戊辰戦争はどうすれば旧幕府軍が勝てたか?
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簡単なことやん
錦旗かかげられてもそのまま戦えば勝てた
慶喜が江戸に逃げ帰った後でさえも箱根で正面を幕府陸軍、後方を幕府海軍を使い部隊を上陸させ挟み撃ち
オマケに中腹を艦砲射撃
これで完勝
鳥羽伏見の最中に幕府海軍で薩摩に上陸しても勝てる
つかまともに戦ってさえいたら幕府が負けることなんてない >>2
確かに幕府海軍をうまく使えば勝てたと俺も思う
慶喜が錦の御旗を掲げられて怖気づいちゃったってのが一番の敗因かな
だとしたら錦の御旗を上げられる前に勝負をつけるべきだったかもな
思うに勝敗のポイントは
1.錦の御旗が上がる前に京都御所を抑える
2.大阪城で徹底抗戦→江戸から幕府海軍を呼ぶ
3.小栗上野介の箱根決戦案を受け入れる
この辺にあったと思う
おまえらの意見を聞きたい >>1
西陣に作らせた錦旗が岩倉の発注ミスで韓国国旗(太極旗)だった場合。 討幕派のバックは英仏なんだから勝ち目は無いだろ
英仏に操られる薩長の朝鮮部落民の存在が問題だ
外来種を国内に入れないことが肝要だ
今となっては土着民がマイノリティーになってるようだが >>3
それ幕府神話じゃね
幕府軍は別に錦の御旗で撤退したわけでなく戦況不利を悟って撤退したんで
大阪城に籠っても周りの諸藩は続々寝返って不利になる
小栗上野介の箱根決戦案も箱根に来る官軍に対してはやれても他方面から進んでくる官軍には何の策もないし 幕府海軍って悪天候と勝手に沈んでるイメージしかないんだけどな・・・ 戊辰戦争はさすがに無理だろ。仮にプロイセンに北海道割譲して
資金・武器援助を受けたとしても間に合わないよ。 あー北越戦争以降じゃなくて鳥羽伏見からか。すまん腰おった(@_@;) 幕府軍の指揮官がへたれだったから負けたんだよな
有能な指揮官がいたらな >>7
幕府がちゃんと組織だって抵抗抗戦したら新政府側は軍資金がつきて終わり
寝返った諸藩どころこか朝廷までテノヒラクルーでそうなったら薩長見捨てて幕府につく
そもそも鳥羽方面の撤退は幕府軍がそこで戦闘する気もない行軍モードで勃発したものだからもともな指揮官が現場にまだいないとき
しかも鳥羽伏見に参戦した幕府陸軍は全体の一部にすぎず
幕府近代陸軍部隊は江戸開城までほぼ無傷で残ってる その幕府近代陸軍部隊はどのくらいの戦力だったんだろうな
箱根で尾張やら東海諸藩を取り込んで膨れ上がった新政府軍を迎え撃ったとして勝てるのか? 肥前さえ味方に引き入れられたら、割と簡単に勝てたと思っている武器廚はけっこういるはず。 慶喜が幕府を一枚岩にして手足のごとく指示が出せたなら勝てただろうし
そうでないから負けたとしか言いようがない >>14
長州征伐で少しはやる気のあった肥前が
幕府の無能な指揮官のせいでやる気なくしたからな
長州征伐で愛想をつかしてるだろう そもそも慶喜本人が改革派で守旧派嫌いなのにその慶喜を頭に守旧派を率いて改革派打倒とか土台無理だろ
井伊のクソバカがやらかした時点で幕府は信望も権威も失墜して事実上崩壊幕臣ですら三遠駿三州以外返上して退くべきと言い出してるのに どうせやるならペリー相手に旗本八万騎(笑)でバンザイ突撃したほうがマシ
朝廷には攘夷しましたと言い訳できるし無能な守旧派は敗戦の責任とらせて全部改易切腹させれば改革開放の障害もなくなる >>20
竹中重固とかの現場指揮官だよ
人数の上では有利なのに人数を活かした戦術が取れなかったってことよ 幕府軍は忠誠度が低い急ごしらえの軍だから勝つの無理だったろうな 官軍もやる気ない軍隊だったけど先鋒に薩長土の軍隊使ってたから強かったんだよな 戦術論なのか戦略論なのか。
それとも、そもそも論を展開していけばよいのか。
前提条件なしに論ずるのは難しくない?
話を絞るなら鳥羽伏見の戦いだけにした方が分かりやすいし、話易くない? 兵隊なんか敵から攻撃されたらビビッて逃げ出すもんだし
味方が攻勢だとしれば調子にのって飛び出すもんだよ
精鋭部隊でもなきゃ個々の兵員のやる気など大した差ではない 結局は兵の強さは指揮官次第だよな
指揮官が的確な戦術や補給をとれるかどうか そもそもアンチ長州だった薩摩をコントロール出来なかった時点で終わり
京都守護職を言い出しっぺの薩摩に押し付けられていれば歴史は変わっていた 最初の長州征伐の処分が甘かった
10万石くらいに減封してれば
さすがに幕府軍が勝てただろ >>29
そしたら幕府に従おうとしてた保守派も奮起して幕府軍破ってそう 長州は京都御所でテロるから長州征伐が行われたんだっけ?
すると、京都御所は北朝だから、長州は南朝ということになる
しかし毛利は北朝であり、矛盾するように思える
しかし、長州藩というものは存在せす、小さな藩が混在した時代を長州と言うようだ
すると京都御所に攻め入ったり、明治維新の中核になったテロリストの長州下級武士とは
大内氏の連中なのだろう
大内氏は毛利に攻め込んで返り討ちに合い、粉砕されて田布施村に逃げ込んでいた
武士ですらない朝鮮部落民だ
それが日本政府を作ったとなると問題なので長州藩というものをでっちあげているのではないか
大内氏は百済人だから南朝だ
南朝のアジトは京都御所でなく奈良の吉野だった
西郷隆盛、薩摩、島津とは北朝なのだろう
それが王政復古のために大内氏と組んだものの、孝明天皇を殺害されて南朝天皇を立てられた
ハメられたと思った西郷が激怒して西南戦争なのだろ
つまり明治維新の、徳川vs薩長とは、華人vs半島人連合であり
その半島人連合の中に、更に北朝(新羅)と南朝(百済)の醜い争いがあった
華人の徳川には高句麗の連中が入り込んで内部から破壊工作をしていたという
それは水戸藩であり高句麗なんじゃないのか
百済とは高句麗から生まれた国であり、大内氏と組むのは当然だ
英国ロスチャイルド+バチカンはチェスをするごとく見事に朝鮮人を操ったものだ
しかし日本の歴史には日本人が一人も登場しないというのは悲しいな >>30
何がなんでも京都を出るべきではなかったと思うわ
帝を取られたから錦の御旗を上げられたしな
薩摩に容易に御所を抑えられたのが問題だわ 幕府が追い詰められてじゃなく、最初から大政奉還して一諸侯に戻れば良かった
そうすれば薩長や諸藩の心証も良くなったろうし
将軍ではなくなるが領地が削られるわけでもなんでもないから、幕府は無くなるが別に害はない ふと気付いた
「幕府が史実より早く降伏しても、薩長が会津をボコりたい限り戊辰戦争は発生する」 >>29
たしか最初の長征で10万石減封されてるよな長州は
形式上は
実行はされてないようだが
つか幕府がそれをやれる力すらもはやなかったので形式上の取り決めとしてあるだけで実行できなかったとか 実行できないって
幕府直轄領の石高が400万石
旗本領が約400万石で合計800万石って言われてるのに
旗本八万騎はどうしてたんだろうな 清河みたいのに将軍警護隊の外注委託しちゃうぐらいの窮状だったからね…… 旗本八万騎はどうしてたんだろうなもなにも講武所ボーイズに全部押し付けて楽隠居でしょ 旗本8万騎も江戸中期以降は官僚や事務処理集団に変貌を遂げてしまったから... 小栗上野介を鳥羽伏見の現場指揮官にしてれば勝てたかもな 小栗逸話も嘘くさいけどね
箱根で待ち伏せ→勝海舟にも同じ様な逸話がある
小栗の策が入れられれば自分の首は無かったと大村が言った→大村はそもそも江戸攻めの時官軍に居ないから言うはずがない 幕府側は制海権を握っていたのは確かだけど中仙道が主力で東海道&北陸が陽動だったら小栗の策って意味ある?官軍側も制海権握られてる前提で考えるのが自然な気がする 小栗が言うように孝明とかいう猿以下の知能の愚物をさっさと島流しにすべきだった ペリーの絵を描いてるんですが、腰から下の画像がどうしても見つけられません
ペリー本人じゃなくてもいいので同型の軍服の画像ってありませんか? >>43
陽動もクソも幕府が抵抗抗戦したら官軍側の軍資金が尽きる
抵抗して時間かせぐだけで勝てる なんとなくだけど鳥羽伏見の戦端が開かれなければ慶喜の勝ちが確定みたいな >>48
引き伸ばしが過ぎても
薩摩が密貿易で資金と軍備蓄えてくからなぁ… 八重の桜見て思ったんだが
山本覚馬が長崎で購入を約束した新式銃が届いてれば大分違ったんじゃないの?
会津・桑名に1300挺、紀州に3000挺らしいから
薩長に負けない火力で鳥羽伏見を有利に進められたんじゃないかと思う
1867年3月に購入の約束して届かないなんてどんだけ待たされてんだよ >>48
慶喜は新政府入り確定
薩摩の強硬論は孤立していた
長州でさえ引いてた位 幕府軍を洛外に待機して慶喜とお供数名で御所に乗り込める方法ないかな >>54
そんなことするくらいなら初めから小御所会議に出ればよかった話じゃね? >>55
史実だよ
結局この銃は明治2年になって神戸に届くけど
明治政府が買い取ってる
スペンサー銃って言って元込め式で射程も800mあって7連発できる代物だわ
薩長の銃よりも数段格上 連射ができても実包まで輸入だから弾薬供給が
足りないというのが最大のネックだったみたいね >>59
弾が国内生産しようがなくて輸入頼りでしかも入手困難とか
戦時じゃちょっと採用したくない銃だよな スペンサー銃って騎兵銃だから寝転がって撃てないしな
薩長より優れたシャスポー銃持ってた旧幕府軍が負けてるんだから銃器の差は意味ないわ シャスポーの紙薬莢が湿気るとかゴム部品不足で函館に着く頃には相当数破棄されたとか 戊辰開戦までの官軍と旧幕軍の戦闘経験&装備練度の差が物凄く開いていて比べ物にならないって訳でもないような気がする 結果負けたのは事実だけど。 長州の桂太郎とか、薩摩の大山格之助が庄内藩に連戦連敗だったのは、庄内藩がスペンサー銃を持っていたからなのかもね。
このスペンサー銃だけど、200挺と弾薬1万発以上を津軽藩に渡して奥羽列藩同盟から離脱しないでね…とやったけど
結局ぶんどられて、新政府側の秋田藩とかで使われた。
ところが、秋田藩は上手く活用できないんだよ。やはり、戦闘訓練加味で運用しないとねえ。 スペンサー銃なら、長崎振遠隊もスペンサー銃だな。
秋田の角間川で長崎振遠隊と庄内軍のスペンサー銃同士の戦いになる訳か。
この戦いでは、結果的に囮作戦みたいな形になって、新政府側が大打撃を受けて負けてしまうんだけどね。 結局は密貿易で財政が潤ってた薩摩と長州と
財政が火の車だった会津、桑名の差もあるんじゃないの(桑名はどうか知らないが
しかし大藩だった加賀藩と仙台藩があのザマだとなんだかなぁと思う 財政というより藩論のほうだとおもうよ。薩摩や長州だって開国・討幕に至るまで
もじどおりの血みどろの内部闘争があったわけで、むしろ加賀や仙台は統治が
保守的で安定してたから改革期に愚物として振舞うことになったのではないか。
軍事や政事は経済力だけが全てではないよ。 維新前後で強力なリーダーシップのワンマン経営で乗り切った殿様って誰がいる?どこの藩主も押し切られた感があるような 幕藩体制の限界が極まってたね 千葉請西藩の林忠崇は有名だな。みずから藩士を率いて
箱根の関所を占拠して小田原藩を恭順から佐幕に一時的に
でも転向させた。まあ佐幕なんだけどwこのひとは幕末史では
あまり注目されない偉人のひとり >>72
そんな感じの小藩の殿様興味深いね 調べてみよ 庄内藩みたいな強い藩が鳥羽伏見に参加してれば状況も変わっただろうな そうやって大事な戦いを他藩任せにするような根性が幕府を滅亡に追いやったんだゾ うーん。一応庄内藩は譜代大名だからなあ。
つーか、庄内藩が挑発に乗らず薩摩江戸藩邸焼き討ちをしなきゃ、鳥羽伏見は無かった訳で…
まあ、敗戦後の西郷の庄内藩に対する寛大な処置にも繋がるんだけどね。 >>72
> 千葉請西藩の林忠崇は有名だな。
この人、昭和16年まで生存していたんだなw 焦土戦術とフランスへの介入要請。
植民地化される可能性が高まるが。 >>69
藩内の佐幕派を粛清して、倒幕へ転向した徳川慶勝。
東海地方の諸藩・寺社・旗本領全部制圧したし。この人は過小評価されている。 明治維新は英国が起こした
英国は世界に植民地を持っているが
英国人を現地に派遣することなく搾取する方法を考えた
銀行を支配する、つまり通貨発行権を握るのだ
これを世界の50ヵ国でやった
まずバチカンが宣教師を送り込んで、政府に虐げられている少数派民族を探し出す
懺悔室とか使って根掘り葉掘り聞き出すのだろう
それで見つけたのが薩長の朝鮮部落民だ
そいつらに、お前たちをこの国の支配者にしてやる
毎日酒池肉林だぞと誘う
そして教育する
長州ファイブとか英国の話が抜けているから、
日本では自発的に英国に学びに行ったように言われるが、勿論英国の方からそそのかされているだけだ
そして英国は坂本龍馬経由で最新の銃器を配った
後で坂本を消せば、英国と薩長の接点が消えるという作戦だ
つまり、外国勢力の手先になってしまう異民族を国外に追放するのが肝要じゃ
というのがこのスレの回答だ 仮に大阪城で決戦したとしたら勝ち目あったのかな?
会津があれだけ持ったんだから江戸から軍艦が来るまでは籠城で持ちこたえられると思うけど
大阪城決戦前には薩長の他に土佐、津、岡山、徳島、彦根辺りも新政府軍として参加してたみたいだけど
あと尾張、紀伊や東海諸藩がどっちにつくかにもよると思うけど >>81
この時点で幕府海軍は大阪湾じゃないかな? 鳥羽伏見の開戦直前の幕府軍って討薩の表を掲げていても目的は殲滅じゃなくて軍事的圧力で朝廷工作を優位にって感じなんだよね >>81
代々の勤王家藩である尾張は官軍だろよ。
東海道の諸藩も尾張にならえだろな 家康亡きあとの徳川家はじつは圧倒的に戦に弱い最弱軍団。
長州か薩摩かどちらかを味方にしないと勝てないんじゃないか?w
第二次上田合戦
徳川(秀忠)3万8千 対 上田城(真田)2千5百
敗北
島原の乱
徳川 13万 対 原城(天草四郎以下農民) 3万7千
農民相手に大苦戦の末、九州の諸大名の助けを借りて辛勝
第二次長州征伐
徳川 15万 対 長州 3千
敗北
鳥羽伏見の戦い
徳川 1万5千 対 薩長土 5千
敗北 しかしまぁ、室町期とか見てると「あの」日本人がよく2つに分かれた「だけ」で終わったなと思わなくもないな
下手すりゃ植民地どころか清後中華みたいに群雄割拠だろうに 知的エリート層が参勤交代で江戸の空気をみな吸ってたのが大きいんじゃないのかな。
廃藩置県などひとりの藩公も反対せず全員一致で承認されたくらいで、内心ではいろいろ
思惑あったろうけど外面(タテマエ)は公共には平伏して黙従するという慣習が江戸期を
通じて確立していたというのが大きいのだろう。 >>81
大阪城決戦になれば
幕府海軍が艦砲射撃で新政府軍は虫の息だろ
津藩とかも再び裏切るよ 市役所職員(司馬遼)に戦争ができるかな?という疑問。
刀銃持たせたら即兵隊になるなら苦労しない。 >>90
ただ史実でいるんだよな
自分はやったことないけど本に書かれてることだけをたよりに軍の近代化をおこない
みようみまねの運用、戦術でもってわずか数千の兵力で10万以上の軍に勝っちゃった医者がなw
学校もいかずに参考書片手に東大うかるよりはるかに難しいことやっちゃってるわけだw 水戸家出身の慶喜公なら逆に薩長から天使様を奪還する為ってなりそうな感じだけど 軍事は相対性の話しになってくるからな。どんな小さな勝利でも連戦連勝をつづければ
そちらが正義扱いされて、大衆はドっとそちらに傾く。ナポレオンなんかまさにそう。 >>86
> 島原の乱
> 徳川 13万 対 原城(天草四郎以下農民) 3万7千
> 農民相手に大苦戦の末、九州の諸大名の助けを借りて辛勝
戦国時代でも屈指のイクサ上手だった立花宗茂が現地入りしたのが大きかった。 実際、尾張とかってどのくらいやる気があったんだろうな
代々将軍家とはあまり仲良くないから
こういうチャンスがあれば朝廷側につくつもりだったんだろうか
勤皇派を粛清してるし >>95
それどころか尾張江戸間の大名や神社仏閣に新政府軍に逆らわないように書状送って進軍の助けをするという
山内一豊みたいな事やってんぞ >>96
ま、東海諸藩を相手にすると
自分らが先鋒をやらされるからってこともあるだろうけどな >>90、>>91
村医者・村田蔵六改め、大村益次郎(日本の近代兵制の創始者)が第二次長州征伐の時、長州藩の
奇兵隊に授けた戦略・戦術が「散兵線」作戦だ。
ミニエ銃などの飛距離が長く、命中精度が高く、殺傷能力が大きい新式銃の実戦配備によって従来の
密集隊形型突撃では膨大な死傷者が出るようになったので、全軍を各々独立して戦える少人数の班
を基本単位として編成し、各班が目前の戦況を独自に判断しながら全体的作戦に則って全軍司令官
の指揮の下に秩序を保って戦うというものだ。
散兵線は各兵士の自立性と協調性が求められる戦術なので、近代文明の根底にある「個の自立」の
考えを体得した人でないと全軍にそれを納得させ、戦場で実行させるのは難しかったはずだ。
大村が大阪・適塾で福沢諭吉や橋本左内らと共に必死で学んだ蘭学を通して身に着けた近代的知識
と思想が生きたのではないか。
これらは旧幕府側の儒教に縛られた事大主義では理解できないことだった。 >>98
大日本帝国陸軍の軍歌「歩兵の本領」の中の歌詞
携帯口糧あるならば
遠く離れて3日4日
荒野千里にわたるとも
散兵線に秩序あり 四侯会議でうまく薩摩と協調していればな
薩摩の面目を潰してしまって幕府主導にしてしまったのがまずかった >>100
両陣営の装備の優劣よりその辺りの体制や連合を考えた方が勝てるかもね 大政奉還の後に朝廷の決定待ってれば良かっただけ
そうすれば岩倉が出した慶喜の議定就任は確定的だった
それが朝廷の命令無視して大軍で上洛し鳥羽伏見起こして朝敵になった 第一次長州征伐の落とし前を家老の切腹だけに留めずに藩主親子切腹、長州藩取り潰しまでもってけばよかった
まあ、第一次征伐の責任者が尾張の慶勝だった時点でそういう仕置にはまず至らんのだが >>104
そんな事をすれば強硬論に反対の薩摩や雄藩も離反するし
長州内でも幕府恭順派が徹底抗戦に変わり一枚岩になり幕府軍を破る >>86
天狗党にも判定負けしてません?敦賀までの進軍許してるし >>105
初回の長征のときに幕府軍を破れるほどの装備も戦術も指揮官も練度もないだろw 豊臣政権みたいな5大老制にして
大老の1人に島津を置けば久光は満足しただろうか >>98
大村益次郎 頑張る!
近代日本最初の軍歌(行進曲)「宮さん宮さん」
作詞:品川弥二郎
作曲:大村益次郎
https://www.youtube.com/watch?v=DVc-UNU48g0 >>110
その五大老制が参与会議であり四候会議であるんだが https://www.youtube.com/watch?v=9gwqGbanynQ
ようつべで見つけたんだけど鳥羽伏見の一連の流れがわかりやすいわ
なるほどと感心してしまった >>114
真面目に仕事してる新撰組や会津がかわいそうになるぐらい旧幕府軍が脆いな >>115
8:20くらいまでは
桑名が長州追い詰めたりだとかいい感じだったんだけど
錦の御旗が出て土佐が加勢してから一気に劣勢になったな
やっぱ錦の御旗の力は大きかったんだな 錦の御旗より朝廷が正式に薩長が官軍、徳川が賊軍となった影響だろ 西洋軍装してない藩は論外だから
伝習隊、庄内藩、長岡藩、額兵隊くらいか。
薩長土肥に対抗できんわな 幕府歩兵隊だけで薩長と戦える戦力だよ
討薩に慶喜も自信があったと思うな
それで負けたからショック受けたんじゃないか 酒井玄蕃とか有能な指揮官は譜代にもいたんだけど
幕府が無能な奴ばかり指揮官にするから
せっかくの幕府歩兵隊も力を発揮できなかったよな 上野の彰義隊以降なら榎本武揚が、将軍の
静岡行きを見届けたせいで東北唯一の国際港の
新潟陥落で詰みだね。再三新潟港援軍要請を
無視した榎本が海軍指揮してるからなー >>114 面白いねこれ。同じひとが作成している全国版のはさすがに細かすぎて途中で寝てしまったw
この手の戦いって現場の指揮官が『ほんとうに戦ってもかまわないのか?』と疑問を持ちながら
従軍・進軍してる場合が多そう。だから確信して戦いに来ている指揮官の部隊が圧倒してしまう
ことになるんだろうと思った。幕府軍は敗走してるというよりは、みるからに戸惑ってるという印象を
受けます 三重福島県警の機動隊と山口鹿児島県警の機動隊が鳥羽で鉢合わせになって
なんだなんだ言ってる間に発砲がおきて、「おい、良いのかよ」とか言ってる間に
収拾がつかなくなっていく感じというか。どっちも自分たちが公儀だと思ってるうえに
独断専行で戦端ひらいたらそれこそ責任問題なわけだしで 岩倉をひっ捕らえて打ち首にすればよかっただろ
知恵袋がいなければ錦の御旗とか朝廷への薩長への有利な働きかけとかなかったんじゃないの >>127
和宮降嫁の件で尽力して幕臣と仲良くなって結果佐幕派として鳥羽伏見の戦いの二ヶ月前まで京都から追放されてた岩倉が
倒幕の重要人物になるとは普通思わんだろ 岩倉を妖怪として正面から描いた今年の「せごどん」は画期的だったといえる
西郷自身の描写については、むしろ良く知られた事実の範囲だったろう >>128
追放にて隠遁生活してた岩倉があるときから暗躍してることくらい幕府はつかんでるだろうよ
幕府がつかめないくらいの人物に薩摩がどう嗅ぎ付けて接触接近することがあるや >>129
そんなことはないな
今回の「西郷どん」は他作ではかかれてないような黒西郷をそれなりにかいてる
人の情をテーマにしてるだけあって英雄であっても人間の業の深さをえがいてるとこは感心したが
今までの西郷ものだったら英雄一辺倒の話になるだろ 織田裕二
「振り返ればヤツがいる」
天野八郎
「振り返れば旗本がいない」 岩倉もそうだけど
実際、三条ってあんな無能だったのかね
見てるとただのお飾りじゃん 同じ公家でも使う側からしてみれば
岩倉みたいな裏で何考えてるかわかんないのより、性格ノホホンで余計な事しない三条の方がいいんじゃないのか? 三条さんは七卿落ちとか、長州と苦楽を共にしてきた甲斐があったな 鳥羽のときに最初から銃に弾込めてりゃもう少し善戦できたでしょうに。薩軍は待ち構えていたんだから。
近藤や土方が多摩で飲んだくれず甲府城につくのが官軍より早かったら。 近藤や土方が甲府城に先に着いても1〜2日で落ちてただろ
あんな貧素な軍勢と装備じゃ 長州征伐で慶喜が小倉が落ちる前にさっさと攻めればよかった
ノロノロしてるから悪い やっぱり幕府軍を動かさないで朝廷工作に専念して ひたすら戦争回避。 他に勝つ方法が思いつかない 今NHKのヒストリアでやっているな
内集団バイアスで弾を込めていなかったってさ 慶喜の敵前逃亡はともかく幕府軍は兵力多くとも烏合の衆
関ヶ原然り大坂の陣然り こういう議論の不毛な所は
そもそも歴史で負けた側が主義主張までごっそり変わらんと
その時の戦闘では勝てても全体としての流れまで変えられないから
本末転倒な主旨替えするかその戦闘以外の戦闘や政治的要因によって敗北する以外の未来が無い事だろ
所詮一つの戦闘で全体の流れを左右できるほど戦闘が重要だった時代は歩兵が剣持って切り合ってた時代までで
農民のための武器を用意し訓練し兵站を確保してって話になってくると
一度の戦闘程度で国家その物を屈服させるほどのダメージは負わせられないケースが殆どだしな >>141 見たみた。タイムリーで面白かったわ。幕府側の軍令がまったく機能していなくて
現場指揮官がとまどってる感じが良く分かった。ひさしぶりの当たり回 >>143 そうだね。桶狭間みたいに敵将の首を挙げたらそれが画期になるという戦闘は
例外的で、関ヶ原ですら、三成の首を挙げたところでそれで大勢が決したということは
なく大阪の役が必要だったわけだしね。 毛利や島津は関ヶ原の怨嗟あるから
戦の本気度が違うからなあ >>146
三成
「怨嗟とか言うぐらいなら関ヶ原でまともに仕事しとけよ…」 >>147
毛利など総大将の癖に2ヶ国も残して貰えた事を徳川内府に感謝すべきだろう
同じ大減封食らった上杉米沢が江戸期に極貧で苦労したのに最後まで徳川についていたのとえらい違いだ
これは藩祖の謙信と元就との家風の差なのか >>149
ほぼ無傷で温存されてる毛利勢
国元に主力が完全に残ってる島津
かたやそれなりに戦闘で疲弊してる上杉勢
関ヶ原後、徳川に毛利島津を討滅戦する力がない
つまりはそういうことだろうよ というか単に「流れ・勢い」を止める「術」は無かったという話
鳥羽伏見>江戸>東北>函館で「やっととこ」止まったという事だよ
まるでピンポン玉 んな訳がない。
歴史を改変しようとしても、何らかの力が働いて…という物語が多いが、そういう設定がないと
物語が面白くないからそう設定するだけの話で、過去に戻ることが不可能かも知れんがもし
戻れたとしたら、バタフライエフェクトのようにちょっとの行為の違いがやたら大きな違いになるはず。 社会じたいをひとつの有機的な生命体とみなす発想はリヴァイアサンのころからの伝統ではあるが
非科学的な迷妄、共同幻想の典型にはちがいない >>150
島津は確かに面倒だが毛利はなんとでもなった
10国を2国に削られても受ける程度の気概しかない
吉川広家に全部くれてやればよかった
いずれにしても毛利の関ヶ原の恨みなるものは長州以外には全く理解不能
西軍に付いて潰された80数家からすればふざけんなだし
奮戦し戦後処理でなんとか家を残した上杉立花から見れば何いってんのこいつとなる
関ヶ原では小早川秀秋が散々の言われようだがそもそも毛利が弁当を食い続けておらず打って出ていれば小早川の寝返りなど無かった >>154
西軍の悲劇は毛利が形式上の総大将で
実質実際の総大将は石田であるというとこと
しかも毛利一族の足並みも揃わず担ぎ上げられ無理やり引っ張り出された感
小早川は言わずもがな豊臣に骨抜きにされており
吉川は徳川に接近
自ら総大将としてことを起こしたのならそのへんをクリアしてやるだろ普通
しかも豊臣政権官僚機構にあって成り立ちからみても5大老の中でも徳川と同等レベル
それが会社でいえば隣の席に座って働いてたやつ左遷されたわけだ >>154
間違って途中送信してしもた
続き
それで同僚から政権を完全に奪い取られ政局からパージされたわけだ
それはいつかはという気持ちになると思うがな
関ヶ原後の領地確定みても前田の3国弱が最大
その水準に合わせれば、形式上でも総大将をつとめてしまった立場として飲み込まざるを得まいて
小早川寝返るまで西軍有利なんだからそれも無茶な話
会戦形式の戦争で総大将が戦力の不足も包囲陣形の不足もないのにうって出るなんてまずあり得ない 大阪の陣での内藤元盛派遣といい、輝元ってかなり頭弱いよね 「日本近代史」のスレだと聞いて迷い込んだ訳ですが、 ヒストリア観たわ
旧幕府軍の銃は新政府軍の4倍のスピードで弾込めできるほど性能の良いものだったが
鳥羽伏見での戦闘はないと見込んで銃には弾を詰めてなく
戦闘が起こり、パニックになって退散してしまった
淀藩の家老は戦が始まってから自分たちにも戦の命令がくだされるものだと思っていたが
旧幕府軍から何の連絡もなく、次第に疑心暗鬼になってった
旧幕府と淀藩との連絡不足が淀藩の裏切りに繋がったとのこと
指揮官の判断の甘さや連携不足が敗因だったみたいだな >>159
それは結局、一言で言えば
「徳川幕府は弱かった」
の一言に尽きる。
徳川幕府の数々の負け戦を見ると、
徳川幕府は神君家康の遺伝子ではなく、その息子で無類の戦下手である
秀忠のDNAを受け継いだ組織だと断じてもいいだろう。
明治維新が成し遂げられなかったらロシアはおろか清国にすら勝てなかった
だろう。
当時の世界情勢からすれば、清国に敗北した徳川幕府は
将軍は辮髪を強制されたうえに朝鮮国王のように清国皇帝に土下座を強制
されるという屈辱の歴史を後世に残すことになりかねなかったということだ。 読み解きクイズQUIZ 原田 君明に著作権あります。
西郷隆盛と西南戦争
長州藩士 京都暗殺に関与疑いと前原さん長州藩士決起事件
以前にも申した西郷黒幕説です。
京都において、山本覚馬 合津藩士 同志社大学設立 薩摩藩邸を西郷から受けた人
長州藩士 吉田松陰 寅次郎先生 佐久間象山氏同門であった人
吉田松陰に同志に謝罪す という意味と 「薩摩を判定した」場合にして同志に謝罪すべき
と言う意味を持つ これで京都府副知事で居た前原さんは長州に戻り決起を行なう。
残念なことに政府軍衝突し死罪・・・おしい人でした。 松下村塾出身
西南戦争・・・日本国西南に位置しているは偶然なれど、
西皆嘘せんようにと詰め寄った 「 西 にし 」死人皆嘘せんことを詰めよった・・・
郷 外れ取る 消えている 隆盛 鷹派に盛ってる理由何?
業
所業意味する
京都 元合津藩士 山本覚馬 薩摩藩邸から同志社大学設立で
これを明治政府 伊藤博文公と山縣有朋とで詰め寄ったと見るが
西郷 写真を極端に嫌った理由 名前を変えて 京都で新撰組等で長州藩士暗殺した業あり
と謝罪すべきこと
京都と合津藩士にバレる都合悪質なことが?あかろうか?
故に徳川慶喜同様 薩摩帰って謹慎した 反省で血と動乱やたら苦労した役職辞職した
後にも動機を問われたり 噂流された筈でして?
