【初心者】スレッド立てる前に質問をPart54【歓迎】
<お願い> ・常時age進行でお願いします。 ・回答に時間がかかることもあります。ご了承ください。 ・既に専門スレがあったり、板違いの質問があったりする場合は、速やかに誘導してください。 ・過度な論争は自粛してください。 ・質問が続くようでしたら,「名前」欄に「最初の質問のレス番号数字」を入れることをお奨めします。 ・このスレでは過度な論争は自粛してください。政治的な主張の場ではありません。 ・煽り質問もままあります。スルーしてください。 ※前スレ 【初心者】スレッド立てる前に質問をPart53【歓迎】 https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1714101349/ 攘夷とは未開の人(夷)を追い払う(攘)と言う意味のようですが、幕末の日本よりもイギリスやアメリカやフランスの方が文明は進んでましたが、日本人はそれらの国が未開だと勘違いしていましたか? >>221 単に外人という意味しかないよ 攘夷という言葉自体古代中国から用語を持ってきただけだからな >>221 何が「開」で何が「未開」か。 近代西欧啓蒙思想の洗脳から解放されたなら、 それを決めることがそもそも妄想だと理解出来るようになる。 >>224 理解できないのならば沈黙すべし。 ヴィトゲンシュタインの最終結論は、西欧猿にしては上出来だ。 >>221 攘夷って言葉はもともと中国起源 水戸が攘夷を唱えるきっかけになった大津浜事件で、上陸してきたスコットランド人捕鯨船員は、記録を見る限りわりと野蛮 タバコを食っては吐き出す 生の大根やネギが好きで、丸ごとかじり付いて食う 飯をひとつの大鉢に入れて出してやると取り分けず、それぞれ尻ポケットから取り出したスプーンを洗わないまま大鉢に突っ込んで食う トイレに行っても手を洗わないし、出入りするのに靴を履いたまま ものすごく臭い 彼らは本国のイギリスでも虫けら扱いされてりするし、途中オーストラリアの流刑地で欠員補充するので犯罪者も混じってる >>227 ネギも大根も壊血病対策だよね 仕方がないのに 本国でも野蛮扱いされてるのに、必死に美化しようとするから笑う 5ちゃん民は年齢層が高くて、昭和に教育を受けたまま感覚が止まっている人が多い 当時は、第二次大戦中の外国文化排斥を批判したい人たちが、幕末の攘夷をそれと同じもののように語ったので、いまだにこの2つを混同しがち 欧米のほうが文明がはるかに進んでたとかの言説も、昭和のフィクションではよく出てきたが、実際はロンドンとかの大都会はともかく、アメリカ西部とかイギリスの辺境とかはそこまで進んではいなかった また、幕末の人々は幕府関係者も含めほとんどが攘夷派だったが、外国と交易することに否定的だった人はほとんどいない 江戸時代の交易は中国の朝貢貿易を真似た方式で、外国が日本の徳を慕って貢物を持ってくるのに返礼する形 彼らはそれしか知らなかったので、押し売りみたいに無理やり条約を結ぶとは何事だ、一旦白紙にして日本のメンツの立つ形で条約を結び直せという意見が多数派 >江戸時代の交易は中国の朝貢貿易を真似た方式で、外国が日本の徳を慕って貢物を持ってくるのに返礼する形 >彼らはそれしか知らなかったので 中国についてだったら昭和の作家がそんなことを書いていたが こんな話にソースあるのか? 岩波が終戦後に出版した『ペルリ提督 日本遠征記』には全く違うことが書いてあるが… >>232 にこんな嘘を吹き込んだ昭和の教育を受けた人って232の父親? 親子揃って妄想と現実を区別できないんだねw 会所貿易と自由貿易の差の話なんてペリーの遠征記に出てくるわけないw 何と勘違いしたんだろ 幕末の認識が間違っているから当時の状況を記した書籍をわざわざ紹介しても だろうはずだで確認すらせず全否定 自分の話はソースも示さず全肯定しろと押し付ける こりゃマジモンのアレだねw会話が成立しないや… いや、会所貿易が何かわかってないだろう 関係ない話でも、とりあえずペリー出せばいいと思ってるから困る 俺は君が完全に間違っていることを記した書籍を提示した 君は君の言ってることが妄想の産物でないことを第三者に分かるソースを出せばいい O.K.? じゃあとりあえず攘夷の幕末史くらいは読んでね あと、井伊直弼が孝明天皇に、日米修好通商条約をいずれ破棄すると約束した叡慮氷解のあたりとか 吉田松陰とか会沢正志斎とか、当時の攘夷の論客が条約を破棄して結び直せと論じたあたりとかもチェックしてね 長崎の出島と横浜関内ではどう貿易方式が違ったかなんてのは、ペリーと全然関係ないです 書籍名や人物名を出してソースじゃないって 笑えるw でも、幕末の攘夷について全然詳しくないのはわかったw あぁ、「ソース」が通じない系か…そのレベルから間違ってることを教えてあげなきゃだめなのね… 知ってる言葉を並べてはったりかませば君と同レベルの相手には通用したのだろうが たった一人のバカな子供の妄想を否定するのに長文書く気はないので >ペリーと全然関係ない これ↓復刻版の目次。半角スペースを消してくれ。もし君に何かを学ぶ気が一かけらでもあるのなら図書館に行って自分で調べようね /d e c.2chan.n e t/u p 2/s r c/fu3509342.j p g 江戸時代の江戸って武蔵国の一部って認識だったの? それとも今の23区みたいに江戸市中って別枠で扱われたの >>242 徳川家康入部の頃の江戸は既に殷賑の巷だったが前者、寛永以降市街拡大整備が進んでからは後者に近い。 ハッキリ「いつまで/いつから」という線は引き難いが。 >>242 当時の行政が国単位では行われていないから、あんまり関係ない気がする 江戸の町は町奉行の管轄下で、それ以外は農村と同じ感じで統治されているが 律令時代の京都の例だと、美也子である平安京は国司の管轄外で京職(右京職と左京職)が統治を担当したし、室町時代の武家官職でも京との町中は山白の守護の管轄ではないのと同じような扱いだろ 夷が未開人という差別用語なら蝦夷と呼ばれたアイヌ人も差別されていたことになる ちなみに太平洋戦争のころ沖縄の人は琉球人と呼ばれて差別されていたようだ >県立八重山高等女学校と県立八重山農学校の女生徒は、卒業と同時に看護要員として軍に動員された。4月看護婦教習が始まり、人骨がゴロゴロころがる墓の中での速成教育が5月いっぱい続けられた。6月になると、於茂登岳中腹の陸軍病院、開南の野戦病院へと配属された。初めのうちは患者がいないため、医薬品の運搬や防空壕堀などの重労働が続いていたが、終戦直前になると多くの傷病兵が送られてきて、昼夜を問わず看護婦として働き続けた。女学生たちは、兵隊たちに「琉球人、琉球人」と小馬鹿にされながら重労働に耐え、看護婦として休むことも許されず、傷病兵の看護に明け暮れ、死人を目の当たりにする日々を送っていた。 ttps://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/okinawa_13.html >>246 沖縄は向こうもこっちをヤマトンチュって差別するんだから仕方ないよな しかも未だに! アイヌ人だって日本人のことをシャモと言って軽蔑しているぞ 差別ってよりも敵同士の歴史があるから致し方ないわな >>247 ヤマトンチュて、大和の衆って語句が沖縄式の発音で読まれてるだけやん、本来的には差別的意味を含んでないやろ(現実に含むかどうかは別として) 1部の人にとっては、半島の人をチョーセンジン!! て呼ぶときに差別的な意味を込めることがあるらしいし、ひょっとしたら差別的な意味を込めてる可能性もゼロではないがな ウチナンチュは沖縄の衆 って語句を沖縄式の発音で読んでるだけやしな >>250 琉球人も琉球の人って日本式の発音で読まれてるだけやんw 何が違うの?www >>250 自分等は日本人じゃないと認識しながら、都合の良いときは差別差別言って、在日の方と似てますね >>252 いや、おれは差別的な意味の可能性は低い派なんやけど それに沖縄には修学旅行で行ったことがあるだけで、先祖に沖縄出身者はおらんで >>253 じゃ、朝鮮人の話し出すなやw まあ、おれは表面上は差別なんかしないが心のなかではだいっきらいだけどな これは個人の自由だしw でも、差別的な意味を含まないはずの語句を差別的に使う奇人も実在するから分からんけど、普通はそんな使い方をしないやん >ちなみに太平洋戦争のころ沖縄の人は琉球人と呼ばれて差別されていたようだ まぁこういう場で「差別」「差別」と言ってる奴って、東京vs大阪の地域対立を一人二役で煽る輩と同種なんだろうけど 琉球の奄美統治に反省の言葉や償いもなく、自分達だけが一方的な被害者であるかのように糊塗するのは某民族のようで気持ち悪い。 それに、灰谷健次郎は高度成長期の内地で沖縄差別があるかのような事を書いている。 それが個人的な知見なのか京阪神では沖縄差別が日常だったのかは知らんけど。 いずれにせよ>>246 のような「差別」「差別」と言い続けるだけのルサンチマンの存在は、アイヌと関係のない日本語の上手な外国人達に目出度く アイヌ利権を贈呈できたわけで、こんな過疎板にもお目こぼしない日々の弛まぬ努力の結実といえるのだろう。 藤原道長の時代には惹かれあってる男女の口吸いは当たり前になっていましたか? ネトウヨのアイヌ差別発言のは明らかに裏で糸を引いている集団がいる 金太郎飴のように同じ文言が無差別的にネット投稿されているのである これは無関係前提だが、彼らの主張はモラロジー研究所のような団体と異常な共通点がある 読者は本件をいかに考えるか 邪馬台国九州説やクルド民族排斥運動やアイヌ民族否定論や在日韓人差別発言には自民党支持の何らかの団体が尾を引いているのが薄らと見えてくると思う >>260 差別される様な事をして、加害者から被害者ジョブチェンジですか 世界はノアの方舟でリセットされ、心が清らかなアブラハムの一族の子孫から再出発しましたが、何故また争いが絶えない世の中が復活してしまったのでしょうか? ひょっとして全知全能の神様でもリセット失敗しましたか? >>263 > 全知全能の神様 --と云う一神教の「カミ」観が虚妄であることの証明だ。 >全知全能の神様でもリセット失敗しましたか? 仮に全知全能の神がリセットとやらを行ってるのだとしても 地球が誕生し生命が育まれた過去数十億年の間に 全地表の生物の九割以上の絶滅を何度も繰り返しているのだから その神とやらは全知全能と呼ぶには遠く及ばないとは言える 若しくは、生命の進化は全知全能をもってしても制御不能であるのかもしれない >>263 能力的には全知全能でも精神が未熟だったから、じゃないかなあ 被造物たる人間が神の力を越えられなかったから、精神の未熟な神の精神性を引き継いでて、それで争いが多発する その後、神の精神は成長したが、人類の精神性は大きな進歩がなかったので、今も争いが絶えない 旧約聖書の時代には神の精神的未熟さのゆえに、衝動的な振る舞いやら、早とちり・勘違いからの行動など、幾度となく失策を繰り返しているのが分かるので、その頃にはまだ、間違いなく未熟 大分時間が空いてしまいましたが >>128 で質問させていただいた者です。 >>140 ご親切に回答下さりありがとうございました。 これからハルマゲドンという争いを起こすとする預言はどうするか 力の差が圧倒的だから争いとは言わないとするのは無理だろう 別の方法に変えてくるのだろうか >>260 ハイ、スレチ 他所行ってやってね >>268 オカルト板でどうぞ always3丁目の夕日という映画が流行りましたよね 私は一度も見ませんでしたが今、太平洋戦争に興味を持ち、ふと思いました あの映画の舞台となった昭和30年代は戦後成長期で あの頃を生きた人があの頃は良かったなぁという思いで懐かしみ、流行ったのでしょうか? 映画公開時にS30sを懐かしむ層が何歳でボリューム層だったかは分かりませんが… >>270 むしろ、もっと若いオート三輪とかも見たことのない人達の間で流行りました 懐かしいというより、こんな時代を乗り越えてきたんだと >>271 上映当時高校生でしたので完全スルーしてました ドラマには興味がないのですが歴史的観点から、見る価値はありますか? 懐かしむのはリアルを知らない世代ですか? 生き抜いてきた方からすれば、実際は公害もあった衛生環境も悪かった、 映画は美化しすぎだ、現実から程遠いと思われたんでしょうか? 例えば今後朝ドラに志村、大河に安倍が出たとして私たちは作られたドラマに違和感があると思うのです >>272 ドキュメンタリーではなくて人情ドラマです リアリティを求めるのではなく時代劇や芝居を観る感覚で >>273 古き良き時代に憧れるような作り、未来への希望に満ち溢れた演出、ということですね 史実と違うぞ!というツッコミをあまり見聞きしなかったから概ね史実なのかと思ったけど 娯楽映画として皆理解していた、ということなんですね~ 飛鳥時代の朝廷の高官たちは中国やインドなどが日本よりももっと歴史がある大国だと 認識していたと思いますが、日本の歴史についてどれくらいの認識だったのでしょうか? 朝廷の機構がある程度出来上がってきたのは飛鳥時代の高官の数代前くらいだと思うのですが、 そういう認識(日本はまだ歴史が浅い新興国だ、国家の黎明期だ)は持っていたのでしょうか? >>276 もうちょっと上手くやろうな。 「特定のイデオロギー」が透けて見えるようでは貴君の目的は達成できない。 >>276 持ってたの当たり前だろ なんとか統一国家の体を作ったが、いまいち暴力では天皇の威光が高まらず悩んでいました… そんなときに出会ったのがこの仏教! これがある意味日本の歴史の始まりだよ >>278 埴輪に毛が生えたようなのしかなかったときにリアルな仏像とか見たら大流行するわな 高床式倉庫に毛の生えたような屋敷しかなかったときに意匠や色彩ゆたかな仏教建築とかも これからやるぞー!って時だからwktkだったんじゃない?手本もあるわけで真似して工夫して改良していけばいいし >>278 自分たちのお爺さんかその親くらいの頃に朝廷が形になってきたとか、そんな感じかな 認識として >>282 大工さんたちの集まりが、隣町の建築会社真似て、代表の社長を選んで見様見真似で会社を作ったは良いけど、いまいちうまくいかんな、って感じ >>276 欽明紀に、百済王が新羅を攻めたが逆に討死してしまい、人質として日本にいた百済王子が帰国する際、 蘇我臣が「かつて百済が高句麗によって滅ぼされそうになった時、百済王が日本の建国神を祀って難を逃れたが、 その後、祀らなくなったから新羅に滅ぼされそうになっているのだ」と語り、 日本の建国神について説明し、再び祀るよう薦める記述があり、少なくとも6世紀中頃には 建国に関する神話が形成されていたことがわかる内容になっている。 これいじょうに話を膨らませるのは作家の仕事であって、根拠もなく推測で話すのは歴史家の仕事じゃない。 >>276 統一的な国が出来上がったあとで、少しずつ官僚機構が整備されだしたわけで、統治機構そのものは古くはなくても国としての歴史は古いと認識してたのではないか おそらく、少なくとも何百年、十世代を越えるぐらいの歴史はあると信じてたと思う >>285 連合国が出来上がったばっかりなのにそんなこと思ってるわけねえだろ >>286 連合国ができたのって、三世紀か四世紀頃やぞ 欽明天皇て6世紀頃やろ >>287 3世紀にできた連合国ってどこにどんな感じよ? 平安時代 お隣の中国(当時は宋の国)ではテーブルと椅子で食事をしていましたが、日本ではなぜにその文化は流行らず胡座や正座しながら御膳を食べるスタイルのままだったのでしょうか? >>290 邪魔だし、偉い人はクッション(畳)を敷き詰めることを選んだ ベッドも流行ってないだろ 土足文化じゃないから畳や布団が発達した 住居が基本高床だからってのもあるだろう >>290 というか、アジアではテーブルと椅子を使う中国の方が少数派じゃないの 中東から東南アジアにかけて、ほとんどが床に座る文化でしょ テーブルと椅子の文化は靴のまま家の中に上がりがちだけど、そうするとホコリや汚れを持ち込むことになる 寒くて乾燥してる地域ならそれでもいいけど、暑いか湿ってる地域だと虫や病原菌が入って来がち 中国に おけ る坐 の 様式 の 変遷過程 に関する研究 ASTUDY https://www.jstage.jst.go.jp/article/aija/64/518/64_KJ00004223199/_pdf 日本 で は ,古代 の 建 物 に土 間 が あ り、人 が 坐 臥 場 所 だ け に 板 敷 を 設けた と い う形 か ら.現 在 ,全 面 に畳 を敷 き詰 め る と い う形 へ 変 わ っ た。こ の 床 構造 の 変 化 は 、中 国 の 床 梼造 の 変 化 と 比 べ れ ば .本 質的 な 変 化は な か っ た と 言 え よ う 。床 坐 も終 始 主流 と して 定 着 し た 。 床 坐 (行 動 ) と床 の 構造 (環 境 ) と は 一つ の 安 定 した シ ス テ ム で は な い か と 思わ れ る 。中国 で は 、坐 の 様 式 (行 動 ) と床 の 構造 (環 境 ) と も に 大 き な 変 化 が 現 れ .新 た な シ ス テ ム に 変 わ っ た の で あ る 。 家族にしろ、教師にしろ、同級生にしろ 人生で一度も真面に相手にされたことのない 何を言っても誰も聞いてくれない そんなかわいそうな子でもレス乞食だったら誰かが相手をしてくれる って期待してるの? >>290 もともと、あぐらや正座で食べるのが中国伝来の古法 中国の方で遊牧民の分化に染まって風習が変わってただけ 椅子を使う分化は遊牧民式 >>290 もともと、あぐらや正座で食べるのが中国伝来の古法 中国の方で遊牧民の文化に染まって風習が変わってただけ 椅子を使う文化は遊牧民式 ウンコを食べるのも中国文化だがな 嘗糞(しょうふん、サンブン、상분)とは、人間の便を舐めて、その味によって 診断する方法。古代中国や朝鮮半島の李氏朝鮮時代まで行われたともいわれる。 儒教では、親に対して行う場合孝行の一種ととらえられ、説話が残されている。 中国 故事「嘗糞憂心」 排泄物による診断の記録は、春秋時代、越王勾践が呉王夫差の下で捕囚の身にある時、 勾践が夫差に完全に臣従したと思わせるために、病床の夫差の便を嘗めて病気がじきに 治ると言ったという逸話が『呉越春秋・勾践入臣外伝』に見られる。この逸話を 由来として「嘗糞」は「人にへつらい恥を知らないこと」としても使われ、お世辞の 度が過ぎる輩の事を「嘗糞之徒」という[1]。また、その味は苦かったとされ[2]、 苦い熊の胆を舐めこの恥辱を忘れないとの「嘗胆(臥薪嘗胆)」の逸話に通じる。 その後、南北朝時代や唐代の説話にも見受けられる。『二十四孝』や『日記説話』に よれば、南斉時代に庾黔婁という役人が父親が病気になったので帰郷すると、医者に 便を嘗めてみないと状態が解らないと言われた。庾黔婁は簡単なことだと言って 舐めてみると、味が違ったので父の死を悟り、北斗七星に父の身代わりになることを 祈ったという「嘗糞憂心」の故事が残っている。『二十四孝』は、日本では御伽草子や 寺子屋の教材にも採用されている。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%98%97%E7%B3%9E . >>301 慥かに、高温多湿と強酸性土壌故に高床が定着・発達したと云う本質論に触れないのは手落ちだな。 >>290 平安初期の遣唐使廃止から平安末期の日宋貿易開始迄、大陸とは疎遠になっていた そのため平安時代には国風文化が芽生えた >>304 遣唐使廃止以前にはあったが廃れたということですか? 中東とか中央アジアには高床式じゃないけど、床に座って食べる文化があるって知らない奴もおるんだなー >>299 だが、時期的には? そもそも、チャリオットみたいな戦車で戦うのが基本だった中国の戦争が騎乗戦闘、騎馬戦に変わったのが遊牧民式で、戦国時代ごろの変化 椅子文化の中国への持ち込みは後漢末ごろらしいし、北魏や隋唐が遊牧民国家なんだから、その頃にはすでに椅子文化は全盛期のはずなのに、なぜ日本に来てないのかを説明できてない 胡床っていう遊牧民由来のスツールは伝わってるけど、風土に合わないから 儀礼用と野外での休憩用ぐらいにしか使われず、広まらなかっただけ 天皇は高御座では椅子に座ってるし、高僧も椅子に座ってる 権力の象徴ということは高級品、贅沢品として普及しなかったとか 遊牧民って言うけど、今も残ってる伝統的な住居で椅子を使ってんのってモンゴルくらいだしなあ キルギスからモロッコにかけて、絨毯の上に座って食事してんのがほとんど イランの冬の家族団らん風景なんか、日本人にはコタツにしか見えん >>314 むしろ日本にテーブルと椅子で食事する習慣が広まったのは、せまい団地で台所と食事部屋を一部屋に押し込むために、ダイニングキッチンという概念を編み出したことに由来するそうな 宋の初代皇帝、趙匡胤は椅子に座った肖像画が残っている。 https://i.imgur.com/QvPb2S8.jpeg それ以降の皇帝も二代目を除き椅子に座った肖像画である https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%8B%E6%9C%9D%E3%81%AE%E5%90%9B%E4%B8%BB%E4%B8%80%E8%A6%A7 唐の時代の皇帝は上半身だけの肖像画で椅子に座ってはなかった 椅子が中華でも普通になったのは宋代からか? でも諸葛亮とか車椅子みたいなのに乗ってたイメージがあるんだよな 日本だとずっと後になるが武田信玄が軍配持って椅子に座って采配していたイメージがある 土足だからそら椅子やテーブルいるやろって話なんじゃないの?単純に 湿潤で足元汚れやすい日本は靴脱いで床に上がることを選んだだけで いや、広いやん イステーブル置きっぱなしなんて 飯終わったら膳を下げて布団敷く、そういう話やん イステーブル、ましてやベッドなんてスペースがなかったんだよ read.cgi ver 07.5.5 2024/06/08 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる