【初心者】スレッド立てる前に質問をPart54【歓迎】
>>90 萬葉集の頃だと; ・オ:そのまま ・ホ:フォ又はポ ・キ:甲類(キ)と乙類(クゥィ)がある筈 これが何れかは忘れた ・ミ:同上 萬葉集の頃から見て古墳時代は約400年前とすると、 現代から江戸時代初期程度の時間的距離。 と、考えれば当該地域住民の総入替でも無い限り萬葉期の発音からの類推で大きくは間違わないんじゃないか。 《参考 『金田一春彦著作集』第9巻より》 春過ぎて 夏来にけらし 白妙の 衣干すてふ 天の香具山 パルツンゲーテ ナットゥキニケラーチ チロタペノォー コローモポシチョー アマァーノカグゥヤマァー 聖武は中華の梁武帝と重ねられているところがありそうだな 武帝は高尚かつ有能な皇帝であったが宇宙大将軍を名乗る基地外によって破滅させられてしまった 後の儒学者は梁武を無能の如く語るがこれは間違いであろう 恐らく聖武と梁武を重ねた古代日本の史家はオレと同じ感覚だっただろう 韓半島出身の知識人は中国本土ほどの儒教原理主義に染まってはいなかった これは評価すべ点である 2015年の日韓合意で従軍慰安婦への最終的かつ不可逆的な解決として10億円だったかを賠償金として支払いましたが、慰安婦は強制連行されたのではなく、朝鮮の貧しい家庭がやむに止まれず娘を軍に売り渡したもので、日本でも同様のケースは多々あったと思います。 なのに何故賠償しなければならなかったのかというと、韓国に「日本なんかの敗戦国が韓国を併合して国民を貧しくさせて生活のために慰安婦まで出させるはめにしてしまって謝罪します」って感じの理由で賠償したのでしょうか? >>103 ツルコがアベに「カネ出せ!」と一喝したから >>108 売れ残りは捌けましたか? 早く日本から出て行って下さいね 紀元前12000年には栫ノ原遺跡で丸木舟を大量生産していた縄文人が、 紀元前8000年までには進出しているからね。 もともと考古学的に縄文時代から進出していたことがわかってて、 最近の遺伝子考古学で裏付けが取れていってる。 支石墓なんて、日本側では弥生開始直前に現れて菜畑遺跡の頃には消えてるんだけど、 元々日本の弥生開始が前300年だったから、 前500年からの大量の朝鮮半島支石墓を意気揚々と世界遺産登録して、 朝鮮半島支石墓が先で、支石墓勢力が日本に稲作を教えてやったんだと 世界的に確定させたつもりでいた。 それが炭素年代測定で日本の稲作開始が前1000〜800年に大幅に繰り上がったものだから、 起源がどちらなのか完全にひっくり返ってしまい、 さらに浙南石棚墓の発見や、稲DNA解析にて日本主系統が朝鮮半島には存在しないことがわかったりで、 まあここも結論が出てしまった。 発狂した勢力が必死に立ててるのが、畿内説スレや、 百済の南遷スレや、D1a2aは渡来系スレやら。 Y染色体ハプロスレでも狂った工作員が都合悪い科学データは全部間違いだと大暴れしてるし。 >>112 了見が狭い! 人類みな東アフリカ人の末裔だ!! エチオピア萬歳!!! 世界史の方の質問かも知れないけど ヘビ型のドラゴンとトカゲ型のドラゴンの境目は、どの辺りの国になるのでしょうか? >>117 欧米人が龍を勝手にドラゴンカテゴリに入れてるだけだからな 日本人は羽生えたドラゴン見て少なくとも龍だとは認識しないでしょ 別物なんだから境目も何もないと思うけど 龍ってのは本来は神 崇拝の対象 ドラゴンってのは本来は化け物 討伐の対象 >>119 コウモリの羽に蛇の尾とか明らかにキリスト教の影響が見られるしな >>117 ファンタジーの人とかに聞いたほうが早いよ >>117 どのあたりっていうか、ヨーロッパのドラゴンも古代のローマとか北欧とかの絵だとけっこう長くてヘビっぽい 中世ぐらいから胴が短くなって手足が大きくなり、トカゲっぽくなっていく >>122 支配勢力が交代すると前勢力の神が祟り神にされるから、 ヨーロッパにも龍系統の神がいたが、 コーカソイドに征服されて怪獣ドラゴンにされたのだろう。 倒せば偉いよと。 >>123 龍系統の神ってどういう意味で言ってんのよ そういや前に十字軍の年代記にユニコーンが実在の動物として描かれてるwとか書いてるやつがいて、画像見せてもらったら、確かにユニコーンって書いてあるけどアラビアオリックス以外の何物でもないってことあったな ドラゴンがトカゲ化したのも13世紀で同時代だけど、イスラエルにはオオトカゲおるし関係あるのかな イランとか中東のオオトカゲのいる地域でも、ドラゴンが古代のヘビ型から中世のトカゲ型に変わる傾向ある 第二次世界大戦終戦直後の日本に於ける配給米についてなのですが、 米は一体どれくらいおきに受け取りにいっていたのでしょうか。 いちいち毎日行かないとだとしんどそうですが、数日おきに数日分をまとめてとかでしょうか。 もちろん地域毎などによっても違いがありそうですが。 >>129-130 皇族が養子入りして家を継いだから、それ以後は摂関家の子孫じゃなくて皇族なんだよな ただ、家そのものは摂関家の子孫であって、宮家ではないんだけど >>131 で、道長の子孫じゃなくなっちゃうのか? アホなのかな? >>132 道長の男系子孫ではないってことやな 女系も途中で交じっていいならば、道長の子孫ではある、ということになるけども(なんせ、歴代天皇の相当数は、母親が道長の子孫だから) >>135 江戸時代だかに皇族から養子入りしたときに道長の男系子孫じゃなくなった >>128 まともに米が配給されると思うなよ。 東京都世田谷区あたりは毎回々々「助惣鱈」ばかりだったとの述懐を経験者から散々聞かされた。 間隔については証言が得られたら書く。 証言が取れた。 ・配給の間隔は一週間に一回または二回 ・米の定量配給など望むべくも無い ・欠配や不足量の代わりに助惣鱈や進駐軍放出物資の缶詰・砂糖などが来た --とのことだ。 >>142 >>140 を読んで威張ってると思う感性が不可解だ。 >>144 理解できない。 ユトリ世代以下のヷカモノの感性か。 年端も行かないガキや世間知らずのヒヨッコの頃から誰も彼もがオトモダチ口調でオハナシしてくれたのかもしれないが、 生憎と俺は>>128 のパパじゃないからそんな気遣いはしない。 >進駐軍放出物資の缶詰・砂糖などが来た これ、あいつらが慰問目的で無償放出しているとず~と思ってたんだよなぁ 日教組や全教の教師は何故かこういう話の時だけ全力で米軍を礼賛するけど GHQは放出分の物資はその代金をきっちりと日本政府に請求していたことは 絶対に言わねぃという事実 >>147 進駐軍放出物資の始まりは、 渋るマッカーサーを吉田茂が虚言スレスレの殺し文句で恫喝強要したのだと謂う。 後でテメエ嘘ついたな!?と迫られた吉田の返しが狸。 興味のある人は調べてみると良い。 >>147 何で無償だと思った? お前がおかしいだけやん 一世の皇子を臣籍降下させるときって新しく姓を下賜・・・特に平安以降は源氏の姓を下賜するのが原則やろ それを無視していきなり臣下の家に養子に入れるってあり? 一世の皇子がいきなり藤原氏になるのって律令のどれかの規定の違反にならんの? 自称近衛家の子孫(何故か近衛家側も認めた)である青森の津軽家は近衛家の血が入ったいうことで藤原氏になったな 自称源氏の人間が養子になったという松平家は源氏になったし、養子が入った時点で姓を選べるんやな 近衛家だって皇族が養子に入った時点で藤原朝臣を捨てて何か別のを選べる可能性はあったんやろな >>150 藤原姓近衛家を存続させるために養子を取ってるんだから当たり前じゃないの? 天皇の血よりも道長の血が重要だったんでしょ? 血統しらんけど >>150 賜姓源氏は平安鎌倉あたりまでやろ 南北朝よりあとに臣籍降下した賜姓源氏っておったっけ? >>151 ウィキペディアを見たら、家格が下の藤原氏から養子をとるよりは一世の皇子・・・・ということになったようやな 摂関家側でこだわった模様 摂関家の誰の意思かわからんけど お陰で「藤原朝臣と名乗る王氏」という珍妙キテレツな存在が爆誕した >天皇の血よりも道長の血が重要だったんでしょ? 道長の血というより「摂関家」という既得権益やろ >>152 正親町源氏 ウィキペディアを見たら屋号「廣幡」も与えられたようやな この時代になると氏(源氏)だけではなく屋号(名字(のようなもの))も与えられたんやな 何処に行ってもすぐに「Wikipediaによると~」。 そろそろ止めないか? Wikipediaは本質的に「虚」と「愚」の塊でしかない。 しかもそれを読んで何事かを解った気になってしまう衆愚を拡大再生産する装置でもある。 人類総白痴化への直通道路。 白痴になりたくなければ時間も手間も掛けて本当の専門知に触れるしかない。 この馬鹿馬鹿しいほど当り前のことをいつの頃からか誰もが忘れてしまった…。 まあ、適当な事を書いて、参考文献に適当な資料とページを書いておけば、わざわざ確認するやつは居ないからな。 ネタ元が明記してあるのにそれを確認しないマヌケがドヤ顔で孫引きして恥をかくのは当人の勝手だが 頭の悪いことしか言えないのに、小学生が背伸びした物言いのような難しい言葉を無理して使うバカの方が目障りだが >>157 誰に言ってるのだか? そういう基本的なことができてないバカw 大東亜戦争はアジアを欧米から解放する為に始めましたが、欧米を追っ払った後も東南アジア諸国に独立を認めず日本がそれらの国々を支配していました。 日本はアジアの同胞ですから日本による支配は欧米による支配とは違うのでアジア解放の建前に反してはいないということなのでしょうか? >>159 日本が行った「支配」の具体的な事って何? >>162 じゃあ北朝鮮や中国が少し軍事行動を取っただけでも、大袈裟に騒ぐなよ。 ダブルスタンダードだぞ >>159 欧米の支配からの解放ってのは、あくまでも御題目で、ほんとの目的ではなくて口実だぞ >>161 軍票ってのは借用書のようなもので、結果的に払えなかったから強奪になっただけだ、支配とか収奪とかとは、厳密には関係ない 日本は中国大陸や韓半島を植民地支配して収奪していたから欧米からの解放などと主張できるような権利などなかった 1941年12月8日に日本軍がルソン島のバギオを空襲し、1942年1月にはマニラを占領しました。 日本はアメリカを降伏させ,フィリピンで3年8ヶ月間に及ぶ軍政を行いました。 1942年にフィリピンを占領した日本軍は、軍票を乱発し米や食糧を買い占め、住民からは食糧を略奪していった。フィリピンの人々は反日感情を増幅させ、抗日ゲリラが生まれた。アメリカ軍は彼らに武器を与え、ゲリラ兵は次々に日本兵を襲った。 日本軍では「ゲリラ粛清」の命令が出された。武器を隠し持つゲリラは、一般人との区別がほとんどつかない。ゲリラでなくとも、疑いをかけられれば殺されていったという。 >>171 食料略奪のソースは? ゲリラ戦もアメリカお得意のテロリスト支援じゃんか 軍票(軍用手票)は、占領国の政府が軍隊の駐留地域で、軍費を支払う目的で発行した特別の紙幣である。発行・使用された被占領地域では、どこでも、大変なインフレを引き起こし、その地域の経済を混乱させた「紙の兵器」ともいえるものである。 南方外貨表示軍票は、日本軍がアジア・太平洋戦争下で占領した、いわゆる南方地域で、強制使用させた軍票の呼称。現地の住民が少しでも親しみを感じるようにと、日本の通貨である円を表示せず、使用地域の通貨単位を印刷した。当該地域の人物や風景が絵柄として使用されている。 ttps://jmapps.ne.jp/takamatsu_bunka_center/det.html?data_id=2528 日本が軍票で現地の物資を略奪(名目的には買上げ)したために現地では極端な物不足になり激しいインフレとなった >>174 リンク貼ろうとしたが上手くいかないので 大東亜共栄圏 軍票 インフレ で検索してみて >>172 軍票ってのは、いついつの期日に現金と引き換えますと約束した約束手形やろ 紙幣のごとく流通しただけで んで、借金の額が膨らむにつれて、発行日から支払日までの期間が長くなっていって、その期間が長くなった影響で(つまり発行枚数、流通残高が膨らんだせいで)インフレになるんやろ つまり、発行が始まった当初は経済への影響は軽微だったが徐々に大きな影響を出すようになり、インフレを引き起こすようになっていった、と言う推移 最初から収奪目的なわけではないし最初はインフレを起こしてない 今Xを覗いたら「弥助は侍じゃない」って力説してる人が山ほどいるけど何故ですか? 信長から扶持をもらっていたら侍じゃないの? >欧米を追っ払った後も東南アジア諸国に独立を認めず日本がそれらの国々を支配していました 1943年8月にはビルマ(現ミャンマー)、10月にはフィリピンの独立を認め、44年9月にはインドネシアの独立も認めた。 >フィリピンの人々は反日感情を増幅させ、抗日ゲリラが生まれた 当たり前の話だが、米に追従しフィリピン住民への収奪・弾圧を繰り返していた親米系住民からの観点であって、全住民の総意であるかのような記述は間違い。 日本が占領していた前から反米系ゲリラや共産ゲリラはフィリピンにいた。フィリピンゲリラが日本統治時代からであるかのような書き様には猛省を促したい。 平和を愛するフィリピン住民にとって真に不幸だったのは、米当局が見境なく軍事援助を行ったため絶滅寸前だった共産ゲリラが勢力を取り返したこと。 結果として戦後のフィリピン軍は対ゲリラ戦に特化した歪な構成となったまま21世紀を迎えた。 戦後東南アジア各国は各々が経済発展を成したが、アジア四小龍・HPAEs(High-Performing Asia Economics)等 だが如何なる経済発展呼称でも常にフィリピンは含まれていない。 韓国の某大統領による自国の経済発展を自画自賛した演説を聞かされた某国代表は「日本の直ぐ近くに国があれば先に経済発展を成し遂げて当たり前だ」と苦言を呈した。 米国の影響下にあった中南米の経済発展の進度、欧州の支配下にあったブラックアフリカの進度を比較すれば、フィリピンの経済発展が遅々として進まない理由は自ずと見えてくる。 >>177 領地持ちじゃないから侍じゃないってことなんだろうね ただ、ほんとに領地を持ってなかったのかどうかはわからんのではないかと? >>179 旗本でも領地持ってる人なんて一部だと思うけど侍じゃないんだ 鬼平とかでも持ってないでしょ >>179 禄を貰っている人=侍 じゃないのですか? >>182 調べたら知行取が44%でした 話戻るけど残りの蔵米取の旗本や、ほぼ全員の御家人たちは侍じゃないのかね? 海外に、弥助は小姓だから侍じゃないって言ってる人がいて、日本の意見もそれに引きずられてる感じ 小姓って馬廻と同格だから、江戸時代だと上士なのに 主の月代をそらせたり、衣服や食事の世話をさせるから、暗殺防止で側近候補にやらせる 東京都知事選に石丸氏が出馬するようだ 彼はネトウヨに人気が高いが人権意識はしっかりしておりLGBT運動や難民受け入れに積極的対処をしてくれるだろう 立憲民主党とも関係がよくリベラル各派と協調して政治が期待できる ネトウヨも反発はするまい オレは東京都知事選の選挙権が無いから投票できないが、良識ある市民には適切な人への投票を期待したい >>185 なんでバカはスレチの話題が大好きなの? >>184 小姓は(少なくとも大名たちの小姓は)士分である配下たちの子供や弟から登用されるのが普通だもんな 身分の低い下人を小姓にするのは、普通はない 逆に言えば、小姓に任命する時点で、そういう身分を与えてないとおかしいとも言える 珍獣である象が来たと言うので、当時の天皇が見たがったところ、身分もないものが謁見するなんて言語道断だからと臨時で官職と位階を与えたりしてるぐらいやしな(信長の時代よりあとの話やけど) >>187 ああ、象の感覚に近いかも 現代のVIPでもそうだけど体格の大きい護衛は映えるから周囲に侍らせたがる 江戸時代の大名は、力士に徒組(与力の下、足軽の上でぎり侍)の身分を与えて行列に入れたとかあるし 自分の横に真っ黒な大男、って映える構図のためなら、ほいほい身分くれそう >>188 デカい、黒い、強いも実力だろ 犬千代侍らかすのと何の違いもあるまい そう言えば大阪に野見宿禰以来の重代の宝物を展示する相撲博物館を作る話があったけどどうなったんだろ >>189 だから短期で大抜擢なんじゃない? 海外勢で、たった2年足らずで侍になれるわけない!って騒いでる奴おるからさ >>188 力士を勧誘して部下に取り立てるのは、信長が何度もやったのが先例になって大名たちが真似たのかもな 何回か興業を行わせて閲覧し、その度に何人か取り立ててるはず >>192 なるほど 力持ちの大男の家臣を集めていたって背景があるわけか 複数人で運んでた重いものをひとりで運べたり、橋のない川でも荷を濡らさず運べる奴がいると、兵站で有利になるしな 平安京は東寺と西寺がバランスよく配置されてましたが、平城京は西大寺と東大寺が距離を含めてバランスがよくありません 有力公卿だった藤原氏の菩提寺である興福寺や関係の深かった春日大社なども東大寺の至近にあるなど、全体的にバランスの悪い配置になっています なぜでしょうか? >>194 ブラタモリの奈良の回で言及していたような気がするが忘れた 地形と関係ありそうな・・・ 断層崖か高低差か何か 東大寺、西大寺は平城京造営後に後付けで建立 東寺、西寺は平安京造営時に建立 今は純潔のアイヌは居ないとまで言われていますが、和人とアイヌ人の混血の初期において結婚した和人とアイヌ人は和人からもアイヌ人からも差別されたりはしなかったのでしょうか? そもそも、文化も言葉も違うのに何で惹かれあったのでしょうか? ひょっとして最初は和人による強姦でアイヌとの混血が複数人誕生した、とか? 史料に基づかない妄想を吐きたければラノベ板にでもいけよ 京都高低差崖会 2015-06-27 ブラタモリ奈良に出演!:奈良中心部の凸凹地形 興福寺 春日大社 東大寺 奈良町 ・・・は段丘の上にあるって書いてある。 何故、段丘の上なのかは書いてない。 なお、サイトのURLを貼るとNGになるのでURLは省略する。 写真のURLだけ後で追加する 写真のURLも貼れん この板、むっちゃ荒らされてるから各種規制がキツい ミツカン 水の文化センターのサイトを見たら奈良文化財研究所埋蔵文化センター環境考古学研究室長松井章さんの文章が載っているが・・・・ ・飛鳥は低湿地で悪水がたまる ・藤原京は排水システムに欠陥があって宮に汚水が流れる ・平城京は自然河川を都城に流したがやはり水質汚濁が深刻。あと、渇水、大雨のときのコントロールが大変。東大寺の大仏鋳造でヒ素中毒が発生 ・長岡京も排水コントロールができなかった ・平安京は鴨川、御室川の水量が豊富で過去の都よりもだいぶマシ(それでも問題はあり) ・・・ということが発掘調査によって判ってきたらしい これまで都の移転について説が色々あったけど、発掘調査によってこういう事情があるというのも見えてきたようだな プレジデントオンラインの 「なぜ平城京以前は短命で、平安京は1000年も続いたのか…現代人には想像しづらい「糞尿処理」という衛生問題 」 というサイトも水のコントロールについて長野正孝さん(工学博士)が解説している こういうのって文系の歴史研究者じゃわからんよな 平城京に完全に落ち着いたのが745年で長岡京遷都が39年後だそうで平城京が短命すぎてビビる 奈良時代の南都六宗ですが 少なくとも 三論宗…中観 法相宗…唯識 華厳宗 の三宗はまごうことなく大乗仏教だと思うのですが平安時代以降小乗扱いされるようになったのは何故なのでしょうか? >>203 むかし聞いた話では、大仏の金箔張りに金アマルガム法を使ってたから回収しきれなくて洩れた水銀蒸気が盆地を漂ったのではないかとの憶測があったよ >>203 同じく低湿地ベースなのに上水道下水道完備、 屎尿は完全リサイクルシステムで処理。 江戸の都市建設の優秀性がよく解る。 いや、用水路排水路なんぞ縄文の昔からあるのに関西の都市計画スタッフは何をやってたんだてぇ話だな。 内陸部はけっこう高低差があって凸凹なので、マトモに排水しようとしたら高低差に合わせた曲がりくねった水路が必要なのに、杓子定規に直角道路に合わせた側溝を排水路にしようとしたから排水がうまく行かなかったんだろ たぶん、平時はどうにか流れるように作ってたけど、雨が降ると低い場所で側溝から水があふれるのが日常だったのでは 江戸は普通に高低差を考慮した水路だから問題なかったとか、その程度だろ >>205 小乗ってのは大乗側がマウントをとりたいからそうレッテル付けしただけで 所謂小乗側が自分達を小乗だとは名乗ってないから >>208 縄文の昔から、と書いてあるのが読めないか。 >>209 首都を計画的に建設するんなら立地も厳選するのが当然。 沿岸部が有利なら沿岸部を選べば良かっただけのこと。 そういう根本的な事項からして古代関西首都建設関係者にはセンスが無い。 >>213 同じクオリティなのかよw アホなのかな? >>216 大宰府にあった羅城が奈良には無いから防衛重視していない 都城制・坊城制の設計思想は外国語文献である周礼孝工記の書いてある通りにやったけど、孝工記に排水のことが書いてなかったんだろうな 攘夷とは未開の人(夷)を追い払う(攘)と言う意味のようですが、幕末の日本よりもイギリスやアメリカやフランスの方が文明は進んでましたが、日本人はそれらの国が未開だと勘違いしていましたか? >>221 単に外人という意味しかないよ 攘夷という言葉自体古代中国から用語を持ってきただけだからな >>221 何が「開」で何が「未開」か。 近代西欧啓蒙思想の洗脳から解放されたなら、 それを決めることがそもそも妄想だと理解出来るようになる。 >>224 理解できないのならば沈黙すべし。 ヴィトゲンシュタインの最終結論は、西欧猿にしては上出来だ。 >>221 攘夷って言葉はもともと中国起源 水戸が攘夷を唱えるきっかけになった大津浜事件で、上陸してきたスコットランド人捕鯨船員は、記録を見る限りわりと野蛮 タバコを食っては吐き出す 生の大根やネギが好きで、丸ごとかじり付いて食う 飯をひとつの大鉢に入れて出してやると取り分けず、それぞれ尻ポケットから取り出したスプーンを洗わないまま大鉢に突っ込んで食う トイレに行っても手を洗わないし、出入りするのに靴を履いたまま ものすごく臭い 彼らは本国のイギリスでも虫けら扱いされてりするし、途中オーストラリアの流刑地で欠員補充するので犯罪者も混じってる >>227 ネギも大根も壊血病対策だよね 仕方がないのに 本国でも野蛮扱いされてるのに、必死に美化しようとするから笑う 5ちゃん民は年齢層が高くて、昭和に教育を受けたまま感覚が止まっている人が多い 当時は、第二次大戦中の外国文化排斥を批判したい人たちが、幕末の攘夷をそれと同じもののように語ったので、いまだにこの2つを混同しがち 欧米のほうが文明がはるかに進んでたとかの言説も、昭和のフィクションではよく出てきたが、実際はロンドンとかの大都会はともかく、アメリカ西部とかイギリスの辺境とかはそこまで進んではいなかった また、幕末の人々は幕府関係者も含めほとんどが攘夷派だったが、外国と交易することに否定的だった人はほとんどいない 江戸時代の交易は中国の朝貢貿易を真似た方式で、外国が日本の徳を慕って貢物を持ってくるのに返礼する形 彼らはそれしか知らなかったので、押し売りみたいに無理やり条約を結ぶとは何事だ、一旦白紙にして日本のメンツの立つ形で条約を結び直せという意見が多数派 >江戸時代の交易は中国の朝貢貿易を真似た方式で、外国が日本の徳を慕って貢物を持ってくるのに返礼する形 >彼らはそれしか知らなかったので 中国についてだったら昭和の作家がそんなことを書いていたが こんな話にソースあるのか? 岩波が終戦後に出版した『ペルリ提督 日本遠征記』には全く違うことが書いてあるが… >>232 にこんな嘘を吹き込んだ昭和の教育を受けた人って232の父親? 親子揃って妄想と現実を区別できないんだねw 会所貿易と自由貿易の差の話なんてペリーの遠征記に出てくるわけないw 何と勘違いしたんだろ 幕末の認識が間違っているから当時の状況を記した書籍をわざわざ紹介しても だろうはずだで確認すらせず全否定 自分の話はソースも示さず全肯定しろと押し付ける こりゃマジモンのアレだねw会話が成立しないや… いや、会所貿易が何かわかってないだろう 関係ない話でも、とりあえずペリー出せばいいと思ってるから困る 俺は君が完全に間違っていることを記した書籍を提示した 君は君の言ってることが妄想の産物でないことを第三者に分かるソースを出せばいい O.K.? じゃあとりあえず攘夷の幕末史くらいは読んでね あと、井伊直弼が孝明天皇に、日米修好通商条約をいずれ破棄すると約束した叡慮氷解のあたりとか 吉田松陰とか会沢正志斎とか、当時の攘夷の論客が条約を破棄して結び直せと論じたあたりとかもチェックしてね 長崎の出島と横浜関内ではどう貿易方式が違ったかなんてのは、ペリーと全然関係ないです 書籍名や人物名を出してソースじゃないって 笑えるw でも、幕末の攘夷について全然詳しくないのはわかったw あぁ、「ソース」が通じない系か…そのレベルから間違ってることを教えてあげなきゃだめなのね… 知ってる言葉を並べてはったりかませば君と同レベルの相手には通用したのだろうが たった一人のバカな子供の妄想を否定するのに長文書く気はないので >ペリーと全然関係ない これ↓復刻版の目次。半角スペースを消してくれ。もし君に何かを学ぶ気が一かけらでもあるのなら図書館に行って自分で調べようね /d e c.2chan.n e t/u p 2/s r c/fu3509342.j p g 江戸時代の江戸って武蔵国の一部って認識だったの? それとも今の23区みたいに江戸市中って別枠で扱われたの >>242 徳川家康入部の頃の江戸は既に殷賑の巷だったが前者、寛永以降市街拡大整備が進んでからは後者に近い。 ハッキリ「いつまで/いつから」という線は引き難いが。 >>242 当時の行政が国単位では行われていないから、あんまり関係ない気がする 江戸の町は町奉行の管轄下で、それ以外は農村と同じ感じで統治されているが 律令時代の京都の例だと、美也子である平安京は国司の管轄外で京職(右京職と左京職)が統治を担当したし、室町時代の武家官職でも京との町中は山白の守護の管轄ではないのと同じような扱いだろ 夷が未開人という差別用語なら蝦夷と呼ばれたアイヌ人も差別されていたことになる ちなみに太平洋戦争のころ沖縄の人は琉球人と呼ばれて差別されていたようだ >県立八重山高等女学校と県立八重山農学校の女生徒は、卒業と同時に看護要員として軍に動員された。4月看護婦教習が始まり、人骨がゴロゴロころがる墓の中での速成教育が5月いっぱい続けられた。6月になると、於茂登岳中腹の陸軍病院、開南の野戦病院へと配属された。初めのうちは患者がいないため、医薬品の運搬や防空壕堀などの重労働が続いていたが、終戦直前になると多くの傷病兵が送られてきて、昼夜を問わず看護婦として働き続けた。女学生たちは、兵隊たちに「琉球人、琉球人」と小馬鹿にされながら重労働に耐え、看護婦として休むことも許されず、傷病兵の看護に明け暮れ、死人を目の当たりにする日々を送っていた。 ttps://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/okinawa_13.html >>246 沖縄は向こうもこっちをヤマトンチュって差別するんだから仕方ないよな しかも未だに! アイヌ人だって日本人のことをシャモと言って軽蔑しているぞ 差別ってよりも敵同士の歴史があるから致し方ないわな >>247 ヤマトンチュて、大和の衆って語句が沖縄式の発音で読まれてるだけやん、本来的には差別的意味を含んでないやろ(現実に含むかどうかは別として) 1部の人にとっては、半島の人をチョーセンジン!! て呼ぶときに差別的な意味を込めることがあるらしいし、ひょっとしたら差別的な意味を込めてる可能性もゼロではないがな ウチナンチュは沖縄の衆 って語句を沖縄式の発音で読んでるだけやしな >>250 琉球人も琉球の人って日本式の発音で読まれてるだけやんw 何が違うの?www >>250 自分等は日本人じゃないと認識しながら、都合の良いときは差別差別言って、在日の方と似てますね >>252 いや、おれは差別的な意味の可能性は低い派なんやけど それに沖縄には修学旅行で行ったことがあるだけで、先祖に沖縄出身者はおらんで >>253 じゃ、朝鮮人の話し出すなやw まあ、おれは表面上は差別なんかしないが心のなかではだいっきらいだけどな これは個人の自由だしw でも、差別的な意味を含まないはずの語句を差別的に使う奇人も実在するから分からんけど、普通はそんな使い方をしないやん >ちなみに太平洋戦争のころ沖縄の人は琉球人と呼ばれて差別されていたようだ まぁこういう場で「差別」「差別」と言ってる奴って、東京vs大阪の地域対立を一人二役で煽る輩と同種なんだろうけど 琉球の奄美統治に反省の言葉や償いもなく、自分達だけが一方的な被害者であるかのように糊塗するのは某民族のようで気持ち悪い。 それに、灰谷健次郎は高度成長期の内地で沖縄差別があるかのような事を書いている。 それが個人的な知見なのか京阪神では沖縄差別が日常だったのかは知らんけど。 いずれにせよ>>246 のような「差別」「差別」と言い続けるだけのルサンチマンの存在は、アイヌと関係のない日本語の上手な外国人達に目出度く アイヌ利権を贈呈できたわけで、こんな過疎板にもお目こぼしない日々の弛まぬ努力の結実といえるのだろう。 藤原道長の時代には惹かれあってる男女の口吸いは当たり前になっていましたか? ネトウヨのアイヌ差別発言のは明らかに裏で糸を引いている集団がいる 金太郎飴のように同じ文言が無差別的にネット投稿されているのである これは無関係前提だが、彼らの主張はモラロジー研究所のような団体と異常な共通点がある 読者は本件をいかに考えるか 邪馬台国九州説やクルド民族排斥運動やアイヌ民族否定論や在日韓人差別発言には自民党支持の何らかの団体が尾を引いているのが薄らと見えてくると思う >>260 差別される様な事をして、加害者から被害者ジョブチェンジですか 世界はノアの方舟でリセットされ、心が清らかなアブラハムの一族の子孫から再出発しましたが、何故また争いが絶えない世の中が復活してしまったのでしょうか? ひょっとして全知全能の神様でもリセット失敗しましたか? >>263 > 全知全能の神様 --と云う一神教の「カミ」観が虚妄であることの証明だ。 >全知全能の神様でもリセット失敗しましたか? 仮に全知全能の神がリセットとやらを行ってるのだとしても 地球が誕生し生命が育まれた過去数十億年の間に 全地表の生物の九割以上の絶滅を何度も繰り返しているのだから その神とやらは全知全能と呼ぶには遠く及ばないとは言える 若しくは、生命の進化は全知全能をもってしても制御不能であるのかもしれない >>263 能力的には全知全能でも精神が未熟だったから、じゃないかなあ 被造物たる人間が神の力を越えられなかったから、精神の未熟な神の精神性を引き継いでて、それで争いが多発する その後、神の精神は成長したが、人類の精神性は大きな進歩がなかったので、今も争いが絶えない 旧約聖書の時代には神の精神的未熟さのゆえに、衝動的な振る舞いやら、早とちり・勘違いからの行動など、幾度となく失策を繰り返しているのが分かるので、その頃にはまだ、間違いなく未熟 大分時間が空いてしまいましたが >>128 で質問させていただいた者です。 >>140 ご親切に回答下さりありがとうございました。 これからハルマゲドンという争いを起こすとする預言はどうするか 力の差が圧倒的だから争いとは言わないとするのは無理だろう 別の方法に変えてくるのだろうか >>260 ハイ、スレチ 他所行ってやってね >>268 オカルト板でどうぞ always3丁目の夕日という映画が流行りましたよね 私は一度も見ませんでしたが今、太平洋戦争に興味を持ち、ふと思いました あの映画の舞台となった昭和30年代は戦後成長期で あの頃を生きた人があの頃は良かったなぁという思いで懐かしみ、流行ったのでしょうか? 映画公開時にS30sを懐かしむ層が何歳でボリューム層だったかは分かりませんが… >>270 むしろ、もっと若いオート三輪とかも見たことのない人達の間で流行りました 懐かしいというより、こんな時代を乗り越えてきたんだと >>271 上映当時高校生でしたので完全スルーしてました ドラマには興味がないのですが歴史的観点から、見る価値はありますか? 懐かしむのはリアルを知らない世代ですか? 生き抜いてきた方からすれば、実際は公害もあった衛生環境も悪かった、 映画は美化しすぎだ、現実から程遠いと思われたんでしょうか? 例えば今後朝ドラに志村、大河に安倍が出たとして私たちは作られたドラマに違和感があると思うのです >>272 ドキュメンタリーではなくて人情ドラマです リアリティを求めるのではなく時代劇や芝居を観る感覚で >>273 古き良き時代に憧れるような作り、未来への希望に満ち溢れた演出、ということですね 史実と違うぞ!というツッコミをあまり見聞きしなかったから概ね史実なのかと思ったけど 娯楽映画として皆理解していた、ということなんですね~ 飛鳥時代の朝廷の高官たちは中国やインドなどが日本よりももっと歴史がある大国だと 認識していたと思いますが、日本の歴史についてどれくらいの認識だったのでしょうか? 朝廷の機構がある程度出来上がってきたのは飛鳥時代の高官の数代前くらいだと思うのですが、 そういう認識(日本はまだ歴史が浅い新興国だ、国家の黎明期だ)は持っていたのでしょうか? >>276 もうちょっと上手くやろうな。 「特定のイデオロギー」が透けて見えるようでは貴君の目的は達成できない。 >>276 持ってたの当たり前だろ なんとか統一国家の体を作ったが、いまいち暴力では天皇の威光が高まらず悩んでいました… そんなときに出会ったのがこの仏教! これがある意味日本の歴史の始まりだよ >>278 埴輪に毛が生えたようなのしかなかったときにリアルな仏像とか見たら大流行するわな 高床式倉庫に毛の生えたような屋敷しかなかったときに意匠や色彩ゆたかな仏教建築とかも これからやるぞー!って時だからwktkだったんじゃない?手本もあるわけで真似して工夫して改良していけばいいし >>278 自分たちのお爺さんかその親くらいの頃に朝廷が形になってきたとか、そんな感じかな 認識として >>282 大工さんたちの集まりが、隣町の建築会社真似て、代表の社長を選んで見様見真似で会社を作ったは良いけど、いまいちうまくいかんな、って感じ >>276 欽明紀に、百済王が新羅を攻めたが逆に討死してしまい、人質として日本にいた百済王子が帰国する際、 蘇我臣が「かつて百済が高句麗によって滅ぼされそうになった時、百済王が日本の建国神を祀って難を逃れたが、 その後、祀らなくなったから新羅に滅ぼされそうになっているのだ」と語り、 日本の建国神について説明し、再び祀るよう薦める記述があり、少なくとも6世紀中頃には 建国に関する神話が形成されていたことがわかる内容になっている。 これいじょうに話を膨らませるのは作家の仕事であって、根拠もなく推測で話すのは歴史家の仕事じゃない。 >>276 統一的な国が出来上がったあとで、少しずつ官僚機構が整備されだしたわけで、統治機構そのものは古くはなくても国としての歴史は古いと認識してたのではないか おそらく、少なくとも何百年、十世代を越えるぐらいの歴史はあると信じてたと思う >>285 連合国が出来上がったばっかりなのにそんなこと思ってるわけねえだろ >>286 連合国ができたのって、三世紀か四世紀頃やぞ 欽明天皇て6世紀頃やろ >>287 3世紀にできた連合国ってどこにどんな感じよ? 平安時代 お隣の中国(当時は宋の国)ではテーブルと椅子で食事をしていましたが、日本ではなぜにその文化は流行らず胡座や正座しながら御膳を食べるスタイルのままだったのでしょうか? >>290 邪魔だし、偉い人はクッション(畳)を敷き詰めることを選んだ ベッドも流行ってないだろ 土足文化じゃないから畳や布団が発達した 住居が基本高床だからってのもあるだろう >>290 というか、アジアではテーブルと椅子を使う中国の方が少数派じゃないの 中東から東南アジアにかけて、ほとんどが床に座る文化でしょ テーブルと椅子の文化は靴のまま家の中に上がりがちだけど、そうするとホコリや汚れを持ち込むことになる 寒くて乾燥してる地域ならそれでもいいけど、暑いか湿ってる地域だと虫や病原菌が入って来がち 中国に おけ る坐 の 様式 の 変遷過程 に関する研究 ASTUDY https://www.jstage.jst.go.jp/article/aija/64/518/64_KJ00004223199/_pdf 日本 で は ,古代 の 建 物 に土 間 が あ り、人 が 坐 臥 場 所 だ け に 板 敷 を 設けた と い う形 か ら.現 在 ,全 面 に畳 を敷 き詰 め る と い う形 へ 変 わ っ た。こ の 床 構造 の 変 化 は 、中 国 の 床 梼造 の 変 化 と 比 べ れ ば .本 質的 な 変 化は な か っ た と 言 え よ う 。床 坐 も終 始 主流 と して 定 着 し た 。 床 坐 (行 動 ) と床 の 構造 (環 境 ) と は 一つ の 安 定 した シ ス テ ム で は な い か と 思わ れ る 。中国 で は 、坐 の 様 式 (行 動 ) と床 の 構造 (環 境 ) と も に 大 き な 変 化 が 現 れ .新 た な シ ス テ ム に 変 わ っ た の で あ る 。 家族にしろ、教師にしろ、同級生にしろ 人生で一度も真面に相手にされたことのない 何を言っても誰も聞いてくれない そんなかわいそうな子でもレス乞食だったら誰かが相手をしてくれる って期待してるの? >>290 もともと、あぐらや正座で食べるのが中国伝来の古法 中国の方で遊牧民の分化に染まって風習が変わってただけ 椅子を使う分化は遊牧民式 >>290 もともと、あぐらや正座で食べるのが中国伝来の古法 中国の方で遊牧民の文化に染まって風習が変わってただけ 椅子を使う文化は遊牧民式 ウンコを食べるのも中国文化だがな 嘗糞(しょうふん、サンブン、상분)とは、人間の便を舐めて、その味によって 診断する方法。古代中国や朝鮮半島の李氏朝鮮時代まで行われたともいわれる。 儒教では、親に対して行う場合孝行の一種ととらえられ、説話が残されている。 中国 故事「嘗糞憂心」 排泄物による診断の記録は、春秋時代、越王勾践が呉王夫差の下で捕囚の身にある時、 勾践が夫差に完全に臣従したと思わせるために、病床の夫差の便を嘗めて病気がじきに 治ると言ったという逸話が『呉越春秋・勾践入臣外伝』に見られる。この逸話を 由来として「嘗糞」は「人にへつらい恥を知らないこと」としても使われ、お世辞の 度が過ぎる輩の事を「嘗糞之徒」という[1]。また、その味は苦かったとされ[2]、 苦い熊の胆を舐めこの恥辱を忘れないとの「嘗胆(臥薪嘗胆)」の逸話に通じる。 その後、南北朝時代や唐代の説話にも見受けられる。『二十四孝』や『日記説話』に よれば、南斉時代に庾黔婁という役人が父親が病気になったので帰郷すると、医者に 便を嘗めてみないと状態が解らないと言われた。庾黔婁は簡単なことだと言って 舐めてみると、味が違ったので父の死を悟り、北斗七星に父の身代わりになることを 祈ったという「嘗糞憂心」の故事が残っている。『二十四孝』は、日本では御伽草子や 寺子屋の教材にも採用されている。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%98%97%E7%B3%9E . >>301 慥かに、高温多湿と強酸性土壌故に高床が定着・発達したと云う本質論に触れないのは手落ちだな。 >>290 平安初期の遣唐使廃止から平安末期の日宋貿易開始迄、大陸とは疎遠になっていた そのため平安時代には国風文化が芽生えた >>304 遣唐使廃止以前にはあったが廃れたということですか? 中東とか中央アジアには高床式じゃないけど、床に座って食べる文化があるって知らない奴もおるんだなー >>299 だが、時期的には? そもそも、チャリオットみたいな戦車で戦うのが基本だった中国の戦争が騎乗戦闘、騎馬戦に変わったのが遊牧民式で、戦国時代ごろの変化 椅子文化の中国への持ち込みは後漢末ごろらしいし、北魏や隋唐が遊牧民国家なんだから、その頃にはすでに椅子文化は全盛期のはずなのに、なぜ日本に来てないのかを説明できてない 胡床っていう遊牧民由来のスツールは伝わってるけど、風土に合わないから 儀礼用と野外での休憩用ぐらいにしか使われず、広まらなかっただけ 天皇は高御座では椅子に座ってるし、高僧も椅子に座ってる 権力の象徴ということは高級品、贅沢品として普及しなかったとか 遊牧民って言うけど、今も残ってる伝統的な住居で椅子を使ってんのってモンゴルくらいだしなあ キルギスからモロッコにかけて、絨毯の上に座って食事してんのがほとんど イランの冬の家族団らん風景なんか、日本人にはコタツにしか見えん >>314 むしろ日本にテーブルと椅子で食事する習慣が広まったのは、せまい団地で台所と食事部屋を一部屋に押し込むために、ダイニングキッチンという概念を編み出したことに由来するそうな 宋の初代皇帝、趙匡胤は椅子に座った肖像画が残っている。 https://i.imgur.com/QvPb2S8.jpeg それ以降の皇帝も二代目を除き椅子に座った肖像画である https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%8B%E6%9C%9D%E3%81%AE%E5%90%9B%E4%B8%BB%E4%B8%80%E8%A6%A7 唐の時代の皇帝は上半身だけの肖像画で椅子に座ってはなかった 椅子が中華でも普通になったのは宋代からか? でも諸葛亮とか車椅子みたいなのに乗ってたイメージがあるんだよな 日本だとずっと後になるが武田信玄が軍配持って椅子に座って采配していたイメージがある 土足だからそら椅子やテーブルいるやろって話なんじゃないの?単純に 湿潤で足元汚れやすい日本は靴脱いで床に上がることを選んだだけで いや、広いやん イステーブル置きっぱなしなんて 飯終わったら膳を下げて布団敷く、そういう話やん イステーブル、ましてやベッドなんてスペースがなかったんだよ 椅子生活を選んだ地域は、北方で冬に床に座ると尻が冷たいって理由もある 日本人はジメジメグチャグチャだから家全体を椅子にしたってことよ なんか必死に中国文化の方が上って話にしたくて頑張ってる奴おるな 唐代宋代に中国wの庶民は椅子にテーブルだったのか?って話でもある それとも王宮だけの話なのか? ここで話がブレブレになっとる 大型書店(ジュンク堂書店等)の日本史コーナーに、箱入りの10000円以上の分厚い専門書が置いてあるけど何年も(何十年も?)売れてる気配がない 10000円超えの分厚い専門書って誰が買ってる? 1冊何部くらい発行してるんやろ ちゃんと読まれてる? >>327 そもそも歴史の解釈なんて時代が経過すると変わるもんだし、何十年も前の本なんて売れないやろ。 >>326 聖徳太子は中国から制度とか文化を学んだんだが? >>330 学んだうえで対等な関係を結ぼうとしたんだろ 玉里島津家文書とかは、たいていの古本屋で一万円超えだけど、十数年前の古文書ブームのころは需要>発行部数で、研究者でも入手困難だからライトな歴オタは見つけても買わないのがマナーとか言われてたっけ 最近は鹿児島図書館からオンラインで読めるから、古本屋にわりと出回るようになったけど >>333 お前の予想聞いてねえだろ アホなのかな? ウンコを食べるのも中国文化だがな 嘗糞(しょうふん、サンブン、상분)とは、人間の便を舐めて、その味によって 診断する方法。古代中国や朝鮮半島の李氏朝鮮時代まで行われたともいわれる。 儒教では、親に対して行う場合孝行の一種ととらえられ、説話が残されている。 中国 故事「嘗糞憂心」 排泄物による診断の記録は、春秋時代、越王勾践が呉王夫差の下で捕囚の身にある時、 勾践が夫差に完全に臣従したと思わせるために、病床の夫差の便を嘗めて病気がじきに 治ると言ったという逸話が『呉越春秋・勾践入臣外伝』に見られる。この逸話を 由来として「嘗糞」は「人にへつらい恥を知らないこと」としても使われ、お世辞の 度が過ぎる輩の事を「嘗糞之徒」という[1]。また、その味は苦かったとされ[2]、 苦い熊の胆を舐めこの恥辱を忘れないとの「嘗胆(臥薪嘗胆)」の逸話に通じる。 その後、南北朝時代や唐代の説話にも見受けられる。『二十四孝』や『日記説話』に よれば、南斉時代に庾黔婁という役人が父親が病気になったので帰郷すると、医者に 便を嘗めてみないと状態が解らないと言われた。庾黔婁は簡単なことだと言って 舐めてみると、味が違ったので父の死を悟り、北斗七星に父の身代わりになることを 祈ったという「嘗糞憂心」の故事が残っている。『二十四孝』は、日本では御伽草子や 寺子屋の教材にも採用されている。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%98%97%E7%B3%9E . >>336 孔子学院の南支那ウンコ食べグロテスクブタニグロ乙 ウンコを食べるのも中国文化だがな 嘗糞(しょうふん、サンブン、상분)とは、人間の便を舐めて、その味によって 診断する方法。古代中国や朝鮮半島の李氏朝鮮時代まで行われたともいわれる。 儒教では、親に対して行う場合孝行の一種ととらえられ、説話が残されている。 中国 故事「嘗糞憂心」 排泄物による診断の記録は、春秋時代、越王勾践が呉王夫差の下で捕囚の身にある時、 勾践が夫差に完全に臣従したと思わせるために、病床の夫差の便を嘗めて病気がじきに 治ると言ったという逸話が『呉越春秋・勾践入臣外伝』に見られる。この逸話を 由来として「嘗糞」は「人にへつらい恥を知らないこと」としても使われ、お世辞の 度が過ぎる輩の事を「嘗糞之徒」という[1]。また、その味は苦かったとされ[2]、 苦い熊の胆を舐めこの恥辱を忘れないとの「嘗胆(臥薪嘗胆)」の逸話に通じる。 その後、南北朝時代や唐代の説話にも見受けられる。『二十四孝』や『日記説話』に よれば、南斉時代に庾黔婁という役人が父親が病気になったので帰郷すると、医者に 便を嘗めてみないと状態が解らないと言われた。庾黔婁は簡単なことだと言って 舐めてみると、味が違ったので父の死を悟り、北斗七星に父の身代わりになることを 祈ったという「嘗糞憂心」の故事が残っている。『二十四孝』は、日本では御伽草子や 寺子屋の教材にも採用されている。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%98%97%E7%B3%9E . >>338 孔子学院の南支那ウンコ食べグロテスクブタニグロ乙 ウンコを食べるのも中国文化だがな 嘗糞(しょうふん、サンブン、상분)とは、人間の便を舐めて、その味によって 診断する方法。古代中国や朝鮮半島の李氏朝鮮時代まで行われたともいわれる。 儒教では、親に対して行う場合孝行の一種ととらえられ、説話が残されている。 中国 故事「嘗糞憂心」 排泄物による診断の記録は、春秋時代、越王勾践が呉王夫差の下で捕囚の身にある時、 勾践が夫差に完全に臣従したと思わせるために、病床の夫差の便を嘗めて病気がじきに 治ると言ったという逸話が『呉越春秋・勾践入臣外伝』に見られる。この逸話を 由来として「嘗糞」は「人にへつらい恥を知らないこと」としても使われ、お世辞の 度が過ぎる輩の事を「嘗糞之徒」という[1]。また、その味は苦かったとされ[2]、 苦い熊の胆を舐めこの恥辱を忘れないとの「嘗胆(臥薪嘗胆)」の逸話に通じる。 その後、南北朝時代や唐代の説話にも見受けられる。『二十四孝』や『日記説話』に よれば、南斉時代に庾黔婁という役人が父親が病気になったので帰郷すると、医者に 便を嘗めてみないと状態が解らないと言われた。庾黔婁は簡単なことだと言って 舐めてみると、味が違ったので父の死を悟り、北斗七星に父の身代わりになることを 祈ったという「嘗糞憂心」の故事が残っている。『二十四孝』は、日本では御伽草子や 寺子屋の教材にも採用されている。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%98%97%E7%B3%9E . >>340 バラされて悔しい悔しい孔子学院の南支那ウンコ食べグロテスクブタニグロ乙(嘲笑 ウンコを食べるのも中国文化だがな 嘗糞(しょうふん、サンブン、상분)とは、人間の便を舐めて、その味によって 診断する方法。古代中国や朝鮮半島の李氏朝鮮時代まで行われたともいわれる。 儒教では、親に対して行う場合孝行の一種ととらえられ、説話が残されている。 中国 故事「嘗糞憂心」 排泄物による診断の記録は、春秋時代、越王勾践が呉王夫差の下で捕囚の身にある時、 勾践が夫差に完全に臣従したと思わせるために、病床の夫差の便を嘗めて病気がじきに 治ると言ったという逸話が『呉越春秋・勾践入臣外伝』に見られる。この逸話を 由来として「嘗糞」は「人にへつらい恥を知らないこと」としても使われ、お世辞の 度が過ぎる輩の事を「嘗糞之徒」という[1]。また、その味は苦かったとされ[2]、 苦い熊の胆を舐めこの恥辱を忘れないとの「嘗胆(臥薪嘗胆)」の逸話に通じる。 その後、南北朝時代や唐代の説話にも見受けられる。『二十四孝』や『日記説話』に よれば、南斉時代に庾黔婁という役人が父親が病気になったので帰郷すると、医者に 便を嘗めてみないと状態が解らないと言われた。庾黔婁は簡単なことだと言って 舐めてみると、味が違ったので父の死を悟り、北斗七星に父の身代わりになることを 祈ったという「嘗糞憂心」の故事が残っている。『二十四孝』は、日本では御伽草子や 寺子屋の教材にも採用されている。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%98%97%E7%B3%9E . >>342 バラされて悔しい悔しい孔子学院の南支那ウンコ食べグロテスクブタニグロ乙(嘲笑 ウンコを食べるのも中国文化だがな 嘗糞(しょうふん、サンブン、상분)とは、人間の便を舐めて、その味によって 診断する方法。古代中国や朝鮮半島の李氏朝鮮時代まで行われたともいわれる。 儒教では、親に対して行う場合孝行の一種ととらえられ、説話が残されている。 中国 故事「嘗糞憂心」 排泄物による診断の記録は、春秋時代、越王勾践が呉王夫差の下で捕囚の身にある時、 勾践が夫差に完全に臣従したと思わせるために、病床の夫差の便を嘗めて病気がじきに 治ると言ったという逸話が『呉越春秋・勾践入臣外伝』に見られる。この逸話を 由来として「嘗糞」は「人にへつらい恥を知らないこと」としても使われ、お世辞の 度が過ぎる輩の事を「嘗糞之徒」という[1]。また、その味は苦かったとされ[2]、 苦い熊の胆を舐めこの恥辱を忘れないとの「嘗胆(臥薪嘗胆)」の逸話に通じる。 その後、南北朝時代や唐代の説話にも見受けられる。『二十四孝』や『日記説話』に よれば、南斉時代に庾黔婁という役人が父親が病気になったので帰郷すると、医者に 便を嘗めてみないと状態が解らないと言われた。庾黔婁は簡単なことだと言って 舐めてみると、味が違ったので父の死を悟り、北斗七星に父の身代わりになることを 祈ったという「嘗糞憂心」の故事が残っている。『二十四孝』は、日本では御伽草子や 寺子屋の教材にも採用されている。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%98%97%E7%B3%9E . >>343 そこまで誇らしいニダか キムチ食ってねろw >>344 . バラされて悔しい悔しい孔子学院の南支那ウンコ食べグロテスクブタニグロ乙(嘲笑 ウンコを食べるのも中国文化だがな 嘗糞(しょうふん、サンブン、상분)とは、人間の便を舐めて、その味によって 診断する方法。古代中国や朝鮮半島の李氏朝鮮時代まで行われたともいわれる。 儒教では、親に対して行う場合孝行の一種ととらえられ、説話が残されている。 中国 故事「嘗糞憂心」 排泄物による診断の記録は、春秋時代、越王勾践が呉王夫差の下で捕囚の身にある時、 勾践が夫差に完全に臣従したと思わせるために、病床の夫差の便を嘗めて病気がじきに 治ると言ったという逸話が『呉越春秋・勾践入臣外伝』に見られる。この逸話を 由来として「嘗糞」は「人にへつらい恥を知らないこと」としても使われ、お世辞の 度が過ぎる輩の事を「嘗糞之徒」という[1]。また、その味は苦かったとされ[2]、 苦い熊の胆を舐めこの恥辱を忘れないとの「嘗胆(臥薪嘗胆)」の逸話に通じる。 その後、南北朝時代や唐代の説話にも見受けられる。『二十四孝』や『日記説話』に よれば、南斉時代に庾黔婁という役人が父親が病気になったので帰郷すると、医者に 便を嘗めてみないと状態が解らないと言われた。庾黔婁は簡単なことだと言って 舐めてみると、味が違ったので父の死を悟り、北斗七星に父の身代わりになることを 祈ったという「嘗糞憂心」の故事が残っている。『二十四孝』は、日本では御伽草子や 寺子屋の教材にも採用されている。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%98%97%E7%B3%9E . >>346 バラされて悔しい悔しい孔子学院の南支那ウンコ食べグロテスクブタニグロ乙(嘲笑 ウンコを食べるのも中国文化だがな 嘗糞(しょうふん、サンブン、상분)とは、人間の便を舐めて、その味によって 診断する方法。古代中国や朝鮮半島の李氏朝鮮時代まで行われたともいわれる。 儒教では、親に対して行う場合孝行の一種ととらえられ、説話が残されている。 中国 故事「嘗糞憂心」 排泄物による診断の記録は、春秋時代、越王勾践が呉王夫差の下で捕囚の身にある時、 勾践が夫差に完全に臣従したと思わせるために、病床の夫差の便を嘗めて病気がじきに 治ると言ったという逸話が『呉越春秋・勾践入臣外伝』に見られる。この逸話を 由来として「嘗糞」は「人にへつらい恥を知らないこと」としても使われ、お世辞の 度が過ぎる輩の事を「嘗糞之徒」という[1]。また、その味は苦かったとされ[2]、 苦い熊の胆を舐めこの恥辱を忘れないとの「嘗胆(臥薪嘗胆)」の逸話に通じる。 その後、南北朝時代や唐代の説話にも見受けられる。『二十四孝』や『日記説話』に よれば、南斉時代に庾黔婁という役人が父親が病気になったので帰郷すると、医者に 便を嘗めてみないと状態が解らないと言われた。庾黔婁は簡単なことだと言って 舐めてみると、味が違ったので父の死を悟り、北斗七星に父の身代わりになることを 祈ったという「嘗糞憂心」の故事が残っている。『二十四孝』は、日本では御伽草子や 寺子屋の教材にも採用されている。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%98%97%E7%B3%9E . 臥薪嘗胆とかきいても教訓にするだけで実際に薪の上で寝ないし肝を舐めない日本人 嘗糞憂心と聞いてウンコ食うことを誇るおまエラw ウンコションベンを料理に昇華させた我々のほうが中華の言うことを聞いているニダw 誇らしいニダw >>350-351 バラされて悔しい悔しい孔子学院の南支那ウンコ食べグロテスクブタニグロ乙(嘲笑 ウンコを食べるのも中国文化だがな 嘗糞(しょうふん、サンブン、상분)とは、人間の便を舐めて、その味によって 診断する方法。古代中国や朝鮮半島の李氏朝鮮時代まで行われたともいわれる。 儒教では、親に対して行う場合孝行の一種ととらえられ、説話が残されている。 中国 故事「嘗糞憂心」 排泄物による診断の記録は、春秋時代、越王勾践が呉王夫差の下で捕囚の身にある時、 勾践が夫差に完全に臣従したと思わせるために、病床の夫差の便を嘗めて病気がじきに 治ると言ったという逸話が『呉越春秋・勾践入臣外伝』に見られる。この逸話を 由来として「嘗糞」は「人にへつらい恥を知らないこと」としても使われ、お世辞の 度が過ぎる輩の事を「嘗糞之徒」という[1]。また、その味は苦かったとされ[2]、 苦い熊の胆を舐めこの恥辱を忘れないとの「嘗胆(臥薪嘗胆)」の逸話に通じる。 その後、南北朝時代や唐代の説話にも見受けられる。『二十四孝』や『日記説話』に よれば、南斉時代に庾黔婁という役人が父親が病気になったので帰郷すると、医者に 便を嘗めてみないと状態が解らないと言われた。庾黔婁は簡単なことだと言って 舐めてみると、味が違ったので父の死を悟り、北斗七星に父の身代わりになることを 祈ったという「嘗糞憂心」の故事が残っている。『二十四孝』は、日本では御伽草子や 寺子屋の教材にも採用されている。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%98%97%E7%B3%9E . >>354 バラされて悔しい悔しい孔子学院の南支那ウンコ食べグロテスクブタニグロ乙(嘲笑 ウンコを食べるのも中国文化だがな 嘗糞(しょうふん、サンブン、상분)とは、人間の便を舐めて、その味によって 診断する方法。古代中国や朝鮮半島の李氏朝鮮時代まで行われたともいわれる。 儒教では、親に対して行う場合孝行の一種ととらえられ、説話が残されている。 中国 故事「嘗糞憂心」 排泄物による診断の記録は、春秋時代、越王勾践が呉王夫差の下で捕囚の身にある時、 勾践が夫差に完全に臣従したと思わせるために、病床の夫差の便を嘗めて病気がじきに 治ると言ったという逸話が『呉越春秋・勾践入臣外伝』に見られる。この逸話を 由来として「嘗糞」は「人にへつらい恥を知らないこと」としても使われ、お世辞の 度が過ぎる輩の事を「嘗糞之徒」という[1]。また、その味は苦かったとされ[2]、 苦い熊の胆を舐めこの恥辱を忘れないとの「嘗胆(臥薪嘗胆)」の逸話に通じる。 その後、南北朝時代や唐代の説話にも見受けられる。『二十四孝』や『日記説話』に よれば、南斉時代に庾黔婁という役人が父親が病気になったので帰郷すると、医者に 便を嘗めてみないと状態が解らないと言われた。庾黔婁は簡単なことだと言って 舐めてみると、味が違ったので父の死を悟り、北斗七星に父の身代わりになることを 祈ったという「嘗糞憂心」の故事が残っている。『二十四孝』は、日本では御伽草子や 寺子屋の教材にも採用されている。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%98%97%E7%B3%9E . >>353 これについては反論ないニダwww >>348 >>349 >>356 バラされて悔しい悔しい孔子学院の南支那ウンコ食べグロテスクブタニグロ乙(嘲笑 ウンコを食べるのも中国文化だがな 嘗糞(しょうふん、サンブン、상분)とは、人間の便を舐めて、その味によって 診断する方法。古代中国や朝鮮半島の李氏朝鮮時代まで行われたともいわれる。 儒教では、親に対して行う場合孝行の一種ととらえられ、説話が残されている。 中国 故事「嘗糞憂心」 排泄物による診断の記録は、春秋時代、越王勾践が呉王夫差の下で捕囚の身にある時、 勾践が夫差に完全に臣従したと思わせるために、病床の夫差の便を嘗めて病気がじきに 治ると言ったという逸話が『呉越春秋・勾践入臣外伝』に見られる。この逸話を 由来として「嘗糞」は「人にへつらい恥を知らないこと」としても使われ、お世辞の 度が過ぎる輩の事を「嘗糞之徒」という[1]。また、その味は苦かったとされ[2]、 苦い熊の胆を舐めこの恥辱を忘れないとの「嘗胆(臥薪嘗胆)」の逸話に通じる。 その後、南北朝時代や唐代の説話にも見受けられる。『二十四孝』や『日記説話』に よれば、南斉時代に庾黔婁という役人が父親が病気になったので帰郷すると、医者に 便を嘗めてみないと状態が解らないと言われた。庾黔婁は簡単なことだと言って 舐めてみると、味が違ったので父の死を悟り、北斗七星に父の身代わりになることを 祈ったという「嘗糞憂心」の故事が残っている。『二十四孝』は、日本では御伽草子や 寺子屋の教材にも採用されている。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%98%97%E7%B3%9E . >>357 バラされて悔しい悔しい孔子学院の南支那ウンコ食べグロテスクブタニグロ乙(嘲笑 ウンコを食べるのも中国文化だがな 嘗糞(しょうふん、サンブン、상분)とは、人間の便を舐めて、その味によって 診断する方法。古代中国や朝鮮半島の李氏朝鮮時代まで行われたともいわれる。 儒教では、親に対して行う場合孝行の一種ととらえられ、説話が残されている。 中国 故事「嘗糞憂心」 排泄物による診断の記録は、春秋時代、越王勾践が呉王夫差の下で捕囚の身にある時、 勾践が夫差に完全に臣従したと思わせるために、病床の夫差の便を嘗めて病気がじきに 治ると言ったという逸話が『呉越春秋・勾践入臣外伝』に見られる。この逸話を 由来として「嘗糞」は「人にへつらい恥を知らないこと」としても使われ、お世辞の 度が過ぎる輩の事を「嘗糞之徒」という[1]。また、その味は苦かったとされ[2]、 苦い熊の胆を舐めこの恥辱を忘れないとの「嘗胆(臥薪嘗胆)」の逸話に通じる。 その後、南北朝時代や唐代の説話にも見受けられる。『二十四孝』や『日記説話』に よれば、南斉時代に庾黔婁という役人が父親が病気になったので帰郷すると、医者に 便を嘗めてみないと状態が解らないと言われた。庾黔婁は簡単なことだと言って 舐めてみると、味が違ったので父の死を悟り、北斗七星に父の身代わりになることを 祈ったという「嘗糞憂心」の故事が残っている。『二十四孝』は、日本では御伽草子や 寺子屋の教材にも採用されている。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%98%97%E7%B3%9E . >>359 バラされて悔しい悔しい孔子学院の南支那ウンコ食べグロテスクブタニグロ乙(嘲笑 ウンコを食べるのも中国文化だがな 嘗糞(しょうふん、サンブン、상분)とは、人間の便を舐めて、その味によって 診断する方法。古代中国や朝鮮半島の李氏朝鮮時代まで行われたともいわれる。 儒教では、親に対して行う場合孝行の一種ととらえられ、説話が残されている。 中国 故事「嘗糞憂心」 排泄物による診断の記録は、春秋時代、越王勾践が呉王夫差の下で捕囚の身にある時、 勾践が夫差に完全に臣従したと思わせるために、病床の夫差の便を嘗めて病気がじきに 治ると言ったという逸話が『呉越春秋・勾践入臣外伝』に見られる。この逸話を 由来として「嘗糞」は「人にへつらい恥を知らないこと」としても使われ、お世辞の 度が過ぎる輩の事を「嘗糞之徒」という[1]。また、その味は苦かったとされ[2]、 苦い熊の胆を舐めこの恥辱を忘れないとの「嘗胆(臥薪嘗胆)」の逸話に通じる。 その後、南北朝時代や唐代の説話にも見受けられる。『二十四孝』や『日記説話』に よれば、南斉時代に庾黔婁という役人が父親が病気になったので帰郷すると、医者に 便を嘗めてみないと状態が解らないと言われた。庾黔婁は簡単なことだと言って 舐めてみると、味が違ったので父の死を悟り、北斗七星に父の身代わりになることを 祈ったという「嘗糞憂心」の故事が残っている。『二十四孝』は、日本では御伽草子や 寺子屋の教材にも採用されている。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%98%97%E7%B3%9E . >>327 誰が買ってるか?つーと自腹をきる必要のない人 小泉政権の頃。六大学と呼ばれているところの某教授が、現職の首相を名指しで「お前は人間ではない」と人権を全否定し、 「叩っ斬ってやる」と公衆の面前で殺害予告をしたが、この人はその時点で科研費から一億円弱のお金を受け取っている。 この科研費を誰に幾ら払うのかを決めるのに関与しているのが、左翼の牙城なのに自分達の組織は国の支配機関でなければならないと 強硬に主張している日本学術会議の面々。 サヨク系の学術研究者には国から細々とした支援が受けられるのだが、一応の言い訳として何に使ったのか聞かれることもある。 この人の場合は熱心な教徒なので真面な業績がなくても手厚い金銭を合法的に受け取っているが、数万円~数十万円位の科研費は手広く配られている。 で、研究者は通常伝手があるので書店では買わずに割り引いてもらったものを版元や取次から購入していたりする。 では何故某書店には置いてあるのかというと、まぁぶっちゃけ組織のトップが「図書館みたいな本屋」というフレーズが気に入っているから。 売れもしないのに埃を被り帯が破れ変色し古本屋に置いてあるものより汚くなっても棚に置き続けている。 偉い人たちは専門書のコーナーに足をとめて置かれた本の状態なんか一々確認しないからね。 売り場担当者も、三十年も前に某地方新聞社に書かれたフレーズを幹部が気に入っているからアンタッチャブル な置物状態で放置。 単価の高い本は版元も数が捌けないことは分かっているから(近年では図書館も購入してくれなくなってきている)。 その著者の過去の実績から数十部から数百部程度。 京都の某大学の教授は毎年自著を学生に購入させているが、最初の講義で古本ではなく当該年発行の新刊を○○から購入したか最初の授業で確認するという作業が恒例。 河合塾ですらゼミで必要で買った本は領収証もらってたわ 誰宛のレスか知らんけど、河合塾がダブスタで飴と鞭を使い分けているっていう話は初耳。 >>362 とは関係のない他板か他スレの誤爆? 話が脱線していく一方な悪寒 誰が誰にどの文に何を言いたいのかきちんと説明してくれないと 永遠に話が噛み合わない希ガス… >>364 ダブスタは誤読やろ 単に、経費申請には領収書を添えろってだけの話やん あぁやっぱり話がかみあってない 何の意味もないことを言ってるだけか 相手にしても時間の無駄のようなので捨て置いて 小泉じゃなくてYが名指しで罵ったのは安倍だった それは訂正しておく おっともう一つ訂正 別の人物と話がごっちゃになってた Yが受け取った科研費は一億弱ではなくて六億円弱だった orz 5ちゃんのじいさん達は千円くらいの本でも買えないからなあ エアプで読んでるふりをする奴もいるけど、その本にそんなこと書いてないよと言うとキレるし 高い本を買ってる人はダメな奴だって屁理屈でこじつけようとするし >>332 忘れたなあ 律令制度崩壊過程の研究だったか・・・ またもういっぺん見てくるわ 他にも色々ある 大阪の本屋でこんな感じやから東京・神奈川あたりの本屋も似た状況やろ >>369 お前が一番意味のないレス延々続けてんだけどな >>371 本屋の歴史コーナーで古そうな分厚い本が売れ残ってて 「◯◯制度の研究」みたいなタイトルだった、はあるあるだな >>359 バラされて悔しい悔しい孔子学院の南支那ウンコ食べグロテスクブタニグロ乙(嘲笑 ウンコを食べるのも中国文化だがな 嘗糞(しょうふん、サンブン、상분)とは、人間の便を舐めて、その味によって 診断する方法。古代中国や朝鮮半島の李氏朝鮮時代まで行われたともいわれる。 儒教では、親に対して行う場合孝行の一種ととらえられ、説話が残されている。 中国 故事「嘗糞憂心」 排泄物による診断の記録は、春秋時代、越王勾践が呉王夫差の下で捕囚の身にある時、 勾践が夫差に完全に臣従したと思わせるために、病床の夫差の便を嘗めて病気がじきに 治ると言ったという逸話が『呉越春秋・勾践入臣外伝』に見られる。この逸話を 由来として「嘗糞」は「人にへつらい恥を知らないこと」としても使われ、お世辞の 度が過ぎる輩の事を「嘗糞之徒」という[1]。また、その味は苦かったとされ[2]、 苦い熊の胆を舐めこの恥辱を忘れないとの「嘗胆(臥薪嘗胆)」の逸話に通じる。 その後、南北朝時代や唐代の説話にも見受けられる。『二十四孝』や『日記説話』に よれば、南斉時代に庾黔婁という役人が父親が病気になったので帰郷すると、医者に 便を嘗めてみないと状態が解らないと言われた。庾黔婁は簡単なことだと言って 舐めてみると、味が違ったので父の死を悟り、北斗七星に父の身代わりになることを 祈ったという「嘗糞憂心」の故事が残っている。『二十四孝』は、日本では御伽草子や 寺子屋の教材にも採用されている。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%98%97%E7%B3%9E . >>374 韓国だけでなく中国もウンコ食ってたって話やん >>376 そりゃ、お前わな 他の人は食わんのだわ >>375 チンコロランドの方が歴史が古いからウンコ食の起源地はチンコロランドだと 考えられる訳だ しかも王様からウンコ食なんだから超ウケるwwwwwwwwwww 人肉は食うわ、ウンコは食うわ、どうしようもねえ汚物人種だなチンコロは ウンコ食うとかでガタガタ言ってんなよ 知ってるか、人類の祖先は食虫類みたいな生活をしてた(原猿類) 主食は芋虫だよな 芋虫の腹のなかは消化途中のエサがたっぷり、要するにフンでいっぱいだ 糞便食と大差ないわな たかだか先祖返りな奇食ぐらい、スルーしとけ >>380 植物しか食ってねえからな芋虫は 植物食ってるようなもんだろ ホルモンも同じ あれ雑食だったら食えねえな >>382 芋虫よりもう少しボーダーライン寄りというと、ウサギのウンコ飲むやつかな 人間が飲む話はあまり記憶がないが、ウサギ自信は自分のウンコを飲む まあ、食べ物が消化管を2周しないと吸収できない構造なだけなんだが、 1周目後の液状の白いウンコを、自分の肛門に口をつけて飲むんだよ、あいつら。 それをあらためて消化したら粒状の黒いウンコになるんだってよ >>359 バラされて悔しい悔しい孔子学院の南支那ウンコ食グロテスクブタニグロ乙(嘲笑 ウンコを食べるのも中国文化だがな 嘗糞(しょうふん、サンブン、상분)とは、人間の便を舐めて、その味によって 診断する方法。古代中国や朝鮮半島の李氏朝鮮時代まで行われたともいわれる。 儒教では、親に対して行う場合孝行の一種ととらえられ、説話が残されている。 中国 故事「嘗糞憂心」 排泄物による診断の記録は、春秋時代、越王勾践が呉王夫差の下で捕囚の身にある時、 勾践が夫差に完全に臣従したと思わせるために、病床の夫差の便を嘗めて病気がじきに 治ると言ったという逸話が『呉越春秋・勾践入臣外伝』に見られる。この逸話を 由来として「嘗糞」は「人にへつらい恥を知らないこと」としても使われ、お世辞の 度が過ぎる輩の事を「嘗糞之徒」という[1]。また、その味は苦かったとされ[2]、 苦い熊の胆を舐めこの恥辱を忘れないとの「嘗胆(臥薪嘗胆)」の逸話に通じる。 その後、南北朝時代や唐代の説話にも見受けられる。『二十四孝』や『日記説話』に よれば、南斉時代に庾黔婁という役人が父親が病気になったので帰郷すると、医者に 便を嘗めてみないと状態が解らないと言われた。庾黔婁は簡単なことだと言って 舐めてみると、味が違ったので父の死を悟り、北斗七星に父の身代わりになることを 祈ったという「嘗糞憂心」の故事が残っている。『二十四孝』は、日本では御伽草子や 寺子屋の教材にも採用されている。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%98%97%E7%B3%9E . >>313 百人一首の光孝天皇の挿絵は、椅子なんかに乗ってないよ。畳に胡坐じゃん。 天智天皇も持統天皇も三条院も陽成院も崇徳院も後鳥羽院も順徳院も、そんな椅子のようなものに腰かけてないでよ。 >>321 燃料にもなる羊・山羊の糞のカラカラに乾かしたやつを断熱材に、その上にスノコを置いてフェルトをかけて座ってた。 胡人の座り方だから、胡坐。 糞が少ないうちはせき止めるために前後に板をかましてたから、それが椅子風に見えるのかな? >>324 今は取り壊されてあまり残ってない窯洞とか胡洞(衚衕とは別物)は、柱の入ってない土壁もしくは、土の塊を掘りぬいた住居。 全体に床板を敷くほど木材に恵まれていないので、人の腰かける、椅子、縁台と物を置く卓を置いた。 人の寝床は日本風にいうと押入れ。 押入も土で、この上にスノコと布団を置く。 また庶民の話と貴人の話がごっちゃになってるな どっちかに絞れよ それより何時代のどこの国の話をしてんのか書いてないレスを何とかしろ >>387 こいつは恥ずかしい 畳み掛けるように無知をさらしてw 春日局の件があって以降大奥では乳母は覆面をしていたという説がちらほら散見 されるのですがソースが全く見当たらず。お詳しい方いらっしゃいますか >>396 おれも創作としか思えないな 探してもソースは見つからないと思う 藤原氏北家御堂流に滅亡の危機は無く、房前から近衛文麿まで安定して正解の中枢を担う家として続いてたのでしようか? >>396 それ春日局じゃなく、家斉の子か、家定の赤ん坊のころじゃなかったっけと思ってぐぐったら、ソースっぽいものがヒットした 山本博文『大奥学事始め』 さらにそのソースの一次史料はたぶん森山孝盛『蜑の焼藻の記』 家斉が子ども作りすぎて、お目見え以下の女性も乳母に雇わなければいけなくなって、苦肉の措置って話らしいが、上に挙げた本を読んだわけじゃないので、自分で確認して やべえじゃん。 800年前のイタリアの王様のフリードリッヒ二世がやった実験と同じじゃん。 どうりで100人くらい子供作って30人も育たなかったわけよ 秀吉の備中高松城の水攻めですが 折しも梅雨時で、瞬く間に石垣、建物に浸水していきました。 というようなことがよく言われていますが、本能寺の変があったのが新暦の6月21日。 高松城水攻めが開始されてのはその2週間前から。 つまり、今年でいえば一昨日くらいから水攻めが始まったということになりますが、この時期に中国地方でそんなに雨が降ります? 2週間で水攻めで水没させるには24時間雨量が300ミリを超えるような集中豪雨が必要にも思いますが、そんな文献を見たことはありません。 つまり、この水攻めというのはかなり誇張されており、 https://dec.2chan.net/up2/src/fu3586177.jpeg https://dec.2chan.net/up2/src/fu3586179.jpeg 6月の上旬〜中旬の梅雨でここまで水没することはない、と思うのですが、実際のところどうなのでしょう? >>403 川の水を引き入れてるんだよ そんなこともわからないのか? 馬鹿なのかな? >>359 バラされて悔しい悔しい孔子学院の南支那ウンコ食グロテスクブタニグロ乙(嘲笑 ウンコを食べるのも中国文化だがな 嘗糞(しょうふん、サンブン、상분)とは、人間の便を舐めて、その味によって 診断する方法。古代中国や朝鮮半島の李氏朝鮮時代まで行われたともいわれる。 儒教では、親に対して行う場合孝行の一種ととらえられ、説話が残されている。 中国 故事「嘗糞憂心」 排泄物による診断の記録は、春秋時代、越王勾践が呉王夫差の下で捕囚の身にある時、 勾践が夫差に完全に臣従したと思わせるために、病床の夫差の便を嘗めて病気がじきに 治ると言ったという逸話が『呉越春秋・勾践入臣外伝』に見られる。この逸話を 由来として「嘗糞」は「人にへつらい恥を知らないこと」としても使われ、お世辞の 度が過ぎる輩の事を「嘗糞之徒」という[1]。また、その味は苦かったとされ[2]、 苦い熊の胆を舐めこの恥辱を忘れないとの「嘗胆(臥薪嘗胆)」の逸話に通じる。 その後、南北朝時代や唐代の説話にも見受けられる。『二十四孝』や『日記説話』に よれば、南斉時代に庾黔婁という役人が父親が病気になったので帰郷すると、医者に 便を嘗めてみないと状態が解らないと言われた。庾黔婁は簡単なことだと言って 舐めてみると、味が違ったので父の死を悟り、北斗七星に父の身代わりになることを 祈ったという「嘗糞憂心」の故事が残っている。『二十四孝』は、日本では御伽草子や 寺子屋の教材にも採用されている。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%98%97%E7%B3%9E . >>405 これ、バカがバカって指摘されたときに悔しくてコピペしてるの? >>403 その絵にも川から水を引き入れてるのが描かれてるじゃん >>403 戦国時代は寒冷期で現代よりも長雨被害が多発していた記録が残ってるんだ、現代の気候と同じではないよ >>408 寒冷なら梅雨時はもっと後にずれるんでないかい? 「荘園」伊藤俊一を読んでたら「○○年頃に気候が悪化して日本中で集落が廃絶した」「その後、田堵が出現して農地を経営した」と書いてあるが、旧来の集落の住人と田堵って技術的にそんなに違うのかなあ?と思う 田堵ってどういう技術を使ったのだろうか? それで、日本中で集落が廃絶するってどれくらいの生き地獄で、朝廷の収入はどれくらい落ちたのだろうか? >>409 いや、開始時期は遅れなくて、終わりが遅いだけ むしろ、現在の方が梅雨入りが遅くなってる 戦国時代を含む小氷期の長雨・豪雨による災害は梅雨や台風に限らず通年ランダムに発生している。 むしろ「水攻め」という戦術自体が当該地域の地理水文のみならず上記の如き当時の気候を前提とした発想と理解するのが自然かと思う。 >>414 雨頼りなわけ無いだろ、単純に地形を利用したに決まってるじゃん 仮に150ミリの豪雨が降ったところで水位が15センチ上がるだけだぜ 実際はそんなに上がらないし >>404 たいした水量もない足守川の水を分水して引き入れてもたいして溜まらない いくら高松城が湿地帯の中の白で城の周囲の水捌けは悪かったと言っても >>416 分水じゃなくて全てを引き入れるんだろ? 何いってんだよ >>406 バラされて悔しい悔しい孔子学院の南支那ウンコ食グロテスクブタニグロ乙(嘲笑 ウンコを食べるのも中国文化だがな 嘗糞(しょうふん、サンブン、상분)とは、人間の便を舐めて、その味によって 診断する方法。古代中国や朝鮮半島の李氏朝鮮時代まで行われたともいわれる。 儒教では、親に対して行う場合孝行の一種ととらえられ、説話が残されている。 中国 故事「嘗糞憂心」 排泄物による診断の記録は、春秋時代、越王勾践が呉王夫差の下で捕囚の身にある時、 勾践が夫差に完全に臣従したと思わせるために、病床の夫差の便を嘗めて病気がじきに 治ると言ったという逸話が『呉越春秋・勾践入臣外伝』に見られる。この逸話を 由来として「嘗糞」は「人にへつらい恥を知らないこと」としても使われ、お世辞の 度が過ぎる輩の事を「嘗糞之徒」という[1]。また、その味は苦かったとされ[2]、 苦い熊の胆を舐めこの恥辱を忘れないとの「嘗胆(臥薪嘗胆)」の逸話に通じる。 その後、南北朝時代や唐代の説話にも見受けられる。『二十四孝』や『日記説話』に よれば、南斉時代に庾黔婁という役人が父親が病気になったので帰郷すると、医者に 便を嘗めてみないと状態が解らないと言われた。庾黔婁は簡単なことだと言って 舐めてみると、味が違ったので父の死を悟り、北斗七星に父の身代わりになることを 祈ったという「嘗糞憂心」の故事が残っている。『二十四孝』は、日本では御伽草子や 寺子屋の教材にも採用されている。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%98%97%E7%B3%9E . >>415 「のみならず」という日本語が理解できなかったか。 来日から間もない人のようだな。 だとしたら配慮が足りなくて申し訳ない。 >>416 河川の水量って、現代の水量と戦国時代の水量は違うとこが多いだろ 水量が多くて頻繁に大洪水を起こしてた大和川ってのが大阪平野にあるが、今では水量はわずかで、洪水を起こしそうな川には見えなくなった 他の地域でも、そういう川は多いだろ もう一つ > 仮に150ミリの豪雨が降ったところで水位が15センチ上がるだけだぜ この認識が根本的に間違っている。 河川及びこれを擁する地形というものが降雨時にどう機能するのか、 基礎知識を学ぶと良い。 >>420 のみならずって事は天候にも頼ってんだろ? 見苦しいぜ言い訳が >>422 そのとおりだけど実際雨に頼っていたのか? >>423 当たり前だ。 河川の水は何処から来る? 水流乏しい川でも豪雨が前提ならどうなる? 大方>>422 で指摘された白痴的誤謬が恥ずかしくて誤魔化そうとしてるんだろうが、 見苦しいのはどっちなんだか。 >>425 豪雨があったって記録があるのかよ? 無かったら作戦は失敗してたのか? 10ミリほどの雨が降ったときに、低地も高地も一様に10ミリの水がたまることはなく、高いところから低いところに移動することで低地では、場所によっては100ミリ内外の水がたまるものだ (だから現代では、水害対策のために排水設備を整えている) 豪雨なんてなくても低地なら雨の影響は甚大だよ >>428 きっと>>415 が住む世界では150mm降った雨が流れることも集まることもなく静かぁ~に150mm溜まるんだろう テンプレにしてもいいレベルの愉快な理論 >>421 去年6月2日、大和川で越堤溢水起こしたよ。 平成の間も6回洪水興しているよ。 6〜7年に1度くらいの頻度で水があふれているよ。 >>429 河川を利用せずに水攻めの堤防の中を雨水のみで貯めようとした場合を書いてるんだろ 最初の質問者はそのように考えているようだから 実際は河川を引き入れているので仮に雨が降らなくても取水口の水面高さまでは貯まる 雨が降れば水が溜まるのが早まり川の水位が上がった分だけ水面も上がるだけで >>431 現代、特に最近の河川氾濫はまた少し性質が違う。 >>433 舗装とか造成の関係で一気に河川に流れ込むからな 貯水池で調整はしているが >>401 質問させていただいたものです、有力な情報をご親切にありがとうございます! >>397-399 皆様も返信下さりありがとうございました。 >>401 質問させていただいたものです、有力な情報をご親切にありがとうございます! >>397-399 皆様も返信下さりありがとうございました。 >>433 洪水起こしそうに無い、とかいう寝言ホザ居てる人に、現実を教えただけじゃん。 昨日だって、堺市の西除川合流地点付近で、町内会レベルの警戒情報が回ってきたくらいなのに。 >>438 馬鹿じゃねえの? 現代の話関係ねえだろ >>406 バラされて悔しい悔しい孔子学院の南支那ウンコ食グロテスクブタニグロ乙(嘲笑 ウンコを食べるのも中国文化だがな 嘗糞(しょうふん、サンブン、상분)とは、人間の便を舐めて、その味によって 診断する方法。古代中国や朝鮮半島の李氏朝鮮時代まで行われたともいわれる。 儒教では、親に対して行う場合孝行の一種ととらえられ、説話が残されている。 中国 故事「嘗糞憂心」 排泄物による診断の記録は、春秋時代、越王勾践が呉王夫差の下で捕囚の身にある時、 勾践が夫差に完全に臣従したと思わせるために、病床の夫差の便を嘗めて病気がじきに 治ると言ったという逸話が『呉越春秋・勾践入臣外伝』に見られる。この逸話を 由来として「嘗糞」は「人にへつらい恥を知らないこと」としても使われ、お世辞の 度が過ぎる輩の事を「嘗糞之徒」という[1]。また、その味は苦かったとされ[2]、 苦い熊の胆を舐めこの恥辱を忘れないとの「嘗胆(臥薪嘗胆)」の逸話に通じる。 その後、南北朝時代や唐代の説話にも見受けられる。『二十四孝』や『日記説話』に よれば、南斉時代に庾黔婁という役人が父親が病気になったので帰郷すると、医者に 便を嘗めてみないと状態が解らないと言われた。庾黔婁は簡単なことだと言って 舐めてみると、味が違ったので父の死を悟り、北斗七星に父の身代わりになることを 祈ったという「嘗糞憂心」の故事が残っている。『二十四孝』は、日本では御伽草子や 寺子屋の教材にも採用されている。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%98%97%E7%B3%9E . >>428 >>429 最初に書いた人にそう言ってこいよ。 それに答えてる>>415 は、お前と同じこと言ってるよ。 >>441 IDなしの板は便利だけど もっと工夫しないと バレます 高松城攻略中に雨の日は四日だったと言われている。 豪雨だったかは知らないw >>444 高松城は守備兵の数と縄張り見る限り、力攻めで落とすことは容易だったと思うけど、わざわざ水攻めをしたのは毛利方へのパフォーマンスだったのか? めちゃくちゃ金かけてるよね? >>439 “今では水量はわずかで、洪水を起こしそうな川には見えなくなった”っていうから、 今でも割かし頻繁に洪水になってますが何かの話をしたのよ。 昔の川はろくに治水されてなくて大雨のたびに氾濫、流路まで変わるなんてザラだったからな 府県市町村が予算つけて近代土木技術でっつり治水しても、 徳川時代に村方が頼むから治水工事させてくれ費用も人手も村方が負担するからお願いします と何年もかけて大坂城代や堺奉行に頼みこ込んでようやっとこ堤防の補修ができたというような 時代とあまり変わらん頻度で、越堤溢水起こしているのよな。 >>449 なんで未だに堤が残ってるの? 遊水地として機能してるのかね >>450 積極的に撤去してないとこの堤って、わりと長く残るよ 少しずつ崩れて減っていくけど、痕跡までなくなるのは容易ではない 田んぼや畑に転用とか住宅地に造成とか、そういうのをしてなかったら、けっこう長年にわたって残る >>442 バラされて悔しい悔しい孔子学院の南支那ウンコ食グロテスクブタニグロ乙(嘲笑 ウンコを食べるのも中国文化だがな 嘗糞(しょうふん、サンブン、상분)とは、人間の便を舐めて、その味によって 診断する方法。古代中国や朝鮮半島の李氏朝鮮時代まで行われたともいわれる。 儒教では、親に対して行う場合孝行の一種ととらえられ、説話が残されている。 中国 故事「嘗糞憂心」 排泄物による診断の記録は、春秋時代、越王勾践が呉王夫差の下で捕囚の身にある時、 勾践が夫差に完全に臣従したと思わせるために、病床の夫差の便を嘗めて病気がじきに 治ると言ったという逸話が『呉越春秋・勾践入臣外伝』に見られる。この逸話を 由来として「嘗糞」は「人にへつらい恥を知らないこと」としても使われ、お世辞の 度が過ぎる輩の事を「嘗糞之徒」という[1]。また、その味は苦かったとされ[2]、 苦い熊の胆を舐めこの恥辱を忘れないとの「嘗胆(臥薪嘗胆)」の逸話に通じる。 その後、南北朝時代や唐代の説話にも見受けられる。『二十四孝』や『日記説話』に よれば、南斉時代に庾黔婁という役人が父親が病気になったので帰郷すると、医者に 便を嘗めてみないと状態が解らないと言われた。庾黔婁は簡単なことだと言って 舐めてみると、味が違ったので父の死を悟り、北斗七星に父の身代わりになることを 祈ったという「嘗糞憂心」の故事が残っている。『二十四孝』は、日本では御伽草子や 寺子屋の教材にも採用されている。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%98%97%E7%B3%9E . >>450 堤は残ってないみたいね つまりもとから堤防を破ればここまで水没する地形 3キロもの堤防というのが嘘あるいは誇張か、完全に城を水没させるため必要だったのか? 堤はごく一部だけど残ってるところがあるよ 発掘もされてて俵のあととか人骨とか見つかってたはず 太宰府の水城の長城(土塁)はしっかりと残っているから基礎とか相当しっかりと作ったんだんだろなあ >>454 一部残ってる辺りだけしかそもそも作ってないような気がするわ 現在のような日本史の時代区分(縄文、弥生、古墳、飛鳥、奈良、平安・・)が成立したのは 明治時代だと思うのですが、具体的に何年とか、○○で決定されたとか、記録が残っていますか? あれば教えてほしいです 講談やマンガで盛られ過ぎている感じが有る「忍者」の身体能力って本当はどの程度の物だったの? なんか1日200km走れるとか言われているけど >>458 専門家が区分案を出して、他の専門家たちの間で徐々にコンセンサスを得て、それから世間に広がるわけで、少しずつ固まっていくものでしょ 境界の年代は今でも度々変わるし、縄文時代や弥生時代の発見は時代区分の成立よりもあとだし、総合的に見たら、「そんなものはない」とでも答えるしかないのではないかなあ >>460 講談や漫画に描かれるような忍者は実在していないので、その身体能力も必然的に架空 >>463 しかし普通の人よりも走れたり飛んだり出来なければ、スパイ行為は出来ない訳ですし >>464 走れたり飛んだりというより大工だったり土方だったり猟師だったり芸人だったりを手配する人材派遣集団だったと思うよ >>442 バラされて悔しい悔しいウンコ食い孔子学院の南支那グロテスクブタニグロ乙(嘲笑 ウンコを食べるのも中国文化だがな 嘗糞(しょうふん、サンブン、상분)とは、人間の便を舐めて、その味によって 診断する方法。古代中国や朝鮮半島の李氏朝鮮時代まで行われたともいわれる。 儒教では、親に対して行う場合孝行の一種ととらえられ、説話が残されている。 中国 故事「嘗糞憂心」 排泄物による診断の記録は、春秋時代、越王勾践が呉王夫差の下で捕囚の身にある時、 勾践が夫差に完全に臣従したと思わせるために、病床の夫差の便を嘗めて病気がじきに 治ると言ったという逸話が『呉越春秋・勾践入臣外伝』に見られる。この逸話を 由来として「嘗糞」は「人にへつらい恥を知らないこと」としても使われ、お世辞の 度が過ぎる輩の事を「嘗糞之徒」という[1]。また、その味は苦かったとされ[2]、 苦い熊の胆を舐めこの恥辱を忘れないとの「嘗胆(臥薪嘗胆)」の逸話に通じる。 その後、南北朝時代や唐代の説話にも見受けられる。『二十四孝』や『日記説話』に よれば、南斉時代に庾黔婁という役人が父親が病気になったので帰郷すると、医者に 便を嘗めてみないと状態が解らないと言われた。庾黔婁は簡単なことだと言って 舐めてみると、味が違ったので父の死を悟り、北斗七星に父の身代わりになることを 祈ったという「嘗糞憂心」の故事が残っている。『二十四孝』は、日本では御伽草子や 寺子屋の教材にも採用されている。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%98%97%E7%B3%9E . 忍者やスパイってどっちかというと諜報活動が主で工作活動はそれより少ないのに フィクションで繰り返し繰り返し工作活動ばっかりさせてバトルてんこもりにするから イメージが変な方向に偏ってるな 半蔵門と言う名前が有る位だから、特殊職業としての忍者は存在していた。また万川集海と言う忍者のテキスト的な本も有る。 つまり、諜報活動をしてた忍者が存在したのは歴史的な事実な訳だ。 勿論その際に忍び込む為の体術や逃げる為の隠遁術の為に体術や知識も必要だったし体術を身に付ける為には、忍者に必要な身体能力が必須なのも容易に想像が出来る。 >>470 普通に譜代の家臣じゃねえか 改易されてるし 何か忍者らしい働きした記録でもあるのかよ? >>469 磯田道史が忍者の子孫たちの家の古文書を読み漁った結果と イスラエルの名スパイ、ウォルフガング・ロッツの自伝 「諜報」の意味わかってない奴もおるな >>472 子孫の古文書wそれソースなの?www あと、自伝?www日本史関係ないしw 馬鹿すぎるw 枕草子に 雪がとても高く降り積もっているのに、いつもと違って御格子を下ろし申しあげて、角火鉢に火をおこして、(女房たちが)世間話などして集まってお仕えしていると、 (中宮定子様が)「少納言よ。香炉峰の雪はどうかしら。」 とおっしゃるので、御格子を上げさせて、(私は)御簾を高く上げたところ、(中宮様は)お笑いになる。 仲間の女房たちも 「そのようなことは知っており、歌などにまで歌うけれど、思いもよらなかった。(あなたは)やはり、この中宮様にお仕えする人としては、ふさわしいひとのようです。」 と言う。 という短編がありますが >雪がとても高く降り積もっているのに、いつもと違って御格子を下ろし申しあげて、角火鉢に火をおこして、(女房たちが)世間話などして集まってお仕えしていると、 いつもは雪が高く積もったら御格子(窓の格子)を開けて外の空気が入るようにしていたのでしょうか? いくら十二単を着ていたとはいえ寒くはなかったのでしょうか? あとこの時代に冬場は風呂に入って暖まるということはしていたでしょうか?それとも冬場は汗もかかないから全く風呂に入らなかったのでしょうか? >>473 いつもの「ソース」の意味がわかってないのに言いたいだけの人かw ✕子孫の古文書 ◯子孫の家に残されていた当時の文書 今回も理解できないのに絡みたいだけだろうから、反論しても通じないだろうけどとw >>475 その文書の信憑性はどうやって担保されてるんだよ? こいつ「忍者は超人的な体術を使っていた!ソースはマンガ!」とか思ってそう ペリー遠征記を読んでないのに、書いてないことを書いてあるって言ってた人かな 方違神社は、建前的に、摂津国にも河内国にも和泉国にも属してなかったので、 住所不定で、堺奉行の干渉をはねのけていたのでしょうか? >>474 平安貴族はフランス革命の頃のフランス貴族と並んで衛生観念がなく、フランス貴族同様にろくに風呂に入らなかったし、屋敷にトイレはなく、用を足した後隠部をろくに吹かず、体臭を誤魔化すために絶えずお香を炊いていた(フランス貴族は香水をふりかけていた)。 まだ古代の神話の時代の方が水浴をするヤマトタケルとイズモタケルのエピソードがあるように衛生観念というものがあった。 あと「家の造りは夏を旨とすべし」の時代だったので寒さへの耐性と対策はそれなりにあったし、日中はともかく朝から雪が積もるような日は放射冷却がないので京都のような盆地では特に冬の晴れた日の朝よりも暖かく感じただろう。 >>480 遠隔地の寺社奉行が、上位の大坂城代の管轄地域の傍について、自由に裁量を振るえたのですか? 寺社奉行を滞りなく務めて大坂城代に出世する人が多かったのに、前任者に指図できるんでしょうか? >>442 バラされて悔しい悔しいウンコ食い孔子学院の南支那グロテスクブタニグロ乙(嘲笑 ウンコを食べるのも中国文化だがな 嘗糞(しょうふん、サンブン、상분)とは、人間の便を舐めて、その味によって 診断する方法。古代中国や朝鮮半島の李氏朝鮮時代まで行われたともいわれる。 儒教では、親に対して行う場合孝行の一種ととらえられ、説話が残されている。 中国 故事「嘗糞憂心」 排泄物による診断の記録は、春秋時代、越王勾践が呉王夫差の下で捕囚の身にある時、 勾践が夫差に完全に臣従したと思わせるために、病床の夫差の便を嘗めて病気がじきに 治ると言ったという逸話が『呉越春秋・勾践入臣外伝』に見られる。この逸話を 由来として「嘗糞」は「人にへつらい恥を知らないこと」としても使われ、お世辞の 度が過ぎる輩の事を「嘗糞之徒」という[1]。また、その味は苦かったとされ[2]、 苦い熊の胆を舐めこの恥辱を忘れないとの「嘗胆(臥薪嘗胆)」の逸話に通じる。 その後、南北朝時代や唐代の説話にも見受けられる。『二十四孝』や『日記説話』に よれば、南斉時代に庾黔婁という役人が父親が病気になったので帰郷すると、医者に 便を嘗めてみないと状態が解らないと言われた。庾黔婁は簡単なことだと言って 舐めてみると、味が違ったので父の死を悟り、北斗七星に父の身代わりになることを 祈ったという「嘗糞憂心」の故事が残っている。『二十四孝』は、日本では御伽草子や 寺子屋の教材にも採用されている。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%98%97%E7%B3%9E . >>482 あれ、寺社奉行って三奉行の中で最上位じゃなかったの? >>474 >いつもは雪が高く積もったら御格子(窓の格子)を開けて外の空気が入るようにしていたのでしょうか? 香炉峰の雪の元ネタが簾を掲げてみるだったので、外側の御格子を下して内側の簾のみにした。 >いくら十二単を着ていたとはいえ寒くはなかったのでしょうか 寒いことは寒いが、室内にも衣紋掛けに着物を掛けて囲いを張り巡らしていた。 >この時代に冬場は風呂に入って暖まるということはしていたでしょうか まだこの時代は蒸し風呂が主流。湯たんぽや熱した石を使って暖をとっていた。 維新は自民党補完勢力 関西人は騙されている 本当に信頼できる野党とは日本共産党、立憲民主党、社民党、れいわ新撰組のような政党を指すのである 藤原摂関家と北条得宗家、皆さんどちらに生まれたかったですか? >>474 枕草子の原文の「雪のいと高う降りたるを、例ならず御格子参りて」の解釈にはいくつかの説があります 質問のように、寒いのに普通格子を開けておくだろうか?という疑問をもつ人は「を」を順接と捉え、「のに」でなく「ので」と解釈しています 「雪がとても高く降り積もっているので、ふだんと違って御格子を下ろし申しあげて」 質問文のように「のに」と解釈する人は、雪が降っていたら当然見たいから、雪が積もった時はいつも格子を開けているはず、という感覚の人の場合ですね もともとの白居易の漢詩は「左遷されたけど朝寝しながら山の雪を眺められる。田舎も良いところじゃないか」という趣旨で、それを定子の没落と重ね合わせて書いたエピソードですが、没落前か後かは不明 没落前なら、庭の雪景色も美しいだろうから、格子を上げて見たいだろうという発想になるし、没落後なら、格子を上げても外は貧相な景色だから、寒さを避けて格子を下げておくだろうという発想になり、解釈が変わってきます >>481 昔の人間ってどうやってウンコのあとアナルを拭いていたのか?と思うけど、拭いてないというケースもあるのか >>491 非肉食の日本人は便が緩めだったから何らかの手段で拭いていたと思うが、紙をケツ拭きに使えるのは江戸期以降だと思うからどうしてたのかね >>483 大坂城代と堺奉行の管轄地域に隣接しているから。堺奉行は大坂城代の部下だし。 >>479 そもそも江戸時代にはクニざかいは形骸化してて領地境界にしてないとこも多いんだから、関係なくないか? >>485 堺奉行と寺社奉行の上下は判らん、 堺奉行は大坂城代の下。 寺社奉行を務めあげると、出世コースで、大坂城代もしくは京都所司代、勤め上げると、そのあとは老中に。 >>491 【道元禅師「正法眼蔵」洗浄の巻より現代語訳】 (途中より) 便所の中に入って、左手で戸を閉める。次に、桶おけの水を少しばかり便器の中に移す。次に、桶を正面の桶を置く場所に置く。次に、立ったまま便器に向かって、三回、右手の指を弾はじいて鳴らすべきである。右手の指を弾いて鳴らす時、左手は握って左腰に付けておく。次に、下半身を覆う法衣の裾すそを短くして、便所の戸の方を向いて、便器にまたがり、かがんで、排泄する。便器の外を汚す事なかれ。排泄している間は黙っているべきである。壁を隔てて他人と話して笑ったり、独りで声を上げて歌ったりする事なかれ。涙や鼻水や唾つばなどで汚す事なかれ。力み過ぎる事なかれ。便所の壁に字を書いてはいけない。木のへらで地面に線を描く事なかれ。 排泄後、木のへらを使うべきである。また、紙を使う法も有るが、使用済みの紙を用いてはいけない。字が書かれた紙を用いてはいけない。未使用の木のへらと使用済みの木のへらを区別するべきである。木のへらは八寸の長さで三角に作る。太さは手の親指の大きさである。漆うるしを塗った物も有るし、塗っていない物も有る。使用済みの木のへらは、使用済みの木のへら用のごみ箱に投げ捨てておく。未使用の木のへらは、未使用の木のへらを置く台に有る。未使用の木のへらを置く台は、便器よりも最も手前の辺りに置かれている。 木のへらや紙を使った後、洗浄する法は、右手に桶おけを持って左手をよく濡ぬらした後、左手で水を掬すくう形を作って水を受けて、まず、三回、左手で小便を洗浄する。次に、左手で大便を洗う。洗浄の法の通りにして清らかに清潔にするべきである。水で左手で洗浄している間、手荒く桶おけを傾けて水を手以外にこぼして水を早く失う事なかれ。 水による洗浄が終わったら、桶おけを正面の桶を置く場所に置いて、木のへらを取って左手で拭ぬぐって乾かす。または、木のへらを紙で拭ふいて乾かすべきである。左手か紙で、二つの排泄器官をよく拭ふいて乾かすべきである。次に、右手で下半身を覆う法衣の裾すそを引いて整えて、右手で桶おけを持って、便所を出て、便所用の履物はきものを脱いで自分の履物を履はく。次に、桶おけの台に行って、桶おけを本の場所に置く。 次に、手を洗浄する。… (以下略) >>442 バラされて悔しい悔しいウンコ食い孔子学院の南支那グロテスクブタニグロ乙(嘲笑 ウンコを食べるのも中国文化だがな 嘗糞(しょうふん、サンブン、상분)とは、人間の便を舐めて、その味によって 診断する方法。古代中国や朝鮮半島の李氏朝鮮時代まで行われたともいわれる。 儒教では、親に対して行う場合孝行の一種ととらえられ、説話が残されている。 中国 故事「嘗糞憂心」 排泄物による診断の記録は、春秋時代、越王勾践が呉王夫差の下で捕囚の身にある時、 勾践が夫差に完全に臣従したと思わせるために、病床の夫差の便を嘗めて病気がじきに 治ると言ったという逸話が『呉越春秋・勾践入臣外伝』に見られる。この逸話を 由来として「嘗糞」は「人にへつらい恥を知らないこと」としても使われ、お世辞の 度が過ぎる輩の事を「嘗糞之徒」という[1]。また、その味は苦かったとされ[2]、 苦い熊の胆を舐めこの恥辱を忘れないとの「嘗胆(臥薪嘗胆)」の逸話に通じる。 その後、南北朝時代や唐代の説話にも見受けられる。『二十四孝』や『日記説話』に よれば、南斉時代に庾黔婁という役人が父親が病気になったので帰郷すると、医者に 便を嘗めてみないと状態が解らないと言われた。庾黔婁は簡単なことだと言って 舐めてみると、味が違ったので父の死を悟り、北斗七星に父の身代わりになることを 祈ったという「嘗糞憂心」の故事が残っている。『二十四孝』は、日本では御伽草子や 寺子屋の教材にも採用されている。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%98%97%E7%B3%9E . >>494 形骸化しているか??? 大名やら旗本やら知行の安堵状から寺請の人別帳から商工民の認可に書く住所からしてみんな ナニ国ナニ郡ナニ村字ナントカ だったろ。 統治したのが大名だからって、大名の名前だの藩だのが住所に使われたことやら、明治になるまでなかった。 例外的に、京、大坂、江戸の市街地部分は、郡を省いている。国までは省かないから、江戸なんてスプロール化したところまで 下総国から剥ぎ取って武蔵国に入れなおしたりしてたろ。 堺のようなそこそこ発展していて、且つ、二国にまたがっている場合にも、 摂津国住吉郡堺北荘鉄砲町一丁 とか 和泉国鳳郡堺南之荘甲斐町 とか、住所振ってたし、総社も、堺北荘は住吉大社、南之荘は大鳥大社だった。 >>500 寺院は使い捨ての木のヘラか 結構な量になりそうやけど、後で燃料にするのかもしれんな 他はどうなんやろ 農家 商家 武家・・・ >>459 >>462 ありがとうございました 時代区分の境界だとか、細かい解釈などは現在でも揉めてる部分はあるでしょうが、 おおよその時代区分のベースが決まったのは明治時代で合ってますよね? >>458 爪痕を残すと意気込んでいて、それが派閥政治に勝ち残ると。 昔からそう伝わっているものに、いや違うといい、 「偉い先生の言うことだから……」と従ってしまう。 例を挙げると 豊臣秀吉の正妻の名が。昔から伝わっているのが「ねヽ」、新たな爪痕系が「おね」 鎌倉時代の始まりが、昔から伝わっているのが承久三年(1192年)、新たな爪痕系が1185年 近頃では、「聖徳太子とされる摂政皇子は存在しなかった」みたいな大胆なのもあるでよ。 >近頃では、「聖徳太子とされる摂政皇子は存在しなかった」みたいな大胆なのもあるでよ。 麦茶噴いたw オジイチャン。3・40年も前から言われている事は、近頃じゃないでしょ 近頃はボケが進んでいく一方なんだから まあ、日本書紀は、聖徳太子が死んでから100年くらい後に書かれているから、話をモリモリに盛ってるやろ。 厩戸王子は、蘇我氏の言いなりやったんやろな。 つか、蘇我氏の方が大王 オオキミ で中大兄皇子が、○して乗っ取りしたんじゃないのかね。 根本的な問題は 聖徳太子がいないという理屈は ナザレのイエスはいても イエス・キリストはいないということになっちゃうんだけど それは誰も言わないんだよね >>510 根本的にその2つがどう同じなのかわからんわ >>510 じゃあ、天皇はゴムマスク人間になってるって事になるけど、良いの? 縄文式土器は土器の特徴を集約したようなネーミングで素晴らしいと思いますが、弥生式土器は縄文式土器ではないタイプの土器が出土した地名から名付けられました ネーミングとしては安易に過ぎると思っています 縄文式土器に比してシンプルな特徴などを集約したネーミングにするべきだったと思います 地名から名付けようとしたのは歴史学会などの総意なのでしょうか?誰か権威のある学者の発案とかですか? >>514 弥生式土器に特に特徴ないから 縄文式土器から土師器の間の土器は最初に発見されたとされる地名にちなんでそう呼ばれてるだけ >>442 バラされて悔しい悔しいウンコ食い孔子学院の南支那グロテスクブタニグロ乙(嘲笑 ウンコを食べるのも中国文化だがな 嘗糞(しょうふん、サンブン、상분)とは、人間の便を舐めて、その味によって 診断する方法。古代中国や朝鮮半島の李氏朝鮮時代まで行われたともいわれる。 儒教では、親に対して行う場合孝行の一種ととらえられ、説話が残されている。 中国 故事「嘗糞憂心」 排泄物による診断の記録は、春秋時代、越王勾践が呉王夫差の下で捕囚の身にある時、 勾践が夫差に完全に臣従したと思わせるために、病床の夫差の便を嘗めて病気がじきに 治ると言ったという逸話が『呉越春秋・勾践入臣外伝』に見られる。この逸話を 由来として「嘗糞」は「人にへつらい恥を知らないこと」としても使われ、お世辞の 度が過ぎる輩の事を「嘗糞之徒」という[1]。また、その味は苦かったとされ[2]、 苦い熊の胆を舐めこの恥辱を忘れないとの「嘗胆(臥薪嘗胆)」の逸話に通じる。 その後、南北朝時代や唐代の説話にも見受けられる。『二十四孝』や『日記説話』に よれば、南斉時代に庾黔婁という役人が父親が病気になったので帰郷すると、医者に 便を嘗めてみないと状態が解らないと言われた。庾黔婁は簡単なことだと言って 舐めてみると、味が違ったので父の死を悟り、北斗七星に父の身代わりになることを 祈ったという「嘗糞憂心」の故事が残っている。『二十四孝』は、日本では御伽草子や 寺子屋の教材にも採用されている。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%98%97%E7%B3%9E . 今は縄文土器だから縄文時代、弥生土器たから弥生時代ではなく 縄文時代だから縄文土器、弥生時代だから弥生土器に変わってる 縄文時代と弥生時代の違いは完成された水田稲作農耕の存否 文様が縄文によるものではない縄文土器、 縄文がついた弥生土器、土師器とか見つかってるしな >>517 全く間違ってる >>518 縄文土器はもともと縄文のみで判断されてないし >>514 当時考古学の研究してた東大の人らにとっては、こんなに近所で見つかるなんて!がいちばん衝撃だったんだから仕方ない >>521 文様が縄文によるものではない縄文土器じゃん >>518 のいうとおりでは? >>514 への様々なレス、ありがとうございました 個人的に、出土品の地名でネーミングするのは安易に過ぎると言いたかったのです >>514 紋様なしの縄文式土器みたいなのもたくさんあるんだけど? >>523 いや、ユウス式とかイタツキ式とか地名で呼ばれてるのばかりだと思うけど >>522 見つかってるってより普通にあるよってこと >>442 バラされて悔しい悔しいウンコ食い孔子学院の南支那グロテスクブタニグロ乙(嘲笑 ウンコを食べるのも中国文化だがな 嘗糞(しょうふん、サンブン、상분)とは、人間の便を舐めて、その味によって 診断する方法。古代中国や朝鮮半島の李氏朝鮮時代まで行われたともいわれる。 儒教では、親に対して行う場合孝行の一種ととらえられ、説話が残されている。 中国 故事「嘗糞憂心」 排泄物による診断の記録は、春秋時代、越王勾践が呉王夫差の下で捕囚の身にある時、 勾践が夫差に完全に臣従したと思わせるために、病床の夫差の便を嘗めて病気がじきに 治ると言ったという逸話が『呉越春秋・勾践入臣外伝』に見られる。この逸話を 由来として「嘗糞」は「人にへつらい恥を知らないこと」としても使われ、お世辞の 度が過ぎる輩の事を「嘗糞之徒」という[1]。また、その味は苦かったとされ[2]、 苦い熊の胆を舐めこの恥辱を忘れないとの「嘗胆(臥薪嘗胆)」の逸話に通じる。 その後、南北朝時代や唐代の説話にも見受けられる。『二十四孝』や『日記説話』に よれば、南斉時代に庾黔婁という役人が父親が病気になったので帰郷すると、医者に 便を嘗めてみないと状態が解らないと言われた。庾黔婁は簡単なことだと言って 舐めてみると、味が違ったので父の死を悟り、北斗七星に父の身代わりになることを 祈ったという「嘗糞憂心」の故事が残っている。『二十四孝』は、日本では御伽草子や 寺子屋の教材にも採用されている。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%98%97%E7%B3%9E . モースが発掘報告にCord marked Potteryってあるのは単に、北アメリカの遺跡から出てくる縄目模様の土器を示す用語を使っただけ おかげで古代日本人はアメリカ大陸に到達してたとか、トンデモ言い出すヤツが出てきたから、日本の地名の方が紛らわしくなくて良い >>529 そそ、おかげでバカが縄文にこだわり過ぎな 貝塚土器ぐらいにしといたほうがむしろ誤解少ないか? https://dec.2chan.net/up2/src/fu3629745.jpeg この時代の藤原の娘は本名が明らかになっています。 また桓武天皇時代の藤原薬子などもそうです。 では、光明子の本名が不明はのは何故なのでしょか? 同じ藤原の姫ですが。 >>1 頭のおかしい人や明らかに工作員が維持してるスレばかりなのでうんざりしています。 IDが出る掲示板で比較的まともな歴史愛好家とのんびり議論できる場所ってありますかね? >>532 >諱は安宿媛(あすかべひめ)[8]。そのほかに藤三娘(とうさんじょう)[注釈 3]などの署名が現存するほか[1]、法名は沙弥万福と伝わる[10]。 本名って安宿媛っていうんじゃないの? 上古の大臣と大連の職分の違いを教えて。 大化の改新で大連だけ廃止になった理由も教えて。 まともな議論をのんびりやってるスレでも、工作員とか言い出すヤツが来ると荒れるしな そもそも、現在からしたら、理解できない概念とか有るだろうし、占いとか夢で決めたとか有りそうで怖い >>442 バラされて悔しい悔しいウンコ食い孔子学院の南支那グロテスクブタニグロ乙(嘲笑 ウンコを食べるのも中国文化だがな 嘗糞(しょうふん、サンブン、상분)とは、人間の便を舐めて、その味によって 診断する方法。古代中国や朝鮮半島の李氏朝鮮時代まで行われたともいわれる。 儒教では、親に対して行う場合孝行の一種ととらえられ、説話が残されている。 中国 故事「嘗糞憂心」 排泄物による診断の記録は、春秋時代、越王勾践が呉王夫差の下で捕囚の身にある時、 勾践が夫差に完全に臣従したと思わせるために、病床の夫差の便を嘗めて病気がじきに 治ると言ったという逸話が『呉越春秋・勾践入臣外伝』に見られる。この逸話を 由来として「嘗糞」は「人にへつらい恥を知らないこと」としても使われ、お世辞の 度が過ぎる輩の事を「嘗糞之徒」という[1]。また、その味は苦かったとされ[2]、 苦い熊の胆を舐めこの恥辱を忘れないとの「嘗胆(臥薪嘗胆)」の逸話に通じる。 その後、南北朝時代や唐代の説話にも見受けられる。『二十四孝』や『日記説話』に よれば、南斉時代に庾黔婁という役人が父親が病気になったので帰郷すると、医者に 便を嘗めてみないと状態が解らないと言われた。庾黔婁は簡単なことだと言って 舐めてみると、味が違ったので父の死を悟り、北斗七星に父の身代わりになることを 祈ったという「嘗糞憂心」の故事が残っている。『二十四孝』は、日本では御伽草子や 寺子屋の教材にも採用されている。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%98%97%E7%B3%9E . >>538 工作員とまでは行かないが、 歴史をゲームかマンガか小説か何かと勘違いして特定の対象への狂的な思い入れで凝り固まった御仁の多いこと多いこと…。 その対象に纏わる三文講釈紛いの粉飾を信じ切っていて、 実証の視座からそれを批判・否定したりしようものなら論者の人格否定に至るような誹謗中傷を浴びせ掛けられる。 そんな手合いに差し込まれたスレは荒廃して全く機能しなくなる。 しかも幾つものスレを跨いで粘着してくるから始末が悪い。 >>534 遅くなりましたがありがとうございます。 諱って本名でしたか、勝手に明智十兵衛光秀の十兵衛みたいなのが諱だと勘違いしていました(恥 西郷隆盛の吉之助とかも >>543 明智(苗字) 十兵衛(仮名ケミョウ) 光秀(実名ジツミョウ=諱) なお、「姓セイ」は源平藤橘とか物部とか忌部とか、本姓のこと。 明智なら源(清和源氏頼光流土岐氏流)。 これを「カバネ」と読むとまた意味が違ってしまう。 工作員がーの人は、要するに誰かの悪口を言いたいのに、みんな感心して聞いてくれないのが不満なのか 最初に批判・否定ありきって実証的とは真逆のアプローチじゃん そりゃ荒れるわ 江戸末期鎖国中でも清とは貿易していたはずですが、アヘン等麻薬は日本に流入しなかったのですか? 江戸幕府もアヘン戦争の情報を詳しく解析していて 列強との交渉で重点項目として注意していたらしいよ。 >>549 戦争に至る以前で流入する期間はかなりあったはず >>550 なんで清からアヘンを輸入すんのよ? 清が転売してくるって意味? あと日本でもアヘンは古くから取り扱ってたから、 必要量は自国で賄ってたし、 吸いすぎるとヤバいってのも知ってたのでは? >>548 日本に来てた清の商人たちは、林則徐と同じ福建省出身で、林と同じくアンチアヘン アヘン貿易がいかにやばいか、イギリスの侵略に備えよと、書籍や口コミで盛んに日本に伝えたのはこの人たち なので北京より日本の方がアヘン戦争に危機感を持ったとまで言える あと、鎖国中の会所貿易は、外国商人⇔幕府の会所⇔日本人商人って流れで、貿易する品目は幕府の役人が一方的に決められる仕組みなので、アヘンの国内流入を止めることができる 抜け道として外国商人→遊女など、プライベートの贈り物で入るルートもあるんだけど、こっちは長崎の町役人が唐人屋敷に詰めて監視していた これも町役人が密貿易に関与してたらアウトなんだけど、この人たちも基本的にアンチアヘン 西郷札 薩摩軍の紙幣は戦況悪化とともに信用が低下した[2]。そのため宮崎地方などでは脅迫によって通用させた例もみられた[2]。 西南戦争後は明治政府により使用は厳禁とされた[3]。市中に出回った西郷札に対する補償は行われなかったため、特に西南戦争で戦場となった地域では経済が大混乱に陥った[5]。なお「承恵社札」は翌1878年(明治11年)6月に発行元の両社と貸主との示談が成立して償還された[3]。 https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E9%83%B7%E6%9C%AD 宮崎県の人は暴力的に西郷札を押し付けられて何かを略奪され、西南戦争後に政府から補填はしてもらえなかったみたいですが、薩摩軍に略奪されたのは食料の他に何がありますでしょうか? >>553 上杉の藩札は庶民がありがたがって償還を求めなかった為に上杉公はクソ儲かってかなりの額を明治新政府に寄付したらしい >>442 バラされて悔しい悔しいウンコ食い孔子学院の南支那グロテスクブタニグロ乙(嘲笑 ウンコを食べるのも中国文化だがな 嘗糞(しょうふん、サンブン、상분)とは、人間の便を舐めて、その味によって 診断する方法。古代中国や朝鮮半島の李氏朝鮮時代まで行われたともいわれる。 儒教では、親に対して行う場合孝行の一種ととらえられ、説話が残されている。 中国 故事「嘗糞憂心」 排泄物による診断の記録は、春秋時代、越王勾践が呉王夫差の下で捕囚の身にある時、 勾践が夫差に完全に臣従したと思わせるために、病床の夫差の便を嘗めて病気がじきに 治ると言ったという逸話が『呉越春秋・勾践入臣外伝』に見られる。この逸話を 由来として「嘗糞」は「人にへつらい恥を知らないこと」としても使われ、お世辞の 度が過ぎる輩の事を「嘗糞之徒」という[1]。また、その味は苦かったとされ[2]、 苦い熊の胆を舐めこの恥辱を忘れないとの「嘗胆(臥薪嘗胆)」の逸話に通じる。 その後、南北朝時代や唐代の説話にも見受けられる。『二十四孝』や『日記説話』に よれば、南斉時代に庾黔婁という役人が父親が病気になったので帰郷すると、医者に 便を嘗めてみないと状態が解らないと言われた。庾黔婁は簡単なことだと言って 舐めてみると、味が違ったので父の死を悟り、北斗七星に父の身代わりになることを 祈ったという「嘗糞憂心」の故事が残っている。『二十四孝』は、日本では御伽草子や 寺子屋の教材にも採用されている。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%98%97%E7%B3%9E . >>554 その上杉藩の儲けは藩札を新円や兌換の金や銀て償還しなかったからですが、もう少しその儲けに突っ込んでみると、藩札を発行して年貢以外として領民から買上げた米や麻(青苧)、漆塗りの漆器などを売って儲かったお金ですか? その儲けで得たお金の一部を新政府に寄付した、と? >>560 意味不明だわ 藩札に対する準備として備蓄してあった金銀がかなり残ったって事だろ なんか観光史学っぽい口調のおばちゃんが来てると思ったら案の定 >>560 藩札発行して何に使ったか知らんが、その藩札を換金しなかった割合がかなりあったってこと 手形や小切手ばらまいたのに現金化されなかったってこと しかし、鷹山隠居後も藩政改革に取り組む名君が続いたため、治憲・治広の代には借財を返済して5千両の囲い金(備蓄)を有するに至る。 斉憲の代には、庄内藩の「三方領知替え」の際、本間光暉に移転費用や転封阻止の費用七万三千両を提供しており[78]、財政に余裕が出てきている。 最後の藩主茂憲は、戊辰戦後に3万両を新政府に献上して三条実美らによる改易論を封じ込め、また、奥羽越列藩同盟参加の責任を戦死した家老色部久長に転嫁することによって藩存続の危機を乗り切った。 廃藩置県の際は、旧藩士らに囲金や備金などから17万両余を分与した。明治4年5月には、禄券法(家禄を売買可能な禄券に換えて、私有財産化して処分出来るものとした方法)の伺いを政府に提出した[79]。 不作に対する備えとして藩札を発行して金銀を蓄えるってのが有効だったんだろうな で、幕末の混乱を経たりして行方不明の藩札で丸儲けと プリペイドカードや回数券ビジネスみたいなもんだな >>442 バラされて悔しい悔しいウンコ食い孔子学院の南支那グロテスクブタニグロ乙(嘲笑 ウンコを食べるのも中国文化だがな 嘗糞(しょうふん、サンブン、상분)とは、人間の便を舐めて、その味によって 診断する方法。古代中国や朝鮮半島の李氏朝鮮時代まで行われたともいわれる。 儒教では、親に対して行う場合孝行の一種ととらえられ、説話が残されている。 中国 故事「嘗糞憂心」 排泄物による診断の記録は、春秋時代、越王勾践が呉王夫差の下で捕囚の身にある時、 勾践が夫差に完全に臣従したと思わせるために、病床の夫差の便を嘗めて病気がじきに 治ると言ったという逸話が『呉越春秋・勾践入臣外伝』に見られる。この逸話を 由来として「嘗糞」は「人にへつらい恥を知らないこと」としても使われ、お世辞の 度が過ぎる輩の事を「嘗糞之徒」という[1]。また、その味は苦かったとされ[2]、 苦い熊の胆を舐めこの恥辱を忘れないとの「嘗胆(臥薪嘗胆)」の逸話に通じる。 その後、南北朝時代や唐代の説話にも見受けられる。『二十四孝』や『日記説話』に よれば、南斉時代に庾黔婁という役人が父親が病気になったので帰郷すると、医者に 便を嘗めてみないと状態が解らないと言われた。庾黔婁は簡単なことだと言って 舐めてみると、味が違ったので父の死を悟り、北斗七星に父の身代わりになることを 祈ったという「嘗糞憂心」の故事が残っている。『二十四孝』は、日本では御伽草子や 寺子屋の教材にも採用されている。 http://ja.wikipedia....i/%E5%98%97%E7%B3%9E . 宇喜多秀家 流刑先八丈島で妻の資産使い愛人たちと悠々自適 https://www.news-postseven.com/archives/20170802_600709.html?DETAIL 宇喜多秀家でなくとも常春の島で生活しやすい八丈島への島流しは不名誉以外では苦になることはないのでは? 極寒かつ強制労働かつ食料配給極小のシベリア抑留とは違って 藩札踏み倒しと同じ事は戦後の日本人もやっている その代表的なものが旧日本軍の発行した軍票である ネトウヨは従軍慰安婦の人たちが高級であったというが、強制徴用され可哀想な彼ひとたちが受け取っていたのは軍票であった 藩札にしても軍票にぢても最後に無価値になるものを弱者に押し付けて強者が逃げ切るのは社会的詐欺行為である ネトウヨは現実を知るべきである >>572 反発踏み倒しの話なんか誰が得してるの? アホなのかな? >>573 >>574 あーボロくそだ 正しくは藩札踏み倒しの話なんて誰がしてるの? でした >>572 手形取引してて急に倒産したら未換金の手形は紙切れになる 藩札も軍票も、それと同じことだ 倒産する前に換金された分はキチンと支払われている >>576 逆の話だよ換金に来た人が少なかったから丸儲けだったって話 頭悪い方なのかな? >>577 それは例外のとこの話やろ、上杉の件については話してないつもりやけど >>578 じや、上杉の話の流れなのに割り込んでくるなよ 上杉札が換金されなかったのは新政府札より信用があったから >>572 日本国民の血税によって、外国人から豚小屋の方が清潔と言わせしめた劣悪な住環境から抜け出し 豚に真珠の言葉通りの分不相応な社会から脱却できたのに、その現実から目を逸らし、搾取されたと被害者を装い 従軍慰安婦という存在しない虚構まででっちあげた国があってな、その国は、若者の国籍放棄者が続出し、日本より高い自殺率と、日本より低い出世率で、 百年後には消滅していることが約束されているんだぜw 一方、独立したインドは、英が投下した社会資本を耳を揃えて返金し、インド人としてのアイデンティティを守った この差が世界からの評価の差なんだよなぁ(クスクス あぁそのみっともない国は、北の分は我々が責任を負うからと、日本に南北合算した多額の出費を強要し、強要した事実を国民に知らせず、あたかも独力で発展を遂げたと 国民を騙したあげくに、仮に南北が統一したら、北の分の補償を寄越せと今から準備している恥ずべき国なんだよな 俺はそんな国に生まれなかった幸運を日々感謝しているよ >>442 バラされて悔しい悔しいウンコ食い孔子学院の南支那グロテスクブタニグロ乙(嘲笑 ウンコを食べるのも中国文化だがな 嘗糞(しょうふん、サンブン、상분)とは、人間の便を舐めて、その味によって 診断する方法。古代中国や朝鮮半島の李氏朝鮮時代まで行われたともいわれる。 儒教では、親に対して行う場合孝行の一種ととらえられ、説話が残されている。 中国 故事「嘗糞憂心」 排泄物による診断の記録は、春秋時代、越王勾践が呉王夫差の下で捕囚の身にある時、 勾践が夫差に完全に臣従したと思わせるために、病床の夫差の便を嘗めて病気がじきに 治ると言ったという逸話が『呉越春秋・勾践入臣外伝』に見られる。この逸話を 由来として「嘗糞」は「人にへつらい恥を知らないこと」としても使われ、お世辞の 度が過ぎる輩の事を「嘗糞之徒」という[1]。また、その味は苦かったとされ[2]、 苦い熊の胆を舐めこの恥辱を忘れないとの「嘗胆(臥薪嘗胆)」の逸話に通じる。 その後、南北朝時代や唐代の説話にも見受けられる。『二十四孝』や『日記説話』に よれば、南斉時代に庾黔婁という役人が父親が病気になったので帰郷すると、医者に 便を嘗めてみないと状態が解らないと言われた。庾黔婁は簡単なことだと言って 舐めてみると、味が違ったので父の死を悟り、北斗七星に父の身代わりになることを 祈ったという「嘗糞憂心」の故事が残っている。『二十四孝』は、日本では御伽草子や 寺子屋の教材にも採用されている。 http://ja.wikipedia....i/%E5%98%97%E7%B3%9E . >>584 「米兵が天使に、日本兵が悪魔に思えた」 島が変形するほどの砲弾をうちこまれて虐殺レイプされといてこれだからな。 そういう勢力が存在していることがわかる。 >>581 そりゃまあ、明治初期の政府紙幣 である太政官札が出た頃は、まだ、日本列島の半分ぐらいしか制圧してなかった頃やろ、しかも新興。信用されないことがあってもおかしくはない 発行額も政府年収の何倍とか高額だしな それをどうにかするのが新政府の課題だったが、どうにかしたわけだ。踏み倒されることなく。 そこで破綻してたら明治維新は失敗してたんだよな 土方歳三の資料館と佐藤彦五郎の資料館がもめてるけど、利権の問題? マジな質問 ・おとなしい ・内気 ・気弱 ・引きこもり ・・・のタイプが、 上~中級武家・地頭・荘官・守護・領主・平安貴族の家に生まれてたらどうなった? read.cgi ver 07.5.5 2024/06/08 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる