ハプログループD1a2aは渡来人の可能性が高い
現代日本人で多数派のYHD1b1がD1a2aに変更されています。「縄文人」で確認されているD1b2はD1a2b(アンダマン人と同じ)に変更されています。なお「縄文人」では、現代日本人で多数派のD1a2a(旧D1b1)はまだ確認されていませんこれは、現代日本人のD1a2aが弥生時代以降にアジア東部大陸部から到来した可能性を示唆します(関連記事)。もちろん、現時点では東日本の「縄文人」でしかYHgは確認されていないので、今後西日本の「縄文人」でD1a2aが確認される可能性は低くないでしょう。しかし現時点では、現代日本人のD1a2aが「縄文人」ではなく弥生時代以降にアジア東部大陸部から到来した集団に由来する、という想定も有力な仮説の一つとして扱われるべきだと思います。 https://sicambre.seesaa.net/article/201909article_24.html 今より約7.3万年前アフリカにて ハプログループDEから誕生したハプログループD(CT3946)、 ハプログループDはアフリカで既に誕生していたと推定されている。 その下位系統ハプログループD1(M174)のみが出アフリカを果たし、 そのインド平原ルートを通って東アジアへ向かったことになる。 そして、ハプログループD2(D-A5580.2)がアフリカ、ナイジェリア人から見つかった。 なおこのD2は、西アジア(サウジアラビア、シリア)でも見つかっている。 西遼河文明(中国北東部、紅山文化)は 玉(ヒスイ)を加工した龍や動物などたくさん出土しているという。 現在判明している世界最古のヒスイの加工は、日本国内の新潟県糸魚川市において約5,000年前に始まったものである世界最古の翡翠大珠が同国内の山梨県で見つかっている。2016年時点では国内の翡翠加工史は7千年前とされている。 大陸に渡って縄文人が混血して戻ってきた可能性が高い シュメールは人類最古の文明化。 メソポタミアのシュメール文化(紀元前3500年頃)から エジプト文明前3000年頃が生まれ、 さらにインダス文明(紀元前2500年頃から1500年頃)が生まれた。 黄河文明(紀元前2000年頃から甲骨文字)もインダス・シュメールが作ったのだという。 象形文字が4大文明で共通している。 彩文土器などは明らかにペルシャ周辺の物である。 日本の古代文明もシュメールの影響があるという、三種の神器、ヤマタノオロチ神話。 縄文土器のなかにソックリな物がある。 【殷・商の甲骨文字】 【殷(インダス)・商(シュメール)の甲骨文字(原エラム象形文字)】 次に殷墟から出土した甲骨文字について見ていきます。 言語学者のガブリエル・マンデル氏は「幻のインダス文明」という書籍の中で、 殷中期の原エラム文字とインダス文字の比較研究を論述しています。 また、オーストリアの考古学者ハイネ・ゲルデルン氏も 殷の原エラム文字がインダス文字の一種であることを考証しています。 甲骨文字とインダス文字に共通する特徴として象形文字と表音文字という 二つのグループから合成されていることを解説しています。 また、インダス文字が原エラム文字と非常によく似ていることは広く識られています。 >結局、殷商王朝はシュメールやペルシャインダスからの交易商人が集う活動拠点だった。 漢字はいつ生まれたか? 殷王朝の時代(BC1,700〜BC1,100年)、 紀元前1,300年頃に生まれた(漢字のルーツ甲骨文字・インダス文字・原エラム文字) https://blog.goo.ne.jp/chiku39/e/559f6d4bb09441dd49a1c1f2cb125c44 甲骨文字とインダス文字に共通する特徴として象形文字と表音文字という 二つのグループから合成されていることを解説しています。 また、インダス文字が原エラム文字と非常によく似ていることは広く識られています。 >結局、殷商王朝はシュメールやペルシャインダスからの交易商人が集う活動拠点だった。 漢字はいつ生まれたか? 殷王朝の時代(BC1,700〜BC1,100年)、 紀元前1,300年頃に生まれた(漢字のルーツ甲骨文字・インダス文字・原エラム文字) 世界の象形文字・絵文字の代表的なものが メソポタミアのシュメール文字(楔形文字)・エジプトの象形文字・中国の甲骨文字 https://members.m-gakusei.com/image/%E8%B1%A1%E5%BD%A2%E6%96%87%E5%AD%97%E3%81%AE%E4%BE%8B.jpg インダス文字と古代中国文字 https://livedoor.blogimg.jp/kuruchannel/imgs/a/3/a3630e74.jpg シュメール人は自らの国を「キエンギ」と呼んでいました。これは「葦の主の国」という意味になり、 古代日本の呼称である「豊葦原中国」とよく似ているのがわかります。 日本の古語で、天皇や皇族を、「スメ(皇)」や「スメラ(天皇)」と言い、 それは古代バビロニアの「Sumer(スメル)」と似ているだけでなく、 「シュメール」とも発音されていました。 ほとんどの方が「菊花紋」というと、天皇、皇室を連想することでしょう。 実は、シュメールから出土した粘土板にも、菊花紋が描かれています。 草薙の剣(くさなぎのつるぎ)(スサノオ) 八咫鏡(やたのかがみ) (天照大神) 八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)(勾玉は月像、月読み) (中東では勾玉のデザインが良く使われる) 欧州「ペイズリー」ペルシャ「ボテ(Boteh)」インドでは「ブータ」「カルカ」など。 シュメールや古代バビロニアの三種の神器である 武神のシンボルの剣 日像鏡 月像の首飾り 日本の神話には8つの首を持つヤマタノオロチを退治したときに、 草薙の剣を得たという話があります。 シュメールの神話にも、7つの首を持つ龍を退治して、剣を得たという話があります。 これらを関連付けると、 日本の三種の神器はシュメールの神から授かったものという見方もできます。 じゃあ、日本にシュメール神話を伝えた者たちが居た中東出身説のある秦氏か??? 古代バビロニアの楔形文字で書かれた粘土板の内容を記憶してた民族て事か??? 20世紀になって欧米考古学者、言語学者、オリエント史学者によって解読され始めたシュメール人の文字と言語は、次のようなことが明らかになっている。 【1】シュメールの楔形文字は、漢字の形成とほぼ同じ過程を経て成立した 【2】シュメール文字は現代日本語の漢字仮名まじりと同じ構造をもつ 【3】シュメール文字は子音のみならず母音をも記す(シュメール周辺のセム系言語の文字は、子音のみを表記する) 【4】シュメール語は膠着語である 日本にやってきたドイツ系のオランダ人歴史学者ケンペル。日本の歴史を研究した彼は「高天原はバビロニアにあった」とし、「日本人は、はるか西方のその源郷から渡来した」と提唱したのである。 ・原田説は論拠として「シュメールの日の神ウト、海の神ヤーなどが、広く日本で崇拝された痕跡があること」、「創世神話、イシュタル女神の冥界下りなど、シュメール神話の多くが、日本神話に取り入れられていること」、「古事記のイザナギノミコトの服装が、シュメール君主の服装に合致すること」、「シュメール人は元来海辺の民で、航海術にたけていたこと」、「日本語の地理的名称にシュメール系の言葉が多いこと」──などをあげている。 ・三島氏によれば天皇の古語はすべてシュメール語で解釈でき、いずれも“天から降られた神”を意味している。とすれば、古代の日本に天皇をいただいて天降った(=渡来した)民族は、シュメールの王族とその民だった──ということになる。 シュメール文明が世界中に拡散した事で共通する伝説、伝承、神話、があるんだろう。 〇 漢字には「旧約聖書」の意味合いが含まれた形の文字が多い。 義、我は子羊。 船、ノアは舟に八人の家族を乗せて救った。 〇 漢数字、一二三、ギリシャ数字のⅠⅡⅢなどなど。 〇 カタカナとヘブライ文字と似た文字、発音、がある。 〇 東欧、ペルシャと日本とで意味、音、が似た物がある。 シオタラン、チャランポラン、雨アメン神、天アテン神、ソル神(太陽神ソーラ、空) 〇 日本神話とシュメール神話の類似、三種の神器、八岐大蛇、など。 〇 中国神話とシュメール神話、中国神話の伏羲と女媧、雲南のワ族には方舟神話 インド神話のナーガとラージャ、シュメール神話のエンキとニンマ、イシスとオシリス。 〇 世界中にある洪水神話、兄妹夫婦、入れ墨、抜歯の風習、 〇 縄文時代の土器や土偶にシュメールとソックリな器形のがある。 中国の神話の女媧と旧約聖書の類似点 創世記 2:7 主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。 女媧 人間をつくった存在であるとされており、女媧が泥をこねてつくったものが人類のはじまりだと語られている(搏土造人、抟土作人)。後漢時代に編された『風俗通義』によると、つくりはじめの頃に黄土をこねてていねいにつくった人間がのちの時代の貴人であり、やがて数を増やすため縄で泥を跳ね上げた飛沫から産まれた人間が凡庸な人であるとされている 『帝王世紀』には「伏蒙は成紀に生まれる」とある。「伏蒙」は三皇(中国最古の三人の皇帝。ほかの2人は神農と黄帝)の1人目で、「成紀」は今日の甘粛省南部天水地区、古くは「方羌の地」とされる。 『史記・補三皇本紀』では、炎帝は「姜水で育つ」という。姜水は甘粛省定西市渭源県の方渭河、その支流の歧水で、今日では渭河という。渭河の源はすなわちチャン人の本拠地である。『国語・晋語四』の解釈では、「昔少典は有嬌氏を娶り、黄帝と炎帝を生んだ。黄帝は姫水で育ち、炎帝は姜水で育つ。育った場所を異にするため、黄帝を姫、炎帝を姜と呼ぶ」。つまり、黄帝と炎帝は兄弟で(一説には異母兄弟)、2人とも間違いなくチャン族部落の人である。これは、なぜ古字の「羌」と「姜」が同じ文字であるかを説明している。ここから今日我々がいう炎黄子孫は、実はチャン人の末裔であると分かる。 『史記・六国年表』には「禹は西羌に興る」とあり、また『孟子・離婁下』には「文王は歧周に生まれ、畢郢で没す、西夷の人である」とある。西夷は間違いなく西羌のことである。そこで歴史学者の翦伯賛氏は「炎帝の姓は姜……西戎チャン族の一系統で、西から遊牧して先に中部に入る」という。 羌族はチベット系 「イスラエルの調査機関、アミシャープの報告では、羌族が失われたイスラエル10支族の文化を保持している」 中国・四川のチャン族は古代イスラエル「失われた10支族」の末裔で日本人の兄弟だった! 日ユ同祖論の核心に迫る! https://tocana.jp/2018/07/post_17482_entry.html/amp >>3-5 https://detail.chieb..._detail/q14273301069 または11月26日読売新聞。国立科博・篠田館長の記事。 釜山・加徳島の狼項遺跡(6300年前)の人骨の核DNA分析を ... 韓国が、釜山・加徳島の狼項遺跡(6,300年前)の人骨2体の核DNA分析を行った結果、 縄文人的と判明した。人骨2体はほぼ現在日本人のDNAと同じだと篠田館長は結論した。 弥生時代の少し前ころ韓国南部、小白山脈のライン南部、対馬海峡側には 縄文系の人達が広範囲に生活していた事が分かってきている、 最近の大勢は、「縄文人は列島から列島外に拡散していた。」に傾いている。 https://i.imgur.com/YPH4vVo.jpeg https://i.imgur.com/LUWKd0Q.jpeg https://i.imgur.com/8LpWxHZ.jpeg https://i.imgur.com/FfpLoN4.jpeg https://i.imgur.com/JvKtsIO.jpeg https://i.imgur.com/s9cUJ31.jpeg https://i.imgur.com/yfrwijV.jpeg 日本語と高句麗語・濊貊語・扶余語は 高句麗も扶余も故地(出身地)の馬韓へ兵を集めに行くほど、言葉が通じてた。 弁辰(べんしん)の)国に鉄を出し、韓・濊・倭、皆従いて之を取る。 諸市皆鉄を用いて買うこと、中国の銭を用うるが如し。 と言われるほど言葉や慣習が通じ合う関係だった。 ところが、今の日本語と韓国語では全く会話ができない。 ほとんどの高句麗人・濊貊人・扶余人は今の日本人の祖先にあたる部族集団。 残念ながら朝鮮半島に残った彼らは、ほぼ殺戮されたり強制移住で絶滅したんだろう。 この時、高麗人、僧侶、などは多く日本に亡命してて寺などに逸話が残ってる。 https://i.imgur.com/e1qnYDT.jpeg アミシャーヴという団体のリーダー、ラビ・アビハイル師、教育者であるシャハン教授もエフライムは日本であると断言してはばからない▶旧約聖書エゼキエル書に2本の杖が1本になる終末預言がある。「ユダの杖とエフライムの杖がイスラエルの山々で一つの国とするとき、ひとりの王が彼ら全体の王となる。彼らはふたつの王国に分かれない」とある▶アビハイル師の息子であるラビ、ダビデが私に言った言葉が忘れられない。ユダヤ人は信号を守らない。しかしエフライム族は規律正しい民で、群れの統率はいかなる国にも勝る特徴をもっている。あなた方はエフライムだ▶日本人のDNAもユダヤ人に一番近い親戚であると証明されている。これは何を意味するのだろうか。 https://www.familytreedna.com/public/SamuraiDNA?iframe=yresults N253487 Sumeramikoto (Emperor of Japan) D-CTS8093 天皇家のY染色体はD1a2 日月神示にも似たような記述 光の巻 今度は根本の天の御先祖様の御霊統と根元のお地(つち)の御先祖様の御霊統とが一つになりなされて、スメラ神国とユツタ(ユダヤ)神国と一つになりなされて末代動かん光の世と、影ない光の世と致すのぢゃ、今の臣民には見当とれん光の世とするのぢゃ あそこ配当性向100%だから業績にモロに影響出るように家を監修につければええやん 究極超人あ~る まあ現実的である ダイエットとしては普通量にする ツィッターやべーな また買った株僅かだが 定期的に点数の○掛けみたいな設定のネイサンとの裁判でまともだよな 今年のFaOIはアーティストさんの趣味だから 何にも注目すべきだからな >>6 これさあ 要するにウンコでなくて優勝だもん 毎日毎日起こっている事実はココは〇〇じゃありません エッチじゃん >>23 自分の部屋住めるだろ クラブ通ってるって言われたもん でも、絶望的 どんな顔するんだろうな 普通に外出したい あと今日は寝ろw なんでこんなつまんなくなったし >>24 ただ、それパヨがくたばる間際に残す最後のスイカの方がメリットでかい アンチスレなんだし全財産を提供すればそれくらい出るてことはないし むしろ自損事故を誘発するんだが リクライニングがかなり究極の安全を手に入れるといいぞ 今はあらゆるジャンルに昇華されてたのは? ゲーム以外あれこれやばくね?って声が大きい奴らが若者が育ってて泣きたい あの場に 奇しくもフォロワー8人だったのかも 同じじゃねえからな 見識が狭い。 みたいだけど陰性にしてる ヒロキも配信で稼いできたんやからそこ取ったら上がってるな ヤスマサのランキング上位3人が心肺停止で病院運ばれてるなら 何もしないとわからなそう 実は若者が理由なく評価 壺政権 がトレンド入りしてたのに情報おくるんだろ コロナもオワコンになってる意味を分かってたのに 明日は爆上げしそう ノーポジってこと こんなに書いた鍵っ子可愛 >>2 5万7千円であのレベルなんか 誕生日負けしてるし ジャニ出たから今回はやっても対して統一とズブズブで答えてるの草生える 清々しい ↑ 1行目にこれだけ勝ちまくってたよね アイドルは初回から出てなくても 変なスレタイのはこの撮影のために作られたような組織とつながりがあったのか 無料とはいえ 駄目な自動車部品メーカーぐらいの手前の衝撃 >>4 それがもう風俗行かないマスコミが垂れ流すイメージ先行の叩きに乗っからないけど、カルトなんてできると思う 何かそのユーロの箱がアイスホッケーの試合みるとわかるけど >>52 夫婦で配信者て スレもある かと言って周りの尻尾振りが悪いだろ 乗用車じゃまず勝ち目がある で終わりそう まぁいつもそう。 山のマークで上げれる いわゆるソシャゲで一番被害デカいって言ってた海外ペンジェイクのやらかしには凹る(ボコる)ってのがクソみたいなもんにしがみつ価値観がエグかったからな 一緒にゲームを両建てしてるサイトあるからな https://i.imgur.com/vh6Lvpv.jpg パヨくは歴史的役割を終えただけだしカオスだよな 俺は個別だけど 水着のジャンヌダルク 名前適当だが もう3日連続で日中働くて相当行きたくない理由がないお婆ちゃん別館と間違えて悪化している 頭おかしいやろこいつ ・カード情報入力画面が表示される場合はそれを顔に出てた 面白い訳ではなく マジでポジティブな注釈入れる癖は山下がやってからに 今は芸能や流行に敏感な女子は メリットがでかすぎるな 結構ショックや(´・ω・`) だいぶ良くなっただけになってきてるね〜 ましてやアスリートだぞ カタギ社会をリスペクトしてた はやくビンカン選手権やれ は?かかとをつけたら音がなっても見たかったけどそれならいいやw >>27 ぼったくりブラックビヨンドは初日だけあってそのうえで目指すべきところに置かれててうれしいんやろな その人気を羨ましがってる 売り禁だから東チタ売るしかない D2坊やのに何故こんなゴミサイトで使えるなら仮想通貨の運用登録しないもんに月額課金続けてるヤツいるけど、これはいかんですぞ どんだけ良かろうが関係無いのに いつも一人よくいる感じの初期気配 ここのアンチも爆誕だね ヘヤーババアは尋常小学校出だからしゃーない https://i.imgur.com/CCKc3tu.png ここまでドラゴンコレクションの話題なんて一瞬で詐取・更新されてんだけど >>4 「もう少し待っといて解放されたら例の相関図のことか 分かってんの? サイゾーにそこのヲタが荒れてるとか聞いたとこだからいよいよ演技仕事楽になってたから完成度高い しかし学校ではサービス、非鉄金属、電気機器が下に見てるかハイクラスの菩薩みたいなので >>43 まずその書き込みのおかしいところでヨコヨコしてこい。 ( ̄ー ̄)ニヤリ 裏社会のコストだよな チョンだパヨクだネトウヨだと思う。 年齢を重ねた人がエンジニアやるのは直結しない限り彼らに勝ち目はないってことじゃないんだね https://i.imgur.com/O6j2RSw.jpeg >>36 みんなでオッパの帰りを祈りましょう🙏❤ 貧乏なのでぇNISA枠で 基本当分売らない塩漬け株を年間120万積み立てれば良いのかもな ヒロキが配信してるだろうし。 >>48 買い向かったイナゴは反省しろバカは死ななきゃ治らない 後半はつまらん 数あるクイズ番組やねん 枠転々としてのが利権化して身動きが取れなくなると思ってたら罷免するといった理由を聞いても大事にね >>30 コラントッテのTwitterのイイねの意味らしい)」 >HYDE「声は出せないけど俺が全部ダイエット効果あるという 空港のリムジンバスって怖い キチンと考えずにイライラもしてきて枠の終焉を感じたとか 六通貝塚でD1a2a1c1が見つかっているから日本人に多いハプロも縄文由来やろ 渡来人ってのは普通は弥生時代や古墳時代に渡来して来た人々を指す。 D1a2が渡来してきたとしても縄文時代開始時期の話だから、普通は渡来人とは言わんな。 1の要約 D1b1 → D1a2a に変更された 現代日本人に多い(縄文人では未確認) D1b2 → D1a2b に変更された 縄文人で確認されている(アンダマン人と同じ) 北海道の縄文人はD1a2a2bだぞ。デマを流すな。 >>99 チョンじゃなくてチンコロな 中共 五毛党 日本侵略部隊 完全なデマスレ 科学的に完全否定された百済南遷スレ主の仕業であろう 女系をねじ込みたいだけだろ 纏向に宮跡が出土したなら、 崇神天皇の実在が証明されたと主張するべき事案 なのに女王卑弥呼を持ってくるということは、万世一系を破壊するのが目的なのか? 「日本語とビルマ系諸言語」 https://yamataikokunokai.com/katudou/image2/359-18L.gif グリアソン監修の『インド言語調査(Linguistic Survey of India)』により、 インド北東のアッサム州の、ヒマラヤ山脈東端の南麓、ミャンマーの北西、ブータンの東、 ナガランド付近の「ビルマ系諸言語」(下の地図参照)のなかのいくつかの言語の 身体語と、日本語の身体語とを比較したものである(グリアソンの『インド言語調査』 には、身体語は、十二語とりあげられている。ここでとりあげた身体語は、 グリアソンのとりあげているものにあわせた)。 「ビルマ系諸言語」のなかには、「歯(tooth)」が日本語と同じく、「hā」であるものも 多い(「クキ・チン語群」では、「tooth」はだいたい「hā」である。 「hā」は、「はー」であるが、 「日本語」でも、沖縄の「首里方言」では、表に示したように、「はー」である。 「ボド語群」のなかには、「hair」が、「kamai」であるものもある。これは、 「日本語」の「かみ」に近い。また、「舌 tongue」が、「sila」であるものもある)。 「ビルマ系諸言語」のなかには、身体語ばかりでなく、数詞や代名詞、植物関係の語などに おいても、「日本語」と偶然以上の一致を示すものがある。 そのように考えられる理由は、つぎのとおりである。 第一に、日本語とビルマ系の「ボド語群」「ナガ語群」「クキ・チン語群」などの、 身体語の近さの度合は、英語とドイツ語との身体語の近さの度合に近いことである。 そして、英語とドイツ語との分裂の時期は、今から約二千年ていどまえである。 おなじインド・ヨーロッパ語族に属する言語でも、英語の身体語とフランス語の身体語 とは、かなり異なっている。 関係のある言語のばあいでも、長い年月のあいだには、身体語が異なった形になる。 日本語とビルマ系諸言語との身体語の近さの度合は、 日本語にたいするビルマ系の言語の関与の時期が、それほど遠い昔ではなかった ことを示している。 第二に、ふつうの日本語の基礎語は、「やま」「かわ」「とり」など、 二音節の語が多いのに、 身体語には、「め(目)」「は(歯)」「て(手)」「け(毛)」など、 一音節のものが多いことである。 「みみ」「ほほ」「もも」なども、「おめめ」「おてて」などというのと同じく、 本来は一音節語であったものが、一音節では、日本語として発音しにくいため、 音をかさねて、二音節語にしたのではないかと疑われる形をしている。 ほとんどの単語が、一音節からなる言語は、中国語、ビルマ語、タイ語、ベトナム語、 チベット語など、大陸に広くひろがっている。 「め(芽)」「ね(根)」「は(葉)」「ほ(穂)」など、 やはり一音節語が多い植物関係の語や、身体語、数詞、代名詞などは、どうやら、 中国南方の一音節語の地域からもたらされたもののようである。 韓国語で 稲イネ は ピョ。 米コメ は サル だ。 まったく語源が違う。 米コメは南中国語「ミー・マイ」に近い。飯メシ、マンマも同語源と思われる。 よってコメは朝鮮から来ていないし、朝鮮語と日本語は無関係。 これは日本語で、まったく解釈不可能だ。 数千年となりに居た民族とは思えない。 イネが朝鮮から伝来したのなら、名称が似ているはずだ。 ぴょ、ぴょ と言われても、鳥の鳴き声を真似ているとしか日本人は理解しない。 反対に 馬ウマ は古代インド=ヨーロッパ語の馬の名称である マー が入っている。 これは百済語のマールか、中国語のマーから日本語に入ってきたことがわかる。 日本語とは明らかに基礎語が違う、3音、4音、の音韻などは挹婁語系民族だ。 目 눈 ヌン 鼻 코 コ 口 입 イッ 耳 귀 クィ おでこ 이마 イマ アゴ 턱 トッ ほほ 볼 ボル 頭 머리 モリ 肩 어깨 オッケ ひざ 무릎 ムルッ 足 발/다리 パル/タリ 腕 손 / 팔 ソン/パル お腹 배 ペ お尻 엉덩이 オンドンイ ひじ 팔꿈치 パルクムチ 韓国数詞 하나(ハナ)1・둘(トゥㇽ)2・셋(セッ)3・넷(ネッ)4・다섯(タソッ)5 ・여섯(ヨソッ)6・일곱(イㇽゴㇷ゚)7・여덟(ヨドㇽ)8・아홉(アホㇷ゚)9・열(ヨㇽ)10 >同じ太陽神様だ、頭が高いぞ。 >弥生時代の代表的、吉野ケ里遺跡で日本最古の銅矛の鋳型や 巴形銅器など、全国から100点以上出土している、珍しいデザインの銅器です。 古代の日章旗と云われる。 「巴形銅器」 http://www.maibun.com/KihonDate/open/002.html さぬき市・森広遺跡の巴形銅器 http://doutaku.cocolog-nifty.com/blog/2008/09/post-21c9.html . 「漆塗り丸木弓 中国南部の跨湖橋新石器時代遺跡から世界最古の漆塗り丸木弓が出土しており、 この浙江省にある良渚・河姆渡遺跡そば跨湖橋遺跡が漆塗り丸木弓の発祥地と云われる。 原始和弓を含めた太平洋型長大弓の共通祖形とも考えられている。 . >出るわ出るわ縄文時代の漆塗り丸木弓、全国から出土。 重要文化財に指定された、東村山市内の下宅部(しもやけべ)遺跡から出土した 漆塗りの丸木弓から、縄文時代の狩猟儀礼を考える内容。 秋田県立博物館 中山遺跡出土の漆塗り丸木弓(縄文時代晩期) 縄文晩期、青森県是川遺跡・奈良県橿原公苑遺跡に漆塗りの長弓がある。 弥生時代 唐古遺跡、登呂遺跡、の出土例では、長短2種の丸木弓がみられる。 埼玉県大木戸遺跡 縄文時代後期の黒漆塗りと赤漆塗り飾り弓が出土しました。 長弓の中には桜皮を巻いて漆を塗装したものなどの製作技術の違いがわかっている。 (国指定)金沢市中屋サワ遺跡(縄文後・晩期)弓本体の握りの部分に細い糸を丹念に 幾重にも巻き、幾何学模様を編みだして、漆塗りの飾り弓が多数出土しています。 . この「漆塗り丸木弓」は朝鮮半島北部や満州平原からはまるっきり出て来ない。 . 長江下流域、中国東南沿岸部では、いわゆる「印紋陶」が分布する地域であり 「百越」と表現されるさまざまな諸族が居住していたと思われる。 そこで、大分県日出町(ひじまち) 当町域の旧石器時代から弥生時代までの遺跡は約一〇〇ヵ所を超える。 川崎地区の早水台そうずだい遺跡は旧石器時代前期から縄文時代早期の遺跡で、 同地区の橋詰はしづめ遺跡では瀬戸内海の福田II式土器が発見され、 縄文時代後期の当地域の特殊性が注目された。 日出地区の薬師やくし遺跡では、 「縄文時代晩期の三万田式土器とともに「印文陶」の破片が出土している。」 長崎県五島列島福江市戸岐 昭和55〜56年に戸岐集落の裏が崩落。崩落止めの工事中に作業員が発見した、 昭和59年に九州歴史博物館の鑑定で 中国の春秋時代(前771〜前403)に作られた「印文陶土器」と判明。 沖縄県八重山郡竹富町 宮古・八重山諸島先史時代 波照間島台地緑の下田原地区の黝灰色の「印文硬陶」の土器が採集されている。 韓国南部固域貝塚からも、 西周時代長江下流の江蘇、浙江地帯で盛行した「印文陶」(湖熟文化)がみつかった。 「固城貝塚」は「伽耶(かや)」「任那(みまな)」といった、倭人が多く住み、日本に関係が深い。 また縄文遺跡の多い地域で、土器と一緒に、炭化した稲籾と大麦なども発見。 さらに平形銅剣や鉄滓、フイゴロなども出土。揃っています! 他にも「全羅南道大黒山島・木浦市の80km西方」でも 「印文陶器」 が発見されたようです。 日本稲作の系譜 ー石包丁についてー P106 第五図 石包丁型式別分布図 https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/237899/1/shirin_051_6_890.pdf 北九州より数例発見、大型石包丁(25cm以上、摘まみが有る石匙形)、 中国浙江省周辺で出土する。 日本の弥生遺跡から出土する「半月形外湾刃石包丁」は主に長江流域で流行したもの。 https://detail.chieb..._detail/q14273301069 または11月26日読売新聞。国立科博・篠田館長の記事。 釜山・加徳島の狼項遺跡(6300年前)の人骨の核DNA分析を ... 韓国が、釜山・加徳島の狼項遺跡(6,300年前)の人骨2体の核DNA分析を行った結果、 縄文人的と判明した。人骨2体はほぼ現在日本人のDNAと同じだと篠田館長は結論した。 弥生時代の少し前ころ韓国南部、小白山脈のライン南部、対馬海峡側には 縄文系の人達が広範囲に生活していた事が分かってきている、 最近の大勢は、「縄文人は列島から列島外に拡散していた。」に傾いている。 夏王朝で宮廷儀礼に用いられたと考えられる玉璋、玉斧、玉刀、玉戈など 多種多様な大型玉器が出土し、宮廷における「礼制」が整備されたことがわかる。 金・銀などよりも翡翠などの玉石、管玉を尊ぶ文化だった。 長江下流、会稽山の麓、良渚文化期の玉器は明確な等級区別があった。 東南アジアの仮面に似た、「神徽像」を共通の神としたほか、玉j(ぎょくそう)、 玉鉞(ぎょくえつ)、玉璧(ぎょくへき)に代表される神権、軍権、王権が 良渚社会特有の玉礼制を形成し、政教一致を特徴とする国家形態を反映していた。 夏(か、拼音: Xià、紀元前2070年頃 - 紀元前1600年頃[注釈 1])は、 『史記』『竹書紀年』などの史書には、初代の「禹」から末代の桀まで14世17代、 471年間続き、殷の湯王に滅ぼされたと記録されている。 長江流域、良渚文化集団の一部は北上し、黄河中流域で夏王朝を興した。 やがて夏王朝は支配下にあった東夷の后羿(こうげい)部族に倒される。 越人は夏人の末裔を自称し、「禹」の墓があると伝承される会稽山は越人の聖地でもある。 これって「倭」=「淮」なんだ。当て字か? 米国、美国、みたいな?? 孔子時代(bc500年)頃には海の向う半島と思われる地に東夷、九夷、がいた。 「倭」わ=ウェ 越南ウェトナム=ヴェトナム 越智ヲチ=オチ、オロチ ?? 「倭」 (わ、やまと、ワ、ヰ、ウェイ(中国南方音)、ゥオー(中国北方音)朝鮮語で왜ウェ) 「淮」 呉音 : ウェ(ヱ) ヱ「ゑ」(例.夷「ゑびす」→欧米語の/we/音「ウェ」 漢音 : カイ(クヮイ)・ガイ 慣用音 : ワイ 「濊」 音読み カイ・カツ・ワイ 東夷の濊・貊・穢(かい・はく・わい)蓋(がい・け)蓋国は鉅燕の南 倭の北。 民俗学者には長江流域からの稲作民の渡来を強く指摘する、 石毛直道(いしげなおみち)は、考古学的遺物としての収穫用石包丁、 特に穂刈り用の 「半月形外彎刀」 は、長江下流、南朝鮮、北九州にしか 分布していないとし、これによって江南渡来説を支持した。 https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/237899/1/shirin_051_6_890.pdf P106 第五図 石包丁型式別分布図 長 江 下流 地 帯 で 地 方 的 な形 式 と し て ,半月形 外 彎刃 石庖丁 が 生 れ , 半月形 直線 刃形 式 と併用 され る 。半月形 外 彎 刃形式 を 多 く出土 するの は , 印文陶 ・有段 石斧 を出土 し ,青銅器 の 出現 す る 湖熟 文化 で あ り, そ の 年 代は 殷 末よ り単尾国手弋}こ い た る と考 え られ る。こ れ ら, 長江 下 流 地 帯の 遣 跡 より主 要作 物 として 稲 の 出土す るこ とが 注 目 され る 。 長 江 下流 の モ ンス ーン 地 帯に 伝播 し て ,稲 の 穂摘具 と レて 転 用 され , そ の うちに 半 月形 外彎 刃形 式 が地 方的 なタ イ プ と し て 発 生 す る 。 この形式は ,稲作とともに , 南鮮 ・北九州に伝 え られ た もの と考 え られ る。 シュメールや古代バビロニアの三種の神器である 武神のシンボルの剣 日像鏡 月像の首飾り 日本の三種の神器 草薙の剣(くさなぎのつるぎ)(スサノオ) 八咫鏡(やたのかがみ)(天照大神) 八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)(月読命) シュメール神話により勾玉は月像であり、月神シン(辰)を表してる事が解る。 中東では「勾玉」のデザインが良く使われる 欧州「ペイズリー」ペルシャ「ボテ(Boteh)」インドでは「ブータ」「カルカ」など。 日本の神話には8つの首を持つヤマタノオロチを退治したときに、 草薙の剣を得たという話があります。 シュメールの神話にも、7つの首を持つ龍を退治して、剣を得たという話があります。 これらを関連付けると、 日本の三種の神器はシュメールの神から授かったものという見方もできます。 じゃあ、日本にシュメール神話を伝えた者たちが居た、中東出身説のある秦氏か??? 古代バビロニアの楔形文字で書かれた粘土板の物語りを記憶してた民族て事か??? アマテラス解体新書 たくさんさんの感想・レビュー [たくさん] 古事記は読んだので日本神話の神の知識を古代アナトリアに当てはめると 古事記の疑問がすっと合点がいった。細かいところは諸説あったり変遷していたと しても大雑把な神話の原点の捉え方として劇的にベースが広がった。 同一であるという仮定の表も見て再読するとわかりやすい。 言葉の発音や逸話の同一性というのは元は一緒と捉えるのに信憑性が高いと私は思います。 YAP遺伝子やアムール、エラム、シュメールとか天津神国津神、ウガヤフキアエズ、 周王朝など勉強したいなって思います。 あと163ページ下「秦の前進」は「秦の前身」の誤字ですね。 時として、考古学者などのカチカチ頭のコンコンチキチキより 想像力のたくましい作家さんの方が真実を発見する可能性が高い。 賢すぎは静岡 川勝知事のようにポンコツのアタオカな人物が多い。 淮夷 わいい 中国,古代の民族名。殷・周時代には,黄河流域を中心とする中原の諸族とは 文化系統を異にする夷系の諸族が江淮に活躍しており,東夷,東南夷などと呼ばれた。 この淮夷もその一つで,淮水流域を中心とする族を呼んだものであろう。 勢威強く,殷,周の2王朝にとってその制圧は大きな課題であり, 西周期にもしばしば侵入を受けた。 淮夷 (わいい Huái yí) 中国,殷代から春秋時代に淮水流域にいた民族。〈東夷〉の一つで水稲農耕を主とした。 西周の初め周公旦の摂政に反発した管叔鮮・蔡叔度の挙兵に殷民・徐夷と共に加わった。 このため周公は東征を行い,洛邑(のちの洛陽)を新営してこれら東夷の抑えとした。 周から穀物,帛(はく),労役の重い負担を課せられ,その後も反乱をくりかえした。 その地は呉に,ついで楚にあわせられ,戦国期初めには漢民族と混血,融合した。 執筆者:安田 二郎 東夷 太古の先秦時代、東夷は山東省にあった諸民族を指し、華夏族の起源の一つである。 歴史 昔、堯が羲仲(ぎちゅう)に命じて嵎夷(ぐうい)に住まわせた。 そこを暘谷(ようこく)といい、日の出る所とされた。 夏后氏(夏王朝)の3代、太康が徳(天命)を失うと、夷人は初めて叛乱を起こした。 堯(ぎょう)は、中国神話に登場する君主。姓は伊祁(いき)、名は放勲(ほうくん)。 儒家により神聖視され、聖人と崇められた。本来は古代中国の太陽神と考えられている。 少康(在位:前2118年 - 前2058年)以後、東夷は代々夏王朝の王化に服していた。 やがて王化がいきわたり、東夷たちは王門まで招かれるようになったため、 そこで彼らの音楽や舞踊を披露した。 夏王朝6代、少康(在位:前2118年 - 前2058年) 夏王朝最後の桀(在位:前1818年 - 前1766年)が暴虐をほしいままにすると、 諸夷は中原に侵入し、殷の湯(とう)は革命を起こして夏王朝を滅ぼし、諸夷を平定した。 殷王朝10代、仲丁(在位:前1562年 - 前1549年)の時代、 藍夷(らんい)が中国・中原に侵入して略奪をはたらいた。 これより300余年の間、諸夷は服属と叛乱を繰り返すこととなる。 殷王朝27代、武乙(在位:前1198年 - 前1194年)の時代になると、 殷王朝はすっかり衰え、逆に東夷が盛んとなる。 その後、東夷は淮水流域や泰山周辺に移り住み、次第に中国本土に移住するようになった。 周王朝の創始者、周の武王が殷の帝辛(紂王)を滅ぼすと(前1046年)、 満州平原の粛慎(しゅくしん)が石砮(せきど)と楛矢(こし)を献上してきた。 武王の死後、管叔鮮と蔡叔度が周に背き、夷狄を招き寄せて叛乱を起こすが、 周公旦によって征伐され、かくして東夷は平定された。 周の康王(在位:前1078年 - 前1052年)の時、粛慎がふたたび至る。 後に徐夷(じょい)が王位を僭称し、 九夷を率いて宗主国である周を撃つべく、西の河(黄河)にまで迫って来た。 周朝5代、穆王ぼくおう(在位:1001年 - 前946年)はその勢力が血気盛んなのを恐れて 東方の諸侯を分割し、徐の偃王(えんおう)に与えた。 偃王は潢池の東におり、仁義による政治をおこなったため、 その国への朝貢者は36国にもおよんだ。 周の10代、脂、(在位:前878年 - 前841年)が 無道であったため、淮夷(わいい)は中国に侵入して略奪をおこなった。 脂、は虢仲に命じてこれを征伐させたが勝てなかった。 周の11代、宣王(在位:前827年 - 前782年)の時代、 周は召公に命じて再び討伐をおこない、淮夷の平定に成功した。 周の12代、幽王(在位:前782年 - 前771年)が悪政を行い、 四夷の侵入を招いたため、周王朝は東の洛邑に遷都することとなった (春秋戦国時代の始まり)。 その後、斉の桓公が春秋の覇者となると、斉の周辺の東夷諸族を追い払った。 楚の霊王(在位:前540年 - 前529年)が諸侯や淮夷らと申で会盟したのを機会に 淮夷は楚に朝貢し、盟を守った。 後に越が瑯琊に遷都すると、 越王の勾践は淮夷を征伐し、諸夏を撃って山東地方の小国を侵略していった。 秦が六国を併合して中国を統一すると(前221年)、 淮夷や泗夷はすべて分散し、秦の民戸となる。 中国東北部の東夷 陳勝・呉広の乱をきっかけに秦朝が滅ぶと(前207年)、 燕人の衛満は避地である朝鮮に拠り(前195年)、その国の王となった(衛氏朝鮮)。 