邪馬台国畿内説 Part1024
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4~6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1715680313/l50
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にあり得ない。 >>950
伊勢遺跡の特殊な形状もあくまで想像図で調査したのはごく一部 >>777
箸墓は卑弥呼の墓とはサイズも形も違うからね。
>>783
そういうこと言い出したらなんでもありだから畿内説は信用されてないんだぞw
>>785
正しい論拠もなくいずれにしももくそもない。
>>787
人間心理の話からしてあたりまえすぎるからだろ。
人間心理の話として前方後円墳を円墳と表現しないのだよ。 >>946
帯方郡から12000里で女王国・・・公孫氏時代の記録
帯方郡から水行20日、水行10日陸行1日で邪馬壱国・・・魏使の報告書
帯方郡から北部九州地域までの距離と時間の説明で、時代の違う資料からの引用だったんだ >>941
北部九州では、弥生時代後期に至ってもいまだ環濠集落が存在し、ムラを形成していた
吉野ヶ里遺跡が良い例だ
また、不弥国1000戸からもそれを伺い知ることができる
他方、畿内では1世紀にはすでに環濠は埋め尽くされ、畿内第V様式圏という広域のクニを形成していた
これが邪馬台国7万戸である 伊都説で決着ついてるから
詐欺がバレたらやばいのが
水原みたくゴネてるだけ >>940
鬼頭宏の人口推定は当てになるか分からない
山梨とか岐阜とかが一番人口が多い つまり畿内説とは邪馬台国誘致に必死になるあまり
ヤマト政権を追い出してしまったファミコンレベルの空想小説でしたと >>957
「漢委奴國王」の金印でも分かるように北部九州地域には紀元前後には国家が成立していたんだよ。 >>957
>畿内第V様式圏という広域のクニを形成していた
碌な鍛冶炉遺構や集落遺跡の無い畿内第V様式圏に、広域のクニなど形成出来る訳がない! @阿波 ホケノ山の木棺を14Cで測定すると、200年より前の可能性が出ている
ホケノ山は190年頃と見た方が良いでしょう
纒向の桃核12個の結果からも、纒向は2世紀半ばの可能性を示している
倭国乱で纒向に卑弥呼共立なるシナリオはいずれ崩れるでしょう >>964
>「漢委奴國王」の金印
黒田藩の贋作金印か? @阿波 >>966
そうだな
畿内には倭国乱などないし
乱がないから女王を共立する動機もない 畿内では、300ヘクタールという巨大な王都纒向の建設の為に、西は吉備から、南は四国、北は北陸、東は関東まで幅広い土器が出ている
(久住によると北部九州の人が纒向の建設に関与しており、北部九州人は上位階層の為に土器を持たなかったという)
さらに、楯築を超える纒向石塚、纒向勝山、纒向矢塚、ホケノ山、箸墓(135万人)いう巨大古墳を次々と作り、まさにこの大王都と、
大王墓群建設の労働者の為に莫大な人口を抱えていたことが確実である
これこそが邪馬台国7万戸である >>969
>巨大な王都纒向の建設の為に、西は吉備から、南は四国、北は北陸、東は関東まで幅広い土器が出ている
新しい知見を示す。
纏向土器の形態が異なるのは、倭人(阿波勢力)の派閥ごとに、「東阿波型土器」の形態が異なるため。
各派閥が出張った地域の「東阿波型土器」形態が〇〇型と言われている。 @阿波 >>969
うむ平和な纏向らしい光景だ
卑弥呼の邪馬臺国とはえらい違いだ >>964
倭奴国と推定されている福岡平野が
女王が共立された倭国の一番南の国
博多の3世紀前半の那珂八幡と同時期の前方後円墳が造られる津古あたりが
本州最南端の串本町と同緯度 無駄だよ。
卑弥呼の宮は奴婢1000人が自ら動いている宮。活気に溢れ平和なんだよ
首の無い処の横ではしゃいでいるのが九州韓神信仰地平原。 >>968
寺澤一派(アンチ畿内自生説)は、倭国乱の為に北部九州は凋落し、そこで吉備や北部九州人が纒向を作ったという >>974
>吉備や北部九州人が纒向を作ったという
「古墳造営前線基地」をか? @阿波 >定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
>◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
↑
テンプレのこの辺を今読むと秀逸だな。 >>974
倭国乱のために北部九州が凋落したのはその通りだが
乱があった場所(九州)には停戦合意するために男王ではなく女王を共立するという動機があった
そして190年ごろに卑弥呼が共立されたものも
同時代には遼東で公孫氏が勢力を強め、倭国と後漢は切り離されてしまった
204年には帯方郡が設置され卑弥呼は後漢に朝貢できないまま
おそらく帯方郡か公孫氏に朝貢していたと思われる >>978
>倭国乱のために北部九州が凋落した
碌な鍛冶炉遺構や集落遺跡の無いや九州に、倭国など興る訳がない! @阿波 新スレ立てました。
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1716108392/l50
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
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なお、書き込みは
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畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ 北部九州の殺傷人骨は弥生中期なので倭国乱の前
首狩り甕棺墓がど没落するのも倭国乱の前 政治的混乱の萌芽だな
それまでずっと70-80年男王の時代が続いていたのになぜ倭国乱など起きたのか
卑弥呼の時代を通して狗奴国と争い続け、九州の倭国がようやく統一されるのは卑弥呼が死んで臺與立った時だ
一方、畿内は順調に平和的な国づくりできてて良かった 倭国乱の時期に該当するのは
日本で最多の卜骨が出ている青谷上寺地遺跡の人骨だが
人骨が出ているのが溝で、洪水の土砂の堆積もあるので
この遺跡出土のすべての人骨がこの時期のものかどうかはわからない 桓霊の間(146-189)倭國大乱 更相攻伐歴年無主
桓霊の間は大倭王が不在でおおいに乱れたんだろうなあ
いつどうして大倭王が不在になったのやら…… 一方畿内では平和で順調な国づくりが行われていたのだった 筑紫国に毛が生えた地域が三韓と同じ15万戸になるのが九州説
1戸4人でも60万人
久留米とか江戸時代でも8千人しか居ないのに 九州では大倭王が不在になりおおいに政治的不安定な状況に陥って暦年
一方その頃、畿内では九州出身の上級民が纏向政権に参加していたというby畿内説
ということはつまり…… 青谷上寺地遺跡の人骨は、
DNA分析では、109体のうち調査の対象となった32体の中で
血縁関係を示す骨は3組しかなかった
受傷痕のある骨は110点、10体分と全体の1割にも満たない
ttps://www.sankei.com/article/20240423-ZMJ5U447YFPPDDUO4GE6PABYSA/ ◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による
↑
これ九州説完全に終わってるね
庄内と布留が教科書で完全に畿内説になってる
絶滅危惧種九州説では、関川先生が布留0を370年と100年ずらしているだけ
安本美典もノンプロハルキーも纒向を100年ほどずらしているだけで、庄内布留の年代があってて、かつ九州説が成立すると思ってる九州説はいない 桜井誠以下のネトウヨボクメツタイw
全てにおいて桜井誠と百田尚樹以下の男w 桜井誠以下のネトウヨボクメツタイw
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桜井誠以下w 安倍晋三>>>>>>>>>>>>>>青葉真司>ネトウヨボクメツタイw
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