暗殺恐れ 決起 西南戦争に至れり と思われる。
思えば明治陛下にも衝突回避言われてたとのこと・・・中々真相表に出来ずして・・・
時に事実は小説よりも奇也 そもそも北洋艦隊に負ける戦力で清国にエイ・ヤーと戦争仕掛けた明治政府はやばいって
徳川幕府なら外交で解決していただろう >>162
>徳川幕府なら外交で解決していただろう
戦ったら負けるの負け犬根性で外交交渉をやって、うまく行くと思うか?
逆に相手をつけ上がらせて、「戦って貴国を滅ぼすに忍びない。」とか恩を着せられた挙句、
屈辱的な条件を永続的に飲まされるのが落ちだろう。
国と国との関係はそんなに甘くないよ! 西郷の征韓論を容認してたらもっと早く対清戦争だったんだよな
勝てたんだろうか? 対清の戦闘じゃ負けないだろうけど戦費と列強の介入でどうなるか 征韓論つったって西郷を全権大使にして軍艦と歩兵を数百人派遣するだけのことやろう
やったらやったで悪くは無かったと思われるが、そういう兵力の逐次投入みたいなことを
やって朝鮮や清に戦争の決意をさせ用意させる時間をあたえるよりは、軍艦をウロウロさせて
挑発して、向こうから撃たせてこれさいわいと条約に持ち込むというショックドクトリンのほうが
陰湿で結果的には早期に朝鮮開国に結びついたということではあるな(しかも不平等条約) >>162
当時はそんなのが通じる時代ではないですよ。
というより、幕末の後手後手の無様な外交しかできなかった徳川氏には
ずばり無理でしょうな。国内もまとめきれていないし。
162のような甘ちゃん対応を帝国主義の時代にやっていたならば徳川慶喜は
李鴻章に土下座して詫びる屈辱な歴史となっていたであろう。 外面はいいが身内には虐待的に厳しい日本人の
内弁慶気質を築いたのが徳川幕府。
国内では散々いばり散らすもいざ戦がはじまるとからきし弱い。
弱すぎる。 武家政権の長を自認するならば北条時宗のように相手国の使者、
すなわちペリーを斬り捨てるぐらいの覚悟でことにあたるべきであったろう。
あまりにもの幕府の腰抜けぶりを見た長州や薩摩が日本武士の意地を見せた
からこそ、日本は侵略を免れたのだ。
そんな長州、薩摩が、ふぬけた幕府に自分たちがとって代わるしかないと思う
のは歴史の必然で何ら非難されるべきことではない。 外に強く内に優しいってのと、外に弱く内に厳しいってのは、素養としたら1000倍くらい違うものな。
前者は英傑俊英であっても困難なのに、後者はそこいらの三下チンピラでも出来る。 そうですね。徳川幕府はブラック企業の元祖のような存在だと思います。 絶対に逆らえない上司からいじめ抜かれる、黙って耐え続けるか
自殺してしまうブラックな時代が徳川時代。
その反対に下級武士やら中堅官僚、中堅将校らが上層部を突き上げて動かして
しまうのが幕末明治時代。 そもそも生麦事件で主君の権威と武士の名誉を守る誇りある侍的行動を
見せた薩摩に対し、徳川幕府はイギリスへの恐怖にうろたえ騒ぎ、薩摩が
やらかしたと、まったく擁護する姿勢も見せていないのは、
もはや武家、侍の棟梁たる資格を放棄したといえよう。
この時点で幕府崩壊は決まったのだ。 そこは無礼討ちは正当行為なのだから、英国側に謝罪させ賠償金をむしりとるべきだった、だろ >>169
遅かれ早かれ外圧を押し返せず開国せざるを得ないことは知識人の中ではわかりきってたこと
それを腑抜けだ攘夷だなんだとできもしない実現性の低い手段で政権にゆさぶりかけてるやりかたはなんでも対案も出さず反対ばかりする共産党と一緒の論法だとは一目瞭然
中身がないことに大義名分などないがな 生麦事件は英国本国でも「あー、そりゃ当然切られるはな」ってなってたらしいな。
まぁ「それはそれ、これはこれ」として当然のようにイチャモンは付けてくるあたりがさすがブリカスって感じ >>174
そんな道理がこの時代の列強に通用するわけないだろw
もうちょっと近代ヨーロッパ史を勉強しなさいよw 幕府はどうすれば良かったんだろうな
やっぱ通商条約がすべての根幹になった
領事裁判権は譲るの仕方ないとしても関税自主権は死守すべきだったな 幕府側が諸外国の情勢を十分に研究できない状況で
侵略主義者のショックドクトリンにつけこまれたというところだろ
クズみたいな三下どもに良いように弄ばれたんだよ。 幕末日本の対外的な劣勢の危機感は新政府勢力も幕府側勢力も共に抱いていた、戊辰戦争も西南戦争もあくまで内政問題に過ぎず列強に学び列強に並ぶという国家目標を忘れず怠らず奇跡的で急速な近代国家になり得た
しかし明治維新の初心を忘れた大日本帝国は大局を見誤り屈辱的な無条件降伏を迎えたのだ
米中の覇権争い、欧州連合の亀裂、憲法改正問題
我々現代を生きる日本人はこれらの難問に正面から対峙し正しく進み未来の日本国が偉大たらしめん事に全力を傾注しなければならないのだ
さて今宵はここらでよかどかい 下関戦争なんか高杉がたまたま上手く立ち回ったから彦島とかぶん取られなかっただけで
単なる脳筋な攘夷が正解なんて事は絶対無い 高杉もそうだが当時気骨のある人物はみんな攘夷派だから
幕府より戦に強いのはしょうがない 慶喜
(せっかく大政奉還したってのに会津も桑名も薩長討つべしってうるせ〜。一度派手に負けねぇとこいつら状況分かんネェのか…?) そもそも10万以上の兵がいて3千の長州征伐に負けるってどういうことだよ >>184
近代的軍隊(長州軍)と封建的軍隊(幕府軍)との戦いだったから。
長州軍には近代的軍隊を編成し、作戦を立案する軍略家・司令官とそれを実行する指揮官たち
がいた。
[>>98再掲]
村医者・村田蔵六改め、大村益次郎(日本の近代兵制の創始者)が第二次長州征伐の時、長州藩の
奇兵隊に授けた戦略・戦術が「散兵線」作戦だ。
ミニエ銃などの飛距離が長く、命中精度が高く、殺傷能力が大きい新式銃の実戦配備によって従来の
密集隊形型突撃では膨大な死傷者が出るようになったので、全軍を各々独立して戦える少人数の班
を基本単位として編成し、各班が目前の戦況を独自に判断しながら全体的作戦に則って全軍司令官
の指揮の下に秩序を保って戦うというものだ。
「散兵線」は各兵士の自立性と協調性が求められる戦術なので、近代文明の根底にある「個の自立」
の考えを体得した人でないと全軍にそれを納得させ、戦場で実行させるのは難しかったはずだ。
大村が大阪・適塾で福沢諭吉や橋本左内らと共に必死に学んだ蘭学を通して身に着けた近代的知識
と思想が生きたのではないか。
これらは旧幕府側の儒教に縛られた事大主義では理解できないことだった。
<参照>大日本帝国陸軍の軍歌「歩兵の本領」
https://www.youtube.com/watch?v=FJreugfgJUw 幕府側にも大村益次郎に匹敵するような人物はいたのだろうけれども
前線や軍令部には居なかったというのも大きいね 大村一人居ても大して変わらんよ
幕府で言えば大鳥みたいなもの
軍制家として優れてたけど実戦家としてそんな活躍したわけでないしね
大鳥も結局一度も板垣に勝てなかったし
机上の論でなく実戦で戦える指揮官が多くいたのが薩長土 徳川幕府は二代秀忠以来、武士の棟梁にあるまじき最弱の武家政権
だということがあきらかにされたのが戊辰戦争。
薩長以外でも大きめの武闘派の藩が二つ連合すれば、徳川なぞ
あっという間に倒せた可能性が高い。
最弱の武家政権・徳川幕府の260年間を支えたのは神君徳川家康の
幻影だったのだ。 幕府軍の有能な人材は大鳥以外にもいたよ
幕府陸軍初陣の対天狗党戦で天狗党軍の奇襲攻撃に幕府軍総崩れの中、唯一陣形を保って応戦した北条新太郎
ペリー来航時の浦賀奉行所与力で西洋事情に精通し歩兵組の創設から関わり続けた中島三郎助
神奈川奉行所幹部で横浜警備兵を組織し英仏駐屯軍とも交流、これを洋式軍隊へ育て上げた窪田鎮章
その窪田の下にいた古屋佐久左衛門、鳥羽伏見の戦いで善戦した佐久間信久も有能といって良さそう
んでダメなのが慶喜はもちろんだが実質的司令官だった陸軍奉行竹中重固、これがとにかくダメ
当時若干28〜9歳ながら松平乗謨に交代してた方がずっと良かった 竹中ってあの半兵衛の子孫なのにな
戦いも戦術も軍略もなっちゃいない
中島と古屋はホント有能
生きてれば明治政府か軍の要職に就くか教育の第一人者として必ず名を残しただろう
とくに中島の親子しての自決のような玉砕はもったいなさすぎ
あの蝦夷での戦闘はホント貴重な人材がこの世から消えてしまった戦いだった
中島生きて竹中が玉砕したらよかったんだわホント 天保の改革の失敗 大塩平八郎の乱が起きた
時点で幕末が始まり 徳川幕府の命運は尽きたも
当然だった 大塩は志あつくして知足らず、知あつくして行わざるところあり、狂狷ってやつだな
あれほど上手くいかなかったのならば、何か決定的に欠けていたのだろう。
吉田松陰にも通じる痛切な印象があるな 小笠原長行があのまま率兵上京し討幕派を一掃していれば。 長行なんて長州征伐であのザマだから期待できないけど >>190
> 幕府陸軍初陣の対天狗党戦で天狗党軍の奇襲攻撃に幕府軍総崩れの中、唯一陣形を保って応戦した北条新太郎
>鳥羽伏見の戦いで善戦した佐久間信久
現場の戦闘指揮官として有能なのはこのふたりぐらいか? >>196
桑名藩のとか庄内藩のとか河井継之助とかいるだろ >>197
桑名の立見さんはのちの日露戦争でも強かったな。 >>1
旧幕府軍が薩長土肥の官軍と組んで、賊軍会津を討伐する >>200
前線で陣頭指揮しまくってたから流れ弾にやられた >>199
鳥羽伏見後(容保の登城禁止&江戸追放令)はある意味それに近い感じがする
慶喜ってちょっとサイコパス入ってるよね >>196
大鳥圭介は脱走後、新政府側についた北関東の諸藩軍を次々と撃破し、一時宇都宮を奪還
その後撤退を強いられるも日光方面では遅滞戦闘を継続し戦線を支える
母成峠の戦いは敗戦だが3倍の兵力差と砲兵火力でも負けてたので仕方ない感がある
窪田鎮章は神奈川奉行所での洋式兵調練で合同訓練した英国軍から指揮の上手さを賞賛されている
鳥羽伏見の戦い後、近代戦を急速にマスターして北海道で幾度も新政府軍を撃退した土方歳三も強い
河井継之助、佐川官兵衛、山川大蔵、立見尚文等はそれぞれ長岡藩、会津藩、桑名藩と幕府軍とは別ではある 飲み過ぎ寝坊さえ抜けば佐川官兵衛はだいぶ評価されていいだろ 多くの若者が実践で最高の教訓を得たのに多くが死んでしまうというのが
戦争の悲劇的なところやな。それでもこうやってみれば、まだ新政府は幕府側の
才能を抜擢したほうなんだな。戦争は納め方がほんと大事やね。 おまえら庄内藩二番大隊を指揮し
秋田方面の戦いで連戦連勝をして
新政府から鬼玄蕃と恐れられた酒井了恒を忘れてますよ 立見みたく新政府軍ぶっ殺しまくった人間でも帰順させて
軍人として有能なら陸軍大将にまで昇進させるとかって素晴らしいと思うわ >>207
秋田相手だから無双できたんでしょ。
お前らが秋田にかまけてる間に肝心の会津がボッコボコにされてて笑える。
王手飛車取りかけられてる時に、歩を取りに行くバカだ。
戦後はせごどんのワンコに成り下がるし、情けない庄内人。 >>208
ただし日露戦争の時点で中将で師団長だから(能力の割には)やっぱり出世は遅かったんだなあ。 >>210
薩長閥の軍人に「お前ら俺の隊と戦ってた時はクソ雑魚だった癖に威張るな」みたいな事しょっちゅう言ってたらしいからそら疎まれる
てかそれでも陸軍大将まで出世出来たのが謎w >>211
藩閥外でも奥保鞏(小倉)は地味な人柄だったから
日露戦争の時点で大将で軍司令官だった。 南北戦争では戦後南部連合の閣僚が上院議員になったりと復権しており南部連合大統領ジェファーソンデイビスも政治活動を許された
戊辰も南北戦争も地域対立の面があり しかもその対立は短期間に急に発生した根の浅いものであるから戦後の勝者は過度な処罰はせず融和を図ることとなった
これがイデオロギーによる革命となると対立は絶対的で敗軍の将は皆首チョンパか亡命となる >>206>>208 >>214
四境戦争の直後に幕府が長州藩と融和して、
幕府軍ぶっ殺しまくった大村益次郎とか有能な人物を幕府陸軍奉行に抜擢する 戦争なんてせずに大阪で朝廷の決定待ってれば良かったんだよ
岩倉も薩摩も慶喜を議定にで妥協してたし
その他の雄藩は慶喜同情派だったし 結局、慶喜の討薩の表も
西郷の政府に尋問の筋ありも本質的には一緒
結末も一緒 幕府側は銃に弾込めずに京都へ進軍してたらしいし
「大軍勢で薩摩を脅せばビビって各地での嫌がらせも止めるように命令出すだろ」
ぐらいの気持ちだったんじゃあなかろうか 長州の禁門の変も同じだな
進発した軍隊は止めれなくなる >>209
長州も薩摩兵もいたぞ。角間川では長崎振遠隊がスペンサー銃で参戦しているのに、ボロ負け。
おまけに、後半戦からは佐賀藩がアームストロング砲で参戦して、やっと一進一退の互角。
桂太郎なんか、逃げて逃げて逃げまくっているはずなのに、戦後褒賞を得て、首相の座に。 会津を見殺しにした庄内はもうどうでもいいよ。
長岡藩に比べて戦局には影響ゼロ。
ローカル板ででもオナニーしててよ。 >>221
秋田戦線で手一杯なのに会津まで助けられるかw 会津信者ってどうしてこう自己中でひとりよがりな考え方もったやつばっかなんだろなw 会津、仙台又は米沢のいずれかがやられた段階で詰みなのに秋田の侵略するとかバカの極み。
藩境固めて玉を守りに行く脳はなかったのかね。
官軍の主力に徹底抗戦で時間稼ぎした長岡藩より貢献度低いのは明らか。 >>218-219
薩摩軍はすんなり入京できて王政復古を遂行したのにね
大政奉還を申し出たのに新政府を作らなかった徳川慶喜がマヌケだったのかもしれんが >>224
秋田に官軍が多数集結して、金山の仙台軍は壊滅状態になり、新庄藩は新政府側についたのに、そんなことできるかよw
これでも、新庄に集まった薩長軍は兵隊数は庄内側の方が少ないのに、やっつけているんだよ。後は敗走する「官軍」を追って秋田領へ攻めこむ訳だ 玉である会津仙台を放っておいて秋田に歩を取りに行った時点で、庄内は戦略的に惨敗してる。
戦術的に弱兵蹴散らして多少勝った程度で西郷どんに褒められてホルホルしてるけど、西郷どんが褒めたのって、別の意味でじゃないのw
こんな大勢に影響の無い藩なんて無視した方がいい。 >>227
壊れたレコードか。同じ事を繰り返すのみw >>228
スレタイ「戊辰戦争はどうすれば旧幕府軍が勝てたか? 」
庄内藩は結局負けたんだから、今更戦術的に局地的に勝ったのを誇っても無駄。
そのご立派な実力をもって会津を守りに行けば勝てたのかもしれないが、その選択肢すら自画自賛で凝り固まった筋肉脳で頭ごなしに放棄するのなら、もう庄内など語る価値はない。
ちなみに庄内藩の、勅許もなく蝦夷地をプロイセンに売ろうとした逆賊的行為は弁護の余地なし。
戊辰戦争なんて、そもそも庄内藩が西郷どんの挑発に乗って薩摩藩邸焼き討ちにしなければ起こらなかった。
つくづく脳筋でバカな奴らだと思うよ。
西郷どんに可愛がられた理由がよくわかる。 >>229
会津守っても勝てねーよ。
会津は住民に愛想つかされていて、新政府軍の道案内を住民がしてたんだろw 列藩同盟って仲悪いな
幕長戦争の時の長州みたいに同盟軍をあてにせず、会津単独で戦った方が良かったんちゃう? なりすましが、対立を演出しているだけだから気にするなw 会津もプロイセンに国土売り飛ばそうとした売国奴やんけwww 奥羽戦争みたいな局地戦は専用スレとかお国自慢板で語ってほしい
江戸城無血開城後の旧幕府軍なんか既に解体して、残党が暴れてるだけだし >>220
> おまけに、後半戦からは佐賀藩がアームストロング砲で参戦して、やっと一進一退の互角。
アームストロング砲の破壊力に兵がびびった記録は残っている? >>234
レイテ湾に栗田艦隊が突入して日本が局地的に大勝利したとしても
戦争そのものに勝てた可能性はないのと同じことだよな。 江戸開城後 新政府軍は前装式エンフィールド銃
をスナイドル銃やアルビニー銃に改造して
長岡 会津の戦いに投入しているので
勝ち目はなかったすよ
スナイドル銃
https://m.youtube.com/watch?v=oJp2q_HWPF8
アルビニー銃
https://m.youtube.com/watch?v=0CEQSJcB4Vs >>234
そうは思わないな
東北戦争はガチで日本の歴史を大きく左右した戦争で最初から新政府軍の勝ちが決まってるとはとても言い難い
例えば戊辰戦争に薩摩藩が投入した兵力は6600人で諸藩中これが最大
長州は3〜4000で長岡戦線で思わぬ苦戦をしたことから前線から本国に増援要請が来るも
資金枯渇、兵力にも余裕はなく要請は拒否された
それに対する会津藩は7000を動員、洋式化も急速に進めて徹底抗戦の構え
桑名藩は本国は新政府に下るも江戸の藩主や藩邸側は飛び地領地の柏崎を制圧し1000人以上動員
旧幕府脱走軍も各隊を総計すれば5000は行く、さらに上野寛永寺には最大4000の彰義隊が展開
品川沖には新政府軍を圧倒する幕府海軍もある
奥羽越列藩同盟を加えないでも兵力はほぼ互角か海軍力がある分、会津・旧幕府側の方が上とも言える >>238
>さらに上野寛永寺には最大4000の彰義隊が展開
ここが潰されてからは新政府が明らかに優勢だろ。 戊辰戦争に限らず幕末の戦いって兵数は勝敗にあんまり影響なかったみたいだけど 兵力が拮抗してた長岡、白河戦線で大きく影響したのはやっぱり中下級指揮官の質の差かな
あと砲兵使用の積極性、狙撃の活用も
また仙台藩は大藩ではあるが多くの部隊は装備が旧式、もう一つの東北同盟主力を張った米沢藩も
軍洋式化の切り札になる洋式兵器を新政府軍の新潟港急襲で失ったのは痛い 当時の会津は京都守護職と不作の影響で
財政状況は悪化 ミニエー銃も一部にしか
配備されておらず 基本的にゲベール ヤーゲル銃
が主流で組織体質も18世紀水準
白虎隊も新政府軍が金属薬莢かつ後装式の
スナイドル銃で粉砕している >>238
旧幕府軍と奥羽戦争は関係ないので、庄内のお国自慢や彰義隊の残党の件なら他でやれということ。
理解できる? 庄内藩は、「本間様には及びはせぬが、せめてなりたや殿様に」の本間家の財力で、スペンサー銃
をそろえていたからな。
角間川では長崎兵との戦いでスペンサー銃対スペンサー銃になったが、仙台藩が意図せずも
囮の役割を演じて庄内藩のボロ勝ち。
いくら装備が旧式でも囮作戦は、あたれば大成功!釣り野伏の本場である薩摩藩がいるのに、
これを見破れなかったのは、やろうと思ってやったのではないからか?それとも油断していたからか? >>243
幕府側が勝ったから、都合が悪いってか?w
まあ、東北以北が皇族を立てて、新たな国を作っていたかもね。 その場合東武帝握ってる仙台が音頭取りたがるだろうけど、戦闘面ではドンゴリだからなぁ
新政府軍撃退したとしてもその後の主導権争いでまた一悶着ありそう >>245
徳川宗家はもう恭順しているので、奥羽戦争の段階で旧幕府軍など存在しない。
ただの酒井家の私闘。
スレ違い。
本当に意地があるなら仙台米沢降伏後も官軍と戦えよ。
弱小秋田を叩きまくって自己満足したからさっさと逃げ帰ったんだろ?
庄内に義などない、ら >> 幕府側が勝ったから、
ちなみに庄内藩は降伏してるから。 >>241
>新政府軍の新潟港急襲
これは意外と大局に影響したようだが。 薩長をロスチャイルドが支援し
水戸をロックフェラーが支援し
ロスチャは日本の金融を支配し、ロックは日本の政治(戦争)を支配した
これは勿論、全力で隠されているが
何で日本は国債なんか発行してるんだ?
なんで正恩は、ロックに資本注入された三菱ミサイルを飛ばしてたんだ?
と考えれば疑いようもない
つまり、薩長のような朝鮮部落民を徳川が生かしておいたから
外国勢力に使われてしまったというのが敗因だ 終始アホな会津信者が庄内に嫉妬してるだけにしかみえない 奥羽越列藩同盟の勝利に貢献しない役立たずで、かつ速攻で西郷に寝返っ裏切り者の庄内がウザいだけ
お国自慢なら他でやれ 尾張、紀伊、金沢、東海諸藩が抵抗したらどうなってたかね
この辺りは薩長と戦えるだけの軍力が備わってたのか ますますアホな会津信者が庄内に嫉妬してるだけにしかみえなくなった >>254
なりすまし会津が擁護してもw
本格的に会津アゲしてから言えよw
大体降伏の時期なら庄内は後だ。 西郷に泣きついて金払って許してもらったんでしょ庄内
志が低い裏切り者 鳥羽伏見は正規戦だからなあ
庄内の戦い方は基本ゲリラ戦術だろ? 正規戦から逃げて、ひたすら薩摩藩邸やら、天童・新庄や秋田の村々を焼き払ったのが庄内。 正規戦の定義によるが鳥羽伏見の経過を追えば行軍中の軍隊と守備兵による不正規戦
だったから朝廷側が圧倒したという感じがあるな。結果論としては幕府側を心理的・時間的・
地理的にうまく分断したから圧勝したというか。 >庄内の戦い方は基本ゲリラ戦術だろ?
ゲリラ戦術だけで、大軍が相手領地の半分まで進攻できないよw 薩長をロスチャイルドが支援し
水戸をロックフェラーが支援し
ロスチャは日本の金融を支配し、ロックは日本の政治(戦争)を支配した
これは勿論、全力で隠されているが
何で日本は国債なんか発行してるんだ?
なんで正恩は、ロックに資本注入された三菱ミサイルを飛ばしてたんだ?
と考えれば疑いようもない
つまり、薩長のような朝鮮部落民を徳川が生かしておいたから
外国勢力に使われてしまったというのが敗因にゃ なぜ同じ関ヶ原で減封されながら
秋田と米沢ここまで立場が別れたのか >>264
会津方面に侵攻してくる官軍の主力を無視し、天童や秋田の弱兵を新兵器でボコボコにしてただけだね
庄内のお国自慢はいつ聴いても素晴らしいね >>266
勇猛な上杉軍と
そうでもなかった佐竹軍の違いもある。 >>268
当時のロックフェラーは、創業間もない時期で石油もランプや機械の摩減剤の
用途しかないから、経済力は限られてる。アメリカ各地に自社の油田、製油所を広げようと
ようやく緒に就いたばかりの時期だ
そんな時期のロックフェラーがなんで極東日本の水戸藩を支援するのか、理解できないんだが。 >>268
米沢が本当に勇猛だったら戦況変わってたのにな
臆病風に吹かれて中途半端なことしくさって 佐竹藩の秋田は平田神道の本拠地だったから、勤王思想が強いけど、国学の要素が強すぎるんだよな。
もうちょい、外国の兵学を学ぶ柔軟性があれば…ってトンデモが入った平田神道じゃ無理か。
トンデモ入っていると人気あるんだよな。
島崎藤村の『夜明け前』も主人公が平田国学にはまって、子供が英学校に入るのすら抵抗感ありまくりだし。 庄内が会津方面に援軍に行ってたら
もっとまともにやれてたかな 奥羽越列藩同盟は戦略的に勝つための思想が無かった。
結局、会津や庄内が蝦夷地を売り渡して、プロイセンの支援を受けて新しい国家を作るって方向性だったのかな?
肝心のプロイセンの支援を受ける前に同盟の中核仙台米沢が負けて敗戦したというのはお粗末。 まあ、これの相手がロシアでなくよかったな
しかしこの切羽詰まった状況でプロイセンをチョイスするあたり海外のことなんも理解把握してなかったのが伺える
列国の末席に位置し、国内もまだまだガタガタで世界の一番はじっこを支援できるほどの海軍力もないとこを選ぶとか
普通ロシア選ぶだろうよ
ま、先にも言ったが、ロシアを選ばなくて大正解ではあるのだがなw >>274
なりすましの会津だから、本格的な会津のよいしょは出来ないってか。 奥羽越列藩同盟は明らかに戦争をするための同盟じゃなかったのが敗因
そもそも会津、庄内は新政府へ恭順方針を示していたが認めず、藩主の首を要求し
両藩の態度硬化で東北が戦乱の危機となりこれを回避する目的の連合体だったから
しかも特に東北諸藩の収入は米が主で現金化するには江戸・京都・大阪で売る以外になく
この三大都市が新政府の占領下のままなら、どんなに東北で善戦しても1年以上は持たないだろう
東北独立なんてますますあり得ない、開戦と同時に江戸へ全軍で雪崩れ込むくらいしないと持久戦すら不可能 >>278
恭順示すんだったらじっくり講和条件交渉なり、時間稼ぎなりするしかなかった。
会津庄内は、プロイセンに売国土下座して、伊達を将軍にして、東北王国でも作ろうなどという下心があったのでは?
ともかく、
感情的に世良の首をはねて自ら戦争仕掛けた仙台がバカ。
便乗して白河侵略した会津もバカ。 東北諸藩も鳥羽伏見に参戦してれば勝ったな
関東奥州と各個に戦って敗れた 敵側に情勢判断と決意をさせないように、つねに状況を支配していくという
ドクトリンで朝廷側が上手くやったともいえるわけだ。そしてその手法は明治
以降も有効でありつづけ、アメリカによって強力に阻止されるまで友好だった
(´・ω・`) 幕末で尚武の精神がない凡百の藩の軍事能力は形骸化していただろう。
長期軍事行動に必要な糧秣を補給するにも事欠いたのではないか? そりゃそうだろうね。大藩ならまだしも桑名みたいな小藩だと400人500人の藩兵を
動員するのも大変だし、ましてや行軍も駐屯もみな自費でやらないといけないのだから
そもそも宿舎の手配すら大変だったろう差 500人が毎日何度も糞尿を垂れ流し、食事は2度3度、戦いとなればケガ人も出る
だろうし、衣服だって藩の名誉を担う者が半月も1月も同じものを着つづけるわけにも
いかない。野外に駐屯するにしても他領他藩の土地ならすぐさま問題になるし、ちくいち
了解をとらなきゃいかんし寺社等を使用するなら折衝と謝礼も必要。尚武の精神だけじゃ
なんともならんぽ(´・ω・`) >>284
それを含めて尚武の精神。軍事組織としての自覚の有無を表現したかった。 戦国時代なら、課せられた役割(兵科)別に適材適所に配置されたろうが、江戸時代は
身分や格を意味するものになって世襲が当然になっていたから、機能としては喪失した
だろう、軍事行動するには新たに別途編成する必要があったはず。 名指しで悪いけど、この辺の諸藩の組織的形骸化を考慮しないと>>280みたいな
意見はまるで意味がない。
此処の藩で軍事練度はまるで違ってくるはずで、指くわえて傍観、日和見する藩も
多かったのは当然。 会津じゃなくて庄内を京都守護にした方がよかっただろ
金も装備も新式だしな
鳥羽伏見も勝てたかもしれない 庄内藩は頭が悪いから、西郷の手のひらで転がされるだけ。
主戦場から外れたところで無双してホルホルしてるけど、西郷の罠にまんまとハマって鳥羽伏見の戦いの口実作ったのはこいつらだし、敗戦後も西郷の犬ころだからね。 >>289
薩摩藩邸焼き討ちは、どう考えても理は庄内にあったから、西郷はお目こぼししたんだろw >>290
その通り。
挑発に乗って鳥羽伏見の戦いを起こした功績と、本間家の巨額賠償金のおかげで庄内はお目こぼしをされた。
それにも「南洲翁の御厚情!」と騙されたのが戦後の庄内藩。
もっとも、西郷に対しては南洲翁遺訓という捏造誉め殺しトンデモ本を出すことで、不本意ながら復讐を果たしてはいるけどね。 西郷は薩摩藩邸焼き討ち事件に何ら関与してないのが近年分かっている
しかも焼き討ちされた薩摩が口実にしたならともかく幕府が口実にして進軍した
自ら戦争を仕掛け敗北したのが幕府だったのだ >>293
ほう
これは興味深い
>西郷が薩摩藩邸焼き討ち事件に何ら関与してないのが近年分かっている
ならその詳しい史料とソースの提示をしてもらおうか 薩摩藩邸焼き討ちの前に薩摩藩邸に集められた浪人達が江戸各所で
強盗・放火を繰り返してたのはどうなんだと
放火は江戸城にまで及ぶし、庄内藩の屯所も銃撃される
しかも江戸市中だけでなく討幕の密勅による開戦を見越しての甲府城攻略を目指した浪士の拠点にもなった
これだけやっておけば藩邸包囲と浪人引き渡しを幕府側が要求するくらいは極めて自然な反応 >>294
お手紙が見つかったみたいな話 新聞か何かで読んだ 吉井幸輔が江戸の薩摩藩邸益満休之助、伊牟田尚平に向けた書簡には、
「云々之事(関東挙兵)状御見合可被成候、東西繰違ニテハ大ニ不便」「其内今形御鎮静被下候様、御一同へ宜御伝言可被下候」と書かれており、江戸薩摩藩邸浪士に行動計画に対して「計画を見合わせるよう」に通達し、
重ねて「鎮静にするよう」に指示している。
何も知らなかった西郷に至ってはただ驚いている。
しかも焼き討ち事件を戦争の口実にしたのは薩摩でなく幕府側であった。 >>295
> これだけやっておけば藩邸包囲と浪人引き渡しを幕府側が要求するくらいは極めて自然な反応
で、庄内藩は脳筋の馬鹿だから、包囲に飽き足らず後先考えず薩摩藩邸討ち入りまでやっちゃったんだな。
結末は、幕府の強硬派に火をつけて鳥羽伏見の闘いふっかけて見事に朝敵認定w だから薩摩藩邸討ち事件の事件で止めとけばよかったんだよ
それで逆ギレ興奮して京に攻め上がった旧幕府軍がおかしいんで
焼き討ちされた薩摩側がキレて攻めたならわかるが でも鳥羽でも伏見でも最初に撃ったのは薩摩軍だけどな
また見聞記録の中には鳥羽口で両軍が接触するととりあえず双方の前線代表者が話し合い、
幕府軍側が後退したところ薩摩軍がすかさず前進、そこでまた交渉になり
幕府軍後退、薩摩軍前進ということが繰り返されたとも >>300
鳥羽伏見のその前にもう幕府海軍が薩摩海軍に戦仕掛けてるよ >>297
>何も知らなかった西郷に至ってはただ驚いている。
このことがその書簡のどこに書かれてるってわけ? 西郷が本当に知らなかったのか、
知らなかったふりをしたのか
まではわからないからなあ。 >だから薩摩藩邸討ち事件の事件で止めとけばよかったんだよ
>それで逆ギレ興奮して京に攻め上がった旧幕府軍がおかしいんで
>>299
慶喜の意思に従ってた老中らは慎重だったのに、
慶喜の意思に背いたアホの小栗忠順が庄内の暴走を許可した >>300
大坂城内でじっとおとなしくしとけば助かったろうに旧幕マヌケ過ぎ 江戸時代の大坂城はもう籠城できる城じゃなかったからね。 だから、普通に油断せず戦闘意思をもって薩摩に最初から襲いかかっていれば、勝てたよ…
ってNHKのヒストリアでやっていた。 長州征伐の時に小倉が落ちて家茂の葬儀のためとか言って
撤退してビビった慶喜が悪い
あの時に大打込してれば勝てた 第二次長州征伐なんて余計な戦争をしなければよかった
幕府が長州相手に恥をかくこともなかったし、軍事力も温存できたのに 長州征伐しなくても薩長が手を結んだんだから上京するのは時間の問題だっただろ
なら長州一藩のうちに叩き潰しておくべきだった 家茂が死ぬ前から周防大島以外一歩も長州に攻め込めてないけどな
周防大島も結局奪還されたし
この状況でなんで慶喜が率いれば勝てると思うんだ? >>1
無能な徳川をクビにして、
大村益次郎を征夷大将軍に任命する 四方から攻められても圧勝した長州
東北の頼もしい仲間たちに囲まれていたのにフルボッコにされた会津 会津と庄内だけで連携しても幕府が無いと負けてしまう 慶喜が将軍就任直後に大政奉還してれば薩長も慶喜を見直して協力し内乱も不要だったろう
薩長に散々嫌がらせして武力倒幕準備されてから大政奉還したから心証が良くなかった 徳川260年のうち150年くらい使って親藩、譜代を吸収統合していって巨大な徳川帝国を作っておく
残りの時間使って外様大名を難癖つけて取り潰す
皇室もどっかで取り込んでおく >>321
薩長がいなくても勤皇の水戸や尾張が倒幕しそうだけど >>320
大政奉還論自体は文久二年辺りから出てるんだよね
四候会議前までは当たり前になってたし
慶喜が大政奉還したのって一周遅れで薩摩が既に武力倒幕を検討していたから遅かったんだよね >>322
水戸藩としては動かないと思う。個人レベルでだろな >>323
> 大政奉還論自体は文久二年辺りから出てるんだよね
最初に言い出したのは誰なんだ? >>325
今さら何いってんだか
けっこう有名な話なのに >>326
わからんやついるからお前がちゃんとその一連の史料を提出して325に説明してやれよ
結構有名な話だからそれくらい簡単なことだろうよ
まさかできないわけないよな?こんな程度のことが? 当時日本に関心を持っていたベルギーに支援を要請するというのは? そもそも外国に支援求めてもどうしようもないだろ
装備は元々持ってたし兵隊呼ぶにしても遠すぎるし諸藩は徳川同情派も見切りつけるだろうし
戊辰戦争の頃になると外国との装備差も無くなってるし >>310
長州征伐失敗の前に長州軍が上京なんて出来る状態じゃない
>>325
それくらい自分で調べろよw >>327
史料なんてもう出されてるし、今さらわざわざこっちが説明する必要がない
「こんな程度のこと」すらわからん>>325が無知なだけ >>331
つまるとこ史料も提示できないし説明もできないで逃げたってことねお前は
恥ずかしい 外国勢力の介入を要請するという実効性ある案がほぼ黙殺されるのは納得できない。
凡人は史実からしか想像できないのか。 >>333
米英仏をさしおいてベルギーが来るはずがない。
ベルギーも米英仏とは揉めたくないわけで。 >>334
たしかにそのとおり
ベルギー程度の中等レベル国家が介入などできるわけもなく
ま、厳密にベルギーが揉めたくないのはこの場合英仏で、ベルギーとほぼ変わらないレベルの米は重要さは皆無ではないが気にしなくて全然平気なレベル 長州藩と戦った四カ国連合艦隊で兵力が5000人くらいだからね
このくらいが徳川方に参戦できたとしても焼け石に水
そのために日本中の諸藩から真に朝敵と認識され孤立する方が損 >>332
おまえが真夜中に発狂しても
「こんな程度のこと」すらわからん無知な>>325が恥をかくだけ >>337
なにひとつ説明も史料提示もできないで言うだけ番長
まさしく朝鮮人&中国人の論法
隠しきれないほどお国がバレバレですね >>338
おまえ支那チョン並みの低知能だから史料を見つけることすら出来ないんだね
>>325はまだわかってないようだし >>339
会津みたいなこといってねーでさっさと史料提示して証明と説明しろよ
いつまで逃げ回ってんだこのチョン公はww >>341
おまえガチで知らんのかw
朝敵会津や旧幕を美化してる馬鹿サヨと同類じゃんかw
史料なんてすぐ見つかるし見つけられないなら、おまえが低知能ってことなんだろが
無知な>>325がいつまでも恥かくことになるぞ とりあえず3日待ってやるから、史料見つけてみろよ>>325 史料提示できないうえに説明もできない
ゆえにおまえの主張も証明できない
すべての学術定義を満たしてないのはお前ww
これが朝鮮支那人、強いては会津人の典型的なやり口w
お前義務教育ちゃんと受けてる?w と、言いながら今自ら必死で出典先を必死で探してる>>343であったwww >>341
> いつまで逃げ回ってんだ
ニック・ボックウィンクルの悪口はやめろ >>343
>とりあえず3日待ってやるから、史料見つけてみろよ
とかコイツ宝探しかなんかのゲームでもしてると勘違いでもしてんのか?
ナニをそんなにこんなもんもったいぶってんだか…
支那朝鮮会津と言われた順にオウム返しのようにそのキーワード使って返してくるとこみると相当頭悪いなコイツ 嘘を書く
↓
「史料出せ」と、迫られる
↓
「史料なら出てる。お前が探せ」
↓
「史料出せ」と、迫られる
以降ループ。
結論として、嘘を書いたやつが一番悪いと思う。 >>343
今さら何いってんだとかとりあえず3日待ってやるとか
そういう高圧的な上からの物言いでなんだこいつ状態なんでこうやってみんなから史料出せだ説明しろだ言われてるのがわからんのだなこのアホw
完全に発達障害かコミュ障だろw >>343
その3日ってお前が史料探すのに必要な時間なんだろ?w みなさん大変ご迷惑おかけしております
只今全力で>>343が該当史料を必死で探しておりますのでもう少々お待ち下さいwww >>345>>347>>349-351
低知能のために、わざわざ3日間てハンデ作ってやってんのに焦リすぎw
インターネットがあればチョチョイのチョイだぞ
ヒント出てんだからもうみつけられるよな>>325
文久年間の大政奉還論なんて、幕末史の基礎知識だから知らないなんて恥ずかしいぞ >>352
で
3日待つということはつまりその3日後には答え合わせしてくれるということ
正解がなんであるのか提示してくれるということだよな?
また都合よく逃げんなよチョンカスw >>354
正解か不正解かぐらい答えてやるってw
それで正解だせたら>>325が無知だったことが証明されちゃうわけだし >>356
一生懸命史料を探しましたがみつかりませんでした
もう僕にはお手上げです
3日前ですが後学のために無知な僕にその史料名と、そのどの部分にどう書かれているのか、そしてそれをどう解釈したらただしのかも教えて下さいよろしくお願いします >>356
私も見つけることできませんでした
なんていう史料にどのように記載されてる内容のものなのか模範解答よろしくお願いします >>356
いくらググっても探せませんでした。
降参です。
なんという史料にどのように書かれたものなのかアホな自分に教えて下さい。 >>356
検索してもまったくヒットしなかったのでソース教えて >>357-360
たっぷり時間を与えてやったのに、みつけられなかったなんて信じがたいけどな
かわいそうになってきたから、あと一週間待ってやる >>348
本当に史料があるなら、名前を出して知らなかった奴らをバカにするのが一番だろうからね
それをしない時点でお察し >>361
そんな史料ないから提示などできんわな嘘つきチョン公w >>363
支那チョンてのはおまえみたいに精神勝利を繰り返してる低能種族のことだよ >>364
たっぷり時間あったのに、みつけられなかったからって悔しがるなよ馬鹿チョン このクソスレは、文久年間の大政奉還論すら知らない愚かな馬鹿チョンの隔離スレになってしまったなw 1レスにまとめられる程度の内容を3つに分けてる時点で、無能としか言い様がない
>>323
それほど当たり前になっているなら、複数の有名史料で確認できるはずなのだがな ID:Tqi9XDXp0の支那チョンカスが史料でっち上げてファビって連投して逃げ回る日本人にあるまじき醜態晒してて草&草 >>369
正確には「史料のでっち上げすら出来ない無能」でしょう
どこかで聞きかじった情報を、あたかも自分の知識のようにひけらかしたのが敗因だな >>366
すべてはどこで仕入れたもわからんでその証明もできない情報を振りかざしてマウントとろうとした中卒無学の超絶ドアホのチョン公であるお前の自業自得
完全敗北涙目乙wwww >>372
マウントとられた気分だったのかよw
まさかこの程度の基礎知識でマウントとれるとは思わなかったわ
馬鹿チョンみたいな学歴透視とかしてるヒマあるなら探してみろよ
ネットあればどこででも仕入れられるぞ>>325 こんな簡単なことがまだみつからないなんて馬鹿チョン馬鹿すぎるわ >>375
発達障害のおっさん涙目拭けよみっともない >>375
基礎知識なら簡単にネット検索でもかかるのになw
まったく出てもきませんが?w
簡単な基礎知識といってるわりに求められてもなにひとつ己で史料提示もしなけりゃ説明もしないで証明ひとつもできてない
簡単なら提示してそれだけで終わるのに
3日待つ、更には1週間延ばすだと完全に誰がみてもこんなことでマウントとりにきてる低能さ 恥ずかしいくらい丸出ししててまたこういう頭の悪い逃げ口上述べるあたりドチョン以外何者でもないなw
低学歴のお前くるとスレがキムチ臭せえわw
提示できない時点でお前の敗北決定だコジキm9(^Д^)プギャーww >>378
検索してないのに検索したとウソついてるか、まともに検索すらできない知的障害者か、なんだろうな
どちらにしてもまともな日本人じゃないし馬鹿チョン丸出しってことだよ
時間がたつほど無知無能の醜態に歯止めがきかなくなってるってわけ>>325 検索して出てくるソースは>>323の書き込みだけだな
というわけで、>>323を「ぼくが かんがえた さいきょう たいせいほうかんろん」と命名 >>380
結局提示できないお前を誰が信じるかって話
ナニ言ったとこで提示できないお前の完全敗北w >>380のクソの役にも立たない無駄に高いプライドだけはもってる中卒の痛いおっさんが臭い息撒き散らしながらなんか言ってるぞww >>382
提示できないって思い込んでるのもマヌケだし、低能に信じてもらう必要もない
精神勝利でうかれてろやw >>383
みつけられないくせに、妄想全開でへらず口ばっかだな馬鹿チョンって だいぶ時間がたってるけど、まだみつけられんのかよ>>325 >>385
悔しいのお〜悔しいのお〜嘘つきでっち上げの支那チョンおっさん悔しいのお〜wwwwwww >>331
大久保一翁と「逸事史補」くらい速攻で教えてやれよw
他人の書いた情報の尻馬に乗ってマウント取ろうとするからすぐ詰まる >>388
あ〜あ〜
言っちゃったw
このしょーもないゴミカスおっさんから言わせな意味なかったのにw >>387
うそつきの馬鹿チョンはこいつだったなw
↓
>>357-360 >>364 >>378 >>388
速攻で教えてやったらつまんないじゃん
来年まで引っぱることで、このクソスレが盛り上がってただろうに >>392
チョンカスヘタレのマウントおっさん必死wwww
もうお前用済みだからお疲れさん 戊辰戦争はこうすれば旧幕府軍は勝てた!みたいな妄想
幕府びいきの人は好きだよなあ
だけど下手すりゃ旧幕府側が勝ってたと主張するなら
だから新政府軍は急いで旧幕側を潰す必要があったってことになり
可哀相なか弱い旧幕軍を攻撃した悪の官軍みたいな言い分は通らなくなるんだよな 意味不明。
歴史はバタフライエフェクトでほんの少しの違いが、エライ違いになるんだよ。 >>397
道にあるたった一個の石が歴史の転換点だったとかね。その石である人が転んでそれが何らかの事件の契機になるとか。
そんなのが無数にあるのが歴史。 >>389
>>388が教えてあげなかったら一生エアマウント取り続けただろうから無理だろ >>396
日本語力磨いたら?
バタフライエフェクトとは全然関係ない話してるんでw >>400
ハア?蝶々の飛ぶ風飛ぶ風を路傍の石に置き換えただけだけど。応用力付けようぜ。 >>404
理解できなかったか…。
まあ、俺の説明が悪いのだろうな。 幕府びいきの人のダブスタ
・旧幕軍は本当は強かった!〇〇してたら勝てたはずだ!
・か弱くて可哀相な旧幕府側を攻撃した新政府軍ひどい!
どっちなんだよw
…って話に全然関係ないバタフライエフェクトという単語を言ってみた奴w >>394
おい馬鹿チョンw史料の存在に決着ついてどっちがうそつきか判明したんだぞ>>357-360 >>364>>378
来年になってもまーだイジメられたいのかあ? 幕府こそ誠の義士 勇士
会津藩や新選組こそ男の中の漢
薩長は飛び道具使った卑怯な侍 >>408
ウンコのお酒を飲むとそんな幻覚が見えちゃうのかなあ?
旧幕府と新選組は薩長に命乞いした臆病者だし、会津藩なんて外国に領土を売ろうとしてた朝敵だぞ 有名な土方歳三の写真は、洋装で髷も切っちゃってるね。
もう純日本的習慣、技術は過去のモノという了解があったの
が分かって面白い。
海外事情には無知な人なはずの土方レベルですら、幕府エリートと
交流し、薩長の軍事力増強を目の当たりにしたら、
こうなったってことだね。 列藩会議で各藩独立してる軍権を一元化する討議は、各藩反対で流れた。
飲んでたら、佐幕同盟による新体制になったろうが、参加藩にしたら
盟主が違うだけでやってることは新政府と同じという・・ >>391
いじられてもて遊ばれたてたこと今更気づいてホントこのウケるwwwwwwwww >>416
バタフライエフェクトなんて基本単語なのに
ぼくちゃん初めて知ったからさっそく>>396で使ってみた
みんな知らないだろー?といまだに浮かれているが
単に使いどころを間違えたことにいまだに気付かない奴w >>395を理解できず意味不明としている段階で、あまりオツムの良い人ではないと思う。
多分ろくな大学を出てないよこいつ。 >>418
>>406でもっと噛み砕いて説明してやったのにいまだに理解してないもんな
日本語ネイティブか?と疑うレベルの読解力の低さ >>413
「列藩会議」って奥羽越列藩同盟のことですかね? >>421
宇和島とか薩摩とか福井が入るほうじゃないの? >>414
>>415
最初から知ってたなら馬鹿チョンがうそついてたことになるだろがw >>357-360 >>364>>378 まだやってんだw発端の>>319の
>慶喜が将軍就任直後に大政奉還してれば
にツッコミ入れるなら史料云々より慶喜は将軍就任を固辞しまくって
オレ将軍やらないから政は朝廷でしてねと脅かしたろうがってとこじゃねの? >>423
チョンはお前w
マウンチョンおじさん乙wwwwww 幕末を見ると会津武士道や新選組魂がさわやかな風の如く日本人の心に訴えかける
我々は幕末の会津や新選組に真の武士道を見たのかもしれない 百姓に負ける武士道と内ゲバを繰り返す武士道
彼等の遺志は連合赤軍に受け継がれていたね >>425
うそついてたのは馬鹿チョンのほうだぞw >>357-360 >>364>>378 >>428
おもちゃにされてたことくらいまだ気づかないのかなこのマウンチョンおじさんは?ww こないだの英雄たちの選択で新選組とくに土方の行動パターンは農民そのものって言ってたが自分も同意
なぜ古臭いフィクションを鵜呑みにして武士道がーという奴が絶えないのか疑問だ
百姓でどこが悪い、武士がそんなに偉いのかよと声を大にして言いたいね 慶喜が先頭に立って鼓舞して、策は小栗にまかせるっていう
長州での桂と大村みたいな関係性で挑んでいたら
圧倒的な戦力があったから、普通に勝てたと思うし
大村自身がそういう事言ってるだろ
あと対長州に関しては
水戸藩が瓦解したような戦略を取れば良かった
要するに内部の徳川派へ援助する
幕府は「長州そのものを潰す」って長州征討をしたが
そもそも、長州の半分以上が親幕府派だったから
その場合は、長州内親幕府派への援助、加担という形で兵を出すべきであった
それを「長州そのもの、全体を潰す」ってやっちゃったから
分裂してた内部が「今は中で揉めとられん」って一枚岩にまとまってしまった 大村が小栗を褒めたのは嘘話だろう
大村自体が戦争に反対して鳥羽伏見にも居なかったし
その後の江戸攻めからも外れされている
江戸攻めに居ないのにわしの首が無かったなどと言うはずがない
そもそも小栗に軍事的才能があったか疑問だし
あったらとっくに幕府で起用されていたろう
小栗を持ち上げる為の逸話だな >>433
> そもそも小栗に軍事的才能があったか疑問だし
だよな。 >>433
その出典は「土方伯」って本で上野戦争後に大村が言ったとあるけど
わしの首がなかったじゃなく、有栖川宮をはじめ我々の命がなかった、だな
ちなみにこの話には続きがあって、江藤新平が大村に小栗は間抜けだと
詰めの甘さを批判して皆が江藤に感心して終わる
この本は思い込みの激しい土方久元の回顧談を記述したそうなんで少し眉唾だけど
江戸開城後に脱走した榎本艦隊が箱根を襲うかもと西郷が警戒してる手紙は残ってる 攘夷を叫んで幕府を倒した薩長が政権取るや、幕府と同じく開国政策を取ったのは、
「消費税反対・安保反対・自衛隊反対」と言って政権取った日本社会党の村山内閣が
「消費税も安保も自衛隊も全てそのまま」にしたのとソックリだなwwwwww
ようするに、世間なんて全てはハッタリと扇動力だな、アホらしい >>436
そもそも薩摩は元から開国だし、長州も攘夷後に開国が方針
公約の攘夷もちゃんと行っている
根本は朝廷がそれまでの攘夷から開国の方針に変わったからなんで >>429
うそつきの馬鹿チョンはおもちゃにしてやってもいいんだぞw >>357-360 >>364>>378 >>432
慶喜と小栗にはそんな連携が出来る程の信頼関係はない
慶喜が挑発に乗るなって警告してたのに、
発狂した小栗の馬鹿が庄内に薩摩藩を攻撃させて墓穴を掘ってしまったんだからさ >>438
悔し涙拭けよ
おもちゃにされてたマウンチョンおじさん >>440
涙が出るくらい笑えるわw
うそつきの馬鹿チョンと遊んでると>>357-360 >>364>>378 >>436
幕府を倒した後の政府が不平等条約改正してるじゃんかw
アホらしいのはおまえのクソレスだよ
そんなのは色んなスレでさんざん論破されつくされてんだろが >>439
幕府内強硬派が薩摩藩邸攻撃を決断したのは、庄内藩の詰所が銃撃されたことで
庄内藩士が激高し役目返上を申し出る動きになったことが1つ、
もう1つは藩邸を攻撃したとしても彼我の兵力を比較した場合、
旧幕側が圧倒的に有利でまず引けを取る心配がないことが1つだよ。
旧幕側が圧倒的に有利なのは西郷吉之助らも認識してる。
まさか発砲を禁じたまま洛中に向かうとは思ってないし、
大坂を放棄して逃げ帰ってくるとも思ってない。 >>433
>>435
上野戦争後に大村が小栗の戦略を評価したのに対して、
江藤新平が反論して2人が論争になったという逸話だね。
江藤の反論は小栗の戦略そのものを批判したのではなく、
「内決したのならなぜすぐ公式な命令にしておかなかったのか、
一晩おけば政治情勢が変わってしまう」という所にあった
談話の信憑性は疑わしいが、大村が若干軍事バカ気味なのに対して、
江藤が政治的に機敏という面白い特徴が出ている >>431
会津藩の戊辰戦争時の総兵力は約7000、
うち士分が1000余名、足軽を合わせて3000
半分は農兵や猟兵で占められている
従来は旧幕側で農兵を活用したのは半数が農兵だった庄内藩くらいと言われていたが
実際は、攘夷浪士の跋扈に伴って村落が自衛を始めていたため農兵が相当数参加していた
久保田藩・盛岡藩・庄内藩などの戦闘では農兵が主力に近いくらい
出陣日誌などを見ると会津藩領の農兵・工兵も極めて士気が高かったことがうかがえる >>409
仙台藩はもったいないの一言。
保谷徹の研究によると慶応3年から4年にかけて仙台藩は新式銃7000丁を購入しており、
横浜から運搬し調練が終わり次第戦場に姿を現す予定だった。
奥羽軍の指揮系統が統一されてなかったこと、緒戦の敗北で藩内抗争が復活したため成果は残せなかったが、
実態よりかなり低く評価されてると思う。 >>406
>幕府びいきの人のダブスタ
>・旧幕軍は本当は強かった!〇〇してたら勝てたはずだ!
>・か弱くて可哀相な旧幕府側を攻撃した新政府軍ひどい!
>どっちなんだよw
誰がそんなこと言ってるの?とくに2番目の主張は聞いたことがないね。
幕府びいきではないけど、旧幕軍の兵力15000、前線に9000、後方に5000
装備は互角以上、相手となる薩長軍が合計4000で長州藩兵は砲隊を持っていない
などなどの条件を考えると、街道ごとに兵を配して攻めれば入京に成功していた確率はかなり高かった
鳥羽伏見の二街道に絞った実際の戦闘でも、初日夜に会津藩兵(白井五郎太夫隊)が無人の竹田街道を進出し
後続の幕府歩兵隊を待ってしばらくとどまってるが、これが成功していたら戦況は一転した可能性が高い
薩長軍が勝てたのは、旧幕軍が初日に発砲を禁じられ大敗を喫したこと(鳥羽街道)、
戦闘勃発後に大坂城の大本営が機能せず(慶喜が戦闘指揮を執らなかったため)
援兵や伝令などがうまくいかず、司令官たちがいちいち後方で会合して戦略を決めねばならなかったため、
後手後手に回ったのが大きい ということで、>>1の問いに答えると
鳥羽伏見の戦いに関しては軍事的に勝つほうが当たり前だった。
一方で、鳥羽伏見以降の戦いは、徳川宗家が恭順している以上、
個別に抵抗しても勝ち目はかなり少ない。
そこは小栗忠順が渋沢成一郎に語ったとされる内容(「読史余録」)の通り。
当時の戦争は動員人数も多くなく、財政的にも限界があるのでそんなものです。 >>441
顔真っ赤
クソの役にも立たないその無意味無駄に高いプライド傷つけられて悔しいのおマウンチョンおじさんw >>436
>世間なんて全てはハッタリと扇動力だな
実際にそうなわけで。 >>447
>街道ごとに兵を配して攻めれば入京に成功していた確率はかなり高かった
> 鳥羽伏見の二街道に絞った実際の戦闘でも、初日夜に会津藩兵(白井五郎太夫隊)が無人の竹田街道を進出し
> 後続の幕府歩兵隊を待ってしばらくとどまってるが、これが成功していたら戦況は一転した可能性が高い
まあそうだな。 設問:戊辰戦争はどうすれば旧幕軍が勝てたか?
答え:旧幕軍は軍事的に優位なので勝つのが当たり前だった→×不正解
実際に負けてんだから旧幕軍の敗因はそこじゃないわけで >>436
自民党の移民法を無視しないでください(>_<) 初日、2日目は幕府歩兵は戦闘準備をしておらず手際が悪かったが、
そのぶん会津・新撰組と桑名・見廻組の戦線立て直しと突撃が凄まじかった
会津藩兵を盾にして、何も考えず後に続くだけで優勢に立てた局面がいくつかある 表面的な事象だけダラダラ書いてもね
設問に答えられるまでちゃんと分析しなきゃw 三谷の「十二人のやさしい日本人」思い出した
上から目線で事件の経過を無駄に細かく説明するけど
かんじんの質問の答えにたどり着く前に終わっちゃう人 鳥羽伏見の戦いについて言えば旧幕府軍側勝利に一番必要なのは慶喜以下首脳部が
断固として武力討伐で方針一致することだろう
ただその前に薩長含め御所付近にいる藩兵には京都からの退去を求め、期限内を過ぎたら討伐すると公表しておく
こうなれば期限を過ぎたら容赦なく発砲出来るし、それ以前に土佐や越前兵は退去しようとして新政府は瓦解しそうではある 断固として武力上洛(慶喜も止めなかった)したら負けたんじゃん
朝廷を武力で脅し上げるような事したら朝敵なるよ >>458
錦の御旗対策はどーするの?
御所警備しているだけなのに、それを
撤去を求め攻撃するとなると何らかの名目が必要だ >>457
幕府が発砲準備もなしに戦闘に突入したとか、
大本営の戦争指導が機能してないとかは大山柏や保谷徹など
軍事史関係の書籍でも定番的に指摘されることだよ? >>459
京には土佐藩・越前藩・熊本藩など薩長に不満を持つ勢力がおり、
土佐藩などはどうやら隊長ごとに内応を約していたものもいるようだ。
ただし越前藩らの周旋で慶喜の参与就任が内定して、
あとは上洛するばかりになっているわけだから、
慶喜としては政治系の与党の面目もつぶしたくなかったんだろうね。
最大の原因として、慶喜に朝廷に対して兵を用いることに躊躇があった。
そこは尊王意識の強さという説明しかない。
だから、「上洛の先供」という形で歩兵や会津藩兵の独走を黙認し、
威嚇が成功したところで自分も乗っかろうという都合のいい戦略を立てた。
あくまでも「黙認」だから自分は戦争指導に関与せず、知らんぷりしてるしかない。
それが中途半端になっちゃったということだね。 >>458 >>459 が言ってるのは
「武装上洛したら朝敵になるのでは?」ということだが、
これは現実の朝議を見たほうが早い。
1月3日の開戦が伝えられたあと、朝廷は大騒ぎになり
参与諸侯ももはや責任を取れないとして連袂辞職を申し出た。
島津忠義は参内もできないありさまだった。
大江卓の回想によると、夜に入って徳川勢が京乱入に成功したという報が入り
公家たちが停戦令を求めて騒ぎ出したという。
現実には薩長は少数派なので、趨勢が徳川方に有利ならわが身が可愛い彼らは討伐の勅など出さないよ。
禁門の変のときに孝明天皇が断固として会津藩を支持したほうが異例の対応。 大坂の陣時の幕府軍VS幕末幕府軍
どっちが強い?w
幕末幕府軍が負けると思う。 土佐や越前その他の慶喜擁護派は、慶喜はあくまで朝廷に恭順であるのに薩摩の処置は強硬だという理由で徳川を擁護していたので
慶喜が武力で朝廷を脅し上げる野心家と見たら薩長側につくだろう
四候会議、大政奉還、王政復古までは薩長と同派だったんだから
徳川処分の小御所会議で意見が違ったっだけで >>449
うそつきの馬鹿チョンと遊ぶのにプライドなんていらんぞw>>357-360 >>364>>378 >>462
慶喜に忖度して、歩兵と会津藩が独走なんて茶番をやったとしても、
慶喜自身が手の平返して新政府軍に参加して、独走した歩兵会津を賊軍として討伐する側に寝返る危険性もあるだろう
横浜鎖港を煽ってた慶喜を支持してた天狗党も討伐したし、長州大討ち込みを煽ってた時も手の平を返して休戦を無理矢理決めたし、鳥羽伏見戦後も大阪城から夜逃げする直前まで徹底抗戦のふりしてた >>467
とか言いながらプライドが許さすしっかりレスつけるマウンチョンおっさんww
プライド軽く傷つけてやるだけだいとも簡単に釣れるww
いい歳ぶっこいてプライドのかたまりってただただキモいね☆
ね、マウンチョンおっさん 藁 大村が小栗をほめて江藤がケチつけたって話は少し怪しいけど新政府軍側で
もし旧幕側がこれこれをしたら自分らは負けるかもしれないと自由に議論できて
味方内ですばやく連絡を取り合って離反を防ぐのが重要だという発想があったのが面白い
旧幕側はネガティブな予測をしたら切腹に追い込まれたり、ろくに偵察や連絡もせずに
誰々はこう行動してくれるはずだと都合よく思い込む傾向が目立つな >>466
土佐・越前・尾州・熊本などは反薩長なので慶喜打倒に加わる可能性は少ない
>>468
そんな可能性はない
>>470
>旧幕側はネガティブな予測をしたら切腹に追い込まれたり
誰が鳥羽伏見の時に切腹に追い込まれた?
長州征討のときも幕閣は本荘宗秀のように和睦を勝手に進めた人間もいるし、
色んな幕臣が活発に意見具申してるが。
小栗忠順や榎本武揚は引き上げてきた慶喜に暴言を吐いても抗戦を主張してるが、
前者は土着が認められ、後者は逆に海軍副総裁に任用されるなど何ら処分を受けていない。
土方の回想は、小栗忠順の知名度、評価が新政府内でもきわめて高かったことを物語る。
小栗が処刑された一因もそこにあるんだろう。 >>470は典型的な結果論の発想だよね。
西郷隆盛の慶応3年の挙兵計画や、同時挙兵計画が土佐・芸州・長州が相次いで離脱したり
薩摩藩内で紛争が起きた過程なんて「ろくに偵察や連絡もせず」「誰々はこう行動してくれるはずだ」
の典型例なんだけどね。
西郷はとくに薩軍の軍事力の楽観視のくせが治らず、西南戦争での甘い見通しにつながった。
むしろ慶喜のほうが終始一貫して慎重だった。
だから王政復古政変で京を退去し、大坂を抑えて京を海陸から包囲する態勢が作れたのだろう。
ただし、最終局面で、政治情勢が有利に展開したため、自分が関与せずに
幕軍の暴走を黙認する形で棚から牡丹餅を狙ったのが裏目に出た。 薩長は幕府海軍による艦砲射撃を嫌がっていたが
結果的には大したことがなかった。
幕府海軍による艦砲射撃はどこかでもっとうまい使いみちがなかったのか? 鳥羽伏見に限らず、幕臣で政争に負けて切腹を命じられた例なんて思いつかないな
唯一思いつくのは会津藩の神保修理だけど、
あれは「ネガティブな予測をした」から切腹に追い込まれたのではなく、
藩兵を置いたまま東帰恭順を勧めたことが批判されたわけだから
というか、ほぼ唯一の例を持ってきて「傾向が目立つな」ってすごい思い込みだな >>473
艦砲射撃は大したことあるよ
元治元年9月に幕府海軍は那珂湊の戦いで艦砲射撃を行って降伏に追い込んでるし、
芸州口の戦いでは幕府艦隊の艦砲射撃が長州藩兵を苦しめている
北越戦争や函館戦争でも政府軍の艦砲射撃の威力は大きかった
↑と同じ使い方をするなら、逃げ道のない隘路で陸兵の移動経路を遮断すればいいので、
小栗の言ったように官軍が薩埵峠を超えたあたりで砲撃して退路を遮断してしまい、
陸兵を持って包囲することで東海道軍はかなり動揺した可能性がある
陸兵との共同作戦が効果的だろう
あるいは、大坂湾に出没して制海権を脅かすのも悪くない >>471 >>462
その会津と歩兵による軍事行動を、慶喜とは別の独走だと、新政府が誤断する可能性のほうが低い 幕府には軍隊を任せられる人物が居なかった
榎本武揚や大鳥圭介は西洋かぶれに過ぎなかった
小栗は美化されてるだけで 竹中重固みたいな無能を陸軍奉行にしたのが悪い
小栗を陸軍奉行にして全指揮権を与えてれば勝てた 会津と歩兵が勝手に独走したと、新政府が判断してしまったらしたら、
会津と歩兵は単なる賊軍の反乱となる >>469
馬鹿みたいに感情や年齢を透視なんかしても
馬鹿チョンがうそつきだって確定してしまったからなw>>357-360 >>364>>378 >>479
小栗だって無能だし幕府陸軍も弱兵ぞろい >>481
ナニひとつ歴史について語れないマウンチョンおっさんがまた釣れましたwwww >>443
いくら庄内藩士が激高しようが、
挑発に乗るなという慶喜の意向に背いて愚かな決断をしたんだから、小栗らは馬鹿でしかない 慶喜にやる気があれば、江戸開城まではいつでも勝てただろ。
江戸開城以後は何やっても無理だな。 慶喜が薩摩と協調しなかったのが悪い
久光の御機嫌をもっと取るべきだった 薩摩のご機嫌取りしなきゃならん時点で幕府の土台は崩れてるね。
かつてはイジメ倒してたのに。 慶喜が薩摩と協調したくても、会津と桑名がいるから無理
最後まで長州復権に反対してから
そもそも会津なんてとっとと帰ればいいだけなのに
ずるずると京都にいすぎ
慶喜なんてほったらかして孝明帝が崩御した時点で帰れば
全く違った結果になってたと思う 会津を切り捨てて、薩摩長州と組むという決断力が慶喜には欠けていた
慶喜の側近には尊皇攘夷派がいたというのに >>477
この時期の薩摩藩のターゲットは、もう会津・桑名ではなく慶喜・徳川家じたいの排除だよ。
12月9日の王政復古クーデタの際には慶喜に反正の態度があれば許す云々と大久保は書いてるが、
慶喜には会津・桑名両藩主を帰国させるよう命令が下っている。
薩摩藩は12月末には政争で完全に追い込まれており、両者を分けて考えることは不可能。 >>478
>幕府には軍隊を任せられる人物が居なかった
北海道戦争、特に劣勢だった終盤の函館湾海戦で明らかになるけど、
海軍軍人は政府軍に比べて明らかに優秀。さすが全国から人材を集めて金をかけただけある。
問題は陸兵だが、鳥羽伏見の戦いで幕府歩兵は薩摩藩側の記録でも手ごわく戦った様子がうかがえるし、
差があったとしても大きな差はないだろうね。 >>479
鳥羽伏見1〜2日目の滝川具挙・竹中重固・大河内正質の行動を見てると、
戦局転換のたびにいちいち後方まで下がって軍議して進退を決めてるんだよね。
慶喜や老中ら本営が指示を放棄して、指揮命令系統が乱れてるから
同格の人どうし合議するのはやむを得なかったのかもしれないが、
この時代は通信手段がないから前線司令官の誰かが主導しないと臨機に対応できない
小栗が陸軍の戦略に詳しいとは思わないんだけど、幕府陸軍の建設の実力者ではあったから
同輩に指示するだけの戦争指導能力はあったと思う。 慶喜が江戸城に籠城した場合にはどうなったのだろうか? 最初から大政奉還しかないんだよ
その後議会政治に移行する
それによって内乱は回避できる
薩長主導の武力に頼った維新より良かったかもしれない >>494
大坂を放棄した時点でかなり難しい
新政府の最大のネックは財政の裏付けがないこと
だから慶喜に頼んで幕領を譲ってもらうしかなく、それで慶喜は発言権を持てた
ところが大坂を放棄したことで豪商たちが新政府に献金を行い資金不足が解消
同時に1万5000の幕軍が解体したことで各藩にドミノ現象が起きた >>484
当時は西郷吉之助ですら江戸の事件の報を聞いて驚愕しているように、
幕軍と戦争が始まったら京方が不利であると双方が認識している。
だから幕軍の幹部たちは、「愚かな決断」をしたとは全く思っていない。
それにもう1つ、慶喜は大坂退去の意図を幕軍に説明せず、
大坂に着いた後は挙正退奸表を発して薩摩藩を非難し、呼応して上洛中の藩もあった。
だから幕軍幹部たちは、慶喜の意図は京への反攻にあると信じている。
慶喜と幕臣の意図が断絶してたのが、開戦の大きな原因の一つ。
側近を持たない慶喜は、自らの意図を家臣に説いて徹底させるのが難しかった。 >>483
歴史について語ってたら馬鹿チョンのうそがばれたんだからなw>>357-360 >>364>>378 慶喜が一橋の養子じゃなく水戸藩主に就任した流れの時間軸だったら 官軍側で藩兵率いて幕府側と戦ってそう >>498
無謀な小栗の強硬策に対して、大坂城の思召を伺うべき、と冷静な対応を主張していた人物が旧幕府内にいたのだから、
それらと比べて主戦派の小栗らが愚かなのは明白
その後の結果を見ても軍を率いて上京して敗北し朝敵となってしまった 慶喜ってまるで二重スパイみたい。
将軍への推薦は後の討幕勢力の面々だったし、実際
不自然なほど楽勝できる機会を潰している。
幕府を内側から解体していったとしか思えない。
なんでそう思うかっていうと、討幕後に他の士族が困窮していく中
悠々自適な趣味三昧の余生を送ることができていたから。
慶喜は大奥にも幕臣にも嫌われていたし、将軍で居続けることに
旨味はなかった。
好きな趣味だけやって生きるニートになってダラダラ過ごして
ほとぼりが冷めたら名誉を回復されるとか、個人の人生としては
美味しすぎだと思う。 >>499
ナニひとつ自分の主張を証明できなかったマウンチョンおっさん恥ずかしすぎwwww
国家の恥め >>115>>430 >>455
鳥羽伏見で開戦する前から慶喜は新選組を信用してなかったので、厄介払いとなった >>502
慶喜は江戸幕府のゴルバチョフだったね。
改革派から期待の指導者と目されたが、改革派の目標が
ソ連打倒に突き進むと対立関係に陥った。
慶喜の立ち位置の変遷と重なる。
慶喜は母が皇族だし、新政府としても疎かに扱えなかった
のは当然で不思議はない。
そもそも、江戸中期以降から殿様は侵してはならない別格の
存在と認識されるようになっていてこれは新政府の要人も
武士出身ゆえに共有していて松平容保も処刑なんてされてないだろ? >>501
・「無謀」というのは敗戦を知っている事後の視点であって、
当時は開戦したら薩長軍の3倍の幕軍勝利は必至と思われてるので無謀ではない。
・慶喜は京への反攻のために下坂すると思わせているので、
慶喜に背いているという認識もない(だからこそ、幕府軍を上方に増援してるのだから)
・そして幕府陸海軍が上方に出動するにあたって、江戸で浪士数百名が攪乱行動をしていたら留守にできない
だから幕府陸海軍の幹部が幕閣を突き上げた
・庄内藩をお役目に引きとめつつ、反撃を禁ずるというのは不可能。
代役を指名しなくてはならないが、そんな藩は急に見つからない。 「徳川慶喜公伝」4巻・第31章「鳥羽伏見の変」248頁以下を見れば分かるが、
「和平論や優勢なりけん、とにもかくにも大坂の思召をうかがうべき」という結論に達したところ、
23日に至って庄内藩詰所に発砲がなされ、怒った庄内藩は老中に談判して
「これでもまだ膺懲しないというなら巡邏の任務は今後御免こうむる」と申し出、
これに幕軍将校が呼応する形で藩邸攻撃が決まっている。
また、稲葉家文書によれば、12月24日付の老中らの奉書で「薩摩の奸謀既にあらわれし上は、
兵威をもってこれを討滅すべし」という趣旨を江戸の老中に伝達している。さらに慶喜自身も
水戸藩主に対して「速やかに関東の草賊を討滅すべし」と書き送ったものもある。
慶喜はそんな文書は知らんと言っているのだが、少なくとも江戸ではこれらの指示を受けたと思っている。 同書巻7・259頁以下(朝比奈閑水の手記)によれば、
この庄内藩の申し出の裏には「砲撃家」が庄内藩家老の松平親懐と意気投合して、
庄内藩に強硬な申し出をさせることによって藩邸攻撃を決めさせたという裏があると言っている。
ただ、「砲撃家」が小栗のことだったかと言えばそれは分からない。
というのは、朝比奈の手記によれば「関東にある陸海軍士官のごときは尤も暴論を立て、
ついに上野介もこの輩の主論にもとづき、薩邸を襲撃するを上策として閣老に迫りし」とあり、
前述の巻4においても、やはり幕府軍幹部が主導し、小栗ら芙蓉の間の者たちが追随した議論だとしている。
老中は、駒井・朝比奈のような奉行クラスの主張を容れて閣議を決定し、
「砲撃家」に伝えたと言ってるので、おそらく彼らは幕軍の少壮幹部だろうね。 >>499
その語ってたとこというのをアンカーで示してよ
どこなのさ? >>502
長生きした上に畳の上で死んだから勝ち組という考え方もあるな。
今川氏真もその路線だろ。 旧臣ともほとんど会わなかったという逸話ある。
これで薄情と酷評されたそうだが、もしかしたら叛意ありとを疑われる
と考えていたかもしれないな。
明治はもうそんな時代じゃないと分かってるが、
そんなこと慶喜にはわからないものね。若いとは言え旧知識、旧時代の人だし。 旧臣と会わなかったのは、代理人的立場にある勝海舟や大久保一翁の勧めが大きいだろうな 思うに水戸藩に尊皇攘夷の気風が生まれてなかったらだいぶ違ってたと思う
将軍継嗣が水戸藩にないのをいじけて水戸光圀がじゃ俺は天皇を敬おうってなって
大日本史が編纂され尊皇攘夷論が高まり、倒幕が早まった
水戸に将軍継嗣の権を与えなかった家康のせいだわ 家茂が将軍の後継者に慶喜とは別の人物を指名していたくらいだから、
幕府の中でも慶喜が将軍になることについての警戒はあっただろう >>514
「御三家であっても、水戸家からは将軍は出さない」
という明確な規定はなかったはずだが。
もちろん尾張と紀伊を優先するにしても。 >>511
こんな有様でも普通に天寿を全うしたという不思議な人物はいる
足利義昭 ケレンスキー ヴィルヘルム2世 ナポレオン1世 そして同時代のジェファーソン・デイビス
かと思うと助かりそうでさっくり殺されたルイ16世にニコライ2世
人の運命は不思議である >>503
馬鹿チョンがうそつきだって証明されたぞw>>357-360 >>364>>378 >>510
気になるなら馬鹿チョンのクソレス見ながら自分で調べればあ ごく少数の信じ込んでいた西洋かぶれの方式を押し付けて
多くの犠牲を強いたのが明治維新。
今も当時の世情でも、薩長が押し付けてくる価値観はとうてい共感を得られる
ものではなかった。
黒糖地獄で奴隷にされていた奄美の島民。
突然知らない言葉で言いがかりつけられて斬られた生麦事件の被害者。
薩摩が勝手に始めた薩英戦争の戦後処理と賠償金を払わされた幕府。
存在意義と職を奪われた士族。
藩札と西郷札で詐欺られた不特定多数の人々。
廃仏毀釈で失われたモラルと地方自治力。
天皇を唐突に攫われた京都。
そもそも欧米式のやり方を拒んでいた孝明天皇の死に方がおかしい。
明治維新は薩長以外の視点だと、ものっそい国害だった。
暗殺とテロ工作と内戦への挑発行為で念願の戊辰戦争ができて
戦争好きの西郷はさぞ血が滾っただろう。しかも勝てたからウハウハ。
勝てば官軍で正義? そんな「正義」は紛い物。
新品の錦の御旗だって、その作られた経緯の小狡いことといったら!
戊辰戦争はちゃんと戦っていれば、将軍が敵前逃亡する慶喜でなければ、
楽に勝てた。
慶喜は薩長の内通者説、アリだと思う。 >>519
はいここでも自らが歴史を語ってたということ証明できないですwwwww
レーダー照射を説明できないチョンと全く一緒でウケるこの劣等底辺民族のおっさんwwwwww >>509
薩摩藩邸攻撃に慎重論を唱えた陸軍奉行並の駒井朝温は、小栗忠順の養子忠道の実父。
駒井自身も、このあと小栗日記に訪問客として登場する。
大身の旗本は付き合いがあるから、議論が対立しても妥協が成立したのだろう。 >>520
薩長の内通者でも将軍になることが出来ちゃうなら、どんな手を尽くしても徳川幕府に勝ち目は無いな やっぱり慶喜の15代将軍の就任時ではいろいろ手遅れだったかな 14代将軍の時でワンチャンみたいな しかし家定あたりの周辺を含めても水戸家から将軍なんてありえないから無理か >>491
>慶喜には会津・桑名両藩主を帰国させるよう命令が下っている。
なら
>>462の
>「上洛の先供」という形で歩兵や会津藩兵の独走を黙認し、
威嚇が成功したところで自分も乗っかろうという都合のいい戦略
というのが成立しないのでは >>525
12月下旬に京−大坂間の前線で緊張が高まったので、
朝廷が慶喜に対して会津・桑名を帰国させろと命令したけど
慶喜はスルーした。
そして、薩摩藩邸事件の報が伝わり、
幕府陸軍や会津藩兵が上洛の動きを起こしたのを強くは止めず、黙認した。
慶喜は尊王の本家水戸の出身だから、朝廷に兵を向けることにためらいがあり、
自分が引っ張っていく戦争はいやがったけど、
薩摩藩を排除したいという気持ちはあったので、秘書が勝手にやりました、
という言い訳が立つなら軍事行動それ自体は排除しようとはしていない。
(現に大坂の薩摩藩邸には攻撃を加えている) >>521
話そらそうとしても馬鹿チョンがうそつきだって証明されてるからなw>>357-360 >>364>>378
おまえが大好きなチョン海軍の話をここでしても馬鹿チョンの逆転はありえないぞ 幕府歩兵が戦法的にまずかったのは、
せっかく数的に有利なのに展開して戦わず、二列縦隊で突っ込んだことだな。
同じ幕府兵でも伝習隊は散開して戦ってる。
薩摩藩兵が街道沿いの家などに入って射撃を加える中に突撃せず
そのさらに外側に出て挟撃すれば有利に戦況が運んだはず。
それをやろうとしたのが初日の竹田街道だったのだが ほう、まだ散開するほど連射性能は高くないと思ってた。 >>527
完全チョン公だということがバレてしまったおっさん哀れwwwwwww まぁ本気で抵抗したら日本二分の借金漬け植民地化とかあり得たから結果的に良かったよ >>308
長州征伐の時に死んでしまった家茂が悪い
日頃から健康に気をつけてないから重要な時に発病する 徳川の家系は家を潰した後に妙に長生きなのがいる
慶喜77歳 忠輝92歳 光長93歳
気楽な方が長生きなのかもしれん
宇喜多秀家なんかもやたらに長生きであった >>532
幕末に将軍家を蝕んでいた病気は脚気。心臓機能が低下して心不全になりやすかった。
家康は健康志向が強く、食生活や生活習慣にも気を付けて長生きできたが、
その後は勘違いの伝統が生まれて短命化。
白米信仰はかなり根付いていて森鴎外もやらかして本当に害悪。
白米中心でおかずが少ないとビタミン不足、それで脚気になる。
当時は江戸煩い(えどわずらいと呼ばれていて原因不明の風土病扱いだった。
玄米や蕎麦を食べない高貴な身分の者ほど患った。
また大奥では水銀を使った化粧品を使っていて育児環境としては最悪だった。
乳母は哺乳瓶扱い。授乳時は乳母に目隠しして直接抱かせず
話しかけることも許さなかったこととか。
春日局のように乳母が権力を持ちすぎることを回避したくて生まれた伝統だが、
人肌と優しい声かけで伝わる母性が幼少時の育成には不可欠という現代の
小児医学常識が当時は無かった。
そのため大奥生まれ大奥育ちの将軍の子らは死亡率が高く、成人できても
脚気を患っていたり精神的に不安定だった。
御三家出身の将軍が多いのはそのせい。 慶喜は頑健だったからね
慶応年間に一度不眠気味になってアヘンを処方されたことがあるが、
それ以外は医師の世話になったことがない
幕末に活動した諸侯・藩士は激務心労で健康を害する率が極めて高いのだが 山縣有朋は長生きじゃないか。幕末の志士最終勝利者。 >>537
元老の松方正義は89歳まで生きたが、この人は志士とは言い難いからな。 >>535
家茂は大奥生まれ大奥育ちではなく紀州藩邸生まれ >>530
うそが完全にばれた馬鹿チョンは哀れだよなw>>357-360 >>364>>378 早々に、大奥生まれ大奥育ちでは次期将軍の育成は頓挫していたということだな。 >>540
自ら提示して証明できなかったチョンカスおっさんがなに言ったとこで完全敗北は揺るぎないwwwwwww
生きる価値もないなマウンチョンおじさん >>536
慶喜は文久3年に体調不良で節刀の儀を欠席している >>543
禁裏守衛総督やる前後かな?幕府と朝廷の間で疲れちゃったのかなw あれは従来、言質を取られたくなくて故意に病欠したとか言われてきたが、
実際に急性の症状が出たというのが最近の説だな 政局運営に長けた政治家と武断主義的にクーデターに踏み切った軍人
絶対的力の前に政治家は無力。 原市之進が幕臣に殺されてから慶喜は精彩を欠くようになる >>526
大坂の薩摩藩邸を攻撃出来ても京都御所を警護してる薩摩には攻撃出来てないだろ
会津がそんな攻撃を御所でやらかしたら慶喜がいくら自分とは関係無い独走だととぼけても新政府相手には通用しないからな >>542
うそつきだと証明された馬鹿チョンの完全敗北は揺るぎないww>>357-360 >>364>>378 >>549
じゃ現実に鳥羽伏見で開戦しても
深夜に前線の勝報が伝えられるまで朝廷では反薩長の空気が支配的で
島津忠義が参内すら出来なかったのはどう説明する? >>549ってしつこく絡んできてるけど何が不満なんだかさっぱりわからない
上洛の先供という名目で黙認したんだろうって憶測してる研究者は大勢いるし
もともと雪冤のために作られた「徳川慶喜公伝」を信じ込む論者なんていない。
1月5日朝の様子について慶喜に近侍していた村山鎮は
「御憤激も遊ばしたようだが格別ではなかった。まったくご存じなければ
もっとお怒りになるべきだがいまだにその訳が私には分からないです」と書いてるし、
京都黒谷の会津藩留守居は薩摩藩士に
「慶喜より指図は、鳥羽街道をもって開き、その上出京致し、いずれ薩を討ち、
元のごとく盛り返すとの旨は承りおり候」と語っている。
>>508みたいに慶喜は関東でも薩摩藩との戦いを容認したとしか思えない書状を出してるし、
それが全く慶喜のあずかり知らないところで捏造されたとは考えにくい。 慶喜は18日には挙正退奸の表を呈して、諸藩に率兵上洛を要請している。
現実にこの要請に従って率兵上洛中の藩があるし(米沢藩など)、
もちろん幕兵も続々と大坂に向かってるのだから戦意を否定するのは無理すぎる。
彼らが到着し次第戦闘始まっちゃうからね。 >>536
アヘンなんぞに頼ってるヤツを政権のトップにしたことが間違いだったな
慶喜は人間失格のクソ野郎だったから朝敵となりはてた >>550
言葉をオウム返ししかできんボキャブラリーの低さ
さすが教養のない低学歴のチョン公おっさん
生きる価値なしwwwwwwwwww 昔夢会筆記でも王政復古や鳥羽伏見戦争を扱った14回から
慶喜の希望で一問一答形式をやめてるしね
江間政発に突っ込んで聞かれるから嫌だったんだろ >>553
諸藩が来るまで待ってたら勝率上がったかもな
でも薩長はそうなる前に戦端を開きたかったってことだよな オランダからの情報でアヘンは人体に害があると知られていた >>551
雰囲気や空気がどうであろうが、
現実に鳥羽伏見開戦しても朝廷は討薩の命令を出してない
現実に鳥羽伏見開戦しても朝廷は島津忠義を朝敵にしていない
旧幕軍の要望である討薩などという愚策を朝廷が受け入れるはずないし、現実に討薩の命令は出してない >>553
軍配書でも京都を包囲するように布陣した後、総攻撃について言及があるように戦闘を考慮はしていたが
いざ鳥羽街道で薩摩軍に行軍を阻止されると「通せ」「通せない」の押し問答をしちゃうという…
王政復古のクーデターでは御所警備に布陣していた旧式装備の会津兵に洋式装備の薩摩軍が
完全戦闘態勢で威圧するように周囲から圧迫したことで止む無く御所から退去したが、
それの逆版を狙ってたのかね… >>552
朝廷が慶喜に会津桑名を帰国させる命令を出したのに>>491
その命令に背いてまで軍を率いて上京しようとしたことが身を滅ぼす結果になったということ
王政復古後に二条城から退去したりして新政府との戦闘回避をした苦労が水泡となってしまったこと
明らかに愚策である >>555
馬鹿チョンのうそ晒すだけで悲鳴あげてくれるからボキャブラリ−ひけらかす必要もないし学歴透視する必要もないんだけどなww>>357-360 >>364>>378 woodstock2017さん
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12201514832
会津プロパガンダが原因の
地域分断ですね。
まあ、会津の嘘は
近年だいぶバレてるので
あとは時間が解決するでしょう。 >>557
12月28日に松平慶永・伊達宗城らが「大芋」(久光)はこの事態を知るまいと言って
鹿児島に今の事態を急報する手紙を送っているから、
時間が経ってたら戦闘を禁ずるという旨の布達が来た可能性もある
時間が経てば旧幕側に政治的に有利、ただ戦争するなら長州藩兵が増強される前のほうが有利かもしれない >>561
鳥羽街道に向かった幕軍は発砲を禁じられ弾込めしていなかった
理由は京に内応者がおり、入京までは与党勢力を刺激したくなかったから
内応者の存在は平山図書が福地源一郎に語ったり、
あるいは鳥羽伏見の戦いの最中に土佐藩から進軍予定を問い合わせられた逸話が見えるなど
いくつかの傍証がある
慶喜は基本的に政治的解決を考えていて、軍事行動はその補助線だったと思われる
既に政治的勝利が内定して上洛命令が出ているのに幕軍の進路を妨害したら直ちに朝議で叩かれるから
相手の反撃を心配する必要はないと見て発砲禁止という非常識な命令を下してしまったのだろう
家近良樹は、この慶喜の行動と西南戦争当時の西郷の行動がよく似ていると言っている
どちらも軍事的優勢を確信し、相手の反撃はないから本格的な戦闘になるまいと見て進軍を容認した点 >>560
>>562
ID:TPy4QFos0は、議論ができる最低限の知識水準に達していないので、
出直してくるようお勧めする。無理やり混ざろうとして痛々しいよ >>529
大山柏は「後装銃」を幕軍が持っており「発射速度が10倍も速い」から
「薩兵もたじたじとなった」と記している(「戊辰戦争史」)
鳥羽街道の幕兵が伝習隊と見られるが、
「伝習兵、構内へ臥しながら彼を撃ちしらまし」(「旧幕府」)とあり伏せ撃ちしてるし、
薩摩藩兵が「良器」を持っているとか、発射速度が速い、銃撃が激しいとか、
あるいは「詰め替え詰め替え」などの表現も見られるので、散開連射してた可能性は結構ある
ただ、「散開」は初日2日目は愚直な密集隊形での突撃が多くさほど目立ってない
大山柏はこれはもったいないと言っている
(この後になるが、関東や北越での戦いでは畑などに散開して「連射」してる) >>563
マウンチョンクソおじさん必死wwwwwww 従来は旧幕側で農兵を活用したのは庄内藩だけと言われてたけど
(藩兵4500の半数が農兵)、秋田戦線では秋田藩・盛岡藩も農兵が大きな戦力
会津藩も総兵力7000のうち半数近くが農商工兵
特に猟師部隊が強力で日光戦線で活躍したし
田島の農兵はゲリラ戦術で官軍を悩ませた
奥州街道以外の方面ではかなり頑張っている
水戸藩の農兵は長州藩より20年先行していて内戦でも大きな戦力になり
天狗党の乱など攘夷浪士の反乱に触発されて東国でも農兵の組織が始まっていた
農兵を活用したのが長州藩だけみたいなのは大きな間違い >>12におおむね賛成なんだけど(新政府は金欠なので豪商や諸藩の献金がないと存続不可能)、
大坂城の放棄が最大の敗因なんだろうな
もちろんその後でも慶喜が急に人格が変わって抗戦態勢を作れば
奥羽戦争よりはるかに戦えただろうが、
大坂という有利な拠点を捨てる人が江戸に戻って一転して抗戦するとは考えにくい
王政復古政変で真っ先に大坂を抑えるという判断力はあるのにもったいない人だは >>42
>小栗逸話も嘘くさいけどね
>箱根で待ち伏せ→勝海舟にも同じ様な逸話がある
べつに嘘くさくはない
作戦の出所は幕府陸軍で兵書翻訳などしてる連中だろうから
おそらく小栗忠順も勝海舟も似たような作戦を聞かされてそれを言上してるだけ
この逸話で大村は小栗「豊後守」と呼んでいる。
小栗が上野介に任官するのは文久3年後半(陸軍奉行並辞任後)なので、
大村の江戸在府時は豊後守が官名。わざわざこの官名で呼んでる所から見ると全くの創作とは思われない
(ただし作戦の内容は、江戸城放棄が含まれているため、相当脚色が混ざっていると思われる) >>571
慶喜が急に人格が変わったのはアヘンの症状だから >>571
俺が慶喜なら、百数十年後の人間にゲームレベルの点だけの情報で
良し悪し言われたくないw 江戸城に籠城したとして。
アームストロング砲を使えば1ヶ月くらいで落城したような気もするが
城内に皇女さまや実家が島津さんがいるなら大砲はちょっと使えないのではないかな? >>575
女を弾よけの盾にすることが恥じだという意識なんて、敗北者の慶喜には無かっただろうしね >>576
楠木正成の千早城の頃なら包囲してたほうが食料が先に尽きることもあるだろうけどな。 >>463
>公家たちが停戦令を求めて騒ぎ出した
のに停戦令は発令されず旧幕軍は敗戦し朝敵にされたんだから、
旧幕府軍が勝てる方策とはなりえない >>571
大坂城は王政復古前からずっと幕府が抑えてたはずなんだが >>567
最低限の知識水準があるなら、慶喜が率いる旧幕軍会桑軍が薩長がいる新政府軍相手に敗北した史実を否定するのは無理という結果になってしまう
勝敗が確定してしまっている史実を変造しようとするのは知識ではなく妄想力なんだよ >>569
もっとボキャブラリ−増やさないと、うそつき馬鹿チョンの話題そらしにならないぞww>>357-360 >>364>>378 >>583
そんなに顔真っ赤で悔しがるくらいなら最初から知識もないのにマウントとりにくんなよコジキがwwww >>581
薩長両藩兵が上洛してるので、大坂にある程度兵力を集めないとならない
また大坂に拠点を確立すれば海軍との連絡が容易になる。
慶喜が王政復古政変の後すぐ下坂したのは卓見とされる。
詳しくは専門書をどうぞ。常識レベルの話です。 >>580
>>582
武装上洛≠幕軍に対する追討令 なのは1月3日の朝議が証明している。
開戦の報が伝わると議定諸侯が連袂して辞職を申し出、
朝廷でも反薩長派が優勢なので島津忠義は参内できなかった。
幕軍に対する追討令が出たのは、「初日の戦闘で幕軍が敗北したから」であり、
「上洛を始めたから」ではない。
そもそも論として、慶喜の軽装での上洛を朝廷は認めており、
「軽装」の解釈に争いはあるものの上洛行動それ自体は違勅にならない。
逆に「慶喜の上洛を妨害すること」こそが違勅なので、幕軍は反撃を想定していない。
かりに初日の戦闘で幕軍が勝った場合、慶喜は薩摩藩による上洛行動の妨害を訴え出て、
島津忠義はおそらく議定辞任を申し出ることになっていただろうね。
分かりますか?すっごい易しく解説したので小学生でも分かると思う。 580、581、582あたり、言うことがないならスレから出ていけ。
知識がゼロのくせに一丁前の口聞いてうざいんだよ。 >>585
大坂は徳川幕府の直轄領になってからずっと徳川幕府の拠点だったし
大坂城を「真っ先」に拠城にしたのは慶喜じゃない >>571
そんな当たり前の事実を否定する常識はずれな専門書とやらを鵜呑みにするよりも、小学生か中学生レベルの教科書でも読んで人生やり直したほうがいいですよ >>1
皇族を征夷大将軍にしとけば尊皇派を抑えることが出来た 皇族将軍なら倒幕運動をやりにくいってのはあるよなあ。 >>592
そんなことはないでしょ。幕府権力が真っ先に考えるのは皇統による権威強化
しかし鎌倉幕府の守邦親王や輪王寺宮・静寛院宮の例を引くまでもなく
あまり役に立たない。結局天皇の権威のほうが強いので
むしろ慶喜のように母親が宮家出身だと準皇族意識が強くなり路線が宥和的になる >>588
9月の薩長芸出兵協定では3藩の兵合計2000弱が軍艦で大坂に着陸し
在京の兵2000(薩摩1500、芸州500)と合わせて大坂を攻略する予定になっていた。
合計4000。
これに対して在京の旧幕兵力は会津藩兵3000+新撰組・見廻組などの諸藩兵。
つまり薩長芸3藩は2000程度の兵で幕軍に妨害されずに上陸し、京の兵力と合流できると踏んでいる。
10月以降、旧幕兵は続々と上洛するが、上陸拠点になり得る大坂を完全に封じれば
京への兵員・物資補給を断てる。
慶喜の下坂で大坂の兵力は幕府歩兵6000、会津藩兵以下3000、奥詰銃隊(後備)5000
合計1万5000まで膨れ上がった。しかも海軍が摂海を遊弋しているから大坂への直接上陸は不可能に
戊辰戦争の薩摩藩の最大動員兵力が7000弱であることを考えると、桁違いの兵力的優位で
もはや薩摩藩兵が大坂を経由して京の兵力と合流するという事態は考えにくくなった
新政府(官軍)が大坂を抑えたことが戊辰戦争の最大の勝因になったのと同様、
慶喜が大坂を大軍で掌握したことは、京から撤兵して不測の衝突を回避しつつ、
京への威嚇を強め、さらに日和見諸藩への政治的効果も期待できるという一石何鳥もの効果がある
パニック状況でもこれだけ計算ができるのはさすが慶喜と言わざるを得ない。
「大坂を抑えた」の意味を解説するのにこれだけ苦労させるお前とはえらい違いだな… >>584
馬鹿チョンは無知で馬鹿だからうそがすぐばれて簡単にマウントとられちゃうんだよな ww>>357-360 >>364>>378 >>594
頭おかしくなったの?
