シンボリルドルフってなんで海外遠征失敗したの?
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いくらなんでも負けすぎだし
最大目標が凱旋門賞で長期遠征ならエルコンみたいなローテ組めばよかったのに 有り体に言うと和田がトレセンの厩務員を信じられなくなった 勝てはしないまでもキングジョージや凱旋門で掲示板に来て(できれば三着)、フォワ賞あたり勝つことができれば当時の基準としては万々歳だったのかな 芝と砂の継ぎ目でバランス崩してただろ
レース見てないにわか多すぎじゃね? 引用ですまんが
シンボリルドルフはまずサンタアニタ競馬場のサンルイレイステークス(GT) に出走し、次にサンフアンカピストラーノインビテーショナルハンデキャップに出走する予定だった。
しかし迎えたサンルイレイステークスではDahar(ダハール)の6着に敗れた。
コースの特徴でもあるダートコースを横切る場所で左前脚繋靭帯炎を発症したことが敗戦の理由とされ、
その日のテレビではNHKをはじめ各局がニュースなどでシンボリルドルフの故障、敗戦を報じた。
岡部はレース直前の調教でシンボリルドルフの異変を察し陣営にレース回避を進言したが聞き入れられることは無かった。 凱旋門が目標ならなんでアメリカ行ったのか
和田が知識もなにもないただの成金馬主ならともかく
先進的なブリーダーでスピードシンボリの経験から欧米競馬の違いや負担くらい熟知してたろうに >>8
和田と野平の計画は微妙に異なるものであった。
和田はまず春にアメリカ遠征に行き、それから秋にヨーロッパ遠征に行くという考えだったが、それに対して野平の計画は、春に休養させてから秋にヨーロッパ遠征に行くというものだった。
この点をめぐって和田と野平の間に確執が起こり、結局和田の計画が実行されるも遠征に野平厩舎の関係者は帯同せず、調教から何からを現地のスタッフに任せる事態となった。
また国外戦に和田は野平を招待せず、やむなく野平は一般観戦ツアーに参加する形で現地へ移動した。 凱旋門とかが目標なのに、そもそもなんでアメリカに行ったかも意味不明。
状態に異変があると噂されても、しがらみとかで出走回避もしなかった。
端的に言えば、だいたい人災。 ま、遠征が上手く言ってたら
欧州で種馬になってトウカイテイオーは生まれなかったかも知れん オーナーサイドのご都合
元々が国内でもオーナー主導だしな ■1986年
野平調教師「春は国内で体調を整えて、夏になったら早めに欧州へ連れてって何度かレースを使って凱旋門賞に挑戦しよう」
生産者和田「欧州の大レースですぐに勝ち負けは厳しい。海外でやる以上は負けたくない。レベルの低いアメリカの芝で力をつけてヨーロッパに乗り込もう」
↓
両者が対立、絶縁状態になり、アメリカ遠征ではルドルフの管理は和田がやることに
しかし、和田は米のレースに対する知識が浅く、サンタニアの丘を駆け下ったり、ダートコースを横切る特殊なコース形態を知って驚く
↓
危険の多いトリッキーなコースに遠征中止も考えたが、周囲の期待もあり今更止められず、遠征続行
昼が暑く、夜は冷え込むカリフォルニアでルドルフが体調を崩し、レース中にダートコースを横切って芝コースに入ったときに故障し惨敗→引退
99年暮れ発行のNumber(20世紀の競馬特集号みたいなやつ)に載ってるエッセイだとこんな感じ 弱いから惨敗しただけ
凱旋門賞なんて出ても最下位争いだよ
ルドルフ勝たせる為にJCも突然クソショボい面子になったしな
2着ロッキータイガー(笑) シリウスシンボリであの成績ならルドルフは重賞位は勝てただろ 馬だけ輸送して調教は現地の調教師まかせだったんだっけ
今思うととんでもない話だわな 明け6歳の凱旋門賞というとダンシングブレーヴ
5歳はレインボウクエストか
ルドルフは強いし欧州競馬に合うと思うけど
さすがに掲示板が精一杯かな ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています