しているのを、一切、口を挟まずに、見守ったことがあったが、完全に、頓珍漢な意見を発表していたな。 >>324
理由のまったく言えない九州説に
論理性は皆無 >>325
そもそも、僕達は、炭素14年代法の理論が、空気シャワーの威力の研究で、完全に破綻してしまったことを知っていたので、口を挟むことを控え、笑いリラックスしながら、討論を楽しんでいたのだったね。 畿内説は4世紀に纒向に連れてこられた奴隷が無意識に3世紀の遺構を発掘していた可能性をガン無視してるよね >>319
つまり遺跡の年代測定に炭素14年代方は使えないということになるなw >>319
土器についた煤と焦げが同じ時期なのは確定だろw >>326
50年の誤差は許容して、じゃあ240~260というクリティカルヒットはなんなの
2011の検証を歴博の人が自らやってるのが尊い >>332
すぐ近くの小枝と棺を検査したのでは、ないのかな。 九州説にど文系脳が科学を拒否したのは
無知ゆえである 煤と焦げの意味分かるか?畿内説
土器で煮炊きするときに土器の内部に付くのが焦げ
外側につくのが煤(すす)
この二つで50年の誤差が出るのが炭素14年代方 >>334
それこそが
「いわゆる邪馬台国がらみでも(旧石器捏造事件)と同じようなことが起きている」
「証明を抜きにして仮説だけがどんどん上積みされておりマスコミもそれをそのまま報じている」
「近畿地方では古い時期の古墳の発掘も多いが
、邪馬台国畿内説が調査の前提になっているために
遺物の解釈が非常に短絡的になっている。
考古学の学問性は今や崖っぷちまで追い詰められている。」
東海大学教授の考古学者北條芳隆氏 奥山氏よ、あまり、知ったかぶりをするな。
笑いリラックスさせたいのか。 >>335
新しい水没年輪の指標では、棺と小枝は、どのように判断出来るのだろうか。 棺について、年輪のどのような部分を検査したのかを、正直に発表したのは、奇しくも、奥山氏と同じ苗字の者だったな。 箸墓古墳近くに落ちていた土器の年代を箸墓古墳の年代とする論理的理由は何だ? 僕達の研究センターには、資料が保管されていただろうか。 棺について、年輪のどのような部分を検査したのかを、正直に発表した、奇しくも、奥山氏と同じ苗字の者は、奥山氏の親戚なのだろうか。 >>343
年金ジジイの六畳一間
朝から図書館で涼むだけ 生きている間の根元付近の年輪の炭素14は、水中程ではないが、ある程度、中性子線の命中を免れそうだな。 つまり、邪馬台国畿内説は、完全に破綻してしまったのだね。 >>329
纒向の大型建物は地中に古い遺構がある事を知らずに建てられた可能性があるな 棺について、年輪のどのような部分を検査したのかを、正直に発表した、奇しくも、奥山氏と同じ苗字の者は、暦の博士の者なのだろうか。 古ぼけた棺と生木の年輪の比重同士の比率は、どの程度なのだろうか。
そして、桜井市には、樹齢1800年以上の生木は、あるのだろうか。 邪馬台国畿内説は、頭の出来栄えが、やはり、良くないな。 箸墓古墳近くに落ちていた土器の年代を箸墓古墳の年代として扱かう論理的理由は?
と質問してるんだけど? >>354
なぜ?
箸墓は卑弥呼の墓なんだよ?
それが前提だよ >>352
貴方は、二つの木材の比重同士の比率が、中性子線の命中率の比率になる可能性についての研究を、開始したな。 >>356
なんでよ
畿内説の人はそう言っているよ >>319
ウチは昔薪ではなく稲藁で飯炊き、風呂の湯沸し
莚(むしろ)作り、藁縄を作っていた。
1年間竈門や風呂釜で藁を燃やしても
藁が不足することは無かった。
親父の兄弟が多かったから
毎日1斗ぐらい米を焚いていた。 >>358
どのようにとりつくって厳密性を高めても、破綻してしまった物事で、破綻してしまった物事を再測定することは、禿だよ。 炭素14についてよりも、重要な、白線の謎が、あったな。 白線の謎は、真実が知れ渡れば、好古学世界を揺るがす問題にもなりかねないのだったな。 >>1
おい、奥山氏よ、あの風景写真の宛先を再び貼り付けろ。 僕達は、今から人に会う用があるから、終わるまで、済ませろ。 >>368
変な文だな
ちゃんと3回読み直してから「書き込む」
ボタンをクリックしなさいwww >>362
畿内説の真面な解説を聞いたことがないんだがw >>356
アホはおまえ
箸墓は卑弥呼の墓
これが前提なのは覆せないし、纏向が邪馬台国なのは揺るぎようがない
もしこれと矛盾する文献や出土品が出てくるなら捏造だし、九州説は妄想にすぎない 女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)
久 努 国 ( く の の く に )
久 努 国 ( く の の く に )
馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww 優しい僕達の、Wikipediaにゎ、こう書いてあるよ。
築造年代は、墳丘周辺の周壕から出土した土器(土師器)の考古学的年代決定論と、土器に付着した炭化物による炭素14年代測定法により、邪馬台国の卑弥呼の没年(248年から遠くない頃)に近い3世紀中頃から後半とする説がある。一方で、近年炭素14年代測定法では、実年代より50-100年程度古く推定されることが明らかとなっていることや、古墳の規模および様式が魏志倭人伝の記述と異なっていることなどを理由に、4世紀中期以降とする説もある。 つまり畿内説は韓国製思考回路を駆使したウソ発表器ということよ >>372
ハイハイ畿内説の倭人伝は畿内説同人誌の偽書倭人伝なのですね
わかります 箸墓古墳が3世紀中頃から後半でも卑弥呼の墓と決定できない。その頃死んだのが卑弥呼一人の時しかない
人数は分からんが大勢死んでる 邪馬台国とヤマト王権の連続性なんてないんだよ
日本書紀に書いてあるでしょ 2020年のミュー粒子観測による箸墓古墳内部透視調査の結果報告は何処ですか? 190年から247年まで、女王卑弥呼が倭王として君臨した。
で、大和朝廷の史書、記紀はどうにかなるのかね?
神武も崇神も景行もヤマトタケル、神功も?
みんな一緒か?
楽浪帯方撤退の313年以前に韓征伐は無い。
卑弥呼は238年から親魏の倭王。
なんで、三韓征伐するよ? 313年以前にも、
弁韓とかで日本は半島進出は続けたはずだが
倭人伝が、247年で終っても、50年以上、
富国強兵政策の倭は、韓南岸でも魏晋と敵対関係にあった。
そうでなければ、370年に日本の高句麗戦からの、
七支刀、百済、新羅の建国は有り得ない。
倭人伝論争が、東夷の古代史を
うやむや、にしたいと言うのは、
よくわかっている。 >>381
出せない、というのはどういう結果だったのだろうね。
出せる結果が出るはず、と思って測定したはずで、どのような結果を期待していたのだろうね。 魏志倭人伝の記述と異なっている?
古墳の様式が倭人伝はなんと書いてあるって?
具体的に述べよ>九州バカ >>385
「卑弥呼以て死す。大いに冢を作る。径百余歩」
「徑」は直径の事なので、直径百餘歩という事になります。
直径百餘歩とは何メートルに相当するか?という事ですが、様々な物の単位は時代や国によって違います。
後漢・魏の時代の一歩は六尺なのですが、後漢と魏では六尺の長さが少し違います。唐代になると一歩は五尺で1.555mに相当します。
<後漢>一歩(六尺)1.382m
<魏>一歩(六尺)1.447m
*一歩の意味は左足と右足で踏み出したときの長さの事で、ほぼ六尺。片足の幅を半歩として跬(キ)といい三尺になります。
卑弥呼の墓は直径百餘歩とありますので、そのまま受け取れば150m位になりますね。
墓の形状については「円墳」「方墳」なのか「前方後円墳」なのか全く記述がありませんが、当時の中国人から見れば円墳や方墳ならともかく、「前方後円墳」は珍しい形であるはずです。
様々な時代の史書を読むと、中国に無いものを記す場合は詳しく形状を書く事が多いので「前方後円墳」であれば何らかの形状についての特徴を記したのではないかと思います。何も特徴が記されていないという事であれば、「円墳」とするのが妥当だと説が有力です。
最近このサイトでも「箸墓古墳」を卑弥呼の墓とする説を時々拝見しますが、「箸墓古墳」は前方後円墳で全長278m、高さ30mと言われていますから、径百餘歩の墓とは規模が違うように思います。 >>388
あなたは科学的でないな
箸墓は240~260とドンピシャなんですよ?
外国の古典の文字からなにが分かるのですか? >>389
それたまたま箸墓近くで発見された土器の年代だろ
古墳とは無関係 >>389
>外国の古典の文字からなにが分かるのですか?
『邪馬台国』も『卑弥呼』も日本書紀や古事記には書かれていないよw
外国の古典にしか書かれていない幻の日本の国 特殊器台に関しては一貫として古墳最初期としか書いてないね
そもそも編年出来てないのかな つまり、邪馬台国畿内説は、完全に破綻してしまったのだね。 土器の炭素14年方に
旧石器捏造並みのインチキが隠されてそうだなw >>389
ドンピシャで良いけどw
倭人伝では、卑弥呼の墓は遣使が往復する
一年以内で作ってんだけどね?
古墳は無理。 >>394
年金ジジイは早く架空の相手に会いに行け 奥山氏よ、早く、貼り付けろ。
用事が終わったら、また、討論してあげるよ。 おっさん自分の書いたレスもロストしているが
閲覧環境どうなってるの 西暦240~260年の土器を4世紀後半に作られた古墳に埋めることは出来るが
西暦240~260年に4世紀後半の馬具を埋めることは出来ない。 >>401
そうか3世紀の纒向には馬具があったか
なら纒向遺跡は邪馬台国じゃないな。
種禾稻紵麻蠶桑 緝績出細紵縑緜 其地無牛馬虎豹羊鵲
「禾稲、紵麻を種まき、蠶桑す。緝績して、細紵、縑、緜を出だす。その地には、牛、馬、虎、豹、羊、鵲なし。」
「稲やカラムシを栽培し、養蚕する。紡いで目の細かいカラムシの布やカトリ絹、絹わたを生産している。その土地には牛、馬、虎、豹、羊、カササギがいない。」 纒向に桃の種が出たから邪馬台国と
学会の権威が言ったから
纒向は邪馬台国 >>388
>「徑」は直径の事なので、直径百餘歩という事に
まずここから間違ってる
【徑】=直径という概念は江戸時代ですら未成立。
説文解字に「【徑】とは步道也。」と書いてある。
【徐鍇曰】道不容車,故曰步道。
訳:中国の五代十国時代の学者徐 鍇(じょ かい)曰(いわ)く。
道、車を容(入)れ不(ず),故に步道と曰(い)ふ。
【玉篇=中国南北朝時代の南朝梁の漢字字典】小路也。
士大夫などが乗るような車が入れない道を徑という。
江戸時代に和算の問題を作って神社に絵馬として
奉納し、こんな問題が解けたと自慢したらしい。
この時代「圓徑」と書かないと現代の「直径」と認識しなかった。
故に卑弥呼の冢の徑は円墳や前方後円墳を意味すると
限定できない
「算額 圓徑」でググってみると
https://fururen.net/siryoukan/bunkazai/sanngaku/sangaku.html
に「圓徑」「半径」は出てくる。
「ちょっけい」は「直系傍系」の「直系」ならある。。 >>1
繰り返し、自己紹介します。僕は、今、研究センターで研究している小学生です。
僕は、貴方の貼り付けているテンプレートに、沢山の疑問を持ちました。だから、邪馬台国畿内説が、ゴッドハンドという物事で、積み上げられていないかを、調べる学者になりたいと思いました。
それから、午前中に、僕達が学校で勉強している間に、小一時間かけて、誰からも急用の連絡が無いことのメリットを活かして、5ちゃんねるにスレッドを作成できる貴方は、凄いと思いました。
だから、僕は、貴方に、色々な質問を、ぶつけて、なぜ、邪馬台国畿内説が、完全に破綻してしまったのだろうか、という疑問に対する真実を探求したいと思います。少し前にした質問を、繰り返します。
大物主神の子孫を自称した者達の痕跡かもしれない遺蹟を発掘破壊し、
ジグザグの溝を、「方形周溝墓の溝なのだ。」と誤認したのと同時に、
明確な切り合い関係も確認できないスケッチを示すだけで、(ホウケイシュウコウボの)溝が、建物Dの(ハシラの)穴を破壊したのだ、と発表した者達が、いるのだが、
発掘破壊後の遺蹟で撮影された風景写真の中の、ハシラ列の最東の南から5番目の箇所の、発掘面の何の変哲も無い所に、発表時に示されたスケッチには無い、白い塗料で書かれていた白線は、
「発掘では発見できなかったが、「後世の削平面の上にあって確認出来なかったのだ。」と想像された、建物Dの(ハシラ)穴の底面を囲う、想像の線の一部」なのですか。
それとも、発掘破壊後の遺蹟で撮影された風景写真の中の、ハシラ列の最東の南から5番目の箇所の、発掘面の何の変哲も無い所に、発表時に示されたスケッチには無い、白い塗料で書かれていた白線が、
「後世の削平面と発掘面の十数センチ程の間にあって、かろうじて確認出来た建物Dの(ハシラ)穴の底面の境界」だった可能性も、全く0ではないが、それならば、なぜ、発掘面の白線が分割した両側に、段差すら残さず、発掘破壊してしまったのですか。
それとも、発掘破壊後の遺蹟で撮影された風景写真の中の、ハシラ列の最東の南から5番目の箇所の、発掘面の何の変哲も無い所に、発表時に示されたスケッチには無い、白い塗料で書かれていた白線は、その他の意味をもつ白線なのですか。
答えて下さい。答えられないならば、「答えられない。」と答えて下さい。 おい、奥山氏。はやく、ショウコの風景写真を貼り付けろ。
逃げ回るな。 ケチは無能でもつけられる、楽でいいな九州わ。
全く無駄だよ、もう論争は終わった、というよりも九州は説にもなっていない。
馬鹿馬鹿しい思いつきをこのスレで図々しく言ってるだけ。相手にもならない、今更お話にならないよ。 >>412
そうそう
邪馬台国は纏向で確定
それと矛盾する他の説はただの思いつきだよね >>408
すぐウソとバレる話は
いくら連呼しても九州説に不利だということが
なぜか馬鹿には分からない 大陸と交流した痕跡が皆無で、中国では魏晋時代を通して守られた曹操の薄葬令に反する巨大古墳がいくつも造られた纒向
そんな纒向を魏から冊封された邪馬台国だ、などと寝惚けたことを宣う関西考古学者
全く頭がおかしいと言うか、頭が悪いと言うか。。 >>407
前方後円ならそう書いたから少なくも箸墓でないのは確実 魏志倭人伝によると帯方郡から邪馬台国まで一万二千里
このうち伊都国までが一万五百里なので、邪馬台国まではそこから(または不弥国から)南に千五百里程度しかない
それなのに、距離も方向も全てをガン無視してあさっての場所にある纒向を邪馬台国だと主張する関西考古学者
全く頭がおかしいと言うか、頭が悪いと言うか。。 邪馬台国畿内説が、ショウコの風景写真を、貼り付けたが、実際には、ゴッドハンドの証拠だったのでは、ないのかな。 >>415
纏向が邪馬台国だって確定してんだから
中国とはたいして交流がなかった邪馬台国があったんだろw 箸墓は卑弥呼と同時代!(未証明の仮説)
⇒卑弥呼の時代に日本列島で最も巨大な墓を作った大和の勢力がすなわち日本列島で最も強大な権力を持っていた!(論理の飛躍)
⇒日本列島を代表して魏と外交したのは最も強大な権力だった大和の勢力のはず!(論理の飛躍)
⇒だから纒向が邪馬台国で決まり!
などと真顔で宣う関西考古学者
全く頭がおかしいと言うか、頭が悪いと言うか。。 学芸会との関係性が、全く無い奥山氏が、なぜ、焦っているのだろうか。 >>419
関西考古学者の脳内ワールドではそうなんだろうなw >>1
僕は、今、トトヒモモソお姉さんに、「もう、早く寝たほうが、良いのでは、ないのかな。」と言われた、健という名前の小学生です。
僕は、貴方の貼り付けているテンプレートに、沢山の疑問を持ちました。だから、邪馬台国畿内説が、ゴッドハンドという物事で、積み上げられていないかを、調べる学者になりたいと思いました。
それから、午前中に、僕達が学校で勉強している間に、小一時間かけて、誰からも急用の連絡が無いことのメリットを活かして、5ちゃんねるにスレッドを作成できる貴方は、凄いと思いました。
だから、僕は、貴方に、色々な質問を、ぶつけて、なぜ、邪馬台国畿内説が、完全に破綻してしまったのだろうか、という疑問に対する真実を探求したいと思います。少し前にした質問を、繰り返します。
大物主神の子孫を自称した者達の痕跡かもしれない遺蹟を発掘破壊し、
ジグザグの溝を、「方形周溝墓の溝なのだ。」と誤認したのと同時に、
明確な切り合い関係も確認できないスケッチを示すだけで、(ホウケイシュウコウボの)溝が、建物Dの(ハシラの)穴を破壊したのだ、と発表した者達が、いるのだが、
発掘破壊後の遺蹟で撮影された風景写真の中の、ハシラ列の最東の南から5番目の箇所の、発掘面の何の変哲も無い所に、発表時に示されたスケッチには無い、白い塗料で書かれていた白線は、
「発掘では発見できなかったが、「後世の削平面の上にあって確認出来なかったのだ。」と想像された、建物Dの(ハシラ)穴の底面を囲う、想像の線の一部」なのですか。
それとも、発掘破壊後の遺蹟で撮影された風景写真の中の、ハシラ列の最東の南から5番目の箇所の、発掘面の何の変哲も無い所に、発表時に示されたスケッチには無い、白い塗料で書かれていた白線が、
「後世の削平面と発掘面の十数センチ程の間にあって、かろうじて確認出来た建物Dの(ハシラ)穴の底面の境界」だった可能性も、全く0ではないが、それならば、なぜ、発掘面の白線が分割した両側に、段差すら残さず、発掘破壊してしまったのですか。
それとも、発掘破壊後の遺蹟で撮影された風景写真の中の、ハシラ列の最東の南から5番目の箇所の、発掘面の何の変哲も無い所に、発表時に示されたスケッチには無い、白い塗料で書かれていた白線は、その他の意味をもつ白線なのですか。
答えて下さい。答えられないならば、「答えられない。」と答えて下さい。 >>424
礎石建物時代の者達が、建てた可能性も、あるのでは、ないのかな。 つまり、邪馬台国畿内説は、完全に破綻してしまったのだね。 >>423
>発掘面の何の変哲も無い所に、発表時に示されたスケッチには無い、白い塗料で書かれていた白線は、
九州説さん
捏造はダメだよ
九州ゴッドハンドは信用ゼロ 事程左様に魏志倭人伝の記述を無視しまくる関西考古学者
その割に魏志倭人伝に一箇所しか出て来ない邪馬台国の存在だけは何故か考古学的根拠なしにアプリオリに肯定している
全く頭がおかしいと言うか、頭が悪いと言うか。。 >>422
纏向の邪馬台国
歴代の王や巫女の墓はない
平和で戦乱とは無縁なので環濠も鉄鏃も不要
曹操の薄葬令もスルーで巨大古墳をいくつも築いた
平和の象徴の卑弥呼、いいじゃないか 九州説さんなんていないだろ。
相手にするだけもう馬鹿馬鹿しいぞ。否定になってないもの。
まずは卑弥呼の都と経100の墓は何処で鬼道はなんで?どうやって身に付け、その痕跡は何処、何?位の説明とあとは倭人伝やら隋書との解釈は欲しいなぁ。それで初めて論争だよ。それ無くしてケチをつけるのは図々しい。 .
投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」
都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり
当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない
玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている
投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ
今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである
郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである
https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125
. >>248
>その割に魏志倭人伝に一箇所しか出て来ない邪馬台国の存在だけは何故か考古学的根拠なしにアプリオリに肯定している
九州説さん
また捏造? 大陸との交流がなければ入手しにくい鉄器や銅鏡が弥生時代からふんだんに出土し、かつ曹操の薄葬令を守っていた北部九州こそ、魏の冊封体制下の倭国・邪馬台国にふさわしい 纒向学によれば3世紀に突然出現し北部九州や吉備の影響が色濃いとされる纒向遺跡
まさに九州から吉備を経由して奈良盆地を征服した神武東征伝承を考古学的に裏付けていると言って良い 邪馬台国がどこでも良いんだけど、トヨ勢が東遷して奈良盆地に移ったとして、狗奴国から逃げたの?
狗奴国に勝ってたら東遷もせずに九州から半島貿易続けてればいいと思うんだ
それともトヨの勢力は狗奴国に負けて狗奴国が奈良盆地に東遷したの?
卑弥呼の頃は北九州の話だろうなって気はするんだけど、空白の4世紀~倭の五王の間に討伐されてる九州考えると、トヨの時代は北九州ではないかって感じるんだよ
それか、卑弥呼と卑弥弓呼って同族で、トヨは卑弥弓呼系から出た気もしないでもない
トヨの国は女王国なんだろうけど、邪馬台国っては書いてないんだよね >>433
倭国に対する「曹操の薄葬令」なんて実在しませんが?
九州説さん
また捏造? 箸墓が卑弥呼の墓。道教の始祖の墓。
纏向が宗教道観。女王の都とするお家。
鬼道で彦巫女制を持つのは張魯の教団。漢中国。
箸墓にはもう1つ墓が付随してしない。左けた弟が卑弥弓呼であるから。
>> >>434
>纒向学によれば3世紀に突然出現し北部九州や吉備の影響が色濃いとされる纒向遺跡
北部九州の影響が色濃いとか、どっから出てきた話? 魏の冊封体制下にあり次の西晋にも朝貢した北部九州倭国
九州から脱出し安芸や吉備を経由した神武崇神勢力が後進地域だった奈良盆地を征服して樹立した畿内ヤマト王権(後の日本国)
古墳時代はこの二つの国が並立していた
(たまたまこの二つが中国や日本の歴史書に記述されて後世に伝えられただけで、実際には日本列島の他の地域にも独立した権力・国は存在していただろう) >>438
纏向学研究の寺澤薫の論文を声に出して読め
曹操の薄葬令も知らないし無知なキナイコシは議論の相手にもならん >>434.それはね、説ではないんだよ、話を合わせただけ、それが解ってないんだね。
プーチンの教科書のような物を正しいと思い込んで説明されても駄目だね。 >>388
「孟子」の「盡心章句下」に「山徑」
という複音節語(漢字1個は常に単音節、2個以上
いつも一組として用いられる漢字群は
複音節語、あるいは「成語」と言い、
日本語では熟語と言う)がある。
http://sorai.s502.xrea.com/website/mencius/mencius14-21.html
孟子謂高子曰:「山徑之蹊間,介然用之而成路;
爲間不用,則茅塞之矣。今茅塞子之心矣。」
「介然」=専一;堅正不移;堅定不動揺。
「蹊間」=小道
「爲間」=謂相隔甚遠 我輩の説では親魏倭王の国は張魯、老子道徳経の国なので
儒教でなければならない。と中華が言ってきたとは思えん。薄葬令なぞ魏内の法令。
倭人にそんなものを押し付けたりせんよ。押し付けたならもし、倭は儒教の国だわ。 >>441
絶対に証拠を出さないで言い張るだけの九州説は
理系じゃ通用しないね >>445
徹底して合理的で実務重視の曹操には儒家的な性質は殆ど見られず、それどころか孔子の子孫を称していた孔融を処刑までしている
彼や諸葛亮は法家の範疇に入るだろう
魏の冊封体制下の倭国が儒教的にならなかったとしても何ら不思議ではない 九州は直ぐに沈没だろ。で別の言いがかりをつけて跳ね返されて、それは己れが間違っているというのを早く自覚したほうがいいと思うけどね。 >>445.誤魔化しちゃあ駄目だね。
薄葬令を持ち出しても駄目だよ。 実際に沈没したのは在地の弥生勢力がそのままヤマト王権に発展したとする旧来型の畿内説だろう
纏向遺跡の研究でこの考え方はほぼ完全に論拠を失った 451.それは研究の成果か、昭和だから言えなかった、と言う場合もあるからな。時代によるな。戦前我輩みたいなこと言えないだろ?秋成は感づいてると思うがな。 和泉黄金塚古墳とか在地の勢力じゃないか
勾玉に木棺墓 葛の葉伝説でしょ
親魏倭王の金印は卑弥呼から台与へ
ウカノミタマから勾玉を大量に持つ大阪の在地の勢力へ
この可能性を検討しないと 検討しました。
0.0003秒でありえないと結論が出ました
。 >>456
反射でも0.2秒かかるんだから何にも考えてないのが分かるからやめとけ ネトウヨってバカだよな。
神代文字とか信じているんだぜ。
悔しかったら神代文字なんてインチキと言ってみればいいのにな。
結局はホツマやら竹内文書やら東日流外三郡誌を信じているわけだ。
邪馬台国九州説プププw
日本書紀の家と言われた吉田家は邪馬台国=ヤマト国ですけど。
ネトウヨざまぁみろww草生える 今の日本で維新が票を伸ばしているのは由々しき事態だ。
第二次大戦前のドイツでナチス党が政権を取った歴史を思い出す。
醜いモンキーのジャップと違って白人の聡明なるドイツ人が何故にファシズムに入れ込んだのか。
それな巧みなプロパガンダ戦略の賜物であった。
維新が日本共産党や立憲民主党などのリベラルを圧しているのはナチスの勃興に等しい。
今の岸田自民よりも維新は安倍下痢ゾー元戦犯総理に近い。まったく嘆かわしいことである。 九州からやってきて畿内の銅鐸文化人を征服して纏向遺跡を作ったのが後に神武と言われる邪馬台国の初代王だろう。
日本書紀の敏達記によるとヤマトに帰順した蝦夷の族長は三輪山で忠誠を誓わされている。
つまり上古のヤマト王権は三輪山の神に服属し、その祭祀を司る大王家の政治権力を受け入れたのだ。
大王家の大巫女が卑弥呼だろう。ヤマト王権の初代王である磐余彦が倭国を統一するために宗教を利用して作り上げたシステムがヤマト王権を産んだのだ。 女王だから女性が治めてる。支配しようとしたら邪魔だろう。
男尊女卑の大和が女王様にひざまずくはず無い。すぐ殺すよ >>417
魏の烈祖明帝が公孫淵討伐の反省会で
四千里の征伐と言ってる。
もし往復で四千里なら帯方郡から北九州までは
約千二百里で10倍も盛ってるのは明白
盛唐の詩人李白の白帝城から川下りした七言絶句に
朝辞白帝彩雲間、千里の江陵一日にして還える
とある。
ここでは一里=600mで魏の烈祖明帝と同じだ。
九州上陸後は日数や月数で示されてるから
「水行一か月」なんて常識的に沿岸航行で全然
上陸しないで船の上なんてのはあり得ない。
食料、飲み水、ウンコはどうしたんだろう
と思い及ばないのかw 九州説信者は馬鹿ですぐバレる嘘ばかりつくので、誰も騙されない >>1
奥山氏よ。お早う。
邪馬台国畿内説が、完全に破綻してしまいましたね。 >>1
僕は、貴方の貼り付けているテンプレートに、沢山の疑問を持ちました。だから、邪馬台国畿内説が、ゴッドハンドという物事で、積み上げられていないかを、調べる学者になりたいと思いました。
それから、午前中に、僕達が学校で勉強している間に、小一時間かけて、誰からも急用の連絡が無いことのメリットを活かして、5ちゃんねるにスレッドを作成できる貴方は、凄いと思いました。
だから、僕は、貴方に、色々な質問を、ぶつけて、なぜ、邪馬台国畿内説が、完全に破綻してしまったのだろうか、という疑問に対する真実を探求します。質問します。
大物主神の子孫を自称した者達の痕跡かもしれない遺蹟を発掘破壊し、
ジグザグの溝を、「方形周溝墓の溝なのだ。」という誤認の発表と同時に、
明確な切り合い関係も確認できないスケッチ(■巻向考古学通信vol.2図2 遺構配置図■)を示すだけで、(ホウケイシュウコウボの)溝が、建物Dの(ハシラの)穴を破壊したのだ、と発表した者達が、いるのだが、
発掘破壊後の遺蹟で撮影された風景写真(https://i.imgur.com/LB1oG3k.png)の中の、ハシラ列の最東の南から5番目の箇所の、発掘面の何の変哲も無い所に、発表時に示されたスケッチ(■巻向考古学通信vol.2図2 遺構配置図■)には無い、白い塗料で書かれていた白線は、
「発掘では発見できなかったが、「後世の削平面の上にあって確認出来なかったのだ。」と想像された、建物Dの(ハシラ)穴の底面を囲う、想像の線の一部」なのですか。
それとも、発掘破壊後の遺蹟で撮影された風景写真の中の、ハシラ列の最東の南から5番目の箇所の、発掘面の何の変哲も無い所に、発表時に示されたスケッチには無い、白い塗料で書かれていた白線が、
「後世の削平面と発掘面の十数センチ程の間にあって、かろうじて確認出来た建物Dの(ハシラ)穴の底面の境界」だった可能性も、全く0ではないが、それならば、なぜ、発掘面の白線が分割した両側に、段差すら残さず、発掘破壊してしまったのですか。
それとも、発掘破壊後の遺蹟で撮影された風景写真の中の、ハシラ列の最東の南から5番目の箇所の、発掘面の何の変哲も無い所に、発表時に示されたスケッチには無い、白い塗料で書かれていた白線は、その他の意味をもつ白線なのですか。
答えて下さい。答えられないならば、「答えられない。」と答えて下さい。 謎の誰かが、熱血漢に遠慮しながら、風景写真の重要な箇所を、赤線で囲った写真を貼り付けていたな。
あの優れた写真は、何処に貼り付けられていただろうか。 完全に破綻してしまった💩邪馬台国畿内説💩を宣伝している、年中無給の💩奥山氏💩は、どのような、すぐにバレる嘘で、言い逃れようとするのだろうか。 >>472
「発掘面の何の変哲も無い所に、発表時に示されたスケッチには無い、白い塗料で書かれていた白線」
って、九州説の捏造だし
九州ゴッドハンドw
もう九州説には狂った異常者しか居ないのね 誰もが、二つの物事(■巻向考古学通信vol.2図2 遺構配置図■、https://i.imgur.com/LB1oG3k.png )を比較することで、すぐに確認できる真実を、嘘だと言い張るならば、
奥山氏が、💩ウンコ💩を漏らしながら、討論会から逃亡していることも、すぐに、バレるよ。
0477日本@名無史さん
2023/09/07(木) 06:09:31.61
>>472
「発掘面の何の変哲も無い所に、発表時に示されたスケッチには無い、白い塗料で書かれていた白線」
って、九州説の捏造だし
九州ゴッドハンドw
もう九州説には狂った異常者しか居ないのね ウンコ💩人間は、風景写真の中にあるという、「変哲」の証拠を示し、ウンコ💩人間のニックネームを払拭し、次に待ち構えている、土壇場についての討論会に辿りつけるだろうか。 九州の一説を語れる奴すらいないんでは相手にならないよ。
九州は過去の皇国史観でしかない。フェイクなんだよ。
治らんだろうが病院で視てもらえ。 卑弥呼以前にどのくらい流れて来ていたか?は知らんが
確実に九州には阿と呼ばれていた者等が国を築いたと隋書にある。が卑弥呼の時代のずっと後の話だな。卑弥呼の時代に阿蘇とは呼ばれていないと思うね。日本、日本人とは一体どのような人々なのか?って話だがそれも卑弥呼のずっと後の話だよ。
神仙思想を持ち込んだのが卑弥呼。列島の骨を築いた人。 九州説が追い詰められて
ウソ情報を流して絶対に証拠は出さない
という悪習に染まってしまったから
九州説の復活は無くなったな 畿内説が追い詰められて
ウソ情報を流して絶対に証拠は出さない
という悪習に染まってしまったから
畿内説の復活は無くなったな 異論無し
128:日本@名無史さん:2023/09/06(水) 09:02:51.16
纒向遺跡はまさにキャンプ場
多数の東海産飯炊き土器と鯖の骨や猪の骨など残飯が散らばったキャンプ場だよ
キャンプ場だから当然住居はない
建物は公衆便所かもな >>487
ほら、こんなふうに
証拠の出せないウソをつきまくる
それが九州説という犯罪 邪馬台国畿内説を宣伝するウンコ💩人間、討論会から逃亡中。。。 おい、完全に破綻してしまった邪馬台国畿内説を宣伝すりウンコ💩人間よ、一つ、討論会とは無関係の質問があります。
なぜ、ウンコ💩人間は、女口調になるのだ。
貴方は、女ウンコ💩人間なのですか。
■しか居ないのね■ おい、完全に破綻してしまった邪馬台国畿内説を宣伝するウンコ💩人間よ、一つ、討論会とは無関係の質問があります。
なぜ、ウンコ💩人間は、女口調になるのだ。
貴方は、女ウンコ💩人間なのですか。
■しか居ないのね■ 箸墓が卑弥呼の墓でないなら
比定地を出して説明しないとな。
それがまた九州は瞬殺される比定地なんだよな。
無駄なんだよ。九州であるなんて江戸時代からのフェイクでしかない。
そう考えて欲しいという古代の責任を取らなくていい作者不明の書物の影響だわね。 発射だぞ。🚀ロケット。もうすぐだ。
邪馬台国畿内説が、完全に破綻し、ロケット🚀発射だ。 >>495
分からないことは分からないと保留するのが学問だよ
ただ箸墓が卑弥呼の墓でないという根拠は多々出されているから
恐らく箸墓は卑弥呼の古墳では無いだろう >>496.質悪よなお前さんわ。
我輩を語るなよ、愚か者。
こんなのしかいないのが九州な。憐れだよ時間を無駄に生きてる。 絵画や写真を、どのようにして、インターネットで、紹介するのかを、以前孫から教わったな。 箸墓は道教の指導者の墓であるのは確実。否定する者は今は倭ではないことに配慮しているに過ぎない。
違うであろうと誘導したくなるのはわからんでもないが、
中華の思想を持った政権が誕生したことも否定できない。 💩プロ固定は女ウンコ💩人間であり、松傾でもある奥山氏だと見なして、良いな。 >>506
だが、💩プロ固定より奥山氏の方が、少しだけ、頭の出来栄えが、良さそうだな。 ウンコ💩人間は、風景写真の中にあるという、「変哲」の証拠を示し、ウンコ💩人間のニックネームを払拭し、次に待ち構えている、土壇場についての討論会に辿りつけるだろうか。 >>508
ウンコ💩人間が、「切り合い」のショウコだとして、貼り付けた風景写真では、疑惑の白線よりも、数十センチ程、ジグザグの溝が深いな。 >>513
💩畿内説💩の想定では、(掘っ立て)建物Dの(ハシラ)穴を、破壊しながら、ジグザグの溝を掘りめたよ。 >>513
💩畿内説💩の想定では、(掘っ立て)建物Dの(ハシラ)穴を、破壊しながら、ジグザグの溝を掘り進めたよ。 💩畿内説💩の脳内には、油圧ショベルがあるのだろうか。 >>515
ジグザグの溝は、2メートル程の深さだったことになってしまうね。 畿内説が主張する箸墓=卑弥呼の墓が事実だと仮定しよう
そうすると、箸墓より古いとされる纏向石塚古墳は卑弥呼の存命中に存在していたはずだ
であれば、こんなに巨大で目立つものを魏志倭人伝はなぜ記載しなかったのだろうか?
また卑弥呼の治世は概ね60年くらい続いたと考えられるが、その間に倭国王卑弥呼以外の誰が亡くなったらこんな巨大な墓が造られるのだろうか?
さらに前方後円墳とともに畿内大和に特徴的な銅鐸のことをなぜ魏志倭人伝は書かなかったのだろうか?
魏志倭人伝は畿内大和で最も特徴的なこれらのことを書かず、北部九州に特徴的な鉄鏃、絹、有棺無槨の墓(箱式石棺)のことは記述している
纏向=邪馬台国と考えた場合、魏志倭人伝の記述はおかしなことが多過ぎる
やはり箸墓=卑弥呼の墓、纏向=邪馬台国という仮説自体が誤っているとしか考えられない >>519
庄内式石器スコップで、頑張って、掘り進めたのでは、ないのかな。 >>521
魏志倭人伝の書き間違いだってw
その仮説は定説なんだから覆らない >>521
>魏志倭人伝は畿内大和で最も特徴的なこれらのことを書かず、北部九州に特徴的な鉄鏃、絹、有棺無槨の墓(箱式石棺)のことは記述している
妄想
箱式石棺は有棺無槨の墓ではない
少なくとも、箱式石棺には「棺が無い」という事実は、九州説にとって決定的に不利だ そもそも、最初は、方形周溝墓だと誤認したのだから、ホウケイシュウコウボの溝の年代を推定した理由が、
溝の底で発見した庄内式土器ではなく、
ホウケイシュウコウボの溝だと誤認したジグザグの溝の東側のホウケイシュウコウボ本体があったと誤想定された付近にあった庄内式土器だった可能性もあるな。 箱式石棺は棺ではない?
