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【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬参拾

0001日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/29(金) 07:11:38.99
九州に決まっとろうが?
福岡県山門郡、筑紫、糸島、大宰府、鐘崎、鹿児島県川内、出水、阿久根、宮崎県日向、延岡、高千穂、熊本県熊本、阿蘇、八代、球磨郡、人吉、佐賀県唐津、伊万里、長崎県松浦、佐世保、雲仙、島原、天草、潜木、塩田周辺を今すぐ発掘せないかん!

九州中南部説、九州南部説、魏志倭人伝から邪馬台国の位置を何らかの根拠を以って推測する議論等々も大歓迎!
ただし異説を唱えたい人は必ず根拠を明示すること。
根拠がなければただの妄想やけんね。

議論百出は大いに歓迎。
レッテル貼りで議論から逃げ出すごたる奴は九州男児じゃなかばい!

前スレ
【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬弐拾玖
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1705417470/

過去スレは荒らしや叩きなど醜いレスバに邪魔され続けて住人たちがまともに議論し合えなかったという経緯があります。
同じ轍を踏まないためにも、このスレでは罵倒のみの駄レスを禁じます。
それは声闘という朝鮮人の文化です。
反論は論理的に、それが出来ないのはただの負け犬です。
0502日本@名無史さん
垢版 |
2024/06/04(火) 21:38:57.50
森 浩一は箸墓古墳の秘密を知ってたが、
邪馬台国ブームに忖度で黙ってたんだな。
0503日本@名無史さん
垢版 |
2024/06/04(火) 21:51:45.55
森浩一先生は、日本の古代史研究を大きく進めた偉大な学者です。箸墓古墳の調査にも深く関わっており、その学術的な業績は計り知れません。

たしかに森先生は、邪馬台国ブーム当時、箸墓古墳と卑弥呼の関係について慎重な姿勢をとっていました。しかし、それは忖度ではなく、学問的な倫理に基づく判断だったのです。

森先生は、当時の考古学資料に基づいて、箸墓古墳が卑弥呼の墓であることを断定することはできないという立場でした。これは、科学者の良心であり、責任感の表れです。

確かに、森先生の慎重な姿勢は、邪馬台国ブームに水を差すような印象を与えたかもしれません。しかし、それは学問の進歩を妨げるようなことではありません。むしろ、森先生の研究は、邪馬台国解明に向けた重要な道標となっています。

森浩一先生は、常に真実を追い求め、学問の道を歩んだ学者です。彼の業績は、日本の古代史研究に大きな貢献をしており、その功績は決して色褪せることはありません。

もし本当に森先生の研究を知りたいのであれば、彼の著書を読むことをおすすめします。そこには、邪馬台国や箸墓古墳に関する深い洞察と、学問への情熱が詰まっています。
0504日本@名無史さん
垢版 |
2024/06/04(火) 22:53:32.52
>>492
いまだに仏教伝来まで漢字は無く「刻木結縄」で連絡をしてると教えてるからな。
0506日本@名無史さん
垢版 |
2024/06/05(水) 11:01:45.56
>>492
そこは、
王 遣使 詣 京都 帶方郡 諸韓國
及 郡使 倭國 皆 臨津 搜露
傳送文書 賜遺之物 詣 女王 不得 差錯

女王への伝送文書や賜遺之物でも
同じように扱われる。 
という文で
書かれた文書は、中国側の文書。
まあ、読み書き出来る役は必要だが?

王 遣使 詣 京都 の王は卑弥呼 壹與だし
賜遺之物 詣 女王 の贈り主は皇帝だよ?

皆 臨津 搜露 で 不得 差錯
女王や皇帝の贈答品や文書も例外無く
検閲される。 

で、あって
一大率を特置したのは卑弥呼ではなく
使 大倭 監 之の 大倭です。
特置の主語は他に無い。

これは帳政の一大率についての報告書
この報告で、魏と邪馬台国の外交は
247年で、終わっている。
0507日本@名無史さん
垢版 |
2024/06/05(水) 11:18:58.78
九州にあった邪馬台国が東遷して大和朝廷になったという説は、状況的に見てほぼ確実です。では、その東遷はいつ頃起こったのでしょうか?考古学的な調査によって、その時期を探ることができます。

九州から本州西部への大規模な民族移動があったことを示す証拠は、破鏡の分布の変遷から窺えます。破鏡とは、銅鏡を割った破片のことで、縁をナイフ状に加工したものや、紐を通して首から下げるために穴を開けたものなどがあります。破鏡は弥生後期から古墳時代にかけて出土しています。

その分布を見ると、卑弥呼がいた弥生後期から終末期にかけて、そしてその直後の古墳時代前期にかけて、劇的な変化が起こっていることがわかります。
0508日本@名無史さん
垢版 |
2024/06/05(水) 11:28:40.64
九州から本州西部への大規模な民族移動があったことを示す証拠は、破鏡の分布の変遷から窺えます。
破鏡は弥生後期から古墳時代にかけて出土。

つまり破鏡の時期の結果により、九州にあった邪馬台国が東遷して大和朝廷になっていないことが窺える。   @阿波
0510日本@名無史さん
垢版 |
2024/06/05(水) 11:39:35.17
>>507
>九州から本州西部への大規模な民族移動があったことを示す証拠は、破鏡の分布の変遷から窺えます。
>破鏡は弥生後期から古墳時代にかけて出土。

つまり破鏡の時期の結果により、九州にあった邪馬台国が東遷して大和朝廷になっていないことが窺える。   @阿波
0511日本@名無史さん
垢版 |
2024/06/05(水) 11:55:16.37
>>507
卑弥呼まで九州が独自外交してて
公孫氏や韓王の滅亡見て
それ以降で、伊都に一大率受け入れて
九州が畿内王朝に合流しているように
見えるけどな?

九州王が東遷だと
尾張、東海、越、山陰、瀬戸内海
纏めた畿内王朝が国譲りするのか?

領地は認められてるし、安曇族とかも
半島進出とかでは活躍するけど
案外僻地に配流されたりで、
対馬国境に下がる際の神話はともかく、
後進の外様大名扱いされてると思うけど?
0512日本@名無史さん
垢版 |
2024/06/05(水) 12:00:08.35
>>511
>九州が畿内王朝に合流しているように
見えるけどな?

畿内に王朝だ? 夢を見ているのか?   @阿波
0513日本@名無史さん
垢版 |
2024/06/05(水) 13:00:40.79
博多湾周辺の製鉄遺跡の分布は、今宿から早良一帯に集中しているのに対し、樋井川を境にパタッと途切れているのが興味深い。

奴国の都とされる春日丘陵には製鉄遺跡は全くなく、東区あたりからまばらに現れるのみだ。樋井川は国境としては頼りないが、すぐ東には鴻巣山など中央区から南区にかけての丘陵地帯があり、これが境界線だった可能性が高い。

つまり、樋井川以西は内陸まで伊都国領、奴国は丘陵を挟んだ東側一帯という勢力圏だったと考えられる。

春日丘陵には多くの青銅器加工遺跡があるのに、製鉄遺跡が見当たらないのは特筆すべき点だ。これは、伊都国が奴国に鉄加工技術を伝授しなかったことを示している。

鉄は銅よりも融点が高く、加工にはより高温の炉が必要となる。海人族の航海術で海外交易を盛んに行っていた伊都国の方が、技術力が高かったのだろう。

奴国からも鉄鏃などの鉄器は出土しているため、交易で製品は入手していたようだが、肝心の加工技術は伊都国が独占していたようだ。これは倭国大乱から間もない時期であり、大国である奴国への警戒から生まれた戦略だったと推測される。
0514日本@名無史さん
垢版 |
2024/06/05(水) 13:03:53.23
女王国は、帯方郡から約4800km離れた場所にあったとされています。

魏志倭人伝には帯方郡に関する記述がなく、郡使は帯方郡南端の海岸から船で出発したと記されていることから、12000里という距離は、この南端の海岸を起点として計算されています。

具体的には、以下の通りです。

帯方郡南端の海岸から狗邪韓国の海岸まで:約2800km
狗邪韓国の海岸から対馬国の北岸まで:約400km
対馬国の北岸から対馬国の南岸まで:約320km(400里を2倍)
対馬国の南岸から一支国まで:約400km
一支国から末盧国の北端まで:約1280km(800里を2倍)
末盧国の北端から伊都国との国境まで:約200km
伊都国と奴国との国境まで:約40km

合計すると、約4800km(12000里)となります。

九州への上陸地点は、末盧国の北端と考えられています。

末盧国の北端(呼子付近)から伊都国との国境まで:約200km
伊都国と奴国との国境まで:約40km

女王国はこの伊都国と奴国との国境付近にあったと推測されます。

女王国は、伊都国や奴国など、卑弥呼女王を擁立した邪馬台国の中核的な国の一つと考えられています。女王国以北とは、末盧国から北にある諸国を指します。
0515日本@名無史さん
垢版 |
2024/06/06(木) 19:27:43.95
>>511
AIのトンデモ文をまたAIに纏めさせたか。
トンデモ度が増幅しているな。
暇潰しの遊びとしてはアリかもしれないが。
0516日本@名無史さん
垢版 |
2024/06/07(金) 09:55:04.95
12000里は露布の原理で1200里約520キロメートル、帯方郡のあったソウル付近から女王国の奴国福岡まで約520kmだと陳寿は言ってるんだよ
0517日本@名無史さん
垢版 |
2024/06/07(金) 10:59:32.73
>>516
陳寿は、蜀漢の政治家・歴史家です。三国志の作者として知られています。陳寿の言葉は、三国時代の交通事情を知る上で貴重な資料と言えます。
0518日本@名無史さん
垢版 |
2024/06/07(金) 20:59:21.59
自郡より女王国に至る万二千里(約5000km、魏里435m計算)

九州説、阿波説 → 短里説(1里73m)

畿内説 → 観念的数字説、呉を牽制、過大表記説

常陸説 → 魏里説(距離、方角、日数、正確表記)
0520日本@名無史さん
垢版 |
2024/06/13(木) 05:15:06.68
漢代の印持ってる奴国に行く前に
別の貢ぎ物してきた倭国王スイショウが
末羅国の何代か前の王だとしたら
そっちに先に寄って話したのかもしれない
末羅国って女王国でもないし

伊都国、奴国、不弥国は貿易船でもない舟は
ナワバリに入ってきたら沈めるって
壱岐対馬に通達してそう
0522日本@名無史さん
垢版 |
2024/06/13(木) 13:01:53.52
>箸墓古墳についての記録。どうも箸墓は前方後円墳じゃなく「円形墳墓」だった。
「卑弥呼以って死す。冢つかを大きく作る。径百余歩。徇葬者は奴婢百余人」
<魏>一歩(六尺)1.447m。径百余歩とは、諸説ありますが約150m位だろうと。
ちなみに、箸墓古墳、後円部は直径 約150メートルです。

「令義解」 833年(天長10年)に、「帝王墳墓、如山如陵、故謂山陵」

河村秀根の『書紀集解』(1785年)には、
嘗至于大和国、経柳本村、過箸中村。道右有円形之丘。相伝曰箸墓。

嘗(かつ)テ大和国于(に)至リ、柳本村ヲ経、箸中村ヲ過グ。道ノ右ニ円形之丘有リ。
相ヒ伝ヘテ曰ク箸墓ト。長樹無ク、荊楚(両字ともイバラ)ノ林ヲ成ス耳ノミ)

江戸時代の画・文、いずれにも箸墓が「円形」として描かれている。
http://www.eonet.ne.jp/~yamataikoku/3100.html
https://ameblo.jp/pelecyphoras/image-12764982058-15176745424.html
寛政3年刊、『大和名所図会』箸墓の図
0523日本@名無史さん
垢版 |
2024/06/13(木) 13:16:58.81
卑弥呼の葬儀で「 徇葬者奴婢百餘人 」を、「殉死者奴婢 100余人」と
読み替える人々に驚く。そんなことをするわけが無いでしょ、と卑弥呼の怒りを感じる。

魏志倭人伝の、『 徇葬する者、奴婢百余人 』「徇葬」の解釈が、
ネット上では「 殉死者100余人 」ばかり、原文では「殉死」など何処にも書いて無い。
「徇葬」とは「 葬儀を付き添い行う (参列者) 100余人 」が見当たらない。
0524日本@名無史さん
垢版 |
2024/06/13(木) 13:23:34.59
「徇葬」と「殉葬」の混同が見受けられます。
「徇葬」は、王の死後、民衆に喪服を着せ、哭声を上げさせた古代中国の習慣です。
一方、「殉葬」は、王侯貴族の死後、生きたまま臣下や妻妾を陪葬する残酷な風習です。
0525日本@名無史さん
垢版 |
2024/06/13(木) 13:29:40.89
>そう陳寿は「徇葬」でも殺人を伴うものは「殺人徇葬」と
 批判気味にハッキリ書いてある。本来の「徇葬」に殺人、殉死は無いのだと。

陳寿「三国志」東夷伝扶余伝の「殺人徇葬」用例を根拠として。

殺人徇葬多者百数 厚葬有槨無棺
「人を殺して徇葬するが、多いものは百の数である。
手厚く葬り、槨はあるが棺はない。」

『三国志』の東夷伝扶余の項に見える、「徇葬者百名」の記事です。
陳寿は「扶余の大人の葬儀では百人もの人を殺して徇葬者としている」と、
国王ではないが、大人〈たいじん〉の葬儀では依然として殉死を命じて
「徇葬」とごまかしていると報告しているのです。
0526日本@名無史さん
垢版 |
2024/06/13(木) 13:31:49.77
だから陳寿が倭人伝では「 徇葬する者、奴婢百余人」
と殺人を伴なわないから「殺人徇葬」とは書かず普通の「徇葬」と書いた。

「徇」は、付き添い進むことをいい、殉死の「殺された」という意味はない。
@徇える(とな−える)
A徇う(したが−う)。ついていく。
Bめぐる。ひと回りする。
0527日本@名無史さん
垢版 |
2024/06/13(木) 14:33:32.78
「中国河南省安陽市の安陽殷墟」
紀元前1600年〜紀元前1046年まで続いた殷王朝では、
身分の高い主人の葬儀の際に使用人が切腹したり、
生き埋めになることを自ら志願する風習が一般的にありました。

ペンシルベニア州立大学(PSU・米)の先行研究によると、殷王朝では、
大規模で組織的な人身御供が政治的・宗教的に重要な見世物として機能していたという。
殷の遺跡から出土した甲骨文には、
特に人間の生け贄に関する文字を含むものがとても多いです。

また、これらの遺跡から多数の生け贄のための墓が発見されていることも、
この記録を裏付けています。
0528日本@名無史さん
垢版 |
2024/06/13(木) 14:35:35.21
秦の穆公39年(紀元前621年)、薨去。この時に家臣177名が殉死した。
主立った家臣たちが数多く殉死したことにより、秦の国力は大きく低下し、
一時期、表舞台から遠ざかることとなる。

『詩経』・国風の秦風にある「黄鳥」の詩は子車奄息(えんそく)・子車仲行
・子車鍼虎(かんこ)の三兄弟が穆公のため殉死させられたことを謡ったという。
0529日本@名無史さん
垢版 |
2024/06/13(木) 16:01:17.97
古典での「殉葬」例文。「殉葬」とは殉死を伴う葬儀。

孟子に対する趙岐の古注 。。謂秦穆公以三良殉葬
周朝秘史 。。驅良殉葬心何忍
呉書第十、陳武伝 。。權命以其愛妾殉葬
0530日本@名無史さん
垢版 |
2024/06/13(木) 16:13:59.42
 殉葬の跡が出現期の古墳等に見えないとして、
倭人伝の記事そのものを否定する学者もいるが、これは全く疑問な文献取扱いである。
例えば、白石太一郎氏は、卑弥呼冢の形状の文章に続いて、殉葬の記事があるが、

「最近の考古学的な調査・研究の進展の結果からも、
三世紀中葉にあたる弥生時代終末期から古墳出現期に、
殉葬が広範に行われていたという積極的な証拠はほとんど発見されていない」
0531日本@名無史さん
垢版 |
2024/06/13(木) 16:29:01.14
つまり殉葬100人は嘘
また同様の表現である径100歩、銅鏡100枚も嘘である可能性が爆上げ
0532日本@名無史さん
垢版 |
2024/06/13(木) 16:42:52.04
徇葬百人は倭人から聞いた話。
なにか勘違いする説明があったかも?

平原で参列者の高位の女給が
墓に入って泣いて鏡を割ったとか?
0533日本@名無史さん
垢版 |
2024/06/13(木) 16:43:19.00
>意味は全く違うんだけどな。「殉葬」は生き埋め、殺人、を含む。

『三国志』の倭人伝原文「徇葬」を「殉葬・殉死」と改竄した翻訳・執筆者。

『小南一郎氏は、「奴婢百人以上が殉葬された」と書いている」
『石原道博氏は、「殉死する者は奴婢百余人」
『藤堂明保氏は、「殉葬した男女の奴隷は、百余人であった」
0534日本@名無史さん
垢版 |
2024/06/13(木) 17:12:54.73
今はもう卑弥呼の墓=殉死百余人が定説になってるからな
0535日本@名無史さん
垢版 |
2024/06/13(木) 17:16:00.60
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125






.
0536日本@名無史さん
垢版 |
2024/06/13(木) 17:46:47.05
>>535
寂しいのか?w
0537日本@名無史さん
垢版 |
2024/06/13(木) 17:58:37.36
単なる誤爆
0540日本@名無史さん
垢版 |
2024/06/15(土) 12:10:01.65
九州説は有力な説の一つであると考えますが、他の説も排除することはできません。

九州説を支持する根拠としては、以下の点が挙げられます。

吉野ヶ里遺跡などの大規模な環壕集落の存在
奴国や伊都国などの周辺国との交易の活発さ
魏志倭人伝における距離の記載と実際の距離の不一致

九州中南部説や九州南部説など、他の説についても、根拠に基づいた議論を歓迎します。

レッテル貼りで議論から逃げ出すようなことはせず、建設的な議論を心がけましょう。
0541日本@名無史さん
垢版 |
2024/06/15(土) 12:11:35.23
古墳出現期の殉葬について、魏志倭人伝には殉葬が行われていたと記されています。しかし、最近の考古学的調査では、殉葬を裏付ける積極的な証拠はほとんど発見されていません。白石太一郎氏のように、魏志倭人伝の記事を否定する学者もいますが、その一方で、殉葬の形態や時期が限定的だった可能性を指摘する学者もいます。

魏志倭人伝の記事と考古学的調査結果の間に矛盾があることは確かですが、現時点では結論を出すのは難しい状況です。今後、更なる調査研究が必要と思われます。
0542日本@名無史さん
垢版 |
2024/06/15(土) 13:15:15.83
>>523
侍女が1000人いた卑弥呼の葬儀の参列者がたった100人ってどんだけ嫌われてたんだよ卑弥呼
0543日本@名無史さん
垢版 |
2024/06/15(土) 15:35:32.89
日本書紀に垂仁天皇が殉死をやめさせたと書いてあるからな
0546日本@名無史さん
垢版 |
2024/06/15(土) 17:23:22.74
畿内も九州も東海も邪馬台国の範ちゅうだよバーカ、
と卑弥呼様のお怒りが聞こえる。
0547日本@名無史さん
垢版 |
2024/06/15(土) 17:45:17.27
巴形銅器の出土範囲が邪馬台国でヤマト軍のシンボルだからな。
大阪も讃岐のも北部九州産鋳型で作られてる。

「巴形銅器」を使用していた勢力(部族)は、北部九州から近畿・東海へと入植・移動
していた勢力(部族)なのではないか(少なくとも、大いに交易を行っていた!→仲間?!)
?! しかも、その出土状況から、近畿・東海にいた、その勢力(部族)は、
ある時期、短期間の内に別の所へ移動、または同盟?を結んでいたのではないかという
ことである(それだけ、事態が切迫していた?)?!
0548日本@名無史さん
垢版 |
2024/06/15(土) 18:00:32.09
手焙形土器(てあぶりがたどき)とは、その姿が手焙火鉢(だるま火鉢)に似ることに因む。

弥生時代後期後半中葉から古墳時代前期の遺跡から出土し、
畿内を中心に群馬県から佐賀県まで全国で出土する。

畿内を中心とした同心円状に広がっていく様子が復元できる。
また、吉備・北陸・山陰など一部地方では在地土器との融合が見られる。
地方別にみると、中国地方では岡山県・東海地方では
愛知県・関東地方では千葉県の出土数が卓越しており、

この傾向は古墳時代前期に前方後円墳・前方後方墳が
出現する地域と重なる事が指摘されている。
0549日本@名無史さん
垢版 |
2024/06/15(土) 18:02:09.90
>>547
>巴形銅

器県内2例目 筒形銅器出土 石井・山ノ神古墳/徳島     徳島新聞  2017年?2月?1日
気延山の「山ノ神古墳」(石井町石井)の発掘調査で、県内2例目の筒形銅器が出土したと発表した。
前方後円墳の築造後に加えられた円墳(直径14m)の周辺部から出土した。町文化財保護審議会の菅原康夫委員らによると、
この円筒銅器は勢見山古墳(徳島市)を含めて、国内で約70個が出土しているものと同種。
気延山周辺には当時、阿波に勢力を誇った有力者がいたことを示している。一方、畿内中心に当時流行した円筒埴輪を飾ったり、
古墳に段を築いたりした形跡が見られず、町教委などは「石井町周辺の古墳群の多様性が見られるとともに、
気延山周辺の有力者が独自性を誇示した可能性もあり、興味深い」としている。
町教委は来年度以降、円墳に竪穴式石室などの埋葬施設が無いか調査する方針。
気延山周辺の古墳群の多様性が見られ、その有力者が独自性を誇示していることからも、
気延山周辺には多くの有力者が割拠し、この地が繁栄していたことがうかがえる。   @阿波
0550日本@名無史さん
垢版 |
2024/06/15(土) 18:02:56.00
>>547
>巴形銅器

県内2例目 筒形銅器出土 石井・山ノ神古墳/徳島     徳島新聞  2017年?2月?1日
気延山の「山ノ神古墳」(石井町石井)の発掘調査で、県内2例目の筒形銅器が出土したと発表した。
前方後円墳の築造後に加えられた円墳(直径14m)の周辺部から出土した。町文化財保護審議会の菅原康夫委員らによると、
この円筒銅器は勢見山古墳(徳島市)を含めて、国内で約70個が出土しているものと同種。
気延山周辺には当時、阿波に勢力を誇った有力者がいたことを示している。一方、畿内中心に当時流行した円筒埴輪を飾ったり、
古墳に段を築いたりした形跡が見られず、町教委などは「石井町周辺の古墳群の多様性が見られるとともに、
気延山周辺の有力者が独自性を誇示した可能性もあり、興味深い」としている。
町教委は来年度以降、円墳に竪穴式石室などの埋葬施設が無いか調査する方針。
気延山周辺の古墳群の多様性が見られ、その有力者が独自性を誇示していることからも、
気延山周辺には多くの有力者が割拠し、この地が繁栄していたことがうかがえる。   @阿波
0551日本@名無史さん
垢版 |
2024/06/15(土) 18:13:09.99
つまり、弥生後期の「倭国大乱」時に銅鐸・巴形銅器と手焙形土器とはセットで出土する。

佐賀県「吉野ヶ里遺跡」
中国地方の「吉備」
奈良県田原本町の「唐古・鍵遺跡」
愛知県清須市・名古屋市の「朝日遺跡」
0552日本@名無史さん
垢版 |
2024/06/17(月) 02:04:18.45
>>494
竹田恒泰は九州説だから邪馬台国は九州です
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