戊辰戦争はどうすれば旧幕府軍が勝てたか?Part2
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前スレでちゃんと史料を引っ張って議論を煮詰めてくれた人たちに感謝
旧幕軍の敗因がちゃんと分析されていて興味深かった
確実くんはこのスレでも「確実な話ガ〜」「実例ガ〜」と発狂するのかしら
史料を提示されても「それは信じられない」「史料を読むのに興味はない」じゃ史学科へ進めないのも当然
そりゃ個人ブログとウィキペディア頼りになっちゃうよね
もう相手にするのも面倒だし飽きたから、騒ぎたければ他所でどうぞ とりあえず薩摩との融和だわ
で長州征伐で長州を完全に潰す
これなら幕府の寿命は10年は長くなったはず 開戦2日目の1月4日午後2時頃に慶喜は
「開戦しないように申し伝えておいたが薩摩側から砲撃され開戦に及んだ
ついては天皇の身柄が心配なのでくれぐれもお頼みする」
という手紙を書いて、どうやら中根雪江に託して
京の尾張・芸州・越前・宇和島・肥後の5候に送っている(徳川慶喜公伝)
天皇が逃げる心配をしてるくらいだから、
2日目の午後まで劣勢と思ってなかったんでしょうね
2日目の午後と言えば会津藩兵が京軍を追撃していた頃だが 確実くんというキチの事は忘れて新スレを盛り上げて行きましょう。 前スレで挙げた中村武雄(桑名藩士)によると
2日目の鳥羽街道は大軍で足の踏み場もなく
退却命令を受けたと信じ込んで退却する部隊もあった。
会津藩兵はそれを掻き分けるようにして前線に出ている。
一言で言って、前線の状態が後方に届いてない。 薩摩と融和できれば心強いが、長州征伐で長州を完全に潰せるかは疑問 慶喜を最も敵視してたのは薩摩藩、それも大久保一蔵だからね。
西郷は年末の段階では疲れ果てて引退したいと言っている。
長州藩も慎重。大村益次郎や御堀耕助らが出席した12月22日の会議で
辞官納地問題は懲罰的に巻き上げるのはよろしくない、
新政府にお金がなくて必要なんだよと慶喜に丁寧に説明しなさいと決議してる。
幕府陸軍の佐久間信久の手紙でも、長州藩はやる気があるかどうかわからないと言っている。 >>12
御堀耕助は軍事的才能はあったが、政治的才能は疑問。 >>15
問題は政治的才能の有無ではなく、
長州藩の国元が、薩摩藩強硬派が主導した「ちゅつ罰」的な辞官納地要求に対して
消極的な態度を取っていることだろ(「防長回天史」当該日付部分参照)。
だから、佐久間信久の観察にもある通り、
幕府軍にとって主敵はこの段階では長州藩ではないとみなされている。
長州藩は薩摩の大久保一蔵ほど強硬論に固執していたわけでもない。 大阪城決戦をするべきだったろ
大阪に幕府軍の最強の軍艦隊がいたんだから
いくらでも挽回できたのにな
紀伊、尾張、金沢、東北諸藩も大阪に結集する準備ができてたのに 関東の農村は官軍の侵攻に対して反応が2つに分かれた
1つは恭順した藩主が官軍に従うよう触れを出し、それに従うもの
1つは脱走陸軍を支援し官軍に抵抗するもの
結局、関東では藩主を飛び越して官軍に直接付いた農村はないってことだね >>17
大山柏は、幕府海軍を瀬戸内方面に向かわせたらよかったと言ってる
大坂湾の制海権は持ったのだから、山陽道の陸兵上陸地点を遊弋しても
プレッシャーになって面白かったかもしれない
まあ、本営の慶喜や板倉老中が全くやる気ないから意味ないんだけどね >>21
そうだね。
総大将がヘタレじゃ戦には勝てない。 慶喜がヘタレとか、まだそんな事を言ってる奴がいるのか ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています