西郷隆盛 イメージと実像が最もかけ離れた男©2ch.net
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以下、テンプレ
Q :西郷さんは鐘のように大きな人格だと聞きましたが。
A :
西郷のことをよく知る人で、重野安繹(しげの・やすつぐ 後に東大教授)がいます。
彼は西郷と同じ時期に奄美に遠島になっていた人です。
『重野博士史学論集』下巻(薩藩史研究会編、雄山閣、1939年)のなかに、
「西郷南洲逸話」というのがあります。
彼から見た是々非々の立場からの西郷評論ですね。
「西郷はとかく敵をつくる性質で、そしてその相手をひどく憎む風がある。
大度量のある人物ではなかった。いわば偏狭である。
それで西南の役などが起こるのである。世間の人は大変度量広い人であったように思っているが、
それは浅はかな見方で、本当の西郷は敵を持つ性質で、とうとうこれが為に自分も倒れるに至った。」
重野も奄美で現地妻を娶り、二人の子供がいた。
放免になって鹿児島にもどった後、
当時の金で250円という大金をもって奄美に迎えにいった。
当時、「必ず迎えに来る」といった薩摩藩士で
迎えに来たためしはなかったので、
その女は、島の若者と再婚して妊娠中だった。
重野はしかたなく、持ってきた金を
全額、女に与えて帰っていったという。
この重野の誠実さに比べると
西郷の『敬天愛人』は、かなりいいかげんと見ていいだろう。
(西郷は、現地妻を捨てましたからね。) >>161
悔しいのうwwwwコロコロwwwwwwww ダメだこのスレ
生きる価値もない低学歴低所得のチンカスしかいない >>164
そもそもチンカスがどうとか言ってる程度w
中身ゼロw
はい論破w 自分がチンカスだということだけは理解してるんだなこのチンカスはw チンカスがどうとか言ってるコロコロ妄想マンw
中身ゼロw
はい論破w 福沢諭吉は維新三傑なんて言ってるが西郷が突出して衆望を集めていた
西郷の留守政府は民が不平を言わず安定してたと評価してたな 福沢諭吉の西郷びいきは、勝海舟の西郷びいきと同様、
政府から距離を置いた(置かれた)自分の反政府心情を西郷に仮託させて語ってる面があるからなあ また福沢は適塾時代に大村益次郎と不仲だったそうで、秀才のくせに秀才を嫌う性質があって
西郷のような人情派みたいな人間が好みではあったんだろう もっとも福沢は西郷と会ったことは無いはずなので、福沢の頭の中にいる観念上の西郷に共感を持っていたにすぎないと思うが その点、西郷と身近で接していたことがある重野安繹の西郷分析のほうが本当なんではないだろうか 重野基本的には西郷を支持している。アンチ西郷は重野の一部の文脈を抜き出し、印象操作している。 支持してるとか支持してないとかほんとうにキショイ
信者ならではの思考回路
重野は是々非々で西郷の性格を分析してるだけ 読んでいるから必ずしも「正確に」誰しもが分析・理解出来るとは限らないのだなw 読んでもわかってなかったのか…
まあ、秩父崩れって何?島津某って何?の人なら理解できないかもね 秩父崩れの残党に育てられたのが西郷の性格を決定づけた、という重野の見解か
べつに関係無いんじゃない?
精忠組自体が秩父崩れで粛清された人たちの流れを汲む派閥であり
西郷の性格関係無く精忠組は敵対派閥や島津久宝を目の敵にしていたと思う 西郷がそういう派閥の人間になったのは秩父崩れ残党の影響が大ではあったろうが、
その後に徳川慶喜を敵対視したり、政府の大隈重信や井上馨を口撃したり、
はては弟従道とは口もきかぬ仲になり、大久保利通とは殺し合うまでになったのは
西郷の素の「敵をつくる」性格であったと思われる 重野の見解は関係ないとか本当だとか
自分に都合よく話を捻じ曲げすぎwwwww まあいつもの明治後のことしか知らない人だということは分かった
そりゃ理解できないよね 重野が書いてることが全部正解だと思うほうが狂ってる
重野自身も書いてるが、西郷についての逸話は人によって言うことが違うし、
重野自身が書いてることもそのようなものとして読むべきであると
秩父崩れの残党と西郷の関係についての重野の見解はやや筆足らずで、真意は>>187のようなものであったと思うがな ほんと日本語読解力がないやつだなwwww
>精忠組自体が秩父崩れで粛清された人たちの流れを汲む派閥であり
とか、重野が「敵をつくる」とは具体的にどういうことかを延々と説明している部分を読んで思ったのなら
日本語が理解ができない人なのか、読んだと嘘をついてるかどっちかだな
今までのこいつの反応から見て、たぶん後者かw
読んでないなら相手してもつまらんから、もういいや >>191
君こそ自分の言いたいこと整理してから言ったほうがいいんじゃない?
まあ、分が悪いから逃げます、ということは行間から伝わってきたがな スレ主は重野は正しいと言ってみたり、間違ってると言ってみたり、、
以前から東大教授の重野は信頼出来ると言ってたよな。
どうせ得意の逃げ道、「是々非々」とか言うんだろ。卑怯者w 卑怯者ねえ・・・
重野自身がそう言ってるんだけどね、重野自身が書いたものも是々非々で読むべきであると
たとえば重野は西郷と月照の入水のことをけっこう詳しく書いているんだが、
西郷と月照は心中を約束していたわけではないが、
言葉に出さずとも月照も以心伝心で承知しているはずなので西郷は月照を抱いて海に飛び降りた
と西郷の行動を正当化するような都合のよいことを書いている さらに、何分とは明確には書いてはないが救助までに相当の時間がかかったにもかかわらず月照だけが死亡し、
西郷は何の後遺症も伴わずその後回復したと
海の底で発見された時、西郷と月照は抱き合っていたとも書いているんだが、
そんなことがありえようか? 抱き合ってるとか
そして同じ条件で一方は死に、一方は長時間海の底に沈んでいたにもかかわらず後遺症も無く回復 明らかにおかしいのだが、重野もこの逸話はおかしいと思ったのか、
このことは「西郷からの直話」であると念を押すように書き記している
これは西郷本人が自分にそう説明したのだから事実である
ということを言いたいのではなく、この場合はたぶん、西郷がそのように私に説明したことであり
私はべつに証拠を集めて事実を確認したわけではない
ということなのだ!
むろん、西郷が月照殺害を正当化するために心中を主張したのではないか?などとは書いていない
このへんのニュアンスが分からない西郷信者はこの章を読むと、ああやはり西郷と月照は以心伝心で心中を試みたのだな、となる 重野とは関係無いが、月照殺害のことを西郷が自分で語ったとされる記録がもう一つある
コピペですがどうぞ
昭和12年鹿児島県教育会発行の「南洲翁逸話」の冒頭に、
伊集院の郷士本田元右衛門と西郷の対話として、
「自分が最も遺憾に思うのは、僧月照の身の上だ。
月照が船のトモに出て小便をしている所を後ろから抱きこんで飛び込んだら、
月照のみは死し、自分が生き残ったのは至極遺憾なわけである」との記述がある。
戦前の日置郡伊集院小学校の調査報告による、とあるから信頼性は高い。
ようするに心中ではなく、死ぬ気の無い月照が小便しているところを
背後から西郷が抱きついて海中に引きずり込んだのだ、
と西郷自身がポロっと漏らしているのです。
殺害したとなると世間の聞こえが悪いので、心中であったかのように偽装したのでしょうか?
事件後、月照の辞世の句とされる書き付けが出てきたと言われています。
”月照”と署名が入っていたそうなんですが、月照の生前の署名はほとんど”忍向”という雅号であり、
果たして月照本人が書いたものか非常に怪しい。
しかもこの書き付け、西郷の懐中から出てきたそうです。
自殺に見せかけるために偽の辞世句を計画的に
準備していたとしたら、なんとも後味の悪い話しですが、
この時の西郷は30歳になったばかりの若者。薩摩藩での立場も強いものではなく、
藩命には逆らえなかったのかもしれません。 上の「自分が生き残ったのは至極遺憾なわけである」と西郷が悔いていたという同様の記述が
重野の「西郷南洲逸話」にも出てくる
複数の史料で確認できるはおそらく史実であろう
月照に死ぬ気が無かったのも
重野の見解ではこの時の、月照に気の毒なことをし、自分だけが生き長らえたという体験が
その後の西郷に「始終死を急ぐ心持ち」を抱かせたのではないかと分析しているが・・・ スレ主の長文、駄文は読みにくいが、よく読んでみると、殆んどは、スレ主の主観、妄想をちりばめてるだけじゃねーかよ。 >>199
月照の場合、ここで入水しなくても日向送りが決まってたわけで
ちなみに薩摩で「日向送り」といえば、日向国に連行する途中で暗殺することを意味してる
田中親子もそうだったしね
つまりどのみち月照は死んでたわけで、西郷が無理心中を悔やんだところで結果は同じ
後悔なんて生き残った者の矜持に過ぎんわ 重野は藩で自分の立場が悪くなった時に西郷には味方してもらった恩義があると書いてるわりに
文章の行間からは西郷に対するリスペクトはまるで感じられないところが逆に信用できる
薩摩造士館はむろん江戸昌平黌でも随一の学識を誇った重野博士が、珍獣を見るような目線で西郷を分析してるのがいい んなもん2ch覗けばありとあらゆるジャンルでネタになった当人の学歴の有無で
あ〜だこうだ言っているのと「変わりはない」 >>204
そうか?
むしろ重野は無鉄砲で扱いづらかったが、なぜか人を惹き付ける若い頃の西郷を懐かしんでた気がするが
重野から見たら思想家然とした晩年の西郷よか、反骨精神剥き出しの若い頃の西郷の方が魅力だったんだろ
だからこそ斉彬公も、優秀だが生意気な若造の西郷を可愛がってたのかもしれん
「西郷は優秀だがワシにしか上手く使えない」なんて斉彬公の言葉を入れてくる辺り、重野も若輩ゆえに人を惹き付ける西郷を評価してたとしか思えないよ
そんな面白い若者だった西郷が、いつの間にか周りに担がれ挙げ句に自滅へと進んでいった、その理由を抹殺博士らしい斜めの視点から分析して見せたんじゃない? そりゃ〜久光上洛の件で無学な奴から頭ごなしに否定されりゃ〜
忘れようとしても無理だろうw >>207
どのように解釈するかは人の自由なので異論は無いが、
西郷の晩年が思想家然としていた、というような記述は「西郷南洲逸話」には一切無いと思う
むしろ西郷の若い頃に、誰々の思想の影響を受けたとかの話が非常に多く
西郷の後半生については「敵をつくる」性格から征韓論や西南戦争が起こった、とほぼそれしか書かれていない
また斉彬の「西郷は優秀だがワシにしか上手く使えない」という挿話も入って無かったと思う
もしかしてあんた個人の西郷観がいつのまにか、「西郷南洲逸話」に含まれていたかのように錯覚しているのでは?
あんたこそたぶん持ってないでしょ? この史料
どっかで借りたかして読んだだけで
まあ読んでるだけましなんで非難はしないよ 単純に重野評は浅いというか表面的だよね
龍馬の「西郷というやつは、わからぬやつでした。釣り鐘に例えると、小さく叩けば小さく響き、大きく叩けば大きく響く。
もし、バカなら大きなバカで、利口なら大きな利口だろうと思います。」
の方が深く西郷を分析している様に感じる 上のレスの坂本龍馬の言葉(勝海舟作?)はたしかに西郷の本質をついた言葉かもしれない
実は重野の言っていることもほとんど同じなのだ
>>210がたぶん思ってるような、西郷には何か深いものある、という意味ではない
単純に西郷という鐘はその時その時で響き方が変わるという意味でだ
世間の人は西郷を、大変度量が広く、なにか深い考えを秘めて進退した人
のように思っているが、“そうではないのだ”と重野安繹は言う
・派閥活動大好き
・偉い人に取り入って権勢をふるう奴が大嫌い
・しかし自分(大西郷)の懐に飛び込んできて権勢を得る後輩は大好き
・したがって敵味方がはっきりできる
・抗争、政争が起こる
・最終的に西南戦争が引き起こり西郷自身も倒れた
それが重野の分析
つまり西郷には世間の人が思っているような深謀遠慮のようなものは無く、そう見えるだけだ、
世間の人は錯覚しているのだ、と重野は言うのだ
単純にその時その時の派閥の力学で、あっちに味方したり自分が出張ったり、向こうを敵にまわしたりと
突かれる鐘のごとく西郷は進退していただけなのだと >>211
重野の言いたい事はもっと単純だと思うよ
西郷個人が嫌いだったのではなく、西郷を神格化して担ぎ上げて結果的に死地に追い込んだ連中が嫌い
そしてそんな連中を自ら吸い寄せてしまうところが、西郷の美点であり欠点であり悲劇だったと >>212
ほんと失礼な言い方して申し訳ないけど
重野が嫌いなのは、あなたのような曖昧な西郷観でろくに調べもせず、中身の無い美辞麗句を使って西郷をなんとなく祭り上げてる人々だろうね
すいません 西郷アンチの人って「西郷南洲逸話」を読んだといいつつ
ネットの引用しか読んでないんじゃないかな
度量の大小にしたって、原文を読めば斉彬公との対比で言っていることはわかるし
逆に明治後のことなんて一行くらいしか触れていない >>214
読んだとか読んでないとかそんな低レベルな争いやめましょうよ
読んだというか、ふつうに持ってます
持ってないのはあなただ
斉彬は度量が大きい人で、
西郷が、家臣の誰々は奸臣であるとする悪口を斉彬に吹き込んでも、斉彬はその家臣を遠ざけることは無かった
という解説はたしかにある
しかし重野は「西郷南洲逸話」全編で、ことあるごとに西郷の度量の小ささ(自分と意見や派閥が違う人間にはすぐ“奸臣”や“俗吏”のレッテルを貼って攻撃してしまう)
を言ってるわな
まあ、違うというなら「西郷南洲逸話」から何か引用して反論してみ ちょって分かりにくかったかもしれないので言い直す
西郷は家臣の誰々は奸臣であるとみなしその者の悪口を斉彬に吹き込んでいたが、
斉彬は西郷の思惑通りには動かず、敵対派閥の家臣であっても遠ざけることはなかった そして、斉彬の死後は(西郷から見た)奸臣がますます跋扈し、
西郷はそれが気に入らずやけくそになって月照と海に飛び込んだ、ということを重野は書いてるが
そのへんは重野の憶測と言うか飛躍しすぎだとは思う さらにこう続く・・・ ( )の中は引用者の注釈
西郷はそういう人物であるから、度量が大きいとはいわれない。
またその後も大島から赦免になって帰って来た時は、久光公の君側の某々が小人で、
これ等がほしいままにするというのが不平で、それを敵と見て排斥するということになって、
(しかし反撃を食らった西郷は)再びの遠島となった。
とにかく世の中の小人などをば、自分の度量内に入れてやるということは乏しい。
明治の以後になってもそうである。大敵と思う幕府は倒れてしまった。
せっかく御一新の政府になったところで、もう政府の間に悪い空気がはいったという積りで、
参議連中が姑息じゃとか、富貴を貪っているとか言って政府の人をば憎む。
政府の人を憎むところから、征韓論が起こって、
また党派争いで、自分につく者とつかない者と二つに岐れて、
征韓論が通らないで、また自分の敵が起こって来た。
そうして大臣をはじめ皆富貴に慣れて、御一新後わずかばかりの間にわがままをするということが(西郷の)腹に在って、
遂に西南の乱となった。
どうも西郷は一生世の中に敵を持つ性質で、敵が居らぬとさびしくてたまらないようであった。 西郷は西南戦争で敗れた為に過小評価されてる
明治にも廃藩置県や徴兵制という大変革を行っているし
外交面の対韓問題も大きくかかわった
途中から政権取った大久保がさも近代化をした様に美化されている
江藤新平や板垣退助などは大久保よりも進んだ民権的な考えを持っていたし
西郷らが政争で勝ってたらもっと進んだ国になっていたかもしれない 政争で西郷木戸が敗れて、勝利した大久保が自ら内務卿となり政権を握ったまでは良かったのでは?
大久保暗殺が色々とその後を狂わしたと思う >>219
重野の見解では、倒幕の前から西郷は何も考えてなかった、となる
いや西郷なりに斉彬や藤田東湖などに私淑し勉強していたようだが、
斉彬や水戸斉昭の「鎖国と見せかけて攘夷派を鎮め、その先で開国する」という国家戦略を、当時の西郷は理解していなかった、
と重野はさりげなくディスっているし
とはいえ重野は西郷の存在を否定しているわけではない
もともと重野は西郷と張り合う気なども無く、
学識的に圧倒的な上から目線で西郷の義侠心などは大いに評価していたようである
たぶん西郷のような珍獣でなければ薩摩のような面倒くさい藩の舵を大きく切ることはできなかった
ぐらいには思っているのではないかな 重野安繹という人は、「西郷のことを悪く言った」という形で、
必ず西郷とセットで語られる。
これが市来四郎の場合は、まず日本最初の写真技師、島津斉彬の肖像を撮った人物として名が挙げられる。必ずしも西郷とセットということはない。
重野の功績はなんだろう。
万国公法の翻訳も、開成所版の五年後のもので、いくつかある諸本の一つ。
日本最初の文学博士、東大教授というけれど、これは大久保閥によるものだ。
史学の分野でも法学の分野でも、後世に大きく影響を与えるような功績があるんだろうか。
「抹殺博士」というあだ名があった、ということぐらいしか残っていないのではないか。
重野は東大教授として高給を得た。それで大金を持って島女房を迎えに行った。
しかし、別の男と所帯を持っていた島女房に、金だけ置いて帰って行った。
重野は、精一杯の誠実さを表そうとしたように思える。
それに引き替え、愛加那から子供二人を取り上げた西郷はひどい奴だ、
と「横目で見た郷土史」(片岡吾庵堂著)にあって、スレ主がわが意を得たりとばかりにテンプレにあげている。
しかし実際は、重野も娘を自分のもとに引き取っている。片岡氏はそれは知らなかったらしい。
ほとんど忘れられていた重野が、再び取りざたされるようになったのは、
恐らく司馬遼太郎が「翔ぶが如く」の中で「西郷を悪く言った男」として取り上げたからだろう。
それのみで語られることを一番残念に思っているのは、泉下の重野自身じゃないんだろうか。 重野安繹 プロフィール
水戸藩の大日本史をはじめ従来の歴史学は大名家の家伝や
軍記物を根拠に構成されていた
重野安繹はこれらの史料は権力者や大名家の史観により粉飾されているので
参考に供すべきものにすぎず、
歴史の本当の姿を実証するためには、現存する古文書・手紙・実在した人物の日記を
根拠に歴史を構成すべきであるとし(現代ではあたりまえの方法であるが)
自らそれを実践した日本で最初の歴史学者である
明治政府による「大日本編年史」の編纂事業がそれであり、重野は責任者であった
全国に調査団を派遣、地方の社寺や旧家に埋もれる史料を探索することから始めたのである
明治18年の関東六県での探索では、文書が8089通、書籍767部、系図58種を収集した ちなみに「大日本編年史」の史料探索は明治20年鹿児島でも行われた
この時の重野の手紙が残されている
このなかで、重野は、旧主である島津家に対し、当時鹿児島で保存されていた
島津家文書の閲覧を許可するよう求めたが、島津家がこれに難色を示している
という顛末を記している
結局、この調査は途中で断念されたという
戦国島津や薩摩藩に関して、島津家発のあり得ないようなミラクル戦記が、否定されず
なんとなく信じられているのも、この時の不完全な調査が原因かもしれない・・ それは悪役になった久光出身の玉里島津家が嫌がった訳だが、近年公開されたの知らんのか馬鹿w
教えてやっただろ馬鹿w
>>52
>>58 いやぁ〜現代にも通じるネタだよな〜
理詰めで全てを再構築しようとする人間と体感的に強引に進めようとする人間
一見すると後者のがやはり真理なのか?と思うかもだが
「実は」全てが前者で構築された世界なの「かもね?」という話w >>224
>片岡氏は鹿児島経済大学出身じゃなかった?
スレ主は条件反射で何か書こうとして、よく意図の分からないことを書いています。
ちなみに「鹿児島経済大学」は2000年に「鹿児島国際大学」に改称しています。
現代のレスであれば「片岡氏は鹿児島国際大学出身じゃなかった?」と書くべきところ。
しかし1996年発行の「横目で見た郷土史」には片岡氏は「鹿児島高等商業(現鹿児島経済大学)昭和12年卒」とあるので、
そのまま書いたのでしょう。
スレ主の情報があるところで止まっているのが、よく分かりますね。 山縣とか井上とか
汚職でヤバい状態だったのに西郷に助けてもらったんだろ そもそも山県を窮地に追い込んだのが西郷の手下として権勢を得ていた桐野利秋ら西郷系軍人である しかし山県はかねてから西郷個人には取り入っていたようで、西郷の庇護のおかげか
汚職は実際にあったと言われているのに、山県の司法責任は問われず、軍の要職を辞任したにとどまる
その後、すぐに陸軍卿として復帰
後年の解釈では、西郷が山県の軍政の才能を惜しみ救済したとも言われている しかしこの事件の行間からは、西郷の本能的な政治的気質がチラチラとかいま見えるのだ
すなわち、西郷の政治判断の基準は「そこに正義があるかどうか」「不正があるかどうか」ではなく
「西郷におもねっているか」「西郷にしっかり根回ししているか」なのではないか 井上馨の一件は、江藤新平VS井上馨という構図であり、西郷は直接関係無いようであるが
かねてから西郷に「三井の番頭さん、うろちょろするな」とヘイトされていた井上は政府を追放された
山県と井上の処分の違いは、西郷に気に入られていたか嫌われていたか、と見るのは自分だけではないだろう 気に入られるかどうか、自分の言うことを聞くか奴かどうか、組織の中では、普通に重要だろ。w >>234-237
長州人同士の山懸と井上の扱いの差なら、
その「阿り」やら「お気に入り」で説明がつくかもしれないが、
肝心の桐野ら子飼いの薩摩郷党の意向より、山懸の地位を優先した点は、
その「行間」とやらにはなんて書いてあるの? それだけ山縣と西郷のパイプが強かったってことだろ
徴兵制を推進する山縣を庇護したってことは
西郷の政治判断基準が士族温存(霧野派)か徴兵推進(山縣派)か、という思想信条によるものではないってことだろう
西郷を親分と仰ぎ、懐に飛び込んで来る者があれば誰であれ可愛くなって庇護していたのではないか
山縣は長州人ではあるが、大村益次郎系の長州軍人とは不仲であったので
西郷を後ろ盾として頼む気持ちが強かったはずだ
西南戦争時の山縣と西郷の手紙のやり取りを見ても、師弟関係的な趣があったし
もっとも、政治能力の異様に高い山縣のことだから
徴兵はあくまで士族軍の下に置きます的な方便を用いて、西郷を納得させていたのかもしれないが 山縣井上の汚職追及に執念を燃やしたのは初代司法卿江藤 その初代司法卿の首をわざわざ写して後世に残すほどってどんだけ?と
大久保さんw 大久保も大概だけど
政府要人たちが集まるパーティーの席上で
井上馨を「三井の番頭さんウロロチョロするな」と面罵した西郷も
とんだパワハラおじさんだよな
西郷の“人望”の中には
「こいつに嫌われたら何言われるか分からないからいちおう立てておこう」
という消極的追従が多分に含まれていたはず 井上なんて山県と違い証拠も握られ本来監獄行きを辞職ですんでるだろう
辞職ですんだ山県と待遇に差があるとは思わないな
自分で大事件起こして救われてるのに西郷がわざわざ敵を作ったなんて評はあてにならない
三井の番頭さん発言も史実なの? >>246
それに関しちゃ西郷が薩摩藩士だってのが大きいと思う
なぜだか知らんが鹿児島は昔から商売人を軽視すると言うか、商売で稼ぐことを下賎の行いって風潮かあってねぇ
戦前くらいまではそんな気風が続いてたのだわ
商人から甘い汁を吸ってた山県は嫌々ながら庇っても、有力政商とタッグを組んでた井上を西郷が小馬鹿にした発言は不思議じゃない >>241はどうも分からない。
>>235 >山県はかねてから西郷個人には取り入っていたようで
>>236 >しかしこの事件の行間からは、西郷の本能的な政治的気質がチラチラとかいま見えるのだ
>>237 >西郷に気に入られていたか嫌われていたか、と見るのは自分だけではないだろう
「ようで」「行間からかいま見える」「ないだろう」とスレ主の推量ばかりで、具体的な理由は一つもない。
それが>>241ではいきなり、
>それだけ山縣と西郷のパイプが強かったってことだろ
と根拠もなしにパイプが太かったからだ、と断定している。
最初に国民皆兵・徴兵制を主張したのはそもそも大村益次郎だ。
薩摩や西国の蜂起を警戒していたのははっきりしていたから、
桐野らが反発したのは当然。
しかし、その自分を警戒していた大村の徴兵制を、西郷が採用したのを、
>西郷の政治判断基準が士族温存(霧野派)か徴兵推進(山縣派)か、
>という思想信条によるものではないってことだろう
とスレ主が主張するのは、訳が分からない。
西郷が桐野らの士分兵制を採用したなら、「身びいきだ」「保身だ」と非難されても仕方ないかもしれない。
しかし、徴兵制を採用したのを「山懸とのパイプが太かったから」とするのは、どう考えても無理がある。
むしろ、大義による思想信条そのものだろう。
実際、桐野らの士分兵制より、大村の徴兵制の方が強かったことを身をもって証明したのは、
皮肉にも西郷自身だし。
西郷と山懸に師弟関係があったというなら、
明治六年の政変で、西郷とともに薩摩に下野した連中は、みな西郷と師弟関係があった。
スレ主は、自分の願望が事実だと思い込む。
でもそれを普通は妄想と呼びますね。 >>246
私腹を肥やしているとか公私の区別がないとか言われる御仁であったが
一方で困窮している旧知な人らには援助も惜しまなかったという
元来が金を動かす知恵はあったようで幕末期は何かと藩上層から金を引き出す役目だったとか
勿論維新を成就する上での資金源(+αw)とかね
当然ながらそういった所謂金庫役wな連中らとの付き合いは明治以降もあったようだし
それをよしとしない連中から見れば卑しく見えたのかもしれんと >>248
厳然たる事実として西郷は霧野と山縣という相反する人間をどちらも大切にして
どちらの思想も否定しなかった
つまり西郷の政治判断の最優先事項は思想信条ではないってことだろ?
矛盾したことやってんだから 上の場合の思想信条とは、具体的な政策論ということで、
大義、みたいな抽象的なことでは無いんで >>249
西郷から見たら、井上馨は政商にとりいる奸臣ということになるんだろうな
薩藩時代に、島津久宝や中山忠左衛門に奸臣のレッテルを貼り、攻撃したように
西郷に潰された薩摩の彼らも決して無能なわけではなく、西郷とはウマが合わなかっただけで、
西郷派閥以外の人から見れば彼らは決して奸臣ではなかったと思う 中山忠左衛門は島津久光に忠義を尽くしてるよ
久光をさんざん利用したすえ切り捨てた大久保利通の
殺害計画を実行に移そうとしたぐらいの一種の忠臣だよ
中山はもともと薩摩藩のエース藩士だったが西郷と確執があって失脚
冷や飯を食らわされた なんだかんだ言いつつも近代になって久光と西郷の血が「結実w」した訳なんで
草葉の陰でどう思っているのかが気になるなぁwww 無抵抗の学者を一人斬っただけで、人斬り半次郎と呼ばれるようになった桐野利秋さんのことか ■幕末の四大人斬り
・岡田以蔵(土佐藩士)
・田中新兵衛(薩摩出身)
上の二人は行動をともにすることも多く、分かっているだけでも以下の人物たちを斬っている
本間精一郎、井上佐市郎、宇郷重国、猿の文吉、四与力、平野屋寿三郎、煎餅屋半兵衛
多田帯刀、池内大学、賀川肇、渡辺金三郎、大河原重蔵、森孫六、上田助之丞、姉小路公知
・河上彦斎(熊本藩士)
佐久間象山ほか多数を斬ったとされる 「るろうに剣心」のモデル
・桐野利秋(薩摩藩士)
薩摩藩出入りの学者、赤松小三郎を勘違い殺人 被害者は無抵抗
桐野が斬った学者の人(実写真)
http://stat.ameba.jp/user_images/20100707/16/geki-ya/7f/64/j/t02200370_0713120010627844389.jpg ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています