【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬参拾
九州に決まっとろうが?
福岡県山門郡、筑紫、糸島、大宰府、鐘崎、鹿児島県川内、出水、阿久根、宮崎県日向、延岡、高千穂、熊本県熊本、阿蘇、八代、球磨郡、人吉、佐賀県唐津、伊万里、長崎県松浦、佐世保、雲仙、島原、天草、潜木、塩田周辺を今すぐ発掘せないかん!
九州中南部説、九州南部説、魏志倭人伝から邪馬台国の位置を何らかの根拠を以って推測する議論等々も大歓迎!
ただし異説を唱えたい人は必ず根拠を明示すること。
根拠がなければただの妄想やけんね。
議論百出は大いに歓迎。
レッテル貼りで議論から逃げ出すごたる奴は九州男児じゃなかばい!
前スレ
【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬弐拾玖
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1705417470/
過去スレは荒らしや叩きなど醜いレスバに邪魔され続けて住人たちがまともに議論し合えなかったという経緯があります。
同じ轍を踏まないためにも、このスレでは罵倒のみの駄レスを禁じます。
それは声闘という朝鮮人の文化です。
反論は論理的に、それが出来ないのはただの負け犬です。 >>343
むしろ逆
元々ヤマトだったのがヤマタイとよばれるようになった
それは何故か?
ヤマトが福岡訛りでヤマタイになったたいね 伊都国には日時計の超複雑系なものがあって、日の出が東の山のどの位置から始まったかによって、かなり正確な暦を割り出す事が出来ていた
中国の暦とは一〜二日ほどずれることもあったようだが、農業で用いるには誤差の範囲内だろう
どうやらこの伊都国の暦が北九州各国で使われていたようである
つまりこの伊都国に「ひじり=日知り=聖」つまり天の道を知っている人がいたわけだ
そしてこれと同じものが纏向に存在していた
つまり纏向にも「ひじり=日知り=聖」がいたわけだ
倭国の大王はひじりでなくてはいけなかった
ちなみに唐子鍵には、ここまで凄いものはなかった
つまり伊都国からひじりが纏向にやってきたのだ
伊都国は「ひむかし=日向かし=東向き」で正確な暦を作れる稀有な場所つまり聖地ヒムカで、それが纏向で再現されていたわけだ
ヤマトの大王家がヒムカからやってきてヤマト王権を建てたという伝承は伊都国王家が纏向王権を建てたという歴史的事実の神話化であろうと考えられよう 九州説は奴国(福岡市)と狗奴国(熊本県菊池市以南)の間に、
投馬国と邪馬台国と
「遠くて戸数・距離がわららない国々」を詰め込まないと成立しない 伊都国の王家が畿内の纏向に第二のヒムカを作った
これがヤマト王権すなわち邪馬臺國であり、倭の諸国の盟主として後の日本国に発展していったのだろう
糸島と纏向以外で正確な暦を作れるような装置は見つかっていないからな
東に幾つもの山を備えていて、そして西のある一点からそれらの山々を見ると尾根や峠の位置が正確に冬至や春分などを把握できる奇跡的にな地理条件の土地はそうはあるまい
このような地理的条件を備えた国は伊都国とヤマト王権の纏向しかないのだ
九州に倭王がいたのなら伊都国だったはずであり、伊都国以外が邪馬臺國ならば、それは纏向しかないのである >>356
後漢書に記されている通り、邪馬台国連合は後漢時代ですでに代々王を継いできた30国からなる連合国だ
纒向に代々王が居た形跡は無いんだが? 九州をいつ言い出したか不明だが
九州は全世界を意味する
かつて倭国といえば九州が全てであったろう 神武の東征はあった
奈良盆地と筑後川流域の
地名が驚くほど類似
https://nikkan-spa.jp/1798404/3 「邪馬台国は徳島」説に熱視線、歴史系ユーチューバーら紹介…
映画化した男性「こんなに面白い話はない」
https://www.yomiuri.co.jp/national/20231221-OYT1T50319/
「邪馬台国は徳島にあった」とする
「邪馬台国阿波説」に着目した地域活性化への取り組みが進んでいる。
徳島県内の郷土史家らが神話や出土品の分析を通じて主張している新説だが、
昨年頃から興味を持った多くの歴史系ユーチューバーが取り上げ始めた。
現地ツアーなどで観光客を呼び込もうとする動きも出てきており、
県も後押ししている。
有力2説に対し、阿波説では、
魏志倭人伝に記された朝鮮半島から邪馬台国までの距離や行程を分析すると、
徳島に行き着くと主張。
畿内説や九州説は距離の単位や方角の解釈が誤っているとする一方、
県内の神社や遺跡などには、記述と一致する特徴が多々あるとしている。
例えば、阿南市の国史跡・若杉山遺跡では、
赤色顔料「朱」の原料となる鉱物「 辰砂しんしゃ 」や過去に使った石臼などが採掘されており、
「その山に丹(辰砂)あり」との記述に一致しているという。 倭人は顔に丹を塗っていたとかって話はないのか?
日本でも昔は行っていたことだからよ 女王国に至る行程は魏時二回の遣使の
説明に拠り知り得た倭の30国の情報で
其の従郡至倭の報告書の引用であって
1、247年帰国の倭人船で伊都に到り
常駐した一万五百里の積算と
2、240年、金印の女王の処都迄の
南至、水行30日と陸行一月の合計、
一万二千里、の 二件の行程。
其の山 丹有り、
の 其の は倭国の物産の話で
畿内、九州、四国、関東を問わない。 >>368
「卑彌呼」・「壹與」時代の倭国は、せいぜい「邪馬臺国(粟国)」+「狗奴国(長国)」+東部讃岐+南部淡路島 程度だろう。 @阿波 【古代日本】鹿児島で古代の権力機構を示す古墳遺跡が発見される
弥生後期から古墳時代前期の遺跡がある鹿児島県鹿屋市の名主原遺跡で
直径約20メートルの溝に囲まれた墓とみられる遺構が見つかった。
県内の古墳に詳しい鹿児島大学総合研究博物館の橋本達也教授(考古学)は
規模や形状から前方後円墳や円墳など畿内から広がった古墳と判断しており
「県内最古級の可能性がある」と指摘している。
現地に急行した橋本教授は、弥生時代は同規模の墓が群集して見つかるのに対し
古墳が大規模で独立して存在する点に着目。
「溝で区切った一定の空間を確保し、大きさで権力や地位を示す古墳と考えられる」と解説。
大隅半島には古墳時代前期の塚崎古墳群(肝付町)があるが、見つかっている土器の種類から
「塚崎古墳群が造成された時代か、それより前の時代ではないか」とかと推測する。 【古代日本】鹿児島で古代の権力機構を示す古墳遺跡が発見される
鹿児島県考古学会の堂込秀人会長は
「日本列島に権力機構の頂点を象徴する古墳が成立する時期に
南九州にも古墳時代に階層的な社会があったのだろう」と推測する。
鹿児島県鹿屋市で発見された古墳時代の名主原古墳の遺跡
https://i.imgur.com/8IcI1wH.jpeg 伊都国王家の版図は筑前や長門から四国全域に及んでいたと見て良い。何故なら弥生末期の銅剣祭祀圏の広がりがこれであったからだ。
この勢力が畿内を征服したと考えれば、崇神の四道将軍派遣に筑前や長門や安芸や四国の国々が入っていなかった理由もすんなりと理解できよう。 >>374
>弥生末期の銅剣祭祀圏の広がりがこれであったからだ。
その銅剣祭祀圏の震源地が「阿波」。 また、銅鐸祭祀圏の震源地も「阿波」なのである。 @阿波 伊都国には、「都」がつかわれている。
卑弥呼以前は、倭国の中心だった。 >>376
倭人伝以前に伊都があった?
一大率は中央政権から
九州に派遣されていて
外交の管理が仕事なんだが?
250年以前で九州諸国以外の
貿易状況は考古学の分野だけどなw
日本海ルート諸国の船が検閲で
九州に上陸するのか? 如何様にも解釈できて笑ったw
傍国はイザナギ・イザナミの神話だった?w 考察
てか、勝手にそういう結論になった
斯馬 オノゴロ島から国産み
已百支 すでに沢山、枝分かれた国々
伊邪 イザナギ、イザナミによって
都支 カグツチも神産み準備万端w
彌奴 神産みもして広く行き渡る
好古都 女子がカグツチにやられる
不呼 呼んでも返事がない
姐奴 母イザナミは亡くなる
對蘇 イザナギは黄泉で向き合う
蘇奴 母「蘇りできるか待って」
呼邑 待てなかったイザナギ
華奴蘇奴 得たいの知れない姿の母
鬼 鬼=魂とかしたイザナミ
為吾 イザナミ、激怒で一言
鬼奴 イザナミはシモベを放つ
邪馬 比良坂から逃げるイザナギ
躬臣 櫛で追っ手をおいはらう
巴利 桃で追っ手をおいはらう
支惟 衆夷を動員する程の石で塞ぐ
烏奴 1000殺す1500産むの応酬
奴
傍国=方=四方=よも=黄泉w 次有 列記21国
女王国=仮称、邪馬台国
所属の21国は、
『次有』の、21回もの繰り返しで
此 尽処 に掛かる枕詞なのであって
これらで、
女王国の全ての国名
を書き尽くした、
と 言うこと。
南至、投馬国 以降
其南有、狗奴国までは、
240年の金印を届けた魏使による
女王国の詳細の説明報告書の引用。
里程と日程の二人の筆致の違いは明白だし、
陳寿は無駄に次有を21回も重ねる
筆法は使わない。 ヤマイコクは大和と言い張る連中は
倭面土国もヤマトと言い張ってるんだろうか? 倭国 漢読み「ワ」 倭読み「やまと」
107年倭国王師升が発音 後漢宮殿書記が記録 倭面土
247年倭国民多数の発音 張政が記録 邪馬臺(台)
その後の外交など交流 多数者が調整 邪靡堆
720年日本書紀 倭の読みは 夜摩苔
同じ「やまと」を発音した場合、
倭国王族の貴族発音もしくは師升の個人的発音が、倭面土
その他大勢の倭人が発音すると、邪馬臺
に聞こえたということ。 魏志倭人伝の「倭」と日本書紀の「倭」は文字は同じだが、違うものだろ >>384
倭は日本列島を意味する中国語だけど
女王国の自称国名は記録されてない。
女王南の狗奴国は、競合する隣国で
和音名だと判断出来るので
卑弥呼以前には、女王国の自称国名が
委奴国、であった可能性は高い。
伊都?
107年、面土国、
面都国の時も有ったかも? 委奴国、そのような国は無い
「中 日
国 本」
この様な印があったとして何を表すのか?
例えれば、仲が良い2ショット写真ですか >>387
ヒーローインタビューは!ドラゴンズの国本選手でぇ~す!! 歪められた日本古代史
朝鮮人が稲作を伝えたとか、日本人の先祖になったとかの説は誤りです。
では、なぜ、このようなウソ説が定説かのように流布し、
歴史教科書にまで記述されてきたのでしょうか。これには特殊な背景があるのです。 GHQ日本人洗脳政策
戦後、GHQ洗脳政策(WGIP)による教職追放令で、一流の教授・教職員が大量に去り、
共産主義者の羽仁五郎氏を筆頭に左翼の教授・教職員が空席に座りました。
以後長く、日本否定・自虐史観の左派勢力が戦後歴史学の主導権を握り、
歴史教科書を執筆してきました。
また戦後の日本共産党は在日朝鮮人団体を基盤に勢力を拡大・維持してきましたから、
左翼系執筆者による歴史教科書は朝鮮中心史観に傾くのです。 https://youtu.be/JIvnxETPjyk
動画の中で海外での日本の歴史についての認識が語られている 百済、新羅が日本の前線での
保護国として建国された歴史に
なってないのは、そのためか?
倭人伝論争の齟齬の意味がみえた。
朝鮮投馬国で解決してはいけないのなw
白村江以前の百済、高句麗移民、
朝廷下の帰化人は日本貴族になり
以降の渡来人は分離されたのも
記紀の成立と関係あるみたいな?
GHQは共産党排除ではなく、
むしろ国家主義の排除に動いた。
日教組の異常性の原因?
大韓帝国の建国は、
古代韓の建国にちなんで建国された。
歴史を忘れた民族に未来は無い!
とか、言っちゃいそうwww 飛鳥時代、倭国(阿波)王権は百済人など朝鮮半島避難渡来人を倭国(阿波)や畿内各地に庇護のうえ住まわせ、
彼らの知識・技術を習得活用して、8世紀に避難疎開遷都し樹立した大和朝廷へと発展昇華させた。 @阿波 日向神話に伊勢が出てくる
九州説の多くは北部に偏ってる。南九州説にも頑張って欲しい
南九州まで連携していたなら当然四国とも交流があったはず 歴代書き換える必要が出てきたわけか🤔
倭面土国王がつまり天皇でそのころ邪馬台国の卑弥呼と倭国がなんか関係あったってことか? 倭部族集団が半島南部に居り、統治領域を段々広げた中に、
「奴国」と言った最南端の国が有ると。つまり博多湾の奴国は南端の国ですと。
<漢文>
建武中元二年、倭奴国奉貢朝賀使人自称大夫倭国之極南界也。
<読み下し>
建武中元二年、倭奴国朝賀奉貢す、使人自ら大夫と称す、
倭国の南界(ナンカイ)の極(ハテ)也。
<現代語訳>
建武中元二年(西暦57年)、倭の奴国が貢物(ミツギモノ)を奉(タテマツ)り
朝賀(チョウガ)した。使者は大夫(タイフ)と自称した。倭国の最南端の国である。
*平凡社東洋文庫『東アジア民族史』井上秀雄 訳注 ・『山海経』(せんがいきょう、山海經、)は、中国大陸で書かれた地理書。
戦国時代から秦朝・漢代(前4世紀 - 3世紀頃)にかけて徐々に付加執筆されたもの。
『山海経』に「君子の国は衣冠をつけ、剣を帯びて獣肉を食べ、
二つの飾りの虎をいつもそばに置いている。(狛犬の事か?)
不死の人が交脛(山東地方か?)の東にあり、その人は色が黒く長寿でなかなか死なない。
君子国も、不死国も、共に東方にある」とあり、『外国図』には、
「君子国は瑯琊(現在の山東省青島市黄島区)から三万里離れたところにある」とある。
帯方郡から邪馬台國までが、万二千里あまり。 >>390
明治~戦前の皇国史観から
大日本帝国による五国協和の王道楽土
対列強反共で傀儡、前線候国としての
大韓帝国、満州国の建国。
これが卑弥呼以降の半島進出
313年以降の対高句麗戦、
370年百済新羅の建国の歴史を
彷彿とさせる事は明らか。
半島国の歴史認識で
任那日本府、日本古墳、日帝残滓・・・
の否定。
邪馬台国が存在出来ない
応神以前の記紀の歴史が、
学術的に成立しないことは確かだが
GHQ教職追放令が、
唯一の解決、朝鮮投馬国w
を排除した という、
学界戦後思想の黒歴史が有ったこと。
学者ががあがあ馬鹿な理由が判った。
朝鮮人の反発もめんどくさいし・・・
古代史の真実は5ちゃんにしか無いなw 違う!
古代史の真実は「阿波」にしか無い。 @阿波 倭面土国なら日本のイメージにもピッタリくる🤔
邪馬台国では日本人のイメージに合わないのや😄 「邪馬臺国」は「阿波」の北方、吉野川流域一帯を指す。 @阿波