追い込まれた畿内説が白馬は馬にあらずみたいことを言い出した >>500
>ただ箸墓が卑弥呼の墓でないという根拠は多々出されているから
実際は出ていない 箸墓が卑弥呼の墓という嘘を発明した畿内説はさらに嘘を重ねて自滅した。 >>532
実際には、九州説が嘘ばかりついている証拠が多数挙がっており
畿内説がウソをついた事実は一切指摘されていない >>533
箸墓は
サイズ違い、馬具・布留1出土、葺石有り、殉葬痕跡無し >>534
合理的な理由もなく「嘘だ」と叫んでも、それは指摘でない >>535
畿内が九州を支配下に置いていたという証拠もない、つまり畿内が倭国だったというのは嘘 邪馬台国畿内説を宣伝するウンコ💩人間、討論会から逃亡中。。。 2世紀の纒向に邪馬台国の痕跡が無いので畿内説は大嘘。 >>536
>サイズ違い、馬具・布留1出土、葺石有り、殉葬痕跡無し
一つとして立証されていない 完全に破綻してしまった💩畿内説💩を宣伝するウンコ💩人間、討論会から逃亡中。。。 >>542
2世紀の纒向に邪馬台国の痕跡が無いことと
畿内説の否定には
因果関係がない 畿内説のボスの寺澤薫は考古学者では無くて空想小説家だな 💩テンプレートを貼り付け、完全に破綻してしまった邪馬台国畿内説を宣伝しているウンコ💩人間は、風景写真の中にあるという、「変哲」の証拠を示し、ウンコ💩人間のニックネームを払拭し、次に待ち構えている、土壇場についての討論会に辿りつけるだろうか。 >>545
理由なく、いくら叫んでも事実にならない 箸墓が卑弥呼の墓という嘘をいくら叫んでも真実にはならない 💩テンプレートを貼り付け、完全に破綻してしまった邪馬台国畿内説を宣伝しているウンコ💩人間は、風景写真の中にあるという、「変哲」の証拠を示し、ウンコ💩人間のニックネームを払拭し、次に待ち構えている、土壇場についての討論会に辿りつけるだろうか。 >>553
嘘じゃなくて学説
(学説が合ってるかは知らんw) 5ちゃんねるが雇用したプロ固定なのだろうか。
さすがに、頭が悪すぎるな。 >>543
理由なく、いくら叫んでも反論にならない >>558
古ぼけた物事を好む田舎の学芸会とは、それほど、レベルが変わらないよ。 完全に破綻してしまった💩畿内説を宣伝するウンコ💩人間、討論会から逃亡中。。。 基本中の基本の一番目だな。
0564日本@名無史さん
2023/09/07(木) 09:40:02.00
畿内は南では無いからお話にならない、つまり大嘘。 邪馬台国は神武が作った国でその後大和になった。
という事にすれば良いのでは? 対馬市役所
所在地
〒817-0022
長崎県対馬市厳原町国分1441番地
北緯34度12分10秒 東経129度17分15秒 桜井市役所
所在地
〒633-8585
奈良県桜井市大字粟殿432番地の1
北緯34度31分07秒 東経135度50分36秒 九州説には、結局怪しげな「南」一文字しか頼るものがないという結論が出たようですね >>569
そして、桜井市の方が、緯度が、高いよ。 >>527
割とマジで畿内説はそういう思考だよな
畿内説に都合が悪いものは史料も試料も間違ってるという 韓国人のウンコ💩人間は、「しか」という日本語を学習し損ねてしまったのだね。
0570日本@名無史さん
2023/09/07(木) 09:50:14.59
九州説には、結局怪しげな「南」一文字■しか■頼るものがないという結論が出たようですね 畿内説は魏志倭人伝は否定するのに、魏志倭人伝に出てくる邪馬台国はオラが国と肯定するダブスタ。 >>1
僕は、貴方の貼り付けているテンプレートに、沢山の疑問を持ちました。だから、邪馬台国畿内説が、ゴッドハンドという物事で、積み上げられていないかを、調べる学者になりたいと思いました。
それから、午前中に、僕達が学校で勉強している間に、小一時間かけて、誰からも急用の連絡が無いことのメリットを活かして、5ちゃんねるにスレッドを作成できる貴方は、凄いと思いました。
だから、僕は、貴方に、色々な質問を、ぶつけて、なぜ、邪馬台国畿内説が、完全に破綻してしまったのだろうか、という疑問に対する真実を探求します。質問します。
大物主神の子孫を自称した者達の痕跡かもしれない遺蹟を発掘破壊し、
ジグザグの溝を、「方形周溝墓の溝なのだ。」と誤認してしまった発表と同時に、
明確な切り合い関係も確認できないスケッチ(■巻向考古学通信vol.2図2 遺構配置図■)を示すだけで、(ホウケイシュウコウボの)溝が、建物Dの(ハシラの)穴を破壊したのだ、と発表した者達が、いるのだが、
発掘破壊後の遺蹟で撮影された風景写真(https://i.imgur.com/LB1oG3k.png)の中の、ハシラ列の最東の南から5番目の箇所の、発掘面の何の変哲も無い所に、発表時に示されたスケッチ(■巻向考古学通信vol.2図2 遺構配置図■)には無い、白い塗料で書かれていた白線は、
「発掘では発見できなかったが、「後世の削平面の上にあって確認出来なかったのだ。」と想像された、建物Dの(ハシラ)穴の底面を囲う、想像の線の一部」なのですか。
それとも、発掘破壊後の遺蹟で撮影された風景写真の中の、ハシラ列の最東の南から5番目の箇所の、発掘面の何の変哲も無い所に、発表時に示されたスケッチには無い、白い塗料で書かれていた白線が、
「後世の削平面と発掘面の十数センチ程の間にあって、かろうじて確認出来た建物Dの(ハシラ)穴の底面の境界」だった可能性も、全く0ではないが、それならば、なぜ、発掘面の白線が分割した両側に、段差すら残さず、発掘破壊してしまったのですか。
それとも、発掘破壊後の遺蹟で撮影された風景写真の中の、ハシラ列の最東の南から5番目の箇所の、発掘面の何の変哲も無い所に、発表時に示されたスケッチには無い、白い塗料で書かれていた白線は、その他の意味をもつ白線なのですか。
答えて下さい。答えられないならば、「答えられない。」と答えて下さい。 >>559
知らんわ
でも歴史の教科書や教材、観光ガイドには「箸墓は卑弥呼の墓とする説がある」と強調されてるから学説として定着してんだろうし
予備知識のない人、とくに歴史を勉強してる子どもはそう信じるがな
北部九州に魏志倭人伝の語る邪馬台国の世界観そのまんまな遺跡が点在しているとか
纏向の古墳が本当に3世紀のものか怪しいとか
纏向からは大陸や伊都国と交流した形跡が乏しいとか
歴代の王や巫女の墳墓、戦乱の痕跡がなかなか出てこないとか
そのあたりの情報は知られてないからな まぁ、平和な纏向が邪馬台国でもいいじゃないか
激しい倭国大乱も、後継者争いも、狗奴国との戦乱もなくて平和で牧歌的、巨大古墳を造れるほど安定した国だったんだよ
良かったじゃないか 💩💩💩💩💩💩💩💩💩💩💩💩💩💩💩💩💩💩
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💩💩💩邪💩馬💩台💩国💩畿💩内💩説💩💩💩
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💩💩💩💩💩💩💩💩💩💩💩💩💩💩💩💩💩💩 「箸墓は卑弥呼の墓とする説がある」
これ根拠がないのはかなり凄いことだよな
こんなのが定説呼ばわりされてるって研究者は危機感覚えないのだろうか 簡単に書くと
昔、昔、近畿に女王国がありました。
ある日、支配しようと外国から人がやって来ました。
外国からやって来た人は威張っていて、従わない者は殺していきましたが、殺されるのが嫌で従う人もいました。
従った人の中には、後に天照や百襲になった人もいました。
めでたしめでたし。
と考えます。 箸墓大古墳は、木製鐙時代直前の西暦370年頃の物体だったな。 古墳から出土した遺物のうち早い年代を採用して古墳の年代とするのはなかなか斬新な手法ではある ショウコが無いという証拠は、ショウコが、示されないからです。 証拠もないことを断定したり、次々とウソをつく九州説を見ると
九州説が学説として消滅した理由が
よくわかる >>593
日本の若者達が、今年度もテレビ番組で、学んだね。 「邪馬台国畿内説にはショウコがない。」という証拠は、何なのだ。 【重要】古墳時代は奈良で始まったわけではありません
実際のところ古墳時代は2世紀の東日本の前方後方墳で始まっています
奈良盆地の前方後円墳から始まったわけではありません
東日本では2世紀ごろから前方後方墳が造られ西へと広まっていきました
https://i.imgur.com/DeSj4Lv.png
前方後円墳より先に、遠く離れた北部九州にも前方後方墳が造られています
古墳時代の始まりは卑弥呼と関係ありません >>592
基本的に魏志倭人伝に書かれてることが九州にしか当てはまらないからな
畿内説では魏志倭人伝が嘘を書いてるという前提なのがなんとも >>596
>前方後円墳より先に、遠く離れた北部九州にも前方後方墳が造られています
証拠は? >>597
>基本的に魏志倭人伝に書かれてることが九州にしか当てはまらないからな
まったく証拠なしに言い張る九州説の体質が異常でしょ >>600
真実を若者達に伝えるために、頑張って、闘え。 畿内説に、都合が悪いと、証拠がなくなるのだったな。 前方後方墳は2世紀に東日本で始まり古墳時代前期には福岡県まで広まっています
この事実を必死に揉み消し隠蔽してきたのが畿内説です >>605
焼ノ峠古墳が前方後円墳より先に造られていたという証拠は? >>583
根拠はあるよね!
箸墓を卑弥呼の説とする根拠
①後円部の大きさが「径100歩」に近い
→前方部は知らん
中国人からすれば前方後円墳は珍しかったはずなのに
前方部について記載がないのは偶然だな
当時は曹操が出した薄葬令が守られ、陳寿も倭人の「棺あり郭なし」を褒めてても
纏向邪馬台国では箸墓古墳の前に纏向石塚古墳のような立派な古墳が作られ、ホケノ山古墳の木槨が有名になったのも偶然だ
②築造が3世紀だから!
箸墓内部は未調査
そばに転がってた土器が3世紀のものだから3世紀で合ってる
馬具は知らん
3世紀の馬具なら大発見
中国最古の馬具でも4世紀だぞ
纏向なすごいなぁ
他にも箸墓こそ卑弥呼の墓とする根拠はあったはず
何だっけ? >>533
前方後円墳な時点で卑弥呼の墓ではないことが分かる >>608
鉄も普及していたはずなのに溶けちゃったもんね <箸墓古墳で馬具出土>
2001年12月
「箸墓の周濠から、馬具と布留1式土器が同時に出土した。」
奈良県桜井市箸中の箸墓古墳の周濠から、乗馬の 際に足を掛ける馬具、
木製の輪鐙(わあぶみ)が見つかり、桜丼市 教委は三十日、
「輪鐙は四世紀初めに周濠に投棄され たと推定され、国内最古の馬具
である可能性が高い」 と発表した。
『木製鐙が開発されたと考えられている高句麗周辺の壁画古墳からは5世紀以降にならないと木製鐙が確認されない。
鐙が朝鮮半島に伝わった時期を考慮してもこれを4世紀前半とするには疑わしく、百済が中央集権国家になったのは4世紀半ば以降であることからも、
この木製鐙は4世紀半ば以降とする方が妥当である。
さらにこれが日本に伝わった時期を考慮すると箸墓古墳の木製輪鐙は早くても4世紀後半ないし5世紀以降とする方が望ましく、
その特徴が後世的であることもこれを裏付けるものとなっている。』 >>616
古代中国人にとって前方後円墳は珍しかったはずだけど
纏向邪馬台国に来た中国人は後円部の大きさだけ報告したんだよ
何でかは知らんwww >>619
周濠に「3世紀の」土器と4世紀以降の馬具
不思議だねぇ >>614
>根拠はあるよね!
一つもありませんでしたが
全部が主観でしたから >>621
>周濠に「3世紀の」土器と4世紀以降の馬具
>不思議だね
学者は誰もそう言っていない >>623
それでも「箸墓は卑弥呼の墓」としちゃったんだもん
いいじゃないか
もしモモソ姫が実在したならば4世紀後半の人だろうしモモソ姫の墓もその頃に作られたんだろうけど
箸墓は3世紀で卑弥呼の墓でしたーでok 3世紀の土器と4世紀の馬具が出てきたんだろ?
つまり3世紀の土器を4世紀まで使ってたってことだろ?
100年も土器を大事に使ってたと
んー、
巻向には新しい土器を作る能力がなかったんじゃないか?
土器作るための土がなかったのか技術者がいなかったのか設備がなかったのか 土器を100年も使うってあるのかね
新しいの作らない? >>629
纏向邪馬台国が発明したんだね
すごいわぁ 馬具を発明したのは倭国であった
当時は倭国には馬はいなかったが、そこは想像で補うだけの才能があったんだよ
そうとしか考えられない 記紀には3世紀の畿内に卑弥呼いたと書いて無いから、居ない人の墓は作らないだろう。 >>627
>3世紀の土器と4世紀の馬具が出てきたんだろ?
学者は誰もそんなこと言っていない >>630
倭国に馬はいなかったと書かれてるけどそこは想像で補ったんだろうな
当時は海洋交易が盛んで、倭人は高句麗のあたりまで行ってたから馬の存在は知ってたと
高句麗で一度だけ見た馬を思い出しながら、自分の馬具が使われることを夢見て発明にいそしんだわけだ 卑弥呼以蘇、大怒田舎学芸会。径3000メートル、空気雨3000発。 畿内説は古代文明に朝鮮文明を勝手に追加して歴史の教科書に「世界五大文明」と記載していた半島人と同種 >>634
言葉にして言う必要がなくね?
同時に出てきたんだから 古墳の周濠なら、周濠を作ってから埋まったものが出てくる。 畿内説は馬糞を探せばいいんだよ
で年代測定して3世紀に馬がいた事を証明すればいい >>633
マジかw
・「3世紀の」土器
・4世紀の土器
・4世紀後半以降の馬具
一緒に出てきたなら、「3世紀の」土器は本当に3世紀か疑わないものなんかな
あ、箸墓は卑弥呼の墓だから3世紀は確定なのかwww >>644
なんで九州説?
ここ、邪馬台国機内説のスレだし
九州の話関係ある? >>637
>発掘状況がそうなんだろ?逃げるなよ
証拠がない >>642
周濠を掘った時に出てきた土器が放置されていたとも考えられる >>642
3世紀の土器を大事に後世までとっておいて、周濠を埋めるときに「いまだ!」といってその後生大事にしてた土器を使ったわけだ >>650
逃げの畿内説だな
都合の悪いことは知らないわからないコンタミか何かだ >>652
正解
布留0も出土状況が不自然だった
周濠を掘った時の土の中から出てきたものを周濠完成後に放り込んだ可能性もある 賛成だ。このスレッドは、世界に発信されてしまっている💩テンプレートの嘘を曝くスレッドだな。
0647日本@名無史さん
2023/09/07(木) 11:01:25.50
>>644
なんで九州説?
ここ、邪馬台国機内説のスレだし
九州の話関係ある? 貴重だから直しては使って壬申の乱の時に切れた4世紀の鐙なんじゃないの? >>655
3世紀の地層を掘り返して古墳を作ったのか
3世紀の土が「地層」になる時代にw せっかく周濠を掘ったのに、掘った周濠にゴミ投げ込むんか
笑う 未来の探査機は、バッタのタンパク質を使用すれば良いな。 >>661
破綻はしないよ
箸墓は卑弥呼の墓だって前提なんだからw ウソをつくのが九州説
その証拠に
いくら言われても絶対に証拠を出さない ウンコ💩人間は、風景写真の中にあるという、「変哲」の証拠を示し、ウンコ💩人間のニックネームを払拭し、次に待ち構えている、土壇場についての討論会に辿りつけるだろうか。 >>664
だからなんで九州説?
ここは邪馬台国機内説のスレだから九州の話はしてない 後世に箸墓前方側の池は拡張され、後円部は埋め立てら田んぼになったが田んぼの土砂として土器は不要なので周濠に廃棄されたのだろう >>658
アホ?
4世紀に周濠を掘ったら3世紀の地層まで掘り返してたという話よ >>664
畿内説の人って、自分が有効な証拠を出せずに論が破綻してることがバレそうになると決まって「九州説は!?九州説だって証拠を出せないじゃないか!」と話をすり替えて誤魔化そうとするけど
話をすり替えてる時点で「あ、こいつ破綻を自覚してるから必死に話すり替えてんだな笑」としか映らないんだよな
哀れで笑う 纒向には運河も造られているようだが、運河の底は当時の地層では無いだろ
周濠や運河を掘ってた時の残土に3世紀の遺物が混じってた可能性は否定できないだろ だからさ
最初から「周濠はあとから4世紀に作ったもの」って主張してたんならわかるのよ
最初からね
でもそうじゃないじゃん
鐙が発見されたあとであわてて「周濠はあとから作ったんだ」って主張されても
それって都合のいいように現実をねじ曲げてるだけじゃん 考古学メガネ
「あなたがたに納得していただく必要はありませんので」
うっわ、むかつく 畿内説って全部こうなのよ全部において
最初から箸墓が卑弥呼の墓で巻向が邪馬台国って結論を決めちゃって
それにあわせて考古学的成果を解釈しようとしてるから
全部がネジ曲がってるのよ >>672
え?箸墓は3世紀、周濠は4世紀のものってことになってんの? 畿内説「周濠から鐙が出てきたけど周濠は後から作ったものだから問題はないんだ」
普通の人「なんで周濠はあとから作ったってわかるの?」
畿内説「鐙が出てきたから」
普通の人「???」 >>673
別によくね?
IQに差があると分かり合えないのは当たり前じゃん >>676
普通の人「周濠を掘った土を盛り上げて古墳を造るんじゃないの?」 周濠を3世紀に掘って造ってたなら2世紀頃の遺物が出てたかもしれないな
後漢時代から続いてきた邪馬台国なら ついに、古ぼけた物事を好む学芸会の者達に対して、IQの低さを、指摘し、侮辱する者が、出現したな。
0677日本@名無史さん
2023/09/07(木) 11:29:46.33
>>673
別によくね?
IQに差があると分かり合えないのは当たり前じゃん >>677
考古学者のIQは70切ってるんだっけ? >>676
ひたすら捏造してウソをつく
それが九州説 >>686
なんで九州説?
畿内の話をしていて九州は関係ないじゃん 畿内説の人って反論できなくなると九州説がー!九州説がー!って言い出すけど断末魔の叫びかなんかなの? 九州説が脅威ってこと?
何か心当たりがあるんだねw つまり、邪馬台国畿内説は、完全に破綻してしまったのだね。 魏志倭人伝の邪馬台国はどこでもいいじゃん
纏向邪馬台国は纏向にあって、箸墓は卑弥呼の墓
それでok >>690
畿内説が反論できなくなった事はありません >>695
都合の悪いものは全部コンタミってことにしてるだけで実質破綻してるわけだろ? >>692
>九州説が脅威ってこと?
九州説がウソつきってこと >>695
本当そうだよね
「箸墓は卑弥呼の墓」
これと矛盾した時点で学説から外れる!論外!そんなの妄想で証拠はなーい
って反論できてるじゃん 対馬の真東。
木製鐙と布留式土器。
溶けない蛙の骨。
溶けた鉄器。
木鍬のリサイクル面。
ズレズレの海外交差。
棺と小枝。
疑惑の白線。 >>697
で、何で九州?
自分がウソつきだと思う人は九州説に違いないってこと? >>670
ほんとそれ
畿内説のスレで畿内説の話をしていて何で九州の話になるのか意味不明 >>701
嘘をつくのは九州説と判明しているからだろ >>704
こんなのウソだぁー
ウソをつくのは九州説の人に違いなーい
許せねー
って?
ヤバい人じゃん >>704
また根拠のないことを言ってるな笑
畿内説のテンプレと同じで根拠ないことを言い続けてるだけだな 甜菜
テンサイは、ヒユ科アカザ亜科フダンソウ属の二年生の植物。
別名サトウダイコンともいうが形が似ているだけで、
アブラナ科のダイコンとは縁が遠い。
ビートの砂糖用品種群である。寒さに強く、
寒冷地作物として中高緯度地域で栽培されている。
サトウキビとならんで砂糖の主要原料であり、
根を搾ってその汁を煮詰めると砂糖がとれる。 周濠を掘った土を盛り上げて古墳を造るんだよね?
3世紀に造った古墳なら、周濠から3世紀か、3世紀より古い時代の異物が出てくるんじゃないの? なぜ、邪馬台国畿内説は、完全に破綻してしまったのだろうか。 3世紀の古墳の周濠から馬具が出てきたんなら
その時代に馬がいたってことでよくね? 巻向の前方後円型物体は、全て、どんなに古くとも、3世紀末期以降に出現しました。 周濠から馬具が出てきたときの反応
普通の古墳の場合→「ふーん、じゃあ五世紀頃の古墳なんだろ」
箸墓の場合→「後の時代に周濠に埋められたか周濠を後から作ったかのどっちか!古墳の年代はあくまで3世紀!絶対3世紀!古墳の年代は絶対移動しない!周濠の遺物の年代は古墳年代に影響しない!なぜなら箸墓は卑弥呼の古墳で確定してるから!」
急にパニクり出して論理破綻言い出すから笑える >>710
中国で馬具の原型が開発されたのが4世紀初め頃 >>715
マジでこれだから笑える
そして箸墓が卑弥呼の墓だという仮説のもともとの根拠は日本書紀だけっていう >>714
なぜならば、5世紀の木製鐙時代から、土器の作成者の世代が、6世代程度に完全に収まるからです。 >>718
つまり、邪馬台国畿内説は、完全に破綻してしまったのだね。 テンプレ読んでみたら本当に3世紀の鐙が日本から出土したって書いてて笑った都市伝説とか信じてそう >>717
卑弥呼とか言ってないよ
モモソ姫の墓だと伝えられてきただけ
何でモモソ姫が卑弥呼なのかは知らん
年齢補正したらモモソ姫は4世紀末期の人物っぽいのに 3世紀の中国に鐙はある
↓
箸墓の鐙はそれが日本に伝来したものに違いない
古代ユダヤ人氏族は日本に来ていたに違いない!並の信憑性やな
別にどんなに薄い可能性でもそれを信じるのは良いと思うよ笑
ただそれは「これは都市伝説なんだけど」と前置きしてから言わないとアホだと思われるよ笑 >>720
畿内説ですら出土さた輪鎧は4世紀初頭のものだって発表してたのにな
>>1はガイジ確定だ だったら箸墓から西暦300年ごろの鐙!世界最古の出土例!
って盛大に世界に宣伝しろよ笑
世界から笑われる自覚あるからこそこそ隠してんだろ?笑 こそこそ隠して、ツッコまれたときだけ「西暦300年ごろの鐙なんです。世界最古の出土例ということになるんですけど本当なんです。」って小さい声で答えてるんだろ?畿内説は笑
本気で西暦300年ごろの鐙だと思ってるならもっと宣伝するはずだろ笑 本気では誰も信じてないんだろ?
畿内説論者さえ信じてないからこそ宣伝もせずにこそこそ誤魔化してんだろ?笑 布留1式が290年、50年くらい使って投棄したら
地層年代は340年くらいかね 世界最古の鐙!日本の古墳から出土例としては世界最古の鐙が発見されました!
って世界に宣伝してこいよ畿内説が本当に正しいと信じてるなら
本人たちでさえ苦しい言い訳だという自覚があるから宣伝もせずにコソコソ誤魔化してる笑 だから壬申の乱の時の遺品だって
逆に日本書紀裏付ける大発見の筈なのになぁ ちなみに当時倭国には馬はいませんでした
巻向から蛙の骨は出るけど馬の骨は出ませんでした
笑 壬申の乱では、巻向が合戦場になったのでは、ないのかな。 >>733
どのレスが九州説のレスでどの部分がウソか説明できる? 嘘つきの遠吠え
>733:日本@名無史さん:2023/09/07(木) 12:44:26.46
>九州説は、ひたすらウソをつく 軽い方が最新式だな。
0735日本@名無史さん
2023/09/07(木) 12:44:52.15
>>732
鉄製の方が古いもんな >>731
箸墓の周辺で戦闘があったんだよ
高市麻呂と置始菟の軍が朝廷軍と戦って勝利した 驚いたな。。。
奥山氏は、壬申の乱を知らないのだな。 >>742
韓国では、日本の歴史は、勉強しないよ。 >>742
貴方は、奥山氏を憐れみ、ウンコ💩人間のニックネームで呼ぶのを止めたな。 .
投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」
都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり
当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない
玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている
投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ
今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである
郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである
https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125
. つまり畿内説って庄内式の編年をなるべく繰り上げて繰り上げて箸墓の年代を無理やり250年に合わせたから
布留1式もそれにあわせて年代を繰り上げて解釈せざるを得なくなっちゃったせいで
鐙の年代が世界最古になってしまったっていう笑い話だろ?笑
こんなの解釈の方向が逆で
鐙にあわせて布留式の年代を適正化して(つまり繰り下げて)
それにあわせて庄内式の年代も適正化(つまり繰り下げ)しなきゃいけないってことだろ
で、そうなると箸墓の年代も50年繰り下げて適正化しなきゃならなくなるから
畿内説は脳障害起こして「いや、土器の編年はおかしくないんだ!鐙が世界最古なんだ!」ってわめいてるわけよ笑
あわれすぎるだろ笑 土器の編年を適正化したら箸墓巻向は4世紀のものってバレちゃうから必死にごねてわめいてる 奈良に住む若者の質問は、邪馬台国畿内説が海外交差という物事をどのようにズラして、3世紀後半からの大和型庄内式土器に繋げたのかを、研究するために、やはり、重要な質問だな。 纒向周辺の葺石の無い古墳では布留0が出土している
しかし箸墓古墳、ホケノ山古墳では葺石が有り布留1が出土している
なぜわざわざ新しい方の古墳を卑弥呼の墓に比定したんだろう? >>751
箸墓はモモソ姫の墓でモモソ姫が卑弥呼だからだろ
畿内説の中ではそれが確定事項で、考古学的成果はそれを正当化するためのストーリーとして使えるものは採用して、使えないものはコンタミということにすれば良いという程度の認識のもの やっと息の根が止まったの?にしても思ったより長生きだった畿内説っていう暴論。 何故畿内説はビッグモーターのように末端まで腐り果てたのだろうか? >>756
潰しが効かないからだろ
経済や経営の博士や研究者は、大学にポストが得られなくてもいくらでもコンサルや一般企業に転職できる
だから研究者は学会に気を使わずに自由に意見が言える
一方でそれ以外の文系の博士や文系の学者って、一般社会ではカス扱いだからアカデミックポストにしがみつくしかなくて
ゆえにアカデミックの村社会の中で偉い人の言いなりになるしかないのよ
シンプルに言うとバカだから自分の本当の意見を言うことが出来ない人の集まりってこと
笑 日本史や日本の考古学しかやってないと英語もしゃべれないからな
英語論文読み漁ることなく(当然中国語論文を読み漁るわけでもなく)ドクターが取れるってすごいよな笑
他の研究科だったら英語の国際論文読み漁らずに博士課程卒業できるなんてあり得ない笑 中国の歴史研究者は邪馬台国が九州にあったなんて常識になってるからな
日本の学者は中国の論文なんかひとつも読まずに、それでなぜか魏志倭人伝の研究してるから頭が痛くなる笑 文系の学者なんかバカしかならないから、日本史に関してはむしろ在野の歴史オタクのほうがまともなこと言ってる >>753
なんでモモソ姫が卑弥呼?
結婚してすぐ箸で自害したエピソードとか、化けて出てきてんのかお告げをしたとか
とても「女王」には見えんわ >>762
俺もわからん笑
でもなぜか畿内説は箸墓にめちゃくちゃ固執してんのよ 仮にモモソ姫が国々から共立された「女王」で魏と交流があったなら
記紀は箸で陰部をついたとかいうより記載すべきことがあるだろwww >>762
あなたのような常識人には畿内説が理解できないのは当然です。 ぜんぜん反論できないまま、ただ悪口を言うと勝った気になれる九州説って
お気楽でいいね >>759
7世紀末に先祖伝来の鐙使ってても問題ないだろ
ご先祖様達は副葬品として墓に入れるくらい大事にしてたんだぜ? 畿内説の成分の95%が「径100余歩」でできているから。 >>767
使えるのか?
相手の攻撃から身を守るものなんだから古すぎるものは怖くて使えないと思うぞ >>764
朝貢の隠ぺいの為に女王から格下げされてるとかそういう言い訳じゃないかな。 畿内説もモモソが卑弥呼である証明でもしてみたらいいのに >>766
どのレスが九州説のレスでどの部分がウソか説明できる? >>770
記紀は中央集権国家の中心は天皇家だと正当化するために編纂してんだから、「多くの国から共立された」が事実ならここぞとばかりアピールするだろうに ぜんぜん反論できないまま、ただ悪口を言うと勝った気になれる畿内説 >>773
そうですねぇw
しかも、日本書記はわざわざ神功皇后を卑弥呼の時代に合わせにいってるような感もあるので朝貢を否定するっていう目的って言い訳もよくわからないんですけど。 「女王じゃなくて皇后だからセーフ」って言いたいんだろ
「三韓を征伐するついでに魏にも使者が顔だしただけ」って 完全に破綻してしまった邪馬台国畿内を宣伝している奥山氏は、お昼ご飯を食べただろうか。 >>769
戦国時代の火縄銃を維新の頃に使う民族だぜ? 奈良に住む若者の質問を作り直す事は、やはり、面倒なので、探せば良いな。 巻向の合戦は、まさに、箸墓大古墳の辺りで、闘われたのだな。 今、探すよ。
0781日本@名無史さん
2023/09/07(木) 13:55:07.36
>>780
概要は? >>1
奥山氏よ。ご機嫌よう。僕達は、魏志倭人伝時代について研究している奈良に住む若者です。
僕達は、貴方の発表した、
「「証拠を出せ」というのは最もl一般的な反論で出せなければ議論に負ける常識だ」
という意見に賛成します。
だが、僕達は、貴方の宣伝している邪馬台国畿内説が、完全に破綻してしまったという真実を、発見しました。
だから、貴方の宣伝している邪馬台国畿内説への反論のために、質問します。
実は、2023年8月19日から、繰り返し、貴方に、反論のための質問をしましたが、投稿に、気がつかなかったのでは、ないのかな。
もう一度、同じ質問を、投稿します。
貴方が、貴方の作成したテンプレートの冒頭で発表した、
「【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)」
のだと主張する証拠は、何ですか。
つまり、質問は、◆10と◆FAQ43の中に全部で3つあります。
貴方が、作成した、◆10の中の
貴方が「古代学研究会 森岡、三好、田中2016」によるのだと紹介した、
「○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃」
の具体的な証拠は、何ですか。(■質問1番目)
貴方が作成した◆FAQ 43の中の
「楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)」
という部分の「楽浪木槨墓V期と併行したという庄内(以下ショウナイ)」は、
「何処で発掘されたショウナイですか。(■質問2番目)」
そして、
「なぜ、そのショウナイは、楽浪木槨墓V期と併行したと判断されたのですか。(■質問3番目)」
奥山氏よ、以上、答えてください。
奥山氏よ、もし、答えられなければ、「答えられないのだ。」と答えて下さい。 >>784
邪馬台国畿内説が、貴方の質問から逃げ回っているのは、
やはり、交差編年という物事が、恣意的にズラせる物事だということが、バレるのが、恐ろしいからなのでは、ないのかな。 邪馬台国畿内説は、完全に破綻してしまったので、次回のスレッドからは、テンプレートを撤去します。 桜井市への情報公開請求を実行したならば、随意契約先の観光宣伝屋の一人親方の情報が判明する可能性もあるのでは、ないのかな。 完全に破綻した独自の畿内説を執拗に宣伝するのはデマ拡散という犯罪じゃないのかな? >>779
火縄銃は国産化していたから幕末でも作れただろ 邪馬台国畿内説を宣伝している奥山氏が、モクセイワヨロイとタイピングしたのだろうか。 >>798
奥山氏は、算数も漢字も日本の歴史も、勉強しなかったよ。 >>795
綱吉に銃の移動制限受けてたから各藩大事に持っていた
幕末の薩長会津なんかが導入したのは火縄銃とは別
第二次長州征討の先鋒の彦根藩は戦国時代の家宝の甲冑に槍衾で進んだとこを長州のライフルで狙撃された
幕軍の火縄銃は射程外で届きすらしなかった
日本史勉強しな? 完全に破綻してしまった邪馬台国畿内説を宣伝している奥山氏は、小学生の質問からも、奈良在住の若者の質問からも、逃げ回り続けているな。
やはり、奥山氏は、邪馬台国畿内説が、完全に破綻してしまったことを、内心は、認めてしまったのだね。 完全に破綻してしまった邪馬台国畿内説を宣伝している奥山氏が、火縄銃のことでも、完全に論破されたな。 加藤清正公も家来も、槍の名手だったので、火縄銃がなくとも、女真族は、逃げ回ったのでは、ないのかな。 奥山氏が、元気を失ってしまったな。大丈夫だろうか。 >>794
畿内説改め、九州以外説に転向か?www 奥山氏は、朝鮮半島征伐の本拠地だった九州を、憎んでいるのだろうか。 もし北部九州が脳内お花畑な連中だったら日本列島はモンゴルや朝鮮の領土になっていたかもしれないな
伊都国王や倭奴国王が対馬海峡を牛耳っておいてくれたから日本列島は良い意味でガラパゴスを維持できたわけで まーだやってらっしゃるのか
卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)
卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)
ハイ終了
解散! 崇神朝の最重要人物である大田田根子の墓はどこにあるのだろう? 国内最多、100面以上の銅鏡を副葬か 奈良・桜井茶臼山古墳
https://www.asahi.com/sp/articles/photo/AS20230907002443.html
奈良県桜井市の大型前方後円墳、桜井茶臼山古墳(3世紀末ごろ、国史跡、墳丘長204メートル)に、国内最多の100面を超える銅鏡が副葬されていたことがわかった。奈良県立橿原考古学研究所(橿考研)が7日発表した。「卑弥呼の鏡」とも呼ばれる三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)など多彩な種類の鏡が確認され、専門家は「段違いの数と内容で、被葬者に突出した力があったことを示す」と評価する。
大和政権初期の王墓との見方がある同古墳からは、過去の調査などで銅鏡の破片385点が見つかっている。
橿考研は2010年、それまで全国最多だった平原(ひらばる)遺跡1号墓(福岡県糸島市)の40面を上回る、81面の銅鏡があったとの分析結果を発表した。ただ、当時は種類不明の破片もあったため、橿考研の研究者らのチームが今回改めて調査。三次元計測をしたり、国内外の銅鏡と比べたりした結果、全国最多をさらに更新する103面以上の銅鏡があったとみられるという >>815
おお!これはすごいね
もうここが卑弥呼でいいじゃん 外山(とび)茶臼山古墳とも言うらしい
トビといえばナガスネヒコか 神武=崇神東征が西暦300年ごろとするのが有力だからナガスネヒコの墓だと年代も合致するな >>821
富雄丸山古墳がナガスネヒコ説もあるのか
どちらもヤマト東征前に君臨していた在地の首長の墓だろうな >>823
ちゃうんです
登美の里という奈良盆地の古名のこと 畿内出土の銅鏡は国産コピー品だともう明らかになりました
http://mainichi.jp/articles/20180118/dde/018/040/020000c?inb=ra
> 一方の国産説も決め手に欠けたが、1年前、画期的な新説が現れた。昨年この欄で紹介した「国宝・金印論争」にも登場願った鈴木勉・工芸文化研究所所長の著書
> 「三角縁神獣鏡・同笵(どうはん)(型)鏡論の向こうに」(雄山閣)である。
> 鈴木氏は金工や金石学が専門。物の形や文様の変化を追う考古学とは違い、実験が裏付ける製作技術の観点から製作地に迫った。
>
> 着目したのは、鋳造後の仕上げ作業。三角縁神獣鏡の文様には、三角形が連続する「鋸歯文(きょしもん)」がある。
> 鋸歯文を拡大画像で比較すると、ヤスリや砥石(といし)で磨かれるなど、種々の異なる加工痕が残っていた。
> 加工痕の違いは工房や工人、工具の違いを示すものという。
>
> そこで、黒塚古墳(奈良県天理市・33面出土)など、三角縁神獣鏡が出土した10以上の古墳を対象に加工痕を比較した。
> 結果は簡明。仕上げ加工痕は出土古墳ごとに見事にまとまっていた。
>
> 三角縁神獣鏡では同じ型の鏡が複数存在する。同笵(型)鏡と言い、別々の古墳からも見つかるが、同型同士でも加工痕は古墳によってさまざまだ。
> 一方、出土古墳が同じなら、異なる型の鏡にも同じ仕上げが施されている。つまり加工痕は鏡の型ではなく、出土古墳に規定されているのだ。
>
> 鋳造の最終工程で施される仕上げのまとまり具合から導かれる事実は明らかだ。鏡の製作地は、日本列島内の出土古墳近くということになる。
>
> その上で鈴木氏は見つかる鏡の少なさなどから、工人が各地の出土古墳近くに定住しているのではなく、大和地域に本拠を置く複数の移動型の工人集団が
> 各地の依頼で現地に出向いて製作する「出吹(でぶ)き」を想定した。
> 鋳造の最終工程で施される仕上げのまとまり具合から導かれる事実は明らかだ。鏡の製作地は、日本列島内の出土古墳近くということになる。
> 鋳造の最終工程で施される仕上げのまとまり具合から導かれる事実は明らかだ。鏡の製作地は、日本列島内の出土古墳近くということになる >>617
鉄は酸に溶ける。
野菜作ってると土が酸性になる。
俺は最初中国や朝鮮の石炭の硫黄分のせいで
酸性雨が降るから土が酸性になると思ってた。
それが違うんだ、野菜その他の植物が
鉄分や亜鉛、銅などを吸収するために根から
酸性の液体を出してミネラルを溶かすんだ。
放置すると土の酸度が酷くなって野菜がうまく
育たないのでアルカリ性の石灰や苦土石灰を
畑に散布してそれぞれの野菜が育ちやすい
酸度に調整するんだ。
だから田んぼや畑の鉄は溶けやすい。
三本爪の備中鍬は畑や田んぼに放置すると
雨に濡れて赤錆が出来てボロボロになる。
しょっちゅう田畑で土の中に振り降ろすと
鉄道の線路のように黒光りする。 >>815
畿内製の国産銅鏡は三角や年記鏡とかで、
古墳=銅鏡文化自体がだけど、
卑弥呼以降にしか無い訳だが?
古墳祭祀自体には、1~4枚で良いんだろ?
なんで、国産銅鏡100枚、埋めんだよ?
配った分で、平原まねた追討の破鏡か?
アッチは、150年から200年初頭の九州生産だろ?
富雄丸山古墳は、武人のような印象だが?
で、考古学成立すんのか? 火山灰がアルカリ性なら九州の鉄器の残り方にも
少し説得力があるが九州の場合は
戦闘による生活の連続性廃絶の面も大きいよな 今は大幽霊世界に入ったのかもしれないが
そんなに前では無い前に市鹿文などの
熊襲の名が載る系図を示して、この中に卑弥呼がいるんだと
しばらく宣伝していた者がいた
彼によればこの一族は江南から渡来した
太伯の後にあたる姫氏だという
物の見方によれば熊襲・熊族というのは熊野大神を奉ずる
物部の集団を指していて、これが列島の各地で皇室含め
複数の王統を主張していた疑いがあるのだが
九州へ直接来た集団と、韓地を経たか一旦倭地から韓地へ遷り
また戻ってきた集団がかなり大きな役割を演じた可能性があるな つまり、邪馬台国畿内説は、完全に破綻してしまったのだね。 三角縁神獣鏡は日本で独自進化した鏡だろ
「卑弥呼の鏡」というなら魏で普及した鏡持ってこないと 後漢書によれば、邪馬臺国連合30国は後漢時代から存在しています
当時はおそらく男王である大倭王がいましたが長い間倭国大乱に陥っていまい、卑弥呼を共立女王とする事で何とか平和と取り戻しました
のちの魏志倭人伝によれば、卑弥呼時代はAD180〜247年の間と見られます
当時中国では女王国30国として認識されていました
道のりを見ると邪馬臺は博多から南の方向にあったとの事
そしてその女王国の東には海があり、千余里先にまた倭種の国があったと記されています
おそらく畿内など半島系移民によって作られた国々も存在していたのでしょう 歴史と言うものには、時系列が有る。
190年から247年女王在位の卑弥呼は古墳時代人ではないが?
150年以降だろうか?
九州では、大量の、銅鏡を作っていた。
平原、三雲、須玖で、日本製は、出ている。
卑弥呼は何故、魏の銅鏡が欲しかったのか?
100枚という量、ではなく、最新のモードが欲しかった。
魏では、最新は鉄鏡だったw これは、まだ国産無理?
そういう事、なのではないかな?
てか、畿内からの防人、一大卒に三種の神器を提供した
卑弥呼は、墓で破鏡を実行してるのではないかな?
この話を、張政が、勘違いで殉葬と言うのは有り得る。
卑弥呼の墓は、平原だろw 朝鮮人が、日本列島で國を作ったことはないな。
古代朝鮮人には、マッチョな倭人のような渡海能力が無かったので、日本列島に能動的には渡来できなかったよ。
日本列島に、朝鮮奴隷が連行されたことは、あっても、
畿内に朝鮮半島からの奴隷が連行されたのは、4世紀だよ。
そして、百済人が、逃亡したのは、白村江合戦の頃だぞ。 >>815
いい加減三角縁神獣鏡を卑弥呼の鏡とか言うのやめないか
見てて恥ずかしい
ってか情報アップデートしてないマスコミ糞 つまり、邪馬台国畿内説は、完全に破綻してしまったのだね。 三世紀後半に奈良盆地に大きな勢力が出来たのは間違いないんだから個人的にはどうでも良い
邪馬台国が何処かよりも、どういう過程で三世紀に畿内勢力(連合)が形成され、4世紀に何があったかが知りたい
マスゴミがいちいち煽ってるから進まない
九州説も畿内説も煽り耐性低すぎよ 倭国大乱と言う期間が、
記紀に有る、100年から190年までで
意味不明の天皇が存在し得ない理由なのじゃないのかな?
倭人伝では、190年から247年の
日本の女王卑弥呼は歴史上の人物だが?
神功皇后は、記録の有るこの期間で、
絶対、半島とか九州にも、進出できんよ?
箸墓が卑弥呼なら、それで良いのか?
そうなるか? >>815
分かってるだけでも
三角縁神獣鏡26面
画文帯神獣鏡19面
内行花文鏡12面か
流石邪馬台国だな 3世紀後半はもあ邪馬台国時代では無かったんじゃないかな 吉野ケ里石棺墓
→何も出土せず
桜井茶臼山古墳
→銅鏡100面 卑弥呼の鏡は画文帯神獣鏡と思ったが
考古学では斜縁神獣鏡が曹魏の鏡と見ているのだな
三角縁神獣鏡はこれを真似て造られた和鏡だという評価は
今のところ整合性が高い 三角縁神獣鏡が出た時点で邪馬台国時代から外れてるのが確定してしまうようなもの 応神朝に三島に渡来した大山祇だが
ここに古来から根を張る三島鴨は、
熊野大神の使い八咫烏だが、名前に角(ツヌ)を含むのだな >>851
あのね。魏志倭人伝で確実に倭人の領域とわかってるのが対馬海峡から奴国までの北部九州沿岸なのよ。
そこまでは確実に魏使が往復してるわけ。
だったらさ、魏使が持ってきた銅鏡百枚ってのは、対馬海峡から奴国までの北部九州沿岸から出土する銅鏡に決まってるでしょ。
それだと負けるから発狂するしかないオワコンwww
↓ ↓ ↓ >>852
畿内説が現実側に滞在してたことなんてないから逃避では無いなw 歴史と言うものは、逆行しないのだが?
何故、考古学と言うのは、逆行が可能なのか?
間違っていることは、確かだが
間違いを認めないと言う手法は、
学問に有り得るのか?
破綻した主張も同じだがw
説がある事自体で、
科学として終わっている、
と思うね。
論争?
陳寿の文は自己完結している。 >>855
奴国王墓、那珂八幡古墳から出土した三角縁神獣鏡のことか 連れてきた生口に土盛り作らせたら親し気に話しかけられて不愉快でゴザルよ >>859
間違いだな
岡山市・浦間茶臼山古墳、天理市・黒塚古墳、
木津川・椿井大塚山古墳は
箸墓古墳のちょうど2分の1に企画された
前方後円墳である可能性が高いと考えられている[2]。 >>859
那珂八幡古墳
発掘調査で見つかった墳丘から、
正円形でない後円部やくびれ部の広がり方は、
箸墓古墳と同じ撥形になる、
発生期・出現期古墳の典型的な姿を示している。 特殊器台は女王国連合にしか配られていないからね
北九州は一大率支配下のオブザーバー参加だろ >>864
で、ご立派な邪馬台国の倭人が暮らしていた住居は? >>866
つまり、邪馬台国畿内説は、完全に、破綻してしまったのだね。 国産銅鏡は
我こそは邪馬台国の末裔なり
とプロパガンダするために偽造したものなんだろう 国産銅鏡は、
我こそは銅鐸王国を滅ぼしたのだから、人民は従え、
とプロパガンダするために製作したものだよ。 倭国大乱の時期を境として北九州から
鏡の出土が消えて喜ぶ者に邪馬台国のオールは任せられないな >>872
つまり、邪馬台国畿内説は、完全に、破綻してしまったのだね。 スレッドが、終了すれば、一人親方の宣伝会社オクヤマに1万円、振り込まれるのだから、頑張れ。 掘ってはいけない場所を掘ってしまったのかもしれん。
そうなるきっかけをつくったハシラアナ創造者は、我こそは歴史に名を残す者ナリという功名心によって、とんでもない第三次を招いてしまったのだろうか。 角度がいびつなのは出来心に揺れた本人の良心なのかもな 何者かが、僕達が飽きかけている、疑惑の白線問題に、触れてしまったな。
あの、赤線を使用した、見事な加工写真を貼り付けた人物なのだろうか。 >>878
貴方は、奥山氏が、反論しなくなってしまい、詰まらなくなったのだな。 桜井茶臼山古墳は卑弥呼の次の次の次の邪馬台国王=倭国王の墓 >>880
僕達は、本当は、2メートル深のジグザグの溝についての討論会の方を、楽しみにしていたよ。 >>882
切り合い関係は、他にもあったので、古ぼけた物事を好む学芸会が発表した建物群の想像図の説明が、立体的に、収拾がつかなくなる、間抜けな面白さが、あるのだったね。 トヨの代に東遷したってのが一番あり得ると思うけどな
畿内が本格化するの4世紀頭からだろ 東遷が4世紀頭なら桜井茶臼山はナガスネヒコであってる 狗奴国との争いを制した邪馬台国が満を持して東遷したのか
もしくは邪馬台国からのプレッシャーで押し出されるように狗奴国が東遷したのか
どっちかだよ 狗奴国東遷説のほうが夢があるけどな
卑弥呼が記紀に残ってないことも説明がつくし 記紀には帥升も金印奴国も出てこない
狗奴国がヤマト王権の母体と考えると全部説明がつく 摂津が委奴国、大和が邪馬台国、河内和泉が狗奴国
畿内というだけある >>864
つまり九州一円は特殊器台の配布されない西の倭種の国だったのか >>883
立体的な説明の収拾がつかなくなる、間抜けな面白さがある、古ぼけた物事を好む学芸会が発表した建物群の想像図は、笑いリラックスできるので、良いよ。 >>891
それだと狗奴国が西にあることにならんか >>1
なぜ、邪馬台国畿内説は、完全に破綻してしまったのですか。 邪馬台国は九州北部しか無いだろ
秋津国か葦原中国って自称してた本拠地奈良と大阪の国が3〜4世紀に九州占領して
外交するために倭の大国って意味で大和に改名した
これが真相だとしか思えない 九州はやがで秦韓が南下して香春信仰の秦王国の本拠地になるところだろ、高麗伝にある秦王国王神武とやらが東に行った可能性はあるわな。書物との整合性はあるよな。 日本書紀も政府の立場擁護するために
中国の歴史書に書いてある国=大和だと誤解させるように書いてるわ
どう考えても神功皇后と卑弥呼や天照大神と卑弥呼なんて関係ないだろ
普通に考えろよ まああれだ、今喜多川の話をしてもすべてが
すんなり頭には入らないがおのおのそれなりに留意して
今後の討論会に活かすことにはなると思う 箸墓古墳調査
墳丘周辺では纒向遺跡第81次調査で前方部北裾の調査が行われ、墳丘裾とこれに伴う葺石や幅約10mの周濠状の落ち込み、盛土による堤など、墳丘に関連する施設が検出されています。さらに、後円部東南裾部における纒向遺跡第109次調査では、葺石を施した渡り堤や周濠、外堤状の高まりが確認されています。 弥生時代前期の松江の西川津遺跡の樫の鳥形と同じ形の鳥形が、弥生時代中期の鳥取の青谷上寺地遺跡、大阪の亀井遺跡、池上曽根遺跡、弥生時代後期の雁屋遺跡から見つかっている
青谷上寺地遺跡は遺伝子が調べられた人骨が4体あり、そのうち2体がC1a1だった
青谷上寺地遺跡と関係があったと考えられる上記の集落には同じ遺伝子的特徴を持つ集団が関わっていた可能性があるな 更に紀元前後に営みを終えた加茂岩倉遺跡の銅鐸が奈良の上牧、大阪の陶器、和歌山の黒田から出土
弥生時代後期の近畿地方は島根から移住してきた人々がたくさんいたんじゃないか
時代は崇神より前でまさに欠史の時代なんだよな
欠史は懿徳天皇と孝元天皇の宮の名称に軽がつく
出雲地方、松江地方、大阪を中心とした近畿地方、欠史の時代、軽はかなり関係が深いんじゃないかな 奥山氏は、建物Dとその付随する遺構の発掘面の通時的な推移を
分かりやすく動画にまとめることで、歴史改竄の汚名をそそぎ
感謝と労いを込めて乙山氏と呼ばれるようになるよ 弥生時代後期は本当興味深い
摂津の玉津田中遺跡と同じ形の鳥形が静岡や沼津で見られるようになり、登呂遺跡など鳥形が見つかった集落が誕生する
伊吹山の麓の長浜や若狭地方にも摂津や河内と同じ形の鳥形が一斉に広がる
伊吹山にはヤマト政権に最後まで抗った荒ぶる神がいたと日本書紀にある
静岡と伊吹山はどちらもヤマトタケルとの因縁がある地だ >>914
深く考えるな。
方形周溝墓の人々が、東征されたんだよ。 伊福部氏がヤマトに反抗するなど考えられんのだが
尾張氏にしてもだ。なかなか深い謎だぞ まんまるボタンはおひさまボタンという謎のフレーズを思い出した 私は九州派ですけど
大和王権があれしてこれして
(九州を乗っとって)
ややこしくなったんやと思う ヤマトタケルが亡くなった後は、突然鳥の話になり、白くなった鳥が河内や和泉に飛んでいく
この話の謎がわかればいいんだが その白鳥を家内の者たちが追いかけながら詠む歌が
そのまま天皇の斂葬の儀に採用されているね ヤマトタケルは倭王武のいうところの先祖が東に55国平定したまさにその人物だよな ヤマト政権が邪馬台国の時代に大和国って名乗ってた証拠あるの?
無いでしょ さすがにトミの里という時代ではないし
神武が到達していたのならすでにヤマトではあったんでない? 女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)
久 努 国 ( く の の く に )
久 努 国 ( く の の く に )
馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww >>925
大和国の名称は後の人が付けた名称かもしれんね!
地名はあったが国名は無かったとか 昭和30年代半ばはエネルギー革命で
九州の炭鉱の閉山が相次いで
失業した炭鉱夫たちが京阪神、中京へ集団移住して
東海道新幹線や名神高速道路建設の肉体労働に
従事した。
〽オイラーはナ―、生れながらの炭鉱夫〜
なんていう歌があったな。
三橋美智也 俺ら炭坑夫
https://www.youtube.com/watch?v=scuOXJFNfko https://www.youtube.com/watch?v=KPcQtYSmxTk
最近注目してる考察系youtuber
邪馬台国論争、箸墓の謎、日本書紀の謎などが一応全部説明できている >>936まとめ
・欠史八代のうち孝○天皇の時代は畿内王の地位を追われ九州に帰っている
・そのときの支配者は吉備族(ウラ一族)
・孝安、孝霊とその息子(大吉備モロ進、吉備津彦など)が段階的に吉備を討伐
→一連の吉備との勢力争いが倭人伝の倭国大乱
・孝霊と出雲系の娘が政略結婚し孝元天皇を生む
・孝霊娘モモソ姫が大物主(物部系)と政略結婚し三輪山の祭祀王に
→出雲系、物部系がモモソ姫を祭祀王に「共立」、再度畿内に勢力を築く
・崇神代に畿内大王位に帰り咲く
→ハツクニシラスが二人いる理由は欠史八代で一度畿内の王位を失っていたから
・モモソ姫は九州生まれ、畿内で祭祀王に共立される
→邪馬台国は九州にも畿内にもあった
・倭人伝のイキマは垂仁、ミマカキは崇神
→魏の使者には大王より祭祀王であるモモソ姫の地位が上に見えた
・モモソ姫が祭祀王をつとめていたのは50年以上で、天皇の平均在位期間を考えると
その間に大王位が3代くらい変わっていてもおかしくない >>934
九州に卑弥呼の出身地邪馬台国があったかも
知れないがエネルギー革命で炭鉱は閉山
失業、「青春の門」オリエは飲み屋で
身体を売ってオトナになりました
という九州のDer Untergang没落の歴史 森浩一『敗者の古代史』
「寛平五年(八九三)十月の『太政官符』によると、大和国城上(しきのかみ)郡の宗像大社が筑前国宗像郡の宗像大神と同神であることをわざわざ述べている」
「饒速日は生駒山を目標として船を進めてきたが(中略)次に饒速日がヤマトでの拠点としたのが大倭国の鳥見白庭山である」
「饒速日の東遷前の主要な勢力圏は北部九州の東半分の宗像から豊前の企救、さらに豊後の一部にも及んだ可能性が強いとみていて、鳥見(外山)の地に宗像神社が遷されたのと饒速日の東遷伝承とは深くかかわっている」>>815
「大阪湾に臨んだ海岸近くに鎮座する住吉大社(中略)四至の南限に山門川があるのは大和川のことである。ヤマトの一つの表記としての『山門』は注目してよい」
>>929
九州の地名は全国に広がってる
しかも地形や位置関係を踏まえていたり、場所によっては鏡写しでコピーされてたりしているので
地名だけでいいなら邪馬台国=岩手説もある(鯨統一郎『邪馬台国はどこですか』)
戦乱の跡など必ず発掘の成果と一緒に提示する必要ある 住居が無かったことを証明してしまったトンデモない遺跡 かの地に初めて住居が現れたのか質問しても答えは帰ってこない かの地に初めて住居が現れたのが何世紀なのか質問しても答えは帰ってこない のべ数万人の労働者が暮らした住居は何世紀に現れるのだろうか 邪馬台国畿内説は、完全に破綻したので、今回のスレッドが、最終回になりました。
なお、完全に論破されたテンプレートを撤去した、新しいシリーズが、始まっているので、紹介します。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1692049807/1
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*いつでも書き込んでください。
なお、書き込みは
意味のある良い内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することも、良いよ。
ロケットやミサイル発射は、荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ >>889
卑弥呼が記紀に残ってないのはそれが神武天皇より古い時代の話だからだろう
神武天皇=崇神天皇の即位は4世紀
2~8代の天皇は架空の存在 効いてる効いてるw
>954:日本@名無史さん:2023/09/08(金) 07:17:28.54
>つまり九州説はウソ 元々大陸と交流があって中華帝国から倭人と呼ばれたのは対馬海峡を九州と半島南部に渡って行き来した人々
その中心は伊都国や奴国や末盧国など筑前(一部肥前)の沿岸諸国と壱岐・対馬だ
楽浪海中に倭人あり、や、奴国は倭国の極南界なり、などの中国史書の記述はそうした中国側の地理的認識を反映したものだ
しかし後漢末期の卑弥呼の時代になると、弥生時代に長らく対立・殺し合いをしてきた筑前諸国と筑後諸国が共通の王=卑弥呼を共立して筑紫勢力として纏まった
これが魏志倭人伝に描かれた倭国だ
肥後の狗奴国は言語や文化は倭国に近かったが、政治的には倭国連合に参加せず近隣の邪馬台国と領土争いを繰り広げた(主戦場は鉄鏃が大量出土する菊池川流域あたり)
倭人・倭国の領域のうち、筑前の東側の鞍手・宗像あたりに勢力を持っていたニギハヤヒの一族(物部氏の祖)が東遷し奈良盆地に定着
その後伊都国・奴国あたりの一勢力が東遷して吉備勢力を巻き込んで奈良盆地に入り、ニギハヤヒ勢力と手を組んで奈良盆地を支配しヤマト王権に発展した
卑弥呼に連なる巫女女王が支配する筑後邪馬台国勢力は当地に留まり、田油津媛の代に滅亡した
ヤマト王権に卑弥呼や親魏倭王の伝承が残っていないのは直接邪馬台国とは繋がっていないからだ 頭文字に「大」を付けたがるのは畿内民族が半島人と同種である証拠 >>957
言うだけたら何でも後付に出来て楽で良いね
不彌=宇美も後付なんだっけ
じゃあヤマタイ国じゃなくてヤマイ国でいいよね
記録を残してない九州説は何でも良いたい放題だから楽で良いなぁ >>960
畿内は倭種の国と一言しか記録されていないな 新スレ立てました。
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1694128019/l50
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*本スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ >>961
そうだし、唐書でも日本国(畿内勢力)は倭国の別種と書かれてる
少くても中国では九州と東の倭種の国を別に見てるのが分かる
記紀は東の倭種の国の(後の)天皇家の歴史で、九州のことは継体期の磐井の乱まで正確な記録じゃないんだろ
景行の頃は九州は東の和種と同盟関係にある勢力と元々の九州勢でクニが相変わらず乱立してたんじゃないか?
俺は畿内説でも九州説でもないんで邪馬台国が何処にあっても構わない派 >>963
邪馬台国が畿内にあったら大和朝廷の歴史も変わるのでは? >>935
名無しの権兵衛だったのか、おらが村で通じていたのか? 奈良がヤマトと呼ばれていた
という証拠は何も無い
根拠を問うても後付けの地名や出どころ不明な言い伝えしか返って来ない >>966
3世紀に大和朝廷は魏の冊封体制下にあった
奈良の南には狗奴国があり戦争していた >>964
記録が無いんだから無かったんだろう
個人的には、取って付けたような神功紀が記録になるとは思ってない
ただ、九州以外の地に連合があったり、その連合が九州勢の一部を含んでたとしても構わないと思う
実際に青銅器を祭祀に用いる勢力はいくつかあって、交流(戦闘も含む)はあったのは事実
銅鐸の中心は奈良では無かったし、記紀にも銅鐸が何だったかわからない様な記載もあるので、天皇家は銅鐸を知らなかった勢力と思う
銅剣は三種の神器に入れてるとしても、銅矛は古い武器としか思わなかったから祭器と思ってなかったかもしれない >>967
実際、記紀でヤマトと読んでないからな
飛鳥朝以降、律令制導入に伴って付いた呼び名だろうけど、各地にヤマトと呼ばれる地名に全く無かったとは思わない
九州にも山都があっただろうし、畿内には倭もあったんだろう >>969
つまり邪馬台国は畿内には無かった
という結論になるな >>970
それを証明する遺跡がない
ということは畿内は邪馬台国ではなかった
という結論になる >>972
無かったことは証明出来ないよ
悪魔の証明だからな
むしろ他にあった可能性を探して、あったことを証明するのが考古学の使命であり、科学なんじゃないかな
学問とはそういうもので、可能性を全て潰すまでは証明なんかにならんよ 纒向には後漢時代の大倭王の墓が無い
よって纒向は邪馬台国では無い 北部九州に魏志倭人伝の世界観そのまんまの遺跡や出土品が出てきたとしても
邪馬台国機内説を否定する理由にはならない 九州にあるなら畿内にも普及してたはず!
まだ出てきてないか溶けたりして消えただけ! >>974
存在した
ということが証明できていないんだから
存在したという仮説は否定される
つまりは無かったというのが結論 畿内説が主張する箸墓=卑弥呼の墓が事実だと仮定しよう
そうすると、箸墓より古いとされる纏向石塚古墳は卑弥呼の存命中に存在していたはずだ
であれば、こんなに巨大で目立つものを魏志倭人伝はなぜ記載しなかったのだろうか?
また卑弥呼の治世は概ね60年くらい続いたと考えられるが、その間に倭国王卑弥呼以外の誰が亡くなったらこんな巨大な墓が造られるのだろうか?
さらに前方後円墳とともに畿内大和に特徴的な銅鐸のことをなぜ魏志倭人伝は書かなかったのだろうか?
魏志倭人伝は畿内大和で最も特徴的なこれらのことを書かず、一方で北部九州に特徴的な鉄鏃、絹、有棺無槨の墓(箱式石棺)のことは記述している
纏向=邪馬台国と考えた場合、魏志倭人伝の記述はおかしなことが多過ぎる
やはり箸墓=卑弥呼の墓、纏向=邪馬台国という仮説自体が誤っているとしか考えられない >>976
邪馬台国機内説を肯定する理由が無いのに無理してこじつけようとするから否定されてるだけだろ >>976
九州説を裏付ける証拠が発見されて
畿内説を裏付ける証拠が無いのなら
九州説が正しい
という結論を普通の人は出すんじゃないかな >>980
肯定する理由はある
テンプレ読もう
テンプレの理屈は無茶苦茶でも
箸墓が卑弥呼の墓なのは定説だから、この前提と矛盾しないテンプレは理由になってるはずw >>981
それでもいまは
畿内から邪馬台国を示すモノが出てこないのは
まだ出てきてないか
溶けたりして消えただけだ
九州にあるなら畿内にも普及していたはずだから!
ってことよw >>984
歴史の教科書に載ってるよ
箸墓は卑弥呼の墓候補だってさw 存在する
という証拠がなくても存在を主張しても良い場合がある
神様や死後の世界の話は証拠抜きで実在を前提にした主張が許される。
だだし、その場合はカテゴリーが学問ではなく宗教に分類されることになる。 >>985
教科書に書いてあるから正しいわけじゃない
というのは韓国の教科書を見れば明らか >>985
それ畿内説のコメントが記載されてる
と言うんだよ >>978
検証途中なんだろうから焦んなよ
だから発掘続けてんだろ
畿内説の揚げ足取る暇あるなら、九州説の仮説を固める発掘なりなんなりで追い詰めれば良いだけだろが
俺が科学って言葉使った意味分かってる? >>989
『魏志倭人伝に書かれた邪馬台国』
に関しては無理じゃないかな
気候風土習俗的に
邪馬台国とは別の、もっと進んだ別の王権なり勢力があったというのは証明出来るかもだが >>989
科学の意味がわかってない奴が言っても何の説得力もないぞw >>990
俺もそう思う
あれば九州の風俗だろうな
卑弥呼の時代に邪馬台国の中心は九州にあったんだろうが、埋葬地は違うと思ってるのよ
漢魏を知ってたら、埋葬は出身地にするべきって知ってるはずなのよね
トヨの事は女王と呼ぶけど、ココでは邪馬台国って言って無くて、縁のある13歳の女性としか書かれてないのが気になってる
邪馬台国は卑弥呼時代に九州にあったとしても、その連合国は本州を含めてもっと広がりがあったんじゃないかなって 邪馬台国と大和をくっつけようとするから無理矢理畿内にあったことにしたり東遷したなんていう神話を持ち出してしまう
文献史料に残されてるそのままに邪馬台国は東の倭種に滅ぼされたと考えればそんな無理することもないのに 同じ年代かどうかしか追求しようとしない畿内説って
それだけじゃ邪馬台国の特定には繋がらないという当たり前の論理を理解出来てないんじゃないのでは? >>993
東遷説が一番筋が良いと俺は思う
それが発掘や遺跡の証拠を一番上手く説明出来る
弥生時代後期の中国鏡の出土は九州北部が圧倒的だが
4世紀になると畿内が同じくらいに増えてくる。
それと同時に弥生時代後期には片田舎だった畿内に突如大規模古墳群がバンバン出てくるようになる。
東遷説ならこれを説明出来る。 東遷説の欠点は奈良大和朝廷成立が4世紀以降に確定するから
偉大なる天皇家の歴史が1000年近く短くなるところ >>1
つまり、邪馬台国畿内説は、完全に、破綻してしまったのだね。 歴史なんて勝者のもんだし、継体で断絶してるからどうでもいい このスレッドは1000を超えました。
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