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「邪馬臺国(ヤマトコク)」は阿波だった!? IIIβ

0176伊太のに居たの ◆oRNQXnZmlfa1
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2024/06/04(火) 22:09:41.10
第69回邪馬台国は阿波だった⁉元駐日イスラエル大使 エリ・コーヘンさん大いに語る!!

>>1
のリンクから飛んでくださいませ。
0177日本@名無史さん
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2024/06/05(水) 16:49:37.43
中国鏡、鉄鏃、弥生絹の分布は、邪馬台国が九州北部にあったことを示唆する。しかし、四国には皇室ゆかりの伝説や同時代の勢力があったことも事実。畿内における大和王権は、邪馬台国と四国の渡来系皇室勢力が合流したものと考えられる。
0178日本@名無史さん
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2024/06/05(水) 16:54:41.68
鈴木氏によると、志賀島の金印は、文字の中心線を彫った後に、別の角度から「たがね」で輪郭を整える「さらい彫り」という技法が使われています。
一方、志賀島金印とほぼ同時期に作られ、特徴もよく似ていることから「本物説」の根拠の一つとされている中国で見つかった「広陵王璽」は、「線彫り」と呼ばれる高度な技法で製作されています。この技法は、たがねで文字を一気に彫り進めるものです。
さらに、前漢から後漢にかけて作られた多くの印は、線がほぼ均一な太さで彫られているのに対し、志賀島金印は中央から端に向かって太くなる特徴があり、印面に対する文字の部分の面積が他の印と比べて突出して大きいことが分かっています。
鈴木氏は、「さらい彫り」やこうした文字の特徴は江戸時代の印によく見られることから、「志賀島金印は江戸時代に作られた偽物の可能性が非常に高い」と指摘しています。
0179日本@名無史さん
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2024/06/05(水) 17:01:00.04
福永 著『わが残照:阿波郷土史研究』

『本記』は実は偽書である。その証拠は内容・形式にわたり多々あるが、ここでは誰にでも分かる表記における疑問点だけを指摘しよう。

たとえば仮名遣いで、『本記』の諸本は「比御弓於波」のように、「於波」「於者」などと書く。しかし、オ(O)とヲ(WO)は発音が異なるため、『古事記』以下の古書では区別が明確であり、オは「於」「意」など、ヲは「乎」「袁」などと書き分ける。ところが『本記』は、このことを知らず、両者を平気で混用している。この一事からも、『本記』は古書ではなく、後世の著述であることが明らかとなる。
0180日本@名無史さん
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2024/06/05(水) 17:08:15.16
大宜津比売は、インドネシアの神話との共通点から、東南アジアから中国南部を経て日本に移住した倭人の神様と考えられます。
倭人が台湾、沖縄、九州、四国へと移動した痕跡なのかもしれません。
0182日本@名無史さん
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2024/06/06(木) 14:40:58.73
共通の先祖を持つらしい、共に人間だか交流無くとも、同じ発想する事はあるのではないかなと
0183日本@名無史さん
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2024/06/06(木) 19:27:16.54
>>181
AIのトンデモ文をまたAIに纏めさせたか。
トンデモ度が増幅しているな。
暇潰しの遊びとしてはアリかもしれないが。
0184日本@名無史さん
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2024/06/18(火) 15:15:33.09
魏志倭人伝の記述と一致する点

豊かな耕作地と水源: 徳島県は、吉野川や四万十川などの河川によって豊かな水資源に恵まれ、古くから農業が盛んに行われてきました。また、山間部には棚田が広がり、稲作に適した土地も多く存在します。これらの豊かな耕作地と水源は、魏志倭人伝に記された邪馬台国の人口を養うのに十分なポテンシャルを持っていました。
投馬国までの距離と日数: 魏志倭人伝によると、邪馬台国から投馬国までは水路で20日かかります。徳島県は九州北部と海峡を隔てており、船で20日ほどかけてたどり着く距離感と一致します。
海上の島の大きさ: 魏志倭人伝には、邪馬台国から女王国までの間に大小様々な島があると記されています。徳島県沖には、鳴門海峡や紀伊水道などの海峡があり、大小様々な島々が点在しています。
女王国からの距離: 魏志倭人伝によると、邪馬台国から女王国までは水路で10日かかります。徳島県は、畿内地方と海峡を隔てており、船で10日ほどかけてたどり着く距離感と一致します。
特産品: 魏志倭人伝には、邪馬台国でショウガ、山椒、ミョウガ、真珠、青玉、水銀丹などが特産品として挙げられています。徳島県は古くからこれらの特産品の産地として知られており、魏志倭人伝の記述と一致しています。
周辺国の地名: 魏志倭人伝には、邪馬台国周辺にある国の地名が記されています。徳島県周辺には、阿讃山脈や紀伊半島など、魏志倭人伝に記された地名と一致する地名が複数存在します。
0187日本@名無史さん
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2024/06/20(木) 12:26:57.98
阿波名産、半田手延べそうめんを見つけた。
少し太めのそうめんで、食べると細うどんを食べてるようだった。
0188伊太乃に居たの ◆oRNQXnZmlfa1
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2024/06/20(木) 17:00:20.06
半田そうめんといえば「太い麺」と言われています。 麺の太さで区分する日本農林規格(JAS)では、半田手延べそうめんは「ひやむぎ」に分類されるのですが、半田手延べそうめんの場合、江戸時代より続く伝統と麺文化の地域性が認められ、特別に「そうめん」と表記できることとなっています。
0189伊太のに居たの ◆oRNQXnZmlfa1
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2024/06/22(土) 09:49:02.29
第70回邪馬台国は阿波だった⁉進撃さん&きーちゃん再び阿波に上陸!!

さて、最近番組のYouTubeへの転載が遅くなっておる様です。
放送内容に法的な問題がないか審査しているのでしょうか?

内容はおとぎ話みたいなお話です。
0190日本@名無史さん
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2024/06/22(土) 12:24:44.85
豊穣の恵み:水と緑に育まれた豊かな耕作地

吉野川や四万十川といった大河川に恵まれた徳島県は、古くから農業が盛んに行われてきた地域です。山間部には棚田が広がり、稲作に適した土地も多く存在します。魏志倭人伝に記された邪馬台国の人口を支える食糧生産を可能にする、豊かな耕作地と水源がここにありました。
0191日本@名無史さん
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2024/06/22(土) 12:25:02.97
海の道:女王国への航海と島々の羅列

魏志倭人伝によれば、邪馬台国から投馬国までは水路で20日かかるとされています。徳島県は九州北部と海峡を隔てており、船で20日ほどかけてたどり着く距離感と一致します。さらに、邪馬台国から女王国までの10日という航海日数も、徳島県と畿内地方を隔てる海峡の距離と一致しています。

また、魏志倭人伝には、邪馬台国から女王国までの間に大小様々な島があると記されています。徳島県沖には、鳴門海峡や紀伊水道などの海峡があり、大小様々な島々が点在しています。まさに、航海者たちの眼前に広がる景色を写し出したかのようです。
0192日本@名無史さん
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2024/06/22(土) 12:25:30.69
山海の幸:特産品と倭国の恵み

魏志倭人伝には、邪馬台国でショウガ、山椒、ミョウガ、真珠、青玉、水銀丹などが特産品として挙げられています。興味深いことに、徳島県は古くからこれらの特産品の産地として知られており、魏志倭人伝の記述と見事に一致しています。山海の幸に恵まれた倭国の豊かな実情を垣間見ることができます。
0193日本@名無史さん
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2024/06/22(土) 12:25:55.41
地名の響き:倭国と繋がる山々と島々

魏志倭人伝には、邪馬台国周辺にある国の地名が記されています。徳島県周辺には、阿讃山脈や紀伊半島など、魏志倭人伝に記された地名と一致する地名が複数存在します。これらの地名が、倭国と徳島県との密接な関係を物語っているかのようです。
0195日本@名無史さん
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2024/06/22(土) 12:37:47.77
魏志倭人伝の記述から読み解く

魏志倭人伝によれば、邪馬台国から南に水行20日で投馬国に着くことが記されています。

投馬国は、現在の愛媛県愛南町から高知県宿毛市、四万十市にかけての一帯にあったと考えられています。

この地域は、縄文時代後期から弥生時代にかけての遺跡が多数出土しており、当時、かなりの人が暮らしていたことが推測されます。

また、愛南町から高知県宿毛市にかけての一帯は、古くから交通の要衝として栄えてきました。

これらのことから、投馬国は邪馬台国への重要なルート上に位置していたと考えられます。
0196日本@名無史さん
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2024/06/22(土) 12:38:13.68
考古学的調査から得られた成果

近年、愛媛県南予地域を中心に、考古学的調査が活発化しています。

その結果、弥生時代後期から古墳時代にかけての集落跡や祭祀遺跡が多数発見されています。

これらの遺跡は、当時の社会体制や文化を知る上で重要な資料となっています。

また、愛媛県南予地域からは、大陸から伝わったとされる銅鏡や銅矛などの青銅器が数多く出土しています。

これらの遺物は、愛媛県南予地域と九州、さらには朝鮮半島をはじめとした大陸との間の密接な関係を示唆しています。
0197日本@名無史さん
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2024/06/22(土) 12:38:38.41
地名や民俗伝承から読み解く

愛媛県南予地域には、邪馬台国に関連すると思われる地名や民俗伝承が残されています。

例えば、愛南町には「城辺」や「御荘」といった、古代の豪族の居城跡を思わせる地名があります。

また、四万十市には、卑弥呼を祀ったとされる神社が存在します。

これらの地名や民俗伝承は、邪馬台国が愛媛県南予地域にあったことを裏付けるものと言えるでしょう。
0198日本@名無史さん
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2024/06/22(土) 12:42:04.01
魏志倭人伝における「水路十日、陸路一月」という表現は、邪馬台国までの道のりを示すものとして、長らく議論の的となってきました。

一般的には、「水路で10日間進んだ後、陸路に切り替えて1ヶ月かけて進む」と解釈されています。しかし、この解釈にはいくつかの疑問点が残ります。

まず、この解釈が正しいならば、上陸地点となる港の名前が記されていない点が不自然です。邪馬台国への玄関港であれば、相当な規模の港を有した都市国家が存在するはずと考えられますが、魏志倭人伝にはその名前が見当たりません。

さらに、水路で10日間もあれば、九州北部から畿内南部まで十分到達可能です。しかし、邪馬台国が畿内南部にあったと推定する説は、考古学的根拠に乏しい状況です。

これらの疑問点を踏まえ、私は「水路十日、陸路一月」という表現を別の視点から解釈してみることにしました。

すなわち、「水路であれば10日で到達可能だが、陸路であれば1ヶ月かかる」という意味と捉えるのです。

投馬国から邪馬台国までの道は、山岳地帯や密林地帯など、険しい地形が続いていた可能性があります。そのため、水路で移動する方が遥かに速く、安全だったと考えられます。

しかし、天候や季節によっては、水路での移動が困難になる場合もあったでしょう。そのような状況では、陸路を選択せざるを得なかった可能性があります。

魏志倭人伝の記述は、あくまでも一般的な移動手段と所要時間を示したものであり、必ずしも常に同じルートを通っていたわけではないことを示唆しているのかもしれません。

このように、「水路十日、陸路一月」という表現を多角的に分析することで、邪馬台国までの道のりに関する新たな知見を得ることができると期待されます。
0201伊太のに居たの ◆oRNQXnZmlfa1
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2024/06/22(土) 19:19:30.67
>>199
>>200
セットで宣伝お疲れ様です、こんなんに引っかかる人がいるとは思えませんが。
0202伊太のに居たの ◆oRNQXnZmlfa1
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2024/06/24(月) 23:45:46.51
阿波説ダラダラスレの後継スレがたちませんな。
0203日本@名無史さん
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2024/06/25(火) 00:26:17.60
魏志倭人伝の邪馬壹と違う国で、畿内と関係のあった国ならば、名称は知らないが、あっただろうと思うが、
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