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【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬参拾
0001日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/29(金) 07:11:38.99
九州に決まっとろうが?
福岡県山門郡、筑紫、糸島、大宰府、鐘崎、鹿児島県川内、出水、阿久根、宮崎県日向、延岡、高千穂、熊本県熊本、阿蘇、八代、球磨郡、人吉、佐賀県唐津、伊万里、長崎県松浦、佐世保、雲仙、島原、天草、潜木、塩田周辺を今すぐ発掘せないかん!

九州中南部説、九州南部説、魏志倭人伝から邪馬台国の位置を何らかの根拠を以って推測する議論等々も大歓迎!
ただし異説を唱えたい人は必ず根拠を明示すること。
根拠がなければただの妄想やけんね。

議論百出は大いに歓迎。
レッテル貼りで議論から逃げ出すごたる奴は九州男児じゃなかばい!

前スレ
【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬弐拾玖
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1705417470/

過去スレは荒らしや叩きなど醜いレスバに邪魔され続けて住人たちがまともに議論し合えなかったという経緯があります。
同じ轍を踏まないためにも、このスレでは罵倒のみの駄レスを禁じます。
それは声闘という朝鮮人の文化です。
反論は論理的に、それが出来ないのはただの負け犬です。
0002日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/29(金) 07:12:12.15
邪馬台国議論で必ずと言っていいほど議題に上がる水行陸行の記述だが、他の中国史書に照らすと
水行●●陸行▲▲という表現は、「水行ならば●●掛かり、陸行ならば▲▲掛かる」の意味である
これを押さえておかないと正解には辿り着かない

【用例】
通鑑釋文辯誤卷六
https://www.kanripo.org/text/KR2b0012/006#1a
>沈約宋書云?陽太守何承天志新立去江陵陸行四百里水行七百里上?縣
江陵から上黄県まで陸路で200kmほどなので、陸行四百里だけで目的地に着いてしまう
江陵は長江のほとりなので蛇行する川を水行すると陸路は無しで目的地に着ける

【嘉興府志】
https://wenku.baidu.com/view/d78078781711cc7931b71692.html
>{嘉善縣誌}達省城二百里達京師水行四千一百三十裡陸行三千六百二十裡
嘉興府の置かれた嘉興市から京師(首都のこと、当時は北京)まで直線距離で1100kmほど
やはり陸行三千六百二十裡だけで目的地に到達してしまう
また、杭州湾沿岸の嘉興市から沿岸水行して北上し、蛇行する川を遡って北京まで2000kmほどで水行もそれのみで目的地到達、陸路の出番なし
0003日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/29(金) 07:12:48.59
>>2により邪馬台国までの所要時間は水行ならば10日、陸行ならば一ヶ月であると確定したが、
同時に行程が放射読みで書かれていることも導かれる

なぜなら前段に書かれている投馬国へは水行20日とあるので、連続読みならば、訪問者は投馬国に着いた時点で必ず船に乗っていることになる
20日間も船に乗って投馬国まで来たのに、そこからわざわざ船を乗り捨てて3倍も時間の掛かる陸路を選ぶ理由が存在しない
そのままあと10日船で行けば済む話であるから、もし連続読みで記載しているのならば投馬国からの陸路なんて記載する必要が無い

そうではなく、行程が放射読みで書かれているため、伊都国を経由して邪馬台国へ行こうとする中国人への道案内のための文章としては
彼らが船を確保できていないケースも想定しなければならない
なぜなら末廬国から伊都国までは陸行だと書いてある以上、伊都国に到着する中国人は船に乗っていないわけだからな
そのため時間さえかければ陸路でも行けることを併記する必要があった

つまり邪馬台国の場所は伊都国と地続きの範囲、すなわち九州内に限られる
水行のみで行ける場所なので海か大河のほとりであり、かつ陸行も可能なので伊都国との間に通行不能な山塊などは存在しない地域、となる
0004日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/29(金) 07:13:22.92
BS-TBSの諸説あり!の映像らしいが、弥生時代の鉄鏃が大量に出土した場所が九州を横断するように存在している
どう見てもここが邪馬台国と狗奴国が戦闘してた戦線=国境ライン

https://i.imgur.com/31R7rP6.jpg

熊本も菊池川より北側あたりは女王国に属していたようだ
これは免田式土器の分布とも一致する

https://i.imgur.com/4pKQIsd.jpg
https://i.imgur.com/xysLhhD.jpg
0005日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/29(金) 07:14:00.91
◆邪馬台国の場所

383 :日本@名無史さん :2020/05/28(木) 00:59:58.44
さて、こうして狗奴国の領域を考古学的に検証してみると
以前作ったこの地図はかなり正しいように思えるな

309 :日本@名無史さん :2019/09/04(水) 04:03:09.07
>>73-74,247,292-294,305で挙げた内容に>>138,290,295の内容を加味して
総合的に考えた結果こうなった
https://i.imgur.com/8UPzltf.jpg
https://i.imgur.com/pPIaxBU.jpg


当時はまだ免田式土器の知識が足りなかったから狗奴国に阿蘇地域を含めていないなどの欠点はあるが
邪馬台国の位置検討の上では支障無いだろう
0006日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/29(金) 07:14:40.63
考古学的には糸島から遺跡が全く切れ目なく分布している様を見れば早良周辺も伊都国なのは明白
倭国大乱で争ったばかりの隣国とそんなに隙間なく繋がるわけがない
http://wi12000.starfree.jp/map/itoshima_suido.gif.html

伊都国の主体が海人族の安曇なのだから、伊都国の領域は糸島から博多沿岸部にかけてで、
内陸の農耕国家の奴国(春日市一帯)と分かれていたと考えるべきだろう

では切れ目はどこに?と思うだろう
これを見てほしい
http://inoues.net/iron_nakoku.gif

博多湾周辺の製鉄遺跡の分布だが、今宿から早良一帯にかけて多数あるのに対し、
樋井川を境に分布がぷっつりと切れている
そこから東にある奴国の都とされる春日丘陵一帯には全く存在せず、東区あたりからまたまばらに存在する
樋井川は細く国境としてはいささか心もとないが、樋井川のすぐ東には鴻巣山など中央区〜南区の丘陵地帯があり、これが国境を分けたのだろう
ここから読み解けば、樋井川以西は内陸まで伊都国であり、奴国は丘陵を挟んだ東側一帯という分かれ方だったと分かる
また東区に少数とはいえ分布があるということは、やはり博多湾沿岸は伊都国の勢力圏だったということだろう

春日丘陵には多くの青銅器加工遺跡が見つかっているにも関わらず、製鉄遺跡は全然無いというのは特筆するべきことだろう
伊都国は奴国に鉄加工の技術を渡さなかったことになる
鉄は銅より融点が高いため、加工にはより高温の炉が必要となる
海人族の航海術を生かして海外に直接進出していた伊都国のほうが技術力は上だったということだな
青銅の奴国と鉄の伊都国、そんな分かれ方が見て取れる

奴国からも鉄鏃等の鉄器は多数発掘されているので交易により製品は渡っていたが、肝心の加工技術は伊都国が独占していたようだ
これは倭国大乱で争ってからそう時間が経っておらず、大国である奴国を警戒した結果だと考えるのが自然だろう
0007日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/29(金) 07:15:21.32
考古学的にはどう見ても伊都国は当時の先進国
それは紀元前からの流れ

298 :日本@名無史さん :2020/11/24(火) 22:51:33.01
>>234
>伊都王家なんて幻想。独立した存在ではない
そうやって考古学的事実から逃げるから君は事実に辿り着けない
古代史を考えるときに文献から出発するのは間違いの元
まず考古学的事実を確かめ、それを文献から解釈するようにしないと文献の嘘や誤りに流されるだけ

https://www.hitachi-metals.co.jp/tatara/nnp020101.htm
> 現在のところ、我が国で見つかった最も古い鉄器は、縄文時代晩期、つまり紀元前3〜4世紀のもので、
> 福岡県糸島郡二丈町の石崎曲り田遺跡の住居址から出土した板状鉄斧(鍛造品)の頭部です。
> 鉄器が稲作農耕の始まった時期から石器と共用されていたことは、稲作と鉄が大陸からほぼ同時に伝来したことを暗示するものではないでしょうか。

分かるかい?
日本で一番古い鉄器は伊都国から出土してるんだよ
紀元前から鉄を手に入れ、その後も半島航路を牛耳っていた伊都国が畿内の田舎に仕えるなどあり得ないことだ
0008日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/29(金) 07:15:53.28
考古学的に見ても文献的に見ても安曇が伊都王家なのは明白なんだな
キナイコシ君には残念だろうがw
https://i.imgur.com/qQUIcdb.jpg

> 417 :日本@名無史さん :2020/10/14(水) 00:33:35.04
> https://i.imgur.com/Ah5Akjy.jpg
> この図を見れば、航海術を活かして海外と交易していた海人族の国がどこだったか一目瞭然だなw
> 奴国の王都だった須玖には中国銭や楽浪系土器はほとんど無い
> 博多湾の沿岸部にはあるのに奴国の王都にほとんど無いのは何故か
> それは博多湾沿岸部の集落が伊都国に属していたから以外に説明はつかない
0009日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/29(金) 07:16:26.67
220 :日本@名無史さん :2020/10/01(木) 00:05:02.26
>>218
事実を述べられるのがよほど都合が悪いようだねキナイコシ君w

まあそれはそうだろう
3世紀までには安曇は既に近江まで進出して畿内を包囲しつつあったのだから
その安曇が卑弥呼の腹心である伊都国の民ならば畿内説は絶望だもんな
でも君の都合で歴史の真実を曲げることはできないんだよ
諦めて現実と向き合いなさい

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B3%B6%E5%B8%82
> 高島市(たかしまし)は、滋賀県の西部、琵琶湖北西に位置する市。市の面積は県下一である。
>
> 古代の弥生時代の3世紀以前に古代日本を代表する有力氏族である安曇族が定着した。
> 高島の一級河川の安曇川の名称は安曇族に由来する。県名の滋賀県も安曇族に由来すると言われている。(滋賀郡の郡名の由来を参照)


包囲される奈良盆地の図
https://livedoor.blogimg.jp/kodaisikawakatu/imgs/7/b/7b77c3d5-s.jpg
0010日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/29(金) 07:17:00.99
九州邪馬台国が東遷して大和朝廷になったのは状況的にほぼ確か
ではその時期はいつか、となると考古学でみるしかない

九州から本州西部への民族大移動の形跡は破鏡の分布の変遷で見ることが出来る
破鏡とは銅鏡を割った破片で、縁をナイフ状に加工したものや紐を通して首から下げるために穿孔したものだが、
弥生後期から古墳時代にかけて出土する

その分布を見ると、卑弥呼のいた弥生後期〜終末期とそのすぐ後の古墳時代前期で劇的に変化していることがわかる
図は「破鏡の伝世と副葬ー穿孔事例の観察からー」辻田淳一郎 より

弥生時代後期〜終末期
https://i.imgur.com/r08Lrgf.jpg
古墳時代前期
https://i.imgur.com/AeBKKnz.jpg

弥生時代には破鏡の分布はほぼ九州の北半分に偏っていて、本州では九州から海人族が進出していた沿岸部に限られているのに対して
古墳時代になると本州西部全域に分布が広がり、逆に九州からは減少している
九州内でも、弥生時代には熊本平野、大分大野川流域に分布していた破鏡が古墳時代になるときれいに消滅している

破鏡は鏡の破片なので支配者層の持ち物ではなく、それよりやや下級の武人等が身につけたと考えられる
弥生時代に熊本平野に破鏡があるのは狗奴国と戦闘していた邪馬台国の兵が身につけていたものだろう
それが古墳時代に無くなり本州西部に移るのは、弥生末に狗奴国が滅びて九州北部を統一した邪馬台国が本州へ東征を行ったことを示している
このことは、3世紀まで鉄器のなかった奈良盆地が4世紀に入った途端に大量の鉄器が出土するようになることとも符合する

考古学的に見て、神武東征の時期は3世紀末〜4世紀初頭頃
0011日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/29(金) 07:17:34.42
> 825 :名無しさん@1周年 :2019/09/07(土) 22:55:12.63 ID:d3rkd5G50
> 弥生時代の鉄分布と北部九州を代表する海人族阿曇の分布がよく一致する
> 鉄は海人族とともに九州からやってきたんだな
> http://inoues.net/tango/tango_z1.jpg
> http://livedoor.blogimg.jp/kodaisikawakatu/imgs/7/b/7b77c3d5-s.jpg

> 828 :名無しさん@1周年 :2019/09/07(土) 23:01:52.61 ID:yQGATf5S0
> >>825
> 福岡の1621に対して奈良の13が光るねwwww
>
> そこから読み取れるのは、奈良は九州を支配するどころか近隣の山城や河内さえ支配できてなかったってことだな
> そして4世紀以降急に発展するのは九州の海人に征服されてその東国攻略の前線基地になったおかげ、と

> 841 :名無しさん@1周年 :2019/09/07(土) 23:23:21.53 ID:1L9obXG40
> >>825
> >>308の資料と照らしても間違いなさそうだな
> 弁韓の鉄材と鉄加工の技術を持った海人が西日本を席巻していき、やがて東日本をも射程に捉えたので畿内を前線基地にしたのだろう
> だが東に版図を広げるにつれて遠い九州が本国では不便になり、畿内に都を移した、というのが一番しっくりくるストーリーだ
0012日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/29(金) 07:18:03.69
淡路島の遺跡は瀬戸内海を支配した北部九州の海人族の遺跡

弥生時代の海の勢力図
http://www.gondo.com/gyarari/photo/kokunaiiseki/pic/doigahama/a2.jpg
瀬戸内海は北部九州を本拠地とする海人族の支配下


弥生期の鉄製ヤス出土 淡路で近畿初
https://www.infokkkna.com/ironroad/2018htm/2018iron/18iron03.pdf
> エックス線写真で分析した結果、先端から約1・5センチ下方に「かえし」が見られた。
> ヤスや釣り針にかえしをつくるには高度な技術が必要といい、鉄器製造が盛んだった九州などから持ち込まれた可能性がある。
>
> 弥生期の鉄製ヤスや釣り針は、山陰や九州北部で出土する例が多い。
> 愛媛大東アジア古代鉄文化研究センターの村上恭通センター長は
> 「山陰は九州から鉄製漁具を受け入れ、漁民が鉄器の交易を促進した」と分析。
> 今回の発見で、漁具が日本海側だけでなく「瀬戸内側を伝わって来た可能性もある」と指摘する。

https://sun-tv.co.jp/suntvnews/news/2020/11/23/31436/
> 調査の結果、4棟の工房や20棟の竪穴建物跡が発見され、釣り針などの漁具や小刀を含め、およそ170もの鉄器が出土。
> また、九州産のヤリガンナや山陰地方の土器などが見つかったほか、中国から来たとされる青銅鏡の一部が出てきました。

> 九州産のヤリガンナ
> 九州産のヤリガンナ
> 九州産のヤリガンナ
0013日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/29(金) 07:18:45.20
136 :日本@名無史さん :2021/01/11(月) 01:47:53.36
>>70
そうではなくて、北部九州の海人族が本州の沿岸部や淡路島にも進出してたってことだよ
絹の話になるが、絹研究の権威、布目順郎氏の見解によると北部九州は400年ほど養蚕技術を独占して他に渡さなかったという

https://www.jstage.jst.go.jp/article/fiber1944/45/6/45_6_P277/_pdf
> (iv)九州から本州への養蚕伝播――
> 弥生絹は今のところ福岡,佐賀,長崎の3県以外からは出ていない。
> それが古墳時代前期になると近畿,中国,北陸からも絹が出るようになり,九州では北部のみでなく熊本県からも出るようになる。
> すなわち,養蚕がわが国へはじめて伝えられてから少なくとも400年間は九州北部で独占していたことになる。
> 九州から本州への伝播経路としては,瀬戸内海ルートと日本海沿岸ルートの2つが想定される(図4)。
> 魏志倭人伝は,邪馬台国において養蚕・絹織が行われていると記し,その時期は弥生後期に当たる。
> そのことと,上記の事柄とから,邪馬台国の所在地としては,九州北部とするのが妥当と考える。

つまり弥生期の北部九州には重要技術を独占して自らの優位性を保つという発想が既に存在していたわけで、
まして兵器に使用できて絹より軍事的に重要な鉄加工の技術を他国においそれと渡したと考えるのは難しい
海人族自身が現地に行って鉄加工していた痕跡と見るのが正当だろう
0014日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/29(金) 07:19:18.69
http://hero1945.livedoor.biz/archives/50514719.html
> (曽根崎神社の概要)
> ・ 住所:上対馬町五根緒(ゴニョウ)字平山188番地
> ・ 社号:「対州神社誌」では「氏神曾根山房」。「大帳」に古くは曽根崎神社とある。
> ・ 祭神:五十猛命(イソタケルノミコト)(大小神社帳)→阿曇磯武良→阿曇磯良
> ・ 五十猛(イソタケル)は磯良の別称、磯武良(イソタケラ)と云われる。
>  同じ五根緒村にある「大明神」の祭神が、「磯良」となっており、浜久須村の霹靂神社(熊野三所権現)の由緒で「明細帳」に、
>  「神功皇后の御時雷大臣命、安曇磯武良を新羅に遣せられ、雷大臣命彼土の女を娶り一男を産む。名づけて日本大臣の命と云ふ。
>  新羅より本邦に皈(カエ)り給ふとき、雷大臣日本大臣は州の上県郡浜久須村に揚り玉へり。磯武良は同郡五根緒村に揚れり。
>  各其古跡たる故、神祠を建祭れり。雷大臣日本大臣を霹靂神社と称し、磯武良を五根緒浦神社と称す。」
>
> と、あることから、当社の祭神、五十猛はやはり磯武良と同一とするのが妥当である。

安曇磯武良が上陸した五根緒村に彼を祀る神社を作ったと記録があり
そこには現在イソタケルを祀る神社が現存しています
ここに至ってまだ安曇磯武良とイソタケルが同一人物だと理解できないのは知恵遅れだけです
0015日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/29(金) 07:19:45.88
対馬の霹靂神社には磯武良も祀られている
式内社なので言うまでもなく江戸時代どころの話ではなく、はるか昔から磯武良の呼称は存在する
キナイコシ君がどんなに捏造しても無駄

https://genbu.net/data/tusima/ikaduti3_title.htm
> 霹靂神社
> いかづちじんじゃ
> 長崎県対馬市上対馬町大増1073
>
> 式内社 對馬嶋上縣郡 能理刀神社
>
> 御祭神
> 雷大臣 日本大臣 磯武良
> 伊弉諾尊 事解男 速玉男 『大小神社帳』
0016日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/29(金) 07:20:31.75
鹿島のタケミカヅチは安曇磯良だから九州系

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E6%9B%87%E7%A3%AF%E8%89%AF
> 民間伝承では、阿曇磯良(磯武良)は豊玉毘売命の子とされており、「日子波限建」(ひこなぎさたけ)と冠されることのある鵜葺草葺不合命と同神であるとする説がある
> (磯と渚はどちらも海岸である)。また、『八幡宮御縁起』では、磯良は春日大社に祀られる天児屋根命と同神であるとしている。
> 『磯良ト申スハ筑前国鹿ノ島明神之御事也 常陸国鹿嶋大明神大和国春日大明神 是皆一躰分身 同躰異名以坐ス 安曇磯良ト申ス志賀海大明神
> 磯良ハ春日大社似祀奉斎 天児屋根命以同神』(愚童訓より)

http://www.genbu.net/saijin/isora.htm
> 袋中上人の『琉球神道記』には「鹿島の明神は。もとはタケミカヅチの神なり。人面蛇身なり。 常州鹿島の海底に居す。
> 一睡十日する故に顔面に牡蠣を生ずること、磯のごとし。故に磯良と名付く。 神功皇后、三韓を征し給うときに、九尾六瞬の亀にのりて、九州にきたる。
> 勅によりて、梶取となる。また筑前の鹿の島の明神。和州の春日明神。この鹿島。おなじく磯良の変化なり」とある。


古代にも要職にある人物等は事実を知っていたらしく、宮城の磯良神社では坂上田村麻呂が筑前志賀島ではなく常陸国鹿島郡から磯良を勧請している
つまり茨城の鹿島神宮に祀られるタケミカヅチが安曇磯良だと坂上田村麻呂は知っていたわけだ

http://miyagitabi.com/sikama/isorajinja/index.html
<磯良神社の由来>
> 延暦23年(804)、坂上田村麻呂が常陸国鹿島郡から磯良明神を勧請して祀ったもので、阿度目神・河童明神ともいい、「おかっぱ様」という名前で広く知られています。
> 古くはここから南方にある真山三十郎(大崎氏の家臣)の屋敷の氏神として祀られていましたが、後に現在地に移されたといわれています。
0018日本@名無史さん
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2024/03/29(金) 07:21:42.28
>>4のデータについて

184 :日本@名無史さん :2021/03/16(火) 23:57:12.76
>>159
>>114で何ら問題無いし、やはり>>4の考古学事実に照らすと筑後山門が妥当だろう

>此れだけ広範囲の調査には、30年100億円規模の調査費が必要だが、どこの公的機関が調査を行ったのか教えてくれないか??
広範囲の調査とか言い出すのはちょっと常識が無さすぎないか?
普通に考えれば各地の発掘状況をまとめた結果だと分かるだろうに
ソースはもう>>4で提示されているのだから、ソースのソースがほしければ自分で番組に問い合わせればいいだろう

と言いたいところだがググったら割とすぐそれっぽいのが見つかったから出してやろう
孫引きだが川越哲志氏の「弥生時代の鉄分化」が出所のようだ
https://pds.exblog.jp/pds/1/201802/21/45/a0237545_16344442.png
0019日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/29(金) 07:22:08.33
>>10補足

923 :日本@名無史さん :2022/03/16(水) 12:54:07.02
>>10
大中遺跡発見60周年記念春季特別展「弥生集落転生-大中遺跡とその時代-」(兵庫県立考古博物館)
https://web.pref.hyogo.lg.jp/kh01/yayoisyuurakutennsei.html
> 竪穴住居が数多く見つかり国の史跡に指定されている大中遺跡は、弥生時代から古墳時代へ社会が移りゆく時期に突如として大きな集落に成長します。
> この頃になると、東播磨ではそれまでの集落から様相が変化し、弥生のムラが生まれ変わります。

> 【おすすめの展示品】
> 1.大中遺跡出土鏡(播磨町郷土資料館蔵・画像提供)
> 大中遺跡で発見された中国からもたらされた鏡の破片です。5センチメートル程度の小さな破片ですが、孔があけられていて割れ面が擦り減っていることから、
> 割れた後もペンダントのようにして大切に使われていたことがことがわかります。

> 3.大中遺跡出土鉄製品(当館・播磨町郷土資料館蔵)
> 大中遺跡の調査研究を進めるなかで、新たに短剣や鋤(すき)、ヤリガンナ、板状の鉄製品などが発見されました。
> 弥生時代の集落から多様な鉄製品が見つかる例は多くなく、大中遺跡が大きなムラであったことがうかがえます。
> また、出土した全長10センチメートルの短剣は、墓以外で発見された貴重な例です。


確かに弥生時代から古墳時代へ移り変わった頃に集落の巨大化と破鏡の伝来があったようだな
多様な鉄器と共に出土しているのは鉄原料の輸入を独占していた北部九州との関係抜きにはあり得ないから
東征の結果と見ることには妥当性があるな
0020日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/29(金) 07:22:35.14
カバネについて
臣が外様で連が譜代

> 989 :日本@名無史さん :2020/11/21(土) 23:18:49.29
> >>987
> それは県主が畿内系という解釈が間違っているだけ
> 連(ムラジ)の姓を持っているということは神武以前からの皇室の家臣の家系
>
> のちの氏姓制度には古代氏族の関係性が現れている
> 姓(カバネ)の中で特に有力だったのは臣(オミ)と連(ムラジ)の2つだが、この両者には外様と譜代の違いがある
>
> https://kotobank.jp/word/%E6%B0%8F-34455
> > 日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
> > 臣姓豪族は皇別すなわち天皇の後裔(こうえい)と称するのが一般であり、連姓豪族は神別すなわち神代の昔から皇祖の神々に奉仕した
> > 神の後裔と称しているが、これは江戸時代における外様(とざま)大名と譜代(ふだい)大名との違いにも比せられる。
> > すなわち、臣姓豪族は天皇家と連合して大和政権を構成した有力豪族、連姓豪族は大和政権の盟主としての天皇家の地位、
> > 実力の向上に伴って頭角を現した家政機関のおもだった役人あがりであり、その家政機関が拡大改組されて大和政権の中枢機関となったのである。
>
> 神代の昔から皇祖に仕えた、つまり神武東征以前から皇室に付き従っていた元々の皇室の臣下が連の姓を与えられている
> たとえば北部九州が本拠地の安曇氏が連姓、これは皇室が九州起源であることの根拠となる
> 逆に畿内の土着勢力の王家は臣姓となった豪族の中にいると考えられる
>
> 筑後山門の物部氏は大連となった連の中の連なので、当然東征前からの重臣ということになる
> 筑後山門の邪馬台国に仕えていたと見るのが自然だろう
0023日本@名無史さん
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2024/03/29(金) 12:06:35.29
シン日本古代史 概論
カテゴリ:シン日本古代史
◆シン日本神代古代史◆
高天原=邪馬台国=九州北部
天照大神=卑弥呼+台与
天孫(族)ニニギ命=邪馬台国系の代官一族

神武天皇以降は、邪馬台国連合から独立した。
十代崇神天皇が邪馬台国を制圧したので、天照大神=卑弥呼+台与が祟った。

「高天原=邪馬台国=九州北部」説の初論者(おそらく)は、益田謙三『赤裸々の神代』(大正8年)

天照大神の生誕地=筑紫の日向(九州の南or北)
天孫(族)降臨地=対馬国・壱岐国・伊都国
天孫ニニギ命の名前=アメ「ニキ」シクニ「ニキ」シアマツ「ヒコヒコ」ホノニ「ニギ」ノ命
邪馬台国から伊都国へ派遣されたの代官名は「爾支ニキ」
対馬国と壱岐国の代官名は「卑狗ヒコ」

日向三代は邪馬台国の代官の系統なので、独立した存在とは言えないから、天皇とは認定されなかった。
畿内に独立国を成立させた神武天孫族系が、その後に高天原=邪馬台国と勢力争いになって、十代崇神天皇の御代に、かつて祖先が属していたた高天原=邪馬台国を制圧してしまった。
欠史八代は天孫族と高天原=邪馬台国との争いの歴史なので、古事記・日本書記の記述はカットされた。

・・・なので、天照大神=卑弥呼・台与に祟られる事となった。
崇神天皇は祟りを鎮める為に、
ニニギが台与から授かった、ヤタの鏡を地元神と一緒に宮中で祀ったが、祟りが収まらないので場所を替えて祀った。
そして後に、ヤタの鏡は倭姫に託された。
それが、伊勢の神宮の由来である。
0024日本@名無史さん
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2024/03/29(金) 14:43:12.57
>>18
ここのリインク先は、別人の同名論文で、くだんの図はかかれていないようだ。

川越哲志氏の「弥生時代の鉄器文化」は、同名の別の本らしい。
それを読んでないので、分からぬが、
くだんの豊肥線ぞいの谷間は、数万年前、鉄を多量に含んだ阿蘇火砕流が流れ下ったところ。
今、酸化した鉄鏃のような小鉄塊が至るところから無数に出土してもおかしくない、ご用心、ご用心。
0025日本@名無史さん
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2024/03/29(金) 15:19:35.70
安物の鉄器は3000年も前からあった。しかし、青銅器にも劣るナマクラ鉄。
それに革命的革新をもたらしたのは、漢の第5代皇帝・文帝の頃、1200度くらいに熱する高温炉が開発され、
鋭利な刃物にできるハガネ鉄が発明された。

漢王朝極秘のその製法は、やがて市中に漏れ出し、大量の武器が製造されて、
中国、半島二郡、倭は戦乱の大地に変わった。
「韓、濊、倭、皆したがってこれをとる」とは、このハガネ鉄のこと。
0026日本@名無史さん
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2024/03/29(金) 15:50:20.57
阿蘇市下扇原遺跡・・・阿蘇カルデラ南面にある彌生末期の製鉄遺跡
この製鉄炉の学術調査で、出土鉄の分析から1180度〜1300度までの高温炉の使用が判明。
漢王朝の極秘だった技術が、郡、倭にも伝わっていたことが分かる。
よって、楽浪・帯方二郡傘下の馬韓族の邪馬台国は、熊本・阿蘇で間違いない。 
0027日本@名無史さん
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2024/03/29(金) 22:15:32.20
>>24
そんなすぐにバレる嘘をつくから畿内説は嘘だってバレちゃうんだぞw

元のリンク先はここだが
https://tizudesiru.exblog.jp/238349821/
> 邪馬台国が狗奴国と戦ったとすれば、戦場はは何処だったのか。九州で戦い、二手に分かれて日本海がわと瀬戸内を逃げながら戦ったのかもしれません。
> 鉄鏃が出土する地域は、邪馬台国とつながりの深い所ばかりです。
> 何処で戦ったのか、弥生後期の鉄鏃の分布で明らかです。
> まさに弓矢が弥生の武器でした。
0028日本@名無史さん
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2024/03/30(土) 09:54:51.28
>>27 ・・・オレは畿内説ではないけどな。
このブログにあるのは、川越哲志氏の資料を高島忠平氏がマスコミに提示したということだね。
高島氏は畿内説で、今は表向き博多経由・吉野ヶ里邪馬台国説の人だから、熊本/狗奴国で固まっている。
そこに、そもそもの立場・見解・行動の違いがある。

漢王朝が開発したハガネ鉄生産技術を、帯方郡に敵対した狗奴国が自由に出来はわけはない。
狗奴国は県南の球磨国であり、県北の山鹿菊池の邪馬台国こそ、楽浪・帯方二郡の倭国拠点だったのだ。

つまり2-3世紀、佐賀伊都国+熊本邪馬台国+宮崎投馬国は、
旧彌生の盟主、博多那の津の倭奴国王と戦闘状態にあった。
その関ケ原分け目の合戦が倭国大乱だったのだよ。
そこを正しく認識すれば謎は解ける。
0029日本@名無史さん
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2024/03/30(土) 12:09:35.30
>>184
>普通に考えれば各地の発掘状況をまとめた結果だと分かるだろうに

ご存知の通り、埋蔵文化財は、個人が自由に発掘調査できるわけではない
地元各県の教育委員会が、しかるべき学者・研究者に依頼して公表する。
熊本県分は熊本県教育委員会、大分県分は大分県教育委員会所管であろう。
で、この公式記録は誰がまとめたのであろうか。
0030日本@名無史さん
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2024/03/30(土) 12:15:03.53
https://i.imgur.com/In62R0B.jpg
寺沢センセが監修した県別鉄器出土MAPを
古墳時代初め(3世紀初〜中頃)だけわかりやすいように加工した
0031日本@名無史さん
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2024/03/30(土) 12:27:54.13
>>30
3世紀後葉になると
前方後円墳への鉄器大量副葬によって
九州と畿内の鉄器量が逆転する

3世紀初〜中頃は九州が優位
3世紀後葉は畿内が優位

3世紀中頃にいったい何があったんだ……
そういえば魏から西晋への禅譲もその頃だな
0032日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/30(土) 12:43:01.30
つまり列島に、
日本神話の神武東遷のような劇的変化があったということ、
近世でいえば、御所が京都から東京へ移ったような・・・
0033日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/30(土) 13:36:32.34
>>31
逆転する、つーのが眉唾
古墳の年代が怪しいんだから、集落や住居など生活部分から出土した鉄器量で比較すべき
0034日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/30(土) 13:37:00.01
>>27
>九州に邪馬台国があったとしたら、鉄を持っていたのに、なぜ、邪馬台国は狗奴国に負けたのか? 
>いえいえ、大丈夫です。

>もっと、武器を持ち(武力)、工具を持って生産力を上げていた地域がありました。
>当時、福岡より武器・工具の鉄製品を持っていたのは熊本ですから、そこが狗奴国です。
>邪馬台国の南の国になります。川越哲志氏の「弥生後期の鉄鏃の分布」を資料として、
>高島忠平氏が提示されていました。

熊本・狗奴国説といっても、球磨郡は熊本県の南半分を占め、県下11郡の内で最大の郡だった。
ここが狗奴国だったとみるべきでしょう(球磨郡、球磨川、球磨人=狗奴国)
そして方保田東原のある山鹿市/菊池市が、邪馬台国国衙だったのでは(廣志の耶馬嘉国)
0035ネトウヨ撲滅隊!
垢版 |
2024/03/30(土) 13:44:03.76
ネトウヨ思考
・日本人は縄文人の子孫
・日本語は縄文語の子孫
・Y遺伝子Dが自慢
・縄文文化を縄文文明という
・邪馬台国は九州と主張
・日本が中華に朝貢したのが許せない
・アイヌ人はシベリアからやってきた虐殺者
・なぜかエベンキという民族に関心がある
・古史古伝や日ユ同祖論などのオカルトを信奉
・邪馬台をじゃまたいと呼んでしまう低学歴
・国学者の九州説をなぜか反皇国史観と思い込む
・酸素同位体比年輪法を無視して纏向を四世紀という
・時系列を無視して漢字を現代音で読んでしまう
0036日本@名無史さん
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2024/03/30(土) 17:40:33.07
正しい纏向四世紀をサラッと入れるんじゃんねえ、お前がネトウヨだろ
0037日本@名無史さん
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2024/03/30(土) 17:46:33.64
そもそも日本書紀がウソ八百だ、
あんな山奥に高天原-高千穂王朝があったなんて、
荒唐無稽な万世一系のおとぎ話で、オレの青春を無駄にしてくれた・・、
まして、あの九州の山奥の高千穂に、卑弥呼王朝なんかあるわけがない・・、

関東・関西・中四国・博多の都会育ちお坊ちゃん学者は、皆そう思ってきたんだろな。
特に、昭和一ケタ参入組のほとんどはそうなんでないかな。

馬鹿馬鹿しい、卑弥呼は天照大神だー、
オレがきちんとした平野部に見つけて〆てやるわい・・、
と、平原やら、大宰府やら、甘木朝倉やら、筑後山門やら、纒向の箸墓・ホケノやら、阿波徳島やら・・・

探し回るけど、なーも出てこらっさん。
そら、出るわきゃなかろ。
高天原・高千穂王朝も、卑弥呼王朝も、その山奥の天然の大要塞・高千穂にあったのだ。
曰く、倭人伝の灯台下暗し(笑www
0038日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/30(土) 18:04:18.51
高天原はそのまんま御所市の金剛山の麓の高天の事に決まっとるだろが

地名をよく見てみ

御所だぞ

皇居の事だよ
0039日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/30(土) 18:10:48.34
御所は 京都にもある、
皇居は 東京にもある、
問題は、それが3世紀前半だったかどうかだ・・、
0040日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/30(土) 18:31:07.23
3世紀中頃に滅びたのが邪馬台国
その後繁栄したのは狗奴国と倭種の国
0041日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/30(土) 18:59:55.92
晋の後ろ盾で、邪馬台国は臺与の時代に東遷した。
狗奴国は其の伴に就いた。
倭種は服属した
0042日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/30(土) 19:04:18.25
高天原は楽浪郡・帯方郡
天の鳥船は、帯方郡の軍船
高千穂は、そのまんま高千穂
みな、日本神話の筋がき通りだ。
0044日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/30(土) 19:17:47.56
@まず「女王国(九州)東渡海千里、複有国皆倭種(本州)、又有侏儒国(四国)在其南、去女王四千里」から九州が確定。
A次に「帯方郡から女王(邪馬台)国に至るまで12,000里(900q)」(1里=75m)
狗邪韓国まで7,000里+渡海1,000里+【対馬400里】+渡海1,000里+【壱岐300里】+渡海1,000里+末盧(松浦)国500里+伊都(糸島)国100里=11,300里(850q)で奴国(博多)に至る。
つまり、博多から残り半径700里(50q)の範囲にあるということになり、糸島➡博多の北は玄海灘🌊、東は不弥国ですので、南(筑紫平野)に陸行するしかなく、博多から吉野ヶ里遺跡(邪馬台=脊振【山】南麓に突き出した舌状【台】地)「宮室楼観城柵厳設、常有人持兵守衛」が50qでピッタリです!
Bそして「其南有狗奴国、不属女王。官 狗古智卑狗、男王 卑弥弓呼(熊本県・菊地平野)」から、【女王国=筑紫平野】であることは確実に読み取れます。

さらに「卑弥呼、事【鬼道】能惑衆、以婢千人自侍、唯有男子一人給飲食伝辞出入。居處宮室、樓觀城柵嚴設、常有人持兵守衞」は吉野ヶ里そのもので、【鬼道】を(鬼籍に入った)歴代倭王(死者)の霊を呼び出すイタコと解釈すれば、主祭殿3階(屋根裏部屋)の祖霊を祀る祈祷室(最高所)はまさに天(太陽)と鬼(死者=歴代倭王)のお告げの声を聴く卑弥呼(日見子=日巫女)にピッタリです!

ちなみに、投馬国からの「南水行十日陸行一月」は呉の背後、つまり「会稽東冶の東(沖縄那覇)にあり」とするための方便(嘘)だとすると辻褄が合いますよ。
https://pbs.twimg.com/media/GImPNooaMAAX5Dw?format=jpg

※魏志倭人伝の蛇足=投馬国⇔邪馬台国「南水行十日陸行一月」(呉の背後)

末盧国↘伊都国↘奴国→不弥国(九州北岸-福岡平野)
...↑▲▲脊振山地▲▲.....↓
女王国(筑紫-日田-宇佐)↓〜複有国皆倭種(本州✖畿内説)
...↓...........【豊後水道】↓〜〜〜↓
狗奴国(菊池+熊本)......↓〜又有「侏儒国」在其南(四国✖阿波説)
......................投馬国(宮崎平野)
............................↓※蛇足「南水行十日陸行一月(嘘)」
会稽東冶〜〜〜架空の邪馬台国島(女王之所都=沖縄那覇あたり)
0045日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/30(土) 20:34:31.62
>>31
銅器が入って来なくなったから、鉄器が供給される
ようになっただけっしょ。

>>37
平野部は湖沼地帯で生活しにくかったんじゃね。

古墳時代の寒冷期は海退が進んで開発し易くなったと。
0046日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/30(土) 22:08:15.70
>>45
確かにそういうこともあるな
古代九州の平野部は今より温暖で、湿地帯にはマラリヤ蚊がいたらしい。
今も、九州の男たちは体中剛毛がはえている人が多いが、
あれはマラリヤ蚊が止まるのを防ぐ効果があるという。

だから古代の貴人たちは、剛毛の上にマラリヤ蚊除けの刺青をして、
涼しい高千穂で、涼しい顔して暮らしていたのだろう。
高千穂住まいは、高級な生活の知恵だったわけな。
0047日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/30(土) 22:25:27.16
蚊は気温が下がると血を吸わなくなる
とすると蚊が原因の伝染病が流行ったら気温の低い土地に住めば良い
果たして古代人は、経験則で蚊の伝染病避けに気がついていただろうか
0048日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/30(土) 23:56:29.50
通訳兼水先案内の役目やってそうな
ヒナモリがつれてくる貿易船以外は
博多湾に入れると思えないし

船は見つけ次第沈めて
物も命も奪っていいってなってそう

正規ルート以外で勝手に船停めていい所から侵入(松浦、唐津)

道案内と通訳と護衛が必要
食べ物や宿を使うなら
軽くて価値のあるモノが沢山必要
しょぼい船を何艘チャーターして渡ったのか?
中国地方歩ける分の貴金属類とか物理的に持てる?
話聞くのもタダじゃないだろ
0049日本@名無史さん
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2024/03/31(日) 00:13:32.12
倭人の酋長よりも明らかに身なりがいい貴人がいかつい護衛に守られてるんだろうから
道の端の草むらに土下座してアイアイサーというのが精一杯
0052日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/31(日) 08:37:57.99
>>48
脳みそ腐ってんのか?
地方の官であるヒナモリがなんで水先案内人するんだよ?
お前の地元では副市長が観光バスガイドでもやってんのか?

正規ルートが松浦唐津なのに何言ってんだ?
パラレルワールドからやってきたのかね?
0053日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/31(日) 10:14:31.28
>>51
ほう、これが女王様の樓觀、城柵、守衛宮殿だったのか
豪勢なもんだ、纒向の古竹の柵とはぜんぜん格が違うわ、、、
0054日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/31(日) 10:56:34.03
>>51
うゎ、すげー!
0055日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/31(日) 14:49:39.42
太国や満州はどこにいったの?
0056日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/31(日) 15:27:00.41
極楽楽浪郡へお帰りになりました。
0057日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/01(月) 01:22:57.01
>>30-31
畿内説の古墳年代は実際より100年古いよ
原因は元々1世紀中頃とされていた池上曽根遺跡を年輪年代法で100年遡って紀元前1世紀中頃にしたことで
畿内の遺跡の推定年代が全体的に100年古くされたが、これが誤りだったせいで全てが狂った
よって畿内の鉄が増えたのは実際には4世紀なので>>10の東遷後の出来事となる


222 :名無しさん@1周年 :2020/01/11(土) 00:38:26.96 ID:h8y9RzJ30
>>202
日本語でおk

池上曽根遺跡は遺物から見て1世紀だ
年輪年代法による紀元前説は疑義が呈されているし、そもそも基礎データが公開されていない
「私のブラックボックスによれば紀元前です」などというのは科学の世界では通用しない

http://washiyamataikoku.my.coocan.jp/keisaironbun.pdf
> 日本では、奈良文化財研究所(奈文研)の光谷拓実が 1980 年から研究を開始し、ヒノキ、スギ、コウヤマキ、ヒバの標準パターンが作成されている
> (図 2。奈良文化財研究所『埋蔵文化財ニュース』99 号 2000 年。および
> 光谷拓実「年輪年代法と文化財」―『日本の美術』421 号 2001 年に鷲ア加筆)。ただし、基礎データは非公開でブラックボックス化している。
> なお、スギの標準パターンはヒノキに連動し作成されており、ヒノキが 100 年狂えばスギも 100 年狂う。この年輪年代法により、弥生中後期および古墳開始期が
> 通説より 100 年遡上し、邪馬台国が古墳時代と重なった。そして今や、この年代遡上論は畿内説を支える最大の根拠となっている。
> しかし、この 100 年遡上論は完全な誤り。基本となる標準パターンの作成時、飛鳥時代で年輪パターンの接続に失敗し、奈良時代〜現代は正しいが、
> 640 年以前(弥生中後期〜古墳〜飛鳥時代)の測定値は全て 100 年古くズレている(表1、表 2 参照。ほとんどがヒノキで、一部はスギ)。


925 :日本@名無史さん :2021/11/29(月) 01:10:26.76
池上曽根遺跡の年輪年代が100年ずれているのは
昨年更新されたIntcal20を用いた炭素14年代でも確認できる

https://www.youtube.com/watch?v=h7zsSM7rcKk
0058日本@名無史さん
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2024/04/01(月) 03:10:00.26
長い時間かけて古くしてやっと卑弥呼時代にたどりついたんだからw
0059日本@名無史さん
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2024/04/01(月) 04:17:40.19
たどりつくとかなんとかそんなもんじゃねえから

適当に合わせりゃいいってもんじゃねえだろ
0060日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/01(月) 05:24:54.87
筑前助広のはまるで漫画みたいで低品質だな・・・
0061日本@名無史さん
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2024/04/01(月) 06:22:50.26
女系をねじ込みたいだけだろ
纏向に宮跡が出土したなら、
崇神天皇の実在が証明されたと主張するべき事案
なのに女王卑弥呼を持ってくるということは、万世一系を破壊するのが目的なのか?
0062日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/01(月) 10:27:15.28
男系とか女系とか万系一世とかお前に何の関係がある?
0064日本@名無史さん
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2024/04/01(月) 12:08:41.33
楽浪郡・帯方郡の肝いりで建てられた卑弥呼の都
その高千穂の宮殿こそ、古事記に云う高天原だった。
つまり天津神とは、渡来の漢民族系馬韓族のこと、弥生以来の古日本人ではない。
0066日本@名無史さん
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2024/04/01(月) 17:24:14.55
朝鮮人といっても、大きく分けて新羅・高句麗(高麗)・漢系朝鮮の三種族になるわけだが、
倭人伝とのかかわりでいうと、
漢の武帝後の楽浪郡時代、漢より渡来して反映した楽浪韓氏のグループは、
倭にも渡来してきた。
やはり、其のこととの関連を念頭に置くべきだろうね。
0067日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/01(月) 19:50:33.38
楽浪・帯方の力の源泉は、
軽くて鋭利なハガネ鉄の武器、或は斧、鋸、鉈、小刀、縫い針など大小の工具。
武力にもなったが、樹木やツタで道を切り開き、材木を整えて橋を掛け、駐屯所や兵舎も作った。
つまり広域統治のためのインフラを整えたことで、邪馬台国7万戸などの大国が続々誕生したわけだ。
それが倭人伝の語る三世紀の九州倭国。
0068日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/02(火) 11:00:56.86
ナマクラ青銅やナマクラ鉄に革命をもたらしたのが、
漢の第五代文帝の時、漢で発明され、彌生末に渡ってきた、軽くて、硬くて、鋭利なハガネ鉄。

持ち込んだのは、勿論楽浪郡・帯方郡。
これを武器に、東の倭種の国々へ突き進んだ。
そして青銅器狩りで集めた銅鐸・銅剣を鋳直し、三角縁にして服属者へ配り直した。
これを知った出雲国では、あわてて銅鐸・銅剣を集め、かんなび山の斜面に隠した。
これが国譲り騒動の一端。
0069日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/02(火) 11:11:45.26
>>66
百済新羅はもはや謎だが
高句麗は北方中国だよ。
唐以降は中原進出。

四郡以降に入った百済王も
高句麗分家だったが
扶余を名乗った。

漢四郡もだが
半島の支配者層は中国系
百済以降で、倭系だが
石器人以来の土民が何か?
は、縄文人より分からない。

中国系の愚民化
奴隷化だっただけなのか?
消えたらしい?
0070日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/02(火) 19:54:12.67
倭人伝論争の戦後昭和の先駆けといえば、
復員兵で、糸島中学に職を得ていた原田大六氏。
平原イト国説を唱えるとともに、東京教育大学教授を師と仰ぎ、
卑弥呼は倭姫(ヤマトヒメ)の名を持つ女性と教わった。

垂仁皇女にヤマトヒメはいるが、残念ながら墓所が明らかでない。
そこで、ヤマトトトヒモモソヒメに乗り換え箸墓説を唱えるところとなり、
それで箸墓は三世紀前半ということになった。
ところが面白くないのが畿内の古学者たち。やがて、そろり横から箸墓説にのめり込むこととなった・・、
0071日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/03(水) 14:05:50.12
天照大御神は卑弥呼だった、というなら、
高天原・天孫降臨神話の高千穂との関係を再整理しなくてはならぬ。
どっちも高千穂ではなかったというのは、根拠に欠け、安直すぎる。

古代のすぐ近くで暮らしていた大和朝廷人は、それなりの自信を持って高天原神話を創作したはず。
古代とはいえ、全くのおとぎ話が、豪族たちの間で通用したとは思えない。
大国主命でさえ、杵築の島に宮殿をしつらえてもらえました。
まして高千穂は九州島のど真ん中、万地の利あり、そして何より天然の大要塞だったのですよ。
0072日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/03(水) 14:15:09.64
3世紀から話を始めるからワケわからん。
2世紀があって3世紀がある。1世紀があって2世紀がある。
少なくても数百年前から始めるべき。文献無いから、妄想しかないけど
0073日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/03(水) 15:37:14.76
後漢書にちゃんと倭国の大倭王の歴史が書かれてる
卑弥呼が初代の大倭王というのは大いなる勘違いだな
0074日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/03(水) 15:49:21.91
そういうことだ。
紀元前数百年の神に天照大御神があったが、
これはすでに神話だから、仮に大和朝廷の役人が卑弥呼をモデルに創作した話だったとしても、
いまさら動かしようがない。

その後に日向三代があり、そして神武となる。
そして紀元が開けると、金印紫綬の倭奴国王が九州島の南界まで極めた。
次いで面土国王の朝貢話あり、
そのあと後漢書の大倭王居邪馬臺国があって、
それからやっと、倭国大乱後の卑弥呼共立となる。

だから創作された天照大御神と、現存の卑弥呼を同一視して論を進めると混乱する。
時代設定が大きく違う天照大神も、大倭王も、卑弥呼も、ともに高千穂居住だったかもしれないのだ。
0075日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/03(水) 15:58:50.41
>>73
ほんとそれなw
0076日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/03(水) 16:16:06.20
後漢書の云う大倭王の頃、卑弥呼は幼い王女だったのだろう。
魏略には王女と書かれている。
0077日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/03(水) 17:18:54.64
神話の天照がこうだったから、実話の卑弥呼もこうだったはず、とか

神話の天照がああでなかったから、実話の卑弥呼もああではなかった、とか

神話と、実話を紐付けるのは、大間違いの始まり。

神話は架空小説、実話は記録文書。
0078日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/03(水) 18:32:07.77
実話がこうだからあの神話は間違ってる、というのはお子様

同様に、神話がこうだからあの実話は間違ってる、というのもお子様

ところが、けっこうあるんだよな、大人の世界でもな・・。
0079日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/03(水) 18:56:47.81
天照と卑弥呼が同じなど、、、
0081日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/04(木) 06:47:41.87
天照は男だ
0082日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/04(木) 09:18:30.78
天照大御神は卑弥呼とよく似た境遇の女性だった、というようなことを、
明治の白鳥博士も匂わしてはいたが、そうとは言ってなかった。
ま、大人の対応だろう、、
0083日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/04(木) 10:21:32.69
というように持ってこおとしてるわけなおまえら

バレバレやで
0084日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/04(木) 11:43:51.38
卑弥呼の女王国とは奴国だから卑弥呼は漢時代から続いてる奴国王なんだよ
0085日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/04(木) 11:58:58.61
奴国=奴隷労働者の国が、楽浪・帯方郡側の女王国はない
そもそも漢字には意味がある ←表意文字。
センスがないねえ。
0086日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/04(木) 14:12:32.49
各国にいるのは楽浪が授けた官ばかり、
楽浪郡/帯方郡と伊都国・邪馬台国は、いい仲だったと思うね。
公孫淵のことを過大に言ってる学者も多いが、あれは馬鹿殿、一時の気迷い、
0087ネトウヨボクメツタイ!
垢版 |
2024/04/04(木) 22:56:37.94
ネトウヨは参政党や保守党といったイロモノを支持するカルトの馬鹿だからな
鳥山明の死因がワクチンとか、こんな連中が学問を口にするのがネトウヨクオリティ

九州説ネトウヨの思想はこんな低脳って事だ
0088日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/05(金) 01:10:16.79
シン日本古代史 概論
カテゴリ:シン日本古代史
◆シン日本神代古代史◆
高天原=邪馬台国=九州北部
天照大神=卑弥呼+台与
天孫(族)ニニギ命=邪馬台国系の代官一族

神武天皇以降は、邪馬台国連合から独立した。
十代崇神天皇が邪馬台国を制圧したので、天照大神=卑弥呼+台与が祟った。

「高天原=邪馬台国=九州北部」説の初論者(おそらく)は、益田謙三『赤裸々の神代』(大正8年)

天照大神の生誕地=筑紫の日向(九州の南or北)
天孫(族)降臨地=対馬国・壱岐国・伊都国
天孫ニニギ命の名前=アメ「ニキ」シクニ「ニキ」シアマツ「ヒコヒコ」ホノニ「ニギ」ノ命
邪馬台国から伊都国へ派遣されたの代官名は「爾支ニキ」
対馬国と壱岐国の代官名は「卑狗ヒコ」

日向三代は邪馬台国の代官の系統なので、独立した存在とは言えないから、天皇とは認定されなかった。
畿内に独立国を成立させた神武天孫族系が、その後に高天原=邪馬台国と勢力争いになって、十代崇神天皇の御代に、かつて祖先が属していたた高天原=邪馬台国を制圧してしまった。
欠史八代は天孫族と高天原=邪馬台国との争いの歴史なので、古事記・日本書記の記述はカットされた。

・・・なので、天照大神=卑弥呼・台与に祟られる事となった。
崇神天皇は祟りを鎮める為に、
ニニギが台与から授かった、ヤタの鏡を地元神と一緒に宮中で祀ったが、祟りが収まらないので場所を替えて祀った。
そして後に、ヤタの鏡は倭姫に託された。
それが、伊勢の神宮の由来である。
0089日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/05(金) 03:06:59.25
なるほどなるほど卑弥呼は男だったのか
0091日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/05(金) 12:04:10.47
天照は卑弥呼だった―、といって畿内まで遠征するの悪くはないが、
肝心の九州拠点があいまいでは、足元を見られ、返り討ちに遭う。。

倭人伝の行程記録では、どう見ても平原や、那の津や、大宰府は通過しない。
まして甘木・朝倉は一段と困難。
見直しが必要と思うけどね。
0092日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/05(金) 12:48:07.22
日本紀の仲哀・神功記辺りに阿って、
平原・那の津・大宰府・甘木朝倉あたりを通過させたがる学者が大多数・・。
しかし皇后は、三韓征伐と称して帯方郡下の馬韓も攻撃したことになっている。

則ち大和朝廷・不比等は、郡使が皇統の博多湾岸を通過するなどありえなかったと、
言外に主張しているわけだ。
このことを踏まえれば、「末盧国東南陸行500里」は、
原文通り、佐賀平野を通過して九州中部以南の女君のもとへ向かったと解すべきと思う。
0093日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/05(金) 15:28:05.59
それが日本が半島支配したと言われてるときの狗邪王(温羅王)のことだろ

現地における執政代行官で半島における軍隊🪖などの副官だった人だよ

上官として毛野一族が派遣されてその縁で関東に移住したのも多いんだからよ
0094日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/05(金) 15:30:46.47
狗邪王が現地における代行官

百済王や新羅王などに対して登場して日本から出された命令を伝えた人だよ
0095日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/05(金) 15:35:24.93
まあ実質的な任那国王やな
0096日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/05(金) 15:38:25.65
倭軍てより任那連合軍として現地で軍勢を指揮したわけやな

百済王もいたがこの任那連合軍と合流して参戦したりよ
0097日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/05(金) 19:52:20.83
@まず「女王国(九州)東渡海千里、複有国皆倭種(本州)、又有侏儒国(四国)在其南、去女王四千里」から九州が確定。
A次に「帯方郡から女王(邪馬台)国に至るまで12,000里(900q)」(1里=75m)
狗邪韓国まで7,000里+渡海1,000里+【対馬400里】+渡海1,000里+【壱岐300里】+渡海1,000里+末盧(松浦)国500里+伊都(糸島)国100里=11,300里(850q)で奴国(博多)に至る。
つまり、博多から残り半径700里(50q)の範囲にあるということになり、糸島➡博多の北は玄海灘🌊、東は不弥国ですので、残る南(筑紫平野)に陸行するしかなく、博多から吉野ヶ里遺跡(邪馬台=脊振【山】南麓に突き出した舌状【台】地)「宮室楼観城柵厳設、常有人持兵守衛」が50qでピッタリです!
Bそして「其南有狗奴国、不属女王。官 狗古智卑狗、男王 卑弥弓呼(熊本県・菊地平野)」から、【女王国=筑紫平野】であることは確実に読み取れます。

さらに「卑弥呼、事【鬼道】能惑衆、以婢千人自侍、唯有男子一人給飲食伝辞出入。居處宮室、樓觀城柵嚴設、常有人持兵守衞」は吉野ヶ里そのもので、【鬼道】を(鬼籍に入った)歴代倭王(死者)の霊を呼び出すイタコと解釈すれば、主祭殿3階(屋根裏部屋)の祖霊を祀る祈祷室(最高所)はまさに天(太陽)と鬼(死者=歴代倭王)のお告げの声を聴く卑弥呼(日見子=日巫女)にピッタリです!
https://pbs.twimg.com/media/GHs4jghaAAAKN2l?format=jpg&name=4096x4096
0098日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/05(金) 19:53:26.92
ちなみに、投馬国からの「南水行十日陸行一月」は呉の背後、つまり「会稽東冶の東(沖縄那覇)にあり」とするための方便(虚構)だとすると辻褄が合いますよ。
https://pbs.twimg.com/media/GImPNooaMAAX5Dw?format=jpg

※魏志倭人伝の蛇足=投馬国⇔邪馬台国「南水行十日陸行一月」(呉の背後)

末盧国↘伊都国↘奴国→不弥国(九州北岸-福岡平野-直方平野)
...↑▲▲脊振山地▲▲.....↓
女王国(筑紫-日田-宇佐)↓〜複有国皆倭種(本州畿内説)東渡海千里
...↓...........【豊後水道】↓〜〜〜↓
狗奴国(菊池+熊本)......↓〜又有「侏儒国」在其南(四国阿波説)去女王四千里
......................投馬国(宮崎平野)
............................↓※蛇足「南水行十日陸行一月(虚構)」
会稽東冶〜〜〜架空の邪馬台国島(種子島〜奄美大島〜沖縄本島)
0099日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/05(金) 20:17:51.74
前方後円墳「有棺石槨」(木棺を石槨で保護)は、邪馬台国「有棺無槨」(棺を土に直接埋葬する甕棺墓や石棺墓)の象徴ではありません。
つまり邪馬台国とヤマト王権は別の王権ということになります。

3世紀初頭の日本列島には、筑紫邪馬台国と本州(女王国東渡海千里、複有国皆倭種)のヤマト王権〔大和唐古鍵を征服した吉備王権=直弧紋+吉備特殊器台+三角縁(銅鐸の外縁部鋸歯紋)神獣鏡〕が並立していたと考えられるのです。

247年、台与は肥後🌋狗奴国の卑弥🏹弓呼・狗古智卑狗(菊池彦)を制圧したお祝いに魏帝曹芳から曹操鉄鏡(台与=豊の国【日】田出土)を貰い、世襲ではなく共立で、しかも巫女だけに世継ぎのいないことから(脆弱な権力基盤ゆえ)将来の王位継承戦争「倭国大乱」の再発を危惧して、266年【魏➡晋】の禅譲に倣い、本州ならびに四国の覇権を確立したヤマト(吉備)王権に倭王位を禅譲したわけです。

そして新旧の倭王権で揃って西晋に朝貢し、吉備ヤマト王権の初代大王が筑紫邪馬台国を吸収合併して、武帝司馬炎の冊封を受け、国号「邪馬台(背振【山】南麓の舌状【台】地)」→大和(山門⛰⛩⛰二上山)も継承したのです「複立男王 並受中国爵命」。

その結果「ヤマト王権=邪馬台国」の幻想が生まれ、今日の畿内(筑紫邪馬台国=ヤマト王権混同)説に至っているのです。
0100日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/06(土) 07:25:20.86
魏王の妻の出身国だったのかよ日本?

バカも休み休み言え
0101日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/06(土) 07:25:45.85
邪馬○とやらはそおいう意味だぞ
0102日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/06(土) 11:08:01.41
3世紀初頭の日本における半島鉄の輸入ルートで古代史を整理してみたyo!

<北部九州>
筑紫邪馬台国…曹魏の帯方郡(半島西岸)ルートを確保(239年親魏倭王)→肥後狗奴国(熊襲=球磨阿蘇)との戦争に備える(日向投馬国との同盟締結)

<本州(女王国東渡海千里、複有国皆倭種)>
出雲…辰韓(半島東岸)ルートを開拓→吉備楯築王(×帥升∵後漢鏡副葬なし)を征服→さらに大和唐古鍵王を征服し、ヤマト王権を樹立(「有棺石槨」ホケノ山)

247年、卑弥呼の跡を継いだ13歳の台与は、卑弥呼が生前帯方郡に要請していた張政ら魏の援軍の力を借りて、肥後狗奴国卑弥弓呼を倒し、張政を洛陽まで送り届けたお礼と、天下統一のお祝いに魏帝曹芳から曹操鉄鏡(日田出土)を下賜された。
266年、筑紫邪馬台国の後ろ盾だった曹魏が元重臣の司馬晋に禅譲して消滅したとの帯方郡使の報告に激しく動揺した32歳の倭女王・台与は、巫女だけに国際政治をよく知らず、共立のため世継ぎもいないことから、帥升死後の王位継承戦争「倭国大乱」の再発を確信して占ってみたところ、本州の覇権を握っていた出雲吉備連合(ヤマト)王権に禅譲するのが吉と出て、西晋武帝司馬炎にその報告を兼ねて(新旧の倭王権で揃って)朝貢し、「複立男王 並受中国爵命」と記録されたのだ。
そして、ヤマト王権初代大王(複立男王)は筑紫邪馬台国を併合して、吉備特殊器台で壮麗に飾り立てた箸墓を築き、倭国統一を高らかに宣言したのである。
0103日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/06(土) 11:55:57.64
>>102
>本州の覇権を握っていた出雲吉備連合(ヤマト)王権に禅譲するのが吉と出て、

伝承によれば、
出雲連合は、(九州連合・伊都国の主の伊都之尾羽張の子の)武御雷に屈して国を譲ったとあるな。
0104日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/06(土) 12:22:52.70
バカがまた自分らに都合よいことでもほざき始めたわけ?
0105日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/06(土) 12:24:13.23
時系列的に考えれば、
出雲の国譲りが成ったから、神武の東遷が、ほぼ順調に進んだと考えるべきだろうね。
0106日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/06(土) 12:32:04.21
東に美し国がある。青い山を四方に囲まれて、その中に天磐船に乗って飛んで降りた者が居る。
と言って向かった。すでに国はあったので、国造りではなく威張りに行ったのだろうね。
0107ネトウヨボクメツタイ!
垢版 |
2024/04/06(土) 12:32:38.41
倭国大乱後に九州は倭国の政治センターとしての地位を失った
そして畿内に巨大な纏向遺跡が登場し新たな政治センターが誕生する
なお大乱中は吉備に短期間のあいだ王権の中心地が置かれていたようだ
これらは銅鏡の出土数から推定できる

九州の倭王は吉備を経由して畿内に移動し、最終的にヤマト王権の大王になったと考えるのが自然である
邪馬台国とはヤマト国であり、卑弥呼はヤマト国の女王だったと考えられる
0110日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/06(土) 15:09:17.24
倭人伝・出だしの東南陸行500里を、
素直に読めば佐賀大和町の川上に伊都国があった。

其の→東100里→南1400里の邪馬台国国衙は、九州熊本北部の山鹿・菊池一帯。
方保田東原はハガネ鉄の武器・工具の製造工場で、庄内土器発祥の地でもあった。
其の隣接地には、今も「臺」という名の集落がある。

女王卑弥呼の都する所は、この山鹿・菊池と国道325号線で直結されている阿蘇・高千穂町。
なんと高天原・高千穂伝説の聖地である!
0111日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/06(土) 16:23:57.27
🐻さん元気?
0112日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/07(日) 09:16:38.71
「倭国乱」ではないな、
「倭国 乱れ」、だろうね。んで「倭国大乱」と4文字熟語でいう。
0113日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/07(日) 09:42:54.44
九州説と唱えてきた各師は、
ことごとく→怡土→那の津→大宰府→甘木朝倉方面へ進んでいる。
それで300年も決定打が出ていないのだから、最初の上陸地点に戻って考え直すべき。

とすれば此処は素直に、
まず→東南陸行伊都国、次⤵東南奴国の行き止まり。
元の伊都国に戻って→東行不彌国。
そして其の南に、↓投馬国と↓邪馬台国の二つ道を探るべきではないか。
0114日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/07(日) 11:28:51.09
>>112
中国語で"倭国乱"と書かれてる。
書き換えが誤解を生んでいるのだろう。
0115日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/07(日) 11:31:12.54
卑弥呼がいる女王国が奴国だからそこから先へは行かないよ
0118日本@名無史さん
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2024/04/07(日) 16:50:25.56
投馬国 5万戸は正しく無い。
弁辰韓5万戸は246年以降の情報。
水行20日投馬国は240年である。

弁辰韓24国を統一した情報は無い。
魏使は南岸を通過しただけ。
それは弁辰韓ではなく弁韓。
韓伝自体説明は曖昧である。

邪馬台国については、
参問した21国が女王共立なので、
官からの情報で概ね正しい
と考えられる。
0119日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/08(月) 00:03:17.96
教科書や影響力カスの学者よりも
YouTubeの方がよほど
国民に魏志倭人伝を伝えている件
あんなにペラペラとは
0120日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/08(月) 09:51:53.49
邪馬台国ってのが嘘臭えのよ
0122日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/08(月) 18:08:59.85
>>120
自称国名は、
委奴国 奴国 狗奴国
という構造

王名が卑弥呼、卑弥弓(狗)呼
伊都と奴国、狗都と奴国
分裂したと見るのが順当。

邪馬 臺 国は、表意文字
つまり、和音の自称ではない。
投馬国も馬韓の先、表意文字。
0123日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/08(月) 20:01:43.34
3世紀初頭の日本における半島鉄の輸入ルートで古代史を整理してみたyo!

<北部九州>
筑紫邪馬台国…曹魏の帯方郡(半島西岸)ルートを確保(239年親魏倭王)→肥後狗奴国(熊襲=球磨阿蘇)との戦争に備える(日向投馬国との同盟締結)

<本州(女王国東渡海千里、複有国皆倭種)>
出雲…辰韓(半島東岸)ルートを開拓→吉備楯築王(×帥升∵後漢鏡副葬なし)を征服→さらに大和唐古鍵王を征服し、ヤマト王権を樹立(「有棺石槨」ホケノ山)

247年、卑弥呼の跡を継いだ13歳の台与は、卑弥呼が生前帯方郡に要請していた張政ら魏の援軍の力を借りて、肥後狗奴国卑弥弓呼を倒し、張政を洛陽まで送り届けたお礼と、天下統一のお祝いに魏帝曹芳から曹操鉄鏡(日田出土)を下賜された。
266年、筑紫邪馬台国の後ろ盾だった曹魏が元重臣の司馬晋に禅譲して消滅したとの帯方郡使の報告に激しく動揺した32歳の倭女王・台与は、巫女だけに国際政治をよく知らず、共立のため世継ぎもいないことから、帥升死後の王位継承戦争「倭国大乱」の再発を確信して占ってみたところ、本州の覇権を握っていた出雲吉備連合(ヤマト)王権に禅譲するのが吉と出て、西晋武帝司馬炎にその報告を兼ねて(新旧の倭王権で揃って)朝貢し、「複立男王 並受中国爵命」と記録されたのだ。
そして、ヤマト王権初代大王(複立男王)は筑紫邪馬台国を併合して、吉備特殊器台で壮麗に飾り立てた箸墓を築き、倭国統一を高らかに宣言したのである。
0124日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/09(火) 15:01:33.02
曹操は日本においても敵でしかない

それを無視せてもらっても困るのだが
0125日本@名無史さん ころころ
垢版 |
2024/04/09(火) 15:54:44.50
魏志倭人伝だけじゃ無くそのすぐ後に編纂された後漢書も重要

邪馬台国連合30国は後漢時代ですでに代々王を継いできた国々だったと記録されている。
それにも関わらず、3世紀に突如栄えた国であるかのようにデタラメ作文を展開している畿内説は間違いなくアカデミック詐欺である
0126日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/09(火) 16:06:19.34
代々王はいたが大王が登場したのは1世紀末頃だろ
0127日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/09(火) 16:27:40.81
九=飛
0128日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/09(火) 16:30:59.02
究極知
0129日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/09(火) 16:38:36.39
代々王が有る国を
女王国とは言わない。

九州女囚卑弥呼は245年に
大倭王を白旗、三種の神器で迎え
対魏防衛で一大率の設置に協力した。
生きていたら中国史で言う九州候。
0130日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/09(火) 16:59:39.75
代々各国を治めてきた倭の男王達が共立したのが卑弥呼。女王に反対したのが卑弥弓呼。
0131日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/09(火) 19:54:43.91
🐔こけーこっこー
0132日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/09(火) 20:44:33.43
日本の世襲王は
信長でも終わらなかった
宿禰も源平も皇族の家系に居る。

だから日本の戦国時代は
明治に繋がった。

皇系に卑弥呼は、居ない。
安曇は豪族だが?
0133ネトウヨボクメツタイ!
垢版 |
2024/04/09(火) 23:17:48.98
ネトウヨは記紀至上主義という結論ありきの反知性主義の馬鹿の集団
邪馬台国はヤマト王権であって天皇家は中華に朝貢して日本は建国の折に中国の属国になった
0134日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 02:55:00.34
記紀では邪馬台国は高天原で卑弥呼が天照大神としてちゃんと記録されてるから
0135日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 05:32:22.96
記紀には、245年に九州で
アマテラスが景行天皇に白旗を示し
三種の神器を差出して一大率を迎えた
と書いてある。

さすが、長生きだな?
あ、今もか!
東京湾にレインボーブリッジや
新都市を作った。
0136日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 06:39:29.43
>>123
266年に、後ろ盾だった曹魏が重臣の司馬晋に禅譲して消滅したことは、「親魏倭王」台与にとってまさに寝耳に水、自らの権力基盤が根底から崩される驚天動地の出来事だったろう。
もともと巫女だけに国際政治のことはよく判らず、ためしに占ってみたところ、名誉職(足利将軍家の親戚・高家筆頭吉良上野介みたいな、朝廷=西晋武帝司馬炎とのパイプ役)として出雲吉備連合(ヤマト)王権に禅譲した方が身のためと出たのかもしれんw

そして筑紫邪馬台国台与から倭王権を禅譲されたヤマト王権初代大王(「複立男王 並受中国爵命」=崇神)は箸墓を築き、倭国統一を高らかに宣言したわけだw

さらに5世紀になると倭の五王(讃珍済興武)が九州に再び西遷し(河内に留守番家老=応神朝を残し巨大古墳を造営させる)、宇佐八幡宮に都して別府温泉で負傷兵を治療回復させつつ、半島派兵を繰り返して広開土王碑に記録され、筑紫君磐井の乱の後、倭王権を獲得した継体朝(阿蘇ピンク石棺。また鯨漁の「淡海」は琵琶湖でなく有明海)→天垂彦(首都「邪靡堆」で阿蘇山を祈祷)も九州に留まり続け、天智の代で阿蘇山が大噴火して、首都・阿蘇外輪山「邪靡堆」が壊滅的な被害を受けたため、太宰府を築いて北遷。
663年白村江の戦い完敗で再び東遷し(近江大津宮へ)、大和の飛鳥にいた分家(留守番家老)である天武と合流したのだ。
0137日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 08:00:40.48
記紀の神代は3世紀前半で場所は北九州だよ
0138日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 18:04:37.94
九州の高貴な家系から日本のすべては始まった!
0139ネトウヨボクメツタイ!
垢版 |
2024/04/11(木) 09:51:46.71
大王家の本願地が九州であるのはほぼ間違いない
記紀を見るとヤマト王権初代王の畿内制圧から前の記憶はほぼ失われているようだし、そもそも崇神より前は欠史八代と言われるくらい記録が薄い

オレは神功が九州から攻め上って畿内を制圧した時に多くの歴史伝承者が失われたのだと推測する

江戸時代の国学者やネトウヨは九州にヤマト王権の力が及ぶのは景行以後というが、記紀を詳しく見てみると筑前の諸国は景行の九州巡行を譜代大名が将軍を迎えるように丁重に迎えている
伊都国や奴国などはヤマト王権成立最初期からの親藩のような位置付けであったと見た方が良い

ヒムカを伊都国とすると日王がヤマト王権を建てたのは韓半島の文化を受け入れる最先進地域の王だったからと考える事ができる
0140日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 10:48:56.72
普通に大和朝廷は畿内で成立した。
九州が参加するのは247年で良い。
日本古代史での邪馬台国論争は、
タワケの雄叫び。

桜井茶臼山、富雄丸山が
九州海神族の中央進出首長墓だが、
割竹木棺墓は舟で九州銅鏡が出るはず
開拓領主として全国に配流されている。

氏姓が発生する以前は外様状態で
本州豪族から差別化される候王だった
ように感じる。

対馬国境設定となる663年以前の
350年辺りからの日本国内百済王属
の待遇もそれと似たような物である。
0142日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 12:51:20.77
円墳大王が前方後円墳大王と関係あるかどうかわからんしな
0143日本@名無史さん
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2024/04/11(木) 13:58:25.78
>>141
纒向時代に九州が無いのは確かで
250年以降九州銅鏡も増えるが
九州族が中央貴族として進出するのは
280年辺りからか?

顔も入墨の野蛮人だしw
おしろいが、おあかい。

313年漢四郡撤退で本格的半島進出。
九州海神族の地位も向上する。
0144日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 15:04:05.58
>>143
>纒向時代に九州が無い
じゃなくて九州邪馬台国時代に纏向が無いだろ?ばか?

後漢時代ですでに代々王を継いできたという30国からなる邪馬台連合だぞ?

それが内乱に明け暮れ衰退してきたから卑弥呼女王を頼みの綱として共立したんだろ?

つまり2世紀後半から3世紀前半に衰退した地域が女王国30国の領域という事だ

それはまさに北部九州であり、城野遺跡でその状況は垣間見れる
0145日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 15:29:55.72
馬🐴の字が入ってるだろ

日本に馬はいなかった

だから日本固有の氏族ではありえない

答えは以上だ
0146日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 17:29:45.28
邪馬台国東遷はもう常識になったな
0147日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 17:51:42.85
なっとらんよ
0148日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 18:35:19.18
奴国王が東遷して山門の地に建国したのが邪馬台(やまと)国
その子孫、第7代孝霊天皇皇女が倭迹迹日百襲姫命。いわゆる卑弥呼。日の巫女。
0149日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 18:42:58.17
九州北部には奴国王の誕生地であり
熊襲けん制のため邪馬台(やまと)国の軍駐屯地が八女市辺りに有った。
そこには、「日の巫女」と呼ばれる「女将軍おかみ」が居た。
0150日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 23:11:17.46
『神武天皇』
 始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと) - 『日本書紀』
 神日本磐余彦天皇(カンヤマトいわれびこのすめらみこと) - 『日本書紀』
 若御毛沼命(わかみけヌノミコト) - 『古事記』

「漢委奴國王」の金印
「漢カン 委ヤマト 奴ヌノ 国王ミコト」の金印

若御毛沼命(わかみけぬのみこと) - 『古事記』これらは博多・奴国時代の名で
豊御毛沼命(とよみけぬのみこと) - 『古事記』
神日本磐余彦天皇(カンヤマトいわれびこのすめらみこと)邪馬台で即位してから
始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)崩御しての「諡名(おくりな)」だろ
0151日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 07:07:38.39
大和朝廷が畿内でできたなら三種の神器は銅鐸だっただろう
0152日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 07:13:03.06
三種の神器なんてもともとねえが?

各地の王が忠誠を違うときに差し出したものが家宝と呼ばれるものな

それを天皇家が集めて三種の神器としたのやろ

阿波の鏡師が差し出した銅鏡、出雲神官家が差し出した銅剣

ここまでは理解できる

てより銅鐸の記述もないから知らなかったのかもな朝廷のやつら
0153日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 07:14:04.76
しまいには掘り出した銅鐸を大仏を作るときの材料にしちまったんだよな
0154日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 07:15:15.74
引用だのしようとしで聞いた連中らはすぐ感づくからやめとくことだな
0155日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 18:26:55.55
シュメールや古代バビロニアの三種の神器である

武神のシンボルの剣
日像鏡
月像の首飾り

日本の三種の神器

草薙の剣(くさなぎのつるぎ)(スサノオ)
八咫鏡(やたのかがみ)(天照大神)
八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)(月読命)

シュメール神話により勾玉は月像であり、月神シン(辰)を表してる事が解る。
0156日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 18:27:47.83
中東では「勾玉」のデザインが良く使われる
欧州「ペイズリー」ペルシャ「ボテ(Boteh)」インドでは「ブータ」「カルカ」など。
0157日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 18:29:09.37
日本の神話には8つの首を持つヤマタノオロチを退治したときに、
草薙の剣を得たという話があります。

シュメールの神話にも、7つの首を持つ龍を退治して、剣を得たという話があります。
これらを関連付けると、
日本の三種の神器はシュメールの神から授かったものという見方もできます。

じゃあ、日本にシュメール神話を伝えた者たちが居た、中東出身説のある秦氏か???
古代バビロニアの楔形文字で書かれた粘土板の物語りを記憶してた民族て事か???
0158日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 18:32:02.92
『晋書』粛慎伝
粛慎氏の西は寇漫汗(こうまんかん)国と接し、

この寇漫汗(こうまんかん)国と
秦氏が由来記などで盛んに「功満王━融通王(弓月王)」と言ってるのは偶然じゃ無いな。
0159日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 18:37:02.78
川崎真治は自著で「混成民族、夫余説」を唱えた。
夫余では馬、牛、猪、狗をそれぞれトーテムとする民族が混住しており、

馬トーテム族は北方騎馬民族の(トルコ系アルタイ人・匈奴など)であり、
牛トーテム族はシュメール人の子孫、(牛頭天王・スサノオ)
狗トーテム族は印欧語系アーリア人で、(天狗・テング)
猪トーテム族は原シナ人であったという。
0160日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 18:37:41.78
汗ハーンが王様の意味だっけ?
0161日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 20:02:15.22
かかん【可汗】
〘名〙 (hagan (王)の音訳) 蒙古族、トルコ族、ツングース族など、
アジア種族で君主を称する語。汗(かん)。ハン。

「汗」の読みは中国でも年代や地域により異なり、「ハン」「ホン」、
閩東語・閩南語では「カン」(ガン)、古代の上古中国語では「ガーン」であった。
0162日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/13(土) 11:22:06.90
よくわからんが魏志倭人伝を素直に読めば邪馬台国の場所は簡単に比定できる。
一万二千里のうち不弥国までで一万七百里だから残り千三百里。
水行は一日で千里だから、その後の水行二十日や水行十日陸行一月は無理なので
この二つの出発点は自動的に帯方郡ということになり、千三百里は誤差とするしかない。
また、邪馬台国は東の海の千里先に倭人がいるのだから九州の東海岸を含むことになる。
なお、上陸後は東南に歩いてるから徒歩の距離を減らす為にも九州上陸地点は一大国から千里の距離にある宗像付近になるね。
(松浦だと五百里にしかならないから不適)

距離や方角を改竄して好きな場所を邪馬台国に比定するのはご自由に^^
0163日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/13(土) 14:29:00.66
>>162
7000里+1000里+1000里+1000里+500里+100里+100里=10700里。

残り1300里

1300里、2か月問題がある

短里説では、75mだから、75×1300=約100キロ

2か月で約100キロしか行かなかったは無理がある

長里説なら、435×1300=約570キロ

やはり、長里だろう
0165日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/13(土) 14:43:32.70
朝貢した倭人に、中国は何処からどのように来たか聞くだろう。
九州のどの辺りか、不正確だけど大まかな位置は知ってると思う。
0166日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/13(土) 15:02:48.79
漢に金印貰ったころから中国は正確に知ってるだろ
0167日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/13(土) 15:21:05.05
@まず「女王国(九州)東渡海千里、複有国皆倭種(本州)、又有侏儒国(四国)在其南、去女王四千里」から九州が確定。
A次に「帯方郡から女王(邪馬台)国に至るまで12,000里(900q)」(1里=75m)
狗邪韓国まで7,000里+渡海1,000里+【対馬400里】+渡海1,000里+【壱岐300里】+渡海1,000里+末盧(松浦)国500里+伊都(糸島)国100里=11,300里(850q)で奴国(博多)に至る。
つまり、博多から残り半径700里(50q)の範囲にあるということになり、糸島➡博多の北は玄海灘🌊、東は不弥国ですので、残る南(筑紫平野)に陸行するしかなく、博多から吉野ヶ里遺跡(邪馬台=脊振【山】南麓に突き出した舌状【台】地)「宮室楼観城柵厳設、常有人持兵守衛」が50qでピッタリです!
Bそして「其南有狗奴国、不属女王。官 狗古智卑狗、男王 卑弥弓呼(熊本県・菊地平野)」から、【女王国=筑紫平野】であることは確実に読み取れます。

さらに「卑弥呼、事【鬼道】能惑衆、以婢千人自侍、唯有男子一人給飲食伝辞出入。居處宮室、樓觀城柵嚴設、常有人持兵守衞」は吉野ヶ里そのもので、【鬼道】を(鬼籍に入った)歴代倭王(死者)の霊を呼び出すイタコと解釈すれば、主祭殿3階(屋根裏部屋)の祖霊を祀る祈祷室(最高所)はまさに天(太陽)と鬼(死者=歴代倭王)のお告げの声を聴く卑弥呼(日見子=日巫女)にピッタリです!
https://pbs.twimg.com/media/GHs4jghaAAAKN2l?format=jpg&name=4096x4096
0168日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/13(土) 15:38:40.09
帯方郡→狗邪韓国まで7000里(900q)
+渡海1000里+対馬400里+渡海1000里+壱岐300里+渡海1000里+末盧500里+伊都100里=奴国(博多)まで帯方郡から11300里(850q)
残り700里(50q)→糸島博多の北は玄海灘、東は不弥国なので、南の筑紫平野に陸行するしかなく、博多→吉野ヶ里まで50qでピッタリです!
0169日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/13(土) 16:16:10.49
160
漢と同盟を結んでいた鮮卑の王が草原の王を意味する

河汗(カガン)を名乗り始めたのが始まり

草原地帯版皇帝みたいなもの
0170日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/13(土) 16:17:53.46
そこがすべての起源だよ

西洋のハーン国もモンゴルのハーン号なんかもな
0171日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/13(土) 16:31:08.81
古代中央アジアにいたトルコ系の騎馬民族なんかもハーン号を採用してるからな

トルコ系ってのはハプロC3,J,R1混合民族のこと
0173日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/13(土) 16:43:51.77
鮮卑と日本は直接的な縁はないよ

周と東夷の時代にまで遡るならあるけどな
0174日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/13(土) 16:45:59.74
あれ確か漢の皇帝が鮮卑と手を組んで北と南から挟撃して匈奴を打ち破ったんだわ
0175日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/14(日) 06:54:00.46
以上を要約すると、
3000年前に、長江流域から浙南石棚墓人がごく少人数漂着渡来して、縄文集落に救助された。

イネb系統
水田
ニホンヤモリ
支石墓
甕棺墓
四眠蚕養蚕
などなどをもたらして、

縄文人と結婚して、縄文住居で暮らして、縄文土器で生活して、
養蚕の普及に生涯をかけて尽力して、
最後は生前に準備しておいた支石墓に縄文屈葬で縄文土器と一緒に葬られましたとさ。
0176日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/14(日) 06:56:56.49
>>167
「帯方郡から12000里(900q)で女王国に至る」
狗邪韓国まで7000里
+渡海1000里+対馬400里
+渡海1000里+壱岐300里
+渡海1000里+末盧500里+伊都100里=奴国(博多)まで合計11300里(850q)。

残り700里(50q)→糸島博多の北は玄海灘、東は不弥国なので、南の筑紫平野に陸行するしかなく、博多→吉野ヶ里まで50qでピッタリです!
0177日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/14(日) 07:08:57.54
土器ってのはもともとは縄文ルーツだろ

アフリカから共通してんだからよ

中国南方には土器の痕跡ないからな

あとから伝わり作られるようになっていったもの
0178日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/14(日) 07:10:17.94
逆に銅器みたいなものが発生したのは大陸でも南部の方から広がってきている
0179日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/14(日) 13:15:50.89
>>176
それだと
又一海を渡ること千余里、末盧国に至る。
女王国の東、海を渡ること千余里のして復国有り。皆倭種なり。
を満たしてない。
0180日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/14(日) 13:21:49.50
>>176
もうひとつ
対馬400里と壱岐300里は方だから島の大きさで
邪馬台国に来る度に測定することはないから12000里には入ってないと思う。
0181日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/14(日) 14:00:42.56
地名の点から点の二点間の里程を
積算するから行程になるのであって

島の大きさの表現を
行程として、
なぞる意味は不明。
それも四角のニ辺で?
0182日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/14(日) 17:08:59.75
【後漢書】
「凡百余國、自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國、國皆稱王世世伝統」

倭国は古くは百余国あったが、前108年に楽浪郡設置されてからは三十余国の王国となった。

【倭王武の上表文】
「東は毛人を征すること五十五国。西は衆夷を服すること六十六国。北の海を渡りて平らぐること九十五国。」

東の本州毛人(金属器が無い木器レベルなのでムダ毛処理が出来ないボーボー人)を55国征服しました。
西の本国九州では旧百余国のうち、中核三十余国が同盟して、他の66国を征服しました。
北の朝鮮半島では・・

さあ、三国志東夷伝で、95国を数えてみよう!!!←畿内説の外国工作員顔真っ赤っ赤wwwww
0183日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/14(日) 18:09:20.91
>>176
計算がおかしい
対馬と壱岐は一辺が400里と300里なんだから通り抜ける際はその倍かかる

          船のルート
     / \  ↘
    / 対馬 \   ↘(ここで400里)
    \    /  ↙
     \ /  ↙
          (ここで更に400里)

壱岐の場合も同じ
だから12000里は奴国でもう使い果たしてる
0185日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/15(月) 04:02:19.09
>>182
算数の文章問題のはめ手

半島釜山から九州博多間には
方可300里と400里の2つの島がある。
1日各1000里でニ島に立ち寄るが
合計は何里ですか?

小学生か? あほくさ。
0186日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/15(月) 05:52:52.50
>>127
>>128
九天から天孫降臨した孫悟空が
海天地で縦横無尽に知恵を携えて暴れだす
0187日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/15(月) 20:43:04.29
ざっくりだけど
距離と方角は魏の使者が倭国に来る度に実際に測定した内容なので一次情報。
それ以外は通訳を介しての住民への聞き取りなので二次情報。
とすると、情報の確かさは、
一次情報 > 二次情報
邪馬台国の場所は距離と方角をそのまま使えば判かるから、その他の情報と食い違いがあっても無問題といえる。
よって邪馬台国は九州の東部分にあった、ということになる。
0188日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/15(月) 21:12:18.79
182
おまえがバカだってのは分かるわ
0189日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/15(月) 21:12:47.94
だから乞食なんだよてめえ恥ずかしげもなく
0190日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/15(月) 21:32:50.31
中国の歴史
BC770年 春秋戦国時代
 │
BC221年 秦(キングダム)
 │
BC206年 漢(項羽と劉邦)
 │
184年 三国時代(三国志)
 │  ☜邪馬台国の存在が中国の歴史書にて確認
265年 晋
 │
439年 南北朝(蘭陵王)
 │
589年 隋
 │
618年 唐
0191日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/15(月) 21:49:40.70
九州人の祖先は中国周王朝の末裔達
日本列島の風土に土着化し次第に倭人へ
魏志倭人伝に記録されてあるように
倭国の役人も自分達は大夫と称し
高貴な周朝の王子「太伯」の末裔で構成されていると
で周朝が起こした中国の様々な呉文化が日本に伝播し
隆盛を誇った呉文化の一つ呉服が和服(着物)へと
日本に伝わり日本文化の基盤を整えていったんだよ
0192日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/15(月) 22:10:53.26
【後漢書】
「凡百余國、自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國、國皆稱王世世伝統」

倭国は古くは百余国あったが、前108年に楽浪郡設置されてからは三十余国の王国となった。

【倭王武の上表文】
「東は毛人を征すること五十五国。西は衆夷を服すること六十六国。北の海を渡りて平らぐること九十五国。」

東の本州毛人(金属器が無い木器レベルなのでムダ毛処理が出来ないボーボー人)を55国征服しました。
西の本国九州では旧百余国のうち、中核三十余国が同盟して、他の66国を征服しました。
北の朝鮮半島では・・

さあ、三国志東夷伝で、95国を数えてみよう!!!←畿内説の外国工作員顔真っ赤っ赤wwwww
0193日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/15(月) 22:41:51.56
>>187
九州に上陸してから水行一月陸行一月をかけてようやく辿り着ける場所が九州の東部分のわけないだろ…
0194日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/15(月) 22:52:20.74
>>190
北魏は曹魏の後継者。東晋は呉の復活と呼ばれた。
0195日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/15(月) 22:53:06.25
>>193
畿内に行くのに九州陸行する意味は
0196日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/15(月) 23:10:10.42
191
バカは早く死ね
0197日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/15(月) 23:11:45.58
194
呉ってのは中国東海外にいたやつらによる中国の呼称だぞ
0199日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/16(火) 00:05:15.55
>>186
九紫は?
紫色の古代中国で最高貴な色と認識してたようだけど
最高出力の光源エネルギーを持つのも紫色の光線だし
古代中国文化の科学的知能をも併せ持つ奥深さがわかる
0200日本@名無史さん
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2024/04/16(火) 03:35:13.60
方角は修整するのに
他の科学的なアプローチは
無視していくのはなんなんだろうな

現代人が木船で2回失敗してるのも認めない
渦潮のとこ行ったら死んでたろ
0201日本@名無史さん
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2024/04/16(火) 12:37:51.53
>>193
>>162 にも書いたが
一次情報である距離と方角から
一万二千里のうち不弥国までで一万七百里だから残り千三百里。
水行は一日で千里だから、その後の水行二十日や水行十日陸行一月は無理なので
この二つの出発点は自動的に帯方郡ということになり、千三百里は誤差とするしかない。
また、邪馬台国は東の海の千里先に倭人がいるのだから九州の東海岸を含むことになる。

一次情報を改竄して好きな場所に邪馬台国を比定するのはご自由にw
0202日本@名無史さん
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2024/04/16(火) 12:46:06.04
『翰苑』(廣志)
邪届伊都 傍連斯馬
廣志曰 倭國 東南 陸行 五百里 到 伊都國 又 南 至 邪馬嘉国
百女国 以北 其 戸數 道里 可得 略載
次斯馬國 次巴百支國 次伊邪國

(魏略)
従帯方至倭 循海岸水行 歴韓国 到拘邪韓国 七千里
始度一海千余里 至対馬国 其大官曰卑狗 副曰卑奴 無良田 南北市糴
南度海 至一支国 置官 与対同 地方三百里
又度海千余里 至末盧国 人善捕魚 能浮没水取之
東南五百里 到伊都国 戸万余 置曰 爾支 副曰 洩渓觚 柄渠觚
其国王皆属女王也
女王之南 又有狗奴国 女男子為王 其官曰拘右智卑狗 不属女王也
自帯方至 女国万二千余里

どちらも、行程で九州から出ていません。
陳寿は240年梯儁の邪馬台国女王国21国に関する報告書と
247年張政の倭人船同乗での伊都までの里程行程と一大率の報告書
を併記しました。

陳寿の文は、九州上陸で歩行後に船に乗りますが
末盧國に戻らなければ水行は無理です。 ココからは、
明らかに別人の筆致の報告文で起点は帯方郡で行程が重複します。

廣志、魏略の編者は、この重複を避けて
女王国までの、直列行程にしました。
魏略は邪馬台国まで国飛ばしてその南の狗奴国へw
これらは、梯儁による、投馬国、邪馬臺国の仮称が
意味不明で自分の理解できる範囲で、行程を纏めてあります。
邪馬臺国は仮称だけど女王国の国名が無いので
臺でなければ、邪馬嘉国でも邪馬壹国でも良かった。
0203日本@名無史さん
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2024/04/16(火) 17:49:22.38
『翰苑』(廣志)
邪届伊都 傍連斯馬
廣志曰 倭國 東南 陸行 五百里 到 伊都國
又 南 至 邪馬嘉国
百女国 以北 其 戸數 道里 可得 略載
次斯馬國 次巴百支國 次伊邪國

廣志本文は、邪届伊都 傍連斯馬 だけですが、
唐代の注で到 伊都國から、
次斯馬國 次巴百支國 次伊邪國が
又 南 至 邪馬嘉国 
の九州内の行程に有ったことが判ります。

百女国 以北 其 戸數 道里 可得 略載
は、陳寿の倭人伝を読んだ唐代注者の文言
魏志のような女王の処都以北の島名、行程、所属国の
地名や道里、戸数の詳細は、略載されていません。
0204日本@名無史さん
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2024/04/16(火) 18:20:16.29
(魏略)
従帯方至倭 循海岸水行 歴韓国 到拘邪韓国 七千里
始度一海千余里 至対馬国 其大官曰卑狗 副曰卑奴 無良田 南北市糴
南度海 至一支国 置官 与対同 地方三百里
又度海千余里 至末盧国 人善捕魚 能浮没水取之
東南五百里 到伊都国 戸万余 置曰 爾支 副曰 洩渓觚 柄渠觚
其国王皆属女王也
女王之南 又有狗奴国 女男子為王 其官曰拘右智卑狗 不属女王也
自帯方至 女国万二千余里

魏志により近いけれど、梯儁による仮称、後に別名の
投馬国=弁韓、邪馬臺国=女王国は排除しました。
邪馬台国の名称は陳寿による梯儁報告書からの引用だけで、
陳寿、帳政、魏略、廣志でも採用はしていません。
梯儁が漢字にした和音の次有邪馬国に卑弥呼の臺が有りました。

もうひとつ、
南度海 至一支国 置官 与対同 地方三百里
壱岐なので陳寿の一大国は一支国だと思いますが、じゃなくて、
置官、魏志の官有ではなく、官を置いた、の主語は魏使でしょ?
現地雇用の通訳案内人です。戸数航路など知る責任者でしょう。
卑狗 は 狗 邪国の役人で誰か? 
卑奴は倭人の奴国船に同乗した卑 奴の もり君、です。
倭人名は、概ね所属国の後に個人名を名乗ってます。
0205日本@名無史さん
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2024/04/16(火) 18:33:36.81
わすれたw

梯儁と張政の筆致の違いで
帳政の報告書には、到と至るの使い分けが有るのですが
これが反映しているので、
廣志、魏略、共に、筆致の違う二人、
梯儁と張政の報告書を見て、まとめています。
0207日本@名無史さん
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2024/04/16(火) 19:55:12.26
>>201
水行十日陸行一月は帯方郡が起点の日数



>>206
水行十日陸行一月は水行なら十日、陸行なら一月という意味

は両立しないんだが
意見統一しろ
0208日本@名無史さん
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2024/04/16(火) 20:16:45.43
倭奴国(2万戸)=福岡平野
↓南方:水行20日(約40km)
投馬国(5万戸)=筑紫平野
↓南方:水行10日(約20km)、陸行1月(約50km)
邪馬台国(7万戸)=熊本平野

水行と言っても丸木舟、陸行と言っても裸足
畿内説は現代の感覚でもの言ってるんだろうな
0209日本@名無史さん
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2024/04/17(水) 00:05:07.12
>>207
水行10日は陸行1月は、あるあるだけど
一月行は2000里なので意味が違う。
仁川~済州島は3月行。

半島西岸は水行20日で4000里。
九州上陸まで残り6000里は水行10日。
速度=日数は、風や海流の違いがある。

渡海は目視での1日千里で3日でも、
海岸水行には兵站調達や
潮待ち休息が有る。
0211日本@名無史さん
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2024/04/17(水) 06:11:01.62
日数は費やした結果
一月行は2000里
一里は75m
倭の陸行は徒歩
水行には船が必用

魏時の使譯は2回だけ。
240年軍船による韓西岸初渡航
女王の処都まで万二千里
247年倭人船による倭人航路
伊都に常駐まで積算万五百里

倭人伝を読む為の基礎知識
0212日本@名無史さん
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2024/04/17(水) 11:59:47.55
最強頭脳
0213日本@名無史さん
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2024/04/17(水) 13:39:42.19
【倭人伝を正しく読む・行程1】(行が長いのでスマホなら横向きがお勧め)

01 倭人 在 帯方 東南 大海之中 依山島 為國邑 旧百餘國 漢時 有 朝見者
02 今 使 譯 所通 三十國 從 郡至倭
(魏時、2回の使の報告で30国を知った。使の報告に拠ると郡から倭に至るには…)

247年、帳政、伊都駐留の際の倭人船行程の報告書から引用

03 循海岸 水行 歴韓国 乍南乍東 到 其北岸 狗邪韓國 七千餘里
04 始度 一海 千餘里 至 對海國 其 大官日 卑狗 副日 卑奴母離
05  所居 絶島 方可 四百餘里 土地 山險 多深林 道路 如禽鹿徑
06  有千餘戸 無良田 食海物 自活乗船 南北市糴
07 又 南 渡 一海 千餘里 名日 瀚海 至 一大國 官亦日 卑狗 副日 卑奴母離 方可三百里 
08  多竹木 叢林 有三千許家 差有 田地耕田 猶不足食 亦南北市糴
09 又 渡 一海 千餘里 至 末盧國 有四千餘戸
10  浜山海居 草木茂盛 行 不見前人 好捕魚鰒 水無深浅 皆 沈没 取之
11 東南 陸行 五百里 到 伊都國 有千餘戸 官日 爾支 日 泄謨觚 柄渠觚
12  丗有王皆統属女王國 郡使 往来 常所駐
13  東南 至奴國 百里 官日 兕馬觚 副日 卑奴母離 有二萬餘戸
14  東行 至不彌國 百里 官日 多模 副日 卑奴母離 有千餘家

・寄港地、宿所の地名の倭音を漢字にして、その間の里程を記録した。
・奴國、不彌國の百里は、行程ではなく伊都からの距離。奴国は大きい。
・各地の戸数は有○○戸、家で示した。
・行程中の 至 と到達点を意味する 到 に使い分けが有る。

・12 丗有王皆統属女王國 郡使 往来 常所駐
 丗、卅、30有る王はすべからく皆女王に属し伊都を往来している。
 郡使帳政は伊都に駐留した。(二重主語)郡使は伊都に1度しか来ていない。
 魏使にとって時世は魏帝の世。卑弥呼の国の王は『世』の王では無い。
・行程の里程積算は10500里である。 
0214日本@名無史さん
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2024/04/17(水) 13:41:47.66
【倭人伝を正しく読む・行程2】

240年梯儁 奉詔書 印綬 拝仮倭王の際、女王国詳細の報告書の引用

15 南至 投馬國 水行二十日 官日 彌彌 副日 彌彌那利 可五萬餘戸
16 南至 邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月
17  官有 伊支馬 次日 彌馬升 次日 彌馬獲支 次日 奴佳鞮 可七萬餘戸
18  自 女王国 以北 其 戸數 道里 可得略載 其 餘旁國 遠絶 不可得詳
19 次有斯馬國 次有巳百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國
  次有好古都國 次有不呼國 次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國
  次有呼邑國 次有華奴蘇奴國 次有鬼國 次有為吾國 次有鬼奴國
  次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國 次有支惟國 次有烏奴國 次有奴國
20  此 女王 境界 所盡
21 其南 有 狗奴國 男子為王 其官有 狗古智卑狗 不属女王
22 自郡 至 女王國 萬二千餘里

・起点は帯方郡、伊都、不彌國から水行は船が無い。
・投馬國、邪馬壹(臺)國は梯儁による仮称国名。馬韓の次の国。と
 梯儁が参問して漢字にした次有邪馬国の卑弥呼の臺で命名。表意文字。
・18は陳寿の補足説明。
 前段張政の行程含み女王宮迄南下で通過した国の得た道里、戸数を略載。
・戸数には、可○○戸を使用。到は使わない。
・次有21国は女王所属国の参問名称の漢字化。東夷伝序文に有る
 遂 周觀 諸國 采 其 法俗 小大區別 各有 名號 可得 詳紀 がコレ。
・次有が21連発なのは、此 女王 境界 所盡に掛かる枕。此れで書き尽くした。
・22 自郡 至 女王國 萬二千餘里は、水行20日、水行10日、陸行1月の積算。
 ただし、女王国までは10000里で上陸、女王の処都迄が陸行で1月行=2000里。
 陳寿の補足であり、陸行1月=2千里は、梯儁と共有の概念。
0216日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/17(水) 16:15:39.18
「帯方郡から12000里(900q)で女王国に至る」の内訳

狗邪韓国まで7000里
+渡海1000里+対馬400里
+渡海1000里+壱岐300里
+渡海1000里+末盧500里+伊都100里=奴国(博多)まで
合計11300里(850q)。

残り700里(50q)で、伊都国(糸島)→奴国(博多)の北は玄海灘、東は百里で不弥国なので、南の筑紫平野に陸行するしかなく、奴国(博多)→吉野ヶ里まで50qでピッタリです!
0217日本@名無史さん
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2024/04/17(水) 16:23:53.47
ちなみに、投馬国からの「南水行十日陸行一月」は呉の背後、つまり「会稽東冶の東(沖縄那覇)にあり」とするための方便(虚構)だとすると辻褄が合いますよ。

おそらく曹魏洛陽から見た倭国島は呉の背後にあって孫権を牽制してくれる存在という認識だったのでしょう。

※魏志倭人伝の蛇足:投馬国→邪馬台国「南水行十日陸行一月」(呉の背後で孫呉を牽制)

末盧国↘伊都国↘奴国→不弥国(九州北岸-福岡平野-直方平野)
...↑▲▲脊振山地▲▲.....↓【関門海峡&周防灘】
女王国(筑紫-日田-宇佐)↓〜複有国皆倭種(本州畿内説)東渡海千里
...↓...........【豊後水道】↓〜〜〜↓
狗奴国(菊池+熊本)......↓〜又有「侏儒国」在其南(四国阿波説)去女王四千里
......................投馬国(宮崎平野)
..................................↓蛇足「南水行十日」
会稽東冶〜〜〜架空の邪馬台国島(種子島〜奄美大島〜沖縄本島=「陸行一月」)
0218日本@名無史さん
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2024/04/17(水) 18:11:59.12
会稽と倭の関係を言うなら
会稽の東は倭の極南界。
北は沿海州の東迄が倭である。
南北は中華より大きい。

計るその道里、當在〜会稽、之を東する。
は、太伯の後の奏上に対する疑問で、
倭と太伯の会稽は洛陽から会稽の道里を
東に向けたほど遠い。
有り得ない。 と言う話。

倭人伝は正史採用の都合で、太伯の後が
削除されて文章が壊れている。

計るの主語、道里の経路が何か判らない。
23 男子 無大小 皆 黥面 文身 自古以來 其使 詣中國 皆自稱 大夫
24 夏后少康之子 封於會稽 断髪文身 以避 蛟龍之害
25 今 倭 水人 好沈没 捕魚蛤 文身 亦以 厭大魚 水禽後稍 以為飾
26 諸國 文身 各異 或左 或右 或大 或小 尊卑 有差
27 計 其 道里 當在 會稽東治 之東
(旧語 自謂 太伯之後 衆聞皆訝 以其遠絶 計 其 道里 當在 會稽東治 之東)
0219日本@名無史さん
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2024/04/17(水) 23:15:11.93
>>212
人類史無敵?
0221日本@名無史さん
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2024/04/18(木) 04:06:57.36
広志には「百女国以北其戸数道里可得略......
又、南して邪馬嘉国に至る。百女国より以北、其の戸数道里

文中の「邪馬嘉国ヤマガ山鹿市」の嘉は臺と酷似しており、
「嘉は臺」の誤字だろうで、「邪馬台国」が定説になった、が、
邪馬嘉国(ヤマガ山鹿市) 、百女国(八女市)も含む、北部全てが邪馬台国なのである。

熊本県菊池川の北側には鉄剣が出土した江田船山古墳そばに、山鹿市などがある。

広志などの、百女国(八女市)と邪馬嘉国(ヤマガ山鹿市)以北、が邪馬台国と書かれており、
手前の女国とは八女津姫、田油津媛(たぶらつひめ)伝説などがある八女市だろう、
なお、南限 百女国と邪馬嘉国(ヤマガ山鹿市)の、その南が敵対関係の狗奴国である。
0222日本@名無史さん
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2024/04/18(木) 04:15:57.28
そして記紀に記された、ヤマトタケルの熊襲征伐や山鹿市となり
玉名市の江田船山古墳のワカタケル鉄剣名などが、狗奴国、熊襲征伐の証しで、
後には、八女の筑紫の君、岩井の反乱も起きた政治的に複雑な地域なんだろう。

卑弥呼時代には既に倭国同盟のようなものが西日本中心に瀬戸内海界わいや
近畿・尾張地方まで統合されつつあった中で
オオクニヌシの出雲国や九州南部、狗奴国、熊襲が敵対的で同盟しなかったのだろう。
その過程の物語がヤマトタケルの八俣の大蛇退治…かな。
0223日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/18(木) 04:24:32.60
八女津媛が邪馬台日女の事で百女姫(百襲姫)なんだろう。
0224日本@名無史さん
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2024/04/18(木) 08:34:31.77
邪馬台国の中心は阿蘇だったけど、6世紀頃の阿蘇山噴火で消滅した
しかし重要なお墓などは掘り起こして、山鹿市付近に移転した
それが装飾古墳であり、卑弥呼の墓である
0226日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/18(木) 16:00:29.12
>>221 の話が正しく、>>4>>220 の話題なんだろう。

>>4
BS-TBSの諸説あり!の映像らしいが、
弥生時代の鉄鏃が大量に出土した場所が九州を横断するように存在している
どう見てもここが邪馬台国と狗奴国が戦闘してた戦線=国境ライン

https://i.imgur.com/31R7rP6.jpg

熊本も菊池川より北側あたりは女王国に属していたようだ
これは免田式土器の分布とも一致する

https://i.imgur.com/4pKQIsd.jpg
https://i.imgur.com/xysLhhD.jpg
0227日本@名無史さん
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2024/04/18(木) 16:08:43.35
ラインの南から出ないなら
ただの蛮人、防衛線だな。
日本版万里の長城か?
0228日本@名無史さん
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2024/04/18(木) 17:10:07.03
第7代孝霊天皇の 皇女:倭迹迹日百襲媛命。のちの卑弥呼。

そして第5代孝昭天皇・第6代孝安天皇・第7代孝霊天皇・第8代孝元天皇の時期に
大和王権は中国道の大国 投馬国(倉敷市あたり)と戦争をしていたのです。

これが魏志倭人伝でいう倭国大乱ということです。

大和王権は播磨国西部との国堺備前に吉備の国(今の岡山県東部あたり)
に西道将軍吉備津彦命を派遣し投馬国を制圧、中国道の大国 吉備国を造ったのです。
倭人伝には投馬国は出て来るが吉備国が登場しない混乱期、倭国大乱中なのです。

その頃、姉、百襲媛は讃岐から九州に渡り狗奴国、熊襲と対峙していたと言う塩梅。
そして姉百襲媛と弟、西道将軍吉備津彦との誓約神話が天照大神とスサノオの物語。
ただスサノオとは出雲勢力(物部軍団)の象徴だと思う。を吉備津彦が率いていた。
0229日本@名無史さん
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2024/04/18(木) 17:15:04.86
第7代孝霊天皇の子供は

@ 長男 第8代孝元天皇
A 長女 倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)
B 次男 吉備津彦命(きびつひこのみこと)
C 三男 稚武彦命(わかたけひこのみこと)

 である。
0233日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/18(木) 17:46:53.35
イザナギが博多湾で禊をした時に生まれた三貴神。

左目を濯いで生まれたのが天照大神。
博多湾から見て左目、つまり松浦、糸島、などの「左佐」地域勢力を指す。(皇室)

右目を濯いで生まれたのが月読命。
博多湾から見て右目、つまり「右佐」=宇佐の地域勢力を指す。(秦氏)かな。

鼻先を濯いで生まれたのがスサノオ。
博多湾から見て鼻先のように突き出してるのが響灘に面する山口県下関周辺、
萩市の須佐湾から出雲稲佐浜に掛けての一帯勢力が。(石見一宮 物部神社の物部氏)
0234日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/18(木) 18:05:29.29
そして都を奈良大和に移してからも

三輪山を中心に故郷西(いにし=瀬戸内方言で帰ること)に向いて、
前方に城壁のように生駒山系があり、左目の開いてるのが大和川、橿原の地が(皇室)

右目にあたる京都淀川八幡の地に宇佐から神霊を移したのが石清水八幡宮(秦氏)

鼻先にあたる生駒山から西方を監視してるのが、ニギハヤヒの石切神社(物部氏)
0235日本@名無史さん
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2024/04/18(木) 18:25:44.66
つまりこの大和の国日本は、

(皇室)を中心に(秦氏)系集団と(物部氏)系集団とで日本国を監視してるのさ
影の政府。ディープステートの様に。

政治家なんて国会劇団の劇団員にすぎない、早い話が誰が成っても大して変わらない。
0236日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/18(木) 21:09:15.69
藤原摂関家は天皇直属の家臣団てところか
0237日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/18(木) 21:15:21.09
最近の国会劇団員の中には外人劇団員も増えたからね 監視は必要だろね
0238日本@名無史さん
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2024/04/19(金) 19:13:35.38
高速建設でルート上の遺跡が調査さたから
鉄発見遺跡が並んでいるように見える
鉄を持ってたとしても調査されていない遺跡からは
鉄が見つかることもない
0239ネトウヨボクメツタイ!
垢版 |
2024/04/20(土) 09:45:28.68
ジャップの起源は遼河流域にいた偏堡文化人
これは山東半島から北上して遼河文明に参画したY遺伝子O1b2系の人達で、彼らが遼河文明が崩壊した時に韓半島に民族移動して無文土器文化人となり、更に海を渡って日本列島に到達したのが弥生人だった
ネトウヨのカルト的歴史観は既に崩壊したのだよ
0240ネトウヨボクメツタイ!
垢版 |
2024/04/20(土) 09:45:55.68
ジャップの起源は遼河流域にいた偏堡文化人
これは山東半島から北上して遼河文明に参画したY遺伝子O1b2系の人達で、彼らが遼河文明が崩壊した時に韓半島に民族移動して無文土器文化人となり、更に海を渡って日本列島に到達したのが弥生人だった
ネトウヨのカルト的歴史観は既に崩壊したのだよ
0241日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/20(土) 12:54:07.60
人類の救世主待望論
0242日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/20(土) 13:58:41.27
昔の朝鮮は、暗黒土民王国で奴隷制度があって人口の約4割もが奴隷(奴婢)だったのだ!

彼らは牛馬以下の存在で、法律上、主人は奴隷に殺害以外の何をしても全て合法だったのである。(主人が奴隷を殺しても実際には捕まらなかった)

そんなことだから、特権階級は当然!奴隷をレイプし放題だったのだ!!
 そして、女奴隷がレイプされた結果、生まれた子供は男子も女子も奴隷にされてしまう。
レイプされて生まれた女の子は主人(自分の父親とその息子=異母兄弟)にレイプされる(以下繰り返し)という悲惨極まる状況だった・・・

 つまり、日本によって奴隷達が解放される前は、国全体が近親レイプによって種付けをする、奴隷牧場状態だったのである。

※結論
日本が、暗黒土民王国であった朝鮮=大韓帝国を両政府の話し合いで併合近代化して、奴隷を解放をしてしまった・・・

その為に500年の長きにわたる、『特権階級による近親レイプ』の伝統文化が途絶えてしまったのだ!
これには、日本は謝罪と賠償をしなければならない!!
0243日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/21(日) 00:30:49.54
「画期的新説」邪馬台はヤマトである
https://98k.dreamlog.jp/archives/52046904.html

古代中世の礼制と法制・政治との関係史が専門の歴史学者(桃崎 有一郎)が「邪馬台はヤマトである」ことを、
文献史学の立場から結論したとゆー新説であります


文芸春秋3月特別号に掲載と教えてもらってて、ようやく図書館で借りることができました
以下、掲載記事のうち個人的に興味のあった部分のみ、てきとーにメモしました
0244日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/21(日) 00:40:23.70
山門ヤマト、ヤマド
大和ヤマトゥ

邪馬臺ヤマダ
0245日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/21(日) 04:00:46.12
倭の女王は、邪馬台国に居た。
台?
壹か臺か? 表意文字か倭音国名か?
南か東か? 原文は、あほか?

帯方郡から一万里で九州上陸
帯方郡から一万二千里はどこか?

九州上陸から南東徒歩500里の
伊都で常駐して、
船無いけど? 次に水行? 泳ぐの?

南至水行20日 投馬国 から
南至水行10日 陸行1月 が
邪馬壹国 女王の処都 であって
帯方郡から一万二千里である。
0246日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/21(日) 09:23:46.91
北九州30ヶ国の総称がヤマト国で卑弥呼の女王国が奴国だ
0247日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/21(日) 18:15:59.96
昔々のころの地名や方向が定まってない原始社会、
山幸彦、海幸彦、と言ってた時代に、

「山手に住んでる人=やまひと=やまと」農林作業者などをさす。
「水辺に住んでる人=みなひと=みなと」漁労者などをさす。
昔から漁村などで、陸おかに上がるとかで、海の漁師とは対立関係にある。

山から来たのか、海から来たのか、尋ねた場合、やまと、みなと、と答えたのが、
いつしか、奈良盆地に住む「やまと」だけが 都 地名として残って行った。
全国に似たような地名が有っただろうけど消えていったんだろう。
0248日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/21(日) 19:27:47.17
>>232
その頃の方角は東西南北とその間で8方向。
だから「東」とは東南東と東北東の間に±αを付けた角度を意味する。
だから九州で無問題。
0249日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/21(日) 21:43:15.85
甲骨文字(こうこつもじ)は、古代中国の遺跡から出土する甲骨
(亀の甲羅や牛の肩甲骨など)に刻みつけられた文字。
特に、殷(商)時代後期、第22代殷王武丁(紀元前13世紀半ば頃)の占卜(亀卜)
に使われた甲骨上の文字を指す。

>実はこの甲骨文字日本の神社などでは、今でも現役で使われてる事は余り知られてない。

占卜(亀卜)などを行う卜部家、お祓いをする忌部家など神官どうしの間で
密かに伝えてたんだろう。 当人たちも殷時代の甲骨文字だとは気づいて無かった。
遺跡から発掘されるまで知らなかったはず、神代文字として密かに知られてたか??

じゃあ、神話時代の記録、固有名詞など案外正確なのかもと思ってしまう。
0250日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/22(月) 00:05:44.61
古代中国の殷王朝の甲骨文字が漢字のルーツであるとされている。
この甲骨文字は表意文字であるが、その中に例えば下の表にあるような
日本の神代文字の「阿比留草文字」に対応する文字群がある。

阿比留草文字と甲骨文字の対応(漢字の起源、参考)
https://ameblo.jp/shimonose9m/image-12484100578-14475020931.html


「玉鉞・刻文付有孔石斧」山形県羽黒町中川代遺跡(縄文中期)
https://utukusinom.exblog.jp/27409899/

文字は「之と生の合体字?」の甲骨文字である。
0251日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/22(月) 05:18:28.24
>>245
原文は
>南至投馬國水行二十日
>南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月
不彌國到着の時点で残り1300里で水行なら2日で越えてしまう。
ゆえに原文を改竄しない限り「水行二十日」と「水行十日陸行一月」は帯方郡からの距離とするしかない。
1300里は誤差で邪馬台国は九州。
0252日本@名無史さん
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2024/04/22(月) 08:00:16.42
>>251
女王国までの総距離、12000里
7000里+1000里+1000里+1000里+500里+100里+100里=10700里。

残り1300里

1300里、2か月問題がある (水行20日+10日+陸行1月(30日)=2か月)

短里説では、1里=72mだから、72m×1300里=約93km

約93kmを2か月かけて、九州説はどこをどう行ったのか

さらに、93km÷60日=1.55km 一日平均、約1.55kmしか進まなかったことになる

ということは、短里説がそもそも間違いということもある。
0253日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/22(月) 08:46:21.77
九州までの水行一万里は確定
残りの二千里は1月行という単位。

月行単位は中国古代地理の謎だが
陳寿の暴露による1月行二千里は
概ねで適用可能である。

日本南北 ほぼ九州島3月行
東西 奈良の東山まで5月行
楽浪郡済州島 船行3月
漢書地理志にも使用の有る単位
0254日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/22(月) 09:00:28.07
短里は周里だが
九服の制の500里が基準

しかし、基準が西域と違う
倭人伝は50歩一里だが
西域は100歩一里。
首都が洛陽か長安で違う?

月行単位は、この外域で使われる。
0255日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/22(月) 10:43:50.19
現在は原器という基準があるが、大昔は無いから曖昧である
0257日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/22(月) 13:18:36.20
奴国(2万戸)=福岡平野(250平方)
投馬国(5万戸)=筑後平野(600平方)
邪馬台国(7万戸)=熊本平野(775平方)
0258日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/22(月) 15:04:20.99
こっちだった
邪馬台国(7万戸)=熊本平野(775平方)+八代平野(75平方)
※八代平野(230平方)の約3分の2は江戸時代からの干拓によって造成された土地である
0259日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/22(月) 15:44:08.67
>>255
6尺一歩は建築等で基準が尺なので
23~25cmで度量衡の定めが必要

一歩はふた足で140~150cmだった。
この一歩と一尋は
そもそも人体基準で概算

一里がくせ者で、
300歩、360歩とか定めがかわり
短里という周里でも
50歩や100歩のときが有るようだ。

周礼に九服の制があり王畿が方千里
外周に各500里の方を9服重ね
方万里を徴税などで国内とした。

この500里が外域里程の基準で
渡海1000里3回という概算の理由。
100里は伊都から見えた隣国国境までだろう。
公開されていない
外域の概念図があったはず。
地形自体の解明は無いけど、
行った記録は増える。
0260日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/22(月) 18:44:29.01
文字動画と思われて離脱されやすい
視聴維持率で不利
なのに後半は音声だったりする
「画面を見なくてもいい動画」としても半端

購入してみたものの明らかに滑った
vtuber素材の損切りができない
見た目に合っていない声をあてていて
違和感しかないのに
家族や身内が誰も指摘ができない状況も伺える
0261日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/22(月) 21:42:03.87
>>252
残りの1300里では水行20日や水行10日+陸行1月は期間が長すぎて不可能だよね。
だから1300里は誤差とするしかない。
よって帯方郡から水行20日、または水行10日+陸行1月ということになる。
(邪馬台国の東は海だから水行のみでも行ける)
原文をそのまま読めばこう解釈するしかないと思うけど...。

上陸地点も、松浦は近すぎて1000里もないから不適。せいぜい500里。
方角指定がないけど、上陸後東に進んでるから水行は西じゃなくって東方向と思われ、1000里だと宗像当たりになるね。
原文の距離と方角を改竄しない限りこれ以外にないと思う。
0262日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/22(月) 22:55:12.41
『礼記』王制篇に「東方のことを夷という。
夷とは根本(土着)の意味である」とあり、
その意味は「恵み育て生命を尊重することで、
万物は土地に根ざしてできるものである」となる。

そのため、東夷諸民族は生まれつきが従順で、
道理をもってすれば容易に治められるといい、
君子の国や不死の国があるとさえいわれる。
0263日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/22(月) 23:01:28.20
『山海経』に「君子の国は衣冠をつけ、剣を帯びて獣肉を食べ、

2つの飾りの虎をいつもそばに置いている。

不死の人が交脛(山東地方か?)の東にあり、その人は色が黒く長寿でなかなか死なない。
君子国も不死国も共に東方にある」とあり、『外国図』には
「君子国は瑯琊(現在の山東省青島市黄島区)から三万里離れたところにある」とある。

帯方郡から邪馬台國までが、万二千里あまり。
0264日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/22(月) 23:27:51.57
>>261
その距離が問題で、1里は何メートルかという問題
当時中国で使われていた1里は435m(魏里)

ところが、魏志倭人伝と魏志韓伝だけは、
周の時代の短理が使われていると古田武彦が言い出した
短理の1里は論者によって違いはあるが、70mから80mぐらい

古田武彦は、九州説論者だったから、目的地ありきで
逆算した結果、短里だといってるのだろう
魏里を使えば、当然、九州説はありえないことになるし
比定地も変えなくてはならなくなる。
0265日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/23(火) 05:36:46.33
帯方郡から
南至馬韓の通過に20日で投馬国
南至投馬国通過と海峡10日で女王国
九州上陸後陸行1月で女王の処都、邪馬台国
参問次有21国、此女王の境界尽きる所
其の南有り狗奴国、不属女王
郡から女王までは万二千里だった。

240年、初の韓西岸~九州行で
弁辰韓は投馬国と仮称
女王国は邪馬台国と仮称
その南に有る狗奴国を知り

240年魏使は、直列する4国の地理と
訪問した女王国所属の詳細21国名を
詳しく記録した。

247年倭人船で伊都まで行った
渡航路の道里を記録した報告書と
これの、随時残した報告書によって
倭人伝で、陳寿は
後世に残すべき倭の詳記を得た。
評曰
0266日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/23(火) 05:50:56.71
女王国=邪馬台国
参問倭地次有列記21国は
周旋可五千里

対馬海峡往復は六千里だが、
女王国はその程度の小国であった。

実は
がっかりなんだよorz
が、陳寿のまとめ
0267日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/23(火) 09:11:32.52
投馬国=妻郡(筑後市中心)
邪馬台国=山本郡(熊本市中心)
狗奴国=球磨郡(人吉市中心)

3世紀以降は朝廷が本州に進出したので、狗奴国が北上し邪馬台国を支配した
後に山本という地名を熊本に変更し、狗古智卑狗などが菊鹿盆地を開拓した
0269日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/23(火) 11:20:06.29
>>264
>その距離が問題
って何のこと?
何度も同じ事を書くことになるが
1里は何メートルかという問題以前に
不弥国到着時点で残り1300里。この距離で水行が可能なのはせいぜい数日ということ。
だから水行20日や水行10日陸行1月は帯方郡からのことで邪馬台国は不弥国のすぐそばにある
ということになる。したがって距離と方角を改竄しなければ1300里は誤差とするしかない。
もちろん不弥国が九州以外というなら別。
どこかおかしいのか教えて。
0271日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/23(火) 12:04:00.61
>>269
残り1300里も何も、まず1里は何メートルかをはっきりさせないと
計算できないでしょう
短里説では、1里=72mだから、72m×1300里=約93km
当時中国で使われていた里なら、1里が435mだから
九州説はそもそも成り立たない
0272日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/23(火) 12:05:07.77
魏志東夷伝が成り立たなくなっちゃうな
0273日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/23(火) 14:50:35.52
『山海経』に「君子の国は衣冠をつけ、剣を帯びて獣肉を食べ、

2つの飾りの虎をいつもそばに置いている。

不死の人が交脛(山東地方か?)の東にあり、その人は色が黒く長寿でなかなか死なない。
君子国も不死国も共に東方にある」とあり、『外国図』には
「君子国は瑯琊(現在の山東省青島市黄島区)から三万里離れたところにある」とある。

帯方郡から邪馬台國までが、万二千里あまり。
0274日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/23(火) 15:20:27.29
>>269
帯方郡起点の240年と247年の
ニ行程読み、だが、

水行20+10日が、九州上陸の場合
伊都不彌国奴国の里程は無視で良い。
特に港が近い感じの早良辺り伊都まで
徒歩500里は意味不明。

240年の目的地は、伊都ではない。
これが上陸水行一万里の誤差でしょ?

上陸は普通、糸島半島の西か東
唐津湾か博多湾か?の選択だけ。
目的地を言って壱岐で上陸適地を聞く。

残りの陸1月行=二千里が女王の処都。
0278日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/25(木) 14:41:44.62
>>276
247年は
帯方郡から倭人船で伊都までで
寄港地間と宿所の里程を記録、
合計10500里と
100里2つが、伊都の隣国国境
帰りは、臺与の朝貢船

240年は女王の処都まで金印配達
帯方郡から
水行20日水行10日で九州(10000里)
陸行1月2000里で女王の処都
陳寿の補足では、合計、万二千里
これは、
馬韓通過で投馬国、渡海で九州女王国
上陸以降、徒歩二千里で女王の処都
南に狗奴国、

これは、直列する4国の地理説明で
普通、首都間の移動でもなければ
点から点の里程では示せない。
0279日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/25(木) 17:52:59.34
>>271
水行は1日で1000里。
残りは1300里しかないから水行だけで2日弱。
だからこの距離で水行20日や水行10日陸行1月は無理。
ここまではOK?

>>274
大陸から対馬、対馬から壱岐の距離である1000里に比べて
同じ1000里なのに松浦は近すぎる。(せいぜい500里かな)
上陸後は東へ歩いているから、重い鏡の運搬を考慮して、東の宗像当たりの上陸になると思われる。
(宗像にも「マツロ」に近い地名があったらしい)
地名は変わっても地形は変わらないから地形最優先。

もちろん「また一海を渡ること1000余里」を改竄するなら別。
0280日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/25(木) 18:47:49.77
>>279
壱岐からの上陸地は
糸島新町港。
南東500里伊都は早良付近。
なぜ今宿上陸じゃないのかは謎。
糸島に卑弥呼の墓?

唐津側に伊都は無い。
船乗りは目的地が対岸で下船しない。
半島から来て横浜いくのに
三浦半島で降りるような間抜けな話?
0281日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/25(木) 21:42:25.88
九天頭脳無敵
0282日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/25(木) 23:12:25.66
スレ立てはしたこと無いけど
スレ立て嵐って、どーゆーこと?
スクリプトって、止まったの?
0283日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/25(木) 23:52:34.20
なんで呼子で上陸したなら
500里以上、歩いたのに

畿内に船で行けて、
帯方郡に帰れるの?
0284日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/26(金) 00:27:56.83
>>279
OKじゃないよ
あんたは1里を何mにしてるのかを聞いてるんだよ

それによって違ってくるんだから
0285日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/26(金) 08:37:45.74
いずれにせよ九州説はもう終わりだな
0286日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/26(金) 09:35:42.67
里では不可能だから陸行1月なんだよ
舗装もされていない獣道を裸足で何キロ歩けるか?
その道が峠道なのか湿地なのか直線なのか?
敵や獣が潜んでるかもしれないとか条件は無限大
0287日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/26(金) 09:44:45.41
40里が陸行1日で1月は1200里、120里が水行1日で10日で1200里
1200里は約520qどちらも帯方郡から奴国までの距離だ
0288日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/26(金) 11:47:44.24
1里が何キロになるかは、現代人の考え方。
当時は曖昧な里だから、大きさを言うのに両手を広げて"このくらい"と言うのと変わらないだろう。
なので1里は、1里ほどだろう。
0289日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/26(金) 15:13:41.71
東夷伝にはその序文から
周礼九服の制の世界感が根底にある。
方千里の王畿から五百里毎の九服で
これによって、税、徴兵、朝貢等
の決まりを作った。
図面あっての制である。
この域外についての概念図があったはず。

半島、倭は域外だが
この時の基準が、倭人伝の50歩一里
西域里をみると、200歩一里
始皇帝は300歩一里に定めた。

一歩は人体基準で、ニ足130~40cm位
度量衡は尺度で決まり6尺が一歩
国自体の統一が緩い
周代では安定していなかった。

倭人伝里は洛陽~長安が5千里で
国土が小さくなり過ぎ?だが、
始皇帝里は洛陽~大阪が5千里で欲張り過ぎ。
九服の話は無理。
0290日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/27(土) 00:00:53.20
>>289
>度量衡は尺度で決まり6尺が一歩

歩や里は距離(道のり)の単位であり
寸・尺・丈は長さの単位だから2つは別の単位系だよ
張飛の蛇矛を1丈8尺と言うことはあっても3歩と言うことは無い

6尺=1歩は6という数字に異常に拘ったという始皇帝が決めたんじゃないかね
0291日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/27(土) 00:35:16.81
建築や裁縫で規格が必要な
度量衡で24cmだった尺度が
30cmになったとき
一歩を5尺にした例も有る。

何歩にするか? で決まる
一里が常に一定と言うことはない。

倭人伝には50歩一里の九服の
荒域図面が、背景に有ったはず。
陳寿は張政とこの短里を共有したし
後世の版本も成立している。

韓方化四千里を許容した背景は
なぞだが、必ず有る。
0293日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/27(土) 05:43:00.74
>>284
水行は1000里/1日単位だから2日以内で1300里は消費される。
また、九州上陸後は東南に歩いてるから
大分か宮崎の東海岸から乗船することになる。
四国ならアリかもしれないが、近畿に行くなら波が静かで安全な瀬戸内海を通るよね。
だから近畿はありえない。
どっちにしろ1里を何mなのかは考える必要はない。
0294ネトウヨボクメツ隊!
垢版 |
2024/04/27(土) 12:00:57.19
邪馬臺國=ヤマト王権

日本書紀は神功皇后の事績に魏志倭人伝の卑弥呼の文を引いている
神功を卑弥呼に比定するのは時代が合わないから明らかに間違いなのだが、七世紀の日本の王権が自分たちの祖先が卑弥呼と認めている事実は明らかなのだ

ネトウヨ残念だったな
日本の天皇が中国の皇帝の臣下になった歴史は消せないのだ
0295日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/27(土) 15:26:08.86
神功皇后は魏に朝貢した神元皇帝。
天智、天武天皇は律令国家を始めた道武皇帝。
桓武天皇は大陸人の自覚と漢風化政策を推し進めた孝文帝であり、孝文帝と朝鮮系移民妻の間に生まれた宣武皇帝でもある。
日本は北魏なの。
0296日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/27(土) 16:51:20.25
魏は朝鮮半島に続いて九州島も支配しようとして男弟を傀儡にして内乱を起こし卑弥呼を殺した、これが記紀が事実を書かない理由だろう
0297日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/28(日) 16:58:16.72
魏志が書かないのは司馬懿の計画が失敗して男弟側が敗北したからだ
0298日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/28(日) 18:51:01.22
九州筑紫国

『 筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原 』

九州神道の本流祝詞でも詠われるように邪知は祓う力がある
0299日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/29(月) 02:44:17.48
age
0300日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/29(月) 03:45:43.72
またage
0301日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/29(月) 04:29:37.01
しい
0302日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/29(月) 04:42:32.75
でぃー
0303日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/29(月) 04:55:24.71
いぬ
0304日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/29(月) 05:43:48.17
えー
0305日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/29(月) 06:58:29.72
卑弥呼=天照大神
邪馬台国東遷
邪馬台国=大和朝廷
0306日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/29(月) 06:59:27.22
0307日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/29(月) 07:08:03.00
みー
0308日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/29(月) 07:25:01.52
そう、邪馬台国とはヤマト国なり
0309日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/29(月) 08:15:53.94
正しく読むのなら
ヤマイコクで撤退してくれ
0310日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/29(月) 10:28:07.87
徹底
0311日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/29(月) 15:59:26.57
女王国の東、海を渡ること千余里にして、復国有り。
=女王国は九州の東海岸
しかも上陸後は東南に陸行してるから福岡県ではない
なので大分県か宮崎県
0312日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/29(月) 16:12:18.04
はー
0313日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/29(月) 17:05:41.33
>>311
>=女王国は九州の東海岸×

倭人伝は歴史書であり、年代順に記述されている。→年代順に竹簡を並べて編んだもの)
くだんの「女王国東」は、卑弥呼が共立された記事の後に出てくるので、
この場合の「女王国」は倭30国全体、つまり九州のこと。

よって九州の東海岸でなく、九州島の東と読むべし。
実際に後世の太平御覧倭国伝では、「倭国東」と書き改められている。
0314日本@名無史さん
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2024/04/29(月) 20:30:17.83
多分、元々は「肥後風土記」に卑弥呼の物語がのっていた。
古事記の編者は、その卑弥呼をモデルに、天照大御神・高千穂神話を書き上げたのさ。
逸文でいいから、肥後風土記が残っていればねえ・・、
0315ネトウヨ撲滅隊!
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2024/04/29(月) 23:23:05.37
何故かジャップの好きなXを見てみると九州説を主張してる連中のスピリチュアル系のカルト率の高さが気になるな
奴らはやはり日本会議系の明治の新宗教である自称古神道(古代からの文献ねーだろ。江戸時代に作られたもんだと分からんのか)の連中か統一教会系のネトウヨの馬鹿どもに違いない

Xの九州説論者は例外なく反アイヌ思想で秦氏がユダヤ人がどーとか言っている
0316日本@名無史さん
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2024/04/30(火) 14:00:40.93
正しく読めば九州だけど
読む、ということは、
説ではないよね?
0318日本@名無史さん
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2024/04/30(火) 16:27:55.71
>>311
北部九州地域全域が邪馬台国ですから
福岡県、大分県は 邪馬台国の一部です。
0319日本@名無史さん
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2024/04/30(火) 16:28:28.50
邪悪で軽薄な邪智を動員して

混純彩る中央に入り込む邪の者たちを

九天の九紫の九字を切り邪智を封じ込む
0320日本@名無史さん
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2024/04/30(火) 17:02:00.20
九州は卑弥呼の支配地であり邪馬台国に一部
0321日本@名無史さん
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2024/04/30(火) 17:03:10.90
「女王国東渡海千餘里 復有國 皆倭種」
伊都国、奴国、不弥国を公孫氏が女王国と呼んだ
伊都国(糸島市南東部、)
奴国(早良区南部、南区、那珂川市、春日市、大野城市、筑紫野市方面)
不弥国(早良区北部、城南区方面)
早良区北部の博多湾から千餘里(約80km)で関門海峡を渡り中国地方
0322日本@名無史さん
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2024/04/30(火) 17:05:36.28
邪馬台国とは魏使の梯儁が北部九州地域を指して呼んだ名前。
0324日本@名無史さん
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2024/04/30(火) 17:17:54.44
魏使の梯儁は朝鮮半島南部を投馬国と呼び
九州南部地域を狗奴国と呼んだ
0325日本@名無史さん
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2024/04/30(火) 19:20:25.01
>>322
自称国名の無かった女王国の仮称だが、
帳政も陳寿も、歴史的には採用しなかった。

エベレストはサガルマータでも良い。

臺は曹操の高楼の表意文字なので、
国史版本化の変更命令で
形が似れば、音は壱でも嘉でも良かった。
0326日本@名無史さん
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2024/05/01(水) 00:02:28.14
うスクリプト対策
0327日本@名無史さん
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2024/05/01(水) 03:42:04.26
bスクリプト対策
0328日本@名無史さん
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2024/05/01(水) 10:56:59.39
>>293
1日千里は、水行ではなく渡海では?

渡海は目視で対馬島が見えたら翌日、
無理しても、明るいうちに渡り切る。

帯方郡から水行20日は、
公孫氏以降敵味方不明な韓西岸の
海岸水行で地形判断で幕営行軍。
対馬が見えるまでの四~七千里。
南岸、投馬国のどこか?

渡海3日を含む水行10日は三~六千里
これで九州上陸で女王国入り。
残りの二千里が
女王の処都までの一月陸行
0329日本@名無史さん
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2024/05/01(水) 12:23:59.97
Takeo Kusumi @T_Kusumi057 (久住猛雄)


公務員クズタケが、九州説をぶった切る
0330日本@名無史さん
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2024/05/01(水) 14:37:32.24
とまれ、九州上陸後、東南〜南方向へ陸行1月で女王の都する所
この原点を外しては、500年経っても千年経っても解決せぬ・・
とはいえ大方の学者は、それが出来ない渡世の義理があるようだねえ(笑う・・、
0332日本@名無史さん
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2024/05/01(水) 15:02:48.40
>>330
247年まで九州が独立外交してて
313年以降の富国強兵で
高句麗交戦始めて牛馬の移入。

370年に百済建国で、
王妃が日本皇族で王子は日本で養育
古代史の話は無理な国が有るよね。

候王として外戚の王族だけで
民族的には無関係らしいけど?
0333日本@名無史さん
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2024/05/01(水) 18:09:57.52
解決しないのではなく正解を黙殺して議論を続けてるだけ
0334日本@名無史さん
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2024/05/01(水) 20:39:51.18
倭王武の上表文
倭の五王 最後の倭王武は、宋の昇明2(478年)5月、宋の皇帝順帝に上表文を奉っている。

「封国は偏遠(へんえん)にして藩(はん)を外に作(な)す。
東は毛人を征すること五十五国。西は衆夷を服すること六十六国。
北の海を渡りて平らぐること九十五国。
王道融泰(ゆうたい)にして、土を廓(ひら)き畿を遐(はるか)にす。
累葉朝宗(るいようちょうそう)して歳(としごと)に愆(あやま)らず。」
(『宋書』倭国伝)

この上表文には、『春秋左氏伝』『毛詩』『荘子』『周礼』『尚書』等から
引かれているものが見受けられるという。例えば、「躬ら甲冑を環き、山川を跋渉す」
などは『春秋左氏伝』にも見られる字句である。
この上表文を書いた倭王朝官人の漢文の教養の深さが窺われる。
0335日本@名無史さん
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2024/05/01(水) 20:44:04.41
(魏、明帝の景初二年(238)頃)
魏志韓伝(馬韓)「すべてで五十餘國なり」
辰韓は十二国と為る。
弁辰はまた十二国なり。
+任那倭国=と凡そ一致する。

「北の海を渡りて平らぐること九十五国。」
0336日本@名無史さん
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2024/05/01(水) 21:04:11.78
それよりも、宋の昇明2(478年)頃の上表文には、
『春秋左氏伝』『毛詩』『荘子』『周礼』『尚書』等から文言を引用してる、
倭王朝官人の、漢文の教養の深さが窺われる。

「隋書、倭国伝」(ac600年)に、「無文字唯刻木結縄」
「文字がないから、木に刻んだり、縄で結んだりする」とは何だったのか??
0337日本@名無史さん
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2024/05/01(水) 21:28:32.07
ハプログループO1b2 (Y染色体) Wikipediaより、
「周姓」を名乗る者が多く、湖南省の中でも特に湘潭市(全男性人口の約2.05%)、
益陽市(約1.67%)、長沙市(約1.29%)等湖南省北東部に集中して分布している。

『翰苑』巻30にある『魏略』逸文や『晋書』東夷伝、『梁書』東夷伝などには、
倭について「自謂太伯之後」(自ら太伯の後と謂う)とある。
太伯(たいはく)・虞仲(ぐちゅう)は、中国周王朝の古公亶父の子で兄弟。
姓は周宗家と同じ姫(き)。紀元前12世紀・紀元前11世紀頃の人物。

論衡(巻一九、恢国篇)成王の時、越常、雉を献じ、倭人暢草を貢す
成王(在位:紀元前1,022年〜紀元前1,002年)の時、
越裳は雉を献じ、倭人は暢草を貢ず。

日本には、紀氏、木氏、岸、喜志、貴志、キシ音、などなど引っ掛かるな!!!
0339日本@名無史さん
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2024/05/01(水) 23:44:24.40
それを中共政府が最近のDNA分析で解ってるが、
公表は絶対できない国家機密である。

東夷、淮夷、などが夏殷周時代によく出てくるが、彼らが倭集団だったような気がする。
0340日本@名無史さん
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2024/05/02(木) 03:48:26.78
それ殷の箕子の可能性もあるかもな
0341日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 05:49:43.54
九州倭国王は阿波君という称号らしいな
0343日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 10:07:23.04
あちこちにイトコク→伊都国と書いてあるのにわざわざ台をトと読むわけ無い
0344日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 10:49:39.61
邪馬台国が東遷したのが大和朝廷だから発音はヤマトに決まってる
0345日本@名無史さん
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2024/05/02(木) 11:11:23.86
隋書にすらヤマツァイって書いてあんだから
いい加減奈良の大和はヤマタイですって認めろってw

ところで後漢書や魏志にある邪馬臺はヤマダですね
0348日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 14:42:10.19
大和政権は九州倭国王の手下に過ぎなかったのに
天皇の称号も歴史も奪った
勿論最後の邪馬台国天子は筑紫の君磐井
0349日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 15:19:09.74
携帯天皇も明らかに簒奪者
謎が多い 
日出る天子まで九州倭国はあるはずなので
本物の邪馬台国は600年はまだ有る
何かが嘘だ
0351日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 17:46:49.74
>ここにある、奴国王( ぬのみこと)が幼名・子供時代の名。

「神武天皇」
狭野尊(さののみこと、さぬのみこと) - 『日本書紀』第十一段の第一の一書での幼名。
若御毛沼命(わかみけぬのみこと) - 『古事記』
豊御毛沼命(とよみけぬのみこと) - 『古事記』
0352日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 21:44:08.38
隋書に言うアマテラスヒコこそ太陽神
天照大神であろう
0353日本@名無史さん
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2024/05/03(金) 08:36:16.08
>>343
むしろ逆
元々ヤマトだったのがヤマタイとよばれるようになった
それは何故か?
ヤマトが福岡訛りでヤマタイになったたいね
0354ネトウヨボクメツタイ!
垢版 |
2024/05/03(金) 09:40:38.83
伊都国には日時計の超複雑系なものがあって、日の出が東の山のどの位置から始まったかによって、かなり正確な暦を割り出す事が出来ていた
中国の暦とは一〜二日ほどずれることもあったようだが、農業で用いるには誤差の範囲内だろう
どうやらこの伊都国の暦が北九州各国で使われていたようである
つまりこの伊都国に「ひじり=日知り=聖」つまり天の道を知っている人がいたわけだ

そしてこれと同じものが纏向に存在していた
つまり纏向にも「ひじり=日知り=聖」がいたわけだ
倭国の大王はひじりでなくてはいけなかった

ちなみに唐子鍵には、ここまで凄いものはなかった
つまり伊都国からひじりが纏向にやってきたのだ
伊都国は「ひむかし=日向かし=東向き」で正確な暦を作れる稀有な場所つまり聖地ヒムカで、それが纏向で再現されていたわけだ

ヤマトの大王家がヒムカからやってきてヤマト王権を建てたという伝承は伊都国王家が纏向王権を建てたという歴史的事実の神話化であろうと考えられよう
0355 警備員[Lv.20][苗]
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2024/05/03(金) 09:50:44.52
九州説は奴国(福岡市)と狗奴国(熊本県菊池市以南)の間に、
投馬国と邪馬台国と
「遠くて戸数・距離がわららない国々」を詰め込まないと成立しない
0356ネトウヨ撲滅隊!
垢版 |
2024/05/03(金) 10:19:18.56
伊都国の王家が畿内の纏向に第二のヒムカを作った
これがヤマト王権すなわち邪馬臺國であり、倭の諸国の盟主として後の日本国に発展していったのだろう

糸島と纏向以外で正確な暦を作れるような装置は見つかっていないからな
東に幾つもの山を備えていて、そして西のある一点からそれらの山々を見ると尾根や峠の位置が正確に冬至や春分などを把握できる奇跡的にな地理条件の土地はそうはあるまい

このような地理的条件を備えた国は伊都国とヤマト王権の纏向しかないのだ
九州に倭王がいたのなら伊都国だったはずであり、伊都国以外が邪馬臺國ならば、それは纏向しかないのである
0357日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/04(土) 11:40:37.86
>>356
後漢書に記されている通り、邪馬台国連合は後漢時代ですでに代々王を継いできた30国からなる連合国だ
纒向に代々王が居た形跡は無いんだが?
0358 警備員[Lv.6(前5)][新苗]
垢版 |
2024/05/04(土) 15:00:57.30
九日本州
0359日本@名無史さん
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2024/05/05(日) 11:51:52.55
九州をいつ言い出したか不明だが
九州は全世界を意味する
かつて倭国といえば九州が全てであったろう
0360日本@名無史さん
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2024/05/05(日) 12:05:59.55
それが勘違いのもとw
九州の律令時代は九国w
0361日本@名無史さん
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2024/05/05(日) 12:11:54.41
wつけて恥ずかちい
0363日本@名無史さん
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2024/05/05(日) 20:40:52.55
「邪馬台国は徳島」説に熱視線、歴史系ユーチューバーら紹介…
映画化した男性「こんなに面白い話はない」
https://www.yomiuri.co.jp/national/20231221-OYT1T50319/

「邪馬台国は徳島にあった」とする
「邪馬台国阿波説」に着目した地域活性化への取り組みが進んでいる。
徳島県内の郷土史家らが神話や出土品の分析を通じて主張している新説だが、
昨年頃から興味を持った多くの歴史系ユーチューバーが取り上げ始めた。

現地ツアーなどで観光客を呼び込もうとする動きも出てきており、
県も後押ししている。
有力2説に対し、阿波説では、
魏志倭人伝に記された朝鮮半島から邪馬台国までの距離や行程を分析すると、
徳島に行き着くと主張。
畿内説や九州説は距離の単位や方角の解釈が誤っているとする一方、
県内の神社や遺跡などには、記述と一致する特徴が多々あるとしている。

例えば、阿南市の国史跡・若杉山遺跡では、
赤色顔料「朱」の原料となる鉱物「 辰砂しんしゃ 」や過去に使った石臼などが採掘されており、
「その山に丹(辰砂)あり」との記述に一致しているという。
0365日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 02:40:26.67
丹てのは土器とか木器に塗る赤い染料のことやろ
0366日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 02:41:21.00
水銀朱を用いるから中毒が起こる場合もあるんだわな
0367日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 02:42:36.65
倭人は顔に丹を塗っていたとかって話はないのか?

日本でも昔は行っていたことだからよ
0368日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 03:17:12.58
女王国に至る行程は魏時二回の遣使の
説明に拠り知り得た倭の30国の情報で

其の従郡至倭の報告書の引用であって

1、247年帰国の倭人船で伊都に到り
 常駐した一万五百里の積算と
2、240年、金印の女王の処都迄の
 南至、水行30日と陸行一月の合計、
 一万二千里、の 二件の行程。

其の山 丹有り、
の 其の は倭国の物産の話で
畿内、九州、四国、関東を問わない。
0369日本@名無史さん
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2024/05/06(月) 07:27:20.71
>>368
「卑彌呼」・「壹與」時代の倭国は、せいぜい「邪馬臺国(粟国)」+「狗奴国(長国)」+東部讃岐+南部淡路島 程度だろう。   @阿波
0372日本@名無史さん
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2024/05/06(月) 22:08:58.28
【古代日本】鹿児島で古代の権力機構を示す古墳遺跡が発見される

弥生後期から古墳時代前期の遺跡がある鹿児島県鹿屋市の名主原遺跡で
直径約20メートルの溝に囲まれた墓とみられる遺構が見つかった。
県内の古墳に詳しい鹿児島大学総合研究博物館の橋本達也教授(考古学)は
規模や形状から前方後円墳や円墳など畿内から広がった古墳と判断しており
「県内最古級の可能性がある」と指摘している。

現地に急行した橋本教授は、弥生時代は同規模の墓が群集して見つかるのに対し
古墳が大規模で独立して存在する点に着目。
「溝で区切った一定の空間を確保し、大きさで権力や地位を示す古墳と考えられる」と解説。
大隅半島には古墳時代前期の塚崎古墳群(肝付町)があるが、見つかっている土器の種類から
「塚崎古墳群が造成された時代か、それより前の時代ではないか」とかと推測する。
0373日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/06(月) 22:15:18.81
【古代日本】鹿児島で古代の権力機構を示す古墳遺跡が発見される

鹿児島県考古学会の堂込秀人会長は
「日本列島に権力機構の頂点を象徴する古墳が成立する時期に
 南九州にも古墳時代に階層的な社会があったのだろう」と推測する。

鹿児島県鹿屋市で発見された古墳時代の名主原古墳の遺跡
https://i.imgur.com/8IcI1wH.jpeg
0374日本@名無史さん
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2024/05/07(火) 00:07:31.14
伊都国王家の版図は筑前や長門から四国全域に及んでいたと見て良い。何故なら弥生末期の銅剣祭祀圏の広がりがこれであったからだ。
この勢力が畿内を征服したと考えれば、崇神の四道将軍派遣に筑前や長門や安芸や四国の国々が入っていなかった理由もすんなりと理解できよう。
0375日本@名無史さん
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2024/05/07(火) 06:44:57.29
>>374
>弥生末期の銅剣祭祀圏の広がりがこれであったからだ。

その銅剣祭祀圏の震源地が「阿波」。  また、銅鐸祭祀圏の震源地も「阿波」なのである。   @阿波
0376日本@名無史さん
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2024/05/07(火) 14:53:12.59
伊都国には、「都」がつかわれている。
卑弥呼以前は、倭国の中心だった。
0377日本@名無史さん
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2024/05/07(火) 16:08:31.08
>>376
倭人伝以前に伊都があった?

一大率は中央政権から
九州に派遣されていて
外交の管理が仕事なんだが?

250年以前で九州諸国以外の
貿易状況は考古学の分野だけどなw

日本海ルート諸国の船が検閲で
九州に上陸するのか?
0378 警備員[Lv.10(前25)][苗]
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2024/05/07(火) 21:27:31.67
如何様にも解釈できて笑ったw

傍国はイザナギ・イザナミの神話だった?w 考察
てか、勝手にそういう結論になった

斯馬  オノゴロ島から国産み
已百支 すでに沢山、枝分かれた国々
伊邪  イザナギ、イザナミによって
都支  カグツチも神産み準備万端w   
彌奴  神産みもして広く行き渡る
好古都 女子がカグツチにやられる
不呼  呼んでも返事がない
姐奴  母イザナミは亡くなる
對蘇  イザナギは黄泉で向き合う
蘇奴  母「蘇りできるか待って」
呼邑  待てなかったイザナギ
華奴蘇奴 得たいの知れない姿の母
鬼   鬼=魂とかしたイザナミ
為吾  イザナミ、激怒で一言
鬼奴  イザナミはシモベを放つ
邪馬  比良坂から逃げるイザナギ
躬臣  櫛で追っ手をおいはらう
巴利  桃で追っ手をおいはらう           
支惟  衆夷を動員する程の石で塞ぐ
烏奴  1000殺す1500産むの応酬  
奴   

傍国=方=四方=よも=黄泉w
0379日本@名無史さん
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2024/05/08(水) 09:08:04.40
次有 列記21国 

女王国=仮称、邪馬台国 
所属の21国は、

『次有』の、21回もの繰り返しで
此 尽処 に掛かる枕詞なのであって

これらで、
女王国の全ての国名
を書き尽くした、
と 言うこと。

南至、投馬国 以降
其南有、狗奴国までは、
240年の金印を届けた魏使による
女王国の詳細の説明報告書の引用。

里程と日程の二人の筆致の違いは明白だし、
陳寿は無駄に次有を21回も重ねる
筆法は使わない。
0380日本@名無史さん
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2024/05/08(水) 09:52:02.71
漢委奴国は古の倭奴国(ワド)
レスを投稿する