その10月というのが、1867年以前なら王政復古より前になるし1868年以後なら慶喜が江戸で降参した後だぞ
王政復古より前なら続々と上洛したのが「旧幕兵」とは言わないし1868年より後の10月ってことでいいのかな
>>571でも王政復古政変でって書いてることだし >>595
なんの知識もないくせにマウントとりにきた低学歴のチョンカスおっさんがいぢり弄ばれいいおもちゃにされてもう惨めで哀れwwwww >>570
官軍を悩ませたとか、かなり頑張っているとか、
結果を出せずに負けた無能にありがちな弁明でしか無いよな
こんな連中が官軍に勝てるはずない >>596
薩長芸三藩出兵が慶応三年か明治元年かも分からない馬鹿かよ
負けて悔しがってる暇があったら日本史の教科書読み直せ >>595
馬鹿のくせにマウントとりにいったお前がすべての敗因
頭悪いんだから黙ってりゃいいものをもう引っ込みつかなくなってやればやるほどお前の頭の悪るさ晒してるだけだわ
しょーもな >>598
日光口では猟師隊(藤原鉄砲隊、栗山鉄砲隊)が活躍して
佐賀藩兵を主体とする官軍数百名が隘路で狙撃を受けて壊滅している
この方面を受け持っていたのが大鳥圭介と山川大蔵で、
その後方の基地にあたっていたのが田島
奥会津の南郷では郷兵隊数百が結成されていたが、越後口の官軍に対して
さらに多数の農民が参加し(合計で千数百名になったもよう)、
山岳戦で相手を奇襲して破ったうえ叶津の本陣まで攻め込んでいる
隣村の田島でも農兵隊がゲリラ戦で官軍と戦っている。
山川の会津若松城撤兵に伴い官軍が占領、強引な徴発を行ったため
名主たちが猟師を軸とする農兵部隊を作り、官軍の兵站を襲撃した
栗生沢農兵隊は峠に薩長兵を誘い込み殲滅する戦果を挙げている
奥会津・日光は大鳥ら指揮官の方針で民兵を積極的に戦列に加えたこと、
代々独立意識が高かったことからこうした抗戦ができたのだろう
会津藩全体で越後口などに動員された農商兵の士気は高いけどね そいつどうせアンチ会津だろ >>594
レス乞食だからスルー推奨 >>600
慶応三年10月に「旧幕兵」は大坂に続々と上陸できないし
明治元年10月に「旧幕兵」は大坂に続々と上陸してないよな?
10月に「旧幕兵」が上陸したって記述されてる教科書があるなら読んでみたいけど >>604
そうかそうか、じゃ「旧幕」を「幕」に直したらお前の言い分は全部終了か。
なら脳内で勝手に直しとけ
そして出てけ >>605
間違えてることを気づかせてやったのに何でご機嫌斜めなんだ?
普通なら感謝するはずだろ アンチ会津>>604ってほんとにバカなやつだよな
一切勉強しないで知識上位者にマウント取りに来るところがすげえよ
・大坂はもともと幕府が持ってる!>>588
→薩長芸協定で薩摩藩兵の奪取目標だから陸海軍を駐屯させて防備する必要があった
・慶応三年十月に「旧幕軍」は存在しない!>>596 >>604
→幕府制を廃止したのは王政復古政変だが、大政奉還から王政復古までを
「旧幕軍」「旧幕勢力」と表記してはいけないルールなんて特にない
当たり前の話で、大政奉還後の11月ごろ政情不安を聞いて追加上洛して、
着坂した時は既に王政復古の大号令が出ていた部隊・藩兵が大勢あるけど
当該部隊が「幕」兵なのか「旧幕」兵なのかなんていちいち考えるだけバカバカしい >>606
じゃお前に聞くけど、
王政復古政変前の12月に江戸を出帆して、着坂したときは12月中旬になってた
という部隊や艦船があるけど
それは「幕府」海軍なの?それとも「旧幕府」海軍なの?
自分で言ってて馬鹿だと思わない? >>606
なら何で薩長芸三藩出兵協定という超初歩的知識を知らないお前に
わざわざ教えてやったのに感謝しないんだよ
ほれ感謝しろ犬 もともと「大坂はもともと直轄地だから、
大坂を抑えたのが慧眼のように言うのはおかしい」
とか言うバカ丸出しの無知をただす所から始まったのに
なんで幕兵なのか旧幕兵なのかとか言うわけわかんない所で反撃してるのか
つうか大坂の件をはじめ突っかかったところが
ぐうの音も出ないくらいやり込められて引くに引けないんだろうけどさ >>607
・大坂はもともと幕府が持ってる
なら
王政復古政変で「真っ先」に大坂を抑えたのは慶喜じゃない >>571
王政復古前の9月10月に薩摩藩兵は大坂城を拠城にしていない>>594
581でずっと指摘したことだろ
581 名無しさん@お腹いっぱい。 2019/01/12(土) 21:10:42.52 ID:rsuLkLDx0
>>571
大坂城は王政復古前からずっと幕府が抑えてたはずなんだが >>597
馬鹿チョンは知識ないからうそついて簡単にマウントとられちゃうんだよな ww>>357-360 >>364>>378 >>608
王政復古の後なら幕府海軍じゃないだろ
慶喜も王政復古後の新政府を否定してないし >>608
いま手元の粕谷正明の文章で
「上方の政情不安を聞いて続々上洛した旧幕府陸海軍は、
小御所会議の結果と慶喜の大坂退去の報を聞いて憤激し早期の再上洛を求めた」
というのがあるんだけど、こういう用例をどう思う?
当然ながら「上洛」した時期は王政復古の前だぞ。 ×>>608
○>>613
というか、お前が突っ込めるのってもうそれだけかよ
小栗とか朝廷とか大坂駐屯の意味とか全部ボロ負けして黙り込んじゃって
ギャアギャア騒いでるのが「幕」か「旧幕」だけって笑ってしまう
それも反論されちゃったけどな >>601
馬鹿チョンは頭悪いのにうそつくからマウントとられちゃうんだよな ww>>357-360 >>364>>378 >>611
うんうん。だからもともとの論点は
「大坂はもともと幕府領だから『抑える』意味がない」というお前の主張じゃん
で、それは上に詳しく記したような軍事バランス論で完璧に論破された
そしたらお前の反論が
「慶応3年10月に旧幕兵は存在しない」になったわけ
(べつにそう表記したって構わないのは上述の通り)
それ大坂退去の意味とか戊辰戦争とか、要するにこのスレと何か関係ある?
要するにお前が言い返せなくなっただけじゃん。 >>609
それについて知らないなんて書いてないけどまた頭おかしくなったの? >>619
じゃ何で薩長芸協定で大坂が奪取目標になっており、
しかも4000の兵がそこに向かうことになってたのを知らなかったの? >>615
他にも突っ込んでるだろ
>>607
・大坂はもともと幕府が持ってる
なら
王政復古政変で「真っ先」に大坂を抑えたのは慶喜じゃない >>571
王政復古前の9月10月に薩摩藩兵は大坂城を拠城にしていない>>594
581でずっと指摘したことだろ
581 名無しさん@お腹いっぱい。 2019/01/12(土) 21:10:42.52 ID:rsuLkLDx0
>>571
大坂城は王政復古前からずっと幕府が抑えてたはずなんだが ID:yV0NpTN/0つまりアンチ会津なんだが
こいつほんとに勉強しねえな。
お前幕末史の各スレに出没して一丁前なこと抜かしてるけど
全然知識ないのに何で単発IDでスレ荒らしてんだよ >>621
それ、もうとっくに反論されたよな。
>>594で。 >>620
9月に薩長芸が大坂を奪取する計画を立てたなら大坂は薩長芸の拠点じゃなかったってことだろが
薩長芸は誰から大坂城を奪取しようとしたのか
薩長芸がいつ大坂城を拠城にしたか言ってみなよ >>624
>>594が解説してるのは
「大坂は現有兵力では着坂軍と合流を図る薩長芸の兵に奪取の危険があったところ
慶喜の大軍を率いての下坂によりそれが不可能になり、かつ京への物流も封鎖しうる状態になった」
ってことだろ。
日本語読めないのかよ馬鹿。
でな、お前文句があったら家近良樹でも保谷徹でも適当に買って読んでみろ。
慶喜が大坂を抑えたのは英断と一様に評価されている。
もともと幕府が持ってたんだから慶喜が大軍を率いて下坂した意味はない、
などと言ってるのはお前くらいだわ。 役に立つレスが多くあるけど、
その間に下らないレスが単発IDで連投してるから
読みづらくてかなわん
せめてNGしやすいようにID固定してもらいたい >>612
言われたことまんまオウム返ししかもはやできない馬鹿丸出しの支那チョンコジキが今日もなんの役にも立ってない無駄に高いプライド保つため必死になってますwwwwwww >>627
理路整然とした完成度の高い書き込みのあとには
荒らしが連投するという法則。 >>589
徳川綱吉の前に皇族を将軍に据えようという動きがあったのにな >>629
御三家があるのに、なぜああいう動きがあったんだ? その御三家の中から反対の声が出たので皇族の将軍就任が立ち消えとなった 鎌倉北条氏は皇族将軍を擁してたのに追討対象になったし
綱吉の代わりに宮将軍据えてもあんまり関係ない気がする
大老○○を追討せよという勅が出て終わり >>627
オウム返しっていうかブーメランだろ
うそつきってほざいてた馬鹿チョンがうそつきだったんだぞww>>357-360 >>364>>378 >>633
馬鹿がマウントとりにきたから弄ばれてただけなのに嘘だなんだと思考停止して固執してるあたりマジ支那チョン公wwwwwwww >>630
宮将軍擁立っていま否定説が強いでしょ。
かりに宮将軍擁立が検討課題に上がったとしても
せいぜい家綱の側室が子を産むのを待つための
牽制の札みたいなもので真剣な提案ではないと思う。
純粋に綱吉と綱豊を比べて血統の近さの順を主張する御三家に対して
綱豊支持派が色んなこと言った程度でしょ。
綱吉だって酒井忠清が徳松の西の丸入りに反対したように
中継ぎ的な性格が指摘されてるけどね(松平直矩「大和守日記」) >>633
もういい加減スレ違いだから空気読めなチンカス やっぱ戦争はトップ次第だよ
関ケ原も秀頼を擁した西軍が有利だったけど
歴戦の雄である家康が勝つとみて支持されて勝った 関東から駆け付けた大目付の滝川具挙が陸軍の実務を握ってたら違ったかもしれない
陸軍奉行の竹中重固は五千石取り、総督の大河内正質は大名
正確な禄高は分からないけど小栗・滝川・浅野ら幕府の実力派吏僚はもう少し家禄が低い
小栗も外国奉行や勘定奉行は歴任したが、陸軍・海軍では奉行並どまりだった
大体このクラスが元治元年からの軍制改革を推進した感じ >>634
ブーメランでうそばれた馬鹿チョンが弄ばれてるんだぞw ww>>357-360 >>364>>378 >>637
もともと大政奉還の話してたんだからスレ違いじゃないぞ馬鹿チョン>>325 ID:mn0OlXW70のマウンチョン支那ゴミが泥沼の惨めな醜態自ら晒しガイジ丸出しで超絶草wwwwwwwwwwwwwwwww 皇族が将軍になってから鎌倉幕府はモンゴルに2連勝
幕府を廃してから明治政府は大清帝国に2連勝 >>642
ひとつもお前が大政奉還の話などしてないのにいつまでここに居座ってスレ荒らすつもりだ?
スレ住民全員にケンカでも売るつもりかチンカス
他でスレでも立ててそっちでやれカス この単発IDの上げ荒らしは何なんだ
叩きのめされたやつが腹いせに暴れてるのか >>1
旧幕府が錦の御旗を掲げれば戊辰戦争に勝っていた 伊賀者を使って御所から天皇を攫って江戸にお連れする
で転戦に次ぐ転戦で最期はのごとく箱館で徳川一門が水死するというのはどうだろう この時代はもう将軍職を徳川家で独占する必要が無くなったので
大政奉還も王政復古もあっさり決定されたのだろう まだ星のようなUFOを見てないのか? 世界教師マYトレーヤが現れるぞ! >>127
逆に岩倉を佐幕派の仲間に加えて知恵袋にしておけば、旧幕府が錦の御旗を用意できた >>646
ケンカ売ってるんじゃなくてイジメてんのw
うそついたのは馬鹿チョンだからおまえが発狂してもどうにもならんぞww>>357-360 >>364>>378 >647
アンチ会津という基地外
幕府や会津藩に詳しい奴に突っかかって
ボコられるとコピペ連投してスレを荒らす
日本史板じゃ有名人 >>338が史料「提示」って変換してるから、
まずこいつはアンチ会津で確定
>>332も「提示」って言ってるからアンチ会津
ということは>>327もアンチ会津で、
要するに>>325が「文久年間から大政奉還論があった」と言ってるのに
アンチ会津が史料出せとか因縁つけてこんな喧嘩になってんのか。
バカだな…
文久の頃から大久保一翁や松平慶永が大政奉還を持論にしてたことも知らんのかね
あらためて真正の阿呆としか言いようがない 将軍家の健康管理に失敗したのが倒幕の根本なんじゃないかな。
大奥が水銀でできた化粧品の毒に汚染されていなければ、
将軍の子の育成に母性愛をシャットアウトしていなければ
偏った食生活が原因の脚気で短命化していなければ、
代々の将軍は心身ともに健康で長生きできたはず。
水戸徳川家出身の慶喜が将軍に就くこともなく、黒船がこようが討幕派に
つけいれられる隙はできなかった。戊辰戦争も起こらなかっただろうね。 >>1
戊辰戦争で勝つには戊辰戦争で勝った側を見習えばいいだけ >>1
「どうすれば旧幕府軍が勝てたか」と言われると、
どうしても鳥羽伏見の戦いだけに絞られてしまうね。
鳥羽伏見戦は戦い方次第で幕府軍が勝利してたのはほぼ全員認めてるし、
逆に、大坂に大軍を置いたまま逃げた時点で自力はちょっと厳しい。
「戦いを長引かせて調停を期待できたか」なら、
慶喜が江戸に帰ってから、または奥羽戦争の段階でも成り立つ問いではあるけど。 鳥羽伏見で勝ったとしても、天皇抱えて逃げた西日本対東日本の泥沼の内戦という碌でもない未来しかなくない?
長州征伐の結果を鑑みるに武力で叩き潰すのは無理そうだし >>662
鳥羽伏見の戦いに絞る
つまり京都市中の戦いに絞れば実戦は行わずに京の物流を止めてそのまま大軍で包囲して放置して乾上がるのを待てばおけば良かった
そもそも慶喜はそのつもりだったんじゃないの?
幕臣が薩摩討伐にこだわって渋々許可したらしいが そもそも御所内ですでに西郷大久保は孤立化して敗北寸前だったんだろ?
そのまま放置で良かったのに決戦するというチャンスを慶喜は西郷と大久保に与えてしまったんだな
そりゃあの格差なら負けるはずはないと思っても致し方ない
しかしそれを奇跡的にひっくり返したから歴史が動いた
これは世界中の歴史でよくあることかもしれない
そしてそのれを後々検証すると奇跡にもちゃんと裏付けや理由があることが判明する >>654
イジメられて弄りたおされてんのお前だバーカwwwww
このマウント支那チョン誰も支持するやついないとおもってたら馬鹿会津が援護してるやんwwwwww
支那チョン公会津クソワロスwwwwwwwwww >>663
1月3日の夜には停戦令を求めて反薩長派の公卿が動いていたし、
熊本藩ら御所警備にあたってた藩がそんなの許すはずもないから
天皇の担ぎ出しそのものが無理だろう。
徳川方が勝ってたら慶喜が議定に就任、
停戦を命じられて旧幕軍と薩摩藩兵は京外に退去、
島津忠義が藩兵暴走の責めを負って議定辞任、
国元の島津久光が松平慶永からの急報(12月28日発)を受けて激怒
主戦派の藩士を処罰して終わりだろう。
薩摩討伐まではしないだろうが、政治的発言権はおそらく失う。 >>665
鳥羽伏見に関しては徳川方の要因のほうが圧倒的に大きいと思う。
昔は薩長軍の勝利が必然のように言われてたけど、
装備と言い兵力と言い政治情勢と言い、真面目にやってれば負ける要素がない。
(既に慶喜は議定就任が内定し、朝廷から軽装での上洛を命じられてるので、
それを妨害することは違勅となる。西南戦争の西郷と異なり上洛の大義名分もある)
だからこそ「入京までは発砲を禁じ、入京後に友藩と連携して薩摩藩を討つ」
という相手の反撃をまるで考えない戦略が成り立ったのだろう。
松浦玲もそんなこと言ってるね。余裕がありすぎたから和平と戦争の二兎を追っちゃったと >>664
干上がるもなにも、すでに納地は白紙にするから上洛して頂戴と折れてるんだから
慶喜としては待つ必要ないでしょ。尾越両候が周旋してるんだから無にするのも悪いし。
そこに薩摩藩邸焼き討ち事件が重なっただけ。 >>660
旧幕府軍が薩長土の勝ち方をそのまま見習うのは無理だけど、
旧幕府軍が薩長土の側についてたなら戊辰戦争に勝つことは出来た >>667
鳥羽伏見前夜の京大阪の情勢は
今でも徳川に付いて行く、徳川真理教のような人らは大阪城に集まり
京在住の人らは薩長のような徳川と戦う事を決意した人らから
以前のように徳川に従う考えはないが、薩長のように戦うまでは決意できない
そんな微妙な立場の人らが多かったと思う
例えば土佐藩は、板垣退助のようなコテコテの倒幕派から、朝廷と徳川の板挟みのような存在である容堂派
意見が分裂しており、他の諸藩も似たようなもんだったと思う
江戸で暴れた浪士は元々は板垣が、江戸土佐藩邸で匿ってた人らで
大政奉還なければ江戸は、土佐藩邸を中心に蜂起していたかもしれない
秀吉の親戚だった小出氏の園部藩に、天皇を連れる予定で強引に連れ出していたいただろう
熊本藩は薩長と戦ってまで徳川のため働いただろうか?
松平春嶽は大阪城へ使者として出向いた時に、会桑ら徳川の人らは
春嶽を裏切り者と罵倒し、殺されるんじゃないかと逃げるように京に逃げた
春嶽も自分の居場所はここにないと悟ったであろう
薩長としては最初にガツンと徳川を叩く事は、周りの微妙な人らへの心理的波及効果があり
それで懸命に戦い勝利した、そして朝廷内の空気が変わり翌日正式に徳川を朝敵とした
これで天皇を園部藩に移し、徳川を京に入れ長州本軍や板垣軍を待ち楠木正成作戦で逆転
こう考えたはずだが、そこからさらに連勝し、ついには徳川軍を撤退させたのは
意外過ぎる早過ぎる勝利だったろう >>670
戊辰戦争で負けた賊軍を反面教師にすればいい 京南部にあり京都競馬場近くにある淀城
現在は半壊状態の城跡で、これなら元気の良いオッサン20人でも攻め落とせそうな城跡だが
当時この辺りは日本最大の池である巨椋池があったり、地形がかなり変わっており
淀城は2重の堀があったり防御厳しい城だったもよう
淀城に旧幕府軍が防戦したら、これ攻め落とすの無理じゃないの?
戦が長引いたはずで、旧幕府軍がここから逆転する可能性は大いにあったと思う
また淀城を薩長が奪って事で、旧幕府の京進出は不可能になったと言える
最終日の男山橋本の戦いは、旧幕府が淀城へ攻める展開でなく
淀城中心とした薩長が、男山橋本へ攻めかかる展開
津は例え裏切らんでも勝敗は決してたと思うが >>669
そりゃ慶喜の立場では待つ必要はないよ
そうじゃなくて西郷大久保は慶喜の政権入りを絶対に許さない覚悟だったから薩摩とは戦わないほうが結果的に良かったのにという意味で言ってる >>668
そうだと思う
だからこそ実戦せずにそのまま西郷大久保が御所内で敗北するまで放置しといたほうが良かったのにと思う >>666
馬鹿チョンのうそがばれたからそれを見計らって会津信者が便乗してるんだろww>>357-360 >>364>>378
会津信者を喜ばせてるうそつきが馬鹿チョンなんだからな >>671
薩長両藩以外はおおかた反薩摩だよ。
この時期になると、曲がりなりにも大政奉還を行った慶喜より
「両三藩」問題などで政権独占志向が強かった薩摩藩に対する警戒心のほうが広まってる。
土佐藩も板垣退助の戦線参加から勤王色があるみたいに思われがちだが、
平山図書が福地源一郎に語った内容や、土佐藩隊長らの行動を見てると旧幕寄りの色が強いと言わざるを得ない。
薩摩藩が負け色になっても支持する藩なんておそらくいないわ。
当時、議定の諸侯が全員抗議辞職したので明らか。 >>674
何で?
慶喜が上洛を延引してるうちに政治情勢変わったら元も子もないじゃん。
慶喜的には、上洛が命じられて請書出した時点で早く上洛したいんだよ。
あなたのは幕軍が結果的に負けたと知ってる後世からの見方。 >>679
何でってそのままわざわざ交戦せずに待ってれば勝てるから
このとき慶喜自身は戦はやりたがってないの知ってるよね? >>673
淀を失った時点で幕軍が京に攻め上がるのが難しくなったというのは同意。
ただ、幕陸海軍が大坂を抑えてる限りは短期に敗北に追い込まれることはないので
淀の失陥が幕軍敗北に直結するというわけではない。
(西郷吉之助も大坂進撃はまだずっと先のことと考えていた)
諸藩兵は上洛中だし、幕軍はこの時も増援を上洛させることを検討してるから、
決め手を欠く状態で京方と大坂方が並立して調停を待つ感じになるだろう。
1年前の暮れに保谷徹らが議論してたけど、やっぱり同じ感じだったね。 >>680
いや、慶喜は請書を出してるんだから、上洛しないわけにいかないでしょ。
なぜ大坂で待つの???
大坂にいたら議定につけないし、朝議にも出れないでしょうが。
遅かれ早かれ上洛するんだよ慶喜は。 >>680は大きな勘違いをしてるようだけど、
慶喜が京の封鎖を続けてたら、誰かがクーデタを起こしてくれて
薩摩藩強硬派が失脚するというわけじゃないよ。
曲がりなりにも島津忠義は議定に付いてるのだから。
ただ、慶喜の議定就任・新政府参加が実現した場合、
彼の排除にこだわってきた西郷・大久保は政治的失権が免れないというだけで、
慶喜が上洛して議定に就かない限り不利な立場は変わらない。
問題は慶喜が徹底して武力衝突を回避すべく文字通り「軽装」で上洛するのか、
それともしかるべき護衛を連れて上洛し、
阻まれたら一戦交えても押し通る覚悟で行くのかという選択にある。
ただ「軽装」と言ったってふさわしい供回りは連れてかないといけないから、
それすらも薩藩兵に妨害されたら平和的上洛なんてできないよ。 >>602
山川も大鳥も官軍に捕われた敗北者だろ
戊辰戦争の勝者にはなってないよな >>683
2日には幕府海軍が薩摩藩海軍と抗戦してるから、
実際問題止めようがなかったと思う。
ただねえ、肝心の慶喜自身もその前から
>>508>>552みたいな感じなんだよね
薩摩藩だけはぶっ叩きたかったんじゃないの >>684
戊辰戦争の帰趨と関係ないけど、
会津領に入った大鳥山川の部隊は白河と二分され
残りは半ば遊兵化してもったいなかった。
関東再進出もにらんで日光に置いたんだろうけど
大鳥を白河方面に回してたらもっと有効活用できた
小池周吾の純義隊だけは白河に行ったんだよな >>686
戊辰戦争はどうすれば旧幕府軍が勝てたか?
と質問してるスレタイなのに、
戊辰戦争で勝てなかった連中の記録をレスしてるのってアホなのかなあと思うよ >>682
>>683
勘違いしてる?
待てば良かったのにとは開戦することを待てば良かったという意味で言ってる
具体的に言うと薩摩討伐の表の話 >>594
>パニック状況でもこれだけ計算ができるのはさすが慶喜と言わざるを得ない。
でも錦旗にビビッて大阪城を捨ててトンズラしちゃったんだから
お前の褒め言葉なんて負け犬の慶喜には何の慰めにもならんわ >>688
小御所会議後の会津桑名らが激化で、慶喜は彼らを連れて二条城から大阪城へ移った
この行動はプラスとマイナスがあった
マイナスは天皇を手放した事、戦国時代などはあまり効果なかった朝敵カードだが
この時代は幾万もの兵を味方に付けるほど大きなカード
プラスは大阪を完全に抑える事で、京にいる薩長が本土と孤立してしまった
薩長本土と京を結びには、瀬戸内海から大阪そして淀川経由で京へ
この状態が長引けば京の薩長軍は日干し状態に
京を一旦明け渡し再び攻める、楠木正成作戦を慶喜は取ったとも言える
自分から攻めると朝敵カードがいつやられるかもしれない
だからこのままの状態を長く続ける事こそが最良の作戦
しかし会津桑名らの暴走で潰えてしまった
慶喜の心中は複雑であったと思う、部下の暴走でこれを止める力さえない自分
下手すれば殺されるんじゃないか?また今なら勝てるという考えもあったろう
なので当時の慶喜の心境は色んな意見に分かれてしまう
結論として貴方の言うように「待てば良かった」と自分も思う
しかしそれが出来なかったんよね、最大の理由が部下の暴走 待てば待つほど有利になる
賤ヶ岳の柴田勝家など、そういう戦は幾度もあったと思う
柴田には味方の滝川や信孝を個別に攻撃されたら、という多少の不安要素はあったけど
鳥羽伏見の旧幕府側ほど、待てば待つほど有利な戦いはないだろう
長州本土での戦いであったアウェイでの戦いに負けたが、今度はホームでの戦い
自分の城や領土を持った土地で、命令できる譜代親藩が周りにたくさんある地域
ベトナム戦争に負けたアメリカが、今度はハワイでベトナムと再戦
こんな図式の戦いに近い
当時の徳川と薩長の力の差以上に、戦う場所の有利さが大いにあったはずの戦いであったと思う
しかしここでも負けてしまい、徳川どんだけ弱いの???
呆れるほど弱い徳川が、いかに張子の虎であったと全国民が認識した戦いであったと思う >>690
慶喜は勝手にしろと言って許可したんだよね?
それを慶喜自身が後悔してるので慶喜本人もしまったと認めてる >>688
いや勘違いしてない。
慶喜は請書を出してるから上洛せざるを得ないわけ。
そして慶喜が上洛するときに「軽装」にて上洛することは認められてるわけ。
だけど「軽装」と言っても前将軍だから、全くの丸腰なんてあり得ないわけ。
当然、護衛の兵を相当数連れて行くことになるわけ。
ところが、薩摩藩兵は上洛を阻止したいわけ。
とくに大久保一蔵はこの頃対幕開戦を念頭に置いてたとみられるから。
開戦することを待てばというけど、
慶喜さえ我慢すれば開戦が回避できるという性格のものではないわけ。
そこが難しい。
しかも慶喜自身が、大坂の薩摩藩邸攻撃や摂海での薩摩藩海軍との交戦は容認してるように、
あるいは前述のように関東での薩賊討伐を示唆したとみられるから、
薩摩藩に対する武力行使そのものを必ずしも忌避してるわけではない。
確かに、戦争は人が起こすものだけれど、残念ながらそれを阻止するには相当強い決意がいる
それこそ江戸で恭順した時のように。だけどこの時の慶喜にそこまでの覚悟は到底ない。 >>565
時間稼ぎできなかった旧幕府がマヌケだったんだな この時代、海外の欧米列強の動向を気にしない指導者はいませんよ。
それほど海外の驚異が差し迫った時代背景だったのです。
慶喜はいくら改革したところで旧態依然の官僚体質の幕府では
欧米列強に対抗できないと見抜いていたから本気で
全面戦争する気はなかったのでしょう。 >>690
前半はいいけど、
後半の「慶喜は恭順意図があったが家臣が暴走した」というのは単純すぎる図式。
もっと言えば、徳川慶喜公伝の公式見解の鵜呑み。
理由は>>508以降で記した通り。慶喜に少なくとも討薩の意図があったのは明らか。
・京都退去時に尾越両候が斡旋した「会桑両藩主帰国」を行わなかった。
・下坂後に挙正退奸表をだし、合わせて諸藩兵に上洛を呼びかけていること。>>553
この諸藩兵および幕兵が上洛し次第、軍事的アクションが始まらざるを得ない。
・慶喜が大坂退去の時、その意図を説明していないため、幕臣は大坂で準備を整え、
京に反攻するものと考えている(「上様より奏聞有之、薩州と戦争なさられ候思召し」杉田家文書)
・12月16日に永井尚志が討薩の決定を伝達するため入京していること。
・慶喜は江戸に対しても「薩賊」を討伐するよう命じたとみられること >>508
・大坂の薩摩藩邸攻撃、および大阪湾の幕府海軍の行動に対してとくだん掣肘を加えていないこと
・3日に列国公使に対して、薩摩藩と交戦状態に至ったことを通告していること
・3日の上洛行動の後に薩摩藩兵との交戦をも黙認していたとみられること >>552
などから、慶喜は薩摩藩に対しては戦闘を仕掛ける意図があったと言わざるを得ない。
京の朝廷に対しては畏れ多いから銃を向けたくないが、薩摩藩に対しては一戦を辞さず、
というのは慶喜に限らず、板倉勝静、小笠原長行、永井尚志ら、
穏健派とされる上層部もある程度似たような感じだったのではないかと思われる。 >>696
慶喜は下坂後にその公使たちと会って薩摩はけしからんと怒ってんだよ。
そして1月3日には薩摩藩と交戦状態に至ったことを通告してる。 >>688
>>694に付け加えて言うと、
慶喜が大坂に退いたこと自体が、松平春嶽・徳川慶勝・山内容堂らにとっては
議定職就任の斡旋ができなくなるという意味で痛手なんだよ。
不測の事態を避けるためとはいえ、京と大坂に離れたことによって意思疎通が難しくなった。
だから24日の朝議で議定推任・「急速、小隊、軽装をもって上洛」が決せられ、
26日に春嶽自ら下坂して慶喜や老中と近々上洛で合意したんだから(春嶽は29日に戻る)
「大坂に居座る」なんてあり得ないの。
約束したのに上洛しなきゃせっかくの斡旋が白紙になっちゃうんだから。 >>691
既にスレでも論じられてるけど、幕府軍の最大の敗因は
1、初日に鳥羽街道で発砲を禁じるなど戦闘態勢を取らずに戦闘に突入したこと、
2、その後に慶喜が全く戦争指導しないから、指揮命令系統が混乱したこと
だよ。
装備は幕軍のほうが勝っていたとみられるし、個々の戦闘でも、特に会津藩兵の奮戦が目立ち、
挽回のチャンスは何度もあった。また将官や兵員の質もかつて言われていたほど悪いものではない。 幕府歩兵については、最も優秀な士官・部隊はまだ江戸にいるから、
鳥羽街道の伝習隊以外は若干質が落ちる感じはするけど、
それでも2日目に戦死した窪田鎮章は元治元年から洋式調練を受けて、
外国軍人からも評価されていた士官。
つまり長州藩兵より調練歴が古い。 慶喜って側近や家臣団がいないからな
自分の考えを代わりに説明する人間がいない >>681
> 決め手を欠く状態で京方と大坂方が並立して調停を待つ感じになるだろう。
薩長の思考法だと、にらみ合いの膠着状態をずーっと続けることはせずに夜襲で決着をつけようとしたかもしれない。 >>703
側近でマキャベリストの原なんとかが暗殺されたのも痛い。 >>703
慶喜は側近何人も暗殺され、大政奉還前には原市之進
特に原の損失が、慶喜の考えを処理してくれる人がいなくなって
大政奉還後のグダグダに繋がったんじゃないかな?
村医者を軍事大臣に抜擢したり、西郷や大久保らは下級武士
倒幕派は実力ある人間を適材適所に抜擢する実力主義
しかし徳川はというと、血統主義を重んじる
小笠原や滝川のような出世エリートコースを歩んでた人が
いざ現場に立ったら、見事なぐらいアホ采配
こういう人が重んじられる組織だったんだろう
薩長と徳川の戦いは、組織の違いが勝敗を分けたと思う
慶喜という優秀な諸侯がようやく最後に将軍になれ、鳥羽伏見以降ようやく実力ある人らが台頭し
東北戊辰戦争では以前みたいな間抜けな采配は少なくなり、結構善戦するようになった
最後にようやく実力主義の組織へと芽生えたが、時すでに遅し
徳川のような組織が滅んでくれたおかげで、実力ある徳川の人らも明治になり拾ってもらって活躍できた
徳川のトップにいた人らは、話をややこしくする人が多かったんやろな
間違ってない事を難しい単語を並べ言い返し、何言ってるのか?話の筋が見えない(当人だけ分かってるつもり)
話を簡単に処理する事ができない、頭デッカチの丸暗記人間が多かったと思う >>705
鳥羽伏見最終日の男山橋本開戦前は
朝廷側は今まで自重してた藩が次々と参陣し
徳川側は連戦連敗で淀の裏切りもあり意気消沈
時の勢いは明らかで
地の利を活かし最初は徳川優勢だったが、長州の世羅が迂回し男山攻撃したぐらいから逆転し始め
このタイミングで津が砲撃し勝敗決した
> 決め手を欠く状態で京方と大坂方が並立して調停を待つ感じになるだろう。
鳥羽伏見の戦いは最終日前日の、淀城の裏切りで勝敗は決まったと言っていい
最終日は徳川最後の抵抗みたいな戦いで、何でこんな考えになる人がいるんだろうか? >>707
幕府も姫路の村医者を歩兵奉行にしてんだけど。
村医者と言っても洋学者は出世コースには乗りやすい。
幕臣て福沢諭吉もそうだけど、洋学者スカウトが多いから専門家は大勢いる
諸藩の有名人を幕臣に引っこ抜いてくるから
ただ負けた側だから幕臣興味ないと名前あんまり知らない人が多いだけ
>>708
大坂が残ってるから並立して調停を期待できるというのは自分が言ってるわけじゃない。
西郷吉之助も早期の大坂攻略は無理だと考えてるし、保谷徹とか軍事史の人も一様に言ってる。
大坂にはまだ奥詰銃隊5000が手つかずで残ってる上に、
薩摩藩邸焼き討ち後に江戸からさらに増援部隊(伝習隊を含む最精鋭)が向けられ、
奉行クラスも上坂してくる。
また挙正退奸表に応えて上洛中の諸藩がいる上に、京の尾越土の諸侯は周旋を続けている
京への足掛かりを失っただけで軍事バランスは徳川方が依然有利と言わざるを得ない 幕府軍が有利なのは、とにかく金があって、海軍があって、
動員規模が圧倒的にでかいこと
新政府は幕府御領を貰わないと財政基盤ができない
財政基盤ができない限り諸藩の合議体の域を出ない
豪商に献金させようにも大坂は幕軍が抑えてる
薩摩から補給しようにも海軍が薩摩海軍を駆逐したので大坂経由では無理
一方、幕軍は伝習隊が江戸から上坂するうえに
挙正退奸表にこたえた東国・北国諸藩が上洛することを予定している
彼らはほぼ確実に停戦を求めると思って間違いない
(慶喜のプランのほうが政権参加のすそ野が広く、有利なので)
さらに長州藩が慶喜を追い込むのに必ずしも乗り気でなかった点も挙げられる
長州藩は「慶喜に領地を返上させる儀は、免職のうえ召し上げる形は
よくないと思われる」との決議を行い、薩摩藩と事実上一線を画している
(柏村数馬日記・12月22日条)
長州藩は薩摩藩の孤立を知ってるので、自藩が突出して白眼視されることを
かなり警戒してたと思われる。 >>708はまるで大坂の陣みたいに考えてるんだよ。
もちろん、幕軍が大坂のみに存在し他に援軍がないなら淀の失陥は痛いよ。
だけど幕軍は大坂以外に後背地持ってるうえに、
江戸と大坂の航路を確保していてほぼ無限に補給が受けられるし、
1〜4日目の戦いに参加した幕軍は前線兵力に限られてる。
慶喜や老中が増援の手配しないから、多くの兵は城内にいたわけだからね。
だから4日目になっても幕軍幹部の士気が衰えず、
慶喜に出撃を求める声が上がってるわけ。 >>708
>朝廷側は今まで自重してた藩が次々と参陣し
>徳川側は連戦連敗で淀の裏切りもあり意気消沈
参戦した藩って津・淀以外どこ?彦根?
申し訳ないけど彦根って関東で伝習隊にボコボコにされるくらいの練度だよ。
「徳川方が意気消沈」した史料なんて寡聞にして知らない。
前線部隊は慶喜出馬の報を聞いて防塁を築いてるし、
最終的に大坂に引き上げたのだって「大坂城の慶喜が考えがあるから引き揚げろと言ってる」
という命令が来たから。多くの将士は、これを慶喜自身が出馬して配置を直して再攻勢に出るものと信じて
枚方から引き上げている。
城内が慶喜の出撃を促したというならたくさん史料があるけど。 ID:VmUsqP2v0
昨日の書き込みも含め、アンタの書いてる文章は
当時の会津の人らを代弁してる内容やわ
徳川の都合の良いデータばかりを取り上げ、薩長有利や徳川不利のデータは削除
こんな脳内再生されとる
当時の会津人がこんな考えに陥るのは仕方ない、立場もあるし諦めきれないものもあったろう
しかし150年後の未来人である我々は第三者であり、色んな人の言い分を聞ける立場
アンタは徳川に雇われた弁護士か?
普通に考えてこんな結論に陥ったのなら、よほど見る目はない人だわ
歴史を学ぶ事は片方の言い分だけを取り入れ弁護するでなく、裁判官のような立場で見るべきだろう >>707
>小笠原や滝川のような出世エリートコースを歩んでた人が
>いざ現場に立ったら、見事なぐらいアホ采配
これも不思議な文章だね。
小笠原長行は老中だから「現場で采配」を振るう立場ではないし、
彼は庶子で、頭の良さを買われて世子格のまま老中になった人。
また滝川具挙も当時は大目付なので、「現場で采配」を振るう立場とは言いがたい
軍議には参加してるが、彼の命令で部隊が動いたわけではない。
たとえば2日目の冨の森陣地攻防で彼が大坂に送った報告を見ると、
おそらく滝川は追撃を主張したものの、陸軍奉行の竹中重固の反対にあったと思われる
竹中は確かに追撃に消極的で、会津藩の佐川官兵衛などとも衝突しているが。 >>712
鳥羽伏見開戦当初は、薩長だけだけど
二日目から土佐さらに鳥取や広島も参戦したが
それぐらいはアンタの知識なら知ってるだろう
都合の悪いデータは削除されるんやろな >>713
いや弁護士っていうか、
わりとスタンダードな軍事史の教科書とかから引っ張ってきてるだけだけど?
挙げられる所は史料も挙げてる。
大坂を保持してれば調停を待てたというのは保谷徹も言ってるし、
かなり多くの人が言ってることだと思うよ。 >>716
徳川の弁護士であり会津観光史学信者やな
オーム真理教の青山弁護士を見てるみたいやわ >>714
何度読み返しても、何を言い返したいのか分からん
オームや創価の信者と会話してるみたやわ >>715
無断で参戦した土佐藩兵はその後参加を差し止められてるし、
土佐藩全体でみると、1日目に会津藩兵の通過を黙認したり、
6日深夜になって会津藩本営を土佐藩の使者が訪ねて
「京は空っぽだから今全力で京を衝けば勝てる、前将軍東下のうわさがあるが、
そんなことをしたらダメだから止めてくれ」と薦めている
(既に慶喜は城を抜けていたため会津藩がそれを知らせると、
「では江戸で再挙する意思があるかどうか容堂公に伝えるから教えてくれ」と粘った)
どうも土佐藩全体でみると、旧幕軍にかなり加担していたとの印象が否めない
あと広島藩兵って4日目に仁和寺宮が前線行くときに護衛した人たちでしょ?
そりゃ親王が前線行くんだから護衛につくでしょうさ。でも戦闘には参加してない。
鳥取藩は山国隊のことなら鳥羽伏見の後だよ。
両藩が何日目のどの戦場に出てきたか具体的にちょっと教えて?
手元の概説書には広島も鳥取も出てこない。 >>709
>軍事バランスは徳川方が依然有利と言わざるを得ない
その有利な状態でも徳川方が負けたんだからかなり無能だったんだね >>713
>>717
おい待て待てID:sB6bAiZN0
何だって…?
会津人?
会津観光史学?
何の話だ?
お前トンビ?
なんかおかしいと思ったんだよ
幕府軍の話してるのに会津って何のことだ?って思ったら
やっぱりお前か >>720
>>709が言ってる軍事バランスが依然有利って、
津藩が寝返った後の話だぞ?1月6日の夕刻時点での話。
「有利な状態でも負けた」じゃなくて
「負けた状態でも有利」と言ってんだけど。 >>719
http://www7a.biglobe.ne.jp/~soutokufu/boshinwar/tobafusimi/main.html
「一月六日の戦い」
「新政府軍は今まで戦闘に参加していた薩摩藩・長州藩・土佐藩・鳥取藩の四藩兵に加え、
この日から芸州藩兵も戦列に加わった大連合軍となって攻撃を開始します。」
これ書いてる人はアンタみたいな弁護士じゃなく、裁判官の立場に立った内容だと思う >>715
で、広島と鳥取が参戦したというのは何日のどこの戦場?
広島なら4日目に仁和寺宮のお供をして前線を回って帰ってきてるけど
まさかお供のことを参戦とか言ってるの? >>722
寝返られたほうが間抜け
有利な状況を持続できなかったってことだろ >>721
オウムや創価の信者は、自分が狂ってるという自覚ないもんな
会津観光史学も狂った信者製造するカルトだわ ID:VmUsqP2v0
当時の会津人はこの人みたいな考えに陥ってたと思う
「徳川は強い!今なら勝てる、我々の方が有利だ」
しかし結果は?
結果を直面しても、また
「徳川は強い!今なら勝てる、我々の方が有利だ」
の繰り返し
反省や反対意見を聞き入れる度量がなく、我が意見を押し通す >>723
ああ、やっぱりお前トンビか。
そのホムペ、前に史料の恣意的な取捨選択があるって注意したのに馬鹿なやつだね。
まず土佐藩は1月4日に「藩主容堂の指示に逆らい」と書いてる通り独断で参加してるが、
その後参加を差し止められてるのは>>719の通り。
同様に、5日に鳥取藩も半隊程度を出したものの、同じく翌日の戦闘は不参加。
広島藩は5日に仁和寺宮のお供をしたのと、最終日に申し訳程度に小隊を出したが、
あくまで私戦とみる辻将曹の指示で銃弾を撃たせていない。
だから広島藩の評判が悪く、その後の東征に神機隊が名誉挽回のために出征してるんだよ。
要するに薩長以外の藩は隊長の判断もしくはおつきあいで兵を出してるが、
日和見色が強く「諸藩が雪崩を打って…」などという状況には程遠い。 >>728
トンビって何のこと?ワシ滅多に近代板来ないし、言ってる意味がサッパリ分からん
「恣意的な取捨選択」これお前が言うなやわ
鳥羽伏見開戦初日、鳥羽伏見街道に出陣した薩長と、大津口に出陣した大村藩兵数十人
これぐらいしか徳川と戦う決意した人はいなかった
他は中立で戦いたくない連中ばかり
しかし二日目三日目と中立だった人らが重い腰を上げ、薩長側への行動を起こして行った
大津口も岡山や徳島や彦根らも参陣し、最初の数十人から数百人規模に
わずか3日ほどで大いに情勢が変化した、これが時の勢いというか
その事を書いたのに、役に立ってないとか活躍してないとか論点ずらす事しか反論してない トンビはだいたいネットのコピペ引っ張ってくるだけだから、
ペーパーでチェックすればすぐ間違いが分かって楽でいいわ。
あと6日の藤堂藩の寝返りで言えば、これも慶喜というか本営のミスが大きい。
以下史談会速記録より
津藩は3日の早い段階では中立の立場を取っていたが、
3日夜になって幕軍に加勢することを決め、淀を藩重役が訪れて塚原昌義と面会して
「徳川家が進軍の際は味方するけど、自ら主導者となることはできないから
兵を回してくれ」と頼んだ。
塚原はこれを承諾したが、4日朝からいくら待っても幕兵が来ない
4日夕刻になって少数の部隊が逃げ込んできたので「援軍が来たか」と思って聞いてみると
鳥羽の敗残兵であり、さらに大坂に向かって退いた
4日夜には長州藩が官軍に加わるよう迫ったが「私闘だから参加できない」と断る
「なら勅命が出たらどうか」と迫られ「勅命が出たらお受けする」と回答
5日になっても幕府と新政府との綱引きが続き、津藩は依然として新政府軍への参戦をしない
だが幕軍から援兵が来ないまま勅使が現れたので奉戴した
要するに津藩は幕軍参加条件として援軍増強を約束させていたが、
大本営が機能してないので、援軍の件が忘れ去られ、待ってたけど裏切ったというのが実情
大坂に縦隊や歩兵大隊腐るほどいるんだから適当に1個やっておけばよかったのに、
おそらく津藩の持ち場が戦場になることもないと思ってたんだろう >>729
いやいや、だから>>728で指摘した通り、
土佐藩は4隊長が独断参戦したものの容堂の指示で即日参戦が差し止められ、
鳥取藩もわずか半隊が参加したもののやはり差し止められる
広島藩は辻将曹の指示で銃を撃たせない方針が徹底される
これのどこが雪崩現象?みんな日和見じゃん。
しかも>>730で挙げたように、
津藩は開戦当時中立だったのに3日夜に至って幕軍参加を決めている
こちらのほうがよほど地理的重要性が大きい。
大津口はwikipediaから引っ張ってきたんだね
だけどそこに書いてある通り、大津口は幕軍の迂回京都侵攻を警戒してのもので
主戦場の鳥羽伏見方面に対する積極的な意味は見出しがたいし、
岡山、徳島の両藩も日和見という点では鳥取、広島両藩と似たような立場なんだけど。
雪崩現象が起きてたというのはさすがに無理がある。 >>728
長州征伐もそうだけど、鳥羽伏見は徳川がいかにダメ組織だったかを証明した戦いで
それを弁護するのは辛かろう
とにかく単語並べて長文にするを繰り返すも、意味不明な文章になっとる
弁護士じゃなく裁判官になるよう、薩長側弁護士の自分も作り上げ
徳川側弁護士と薩長側弁護士を争う、そんな脳内に変えたらなら
もっと視野の広い人間になれるはず >>731
アンタの書いてる事鵜呑みにしたら、徳川大勝利と思ってしまうが
なんで負けたの?
徳川有利な点ばかり抜粋してるけど、それ以上に不利になる点が多々あったはずだが >>729
>その事を書いたのに、役に立ってないとか活躍してないとか論点ずらす事しか反論してない
誰が「役に立ってないとか活躍してないとか論点をずらした」の?
自分は、そもそもそこに挙がってる藩は積極的な戦意がなく、
たまたま京に駐屯してたら勅命に従っただけで
最後まで戦闘にろくすっぽ参加してないじゃないかと言っただけだけど。
戦争が拡大するにつれて中立藩から参戦する藩が増えるのは当然のことでしょ?
そんなこと言ったら幕府軍だって開戦後に津藩が参戦を決め、米沢藩は上洛中、
長岡藩も上洛、伝習隊も上洛予定、加賀藩兵は近江小松まで進出と参戦藩増えてるけど?
12月中旬の挙正退奸表を受けて上洛行動起こしてるから。 >>710
そんな不利な状況でも薩摩が勝ってしまったんだよな >>733
>>701でとっくに書いてるじゃん。
・初日に発砲禁止など戦闘態勢を取らずに進撃させたこと
・戦争開始後に慶喜や老中が戦争指導をしないため指揮命令系統が混乱したこと
あともう1つあげるなら
・鳥羽伏見街道のほかに西国街道、竹田街道など諸街道に兵を配さなかったため
二列縦隊で押し上げるような形になり兵力の利を生かせなかったこと
自分が納得できないからって、一応真面目に史料出してる人間に怒り出すのやめなよ…
あんたが紙の史料や専門書読んで自信持ってるならともかく、
ソースはウィキペディアと個人ブログなんでしょ?何をそんなに偉そうにしてるんだか。 >>735
原因の9割までは幕府軍の緒戦対応にあるけどね。
薩摩藩がどうこう以前に、戦争する態勢が全くなかった。 >>737
あれ?おまえ幕府軍が有利って散々言ってたよね というか、>>1のスレタイ見てみ?
「戊辰戦争はどうすれば旧幕府軍が勝てたか」のスレだろ。
単にこうすれば旧幕府軍が勝てたと言ってるだけだが。
敗因の多くは旧幕府軍の自滅なので、自滅部分を取り除けば
「どうすれば勝てたか」の答えになる。
自滅したと言ってるんだから旧幕府軍をかばってるわけでもない。
むしろ叩いてるじゃん。
薩摩藩が強すぎて旧幕府軍には手に負えませんでしたってんなら
旧幕府軍を弁護してると言えるかもしれないが、
9割方まで旧幕府軍のミスだと言ってるんだからこれ以上ないほど叩いてる。 >>730
資料読んだり、そんなに歴史のめり込んでる人じゃないし
誰かが抜粋してくれた資料の内容や意見を、右左両方の意見を聞き
つまり裁判官立場に立つよう配慮し判断していく、そんなやり方
意見が白黒はっきりしたものでなく、答えはどんなグレーか?変化しながら考察していくというか
天王山にいた津藩は開戦前から、京防衛のためこの場にいた
同じような立場で、男山と樟葉にも若狭や丹後の諸大名がいた
大阪城から出発した徳川軍は、現在の国道1号並びに京阪本線沿いを進軍
男山と樟葉はこのルート沿いだったので吸収されたが、淀川反対側の天王山はルートから外れてたので
津藩は開戦当初は、伏見方面とは5kmぐらい離れてたので中立を守れた
しかし戦場が京阪の駅でいうと、伏見桃山から中書島で開戦(鳥羽方面はもっと北西)
それが淀駅付近になり、最終日は八幡から橋本
(京都三条←)伏見桃山ー中書島ー淀ー八幡ー橋本(→大阪京橋)
八幡橋本から淀川を超えて、阪急JR方面が津藩のいる天王山 >>741
いや、だから山崎の津藩兵1000余名は3日夜に評議のすえ中立を放棄して
幕府軍に味方するって塚原昌義に伝達してるの。
ただし自分たちは助攻の位置にあるから援軍をくださいと言うのが条件。
「中立を守ろう」とは思ってない。 >>740
なら
幕府軍は有利だったのに敗北した間抜け
薩摩軍は不利だったのに勝利できた有能
という図式がはっきり理解できるだろう >>741はさあ、少しは人の出した史実をちゃんと読めばいいのに。
個人ブログとウィキペディアだって元は史料から引いてるんだよ
しかも個人ブログなんてその人の立ち位置でいくらでもニュアンス変えられるよ?
現に>>723の個人ブログをあんたは「裁判官みたいな立場」と言ってるけど、
自分がざっと読んだ限りでもかなりムラがある。
たとえば初日に竹田街道を会津藩兵が進撃したのが惜しかったというのは、
大山柏の「戊辰役戦史」をはじめ多くの戦史で取り上げられてる有名な史実だが、
そのブログは一行も触れてない。
同様に、2日目の富の森の奪還や宇治方面の迂回作戦にも触れてない。
また4日目に「広島藩も参加して」と言ってるが、薩長以外の在京諸藩が事実上日和見だったことも
触れてない。
以上のことはまあ良心的な概説書なら大体触れるでしょ。
参考文献に「戊辰役戦史」が挙がってるから、当然その人はそれらの事実を知ってるはずだが、
自分の考えたストーリーに従って切り取ってるんだろう。
それを「裁判官」と言っちゃうこと自体どうかしてる。 >>742
もしも開戦始めから津藩が戦闘に加わっていたら?
徳川に付いてたら西国街道沿いを通り、薩長を横から攻撃でき
薩長に付いてたら徳川は後ろから攻撃される事となる
戦争はもっと早期に決着していた可能性が高まり、かなり重要な立場に立ってたはず
しかし自分の陣近くが戦場になるまで何もしなかった
津藩の意思は、戦いたくない中立を守ろうだったと思う >>743
幕軍の緒戦でのミスが大きすぎて、
薩摩藩が有能とかそんなのを判断できるレベルまで行ってないのが現状。
まず西国街道や竹田街道に兵を配してれば、
兵数に劣る薩摩藩はカバーできなかった可能性が高いし、
弾込めすらしてないというのはそもそも戦争にならないレベルの話。
しかも、戦闘になったらなったで何で慶喜が軍議に参加して
大坂城に何千もいる援兵を前線に出さないのか
まあこれで緒戦を勝てというほうが難しい。 >>744
アンタみたいな偏った考えの人には「裁判官」という表現が分かりやすいと思う
書いたのだがまるで無視し、お前こそ裁判官立場に立ってないと反論
マインドコントロールされたカルトに染まった人の典型だわ >>745
いやいや、だから津藩兵は塚原昌義に
「お味方しますから援軍を差し向けてください」
と頼んで、4日は朝からずっと待ってるんだっつの(史談会速記録)
なぜ「津藩が中立から幕軍方に付いた」という、
史料的に明確に確定できる史実を認めないの?
あなたそれじゃ「裁判官」もくそもないじゃん。
単に自分の考えたお話に合うように史実を曲げてるだけでしょ? >>747
なら反論してごらん。
史実でしっかりと。
ちなみにあんたが挙げた「雪崩現象」については
・土佐藩 → 即日参戦差し止め、以後はむしろ幕軍の手引きのほうが目立つ
・鳥取藩 → 半隊の砲隊のみ参加、やはり途中で離脱
・広島藩 → 最終日参戦、しかし戦意なし
・岡山・徳島両藩 → 広島藩とほぼ同様
であるから、とても雪崩現象などとは言えないと指摘した。
さらに参戦藩の増加だけを取って「雪崩現象」が成立するなら
幕府方にも加賀、米沢をはじめ参戦藩・参戦予定藩が多くあることを指摘した。>>734
現に津藩は3日の戦闘開始の時点では中立、夜になって幕軍への参戦を決めている。 >>736
そんな細かい点が敗因というより、徳川の組織がダメだった
それは自分が書いた>>707、これに尽きる
東北戊辰戦争になって、ようやく徳川も適材適所の指導者が上に立ち善戦したが
鳥羽伏見や長州征伐の徳川なんて、どれだけ兵数増やしても結果は同じだったろうと思ってしまう >>750
>そんな細かい点が敗因というより
は?この分野で必読の「戊辰戦役史」とか読んだことある?
まさに>>736で挙げたようなことが敗因としてだいたい挙げられるんだけど。
むしろ>>736以外の要素が付け加わることのほうが珍しいくらい。
「鳥羽伏見の戦いで負けたのは徳川方の組織がだめだったせいである」
なんてのはもっと大雑把な議論してた40年か50年くらい前の話だよ? >>750
>鳥羽伏見や長州征伐の徳川なんて、どれだけ兵数増やしても結果は同じだったろうと思ってしまう
暴論にすぎる。精神論にすぎる。
兵力量が大きいこと、装備が優れていることは疑いなく有利な要素。
それじゃこのスレにいる意味ないね。 >>746
それだけミスをおかして
取り返しのつかない敗北を喫したわけだから旧幕府軍は無能なんだろ >>741
>資料読んだり、そんなに歴史のめり込んでる人じゃないし
>誰かが抜粋してくれた資料の内容や意見を、右左両方の意見を聞き
>つまり裁判官立場に立つよう配慮し判断していく、そんなやり方
史料も見ず、歴史も知らず、自分で調べる気もなく、ただ見てるだけで
なぜ他人の意見が客観的に正しいとか分かるの?
一生懸命史料引っ張って考えてる人より、ただ眺めてる自分のほうが何で客観的と言い切れるの?
それじゃ自分が訊いたこともないけど正しい意見にぶつかったときは一瞬でアウトだね。
さっきからあんたの反応を見てると
「なじみがないこと、知らないことを拒絶しようとする」みたいな感じだけど。 >>749
自分のレスを遡ったが「雪崩」という言葉は一度も書いてないわ
しかし初日の薩長の孤立状態から、日を追うごとに薩長有利になったとは書いた
雪崩という表現がどうのこうのはともかく
情勢が変化したのは事実だろう
徳川へ加勢しようと進軍してたのは、他にも赤穂藩があり
紀州は再三の慶喜からの催促にも関わらず、家臣内で揉めて戦争終わりぐらいに徳川に付く事が決まった
結局進軍したかどうか知らないが、大阪から逃げる徳川軍は船が足りず
それで紀州まで逃げてきて、それらの人らに船を貸した
伊勢方面から大津へ進軍予定だったのもあり(多分関東から遅れてきた軍)
それらは大村藩の数十人を大軍を思い込み、なぜか大阪へ
こういった間に合わなかった徳川に参陣予定だった軍もあるが
山陽進軍し福山藩と交戦した長州本軍や土佐の板垣軍など
間に合わなかった薩長軍もあった >>754
史料を読み込むのは良いが、偏った史料ばかりを抜粋し
カルトみたいな人間にはなりたくないわ
自分は大学で歴史専攻した訳でないし、歴史の史料読む時間あるなら
もっと仕事に関係する事に費やすわ 鳥羽方面では弾込め無しとか油断してたけど
伏見方面では普通に戦って負けてるからね >>755
だから何?
紀州藩や赤穂藩の動向は、薩長方への雪崩れ現象なんて起きてないことを証明するものでしょ?
だって戦争が始まってから徳川方に付いてんだから。津藩兵も同じだけど。
しかも板垣退助を挙げるけど、山内容堂は差し止めさせてるし、
初日の竹田街道や6日の会津藩本営への密使で分かるように、
全体としては旧幕軍よりだったと評価せざるを得ないよ?
また長州藩についても12月22日の柏村日記に明らかなように
慶喜への辞官納地はしかるべからずと決議してるから、薩摩藩と決して同一歩調ではない。
さらに福山藩への攻撃は、史料的には1月7日(慶喜の大坂退去後)に、
桂太郎が京における戦勝を報じて準備させてるから、鳥羽伏見の戦いの最中になされたとは言いがたい。
長州藩本国の態度としては、鳥羽伏見まではむしろ慎重で、
鳥羽伏見後に京からの戦勝が伝えられる過程で追討戦に参加していったが、
それでも薩摩藩と完全に同一歩調だったわけではない
(米沢藩の宮島誠一郎が在京活動した所によると、長州藩内部にも反薩的な動きが見られたらしい) >>751
>>736のような行動をしてしまった徳川が、いかにダメ組織だったという事を言ってるのよ
それ以前に進軍する事が間違ってる
待てば待つほど有利になってたのに、今ここで進軍するか?
大阪の陣の豊臣は、加藤清正や浅野長政など助けてくれる人ら死んで
死にそうな家康がまだ生きてる、こんな最悪なタイミングで開戦した
これを思い出してしまう >>756
そう、じゃあ自分の主張が正しいなんて思わないことだね。
散々史料を引っ張った人間に個人ブログとウィキペディア程度で対抗して、
反論されると逆切れなんてほんとに迷惑。 >>759
それは戦闘になるまいと思ってた慶喜の個性が大きいんじゃない?
一般的にはそう言われてるけどね。
というか、鳥羽伏見の分析において「旧体制たる徳川方」とかいう組織論で通用したのは
今から半世紀くらい前までの話で、今はもっと緻密な分析をやってる。
自分も軍事史の本とか色々見てるけど、さすがに組織論を敗因に持ってくる分析なんて最近は見ない。
もうね、真面目に議論する気がないなら何でこのスレにいるんだかね
こっちがいくらそれは違うよと言って史料を引っ張っても
「それは信じられない」だの「俺は史料を読むのに興味はない」とか
こっちもいやになる。 >>758
当初の戦場からドンドン徳川は押し戻された事実はどう思ってるの?
(京都三条←)伏見桃山ー中書島ー淀ー八幡ー橋本(→大阪京橋)
徳川寄りだった土佐が、なぜ二日目には薩長側として参陣したのよ?
アンタの脳内では土佐は徳川軍に参陣してなきゃおかしいのだが
アンタの脳内では長州も決して戦闘意欲が高い訳でないという結論なんやな
アンタの考えまとめたら、徳川凄い有利なはずなのに >>757
伏見方面は会津藩・新撰組だから戦闘準備はしてたけど、
迎え撃つ薩摩藩兵が御香宮・桃山台に大砲9門を配置して
奉行所周辺を狙い打てるような態勢を取っている
激戦の中で薩摩藩側の砲撃が敵弾薬庫を直撃し幕府歩兵が崩れたこと、
あと会津藩兵の突撃戦法が恰好の標的になり死傷者が増えたことから撤退するが、
この方面、実は竹田街道に白井隊を進出させ、幕府歩兵が後続する予定
という戦果をあげかけていた
ところがこの時、責任者の竹中重固は戦況報告のため後方に走っており、
竹田街道進撃の命令が下されないまま、後続部隊が来ないというもったいないことをしている。 幕府軍には軍を任せる将帥が居なかった
薩長土には西郷、大村、板垣みたいになぜかそういう人材が居た
幕軍きっての西洋軍事に通じてる大鳥も板垣に勝てなかったし低く評価されている >>762
だから大坂を保持してる限り依然徳川方は軍事バランス的に有利だって。
あんたの言う雪崩現象なんて起きてないんだから。
これ自分の結論じゃないからね。保谷徹とか軍事史の人も、
大坂握ってる限りは徳川方は依然有利な立場にあったと言ってる。
あと、あんた板垣の参戦を馬鹿の一つ覚えみたいに言うけど、
土佐藩全体としては前述したとおりむしろ旧幕寄りで行動してんだよ?
・開戦前に平山図書が京の内応者の存在を語ってるが、それが土佐藩らしいと考えられてること
・初日の竹田街道進出に際して、土佐藩兵が会津藩兵の通過を黙認してること
・独断での参加を容堂が差し止めたこと
・慶喜の大坂退去直後、土佐藩の使者が会津藩本営を訪れ「今なら京は空っぽだから、
慶喜が押し出せば勝てる、絶対に東帰などしないように」と薦めてきたこと
などを考えると、土佐藩が参戦したとはどう見ても言えない。 >>761
豊臣の例を出したのは、秀吉死ぬ前から前兆が多々あったが
間抜けな事連発し、豊臣という組織がダメになっており、そりゃ滅びるわと思ってしまうが
徳川の終わりにも同じ事がいえる
いくら個人が良策を講じても、それ以上に他のダメな人が悪策を繰り返してたら結果は同じ
豊臣の組織がダメになって滅んだように、徳川も同じく
これは全体像を見たら、これに尽きるはず
>>763の下に書いた内容も、組織がダメだから空回りしたんだろう >>765
>などを考えると、土佐藩が参戦したとはどう見ても言えない。
土佐藩は鳥羽伏見で参戦しなかったんですか? >>765
アンタの話を聞いてたら
長州でさえ決して協力的でなく、他藩も徳川にばかり味方し
こんな情勢で勝った薩摩、そして西郷大久保は超スーパー偉人ですやん >>764
西郷は軍事に通じていたとはどう見ても言えないね
そもそも実戦経験あんまりないからね。
大村と板垣については定評があるところだけど、
大村については過大評価ではないかという指摘もあったりする。
というのは石州口の戦いは旧式の小藩が多く相手として比較的戦いやすかったこと、
彰義隊戦争は実は前日までに立てこもっていた部隊のうち精鋭が関東の戦いに身を投じて
数が相当減っていたこと、また未熟練の部隊を相手にした割に官軍の損害が大きいことなど
奥羽戦争についてもいわゆる「枝葉」戦略が実行されていたら戦争が長期化していたわけだから。
前はよく幕府士官の未熟が挙げられたりしたけど、その後幕府陸軍の研究が進むと、
英仏軍人に評価されてた少壮軍人が多くいたことが明らかになって(窪田鎮章などがそう)
現場指揮官のレベルではそれほど差がなかったと思われる 土佐藩は板垣に言い含められた山地らが勝手に参戦しただけだからな >>754
どんな史料を見たとしても、
慶喜と小栗と容保と河井が戊辰戦争の敗北者である事実は揺るがないと思うけどな >>766
だから何度も言ってるように、
「組織が腐ってたから負けた」みたいな漠然とした議論は今の戊辰戦争についてはもう主流ではない。
少なくとも鳥羽伏見については、1、他の街道を放置したこと、2、弾込めを禁じていたこと、
3、戦争が始まってからの戦争指導がなかったこと などから説明するのが通説的。
>>767
山地ら4隊長が独断で参加したけど、容堂によってすぐ参戦が禁じられたから、
とてものこと藩としての参戦とは言えないでしょ。しかも旧幕側に通敵行動取ってるんだから。
>>768
敗因の多くは幕軍の戦略にあったことはもう説明したと思うけど。
たとえば野球の試合で中堅くらいのチームが準備して待ってたら、
超強豪校が寝ぼけて駆けつけてきて、ピッチャーがウォームアップせず投げてボコスカ序盤に討たれて負けた、
という試合ではどう見ても戦争の主要因は負けた側にあるでしょ。
別に幕府びいきというわけではないが、戦闘局面で幕府歩兵と薩摩藩兵がかなり対等に戦ってる所から、
また装備の貧弱な会津藩兵の健闘を薩摩藩側が記録にとどめてる所から見て、
そこまで大きな違いはあったとは思えない
としたら、やはり開戦当初の戦略レベルの話が大きいと言わざるを得ない。 西郷は将帥として優れてるよ
人心をまとめられるし人の意見聞くから軍略も長けた人間に任せる
実戦の指揮官としても優秀だった ID:sB6bAiZN0の言ってることが同じことの繰り返しになって飽きてきたから、
いったん切り上げるけど、
幕府軍は何と言っても予備兵力が多く、中核となる幕府歩兵は装備がよく、
また圧倒的に優位な海軍を持ってるので大坂の保持は十分に可能な情勢だった
鳥羽伏見は、やはり朝廷に弓を引くことを禁忌事項と考える慶喜が
積極的に戦争に関与しようとしなかったため、幕軍の行動に不統一が起き、
チャンスが何度もありながら生かせなかった戦争というのが妥当。
権威付けをすると、たとえば家近良樹は
「慶喜の最大の失敗は戦闘態勢を取らないまま軍を進めたこと」と言ってるし、
保谷徹は、街道に兵を配さなかったことや、戦闘準備をしていなかったこと、
あるいは竹田街道に進出する会津藩兵に支援がなかったことなど、
4つほど戦闘局面での転換点を挙げたうえで、
「大坂を捨てたことが幕軍の敗北を決定づけた」と言ってる(家近も同じ)
また、保谷は「大坂を保持してれば調停を待つことも可能だった」ともいう。
要するに、戦争指導の問題が原因だと見るのが現在の通説的立場。 >>773
西郷は戦地で指揮を執った経験があまり多くない
禁門の変、鳥羽伏見、上野戦争
鳥羽伏見も前線に出ることを大久保に止められてたので
自軍が比較的有利で、1日から数日で終わる戦闘は知ってるけど
戦術家・戦略家であったかと言えばかなり疑問。
西南戦争の指揮ぶりを見ても分かるが >>769
「軍事に通じていたとはどう見ても言えない」西郷らと
対戦して敗北したのが窪田なんだけどw このスレ、つくづく思うけど、レベルの高い書き込みと、下らないレスの差が極端だよなw >>774
幕府軍は装備や兵力で優位であったが、それを戦争で活かしきれなかった
つまりは組織に問題あった
幕軍の行動に不統一が起き、チャンスが何度もありながら生かせなかった戦争
つまりこれも組織に問題あった
アホな戦略を取った事も
組織に問題あった
全部繋がるのよ、アンタは当時の徳川の組織は正常だったと思ってるの? >>774
鳥羽伏見敗戦後、大阪城に慶喜らが逃げなかったら
しばらくは膠着状態になってたと思う
朝敵となった徳川に参陣するような兵は少なく、逃亡兵も増える
今まで中立だった西国諸藩が参陣し、数は日増しに膨れ上がる
普通に考えてこう思うが、アンタは逆に考えるの?
大阪冬の陣みたいな合戦となるか、和平となるかは状況しだいだが >>778
だから、いまは戊辰戦争の分析で「組織がだめだったから」という大雑把な議論はしない。
具体的に何がダメだったのかを分析的に考えるのが、大山柏の「戊辰役戦史」以来の流れ。
この30年くらいは「旧体制たる徳川家が負けた」とか曖昧なこと言うとぶっ飛ばされる。
そのうえで、お前は「弾込め禁止」「戦争指導の放棄」「街道への兵の配置を怠った」
などを組織、具体的には慶喜の「愚かさ」と見るわけだが、
慶喜の戦略に立ってみるとそうとは言い切れない。
慶喜は既に26日に軽装で急速に上洛して議定に就任せよという命を受けており、
これを阻むものは朝命に違反することになるし、彼自身も朝廷と干戈を交えたくはない。
一方で、彼は下坂以来、薩摩藩の排除を決意し、内外に訴えているし、
協力者も京に多数いた。
とすると「入京までは極力騒ぎを起こさないよう発砲を禁止し、
入京を果たした時点で薩摩藩を討伐する」という、会津藩の留守居が語ったような指令を出すのも
分からないではない。
実際、緒戦で徳川方が勝利していたら彼の狙いは当たることになるからね。
慶喜のミスとされるものが、彼の立場や思想と結びついてるのが鳥羽伏見の戦いの難しい所。
組織論では説明できない。 >>772
山地が単独で参戦しただけだから、土佐は藩として参戦じゃないという解釈なら
薩摩だって西郷が強引に兵を連れ出し、薩摩も藩としての参戦は微妙という解釈だってできる
藩として正式に参戦かどうかなんて、どうでもいい話なんだけどな
色々歴史に関しては知識のある人だと思うが、強引な解釈ばかり このスレで1番レベル低いのがこいつだろう→ID:VmUsqP2v0 >>779
あのさあ、6日の段階で戦う機会がなかった大坂城の幕軍兵士は慶喜の出馬を叫んでて、
前線兵士は慶喜の出馬を信じて塹壕掘ってて、将校たちもこぞって主戦論で、
加賀藩が近江まで来てて、江戸からは伝習隊が発向して、紀州藩も参戦を決めて、
米沢以下の諸藩も続々と上方に向かってて、
カギを握る海軍も榎本以下全員主戦論で、
この情勢のどこが「朝敵となった徳川に参陣するような兵は少なく、逃亡兵も増える 」なの???
逃亡兵なんて4日目に逃げ道がなくなって大和路に逃げた歩兵しかいないよ。
その歩兵も結局大和路を通って大坂に戻ってくるわけだけど。
むしろ大坂には戦ってない遊兵が多くいてみんなジリジリしてるんだが。
>今まで中立だった西国諸藩が参陣し、数は日増しに膨れ上がる
それは慶喜が東帰した後の情勢ね。
この時点で参戦してる藩は在京諸藩のみで、しかも姿勢も消極的だったのは前述の通り。
さっき散々広島や土佐は戦意ないよって説明したのに、もしかして故意に無視してる?
在京諸藩ですらあまり戦意ないのに、なぜ在京もしてない西国諸藩が雪崩れる?
しかも東国諸藩こそ幕府側に雪崩れてるじゃん。上述した通り、挙正退奸表を報じて上洛中だから。
しかも12月28日には松平慶永らが島津久光に鳥羽伏見が緊迫してるという急報を送ってるから、
久光が知ったら仰天して藩兵に停戦命令を出すか、少なくとも撤兵を命じる可能性が相当ある。
もともと国元の人間は戦争望んでないんだから。 拾って来たぞ
旧幕府軍の敗因について、第一線で戦った会津藩が昭和8年刊行の「会津戊辰戦史」で総括している。
要約すると
@指揮官が全く無能であったこと(「将帥その人にあらず」)、
A的確な作戦でないため大軍が烏合の衆となっていたこと、
B加えて、京都の状勢に暗く「戦わずして入京できる]と考えていたことであるという。 >>781
だって容堂は無断参戦を知って土佐藩の参戦を差し止めてるし、
そのあとは土佐藩から会津藩に密使が来て入京を勧めてるんだよ?
土佐藩としては旧幕寄りの行動と言わざるを得ないじゃん。
>薩摩だって西郷が強引に兵を連れ出し、薩摩も藩としての参戦は微妙という解釈だってできる
実はそう。12月28日に松平慶永・伊達宗城は「大芋(久光)は知らぬことにて」と危惧し、
京の情勢を久光に報じるべく急使を送っている。
久光は健康を害して実権も忠義にかなり手放しているが、出兵の際に藩主父子の布告で
「今回の出兵は討幕のためではないので心得違いをしないように」と触れており、
薩摩藩内には重臣・城下士を中心に警戒論が強くある。
西郷が勝手に兵を動かしたと知ったら、島津久治ら穏健派は激高しただろう。
(現実には鳥羽伏見の勝報が同時に入ったので文句を言われなかったが)
おそらく鳥羽伏見の戦いが長引いた場合、久光か、小松もしくは重臣が出京し、
盟友にあたる松平慶永や伊達宗城と協議しつつ停戦を図った可能性が高い。
薩摩藩にせよ、長州藩にせよ、国元はおおかた幕府軍との戦争に警戒的。 >>784
もちろん知ってるけど、その分析のうち
Aは作戦面の批判、Bは緒戦で弾込めしてなかったことの指摘だよね。
そして@については「将帥」と言ってるので分かる通り、慶喜の批判です。
せいぜい拡大しても陸軍奉行竹中重固、総督大河内正質。
慶喜の個人的要因や、戦略面が原因だという自分の言ってることと同じじゃん。 >>783
予想通り、逆の考えだったか
戦争時に淀藩津藩が朝廷軍となり、開戦始めは中立だった藩も朝廷軍に
この状況を見たら、京にすら来ない日和見してた藩も態度を変えるはずと思ったが
アンタの脳内は徳川軍は、鳥羽伏見で負けても一気盛んで
大阪城には日増しに溢れるぐらい兵が集まるやね
何で優勢なのに慶喜は逃げたんだ?さらに続いて逃げた徳川将兵は何考えてるの?
理由が分からない >>787
あんた盛んに大坂の陣の例を出してるけど、
大坂の陣の豊臣方は制海権がなく、援軍の大名もなく、
文字通り後背地がなく大坂で孤軍だったんだよ?
しかも兵数も徳川方20万に対して大坂方10万とか5万で劣ってるでしょ。
だけど幕府軍の場合は後背地が東国にあり、
大軍もおおかた江戸に置いてきてるし、
江戸−大坂間の制海権は幕府海軍が握っている。
しかも兵力的には1万5000と薩長軍5000だから比較にならない
いま薩摩藩側の記録を見てたけど、薩摩藩は4日の激戦で死傷者が増え
予備隊まで投入して京は僧侶に守らせてるとかいう空っぽ状態になってる。
一方で、大坂では実働部隊が会津桑名に一部の歩兵を加えた前線の5000人程度で、
残りは援軍指令もないまま遊兵化し、城内の銃隊5000に至っては完全な居候状態。
しかも、薩摩藩邸焼き討ち以来、江戸の老中たちが急きょ兵を上洛させることは
もう分かってるし、北の加賀藩は近江まで出てきてて、南の紀州藩も支援の態度を見せている。
奥羽越諸藩は既に発向して江戸まで来てるのがいるし。
榎本武揚らをはじめ幕軍将校は最後まで決戦を求めて強気だったわけだけど、
この状況で弱気になる軍人がいたら教えてもらいたいよ。 >>787
>何で優勢なのに慶喜は逃げたんだ?
朝敵とされることが耐えられなかったからでしょ。
現代人の発想だと「戦って勝てば朝敵にならないじゃん」となるかもしれないが、
慶喜は母親が宮家出身の尊王の本家で準皇族みたいなものだから、
朝廷と干戈と交える事態に至ったということが十分な心理的衝撃になる。
しかも6日の情勢では幕軍の全将士が慶喜の出馬を求めてるわけで、
もしこれに応じたら長期間にわたる激しい戦いが続き、
「私は知りませんでした」という言い訳は通じないから本当の逆賊になってしまう。
また、慶喜には側近、家臣と言える人がいない。
鳥羽伏見の戦いが面白いのは、慶喜のこうした個人的信条が反映されてるところ。
たとえば松平容保や徳川家茂が大坂の総帥だったら、
部下を見捨てて逃げることはあり得なかっただろう。 >>785
藩の上層部は概ね保守的で、薩摩でさえ今はまだ早い、倒幕なんて。。。
こんな考えがあったと思う
http://www7a.biglobe.ne.jp/~soutokufu/boshinwar/tobafusimi/main.html
「鳥羽伏見の戦いの意義」
先にも挙げたこのサイトの最後に、まとめてとして書かれてる
「新政府は鳥羽伏見の結果で、実権が諸侯から藩士に移った」
つまり鳥羽伏見は薩長ら倒幕派と、会津ら佐幕派との戦いだけでなく
新政府内の諸侯と藩士の主導権争いの一面もあった
このサイトでああなるほどと感じ入ったのがコレだった >>777
レベルの高い書き込みの人は、かんで含めるように分かりやすく書いてくれているし
史料もきっちり挙げてくれているから助かる、読んでいてとても勉強になる
家近先生の著書をもう一回読み返したくなってきた >>790
さっきも言ったけど、個人ブログあまり信用しないほうがいいよ。
研究者だって人によっては理由も示さず頑なに西郷えらいとか薩摩凄いとか
書く人いるからね。ましてや個人ブログなんて基本好きに書き放題だし
そのブログ、前にバカがやたら引用してたので、
奥羽戦争の部分だけ元ネタの史料を調べたことがあって、かなり疑問を持ってる。
たとえば、1つの県史の史料に官軍側と旧幕側の略奪が記されてたとすると、
そのブログは旧幕側の略奪部分だけ記す傾向があるの。
だから元の史料と全然違ったニュアンスになる。
個人ブログでやってるぶんには、価値観はその人の自由だから一向に構わないんだけど、
それを客観的な議論の場に持ち出すとややこしくなる。 >>789
慶喜はいくら優勢でも、足利尊氏みたいになりたくない
だから逃げる、そういう事ですね
では続いて逃げた徳川将兵は、まだまだ優勢だった大阪城に立てこもればいいのに
何で逃げたのか?
この理由が分からないんですが、不利だと思ったので続いて逃げたと自分は思うのだが
慶喜や容保らが消えて動揺したとは思うが城から逃げるか?普通 >>792
アンタのような知識はあるが、偏った考えのアンタより
あのサイトの人の方が、よっぽど中庸見解に立ち、さっきも書いた裁判官視点で納得できるわ
さっきも書いたが、鳥羽伏見の結果による諸侯と藩士の関係を
どう思いますか? おれなら伏見奉行所なんててきとうに大砲打たせといて
新撰組つれて竹田街道にまわりこむな 役に立つレスとどっちでもいいレスッが混ざるからよみづらくてかなわん
今回のやつは同一IDだからNGできるけど >>794
会津戊辰戦史は藤堂の裏切りを知って臆病風に吹かれたのではと言ってるが、
これは少しうがった見方だと思う。
家近良樹によると4日に仁和寺宮に錦旗が授与され5日に前線に出てきたこと、
また「参与・議定は朝議に出てこず、薩摩藩だけが取り仕切ってる」と寺村左膳の
本国あて書状にあるように仲介者の存在感が薄れたことが遠因にある
また、徳川宗家の文書で2012年に見つかったものによると、
戦争の継続によって多数の人命が失われ、また朝敵となることが恐れたと書かれている模様。 >>793
愚問だと思うけど。もしかして意地になってる?
徳川家の旗本は御家のために戦う。
宗家当主たる総帥慶喜が逃げたのに戦う意味はない。
だから慶喜は松平容保、定敬をわざわざ指名して同行させた
理由は↑と同じ。藩主を拉致しない限り家来が戦うから。 >>795
>さっきも書いたが、鳥羽伏見の結果による諸侯と藩士の関係を
どう思いますか?
ほかのスレでやってちょうだい。
このスレは戊辰戦争スレだから。というかもう飽きた。 >>769
>大村については過大評価ではないかという指摘もあったりする。
大村益次郎の功績は、現場指揮官として優秀でいくつかの戦いに勝ったことよりも、軍略家
として長州藩を封建的な武士集団から近代的な軍隊を持つ藩に変えたこと、更に明治維新後、
その軍制(「散兵線」を基本とする)を日本全体に及ぼして日本に近代的な軍隊を生み出したことだ。
軍を組織する際、士農工商の身分制を壊し、武士も商人も職人も農民も互いに対等な一人
の兵士として各々銃を持ち、その兵たちで10人ほどの目前の状況を自前で判断し、独立して
戦える班を構成し、それを基本単位として軍組織を編成し(例えば、分隊→小隊→中隊→大隊→)、
全体を指揮官が統率する。
これが明治維新以後の日本陸軍の軍制の基本になった。他にも、鎮台、鎮守府の設置など。
大村が日本陸軍の父と称される所以だ。大村自身は武士から恨まれて暗殺されたが。
<1911(明治44)年に作られた大日本帝国陸軍の軍歌「歩兵の本領」>
https://www.youtube.com/watch?v=FJreugfgJUw
この中で「散兵線」が歌われている。 >>593
>>789
母親が宮家出身でも慶喜は準皇族なんて身分になれないって 徳川将軍家の権威はこの時ズタボロだからね。
いよっ、征夷大将軍w 顧(かえり)みるに昔日もまた今日のごとく国民誰か朝廷に弓を引く者あらんや。
戊辰戦役は政見の異同のみ 詳しい奴が議論始めると必ず出てくる上げ厨ってなんなん? 幕府軍は初日にチャンスがあったは結構有名になったが、
2日目にも2回ほどチャンスがあった
まず最初が、窪田・佐久間の両連隊長が戦死した後の伏見方面。
「この時大河内正質、竹中重固等協議して宇治を廻り、
京軍の本営桃山の背後より進撃するの策を決し、これをわが(会津藩の)白井隊に命ず」
午前10時ごろ「白井隊進んで…淀の市外に至る、(田中)八郎兵衛怪しみ問いて初めてその実を知る、
…わが藩の柴太一郎、廣川元三郎(以下人名省略)とともに白井隊を止む、(白井)五郎太夫…本営に至り、
白井隊を援くる兵あるか否かを問う、重固いわく、なしと、元三郎議していわく、孤軍を深く進むるも、
兵寡くして敵を破るに足らずと」
これが勿体なかった。前日も白井隊が迂回行動を起こして敵の側面に出てるから、
それが効果的だったとみなされて白井が同じ役目を仰せつかったのかもしれない。
だが白井隊のみでは兵数が少なすぎるので、会津藩士が白井とともに増援を要求したが、
竹中は援軍は出せないどころか、先の進撃命令を取り消して鳥羽方面に向かえと言う。
これと同時刻に鳥羽方面で激戦が始まってるので、薩摩藩兵はそちらに集中しているから
白井隊に歩兵の小隊程度でもつけて進ませれば面白かったはず。
しかもこの後(午後2時ごろ)、援軍に向かった鳥羽で会津藩が京軍を潰走させ、
追撃に移って下鳥羽まで追いかけたところで本営から退却命令が来て一同激怒する。
この後も竹中の不可解な撤退命令が続き、つごう3回足を引っ張られ続けた会津藩は
各隊長ともよほど腹が立ったらしい。
2日目の戦いを富の森の攻防で終わらせる人がいるが、
実際は富の森の戦いは比較的早く終わっており、その後に会津藩兵や幕府歩兵が追撃にかかろうとしていた。
この日は薩長兵の活動は、前日に死傷者が多く出たせいか、
早朝の窪田・佐久間両隊長の狙撃以降はあまり活発ではなく、
午後になると幕府軍の勝ち色が強かった戦い。なぜ追撃しなかったのか本当に不思議。 会戦初日の夜にもっと大規模に夜襲していたらどうなっていたか? >>804
公武合体が成功していたら
慶喜は征夷大将軍と関白を兼任したのではないだろうか? >>769
英仏軍人にどう評価されてようが
戊辰戦争で敗北してたら、このスレでは高く評価できないぞ
勝者と敗者の差は明らかだ 慶応2年の幕府の銃砲購入数(「横浜開港50年史」)
元込め銃 15800丁
先込め銃 15400丁 うちエンフィールド銃5000丁
大砲 1000門
山砲 2個中隊分
野砲 1個中隊分
シャスポー銃 773丁〜3000丁(「兵器沿革史」より推計)
幕府保有の銃 合計 42775丁(慶応3年3月時点)
慶応3年10月時点で
伝習第一大隊 大坂へ
伝習第二大隊 沼間守一らが調練中
伝習第三大隊 同じく募集・調練中
鳥羽伏見の幕府歩兵 約6000(うち伝習第一大隊800)
鳥羽伏見の薩摩藩 3000 小銃20個小隊+3砲隊(砲兵80+歩兵64、四斤山砲8門x2、六斤山砲+臼砲) >>811
それで慶喜が「準皇族」ってのになれちゃうの? >>812
「この夜(1月3日)、鳥羽街道の京軍、阪軍を襲う、阪軍狼狽し兵仗を捨てて走るものあるに至る、
幕府の歩兵頭窪田鎮章、歩兵頭並大沢顕一郎、これを見て咄嗟憤然として衆を励まして進撃す、
京軍大いに乱れほとんど支えざらんとす」
「正月四日…京軍予め兵を鳥羽街道の竹藪中に伏す、鳥羽の阪軍銃を集めて乱射しその勢い甚だ鋭し…
阪軍たおるる者多し終に全軍壊乱す。幕府の歩兵奉行佐久間信久は敗兵を収めて再び戦わんとしたれども及ばず、
ここにおいて信久は従者…の携えたる銃を取り自ら伏兵の指揮官を狙撃せんとす、たまたま京兵竹藪より信久を連撃する数発…」
窪田の第12連隊、佐久間の第11連隊は大坂徴募の新兵。この2人は「会津戊辰戦史」で幕将に珍しく人物評がある。
窪田は初日の京軍の夜襲を第7連隊の大沢顕一郎とともに自ら突撃して退けている。2日目も陣頭に立って指揮し戦死。
佐川、白井、林、堀、上田と言った勇敢な前線指揮官を抱える会津側は旗本兵への評価が低いが、
個人名を挙げたうえ、人物評までして褒めてるのは珍しい。
味方内部でも評価が高かったのだろう。 >>814
家近良樹「徳川慶喜」より引用
「斉昭は、嘉永三年の時点で一橋家養子に入っていた慶喜の結婚相手に天皇の娘を熱烈に求めた。
むろんこの希望はかなえられなかったが、斉昭は天皇家の血を自らの家系に直接注入しようと図ったのである。
それほど斉昭の皇室へのあこがれは強かった」
「そして、この水戸家の尊王精神を、肉体を伴った実態ある形として支えることになったのが、
母から受け継いだ血統であった」
「母の実家である有栖川家は、さかのぼれば霊元天皇にたどりつく名家であった。
それゆえ孝明天皇が安政5年、井伊直弼による日米修好通商条約の無断調印に抗議して
譲位の意思を表明した際、天皇の位を譲る相手として 同家の三親王が天皇から直々に指名されることになる。
慶喜は、その家柄につながることで、生まれながらにして尊王家たることを運命づけられたのである。
とにかく、この朝幕双方のトップにつながる血筋が、彼のその後の生き方を根底から規定したと言える」 >>816
家近良樹の本に慶喜が「準皇族」ってのになれたという記述があるの? >>815
それ反論になってないから同じこともっぺん言うぞ
味方内部にどう評価されてようが
戊辰戦争で敗北してたら、このスレでは高く評価できないぞ
勝者と敗者の差は明らかだ >>811
中根雪江が江戸の大久保一翁に送った書簡(慶応4年1月29日付)によると、
慶喜は議定を超えて摂政関白職に就くとも越前では観測されていたらしい。
(「取りも直さず摂政関白之御場合…」以下 20頁)
http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/08/2010bulletin/shousho7_01.pdf
>>815追記
窪田は父親が浪士組取締役で、横浜駐在中に古屋佐久左衛門、今井信郎らとも交流があったため
鳥羽伏見より新撰組や見廻組、衝蜂隊がらみで知ってる人も多いかもしれないが。 ID:o0qfPb7R0 ID:VmUsqP2v0は重要な点をごまかしてるから、どんな史料を読んだとうそぶいても説得力ないんだよ >>818
ならハンニバルも負けたから評価されないのか
大変な歴史観だな >>818
そんな粗雑な姿勢の人間が何故このスレに居座るのか、甚だ疑問なのだが >>801
散兵は慶応3年には江戸でも伝習隊が大々的にやってるよ。
大鳥圭介自伝に
「小隊運動・中隊運動・大隊運動・散兵の操練までやりました」と書いてある。
4月に仏軍事顧問団の建白で散兵訓練が始まり
伝習第一大隊は大鳥、第二大隊は沼間が指導している。 勝てば官軍という諺を濫用されても嫌悪感は増すばかり。
討幕に成すまでの手段が悪辣すぎた。 >>818
防長回天史にも1月4日に
「幕軍暁を冒して鳥羽伏見の両道より更に来たり進む、薩兵…戦い利あらず」
「敵の援兵来たる、薩軍頗る苦戦し援兵をわが本軍にこう」
と書いてあるわけだが。
薩軍の報告書でも「大いに苦戦」「難戦筆舌に尽くし難し」などと一様に苦戦を報じている。
このとき早朝に出撃したのが佐久間の第11連隊(もしくは大沢の第7連隊)、窪田の第12連隊。
長州藩が援軍に出したのが整武隊だから、幕府側の「援軍」は会津藩兵で、
会津戊辰戦史と照らし合わせると白井五郎太夫隊。
この3つの隊については敵方も「苦戦」と認めている。 ねぇねぇ>>677、会津なんかに擁護されちゃってるけど
今どんな気持ち?w
∩___∩ ∩___∩
♪ | ノ ⌒ ⌒ヽハッ __ _,, -ー ,, ハッ / ⌒ ⌒ 丶|
/ (●) (●) ハッ (/ "つ`..,: ハッ (●) (●) 丶 今、どんな気持ち?w
| ( _●_) ミ :/ :::::i:. ミ (_●_ ) | ねぇ、どんな気持ち?w
___ 彡 |∪| ミ :i ─::!,, ミ、 |∪| 、彡____
ヽ___ ヽノ、`\ ヽ.....::::::::: ::::ij(_::● / ヽノ ___/
/ /ヽ < r " .r ミノ~. 〉 /\ 丶
/ /  ̄ :|::| ::::| :::i ゚。  ̄♪ \ 丶
/ / ♪ :|::|>>677 ::::| :::|: \ 丶
(_ ⌒丶... :` | ::::| :::|_: /⌒_)
| /ヽ }. :.,' ::( :::} } ヘ /
し )). ::i `.-‐" J´((
ソ トントン ソ トントン >>813
> 伝習第二大隊 沼間守一らが調練中
司馬遼太郎「翔ぶが如く」の冒頭に出てくる人だな。 慶喜が参勤交代を廃した時点で徳川幕府は終了のカウントダウンは始まっていた。
戊辰戦争に勝てたとしても幕府の弱体化が止まることはなかっただろう。 >>625
戊辰戦争の勝利者は、家近良樹や保谷徹の文章なんて読まずに勝つことが出来た 江戸期の江戸地図で江戸城は、「御城」として徳川家家紋が配されるのが
通例だけど、幕末制作の地図には家紋に変り日の丸が配されている。
これは葵を忌避したがためとされている。
慶喜もこういった世間の意識変化を理解してたろうね。 >>823
>散兵は慶応3年には江戸でも伝習隊が大々的にやってるよ。
>大鳥圭介自伝に・・・・・
大村が長州藩内で高杉晋作の奇兵隊等の諸隊を元に近代的な洋式軍隊を編成したのは第一次
長州征討(1964(元治1)年)の後で、2年後の第二次長州征討(1966(慶応2)年) ではその軍隊が
幕府の大軍を打ち破り、退却させた。
適塾における大村の後輩で洋学に明るい大鳥圭介が幕府に命じられてフランス軍事顧問の
助けを借りながら伝習隊に洋式訓練を施した訳か。
後追いで、時既に遅しの感は否めないね。 >>739
>こうすれば旧幕府軍が勝てたと言ってる
その内容が読書自慢と憶測くらいしかないのでおまえの答えは正解にならない いやID:VmUsqP2v0は憶測ですらないか
憶測なら可能性はあるが、こいつの>こうすれば、という話には可能性が見込めない >>1
>>3
おまえやID:VmUsqP2v0よりもっと確実な話ができるんだけどな >>821
だから洋式調練だけなら幕府歩兵のほうが早いって。
慶応3年から始まったのは、シャスポー銃(元込銃)をベースとするフランス式の散兵戦術。
だけど旧幕軍人の回想を見ると、それ以前から散兵じたいは教えていたことが分かる。
窪田は元治元年7月にはおそらくイギリス式調練の成果を見せて英仏将校に褒められてるから
洋式兵制化は大村が登場するより早い。
実際に、長州戦争に従軍した幕府歩兵は前装施条銃を持っていたため、
山間に散開して射撃するという、長州諸隊と似たような戦い方をしている。 ×>>821
○>>831
後追いと言っても伝習第一大隊800人はほぼすべての戦場で活躍が認められてるし、
「伏射」「連射」に薩摩兵が苦戦したのは記録上はっきりしてるので、
まあ薩摩の小銃隊と戦っても問題ないレベルにあったのだろう。
ただし、大坂徴募の第11連隊・第12連隊は新兵なので、パニックに陥りやすく、
連隊長自ら陣頭に立って突撃しなければならず、2日目はこれがあだとなった。
伝習兵ではないが、1日目の歩兵第1連隊は健闘している。 奇兵隊の調練が1日10時間で容赦なく体罰という新撰組顔負けスパルタだったのはよく知られてるが、
横浜での仏式調練もそのくらいで、ひたすら走らされてへばると蹴られ殴られるというものだった
大鳥ら幕軍の伝習士官は自分も実際にその調練に参加して兵と一緒に訓練を受けてる
ある程度若い人しかできないが、仏式は将来の幹部候補生のせいか、大身の旗本の子弟も入っている。
3日目に会津藩に褒められている伝習隊の滝川充太郎は、当時17歳。大目付の滝川具挙の息子。 政府が味方じゃなくなった時点で、負けは確定してんだ
その後の明示もな 民間なんて猿のように読まれて肉体も頭脳もひ弱なものだった 結局幕府側で軍隊任せられるの大鳥しか居ないんだよな
実戦経た後の函館でも陸軍奉行に選ばれているし
しかし大鳥も実戦は大したことないというのが板垣の評価だからね >>839
それは単に幕府陸軍に興味がなくて、大鳥しか知らないからに過ぎない。
大鳥だって総野の戦いまで実戦経験がないから、
実戦を経験した伝習隊の大川正二郎らが補佐についている。 「会津戊辰戦史」の分析は以下の通り
1、将帥その人にあらず、従って統一を欠き命令行われず、各部隊思い思いの動作をなし、
難局に遭遇すれば命を受けずして逃避する者はなはだし
(=非難の度合いから見ておもに竹中重固、または大河内正質、塚原昌義のことか)
2、狭い道に大軍を進ませたので大混雑になり、命令が行われず烏合の衆と化した。
亀山から丹波口、高槻街道から西国街道に出て東寺に向かい藤堂兵の造反を防ぎ、
蹴上へそれぞれ一隊を派遣すれば、兵力の少ない相手方はさらに兵を分けねばならず、
同時に混雑も解消できた。京軍のうち戦意があるのは薩長兵のみであった。
丹波口からの入京は4〜5里かかり山道で、糧食弾薬の運搬が難しいが、人馬の徴発はさほど困難ではなく、
実行が難しいとは言えない。
3、大阪方は京の情勢に暗く、戦わずして入京できるだろうと思ったのは部隊配置を見ても明白である。
だから思いもかけず途上で開戦に至った場合、計算外の戦闘に狼狽して敗北したのは当然である。
なお、会津藩兵の実数は1200未満か。
うち容保の護衛と丸山隊を除くほか全藩兵が戦闘に参加。
田中土佐隊520、大砲2隊260、町田隊70、佐川隊70、計920人、従者を加えても1000人程度。
桑名藩は400程度。 「会津戊辰戦史」は慶喜東帰後のすごい話を書いている。
正月6日、山内容堂の密使・坂井藤蔵(馬廻格、小目付役)、野崎糺(お小姓組)が東本願寺の会津藩本営を訪ね、
南摩綱紀、三坂市郎右衛門に会って言うには、
「我らは容堂公の命で5日に京を出発し、奈良路を経て昨夜大坂に入り、今日永井尚志に会おうとしたが果たせず、
会津藩において慶喜の本意を知ることができれば、容堂は中間にあってそのよろしきを制することができようとして、
我らに確認させたのである。
まず3日以降の京の形勢を述べると、容堂の建白が用いられず、薩長の専横を憤り病と称して出仕していない。
伏見関門の守備の命令を受けたが断り、ただ伏見市中巡邏の命令は断れずに一小隊出しただけで…
(以下容堂の「参戦したのは土佐藩の本意じゃないよ」という言い訳が続く)
いま薩長の兵は全力で鳥羽伏見方面にあたっているが、在京諸藩は形勢観望して意思がまとまっていない。
京都は金穀弾薬に乏しく、兵も少なく、僧侶に御所を守らせる有様である。
速やかに大坂の全軍を挙げて京を衝けば戦わずして事なるべし、
もし慶喜公が江戸に下るようなことがあれば万事窮してしまうがどうなのか」。
会津藩側は「よくわからないので、聞いてくるから待っててね」と答え、
南摩綱紀が家老の上田学太夫ら3名にこの件を告げて、「幕、会、桑、備中松山の兵ですぐ京を衝きましょう」
と勇断を迫った。だが家老3名は「幕兵は午後から紀州に下り江戸に帰るよ。会津藩も今夜には帰る命令出たよ。
今から心機一転して京を攻めるような士気はないよ」と答える。
そこで翌日(7日)、土佐藩の使者にそのことを伝えると、
「では慶喜公は江戸に帰ったあと抗戦するのか恭順するのか。詳しく容堂公にお伝えしたい。
それによって容堂公も策があります」とのこと。
会津藩側は「慶喜公の考えは分からないのですが、これからも周旋を宜しくお願いします」と頼み、
溜息を付き合って別れたという。 >>842
慶喜氏と幕閣は完全にやる気ありませんね。 >>821
おまえ動揺しすぎだろw
今日の第一声でスレ違いなたとえ話しやがってさ >>822
文句あるなら粗雑なスレを立てた>>1に言えよ >>825
それ反論になってないから同じことなんべんも言うぞ
敵方をいくら「苦戦」させようが
戊辰戦争で敗北してたら、このスレでは高く評価できないぞ
勝者と敗者の差は明らかだ 慶喜もったいなかったな。
あと一日待てばよかったんだな。 >>834
>>847
俺も知りたいな もっと確実な話って何だろう >>710
>幕府軍が有利なのは、とにかく金があって、海軍があって、
動員規模が圧倒的にでかいこと
なのに負けちゃったんだから余計ミジメだよね 第一次長州征伐で日和ったのがそもそもの原因
西郷や慶勝を大将にしたのが間違い >>851
>>1とID:VmUsqP2v0がはぐらかした部分だよ 奥羽越列藩同盟に対する新政府の対応が鳥羽伏見戦の幕府軍と対照的なのが興味深い
・同盟側の最有力根拠地の仙台に500名以下とはいえ公卿総督付きの軍を派遣
・奥羽の関門的位置にある白河に開戦前に少数とはいえ長州兵を派遣して既に抑える
・白河城はその後会津軍に占拠されるも、世良殺害後10日程で奪回(この時列藩同盟成立すらしてない)
・列藩同盟成立し、会津庄内幕府軍残党だけでも手こずってるのにさらに東北全部を敵に回すという
前代未聞の事態にも関わらず新政府は断固征伐方針(まず旧幕府はこれが出来ない)
・海軍力をフルに活用し、1度に送れるのは500人程度でも寝返った秋田藩へ即座に援軍を送る
(橋本の戦いで100名でも幕府軍が援軍を派兵してくれれば寝返ることはなかっただろうという津藩元藩士の回想…)
・新潟、平潟でも海上機動作戦を展開し、膠着した戦局の流れを一気に変える
これでもまだ書き足りない >>856
東征大総督府は、会津藩に対しては「実々死謝をもってのほかこれなく」
という方針を示したが、仙台藩に対しては触頭として期待する姿勢を取っている。
兵数が足りないから、仙台藩の武力を当てにして会津を討伐しようという姿勢なの。
また、閏4月中旬には列藩の圧力に屈して九条道孝総督が嘆願書を受理しているし、
そのあと勝手に解兵を決めたのに対して総督は追認している。
さらに数日後に太政官から正式に恭順の条件が示される。
さらに米沢藩に対して、京の広沢真臣は会津藩の恭順を優先させるべきと判断し、
「恭順」では会津藩が納得するまいからと「帰正」と表現を和らげて仲介を依頼した。
つまり、奥羽情勢にあまり詳しくなく、仙台藩頼みの姿勢だった奥羽鎮撫府や太政官は
閏4月に入ってあわてて路線を修正していたというのが実情。 >>536
アヘンに毒された徳川慶喜を将軍にしたことが敗因につながる ま、東北征討は結果論必要だったこと
ここで武力でねじ伏せなきゃ廃藩置県のときにこぞって東北は暴発するとこになるだろ
触発され同時に南の不平士族が立つだろうし
そうなったら新政府は終わり 鳥羽伏見に東北北陸勢が間に合ってればまた違った結果になっただろうな 鳥羽伏見の時点で動員かけても来ないでしょ
メリットがない >>536
不眠気味になってアヘンを処方されたのは、慶応になるよりも前のこと >>860
廃藩置県で暴発は無いと思うな
どの藩も公平に無くなるし、大義名分もない
どこも暴発しなかったからね >>857
他人に教示されなくても>>1>>3とID:VmUsqP2v0を読むと欠落してる部分がわかるはずだよ
知能が正常ならね >>864
東北諸藩が徳川方についたということは
つまり旧来の既得権益にしがみつきたいからということ
そして東北諸藩の経済、懐事情は意外と潤っていた事実
ま、会津は京都守護職で財政圧迫してるが
それが力もったまま国替えもなく納得しないまま新政府に屈するわけだ
その既得権益すべてを剥がし獲ろうとした際に結託して暴発する可能性は多いにあり
ありというより間違いなく起きる
そうしたら島津久光もどうでたかわからん
連動して島津が立てば西国の元勤王諸藩も、西国にあって戊辰戦争にて恭順した佐幕諸藩もおりからの不平士族の煽りを受けてどう転ぶか
廃藩置県がうまくいったのは中小の藩の多くが経済破綻してたこと
そして戊辰戦争の主力になった大藩をうまく丸め込めたこと
抵抗勢力が身内しかいなかったという点は大きい アメリカでもどうすれば南軍が勝てたを論争してるんだろうか >>862
既出だけど加賀藩兵が近江まで来ているし、米沢藩兵も上洛中。
さらに岡崎藩兵が参戦したように、挙藩ではなく有志の上洛参戦もあった。
下坂後の挙正退奸の上表に伴い、諸侯の上洛を呼びかけたため。
また東北諸藩ではないが、熊本藩世子細川喜久が3日に着京した直後、
開戦したため、同藩では兵を三分し、鳥羽伏見において薩長の背後を襲うとともに
藩邸を襲撃することが主張された。
津藩(藤堂家)が開戦の夜に大坂方支援を決めたのは熊本藩との連絡があったため。 >>860
>>866
廃藩置県が成功した理由は確かに戦争による財政的窮乏もあげられるが、
明治初年に姫路藩が版籍奉還を決議し、有志が廃藩を願い出ているので分かる通り、
挙国一致政府樹立の必要性が普及していたことが大きい。 >>865
自分も知りたいのだが、具体的にどこが欠落してるの?
史料いちおう示してるし、基本、研究者の見解に従ってるけど。 >>866
>東北諸藩が徳川方についたということは
>つまり旧来の既得権益にしがみつきたいからということ
雑すぎる。たとえば米沢藩は文久年間に京で国事周旋を行った藩で、長州藩との関係が深い。
また仙台藩が主導して慶応3年11月に奥羽会を結成しているし、
米沢藩は前述の率兵上坂が挫折したあと、甘粕継成らが「奥羽合従之策」を唱えこれを発展させようとしている。
要するに、大政奉還後の奥羽諸藩は新政体に対する発言権を確保しようとする動きがあり、
それが会津藩救解と結びついて大総督府の強硬方針と衝突した。
奥羽諸藩が「佐幕側」だったという理解は誤り。
そもそも薩長側の分析にある通り、「勤王」と「扶幕」を両立させるのが諸藩中では多数派。 >>873
>>1>>3とID:VmUsqP2v0を読んで、まだそいつの欠落してる部分がわからないのかよ
普通ならもうわかって当然だぞ >>872
それが東北諸藩にも当てはまる史料はなにひとつないが >>874
それを含めての徳川方であるということ、既得権益であるということを言ってるのだが
上にならって佐幕だ勤王だの議論をしてるのではない
自身でそう記述してるからわかってるとおもうが薩長とは考えが異なる勢力なのだよ東北は
それがあそこまで結託した挙げ句に戦争直前で回避し恭順し屈した場合
力をもったまま薩長藩閥政治の抵抗勢力へと変わっていくのは必然も必然
この戦争でその発言権を奪い取れたのはその後の国家運営において大きなプラスだった
戦争に負けコテンパンにされ発言力を奪い取られてすら薩長閥へのカウンターを忘れず成功させた明治期から昭和初期の軍部の流れみても東北勢はしたたかさがみてとれるのだよ
ま、これ以上はスレちなのでやめとくな >>602
途中経過の善戦ぶりをいくら誇示しようが戊辰戦争に負けたら意味がない >821
ハンニバルに勝った者こそもっと評価されるべきだろうね >>875
お前の私怨はスレの邪魔だから消えてどうぞ >>877
奥羽諸藩は会津、庄内、平藩などを除くほか大勢は外様藩で、
国政参加を要求する立場にあるのだから既得権も何もない。
「薩長と異なる立場」つまり少数の藩に権限を集中させることに反対するのは、
薩長以外の全ての藩が当てはまるから奥羽や東国、譜代藩に限った現象ではない
(土佐、熊本などもこの点を警戒して反薩長色が濃いし、両三藩問題を契機とする
慶応3年10月23日の丸山の会合には24の大藩が参加してる)。
>薩長閥へのカウンターを忘れず成功させた明治期から昭和初期の軍部の流れみても東北勢はしたたかさ
これも分からん。
昭和初期には陸軍の山縣閥は宇垣閥に衣替えしてるし、対抗しえた勢力は九州閥なのだが。
奥羽出身者の横断的な派閥なんて存在しないし、そもそも陸軍士官学校入学者に占める割合も高くない。 >>881
慶喜の発想的に、薩摩藩限定とはいえ、京阪地域での戦争は無理だったんだろう。
尾越両藩の周旋に従い、会桑両藩主を帰国させるか、せめて江戸に帰し、
「小隊、急速、上洛」を行い、新政府の要職に就いたうえで同志諸侯と協議すれば済んだ
土佐、熊本、越前など周旋工作する藩と、京大坂で引き離されたのは不利に働いてる。 >>876
版籍奉還から廃藩置県まではバスに乗り遅れるな式の忠誠度競争なので、
政府より政府外のほうが急進的で、この突き上げに対応するために薩長両藩主導で廃藩を行った。
明治2年5月の段階で公議所の諮問に応えて米沢藩は郡県論を主張していたし、
旧藩主の東京居住を主張する急進論に金沢・和歌山が含まれている。
原口清が分析する通り、反主流的な立場にあった藩はこうした改革に熱心な傾向があった。
高知藩もそうだけどね。 >奥羽出身者の横断的な派閥
統制派は?旧佐幕藩出身者子弟の結束が理念だった
訳じゃないが、高度国防国家の確立と藩閥の一掃を目指して
長州閥には敵対的だった。 >>882
おまえ>>1>>3とID:VmUsqP2v0の欠落してる部分がわからないから悔しいんだろ 【確実】
たしかで、まちがいのないこと。また、そのさま。 それと、このスレで言う確実な話とは、
確定した事実に基づく話ということ 散々絡んでた相手に袖にされた挙句の末路がレス乞食とは虚しいのう >>886
はぁ?統制派が旧佐幕藩の派閥連合なんてトンデモ説、誰が言ってるの?
だいたい統制派は宇垣閥の人間も入ってるだろ。 >>887
>>889
自分も知りたいんだけど、「確実な話」ってけっきょく、具体的に何?
何にも出てきてないけど、ただの口から出まかせ? 本題に戻ると、慶喜や老中が3日、4日とろくな戦争指導をしなかったのは
大坂に正確な戦況が伝わらなかったことも大きいだろう
竹中重固、大河内正質らは勝ち戦だと報告してる
実際、4日の午後の段階では一時的に京方が敗走することもあったが、
2日間白兵戦を戦った会津藩兵らの損害は大きく、砲隊と後備兵の出動が必要だった
(特に林隊・白井隊という砲隊の損耗率が激しい)
幕府歩兵も、初日の第1・第7連隊にかえて、
2日目に大坂徴募の第11・第12連隊に前線を担わせるのは限界がある >>891
派閥がその出身者だけでかためられてるものとは限らないことを理解できてないよだな
派閥の根本や思想の中核をなしてるものできまることくらい知っておこうな >>789
そもそも準皇族なんて用語を慶喜に当てはめるのは無理がある >>894
皇道派・統制派の対立と反山縣閥・宇垣閥は別次元の問題。
もう無知は黙っとけよ。 >>896
読解力の乏しいお前がただつっかかってきてるだけ
アホなんだからROMってろ >>892
「確実な話」とは、確定した事実に基づく話ということ
つまり推察の類じゃないということ
それと「何にも出てきてない」なんてはぐらかしても無駄だぞ >>898
そういう中身スッカラカンの言葉遊びはいらん 確実は人に絡むだけで自分じゃ何も言えない
スレの邪魔 >>897
犬飼内閣で反宇垣閥工作をした荒木貞夫や真崎甚三郎は上原閥出身→皇道派
小畑敏四郎は土佐の男爵様で反山縣閥→皇道派
永田鉄山らは荒木を陸相にするまで共同してたがその後統制派
山縣閥への態度とその後の統制派・皇道派の対立が結びついてないのは一目瞭然
しかも山縣閥は既に宇垣閥に変わってるし長州出身者で占められてるわけでもない
グループ形成の時期も動機も違うんだから比較するのもバカバカしい
鳩山一郎がいるから戦前の民政党と戦後の自民党が同じだと言ってるような馬鹿丸出し主張 >>899
「検証」しようと>>1は言ってるんだから確定した事実に基づいた話しか許されない だが>>3が出した馬鹿みたいな選択肢は実証されてないのだから「確定した事実に基づいた話」ではない ID:VmUsqP2v0も空想論だらけだし、
「検証」ですらない「見解」なんてのに従うのも確実とは言えない>>873 >>904
鳥羽伏見の1日目に白井五郎太夫の砲兵隊が竹田街道を進んだり、
2日目に宇治を迂回しようとしたり、援軍によって京兵が崩れたことは
史料によって確定できる事実じゃん。
後者は薩摩藩の記録や防長回天史でも確認できる。
史料上の根拠のある事実よりもよりも確実な事実ってなに?
散々逃げ回ってんだから、答えるか、嘘をつきましたと認めて出てくかどっちかにしろよ >>906
会津戊辰戦史の分析は大山柏も「戊辰役戦史」でおおむね引き継いでるし、
軍事史の人間も引き継いでる。
これを「個人の見解」にすぎないというなら学説のほとんどは個人の見解にすぎなくなるが、
それを否定するのもお前の「個人の見解」だよな。
その場合、史料も基本的な文献も読めない知らない調べる気もないド素人と、
研究者の見解と、どっちのほうが信用するに足りる? >>907
白井ってのは敗死者だよな?
なら戊辰戦争に勝った実例にならないから実証じゃない >>908
だいたい鳥羽伏見も会津戦争も途中経過だろ
戊辰戦争に勝つということは、敵を降参させて戦争を終わらせることだ
その実例があるんだから、研究者の「見解」よりも確実なんだよ ここまでヒント出してやったんだから、確実な話で実証できるヤツが俺の他に出てきてもいいはずなんだがw >>902
読解力が非常に貧相で乏しいことだけはわかった
なにを勘違いしてつっかかってきてるんだかしらんが頭の悪いのだけはわかる 確実クン
「中卒の僕にも分かるように易しい話をしてよ!」 >>911
お前の話は丸っ切り役に立たないから、このスレに不要なのは確実 会津藩兵は洋式訓練を特に受けてないけど善戦してるな。 会津の財政と装備が庄内くらいだったら違ってたかもな 鳥羽伏見の会津藩にあって幕府歩兵にないものをしいてあげると
小隊とか中隊クラスでの組織的行動
会津藩は槍入れ(突撃)のタイミングや伏兵、迂回と言った物頭の指示に忠実に従う
だから会津藩を突撃要員に使い、幕府歩兵が掩護に回った時が比較的勝てている
この辺は、全国どの藩の非士族兵も似たような感じだけど >>914
焦ってんだろ?
確実な話を理解してしまうと>>1>>3ID:VmUsqP2v0の空想話が吹っ飛ぶことに気づかされるもんね
しかし>>710が確実な話につながるヒントを漏らしてるから 戊辰戦争は官軍が勝ち最後は賊軍が負けとなって決着がついた戦争である
すでに決着がついた戊辰戦争を「見解」なんかで勝ち負けを逆転させるのもほぼ不可能であろう 事実の新発見などがあれば定着してる歴史を変えることは可能だが、
発見されてもない実証されてもない空想を羅列しても「検証」にはならない
だから「確定した事実に基づいた話」で進めるのがより確実な「検証」なのである 確実ほどみっともなくジタバタする奴も珍しい
どっかに晒してやろうか 庄内藩も慶応3年まで家中騒動で大変だったんだけどね。
皮肉にも粛清された酒井右京の孫の玄蕃了恒が指揮官として活躍するのだが。
7月10日に秋田への転進を命じられなければ白河方面に来てるはずだった。 江戸戻り後で慶喜抜きだと勝算はちょっと立ちづらいかな
榎本艦隊が船を仙台方面と新潟方面に分遣してたら違った可能性はあるが、
南関東の旧幕諸隊が安心して移動できるように、艦隊を三分しないとならない 慶喜が歴代どの将軍よりも幕府を軽んじていたから
戊辰戦争があんな無様な負け方になった。 新政府内も肥後・土佐は反薩的で、長州藩も穏健論に傾くきらいがあったから
白河や越後の官軍を追い落とし、関東進出の気勢を見せて長期戦になれば、
居留地の被害を嫌う列強の調停を期待できた可能性はあるがな。 >>925
減らず口が随分わびしくなってるけど、心細いのかなあ まあでもID:VmUsqP2v0みたいなムダ長文で急所さらしまくることのほうが間抜けだしな もう手遅れかも知れないけど
>>710以外にも>>568>>528が墓穴掘ってるから知らせといてやるわ
これ大ヒントだぞ >>928
「鯨海酔候」を見ると山内容堂は鳥羽伏見の開戦を非常に怒ったようだからな。
その日は参内して薩摩藩を批判したすえ議定辞職を申し出て引き取るが、
「後藤福岡は御所より物見と号して大垣藩出身の参与小原二兵衛(鉄心)…を伴い
馬上馳せて鳥羽に至る。その意蓋し内府をして別路入京せしめ、単身闕下に伏し…」
とあり、要するに開戦後も慶喜の入京を図ろうと画策していた。
しかし慶喜は松平慶永などに対して天皇の身柄を心配するのみで、
土佐藩以下の在京諸侯の動きは気づかなかったようだ。 どうにもにわか知識でマウントしたがるあの支那チョン公のニオイがプンプンしますね ID:VmUsqP2v0に嫉妬しまくりのキチガイ三連投>>929-931であった
思わせぶりなレス乞食しかできないなら消えて構わんぞ >>927
慶喜は幕府にアヘンを盛られことを根に持っていたんだろう 池沼とか病弱とか、マトモな将軍を用意できない幕府さんサイドにも問題があるんじゃないですかね?
大奥に歳入の何割もつぎ込んでる場合じゃないですよ 大奥の話は戊辰戦争と大幅にズレるから別のスレでどうぞ
ちなみに「大奥が歳入の何割」も占めてたのは
財政規模が小さかった文化文政頃の話で、改鋳益が出て以降は比率が小さくなる
さらに大奥の役割の1つは諸大名江戸屋敷奥向きとの交際にあるが、
これも文久の改革の過程で重要性が薄れ老女がじゃんじゃんリストラされている
天璋院や静寛院宮の個性が強いのは、リストラで老女が大幅にいなくなったから 文久3年には合計84人が首切られてるし、
慶応2年に家茂が没した時は半数にあたる40人が自主的に致仕を願い出て、
逆に慰留に勤めないとならなかった
人員整理のたびに半々になるペースで減ってる >>935
おまえもID:VmUsqP2v0も空想が好きなのはわかったけど、
「確定した事実に基づいた話」があるんだから、空想論者なんかに嫉妬する必要がない >>940
「池沼とか病弱とか、マトモな将軍を用意できない幕府さんサイドにも問題がある」
ってのは論破されてないよな 「確定した事実に基づいた話」をすると
戊辰戦争で徳川慶喜と松平容保が勝利者になるのは不可能 >>3 >>203 >>447 >>769
小栗忠順も窪田鎮章も白井五郎太夫も土方歳三も河井継之助も
戊辰戦争の勝利者にはなれない
さあまたまた大ヒントだぞ ヒントはいいから「確定した事実に基づいた話」の中身を具体的に言えばいいのに マウンチョン支那ゴミが泥沼の惨めな醜態自ら晒しガイジ丸出しで超絶草wwwwwwwwwwwwwwwww どうにも馬鹿なくせにマウントとりたがるあのゴミチョンカスのニオイが >>1
旧幕府軍の伝習隊第三大隊は、
長州藩傘下として官軍に加わり賊軍を相手に戦ったので、戊辰戦争では勝ち組といえる 詳しい奴にボコられ、半狂乱になって暴れる確実くん。 伝習第3・第4大隊は大鳥圭介や沼間慎次郎の回想でもあまり出てこない
第1・第2大隊に比べてまだ教練中だったから、脱走にも参加しなかったんだろうな どうにもこうにも学がないのにマウントとろうとして完全敗北したあの痛いチョンキチのニオイが >>951
官軍に参加しとけば、旧幕府軍でも勝ててたのにホント馬鹿なやつらだな
伝習隊の脱走組は 知識のない例のバカがまだ暴れてんだな。
わらった。 大学受験の時に歴史好きだったので、史学科や歴史学科も考えたが
歴史で職業に就くのは難しいだろうし、歴史を詳しく知るは趣味だと思うし
選択肢には入れなかったが
史学科卒業した人は、全く関係職業に就いてるか、コネで公務員とか
そんな人が多いのかな?と想像するが
ID:VmUsqP2v0
正にこういう人が、無駄に多い知識をこんな所で披露し満足してるんだろう
この人が歴史関連の職に就いてるとは思えないし 東日本では官軍側に付けば勝ち組というものでもないからな。
秋田藩は戦後に2万石貰ったけど、盛岡と庄内との全面戦争で巨額の戦費を負担し
戦災にも遭って大変な目に合っている。
旧幕軍と戦って藩主が病没した松前藩も同じ。
幕長戦争で敗れた小倉藩は江戸の部隊が秋田戦争に参加して戦ってるが
庄内藩兵の猛攻にあって角間川の戦いで隊長が2人戦死するという苦戦を強いられている。
新政府は金欠なので、軍費は自藩持ちが結構あるから、
その他大勢にとっては官軍も楽ではない。
幕府軍は根無し草なんだけど、天領を持ってるから、代官所を融通してもらったりして、
軍費を助けてもらえる場合がある。 奥羽だと、久保田、天童、新庄、矢島、松前
関東の大藩では宇都宮、小田原、そして水戸の弘道館戦争とそれに引き続く内訌
官軍についても戦火にあった藩は数知れず
上総大多喜藩も恭順したはいいが、引き揚げ直後に内戦みたいなのが起きてる
隣藩や脱走兵が攻めてこなくても、官軍の兵力は限度があるから
移動した瞬間に家中の反対派や住民が蜂起する例もある >>958
>>959
官軍に逆らって、ずっと賊軍についてた連中は敗北者になっちゃったけどな 亀田藩みたいに藩主がバリバリの勤王だったのに、
官軍の参謀に難癖つけられて庄内攻撃の最前線に立たされ
負けたので援軍を出したいと申し出た隊長が殴られ、
その後で殴った参謀だけさっさと秋田に逃げてしまい、
それでも殿様は戦おうとしたけど領民を守るためやむなく降伏
殿様は庄内に人質に出され
あげくの果てに先の参謀に城に火をかけられ、
戦後は減封に処せられたという悲惨きわまりない例もあるけどな
官軍傘下に入ったから守ってもらえると思ったら大間違い
だいたいが隣藩への討ち入りの先鋒を命じられる >>961
賊軍傘下に入ったままでは戊辰戦争には勝てないけどな 中村武雄の手記には、1月4日の戦闘について
「幕兵は田間に臥しては籠め、起きては撃ち、いよいよ進んで攻め近づく。
京方こらえかね、胸壁三重まで奪われたり。この時味方ますます継ぎ進まば、
京方すでに総崩れに及ぶべきを、後陣の人数応援せず」と記している模様。
会津藩の突撃による京軍の潰走は、幕府歩兵が連隊長を失って富の森に退いてから。
「鳥羽口初戦は歩兵の死体多く、富の森近辺より会桑の死体多く」と記されてるから、
この戦死状況を踏まえると、1月4日(第2日目)は、午前・午後の2回にわたって官軍が壊乱していた可能性もある。
とすると、佐川官兵衛が竹中重固の追撃禁止令に怒ったという午後の逸話と、
中村の言う「幕兵」の進撃に援軍が出されなかったという逸話が2個あったことになる。
そう考えると、開戦2日目は進撃を禁止するという指示が出ていた可能性もある。 >>958 >>961 >>964
会津藩主も盛岡藩主も庄内藩主も、新政府軍に降伏し減封転封されましたとさ
奥羽越列藩同盟は崩壊し輪王寺宮も新政府に降伏しましたとさ
メデタシメデタシ >>964
戊辰戦争で敗北した側の話ばっかしてないで、ちゃんとスレタイに沿った話をしようね 劣等感から来る妄想で歴史に詳しい人間に嫉妬し粘着する>>956であった
>>954
確実くんに中身を期待してはいけない >>964
鳥羽伏見で旧幕府軍について負けて朝敵となった藩が新政府に謝罪した後、官軍に入って勝ち組となり朝敵から除外された例がある 確実くんを切腹させればよかったよな。
こいつは官軍賊軍以前に世の中の邪魔。 >>1
賊軍傘下のままでは戊辰戦争に勝てない
賊軍から脱け出すことが重要 慶喜がその気になれば勝てただろうな
家茂が将軍だったら勝てた >>956
ID:VmUsqP2v0とID:C2j4HlTo0はただの大馬鹿野郎だぞ
旧幕軍優勢を印象づけるために、
ひたすら途中経過の戦果ばかり羅列して、戊辰戦争で賊軍が降参した結末から目を背けさせようとしてる >>971
〜れば
〜だったら
これって妄想する時の口ぐせだよな 慶喜は負けて延命。
悠々自適な趣味三昧生活。
将軍するより楽な暮らし。
これが狙いだったんじゃないかな。 上野戦争で後ろ振り向いたら旗本皆逃げ出してたってエピソードはすこwww >>972
IFスレで何言ってんだ?
なら軍板のドイツ軍がどうやったら勝てたかスレなんて成立しねえじゃん
軍事史家は「こうすれば勝てた」なんてしょっちゅう言ってるわ 嫌われバカにされることにマゾの悦びに目覚める確実くん 確実くん=言い訳をして史学科を受験できなかったヘタレ
>>972
途中経過を丹念に追う根気がお前に無いだけじゃん
頭が悪い奴は議論に口を挟むな、邪魔だから >>976
そういうスレタイなのに「検証しよう」と書いた>>1が迂闊だった >>974
悠々自適な生活を狙って戦争の当事者にはならないだろう >>977
また墓穴掘ったかあ
戊辰戦争については実例があるんだから、「IF」なんて言ってるのはその実例を知らない大馬鹿野郎ってことだぞ >>3
>幕府海軍をうまく使えば勝てた
>軍事史家は「こうすれば勝てた」
なんてのは実証されない以上、机上論でしかない
軍事史家とやらが書いた物を、史実部分と憶測部分を区分け出来ずに全肯定してしまうのは、思考停止した妄信者 >>979
戊辰戦争の勝ち負けは経過じゃなく結果で判断出来るからな
頭が悪いID:VmUsqP2v0が羅列してる途中経過の戦果は、敗北者の側ばかり
なので、
戊辰戦争で賊軍が負けた結果を逆転させる材料にはなりえない スレタイも読めず、日本語も通じないとは実に嘆かわしい
過程を丹念に調べて論じ合うスレなのに
実例だ確実だと的外れな事を連呼して独り浮きまくりなのを、そろそろ自覚しような
未だにずーっと同じIDに粘着しているが、女々しさと未練がましさが滲み出ていて大変見苦しい 机上論では実例に勝てないんだよなあ
結果を逆転させる程の経過もしめせてないし
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