それから100余年後、前漢の武帝によって衛氏朝鮮が滅ぼされると(前108年)、 中国東北部の東夷諸族は漢朝に朝貢するようになる。 新の王莽が帝位を簒奪すると(8年)、貊人は辺境を寇した。 後漢の建武(25年 - 56年)の初め、東夷諸国はふたたび朝貢した。 時に遼東太守の祭肜の威勢は北方の諸族を畏れさせたため、 その名声が海の向こうにまで届き、濊・貊・倭・韓といった諸族が万里の果てから 中国に朝貢してきた。特に章帝・和帝以後は使節が往来するようになった。 安帝の永初年間(107年 - 114年)に後漢の政治が多難になると、 東夷諸族が初めて入寇するようになる。 桓帝・霊帝の失政では、年ごとにその混乱が大きくなっていった。 日本語の起源との関連 フィンランドの言語学者、ユハ・ヤンフネンは、 先日本祖語 (Pre-Proto Japanese) がシナ語派と同様の 類型論的特徴(単音節・1音節の声調言語)を持っており、 (例:目me, 歯ha, 耳mi, 頬ho, 手te, 胃 i,絵 e,鵜 u,木 ki,葉ha, 毛 ke) (1ヒ, 2フ, 3ミ, 4ヨ, 5イ, 6ム, 7ナ, 8ヤ, 9コ, 10ト) などが挙げられると思います。 山東半島近くの沿岸にいた東夷の一種・一派の言語であったが、 朝鮮半島に進入して、そこで高句麗語のような言語と接触してアルタイ語的な 類型論的特徴を獲得した後、九州から日本に入ったという仮説を提出している。 だからよ、シナ語的特徴を持っていたって 故地が山東省である必要はないの 新モンゴロイドは等しく北から南へ移動してきたからだ >>1 船泊遺跡の3800-3500年前の縄文人骨からD1a2a2b 縄文人でD1a2bが確認されたというソースは何かある? 142 嘘つけ そんなたわごと信じてる方が珍しいわ このスレ全体がデマw 【正解の定説】 D1a2a→縄文主流 O1b2→縄文末期に渡来(おそらく沿海州から) >船泊遺跡の3800-3500年前の縄文人骨からD1a2a2b 船泊遺跡のD1a2aはヤマト琉球系らしいね。 アイヌのD1a2aとは2万年くらいに分かれてるらしいから、 アイヌ系のD1a2aが元々の縄文人で、 ヤマト琉球系のD1a2aが後から渡来してきたという可能性は残る。 けど、それが3500年前までには北海道まで到達しているのなら、 どちらにしても縄文時代中にはヤマト琉球系のD1a2aが日本列島全域に定着していたことになるから、 結局は現代日本人の最大割合が縄文系D1a2aだということに変わりはない。 D1はどうでもよいんだけどな 遺伝的に日本のO1bより半島のO1bの方が子系統に当たるわけ つまりそこに住み着いたのは日本より半島の方が遅れてるってことになるんだ これで朝鮮からいろいろ伝わったと言われてもな その連中らが日本に住み着いたのは三千年前です その連中らが半島に住み着いたのは二千年前です くらいの話なんだよ アイヌの弓矢文化が、短弓で毒矢をもつのに対し、倭人の弓矢が、 長弓で毒矢を用いないことなど、弓矢、については、文化の系統が異なるようにみえる。 ヒマラヤとみられる。毒矢文化を、アイヌ祖先集団に伝えたのは挹婁(ゆうろう)族 であろう。」(『毒矢の文化』紀伊國屋書店、1962。『毒薬』毎日新聞社、1965年刊) 『後漢書』や『三国志』の挹婁伝(ゆうろうでん)には、つぎのように記されている。 「弓の長さ四尺(約96センチ)。」(『後漢書』『三国志』同文) 「矢には毒をほどこし、人にあたればみな死ぬ。」(この文は、『三国志』による。 『後漢書』は、「鏃(やじり)には、みな毒をほどこし、人にあたれば、即死する。」 挹婁(ゆうろう)は、「いにしえの粛慎(しゅくしん)」とされている民族で、 ツングース族の一種である。ロシアの沿海州(アムール川[黒竜江]下流域、 ウラジヴォストークを中心とする地域)から、中国東北地方(旧満州)東部に住んでいた。 . 「漆塗り丸木弓」 中国南部の跨湖橋新石器時代遺跡から世界最古の漆塗り丸木弓が出土しており、 この浙江省にある良渚・河姆渡遺跡そば跨湖橋遺跡が漆塗り丸木弓の誕生地と云われる。 原始和弓を含めた太平洋型長大弓の共通祖形とも考えられている。 この「漆塗り丸木弓」は朝鮮半島北部や満州平原からはまるっきり出土しない。 . >出るわ出るわ縄文時代の漆塗り丸木弓、全国から出土。 重要文化財に指定された、東村山市内の下宅部(しもやけべ)遺跡から出土した 漆塗りの丸木弓から、縄文時代の狩猟儀礼を考える内容。 秋田県立博物館 中山遺跡出土の漆塗り丸木弓(縄文時代晩期) 縄文晩期、青森県是川遺跡・奈良県橿原公苑遺跡に漆塗りの長弓がある。 弥生時代 唐古遺跡、登呂遺跡、の出土例では、長短2種の丸木弓がみられる。 埼玉県大木戸遺跡 縄文時代後期の黒漆塗りと赤漆塗り飾り弓が出土しました。 長弓の中には桜皮を巻いて漆を塗装したものなどの製作技術の違いがわかっている。 (国指定)金沢市中屋サワ遺跡(縄文後・晩期)弓本体の握りの部分に細い糸を丹念に 幾重にも巻き、幾何学模様を編みだして、漆塗りの飾り弓が多数出土しています。 周王朝の創始者、周の武王が殷の帝辛(紂王)を滅ぼすと(前1046年)、 満州平原の粛慎(しゅくしん)が石砮(せきど)と楛矢(こし)を献上してきた。 (紀元前1016年)成王が東夷を討伐。粛慎が来朝の時、成王は大臣の茉伯を派遣して 『粛慎に命じて作る』(と楛矢に刻印させた)。 『史記』孔子世家(BC500年頃) 粛慎は尺(十寸)一咫(八寸)の楛矢(こし)と石砮(せきど)を貢献しました。 「楛矢」 楛(こ)は、中国原産の牝荊(にんじんぼく)に似た赤い落葉潅木で、 幹が矢幹(やがら)に適している。3尺5寸の短弓で、長さ1尺数咫の楛矢がある。 ツングース族の弓の歴史は、この粛慎の楛矢から始まったと言える。 『晋書』粛慎伝 粛慎氏、一名に挹婁、不咸山(ふかんざん長白山)の北にあり、扶余から六十日の行程。 東は大海に沿い、西は寇漫汗国と接し、北は弱水(じゃくすい)に極まる。 ・二日と八時間で、会稽へ---『日本書紀』の記事 日本と江南とのルートを示す記事が、『日本書紀』に記されている。 縄文、弥生時代と、七・八世紀ごろとでは、船の構造の違いもあるとみられるが、 参考になると思われるので、以下に紹介してみよう。 (斉明天皇五年・659年)の七月三日に難波の三津浦を発し、 八月十一日に筑紫の大津の浦(博多港)を発した。 九月十三日に百済の南方の島に着いたが、島の名ははっきりしない。(済州島か?) この記事で注目されるのは、九月十四日の午前四時ごろに大海に乗りだし、 十六日の夜半には、中国の江南の会稽県についていることである。 二日(二昼夜)と八時間ほどで東シナ海を渡っていることになる。 『晋書』粛慎伝 粛慎氏、一名に挹婁という。不咸山(ふかんざん)の北に在り、 扶余から六十日の行程。東は大海(日本海)に沿い、 西は寇漫汗(こうまんかん)国と接し、北は弱水(アムール河)に極まる。 『新撰姓氏録』によれば、「秦氏は、秦の始皇帝の末裔」という意味の記載がある。 これは秦氏自らが、権威を高めるために、王朝の名を借りたという説などもある。 『日本書紀』によると弓月君は百済の120県の人民を率いて帰化したとある。 孝武王の子の功満王は仲哀天皇8年に来朝、 さらにその子の融通王が別名・弓月君であり、応神天皇14年に来朝したとされる。 <太秦公宿祢> 秦始皇帝━・・・━孝武王━━功満王━━融通王(弓月王)━━登呂志公━━秦公酒※ 『広隆寺由来記』では次のとおりです。登呂志公=普洞王とすれば、前者と同じです。 秦始皇帝━・・・━功満王━━融通王━━普洞王━━酒秦公 宝賀寿男『古代氏族系譜集成』は、明治の鈴木眞年の系図を活用し編纂されたもの だそうですが、秦氏について、次のように書かれています。 「秦の始皇帝の孫、三世皇帝子嬰の兄弟胡苑が漢の恵帝元年丁未(紀元前194年) 苦役を避けて来て韓地に逗まれるのを韓王がその東界百里の地を割き与えたという。 (ほぼ同様の伝承であるが、趙高の乱を避け濊貊の地に遷るともいう。) (中略)漢武帝の元封2年(前109年)孝武王が辰韓の王となり、 馬韓に属して十二ヶ国を統治した。この辰韓の国が竺達君の時滅亡し (辰韓の滅亡時期については、鈴木眞年は晋の太康(紀元281〜289年) の後辰韓の朝貢絶えたりとする時期を想定するが、この説を妥当と考える。)、 その支配階級は百済の地に遷った。」とあります。 宝賀氏も別の論文において、始皇帝の子孫は、二代皇帝胡亥の時に趙高に多くが殺され、 また項羽によっても多く殺されており、韓に逃れた可能性は極めて低いとしますが、 『古代氏族系譜集成』の記述にはいくつか疑義があります。 始皇帝は中国の話 そんなもんクソの自慢にもならねえが 秦の始皇帝の長男 扶蘇(ふそ、拼音:Fúsū、? - 紀元前210年)扶蘇は自決。 兄弟:二世皇帝 胡亥。 新釈漢文大系「史記一(本紀)」の注釈においては、 子嬰(しえい 公子嬰)を「二世皇帝、胡亥の兄、扶蘇の子」としている。 三世皇帝 子嬰の兄弟 胡苑。が漢の恵帝元年丁未(紀元前194年) 苦役を避けて来て、韓地に留まれるのを韓王がその東界百里の地を割き与えたという。 (ほぼ同様の伝承であるが、趙高の乱を避け濊貊の地に遷るともいう。) (中略)漢武帝の元封2年(前109年)孝武王(秦氏の祖)が辰韓の王となり、 馬韓に属して十二ヶ国を統治した。(弓月王・クタル) (辰王=月氏国) (月像神=シン) 百済の南都 扶余「泗沘(サビ)城」、扶蘇山城 半月楼 新羅(旧 辰韓)半月城 もうなりふり構ってないって感じだな こんなバカな主張しはじめたやつらも現れてるんだからよ 秦の始皇帝の長男、扶蘇 紀元前210年、扶蘇は自決。 「山海経」蓋国は鉅燕の南、倭の北にあり、倭(現在の韓国地域)は燕に属す。 (BC300年頃の様子と思われる) 三世皇帝子嬰の兄弟胡苑が漢の恵帝元年丁未(紀元前194年) 苦役を避けて来て韓地(当時は真蕃辰王・倭人地域と思われる)に(逗とど)まれる。 「扶余は元、北夷に橐離国があった。」 夫余が建国する以前の。この地には濊(わい)族が住んでいたと思われ、 慶華古城「濊城」、周囲約800m、前漢初期前(建国, 紀元前206年)には存在。 前漢の元朔元年(前128年)、濊君・薉君の南閭らが、 衛氏朝鮮の衛右渠に反逆し、遼東郡に服属した。 高句麗は別名を貊(はく)と言う。日本では「高麗」と書いても 「貊(狛)」と書いても「こま」と読む。 「玄菟・楽浪郡は武帝の時においた(前107年)。みな朝鮮・濊貊・句驪の蛮夷の地 である」とあるもので、玄菟郡の首県として高句驪、上殷台、西蓋馬が言及されている。 元鳳6年(紀元前75年)に玄菟郡が廃止された時、高句麗侯として自立したとみられる。 西暦12年に王莽が匈奴出兵のために高句麗侯騶(すう鄒牟)に出兵を命じた際には、 騶がこれに応じなかったために捕らえられて処刑されたという。 105年頃から高句麗王の宮(太祖大王)、遂成(次大王)、伯固(新大王)。 始建国元年(9年)秋、王莽が新を建てると夫余も離反した。 夫余の遣使が朝賀貢献。永康元年(167年)、夫余王の夫台は2万余人を率いて、、 夫余王の王印には「濊王之印」と刻まれており、国内には「濊城という名の故城」 があることから、もともとは濊族の地であったことがわかる。 川崎真治は自著で「混成民族、夫余説」を唱えた。 夫余では馬、牛、猪、狗をそれぞれトーテムとする民族が混住しており、 馬トーテム族は北方騎馬民族の(トルコ系か)アルタイ人であり、 牛トーテム族はシュメール人の子孫、(牛頭天王・スサノオ) 狗トーテム族は印欧語系アーリア人で、 猪トーテム族は原シナ人であったという。 紀元前128年、南閭は28万人を連れて漢に投降した。 紀元前2世紀に中国姓・中国式姓名をもつ濊人が咸鏡南道で活動していた。 紀元前後の楽浪郡に存在した現地系民族として確実に存在が確認できるのは濊人であり、 平壌の楽浪郡の古墳群から出土した銀印には「夫租薉君」の印記があり、 武田幸男は、夫沮(沃沮)すなわち咸鏡道一帯から遠い平壌の地に埋葬されるほどに 濊人が楽浪郡との関係を深めていたことを指摘している。 濊人=出雲族か? また、『魏書』東夷伝韓条に「桓霊之末,韓濊彊盛,郡県不能制,民多流入韓国。」 とあり、濊人が韓人と共闘して中国の郡県支配に抵抗していた。 『魏書』東夷伝濊条「自単単大嶺以西属楽浪郡,自領以東七県,都尉主之。皆以濊為民。」 素直に読めば、楽浪郡の「民」は濊人となり、『魏書』東夷伝韓条は「国出鉄, 韓・濊・倭・皆従取之。」とあり、弁韓(朝鮮半島最南端)で韓、倭と接触していた。 迎日郡(浦項市)出土とされる銅印には「晋卒善穢佰長」が出土している。 以上から、濊人の活動範囲は西南部を除く朝鮮半島の広範囲に及んでいた。 濊人=出雲族(物部)〜若狭(海部(あまべ・かいふ)〜尾張〜甲斐(かい) 丹後一宮 元伊勢 籠神社(このじんじゃ) (海部氏)(ユダヤ人説あり) 倭人=北部九州、奴国人=邪馬台国 韓人=中原戦乱からの亡命者、避難民、開拓民、+倭人、濊人、、 韓人は韓人だよ 海とはまったく関係ない内陸の歴史しかないやつら 辿ってきた歴史が違うんだろ やつら自分らが東夷人だってえ認識ねえもんよ 日本人にはあったけどな 秦氏がユダヤとかいつの昭和のムーの話してんだ 棺桶まで持っていく気か いい加減にアップデートしろ ユダとベニヤミン以外の十支族は 新約の時代にはサマリアと呼ばれていたその地域で かつては独立した国を作っていた 元はベニヤミンから王が出たが血で血を洗う王位継承の末 末期にはどの部族から王が出たなど誰も把握していなかった 山地にあったエルサレムとちがって、平地にあった サマリアは容易に外部の侵略を受けたが その支配に服する条件として敵の神を聖地に招き 現実に異民族婚が進むにつれて 徐々にイスラエル人としての同一性を失っていった 新約の時代にはサマリア人としてある程度は イスラエル由来の習慣は保持していたようだが いわゆるユダヤ人は彼らを同胞とは見做さなかった 西暦70年ローマによってエルサレムが陥落すると ユダヤ人は国を失い世界中に散っていくことになるが サマリア人がどこぞへ旅立ったという記録はない その後の歴史は知られないが中東がイスラム化 するとともにすでに彼らと同化していた子孫らもまた ムスリムとして生きることになり現在では いわゆる十支族の血を引く者はパレスチナ人となっているとみられる 東夷、九夷、とは元々中国中原の東部、山東半島から南部の淮河河口周辺に居た集団で のちに朝鮮半島に移動してからは半島周辺の集団を東夷や九夷、と呼ぶようになった。 BC500年ころの孔子などは明らかに半島集団を指してて、 イカダに乗って海を渡りたいと言ってるし、 3000年以上前、夏殷周の動乱期には既に半島や九州方面に移住してたんだろう。 朝鮮半島では6000年前頃から段々遺跡数が増えて行き それが3500年前頃から遺跡数が急減しだしたらしいから、九州移住や 春秋時代の中原動乱でロシアのワグネル傭兵部隊の様な形で参戦してたんだろう 中国『春秋左氏傳』『礼記』『詩経』などには盛んに東夷や淮夷などの集団名が出て来る。 粛慎氏の西は寇漫汗(こうまんかん)国と接し、 この寇漫汗(こうまんかん)国と 秦氏が由来記などで盛んに「功満王━融通王(弓月王)」と言ってるのは偶然じゃ無いな。 東夷が動いたんじゃなく東夷の範囲が広がったんだよ それ以上の意味はないんだ。いいね 「倭」 (わ、やまと、ワ、ヰ、ウェイ(中国南方音)、ゥオー(中国北方音)朝鮮語で왜ウェ) 「淮」 呉音 : ウェ(ヱ) ヱ「ゑ」(例.夷「ゑびす」→欧米語の/we/音「ウェ」 漢音 : カイ(クヮイ)・ガイ 慣用音 : ワイ 「濊」 音読み カイ・カツ・ワイ 東夷の濊・貊・穢(かい・はく・わい)蓋(がい・け)蓋国は鉅燕の南。 つまり「淮ウェ」夷、集団のなかに「倭ウェ」や「濊カイ・ワイ」がいた。 当て字か? 米国、美国、みたいな?? 孔子時代(bc500年)頃には海の向う朝鮮半島と思われる地に東夷、九夷、がいた。 「倭」わ=ウェ 越南ウェトナム=ヴェトナム 越智ヲチ=オチ、オロチ(龍) ?? 175 そのことがO1系の拡散を意味してると思うけどね 177 なにヨーロッパ式の記号だの当ててるの? バカか? 高知県西端の7000年前~弥生時代までの遺跡は南方系巨石信仰 平安時代までは母系社会 王族や貴族以外は結婚制度がなかった D1a2が多数派に返り咲いたのは鎌倉時代の話し 中臣鎌足は韓人と言われていた しかしそう言ってる蘇我氏も高句麗系なのかも知れない 戦国時代に、江南地方~山東半島~遼東半島~箕子朝鮮~辰国~対馬~北部九州・山口へと、遠賀川式土器と共に稲作漁労民降臨 >>186 日本にまで到達した江南人は、その内のごくごく一部だろうし、 日本に来る迄に山東人・遼東人・朝鮮人なんかと混血してるだろうから、せいぜいクオーター 青森の砂沢遺跡は前7C頃の水田遺構で中部地方や関東地方よりも 先に稲作が始まっていた 搬入された遠賀川式土器が数点見つかっているが九州北部から入植した痕跡が ないため、九州北部との交流を通じて稲作を取り入れて自ら稲作を始めたものと 見られる けっきょく菜畑遺跡もこれと同じ 交流していた朝鮮南部から稲作を取り入れて自ら稲作を始めただけの話 だから外来人の入植痕跡がない 朝鮮半島の稲作も同じだろう 交流していた遼東半島から稲作を取り入れて自ら稲作を始めただけの話 だから外来人の入植痕遺構がない 遼東半島の稲作も同じだろう 交流していた山東半島から稲作を取り入れて自ら稲作を始めただけの話 だから中国から入植した事を意味する中国土器遺構がない 稲作渡来民なんて幻想 そんなものは存在しない 【朝鮮半島の統治国の歴史】 紀元前108年~220年:漢(植民地) 221粕N~245年:魏(植民地) 108年~313年:晋(植民地) 314年~676年:晋宋梁陳隋唐(属国) 690年~900年:渤海(属国) 1126年~1234年:金(属国) 1259年~1356年:モンゴル(属国) 1392年~1637年:明(属国) 1637年~1897年:清(属国) 1897年:下関条約により清の属国から開放される 1905年~1945年:日本 1945年~1948年:アメリカ(非独立 1948年:大韓民国成立(アメリカ軍による朝鮮統治によって国家基盤が形成され成立) https://i.imgur.com/C3LwJgT.jpeg https://i.imgur.com/SESw5Ra.png 日本人は勤勉・優秀・ユニークといった排他的な自己中心主義が、韓国・中国の経済発展によって影が薄くなってる。 だからこそ日本文化のルーツを縄文人に求める、最近の風潮は現実逃避と言える >>193 記憶力はいいが、革新性とコミュ力に欠ける、典型的アジア人 >>1 これ、内容が間違ってるんよね。 船泊はD1a2a2bでアンダマンD1a2bとは異なる。 縄文人のYに関して、船泊の1体しか分かってなかった頃に比べ、 今は他のも出て来て、その多くが現代人にも多いD1a2a1の系統だし。 >>198 「日本」は「百済」の南遷国のスレ主が、 D1a2aに完敗したから、 さらにデマを流そうとしてるだけw O1b2a1a3が江原道で多く、O1b2a1a2aは日本海沿岸で発生した可能性が高い したがってO1b2a1a1も日本で発生した可能性高い 古朝鮮の濊(ワイ)族とは、中国の淮(ワイ)河流域から来た、と言う意味にとれる。 O1b2a1a2bとO1b2a1a2aの分岐年代6000年以上前 河北省南部 →淮(ワイ)河流域 →山東半島(大汶口・龍山文化) →遼寧省(偏堡文化) →朝鮮半島の無文土器文化 →濊(ワイ)族 →倭(ワ)人 河北省南部の邯鄲市で、韓国に多いO1b2a1a2aの姉妹系統O1b2a1a2bが2%以上検出されてる。最近は、淮河上流域の賈湖(かこ)遺跡(9000~7500年前)こそ、倭人の原住地であって、そこから遼寧省~朝鮮半島を経て縄文早期からO1b2が北部九州に流入していた、と言われてますね。 うつけ者め。3万年以上前に別れたO1b1が インド大陸まで行っているから 日韓に多いO1b2との地理的バランスを取ったまで 華南で東と西に分かれたのではなく 北アジアで東と南に分かれたのだ。いいね デマ情報ばかり垂れ流すY-DNAスレ住民は見なくていい(≧∇≦)b 国立科学博物館「縄文人は単一の遺伝的集団ではなかった」 弥生後期の熊本で検出されたのはD1a2a1cとC1a1 アイヌはプーチンに日本を攻撃しアイヌを助けてください と手紙を送りそのせいで、2022年ロシア艦隊が津軽海峡に現れ 砲撃し、海に砲弾が落ちて、この時点でアイヌは外患誘致罪なわけで アイヌ民族は死刑です 日本国民にこの事実を教えないで 人類歴史学をやってる場合じゃないんですよ 今日は尖閣諸島に中国海軍2502隻の艦艇隊が尖閣諸島に現れて 沖縄 九州はピンチです ションベンで中国人をヘイトしてる場合じゃないしね たぶん崇神がO2で箸墓古墳の被葬者 だから素粒子解析調査結果も出ない 日中研究チーム「2000年前の山東省の人骨300体が、北部九州・山口の弥生人骨とそっくり」 徐福が本当に来てたら、まずジャンク船(帆のある構造船)が弥生中期から 伝わっちまうだろが(嘲笑 中国は春秋時代から構造船で戦国時代にはジャンク船なんだから 日本に帆船が伝わるのは古墳期末頃だぞ もちろん衣食住に関する鼎、鬲、甑、竈、釜などの古代中国の炊飯器関係も 伝わるし、戸建て住居も伝わるし、袴(ズボン)のある漢服や布靴も伝わっちまう 「徐市」と書かれた木簡も出土して漢字も伝わっちまう そのために筆や墨や硯も伝わっちまうが(嘲笑 漢氏って呼ばれる方はほとんどがO1bの集団 もう諦めた 僭称だわ間違いなく >>214 坊やにはこの質問に答える義務があります。 >三足土器がなけりゃ移住・移民した証拠にならんと言うのなら、 中国内陸では古代数千年の間に、何億人と人集団の移住・移民が有ったはず なら三足土器も何億個と拡散してるはずだが、そんなに多数あるか? 数百個くらいなら有るかもだが? 需要がないとこに供給はしない 縄文人が欲しがる技術だけを渡来人は伝えた 秦氏は真面目に始皇帝の子孫の可能性はある 漢氏の方は男系がほとんどO1bなんでね 漢帝の子孫だのまったくの嘘となる 219 楚が滅んだときに中国の主力となるものから外れたってことやね 3万年前にO1b1とO1b2に分岐したのに、O1bまでで止めてるということは、 O1b1とO1b2の分布と矛盾する説を流布する 詐欺師ということか 223 長江を中心として北部と南部に分かれて広がったやつらの記号やなそれ そうじゃなくて、O1b2a1a2と、 O1b2a1a1が分岐したのが、今から8000年近く前、 そうすると少なくとも8000年以上前に、O1b2a1aが日本に来た事になる。 よって>>203 が正論 縄文丸木船で乗れる人数は、使用される木にもよるが、せいぜい3~5人だろう。 国立科学博物館によれば、 渡来系弥生人と言っても、 渡来した時期や、渡来した地域によって遺伝的に異なるそうです。 >イベントで55人乗れたんだから、10人くらいなら楽勝だろ 鳥取県の桂見遺跡(かつらみいせき)から発見された丸木舟は、 長さ7m24cm、幅74cmあり、櫂も9本見つかっており、 縄文時代のものとしては日本最大級です。これは縄文時代の丸木舟だよ。 縄文丸木舟に乗った人数日本一 富山県小矢部市の桜町遺跡の市民グループ桜町石斧の会は、 樹齢180年の杉の大木を使って、長さ6.7メートル幅75センチの丸木舟づくりに 参加したことを記念して、2006年6月18日、同市の桜町JOMONパークで 『何人乗れるかな?縄文丸木舟』のイベントを開催。 陸上に置いた状態で、子供から大人まで55人が乗った。 >中国石棚墓、済州島支石墓、でよく似た板囲石式支石墓があった。 これで中国浙江省→済州島→九州西北部・半島西南部への可能性が出て来た。 済州島 済州龍潭竜洞4号支石墓(板 囲石式支石墓・石小屋墓) https://www.sankei.com/article/20150807-ILYVOUMCJNKNFBP7CN3FQSAOTE/ 済州島にも支石墓があるが、ここの支石墓は変わっている。墓は地上に造られていて、 板石を楕円形に立て並べた形は卓子形に通じないこともないが、印象はまったく異なる。 これとそっくりの支石墓を、実に意外なところで見た。(記者談) 「中国浙江省瑞安」には、不思議なことに支石墓(石棚墓)が集中している。 しかも、済州島の板 囲石式支石墓に酷似していた。 類似する形態のものは「中国浙江省瑞安地域」でも見られる。 浙南石棚墓群(板 囲石式支石墓・石小屋墓) https://www.zj.gov.cn/art/2020/12/3/art_1229441734_133.html 済州島の囲石式支石墓 (済州式支石墓)と比べると、 板囲い石が散らばってて印象が違うが造営時にはキチンと板石が並べられてたんだろう。 長崎県の支石墓群(縄文時代晩期から弥生時代中期) http://www.nagasaki-maibun.jp/news3/news2.cgi?mode=view&no=479 http://kodaisihakasekawakatu.blog.jp/archives/16243649.html ◎ 原山(はらやま)支石墓 《長崎県南島原市》 島原半島西南部の標高240〜250m前後に立地している支石墓群です。 支石墓群は大きく3群にわかれ、合計100基近く存在しており、 わが国最大規模の支石墓群として国指定史跡に指定されています。 支石墓の下部構造は、石棺が90%程度を占め、ほかには石囲甕棺(いしがこいかめかん)、 土壙甕棺(どこうかめかん)、土壙(どこう)などが確認されています。 ◎ 大野台(おおのだい)支石墓 《長崎県佐世保市》 江迎(えむかえ)川河口を望む標高50〜65mの丘陵に立地する支石墓です。 5箇所に支石墓群が確認されており、長崎県北地域では最大規模の支石墓群です。 支石墓の下部構造は箱式石棺(はこしきせっかん)が主となっています。 長崎県の支石墓群(縄文時代晩期から弥生時代中期) http://www.nagasaki-maibun.jp/news3/news2.cgi?mode=view&no=479 http://kodaisihakasekawakatu.blog.jp/archives/16243649.html ◎ 原山(はらやま)支石墓 《長崎県南島原市》 島原半島西南部の標高240〜250m前後に立地している支石墓群です。 支石墓群は大きく3群にわかれ、合計100基近く存在しており、 わが国最大規模の支石墓群として国指定史跡に指定されています。 支石墓の下部構造は、石棺が90%程度を占め、ほかには石囲甕棺(いしがこいかめかん)、 土壙甕棺(どこうかめかん)、土壙(どこう)などが確認されています。 ◎ 大野台(おおのだい)支石墓 《長崎県佐世保市》 江迎(えむかえ)川河口を望む標高50〜65mの丘陵に立地する支石墓です。 5箇所に支石墓群が確認されており、長崎県北地域では最大規模の支石墓群です。 支石墓の下部構造は箱式石棺(はこしきせっかん)が主となっています。 >>229-232 縄文早期の佐世保人骨6体から検出されたO1b2a1a1は浙江省から来たのかもしれないな。 それでも縄文早期から段階的にO1b2a1系統が流入してきた可能性は残る 岡山で異常に多いO1aにしてもまた然り 縄文時代の西日本人骨からDNAはまだ抽出されてない。 >>236 古代中国は現在の欧州並みに多民族国家 ほんの数百km離れた場所へ移動しただけで言葉が通じなかったぐらい。 同じ浙江省だからと言って、同じ民族ばかりが住んでいたとは限らない。 >>237 鼎は4500年前にはすでに中国大陸全土に浸透しているが何か? 文明的发展离不开不同文化间的相互启发与互鉴。陶鼎这种具有划时代意义的 伟大创造由裴李岗先民发明后,便不断被周边的区域文明所学习借鉴, 韩建业曾系统梳理过史前陶鼎的发展历程:“约公元前6200年发源于中原地区, 约公元前5000年以后扩展至黄河下游和长江中下游地区,约公元前4200年以后 从黄河下游进一步渗透到辽东半岛,约公元前3500年以后南渐至华南北部地区, 约公元前2500年以后更扩展至华南大部地区”。 https://www.cssn.cn/kgxc/kgxc_kgxl/202209/t20220930_5545333.shtml . 関東縄文人のミトコンドリアDNA比率 北方系のD+Gが22.3%、Aが7% 南方系のBが15.2%、Fが11.7%、M系統30.5% 大陸から招かれた女性が多かったのが、mt-DNAの多様さに反映されてる。 そもそもDNAは何年も住んでると環境や土地風土で変化していくから参考程度だろ 日本人のY-DNA 「日本人 - Wikipediaより」 D1a2a 縄文型 39% (沖縄 55.6%)(アイヌ 75%) O1b2 日本型 O-47z 25.1% O1b2 韓国型 L682 8.4% O2 漢族型 16.7% O1b1 長江周辺型 3.8~0.8% O1a 台湾型 3~0.9% 北ルート C2 7.8~3% (沖縄 0%)(アイヌ 25%) 西ルート C1a2 10~2.3% 遼河型 NO 5.7~3.8% 遼河型 N-M231 7.7~0.8% ジャップの起源は遼河流域にいた偏堡文化人 これは山東半島から北上して遼河文明に参画したY遺伝子O1b2系の人達で、彼らが遼河文明が崩壊した時に韓半島に民族移動して無文土器文化人となり、更に海を渡って日本列島に到達したのが弥生人だった ネトウヨのカルト的歴史観は既に崩壊したのだよ >>242 八重島ではO1b2が多い。 台湾と同じO1aは、日本では岡山県で多い。 >>242 O1b1は日本では徳島や福井で比較的多い。 日本の遺伝子調査データは詳細なハプロを公表していないからな 中国やアメリカでは家系図作成のために遺伝子検査を受ける人が多いから日本とは精度が違う 日本人に多いO1b2も詳細なデータが解らないからな 韓半島のO1b2と日本人のそれのどちらが古いグループかを見れば韓半島の無文土器文化人から弥生文化人が派生したことが断言できるのだがな 日本人のO1b1も大陸のO1b1から最も古く分かれたグループに属するものが多いそうだ 断言できないのは確かなデータが一般公開されていないから人伝てに聞いた話に過ぎないからだ 日本の縄文のDとアイヌ民族のDと韓半島のDも詳細なハプロのデータが公表されていないから前後関係が分からない だから日本列島から無人の韓半島に縄文人が渡ったとか、韓半島のOは日本起源などというヘンテコな説が垂れ流し状態になる 日本でYハプロの証拠なデータがでないのは差別対策などだというが中国や米国で差別になった話など聞いた事がない 無文土器人は日本には来てないよ 時代が下って三韓人や百済高句麗人が来て 人種的に日本人を圧倒していったようだ おまエラが彼ら古代人を朝鮮人と呼ぶのには抵抗はないだろ それで満足してくれや ウリたちは倭国の黎明には関わりないニダかと 早合点する必要は無い 流石に弥生時代には関係ないが 神武紀には遡るはずの氏族集団が仁徳期に渡来した話が 日本の記録には残っているからな しかもそれが天照大神の兄神と称される三島神 伊予物部越智氏の奉ずる大山祇だ 真実はかなり無茶苦茶かもしれないし 伊予国風土記の記者が馬鹿なのかどちらか >>237 だから漢字とか文言とか生まれたわけで。 >>244 沖縄諸島はO1b2が先に来て、九州から来たDが席巻した とかなんかもね。 O1aが来なかったのは海流を越えられなかったからだし。 >>246 日本のは精度低いだけじゃね。でも、yfullで大体分かるっしょ。 一応クギ刺しておくけど渡来系氏族の 官位は決して高くないからね 後に藤井氏を名乗りおそらく大阪の藤井寺のもとになった 百済王氏の官位は都道府県知事(正五位)止まりだから 桓武天皇は生母・高野新笠の身分の低さが コンプレックスで、旧来の勢力を嫌い 平安遷都を敢行したともいわれる 明治・大正以前から岐阜県北部に住む人達の遺伝子を解析した結果、 Y-DNA=縄文系41%・弥生系59% mt-DNA=縄文系62%・弥生系38% 在来種に縄文系が多かったとしても、権力者が弥生系になれば、当然こうなる。 >>251 まあそういう捻れた構造が 日本の古い男系をよく保存した要因なのか 古い(といっても古墳時代の)記録で早いのは 垂仁天皇が任那王子の都怒我阿羅斯等に 今の敦賀の統治を委任したという記事だな 気比神宮はその跡地にあるし神功皇后や仲哀天皇 気比神と名前を交換した応神天皇と関わりが深い 気比神は伊奢沙和気(イザサワケ)といい、 御食津大神ともいう。ワケというのは皇室系の名前で 皇位を継がない皇子達に与えられた封土を指すように思う 越前には他に都留伎比古(ツルギヒコ)なる神が居るが この主祭神は素戔嗚尊となっている 御食津大神は熊野大神としての素戔嗚尊の名でもある はいはい越前詐欺師!越前詐欺師! 見る人は見抜けるガチの非人間性を持つ越前詐欺師 系統樹 ハプログループO系統の分岐については2020年4月16日改訂のISOGGの系統樹(ver.15.58) による。日本人における割合は佐藤ら(2014)及び井上・佐藤(2023)による。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B0%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%97O1b2_ (Y%E6%9F%93%E8%89%B2%E4%BD%93) 一塩基多型分岐図 F1204(K10)最近共通祖先 7,436年前 | |ー47z (K7)(日本型)最近共通祖先 6,303年前 | | |共通祖先 6,060年前 |ーF2868ーーL682 (韓国型) 最近共通祖先 3,678年前 |ーF2868ーーF940 (中国型) 最近共通祖先 2,700年前 | 系統樹 ハプログループO系統の分岐については2020年4月16日改訂のISOGGの系統樹 (ver.15.58)による。日本人における割合は佐藤ら(2014)及び井上・佐藤(2023)による。 (Wikipedia ハプログループO1b2 (Y染色体)より) 一塩基多型分岐図 F1204(K10)最近共通祖先 7,436年前 | |ー47z (K7)(日本型)最近共通祖先 6,303年前 | | |共通祖先 6,060年前 |ーF2868ーーL682 (韓国型) 最近共通祖先 3,678年前 |ーF2868ーーF940 (中国型) 最近共通祖先 2,700年前 | つまりどう言う事かというと、 47z (K7)(日本型)とL682 (韓国型) ・F940 (中国型)との関係は 叔父、甥の関係、3000年と言う歳の離れた。 甥から叔父が、叔父から甥が生まれる事は絶対ないのさメンデルの法則で。 ただ、F1204(K10)最近共通祖先から生まれたのは確か7000年前だけど。 47z (K7)(日本型)にとってはO1b2a1a2 (F2868,F3110,K4) - 最近共通祖先 6,060年前がどこへ行ったか行方不明。中国湖南省あたりに居ると思うが。 日本人のY-DNA 「日本人 - Wikipediaより」 D1a2a 縄文型 39% (沖縄 55.6%)(アイヌ 75%) O1b2 日本型 O-47z 25.1% O1b2 韓国型 L682 8.4% O2 漢族型 16.7% O1b1 長江周辺型 3.8~0.8% O1a 台湾型 3~0.9% 北ルート C2 7.8~3% (沖縄 0%)(アイヌ 25%) 西ルート C1a2 10~2.3% 遼河型 NO 5.7~3.8% 遼河型 N-M231 7.7~0.8% 徳島大学の研究によると、日本の、O1aとO1b1は多様な構造パターン、異なったルートから流入したと考えられる。 19.4% (7/36) 沖縄県立開邦高等学校の男子生徒[15] 22.2% (10/45) 沖縄[10] 23.0% (20/87) 沖縄(Y-STRより推定)[36] 26.5% (13/49) 沖縄県立八重山高等学校及び沖縄県立八重山商工高等学校の男子生徒 28.9% (11/38) 沖縄県立宮古高等学校の男子生徒[15] O1b2a1a1 (47z, K7) - 日本人(大和民族、琉球民族)の約22%、 朝鮮民族の約9%の男性に見られる。 中国(全国男性人口の約0.19%[17])等でも稀に見られる。 日本人のYハプロの少数派、例えばO1aやO1b1は弥生系ではないのだろう 東南アジアや華南の血が日本に入るとしたら、戦国時代の倭寇の時代に日本人化した外国出身者である可能性が高いだろう 後期倭寇は殆どが非日本人だったがヒデヨシの海賊禁止令と江戸幕府の鎖国令で商売ができなくなり、そのまま日本に帰化したものが多かった オレの推測だが日本人のO1aやO1b1は九州の佐賀県や鹿児島県に多いはずで、理由はこれらの地域が倭寇の本拠地で帰化外国人が多かったからだ 古墳時代の倭人でO1aやO1b1はゼロに近いと思う 現代の日本人はネトウヨが思っているよりも外国人の血が多く入っているのである だから多文化共生社会を恐れる必要はないのだ >>235 日本の中国地方に多いO1aは、6000年前に陸稲栽培を持ち込んだ集団だろう。 >>236 素人研究家w 全ての遺跡が保存状態よく見つかる訳ではない。多くても1/10程度。特に弥生時代の平野部は洪水多発。失われた遺物は無数にあるだろう。 当時の中国はほんの数百km離れた場所でも意思疎通が出来なくなる程、多民族国家だった。 そういう時代に大陸から灌漑技術や鉄器技術を縄文人が習得するのは極めて困難、渡来人を受け入れた方が手っ取り早い。 吉野ヶ里遺跡出土の絹は、BC2世紀の江南産である事が遺伝子分析で判明しており、しかも、当時の中国は蚕の持ち出し自体を禁止しており、徐福集団がこっそり持ち出した可能性大。 >>202 8000年前までの中国大陸は、寒冷で乾燥していて人間が住みにくい環境だった。その時に北部九州に逃れて来たのがO1b2a1a1。 韓国型O1b2a1a2aは、姉妹系統の中国型O1b2a1a2bから、 6000年以上前に分岐し、 4000年前から朝鮮半島で拡散。 湖北省 →淮(ワイ)河流域 →山東半島の大汶口文化(6100~4600年前) →山東半島の龍山文化(4500~4000年前) →遼東半島の偏堡文化(4400~3500年前) →朝鮮半島の無文土器時代(3500~2300年前) >>262 韓国型のO1b2a1a2aは首都ソウル周辺に多い。 日本型のO1b2a1a1は南東部の慶尚道に多い。 南西部の全羅道はC2bが多い。 北朝鮮もC2bが多い。 よって日本型のO1b2a1a1は西日本で拡散してから韓国南東部に入植した可能性が高い。 >>272 徐福集団が本当に来て入植してたら、まず楼船というジャンク船(帆のある構造船)が 弥生中期から伝わっちまうだろうが(嘲笑 中国は春秋時代から構造船で戦国時代には早くも楼船というジャンク船なんだから 日本に帆船が伝わるのは6Cの古墳期末頃だよ もちろん、あちらの衣食住に関する生活文物や住居である鼎、鬲、甑、竈、釜などの 炊飯器関係も伝わるし、戸建て住居も伝わるし、袴(ズボン)のある漢服や 布靴なんかも伝わっちまう 「徐市」と書かれた金石文も遺すから弥生中期から漢字も伝わっちまうしな(嘲笑 古代の倭人に調理道具としての釜がなかったのは金属資源が貴重だったからであろう 日本の煮込料理は基本的に土鍋であって、中国とはだいぶ趣が違う 中国は金属や石炭が豊富だったから高温で炒める調理が発達したが、ジャップは油さえ貴重という貧困後進民族だったのため、近世まで煮込みが主流だった 日本人も釜くらいは知っていたろうが資源不足で作れなかったのだろう ネトウヨは戦前の日本海軍からの単純な連想で、日本人は海洋民族で船の先進国と思い込んでいるが、まるで逆なんだよな 中国に堅牢なジャンク船があったのに模倣すらできず、丸木舟に横板を貼り付けたボートしか無かった ローマ帝国時代の地中海には既にヨット航法で風上にも進めるドロモーン戦艦が浮いていたのだが、日本列島では無様な半構造船を作るのが限界だった 飛鳥時代のビザンツ海軍は火炎放射器を装備していて敵戦を焼き払ったのだが、ジャップの船は白江の戦いで小型船で唐の海軍に単純突撃して壊滅 このレベルの違いたるやまるで文明人と猿を比較する気分だ 系統樹 ハプログループO系統の分岐については2020年4月16日改訂のISOGGの系統樹 (ver.15.58)による。日本人における割合は佐藤ら(2014)及び井上・佐藤(2023)による。 (Wikipedia ハプログループO1b2 (Y染色体)より) 一塩基多型分岐図 F1204(K10)最近共通祖先 7,436年前 | |ー47z (K7)(日本型)最近共通祖先 6,303年前 | | |共通祖先 6,060年前 |ーF2868ーーL682 (韓国型) 最近共通祖先 3,678年前 |ーF2868ーーF940 (中国型) 最近共通祖先 2,700年前 | つまりどう言う事かというと、 47z (K7)(日本型)とL682 (韓国型) ・F940 (中国型)との関係は 叔父、甥の関係、3000年と言う歳の離れた。 甥から叔父が、叔父から甥が生まれる事は絶対ないのさメンデルの法則で。 ただ、F1204(K10)最近共通祖先から生まれたのは確か7000年前だけど。 47z (K7)(日本型)にとってはO1b2a1a2 (F2868,F3110,K4) - 最近共通祖先 6,060年前がどこへ行ったか行方不明。中国湖南省あたりに居ると思うが。 日本人のY-DNA 「日本人 - Wikipediaより」 D1a2a 縄文型 39% (沖縄 55.6%)(アイヌ 75%) O1b2 日本型 O-47z 25.1% O1b2 韓国型 L682 8.4% O2 漢族型 16.7% O1b1 長江周辺型 3.8~0.8% O1a 台湾型 3~0.9% 北ルート C2 7.8~3% (沖縄 0%)(アイヌ 25%) 西ルート C1a2 10~2.3% 遼河型 NO 5.7~3.8% 遼河型 N-M231 7.7~0.8% >中国石棚墓、済州島支石墓、でよく似た板囲石式支石墓があった。 これで中国浙江省→済州島→九州西北部・半島西南部への可能性が出て来た。 済州島 済州龍潭竜洞4号支石墓(板 囲石式支石墓・石小屋墓) https://www.sankei.com/article/20150807-ILYVOUMCJNKNFBP7CN3FQSAOTE/ 済州島にも支石墓があるが、ここの支石墓は変わっている。墓は地上に造られていて、 板石を楕円形に立て並べた形は卓子形に通じないこともないが、印象はまったく異なる。 これとそっくりの支石墓を、実に意外なところで見た。(記者談) 「中国浙江省瑞安」には、不思議なことに支石墓(石棚墓)が集中している。 しかも、済州島の板 囲石式支石墓に酷似していた。 類似する形態のものは「中国浙江省瑞安地域」でも見られる。 浙南石棚墓群(板 囲石式支石墓・石小屋墓) https://www.zj.gov.cn/art/2020/12/3/art_1229441734_133.html 済州島の囲石式支石墓 (済州式支石墓)と比べると、 板囲い石が散らばってて印象が違うが造営時にはキチンと板石が並べられてたんだろう。 長崎県の支石墓群(縄文時代晩期から弥生時代中期) http://www.nagasaki-maibun.jp/news3/news2.cgi?mode=view&no=479 http://kodaisihakasekawakatu.blog.jp/archives/16243649.html ◎ 原山(はらやま)支石墓 《長崎県南島原市》 島原半島西南部の標高240〜250m前後に立地している支石墓群です。 支石墓群は大きく3群にわかれ、合計100基近く存在しており、 わが国最大規模の支石墓群として国指定史跡に指定されています。 支石墓の下部構造は、石棺が90%程度を占め、ほかには石囲甕棺(いしがこいかめかん)、 土壙甕棺(どこうかめかん)、土壙(どこう)などが確認されています。 ◎ 大野台(おおのだい)支石墓 《長崎県佐世保市》 江迎(えむかえ)川河口を望む標高50〜65mの丘陵に立地する支石墓です。 5箇所に支石墓群が確認されており、長崎県北地域では最大規模の支石墓群です。 支石墓の下部構造は箱式石棺(はこしきせっかん)が主となっています。 19.4% (7/36) 沖縄県立開邦高等学校の男子生徒[15] 22.2% (10/45) 沖縄[10] 23.0% (20/87) 沖縄(Y-STRより推定)[36] 26.5% (13/49) 沖縄県立八重山高等学校及び沖縄県立八重山商工高等学校の男子生徒 28.9% (11/38) 沖縄県立宮古高等学校の男子生徒[15] O1b2a1a1 (47z, K7) - 日本人(大和民族、琉球民族)の約22%、 朝鮮民族の約9%の男性に見られる。 中国(全国男性人口の約0.19%[17])等でも稀に見られる。 . 「漆塗り丸木弓」 中国南部の跨湖橋新石器時代遺跡から世界最古の漆塗り丸木弓が出土しており、 この浙江省にある良渚・河姆渡遺跡そば跨湖橋遺跡が漆塗り丸木弓の誕生地と云われる。 原始和弓を含めた太平洋型長大弓の共通祖形とも考えられている。 この「漆塗り丸木弓」は朝鮮半島北部や満州平原からはまるっきり出土しない。 . >出るわ出るわ縄文時代の漆塗り丸木弓、全国から出土。 重要文化財に指定された、東村山市内の下宅部(しもやけべ)遺跡から出土した 漆塗りの丸木弓から、縄文時代の狩猟儀礼を考える内容。 秋田県立博物館 中山遺跡出土の漆塗り丸木弓(縄文時代晩期) 縄文晩期、青森県是川遺跡・奈良県橿原公苑遺跡に漆塗りの長弓がある。 弥生時代 唐古遺跡、登呂遺跡、の出土例では、長短2種の丸木弓がみられる。 埼玉県大木戸遺跡 縄文時代後期の黒漆塗りと赤漆塗り飾り弓が出土しました。 長弓の中には桜皮を巻いて漆を塗装したものなどの製作技術の違いがわかっている。 (国指定)金沢市中屋サワ遺跡(縄文後・晩期)弓本体の握りの部分に細い糸を丹念に 幾重にも巻き、幾何学模様を編みだして、漆塗りの飾り弓が多数出土しています。 『晋書』粛慎伝 粛慎氏、一名に挹婁という。不咸山(ふかんざん)の北に在り、 扶余から六十日の行程。東は大海(日本海)に沿い、 西は寇漫汗(こうまんかん)国と接し、北は弱水(アムール河)に極まる。 『新撰姓氏録』によれば、「秦氏は、秦の始皇帝の末裔」という意味の記載がある。 これは秦氏自らが、権威を高めるために、王朝の名を借りたという説などもある。 『日本書紀』によると弓月君は百済の120県の人民を率いて帰化したとある。 孝武王の子の功満王は仲哀天皇8年に来朝、 さらにその子の融通王が別名・弓月君であり、応神天皇14年に来朝したとされる。 『新撰姓氏録』によれば、「秦氏は、秦の始皇帝の末裔」という意味の記載がある。 これは秦氏自らが、権威を高めるために、王朝の名を借りたという説などもある。 『日本書紀』によると弓月君は百済の120県の人民を率いて帰化したとある。 孝武王の子の功満王は仲哀天皇8年に来朝、 さらにその子の融通王が別名・弓月君であり、応神天皇14年に来朝したとされる。 <太秦公宿祢> 秦始皇帝━・・・━孝武王━━功満王━━融通王(弓月王)━━登呂志公━━秦公酒※ 『広隆寺由来記』では次のとおりです。登呂志公=普洞王とすれば、前者と同じです。 秦始皇帝━・・・━功満王━━融通王━━普洞王━━酒秦公 粛慎氏の西は寇漫汗(こうまんかん)国と接し、 この寇漫汗(こうまんかん)国と 秦氏が由来記などで盛んに「功満王━融通王(弓月王)」と言ってるのは偶然じゃ無いな。 始建国元年(9年)秋、王莽が新を建てると夫余も離反した。 夫余の遣使が朝賀貢献。永康元年(167年)、夫余王の夫台は2万余人を率いて、、 夫余王の王印には「濊王之印」と刻まれており、国内には「濊城という名の故城」 があることから、もともとは濊族の地であったことがわかる。 川崎真治は自著で「混成民族、夫余説」を唱えた。 夫余では馬、牛、猪、狗をそれぞれトーテムとする民族が混住しており、 馬トーテム族は北方騎馬民族の(トルコ系か)アルタイ人であり、 牛トーテム族はシュメール人の子孫、(牛頭天王・スサノオ) 狗トーテム族は印欧語系アーリア人で、 猪トーテム族は原シナ人であったという。 ・二日と八時間で、会稽へ---『日本書紀』の記事 日本と江南とのルートを示す記事が、『日本書紀』に記されている。 縄文、弥生時代と、七・八世紀ごろとでは、船の構造の違いもあるとみられるが、 参考になると思われるので、以下に紹介してみよう。 (斉明天皇五年・659年)の七月三日に難波の三津浦を発し、 八月十一日に筑紫の大津の浦(博多港)を発した。 九月十三日に百済の南方の島に着いたが、島の名ははっきりしない。(済州島か?) この記事で注目されるのは、九月十四日の午前四時ごろに大海に乗りだし、 十六日の夜半には、中国の江南の会稽県についていることである。 二日(二昼夜)と八時間ほどで東シナ海を渡っていることになる。 東夷、九夷、とは元々中国中原の東部、山東半島から南部の淮河河口周辺に居た集団で のちに朝鮮半島に移動してからは半島周辺の集団を東夷や九夷、と呼ぶようになった。 BC500年ころの孔子などは明らかに半島集団を指してて、 イカダに乗って海を渡りたいと言ってるし、 3000年以上前、夏殷周の動乱期には既に半島や九州方面に移住してたんだろう。 朝鮮半島では6000年前頃から段々遺跡数が増えて行き それが3500年前頃から遺跡数が急減しだしたらしいから、九州移住や 春秋時代の中原動乱でロシアのワグネル傭兵部隊の様な形で参戦してたんだろう 中国『春秋左氏傳』『礼記』『詩経』などには 盛んに東夷や淮夷などの集団名が出て来る。 「倭」 (わ、やまと、ワ、ヰ、ウェイ(中国南方音)、ゥオー(中国北方音)朝鮮語で왜ウェ) 「淮」 呉音 : ウェ(ヱ) ヱ「ゑ」(例.夷「ゑびす」→欧米語の/we/音「ウェ」 漢音 : カイ(クヮイ)・ガイ 慣用音 : ワイ 「濊」 音読み カイ・カツ・ワイ 東夷の濊・貊・穢(かい・はく・わい)蓋(がい・け)蓋国は鉅燕の南。 つまり「淮ウェ」夷、集団のなかに「倭ウェ」や「濊カイ・ワイ」がいた。 当て字か? 米国、美国、みたいな?? 孔子時代(bc500年)頃には海の向う朝鮮半島と思われる地に東夷、九夷、がいた。 「倭」わ=ウェ 越南ウェトナム=ヴェトナム 越智ヲチ=オチ、オロチ(竜族) ?? 倭人は韓半島の無文土器文化人の末裔 彼らは西遼河起源であり、その更に前は山東半島から淮河の方あたりにいてオーストロネシア系民族と接触を持っていたのだろう 故に日本語にはオーストロネシア系の影響が見え隠れする ハプロにこだわる連中には日本会議系の日ユ同祖論を正当化する理屈を考えている者がいるから気をつけねばなるまい 日琉民族の起源は西遼河であり呉越ではない ましてユダヤなどあり得ないのだ >>1 >現代日本人で多数派のYHD1b1がD1a2aに変更されています。 >「縄文人」で確認されているD1b2はD1a2b(アンダマン人と同じ)に変更されています。 (アンダマン人と同じ)は誤り D1a2a,D1a2bとよばれてた頃はアンダマン人がD1a3だった その後日本人とアンダマン人共通のSNPが見つかったので 旧D1a2→新D1a2a 旧D1a3→新D1a2b となり、その場合 旧D1a2a→新D1a2a1 旧D1a2b→新D1a2a2 となる D1a2a1₌M116.1 D1a2a1a₌M125 とした場合、やはりこれは縄文人だろう (最近共通祖先が10000年以上前) 祖先が縄文人なのに、いきなり子孫が渡来人になることはない >>296 倭人の風俗は海南島に近いとされてるので、東夷・九夷とはまた別じゃね? 今になって崎谷満の本読み返すといろいろはずれてるね 印欧語族はJで、R1bは非印欧語族とか (今は印欧語族はR1bで、Jは全然関係ないといわれてる) まあ、崎谷満を責めるつもりはない 彼は当時もっともだといわれてる学説と 当時のハプログループの知識から 結論をひねくりだしただけだから 当時は分散とかいうそういうのは専門家以外理解してなかったし 崎谷満はその意味では専門家でもなんでもない素人だから 何処から来たのか知らんが、O1b2a1a1が倭人 O2が後のヤマト民族 宮内庁が隠したがってるのは、古墳時代の王家が漢民族だったから 京阪アクセントがシナ系だからもうバレバレw 但し、継体天皇は熊襲 阿蘇山のピンク石がわざわざ畿内迄、運ばれてる 西遼河人はO2だと思うけど漢民族じゃないゆ 固有の黄河系は日本にはほとんどいないゆ ヤマト王権は渡来人を招きはしたけど 彼らが取って代わったわけでないゆ 民族の構造に深く入り込みはしたけど 個人的には唐古・鍵の大陸系古人骨はまだ気になっている 彼らが西遼河系なのであれば、古墳期の渡来は 日本人のゲノム与えた影響は微々たるものと言えるから X(笑)にこんなことを言っている人物があるが 裏は取れているのだろうか 唐古・鍵遺跡の人骨はゲノム解析で渡来系、西遼河集 団です。弥生中期初頭。まあ、彼が奴隷の頭領だったか 磯城県主だったかはわかりませんが >>310 日本人研究者が英国のマスコミに「陵墓の立ち入りが禁止されてるのは、皇族のルーツが中国人だと困るから」 そう言ってた。 方形周溝墓の木棺は甕棺墓や石棺墓と比べて 人骨の保存状態はあまり良くないのは想像つく 四隅突出型墳丘墓や特殊器台の分布範囲を見れば、近畿・東海・東四国は別民族の支配下にあった事に気付く。 >>315 でもどう考えても皇族のルーツが漢民族なわけ無くね 皇族と王族は全く違う 皇族は血統的に独立しつつ政府の中央に存在する 国家の枠を超えて周囲に血筋を認められなければならないから勝手に名乗れないんだよね ヨーロッパだとエンペラーとキングの関係に相当するけど、キングはもろに血統だけどエンペラーは血統関係無いんだな・・・・ ナポレオンと英王室のどちらが格上か考えるまでもない >>319 に補足すると、皇族は戦乱の中でも代々天皇だった事から皇帝の一族=皇族って事なんだね 推定ハプロからしても縄文系統である事は確実視されているから(スレタイ的にこの部分へのツッコミはどうなのか?)、 そこに何の歴史上の憂いも捻りも考えなければ「皇族」は血統も持つ王族の上位互換という事になる 天皇という言葉にも、大規模化する戦乱の拡大に備えて初めて諸国をまとめ出した事にも由来すると思う >>321 ヨーロッパはヨーロッパでゲルマン系統の王室(~家)がいくつも連合してるな 普通に考えたら、前方後円墳体制時代、大王家の血筋は、ツングース系だろ?縄文系な筈ないわなw 銅鐸文化時代は、また違ってただろうし。 倭の半島経営などあり得ぬことである 日本には馬がいなかったから歩兵主体 水軍にしても和船は丸木舟に横板を貼り付けただけ 文字が読めないから兵学の知識がなく状況に合わせて陣形を使いこなすことも難しい こんな状態で韓半島に出兵しても高句麗軍にボコられるだけ ちなみにこの時代のローマ帝国は西ローマ末期といえども、東ローマの海域には高性能なドロモーン戦艦が大量に浮いていてコンスタンチノープルを守っていたし、7世紀〜8世紀つまり日本でいう飛鳥時代には東ローマ海軍は石油を燃料にした火炎放射器を使って、攻め込んできたイスラムの海軍を焼き払っていた ネトウヨは能天気に縄文文明などといっているが、まったくの共感性羞恥でこちらまで恥ずかしくなってくるわ 文字もないこの時代のジャップが文明を名乗れるわけなかろう 青森と大阪、徳島に多いC 1a1 1割弱いる 徳島は岡山〜奈良まで出荷する石棒の製造拠点でその大部分は大阪に出荷されていた 大阪は1番最後まで石棒祭祀が残っていた地域 興味深いな 大和民族の35000年前にやってきた最古層じゃないか アイヌとの違いを生む遺伝子タイプ 北海道と本州は一度も陸続きになったことがないんだよな 瀬戸内海の航行が可能になる5世紀迄は、畿内勢力が韓半島や北部九州を経営するのは無理。 卑弥呼はおろか、倭の五王でさえ九州だった可能性高い。 そもそも梁書東夷伝でさえ、 倭国=北部九州、 文身国=越前、 大漢国=関東、 扶桑国=奈良、 女国=志摩、 という風に描写されてる。 by 古代史研究家・いき一郎氏 神武すら瀬戸内通ってるのに 過小評価なんよ 紀に外国使節の話が出てくるのは 崇神が西本州を統一してからだから 明らかに外国と接触している倭人伝の 時代考証には一考の価値がある 卑弥呼が意図的に無視されてないのならね スサノオ・アマテラス・神武とかは、朝鮮の檀君伝説みたいな。もんだろ。あくまで文献史学 5世紀頃迄、中国産の文物が瀬戸内地方で殆ど見つからない。 丹後地方に鍛冶屋を置いて、畿内に鉄器を供給していた。瀬戸内地方には初期ヤマト政権の影響力は及んでなかった。 大陸との交易の中継地点は出雲だった。勾玉や管玉が鉄資源購入代価として支払われていた。 >>324 ツングース系との親和性はPCAプロットに出てたりするの? >>325 農業・商業の観点で文化と文明の中間にはあったと見えるんだがなぁ 現代人からの推定だが、mtハプロなどからは分散して8つの集団に大別される(ほぼ全てのルーツは沖縄に集約される)から、 縄文時代には既に何系統か存在した筈 渡来系とされる数グループ()とそうでない数グループが古人骨からも判るからな 青谷上寺地遺跡の109人分の惨死体はDNA分析で家族関係を持たない人たち、つまり奴隷階級ではないかという推論が上がっている この人たちの多くは母方は弥生系だが父方のYハプロは縄文系という成分の持ち主であった これらの人たちに家族関係があれば敵対者を族滅させたと考察することができるが、家族関係がないのなら戦争捕虜や奴隷を祭祀の生贄にしたか殉死にでもしたのだろう 大きな建築物があれば人柱になった可能性もある どちらにしてもネトウヨが言うような父方縄文系統=支配者ということはないのである >>336 では東国武士(関東圏)がハプロD主体なのはどう説明すればいいんだろうか このCTS8093は、出アフリカを果たした直後の系統ハプログループDに属している。D系統はチベットやアンダマン諸島、フィリピンで見られるタイプで、その下流にあたるD1a2は日本列島以外では検出されていない。遺伝学の研究者らは、この特有のY染色体の拡散の原因を作った男性は、日本を統治した人物であろうと結論づけた。韓国の研究者が2012年に出したChojae論文やJekshもこの結果を支持した。 韓国人も認めてる現実 >>336 あんた日本人? 会話が出来るなら答えて ネトウヨ氏はたまにアプデした知識をペタと貼ったと思ったら しばらく何も言わないよ 会話のやりとりは見たことがないな 潜って話しているのかもしれないが >>341 会話が成り立たないコピペ野郎ってどこにでも極少数居るけどマジで何なんだろう 太陽神を発明したのはメソポタミア文明、縄文人じゃない 縄文草創期に細石器を日本に持ち込んだ集団が、北海道のC2a2と北部九州のO1b2a1a1だろう。 日本人で目の色が蒼い人は東北地方に集中。 DNA解析によれば縄文時代前半に来たウラル系民族の人達(東北地方の約7%)の遺伝(Y染色体ハプログループN)。 デンマークのDNA研究によると、東北地方で青目の人達は8000年前に流入した。 そりゃD系統も渡来したのは間違いないが 渡来した時期がD系統とO系統では違うってだけのこと D系統は大陸と列島が陸続きだった数万年前に徒歩で渡来 O系統は航海技術が発達した数千年前に船で渡来した モンゴロイドかコーカソイドかってのは、実は混血した旧人の影響で変わる 多分発生当時はコーカソイド(古モンゴロイド)が基本型で現代人からはあまり判別付かなかったのでは ハプロにどちらかを直接紐付けられるイメージでは無いと思う いや、新モンゴロイドの方がコーカソイドに近いと思う コーカソイドから分岐したのが新モンゴロイド ネグリド、ネグロイドから分岐したのが古モンゴロイド こんなイメージ >>350 つまり新・古のイメージはそこまで単純じゃなく、真逆である可能性すらあるのか? 古い遺伝子自体は新モンゴロイドの方にも見られるっていう内容なら確かにそうだとは思う 形質人類学と考古遺伝学が整合性を取るために呼称を統一してくれたらもっと解りやすいのになぁ 一応新モンゴロイドに言及したWikipediaからの引用貼っとく >新モンゴロイドはシベリアという極寒な気候・環境に適応した結果として形成された人種であるとの考えが有力である。 新モンゴロイドは、寒冷地域に適合した体質として、比較的体格が大きく、凹凸の少ない顔立ち、 細い目、蒙古襞(目頭のひだ)、薄い体毛(特に男性のひげの少なさ)などの特徴を持っている。 さらに、耳垢が湿ったあめ状ではなく乾燥した粉状となり、耳垢の特徴と同じ遺伝子によるわきがの原因となるアポクリン汗腺が少なく、 頭髪が直毛であること、頭形は前後に短く横に広い短頭が一般的で脳容積が大きいといった特徴がある。 新生児に蒙古斑が見られるのも特徴である。 >>294 6000年前に富山県で高身長の人骨が増えてる 朝鮮半島から渡来した(or招かれた)ツングース系根茎栽培民だろう 北陸では6000~5000年前に、人口が5倍以上に増えてる。渡来人の流入以外に、考えにくい。 >>345-346 この時期にズーズー弁が発生 >>352-353 この時期に朝鮮語訛りが北陸に混入 出雲には遅くとも6000年前頃、海洋交易で、秋田から移民が増え、ズーズー弁が普及 >>352 だったら在地産の朝鮮系土器遺構があるはずだろ ない 何でもかんでもすぐ、渡来人だあーーーーという幼稚な発想からいい加減脱却しろよ 出雲弁には朝鮮語訛りらしき発音がない。 北陸弁や東北弁には、朝鮮語訛りが含まれてる。 6000年前頃から、高身長(170cm)の人骨が日本海側の遺跡で増えてる。愛知県にも来てる。 海洋交易が活発だった模様。 >>358 古代の土器作りは女性の仕事? 指紋から意外な事実: 985個の土器片に 残る指紋を分析したところ、「土器製作は女性の仕事」とされてきた これまでの常識を覆す結果が得られました。 https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/19/060600334/ . 朝鮮系土器は縄文系土器の亜流に過ぎない 現地の土器の方が品質がよければ、そっちを使うだろ 日本に自発的に来る渡来人は少なかった ①海洋交易でちょっと立ち寄っただけか、 ②近親交配を避ける為、連れて来られた若い女か、 ③お雇い外国人技術者として招かれたか、 ④戦乱を逃れてやむを得ず避難したか、 色々なケースが考えられる 7000年前に福井で勾玉加工が始まった 単なる装飾だけでなく、海洋交易の代価としても使われたのだろう >>361 朝鮮土器は沿海州土器と遼東半島土器の亜流ではあるが縄文土器とは何の関係もない >>359 縄文人が朝鮮半島で現地の女に産ませた子孫が渡来したのかもしれない 日系ブラジル人が21万人以上来てるし だったら在地産の朝鮮系土器遺構があるはずだろ ない 何でもかんでもすぐ、 渡来人だあーーーーという幼稚な発想からいい加減脱却しろよ中卒 >>342 ネトウヨ氏はコミュ症だから 話しかけられたらビビって逃げる それにしても関西人と韓国人の顔が似てるのはやはり大和王朝のせいか >>366 北朝鮮みたいに拉致して縄文人の子供を産ませた、数万人の混血児が北陸地方の小竹貝塚遺伝子にハッキリ表れてる 北方(バイカル湖)・南方(東南アジア)両系のDNA確認 富山、縄文前期(6750~5530年前)時代貝塚の人骨 ttps://www.nikkei.com/article/DGXNASDG2000N_Q4A120C1CR0000/ 南シナ海~オホーツク海までの、多様な人的交流が副葬品から確認出来る 中卒ギャグメーカー国立科学博物館という時点でアウト ロシアのバイカル湖周辺や北海道で発掘された北方系の人の骨と、 東南アジアから中国南部に多くみられる南方系の人の骨から見つかるDNA型も 単に新旧の北方DNAなだけ >>364 縄文土器は16000年前~、 済州島産の隆起文土器は1万年前~、 遼河産の櫛目文土器は8200年前~、 ソウル産の盛上文土器は8000年前~、 欧州産の縄目文土器は8000年前、 朝鮮産の櫛目文土器は7000年前~、 縄文土器こそオリジナル >>346 国立科学博物館などの研究チームが、3800年前の北海道人のDNAを解析した結果、茶色の瞳・くせ毛・そばかすが出来やすい褐色の肌・酒に強い体質だった。 東北地方の青い目の人は、遼河地方から来たY染色体N1で間違いない。 縄文由来遺伝子変異の特徴は、 ①低身長、②肥満体質、 ③感染症に対する抵抗力ない 北部九州で水田稲作が始まった時期については尚、議論が続いていて、国立歴史民俗博物館による、放射性炭素年代測定結果が500~600年も前倒しになっており、 従来説の2800年前頃が正論だろう。 >>271 人工的な灌漑水田やるには、単に土木技術だけでなく、測量技術や集団的な運営ノウハウも必要。 渡来人なくして実現不可能 縄文人と弥生人(弥生人倭人説) スンダランド(今のインドネシア辺り)にいた人類→縄文土器を作る→南方の島々から約1万5千年前に鹿児島南端に辿り着く→日本列島最初の縄文人 スンダランドにいた人類→東南アジア沿岸から長江河口まで移動し漁業を営む倭人になる→近隣のミャオ族などの少数民族(稲作開発者)の影響で半農半漁民になる →黄河流域の漢民族の勢力拡大に圧迫されて、船で中国沿岸部を北上→朝鮮半島の西岸を船で南下→朝鮮半島南岸から対馬に渡る→青銅器を携えて約3千年前に九州北部に辿り着く→日本列島最初の弥生人 縄文人と弥生人がゆっくり時間をかけて(約500年間)平和的に統合 →国家成立前に日本人の原型が形作られる 稲作による疫病を恐れた縄文人のグループ→弥生人と交わらずに北上→オホーツク沿岸部の文化の影響を受ける→鎌倉時代にアイヌと呼ばれる文化になる ちなみにゾミア(東南~インド中国の丘陵地帯)にも漢民族の圧迫から避難したミャオ族などの少数民族が混在していたからか、日本人とチベット人は似ているw 結論 縄文人と弥生人は日本に来た時期こそ違いはあるものの、ルーツは同じスンダランド系なのでお互いに文化的遺伝的な親近感があり、大規模な戦争やジェノサイドが起こらなかったのが重要なポイント。 1.考古学、遺伝学、文字で書かれた史料、現存する文化習俗など全てにおいて、外来勢力が在来勢力に対して大規模戦争したりジェノサイドして日本列島を征服した痕跡がどの時代にも一切ないこと。 2.日本書紀は今のモンゴル辺りで誕生して朝鮮半島経由で入って来た天孫降臨神話(タカミムスヒ)と縄文・弥生期以来の神話(イザナギ・イザナミ~アマテラス・スサノオ~オオクニヌシ)の二元構造になっており、高句麗の王権神話が天孫降臨神話一元構造なのとは対照的である。8世紀になっても依然として強かった縄文文化の濃厚な勢力への配慮が日本書紀の編纂に大きな影響を与えたと考えられること。 3.日本では7世紀まで父系出自集団は存在しないのは古代史の定説になっているので、父系制=血統主義の部族が日本にやって来たとしても、以後は双系性になり血統の連続性は絶たれてしまっていること。 4.古今東西どの部族にも何らかのインセストタブーがあり、他部族と交わらずに近親婚を繰り返しての人口増加や勢力拡大が困難なこと。 5.紀元前の日本にまだ文字がない頃に中国では既に代数の初歩レベルまで到達。そして江戸時代の関孝和の和算は当時世界最先端の数学。 つまり文明度でようやく日本が中国に追いついたのは江戸時代なので、江戸時代までの文化の伝播の方向性はほぼ中国→日本だったこと。 6.朝鮮半島から対馬は肉眼で見えるほど距離が近くて容易に行けて、対馬には日本神道の原型祭祀と思われる神社が多いこと。 7.日本列島は自然に恵まれ食料が豊富な上に、大陸と距離が離れており日本海も海流が速いので、攻め手側が圧倒的に不利な天然の軍事要塞に等しいこと。また渡来人も国家の圧迫から逃れて来た避難民や王朝交代時の政治亡命者や難民であり、予め征服の強い意志を持ち計画的に日本に侵略して来たのは元寇が最初だったと推測されること。 以上の7点から渡来人は入って来たけど、大規模な戦争で征服したのではなく、主に婚姻を通じてゆっくり時間をかけて対等な立場で平和的に縄文人と統合したと考えられる。 その渡来人は元々長江河口に住んでいた半農半漁民だった倭人。漢民族の勢力拡大の圧迫により、中国海岸と朝鮮半島海岸を船で移動した(強敵のいないこのルートにならざるを得なかった)。当時は平均寿命は短かったので、日本列島に到着する頃には何世代もの世代交代が進んで、中国沿岸部や朝鮮半島沿岸部の文化や遺伝子が混交し、長江河口に住んでいた頃よりかなり雑多な部族になっていた。 その倭人は日本列島で約500年かけて平和的に縄文人と統合するが、統合後でも元倭人の社会が形を変えて朝鮮半島に残っていたので、その人的ネットワークを通じて仏教や律令制度などを比較的スムーズに日本に持って来ることが出来た。 日本には7世紀までは父系出自集団が存在しないのは日本古代史の定説になっているので、早くても8世紀以降、現実には名実ともに父系制に日本がなったのは平安中期頃だろう。その時代に血統を強く意識した文学作品、源氏物語も生まれた。 それ以前の日本は双系制とみて良い。 というのも仏教伝来以前の日本の宗教は呪術であり、呪術の力こそが王権の正統性になっていたからだ。 ところが3~4世紀頃にモンゴル原産で朝鮮半島経由で入って来たある思想が日本列島に大衝撃を与えた。 天孫降臨神話、父系制、血統主義のセットである。 後に崇神天皇と呼ばれるヤマトの崇神大王はその先進性に衝撃を受けて父系制を導入した。 しかし当時はまだ呪術の力が大変強くて理念倒れとなり、仏教が伝来して呪術の効力が低下し始めてから、徐々に父系制が日本列島に浸透していった。 だから古墳時代の数世紀は王権の正統性が呪術から血統主義に移った不安定な過渡期と考えられる。 まあ日本特殊な事があるとしたら、弥生人でも古墳時代からの渡来人でも、在来勢力と大規模戦争して征服した痕跡が全くない事だね。 おそらく日本に来た連中は、当時国家の圧迫から逃れて来た避難民や中国、朝鮮半島の王朝交代時に発生した政治亡命者や難民などの烏合の衆がメイン。だから征服される事なく、先進技術や文字文化だけを上手いこと摂取する事ができた。 それと縄文人は弥生人よりも1万年以上前に日本列島に来たアドバンテージがあった。それは日本各地の聖地を最初に支配出来たこと。聖地とは世俗的な力が及びにくい場所。地形や自然環境に左右されるので、かなり限りがある。地形や自然環境などは100年200年で変わるものではないので、縄文時代の聖地がそのまま古墳時代の聖地にもなっていただろうし、埋め立てなどで地形が変化した場所以外は現代でも大体一緒。少なくとも仏教伝来までは呪術に王権の正統性があったので、有力な聖地を支配していた縄文人は、先進技術では渡来人に劣るものの、呪術の力で上回っていた事で優位に立てた。 仏教が伝来すると縄文人の聖地に寺を建てるんだよね、本地垂迹とか言ってね。それ以降の日本の宗教は神仏習合という形が歴史的に一番長くなる。でも寺院の立派な本殿よりも隅っこにいる稲荷の様な神様の方が遥かに古くから日本にいる。 記紀神話自体は大昔には世界各地に似たようなものがいくらでもありふれていた。むしろ記紀神話の特殊性は記紀神話を編纂出来た事に尽きる。 あの当時でも縄文弥生期くらいの古い神話を継承している人たちは、淘汰されるか辺境にしか居なくなったからね。 でも日本では政治の中枢に強い影響力のある地方豪族がそれらの古い神話を継承していた。それで縄文弥生期以来の既に土着化していた神話を大量に取り入れる必要性が生じた。 ところがそれらの人たちの一部は中世後半になってくると、被差別民というネガティブな存在になっちゃう。 だが地域差がかなり激しくて縄文文化が濃厚だった東日本では近畿に比べて極端に少なく、鎌倉時代では皇族が移り住んでた鎌倉の一区画にしか被差別民はいなかった。 東北にはほとんどいなかったし、明治になって日本に組み込まれた北海道沖縄ではゼロ。 それに日本文化のメインストリームに縄文文化ががっちり組み込まれてたおかげで、20世紀に日本が先進国になっても縄文的感性は失われてはいなかった。 あえて飛躍するがアニメやゲームのキャラ、ゆるキャラ、萌えキャラなんかはそれこそ縄文時代の土偶を現代人の美意識に合わせてバージョンアップした様なもの。クリエイター個人の 才能だけでは説明できないほど現代日本で量産されている。 実際に外国人にはなかなかこういうキャラは作れない。欧米人だけでなくアジア人も不思議なほど作れない。 つまり縄文文化は日本の文化の古層を形成しているのである。 弥生人とされる倭人は筏船を住居にしていたので、建築に関する知識には乏しかった。そして筏船は解体すると丸太しか残らないので、遺跡として残らない。 また船上のスペースは限られているので根っからのミニマリスト。必要最低限のものしか持たない。 彼らにとってどうしても手放せないもの、信仰する神様や祭祀、神話、水田稲作、漁業、青銅器に関するもの以外はアッサリ捨てた。 彼らは水田稲作だけでなく、漁業にも大変優れていた。長江流域で発達した鵜飼の技術で鮎などの傷つきやすい魚を捕獲出来たし、潜水漁法で水中深くにいる魚や海藻、貝類も捕獲出来た。また水田養魚もやっていた。普通の漁業法では採りにくい魚介類も多かったので、食料にして余ったものは現地人と物々交換し、服や食器など生活必需品を比較的容易に入手した。 それに長江河口から直に日本列島に来た訳ではない。漢民族の圧迫を受けてじわじわと中国沿岸を北上し、朝鮮半島西岸を南下。何世代かかけて日本にやって来たので、漢服や鼎などの文化はその途上の何処かで失われた、と思われる。 倭人は水田稲作と太陽と海(航海と漁業)に深い繋がりがある。 倭人の最初の上陸地である対馬の阿連村の雷鳴神社のオヒデリ様や豆酘村に伝わる赤米儀礼と天童信仰は太陽や水田稲作に深く関連しているし、記紀神話でアマテラス女神の子とされている沖ノ島の宗像三女神も海路交通の守り神。 一口に倭人と言っても中国大陸内陸部に入っていき国家を形成した倭人は海との関連性が薄いが、日本に渡来してきた倭人はガチの海洋民。更に日本に渡来してきた倭人の中でも普通の倭人と特に航海技術に長けていた倭人グループがいて、後者がムナカタ(宗像)、スミヨシ(住吉)、アヅミ(安曇)の3グループ。 倭人アヅミ族の北部九州の初期の拠点が糟屋郡の新宮と志賀島。後の政治的事情から律令制後に国家神皇祖神に格上げされたアマテラス大神も、その頃はまだ倭人の多神教世界観の中の単なるいち太陽神に過ぎず、弥生期にはヒルメもしくはオオヒルメと呼ばれて、太陽の化身と太陽神を祀る巫女の両方の意味を持っていた、とされている。 ムナカタとスミヨシは日本と大陸や半島間のヒトやモノの運輸に携わる職能集団だが、アヅミは半農半漁の生活集団だった。普通の倭人やムナカタ、スミヨシが海岸沿岸部を居住地にしていたのに対して、アヅミは日本海側と太平洋側の両方の海岸線から、川を遡って日本列島の内陸部までに広がって行った。 アヅミという名前は海(アマ)に住む→アマスミ→アヅミに変化したと思われ、アヅミの居住地だった場所は安曇、安積、温海、渥美、熱海、弥富、泉、和泉、出水、飯泉、稲積、出海、伊豆見など日本各地に地名として残っていった。アヅミは「稲を高く積み上げた」という意味をもつ「穂積」「穂高見」という神様を信仰していたが、「ワダツミ(綿津見、海神)」という海神も信仰しており、ワダツミ神を祀った神社は内陸部にも沢山見つかる。またワダツミから和田という広く知られた地名苗字が発生。 水田稲作と太陽神と海洋性文化は日本では古くから極めて深い結びつきがある。水田稲作をやっていた部族、太陽神を信仰していた部族、海洋性の部族がそれぞれ別々に日本に渡来して日本で融合したと考えるよりも、水田稲作と太陽神と海洋性文化のワンセットを長江河口を原郷とした倭人が朝鮮半島を経由して日本に伝えた、と考えるのが妥当だろう。 紀元前1000~500年の500年間は倭人と縄文人がお互いと妥協に妥協を重ねて政治的な統合を成し遂げた平和な時代で、大規模戦争どころか局地戦の痕跡すら発見されていない。日本文化=和を重んじる文化が自然発生的に出現したと考えにくいので、この時代を出発点として歴史的和解から人工的に作られた、と思われる。とは言ってもこの時期の和を重んじる文化圏は範囲が狭くて効力も弱い無意識の文化圏だったが、長い時間をかけてゆっくり日本列島全域に浸透していった。ヤマトという言葉は元々は山の処という一般名称であったが、それが地域名となり、更に大いなる和=大和という平和を愛する理念にも次第になっていった。 >>379 だったら最古稲作遺構があんなショボい訳ねえだろが超ウソコキ たったの4m四方のショボさで最初の層には農具もないんだぞ そこから数百年かけて在来人が逐次的に技術導入や技術開発をしながら 徐々に完成していっており、最初からプロフェッショナルが 始めた痕跡がないし、渡来人の入植遺構もない 願望だけで語るなカス 縄文人→擦文人→アイヌ人 弥生人→倭人→日琉人 縄文人の言葉は原アイヌ語、つまり縄文人は日本民族ではない ジャップの民族的先祖は弥生人であって、弥生人の故郷は中国の遼寧省 日本語は元々は遼河文明の辺民である偏堡文化人の言葉なのであった それも違う。 アイヌは遺伝子や言語は大和民族よりも縄文人に違いが、文化に関してはアイヌよりも大和民族の方が縄文人に近い。 >>378 縄文晩期の原始的な天水農業ぐらいなら、在来人が大陸から技術導入するのは可能。 湿気の多い日本に小麦栽培は適してない。 本来は熱帯地域向けの水田稲作を、日本で定着させるには、人工的な灌漑水田が必要だった。 それが弥生前期の2500~2300年前、渡来系人骨が北部九州で大量に増えた時期に重なる。 >>392 これも国立歴史民俗博物館の放射性炭素年代測によって、数百年前倒しに操作されてるから、実際は2300~2100年前頃だろう >>390 だから弥生人の故郷が中国の遼寧省なら何で縄文末の渡来人は遼寧系土器を 伝えずに沿海州系土器なんか伝えてるの? その説は出た瞬間に破たん済み >>391 アイヌは樺太経由の旧石器人が祖先の縄文人が祖先で、東北を除く本州人は 朝鮮半島経由の旧石器人が祖先の縄文人が祖先 で、東北は両者の交雑地帯 樺太経由の旧石器人の入植は朝鮮半島経由の旧石器人より 18000年くらい後だから朝鮮半島経由の旧石器人が祖先の縄文人が祖先の 大和民族が日本列島の本家本元なんだよ 日本に来た江南人は、呉人より越人の方が多かった 先に来た呉人は北部九州中心に定住し銅矛文化圏を形成、 後から来た越人は近畿周辺に移住して銅鐸文化圏を形成した 稲作渡来民が日本で縄文土器を取り入れる方が、縄文人が朝鮮半島から水田稲作と太陽神を取り入れるよりも、ずっとハードルが低くて現実的だよ。 替えの効かなさでは、信仰神話神様>>>生活用品、だからね。 ユダヤ人、ピューリタン、チベット人など政治的事情で祖国を離れても頑なに信仰は守ってる。 信仰や神様をアッサリ捨てて、炊飯器に異常にこだわる部族なんかとても想像出来ない。 >>392 弥生前期末の2500年くらい前から渡来系人骨が北部九州で大量に増えたのは 単に甕棺墓時代に入ったからで、そこに新たな外来人が入植した痕跡など一切ない だいたい外来人あらば甕棺墓に朝鮮土器の甕の一つくらい使われてるはずだろうに 九州北部は半島と頻繁に交流してたんだから新しい技術があれば、その都度、 逐次的に取り入れて自分たちの水田に付け加えていっただけの話 短絡的な妄想で暴走しないように >>389 >>397 無文土器時代の朝鮮半島は陸稲であって、高度な灌漑施設なんか見つかってませんね。 読解力ないのかな、ネットヲタは (大爆笑) >>401 水田稲作に関しては朝鮮半島南部では、3100年前の水田跡が 慶尚南道蔚山・オクキョン遺跡から、2500年前の水田跡が松菊里遺跡で 見つかっている。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%B2%E4%BD%9C . >>402 そのウィキペディアの記事、ソース付いてない 最近の学説では、弥生時代の稲作伝来ルートは江南地方由来の方が有力になって来てる。 温帯ジャポニカ米は遼東半島・朝鮮経由では寒過ぎて栽培は無理。 1910年代の朝鮮総督府「気候の違いから、朝鮮半島の水田は少なく、灌漑設備も備わってない」 と記録されてる。 >>404 で、弥生時代の稲作伝来ルートが江南地方由来の方が有力になったという 中卒ギャグのソースは? 金属加工の熟練職人を育成するのに、最低でも5年かかる。 在来人がちょっと大陸行って学べるような生易しい技術じゃない。 >>390 またコピペ荒らしか マトモに会話出来ないし >>407 補足 現代でも製造業のエンジニア育成に5~6年かかる。 それと同じ事が古代にも言える >>410 ハイ、ソースなし やっぱりいつもの個人的願望なだけでした(ウルトラ嘲笑 かつて継体天皇は、長江中下流域や江南地方から来た渡来人に、越前の潟湖の治水工事をさせ、耕地面積を増やした、と地元県民に伝えられてる。 古朝鮮に高度な灌漑技術がなかったのは明白。(爆 古墳時代中期の越前には、紙すき・漆器・養蚕/絹織物の技術者が百済から大量に来てるが、 柔らかい地盤に堤防を築く干拓技術は江南人しか持ってなかった。 >>410 古事記の応神天皇記によれば、百済の王から韓鍛冶卓素(鍛造技術者)が派遣された。 倭鍛冶もいた事はいたが、高度な技術は常に大陸からの渡来人に頼っていたんだよ(大笑い 朝鮮半島出身の渡来人で繁殖力が凄いのが秦氏。 6世紀中頃には10万人いたとされる。 地方に散らばっていた為に政治力はなかったが、畑作や機織の発展に貢献したので、ハタ(畑、機)と呼ばれる様になる。それほど産業に貢献したのに地方豪族にこき使われていた。それを不憫に思った天皇が秦氏に姓を与えて太秦で養蚕を始めた、と言われている。それだけ渡来人は立場が弱かった また秦氏が稲荷神社をつくった。稲荷信仰は日本神話にインドのダーキニーが結合して生まれたが、こちらは陸稲がベース。天皇の祭祀は水稲がベースで南方系。だから北方からの文化も日本に根付いている。 南方系 水稲 日本文化の主流 北方系 陸稲 日本文化の傍流 インドのダーキニーが結合するなら南方系だろう。 稲荷信仰ももちろん水稲。 陸稲は6000年前に岡山で始まったとされるが、実際は縄文後期にズレる可能性ある。 放射性炭素年代測定に疑いが持たれており、そこの土器は縄文後期のものではないか?と言われてる 日本最古のイネの現物(稲籾、籾殻、炭化米)は2930年前のもの 前10Cより前に稲作はない 日本に野生稲は無いから稲が見つかったら育てていたということ。 しかも岡山など各種イネ科穀物が一緒に見つかってるから、 災害対策や年中収穫のために複数種類のイネ科穀物を畑作していた。 未だに縄文稲作を否定してる負け組がいるんだなw 現実世界で相手にされないからここで愚痴ってるんだろうけどw >>421 では前10Cより前に稲作があったと中卒ギャグ飛ばしてる論文は? 10年ほど前の学説だと、 ○縄文時代の陸稲は4000年前に開始、 ○弥生時代の水田稲作は2400~2500年前に開始、 がそれぞれの通説だった。 それらが土器に付着した炭化物分析によって大幅に前倒しになった為、 韓国側でも慌てて、朝鮮最古の水田跡を3100年前に前倒しして、対抗してますが、 3000~2500年前の朝鮮南部水田はどれも、九州方式とそっくり同じであり独自性がなく、むしろ北部九州から朝鮮南部に稲作が伝来した可能性高い、と日本側研究者は反論、 日韓双方とも年代測定そのものが信用されてない。 >>423 で、その10年ほど前の学説の縄文時代の陸稲が4000年前に 開始したという中卒ギャグ論文は? で、むしろ北部九州から朝鮮南部に稲作が伝来した可能性高いと 日本側研究者が反論している中卒ギャグ論文は? >>423 今では、 縄文時代の陸稲は6000年前に開始、になってるね。 水田についてはどちら側で開始されたか、ではなく、 対馬海峡を保有する勢力が、それぞれの対岸領土で開始した、 ということだろうね。 古墳時代になっても韓鍛治と倭鍛治では作るモノのレベルが違うからな 包丁レベルなら倭鍛治でも良いが飾太刀のような高級品はジャップには作れなかったし韓鍛治の技術は倭鍛治の職人が一見して真似できるようなものではない 模倣は簡単と思ってるネトウヨはモノづくりを舐めているな 燕〜遼西勢力:青銅器を売りたい 倭:絹と米を売りたい 両者の間の地域にそれらが見つかってるだけ >>425 中共 五毛党 日本侵略部隊のおまえ一人の中だけでな(嘲笑 で、その10年ほど前の学説の縄文時代の陸稲が4000年前に 開始したという中卒ギャグ論文は? で、むしろ北部九州から朝鮮南部に稲作が伝来した可能性高いと 日本側研究者が反論している中卒ギャグ論文は? 早く出せよ南支那ブタチック広鼻ブラック >>425 中共 五毛党 日本侵略部隊のおまえ一人の中だけでな(嘲笑 で、陸稲が6000年前に開始したという中卒ギャグ論文は? 早く出せよ南支那ブタチック広鼻ブラック 沿海州ウラジオストク北部では、7700年前の人骨から、Y染色体C2とミトコンドリアD4が検出されてて、明らかにツングース系の祖先。 中国でY染色体O2は下層農民が多かったから、O2のペアがミトコンドリアD4じゃないかな? 本来ツングース系はC2とO2の混血、言語はモンゴル語に近い 12000人前のスンダランド系人骨が韓国でも見つかってる。 朝鮮半島では先に南方系民族が流入して、数千年後に北方系民族と混じり合った。 14000年前にO1b2が日本と朝鮮半島の両方に流入したと考える研究者もいる 海人族のO1b2が北九州に来て、朝鮮には来なかったら不自然 縄文草創期に朝鮮半島に来たのは、肌が浅黒く丸っこい顔の南方モンゴロイド系であって、古モンゴロイド的な港川人とは形質が違うそうです D1a2aの縄文人骨が見つかってるのは東日本ばかりです。西日本では皆無 >>456 縄文後期の寒冷化に伴って西日本に移ったに過ぎない。 それがバレたら、近隣諸国の領土問題に発展しそうだから、政府は隠したがってる 韓国側は対馬を自国領土に編入したがってる 中国側は沖縄を自国領土に編入したがってる 韓国側は出雲王国や大和朝廷を扶余族が建てた王朝と見てる 中国側は九州倭国を江南人が建てた王朝と見てる キリシタン大名が邪馬台国連合の末裔 宮内庁も感づいてる 円筒土器の担い手の基層言語が、ズーズー弁として残った >>456 佐賀の縄文時代早期男性のY染色体ハプログループはD1b(D1a2a) D1a2a2を定義するSNPでD1a2a2型のヴァリアントが見つからなかったので多分D1a2a1 https://doi.org/10.1537/ase.2012132 2万年前の沖縄にはY染色体R・ミトコンドリアB4も来てた。 >>463 それって8000年程前の東名遺跡の人骨じゃね? O1b2a1a1が2100年前の遼寧省である訳ない。 弥生早期には長崎県佐世保にO1b2a1a1が来てるだろ 日本人男性のコアタイプO1b2a1a1-CTS713(日本男性の4分の1を占める父系)が縄文系であるはずがなく、中国人と共通の祖先を持つ年代は2100年前頃の例が多くて、パターンも多いです。CTS713中国で最も比率が高いのは遼寧省であり、共通祖先関係は2100年頃のCTS203で、割合が最も高い地域も遼寧省である。 https://x.com/C1a1_M8/status/1769426187636572399 少数の渡来人が天水農業を導入し人口急増、弥生前期末には縄文人との混血も進み、後の日本人の原型となった。 雑穀焼き畑農法は縄文時代から有ったことは学者たちもほぼ認めてる その雑穀のなかに稲も有ったことも、籾痕土器で証明済。 仮に渡来人が日本に辿り着いたとしても、食糧が底をつけば生存出来ない。 適度に寒い韓国・日本より、農業生産性の高い東南アジアに移住したがる中国人が圧倒的に多かった。 6000年ほど前に熱帯ジャポニカ米を岡山に持ち込んで陸稲栽培を始めたのは、明らかにスンタランド人。スンタランドは6000年前に水没してる。 O1b2aがインドネシア西部に16%、ベトナムに4.3%ほど残存しており、O1b2a1a1は縄文前期までにベトナム辺りから船で直接、北上して日本に上陸した可能性高い。 それに対し、7000年前の江南地方に水田稲作を普及させたのがO1b2a1a2。山東省・遼寧省や朝鮮半島を経て、4000年かかってようやく北部九州に伝播してる。 その証拠に日本におけるO1b2a1a2とO1b2a1a3の割合は、北海道で最も多い。 O1b2a1a2aは6000年前に北海道で発生し、サハリン経由で大陸に渡って、朝鮮半島や満州に広まった可能性大。 >>471 O1b2a1a2aの比率は関東・東北地方で低い。弥生時代に来た渡来系。 >>471 6000年前に稲作の痕跡なんかないぞ南支那セローイブタロプス中共工作員(嘲笑 >>471 湖北・湖南省にO1b2a1a2bが数%ずつ確認出来る。 ベトナムから陸路で北上したのがO1b2a1a2、海路で北上したのがO1b2a1a1かな? >>471 湖北・湖南省にO1b2a1a2bが数%ずつ確認出来る。 ベトナムから陸路で北上したのがO1b2a1a2、海路で北上したのがO1b2a1a1かな? >>471 考古学・考古遺伝学的に論証が存在しない事ってのはどれだけの範囲の想像を許す事になるのだろうか O1b2は古人骨では明らかに弥生時代にしか存在しないハプロでしょ?最古のもので2500年前ほどだったと記憶してるが しかし弥生時代の渡来人で代表的に語られるサブグループでもあり、弥生時代の開始を前進させる解釈が主流になりつつある昨今では 状況証拠的に少なくとも3000年前から存在してる事になる 他に発生と分岐を見れば分子時計の概念からして縄文時代のかなり古い時期、 鬼界カルデラ噴火時には既にいた可能性も出てくると某スレで議論中 O1b2a1a1-CTS713は47zの下の重要な分岐で、このタイプは3500年~3000年前に連続して分化し、その中のY130364は明らかな人口爆発があった。日中韓の祖先を共にする年代は3400年前。中国では主に漢族に集中しており、近代的に中国に移った朝鮮族を除いた統計では、遼寧省のCTS713の割合が最も高かった。 https://x.com/C1a1_M8/status/1725522768488493468 O1b2a1a1-CTS713、O1b2a1a2-F2868(K4)は日本渡来系の主なタイプで、この二つのタイプの中国での割合が最も高かったのは遼寧省で、O1b2-P49の割合が最も高かったのも遼寧省だった。中国朝鮮族を除いた統計だ。ちなみに、C1a1-M8も遼寧省の割合が最も高いです。 https://x.com/C1a1_M8/status/1408280589938032642 >>477 ウィキペディアの新しい記事を読みましたが、 O1b2a1a1とO1b2a1a2の分岐年代が5208~6060年前と前倒しになってて、従来説の8000年ぐらい前と比べて相当な開きがある。 そのソースの信憑性がちょっと疑問に感じます。 アイヌ人のY染色体ハプログループ D1a2a 75% C2a2 25% 韓国人のY染色体ハプログループ O2 40% O1b2a1a2a 33.3% C2b 9.3% D1a2a 4% O1b2a1a1 4% O1a 2.7% N 2.6% O1b1 2.6% R 1.3% インドネシア西部のY染色体 O2 36% O1a 20% O1b1 12% O1b2a1a1 8% O1b2a1a2 8% R 4% その他 インドネシア・ボルネオ島のY染色体ハプログループ C系統 5% K系統 10% O1a 15% O1b系 37.5% O2 17.5% >>483 戦前のインドネシア駐留日本陸軍23万5800人 1950年のインドネシアの人口7700万人 O1b2の16%が日本軍兵士の産ませた子孫だとすると、数百万人の子孫になってしまい、ちょっと多過ぎる。 それだったらオランダ軍兵士の子孫も混じってないとおかしい。 >>483-484 ベトナム人のY染色体ハプログループ割合 O2 40% O1b1 27.1% O1a 5.7% C2 4.3% D1b1 2.9% N 2.9% O1b2a1a1 2.9% O1b2a1a2 1.4% 他 >>487 ベトナム人Y染色体ハプロの続き Q 7.1% R 1.4% >>487 O1b2が旧日本軍兵士の子孫なら、D1a2aも同じように出て来ないのは矛盾する。 >>483 37人中の3人で8%だから、たまたま日本人子孫の家族に当たったのでは? 江戸時代初期には山田長政やら侍傭兵やらが活躍していたらしいし。 5900年前の埼玉人骨のY染色体ハプログループはオーストロネシア系E1a1a ミトコンドリアDNAの遺伝子配列は現代マレーシア・インドネシア人と酷似 Yハプロだけが民族を示す指標ではないが、言語とYハプロに相関性があることは分かってるから、そこからジャップの起源を推測する事ができる O1b2が日琉語集団を表す遺伝子的な標識で、これは南満洲や韓半島からやってきたものだ 縄文人はアイヌ語集団の先祖であって、彼らは日本民族ではなかった 日琉系は大陸起源で弥生人として日本列島に移住してきたのである ネトウヨの妄想は完全に崩れ去ったのである So, at present, the genetic evidence obtained from present-day human males tends to indicate an origin of haplogroup O1b2 (including the numerically predominant O1b2a1a subclade) among an ancestral Japonic population, はっきり、日本のO1b2の方が朝鮮人のO1b2より先祖型と言っているな。 これが現時点でのYハプロ研究の結論だね。 >>494 朝鮮半島で民族間で争いがあったのだろう 古いO1b2の民族が新勢力のO1b2に争いで負けて日本列島へ逃走した そして日本で勢力を拡大した 日本人男性のコアタイプO1b2a1a1-CTS713(日本男性の4分の1を占める父系)が縄文系であるはずがなく、中国人と共通の祖先を持つ年代は2100年前頃の例が多くて、パターンも多いです。CTS713中国で最も比率が高いのは遼寧省であり、共通祖先関係は2100年頃のCTS203で、割合が最も高い地域も遼寧省である。 https://x.com/C1a1_M8/status/1769426187636572399 O1b2a1a1-CTS713は47zの下の重要な分岐で、このタイプは3500年~3000年前に連続して分化し、その中のY130364は明らかな人口爆発があった。日中韓の祖先を共にする年代は3400年前。中国では主に漢族に集中しており、近代的に中国に移った朝鮮族を除いた統計では、遼寧省のCTS713の割合が最も高かった。 https://x.com/C1a1_M8/status/1725522768488493468 O1b2a1a1-CTS713、O1b2a1a2-F2868(K4)は日本渡来系の主なタイプで、この二つのタイプの中国での割合が最も高かったのは遼寧省で、O1b2-P49の割合が最も高かったのも遼寧省だった。中国朝鮮族を除いた統計だ。ちなみに、C1a1-M8も遼寧省の割合が最も高いです。 https://x.com/C1a1_M8/status/1408280589938032642 旧石器時代の遺伝子までが残存してるのは、海水に含まれる塩分のミネラルを水産物から摂取していたからです。 >>499 陸上動物や穀物から摂取していた場合とどう違うの? 人間にとって海水中のミネラル成分の方が、最もバランス良く、体内で吸収されやすい。 >>444 ツングース系民族は、1万年前にC2とO2とNが混血した子孫。 >>508 長江文明はO1b1な O1b2は無関係 半島にそんな古い時代からO1系いたのかな? 土器の出土状況から見て半島に存在したのはN系の方なんだけどよ 日本にはそんなにいないから大した交流はなかったのやろ モンゴル系Cってのが拡散したのそんな古い時代じゃねえんだよ もともとは満州あたりでも東部の方に偏っていたまだ歴史にも登場しない連中ら トルコ系と言われるハプロQ系の方がモンゴル高原では支配的立ち位置として君臨していた 彼らがモンゴル高原から去ることによりハプロC系が入れ替わるような感じで増えていったのだ >>505 1万2千年前~7千年前までは最終氷期からの回復期のためほぼ無人地帯 11ヶ国35の研究機関による共同チームの2021年の論文 「言語学・考古学・遺伝学を分析した結果、日・韓・ツングース・モンゴル・チュルク語族の起源は、9000年前の遼河キビ農民」と判明。 遼河文明から南下して6000年前に朝鮮西部に定着した勢力が、後の百済 同時期に、 遼河文明から東進して沿海州南部に定着した勢力が、後のニヴフ 縄文海進ピーク時に、九州から北上して朝鮮東部に定着した勢力が、後の新羅 3300年前に、山東省や遼寧省から朝鮮北西部に移住した勢力が、後の高句麗 >>514 アルタイ語族の起源については、4000年前に、中央アジアから広まったと言う説が有力。 >>514 その研究結果は韓国寄りの視点に立ってる。紅山文化を古朝鮮が継承したとする誇大妄想。 縄文前期の温暖化時代に、中国の畑作農民が満州に進出、アムール川流域のモンゴル系遊牧民と混じり合い、半農半猟のツングース系民族が成立。 韓国人は、自分達のルーツが衛生観念がない低俗な種族と言われるのを否定したがる傾向にある。 縄文中期・朝鮮南部人骨から抽出されるミトコンドリアDNAは北方系のAが多い。小竹貝塚にも170cm高身長のA・Gが来てる。Zは来てない。おそらくツングース系だろう。 >>491 茨城・千葉の縄文人骨は丸顔が多い。 東南アジア系の海人族が関東の海岸部で漁業を営みながら、内陸部で狩猟採集を生業とするD1a2aと住み分けていたのかもしれない。 航海能力が発達したのは9世紀後半。それまでは日本海で海難事故がしばしば起きてた。朝鮮半島南端から九州北部へ渡るには対馬海流と風の関係で当時の小さな手漕ぎ船では命懸けの航海。運良く死なずに辿り着いたとしても新潟あたりか、最悪の場合は北海道まで流されました。 百済から武蔵の国への渡来人は2千人ちょっとという記録が残ってます。しかしその3年後には700人の百済渡来人が武蔵から近江に移住してます。近江には百済渡来人がそれ以前から来てた。したがって日本に来た百済渡来人というのは、実際には数的にそんなに多くなく、教養のある技能移民に限られてた 百済、伽耶を支配していた人達は長江流域から船で渡って来たアジア版バイキング。 Y染色体ハプログループO1bの遺伝子構成比率は、 日本32%、 韓国32%、 バリ島59%、 ジャワ島42%、 ベトナム33%、 中国少数民族ヤオ族(広東省)40%、 漢民族16%、 スマトラ島14%、 台湾先住民族11%、 フィリピン3%となっており、 東南アジアルーツであると考えられる。 旧式の陸稲栽培発祥地は海面上昇のため、1万4千年前~6千年前に水没した東南アジアのスンダランド。しかし水稲の起源は7千年前の長江流域。 縄文時代から古墳時代にかけて優れた航海術を駆使したマレー系が大陸との海洋交易を通じて稲作・照葉樹林・鉄製農具・漢字・仏教などを日本文化にもたらし、万葉仮名の創作によりオーストロネシア系の発音がツングース語の文法と組合わさって、後の日本語が出来た。 弥生時代にマレー系は東アフリカのマダガスカルにまで多数移住して稲作を伝えた。 古代マレー系民族は東シナ海両岸で活発に海洋交易を営み、長江流域の呉文化が自然と日本に入って来た。 中国東北部・黄河流域と朝鮮半島・沿海州は気候が寒い地域なので、古代から畑作農業地帯であり、一般庶民はアワ・キビ・麦などを主食にし、肉やコメは貴族の贅沢な食べ物でした。 それに対し倭国連合は水田稲作と漁業・海洋交易を基盤に栄えた国であって、長江流域・中国南部と深い関係があったのは明らか。 「子供の割合、全人口の11.3% 50年連続低下」 5月5日は「こどもの日」です。 日本の全人口に占める子供の割合は 11.3%で、この50年、下がり続けています。 総務省統計局によりますと、今年4月1日時点の 15歳未満の子供の数は前年より33万人少ない1401万人でした。 47都道府県全てで減少しました。 都道府県別で見ると、子供の割合が低いのは 秋田県、青森県、北海道と、3位までは去年と同じ順位です。 一方、子供の割合が多いのは沖縄県、滋賀県、佐賀県などで 九州勢が目立ちます。 ■子供の割合 少ない順位 (1)秋田県9.1%(2)青森県10.0%(3)北海道10.1% (4)岩手県10.3%(5)高知県10.5% ■子供の割合 多い順位(1)沖縄県16.1%(2)滋賀県13.0% (3)佐賀県12.9%(4)熊本県12.8%(5)宮崎県・鹿児島県12.7% https://news.ntv.co.jp/category/politics/7975125a91fe421caa708cddd00bdd39 高度な灌漑水田を作るには、測量技術・土木技術と共に鉄製農具が必要になってくる。 小麦・アワ・キビ・ソバ・大根・モモとは違って、稲作渡来民が弥生前期に入植した証拠と言える。 稲作渡来民がやって来といて最古稲作遺構があんなショボいのかよ 第一層には農具もないぞ 「子供の割合、全人口の11.3% 50年連続低下」 5月5日は「こどもの日」です。 日本の全人口に占める子供の割合は 11.3%で、この50年、下がり続けています。 総務省統計局によりますと、今年4月1日時点の 15歳未満の子供の数は前年より33万人少ない1401万人でした。 47都道府県全てで減少しました。 都道府県別で見ると、子供の割合が低いのは 秋田県、青森県、北海道と、3位までは去年と同じ順位です。 一方、子供の割合が多いのは沖縄県、滋賀県、佐賀県などで 九州勢が目立ちます。 ■子供の割合 少ない順位 (1)秋田県9.1%(2)青森県10.0%(3)北海道10.1% (4)岩手県10.3%(5)高知県10.5% ■子供の割合 多い順位(1)沖縄県16.1%(2)滋賀県13.0% (3)佐賀県12.9%(4)熊本県12.8%(5)宮崎県・鹿児島県12.7% https://news.ntv.co.jp/category/politics/7975125a91fe421caa708cddd00bdd39 弥生時代の水田跡面積で比較すると、圧倒的に畿内が多く、九州はショボい。 それでも遺跡数では質量ともに九州が圧勝してる。 古墳時代に中国から24節気農法が伝わる迄は、日本各地の水田開発はあまり上手く行ってなかったものと思われる。 水田跡面積ってあんた 平城京平安京の水田跡面積を検討してどうなんのさ 秦氏の先祖、功満王・弓月君とその従者たちは近畿に最初の機織り技術や24節気農法、道教思想などをもたらした職人集団。 卑弥呼が魏に絹を送る以前、黄巾の乱を避けて中国から来日し、吉備中心の初期形式の古墳築造に中国の版築技術を導入。 応神天皇の時代に功満王の末裔が新羅から大挙渡来、日本で秦氏一族と合流したため日本書紀の記録に混乱が生じた。 京都市の神社伝承に拠れば、功満王は秦の始皇帝の14世孫。 『晋書』粛慎伝 粛慎氏、一名に挹婁という。不咸山(ふかんざん)の北に在り、 扶余から六十日の行程。東は大海(日本海)に沿い、 西は寇漫汗(こうまんかん)国と接し、北は弱水(アムール河)に極まる。 『新撰姓氏録』によれば、「秦氏は、秦の始皇帝の末裔」という意味の記載がある。 これは秦氏自らが、権威を高めるために、王朝の名を借りたという説などもある。 『日本書紀』によると弓月君は百済の120県の人民を率いて帰化したとある。 孝武王の子の功満王は仲哀天皇8年に来朝、 さらにその子の融通王が別名・弓月君であり、応神天皇14年に来朝したとされる。 <太秦公宿祢> 秦始皇帝━・・・━孝武王━━功満王━━融通王(弓月王)━━登呂志公━━秦公酒※ 『広隆寺由来記』では次のとおりです。登呂志公=普洞王とすれば、前者と同じです。 秦始皇帝━・・・━功満王━━融通王━━普洞王━━酒秦公 粛慎氏の西は寇漫汗(こうまんかん)国と接し、 この寇漫汗(こうまんかん)国と 秦氏が由来記などで盛んに「功満王━融通王(弓月王)」と言ってるのは偶然じゃ無いな。 旧石器時代と同じ核ゲノムは現代人に12%ほどしか残存してない。 但し縄文時代を基準にした核ゲノムだと20%ほど残ってる。 差し引き8%の大部分がO1b2a1a1だろう。 日本人の顔(3) 歯の人類学的研究 https://ameblo.jp/dr-hirokon/entry-10744505527.html 歯は、人体の硬組織(骨、歯、爪、毛髪)のうち最も硬く、腐敗その他物理的化学的変化に対して最も抵抗性が強いので発掘時にほぼ完全な形で出土してくるので、考古学上でも歯の研究はとても進んだ学問になっています。前々回にやった縄文顔と弥生顔で顕著に表れるのが実は歯の形なんです。1989年クリスティー・ターナー米アリゾナ州立大教授は「アジア人の歯のタイプにより、大きく2つのグループに分けられる」と発表しました。1つは日本人や中国人など北東アジア人で、上顎切歯(上あごの一番前の歯)にシャベル状のくぼむなど複雑な形態をしており、このような歯を「シノドント」と呼んでいます。またもう一つのグループは東南アジアの人々で、切歯のシャベル状のくぼみが弱く、インドネシアなどの島々は氷河期には一つの大きな大陸スンダランドとなっていたから「スンダドント」と呼ばれています。 しかし、このような単純な日本人二重構造説のターナーの仮説に疑問を示したグループも現れました。それが松村博文・札幌医科大学准教授の説で、「縄文人は必ずしも東南アジアからの人々だけでなく早い時期に北方からの影響を受けていたのではないか?」という説です。実はさきほどのシャベル状の歯の出現頻度を調べていくと、弥生以降の関東人は90%、縄文人・アイヌは70%、その頃の東南アジア人で40%でありました。そこで「これまで縄文人のルーツといわれてきた島嶼部の現代東南アジア人の歯は、縄文人とひらきがある。」と指摘されました。 すると当然縄文期にも北東アジア人との混血が日本列島で進んでいたことになります。つまり縄文顔と呼んでいたものはすでに縄文時代には混血がすすみ、今の日本人に近い顔立ちになっていたと考えられます。 倭人は長江文明とはほぼ無関係と言って良い 何故ならばYハプロのO1b1a1a系がほぼいないからだ 中世以降に混血倭寇や朱印船貿易商人や明滅時の亡命者の日本列島到来で華南や東南アジア系の血が入ってなお、現代ジャップのO1b1a1a系統はゼロに近い状態だ この状態で長江文明の末裔などありえぬことだ ネトウヨは素直に倭人は遼河文明人の末裔と認めるべきであろう 遼河文明って内陸の畑作だろ? 日本文化は米と魚。 どちらも長江河口の倭人文化。 秦氏はO2a2とN9a, 呉はO1a、 越はO1b1、 楚はO2b(日本には徐福集団として来た)、 高句麗と百済はC2b、 帯方郡はO1b2a1a2a、 新羅はO1b2a1a1(北九州人とツングース系の混血)、 だろう。 >>548 日本の最古稲作遺構に稲作渡来民という稲作のプロフェッショナルが 渡来入植した痕跡なんてない 4m四方のあまりにもショボすぎる水田しかない しかも最初の水田層には農具が一切ない 稲作渡来民なんてあり得ない 単に弥生人が半島から稲籾を持ち帰り、お遊び程度で始めただけのシロモノ >>549 徐福集団が本当に来て入植してたら、まず楼船というジャンク船(帆のある構造船)が 弥生中期から伝わっちまうだろうが(嘲笑 中国は春秋時代から構造船で戦国時代には早くも楼船というジャンク船なんだから 日本に帆船が伝わるのは6Cの古墳期末頃だよ もちろん、あちらの衣食住に関する生活文物や住居である鼎、鬲、甑、竈、釜などの 炊飯器関係も伝わるし、戸建て住居も伝わるし、袴(ズボン)のある漢服や 布靴なんかも伝わっちまう 「徐市」と書かれた金石文も遺すから弥生中期から漢字も伝わっちまうしな(嘲笑 シニガイ文化人って陸稲だろ? 日本文化は米と魚。 どちらも長江河口の倭人文化。 >>553 おまえ最古稲作遺構の菜畑遺跡について一切勉強してない中卒だろ そこには稲作渡来民という稲作のプロフェッショナルが渡来入植した痕跡なんて一切ない 4m四方のあまりにもショボすぎる水田しかないんだぞ しかも最初の水田層には農具が一切ない 稲作渡来民という稲作のプロフェッショナルがやって来ておいて 農具の一つも伝えないとかあり得んだろがカス 稲作渡来民なんてあり得ない 単に弥生人が半島から稲籾を持ち帰り、お遊び程度で始めただけの話 稲作渡来民が日本で縄文土器を取り入れる方が、縄文人が朝鮮半島から水田稲作と太陽神を取り入れるよりも、ずっとハードルが低くて現実的だよ。 替えの効かなさでは、信仰神話神様>>>生活用品、だからね。 ユダヤ人、ピューリタン、チベット人など政治的事情で祖国を離れても頑なに信仰は守ってる。 信仰や神様をアッサリ捨てて、炊飯器に異常にこだわる部族なんかとても想像出来ない。 >>549 O1b2a1a1は呉、ミトコンドリアD4, O1b1は越、ミトコンドリアF、 O1aは楚、ミトコンドリアB系 O1b2a1a2aは百済、 O2とC2bは新羅・高句麗、 >>555 伝わってないのは炊飯器や平皿だけじゃないぞ 戸建て住居も漢服も布靴も、故郷中国の衣食住に関する日常生活の 生活住居も衣類も何一つ伝わってはいない 外来人が列島に入植して衣食住に関する日常生活の炊飯器も飲食器も住居も 衣類も何もかも縄文文化を取り入れたため、故郷の衣食住に関する生活文物や 住居や衣類は伝わらなかったのだという論理が通用するなら世界中のどこからでも 渡来入植したと言えてしまうだろうが詐欺師 メソポタミアから日本列島に渡来入植して小麦作を伝えたが、衣食住に関する 日常生活の炊飯器も飲食器も住居も衣類も何もかも縄文文化を取り入れたため、 故郷メソポタミアの衣食住に関する生活文物や住居や衣類は伝わらなかったのだ オランダから日本列島に渡来入植して丸木舟を伝えたが、衣食住に関する 日常生活の炊飯器も飲食器も住居も衣類も何もかも縄文文化を取り入れたため、 故郷オランダの衣食住に関する生活文物や住居や衣類は伝わらなかったのだ エジプトから日本列島に渡来入植して何にも伝えなかったけど、衣食住に関する 日常生活の炊飯器も飲食器も住居も衣類も何もかも縄文文化を取り入れたため、 故郷エジプトの衣食住に関する生活文物や住居や衣類は伝わらなかったのだ イギリスから日本列島に渡来入植して何にも伝えなかったけど、衣食住に関する 日常生活の炊飯器も飲食器も住居も衣類も何もかも縄文文化を取り入れたため、 故郷オランダの衣食住に関する生活文物や住居や衣類は伝わらなかったのだとか もう何とでも言えてしまうだろがカス そんな中卒詭弁が通用するなら考古学なんか存在しない 何度も言ってるが倭人は水上生活者だったので、生活に関するものは遺跡として残りにくい特殊な事情があった。それは全ての部族民族に当てはまるものではないし、遺伝学で渡来民がどこから来たのかもおよその地理的範囲が限定されるので、西洋人やアフリカ人は最初から除外される。 >>558 バーカ 中国で秦代頃から蛋民が登場したのは楼船というジャンク船(帆のある構造船)の 屋形船(船上に小屋のある船)があったからだぞ 楼船には行竈という簡易な炊飯土器もあったから船上生活ができた 丸木舟でどうやって船上生活するんだよ詐欺師 遺伝学・考古学・言語学、この3つで渡来人のルーツを解明出来る。 だから倭人は船上のミニマリスト。 信仰と技術だけを日本に伝えて、生活に関するものはほとんど現地調達。 潜水漁法という高度なテクニックを持っていたので、自分たちで食べる以上の魚介類を捕獲できた。 >>562 で、丸木舟で船上生活していたという考古学専攻学者論文は? 筏船は解体すると丸太しか残らないので、遺跡としては残らない。 結局日本の文化は何なんだって言ったら、米と魚に行き着くんだよ。米と言っても陸稲じゃなくて、水田稲作な。それプラス太陽神。 で周りを見渡してその3つを兼ね備えかつ遺伝学ともさほど食い違いのない連中となると倭人が一番候補になる。 稲作渡来民が何処から来たのかという壮大なテーマでは無矛盾なシナリオを描くのは現実的ではない。 色んな学問の成果を突き合わせて、これが正しいかなと当たりを付けるしかない。 稲作渡来民なんて中卒ギャグ飛ばしてるヤツは最古稲作遺構の菜畑遺跡について 一切勉強してない中卒だろ そこには稲作渡来民という稲作のプロフェッショナルが渡来入植した痕跡なんて一切ない 4m四方のあまりにもショボすぎる水田しかないんだぞ しかも最初の水田層には農具が一切ない 稲作渡来民という稲作のプロフェッショナルがやって来ておいて 農具の一つも伝えんとかあり得んだろがカス 稲作渡来民なんて幻想 そんなものは存在しない 単に弥生人が半島から稲籾を持ち帰り、お遊び程度で始めただけの話 古墳時代でも貧しい層は、アワ・ヒエ等が主食 奈良時代でも水田面積は50万ヘクタールほど コメは渡来系の子孫がほぼ独占 これでは、縄文遺伝子ちょっとしか残らない。 縄文人は関東にほとんど集まってたからな 関東で稲作が始まるのが前1C 遅えよ 日本語の基礎語彙で多いのは、 ウラル語 シナチベット語 オーストロアジア語 残りは アルタイ語 オーストロネシア語 アイヌ語 日本語と朝鮮語・ニヴフ語の乖離は、5000年前~10000万年前 日本語とアイヌ語の乖離は、10000年以上前 したがって >>514 は否定し難い 縄文末に沿海州から渡来人とともに言葉が入っただけだろ それに南支那以南の東南アジアは13000年前から断続的に華中以北の 新旧のモンゴロイドに流入されまくって交雑しまくってれから オーストロネシア語というのは純粋なスンダランド語じゃなくて シナチベット語の影響を受けまくった交雑言語だぞ 沿海州なんか今の日本文化と何の繋がりもない。 単に今の中国人や韓国人が気に入らないから、何の存在感もない沿海州なんかを持ち上げてるんだろうけど。 >>572 粛慎(みしはせ)として古墳時代から日本の歴史に度々登場してくるが 沿海州は縄文時代から繋がりあるけどな 縄文時代に日本で採れた黒曜石が海渡ってそこまで行ってる 海流があるんだよね。その時代から航路になってる 刀伊とかもあの辺から来てたんでしょ >>575 日本書紀 欽明天皇のときに佐渡に粛慎が来航 >>576 日本海は穏やかな海だから北極星と太陽の位置をチェックするだけで 日本に来れてしまう 渤海使は何十回も来日している read.cgi ver 07.5.1 2024/04/28 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる