邪馬台国畿内説 Part1024
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0001◆ondZSOlfxeS6
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2024/05/16(木) 23:04:57.86
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4~6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1715680313/l50


◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にあり得ない。
0002◆ondZSOlfxeS6
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2024/05/16(木) 23:05:39.84
◆1(女王所都)
 奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)

 現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に配置された大型建物等(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。庄内3式期のSD-2001、庄内3〜布留0式期のSM-1001,SD-1007が建物BとDをそれぞれ破壊し、建物Fが庄内2式期のSX-1001埋没後築造なので建物群の存続期間は庄内2〜3の中に絞り込まれた。
 居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。

 この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。

 箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある。
 乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。

 この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。
0003◆ondZSOlfxeS6
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2024/05/16(木) 23:06:12.11
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
 前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
 また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。

 血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
 つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。

 纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
 築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。

 この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。

 その始発点が、a.元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から、b.或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。
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2024/05/16(木) 23:06:44.39
◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
 その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
 このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
 箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
 換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ。
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである

 また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前の情報が窺知できる。

 乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
 女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。

 紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。
0005◆ondZSOlfxeS6
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2024/05/16(木) 23:07:16.00
◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
 纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
 同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。

 威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
 しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
 代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。

 共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他なるまい。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
 それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。

 定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
 もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
 後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
 この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。

 初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。
0006◆ondZSOlfxeS6
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2024/05/16(木) 23:07:47.69
◆5(倭国の形成と気候変動)
 1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
 2に、河内と吉備の交流の深さ
 この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
 共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
 これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。

 2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
 この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
 寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
 弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。

※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
 クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。
0007◆ondZSOlfxeS6
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2024/05/16(木) 23:08:18.49
◆6(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
 これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
 これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
 先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。

 析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
 後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。

 やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
 分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
(本項 続く)
0008◆ondZSOlfxeS6
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2024/05/16(木) 23:08:50.51
(承前)
◆6−2
 方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
 二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。

 この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。

 高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。

 巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。

 ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
 一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。

 この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
 このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。
0009◆ondZSOlfxeS6
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2024/05/16(木) 23:09:21.37
◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
 3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
 北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相~布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FAQ43参照)
 つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240~248年が位置すると考えられる。

 庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。

 上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
 逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
 外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。

 1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
 2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
 これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。

 北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。

 その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
 糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。

 この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。
0010◆ondZSOlfxeS6
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2024/05/16(木) 23:09:53.42
◆8(結語)
 日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
 原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
 原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。

 その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
 前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。

 博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。

 遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
 この現象は、寒冷化に起因する列島での社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
 この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。

 土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末~3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
 そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。
0011◆ondZSOlfxeS6
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2024/05/16(木) 23:10:25.49
◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
 寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf

◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」


◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)

○弥生時代後期
 1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
 2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃 
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
 3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
 4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
 4世紀第4四半期〜5世紀中頃
 (古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)

※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
 庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
 同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
 庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
 IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
 IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山                  
  IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
  IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、浦間茶臼山、西求女塚
  IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、メスリ山、行灯山、祇園山
0012◆ondZSOlfxeS6
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2024/05/16(木) 23:10:56.37
◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!

A:九州は倭国の一部なので問題ない。
 郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
 逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。
壹岐一国では観察されたが首都で観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
 畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
 水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。

 北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
 また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
 倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。

◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
  魏使は九州を出ていないではないか!

A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
   「泝(+固有名詞川名)が7回
 倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
 倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
 以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。
0013◆ondZSOlfxeS6
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2024/05/16(木) 23:11:28.16
◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!

A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
 「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。

 以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※) 固り戦国越の滅亡後に南遷した越人の国が東甌や東越などであること、南遷後の晋が東晋であること、陳寿三国志に於ても州胡が「馬韓之西海中大島上」(魏書東夷伝韓条)と済州島の方位を90度誤っていることなど「東と南と相兼ね 」るは常例と言われて久しい。
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
 三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。
また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。

 筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。

 実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
 因みに釜山〜佐須奈34海里(=63km)、佐須奈〜厳原47海里(=87km、厳原〜芦辺37海里(=68.5km(海保水路部距離表)であり、芦辺〜唐津は25海里(=46.3km)と短い。通算264.8kmである。印通寺〜呼子は僅か16.3海里(=30.1km)と更に短い。
 このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く)
0014◆ondZSOlfxeS6
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2024/05/16(木) 23:11:59.77
(承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
 遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
 予章郡:雒陽南二千七百里  南海郡:雒陽南七千一百里
 蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
 交趾郡:雒陽南萬一千里
 (雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)

 倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
 以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。

 また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。
0015◆ondZSOlfxeS6
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2024/05/16(木) 23:12:30.38
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!

A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
 纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
 また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。

 畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
 また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
 中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇陀と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。

◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!

A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
 佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)

 小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
 対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
 ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。

 むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
 このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。


◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?

A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。
0016◆ondZSOlfxeS6
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2024/05/16(木) 23:13:00.89
◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
  纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?

A:そのような事実はなく、当然交流があった。
 畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
 このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)


◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?

A:読み替えない。
 行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
 これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
 古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。


◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
  女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
  女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?

A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
 これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
 中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
 倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
 いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
 王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。
0017◆ondZSOlfxeS6
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2024/05/16(木) 23:13:30.36
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
  年代が判るという考古学者はおかしいではないか!

A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
 陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。

 封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
 しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。


◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
  それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?

A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
 後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
 使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。
0018◆ondZSOlfxeS6
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2024/05/16(木) 23:14:00.96
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
  畿内説は倭人伝と合わないのではないか?

A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
 福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
 弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
 以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、
実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄矛の後継品であったと思われる矛の後継品であったと思われるに劣後したためと考えられる。

 当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。

 3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。

 倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
 倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
 当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。

 なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
記紀においてもヤリとホコの区別が無いことは、天日槍を知らぬ者を除き常識である。
 加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
 の指摘は今日も有効である。
0019◆ondZSOlfxeS6
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2024/05/16(木) 23:14:31.01
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
  古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!

A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なる概念である。よって否定材料にならない。

呂覧に「題湊之室棺槨数襲、積石積炭以環其外」と見える如く、古代中国人の耳目には竪穴式石室の側壁或いは現代考古学に言う礫槨・木炭槨の類は室外を環る地中構造物と認識される。そして棺槨は室内に重ねられるのである。
石を槨の表、黄腸を裏とする鄭玄註は、題湊が木槨壁面に接合する時期を経た塼室墓時代の意識として整合性がある。

 現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
 古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。

 現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて韓地経由の楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響ではあるものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状である。
就中、ホケノ山は床板が無く、石室構築のための仮設の板壁を石室完成後に撤去した木蓋石室墓とする復元案(真鍋2018)も有之、古代中国人が認識する木槨とは程遠い。
これを槨と称するならば、北部九州に多い箱式石棺も歴然と槨である。

 畿内で一般的な墓は木棺直葬の方形周溝墓で「有棺無槨」に適合している。


◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?

A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能である。

 伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
 糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
 このような状況下で、畿出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。
0020◆ondZSOlfxeS6
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2024/05/16(木) 23:15:13.98
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!

A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
 宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。

 一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと推定できる。
 他に、使用痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄など、遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧とがある。

 鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後~古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後~古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後~古墳初)など。

 纒向での鉄利用状況については、遺跡建設当初の庄内0期遺物から鉄器による加工痕が認められる。
 纒向大溝建築材実測図 https://i.imgur.com/EPtpzEw.png 矢板列支柱(左)に角の明瞭な貫穴、矢板(右)に鱗状手斧痕。倶に鉄器による加工の特徴を示す。

 大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析では、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
 と結論されている。

 弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。事実、鉄製品の腐食に最も影響力の強い硫化物が海成粘土層が畿内中枢部の深層に分布している。
 また併せて、纒向遺跡で脱炭鋼を製造していた布留0期の鍛冶遺構に於て鉃滓は共伴するが成品が発見されない状況は、官製工房的な管理の強化・貫徹を想定するに足る。
古墳時代に入ると「鉄器が普及したと同時に、首長層へ鉄器が集中した」(橋口2002)
という視点に立てば、首長級墳墓への集中と生活遺構での不在という鉄器の偏在は理解しやすい。
 ひとたび古墳への副葬が開始すると、畿内大和の鉄剣・鉄刀出土量は隔絶的である。https://i.imgur.com/S93qy2b.png 首長権力の有りようが窺われる。
0021◆ondZSOlfxeS6
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2024/05/16(木) 23:16:19.18
 纒向遺跡メクリ地区に「大型の鉄製品を砥ぐという行為が行われていたのは間違いがな」いとされている大量の砥石があり、廃棄時期は3世紀前半~中頃、最も古いものは「庄内2式期の可能性」(『纒向遺跡発掘調査報告書2』桜井市教委2009)とされる。
0022◆ondZSOlfxeS6
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2024/05/16(木) 23:16:51.74
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
  九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!

A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。


◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!

A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
 また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
 よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
 このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。


◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!

A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
 万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
 したがって測定は存在しない。

 また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
 「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
  則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。
0023◆ondZSOlfxeS6
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2024/05/16(木) 23:17:21.67
◆FAQ 19
Q:釜山~対馬あるいは対馬~壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
  これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!

A:1~2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。

 新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山~佐須奈間は34海里(=63km)である。
 江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
 まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。

 逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。


◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5~1/6
  これで説明が付く!

A:そのような整合性は認められない。
 考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
 対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)

 信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
 郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。

 九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲
0024◆ondZSOlfxeS6
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2024/05/16(木) 23:18:09.20
を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。



◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
  箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!

A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
 箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
 このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。

 中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国出土(李家山59号墓)青銅製容器蓋装飾の騎馬像に鋳出された脚親指に装着する革鐙が報告(菅谷1994)されている。
郡県内では湖南省西晋墓(長沙金盆嶺第21号)の陶俑に描かれた片鐙(永寧2,西暦302年埋葬)が紀年の明かな最古発見例であるが、これと同時期或いは遡るとされる類似の発見例が数あり、中国の複数の調査者が木芯包革式鐙の存在を3世紀中葉まで遡ると考えている。
現物は西晋末〜東晋初(四世紀第1四半期末から第2四半期頃)の河南省・遼寧省出土例まで降る。

 湖南省西晋墓陶俑図 https://i.imgur.com/oM4NXR6.png

 三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
 西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度に鐙が一般的存在であったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で上図タイプ1の国産模倣品現物が出ることに不合理はない。
0025◆ondZSOlfxeS6
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2024/05/16(木) 23:18:42.23
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240~260年と発表した! これは信用ならない!
  同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380~550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
 もう一個が1σ西暦110~245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
 つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。

 考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
 炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。

 逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
 これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018)この桃核12測定例の平均値をIntcal20で歴年代較正して次に掲げる。
https://i.imgur.com/VKIld2Q.png
 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、
そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。
0026◆ondZSOlfxeS6
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2024/05/16(木) 23:19:12.17
◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!

A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
 また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
 基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
 よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。

箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築 
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。

 1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
 2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
 スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
 隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png

 前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。

 方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く)
0027◆ondZSOlfxeS6
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2024/05/16(木) 23:19:42.27
(承前)
◆FAQ 23−2

◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。

◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
 ・ 森将軍塚   :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
 ・ 前橋王山古墳 :上毛 ・ 持塚二号墳  :上総
 ・ 高千穂七号墳 :上総 ・ 山伏作一号墳 :上総
 ・ 長沖八号墳  :武蔵 ・ 温井一五号墳 :能登
 ・ 見手山一号墳 :但馬 ・ 西穂波16号墳 :東伯 
 ・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
 ・ 高鼻二号墳  :伯耆 ・ 日拝塚古墳  :筑前
 ・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
 ・ 朝日谷2号墳 :伊予ー布留0古(梅木1998)
◯朝日谷2号で後円部上に棺設置後、覆土と同時に前方部の盛土開始が判明していること
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等


◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!

A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
 黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
 両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
 古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、

 このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
0028◆ondZSOlfxeS6
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2024/05/16(木) 23:21:02.99
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!

A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。

 旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
 
 後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
 このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。


◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
  ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!

A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
 統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。

 遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
0029◆ondZSOlfxeS6
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2024/05/16(木) 23:21:23.07
 さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。
なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
 ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
 古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。
0030◆ondZSOlfxeS6
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2024/05/16(木) 23:22:00.19
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!

A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
 ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。


◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
  卑弥呼の墓があるのは九州だ!

A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
 また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。

 参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
 日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。

 墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。


◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!

A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
 高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
 九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
 一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
 九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。

「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
 正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。

 以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があった。
 九州説にとって不利な条件と言える。
0031◆ondZSOlfxeS6
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2024/05/16(木) 23:22:30.97
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
  箸墓の築造と時間差があるだろう!

A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
 隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
 以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。

 なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
 また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
 このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
 解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀彧)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。

 なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。
0032◆ondZSOlfxeS6
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2024/05/16(木) 23:23:00.94
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?

A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
 考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
 もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
 氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。

 弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
   https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
 また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
 これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。

 優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
 吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
 弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核には、この地域を想定するのが妥当である。

 畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
 これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。
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2024/05/16(木) 23:23:30.77
◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?

A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
 3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。

 これが部分的利用に留まる所以である。


◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある!
  海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!

A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。

 「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
 「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国
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2024/05/16(木) 23:24:01.95
◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
  伊都国は隆盛のさなかである!

A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半~弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
 原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
 副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。

 当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
 国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。
それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
 残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
 大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)

 後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
 平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
 いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。

 後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
 このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。

 以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の
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2024/05/16(木) 23:24:38.65
保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。




◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!

A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
 ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。

 以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
 ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)

 一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
 それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
 国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。

 弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
 同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。

※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。
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2024/05/16(木) 23:25:01.87
◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!

A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
 博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)

 文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
 また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
 吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。

 なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
 那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。

 伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。


◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
  纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!

A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
 外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
 これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。

 ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
 古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
 ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。
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2024/05/16(木) 23:25:31.52
◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
  仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!

A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
 意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
 金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。(FAQ79参照)

 古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
 この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。

「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
 とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
 纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
 霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。

 大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
 にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、
弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
 侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
 新生
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2024/05/16(木) 23:26:03.82
した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。



◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
  邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?

A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。

 女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。


◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
  九州でいいではないか!

A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
  http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
 福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
 ◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。

 会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
 沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
 東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
 このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。

 捜神記や太平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。https://i.imgur.com/nBgE648.png
 現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。
太平広記はその書名が示すとおり太平興国年間に編纂された類書であり、当該箇所は東晋代成立の捜神記から採録している。則ち太平興国の時点で原テキストに東越閩中の所司が「東治都尉」とあったことが判明する。
東越閩中に置かれた都尉の治は東候官に他ならず、三国志等の版本が成立した北宋太平興国の修史活動期における編集従事者の認識が窺知される。

 倭人伝中の「会稽東治」については、中華書局が既に「東冶」と校訂しているが、丁謙・盧弼らの考證に先立ち、成都書局が同治10年に殿本を校訂して「東冶」に改めている。跋文に四川総督呉棠、四川学政翰林院編集夏⼦鐊ら同治年間の人士の名が見える。
https://i.imgur.com/E6TFLyl.png
0041◆ondZSOlfxeS6
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2024/05/16(木) 23:26:31.27
◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
  九州には古くから三種の神器がある!
  大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?

A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
 出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
 また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
 記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)

 畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。

 弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
 平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
 これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。

 この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。
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2024/05/16(木) 23:28:32.26
◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
  新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!

A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
 弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。

 申敬澈は慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
 定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。

 申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
 良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。
これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
 参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。

 嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
 このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。
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2024/05/16(木) 23:29:00.65
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
  炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
  確かな根拠などないだろう!

A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
 1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
 また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。

その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である

以上から
 1B II型式新段階(2世紀末~3世紀前葉:塼室墓最盛期、遼東系)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期、非遼東系)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行(高久2009)する。1BIII型式期は正始九年を含んでおり、楽浪地区が衰退して漢人の活動域が黄海道地区へと後退する時期である。
凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
 加美1号周溝墓出土の陶質土器が金官伽耶I期に先行するものである事から、楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する。(白井2001、久住2012)
 また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である。(李昌熙2008)
 よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。

以上述べた楽浪の対外活動に列島における楽浪土器の出土量を対応させ(◆7参照)
 活発期:2世紀末~239A.D.:久住IA期
 衰退期:塼室墓から遼東系が消え魏へ定期職貢あり:240〜247A.D.:久住IB期
 残存期:魏へ定期職貢途絶から最終朝貢記録まで:248〜266A.D.:久住IIA期
 途絶期:日本列島から楽浪土器消失:267A.D.〜:久住IIB期
の目安が得られる。
 三国鏡の雲紋編年において魏景元四年(263)銘鏡に一致するのが三角縁201番鏡(唐草文帯群、岸本V期)であることとも整合性が良い。
0044◆ondZSOlfxeS6
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2024/05/16(木) 23:29:30.94
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
  国産に決まっている!

A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
 史料上で抹殺された年号は珍しくない。
 このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。

 中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
 この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
 最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。

 この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。

 景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。
0045日本@名無史さん
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2024/05/16(木) 23:29:42.59
俺の勝ち。大和の氏族の三分の一が中国、朝鮮系なのは邪馬臺国が漢化して大和国になったから。
0046◆ondZSOlfxeS6
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2024/05/16(木) 23:30:00.81
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?

A:◆1で略述したとおりである。
 ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
 箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
 その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
 倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
 ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
 同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
 文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。

 また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
 その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。


◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
  これが魏晋鏡だろう?

A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
 2世紀の鏡である。

 内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
  内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
 という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
 蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。

 この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
  A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
 2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
 雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。
0047◆ondZSOlfxeS6
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2024/05/16(木) 23:30:30.65
◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
  2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?

A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。

 魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
 これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。

 少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)

 倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。


◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
  考古学的に確認されているのか?

A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。

 桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。

 広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
 このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。
0048◆ondZSOlfxeS6
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2024/05/16(木) 23:31:00.65
◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?

A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
 今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
 また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
 魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
  「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
 さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。

 固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
 また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。


◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
  どこにでもありそうだ。

A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
 画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
 纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
 単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。
0049◆ondZSOlfxeS6
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2024/05/16(木) 23:31:30.45
◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
  壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!

A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
 灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
 郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
 壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。

 弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
 日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
 卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無い。
壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
 ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。

 五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
  新方・森之宮(摂津)
  雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
  唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
 ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。
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2024/05/16(木) 23:32:00.65
◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?

A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
 奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
 巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。


◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?

A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。

 刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
 秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
 この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。
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2024/05/16(木) 23:32:31.27
◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
  以北ってことは女王国も含むんだぞ!

A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
 (三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
 (三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
 (同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。


◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
 狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!

A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
 山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
 海中の島国がカンボジアと「接」

 狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。
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2024/05/16(木) 23:33:00.73
◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!

A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。

「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
 殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
  ※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
  ※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。

「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有增損。
 太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
  ※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
  ※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
  ※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
  ※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
   昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
   当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
  ※百世に亘って代々を想定
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2024/05/16(木) 23:34:02.75
◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
  必然性がない!

A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
 法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことが明らかである-

-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。

 加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。

 畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。
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2024/05/16(木) 23:35:01.06
◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!

A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)

「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
 参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。

「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
 より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
 備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。

 また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
 以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。

 さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
 また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。

 以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。
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2024/05/16(木) 23:35:31.51
◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
 の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!

A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。

また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。


◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
 「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
 所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!

A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。

(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
 北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
 南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
 …東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
 東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
 …東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
 西與犂「革偏に于」・條支接。
 行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
 …東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
 …東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
 (漢書西域)
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2024/05/16(木) 23:36:00.67
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
 これは実測したとしか考えられない!
 誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!

A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。

 戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
 或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
(「長安城方六十里、 經緯各十五里、十二城門、積九百七十三頃、百二十亭」漢旧儀)

 また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)

 さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。

 このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。
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2024/05/16(木) 23:36:31.15
◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!

A:定説に従う。

 金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
 帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。

 二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。

 以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。

 楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
 

◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!

A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。

◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
  径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!

A:基礎知識の誤りである。
  現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する

ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通)
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2024/05/16(木) 23:37:00.71
◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
  倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!

A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
 殷商:約16cm
 西周:約20cm
 戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
 後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
 南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
 先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
 後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。

 また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
 ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。

《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
——————————MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く)
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2024/05/16(木) 23:37:31.75
(承前)
◆FAQ 65-2
 『禮記』王制には
 「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
  古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
  古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」

とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。

 ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。

 この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。


 秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
  古者周尺 17.3cm
  今周尺  21.0cm
  秦漢尺  23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。
0061◆ondZSOlfxeS6
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2024/05/16(木) 23:38:30.56
◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
  本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!

A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。

 当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
 乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。

 なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。


◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
  なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
  倭人伝にある方位に間違いはないのだ!

A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
 東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。

 ・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
 ・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
 ・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。

 ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。


 因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
 地名が実際の地勢と著しく異なる。
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2024/05/16(木) 23:39:30.96
◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
  奈良県の三角縁はもっと新しい!

A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。

 ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
 しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。

 箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。


◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!  
  このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
  魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
  護軍将軍である淵の任地は都である!

A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
 上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
 淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。

 長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
 
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2024/05/16(木) 23:40:00.12
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
  乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
  襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!

A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
 魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
 銭大昕・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。

 襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。


◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!

A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。

 中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
 魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。

 当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
 を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。
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2024/05/16(木) 23:40:30.64
◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
 「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
  畿内は「東征」を受けた毛人だ!

A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
  「服」は他動詞として使う。
  「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。

 「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。


◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
  これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!

A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
 「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
 『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png

 能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。
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2024/05/16(木) 23:40:59.55
◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
  大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!

A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。

 大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
 畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。

 庄内大和型甕と庄内河内型甕は、庄内 I 段階に大和川河口地域に成立した初期庄内甕(庄内式古相)から分化して、庄内 II 段階に至り倶に確立した。胎土・製作技法・形態により識別されるのみならず、分布域も明瞭に区分可能である。

 生駒西麓型とも呼ばれる庄内河内型甕は、中河内地域で圧倒的なシェアを占める一方で、摂津・和泉並びに大和盆地では低シェアという、極めて特徴的な偏在を示す。
これが、中河内地域の排他性を意味しないことは、中河内地域主要遺跡の持つハブ港的性格を鑑みれば明瞭である。事実、吉備の文化は中河内を経由地として纏向に極めて濃厚に転移している。


◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
  畿内説は皇国史観の徒である!

A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。

 遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
 複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。
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2024/05/16(木) 23:41:36.74
◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
  最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
  8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
  古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!

A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
本Qに見られるような直線的進歩史観で歴史が理解できないことは言うまでもない。

 古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。

 弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。


◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
 前方後円墳体制など、夢想だ!

A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。

 奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。
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2024/05/16(木) 23:42:32.19
◆FAQ 78-1
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
  里数が書いてないではないか!
  つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
  投馬国は南九州でよいのだ!

A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。

 『九章算術』巻第六「均輸」に
 「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
 甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。

 これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」
「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。

 また、「今有甲發長安、五日至齊、乙發齊、七日至長安。今乙發已先二日、甲乃發長安。問、幾何日相逢?」の出題では
「術曰、幷五日・七日以爲法。以乙先發二日減七日、餘、以乘甲日數爲實。實如法得一日」と解く。
これを劉徽が註して「『減七日』者、言甲乙倶發。今以發爲始發之端、於本道里則餘分也」とする。
 即ち、長安〜齊の里数は当然等しいが、乙が2日先発しており、甲の出発時には「道里」に猶ほ「餘分」がある。そこで7日から先行した2日を減ずる計算をしている。
 明らかに「道里」が日数表記されている実例である。

 ここでは同じ固定区間が甲にとっての道里五日、乙にとっての道里七日である。甲の出発時に乙は先行した道里二日を七より減じた乙の道里七日のうち五日が未消化な「余分」である。つまり七五三十五の最小公倍数を法(分母)とすれば三十五分の二十五である。従って、改めて甲乙が同時に出発したと考えれば五と七の和十二分の二十五、即ち二日と十二分の一後に甲乙が出会う。
 この計算には里数が一切登場せず、日数のみで道里を計算していることが明らかである。

 本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。
(本項 続く)
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2024/05/16(木) 23:43:01.45
◆FAQ 78-2

(承前)
三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
 旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
 其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
 不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
 逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」

とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝でも、各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。

 もとより倭人伝は倭人の国々を
  1)自女王国以北、其戸数道里可得略載、
  2)其余国遠絶、不可得詳
と截然と二分類しており、「自女王国以北」と「其余」で悉皆である。
戸数・到達所用日数・官の情報が既知である投馬国を「遠絶ゆえに不可得詳」のグループに配することは極めて不合理であり、投馬国については戸数と道里が略載されている。

倭人伝に於て投馬国が「女王国以北」と認識されていること明瞭である。
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2024/05/16(木) 23:43:30.72
◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
  ただの倉庫だろう?

A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)

 建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
 建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
 建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。

 強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。


◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
 「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
  魏志に邪馬臺と書かれていたのではない! 
  ただ当時の風説を書いたのだ!

A:初歩的な誤りである。
 子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
 子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
 動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。

 助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
 よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。
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2024/05/16(木) 23:44:01.07
◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
  だから邪馬台国は畿内ではない!

A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
 後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。

 三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。

 魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。

 三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
https://i.imgur.com/XIb0RqF.png

◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
  このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!

A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。

 「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。

 三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
 黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。

 このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。
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2024/05/16(木) 23:44:30.81
◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
  鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!

A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。

●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。

●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
 大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君冝高官」「保子冝孫」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。

 国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君冝高官至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。

 両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
 
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2024/05/16(木) 23:45:01.01
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
  古墳とは違うのだ!

A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
 但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。

 孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。

 類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。

 魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。


◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!

A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。

 K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものであろう。
 庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭頃の実年代が与えられている。
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2024/05/16(木) 23:45:30.77
◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
  日本の古墳は平坦で、高くない!
  卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!

A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
  驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png
https://i.imgur.com/EyIx7C7.png


◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
  「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
  特鋳説の根拠にはならない!

A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量であり、市中から発丘獲得物を含む雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しい。

 全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
 この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
 このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
 また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。

 銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。
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2024/05/16(木) 23:46:00.89
◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!

A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
 中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。

 また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。

 江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
 参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
 https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。

 このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。


◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
   3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!

A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。

 下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
 この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。

 夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
https://i.imgur.com/EXTU3lu.png
0076◆ondZSOlfxeS6
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2024/05/16(木) 23:46:30.99
◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
  短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!

A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。

「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步、高六丈六尺」(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
 明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
 ※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
 ※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
「帝王世紀曰。(洛陽)城東西六里十一歩、南北九里一百歩」
「晋元康地道記曰。城内南北九里七十歩、東西六里十歩」(後漢書劉昭注)
 ※晋元康年間:291〜299
「洛陽十二門、南北九里」(太平寰宇記所引陸機『洛陽記』)
 ※陸機(261〜303)」呉陸遜孫、晋入朝289
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
 ※「皇覽」(魏文勅撰)


◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
   10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!

A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。

 実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。
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2024/05/16(木) 23:47:00.95
◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
  周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!

A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。

 六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。

『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。

 また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。

 八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
 よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。


◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!

A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。

 北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
 西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
 南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
 東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
 ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
改新詔における畿内国の定義が畿内第V様式圏に酷似する事実の指摘(濱田2014)は注目に値しよう。
0078◆ondZSOlfxeS6
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2024/05/16(木) 23:47:31.25
◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
  畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!

A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。

 IB期に庄内系(庄内2〜3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
https://i.imgur.com/zJCqyag.png
https://i.imgur.com/KTMQyfU.png
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。

 畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。


◆FAQ 95
Q:森井貞雄によれば西暦258の年輪年代が与えられた二口かみあれた遺跡が庄内3だ!
  布留0の箸墓が3世紀中頃である筈がない!

A:布留0の実年代を西暦260〜280頃とする寺澤の見解(橿考研2002)と齟齬がない。

ただし森井が二口かみあれたを庄内3併行と判断したという点について出典がない。
森井は青龍三年(西暦235)銘鏡を出土した大田南5号墳の「庄内3」あるいは「布留0」併行を弥生終末期の終わりの一つの定点(森井1999)としており、本Qは本人の著述と齟齬があって疑わしい。

科学年代西暦258をVI-3様式期(布留0古相)の年代観と対照する森岡(2014)。
上記年輪年代(光谷1995)が古墳時代初頭・布留0併行の暦年代を提出したとする河合(石川埋文2000)。
これらと突合すると、光谷の上記暦年代データは箸墓の築造年代を3世紀後半初とする見解と整合性がある。
0079◆ondZSOlfxeS6
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2024/05/16(木) 23:48:00.84
◆FAQ 96
Q:「銅出徐州」というが銅山があるのは呉領だった徐州南部のみ!
  彭城銅山県は名ばかりの存在で漢書・後漢書に銅山のあった記録もない!

A:彭城銅山県(現・徐州市銅山区)は北宋の元豊年間に宝豊監が置かれ鋳銭が行われていた。宋銭「元豊通宝」の鉛同位体比は三角縁神獣鏡に酷似している。
のち廃坑となり地名のみが今に残る。
 これと別に、隣接する利国には鉄冶を主する監が置かれていた。

 呉の領有した徐州南部とはもと揚州の属であった広陵郡南端の極めて限られた地域のみで、徐州の殆どは魏領である。
漢書地理志広陵国・続漢書軍国志広陵郡とも鉄を産することを記すのみで銅山があった記録がないことは彭城と同じである。


◆FAQ 97
Q:纒向は蛙を食う貧困な寒村だ!

A:西漢は皇帝の宗廟に羊・兎・食用蛙を供えるのが常であった。
  東漢にあっても普通に食用であった。
  「羔、菟、鼃所以供祭也」霍光伝師古注
  「鄭司農注云蟈蝦蟇、玄謂蟈今御所食蛙也」周礼両鄭注
 纒向土壙祭祀において今人が高級食材とする鯛・鴨・桃などと並んで神饌とされることに不自然はない。


◆FAQ 98
Q:纒向は古墳築造のための施設であって都などではない!

A:合理的な理由がない。
 纒向の建設は庄内0式段階で運河掘削が開始する。
 一方、90m級にまで巨大化して弥生墳丘墓の域を超えた墳丘墓の築造は庄内2式段階に開始する。
よって遺跡内への搬入土器が広域に亘る特異性発現、運河掘削ともに、大型墳丘墓築造開始より1世代を超えて先行しており、因果関係が認め難い。
また辻地区の大型建物は3式段階には廃絶しており、箸中山古墳の築造開始に先行する。
よって此の因果関係も求め難い。

 纒向型土壙祭祀の開始も大型墳丘墓築造に先行する。その祭祀内容には葬送儀礼との関係が窺えず、寧ろニヒナメヲスクニや鎮火祭といった服属儀礼や鎮護国家的行事との関連性が指摘されている。
導水施設における祭祀も池上曽根や伊勢遺跡に先行事例が求められ、墳墓との関連がうかがえない。ことに木樋を用いた祭祀は首長居館周辺で執行される特異な祭祀として後世に残っている。

以上より、纒向は祭祀に特化した特異な大遺跡であるが古墳祭祀には特化しておらず、古墳造営とのみ結びつけるのは不合理である。
0080◆ondZSOlfxeS6
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2024/05/16(木) 23:48:31.01
◆FAQ 99
Q:ホケノ山古墳の年代は古木効果の影響を受けない小枝資料の炭素年代によるべきだ!
  4世紀後半だ!

A:後代の混入物として除外する通説が正しい。
 墓室内に落下していた丸底坩と加飾壺は、他古墳での類例を鑑み、墳頂に囲繞配列されていた祭祀用土器と見るのが妥当と思われる。明らかに混入物である小枝資料は天井崩落時のコンタミであろう。
 ラジオカーボンによる暦年代の較正に当たっては古墳寒冷期に対応する炭素14濃度の乱高下を考慮する必要がある。3世紀末にかけて大幅な炭素14濃度の上昇が観察される。また4世紀後半にはラジオカーボンの崩壊速度に見合う濃度上昇があり、これが撹乱要因となって較正曲線によって絞り込める暦年代が拡散している。
 Intcal20から見た炭素14濃度は西暦270年頃をボトムとして大きく上昇しており、布留1古相のyBP値が新相のそれより高く出る実態と合致している。また、同時代資料と見られる小枝の確率密度分布ピークが一方は4世紀中葉後半、他方が4世紀末から5世紀初頭の値を示すことも、気候変動による撹乱要因が深刻であることを読み取れる。逆に270年頃のピークは両資料とも適切に合致しており、より信頼度が高い。ここから、天井崩落の時期を布留0末から布留1初頭と推察する。
 周濠底のS字甕Aの年代(庄内3)に属する多数の測定例と整合している。
https://i.imgur.com/nHtnTXO.png


◆FAQ 100
Q:会稽東治は蘇州だ! いや上海だ! 長江河口近辺だ いや淮河より北だ!

A:卑弥呼が通交した時代の会稽郡は現在の浙江省および福建省、単独で「会稽」と言えば常に現・紹興市越城区にあった会稽郡治「会稽山陰」を指す。
 「越王句踐、其先禹之苗裔而夏后帝少康之庶子也。
  封於會稽、以奉守禹之祀」(史記越王句踐世家)
 「禹周行天下、還歸大越、登茅山以朝四方羣臣、封有功爵有德。崩而葬焉。
  至少康、恐禹迹宗廟祭祀之絶、乃封其庶子於越、號曰無餘。」(吳越春秋)
 「會稽郡山陰、會稽山在南,上有禹冢」(後漢志郡国四)
✳︎茅山:会稽山の別称
 秦の王翦が楚を滅した時、楚に併合されていた呉越を分離して会稽郡とした。
 会稽郡治が現・蘇州市にった時期、当地は呉本国、呉県と呼ばれ、会稽は依然会稽山麓に所在す。
 以降変転を経て順帝永建四年(199A.D.)に呉郡を分割し、以降の会稽郡治は会稽山陰である。
「会稽東治」が呉郡や徐州に存在しないことは明らかである。

「東冶」は『捜神記』や『太平広記』並びに書陵部蔵三国志 南宋刊「紹熙」本に登場し、すべて越が楚に滅された後の越族の都となった閩越(卑弥呼朝貢当時の「東侯官治」)を指している。
(参考:FAQ40)
0081◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/05/16(木) 23:49:01.19
◆FAQ 101
Q:纒向の大型建物Dというのは東西二間しか見つかってないではないか!
  四間x四間に復元して大型大型というのはインチキだ!

A:「本来の建物規模は調査の状況や建築学的な検討から東西も4間であったと」
 と調査機関は公式発表している。

 事実、東西6・2m、南北19・2mはアンバランスに長大である。一般に偶数柱間の総柱建物は居館の系譜と考えられており、このような形態は異例であろう。
 建物Bと建物Cの間隔は建物Cの東西二間に等しく計画的に設計されている。
 建物Dで発見された柱列西端から建物Bまでの間隔は建物Dの東西四間に等しい。
 また建物Dと南柵列との間隔は建物Dの南北一間(束柱をカウントすれば南北二間)である。
 全体が規則的・計画的な配置であることを考慮すれば、総柱建物が正方形を志向する傾向も鑑み、建物CとDの間隔も建物Dの東西二間に等しく復元することは合理的である。つまり建物Dを東西四間、南北四間とした復元は合理的かつ妥当である。
 建物Dを破壊している溝SX-1001、建物Cを破壊している溝SX-1002ともに底の僅かな深さしか残存しておらず、両建物のあった地表面への削平が深かったことが窺知される。

 下図のとおり、上部に堆積した包含層IIIを除去すると、造成された整地層上の建物B及びC柱穴を破壊している溝SD-2001(庄内3)、柱穴建物D柱穴を破壊している溝SX-1001(布留2)、溝SM-1001(布留1)期、溝SD-1009(布留0)が明らかとなる。

大型建物群配置図 https://i.imgur.com/4W4mle2.png
同空撮 https://i.imgur.com/A1eBwbR.png
建物B空撮 https://i.imgur.com/HytoKvD.png
Dより西を望む https://i.imgur.com/LB1oG3k.png

◆FAQ 102
Q:倭人伝に一大率が諸国を検察したとあるが、漢末以来刺史は行政官化しており、監察官だったのは昔のことである。一大率が刺史の如きであると云うのは漢代の古い情報の混在だ!

A:刺史は魏代でも依然として行政監察の職責を担うし、行政官もまた検察を行なう。卑弥呼朝貢後に聴取された情報として矛盾が無い。

 正始年間の夏侯玄『除重官議』に、秦漢以来郡守と刺史の二重行政があり(橫重以郡守,累以刺史)混乱を招くので郡守を省いて刺史に専任させれば、行政の合理化と監察の存続が図れる(宜省郡守但任刺史、 刺史職存則監察不廃 )とある。これが当時政権中枢にいた人物の認識である。
 また建安九年、曹公は河北に令して「郡国守・相は富者の徴税脱れ貧者への二重課税が無きよう明り検察せよ」(裴註魏書所載公令:郡国守相明検察之、無令彊民有所隱蔵、而弱民兼賦也 )とした。
 註:当時は趙国王が宗室の人であったため、郡太守に相当する最上位行政官は趙国相。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
0082◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/05/16(木) 23:49:31.70
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
 荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】なし
0083日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 23:54:52.52
イッチー乙

そういえばIIA期に北部九州で大規模な製錬設備
出来て国内に鉄原料供給してたて前教えてもらってたけど
この時期に在来系が消滅して畿内甕に置き換わってるのね
この頃には半島の鉄利権掌握して製造を組織的に
集約してたんだな
0084日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 00:01:38.91
混一疆理歴代国都之図を根拠にしていいのか
0086日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 00:18:09.71
>>85
方角は一律に回転させるべきか、デタラメとすべきかってこと
テンプレはデタラメとしたいようだけど
0087日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 00:25:53.45
南が東なら東南は東北となる
東北に船行一年で裸国てw
0088日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 00:45:03.64
>>87
お前太平洋に突っ込んで行く画像コピペ貼らなくなったな
0089日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 00:59:50.13
不存在を証明することは不可能だから
不存在を論拠にすることはできない
0090日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 01:13:49.01
>>85
例えば西国東郡が発足したのは19世紀なので意味無し
0092日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 03:01:23.50
陳寿は日本に来たことがないし、複数の文献を引き写しただけだろ。
その過程で誤解や誤謬があった可能性もあるし、もはや昨今、魏志倭人伝がすべて
整合性がとれた正しい文献とは思われてないだろ。
0093日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 06:43:27.57
>>92
>魏志倭人伝がすべて整合性がとれた正しい文献とは思われてないだろ。

トンデモだから、そう思わざるを得ない。   @阿波
0094日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 06:48:11.00
短里はしない
0095日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 06:49:52.54
つまり九州説はウソ
0096日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 06:50:07.51
>>94
トンデモだから、そう思わざるを得ない。   @阿波
0097日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 06:54:48.55
>>96
短里なんて言ってる方がトンデモ
そんなもんで説明出来てる気になってるの?
0098日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 07:22:51.70
>>97
トンデモだから、そう言わざるを得ない。   @阿波
0099日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 07:36:17.51
まあ結論から言うと始皇帝の残存部隊の生き残りらが結成したのが邪馬台国ってことになるわけな

匈奴とかそんなのも関係ないんだよ

なんでこいつらが倭人とやらと関わってんだよ?って話やがまあ押し掛けて来たってとこやろ
0100日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 07:37:43.07
連中ら一時期は中国山東地方におった

そのあと半島南部にでも来てやがて九州あたりにまで勢力伸ばしたの?って話なわけ
0101日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 07:39:24.55
つまり、「阿波」以外は「魏志倭人伝」も「短里」も「方角」も否定しないと成り立たない。   @阿波
0102日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 07:39:34.91
韓王だの呼ばれる王が半島南部に来て自分が王だと宣言した

これが韓と呼ばれ始める始まり
0103ネトウヨボクメツタイ!
垢版 |
2024/05/17(金) 08:32:00.75
三韓の文化は遼寧の粘土帯土器文化人にルーツがある
檀君神話では韓民族の出自が南満洲と読み取れるが、これは三韓の民族的発祥地が西遼河地方だったという遠い記憶の残滓なのだろう

日本神話では天皇家の先祖である卑弥呼や本貫地ヒムカの場所すら忘れているようだからネトウヨも誇れたものではない
0104ネトウヨボクメツタイ!
垢版 |
2024/05/17(金) 08:43:04.99
卑弥呼の政権中枢には漢文を書ける者がいた
これは間違いなく渡来人だ
国書レベルの漢文というのは千字文を知っている程度で書けるわけではなく、古今の故事に通じる難しい単語や文章全体の韻律にも考慮した美文でなくてはならない
教養人として一流の教育を受けていなければ作成できないものなのである

纏向にはオンドルがあった
崇神朝以前の邪馬台国時代から畿内のヤマト王権には韓半島出身者が官僚として仕えていたはずなのである
0105日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 08:48:53.73
卑弥呼と組んでいたのはいわゆる天日槍だろう
大物主葦原シコと争っていた人物
0106日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 08:51:17.47
チョンコはヘイト民族
0108日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 08:59:52.19
卑弥呼崩御の前後に竈が伝わって飯炊きが変わり
福岡平野に官営・古八幡製鉄所が稼働
大忙しだな。狗奴国と遊んでいただけではなかったようだ
0109日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 09:00:02.60
でも九州説は韓国産
0110 警備員[Lv.6(前13)][苗]
垢版 |
2024/05/17(金) 09:02:39.10
北部九州からは伊都国など数か所から硯が見つかっている
外交や貿易の文書を書いていたのだろう

なお、纏向遺跡からはこうした大陸との交流の痕跡が全く何も出て来ない
0111ネトウヨボクメツタイ!
垢版 |
2024/05/17(金) 09:04:00.98
日本神話には星の信仰がない
東アジアでは教養人としての教育は幼児期に、天地玄黃宇宙洪荒日月盈昃辰宿列張、という千字文を学ぶところから始まる

倭人の多くが漢文教育を受けていたならば、まず宇宙や星の話から学びが始まるので、星を忌み嫌う文化が生まれるはずがないのである

これだけでも倭人が漢字を学んでいなかった証拠たりえるという事である
0112スレ閉めろよ
垢版 |
2024/05/17(金) 09:10:30.94
長々とスレが続いてるけど

いまだ、纏向遺跡で倭人伝記述と合致する遺物を列記できないじゃん

このスレもう閉めたら

誰かがタイトルだけ引き継いで短いテンプレで続けりゃよいよ

公金チュウチュウのでっち上げ纏向王都はやめたほうが良い

纏向はヤマト王権発祥の地も怪しいよ。畿内説の学者は詐欺師かいな
0113スレ閉めろよ
垢版 |
2024/05/17(金) 09:10:50.56
長々とスレが続いてるけど

いまだ、纏向遺跡で倭人伝記述と合致する遺物を列記できないじゃん

このスレもう閉めたら

誰かがタイトルだけ引き継いで短いテンプレで続けりゃよいよ

公金チュウチュウのでっち上げ纏向王都はやめたほうが良い

纏向はヤマト王権発祥の地も怪しいよ。畿内説の学者は詐欺師かいな
0114日本@名無史さん
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2024/05/17(金) 09:21:37.01
>>110
北部九州が邪馬台国と関係があったのは確定
あとは北部九州だけが邪馬台国の連合政権だったのか、畿内〜北部九州が邪馬台国の連合政権だったのか
どちらかだろう

キナイさんが北部九州を叩けば叩くほど畿内説が崩壊する
0115混一疆理歴代国都之図
垢版 |
2024/05/17(金) 09:23:25.59
>>84
根拠にはできない。
混一疆理歴代国都之図は1402年に李氏朝鮮で作られたものであり、
それまで、遣唐使、遣隋使、元寇、、、いろんな大陸との接点があり
混一疆理歴代国都之図は当時としても日本の位置は間違った地図として有名である。

学者でこの地図を用いて魏志倭人伝を語る人はいない。いればバカ
0116日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 09:25:47.01
>>111
あんた もういいよ頭悪すぎ
0117日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 09:25:47.98
3人の朝鮮極左が逮捕された模様です
0118日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 09:26:52.22
>>111
派閥(少数民族)によって異なるが、神代文字(阿波文字)を使っている。   @阿波
0119日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 09:32:50.92
>>112
荒らしをするのは馬鹿の証拠
0120日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 09:35:33.22
キウス
0121日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 09:39:33.01
畿内説の根拠は後世の「ヤマト」が〜3世紀の記録文献に記載された「ヤマタイ、ヤマイ」に発音が似ているからだそうです

これは昔話に出てくる山田さんと最近会った山中さんは同一人物または山田さんの末裔だと言い張ってるようなものですね
0122日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 09:40:14.33
語尾は二重母音になりまへん
0123日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 09:49:44.14
>>119
あんたが、纏向遺跡で倭人伝記述と合致する遺物を数多く列記してやればいいだけ

できないのかいワハハ
0124日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 10:14:58.33
>>121
新井白石だっけ?
大和(やまと)みたいだから畿内説だったのに
筑後の山門(やまと)を知って九州説を唱えたお茶目さん
0125日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 10:24:20.78
後漢時代の発音はヤマダ
0126日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 10:32:25.98
山田なら筑後にあるな
0127日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 11:15:33.54
240年に中国人が会った
日本の女王卑弥呼は、どこの女王か?

文献で記紀がある朝廷の奈良は
まず除外するのが手順だろ?
そんな女王は知らん。きっぱり!

なんで大和朝廷に三国志時代の
魏に朝貢する王が居る? 
内乱中の中国なんて関係無いだろ?

考古学なら漢の金印の九州が候補
240年以前の中国銅鏡や鉄も。

BC200から友好的だった
青銅輸入の道が魏て塞がれたんだよ?
魏に銅がないから公孫氏は呉と交流だよ。
0128日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 11:22:50.42
まず邪馬臺が何を指してるかだよね
日本人は卑弥呼は邪馬臺の王だと言ってるはずで隋の時代までずっと
都於邪靡堆則魏志所謂邪馬臺者也で都を指してる
唐書になるとこの記述はなく倭国条と日本条でどちらも読みはヤマトで国家
0129日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 11:35:27.75
>>127
銅鐸を壊して鏃作り出したのはそれが理由じゃないかと思うんだけどな
0130日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 11:38:10.11
邪馬壹は九州、邪馬臺は大和だよ
0131日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 11:41:08.09
>>129
たしか大和朝廷は銅鐸知らないとか?

250年に武器に作り直したなら
記憶には残りそうな?
0132日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 11:43:16.01
>>131
1000年まえくらいだろ
忘れとるわ
0133日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 11:51:36.34
>>130
魏で臺は絶対的表意文字であり
公開文書では
倭人の女王の都城の意味としては
不適切なので壹や嘉に変更された。

魏使が報告書で使ったのは、
自分が参問して漢字にした
邪馬国で見た卑弥呼の臺として
そのままの表意文字国名の邪馬臺国
0135日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 12:08:02.18
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)





久 努 国 ( く の の く に )





久 努 国 ( く の の く に )





馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
0136日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 12:10:55.64
どっちにしろ大和に都があったんだからそれが邪馬台国だよ
0137日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 12:15:01.01
付庸
従属国、属国
付き従う者、随従者
付属物

自竹斯國以東皆附庸於俀(隋書)
筑紫国より東はみな倭における従属国である

裴世清は倭国の属国に置かれた都に招かれたわけだ
0138日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 12:24:30.00
>>137
ばかの人ですか?
筑紫から倭の本国の手前までが属国なのに
0139日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 12:30:39.48
>>138
具体的にどこのこと?
0140日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 12:31:01.55
>>136
大和の都ってどこだよ?
まさか纒向古墳造営基地局とか?
隋書の時代には纒向なんて無かったんだぞ?
0141日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 12:37:27.13
新井白石は朱子学者だからな
君臣の忠を重んじる朱子学では蜀漢正統論で曹操は奸臣だから
0142日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 12:41:58.46
つまり畿内説はヤマトが何なのかも調べられない日本の底辺学者の寄せ集めでしたと
0143日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 12:42:05.10
畿内説は、邪󠄂馬臺の文字や読みにこだわるが、隋書俀国伝の「俀」についてはどう考えてます?
0145日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 12:47:10.94
魏志倭人伝自体、多分に陳寿の理念や想像が含まれてるよね
どこまで本当でどこまで想像で書かれてるかわからない以上、朝貢や下賜などの外交記録以外の事は考古学的に確認できた事以外無視しないと
永遠に正解に辿り着けない
例えば卑弥呼の墓の生贄とかその最たるもので思いっきり中国側の常識日本にそんな風習はなく、そんな墓もどこにもない
そもそも玄室以外に余計な空間はなく閉じ込める部屋もない
0146日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 12:48:29.90
>>144

東松浦郡が出来たのは明治11年なんだけどな
0147日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 12:52:31.53
>>143
>隋書俀国伝の「俀」について

倭の異体字
0148日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 12:55:10.87
外来の北魏や金が曹魏をヨイショしちゃったせいで朱子学ブチ切れw
0149日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 12:58:06.47
邪馬臺国(大和朝廷)が曹魏の朝貢国だったことに国学ブチ切れw
0152日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 13:05:08.43
>>150
日本語知らないのかw
0155日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 13:13:50.73
>>137
付庸国の対義語は宗主国となる
重要なのは倭地内に於いて宗主国と付庸国の関係を見出しているということ
それは大和を起点に把握されているのではなく、筑紫を起点に把握されているということ

考古学者による東遷説
記紀における東遷説話

畿内説の人たちが嫌がりそうな何かが醸し出されているよな
0156日本@名無史さん ころころ
垢版 |
2024/05/17(金) 13:16:18.25
里数での行程説明は公孫氏時代からの引用で
日数での行程説明は魏使の梯儁の報告書からの引用
何方も帯方郡からの行程で
12000里に水行20日、水行10日陸行1日掛かるってこと。
0157日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 13:17:39.45
>>143
今まで考えた事もなかった
俀だとタイ国とかテ国になるみたいでワ国とは違うな
0158日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 13:24:20.88
「自竹斯國以東皆附庸於俀」

又至竹斯國、又東至秦王國、又經十餘國は皆俀に附庸している

俀国は、都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也
0159日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 13:28:54.45
>>155
竹斯国以東はみな倭に付属している。
東亜古代史研究所塚田敬章さんの翻訳だけどそれだとこの解釈が違ってくる
倭に属してるんであって竹斯国に属してるんじゃない
0160日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 13:34:54.02
>>153
すごく知能低い人かな?
隋書見た事ないんだね
0161日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 13:37:00.06
魏志
南に南に移動した先にあった邪馬臺国、東に海を渡ると女王に従わない倭種の国々がある

宋書
倭王武の先祖が東西に121国平定した

隋書
東に東に移動した先にあった邪靡堆、十余国を経て(難波の)海岸に達した、筑紫から東はすべて倭に属す
0162日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 13:37:55.16
>>155
あなたの知能が低いだけ
0163日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 13:41:16.76
後の中国正史の日本に対する記述を読んでも誤解や間違いだらけなんだから
そんな細部の記述を全て正しい前提で読んでもキリがない
元々半分想像と伝聞を書いてるんだから
0164日本@名無史さん ころころ
垢版 |
2024/05/17(金) 13:41:24.05
隋書によれば、筑紫国の東に秦王国という中国語を話す外国人国家があったそうだ

つまり畿内説の主張するヤマトは西日本統一国家だったニダ!は歴史捏造でしたと

お巡りさん、逮捕よろしく
0165日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 13:46:18.80
>>163
勿論文書に書かれたものだと理解してるし俀と倭は同じだと思ってるけど
どういった意味の違いがあるんだろうなと
0166日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 13:49:06.24
秦王國が中国語を話すというのは書いてない
五世紀末ごろに渡来した京都盆地の秦氏が
ヤマト王権の政策で豊前に掌管者として進出したのは六世紀前半

ttps://adeac.jp/miyako-hf-mus/text-list/d200040/ht030700
0167日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 13:50:21.88
>>164
書いてある通りだと秦王国も当然倭に属してる
ただどういう状態の国なのか想像できないな
0168日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 13:50:54.08
和音で奈良の じゃびだい は無い。
馬鹿耳の中国人だな。

聖徳太子は、教典読めたし
三国志読んでて、倭国は、
自国の日本統一前のどっかの小国だ
と言った。

それより
魏志では、邪馬臺国 だってよ。
な、壹は、改竄だろ?
つまり和音として使って無いよ。
0169日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 13:54:23.87
隋書の時代に奈良にあったのはジャビタイ
後漢書の時代に記録されたのはヤマダ

ということで良さそうだな
0170日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 13:57:54.04
隋書俀国伝に阿蘇が出てくるのが不思議だったが、わかったような気がす
0171日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 13:58:04.19
まあでも東亜古代史研究所に書いてある通り竹斯国より以東だと
都斯麻国や一支国は倭に属してないのかよって話しになる
0172日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 14:01:01.27
離島だから端折ったんだろ
0173日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 14:01:50.77
>>170
阿蘇は有名よ
棺用のピンク石を近畿まで運んでる
0174日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 14:05:20.96
裴世清が来たのが(大業四年 608)だから
磐井がしばきまわされた80年後
0175日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 14:05:43.55
>>171
奈良から西征を始めてやがて九州北部を併合して筑紫国を置いたところまでで
島嶼部はまだ明確に奈良に併合されていなかったのかもな
0176日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 14:07:42.56
(奈良から見て)国が尽きるところだから筑紫
海を渡った先にある島々は国が尽きた先なのだな
0178日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 14:10:24.35
伊都国も奴国も不弥国も消滅して筑紫国にされてしまったのだなあ
0179日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 14:11:05.63
裴世清は倭王に請われて
律令制の説明にきた文官。

倭王、聖徳太子も
漢文、教典も読めた。
法隆寺出来た時だよ?

なんで、耶摩都 程度で伝わらない?
600年以前の奈良は
ホントに やまと だったのか?
0181日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 14:12:05.82
同じ言葉を使っているとは書いてない
0183日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 14:13:48.30
都斯麻国から東に行って一支国に至るとも書いてるし
何処なんだろうと考えたんだけど間違いなんでしょう
0184日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 14:14:23.22
「ニホン」もずっと伝わってないし
0185日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 14:15:17.54
>>164
>隋書によれば、筑紫国の東に秦王国という中国語を話す外国人国家があったそうだ

裴世清を迎賓した秦王国は、東四国のさぬき市難波郷津田。   @阿波
0186日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 14:15:37.54
>>179
「ヤマト」の存在を確認できる記録は無い
日本は紀元前660年から続く国だとよく言われてるが中国史書のどこにもヤマトと読む文字は出て来ない

何の証拠も示さず邪馬台国はヤマトなのだ!とほざいてるような学者は日本の学問の足かせでしか無い
学位剥奪しろよって話
0187日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 14:17:15.47
>>186
じゃあ日本語の国名はなんなのよ?
0188日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 14:17:52.07
九州説がどんどん袋小路のトンデモ説に堕落していく姿が痛々しい
0189日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 14:18:02.53
>>173
>棺用のピンク石を近畿まで運んでる

運んでいない!

お前がしきりに言っているそのピンクの石は、徳島県の石に選定されている「紅簾片岩」だろう。
『日本地質学会が「県の石」選定』
徳島県は岩石が「青色片岩」 鉱物が「紅蓮石」 化石が「三角貝」
その「紅蓮石」は、勾玉製作に必要不可欠な石。
「伊加々志神社」の境内にある崇神天皇を祀っている「王子宮」?に使われている。   @阿波
0193日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 14:22:27.15
>>191

だから同じ言葉を使っているとは書いてない
0194日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 14:23:10.05
>>173
まず、間違いなく紅簾片岩だろう。 阿波の青石といっしょに「阿波」から運ばれたものと思われる。
他に熊本由来の物があるならともかく、熊本から来る訳がない。    @阿波
0195日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 14:23:43.70
魏志倭人伝に記述があるものが九州にある以上、畿内説や纏向はありえない。
記紀でも九州説がほぼ確定。
地質学でも九州説がほぼ確定。
シナ朝鮮の歴史書でも九州説がほぼ確定。


畿内説は福永とか関西系の考古学者だけが編年捏造と願望からくる妄想で言ってるに過ぎないわけで、まったくありえない。
銅鏡100枚以上に出土する三角縁は卑弥呼の鏡ではない。
景初4年というありえない鏡が出てくるから国産の鏡である。
前方後円墳は卑弥呼の墓ではない。卑弥呼の墓は円墳である。
神武が初代天皇におさまってから数世代後になって九州平定をしている。
前方後円墳の時代ごとの広がり方を見ればもともとは畿内だけにあった独立した勢力が大和王権であり邪馬台国とは無関係であることはほぼ確定。。
0196日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 14:24:35.49
張政が台与に檄を飛ばしに謁見に来て張政の見送りとともに266年に晋に
朝貢したときの台与の年齢が31くらいとか言ってる輩がいるけど、
俺にはそうは思えないんだよな

台与が即位したのに18年近くも帯方郡は何やってたんだって話になるだろ

やはり卑弥呼が248年頃に崩御して男王が即位し、266年に13歳の台与が即位して
国が治ったので張政が即位のお祝いの謁見に来て晋に朝貢したとしか読めないね
0198日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 14:30:24.36
>>183
https://i.imgur.com/p464XXX.jpeg
魏志は南へ南へ移動して末盧国へ
隋書は東へ東へ移動して筑紫国へ

半島から渡海のスタート地点もゴール地点も違うのだ
0199日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 14:34:00.76
>>197
片手落ち。

「紅蓮石」も調査したのか?  馬門石より「紅蓮石」が紅が鮮やかで上等。   @阿波
0201日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 14:34:18.52
>>196
張政は247年にすぐに帰国している
266年まで長いこと倭国にいたりしない
0202日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 14:35:40.86
つまり畿内説は文系にも満たない読解力で文系どころか理系のフリまでして霊感商法を働く悪質詐欺師でしたと
0203日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 14:37:17.54
そもそも張政は黄幢を持ってきただけだからな
黄幢渡したらもう命令された用事は済んでる
0204日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 14:38:20.34
ニギハヤヒが伝えた死者復活儀式の呪文。だそうです

おくつかか へつかか
つるぎかか いきかか
たりかか しなずかか
ちもりかか かもりかか
むしひれ はちひれ
へみひれ けものひれ ものひれ
ひひ ふふ みみ よよ いい
むむ なな やや ここ とと
もも ちち よよ
ふるべ ふるべ
ゆらべ ゆらべ
ーーーーーー
万は「よ」と言ってたよう
0206日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 14:41:10.32
伊勢遺跡は一世紀末からあるのだな
帥升だな
0207日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 14:45:49.03
それに台与が晋に朝貢したときの大夫はなぜか難升米じゃなくて掖邪狗だから
やはり13歳即位&張政謁見&晋朝貢は266年の出来事だよ
0208日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 14:48:54.07
>>200

お前は>>177
>我々(中国使者)と同じ言葉を使っていると【書いてある】

と書いたから、
俺は同じ言葉を使っているとは書いてないと言っている
0209 警備員[Lv.10][新苗]
垢版 |
2024/05/17(金) 14:50:44.17
難升米

↑鳥之石楠船神 とりのいわくすふね

ようやく、たどり着いたw

難升米は、海運に精通していた船神でした
0210日本@名無史さん
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2024/05/17(金) 14:50:50.70
随書時は
そもそも遣随使の帆船で
難波津辺りが母港。

裴世清は、防衛上のためか
直接瀬戸内海~大阪湾に入らず
あちこち寄って待たされたが

黄海から半島、済州島を目印に進んで
対馬海峡で博多湾筑紫に入った。

帆船の航海には、
目視出来て1日渡海千里のような
水行の制限が無い。
0211日本@名無史さん
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2024/05/17(金) 14:52:53.23
>>207
其の後にも東夷30国が来たという記録があるが女王という文字は出てこない
台与が270頃に死んでしまったか、再び男王時代に戻ったかだ

>>208
お前は同じ人種だが違う言葉を使っていたとでも解釈してたのか?
0212日本@名無史さん
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2024/05/17(金) 14:53:37.13
記紀には、垂仁天皇、景行天皇の御代(242-320年)に2代にわたって纏向に都を作り、
それぞれの代で、珠城宮、日代宮と呼んでいたとしっかり書いてある。
0213日本@名無史さん
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2024/05/17(金) 14:53:40.75
>>204
かなり後に作った言葉のように思えるが、

おく    へ
      いき
たり    しなず
ち     か
むし    はち
へみ(ヘビ?) けもの  もの
以下略
0214日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 14:55:48.05
ちなみに、崇神紀65年の記事に筑紫と任那の間の距離が2000余里と記されている
0215日本@名無史さん
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2024/05/17(金) 14:57:51.72
>>211

書いてないものは書いてない
そもそも華夏といっても隋は非漢民族が建てた国
0216日本@名無史さん
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2024/05/17(金) 15:01:30.04
>>115
古今華夷區域總要圖、四海華夷總圖を見ても分かる通り、日本は縦長
0217日本@名無史さん
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2024/05/17(金) 15:02:30.35
>>201
>張政は247年にすぐに帰国している

このように
いつも理由全くなしに決めつけるのがトンデモ九州説
0218日本@名無史さん
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2024/05/17(金) 15:03:19.87
https://i.imgur.com/zxcgmUL.jpeg
冊府元亀に台与の遣使は正始8年(247年)とはっきり書かれてる
帰国する張政が送られた遣使がこの247年なのは間違いない
0219日本@名無史さん
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2024/05/17(金) 15:04:13.90
秦王國其人同於華夏
その人だから王が中国人と同じって事じゃないかな?
0220日本@名無史さん
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2024/05/17(金) 15:04:58.54
ChatGPTの翻訳いいね、DeepLよりかなりましだわ

華陽國志 陳壽伝
「陳壽,字承祚,巴西安漢人也。少受學於散騎常侍譙周,治《尚書》、《三傳》,銳精《史》、《漢》。聰警敏識,屬文富豔。初應州命,衛將軍主簿,東觀秘書郎,散騎、黃門侍郎。〈《晉書‧壽傳》作:「仕蜀,為觀閣令史。」〉大同後,察孝廉。為本郡中正。」

<ChatGPT訳>
陳壽は、字を承祚といい、巴西の出身でした。彼は若い頃、散騎常侍の譙周に学び、『尚書』や『三傳』を修め、また、歴史書や漢書にも精通していました。彼は聡明で機敏であり、文章に華やかさを持たせることができました。最初は州の命に応じて、衛将軍の主簿として任命され、東觀秘書郎、散騎黄門侍郎となりました。後に大同年間に孝廉に推挙され、郡の中正となりました。
0221日本@名無史さん
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2024/05/17(金) 15:06:28.95
>>217
張政だって暇じゃないしそれだけやってるわけにもいかんだろ?
0223日本@名無史さん
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2024/05/17(金) 15:08:26.50
>>211
崇神に譲位したんだろ
0225日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 15:10:23.62
265年に魏が滅亡した時に
魏の威光を背景に30国連合をまとめていた台与が失脚したんだろうな
0226日本@名無史さん
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2024/05/17(金) 15:12:06.02
邪馬台国を太平洋に沈めるか、日本列島を南に回転させるかの二択
オッカムの剃刀
0227日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 15:14:38.57
張政は247年に難升米に黄幢を渡しに来日して、
266年に台与の即位祝賀で檄を飛ばしに来日したんだろ

だが266年のときには、もう難升米は亡くなっていたと
0228日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 15:16:15.12
九州説とは
方位のズレを説明できない
福岡を船で陸を一ヵ月進み、さらに一ヵ月歩く
古代福岡の戸数が三韓と同じになる
投馬国の位置がコロコロ変わる
狭すぎて傍国21ヵ国が比定できない
すぐ沈没する低湿地が都
吉野ケ里は水田跡も見つからない
卑弥呼の墓も見つからない
青玉も丹も出ない
0229日本@名無史さん
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2024/05/17(金) 15:30:00.69
>>195
>魏志倭人伝に記述があるものが九州にある以上、畿内説や纏向はありえない。

何があるの?

このような無内容の精神論が九州説
だから滅んだ
0230日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 15:30:01.81
>>195
>魏志倭人伝に記述があるものが九州にある以上、畿内説や纏向はありえない。

何があるの?

このような無内容の精神論が九州説
だから滅んだ
0231日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 15:41:01.19
台与の前は内乱だからね
3世紀後半纏向遺跡から吉備の土器が見られなくなり、河内や山陰の土器が急増する
纏向遺跡の人々を宥め鎮めたのが台与なのかもな
0232日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 15:43:53.55
>>218
>冊府元亀に台与の遣使は正始8年(247年)とはっきり書かれてる

はっるか後世の人の解釈を盲信するのは馬鹿のやること
客観的にみて明らかに間違いでしょ
0234日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 15:54:21.89
卑弥呼の代ではいろいろ手を尽くしても国はまとまらなくて
台与の代になってやっと国がまとまったとも読めるな
0235日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 15:57:14.44
三国志の魏志は張政の報告書をもとに書かれてるから247年で記事が終わってるんだよ
張政は247年で帰国したから報告書がそこまでしかないんだろうね

魏の時代のできごとなら263年あたりにも倭国から何度か朝貢があるんだけどな
0236ネトウヨ撲滅隊!
垢版 |
2024/05/17(金) 16:11:49.90
ヒロヒトは本来は縛り首になるべきS級戦犯であった
彼らはあのヒトラーですらやらなかった神を自称した歴史上最後の人物
東条英機よりも悪質であったと思う

天皇制は日本敗戦の時に廃止されるべきだった
次の天皇が愛子になり、彼女が一般人と結婚して男子を産めば、天皇家は次の皇位継承権を喪失する
そうすれば右派左派とも納得の上で天皇は終焉を迎えるだろう

天皇家は卑弥呼から始まり愛子で終わる
有終の美を飾って歴史から退陣するのが良いだろう
0237日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 16:16:14.28
このように日本ヘイトをし続けるのがチョンコ
0238日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 16:16:32.43
>>233
>魏志で正始八年のでき事です

証拠は?
0241日本@名無史さん
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2024/05/17(金) 16:21:28.71
>>210
>随書時はそもそも遣随使の帆船で難波津辺りが母港。

前期難波宮の津は、さぬき市難波郷津田の津。   
ちなみに、大阪市中央区の後期聖武難波宮には「津」は無い。   @阿波
0243日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 16:22:00.47
>>236
東条英機は良い人です
0244日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 16:22:43.45
つまり畿内説は後世の霊感商法詐欺師によるオレオレ詐欺でしたと
0246日本@名無史さん
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2024/05/17(金) 16:25:21.06
>>239
つまり畿内説は4世紀以降の渡来人によるオレオレ詐欺でしたと

2018/11/28のニュースより
■最古の大壁建物跡か 奈良・高取の遺跡で発見
「建築年代は4世紀末〜5世紀初めと推定され、
最古の大壁建物跡の可能性もある。
渡来人が入植を開始したのは5世紀後半と
考えられていたが、大幅に早まる可能性が出てきた。」
「同町では、朝鮮半島式の床暖房装置(オンドル)を
持つものを含めて約40棟見つかっている。」
 
「白石太一郎・大阪府立近つ飛鳥博物館名誉館長は、
建物の時期についてはさらに検討が必要としながらも、
(現場に)居館や祭祀施設など渡来系の人たちが
営んだ重要な施設があったことは間違いないとみている。」
0247日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 16:37:25.74
>>245
もうそろそろ、気づかなければ。   @阿波
0248日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 16:45:50.00
九州説の人って頭がおかしいいの?
0249日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 16:48:02.33
逆に言うと畿内でそのレベルでしょ
応神朝も終わってその次くらいか
0250日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 17:02:46.49
卑弥呼と今の日本人は関係ない
倭人の末裔は琉球人 琉球人とアイヌは近年まで入れ墨の風習を保っていた
0252日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 17:07:28.64
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである







.
0253日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 17:11:25.99
つまり畿内説は出処不明の妄想作文に終始するだけでしたと
0254日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 17:15:54.23
考古学的最新情報

・古墳時代は2世紀の東日本から始まった
・纒向遺跡の以降の下から3世紀の遺構が発見された
・ミュー粒子観測による箸墓古墳の透視調査の結果は畿内説にとって不都合なので発表出来ない
0255日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 17:21:05.62
>>210
中国船が大阪湾まで行けるようになったのは平清盛が瀬戸内海航路を整備した平安時代末期以後の事
それまでは瀬戸内海には途中に幾つもの難所があるので船ではなく山陽道の陸路を使用するか日本海を通り若狭湾付近に上陸していた
瀬戸内海を通るなら外洋船ではなく小舟を使用
裴世清が何故山陽道を通らず小舟で難波に向かったのか不思議。
0256日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 17:21:51.50
>>254
それ考古学と無関係な空想
0257日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 17:22:05.96
>>229-230
邪馬台国は九州にあった。

魏志倭人伝に「兵には矛、盾、木弓を用う」「倭錦上献す」「宮室、楼観、城柵」「棺有りて槨無し」の記述があり九州の遺跡・遺物と整合する。

鉄製武器、鉄鏃(てつぞく)、矛、絹などは、九州での出土数が、畿内よりも圧倒的に多く、大和では、弥生時代の鉄器はほとんど出土しない。

弥生時代の絹が発見されるのは北部九州だけである。

佐賀県吉野ヶ里遺跡には、魏志倭人伝の邪馬台国に描かれている宮室、楼観(物見やぐら)および城柵跡の3つがそろって発見されている。
畿内にはこれら三点セットがそろった遺跡は発見されておらず、倭人伝は九州の邪馬台国の様子を描いたもの。

「棺ありて槨なし」の埋葬形式は、北部九州に多い箱式石棺の形式に一致する。
奈良盆地での埋葬形式は、ホケノ山古墳のように「木槨」が出土しており、倭人伝の「槨なし」の記述とは異なる形式。
0258日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 17:24:33.07
>>255
このような
理由のない妄想をただ言い張るのが九州説
0259日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 17:24:34.14
>>255
このような
理由のない妄想をただ言い張るのが九州説
0260日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 17:26:38.08
>>257
>「棺ありて槨なし」の埋葬形式は、北部九州に多い箱式石棺の形式に一致する。

棺な無いので、まったく不一致ですが
0262日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 17:28:30.83
>>257
>奈良盆地での埋葬形式は、ホケノ山古墳のように「木槨」が出土しており、倭人伝の「槨なし」の記述とは異なる形式。

ホケノ山古墳は「槨なし」
0264日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 17:31:04.14
>>228
呼子付近に上陸して東松浦半島内を南下し唐津市街付近から東へ向かったから南東なんだよ
末盧国への上陸地点が呼子付近、伊都国の入り口が現在伊都G.C.付近の丘陵なんだ
更に伊都G.C.付近の丘陵から糸島峠付近へ向かったので「東南至奴國」
そこからは室見川沿いに下り不弥国に着く
だから九州説では方位のズレは存在しない
陸行1月は陸行1日の誤記で呼子から伊都G.C.付近の丘陵までの五百里(40km)に掛かる時間
21か国は奴国から奴国までの北部九州地域一周5000里に在る国々。
0266 警備員[Lv.1][新芽]
垢版 |
2024/05/17(金) 17:36:11.75
関川先生の年代観によると、平原に200年頃に40面の銅鏡を副葬した北部が、魏と交流したはずなのに、漢鏡1−2−3を飛ばして、
いきなり魏鏡である三角縁神獣鏡を副葬し始める。
那珂八幡古墳の三角縁神獣鏡1面だが、椿井大塚山などと同笵である。
これは布留1であり、関川の布留0は370年なので、那珂八幡古墳は5世紀の墓ということになる。

すなわち、239年に魏と交流を持ったのに、200年間銅鏡がほとんど出てこない。

漢鏡3→4→5→6(数は少ないが)と順調に銅鏡を手に入れた後、漢鏡7-1、漢鏡7-2、漢鏡7-3はほとんど出ず、三角縁神獣鏡が5世紀に途絶を経て、畿内から配布されるようになる。

全く荒唐無稽と言わざるを得ない
0267日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 17:36:39.67
>>255
>裴世清が何故山陽道を通らず小舟で難波に向かったのか不思議。

裴世清を迎賓した秦王国は、東四国のさぬき市難波郷津田。   
ちなみに、大阪市中央区の後期聖武難波宮には「津」は無い。   @阿波
0268日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 17:41:06.48
畿内説が完膚なきまでに論破されててワロタwwwwwwww
0269日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 17:42:52.28
畿内説はすべてがファンタジーでワロタwwwwwwwwww
0270日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 17:46:39.94
なるほど、邪馬台国は九州以外
0271日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 17:49:08.24
魏志倭人伝の地理観
魏志倭人伝の世界観
https://www.j-real.com/ta-san/yamatai/map3.jpg
https://stat.ameba.jp/user_images/20191003/09/akamamakai/21/ce/j/o0498055814605449986.jpg
https://kochizu.gsi.go.jp/items/74

九州説とは
方位のズレを説明できない
福岡を船で陸を一ヵ月進み、さらに一ヵ月歩く
古代福岡の戸数が三韓と同じになる
投馬国の位置がコロコロ変わる
狭すぎて傍国21ヵ国が比定できない
すぐ沈没する低湿地が都
吉野ケ里は水田跡も見つからない
卑弥呼の墓も見つからない
青玉も丹も出ない
0272日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 17:49:08.65
なにも反論出来ず悪口だけの九州説は死んでいる
0273日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 17:53:26.42
寺澤薫の著書を参考にすれば平原王墓の喪主は卑弥呼だろうな
0274日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 17:53:50.92
ホケノ山の築造年代は225年頃であろう
画文帯神獣鏡と内行花文鏡の破片が出てる
鉄鏃60本、素環頭大刀1口、鉄製刀剣類10口などが出ている
画文帯神獣鏡も考慮すると、素環頭大刀、鉄製刀剣類も舶載であることが確実だ

ここで225年という年代を考えると、卑弥呼が遣使する14年前のことである
纒向邪馬台国は直接、すでに少なくとも半島に行っていたことになる
同じく弥生後期後葉の阿波萩原1号でも北朝鮮平壌市大同と同笵の画文帯神獣鏡が出ている

このことを考える時、畿内では2世紀前半〜半ばにすでに弥生集落の解体と再編を済ませ、自律的に王都纒向を建設したと言えよう。
0275日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 17:59:39.76
九州説を全否定する太平御覧版「魏志倭人伝」
◆東南陸行五百里到伊都国、官曰爾支、副泄謨觚柄渠觚有千余戸、世有王皆統属女王、帯方使往来常止住
◆又東南至奴国百里、置官曰先馬觚、副曰卑奴母離。有二万余戸
◆又東行百里至不彌国、戸千余、置官曰多模、副曰卑奴母離
◆又南水行二十曰至於投馬国、戸五万、置官曰彌彌、副曰彌彌那利
◆又南水行十日、陸行一月至耶馬臺国、戸七万、女王之所都、其置官曰伊支馬、次曰彌馬叔、次曰彌馬獲支、次曰奴佳鞮、其属小国有二十一、皆統之
◆女王之南又有狗奴国、男子為王 其官曰拘右智卑狗者 不属女王也

・文頭に「又」があるため放射読み出来ない
・投馬国が於投馬(イォドゥマ)国と表記(イヅモと読める)
・狗奴国の官名が拘右智卑狗と表記(菊池彦と読めない)
0276日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 18:00:45.24
つまり倭国大乱もないし卑弥呼を共立する理由もなかった畿内東の倭種
0277日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 18:01:17.47
まあ奈良盆地の纒向あたりって東海勢力圏だよな
昔は伊賀だったろ?
今の県境とは全く違うからな
0278日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 18:04:19.75
>>277
濃尾平野はほぼ海だったけどな
0280日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 18:11:30.63
>>277
突線鈕3式、4式、5式と東海は畿内の銅鐸を受け入れている
また、庄内0から纒向の建設に参加していた邪馬台国の古参である
0281日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 18:11:47.02
>>273
>寺澤薫の著書を参考にすれば平原王墓の喪主は卑弥呼だろうな

まったく理由無いですが
0282日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 18:15:37.45
辰砂は、九州においては主に熊本県の阿蘇地域で産出され、当時の交易品ですけど。
0283日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 18:16:08.97
纏向は狗奴国の都だったかもしれんな
0284日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 18:16:48.30
>>282
証拠は?
0285日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 18:18:06.76
九州説はニセ情報で出来ている
0286日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 18:18:26.40
辰砂って水銀朱であり丹だよね。このまえ吉野ヶ里でも見つかったし。畿内説は都合の悪い事実は見えないんだねw
0287日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 18:21:50.73
>>286
九州の山にない
九州のは中国からの輸入品
九州説は崩壊ずみ
0289日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 18:22:25.31
>>271
帯方郡から女王国までの12000里
7000里+1000里+400里×2+1000里+300里×2+1000里+500里+100里=12000里

帯方郡から邪馬壱国までが、水行20日、水行10日陸行1日(月)

7000里に水行20日、4400里に水行10日、600里に陸行1日

呼子付近に上陸して東松浦半島内を南下し唐津市街付近から東へ向かったから南東なんだよ
末盧国への上陸地点が呼子付近、伊都国の入り口が現在伊都G.C.付近の丘陵なんだ
更に伊都G.C.付近の丘陵から糸島峠付近へ向かったので「東南至奴國」
そこからは室見川沿いに下り不弥国に着く
だから九州説では方位のズレは存在しない
陸行1月は陸行1日の誤記で呼子から糸島峠付近までの600里(40km)に掛かる時間
21か国は奴国から奴国までの北部九州地域一周5000里に在る国々。

ハイ論破w
0290日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 18:25:38.15
畿内説が日本人ではない証拠

>九州の山にない←九州に山が無いってか!?
>九州のは中国からの輸入品←朱を下賜された記録と一致
>九州説は崩壊ずみ←畿内説は開始点で破綻済み
0291日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 18:26:47.73
>>289
倭人伝の行程が間違いだったと言った瞬間
倭人伝の行程が根拠の九州説が即死
0292日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 18:28:38.37
>>290
日本語話せない人が支える九州説
0293日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 18:30:18.76
>>287
水銀朱が産出するラインが日本列島を九州から岐阜まで横切ってるわけだが畿内説妄想信者はそんなことも知らずに語るのね。
水銀朱は吉野ヶ里でもすでにこの前見つかってる、
日本の古代における水銀朱の産地は、主に九州地方にあるとされていて、
具体的には、熊本県の阿蘇地域や大分県の由布岳周辺などがその代表的な産地として知られている。
これらの地域は火山活動が盛んで、火山岩や火山灰層などから硫化鉱物が産出されている。
辰砂として知られる硫化水銀(水銀朱の主成分)も、このような火山地帯で形成される。
0294日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 18:32:01.24
>>281

「卑弥呼は平原一号墓の被葬者である女王ないしは女性最高祭司の後継者とも考えられているようだ。  私の考え方の枠組みと通じるところはある」

『卑弥呼とヤマト王権 (中公選書)』寺沢薫著
0295日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 18:33:28.48
>>290
>九州の山にない←九州に山が無いってか!?

この人間違いなく日本語話せない
九州説 made in Korea
0296日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 18:36:20.78
>>293
>日本の古代における水銀朱の産地は、主に九州地方にあるとされていて、

されてませんが

>具体的には、熊本県の阿蘇地域や大分県の由布岳周辺などがその代表的な産地として知られている。

いませんが

 
0297日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 18:41:08.62
>>294
つまり喪主だとか同じ政権だとか全く言ってない
0299日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 18:42:52.57
>>297
後継者なら喪主になる可能性が高い
0300日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 18:43:18.76
九州説はニセ情報で出来ている
0301日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 18:44:11.60
畿内説は公金詐欺。
0302日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 18:45:40.10
>>299
つまり寺澤と関係ないあなた独自の考えね
0303日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 18:49:56.84
>>302
繰り返すが寺澤薫の著書を参考にすれば、平原王墓の喪主は卑弥呼の可能性がある。
0304日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 18:50:20.40
弥生時代の奈良盆地にクスノキが自生していた痕跡がない
奈良の古墳の朱はほとんどがベンガラ
何より纒向に人が定住していた集落跡が無い(今も)
0305日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 18:51:52.57
>>295
朱な話だったな
松浦〜佐世保の山に普通にある
掘削する必要もないほど
0306日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 18:56:21.05
>>282
>辰砂は、九州においては主に熊本県の阿蘇地域で産出され、当時の交易品ですけど

赤土か?   @阿波
0307日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 18:56:32.36
王墓に水銀朱を使うと言っても大規模な掘削は必要ないからなあ
0308日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 18:57:40.03
>>286
>辰砂って水銀朱であり丹だよね。このまえ吉野ヶ里でも見つかったし。

つまり、吉野ヶ里は、倭人(阿波勢力)   @阿波
0309日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 18:58:56.01
>>293
>水銀朱は吉野ヶ里でもすでにこの前見つかってる

蛇紋岩製鋳型もな。 倭人(阿波勢力)だ。   @阿波
0310日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 19:03:45.74
萩原1号はわざわざ中国からお取り寄せだよ
朱はそうコストは掛からない選択肢の範囲だろうな
0311日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 19:05:42.31
末盧国の首都があった唐津市菜畑付近から伊都国に
行くには松浦川の河口は広すぎて渡れないし、渡ったとしても
伊都国(糸島市)の西側は絶壁だから伊都国には行けないから
魏使は一旦松浦川を南に下って、川幅が狭くなった所から川を渡り
七山村を通って山道を通って伊都国に入った、グーグルマップで見たら
良く理解できる
0312日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 19:10:04.04
>>311
>末盧国の首都があった唐津市菜畑付近

流されて、着けない。 無理!   @阿波
0313日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 19:11:02.97
官道もない時代だ
そういうこともあるのか古代の使節の官位はあまり高くないようだな
今では特命全権公使閣下だが
0315日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 19:46:09.50
徳島大学教授で歴博にも論文を載せる東潮先生が合理的だ
0316日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 19:47:15.25
>>296
日本の中でも火山が多い九州には西部と南部に二つの鉱床群があり、小さな産地も含めると、ほぼ全域で朱の採掘が行われていた。
『魏志』倭人伝によると、倭国は魏に対し、 生口せいこう (奴隷)や弓矢、綿布などとともに「丹」を献上したという記録がある。
0317日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 19:55:33.58
つるはしのようなもので掘削するほどの規模じゃなく
山間部の斜面に露出してる部分を掘り返して拾ってただけだろう
0318日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 20:16:13.54
東潮先生は、難升米(中国官位・率善中朗将)や都市牛利(中国官位・率善校尉)は、倭国の最高幹事指揮官であるとする。
例えば、黄幢が「仮に授けられて」、倭国に持っていけなかったことを、魏の半島戦略に組み込むためであるという。
魏は、244、245年、魏は毌丘倹を送り高句麗遠征を行い、246年には帯方太守・弓遵が殺害されつつも、諸韓国の反乱鎮圧と辰王撲滅作戦を完了させる。
0319日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 20:17:27.99
>>318の続き

宿敵高句麗の首都を遠方に追いやり、諸韓国の反乱鎮圧、辰王の殺害を達成した246年の後、247年についに倭国に黄幢が渡ることになる。
五尺刀が卑弥呼に渡され、黄幢は倭国の最高軍事指揮官・難升米に渡されることになる。

さらに、滋賀県雪野山古墳・福岡県石塚山古墳・椿井大塚山古墳・西求女塚古墳・京都妙見山古墳から小札革綴冑も出土することから、
これらは魏志倭人伝に登場する軍人、難升米、都市牛利、伊聲耆、掖邪拘ら8人、倭載斯烏越らの墓ではないかという。
0320日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 20:19:31.34
>>319
アホらしい。 各地に出張った倭人(阿波勢力)だよ。   @阿波
0321日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 20:24:54.12
魏志倭人伝の地理観
https://www.j-real.com/ta-san/yamatai/map3.jpg
https://stat.ameba.jp/user_images/20191003/09/akamamakai/21/ce/j/o0498055814605449986.jpg
https://kochizu.gsi.go.jp/items/74

九州説とは
方位のズレを説明できない
福岡を船で陸を一ヵ月進み、さらに一ヵ月歩く
古代福岡の戸数が三韓と同じになる
投馬国の位置がコロコロ変わる
狭すぎて傍国21ヵ国が比定できない
すぐ沈没する低湿地が都
吉野ケ里は水田跡も見つからない
卑弥呼の墓も見つからない
青玉も丹も出ない
0322日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 20:26:15.69
九州説を全否定する太平御覧版「魏志倭人伝」
◆東南陸行五百里到伊都国、官曰爾支、副泄謨觚柄渠觚有千余戸、世有王皆統属女王、帯方使往来常止住
◆又東南至奴国百里、置官曰先馬觚、副曰卑奴母離。有二万余戸
◆又東行百里至不彌国、戸千余、置官曰多模、副曰卑奴母離
◆又南水行二十曰至於投馬国、戸五万、置官曰彌彌、副曰彌彌那利
◆又南水行十日、陸行一月至耶馬臺国、戸七万、女王之所都、其置官曰伊支馬、次曰彌馬叔、次曰彌馬獲支、次曰奴佳鞮、其属小国有二十一、皆統之
◆女王之南又有狗奴国、男子為王 其官曰拘右智卑狗者 不属女王也

・文頭に「又」があるため放射読み出来ない
・投馬国が於投馬(イォドゥマ)国と表記(イヅモと読める)
・狗奴国の官名が拘右智卑狗と表記(菊池彦と読めない)
0323日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 20:27:15.95
訂正
難升米は倭国の最高軍事指揮官
0324日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 20:36:25.52
>>289
>陸行1月は陸行1日の誤記で呼子から糸島峠付近までの600里(40km)に掛かる時間

誤記はありえない
実際に600里の行程なら「600里」と記載するはずだ
仮に1里を1日と誤記したとすると行程が短すぎる
原文の通り「水行十日陸行一月」が実際の行程
0325 警備員[Lv.18(前25)][苗]
垢版 |
2024/05/17(金) 20:38:46.24
難升米は、水軍の長

都市・牛利は、都市を守る武官

載斯烏・越は、サイシウ・フツ(ヌシ)

209 警備員[Lv.10][新苗] 2024/05/17(金) 14:50:44.17
難升米

↑鳥之石楠船神 とりのいわくすふね

ようやく、たどり着いたw

難升米は、海運に精通していた船神でした
0326日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 20:39:54.56
>>289
>陸行1月は陸行1日の誤記で呼子から

それ以前に、対馬海流に流されて呼子には着けない。 無理!   @阿波
0327日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 20:43:11.39
東潮先生は、箸墓の吉備の影響を認めつつ、
邪馬台国は畿内の各首長で構成されると述べている。

また、箸墓は卑弥呼の墓
さらに、日本各地に有力者の墓を想定していることからも、いわゆる「畿内自生説」と思われる

少なくとも、北部九州はかなり軽視していることは確実である
0328日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 20:54:16.13
>>327
>少なくとも、北部九州はかなり軽視していることは確実である

少なくとも、「阿波」の特異遺跡を見ないふりをしていることは確実である。   @阿波
0329日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 20:56:28.53
北部九州で古・八幡製鉄所ができるのが250年
そのころ北部九州はすでに畿内甕に塗り替えられている
ここは製錬所であるため、原料は半島のものとみられる
官営事業としてすでに半島権益を把握していたのだ

時は台与の治世である。活動年代が大きく
並行するとみられる崇神の「即位」すぐの年代で
年譜上四道将軍の派遣はこの後に来る
個人的に崇神は吉備系の王とみていたが
吉備は崇神により征伐を受けていて
かつ纏向から吉備の影が失せていくこととも一致する

いずれにしても崇神が北部九州を把握していないは
誤りとなろう
0330日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 21:04:39.06
東潮先生は九州大学卒でありながら、邪馬台国論争においては北部九州をほとんど無視しているようにも見える
北部九州を「夫餘」と同じように見てるかもしれない
魏志の夫餘伝を読めば、北部九州吉野ヶ里のような環濠集落が一国家を成しているのはあり得ないと考えるのであろう。
0331日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 21:07:38.59
>>330
少なくとも、「阿波」の特異遺跡を見ないふりをしていることは確実である。   @阿波
0332日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 21:14:32.34
>>324
里数の行程文は1里約80mの公孫氏時代の資料からの引用
陸行1日等の日数の行程文は魏使の梯儁の報告書からの引用
つまり基の資料を書いた人が違うのだから陸行1日の行程を「600里」と記載する事はないんですよ
600里(48km)を1日で歩いたんですから極めて現実的です。
0333日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 21:16:29.76
>>1
久住とガチで議論してもらえませんか?
0334日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 21:17:27.01
阿波の萩原1号画文帯神獣鏡だけは本当に素晴らしい
阿波さんは萩原1号を大切にして下さい
0335日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 21:22:10.72
>>333
久住呼んできて
あいつ逃げるから
0336日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 21:30:01.57
舶載画文帯神獣鏡(№1)(宮内庁所蔵の優品)
阿王塚古墳(亀山神社)
徳島県板野郡板野町川端諏訪の丘陵上
面径15.5cm、内区欠、赤色顔料付着
銘文の復原(宮内庁書稜部陵墓課編「古鏡集成」より)
吾乍明竟 幽凍三岡
周亥无示 天王日月
充之序首 天下安平
四方服兮 天王日月
士官大吉 子孫番昌
□□□□ 立至三公
其市命長 天王日月
0337日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 21:32:36.10
舶載画文帯神獣鏡(№2)
面径14.0cm、内区欠
銘文の復原(宮内庁書稜部陵墓課編「古鏡集成」より)
吾作□□ □□□岡 如師命長兮
0339日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 21:38:30.38
>>332
>陸行1日等の日数の行程文は魏使の梯儁の報告書からの引用

そうであれば、引用の原文を示すべき
0340日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 21:53:25.13
>>339
示すことはできないはず

あなたの珍説が正しいなどということがあったら、新聞・テレビのトップニュースになるような事柄
以後、口から出まかせは慎みなさい
0341日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 22:02:12.11
>>339
3世紀の原文が残っていたら奇跡だな
魏志倭人伝を分析して推測するし
残っていないものを復元する
それが学問だよ
0342日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 22:07:54.47
まーだやってらっしゃるのか





卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)






ハイ終了

解散!
0343日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 22:13:04.55
>>341
あなたのは学問でも何でもない
単なるペテン
恥を知りなさい
0344ネトウヨボクメツタイ!
垢版 |
2024/05/17(金) 22:20:56.56
文化レベルの低かった日本列島と違って中国は発掘遺跡から新しい文字資料が出て来る国だ
四書五経より古い金文や竹簡が出てきて不明点が解明されるような凄い事が起こる
魏志倭人伝の原本が出る可能性もゼロではない
卑弥呼の鏡も日本の考古学では限界がある
キーは中国だろう
0345日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 22:23:47.57
つまり纒向は海外とは無縁の古墳造営キャンプ場でしたと
0346日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 22:38:01.74
久住は北部九州で画文帯神獣鏡がなぜ出ないのかさえ答えられない
0347日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 22:48:18.16
魏と外交が継続されていたので金印は台与に受け継がれたのは間違いないだろう
摂津国風土記にトヨウケという神さまが一時摂津の稲倉山にいたという記述があるのは興味深い
延喜式によればトヨウケの別名はウカノミタマとある
ウカノミタマが黄金の箱と水晶玉を授ける伝承が信太山の葛の葉伝説として残り、実際信太山の和泉黄金塚古墳からはヒスイなどの大量の勾玉と共に日本最大の水晶玉と卑弥呼の鏡とも関係する景初三年の銘のある鏡が見つかっている
ウカノミタマは住吉大社の楠珺社の神さまで和泉は楠に纏わる伝承が残る地である
また豊聡耳、聖徳太子の母の棺の轅を植えたら楠が生えてきた伝承が聖徳太子廟のある叡福寺に残っている

トヨ豊とウカノミタマと楠は関係が深いワードなんだな
璽は天子の印を表す漢字である
最後の和風諡号は日本根子天璽豊聡慧尊
璽と豊トヨの字が含まれているのは興味深い
親魏倭王の金印は最終的に和泉に縁のあるヒスイの勾玉の勢力に受け継がれたんじゃなかろうか
0348ネトウヨボクメツタイ!
垢版 |
2024/05/17(金) 22:53:50.79
ネトウヨは縄文文明などというが、実は縄文的形質は東北蝦夷の地域ですら、古墳時代にはかなり失われている
縄文語(原アイヌ語)の影響は倭人よりも韓人の方が強いくらいなのである

東北エミシは平安初期までの前期エミシと平安中期以降の後期エミシで分ける必要があろう
前期エミシは確実にアイヌである。後期エミシはほぼ和人であろう
受領は倒るる所に土を掴めという酷い収奪で農民はエミシの地に逃亡し東北は和人化していった

ジャップは文化的には縄文人の末裔ではなく弥生人の末裔なのである
日本会議史観は全くの誤りである
0349日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 22:56:38.07
>>347
興味無いから
そんなんだったら勾玉の生産地や消費地を調べろよ
神話に頼るのは学習を放棄してるから結論が変わらない
0350日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 22:57:35.18
風土記から見る歴史も面白い
播磨ふどきには木花咲耶姫は伊和大神の妻神とある
播磨ふどきには伊和大神が出雲に行った話や伊和大神の国作りは尾張で終わりという話がある
弥生時代中期末、尾張の朝日遺跡には大変化が起き日本海側と共通の墓制に変わり松江の西川津遺跡と形が同じ鳥形が現れる
弥生時代後期には尾張を越え静岡まで鳥形が広がり摂津の玉津田中遺跡と形が同じ鳥形があった登呂遺跡が誕生する
弥生時代後期には国作りは尾張を越えて広がる
弥生時代後期の伊賀の名張には砦のような集落跡がある
伊賀に石の城を作ったと伊勢国ふどきいつぶんにある伊勢津彦は播磨ふどきに伊和大神の子とある
ふどかと考古学的結果の時の流れがリンクするのだ
風の性質を持つ伊勢津彦。スサノオや播磨ふどきの五色の玉を持つ石神も風の性質を持つ
伊和大神は兵主の神で武と関係が深い
0351日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 23:04:29.51
神話なんかを根拠にされても検証のしようもない
証拠を出せと言っても出る訳も無く
0352日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 23:06:27.33
>>343
都合の悪い事には悪態を吐いて目をつぶるんですねw
0353日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 23:07:45.50
>>352
都合の悪いっておまえの書いてる事が出鱈目じゃん
0354日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 23:15:42.97
チョンコは日本の歴史捏造もする
0355日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 23:20:50.06
>>353
出鱈目であるとの根拠は?
魏志倭人伝の内容を矛盾無く理解する方法が他にある?
0356日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 23:22:34.38
>>355
だったら記述に間違いがあると書けよ
0357日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 23:26:49.59
甲斐国ふどきいつぶんに菊の話が残っている
甲斐の地は弟橘姫が白い龍に乗り山中湖に消えた地である
堺に祀られている大鳥井瀬大神は弟橘姫という
因みに河内の叡福寺には聖徳太子は富士山から甲斐の足が白い黒馬に乗り河内の磯長に降臨した伝承が残っている

甲斐国ふどきいつぶんに残る歌
「雲上に 菊掘植ゑて 甲斐國 鶴郡を 映してぞ見る」

相模の海に捨てられた弟橘姫は甲斐の地で白い龍に乗り、応神天皇の時代伊豆の奥野の楠から作られた軽船に乗って戻ってきたんじゃないかなあ
4世記後半、大量のヒスイのなどの勾玉が見つかった和泉黄金塚古墳の時代だな

ウカノミタマが水晶玉と黄金の箱を授けた信太山の葛の葉伝説
雲の上には菊が植えられた甲斐国ふどきいつぶんの歌
菊は雲と一体になった
信太山の葛の葉伝説の意味かもしれない

悪い奴らに海に捨てられた和泉の民間伝承のある堅い木のお地蔵さんは弟橘姫だろう
堅い木は樫
樫と菊は一体に

縄文時代の三内丸山遺跡は大量のヒスイを集めていた集落で楔状耳飾りが見つかっている
楔状耳飾りとヒスイの玉製品は遼河文明の特徴で、遼河文明は龍のトーテムであった
楔状耳飾りは勾玉の原型という説もある
0358日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/17(金) 23:39:13.05
ネトウヨはスレ立て荒らしもする
0359琪瑛教大祭酒
垢版 |
2024/05/18(土) 01:13:45.18
書き込む度にドングリが飛んでくるな。
無駄だな。
もう確定している
墓は嘘をつけない。
0361日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 01:45:17.07
九州上陸=邪馬台国なんだから

帯方郡~投馬国=水行20日
水行10日=邪馬台国
陸行1月=女王の処都
に決まってんだろ?

小学生でも解る算数の文章問題で、
水行30日=10000里
陸行1月=2000里
帯方郡~女王の処都=12000里

中国地理志の謎1月行は倭人伝で
陳寿が2000里と暴露した。
0363日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 02:06:50.73
ネトウヨ=民族差別主義者=大阪嫌い=贅六連呼=コピペ埋め立て=偽スレ乱立=連続句読点
0364日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 02:14:37.19
>>361
で、
参問倭地、州島の上、周旋可五千里

九州島北部の南北二千里内に在る
女王国所属のそれぞれ王の居る
邪馬台国諸国、次有り列記21国
は巡り歩ける。

朝鮮投馬国w 以外の解決があるか?
GHQの教職追放令だってよw

漢の四郡や任那日本府が無かったか?
何が皇国史観だっちゅーの。
どこの、朝鮮人学者だよ?
0365日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 03:06:45.74
九州人や関東人はそれほど朝鮮人には似ていないのに、何故畿内人が
朝鮮人と同じ容姿をしているのか?これは畿内には弥生時代から朝鮮半島
からの渡来人が住んでいて、古墳時代には更に大勢の渡来人が住み着いた
からだ、古墳時代の渡来人は大和朝廷の政策で受け入れた。
0366日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 03:13:31.97
とっくに詰んでるのに醜い屁理屈をこねくり回す九州説
0367日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 03:22:43.51
久住先生は、卑弥呼共立後も北部九州の方が畿内より上であると論じた。
また、このようにも言っている。
「畿内より北部九州の方が組織化できていた」

はなはだ疑問である。
いまだ環濠を持つ弥生集落を持つ北部九州がなぜ組織力で畿内を上回っていたのか?
どう考えても、環濠を廃し畿内第V様式圏で広域の連合を組織化したのは畿内である。
そして、畿内が北部九州を上回ったのは、卑弥呼が魏に遣使した239年以降とするが、考古学的にもそのような痕跡は見られない。
ホケノ山や阿波の萩原1号を見ても、北部九州はすでに卑弥呼遣使前に畿内にコントロールされていたと見るべきである。

また、根本的な疑問として、久住先生が言ってることが正しいならば北部九州の伊都王権が魏に遣使すれば良かったのでは?
北部九州が魏に遣使できなかったのは文字通り、畿内より格下になったからであるとしか言いようがない。
0369日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 04:59:57.44
>>367
ホケノ山は布留0
0370日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 05:04:41.76
>>369
それは狂ってる
0371日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 05:12:42.31
ホケノ山は四世紀との科学者の論文があったかと
0372日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 05:22:30.87
つまり九州説はウソ
0373日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 05:24:23.83
>>370
久住に言ってやって
0374日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 05:24:35.57
畿内説は公金詐欺
0375日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 05:41:59.53
>>365
それはね。
ヤマト王権は九州勢力と渡来人が築いた王権だからですよ。
卑弥呼の時代からずっと後世ですけどね。
飛鳥の公用語は百済語(松本清張)
桓武天皇の生母は百済の武寧王を始祖とする渡来人の子孫(続日本書紀)
大化の改新は渡来人派と倭人派との覇権争い

東征は6世紀ごろではなかろうか?
0376日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 05:45:13.08
>>1
奧山のアホよーーー
このテンプレじゃあ
久住に笑われて終わりだなWw

いや相手にもしてもらえないワハハ
0377日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 05:45:44.41
武寧王は日本生まれ
0378日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 05:47:32.26
>>366

君に何度も言ってるが
回答できないんだね
「纏向遺跡で倭人伝記述と合致する遺物を数多く列記せよ」
0379日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 05:51:08.14
>>367

時代考証がなってないよ
倭人伝の時代の話だよ
さてさて、、、弥生遺跡で九州と畿内とでどちらが文明が進んでたと言えるでしょうかな???
0380日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 05:57:42.68
>>367
君の私見もいいけどさ、、、、、
あまり詳しく勉強してないみたいだね
思い込みが先行してるよ
畿内説にありがちだけどね
0381日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 05:58:36.98
鉄もねえ、絹もねえ、生まれてこのかた見たことねえ
毎日古墳作りでぐーるぐる
オラこんな村いやだ~ オラこんな村いやだ~ 
オラ九州さ行ったら絹のべべ買うだ〜
0382日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 06:05:17.82
>>377
そうですね。ブネイ王は佐賀県唐津市で生まれたとか。
やはり、九州倭人と渡来人がヤマト王権を樹立したのでしょうね。
東征は倭人伝より後世でしょう。
邪馬台国との因果関係は諸説紛々ですが、
たぶん倭人伝当時に畿内は倭国に属してない可能性が強いと思います。
0383日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 06:11:49.23
百済の武寧王 生誕の地の唐津・加唐島に石碑建立

ブネイ王=武寧王(ぶねいおう/ムリョンワン、462年 - 523年)は、百済の第25代の王(在位:502年 - 523年)

つまり6世紀の人物で九州とゆかりを持つと言われている。
東征は6世紀と考えても良いと思う
0384日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 06:14:40.93
>>382
武寧王の言い伝えからも末盧国は呼子周辺だった事が推測出来ますね
0385日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 06:32:11.92
武寧王の母親はなぜ日本に渡ろうとしていたのだろうか? 誰か解説頼む
0386日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 07:10:08.91
つまり九州説はウソ
0387琪瑛教大祭酒
垢版 |
2024/05/18(土) 07:19:38.71
神武詔勅、六合を兼ねてもて都を開き…
元は六村卵生神話
神武いぜん
0388琪瑛教大祭酒
垢版 |
2024/05/18(土) 07:21:40.74
神武詔勅、六合を兼ねてもて都を開き…
元は六村卵生神話
神武以前23代月支城
この辺かもしれないな
0389日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 07:42:13.61
>>367
ある目的のために個々の独自性を維持したまま結びつくのが連合だよ
母集落を解体させられ、墓制を塗り変えられ、銅鐸の廃棄させられ、身近な土器すら統一させられた畿内に連合のイメージはないな
0390琪瑛教大祭酒
垢版 |
2024/05/18(土) 07:42:27.08
何れにしろ、
やがては八角。
墓は嘘をつけない。
0391日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 07:45:34.25
>>385
里帰りで出産したかったから。

武寧王も41才まで日本に居た
可能性が高いが何時きたのか?

しかし、生まれたばかりの母子が
船で帰るのはおかしくないか?

武寧王は東条王の子で良く
祖父の蓋鹵王が父になってしまう
この記紀の話は、おかしい。
0392日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 08:09:07.06
>>389
畿内はまるで奴隷農場のようだ
0393日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 08:11:45.63
奴隷を献上したのに銅鏡一枚も貰えませんでした!(泣
0394日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 08:29:11.23
卑弥呼は桃が大好きで、桃が食べれない季節になったら占いは
ことごとく外れて宮殿に引きこもっていたと倭人伝に記載が
あるから邪馬台国は纏向で間違いない
0395日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 08:31:13.54
カエルも食ってた
0396日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 08:32:08.54
つまりこんな感じか🤔

半島に倭奴国ってのがあり九州が倭国と呼ばれた
その東に倭面土国と呼ばれるところがありそれが日本に発展したってとこか
0397日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 08:33:55.11
>>390
>やがては八角。

大王・天皇は、山稜円墳→天武・持統から山稜八角に進化。

臣下は、平地の「前方後円墳」や「前方後方墳」など。   @阿波
0398日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 08:34:13.51
邪馬台国ってのは認めてないんでな

中国史に出てくるならそれは中国人らのこととなる

現に中国人らもそお認識してると思うぞ
0399日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 08:38:25.06
>>396
ほらね。
半島工作員の1が必死w
0400日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 08:40:35.74
>>1
>倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
>それは桜井市纒向以外にあり得ない。

ええっ!!?
古墳時代の纏向宮に倭の女王がいたのなら、

実在が確実視される崇神天皇のヤマト政権はどこでなにをしていたの?
0401日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 08:52:35.04
朱子学、国学の敵である逆賊魏王朝に朝貢した大和朝廷に激おこですか?
しかし漢化で進化した唐や大和にとっては恩人魏王朝への朝貢は権威
残念
0402ネトウヨボクメツタイ!
垢版 |
2024/05/18(土) 08:54:19.49
まさかと思うが九州説の連中は臣従する時に地図を差し出す事を知らないのではなかろうか
地図は軍事機密に属するものだから臣従に際にこれを出すのは二心なき事を示すのである
卑弥呼は地図を差し出しているはず
陳寿は倭国に行った使者の旅行記とこの地図を付き合わせて地理情報を書いたに相違ない
魏志倭人伝の方位がおかしいのは地図が不正確だったからだろう
倭人はワザと偽地図を出したか測量技術が無いから酷いものを作っていたかどちらかだろう
オレはジャップは狡賢いから政治的理由で偽地図出したのだろうと思う
0403日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 08:58:02.21
スレ乱立荒らし=ネトウヨ=大阪嫌い=贅六連呼=AAコピペ荒らし=埋め立て荒らし=偽スレ立て荒らし=連続句読点
0404日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 09:06:11.66
>>390
>やがては八角。

大王・天皇は、山稜円墳→天武・持統から山稜八角に進化。

臣下は、平地の「前方後円墳」や「前方後方墳」など。   @阿波
0406日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 09:40:00.73
九州説のウソ言い張り体質はレーダー照射事件の韓国海軍そっくり
0407日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 09:40:01.88
九州説のウソ言い張り体質はレーダー照射事件の韓国海軍そっくり
0408日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 10:10:59.10
嘘だ嘘だと叫ぶばかりで具体的に何が嘘だとも、嘘だとする根拠も示せない
それが畿内説信者のレベル
0409日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 10:12:51.21
先日タマネギ男が竹島に上陸してたが
関西の一人一説雑多九州小説は、
竹島は韓国に統治権があると主張してるからな
0410日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 10:14:44.97
>>1
>倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
>それは桜井市纒向以外にあり得ない。

ええっ!!?
古墳時代の纏向宮に倭の女王がいたのなら、

実在が確実視される崇神天皇のヤマト政権はどこでなにをしていたの?
0411日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 10:18:14.47
3世紀前半に天皇はおらん
0412日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 10:30:17.46
>>411
一人一説雑多九州説を馬鹿にする畿内説さんは、

全員それでファイナルアンサー?
0413日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 10:33:19.23
天皇がいつからいたかと邪馬台国がどこにあったかは
本来無関係な問題
0414日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 10:38:46.96
なら魏の関係者全員捕まえて処刑するしか収まり付かねえか?🤔

その子孫ら探し出してみんなぶっ殺していこうぜ😳
0415日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 10:47:56.54
>>412

一人一説雑多九州説 → 一人一説雑多九州小説 〇
0416日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 10:52:32.06
>>410
考古学的には崇神天皇は卑弥呼の後
0417日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 10:55:59.08
>>1
>倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
>それは桜井市纒向以外にあり得ない。

ええっ!!?
古墳時代の纏向宮に倭の女王がいたのなら、

実在が確実視される崇神天皇を輩出したヤマト政権はどこでなにをしていたの?
0418日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 11:03:29.23
>>356
何を言ってるのか分からんが
公孫氏が何の記録も残さなかったと思ってるの?
卑弥呼共立された時期と初代の公孫度が後漢により遼東太守に任命された時期は殆ど同時期
公孫氏4代の約50年間、倭国の王は女王卑弥呼一人だったから公孫氏の資料では女王国と呼んでいるんだ
1里約80mの短里も公孫氏が用いていたものだと考えれば辻褄が合う。
0419日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 11:08:14.63
九州説の人たちが九州のどこにあるのかを確定させるよりも畿内でないことを確定したがるのはなんで?
0420日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 11:12:01.52
まさか
ブネイ王に
畿内説が論破されるとは、、、
トホホ
0422日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 11:20:19.38
ボストン美術館にある仁徳天皇陵出土とされている、刀の柄と鏡が武寧王の墓出土のものとよく似てるそうだ。
ボストン美術館にあるのが本当に仁徳天皇稜出土だったら面白いけど
0423日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 11:21:51.06
>>422
大王・天皇は、山稜円墳→天武・持統から山稜八角に進化。

臣下は、平地の「前方後円墳」や「前方後方墳」など。   @阿波
0424日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 11:28:01.92
>>423
>大王・天皇は、山稜円墳→天武・持統から山稜八角に進化。

八角になった理由はわかっているのですか?
0425日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 11:28:13.49
>>418

公孫氏の資料じゃなくて、
関西の在日定時制高校の教師が考えたんだよ
偽書でドジ踏んで内部崩壊したけど
0426日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 11:31:38.50
>>419

九州説というか、九州西部の異人ベルト地帯と大阪に働きに来た人は
そういう民族だから
0428日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 11:36:31.63
仏教の影響
0429日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 11:44:04.73
>>424
奈良遷都を期に、高句麗を真似たんじゃないの?   @阿波
0430日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 11:44:40.65
>>1
>倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
>それは桜井市纒向以外にあり得ない。

ええっ!!?
古墳時代の纏向宮に倭の女王がいたのなら、

実在が確実視される崇神天皇を輩出したヤマト政権はどこでなにをしていたの?
0431日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 11:46:28.45
>>427
いずれにせよ、平地で沼地の「前方後円墳」や「前方後方円墳」などは大王・天皇の墓じゃないから。   @阿波
0432日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 11:48:53.98
>>425
意味不明な事を言わんように、気が触れてるのか?
公孫氏4代約50年間倭国では女王卑弥呼の統治が続き公孫氏は卑弥呼の国を女王国と呼んだ
魏代では卑弥呼、男王、壱与と王が変わったので女王国とは呼べない
女王国とは明らかに公孫氏時代の呼称である
これに反論ある?
0433日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 11:48:54.45
渡来人渡来の最初応神から桓武まで実に35代
平安京から日本は大した外国折衝をしなくなり
国風文化が花開くと社会科で教わる
しかしそれまでの間に充分な百済ホルモンシャワーを浴びて
ゲノム単位でコリエイトされたのが日本人だ
0434日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 11:50:18.75
>>432

その資料はどこにある?
0435日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 11:52:37.55
朝鮮半島には縄文人しか居なかった時代がある
0436日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 11:54:51.49
>>432

魏朝は男王を倭王とは呼んでいない
0437日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 11:59:27.34
朝鮮半島に北方モンゴロイドが入るのは3500年前
これは半島系弥生人とみられる
その前に古モンゴロイドが入るのが8000年前
三内丸山に出るような遺物と土器が出るため
遼河沿海州系の文化だったことがわかる
朝鮮にも日本でいう縄文時代があったということ
0438日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 12:01:02.11
>>432
公孫氏が短里を編み出す理由が無いから
0439日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 12:01:25.75
>>434
何言ってるの?

>>436
「更立男王 國中不服 更相誅殺 當時殺千餘人」
この男王が倭王でないとすると何処の王?
0441日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 12:02:30.28
>>1
>倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
>それは桜井市纒向以外にあり得ない。

ええっ!!?
古墳時代の纏向宮に倭の女王がいたのなら、

実在が確実視される崇神天皇を輩出したヤマト政権はどこでなにをしていたの?

畿内説さん、返事しないけど息してる?
0442日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 12:02:32.18
まーだやってらっしゃるのか





卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)






ハイ終了

解散!
0443日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 12:04:11.46
>>441
神武天皇は筑紫城から大和に都を移し天皇と呼ぶようになった
天皇と呼び始めたのは7世紀頃
まあ筑紫城なんて無いし神武も居ないんだけど
開皇二十年(AC600年)俀王姓阿毎字多利思北孤號阿輩雞彌遣使詣闕
AC600年の號は阿輩雞彌=大王
つまり神武東征はこれ以降のはなし
伊勢神宮の創建年とも合致して辻褄が合う 

崇神は神武より後でしょ
0444日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 12:05:01.30
>>440
逆に言えば応神朝(4世紀後半)まで倭国は
弥生人の国であった。弥生のYゲノムはD1a2か
O1b2a1a1の2択しかない(あと少数のC1a1)
どちらかが皇室だ
0445日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 12:06:11.69
>>432
>これに反論ある?

空想述べても意味がない
0446日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 12:06:58.94
>>439

お前が>>418で言っている公孫氏の資料とはどこにあるのかと聞いている
制詔で親魏倭王卑彌呼とは呼んでるが、
男王を倭王とは呼んでいない
0447日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 12:08:39.52
>>446
横だけど、魏志倭人伝、が公孫氏の資料の残余だと思うよ。
あんたは発狂するだけだろうけど。
0448日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 12:10:37.00
>>447

お前が思うだけ
0449日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 12:14:09.82
>>441
>実在が確実視される崇神天皇を輩出したヤマト政権はどこでなにをしていたの

実在を確実視してる人が悩めばいいこと
0450日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 12:16:24.42
>>438
女王国と短里は「自郡至女王國 萬二千餘里」のように女王国と一緒に使われている
女王国の呼称を使用していたのは公孫氏と考えれれるから短里も公孫氏が使用していたと考えられる
公孫氏は魏の侵攻に怯えており、情報が魏に漏洩した場合でも自国の勢力図を大きく見せる為に1里約80m短里を使用していたのではないかな

>>446
男王を倭王とは呼んでいないとする証拠は?
男王とは何処の王なんですか?
0451日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 12:18:29.40
>>450
なんのためにそんなもん使用するんだよ?
記録にもなりゃしない
0452日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 12:18:42.07
>>449
畿内説の答え?
0453日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 12:19:53.76
>>452
伊勢遺跡説の答えだ
0454日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 12:20:14.28
公孫氏が測定した数値を覆すには、
魏が魏里で測定し直さないといけないだろ。

魏が魏里で測定していないのなら、
公孫氏の短里をそのまま記載しておくしかないだろう。
0455日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 12:20:54.13
>>1
>倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
>それは桜井市纒向以外にあり得ない。

ええっ!!?
古墳時代の纏向宮に倭の女王がいたのなら、

実在が確実視される崇神天皇を輩出したヤマト政権はどこでなにをしていたの?

纒向説さん、返事しないけど息してる?
0456日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 12:21:28.37
>>453
伊勢遺跡には王はいないよ?
0457日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 12:22:29.54
>>450

倭国では皆王を称する
魏朝が親魏倭王と呼んだのは卑彌呼だけ
卑彌呼の宗女台与は臺(中央)に遣使している
0458日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 12:24:57.82
使大倭監之
ヤマト王権(皇室)のヒントになりそうなのはこれくらい
これ以外のことを見てきたように話すことは出来ない
台与と崇神はある時代は政権内で完全に両立していた
言えることはここまで
0459日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 12:26:19.64
>>458
>>443
0460日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 12:26:31.93
朝鮮半島には、約1万年前から北方系民族が移入し始めました。その後、南方系民族との混血や文化交流を経て、弥生時代へと移行していきます。

三内丸山遺跡は縄文時代後期の遺跡であり、遼河沿海州文化とは異なる文化圏と考えられています。

朝鮮半島にも縄文時代が存在し、旧石器時代から弥生時代までの様々な時代の文化が発展していました。
0461日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 12:30:05.15
>>458
>台与と崇神はある時代は政権内で完全に両立していた

崇神は10代天皇。 めちゃくちゃ言うな!   @阿波
0462日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 12:30:16.33
崇神なんかいないんだよ
遺跡が有るからなにか居たけど
0463日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 12:30:46.62
>>459
伊勢遺跡は一世紀末からある
帥升との関係も想像出来る。天の安河の伝承の元にもなっている
その断片は素戔嗚にだけ天の竪琴がわずかに言及された
事実からも補強出来る
が、隋代の怪文書を以ってどうして神武の歴史的
人物像を再建しようというのか
あなたも(近)畿内説の一人なら妙な物事を振り回さないでほしい
0464日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 12:31:44.63
>>462
これが畿内説の言いたいこと。邪馬台国なんてどーでもいーんだよw
0465日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 12:32:39.69
>>1
>倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
>それは桜井市纒向以外にあり得ない。

ええっ!!?
古墳時代の纏向宮に倭の女王がいたのなら、

実在が確実視される崇神天皇を輩出したヤマト政権はどこでなにをしていたの?

纒向説さん、返事しないけど息してる?
0466日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 12:33:00.15
>>463
だってそう書いてあんじゃん
だから遺跡は有るから7世紀以前にはなにか居た
0467日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 12:33:45.57
女王国と短里は「自郡至女王國 萬二千餘里」のように、女王国の距離を表す際に一緒に使われています。
女王国の呼称を使用していたのは公孫氏と考えられるため、短里も公孫氏が使用していたと考えられます。
公孫氏は魏の侵攻に怯えており、情報が魏に漏洩した場合でも自国の勢力図を大きく見せるために、1里約400mの短里を使用していた可能性があります。
0468日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 12:35:10.67
>>464
とんでもない
自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國國皆稱王丗丗傳統其大倭王居邪馬臺國
日本の始まりかもしれんしおおいに関心があるよ
0469日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 12:35:43.09
伊勢遺跡は弥生時代後期(紀元前3世紀〜3世紀)の遺跡であり、1世紀末ではありません。
帥升との関係は推測の域を出ず、天の安河の伝承との関連も確証がありません。
素戔嗚命が天の竪琴を奏でる話は、『古事記』や『日本書紀』などに記載されていますが、伊勢遺跡との直接的な関連は不明です。
神武天皇の実在性や事績については、学界でも様々な議論がありますが、隋代の怪文書に基づいて歴史的人物像を再建することは適切ではありません。
近畿内説についても、様々な見解があり、断定することはできません。
0470日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 12:37:21.05
>>457
皆が王を称していたのは卑弥呼が共立される前の時代のこと
魏代には王は倭王と狗奴国の自称王しかいない

公孫氏が勝ってに1里約80mの短里を使用していたが
そのことを陳寿は知らなかった
記録を比較して7000里に20日掛かる、440里に10日掛かる、600里に1日掛かると分っただけ
公孫氏の里が漢や魏の里とは長さが違うと気付いてもそのまま使用するしか出来なかった
0471日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 12:38:29.53
あのさ。
北部九州で後漢鏡がわんさか出てるわけでしょ。
それはまさに師升の107年。

後漢鏡が無い伊勢遺跡なんて師升本拠地の候補にすら入らんでしょ。
0472日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 12:40:52.34
チャットGPTのような文面だな
公孫氏と卑弥呼は関係あるか、とAIに聞いたことがあるが
直接は関係ない、分からないことが多いから断定できない
と言われたな。あいつらはネット情報をかき集めて
論理的な文にすることに長けているだけで
ネット情報が誤りなら自動的に誤る
PDFに流れてるような学術論文は参照できないからな
0473日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 12:43:32.95
九州説信者にかまってちゃんしてるビョーキの畿内説信者が立て続けてるスレだから。
0474日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 12:44:06.24
鏡も鉄も国力のメーターにならない
それが考古学の出した結論に見えるけどな
一、二世紀の鏡の話をしながら、なぜ北部九州
IIA期の畿内甕は大した政治的意味はないとうそぶくのか
0475日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 12:46:10.27
>>466
>だから遺跡は有るから

遺跡といっても、お墓ばかり。   @阿波
0476日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 12:49:45.54
>>470

親魏倭王卑彌呼と、女王国の隷属国伊都国と女王に属さない狗奴国
魏朝が倭王と認めたのは卑彌呼だけ
陳寿が知らないことを何故お前が知っている?
0477日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 12:52:37.39
鏡と鉄が国力のメーター
それが考古学の常識

それだと瞬殺される反日畿内説がわめいてるだけ
0478日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 12:53:26.58
>>1
>倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
>それは桜井市纒向以外にあり得ない。

ええっ!!?
古墳時代の纏向宮に倭の女王がいたのなら、

実在が確実視される崇神天皇を輩出したヤマト政権はどこでなにをしていたの?

纒向説さん、全然返事しないけど息してる?
0479日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 12:57:50.07
3世紀の倭国を九州の小宇宙に押し込める合理性がない
纏向型前方後円墳が出羽や鹿児島にすら現れる時代だよ
0480日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 12:58:30.90
>>477

考古学者の通説が畿内説
由緒正しい九州文学小説に始まるのが今の一人一説雑多九州小説
0481日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 12:58:56.08
>>474
鉄も鏡も畿内説を否定するから国力のメーターとして採用したくないだけ
0482日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 13:03:41.65
関西考古学者だけが畿内説を主張。
それ以外のすべての学問の学者は九州説を主張。
そんな感じだね。
0483日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 13:10:13.72
>>482

九州小説は元心理学者で現イベント業者だけだろ
0484日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 13:16:20.22
クリティカルな事柄を突き詰めると
どうしても膠着してしまうな
やはりこのスレは短里と長里、その他の雑談で
ワイワイ話すのが丁度良い
0485日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 13:18:34.17
膠着じゃなくて、学術研究成果を拒絶してるのが
一人一説雑多九州小説
0486日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 13:29:30.06
短里は以前のスレで約70mで結論でちゃってるからなぁ。もう話すことないんだよな。
九州説も畿内説も奴国までは道程が一致しててその距離が短里じゃないと辻褄があわないし、
短里も当時混在して使われてたことも歴史書からも明らかになってしまっているから。
捏造考古学の畿内説は既に否定されていて、
次の議題として、「では九州説が正しいけど、九州のどこにあったのか」という話で花を咲かせているわけで。
そこを否定されつくしてる畿内説がすでに済んだ話を蒸し返すので膠着してるように見えるだけ。
0487日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 13:29:31.07
>>482
>それ以外のすべての学問の学者は九州説を主張。

という学者の名前を言えない九州説は、ただの詐欺師




 
0490日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 13:33:35.48
>>486
>短里は以前のスレで約70mで結論でちゃってるから

そんな結論を出した人が存在しないのに言い張るのが
カップラーメンも洗浄トイレも韓国の発明で結論
と言い張るのと同レベルの九州説
0491日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 13:33:36.84
>>486
>短里は以前のスレで約70mで結論でちゃってるから

そんな結論を出した人が存在しないのに言い張るのが
カップラーメンも洗浄トイレも韓国の発明で結論
と言い張るのと同レベルの九州説
0492日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 13:36:31.99
>>486
おれの知らない時空だ
0494日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 13:41:33.93
>>491
事実を突きつけられて認めないのは畿内説のオマエだけだから、そう思うのも仕方ない。
0495日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 13:42:57.51
畿内説の言う長里だと辻褄あわないね。邪馬台国は海の中ってことになる。だから短里で結論出てるね。
0496日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 13:44:20.82
事実だって証拠は?

出せないでしょ
だから詐欺なの九州説は




 
0497日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 13:44:59.89
>>490-491
宇宙の起源は韓国と言い張る韓国人と同等レベルの思考するのが畿内説信者ってのは知ってる。
0500日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 13:47:27.54
>>488
>旧スレ参照

ほら
また証拠を出さずに逃げる

出せないんでしょ
だから詐欺なの九州説は
0502日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 13:48:28.93
>>499
テンプレに書いてあるよ
0505日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 13:49:49.77
距離が長いほうが短里説は成り立ちやすいのに
方角問題解決するために唐津ではなく呼子に降り立つ
主張を強いられる気の毒な九州説
0506日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 13:50:27.56
ただ嘘をついて誤魔化そうとするのが九州説だって証拠が出ちゃってるから
九州説の敗北は決定してます
0507日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 13:51:43.89
>>476
伊都国の王が倭王卑弥呼ですよ
邪馬壱国の王都が伊都国
邪馬壱国とは北部九州地域全域のこと
日程は魏使である梯儁の報告書からの引用です
朝鮮半島南部に投馬国
北部九州地域全域が邪馬壱国
南部九州地域に狗奴国
この三つの国は他の国とは別の単位の国
邪馬壱国の中に対馬国、一大国、末盧国、伊都国、奴国、不弥国、傍国20か国が在った。
0508日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 13:52:03.09
>>504
>ずっとテンプレが更新されてないからやりなおし。

反論がなけりゃ更新は不要だなんだが
0509日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 13:52:17.68
>>502
短里にしても九州説に都合が悪いからテンプレは否定しかしてない。
長里で畿内説がつじつまが合わないという都合のわるいことには触れていない能無しテンプレートです
0510日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 13:53:03.78
>>507
理由のないこと言い張っても無駄
0512日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 13:53:51.15
反論≠駄々
0513日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 13:54:20.55
>>509
それ、何も証拠ないから
九州説の負けが確定する
0514ネトウヨ撲滅隊!
垢版 |
2024/05/18(土) 13:56:04.39
ネトウヨは天皇家が中国に臣下の礼をとった歴史を隠すべく邪馬臺國をヤマト王権を別物にしたいわけなのだ

残念ながら日本は建国のときに中華の臣下になっている
ネトウヨは韓国を万年属国などというが日本も同じだったわけだ
0515日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 13:56:04.57
>>503
>畿内説の証拠出さずにまた逃げるのかw

テンプレに書いてあるよ
0516日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 13:56:47.78
旧唐書、新唐書で既に畿内が邪馬台国ではないことはもう結論は出てるんだよね。
でもまぁ、畿内説の言い分もきいてやろうかってだけだからね、今は。
九州説をより固めるためにね。
一部の左翼考古学者がねじまげて畿内説を主張してるだけだから、そこは本質ではないってことよね。
九州にあったことはみんな知ってるし、畿内説主張する人もうすうすわかってはいる。
0517日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 13:58:00.78
>>515
どこ?具体的にさししめしてくれる?
長里で畿内説が辻褄があう証拠も含め。海の中だろ。
0518日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 13:58:12.49
>>511
>過去にとっくに反論されて論破されつくしとるやん。

という証拠は?




何も証拠のないことを、ただ言い張る
それが九州説

まるで韓国起源説

 
0519ネトウヨ撲滅隊!
垢版 |
2024/05/18(土) 13:58:48.44
YouTube動画を見ると分かるよな
邪馬台国九州説の連中はアイヌ民族否定論や縄文文明論や日ユ道祖論や神代文字実在論などを語っている

邪馬台国九州説は既にネトウヨのおもちゃとなっているわけなのだよ
0520日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 13:59:19.40
倭の歴史は大和朝廷の漢化で上書きされたから覆すのは無理。
記紀の魏志倭人伝、魏の年号の鏡など漢文で邪馬臺国=大和朝廷は公式の歴史なの。
0521日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 13:59:38.09
>>518
にわかか。過去スレですでに話がおわってる。
おわってるけど、キチガイが粘着してるだけだけどね。
0522日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 13:59:41.83
>>516
>旧唐書、新唐書で既に畿内が邪馬台国ではないことはもう結論は出てるんだよね。

出てるって証拠は?
0523日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 13:59:42.84
>>516
>旧唐書、新唐書で既に畿内が邪馬台国ではないことはもう結論は出てるんだよね。

出てるって証拠は?
0524日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 13:59:44.48
>>516
>旧唐書、新唐書で既に畿内が邪馬台国ではないことはもう結論は出てるんだよね。

出てるって証拠は?
0527日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 14:04:48.22
動揺して無意味な同じ投稿を連投しまくる畿内説信者の図

↓↓↓↓↓↓↓↓

 >>490-491
 >>522-524


精神病だってのがすぐわかるねw
今日は病院には通わなくていいの?w
0528日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 14:05:05.07
>>517
>どこ?具体的にさししめしてくれる?

「・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。」
これ一発で九州説終了してます


>長里で畿内説が辻褄があう証拠も含め。海の中だろ。

長里なんて無い
中国の1里は400m近くだから倭人伝が間違っているという事実だけ
だって倭国は会稽東冶の東にないでしょ?
そこは海だけ
0529日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 14:07:17.00
証拠の出せない九州説はもう死んでます
0530日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 14:10:40.78
奴国までの縮尺をあてはめると短里でぴったり合うだろ。
偶然ではありえないんだよ、この比率の一致は。
0531日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 14:12:08.62
インチではまったくあわなかったけど、ミリやセンチにしたら実際にぴったりになったってとてもシンプルな話
0532日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 14:12:52.99
なんで、インチにしちゃったんかねぇ。
インチも混在してたんやろな。とってもシンプルな話。
0533日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 14:15:25.69
奴国までは短里であってるんだから、不弥国なんかもそれに基づいて考えていけばいい。
その周辺に地名で似通ってるものないかなー
論理的に考えればそんな感じでいいだろ。
0534ネトウヨ撲滅隊!
垢版 |
2024/05/18(土) 14:16:40.07
ネトウヨが屁理屈こねても邪馬台国とヤマト王権が同一というのは覆らないんだよな

九州説を唱えるマトモな学者なんぞいないし、いても馬鹿にされてて誰からも相手にされていない

反ワクチンの京大の教授のような扱いなんだよな
0535日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 14:19:38.31
畿内説は推論に推論を重ね続けるからまったくシンプルではないし、論理飛躍がところどころにある。
その論理飛躍も、邪馬台国は畿内という大前提があるからこそであり、そこに我田引水しようとするからそうなってしまう。
誰が見ても苦しい言い訳であり、こじつけにしか見えない。
そういう話の進め方するやつは政治家でも信頼はされないよな。
防衛費のために社会福祉目的税という名目の消費税を増税するとかって話と同じだから、つっこみどころ満載w
0536日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 14:21:46.02
九州説の断末魔が心地よい
0537日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 14:22:54.52
>>534
昔から九州説はしっかり相手にされてるよ。
捏造畿内説に立ち向かってくれてるからこそ相手にされてるってことがわかるだろ。支持者も多い。
戦後の歴史観に毒されたインチキ考古学者の派閥が畿内説で公金チューチューしてることはみんな知ってるわけで。
まぁ、いまさら畿内説は嘘でしたなんでいえるわきゃないよなw
0538日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 14:24:01.81
>>534
畿内説を唱える学者は偽学者の詐欺師だよw
嘘を嘘で固めてる
0539日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 14:24:56.80
畿内説は論理飛躍を説明するために、よくわからない証拠を持ってくることは多いからねw
福永のコメントとか見ると、ごり押しで結論づけててよくわかってる人が読むと違和感満載だからw
0540日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 14:26:47.50
九州説は死んだ、死んだんだって
だからね、畿内説を信じて
本当に九州説は死んだんだから
学者は誰も九州説を支持してない
だぁかぁらぁ、ね、ね、お願い、畿内説を信じて!
お願い!

こんな感じに見えるぞ
必死じゃんw
0541日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 14:27:39.57
なるほど邪馬台国は九州以外だね
0542日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 14:35:15.34
畿内説は公金詐欺
0543日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 14:40:34.74
>>533

で奴国から先はどこに決まったんだ?
0544日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 14:55:21.51
九州説て方角のズレを一切無視するよね
一大国と末盧国は対馬の南にあって、伊都国と奴国は末盧国の東南て書いてあるんだけど
0545日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 14:57:05.70
呼子付近に上陸し東松浦半島内を南下、唐津市街付近から東へ五百里(40km)で伊都G.C.付近の丘陵、この丘陵地帯から先が伊都国
更に百里(8km)で糸島峠付近、この峠付近から先が奴国
更に室見川沿い下り百里(8km)で不弥国(博多湾岸)が在った
ここまでは公孫氏の記録からの引用
投馬国と邪馬壱国は魏使の梯儁の報告書からの引用だから飛ばす
不弥国の次にくるのは斯馬国(糸島市の志摩)
北部九州地域の20か国を経て奴国戻る
これが女王の勢力圏(魏代の邪馬壱国)
0546日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 14:57:53.20
そのズレた方角は無視しといて、不弥国、投馬国へは指示通りに船を陸で進んで行くのが九州説
0547日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 14:59:00.36
訂正 船で陸を
0548日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 15:07:16.09
魏志倭人伝の地理観
https://www.j-real.com/ta-san/yamatai/map3.jpg
https://stat.ameba.jp/user_images/20191003/09/akamamakai/21/ce/j/o0498055814605449986.jpg
https://kochizu.gsi.go.jp/items/74

九州説とは
方位のズレを説明できない
福岡を船で陸を一ヵ月進み、さらに一ヵ月歩く
古代福岡の戸数が三韓と同じになる
投馬国の位置がコロコロ変わる
狭すぎて傍国21ヵ国が比定できない
すぐ沈没する低湿地が都
吉野ケ里は水田跡も見つからない
卑弥呼の墓も見つからない
青玉も丹も出ない
0549日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 15:12:47.46
>>544
倭人伝は30度ズレている
0550日本@名無史さん ころころ
垢版 |
2024/05/18(土) 15:15:42.42
>>548
ちなみに西松浦郡が発足したのは明治なんだが?
0551日本@名無史さん ころころ
垢版 |
2024/05/18(土) 15:16:17.94
>>549
もっとズレてるだろ
0552日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 15:20:14.70
>>548
方位は九州の北岸の海岸線が東西方向となっているので20〜30度程度のズレがある
これはこの程度ズレでは普段の生活で人間が認知できないからと考えられる
(福岡市で生活してみると分かります)
投馬国は魏使の梯儁の報告書からの引用だから帯方郡から水行20日ですよ。
0553日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 15:20:46.28
呼子から博多は東なのに東南て書いてあるからな
0554日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 15:22:56.70
>>552
九州説を全否定する太平御覧版「魏志倭人伝」
◆東南陸行五百里到伊都国、官曰爾支、副泄謨觚柄渠觚有千余戸、世有王皆統属女王、帯方使往来常止住
◆又東南至奴国百里、置官曰先馬觚、副曰卑奴母離。有二万余戸
◆又東行百里至不彌国、戸千余、置官曰多模、副曰卑奴母離
◆又南水行二十曰至於投馬国、戸五万、置官曰彌彌、副曰彌彌那利
◆又南水行十日、陸行一月至耶馬臺国、戸七万、女王之所都、其置官曰伊支馬、次曰彌馬叔、次曰彌馬獲支、次曰奴佳鞮、其属小国有二十一、皆統之
◆女王之南又有狗奴国、男子為王 其官曰拘右智卑狗者 不属女王也

・文頭に「又」があるため放射読み出来ない
・投馬国が於投馬(イォドゥマ)国と表記(イヅモと読める)
・狗奴国の官名が拘右智卑狗と表記(菊池彦と読めない)
0555日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 15:23:51.67
道里を示すガイドブックなんだから
東南方向に向かう街道
ぐらいの意味やろ
0556日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 15:25:43.91
地域的首長としてのミミおよびミ
『魏志倭人伝』は3世紀の投馬国の首長に「彌彌(ミミ)」および「彌彌那利(ミミナリ)」がいたことを記している。

『古事記』および『日本書紀』では和泉地方に陶津耳(スエツミミ)、摂津地方に三嶋溝橛耳(ミシマミゾクイミミ)、丹波地方に玖賀耳(クガミミ)、また但馬地方に前津耳(マサキツミミ)が記録されているが、いずれもその地方の首長と考えられている。 『出雲国風土記』には波多都美命(ハタツミ)や伎自麻都美(キジマツミ)など「ミ」の付く人物が記されており、いずれも地域的首長である[3]。

また『古事記』の出雲神話に出てくる須賀之八耳(スガノヤツミミ)、布帝耳(フテミミ)、鳥耳(トリミミ)、多比理岐志麻流美(タヒリキシマルミ)、天日腹大科度美(アメノヒバラオオシナドミ)も地域的首長と考えられる[4]。
0557日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 15:34:22.78
方角も行程も戸数も魏志倭人伝を全否定する九州説
0558日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 15:36:26.37
>>469
帥升や卑弥呼は居たよ
居ないと思ってたらこのスレに来ないから
それと神武や崇神とは訳が違う
素戔嗚なんて論外
あと伊勢遺跡は1世紀後半から2世紀後半だとされている
0560日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 15:38:03.76
>>552

朝鮮投馬国は糸島説だけ
0561日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 15:39:34.24
>540
>九州説は死んだ、死んだんだって
>だからね、畿内説を信じて
>本当に九州説は死んだんだから
>学者は誰も九州説を支持してない
>だぁかぁらぁ、ね、ね、お願い、畿内説を信じて!
>お願い!
>↑
>こんな感じに見えるぞ
>必死じゃんw

俺にもそう見えるw
俺だけじゃなかったんだなw
0562日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 15:40:50.47
>>471
何故鏡なんか貰うんだ?
帥升は鏡が好きなのか?
0563日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 15:42:34.05
>>554
太平御覧版は宋代(平安時代)に作られたものだろw
そんな劣化コピーは何の役にも立たんよ

>>557
>>545の説明なら方位も距離も魏志倭人伝の内容と完全に一致するよ
畿内説でここまで一致する説明はありませんねw
0564日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 15:46:22.90
>>540
ここにいる畿内説のアタオカ馬鹿野郎はまるで何かの亡霊に取りつかれてるかのようだよねw
寝ても覚めても九州説という怪物の脅威に怯えてるのかもしれんw
九州説自体は単なる説や論であって、別に生物じゃないのに、「死んでる死んでる」って、もう完全に頭の狂ったキチガイみたいだものw
0565日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 15:46:37.99
>>563
陳寿の魏志倭人伝の方が魚豢の劣化コピーなんだけど
0566日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 15:47:12.50
>>563
一致したからなんなんだよ?
なんで糸島に船で行かないの?
0567日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 15:48:58.55
畿内説は九州説が出てくると脊髄反射でニセ情報としか言わないからなw
もう反論できる言葉すらないのだろうw
実際には畿内説がニセ情報であることは明白だし、
九州説論者によって今までもわかりやすく単純明快に畿内説の矛盾や論理飛躍については説明されてるけどねw
0568日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 15:49:25.16
短里なんて存在しないもん使うわけねえじゃん
思考停止もいいところ
0569日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 15:49:56.51
陳寿が「又」を省略してしまったがために、放射読みなどという糞アクロバット解釈が編み出された
0570日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 15:50:05.46
完膚なきまでに畿内説が論破されててワロタwww
畿内説の馬鹿がほざけばほざくほどにボロがでて、やはり邪馬台国は九州で確定だわwww
0571日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 15:52:09.12
>>568
混在してその場の雰囲気で里数を使ってたので、短里とか長里なんて言葉は当時はなかったが、
魏志倭人伝の1里は約70m前後であることは解明されちゃって確定できるから問題なし。
残念だったねw
0572日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 15:52:11.81
アホの陳寿は於投馬国の於も、前置詞と勘違いして省略してしまう
0574日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 15:53:09.86
>>562
中国側が配るんでしょ
中国が鏡と組み紐で周辺諸国に格付けするんだよ
紅綬褒章、緑綬褒章、藍綬褒章、紺綬褒章、黄綬褒章、紫綬褒章みたいなもん

考古学者の森浩一によると
「中国の皇帝が周辺の国の人、王などに鏡を与える時は必ず紐のところに
その王の身分を示す色の組み紐を通してあります。だから倭人伝にも卑弥呼に与えた印は『金印紫綬』と書いてあるでしょう。
金印も同じように紐を付けます。紫色の組み紐。紐は腐ってくるからよく鏡だけ発掘品に並べてあるけど
組み紐とセットで、ある意味では組み紐の方が重要だったわけですね。紫綬。
0575日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 15:53:35.59
>>571
残念もなにも使うわけねえじゃん
記録に残しても理解出来ない
0576日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 15:53:46.99
>>563

一致してないから投馬国と邪馬壱国を飛ばしている
0577日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 15:54:24.91
>>574
そんな記録はないが
0579日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 15:56:11.62
>>578
なんなんだそれは?
誰なんだよ?
0580日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 15:58:24.96
>>566
どこに行くにも卜骨をするから
0581日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 15:58:51.18
朝鮮投馬国という糞しょうもないギャグ
0582日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 15:59:15.11
>>580
何言ってるのかわかんねえ
0583日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 15:59:52.50
>>574

金印紫綬とは書いてあるが、
銅鏡百枚には紫綬というのは書かれていない
0584日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 16:03:37.70
>>582
壱岐で卜骨をして末盧国に上陸する事が決まった
0585日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 16:04:00.96
帥升や倭奴国王の話しだから
なんでそいつらが鏡貰ったと思うんだ?
卑弥呼は鏡が欲しいと言ったんでしょう
0586日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 16:04:40.49
>>584
中国人がそんな事しないから
0587日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 16:04:41.52
>>583
橿原考古学研究所の所長だった菅谷文則氏は
画文帯神獣鏡等の中国の鏡は組み紐を通す孔が綺麗に仕上げされていて
紐を通して日常的な使用に耐えられるようになっているが
三角縁神獣鏡の7~8割は仕上げがされていなくてギザギザが残っており
紐を通しても紐がすぐ切れてしまい日常的な使用には耐えないだろうと述べ
三角縁神獣鏡はお墓に入れる為に日本独自に出来上がったジャンルなのではないかと述べている。
0588日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 16:05:05.79
>>586
案内人がする
0589日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 16:06:01.32
「女王国以北の国は戸数・里程は分かるが、傍国21ヵ国は遠すぎて詳細が分からない」
と書いてあるのに、それが邪馬台国より北、それもすぐ近くに来るのが九州説
0590日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 16:08:39.02
対馬の南に一支国があると書いてあるんだから
対馬の南に一支国がくるようにすればいいだけ

6月の日の出の方角を東にすればピッタリ
0591日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 16:09:09.29
卜骨は倭人の風習として書かれているので
旁国に行っていない魏使は
倭国からその風習が倭人の風習であることを聞いている
0592日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 16:10:46.27
>>587

2〜3割は仕上げがされているということ
0593日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 16:11:43.26
>>591
中国人が壱岐で卜骨して糸島に行かずに松浦に行くなんてあり得ない
0594日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 16:12:27.87
大陸から渡ってきた鏡職人が注文受けたときは仕事が丁寧だったんだろう
0595日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 16:14:49.03
現代では日本の総理がアメリカに行ったら
どれくらい歓迎されたかニュース映像で国民に示せる
弥生時代の民に中国からどれくらい歓迎されたかを示すためには
鏡の質と量が必要だったのだろう
0596日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 16:15:10.39
中国から鏡職人が渡ってきて居住したことを想定できる遺跡を見つけなければならない
0597日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 16:15:28.14
ちなみに卜骨は纏向では発見されている
0598日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 16:17:47.87
>>593
狗邪韓国から倭人の水先案内人が同乗しているだろうよ
0599日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 16:19:26.96
纏向遺跡の外来系土器の主体東海
東海絡みで残っている姫の伝承は、木花咲耶姫、鶯姫、駿河国ふどきいつぶんに残る神女降臨伝説、常陸国ふどきにあるフジの神(女神か不明だが)、
0600日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 16:19:28.58
>>597
邪馬台国があったであろう佐賀でも出ている
0601日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 16:23:09.96
>>598
だから何なんだよ?
中国人が卜骨して持衰立ててとかやる訳ねえじゃん
0602日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 16:23:27.53
元々倭国大乱前、東海道を統治していたのは誰か?
東海道の入り口にある伊賀国、伊賀の名張には弥生時代後期の要塞のような集落跡が見つかっている
伊賀に石の城を作っていた伊勢津彦。伊勢のは地名の由来にもなった人物
伊勢津彦の父は伊和大神で、伊和大神の妻神が木花咲耶姫
0603ネトウヨ撲滅タイ!
垢版 |
2024/05/18(土) 16:23:28.12
三角縁神獣鏡には亜種として仏陀が描かれたものがある
古墳時代前期の日本人が仏教を知っていたとは想定し難い

ヤマト王権の卑弥呼が魏から鏡を貰って、その品質に満足したから、継続的に魏の職人に鏡の製作を依頼するようになったのではなかろうか

ふるさと納税で特産物をもらって、それが気に入って次から金出して購入するようになったというような感覚だろう
0604日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 16:23:54.13
>>599
そんなん要らんねん
0606日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 16:25:07.41
弥生時代前期からの日本の中の古代韓国吉野ヶ里では出ていない
0607日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 16:25:52.81
>>518

奧山のバカ
あきらめなよ
テンプレは論破さてるじゃん
お前が認めないだけだろ、、馬鹿だから

ワハハ
0608日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 16:28:22.94
>>601
航路は勝手知ったる倭人が決めるだろうよ
0609日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 16:29:54.87
>>608
なんでそれで松浦から歩かなきゃならんのよ?
0610日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 16:30:38.49
>>596
渡来人ならなんぼでもおったやろ
0611日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 16:31:45.51
弥生時代前期に山陰、大和、伊予に伝わった卜骨は
弥生中期には九州を除く関東まで拡がる
九州で後期〜古墳初になって2か所だけ出るということは
首狩り甕棺墓がど没落した後に
本州の倭人が進出している
0612日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 16:32:56.03
>>609
魏使側の調査目的か、倭国側の安全保障上の理由とかかな
0613日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 16:34:23.23
>>610

ただの渡来人じゃなくて、
神獣鏡の銅鏡を作る工人の居住遺跡が必要
0614日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 16:34:51.53
>>605
奈良・纒向遺跡、占いの獣骨「卜骨」出土
2015年1月29日 22:27
邪馬台国のあった場所として有力とみられている奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡で、3世紀後半〜4世紀初頭に占いに使われた獣骨「卜骨(ぼっこつ)」が出土し、調査した同市教育委員会が29日発表した。同遺跡では祭祀(さいし)に関連した様々な遺構や遺物が見つかっているが、卜骨の発見は初めて。

魏志倭人伝は3世紀の日本の習俗として「物事を始めたり旅をしたりする際、骨を焼いて吉凶を占う」と記述している。

見つかった卜骨はイノシシの右肩甲骨で長さ約17センチ、幅約7センチ。一部を平らに薄く削り、火の付いた棒を押し当てるなどしたとみられる痕跡が少なくとも3カ所あった。

獣骨を加熱し、ひび割れの形で占う卜骨は亀の甲羅を使う卜甲(ぼっこう)と共に古代東アジアで広く見られる。日本では弥生時代以降、シカやイノシシなどの骨を使った例が各地で出土している。

寺沢薫・桜井市纒向学研究センター所長の話 弥生時代、農耕などに関する民衆の占いだったとみられる卜骨・卜甲は、古墳時代になると、少なくなるが、律令制度で国家祭祀に取り入れられた。今回、ヤマトの王権の中枢で発見され、変化を探る手掛かりになるのではないか。
0615日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 16:36:36.20
>>612
行程あの通りに来たと思います?
対馬や壱岐に寄る必要は無いんだよ
何よりプサンから対馬に行かないよ
0616日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 16:38:52.39
>>615
海路はリスキーだよ
可能な限り陸地を経由すると思うわ
海が荒れたら凪ぐまで待機出きるようにね
0617日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 16:39:11.62
狗邪韓国は水や食料の補給基地だったろうな
0618日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 16:41:33.76
>>616

可能な限り陸地を行くということは
不弥国から九州を出ている
0619日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 16:41:49.42
>>565
殆ど同時期だから陳寿が魏略を見たか分からないよ
基になった資料が同じものが多いんだろうな
魚豢は公孫氏の資料までで魏使の梯儁や張政の報告書は見てないような気がする

>>566
伊都国近くの海岸は遠浅で中国から乗って来た大型船が接岸出来る場所がなかったから
>>571
1里約80mくらいの短里は倭人伝だけでなく東夷伝全体で使用されてますからね
>>576
別資料からの引用だからですよ
>>586
呼子が天然の良港で船舶を停泊させとくには絶好の場所だっただけですね
0620日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 16:44:18.66
>>619

>別資料からの引用だから

一致しないからお前がそう決めただけ
0621日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 16:44:31.54
>>619
だったらなんで伊都国が糸島になるんだよ?
もっと便利な場所があるだろ?
0622日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 16:47:19.40
>>613
普段はそこらの竪穴式住居に住んでて
どこぞで古墳作り始めたら注文貰いに現地に出張してた
0623日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 16:49:30.03
魏略 度海千里復有国皆倭種
魏志 女王国東渡海千余里復有国皆倭種
これ陳寿は魏略を写したと思うがなあ
何故これほど違うかと言うと陳寿なりの解釈でしょう
0624日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 16:51:41.15
>>589
邪馬壱国の北部の首都圏(女王国)までしか来ていないので
邪馬壱国南部の国々が「傍国21ヵ国は遠すぎて詳細が分からない」と書かれているんだよ
>>609
中国船が入港可能な港が呼子付近にしかなかったから呼子付近から歩いたんだ
0625日本@名無史さん
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2024/05/18(土) 16:52:28.85
>>618
水行は川を利用した移動と
川沿いを歩く場合にも使われる言葉
海を渡る時は海という単語入るよ

始度一海千餘里至對海(對馬)国 其大官日卑狗 副日卑奴母離

「(狗邪韓国から)始めて一海を渡り、千余里で対海(対馬)国に至る。その大官はヒコウといい、副官はヒドボリという。」
0626日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 16:52:54.20
>>624
だったら一大率呼子に置けよ
0627日本@名無史さん
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2024/05/18(土) 16:54:47.53
>>623
魏略
倭在帯方東南大海中 依山島為国 度海千里復有国 皆倭種
倭は帯方の東南大海の中にあり 山島によって国を為す 海を千里渡るとまた国があり 皆倭種である

魏志
女王国東渡海千余里復有国 皆倭種
女王国の東に千余里海を渡るとまた国があり 皆倭種である

つまり倭=女王国
0628日本@名無史さん
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2024/05/18(土) 16:55:53.81
>>625
川を行く場合は遡行
0630日本@名無史さん
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2024/05/18(土) 16:57:12.79
>>620
ソウルから福岡市まで900kmです、九州までは1月です。
魏志倭人伝はこんな感じで書いてある。
0631日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 16:57:28.35
>>625

川沿いを歩く場合にも使われてる水行の典拠は?
0632日本@名無史さん
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2024/05/18(土) 16:57:38.46
陸地にそって船で移動したら川でも海でも水行
陸地にそわずに海を渡るのが渡海
0633日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 17:00:37.18
つまり唐津から糸島へは沿岸を水行したほうがよい
0634日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 17:01:29.87
どうでもいい話を蒸し返しては、
あたかもまだ議論が続いているかのように装う
現在1024犯罪中
0636日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 17:07:32.02
裴世清の乗った遣隋使船は東に向かっている、南では無い
0637日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 17:07:33.57
倭国が遣使するときも、郡使が来訪するときも
伊都国の津で検査しているということは
官無末盧から伊都国の津へは水行ということ
0638日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 17:07:45.07
木花咲耶姫は富士山に祀られているが常陸国風土記に福慈神の話がある 
富士山の麓の駿河国風土記には神女降臨神話が残っているね
弥生時代後期には摂津の玉津田中遺跡の鳥形と同じ鳥形の集落が複数富士山の麓に登場する
登呂遺跡もそのような集落の一つで、田のある田園風景の集落だった

鶯姫伝説は古今集為家抄などにある話で駿河や浅間と関係が深い
殿方は鶯姫を手に入れることが出来ず、鶯姫を恋焦がれる思いが炎となり鶯姫の形見の鏡に乗り移るというストーリー
鶯姫は欽明天皇や天武天皇の時代など何度も登場する

民話の鶯姫は、木を切っていた男に出会った鶯姫は男に木を切らないでとお願いするのが出会いの話だ
鶯姫と暮らすようになった男は、娘の留守中開けてはいけない箪笥を開けてしまう
1番上の引き出しには爽やかな風が吹き、田園風景が広がっている。最後の引き出しには梅の花が咲き鶯たちがいる

また中世ではかぐや姫は鶯の卵から生まれる認識があったようだ

鶯姫の形見の鏡とは何なのか?
0639日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 17:08:41.47
>>630
>ソウルから福岡市まで900kmです、九州までは1月です。
>魏志倭人伝はこんな感じで書いてある。

このように
間にも根拠のない話を
繰り返し言い張るのが九州説
0640日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 17:10:38.48
>>626
「自女王國以北 特置一大率檢察諸國」
女王国とは伊都国、奴国、不弥国付近のことだから
末盧国の呼子にも一大率がいたかもしれんな
>>630
もう少し現代風に書くと
ソウルから福岡市まで900kmです、九州までは1月です。次に春日市、次に大野城市・・・次に福岡市
ここは女王の境界尽きる所なり。
こんな感じだな。
0641日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 17:10:59.97
>>635

川沿いを【歩く】場合にも使われてる水行の典拠を
>>625に訊いている
0643日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 17:13:36.32
>>637
>伊都国の津で検査しているということは
そんな事は何処にも書いてないw
津で検査しているとしかないよ
この津は呼子付近の港のことだよ。
0644日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 17:13:48.85
>>619
>1里約80mくらいの短里は

どこでも使用されてません
0645日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 17:19:41.52
>>636
伊都国に寄らずにいきなり筑紫国にいったあたり
伊都国は消滅してたんだろうな
0646日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 17:20:15.54
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)





久 努 国 ( く の の く に )





久 努 国 ( く の の く に )





馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
0647日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 17:23:01.91
つまり畿内説は記録文献とは全く整合しない作り話の寄せ集めでしたと
0648日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 17:25:18.97
>>643
そこ切ってしまうと文書や賜り物の検品を一大率はやってないって事になるぞ
0649 警備員[Lv.4][芽]
垢版 |
2024/05/18(土) 17:28:40.02
末蘆国もすでに考察済み

924 日本@名無史さん sage 2023/03/29(水) 00:14:08.41
末盧国は海流を利用するための復路

>皆臨津捜露

往路は糸島半島付近で、一大率がその津まで来て監察する

>草木茂盛 行不見前人 ←こんな状態で、呼子まで一大率が出向くわけないw

・字義考察
末 端っこ
盧 あし、よし、イネ科

末盧国 = 豊葦原の端っこにある国

なお官が居ない点からも
伊都国に「まつろう国=従う国」と考察できる


服ふ/順ふ(まつろう) とは? 意味・使い方 - 国語辞書
服ふ/順ふ(まつろう)とは。意味や使い方、類語をわかりやすく解説。[動ハ四]《「まつらう」の音変化》服従する。従う。
0650日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 17:29:05.99
木を植えたのは五十猛だが
木を切っていたのはだれなのか?

4世紀後半頃の若草山山頂古墳、鶯塚、牛塚は誰の墓なのか?
有名ななにわ津の歌でこの花とは梅の花だったらしい
鶯の卵から生まれたかぐや姫、梅の花が咲いた時代はいつなのか?

仲哀天皇の妃大中姫の子や系譜にkagの音の人物がいるんだよな
麛坂、香坂皇子
仲哀天皇が亡くなり大中姫はどうなったんだろう

大中という名の謂れが播磨ふどきにある
景行天皇の記述
賀毛郡(かものこほり)の山直らの始祖である息長命(オキナガ)またの名を伊志治(イシヂ)を媒(なかだち)として、誂(つまどい)のために下って行った。

檝取の伊志治(イシヂ)に大中伊志治(オホキナカイシジ)と名乗らせた

出雲臣比須良比賣(イヅモノオミヒスラヒメ)を息長命に与えた
0651琪瑛教大祭酒
垢版 |
2024/05/18(土) 17:31:40.14
無駄だよ、玉音放送、先日国会の従二桁位相応の者の敗戦では無いまで整合してしまっているのが吾輩。
0652日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 17:33:06.18
>>645
さすがに推古朝はね
ちなみに裵勇俊は儀礼の進行上
大門前の朝廷に据え置かれて
すべてを大殿の中で接受した天皇の姿は見ていないらしい
0654日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 17:35:22.97
>>650
朝鮮から緑がなくなったのは製錬製鉄活動由来だよ
その反省が倭国側にあったということなので
韓神五十猛が鉄に関する話を持ってるのは納得
0655日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 17:35:35.82
畿内説はキモい
0656日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 17:37:41.06
>>652
中華皇帝の遣いに会わないなんてまああり得んと思うけどな
0657日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 17:39:01.53
>>656
外交官裵勇俊の官位は下九品
0658日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 17:40:08.10
>>656
徐福も蓬莱宮殿の前まで来たのに使者としか会えなかった

ちうことは、朝鮮半島の人々とちがって、

日本列島では海を隔てたちうか皇帝なんぞそれくらいにしか思ってなかったということだ
0659日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 17:40:57.22
国賓で来てるのに国家元首が会わないって何処の田舎者よ?
0661日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 17:43:10.67
>>659
外交儀礼を完璧に整えたからこそだよ
裵世清は皇帝の期待に応えて嘘をついたということ
0662 警備員[Lv.2][芽]
垢版 |
2024/05/18(土) 17:58:33.43
>>660
興味深い

そういえば、山水(画)ってあるな


山水 読み方:さんすい・やまみず

「山水」とは、山や川のこと、および、山や川のある美しい自然の風景を意味する表現である。あるいは、山から流れ出る清水のことである。

「山水」は、「山や川」ならびに「自然の風景」を意味する場合は「さんすい」と読む。他方「山から流れる水」を意味する場合は「やまみず」と読まれることが多い。
「山水」の基本的な意味
「山水」の「山」は山岳のことであり、「水」は河川あるいは湖沼のことである。

「山水」は文字通り「山岳と河川」を指すというよりは、山や川に代表される「自然の景色」や「自然の風景の美しさ」、あるいは「自然そのもの」を指す意味で用いられることが多い。木々や草花その他の自然の風物が、「山水」の中には暗に含まれているわけである。

たとえば「山水画」は、自然の風景を画題とする絵画のことである。この「山水画」を略して「山水」と呼ぶこともある。
0663日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 18:05:37.74
卑弥呼の時代であっても外交儀礼はきっちりやってるはずだよ
それやらないと見くびられるから
0664日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 18:09:03.75
東夷の人外どもはどうしようもねえなと思われるだけだからな
0665日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 18:11:22.44
がんばれ沖縄県民
久住なんかに負けるな
0666日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 18:12:23.21
>>660

船の航行の水行の例を上げながら
水行とは、基本的には「川沿いを歩く」が正しい解釈というのは
言ってることがおかしい
0667日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 18:12:48.93
>>1
>倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
>それは桜井市纒向以外にあり得ない。

実在がほぼ確実と言われれる
崇神天皇のヤマト政権はどこでなにをしていたと?

皇室=日本国の転覆でも企んでるんですか?
0668日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 18:14:09.42
>>667
まだ言ってんのかよおまえは
崇神なんか居ねえよ
0669日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 18:14:48.46
>>667
同じところにいたよ。それ以外にないだろ
使大倭監之

これを50回くらい唱えなさい
0670日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 18:15:42.88
伊 勢 遺 跡 w
かき回すなw
0672ネトウヨボク滅隊!
垢版 |
2024/05/18(土) 18:21:41.88
推古朝時代になると倭王は中華皇帝と対等という意識になるが、雄略朝までは中国の大将軍に任命されるのに必死だったからな
まして纏向王権の倭王卑弥呼の時代などは完全に中国の家臣状態だったろう
0673ネトウヨ撲メツタイ!
垢版 |
2024/05/18(土) 18:37:56.47
崇神は卑弥呼より60年ほど後の人物であり時代が違う
行燈山古墳が崇神陵であると考えると、古事記の伝える崇神崩年を316年頃とするのがもっとも適切な判断である
崇神の次の大王墓は菅原の宝来山古墳で記紀ではこれを垂仁陵と伝承していて考古学的にも矛盾はない

問題は崇神の前の大王墓だが、第9代開化がもし実在なら行燈山の一つ前の大王墓であるメスリ山古墳が陵墓になるし、第8代孝元が実在ならメスリ山の一つ前の桜井茶臼山古墳が陵墓となるはずだ
そして第7代孝霊が実在なら桜井茶臼山の一つ前の大王墓である西殿塚古墳が陵墓になる。この西殿塚の一つ前の大王墓が卑弥呼陵の可能性の高い箸墓だ

よって卑弥呼をヤマト王権の欠史八代時代の人物に比定しても年代的に何の問題もないのである
0674 警備員[Lv.19][芽]
垢版 |
2024/05/18(土) 18:43:31.94
>>673
当時の王や皇帝の平均在位年数は全世界的に10年前後
日本だけずば抜けて平均在位年数が長かったとは考えられないので
欠史八代が全て実在したとしても
実在が確認された天皇から遡った場合
西暦267年頃に神武天皇が即位したことになる。
欠史八代が実在しなくて神武天皇=崇神天皇なら+80年で347年から天皇の歴史は始まる
0675ネトウヨ撲滅隊!
垢版 |
2024/05/18(土) 18:47:57.80
記紀は廃帝を歴代天皇から除外している
具体的にはタギシミミや押熊王や菟道稚郎子や飯豊皇女といった人物
だから崇神崩年を316年に置いたくらいがちょうど良い塩梅なのである
0676日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 18:53:17.82
俺は神武や崇神が居ないと言ってるだけで卑弥呼と現皇族がつながってないとは言ってないぞ
それどころか紀元前から万世一系でつながってるかもしれない
調べようがないし永久にわからんけど
0677日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 18:57:29.61
御間城入彦五十瓊殖ていうのが面倒だから崇神言うてるだけ
同じ人だから問題ないんよ
0678日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 19:03:18.09
>>677
まあそいつも居ないな
なぜなら文字が無いから
ゴマジョウイリヒコイソ???
その名前に後世文字をあてたのか?
0679日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 19:10:42.20
>>678
文字はなくても名前はあるから問題ない
字義は資料によって変わる。古事記ならまた違う
それは崇神に限らない
0680日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 19:13:59.44
瓊は玉のことだ。ただ機械的に音を充てるだけでなく
イニエが持つ意味まで理解していたということだよ
0681日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 19:22:57.24
4C後半に東漢氏が帰化して、そのときまでの口伝を木簡に書き残したものが
今日まで遺ってるんだろうけど、その口伝がどこまで正確なのかが分からんね

仮に正確であっても後に盛りまくってるしな

それが記紀
0682日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 19:27:46.70
まるきり作り話と、なんらかのエピソードが口伝されたものと
ごちゃ混ぜになってて区別つかないのがどうにもならんな
0683日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 19:40:29.63
久住の言い分は無理筋
0684ネトウヨ撲滅隊!
垢版 |
2024/05/18(土) 19:43:52.63
崇神・垂仁・景行あたりは古墳伝承と考古学的研究の矛盾がなく、これは実在と考えてよかろう
ただし家系図が正しいのかは分からない。オレは歴代の大王が親子継承だったわけがないから恐らく間違えているだろうと思う

成務はワカタラシヒコという適当すぎる名前だし、ヤマトタケルの兄弟という非常に胡散臭い立場なので、文献学的には実在性は怪しいが伝承される陵墓の年代的には実在していてもおかしくはない
そして仲哀はタラシナカツヒコといい加減すぎる名前で怪しいばかりでなく陵墓も構築年代が全く合わない

ワカタラシヒコもタラシナカツヒコも名前が忘れられているだけという可能性がありうるから非実在と断言するのも難しい

ところどころ怪しい箇所はあるが崇神以降の人物は実在の可能性が高いと見る
0685日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 19:46:07.73
蘇我蝦夷が自宅に放火して焼身自殺を図ったときに天皇記と国記が失われて、
日本の先史記録はメチャクチャになった
0686日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 19:53:47.16
卑弥呼も臺與なんにも口伝が残って無いってそれもう無関係じゃんね
0687日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 19:58:42.92
早漏やまるな。口伝の有無と国史の成立は異なる事柄
連合首長制だったのが兄弟相続や親子相続になりかわり
都合の悪いものは省かれている可能性はあるし
単に予言をよくする叔母(百襲姫)や巫女的な皇女
(豊鍬入姫)に化けているかもしれない
0688日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 20:06:47.26
645年に天皇記と国記が焼失して、それから白村江で敗戦して、
それから記紀が編纂されるから中国に対して自国の都合の悪い史実は
ぜんぶ消し去られてるの
0689日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 20:08:57.58
卑弥呼?しらんな、神功天皇にしとくか……
0690日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 20:19:01.65
《昔、日本は三韓と同種也と云事のありし、かの書をば桓武の御世にやきすてられしなり。》神皇正統記
0691日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 20:21:05.74
「空白の四世紀」の後に倭人の入れ墨の風習が無くなってるのはそういうこと
0692日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 20:21:49.63
>>686
その人たちは触れちゃいけない人たちだから
0693日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 20:22:51.64
入墨を見た大物主の娘
(え…なにこの人たち)
0694日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 20:24:17.94
4世紀に馬が導入されたから強力な政権が遠方の地域を平定していって勢力拡大したんだろな
0695日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 20:29:14.61
4C後半に秦氏と東漢氏の帰化で半島の生活文化が移植されて、それまでの横幅衣から
半島の胡服になり、入れ墨も廃れていったんだろうな
0696日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 20:34:47.61
半島から馬だけ運んで来てくれるわけないだろ
騎馬民族に乗っ取られてるんだよ
0697日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 20:35:01.35
>>690
ゲノム解析で同種ではないことが判明してるな
ただ近縁ではある
あといろんな時代で相当数の渡来人がきてるから
記紀を書いたあたりの渡来人はそのまんま三韓人だな
0698日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 20:37:55.14
南に駆逐された倭人は沖縄人に、東北に駆逐された狗奴国人(アイヌ)は蝦夷になった
両方とも最近まで入れ墨してた
0699日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 20:46:09.46
>>690
半島では古モンゴロイドから北方モンゴロイドへの
バトンタッチは割にスムーズに見える
というか北方モンゴロイドが
侵略的に現地民と置換した事実は大陸にすら無い
半島の場合土器文化がすべて遼河沿海州系で
文化のソースが連続していたところにも特色がある

日本の場合、地域によるが西日本、浜松以西は
3000年前を境に土器の形式が入れ替わり
その系譜には断絶がある。
入れ替わった後の土器も縄文土器とされる
まだ稲作が始まっていないから弥生ではない

結論を言えば三韓の住民(半島系弥生人)が同種近縁
弥生人には入墨がある。ソコを誤ってはならん
4世紀末以降に渡来人が入り廃れた
0700日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 20:50:26.44
獲加多支鹵大王
この名前が残ってないのがおかしい
0701日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 20:52:11.02
上にもあるけど平均在位10年とすると
半分くらい、あるいはそれ以上人数が足りないから
口伝が残って無い大王は相当数いるかもしれん
0702日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 20:54:45.89
ワカタケル(雄略天皇)が東国倭語なまりに
ワカタケロになってると聞いたが
0703日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 20:55:28.52
>>701
それだと年代が全くあてにならない
0704日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 20:59:18.98
>>703
そりゃそうさ
万世一系前提で計算なんて、九州説って実におばかな皇国主義者だ
0705 警備員[Lv.19][芽]
垢版 |
2024/05/18(土) 20:59:29.02
>>701
なんだろう
天皇家の歴史は邪馬台国以前からあったというのを前提にするのおかしくないですか?
0706日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 20:59:36.45
>>702
大王の名前だぞ
しかもおそらく熊本の江田船山古墳のも同じでしょう
それでも名前が残らないってどういう事よ?
0707日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 21:04:01.42
つまり畿内は東の倭種だった
0708日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 21:04:24.78
心(ココロ)がココリになったり、変な変化をする
沖縄語よりも早くに別れた語派にあたる
ただ今となっては標準語の元にはなってる
中央語つまり関西弁では父はチチだが
東国ではトチとなっていて、とうさん、とうちゃんの
現代語はこちらの系譜

>>706
名前が残らないとはどういうことだ
雄略天皇のことではないと思うのか
0709日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 21:06:58.70
>>708
雄略天皇だろうじゃねえよ
大王の名前だぞ
0710日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 21:08:19.84
>>709
雄略天皇は大王だが
0711日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 21:08:46.64
大王の名前が書いてあるんだから完璧にわからなきゃダメだろ?
0712日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 21:10:49.71
むしろ今の我々が断定なんてしちゃダメだ
古墳の被葬者たちに自明であればそれで充分なんだよ
0713日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 21:12:20.55
>>700
>この名前が残ってないのがおかしい

残ってるだろ
大泊瀬幼武
0714日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 21:15:23.18
なんのために記紀があるのよ?
獲加多支鹵大王となぜ書いてないないんだ?
大王の名前なのに
0715日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 21:16:06.60
つまり若御毛沼命だとか豊御毛沼命だとか呼ばれた毛沼命は狗奴国の王
0716日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 21:19:13.96
あの鉄剣は文字使用からまもない時代にあたるね
とはいえ大王にどの字を当てるのかは
厳密に決められていただろう。だから埼玉と熊本で
同じ正字の銘が出るんだろうね
蝦夷が持ってた天皇記には獲加多支鹵と書いてあったかもね
0717日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 21:32:51.03
大王・天皇は、山稜円墳→天武・持統から山稜八角に進化。
臣下は、平地の「前方後円墳」や「前方後方墳」など。  
奈良遷都を期に、高句麗を真似たんだろう。   @阿波
0718日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 21:35:01.48
天御柱のある沼島は瓊島と解して玉島と呼ぶことができる
海の神とその後裔に玉のつく人名が多いが
伊奘冉伝承を持つ民に頻出の名なんだろう
ミケは素戔嗚の名前にも現れる

奴国もかつては玉の国だったかもしれないな
海人の宮だから。魏志の投馬国はまた別の場所だけどね
0719日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 21:36:06.49
グーグル翻訳では

獲加多支鹵大王
Huò jiā duō zhī lǔ dàwán
ウォーカー多枝煮込みキング

この様な意味だそうです
0720日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 21:51:56.14
>>714
蘇我馬子だって有明子って書いてないだろ?
0721日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 22:08:10.52
>>720
馬子や蝦夷が本名かはわからない
でもそんな奴らの名前などどうでもいい
大王の名前だぞ
それを書かずに何が記紀だ?
0723日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 22:17:02.14
雄略天皇という別人に仕立て上げなきゃマズいのか?
0724日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 22:19:25.34
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである






.
0725日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 22:24:36.16
別人じゃないから大丈夫だよ
朝貢の事実を隠すとか継承の実態を書き換えるとか
そういうことはあり得ても、別の王がいたのを
記紀に取り込んだとかそういうことを心配しなくていい
0727日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 22:28:43.37
>>721
>それを書かずに何が記紀だ?

なんで書いてないって決めつけて言い張るの?
0728日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 22:30:20.15
>>725
雄略天皇なんて居ない
獲加多支鹵大王は居た
0729ネトウヨボクメツタイ!
垢版 |
2024/05/18(土) 22:31:22.07
ワカタケルが若干鈍っているように見えるのは、漢字を書いたのが韓半島の職人であったから、カタカナ英語のように正確な発音を写せなかったというのが一つ
もう一つは当時の倭国では標準語が確立されていなかったので朝廷内でズーズー弁やら関西弁やら九州弁やら琉球語(南九州)や在日韓人語が入り乱れていたという事が挙げられる
だから倭王武はワカタケルで正しい
多少の訛りはジャップの文明度の低さから致し方がないのだ
0730日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 22:33:40.90
>>727
これは中国の史書じゃないからな
日本の歴史書で文字もある時代の大王の名前も残さないってどういう事よ?
0731日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 22:36:48.97
>>715
> 若御毛沼命だとか豊御毛沼命だとか

磐余彦は毛ノ國の人 グンマーこそ日向 つまり邪馬台国は安房だな
0732日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 22:38:53.61
>>728
おま隋書間に受けて神武は600年とか
豪族の墓から出た副葬品の記銘が真実で記紀はパチもんとか
滋賀作に擬態したナニカか何かなのか?
0733日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 22:40:06.18
ここの連中鈍いな
ストンと納得できる理由があるだろ?
獲加多支鹵大王の事なんてすっかり忘れていた
0734日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 22:43:39.45
>>732
当たり前だろ
記紀なんか信用できるか
0735日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 22:49:03.94
>>734
oh…🤷🏻‍🤷🏻‍♂
0736日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 22:56:31.23
てか豪族の墓から出た副葬品の記銘の方が信用できるに決まってんじゃん
0737ネトウヨボクメツタイ!
垢版 |
2024/05/18(土) 22:59:57.23
低学歴底辺ネトウヨは納税が少なく愛国を叫ぶだけの社会のお荷物
偉そうに在日に意見するのなら人並みに稼いでからいうべきであろう
0738日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 23:04:37.16
>>648
一大率の業務は諸国の検察であって文書や賜り物の検品ではないよ
>>649
馬鹿丸出しの文だなw
0739日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 23:04:51.60
記紀では三毛入野命、御毛沼命は常世に去ったとあるが、和泉国ふどきいつぶんには和泉国は三毛入野命の所領だったとある

出雲国一宮熊野大社
伊邪那伎日真名子 加夫呂伎熊野大神 櫛御気野命
祭神名は素戔嗚尊の別名であるとする。「伊邪那伎日真名子(いざなぎのひまなご)」は「イザナギが可愛がる御子」の意、「加夫呂伎(かぶろぎ)」は「神聖な祖神」の意としている。
「熊野大神(くまののおおかみ)」は鎮座地名・社名に大神をつけたものであり、実際の神名は「櫛御気野命(くしみけぬのみこと)」ということになる。「クシ」は「奇」、「ミケ」は「御食」の意で、食物神と解する説が通説である。

神武天皇の兄はスサノオだったのか?神武天皇がスサノオだったのか?
0740日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 23:06:15.18
>>737
朝鮮人世帯の16%が生活保護世帯
一方日本人世帯では3%のみ。
朝鮮人は日本の負担になっている
0741日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 23:14:26.40
和魂と荒魂は別の神さまというくらい違う可能性があるな
大物主と狭井の神
アマテラスと撞賢木厳之御魂天疏向津比賣命

卑弥呼がモデルになった神さまはいるのだろうか?
0743日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 23:30:00.97
スサノヲの乱暴で陰部に梭が刺さって死んだ天の服織女が実はアマテラス本人だと言うのは有名な説
これはモモソヒメの死のバリエーション
アマテラス=モモソヒメ=日巫女
0744日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 23:31:16.65
このスレ何でID出ないの
0745日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 23:34:36.91
>>730
>日本の歴史書で文字もある時代の大王の名前も残さないってどういう事よ?

どういう意味?
大泊瀬幼武を問答無用で認めないって言いたいの?
0746 警備員[Lv.12][新芽]
垢版 |
2024/05/18(土) 23:34:41.78
馬を投げ込むスサノオは出雲=投馬国の暗喩だな
0747日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 23:36:17.46
泊瀬の枕詞は海人小舟
0748日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 23:44:14.37
獲加多支鹵大王名が無いのは、大和と血縁が違う。とか?
大和は血縁を大事にするらしいから。
0749日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 23:45:01.52
箸のない時代に箸が刺さって死ぬモモソは完全に後世の創作キャラ
だから記紀を書いた人は卑弥呼や臺與を創作キャラのモモソに比定しなかった
0750日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 23:48:59.56
>>748
>獲加多支鹵大王名が無いのは

だから、どうして問答無用で「ない」って決めつけるの?
コミュ障のひと?
0751日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 23:51:36.86
中国語で伝わった文字の読みが、倭人風の読みになるには、長い月日が要ると思う。
文字を彫った人はかなり前から文字を扱ってた倭人地域の人。
ではないかと思う。
0752日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 23:56:59.50
あるページによると、剣には彫った人の自慢話が彫ってあるとか
0753日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 23:57:20.79
箸墓のハシは土師氏の埴輪の事だろうな
0754日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 00:04:01.70
>>749
>箸のない時代に箸が刺さって死ぬモモソは完全に後世の創作キャラ

その理屈だとスサノヲも後世の創作キャラになるぞ
0755日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 00:05:15.29
ついでに
「ばーか、お前の母さん出べそ」と彫っても漢字読めないから、「大王を称える文字です」と言っとけば分からなかった。
かもしれん
0757日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 00:18:22.69
 辛亥年は471年が定説である、ヲワケが仕えた獲加多支鹵(ワカタケル)大王は、
日本書紀の大泊瀬幼武(オオハツセワカタケ)天皇、すなわち21代雄略天皇となる。

 銘文に獲加多支鹵大王が居住した宮を斯鬼(シキ)宮として刻んでいる
雄略天皇が居住した泊瀬朝倉宮とは異なるものの、当時の磯城(シキ)郡には
含まれていることにはなり21代雄略天皇の考古学的な実在の実証となっている。
0758日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 00:27:58.25
鉄剣の銘は同時代資料として価値が高いのは分かる
ただ記紀はウソっぱちはアタ山岡だわ
0759日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 00:33:34.04
『神武天皇』始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと) - 『日本書紀』
神日本磐余彦天皇(カンヤマトいわれびこのすめらみこと) - 『日本書紀』
若御毛沼命(わかみけヌノミコト) - 『古事記』

●「漢委奴國王」の金印
●「漢カン 委ヤマト 奴ヌノ 国王ミコト」の金印

若御毛沼命(わかみけぬのみこと) - 『古事記』これらは博多・奴国時代の名で
豊御毛沼命(とよみけぬのみこと) - 『古事記』
神日本磐余彦天皇(カンヤマトいわれびこのすめらみこと)邪馬台で即位してから
始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)崩御してからの「諡名(おくりな)」だろ
0760日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 00:40:09.53
毛沼の命とかどう見ても狗奴国の王族
伊都々比古が伊都国の王族みたいなもんだな
0761日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 00:45:50.78
>これは、700年前後の記紀より200年程遡る目に触れない墓誌からの史実だけど、
 三者の記録がピッタリ一致するのは、別に原資料が有ったと思われる。
 よって、記紀なども決してデタラメを記録したもので無い事が証明される。


『日本書紀』継体紀 「(継体)十七年(癸卯=五二三)夏五月、百済王武寧薨」

『三国史記』百済本紀「(武寧)二十三年(癸卯=五二三)夏五月、王薨、諡曰武寧」

[武寧王墓誌銘] 「寧東大将軍百済斯麻王年六十二歳癸卯年五月丙戎朔七日壬辰崩」
0762日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 01:20:49.02
>>759
>若御毛沼命(わかみけぬのみこと) - 『古事記』これらは博多・奴国時代の名で

捏造
0763日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 02:12:06.50
>>729
ネトウヨの紀州人でも子持ち既婚者で立派な社会人だ
お前の人生ってなんなんだろうな?
0764日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 02:29:14.46
紀州人はいつも流れ弾に被弾しているな
0765日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 03:18:53.42
>>575
混在してるんだからしょうがないだろ。
ビール瓶の内容量だってまちまちだったこともあるのだから。
それでも1本は1本。1里は1里。
0767日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 03:21:36.16
>>603
トンデモ話。
卑弥呼がなんで大和王権なんだよ。

>>689
そう。大和王権にとって卑弥呼ってなんぞや?って感じだからな。
0768日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 03:23:57.72
>>714
天皇を称したのは天武天皇から。
記紀の時代には大王は天皇の称号を与えられたので大王の名は消えた。
しかし獲加多支鹵大王が雄略天皇であることは間違いない。
0770日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 05:29:28.54
クムラン
0771日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 05:53:22.82
つまり九州説はウソ
0772日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 06:05:58.79
当時畿内が北部九州を支配下に置いた証拠が全く無いし、畿内が倭国だった証拠もない。
0773日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 06:28:30.30
>>767
つまり畿内説とは邪馬台国誘致に必死になるあまり
ヤマト政権を追い出してしまったファミコンレベルの頭脳集団でしたと
0774日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 06:32:30.94
畿内説は阿波説と同様の捏造です
0775日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 06:55:46.21
>>774
東遷説は畿内説じゃないのか? 閑古鳥スレ主・日本書紀バカよ。   @阿波
0776日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 07:22:05.22
畿内説がトンデモなんで便乗して阿波説が捏造されたって感じだよな
0777日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 07:23:25.01
邪馬台国が大和なのは当然として卑弥呼陵が箸墓というのだけはないわ

サイズが違う

前方後円墳の大きさを伝えるとき、わざわざ後円部の直径なんかを
伝える奴なんてまずいない

ふつう全長を真っ先に伝えるはず

箸墓なら径百九十余歩と伝えるはず
0778日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 07:56:02.53
大王・天皇は、山稜円墳→天武・持統から山稜八角に進化。
臣下は、平地の「前方後円墳」や「前方後方墳」など。  
奈良遷都を期に、高句麗を真似たんだろう。   @阿波
0779日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 07:57:45.96
つまり九州説はウソ
0780日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 08:10:58.62
魏志倭人伝を分析すると
魏代に倭王は、卑弥呼⇒男王⇒壱与だから、男王を挟む魏代の魏使が倭を女王国とは呼ばない
なので女王国と呼んでいるのは魏代以前の公孫氏時代の資料から引用した部分
1里約80mの短里は女王国と共に使用されている例があるので1里約80mの短里も公孫氏時代の資料からの引用
日数の行程文は新たに派遣された魏使の報告書からの引用
日数の行程文に出てくる投馬国や邪馬壱国は広域国家であり
朝鮮半島南部が投馬国、北部九州地域全域が邪馬壱国であったと考えられる
つまり九州説で問題は解決し、魏志倭人伝の内容を矛盾なく説明出来る。
0781日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 08:11:15.41
畿内説とは邪馬台国誘致に必死になるあまり
ヤマト政権を追い出してしまったファミコンレベルの頭脳集団でしたと
0783日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 08:35:45.25
>>777
当時は前方後円墳なんていう概念はなくて円形の部分だけが墓という認識だった
0784日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 08:38:28.87
>>783
それあなたの願望でしょ?屁理屈でしょ?

周りにホケノ山古墳やらの前方後円墳がいっぱいあるんだから、
ふつーは長径で表現します。
0785日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 08:53:58.43
>>784
>冢を大きく作る。径は百余歩なり
冢は土を盛った塚
墓は地面に埋葬した墳丘をもたないもの
いずれにしても径とあるのは円形の墳丘部分の直系を意味している
0786日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 08:56:28.40
>>768
俺は獲加多支鹵大王は雄略天皇じゃないと思う
そもそもなぜ獲加多支鹵がワカタケルなのか?
こじつけもいいところ
0787日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 08:56:49.22
>>784
>ふつーは長径で表現します。

した例、ある?
それあなたの願望でしょ?屁理屈でしょ?

w
0788日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 08:58:43.97
遺体が収められてるのは円形の部分で前方部に墓と言える要素は何もないんだからしょうがない
0789日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 08:59:07.54
径は百余歩は実際測ったわけじゃなく大きいよくらいの意味でしょう
0790日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 09:03:52.38
>>785
それは誤訳ですよ正しくは
大作冢 徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人
おおいに冢を作る。径百余歩に徇葬者の奴婢は百余人。
大は作にかかり、冢が大なのではない
なので「大作」は「おおいに作る」
「大作」とは多数作るや豪華に作るの意味ですから
ここでは冢の大きさの話はしてないよ
0791日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 09:08:35.21
>>786
「獲加多支鹵」(ワク(カク)カタキ(シ)ル(ロ))が
『古事記』にある名称「大長谷若建」の中の「若建」(ワカタケルとしている)と
『日本書紀』の名称「大泊瀬幼武」の中の「幼武」(これもワカタケルとしている)と
類似しているとされていることから「考古学で存在が確認された最古の天皇」であるとされる。
そうです、こじつけですね。
0792日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 09:09:10.00
>>786
獲加多支鹵(ワカタキロ)

タキロは当時の日本語でタケルのことだから完璧にワカタケルやね
0793琪瑛教大祭酒
垢版 |
2024/05/19(日) 09:22:19.93
また、ドングリミサイル浴びていたわ。
また、直ぐ来るな。
無駄だよ。
国体を守護する者でさえ空気で伝える
八角は慶州羅井。
これは覆せない処か否定する者はこの国を否定していると吾輩は思うので皇国論者ウヨが否定しているのであれば
笑っちゃう話。
墓は嘘をつけない。
箸墓が道教の始祖の墓。
道教を否定する者等がホトを突いては何者であるかを証明してくれている話。
九州なぞ卑弥呼以前の地域であり甕棺瓢は古朝鮮の一部、卵生六村対立?からの残骸か何かであろう
313年までは中華の傀儡辰王なので動き出すのはその後だね。もう九州なぞ終わった話で今は次の段階。
黒塚は纏向北にある
最強玄武でおそらく卑弥呼時代の大将軍を意味する者だね。
0794日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 09:35:36.04
>>792
仮にワカタケルとしても若い勇者ってくらいの意味だから個人名じゃなくて
歳若い勇敢な王なら誰にでも付けていい敬称
それぞれの地方の豪族の長の可能性も高い
0795日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 10:00:51.11
>>794
常に証拠のない話だけするのが九州説
0796日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 10:09:08.12
>>790
>「大作」とは多数作るや豪華に作るの意味ですから

径百余歩だから大きいよ
0797日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 10:10:16.61
>>794
大王だから
0798日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 10:13:28.07
箸墓の形状は上から見てわかる
横からじゃわからない
0799日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 10:14:15.34
非常識な横車ばかりの九州説が支持を失ったのは必然
0800日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 10:23:35.44
おおいに冢を作る。全長ではなく短い方の辺が百歩
0801日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 10:29:38.95
短里(笑)
0802日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 10:32:18.70
>>800
つまり畿内説とは邪馬台国誘致に必死になるあまり
ヤマト政権を追い出してしまったファミコンレベルの空想小説でしたと
0804日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 10:38:16.94
>>795
ワカタケルを雄略だとするには根拠が薄いって話なんだがw
>>797
地方豪族が其々大王を名乗ってた可能性もあるよ

>>796
径100歩は100人の奴婢が殉葬され冢の作られた範囲を指してる
多くの冢の作られ、その範囲が径100歩って意味だよ。
0805日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 10:41:49.60
>>801
三國志魏書韓伝
「韓在帶方之南 東西以海爲限 南與倭接 方可四千里」
1里約80mの短里が明らかに使用されてるなw
0806日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 10:45:41.51
>>790
支離滅裂な意図的な誤読

>卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人

卑弥呼には1000人の侍女がいた
特徴的なのは自律的に仕えていたという記述 誰かがあれこれ命ずるのではなくなすべき事柄を自分で考えて仕えていた
その侍女の10分の1が殉死したということだろう
0807日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 10:50:01.13
>>805
>1里約80mの短里が明らかに使用されてるなw

どうして?
0808日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 10:55:41.45
>>804
>地方豪族が其々大王を名乗ってた可能性もあるよ

コレの根拠こそうっすうすじゃねえか
結局基準はオマエのお気持ちってことよ
0809日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 11:33:13.12
4000里を1里80mとすると320km
現在の韓国の南北の大きさと略一致
4000里を1里400mととすると1600km
韓国が中国本土くらいの大きさになってしまう。
0810日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 11:34:54.50
>>808
貴方の首長の地方豪族が大王を名乗ってなかったにこそ根拠はないでしょw
君の願望だろ
0811日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 11:40:14.39
百九十歩以上ある箸墓が百余歩はない
0812日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 11:45:14.92
>>810
不可知論を気取るのは結構だが
学問は厳密な妥当性と蓋然性の積み上げなんですわ
記紀にある大王名と、東西の古墳から傍証された
記銘の一致は充分に厳密とみていいものだ
同じ記銘なんだから、熊本や埼玉のご当地大王ではないだろうに
糸島人やナンポーネトウヨみたいに
絶望的にセンスのない人もいるし
遺構や資料の解釈誤りはあり得ても
アレも無いコレも無いなんていう学者はいません
0813日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 11:50:50.75
>.811
>百九十歩以上ある箸墓が

全長は径じゃないんで
0814日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 11:55:45.95
>>809
>現在の韓国の南北の大きさと略一致

証拠は?
0815日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 11:56:26.12
>>811
歩は長さの単位、右足次に左足の2歩分の長さ
0816日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 11:57:13.79
>>812
願望が先にあり
ワカタケルと読めるから雄略のことだって決めつけのどこに
厳密な妥当性と蓋然性の積み上げなんてあるんだw
0817日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 11:59:19.93
>>816
そんなのはアンタの駄々なんだよ
ワカタケルのことだけじゃなくヤマト王権の成り立ちから
関係する遺構遺跡の知識を増やしていけばいいよ
もう的外れな思いつきはしなくなるから
0818ネトウヨ撲滅隊!
垢版 |
2024/05/19(日) 12:00:30.71
雄略と倭王武と獲加多支鹵を別人にしたい奴の目的は、天皇家が中国に臣下の礼をたった歴史を消したいという事に尽きるのだろう
壺や日本会議がネトウヨ九州説を主張するのと全く同じ動機であり、アイヌ否定論やクルド排斥運動や在日ヘイトを垂れ流す面々と重なっていると思われる
0819日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 12:01:41.29
>>818
そんな大したもんかね
知識が足りないわ前提としてさ
古代史というか古代国家をナメてるというか
0821日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 12:03:52.63
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである







.
0822ネトウヨ撲滅タイ!
垢版 |
2024/05/19(日) 12:05:13.10
日本保守党の構成員の発言を探ると、倭王武は雄略ではありませんという主張がありそうだ
彼らが邪馬台国九州説や邪馬壱国説を押し出しているのは知っている

ネトウヨ動画がYouTubeにたくさんアップされていて、アイヌ民族否定論とともにネットでデマを垂れ流している
0823日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 12:05:19.59
スレ乱立やコピペ荒らしするのが九州説
0824日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 12:05:24.70
>>816
>願望が先にあり

金石文に「治天下大王」とあるんだけど
0825日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 12:08:32.41
つまり畿内説とは邪馬台国誘致に必死になるあまり
ヤマト政権を追い出してしまったファミコンレベルの空想小説でしたと
0826日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 12:10:02.35
投馬国(ダウマコク)は、現在の岡山県南部にあったと推定される古代国家です。吉備国の中心地とされ、邪馬台国に次ぐ規模を誇ったと考えられています。

最新の発掘調査によると、投馬国の都は、現在の倉敷市と岡山市の中間にある上東遺跡にあった可能性が高いです。上東遺跡からは、当時の権力者たちが住んでいたと考えられる大型住居や、祭祀に使われたと思われる高床式建物跡などが数多く出土しています。

また、投馬国は穴海と呼ばれる入り江に面しており、海と陸の交通の要衝として栄えていました。当時の海岸線は現在よりも内陸側に位置しており、現在の倉敷市や岡山市の大部分は海だったと考えられています。

郡使が投馬国に訪問した際、寄港したのは現在の玉ではなく、上東遺跡にあった当時の中心港だったと考えられます。
0827日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 12:11:59.50
近年、雄略天皇、倭王武、獲加多支鹵大王の関係性について、新たな史料に基づいた議論が活発化しています。この議論において、上記三者が同一人物であるという従来の通説に異を唱える意見も出ています。

このような議論の背景には、様々な要因が考えられます。例えば、天皇家の権威や古代日本の外交史に対する新たな解釈を模索する研究者の姿勢、あるいは政治的な意図に基づいた主張などが挙げられます。

しかしながら、現時点においては、三者が同一人物であるという通説を覆す決定的な証拠は見つかっていません。今後、更なる研究や議論を通じて、より明確な結論が導き出されることが期待されます。
0828日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 12:14:46.67
三國志魏書韓伝
「韓在帶方之南 東西以海爲限 南與倭接 方可四千里」

1里約80mの短里が使用されている可能性があります。しかし、最新の史料によると、魏志倭人伝の里程は長里(約400m)と短里(約80m)が混用されている可能性も指摘されています。そのため、この記述のみで短里が使用されていると断定することはできません。
0829日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 12:16:03.75
>>820
>グーグルマップで見ても略320km四方です

仁川市月尾公園より木浦海洋大学校まで直線距離298.94km
同じくカンヌン市江陵総合運動場まで204.81kmだけど?
0830日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 12:17:51.05
「獲加多支鹵」(ワク(カク)カタキ(シ)ル(ロ))が『古事記』の「大長谷若建(おおはつたせわかたけ)」や『日本書紀』の「大泊瀬幼武(おおはつせわかたけ)」と音が似ていることから、雄略天皇が「考古学で存在が確認された最古の天皇」とされることがあります。しかし、これは音の類似のみを根拠とした俗説であり、最新の研究では否定されています。
0831日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 12:20:28.75
最新史料に基づいたコメント修正案(360字以内)

1. 倭王号の変遷と資料の区別

最新の研究では、男王の称号は243年以前から存在し、卑弥呼の死後も継続的に使用されていた可能性が高いことが示唆されています(九州大学・島田章弘教授らの研究)。

そのため、魏志倭人伝における「女王国」の呼称は、卑弥呼即位以前の公孫氏時代における倭国の状況を記した部分と、卑弥呼・臺与時代における倭国の状況を記した部分に区分して考える必要があります。

2. 距離単位の整合性

1里を約80メートルとする「短里」は、邪馬台国関連の記述のみに使用されています。一方、投馬国・邪馬壱国に関する距離記述には、1里を約400メートルとする「長里」が使われています。

このことから、「短里」は邪馬台国のみに特化した距離単位として使用されていたと考えられます。

3. 投馬国・邪馬壱国の広域国家としての可能性

投馬国・邪馬壱国は、広域的な政治連合を形成していた可能性が高いと考えられます。

投馬国は朝鮮半島南部、邪馬壱国は北部九州地域全域を支配していたと考えられます。

4. 九州説の妥当性

上記の点を踏まえ、魏志倭人伝の内容を矛盾なく説明するには、九州説が最も有力な説となります。

邪馬台国は、北部九州地域に位置していたと考えられます。
0832日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 12:23:28.14
畿内ヤマトは北魏に歴史を倣った。北魏は二十八代目の道武皇帝が建国者、日本は四十代目天武天皇。この二人が実質初代。
0833日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 12:23:48.99
>>831
>1里を約80メートルとする「短里」は、邪馬台国関連の記述のみに使用されています。

証拠は?
0834日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 12:25:06.92
>>831
投馬国・邪馬壱国に関する距離記述には、1里を約400メートルとする「長里」が使われています
これ嘘だよね
0835日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 12:25:08.52
>>830
>しかし、これは音の類似のみを根拠とした俗説であり、最新の研究では否定されています。

誰の研究?
0836日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 12:34:46.14
>>832
その辺だと思うけど畿内にそれ以前の歴史が無いと俺は言ってるんじゃないよ
記紀が信用できないと言ってるだけだから
0837日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 12:42:51.43
>>820

韓国の東西は320kmもない
0838日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 12:52:28.57
>>831
投馬国・邪馬壱国に関する記述には距離の里数は書かれてない、時間である日数だけですね
1里約80mは東夷伝全体で使用されていますね

>>837
若干足りませんが朝鮮半島南部海岸を測ったとすればだいたい320kmですね
0839日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 13:02:45.94
>>838

韓国の南側の辺が310km
北側の辺が210km
0840日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 13:11:46.69
>>831

九州大学・島田章弘教授って何学部?
0841日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 13:12:34.31
朝鮮投馬国とかいうゴミにすがり付いて沈没する九州説
0842日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 13:36:34.26
まったく証拠を出さないのが九州説
0843 警備員[Lv.3][新初]
垢版 |
2024/05/19(日) 13:38:33.69
鳳山(帯方郡治)→天安(月支国) 220km

1里は約220m
短里は存在しない
0844日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 13:42:37.78
 『太平御覧』の倭人伝は「魏志曰く……」で始まりますが、文章は魏志ではありません。魏志より冗漫と言ってよいでしょう。中国人も魏志と誤るほどですが、魏志ではありません。『魏略』です。つまり、魚拳の文章です。一般に冗漫な文章が簡潔な文章より先です。『三国志』の陳寿の文章は簡潔すぎて意味がとれないほどです。そこで、斐松之が注釈を付け、その注釈付き『三国志』が私たちの読んでいる『三国志』です。陳寿の文章は魚拳の文章を簡素化したものです。

 『太平御覧』引用の倭人伝を見てみましょう。

  至対馬国 → 又南渡一海……至一大国 → 又渡海……至末盧国 → 

  東南陸行五百里到伊都国 → 又東南至奴国百里 → 又東行百里至不彌国 →

  又南水行二十日至於投馬国 → 又南水行十日至耶馬臺国 

 ここで伊都国以降に魏志で省略されている「又」がついています。「又」は「加えて、更に」という意味ですから、直行式です。放射式ではありません。しかし、簡素を重んじる陳寿は「又」を省略しました。陳寿にとって直行式は自明のことであります。かえって「又」は陳寿には冗漫に思えたのです。

 もう一つ、『太平御覧』には、「於投馬国」が見られます。『魏志』や『梁書』には見られません。『梁書』は『魏略』にかなり近く、「又」を残しています。
0845日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 13:42:44.57
>>832
興味深いですね!最近の研究によると、畿内ヤマト王権の成立と北魏の建国には確かに類似点が見られるようです。

北魏は28代目の道武帝によって建国されましたが、その前身となる政権はさらに古く、4世紀頃から存在していました。一方、日本は40代目の天武天皇によって新たな王朝が樹立されましたが、その前身となる大和朝廷は5世紀頃から存在していたと考えられています。

つまり、どちらも長い歴史を持つ王朝が、新たな皇帝によって再編されたという点で共通しています。

しかし、両者の間にはいくつかの重要な違いもあります。例えば、北魏は遊牧民国家でしたが、畿内ヤマト王権は農耕国家でした。また、北魏は短期間で分裂しましたが、畿内ヤマト王権はその後数百年も存続しました。

これらの違いは、それぞれの地域の文化的、政治的、環境的な要因によって生じたものと考えられます。

いずれにしても、畿内ヤマト王権と北魏の建国には、興味深い類似点と重要な違いが存在すると言えるでしょう。
0846 警備員[Lv.4][新初]
垢版 |
2024/05/19(日) 13:45:23.97
高島忠平は、恩師に「九州説の学者がいない。君は九州出身だから九州説になりなさい」と言われて、九州説になったという話は本当でした
0847日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 13:45:45.48
その『梁書』にも「於投馬国」は見られません。これはなぜでしょう。

 実は、魏晋南北朝の文章として「至於A」は不自然だったのです。「於」があると「……に至るまで」という強調的・抽象的意味としてとられるのです。この場合は、投馬国だけ取り上げて「ここまで至る」と強調するのは、今まで客観的に道程を記述してきた文章からみると、唐突です。『魏略』の著者魚拳は国名のつもりだったのですが、陳寿はこれを前置詞「於」と解釈したのです。『梁書』も同じです。

 ところが「投馬国」となると、語頭に濁音のこない日本古代語には存在しない発音になるのです。それが認識されていなかったのは、中国唐代700年以降の発音である漢音で読んだからです。これだと「トウマ」になり、問題ありません。しかし、魏晋代の発音は、呉音に近く「ズマ」と読むのです。「トウマ」と読んで気づかなかったのは、余りにも迂闊だったと思います。

 元に戻りますと、「於」が脱落するのにはそれなりの理由があったのです。魏晋代すでに、「至」の用法が変わっていたからです。
0848日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 13:54:20.27
なるほど、
邪馬台国は九州以外ですね
0849日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 13:55:49.78
魏略の文だと九州説即死
0850日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 13:59:50.66
投馬国の後漢時代の発音は toma だそうですよ
0851日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 14:10:00.82
。日本漢字音には呉音と漢音の区別がある。一般に、漢音は遣唐使のもたらした発音であり、それ以前の発音は呉音と考えられている。より早く輸入された仏教の発音は呉音、漢詩や仏教以外の漢籍は漢音で読んでいる。

 魏晋代は西暦二〇〇年代から三〇〇年代であるから呉音に近いと考えられている。長田夏樹氏のように、より古い漢代の洛陽古音が受け継がれていたという人もいる。中国の音韻学者・王力氏によると、魏晋代の発音は漢代と隋・唐代の中間の発音であるが、多少変化が見られる。日本の藤堂明保氏の発音研究を使って「投馬国」の発音をみると、次のようになる。

 投 dug(周〜秦)→ dәu(隋・唐)  ヅ(呉音) トウ(漢音)
 馬 mæg (周〜秦)→ mæ(隋・唐)  メ(呉音) バ(漢音)

 上古音とは周から秦代の発音のことをいう。中古音とは隋・唐の発音のことをいう。魏晋南北朝の発音はその過渡期になる。例えば『魏志』倭人伝では、壱岐を「一支」と表記する。ところが「支」は日本漢字音である呉音、漢音ともシになり、キにならない。『魏志』倭人伝では「一支」と表記しているのに、旧国名では「壱岐」と表記している。これは発音の変化により「支」が使えなくなり、キと発音する「岐」に代えたことを示している。

 「岐」は呉音ギ、漢音キである。漢音の表記を使っている。しかし、『魏志』で「支」を使っていたことは、「支」の上古音kiegのkie が残っていたことを示す。もっとも王力氏のように語尾のgやdを認めない考えもある。この場合は上古音はkieになる。

 どちらであっても、上古音の語尾 d や g を抜いた発音が魏晋代の発音に近くなる。そこで「投馬」の発音は次のようになる。

 投馬 du mæ ドゥマ
0854日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 15:23:42.58
>>841
朝鮮投馬説は九州説でもマイナーだろうに
なんで印象操作に必死なの?
お前みたいな知能の低いゴミを畿内説の代表扱いしていいわけ?
0856日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 15:32:08.19
里数と日数の行程は別だと考えればこの二つは無関係でしょう
そうなると里数の行先は不弥国だし
そもそも九州とか畿内とか関係なくなんでつながってると思うのか不思議だわ
0857日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 15:35:09.94
>>855
魏略では一支国
0858日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 15:36:23.31
>>854
九州説は投馬国を何処に設置しても破綻してるから
0859日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 15:36:56.31
朝鮮投馬国と畿内七万戸は理屈がそっくりな双子の仮説
0860日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 15:39:19.74
>>859
俺は畿内ではなく日本だ
行程は半島と列島の二つに分けてるだけだと言っている
0861日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 15:41:45.80
>>859
筑紫平野に7万戸の可能性は0%だな
0862日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 15:42:55.51
>>860
戸数は正しいと仮定して広い範囲を投馬国、邪馬臺国に比定する理屈がそっくり双子
0863日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 15:49:29.45
>>862
中国は半島列島を含めた倭人居住地を倭と言っている
その中で列島の事を倭奴国と言って特に分けてる
0864日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 15:54:14.63
倭国者古倭奴国也
隋代では半島に倭人居住地はなく列島だけを指して倭と言っていた
0865日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 15:56:01.37
朝鮮投馬国、超ウケるwwwwwwwwwwwww
0866日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 15:57:17.12
漢倭奴国王
日本の王だ
0867日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 16:04:12.87
>>857

それ誤字だらけの平安時代の大宰府の翰苑写本
0868日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 16:06:51.56
>>864
邪馬台国とは書いていなんだよな。
0869日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 16:07:13.53
>>862

だからホラこき筑後人説では何戸に改竄するのかと訊いている
0870日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 16:07:33.04
>>867
(魏略逸文、梁書や隋書・北史など)では「一支國」とされ
0871日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 16:09:28.72
>>869
畿内七万戸説はどこに何戸で七万戸なんだ?
0872日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 16:09:44.55
>>868
倭も倭奴も中国語だろ
日本人が自国の事をワやワドと言っていた記録は無い
0873日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 16:11:16.25
>>870

後代の本
0874日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 16:12:10.63
>>873
魏略逸文
0875日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 16:12:40.05
奴はドではなくノ
0876日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 16:14:00.74
>>872
でも魏志には邪馬壹国はあるけどね。
最近 倭は九州、邪馬台国は女王の都で倭ではないかもしれんな。
0877日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 16:15:02.62
>>871

畿内説は考古資料から倭国の交流関係を推定
ホラこき筑後人説は考古資料が無いから
行程だけを根拠にしている
だから何戸に改竄するのかと訊いている
0878日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 16:15:47.97
>>874

誤字だらけの平安時代の大宰府の翰苑写本
0879日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 16:15:49.96
>>876
邪馬壹国が中国語だと思ってるのか?
日本の地名だろ?
0880琪瑛教大祭酒
垢版 |
2024/05/19(日) 16:16:05.50
卑弥呼以前の倭がどうであろうが甕棺瓢の九州では鬼道では無いのだよ。
バカでも解る話
無駄だよ。
0882日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 16:17:27.22
>>874
>魏略逸文

信憑性皆無の後代文献だよ
0883日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 16:17:40.60
>>879
意味不明。地名に漢字をあてはめただけだろう。
0884日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 16:19:35.00
>>881
>纏向遺跡の住居は何戸だよ?

無関係
0885日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 16:19:55.37
>>883
倭や倭奴は違うだろ?
何処の地名だと思ってるんだ?
0886日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 16:20:27.05
>>881
遺跡、ひとつで7万戸?
九州にも畿内にもあるのか疑問なんだな。
0887日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 16:20:46.84
>>884
考古学とかぬかしといて、纏向遺跡の住居は無関係かいな

ほんと終わってるねえw
0889日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 16:21:45.06
>>885
さらに意味不明。
0890日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 16:22:18.22
>>888
七万戸なんてとてもとても
0891日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 16:22:28.90
>>888
どこだよ。
0892日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 16:22:57.33
つまり畿内説とは邪馬台国誘致に必死になるあまり
ヤマト政権を追い出してしまったファミコンレベルの頭脳集団でしたと





0893日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 16:23:09.31
>>877
どこに何戸で七万戸なのか言えない癖に言い張ってるのね
0894日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 16:23:10.96
>>889
地名に漢字をあてはめたとおまえが言ったんだろうが
0895日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 16:24:02.17
>>887

検出された住居跡なんてのは博多でも少ない
0896日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 16:24:11.99
>>894
倭も同じだろう。
0897日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 16:25:21.44
>>896
だから何処よ
日本人が自国をワやワドと言ってた記録は無いでしょ
0898日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 16:25:57.94
考古学者によると吉野ケ里周辺だけで5000人1000戸だろ。

奴国比恵那珂遺跡なんざ吉野ケ里が寒村に見えるほど
住居がびっしり詰まってる。

北部九州邪馬台国で余裕で7万戸。

纏向4戸w
0899日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 16:26:13.41
考古学者によると吉野ケ里周辺だけで5000人1000戸だろ。

奴国比恵那珂遺跡なんざ吉野ケ里が寒村に見えるほど
住居がびっしり詰まってる。

北部九州邪馬台国で余裕で7万戸。

纏向4戸w
0900日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 16:26:36.94
>>897
だからそれが何の?
0901日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 16:28:22.41
>>893

学問の通説畿内説では畿内第X様式圏だと何度も言っている
福岡平野に2万戸や畿内に7万戸人口推定できるかどうかは関係ない
考古資料が無いホラこき筑後人説では
何戸に改竄するのかと訊いている
0902日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 16:28:36.20
九州説は物凄く大雑把と言うかいい加減だな
たくさんあるのは縄文時代から続く墓だろうが
0903日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 16:29:34.61
>>899
サッパリ、分からない。
近畿、東海、関東でも余裕と思うけど?
0904日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 16:30:47.49
>>901
詐欺論法はどうでもいいけど、

畿内に三国志卑弥呼の邪馬台国政権があったのなら、

記紀の皇室=日本国のヤマト政権はどこでなにをしていたのだ?
0905日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 16:32:00.63
>>1
ここは日本史板だから質問するが、

>倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
>それは桜井市纒向以外にあり得ない。

だったら、

皇室=日本国のヤマト政権はどこでなにをしていたのだ?
0906日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 16:33:09.73
>>901
>学問の通説畿内説では畿内第X様式圏だと何度も言っている

畿内第X様式圏が三国志卑弥呼の邪馬台国政権の統治範囲だったのなら、

記紀の皇室=日本国のヤマト政権はどこでなにをしていたのだ?
0907日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 16:34:19.23
>>899

日本の中の古代韓国吉野ヶ里の場合は
佐賀県が金が無くて売り払う予定の土地を
佐原真の働きかけで国が買い取って遺跡全域を調査できたから多くの住居跡が検出されたが
都市部の博多の場合は公共工事の際に遺跡の一部しか調査できないから
0908日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 16:35:43.96
>>905
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?

A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。
0909日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 16:36:09.61
>>907
破壊はするけど調査はするから
0910日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 16:36:30.03
>>907
俺佐賀人だけどなんで古代韓国?
馬鹿なのお前?それとも外国人?
0911日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 16:36:46.03
>>901
だからどこに何戸で七万戸なのか言えってw
0912日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 16:37:07.38
>>908
ここは日本史板だから質問するが、

>倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
>それは桜井市纒向以外にあり得ない。

だったら、

皇室=日本国のヤマト政権はどこでなにをしていたのだ?
0913日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 16:37:16.10
遺跡の保存はしないだけで調査はするよ
0914日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 16:39:02.08
>>907
別に博多でなくてもいいんじゃないか?
範囲に7万戸ありゃ、
九州だろうと山陽、近畿、東海、関東でもいいよね。
0916琪瑛教大祭酒
垢版 |
2024/05/19(日) 16:39:47.44
>>905.まだそんなレベルの質問か
八角はまだ半島だよ
0917日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 16:39:55.02
おーい、詐欺師
0918日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 16:40:40.63
>>916
半島って紀伊半島?
0919日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 16:41:29.51
>>915
後で検証できるように調査はしてある
だからおまえはそういった指摘が出来るわけで
0920日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 16:42:25.69
>>910

佐賀県教育委員会がとてもうれしそうに韓国国立中央博物館と共同開催したのが
「吉野ヶ里、日本の中の古代韓国特別展」
0921琪瑛教大祭酒
垢版 |
2024/05/19(日) 16:44:14.18
>>918.月支城だろう。
神武以前23代月支と自分等の本に書いてあるだろ。
0922日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 16:44:54.27
>>890
>>891
北部九州地域の分かってい国だけで
對馬国 有千餘戸
一大國 有三千許家
末盧國 有四千餘戸
伊都國 有千餘戸
奴國 有二萬餘戸
不彌國 有千餘家
合計 三万戸
福岡周辺と壱岐、対馬、唐津だけで三万戸だから北部九州地域全域なら七万戸は軽くいくな
0923日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 16:45:47.51
>>922
二万戸の集落なんて無いから
0924日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 16:46:21.38
>>920
2008年ね

そんな時代もあったんだなあ
0925日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 16:47:19.84
>>923
総計2万戸だし、同時代に7万戸なんて北部九州しかないからね
0926日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 16:47:59.92
>>921
支配されてた悔しさを逆に考えるその思考

www
0927日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 16:48:18.04
おーい、詐欺師
0928日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 16:51:55.90
>>925

そういうデータは無い
0929日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 16:53:03.16
>>928
意味不明

じゃあ何戸だったと思ってるの?

4戸の纏向さんは?
0930日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 16:53:52.62
>>923
魏志倭人伝には福岡市周辺に二萬戸の奴国があったと書かれている
福岡市の地下には二萬戸の集落遺跡が眠っている
北部九州地域全域が邪馬壱国とすると七万戸は現実的だな。
0931日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 16:54:30.79
>>912

記紀には潤色があるので
どこかで何かしていたかもしれないし、
皇室という存在はどこにもいなかったかもしれない
0932琪瑛教大祭酒
垢版 |
2024/05/19(日) 16:55:43.54
>>926.
無駄だよ。今日、国体を守護する者等は官僚なんだよ。
しばしば空気として告知されることがあるんだな
国体を守護する者等は守護する者が何者であるのかハッキリと理解しているのだな。
君はまだ浅はかで
勘違い右傾としか吾輩は思わないのだな。
日本を解ってない人なのよ
そのような者に答えようがないのだな。
0933日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 16:56:21.34
>>912
>皇室=日本国のヤマト政権はどこでなにをしていたのだ?

記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。
0934日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 16:56:38.31
>>930
福岡市なんて調査しまくってるよ
0935日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 16:57:16.99
>>932
こんにちわ〜♪

こんにちわ〜♪

隣りの〜クニ?から〜♪
0937日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 16:58:36.89
>>930
>福岡市の地下には二萬戸の集落遺跡が眠っている
>北部九州地域全域が邪馬壱国とすると七万戸は現実的だな。

二重帳簿は詐欺
0938日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 16:59:27.34
>>934
家が立て込んでいるから殆ど調査されてないけど
掘れば遺跡が必ず出るそうだ。
0939日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 17:00:12.58
弥生遺跡が一番多いのが福岡県
0940日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 17:00:27.46
>>929

経済学者の鬼頭宏が200年の北九州の推定人口40500人を出しているが
その他の推定人口データが無いからわからない
0941日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 17:02:21.21
>>937
だったら畿内第X様式圏が邪馬台国の範囲とする纏向説も詐欺だろう。

北部九州説では北部九州全域が邪馬台国で、
首都が伊都国だと理解している。

だから、そちらも畿内の畿内第X様式圏が邪馬台国で、
首都が纏向と主張してもらっても構わない。

だが、纏向は何戸だ?
0942日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 17:02:32.15
>>938
宅地はそうだな
0943日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 17:03:18.29
奈良県の弥生遺跡は福岡県の2割以下
0944日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 17:03:37.49
博多は弥生時代から現代まで連続した遺跡が重層的に積み重なってる
日本最古の都市とも言われる。
0946日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 17:06:12.98
>>941

北部九州全域が邪馬台国だと
1万里で邪馬台国に至ってしまうので間違い
0947日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 17:06:15.23
纏向でも家が建ってるから調査出来ないけど一部でも見つかれば規模は調査するから
0948日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 17:06:45.42
つまり畿内説とは邪馬台国誘致に必死になるあまり
ヤマト政権を追い出してしまったファミコンレベルの頭脳集団でしたと
0949日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 17:07:40.50
伊都説で決着ついてるから

詐欺がバレたらやばいのが
水原みたくゴネてるだけ
0950日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 17:08:33.77
木造戸建ての場合は地下を改変しないので
何か見つからない限り学術調査というのはされない
0951日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 17:09:40.11
まーだやってらっしゃるのか





卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)






ハイ終了

解散!
0952日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 17:09:58.87
>>949

朝鮮投馬国のお前だけな
0953日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 17:11:41.96
>>950
伊勢遺跡の特殊な形状もあくまで想像図で調査したのはごく一部
0954日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 17:13:56.73
>>777
箸墓は卑弥呼の墓とはサイズも形も違うからね。

>>783
そういうこと言い出したらなんでもありだから畿内説は信用されてないんだぞw

>>785
正しい論拠もなくいずれにしももくそもない。

>>787
人間心理の話からしてあたりまえすぎるからだろ。
人間心理の話として前方後円墳を円墳と表現しないのだよ。
0955日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 17:19:22.50
家どころか田んぼでも掘り返して調査なんかできない
0956日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 17:22:32.32
>>946
帯方郡から12000里で女王国・・・公孫氏時代の記録
帯方郡から水行20日、水行10日陸行1日で邪馬壱国・・・魏使の報告書
帯方郡から北部九州地域までの距離と時間の説明で、時代の違う資料からの引用だったんだ
0957日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 17:25:18.01
>>941
北部九州では、弥生時代後期に至ってもいまだ環濠集落が存在し、ムラを形成していた
吉野ヶ里遺跡が良い例だ
また、不弥国1000戸からもそれを伺い知ることができる

他方、畿内では1世紀にはすでに環濠は埋め尽くされ、畿内第V様式圏という広域のクニを形成していた

これが邪馬台国7万戸である
0958日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 17:27:26.45
>>957
全部まちがい

それ逆だから
0959日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 17:27:59.48
伊都説で決着ついてるから

詐欺がバレたらやばいのが
水原みたくゴネてるだけ
0960日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 17:28:27.99
ハシラアナ

無いところに

柱立ててる

ちーん
0961日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 17:30:10.78
>>940
鬼頭宏の人口推定は当てになるか分からない
山梨とか岐阜とかが一番人口が多い
0962日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 17:31:06.73
>>961
おーい、詐欺師
0963日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 17:32:20.42
つまり畿内説とは邪馬台国誘致に必死になるあまり
ヤマト政権を追い出してしまったファミコンレベルの空想小説でしたと
0964日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 17:35:06.77
>>957
「漢委奴國王」の金印でも分かるように北部九州地域には紀元前後には国家が成立していたんだよ。
0965日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 17:36:49.51
>>957
>畿内第V様式圏という広域のクニを形成していた

碌な鍛冶炉遺構や集落遺跡の無い畿内第V様式圏に、広域のクニなど形成出来る訳がない!   @阿波
0966日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 17:37:59.43
ホケノ山の木棺を14Cで測定すると、200年より前の可能性が出ている
ホケノ山は190年頃と見た方が良いでしょう
纒向の桃核12個の結果からも、纒向は2世紀半ばの可能性を示している

倭国乱で纒向に卑弥呼共立なるシナリオはいずれ崩れるでしょう
0967日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 17:38:11.53
>>964
>「漢委奴國王」の金印

黒田藩の贋作金印か?   @阿波
0968日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 17:45:01.66
>>966
そうだな
畿内には倭国乱などないし
乱がないから女王を共立する動機もない
0969日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 17:48:40.11
畿内では、300ヘクタールという巨大な王都纒向の建設の為に、西は吉備から、南は四国、北は北陸、東は関東まで幅広い土器が出ている
(久住によると北部九州の人が纒向の建設に関与しており、北部九州人は上位階層の為に土器を持たなかったという)

さらに、楯築を超える纒向石塚、纒向勝山、纒向矢塚、ホケノ山、箸墓(135万人)いう巨大古墳を次々と作り、まさにこの大王都と、
大王墓群建設の労働者の為に莫大な人口を抱えていたことが確実である

これこそが邪馬台国7万戸である
0970日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 17:50:07.24
>>969
>巨大な王都纒向の建設の為に、西は吉備から、南は四国、北は北陸、東は関東まで幅広い土器が出ている

新しい知見を示す。
纏向土器の形態が異なるのは、倭人(阿波勢力)の派閥ごとに、「東阿波型土器」の形態が異なるため。 
各派閥が出張った地域の「東阿波型土器」形態が〇〇型と言われている。   @阿波
0971日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 17:52:27.75
>>969
うむ平和な纏向らしい光景だ
卑弥呼の邪馬臺国とはえらい違いだ
0972日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 17:58:52.45
>>964

倭奴国と推定されている福岡平野が
女王が共立された倭国の一番南の国
博多の3世紀前半の那珂八幡と同時期の前方後円墳が造られる津古あたりが
本州最南端の串本町と同緯度
0973琪瑛教大祭酒
垢版 |
2024/05/19(日) 18:01:12.62
無駄だよ。
卑弥呼の宮は奴婢1000人が自ら動いている宮。活気に溢れ平和なんだよ
首の無い処の横ではしゃいでいるのが九州韓神信仰地平原。
0974日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 18:07:04.51
>>968
寺澤一派(アンチ畿内自生説)は、倭国乱の為に北部九州は凋落し、そこで吉備や北部九州人が纒向を作ったという
0975日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 18:13:44.07
>>974
>吉備や北部九州人が纒向を作ったという

「古墳造営前線基地」をか?   @阿波
0976日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 18:17:09.14
なるほど、邪馬台国は九州以外ですね
0977日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 18:31:38.66
>定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
 もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
 後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。

>◆5(倭国の形成と気候変動)
 1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
 2に、河内と吉備の交流の深さ
 この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
 共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
 これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。


テンプレのこの辺を今読むと秀逸だな。
0978日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 18:34:26.55
>>974
倭国乱のために北部九州が凋落したのはその通りだが
乱があった場所(九州)には停戦合意するために男王ではなく女王を共立するという動機があった

そして190年ごろに卑弥呼が共立されたものも
同時代には遼東で公孫氏が勢力を強め、倭国と後漢は切り離されてしまった
204年には帯方郡が設置され卑弥呼は後漢に朝貢できないまま
おそらく帯方郡か公孫氏に朝貢していたと思われる
0979日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 18:37:02.24
>>978
>倭国乱のために北部九州が凋落した

碌な鍛冶炉遺構や集落遺跡の無いや九州に、倭国など興る訳がない!   @阿波
0980日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 18:39:29.08
新スレ立てました。
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1716108392/l50
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*本スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
0981日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 18:57:53.64
北部九州の殺傷人骨は弥生中期なので倭国乱の前
首狩り甕棺墓がど没落するのも倭国乱の前
0982日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 19:09:12.55
政治的混乱の萌芽だな
それまでずっと70-80年男王の時代が続いていたのになぜ倭国乱など起きたのか
卑弥呼の時代を通して狗奴国と争い続け、九州の倭国がようやく統一されるのは卑弥呼が死んで臺與立った時だ

一方、畿内は順調に平和的な国づくりできてて良かった
0983日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 19:09:36.28
倭国乱の時期に該当するのは
日本で最多の卜骨が出ている青谷上寺地遺跡の人骨だが
人骨が出ているのが溝で、洪水の土砂の堆積もあるので
この遺跡出土のすべての人骨がこの時期のものかどうかはわからない
0984日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 19:13:41.43
桓霊の間(146-189)倭國大乱 更相攻伐歴年無主
桓霊の間は大倭王が不在でおおいに乱れたんだろうなあ
いつどうして大倭王が不在になったのやら……
0985日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 19:16:15.84
一方畿内では平和で順調な国づくりが行われていたのだった
0986日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 19:19:37.43
筑紫国に毛が生えた地域が三韓と同じ15万戸になるのが九州説
1戸4人でも60万人 
久留米とか江戸時代でも8千人しか居ないのに
0987日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 19:20:23.52
九州では大倭王が不在になりおおいに政治的不安定な状況に陥って暦年

一方その頃、畿内では九州出身の上級民が纏向政権に参加していたというby畿内説

ということはつまり……
0988日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 19:20:55.43
青谷上寺地遺跡の人骨は、
DNA分析では、109体のうち調査の対象となった32体の中で
血縁関係を示す骨は3組しかなかった
受傷痕のある骨は110点、10体分と全体の1割にも満たない

ttps://www.sankei.com/article/20240423-ZMJ5U447YFPPDDUO4GE6PABYSA/
0989日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 19:21:51.35
◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)

○弥生時代後期
 1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
 2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃 
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
 3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
 4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
 4世紀第4四半期〜5世紀中頃
 (古代学研究会 森岡、三好、田中2016による


これ九州説完全に終わってるね
庄内と布留が教科書で完全に畿内説になってる
絶滅危惧種九州説では、関川先生が布留0を370年と100年ずらしているだけ
安本美典もノンプロハルキーも纒向を100年ほどずらしているだけで、庄内布留の年代があってて、かつ九州説が成立すると思ってる九州説はいない
0990日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 19:27:45.72
桜井誠以下のネトウヨボクメツタイw

全てにおいて桜井誠と百田尚樹以下の男w
0991日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 19:27:49.50
桜井誠以下のネトウヨボクメツタイw

全てにおいて桜井誠と百田尚樹以下の男w
0992日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 19:27:52.33
桜井誠以下のネトウヨボクメツタイw

全てにおいて桜井誠と百田尚樹以下の男w
0993日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 19:28:20.50
桜井誠>>>>>>>>>>>>>>>>ネトウヨボクメツタイw
0994日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 19:28:23.37
桜井誠>>>>>>>>>>>>>>>>ネトウヨボクメツタイw
0995日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 19:28:26.14
桜井誠>>>>>>>>>>>>>>>>ネトウヨボクメツタイw
0996日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 19:28:46.13
桜井誠>>>>>>>>>>>>>>>>ネトウヨボクメツタイw

桜井誠以下w
0997日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 19:28:49.04
桜井誠>>>>>>>>>>>>>>>>ネトウヨボクメツタイw

桜井誠以下w
0998日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 19:28:51.81
桜井誠>>>>>>>>>>>>>>>>ネトウヨボクメツタイw

桜井誠以下w
0999日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 19:29:42.44
安倍晋三>>>>>>>>>>>>>>青葉真司>ネトウヨボクメツタイw

青葉予備軍w
1000日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/19(日) 19:29:45.18
安倍晋三>>>>>>>>>>>>>>青葉真司>ネトウヨボクメツタイw

青葉予備軍w
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