西郷隆盛 イメージと実像が最もかけ離れた男©2ch.net
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以下、テンプレ
Q :西郷さんは鐘のように大きな人格だと聞きましたが。
A :
西郷のことをよく知る人で、重野安繹(しげの・やすつぐ 後に東大教授)がいます。
彼は西郷と同じ時期に奄美に遠島になっていた人です。
『重野博士史学論集』下巻(薩藩史研究会編、雄山閣、1939年)のなかに、
「西郷南洲逸話」というのがあります。
彼から見た是々非々の立場からの西郷評論ですね。
「西郷はとかく敵をつくる性質で、そしてその相手をひどく憎む風がある。
大度量のある人物ではなかった。いわば偏狭である。
それで西南の役などが起こるのである。世間の人は大変度量広い人であったように思っているが、
それは浅はかな見方で、本当の西郷は敵を持つ性質で、とうとうこれが為に自分も倒れるに至った。」
重野も奄美で現地妻を娶り、二人の子供がいた。
放免になって鹿児島にもどった後、
当時の金で250円という大金をもって奄美に迎えにいった。
当時、「必ず迎えに来る」といった薩摩藩士で
迎えに来たためしはなかったので、
その女は、島の若者と再婚して妊娠中だった。
重野はしかたなく、持ってきた金を
全額、女に与えて帰っていったという。
この重野の誠実さに比べると
西郷の『敬天愛人』は、かなりいいかげんと見ていいだろう。
(西郷は、現地妻を捨てましたからね。) >>60
また言い訳妄想マンワロタwwww
歴史知らないからしょうがないwwww >>62
わざわざ開くかよ馬鹿言い訳暇人妄想マンwwww
歴史知らない言い訳暇人妄想マンwwww >>66
馬鹿だからオウム返ししか出来ないwwww
これもまたオウム返しですねwwww >馬鹿だからオウム返ししか出来ないwwww
>これもまたオウム返しですねwwww >>68
馬鹿だからオウム返ししか出来ないwwww
これもまたオウム返しですねwwww >>60
鹿児島の「ご当地ヒーロー」は薩摩剣士隼人
言葉の意味まちがえてるよ ■ 西南戦争 その伝説と史実 ■
伝説 : 西郷隆盛と大久保利通は幼少時からの親友。大久保家が困窮した時期、
利通少年は西郷家で食事を摂らせて貰っていた
史実 : 同じ町内の顔見知り程度で、個人的な付き合いは一切無く
親しくなったのは青年期以降に精忠組で一緒になってから
伝説 : 西郷さんは比類無き大度量・大至誠の人。誰もがその巨眼に引き込まれ三日で愛に変わった
史実 : 実際に近しくした人の証言 「偏狭であった」「人の悪口が多い」「人望を得ようと計算している」
伝説 : 西郷さんは薩摩士族を胸に抱き、自ら滅ぶつもりで戦争を始めた
史実 : 西郷「熊本城に着けば政府軍は我が軍に下る。一戦も交えず入京でき、
東京で花見ができるだろう」(東京日日新聞の記者の取材に答えて)
伝説 : 「おいの体をあげもそ」と西南戦争を決起
史実 : 玉砕の5日前に“自分だけ”政府軍に助命嘆願 → 拒否られている
伝説 : 「晋どん、ここらでよか」と潔く自決
史実 : 玉砕当日城山の洞窟から逃走 → 桐野利秋に見つかり射殺された
伝説 : 西南戦争で薩摩士族は滅び、鹿児島にも新時代が到来した
史実 : 薩摩士族は4人に3人は投降などして生き延びた
政治、役人、教育、警察等の世界ではなお士族の子孫しかその職に就くことができず
鹿児島ではそのような士族王国状態が第二次大戦後まで続いた
伝説 : 大久保利通による西郷暗殺指令
史実 : 鹿児島士族が政府の密偵を凄惨な拷問にかけて自白を強要しており、信憑性無し
伝説 : 奄美人を大切にした西郷さん
史実 : 子供を二人産ませた奄美の妻アイカナを捨てる
旧知の奄美人たちを西南の役に強制従軍 → 死亡
伝説 : 鹿児島私学校では西郷さん自ら若者たちに敬天愛人思想を講義
史実 : 当時の生徒の証言「西郷さんが私学校で講義したことは一回もありませんでした」
伝説 : 「西郷南洲翁遺訓」 西郷の教え41条
史実 : 東北庄内人によるほぼ創作
伝説 : 民百姓にも慕われた西郷どん
史実 : 鹿児島で西郷さんが外出するときは、地上での土下座では恐れ多いと、
百姓たちを道のわき溝に飛びこませ水から首だけ出して出迎えさせた
西南戦争では、百姓たちは木の上から見物、
西郷軍兵士が死ぬと身ぐるみを剥ぎ、売る コピペのやつは3〜40代の底辺なんだろうが内容は強ち間違いではない
つまり龍馬暗殺の主犯は「西郷」 龍馬などとどうでもいいやつを持ち上げるある層が存在する
しかもしつこい いまだに龍馬暗殺は西郷などと言っているのは相当な年寄りだな ん?
上記な性格な西郷であればそう考えてもおかしくないだろ?という話
「可愛さ余って憎さ百倍」じゃないが、
討幕で一致していたはずなのにいつのまにか幕府と故意やんか?と
桐野がちくった 証拠一切なしの妄想で、推定有罪なわけねw
西郷は大政奉還後に鹿児島に帰って、龍馬が京都に戻って来たことすら知らんのだが
大昔の創作を骨とう品のテープレコーダーのように繰り返す年寄り 桐野は過去に坂本妻のおりょうを強姦未遂したことがあるからな
その時に、坂本さんには言わないでくれとおりょうに口止めを懇願したそうだけど
眠れない日々が続いていたことは想像に難くない 大政奉還 上表 慶応3年 10月14日 翌17日 西郷他京を出立
その前 慶応3年 10月「10日」 龍馬、永井玄蕃に将軍に大政奉還を説得
しかも同17日に吉井から「藩邸へ来い」と言われる、鬼の居ぬ間なのか?
ちなみに桐野とは11月に散歩中に合っている 龍馬関係の本しか読んだことない人が必死に断片情報を集めたのねw つか単に可能性の話をしているのに逆に否定するのが必死すぎに思えるわww この手の情報が古い人にありがちの流れ
最初は断定
>つまり龍馬暗殺の主犯は「西郷」
その説古いよと匂わせてやったところで気づけばいいのに、偉そうな態度で粘る
ツッコミ入れられて窮すると、説が古くてアヤフヤだと言ってるだけの相手に
>可能性の話をしているのに逆に否定する
とか言い出すwwww この馬鹿はどうして小松西郷大久保が京を急いで離れたのか、恐らく理由を知らない ダメだこのスレ
チンカスなみの歴史なんもしらんニワカしかいない >>88
確かにw
龍馬暗殺の黒幕西郷てw馬鹿だろw てか「歴史を知らない」って言い方自体がレベル低くね?
幕末くわしい人は、こいつ誰々の何々を知らないとピンポイントで言うよね ほんダメだこのスレ
こんなことしか言えん歴史自体そのものを知らん低レベルのニワカチンカスしかいない みんなは、西郷さんは現代の人物で言えは誰にあたると思う? 現代の人物で言えば…とか、まじに歴史しらん奴の言いそうな質問w
まあスレ主も明らかに「西郷南洲逸話」を読んでないし
そこで書いてる敵って中山中左衛門のことだよと言っても誰それ?だろうし >>93
トランプ?
支持層
トランプ ←没落無能白人
西郷 ←没落無能士族
追い詰められ方は金正恩という気もするが 西郷絡みの細かい人物関係つっこまれて窮すると、幕末明治以外の話を始めるw
これもよくある流れ そしてこの程度の低脳な返ししかできんチンカスしかいなくなった… そもそも>>1は重野安繹の西郷南洲逸話を読んだ事あるんかいな
見りゃわかるが奄美時代のまだ血気盛んで若い西郷と親しくしてたが故の、辛辣で気安さも込めた人間臭い西郷を語ってるようにしか読めんのだが
ちなみに西郷南洲逸話にゃ西郷の義侠心を評価する内容や、それで重野安繹自身が命を救われたとも語ってるんだけどね
まぁ抹殺博士の異名を持つ重野安繹なんで、あちこちに微毒をまぶしてる如き西郷評は流石と言うか、いかにも抹殺博士らしいって感じだね〜 >>102
この程度てw
そもそもお前がその程度w そもそもチンカスがどうとか言ってる程度w
中身ゼロw
はい論破w >>104
読んでないだろ
不正をしている役人やお由羅騒動に関わった斉興の側近を辞めさせろと西郷が斉彬公に何度も訴えてたしなめられて
斉彬公は度量が大きい、それに比べると自分は度量が小さくて敵を作る性質があると西郷が反省して重野に言ったなんて
エピソードは大河ドラマにも出て来る定番中の定番なのに、イメージが違うってなあ >>107
大河ドラマに重野が出てきたことあるの?? >>107
西郷南洲逸話って重野安繹が西郷を酷評してるって捉えてる人が多いみたいだけど、内容を見るととてもそうは思えないんだよねぇ
批難した後にはサッとフォローいれてる感じ
なにせ若い頃の西郷ってそれなりに優秀だけど、反面頑固で反骨精神剥き出しの若造だったろうからなぁ
自分を取り立てて可愛がってくれた島津斉彬とマジ口論して、しばらく双方口も聞かなかったなんて余話もあるくらいで(西郷は御庭番的ポジションなのに殿様とケンカ!)
重野安繹が直接面識を持ってたのは元気坊な頃の西郷で、重野安繹自身も同じく反骨の人だし親近感あったんじゃないかなぁ
歳とって角がとれて思想家然としてる晩年の西郷や、それを聖人君子の如く評価して神格化してる西郷信者が面白くなかったんだろな
「お前ら西郷を大人物だと信じてるようだが、あいつ若い頃は頑固で意外と厄介な奴だったんだぜ」なんてニヤニヤしながら語ってる重野安繹を想像しちまうわ >>109
重野に限らず若いころの西郷を知ってる人の話はそんな感じだよね
逆に重野って年取ってからは西郷の近くで仕事してないんで、あんまり詳しく知らないんじゃないかなあ
このスレで西郷南洲逸話について、重野が西郷をdisってるみたいに決めつけてる人は単に読んでないからじゃない?
まあ、勝田孫弥の本が出た翌年の講演で、聴衆はみんな西郷について詳しいという前提で話してる上に
何ページも脱線した後でいきなり前の話に戻ったりするから、わかりにくいと言えばわかりにくいけど >>110
大河ドラマに重野が出てきたことあるの??
それとも嘘ついたん?? 西郷の若い頃の評判は原口虎雄氏の言う通り酷評が多いですね
海江田信義 「奢り高ぶっているわけではないのだが・・・」
重野安繹 「偏狭である」
市来四郎 「君主の風采無し」 島津斉彬が西郷を御庭方に取り立てようとした際も、
斉彬の側近たちは西郷の人間としての評判が悪すぎるとしてみな反対した
「城下では、西郷のことを粗暴で郡方での人間関係も良くないと誹謗する者が多いと聞いた。
しかし役に立つ者は必ず俗人に誹謗されるものである。」
と斉彬は側近たちに言い、西郷を抜擢したそうです(鹿児島県史料、斉彬公史料) いかにも、という美談ですが、西郷信者ともいえる斉彬が西郷の酷評されぶりを
認めているぐらいですから、西郷を白眼視する者が多かったのは事実なんでしょう
若い頃から農民の味方で、同僚からも慕われていたかのような「西郷どん」イメージは完全にデタラメと言えます
まあそれは後世の人がでっち上げただけで、西郷には責任はありませんが 西郷の人物像は重野安繹の以下の西郷評がもっとも正確なところなんじゃないでしょうか
“士卒が手傷を負へば、その傷を啜ったりするようなことは、しはずさぬ(ぬかりなくやる)人物”
などという分析は、西郷をよく見てるなと思います
「西郷はとかく敵をつくる性質で、そしてその相手をひどく憎む風がある。
大度量のある人物ではなかった。いわば偏狭である。
それで西南の役などが起こるのである。世間の人は大変度量広い人であったように思っているが、
それは浅はかな見方で、本当の西郷は敵を持つ性質で、とうとうこれが為に自分も倒れるに至った。」
「西郷の人となりは、今申す通り度量は狭いが、人と艱苦を共にするというところが持前で、
古人の謂ふ士卒の下なる者と飲食を共にする風であった。支那の戦国では呉起(軍事思想家)などが
そうであったという。
士卒が手傷を負へば、その傷を啜ったりするようなことは、しはずさぬ(ぬかりなくやる)人物で、
自分より目下の人の信用を得ることが多いので、西郷のためならば死を極めてやるという、
いわゆる死士を得ることは自然に出来るので、それが面白くてたまらない。
何でも下の者を己の手足のように使ひ廻すのが、一生の手際(自分のおはこ?)と思って居るから、
自分も努めてする。
幕府を倒すのもそれから起って居る。そうして一時成功したのは、士卒の心を得ているからである。
しかしながら西南の役になっては、それが自分の身を亡ぼす元になって来た。
西南の役は西郷に人心が就かなければ、あれ程の事は出来はしないであったろうが、
薩摩の者は申すに及ばず、他国の婦女子までも、西郷先生ならばと云って、皆戦争に出る気になった。
西郷が人から惚れられるのは、そこに在るのだ。その方には人心があった。」 「古の英雄とは皆そうしたものであろう」とか重野がほめてる語句をことごとく削りまくってるけど
ネット情報の孫引きなんかねww チンカスというキーワードにこれほど過剰に反応するチンカスがひとりいるな
チンカスあぶり出しにまんまとひっかかる低脳チンカス決定 チンカスというキーワードにこれほど使用するチンカスがひとりいるなw
チンカスあぶり出しにまんまとひっかかる低脳チンカス決定w コピペですけど、なんで西郷が嫌われるのかが何となく分かるエピソードを一つ紹介
西郷が久光に、上洛、江戸出府の意見を求められて、
「時期尚早ですし、地ゴロ(田舎者)のあなたが上京しても何もできやしません」という発言が有名だけど。
「西郷隆盛伝説の虚実」安藤優一郎著によれば、この時西郷は久光のみならず、
久光の側近たちにも、偉そうに
「貴様などは御供して上京してどうするつもりだ、
ただ一人、二人の浪士(越後の本間精一郎など)が我が藩に来て、
御上京が宜しいと説いたといっても、それは書生論である。
浮浪輩の書生論、畳の上の水練で、世の中の事が出来るものか、
(中略)貴様たち、君側に居て御止め申しはせず、何とした短慮ぞ」
と叱りつけ、久光側近たちの面目を潰したという。
重野安繹 『西郷南洲逸話』
これで西郷は、久光と側近たちの不興を買い、再び島に流される遠因になった。
ちなみに久光と側近たちはその後、実質西郷抜きで上京・江戸出府を成功させ、
彼らの展望が間違っていなかったこと、また西郷が久光を過小評価していたことを証明して見せた。 なるほどねえ
アンチ西郷によくある都合のわるい語句を削除して反対の意味にするってテクニックに騙されてるわけか
全体の文章を読めば、けなしていないことがすぐわかるのに >>120
まぁ島津久光を過小評価する失敗は確かだけどねぇ
しかし1回目の上京では西郷の危惧した通り、久光上京に刺激された精忠組の突出グループが行動を起こそうとし、それを粛清した寺田屋事件が発生
江戸行きは武力を背景にした圧力で幕府へのごり押しに成功したものの、久光自身が単なる藩主の父と言う無冠の身で交渉の表舞台に出れずに終わる
帰路では生麦事件を起し薩英戦争勃発
2度目の上京も尊皇志士の暴走を懸念してわずか5日で帰鹿
3度目は参預会議を実現させ、雄藩合議による幕政改革と言う斉彬から受け継いだ悲願の第一歩を踏み出すが、すでに時期を逸していると言う西郷の警告通りに参預会議は空中分解の結末となる
これが結果的に倒幕へと薩摩藩の舵を切らせ、明治維新までの動きを急加速させることにはなるのだけどね
久光の予想だにしない強力なリーダーシップが政局を強引に前進させたのは事実だけど、西郷が危惧した心配事がほぼ当たっていたとも言えるのだわ >>121
オウム返しはお前のお得意のだろコロコロ馬鹿w つかさ、西郷は久光に失言したけどすぐ反省して謝ったので二人の仲は悪くない
その後にこじれたのはすべて中山が悪いんだってのは重野がもっとも力を入れて語った部分でさ
アンチ君のレス内容はそれを読んでないのがバレバレなんだわ >>123
それらって西郷隆盛とはなんも関係無い、結果論じゃん >>128
オウム返しはお前のお得意のだろコロコロ妄想マンw 鹿児島県は在日人数最低で、共産党員数も最低レベルだったかと
そのわりにパチンコ店舗数は日本一多いのが鹿児島県
県外の企業が鹿児島に進出するには、鹿児島地場の企業と合弁という形でないと
進出できなかった(単独や在日だと県内官民からの様々な妨害にあう)と聞いた
セブンイレブンもそのような鹿児島の排斥性を嫌い、長い間進出しなかった
ヤクザの山口組も鹿児島県には直系団体は出せていません(三次団体以下が天文館などにはいるが)
広島や沖縄は地元ヤクザが凶暴すぎて山口組も進出できないようですが
鹿児島の場合はよそ者には絶対仕事を回さない風潮があるそうで
山口組も進出しても意味が無いから進出しないそうだ
旧藩以来、今にいたるまで中央からの介入を嫌い、独自の王国を続けているのが鹿児島です 旨いもの食ってデブになろうが東京に屋敷持って召し使い20人いようが土地買いまくってようが
維新の功労者に相応しい報酬を倉に寝かせるよりマシなんだからどこが問題かわからん
合わない奴を冷遇したり、上下関係や嫁妾の扱いが厳しいのも
時代と土地柄を考えれば西郷の性格の良し悪しとは関係ない
問題は人間の多面的な面を何故か隠して政治手腕や数学の才能の割に性格が裸の大将並の聖人池◯にされてる点
特に西郷のこの辺のタブー視は却って西郷の政治力を不利にするからよくない
目に魅力ない、男尊女卑だし保守だし自己節制できない好き嫌い別れる男が
如何にして薩摩のボスになったかを考えた方が面白いと思うがね 別に薩摩のボスではないんだけどね
仕事の担当が対外交渉や若い連中のとりまとめだったのでもっとも顔が売れてたのと
別の人物Aを持ち上げたい連中にとって、西郷ひとりが薩摩を動かしたことにしておくと
西郷と話したら少しほめられただけの話を、時代を動かしたのはAだと吹聴することが可能になる >>135
単純に志士として最古参だったからでしょ
長州の桂も同じ理由だし ここでイメージがーと語ってる人のイメージってすごい偏ってると思う
なぜか知らんが西南戦争の薩軍側の連中の言い分しか耳に入ってない感じ
ふつう人格形成って言ったら幼少期から前半生だろう
重野も秩父崩れや順聖院崩れが西郷の性格にどう影響したかを語ってるんだから素直に読めばいいのに んでも写真等な対応を見ると意固地っぽいのは確かに思うな >>140
西郷の写真嫌いに関しちゃ、日本で初めての写真が西郷が崇拝する島津斉彬によるものだってのも関係あるかもね
西郷的には「写真ってのは斉彬公くらいの偉い人物じゃなきゃ気安く撮るもんじゃない、まして藩士ごときが写真なんぞ」ってなもんかもなぁ
大久保の髭写真を酷評した手紙は、まぁ親しいからこそズケズケと書いたろうから、また西郷の写真嫌いとは別の話だけどね 集成館事業の一環として実験的に撮った写真が
なんで身分が高い人じゃないと許されないなんて話になるんだ?
ここ小説スレじゃないぞ 斉彬のことを尊敬しているはずなのに、やる事は斉彬の意とは正反対だったしな >>135
司馬遼太郎の「坂の上の雲」にそういうの書いてあったな。
薩摩の人は偉くなるほど自分を茫洋とさせる、みたいな。
そら小説に過ぎないんだけど、そんな俺カッコいい、そんなボスカッコいい的な風潮があるんじゃない? 「大きく打てば大きく響く、小さく打てば小さく響く(龍馬)」
「懐深くて人望厚い爺さんだが長期的に物事見れなくて困る(木戸)」
本人が持て余すレベルの天性のカリスマ性があるが、本人の思想や政策方針は場当たり的で人に左右されやすいって事か
あと木戸(多分)が度重なる長州攻めも決して悪気があった事ではなく
話し合いの末お互いの思いは氷解したって持ち上げてたけど
江戸城攻め提案をあっさり翻した事も含め、その辺の気軽さは悪気があるよりたちわるくないか なるほどねー
ここで断片的な知識+山ほどの妄想で西郷sageしてたのは木戸オタでしたか 江戸城攻め中止をひとりで決められるわけねーじゃん
勝との面談は儀式だろ >>145
西郷本人が自分自身の事を新政府の要人となってる事実を認めたがらなくて、単なるピンチヒッターとしか振る舞ってなかったって事だろね
だから自分の役目が終わったらさっさと鹿児島に引っ込みたがる
西郷の人格とか能力とか以前に、西郷の帰郷癖と言うかすぐに引っ込みたがる思考が、木戸とか大久保にとっては一番厄介だったと思うよ >>148
鹿児島の改革してたのが西郷w
そんなのも知らんのか馬鹿w 最近は木戸オタもレベル下がってるなあ
ここで他の人物の重箱の隅つついてねちっこくケチをつける木戸を再現して
ファンも本人も痛いなあ…とイメージ下げてどうするよ いちいちレスするたんびにID変えてくるコロコロ妄想マンのカッコ悪さwwwwwwww Q : 維新後、西郷さんは中央政府から遠ざかっていた時期に鹿児島の改革をしていたというのは本当ですか?
A : はい
上野戦争後に政府軍トップの地位を大村益次郎に譲り、鹿児島に帰郷した西郷は
薩摩藩参政(当時は廃藩置県前で藩だった)として藩政改革に取り組みました
西郷改革の概観を一言でいうと「城下士の城下士による城下士のための薩摩」でした
≪ 薩摩藩の家格と持ち高の上限 ≫
享保13年 明治 2年
一門 1万石以上 1500石
一所持 7000石 ↓
一所持格 5000石 200石
寄合 3000石 ↓
寄合並 2000石 ↓
小番 500石 ↓
新番 300石 ↓
小姓組 200石 ↓
郷士 100石 50石
上の表の石高はあくまで上限である
この改革で損をしないのは西郷が出た小姓組(城下士)だけである
西郷ととりまき達はほとんど小姓組の出である
この表では底辺家格のようにも見えるが、
石高の上限が200石というのはかなり良いものだ(長州藩上級藩士の木戸孝允は150石だった)
上級家格が減らされるのは分かる
戊辰戦争の功が大きかった城下士を優遇するというのも分かる
しかし郷士もが、もともと少ないうえにさらに半減とはどういうことだろう
ようは上と下を減らして浮いた分を、城下士で分け合うという“論功行賞”がこの改革の実態であった
結果、鹿児島城下士階級のあいだでの西郷隆盛の名声はますます高まりました >いちいちレスするたんびにID変えてくるコロコロ妄想マンのカッコ悪さwwwwwwww ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています