西郷隆盛 イメージと実像が最もかけ離れた男©2ch.net
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以下、テンプレ
Q :西郷さんは鐘のように大きな人格だと聞きましたが。
A :
西郷のことをよく知る人で、重野安繹(しげの・やすつぐ 後に東大教授)がいます。
彼は西郷と同じ時期に奄美に遠島になっていた人です。
『重野博士史学論集』下巻(薩藩史研究会編、雄山閣、1939年)のなかに、
「西郷南洲逸話」というのがあります。
彼から見た是々非々の立場からの西郷評論ですね。
「西郷はとかく敵をつくる性質で、そしてその相手をひどく憎む風がある。
大度量のある人物ではなかった。いわば偏狭である。
それで西南の役などが起こるのである。世間の人は大変度量広い人であったように思っているが、
それは浅はかな見方で、本当の西郷は敵を持つ性質で、とうとうこれが為に自分も倒れるに至った。」
重野も奄美で現地妻を娶り、二人の子供がいた。
放免になって鹿児島にもどった後、
当時の金で250円という大金をもって奄美に迎えにいった。
当時、「必ず迎えに来る」といった薩摩藩士で
迎えに来たためしはなかったので、
その女は、島の若者と再婚して妊娠中だった。
重野はしかたなく、持ってきた金を
全額、女に与えて帰っていったという。
この重野の誠実さに比べると
西郷の『敬天愛人』は、かなりいいかげんと見ていいだろう。
(西郷は、現地妻を捨てましたからね。) またまた的外れなコピペ持ち出して西郷擁護かい?
「反薩長史観」はパヨクというのは論理的に間違ってるよ
なぜなら薩長明治政府って当時のパヨクだから
パヨク政権なの お前、明治政府ってウヨだと思ってたんだな
まあ馬鹿はそう思うよな
王政復古とか御親兵とか靖国創建とか この馬鹿の馬鹿理論だと幕府は何になるのか聞いてみたい ああやっぱり明治政府はウヨだと思ってたんだこの馬鹿 ログ見りゃ解るが「馬鹿」を必ず使うやつだからスルーで >富士通、11月中旬までにLenovoへPC事業を売却
https://pc.watch.impress.co.jp/docs/news/1088332.html
>急増する在日中国人、大使館指令で過激分子に
>犯罪者の入国も続々、すでに自衛隊員以上の動員能力
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/47806
日本の支援 → 中国 → 中国が途上国や日本企業買収
日本の支援 → 反日国の留学生や移民 → 工作員や産業スパイに
日本のサヨク議員に支払われる血税 → 中国韓国朝鮮の反日工作活動費に 島津久光・・・幕府に権力を返上させて有力大名による合議制を目指そう
↑
西郷隆盛・・・久光にはそう思わせておいて金を出させ倒幕しよう 新政府運営には大名は関与させない 士族が日本を守る
↑
大久保利通・・・西郷にはそう思わせておいて西郷の握る薩摩の兵力を利用し封建制を終わらせよう 西欧型中央集権国家を目指す 大久保って有司専制を守っただけでしょ
大久保が政権取った途端に内乱は起こるし
有司専制は藩閥軍閥として第二次大戦まで残った
幕府独裁を倒し公論による政治を目指し倒幕になったのに
また独裁を正当化し、その後藩閥政治もそれを継いだ
士族解体の根幹と言える廃藩置県や徴兵制も西郷の決断に負う所が多いし
西郷や江藤や板垣が中央に残ってても近代化してるし、江藤や板垣は大久保より進んだ考え持ってたしね
大久保は憲法や三権分立唱える木戸の考えもあまり重視しなかったしね しかしそんな大久保さんがいなかったら維新政府は“船頭多くして船山に上る”事態に陥っていたのではないか
もし西郷一派の征韓論を阻止するものがいなかったら、その後の対外戦争は西郷一派で戦うのかい?
史実では、江藤は佐賀戦争でいいところなく、西郷・桐野は勝てる見込みのない西南戦争で徹底抗戦にこだわり被害を甚大にした
そんな近代戦争オンチたちが仕切る政府が海を渡って対外戦争って悪夢じゃん 大久保が居ない時には、内乱や混乱などは起きていない
大久保が2年外遊してる間に、西郷ら留守政府は近代化を着実に進めていたし
西郷や江藤や板垣らが近代化を否定したり、明治政府を滅ぼすはずない
大久保が居なきゃ明治政府が滅んだだの、近代化されなかったなんて美化や錯覚
大久保政権は対韓大使派遣どころかいきなり武力行使で開国させてるし
戊辰戦争の名将である板垣や伊地知が西郷側についてるんだから、戦争オンチであるはずがないし
実際に戦争したことが無い大久保の方が遥かに戦争オンチなはず
佐賀の乱や西南戦争は元々が勝ち目が薄い戦争というより反乱だから
しかも政府側が反乱に焚きつけた様な物 >>371
西南戦争と対外戦争ではその大義と意味が全く違う
しかも鳥羽伏見で幕府軍破ったのは西郷 >>374
西南戦争と対外戦争は大義と意味が違うと言いながら
次の行では鳥羽伏見という非対外戦争を破ったのは西郷である、という矛盾も甚だしいことを言ってるな
・・・馬鹿の書き込みの見本 >>376
意味不明w
鳥羽伏見が対外戦争と誰が言ったんだ馬鹿w
・・・馬鹿の書き込みの見本wwww >>373
何もしていないというのは確かに一理はあるかとは思うが
居るだけ
で十分価値があった御仁・・・・・ある時期まではねw 西郷どんの末弟は薩摩人まる出しのガチホモだったらしいな
ヤバすぎて薩摩から出せなかったらしい >>380
薩摩から出れずにどうやって西南戦争で隊長勤めるんだ馬鹿w 戊辰戦で強かったのは薩摩兵と長州奇兵隊て言われてるんだが
逆に言えば、非武士の急増部隊と同レベルって、薩摩兵たいしたことなかったんじゃねえか?
他が弱すぎ、ヤル気なさすぎなだけでさ
反論できるやついる? >>384
根拠のない個人の感想に反論しろというかまってちゃん。 戊辰で強かったのは伊地知の薩摩隊と板垣の土佐隊だな
大村の会津遅攻論に反対し3千の兵による電撃戦で会津を陥落させたし戦闘でも無敗
山県の長州隊は数万の兵動員しながら長岡で苦戦しまくってた > 長州隊は数万の兵動員
数万とか馬鹿だろこいつw 北越(長岡)戦争における新政府軍の内訳は
薩摩 4個中隊
長州奇兵隊 6個小隊
長州報国隊 4個小隊
薩摩兵が主力でしたw 北越方面の総兵力は新政府軍が40藩動員で3万程度だろ
この中で薩長の兵が主力だけど
指揮官の山県は会津に陥落後に到着で間に合わず 大体ここで文句言うやつは過去スレで「馬鹿」使うやつ
だけ
だから気にしない気にしない ないこのバカ
韓国は国際会議の場所が西郷の故郷鹿児島であったことに
抗議したことがあったろ その組織・思想が継続されるか否かってのはカリスマ的な先導者と
ものすごく現実的・世俗的な第二者にかかっているのよね カリスマ的な先導者 ・・・ 大久保利通
現実的・世俗的な第二者 ・・・ 伊藤博文 山県有朋
※北朝鮮
・兵力767万人、人員規模では世界最大。
・17歳で徴兵があり、男性は10年、女性は7年。大学生は卒業後。科学分野の学生は3年のみでいい。
・防衛予算はGDPの22%、100億ドル、正確な数字は不明
・兵士は1日数個のポテトで生活してる。
↑
現代の薩摩藩WWWWWWWWWWWWW いろんな見方があるが、西郷がかわいがった人物でその性格がわかるね。
桐野とか篠原とか。偏狭で視野が狭い人間ばかり。
人物眼がない。自分に忠実な犬のような男が好き。軍隊で言えば、伍長や軍曹程度の男ばかり。
これほど人見る目がないというのは、やっぱり西郷も大した人間じゃなかったと思う。 村田が偏狭だったかどうかは分からないが
西南戦争ではシルクハットとフロックコートを着て、
背中にはアコーディオン、という姿で戦っていたという変人
正直こんなキチガイが政府軍にいなくてよかったと思う 相変わらず木戸好き大河オタばあさんが発狂してるのか 桐野とか篠原とか、今だったら吉野家でバイトリーダーやってる人たち 桐野とか快男児で偏狭で視野が狭いの反対だろ
西南戦争なんてはなから薩軍は兵力装備物量で勝ち目薄いし
戊辰の名将の板垣は兵を知らずと薩軍の行動嘆いていたが
同じ征韓派で薩摩の軍略家の伊地知正治が下野しなかったのは痛いね 「快男児」とかいうワード使ってる時点で陳腐だなあと思う >>410は自分が、吉野家でバイトしてて、しかもバイトリーダーにすらなれない人物だということを、はからずも告白していますね。 人手不足なのに吉野家でアルバイト採用されなかった恨みだな ↑で西郷どん貶していた御仁が桐野は評価してただろう?とw 西郷さんも桐野どんも薩摩ではいっぱしのインテリとして先生あつかいだったってのが笑える >>397
> ないこのバカ
> 韓国は国際会議の場所が西郷の故郷鹿児島であったことに
> 抗議したことがあったろ
捏造しろって主張したんだ 西郷隆盛は明治の鳩山由紀夫だろ
話せば分かるとか、一人で行って殺されてくるとか
頭がお花畑すぎ 西郷は武力の裏打ちが無い言論は通らないという考えだろう
武力倒幕の時も私学校でも武装している
私学校は中途半端に武装してたのが裏目に出た 新政府も基本は軍事政権なんで武力重視はあたりまえだけどな
西郷は自軍の武力を過大に見積もる傾向がある素人軍人だからダメだよ
井の中で吠えてるぶんには見栄えのする人物だが
征韓論とかの器じゃない 今のネトウヨが吠えてる、日本の軍事力は世界何位で、質で言えば中国を上回ってるので開戦しても勝てる
とかの甘々な見積もりと大差ないのじゃないか、西郷って
鳥羽伏見の時は幕府方がさらに甘かったから勝てたけど
江戸総攻撃とか、大火になった時の対応なんて考えてないよな
後世の西郷伝説では、西郷は旧弊含めて全てを燃やし尽くし
まっさらな状態から新国家の建設を目指そうとしていたのだ
などとトンデモ美化されているがな 西郷はそもそも西南戦争なんて起こす気なかったし
起きた後はおいどんの体を与えもすと何もしてないからどう考えてたか不明
軍人というより軍事力を背景に外交交渉したり調整する政治家だし
西南戦争は西郷さんの唯一の失敗であとは全部正しい様に思う >旧弊含めて全てを燃やし尽くし
>まっさらな状態から新国家の建設を目指そう
西郷はそんなおかしな思想持ってないでしょ
征韓論もあくまで自分が交渉したいって意見であったので >>428
1877年 明治10年2月7日、大山県令を私学校へ呼んだ西郷は、
「2月下旬か3月上旬には大阪へ着く」と告げて大山を危ぶませ、
さらに「大将の職権で、軍隊を率いて行くことができる。鎮台兵も服属させる」
と職権と地位を混同させて、大山を驚かせた。
大山が「多くの兵隊を率いての上京は事が重大であり、
途中の安全を保つのは困難ではなかろうか 」
と反論しようとすると、西郷に付き添っていた篠原国幹らが、
「鎮台が刃向ったら踏み潰すだけだ」と言ったので、口をつぐんだという。 またその4日後の2月11日(出陣4日前)に西郷はかつての同僚であった市来四郎を訪ねている。
市来はその日のことを日記にこう記した。
「 明治10年2月11日、晴れ後雨、寒冷。
西郷が言うには、川村(純義、海軍大輔)は十に四、五はこの西郷に助力するはずだ
これを一人取り込めば海軍は全てわしのものになる。
熊本には樺山資紀(鎮台参謀長)がいる。熊本県境に我が軍が進めば、一、二大隊の
鎮台兵はわしに帰順する 」
(鹿児島県維新史料編纂所編『鹿児島県史料・西南戦争』) さらに当時の東京日日新聞は鹿児島での西郷の様子を誌面でこう伝えている。
西郷がかねて回りの者に語るには
「熊本城に着けば、熊本鎮台は城門を開いて降るだろう。
そうなれば、熊本を拠点に九州を従え、広島(鎮台)を攻め、
大阪(鎮台)を破って海陸路で東上し、一戦も交えず入京でき、
東京で花見ができるだろう」と 大久保利通などは西南の挙兵に西郷が加わっていることを聞いて
何かの間違いだろう、西郷の本意ではあるまい、などと語ったとされる。
しかし西郷に直接会って話をした人物たちの証言は上の通りだ。
“西郷はやる気満々だった” というのが史実です。 客観的・論理的に動けるのであればわざわざ薩摩まで戻るまでもない
在京(東京)な連中と教義して対応はしていただろうさ
がしかし彼は言わば「直感的」な行動で難題をクリアして来たが故に慢心が働いたとさと
「俺が動けばなんとかなる」と 元々、島津斉彬が西郷を評価したのは
相手が誰であろうと向かってゆく「無法の性格」
だからなぁ。
もともと、聖人君子でもなんでもない。
どこから温厚な人、というのが出てきたんだろうな。
カッとなりやすい性格だった豊臣秀吉が
江戸時代に、陽気なお調子者にされてしまったのと同じなのか。 勝が龍馬をして「大きく叩けば・・・・」な例えが、実は西郷どんにも当てはまるという話では?と
「西郷さぁ〜〜〜んwww」とくれば「何々〜〜〜?」と
「www西郷〜〜〜」
「はぁ?何その呼び捨て」
この違い >>435
西郷には聖人とまではいかなくても
責任は私が取るから君たちは恐れずにやりなさい系のセリフを言って
後輩たちを叱咤激励する人間面はあったと思う
そのへんが誇張されて後世の、「巨大な人格者」みたいなイメージができあがったのかなと
しかしながら、西郷さんが責任を取ったことって実は一度も無いんだよなw
ゴネてダメなら、自分はもう無関係とばかりに放り出してバックレるというのが西郷さんパターン
久光への協力、江戸総攻撃、大村益次郎の台頭、明治六年の政変
そして西南戦争
西郷さんにとって不本意な状況になると中途半端に投げ出してバックレる、というのが史実
西南戦争もはじめはやる気満々でも、熊本城攻略でつまずいて
現実を悟った瞬間、鹿児島の大山県令に
「自分はもともと勝てるとは思っていなかった」などというトンデモメールを送っている
桐野もさすがにハラワタが煮えくり返ったのか西郷とは口を利かなくなる始末
城山では、自分は巻き込まれた被害者とばかりに一人だけ助命嘆願してるし
あげくの果てに洞窟から逃亡して政府軍に投降するそぶり
なんなんだよこの人 とヒラバイトさんが申しております。
いかにもバイト口調でしゃべってみせるスレ主の哀れさ。 >>440
良くも悪くも人間臭くて良いじゃないか。
それが根強い人気の源だったりしてw 西郷隆盛の人間的なわけのわからなさというのは一種の人気の源だとは思う
行動の根拠が不明で空白に見えたりするゆえに
読み解く者がそこを自分の願望のままに補完し、ラストサムライのような西郷像が創られたり 441は私ですが、442は違います。
スレ主にはこれが分からない。
442と444が同一人物かは私には分からない。
ただ444は昔からの常連さんだ。
スレ主は人間不信の気があるからね。
自分の敵は一人しかいないと思い込みたいのでしょう。
過去スレでも、勝手に時間を区切り「書き込みして同一人物じゃないのを証明しろ」なんて命令していました。
哀れ。 庄内藩が西郷に感謝して
鹿児島に旧藩士を派遣してるよね ブルドーザなんだよな、それで操縦者はその都度、主君だったり思想だったり人だったりと
故にその辺を周囲が理解していればある意味「人畜無害」的な感じだったのかもしれん 西郷隆盛の庄内藩に対する温情伝説か・・・
「東北戦争に関して、西郷の伝記中、省いてはならぬ一佳話がある。
それは、かの庄内藩が、降伏を勧められても容易に応じず、
激戦数合の後、力尽き矢折れて、遂に降伏の議を決し、藩主自ら
隆盛の陣営に来ることとなった。
隆盛は出でてこれに引見し、さながら賓客の礼を以てこれを遇し、
極めて寛大な条件の下にその降伏を容れ、直ちに令を下して
兵を徹せしめた。
当時、隆盛に随行しておった高島鞆乃助は、使者の帰つた後、
『先生、今の応対は、余りにご謙譲に過ぎて、どちらが降伏するのやら
分からんようでありましたな』と問うた。
すると隆盛は、心地よげに破顔微笑して、『戦に負けて降伏するのである。
官軍に対しては、それでなくても非常に怖れを抱いておる。彼の慇懃な様を見い。
それに対してこちらが声を張り上げでもしたら、あちらはその思う所を
吐くことさえ出来まいではないか』と言った」
『大西郷全集』(1925年)
ここから庄内藩と西郷隆盛の心のこもった交誼が始まった
という伝説が生まれた しかし後に上の『大西郷全集』の記述はまったくの
でっち上げ記述であったことが判明している
・庄内藩は力尽き矢折れて降伏したのではない
庄内の兵装は政府軍に勝っており士気も十分に高く
自領に政府軍の侵入を許していなかった
しかしながら時勢はもはや幕府にはないと見極め、
庄内藩に対する寛容な処置と引替えに降伏に応じた
というのが史実である
・このとき庄内藩主と西郷隆盛が面会したという事実は一切無い
この時の庄内藩の処置を決めたのは西郷であったと思われるが
それが温情だったかは甚だ疑問なのである
政府軍にとって難敵だった庄内藩を外交交渉で寛容な処置と引替えに
降伏させたということにすぎないのではないか
寛大な処置を勝ち取ったのは庄内藩の実力なのである ではなぜ庄内藩は西郷隆盛に過分に感謝したのか
その後、新政府内では庄内藩解体論が起こるのである
庄内藩の有能さと資金力を恐れた大村益次郎が、会津藩と同様、
庄内藩を完全に解体すべしとの論を強く主張したのである
これに待ったをかけたのが西郷隆盛であった
寛容な処置と引替えに庄内を降伏させた西郷のメンツがあったであろうし
政府内での主導権争いもあったであろう
これにより完全に解体された会津と比べ、庄内は軽い処分で済んだのである
ようは、お互いの「敵の敵は味方」という力学から生まれた交誼だったのである
以上が、西郷温情伝説の実体である ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています