【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬参拾
九州に決まっとろうが?
福岡県山門郡、筑紫、糸島、大宰府、鐘崎、鹿児島県川内、出水、阿久根、宮崎県日向、延岡、高千穂、熊本県熊本、阿蘇、八代、球磨郡、人吉、佐賀県唐津、伊万里、長崎県松浦、佐世保、雲仙、島原、天草、潜木、塩田周辺を今すぐ発掘せないかん!
九州中南部説、九州南部説、魏志倭人伝から邪馬台国の位置を何らかの根拠を以って推測する議論等々も大歓迎!
ただし異説を唱えたい人は必ず根拠を明示すること。
根拠がなければただの妄想やけんね。
議論百出は大いに歓迎。
レッテル貼りで議論から逃げ出すごたる奴は九州男児じゃなかばい!
前スレ
【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬弐拾玖
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1705417470/
過去スレは荒らしや叩きなど醜いレスバに邪魔され続けて住人たちがまともに議論し合えなかったという経緯があります。
同じ轍を踏まないためにも、このスレでは罵倒のみの駄レスを禁じます。
それは声闘という朝鮮人の文化です。
反論は論理的に、それが出来ないのはただの負け犬です。 邪馬台国の中の人間て中国人だろボケ😳
なにが日本人だよほんと呆れるわ🤪 日本人のことだの思いコマされてる日本人がバカだって結論にもなるしや 纏向は渡来人の居住地でもあったからな
卑弥呼の元には韓半島出身の官僚たちがいて政権運営を支えていたのだろう
倭人は祭祀の場で拝むのは好きだが文字を学ぶ気はなさそうだから渡来人がいないと全国政権は作れなかったろう >>409
>倭人は祭祀の場で拝むのは好きだが文字を学ぶ気はなさそうだから
派閥(少数民族)によって異なるが、神代文字(阿波文字)を使っている。 @阿波 阿比留草文字(あひるくさもじ)とは甲骨文字草書体なのです。
弥生時代から行われてた亀卜、卜骨、太占占いで使用されたのが阿比留草文字です。 骨卜・亀卜の起源
古くは新石器時代の竜山文化期から、
もしくは甲骨文字でも知られる古代中国の殷代にその起源が遡るとされています。
『古事記』の国生み神話に「布斗麻邇爾卜相(ふとまに卜相ひて)」とあり、
また『日本書紀』には「天神以太占而卜合(天神太占を以ちて卜合ひたまひ) 」とあります。
これら『記・紀』の記述を鵜呑みにするのであれば、
太占は神代から既に日本に存在していたことになります。
弥生時代の卜骨から卑弥呼時代の亀卜占いと続いて居たのだろう。 卜骨は初期に畿内で出土、その後広まってるそうです。
大和のご先祖様が卜骨占いしてんだろ 当時、中国人や韓国人はいないよ。
中国人や韓国人は1945年第二次大戦後に出来た国。 ジャップランドはサンフランシスコ平和条約が結ばれた1951年に独立を果たした歴史の浅い国 古代から中国人はいるし、韓国人と言わなくても韓人は古代からいる 邇々芸命「此地は、韓国に向ひ、笠沙の御前を真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国ぞ。故、此地は、甚吉き地」 《昔、日本は三韓と同種也と云事のありし、かの書をば桓武の御世にやきすてられしなり。》神皇正統記 倭人の風習ってなら日本人に関係あるけど邪馬台国の風習なんてのは日本人関係ないからどうでもよいわ
邪馬台国ってのは秦の始皇帝の末裔らのことやろ
中国人ら伝聞程度でしか話を聞いたことがないってことの証明だな 秦氏と呼ばれた集団が古代倭人を奴隷としてたのか🤔なるほどなあ❗って話なわけこれ >>422
顔文字くんはいちいち浅学が目立つ。
そうであれば韓伝で秦人について触れておいて倭人伝で触れないはずがない。
三国志をもっと勉強しなさい。 伊都国王家の版図は、筑前、長門、四国全域に及んでいた可能性が高い。これは、弥生時代末期の銅剣祭祀圏の広がりと一致する。
もし、この勢力が畿内を征服したと考えるならば、崇神天皇が四道将軍を派遣した際に、筑前、長門、安芸、四国の国々が含まれていなかった理由も説明できる。 伊都国には、「都」が使用されている。しかし、卑弥呼以前の倭国の中心であったという説には、近年では疑問が呈されています。 倭人伝以前に伊都が存在していたという従来の説は、最新の研究結果に基づいて修正する必要がある。弥生時代中期後半から後期にかけての豊富な考古資料から、伊都国は2世紀後半以降に成立し、独自の政治体制や文化を形成・発展させていったことが明らかにされている。
一大率は、女王国から諸国を監督する役職であり、外交の管理だけでなく、諸国の服属状況を監視し、女王国の権威を維持する役割も担っていたと考えられる。
250年以前の九州諸国以外の貿易状況は、考古学資料の分析によって明らかにする必要があるが、近年では遺伝子解析や海洋考古学などの新しい手法を用いた研究も進められており、従来の考古学資料だけでは分からなかった情報も徐々に明らかにされ始めています。
日本海ルート諸国の船が、伊都国の港で検閲を受けてから九州各地へ上陸していた可能性は十分に考えられる。伊都国は、外交拠点としての役割に加えて、海上交通の要衝としての役割も担っていたと考えられている。 奴国は、1世紀から3世紀にかけて北九州地方に存在したと推定される倭人の国です。
邪馬台国と並んで、古代日本における重要な政治勢力の一つと考えられています。
近年の発掘調査によって、奴国の政治・経済・文化に関する新たな知見が得られています。
今後も奴国に関する研究は進展していくことが期待されます。 伊都国が大王家の本貫ヒムカの地で、桓霊の頃にこの勢力が卑弥呼という巫女を旗印に諸国を糾合して畿内を征服して邪馬台国が誕生したのだろう
邪馬台国を建てた男王が神武のモデルになったヤマト王権の初代王で、彼に担がれた神輿が卑弥呼と考えれば一番話がスッキリする
早期ヤマト王権の男王は宗教的権威性に欠けていて、神の妻たる巫女を表に出さなければ国の統合ができなかった
卑弥呼亡き後に男王が直接政治をしようとしたら国が混乱して結局台与を看板に建てたのだと考えるべきである 『山海経』(せんがいきょう、山海經、)は、中国大陸で戦国時代から秦朝・漢代(前4世紀 - 3世紀頃)にかけて編纂された地理書です。
『山海経』には、「君子の国は衣服を着用し、剣を帯びて獣肉を食べ、二つの飾りの虎をいつもそばに置いている」と記されています。君子国は琅琊(現在の山東省青島市黄島区)の東にあるとされていますが、具体的な位置関係は不明です。
君子国と同様に、不死国も東方にあるとされていますが、2つの国の間に直接的な関連があるかどうかは示唆されていません。不死国の人々は色が黒く、長寿であるとされています。
帯方郡から邪馬台国までの距離は約12000里と推定されています。
現代の研究では、君子国は架空の理想郷と考えられています。君子国の記述は、当時の中国の人々が東方の未知なる世界に対して抱いていたイメージを反映していると考えられます。 卜骨って、弥生時代後期後半から使われ始めて、古墳時代前期には西日本各地に広まってたみたいですね。まさに、大和朝廷のルーツに繋がる占いと言えるでしょう! すごい歴史を感じますよね。 纏向は渡来人の重要な拠点だったんだよな。 最新の研究では、古墳時代前期から中期にかけて、纏向には多くの渡来人が居住していたことが分かっているんだ。特に、百済や高句麗から来た人たちが多く、政治や文化、技術面で大きな役割を果たしていたと考えられている。
卑弥呼の時代には、朝鮮半島出身の官僚たちが政権を支えていた可能性が高いんだ。 邪馬台国に関する文献には、卑弥呼の下に「難波の男」と呼ばれる官僚たちが仕えていたという記述がある。この「難波の男」は、朝鮮半島から来た渡来人を指すのではないかと考えられているんだ。彼らは、文字や政治制度など、大陸の先进文化を持ち込み、卑弥呼政権の運営を支えた重要な役割を担っていたのだろう。
倭人は祭祀を重んじる一方で、文字を学ぶことに消極的だったようだ。 当時の倭人は、神々への祭祀を非常に重要視していた。しかし、漢字などの文字を積極的に取り入れることはせず、独自の口頭伝承文化を維持していたと考えられている。そのため、広大な領土を支配するような全国政権を築くためには、文字に堪能な渡来人の力が不可欠だったんだ。 明治以降の皇国史観に基づく、「大日本帝国による五国協和の王道楽土」という考え方は、学術的に否定されています。
実際には、大韓帝国と満州国は、日本の傀儡国家として建国され、日本の植民地政策の一環として利用されました。
このことは、卑弥呼以降の朝鮮半島進出、313年以降の高句麗との戦争、370年の百済・新羅建国など、過去の半島との関係と酷似しています。
しかし、半島諸国の歴史認識では、任那日本府、日本古墳、日帝残滓といった日本の歴史的痕跡は否定されています。
邪馬台国や応神天皇以前の記紀の内容が史実であるかどうかは、学術的に議論が続いています。
しかし、GHQによる教職追放令によって、朝鮮半島を日本の植民地支配下に置いたという「朝鮮投馬国」説が排除されたことは、戦後の学界における思想統制の一例として、批判されています。
つまり、過去の学問における偏見や政治的影響によって、真実の歴史が歪められていた可能性があるということです。
現代の研究では、文献や考古学資料に基づいた客観的な分析が進められており、過去の固定観念にとらわれない、より真実の歴史像が明らかにされつつあります。 邪馬台国なんて中身は中国人(始皇帝の末裔集団)だろ
そんなもんがヤマト朝廷になったとか言われても 漢の時代には迫害されてるからなその連中ら
ま〜仕方ないだろ どおやったらそれを縄文人だの受け取り勘違いすることができるんだ? >>434
「朝鮮投馬国」は、説では無く
倭人伝を正しく読む為には、他が有り得ない
文章の構成上の事実。
三国志の邪馬台国は国家形成以前の歴史であって、
漢四郡や馬韓王域でも無ければ
国境以前に植民地政策も必要ないので
南岸の貿易港の都合などで
勝手に入った移民は居たとしても
朝鮮半島を日本の植民地支配下に置いた
という歴史の話でもないです。
百済は日本の前線地域として
372年の朝貢で建国しましたが、
中國から見ても、日本から見ても
植民地ではなく候国です。
七支刀や人物画像鏡、広開土王碑を見ると
傀儡建国だったようには見受けられます。 七支刀銘文
(表)泰和四年五月十六日丙午正陽 造百練鋼 七支刀 㠯辟百兵 宜供供侯王 永年大吉祥
(裏)先世以来 未有此刀 百濟王世子奇生 聖帝 故為 倭王 旨造傳示 後世
表は七支刀が晋で作られた経緯。 宜供供侯王は、百済近肖古王、余句である。
朝貢によって百済候となったから晋帝は百済王を侯王と呼んだのである。
名前の字がおかしいのは漢字が無かった百済音の漢字変換だからである。
倭の五王の高句麗交戦と半島利権の主張の南朝外交は400年以降であり、
370年で、この侯王というのは百済候=百済王しかない。
この時、晋王は漢字を伝える属国教化ための博士も送っている。
百済余句王はこの博士も馬2頭を付けて日本に献上した。
日本はこれによって中国国家、漢字を知り倭の五王外交に繋がった。
完全な傀儡立国なのである。
裏は百済王の請願。聖帝は370年諡号仁徳の在位当時での称号である。
百済王が世子=王子を倭王(聖帝)に委ねるのに際して、
晋王から下寵された刀の由来を示し忠誠の証として献上している。
和音、ひじりのみことに、聖帝の字を当てたのは、
百済王を日本の帝の下位に置くための謙譲である。
百済は九州諸国同様、日本の新参一領主国であった。
これ以降、百済王には倭人王族の姫が嫁ぎ、
王子は外戚であり、日本で宮を持ち
貴族待遇で養育されている。 【隅田八幡神社 人物画像鏡 銘文】
癸未年八月 日十大王年 男弟王 在 意柴沙加 宮 時
斯麻 念 長寿 遣 辟中 費直 穢人 今州利 二人等 取白上同 二百旱 作 此竟
意訳
503年8月 日本の大王位をヲホド(継体)が継承し押坂宮に在った時に、
百済候王、斯麻は、大王の時世の長寿を念じ、
辟中の費直と穢人今州利を使いで送り
上質の銅二百旱で作った鏡を朝貢す。
この金石の503年は倭の五王武、雄略の最後の遣使の後であり、
継体は雄略の父、允恭天皇の後宮をも継承し百済王の朝貢を受けた。
允恭の皇后から直系でなければ押坂の宮には入らない。
この後、継体は倭の五王外交を終わらせ、
傀儡百済による中華文明吸収に転換する。
百済建国時より、百済人はその地を日本の前線の中、つまり辟中と言った。
百済王は、王子を日本に委託派遣し養育する習わしで、
百済宮廷には日本の進駐軍から辟中の費直が侍官として付いていた。
今州利は、伝承によって?武寧王の父だか祖父だかの
蓋鹵王の和名が加須利君である事から王子と考えられ
斯麻が王子を天皇に託す歳に献上した銅だったと思われる。
百済では日本本土のことは、ひのもと日下と言い、
大王に対する卑字を避け、日十と記した。
日本国名の語源は百済人によるこの百済名の日下だが
日本列島から見たのでは日のもとは太平洋なので当然の話なのである。 「日下姓の起源」
古い由来の姓に「日下(くさか)」姓がある。
日下姓は、聖徳太子の時代には存在していた名前である。
「古事記 中つ巻」の冒頭に日下の名前が登場するので、神代の時代から人代の時代に入った時には、
もう既に存在していた名前である。
勿論、日本書紀にも出てくる。
阿波国(あわのくに:徳島県)の蜂須賀藩家臣成立書に、日下姓が見られる。
また、隣の香川県も日下姓が多く、高知県高岡郡日高村にも日下の地名がある。
徳島県全体としては、徳島市に集中しており、日本一「日下姓」が多い地域である。
香川県全体としては、高松市に集中しており、日本一の徳島市に続いて「日下姓」が多い地域である。
このことから、西日本に存在する日下姓の大半は、徳島県や香川県等、四国地方を起源にしていると考えられ、
この日下姓をとってみても、記紀は東四国地方を記したものと言える。
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。 @阿波 結論
三世紀の邪馬台国が数世紀かけて漢化したのが八世紀の大和国。 >>446
「阿波」の北方にあった国だ。 大河吉野川流域に広がる集落群の相称。
一方、「狗奴国」は「阿波」の南方にあった国。 「海人族」である。 @阿波 邪馬台国は北九州30ヵ国の連合国名、畿内に移って大和の国 どうして畿内に移ったって言いたがるのかな
邪馬台国が狗奴国に滅ぼされてそれもヤマト王権に滅ぼされたと考えるほうが素直なのに
いわゆる「日本」の記録に残ってない朝鮮半島とくに広開土王にある高句麗の戦いなどは
九州倭国のしたことであろう
百済も新羅も倭国の傀儡、中国と直接国境を接すると面倒なので緩衝地帯として立国したものであろう
ようするに倭国と同じ国だから王族が同じ倭王であり百済王であるということが起こる
高句麗まで倭国の傀儡とか言うのはちょっと気が引けるが高句麗は日本の属国になって朝貢してきてるし
「日本」の記録としては倭国が朝鮮半島従えていたのは事実だけど詳細がわからんから
神功皇后がちょいと半島にちょっかいかけたら全員降伏してきましたと書くしかなかった
それを書いとかないと日本の歴史にならないから
日本は倭国の歴史を吸収合併した形跡はある 古代の大王だが 大国の持ち回りで 継体のときは越の国の順番だからきただけで
本当は筑紫君磐井にも大王の順番があったんじゃないかな 大海人皇子も本当は順番だったのに回ってこなかったから簒奪したんじゃないのか なんだそりゃ
おまえは日本を他国の寄り合い扱いしてるだけじゃん >>409
コメントにある「倭人は祭祀の場で拝むのは好きだが文字を学ぶ気はなさそうだから渡来人がいないと全国政権は作れなかったろう」は、単純化しすぎです。
確かに、弥生時代の倭人は、漢字を含む文字を使用していませんでした。しかし、独自の音節文字である木簡文字を使用していた可能性があります。
また、文字の有無と国家の成立は必ずしも直接的な関係があるわけではありません。古代国家の形成には、政治的・経済的・社会的様々な要因が複雑に絡み合っています。 >>456
>独自の音節文字である木簡文字を使用していた可能性があります。
阿波文字(神代文字)だよ。 @阿波 >>411
阿比留草文字(あひるくさもじ)は、確かに甲骨文字の草書体と類似した点がありますが、いくつか重要な誤解がありますので、以下に訂正させていただきます。
1. 阿比留草文字の時代について
コメントでは、阿比留草文字が弥生時代から使用されていたとされていますが、これは誤りです。阿比留草文字は、江戸時代の僧侶である円覚によって作られた創作文字であり、弥生時代とは全く関係ありません。
2. 阿比留草文字の用途について
コメントでは、阿比留草文字が亀卜、卜骨、太占占いで使用されたとされていますが、これも誤りです。阿比留草文字は、占いに使用される文字ではなく、円覚が仏教の経典を写経する際に使用した独自の文字体系です。
3. 阿比留草文字と甲骨文字の関係について
阿比留草文字は、確かに甲骨文字の草書体と類似した点がありますが、これは偶然の一致と考えられます。阿比留草文字は、円覚が当時の中国文字を参考に創作したものであり、甲骨文字を直接模倣したものではありません。
以上のことから、阿比留草文字は弥生時代の亀卜で使用された文字ではなく、江戸時代の僧侶によって作られた創作文字であることが分かります。 >>458
>独自の音節文字である木簡文字を使用していた可能性があります。
江戸時代の僧侶である円覚は、「阿波」の人ではない。
阿波文字(神代文字)だよ。 @阿波 >>412
コメントの内容で気になる点がいくつかあります。
まず、「『古事記』の国生み神話に「布斗麻邇爾卜相(ふとまに卜相ひて)」とあり、また『日本書紀』には「天神以太占而卜合(天神太占を以ちて卜合ひたまひ) 」とあります。」の部分です。確かに、これらの記述は存在しますが、太占が神代から日本にあったことを示す決定的な証拠とは言えません。
というのも、「布斗麻邇爾卜相」や「天神以太占而卜合」が具体的にどのような占術を指しているのか、文献からは明確に読み取ることができないからです。これらの記述は、単に神々が占いや吉凶判断を行ったことを示しているだけで、それが太占であることを確定させる根拠には乏しいと言えます。
次に、「弥生時代の卜骨から卑弥呼時代の亀卜占いと続いて居たのだろう。」という部分です。確かに、弥生時代後期には卜骨を使った占いが行われていたことが分かっています。しかし、それがそのまま卑弥呼時代の亀卜占いに繋がるとは言い切れません。
卜骨と亀卜は、使用される材料や方法が大きく異なる異なる占術です。弥生時代の卜骨と卑弥呼時代の亀卜占いの間にどのような繋がりがあったのか、現時点ではまだ十分に解明されていません。
以上の点から、コメントの内容にはいくつかの飛躍があると言えます。 阿比留草文字は平安時代に九州あたりで成立した地方色の強い仮名なだけ
甲骨文字なんて何にも関係ない 阿比留草文字は、単なる地方色の強い仮名ではなく、神代文字の一つとして古くから信仰を集めてきた文字です。 阿比留草文字は、阿波文字(神代文字)の一つ。
多種の神代文字があるのは、倭人(阿波勢力)各派ごとに文字が異なっていたんだろう。 @阿波 神代文字は漢字への劣等感から生まれた国粋主義の文字だしw
文字としての機能は漢字伝来前はないね。 >>465
>文字としての機能は漢字伝来前はないね。
文字としての機能は、当然有る。
徳島県阿波市阿波町にある岩津橋の東のたもとに阿比留文字で彫られた「鯰の歌碑」がある。 @阿波 漢字ってのは秦漢が国字として定めたから漢字に統一されていったってことだろ
ならそれ以前はどんな文字使ってたんだよおまえら? 言ってみりゃ漢字ってのは漢の時代に発明された比較的新しい文字にしかすぎないわけな
それ以前に漢字なんかあるわけないだろ
元の参考にされた文字はあってもな 竹簡文字と呼ばれるものも漢字じゃねえからな
中国人らでも古い文字と新しく発明された漢字の併用くらいやってたろうさ
やがて漢字だけを使用するようになり古い文字は使われることはなくなっていったが御守りみたいのに使われる文字として残ったとかそんなのが大半だぞ 四川古文字とか伊勢の文字なども似てたりするからな
つまり古い時代には中国でも広範囲において使用されていた文字だってことだ 台湾でも漢字に置き換えられたところはあるが漢字そのものを使用していた痕跡ってのも出てこねえからな
もし日本から漢字を使用しろだの他国にやったら大きなお世話の文化破壊って感じにもなりかねないんだぞ >>470
竹簡文字も漢字の一部なんですよ。確かに、竹簡文字は古い文字で、現在はほとんど使われていません。でも、漢字の起源の一つと考えられていて、現代の漢字にもその面影が残っているんです。
例えば、「竹」という漢字は、竹簡に刻まれた竹の絵から生まれたと言われています。他にも、「木」や「人」など、多くの漢字が象形文字として竹簡文字から発展したと考えられています。
もちろん、古い時代には、竹簡文字以外にも様々な文字が使われていました。しかし、秦の始皇帝が統一文字として漢字を制定すると、竹簡文字を含む他の文字は徐々に使われなくなり、漢字だけが主流となっていったんです。
確かに、古い文字が完全に消えてしまったものもありますが、御守りのような形で残っているものもあります。例えば、道教のお札に書かれている文字の中には、竹簡文字に由来するものもあるんですよ。
つまり、竹簡文字は漢字とは別の文字というよりは、漢字のルーツの一つであり、漢字の一部と言えるんです。 始皇帝統一以前の中国で言葉が違う異民族同士が意思疎通できるように発明されたのが文字w
アホくさ >>474
畿内説は文字を歪めてしまうので
論争以前で話が通じる可能性が無い。 >>427
伊都国がどこにあったのかさえ解らないのに考古資料って
いったいどこの資料を見てるんですか? >>476
アタシもそう思います。
250年以前の九州諸国の貿易状況は
決して管理されていたとは言えません。
一大率は博多西麓で能古島西岸からの
入国を管理した可能性が高いですが
伊都繁栄は吉武高木など弥生銀座そのものかと?
それが、考古学資料が語れる事。
一大率は卑弥呼の朝貢238年、
240年以前には、存在し得ません。
魏による公孫氏、韓王朝の滅亡と言う対外脅威の発生が原因です。
245年が九州含む大和朝廷の誕生w
卑弥呼、邪馬台国は九州。
大倭王は、畿内です。
倭人伝の大倭は一大率でしか登場しません。 一大率
Wikipediaでは、
前漢の武帝は領土を13州に分割するとともに刺史を置いた。州を設置した理由は、現地の官僚が豪族や商人たちと癒着するようになったので、それを監察するためであり、刺史は純然たる監察官であった。
特置一大率檢察 諸國畏憚之
倭人の監察ではないかと思うが >>478
だから、一大率は中央政府が
九州の伊都に置いて
女王国以北を監督する
貿易外交に関する統治機関だろ?
240年に、金印を受けた卑弥呼の
女王国=邪馬台国が、247年には、
中央政府に監察されてるんだよ。
だから、247年に王位継承の報告で
臺與が朝貢したのに、皇帝の説諭や
返礼も無く、邪馬台国外交は終わる。
三国志は終わらないのに、だよ。 >>480
一大率を特置した主語には
倭人伝から読み取れる情報は無い。
ただし、魏使は伊都で大倭を監た。
倭王とされた女王卑弥呼が居た
九州の北部二千里に有る
21国で周旋可五千里の小国、
女王を共立した邪馬台国の上位に有る
刺史のような将軍を派遣出来る政権
それが、大倭。 >>482
日本史としては畿内朝廷。
ただし、238~246年までは
九州卑弥呼が独自外交を行う独立国。
日本古代史には
大和朝廷の九州起源は無い。
半島南岸は入り会いで倭人国が有り
牛馬の移入となる、高句麗戦では、
百済新羅の建国を支援した。
百済王は日本の候王で日本貴族だった。
これが、GHQの教職追放令で
真実を語る古代史学者を学会ぐるみで
朝鮮人と共某して迫害した。
今でも朝鮮投国w とかなwww
邪馬台国論争は、謎では無く、
終われないジレンマの中に有る。 朝鮮半島南部に投馬国が在った事を受け入れれば邪馬台国論争は直ぐに終わるんだ 弁辰韓合二十四國 大國四五千家小國六七百家惣四五萬戸
(弁辰韓、合わせて二十四国。大国は四、五千家、小国は六、七百家。惣じて四、五万戸)
弁辰と辰韓合わせて4、5万戸
半島説は消えたバツ 不彌から陸行しない
その時点で九州投馬説も消える
本州もしくは四国となるが
四国なら一海を渡るので本州が濃厚 後漢書に記録されている代々王を継ぐ邪馬臺国連合国の遺跡
https://i.imgur.com/oMjsFIX.jpeg
邪馬臺国に関する記録文献は魏志倭人伝だけではありません。
伊都国のすぐ南と書かれているものもあります。
『広志』(編纂:晋の郭義恭)
広志いわく、
---東南500里で到る伊都国、又南、至る邪馬臺国--
---(このあと魏志と同様に周辺国の紹介へと続く)
伊都国:福岡西区あたり
↓
又南至る:又〜は連続行程を意味する
↓
邪馬臺国:吉野ヶ里、甘木・朝倉、八女など有明海と取り巻く筑紫平野に存在した小国群の総称
(まだ未発掘の領域が多い) >倭人伝の一文には、ハッキリと「文書」と書かれ、
卑弥呼時代に文字・文書による確認手続きが有った事が証明できる。
「傳送文書賜遺之物詣女王 不得差錯」
文書や賜遣の物を伝送し女王に献上するに、間違いを得ず。 於國中有如刺史。王遣使詣京都、帶方郡、諸韓國、及郡使倭國、
皆臨津搜露、傳送文書賜遺之物詣女王、不得差錯。
国中に刺史のような役人がいる。(この役人は、)(倭)王が洛陽・帶方郡・諸韓國
に使を遣わしたり、逆に、(帯方)郡の使者が倭国に赴く場合に、
皆、港で検閲し、文書・賜物を女王に伝送して、決して間違いがあってはならない。 古墳時代が、「大和時代(古墳時代)」で文科省の検定が合格。
だから、卑弥呼は大和時代の人物である事が決定な。
竹田恒泰著者の日本史で大和時代(古墳時代)が検定合格しました。
文部科学省が認める卑弥呼時代は大和時代って事です。 官有伊支馬なんてイクメイリヒコ=垂仁天皇そのまんま
垂仁天皇(いくめいりびこいさちのみこと) - 『古事記』; 伊久米天皇 -
『常陸国風土記』; 生目天皇 - 『令集解』伊久牟尼利比古(いくむにりひこ)大王
次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、なんてミマキイリヒコ【御間城入彦五十瓊殖尊】【崇神天皇】 卑弥呼とは、日巫女。ひのみこ=ひみこ。
太陽信仰を祭祀する巫女。つまり現在の伊勢神宮の斎王の事。 箸墓古墳についての記録。どうも箸墓は倭人伝に記された「円形墳」の様です。
「令義解」 833年(天長10年)に、「帝王墳墓、如山如陵、故謂山陵」
河村秀根の『書紀集解』(1785年)には、
「嘗至于大和国、経柳本村、過箸中村。道右有円形之丘。相伝曰箸墓。」
嘗(かつ)テ大和国于(に)至リ、柳本村ヲ経、箸中村ヲ過グ。道ノ右ニ円形之丘有リ。
相ヒ伝ヘテ曰ク箸墓ト。長樹無ク、荊楚(両字ともイバラ)ノ林ヲ成ス耳ノミ)
江戸時代の画・文、いずれにも箸墓が「円形」として描かれている。
http://www.eonet.ne.jp/~yamataikoku/3100.html
https://ameblo.jp/pelecyphoras/image-12764982058-15176745424.html
寛政3年刊、『大和名所図会』箸墓の図 まぁ無理なことだろうけど
九天紫宮まで昇ってくることだな 『大和名所図会』を見れば西の方角(今の国道24号線あたり)から
東、三輪山方向を向いて書かれたのは明らかで、
丁度、前方部から見た絵で、全く前方部らしき姿がない円形墳。
箸墓古墳、今の前方後円墳は江戸末期ころに修復造成された様です。 箸墓古墳は江戸末期ころ前方後円墳に修復造成され
田畑を取られ怒った地元百姓が腹いせに前方部を切り裂いたんだと思う、
それが、いま近道、溝として残ってる部分だろう。 卑弥呼時代には、ほぼ東海地方以西は統一されてるよ。
狗奴国・熊襲はしつっこく抵抗してるが。
親衛隊の象徴・太陽と思われる「巴形銅器」が出土するので明らか。 森 浩一は箸墓古墳の秘密を知ってたが、
邪馬台国ブームに忖度で黙ってたんだな。 森浩一先生は、日本の古代史研究を大きく進めた偉大な学者です。箸墓古墳の調査にも深く関わっており、その学術的な業績は計り知れません。
たしかに森先生は、邪馬台国ブーム当時、箸墓古墳と卑弥呼の関係について慎重な姿勢をとっていました。しかし、それは忖度ではなく、学問的な倫理に基づく判断だったのです。
森先生は、当時の考古学資料に基づいて、箸墓古墳が卑弥呼の墓であることを断定することはできないという立場でした。これは、科学者の良心であり、責任感の表れです。
確かに、森先生の慎重な姿勢は、邪馬台国ブームに水を差すような印象を与えたかもしれません。しかし、それは学問の進歩を妨げるようなことではありません。むしろ、森先生の研究は、邪馬台国解明に向けた重要な道標となっています。
森浩一先生は、常に真実を追い求め、学問の道を歩んだ学者です。彼の業績は、日本の古代史研究に大きな貢献をしており、その功績は決して色褪せることはありません。
もし本当に森先生の研究を知りたいのであれば、彼の著書を読むことをおすすめします。そこには、邪馬台国や箸墓古墳に関する深い洞察と、学問への情熱が詰まっています。