朝鮮の歴史を語るスレ
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>>156
イデオロギーの問題じゃないんだよなあ
1910〜1945の間の半島がどういう風に変化してきたのか、内地とはどう違ったのかの話で。 そういえば、加わった方が負ける、の法則については、
自分が最初に見かけたのはイタリアのネタだったわ
イタリアがつくかイタリア移民が多い方が戦争に負ける、だった 流れをぶった切ってスマンが、日韓併合について質問
板の共有知としては「半島は植民地ではなく併合」なのだが、自分の結論は「どちらとも言えない」になった
理由は「植民地という言葉の定義が曖昧で、どうとでもとれるから」
詳しい人いたら解説お願い >>162
米の問題も興味深いですが、話題は鮮度が大事なので考察してみます
10レス以内に解決するといいなぁ
まず、この話題をする前に「領土」と「植民地」といねうのが当時の日本においてどのような位置づけであったのかを確認する必要があります
> また以下の資料からは植民地という用語への感情的反発があったことがうかがえる。1905年の帝国議会において下記のようなことがあった。
衆議院の委員会において、当時の首相で第二代台湾総督でもあった桂太郎が、
台湾は「日本」なのか「殖民地」なのかいう問に、うっかり「無論殖民地であります内地同様には行かぬと考へます」と答えてしまったのである。
..中略..この首相発言は、議員達に大きな感情的反発をよんだ。
議員側からは、「台湾を殖民地にするとは云ふことは、何れの内閣からも承ったことはない」とか「吾々議員として実にぞっとするではございませぬか」といった非難が出た。
(小熊英二、『<日本人>の境界』新曜社 第5章 p142~p143 ISBN 4-7885-0648-3、1998年刊)
我国にては斯の如き公の呼称を法律上一切加えず単に台湾朝鮮樺太等地名を呼ぶ。
但し学術的又は通俗的に之等を植民地と称するを妨げない。
我国の学者政治家等が朝鮮を指して植民地と称することに対し、 「千万年歴史の権威」と「二千万民衆の誠忠」を有する朝鮮民族は 大なる侮辱を感じ、大正八年三月一日の独立宣言書にもその憤慨が披瀝せられた。
併乍ら研究者は事実関係を以ってその研究対象とするより外はない。
(矢内原忠雄『植民及植民政策』 有斐閣 1926年刊) >>163
以上の史料から、大日本帝国政府としては「内鮮一体」ということもあり、「植民地」は本領より一等劣るという感覚を持っていたことがうかがい知れます
従って、大日本帝国としては「併合属領」としたかったのだろうと。
一方で学術的な意味での使用を妨げないとあることと合わせて、
行政内部文書としては「植民地」の使用例が残ってます
> 日本政府が内地以外の統治区域を植民地と呼ぶことは珍しく、
ほとんどの法令は個別の領域名(樺太・朝鮮・台湾等々)をもって記述されるのが通例であった。
ただし行政文書においては「植民地」の用語例は見られ、例えば大正12年刊行の拓殖事務局『植民地要覧』では朝鮮・台湾・樺太・関東州・南洋群島を「我が植民地と解せらるる」としていた(同書では南満州鉄道付属地も扱っている)。
準行政文書としては1929年の満鉄臨時経済調査委員会編纂『帝国植民地課税一覧』がある。
> 国際連盟事務局からの海外領土等の名称及び順序に関する照会に対し、
外務省は1930年8月、朝鮮[10]・台湾[11]・樺太[12]・関東州租借地[13]・日本国委任統治南洋群島[14]と回答している。
なお、この回答案作成の際、外務省の内部文書ではこれらの地域を一括して殖民地と呼んでいる。 >>163
こんなに早くレスがくるとは思わなかった。有難う御座います。
当時から「植民地」という言葉に悪い印象があったこと。そのため法律に植民地という言葉を使わなかったこと。
一方で朝鮮は外地であり、総督府がおかれ、形式的とはいえ内地とは違う法体系であったこと。
国として公式に認めないが実質植民地であり、植民地かと言われれば「どちらとも言えない」が自分の結論。
折角レス貰ったのに悪いですがちょっと外出です。ゴメンナサイ。 >>164
まとめとして、行政内部文書における「植民地」使用をもって、大日本帝国政府が「朝鮮半島を植民地として認めていた」とするとちょっと異なるかと思われます。
> (植民地の)文字の我国で用ゐられ初めたのは、極めて最近の事で、明治以前の空気に多く包まれた人の頭には、植民地という文字が、非常にハイカラな文字になつて響いて居る。
植民地がどうの、植民政策がどうの、拓殖局がどうのといつた所で、虻が鼻の頭を刺した程の感じもない。
新領土といふ文字にせよ、其れは二十七八年、三十七八年に於ける、二大戦役の賜物で、此戦役以前、新領土といふ文字は、あまり繰り返されて居ない。
何れにしても、植民地といふ文字は、現代人に未だ耳新しい文字である。
先ず植民的知識をいへば、其れは北海道開拓の其れであつたらう。
北海道開拓は、我日本国民に、植民の意味を、朧気ながらも、先づ放つた所の鐘の音であるのである」
(「日本植民地要覧」全国新聞東京聯合社編、1912年10月)。
と、あるとおり「植民地」というのは開拓地でもあって、北海道のことを指してもいたので。
それ故、大日本帝国にとっての朝鮮半島とは「新規領土」だったのでしょう。段階的ではあるけれど。
つうわけで、「併合」したのは植民地としてじゃないけど、実態は(学術的には)海外の植民地と同じ段階にあった、ということかと。 >>166
でも北海道をさして植民地と呼ぶのには抵抗感がある。
これは結果論だけど最終的に内地に組み込まれたのが大きいと思う。
一方で朝鮮はどこまでいっても外地。
そうなると「朝鮮半島は植民地ではなく併合」論の根拠も聞いてみたい。
ゴメンナサイ今度こそ本当に外出。 >>167
いってらっしゃい
あとでゆっくり読んでくださいな >>168
朝鮮人が日本に併合して貰うかどうか国民投票したって話だよな
それで希望者多数だから併合の運びになったんだろう >>169
へー
そうなんだ。史実に国民投票したなんてあるの知らなかった
http://www.wayto1945.sak ura.ne.jp/KOR10-isshinkai.html そもそも末期李朝に民主的な選挙を実施できる能力があるとは思えん
ただアンシュルスの件とかもあるしなぁ... そもそも李朝末期は安東金氏の独裁から外国巻き込んだ大規模な抗争の時代だったからなあ
文治政治から武力闘争で国が荒れまくってたし
1894年の写真はまさに真っ只というか。 >>168
ただいま帰還しました
ご指導ありがとうございます(`・ω・)ゝ
慌てて読み飛ばしていたようなので
これから研究を開始します 李朝末期の記録はかなり残っているけど、
それ以前の時代もあんな感じだったのかな? 日本でいうと平安時代が続いてるようなものだったとよくハン板で言われてたけど、
どのくらいなんだろうね
いわゆる違う社会階層間の相互契約の時代である封建時代を経験しなかったとは言えると思うけど
西欧と日本はこれを経験して古代的社会から脱した論あるからさ このスレやと英雄豪傑より人民群衆を語りたい人が多いみたいや
朝鮮の英雄とか別のスレ立てた方がええかな あまり人物を知らんのでここでもどこでもいいから紹介してくれるとうれしいかも
あまりにも知らんので、実在人物ネタのドラマのあらすじとか偶然みてビビることあるわ
世継ぎなのに米櫃に閉じ込められて餓死させられた人とか ワイもあまり朝鮮半島の人物は知らんのやけど歴史といえばやはり人物やないかと思って >>176
なるほど。
でも日本の平安時代の貴族たちは今の日本文化の源流を作り上げたのに、
どうして両班たちは何一つ残せなかったんだろう?
あ、日帝が全部奪ったとかはナシの方向でw
言うまでもないだろうけど。 >>180
板の歴史スレの方で漢詩の話が出てたし、文化的には何も残さなかったわけじゃないだろうけど、
独自性が薄いのは中国が近すぎたのか
西欧と日本で起こった封建時代への流れは、
武力を持った集団による権力闘争で起きてるけど、
朝鮮はそういう勢力が生まれかかった時に国ごとモンゴルに潰された感じ >>180
近親相姦で脳に異常が出たせいじゃないの? >>180
国文学史学べばわかるやろうけど『古今』でさえ真名序があったし
日本の国文学も漢文学が正統な位置を占めて長いこと占めていたんやで
大陸から離れた辺境だったから国風文化時代に独自の物語文学が育ったけど
それでも源氏物語に白居易の長恨歌の影響もあったりしたで
また物語文学は近世の国学者によって再発見されるまでは扱いはあまり良くなかったんや
「創作=悪」というのが漢文学中心の文藝観や仏教観があったから紫式部は地獄に落ちたと思われとった
だから源氏供養って文化があったんやで
詳しくは
吉井美弥子編『「みやび」異説―『源氏物語』という文化』(1997)
ハルオ・シラネ『創作された古典―カノン形成・国民国家・日本文学』(1999)
あたりがオススメやで
記紀をはじめ現代日本で「古典」として褒められる文学作品には複雑なメタヒストリーがあるんや 朝鮮が植民地だったかどうかとかは近代民主国家の基礎となる選挙権で見ればいいと思う
結論から言うと朝鮮には衆議院の選挙区がないが被選挙権はあり
朝鮮生まれでも内地に行くと選挙権が行使できた
朝鮮地域は内地と取り扱いが違い本国と同じとは言えない、その点は植民地と言われて否定するのには論拠がいる
朝鮮生まれについては内地に行くと選挙権が行使できるので本国人並みとはいえる
私見になるが朝鮮と言う地域には取り扱い上差別があったが、
朝鮮生まれについてはなるべく日本帝国臣民として取り扱おうとしていたのではないかと思う
では日本の朝鮮民族への取り扱いが世界に冠するものかと言うとイギリスはアイルランドに選挙区を設定しており、
アイルランド人はテロなども用いたりはしたが結果的に選挙制度を利用しアイルランドは独立を達成したので権利付与の点で日本は劣る
しかしながらジャガイモ飢饉での飢餓輸出の様なイギリスがやった極端な非人道的な迫害は日本はやってはいない
また敗戦直前の昭和20年に台湾、朝鮮に選挙区が設定されたが駆け込みみたいなものなので考慮しない事にする
ついでに朝鮮メディアのよく言う日帝36年の朝鮮支配は欧米列強の何処の国よりも苛烈だったと言う論は事実について誤った認識がある このスレだけ世界史板の植民地みたいになっててええ感じやな ネトウヨに潰されたがネ実にもかつては歴史系定期スレがあったんや >>185
むしろ本家世界史板がネトウヨの巣窟と化してるんだよなぁ 歴史に詳しいと、ブサヨにネトウヨ認定されて仕舞うということなんだろうな >>183
近世の物語系文学と言えば、黄表紙 滑稽本とかの系列も文学と言えば文学の範疇だと思うのですがw >>183
こういうアカデミックなレスしてるなんJ民って何者なんですかね…
それに比べてネトウヨ原ちゃん聡ずかしくないの?もっと本読んでホラホラ >>191
その辺の近世読本が「文学」かって言えると微妙やね
結局宋学がイデオロギーの近世社会は漢文学をトップにするヒエラルキーがあったからね
近世の発刊当時は娯楽として消費されていたのが芥川や荷風みたいな近代文学の作家に再発見されて
正統に評価されるようになったんや
現代の国文学者だと高田衛なんかが江戸文学ブームを起こした功労者やね
>>193
ちなみにワイはなんJ読書部部員やで
●流出で内海ことおから師匠が女装癖のオカマ師匠になってしまったことを知りショックだった巨人ファンや なんJは住民多いうえに大学生大学院生もいるから詳しい奴もいると思うで
この前哲学スレでイアンハッキングとかファイヤアーベントの科学哲学に詳しいJ民いたし それこそ●騒動でヤフオクの垢バレて女装癖暴露されて消えたでおから師匠は >>178
荘献世子だな、嫁の恵慶宮洪氏がその件を愚痴って日記に残し続けたのが「閑中録」
その裏にある派閥抗争が面白いよ。 >>180
>どうして両班たちは何一つ残せなかったんだろう?
金正喜はどうけ?
あの人は両班やろ しかし最近になって
「朝鮮は植民地ではなかった!併合だ!」
とか抜かす奴が結構出てきたのはなんでなんやろね
アレが植民地じゃなかったらなんなんど >>202
併合なら植民地ではない、植民地なら併合ではない、と思ってんだよな
どういう勘違いだ 強い国が弱い国を併合して保護するのは正しいことだゾ
自立ができない弱い朝鮮を引き受けてくれた大日本の偉業を誇らないで否定するとはなんという売国奴なんだー(棒読み) >>203
自分たちで併合を望む国民投票をやったんだろ
伊藤博文は朝鮮人と関わると損をするって反対してたそうじゃん >>205
当時の朝鮮に選挙や投票に類するものはないだろ >>207
つまり、朝鮮人の多数が併合を望んだと示されたことはないんだよ どうせ発言権の無い土人だったんだしいいんじゃね
世界最貧国レベ類だったし、ほかにやることも無かっただろ >>209
併合が韓国において多数の支持を受ける政策だったと嘘を付くのは良くないよ
併合を要請した一進会はその後大規模な反対運動に会い、日本がそれを弾圧する事態になってんだから 当時の朝鮮には衆議院の選挙権と被選挙権があったんじゃなかったっけ?
軍にだって中将まで上り詰めた人もいたし。 なんというか、朝鮮の人が「日本は世界で最もひどい植民地経営をやった」って言うから、
「さすがにそれは違う」って言いたいだけなんだよ
伊藤博文が言ったのは、朝鮮人と日本人は性質が違いすぎるから併合したらお互い不幸になる、みたいなことだったはず
あと、近代化はどこの国がやっても多分過酷なんだけど、自力で血を流さないとモノにならない気がしている >>210
貧国土人にはそんな知性もねえんじゃね?ww
写真見ると、どいつもこいつもみすぼらしい乞食みたいな格好してるしww つーか、日本が併合してやる前は、貧国土人は識字率わずか数う%だったそうだし、
字が読めない書けないから投票もできないよな 原住民土人が何かウホウホ言ってて草
お札貼ってみろホラホラ >>211
>当時の朝鮮には衆議院の選挙権と被選挙権があったんじゃなかったっけ?
無いよ
>軍にだって中将まで上り詰めた人もいたし。
グルジア人を書記長にしたソ連やユダヤ人を首相にしたイギリスほどでも無いね スターリンは同志でイギリスではユダヤは新参じゃねーだろ
むしろ中世から知識水準はユダヤの方が高いし >>217
大日本帝国における朝鮮人も同胞という扱いではなかったの?
なのに天皇どころか首相にもなれてないよ
そんで日本における朝鮮人も別に新参では無いだろ
古来の渡来人やら朝鮮陶工やら >>220
単純に被選挙権が無かったんだよ
一応、内地日本に移住すりゃ立候補もできたが選挙権持ってるのが日本人だらけの日本で当選するなんてよほどのことがないと無理だろうね 一応、それでも1925年の選挙で朴春琴っていう衆議院議員が誕生してはいますね。
その後、外地日本(朝鮮半島、台湾)からの立候補もできるようになる法律もできたのですが
1945年04月という時期でした…
まぁ、これもいわゆる制限選挙(1年以上直接国税15円以上の納税)でしたけれど >>219
海外の植民地人は国会議員になれた奴なんてゼロだろww
あれー?朝鮮って本当に植民地だったのかー? >>222
ま、例外って奴だね
欧米の各植民地支配においても、出世したり金持ちになったりした現地人は当然いる >>225
ナオロジー下院議員のことですかね?
ヒンズー教徒でもイスラム教徒でもない(ゾロアスター教?)少数民族だったという側面
分割統治の道具って側面があるってことだったと思いますが… >>227
そりゃー植民地の現地人議員なんて基本本国の都合のために生まれるものだよ
それは日本もイギリスも同じ
人口比に見合った議席数を与えてたならともかくね >>219
100年くらい同じ国家でいれば朝鮮人や台湾人の首相も出たかもね
でも当時は近代的な教育が不足し過ぎ
古代については人種民族不明
百済避難民については溶け込んじゃった
陶工は大事にされて陶工続けただろ
併合前後の道筋とその後の朝鮮の独立性については金玉均あたりの人が生きてたらかなり違ったかもとも思う >>229
結論はもう出てる
100年も同じ国家でいられないので無理さ 陸軍中将って洪思翊の事やろうけどあれは例外中の例外やぞ
併合以後の洪思翊以外の朝鮮人で将官になれたのは朝鮮王公族の李垠王だけやろ
王公族が準皇族の扱いだったことを考えると洪がどれだけ例外かわかる
あとは併合の時に李秉武みたいな朝鮮軍人の将官たちが元の階級に準じて日本軍の将官になれただけやで
山本七平の『洪思翊中将の処刑』(1986)の影響かネトウヨはやたらと洪思翊を持ち上げるけど
日本軍将官としてフィリピンで刑死する最期は悲惨や >>106
>「日本の朝鮮統治」を検証する1910-1945
届いたので読み始めたが、著者アキタ氏はもともと朝鮮統治については、
日本でも主流だった朝鮮の民族主義史観寄りな考えだったが、
この本の共著者パーマー氏の朝鮮で行われた徴兵の受容についての論文を読み、
日本で徴兵制が行われた時の反動と比べた際、
朝鮮総督府の目的は日本の勝手だとしても、朝鮮人の協力を得るために最大限の努力をしていたと気づき、
朝鮮の民族主義史観の言う残虐とか蛮行という表現は違うのではと思うようになったとのこと >>225
あれ、イギリスの植民地ってインドだけでしたっけ?
他の国の植民地はどうだったの? インドはあれだけの人数とあれだけのマハラジャたちの富を持ってしても、
役立てられず独立を保てなかったんだなあと
日本も幕末にヨーロッパの国々が分割統治で入り込んでたらやばかったな >>233
あたしも貴方に尋ねたいんですがね?
この国民投票ってなんですか?↓
205 マンセー名無しさん[sage] 2018/05/21(月) 03:28:36.18 ID:V/FoAQIo
>>203
自分たちで併合を望む国民投票をやったんだろ
伊藤博文は朝鮮人と関わると損をするって反対してたそうじゃん ニワカの自分ですらおかしいと気付くデマが
当然のように飛び交ってるのは嘆かわしい
(´・ω・`) >>234
日本は台湾人の議員も居たようですよ
イギリスの他の植民地や他国の植民地はどうだったのかな〜?
朝鮮・台湾勅選議員
階級は最高位のものを、官職名は代表的なものを掲載。
伊東致昊(朝鮮選出) 昭和20年4月ないし昭和21年7月
金田明(朝鮮選出) 昭和20年4月ないし昭和21年7月
韓相龍(朝鮮選出) 昭和20年4月ないし昭和21年7月
許丙(台湾総督府評議会員、台湾選出) 昭和20年4月ないし昭和21年7月
野田鐘憲(朝鮮貴族・伯爵、朝鮮選出) 昭和20年4月ないし昭和21年7月
朴沢相駿(朝鮮選出) 昭和20年4月ないし昭和20年9月
朴忠重陽(朝鮮選出) 昭和20年4月ないし昭和21年7月
緑野竹二郎(台湾総督府評議会員、台湾選出) 昭和20年4月ないし昭和21年7月
李埼鎔(朝鮮選出) 昭和20年4月ないし昭和21年7月
林献堂(台湾総督府評議会員、台湾選出) 昭和20年4月ないし昭和21年7月 >>236
日本に併合される前の朝鮮は識字率数%の貧乏土人国家だったから、国民投票は無理で
誤りというやつでしょうな 植民地経営のために現地人の高級官吏育てたり高等教育機関を整備するのは珍しくもなんともないで
フランスだって仏印で学制整えてリセ作ってる >>238
みんな負け戦が込んできた時期の議員なんだよな
もう負けるしか無い状態で、反乱されるのが怖くて、そのガス抜きのために
平時に議員にしてたならまだその理想を信じられもするけどね >>241
そんな話聞いてないんだが、
イギリスの他の植民地や他国の植民地の議員の話を聞かせてよ >>240
日本みたいに、祖国の文字の教科書とか作ってやったのカナー? >>239
じゃこれは史実と違うから誤りってことでいいですか?
>>170で指摘してありますけど。
それから識字率数パーセントってどこの統計ですか?
総督府の統計では文盲率は1930年の調査しかなく、
仮に併合時とすると
>ちなみに1930年当時の60歳以上に限定しても「ハングルのみ識字」率は40%近くあります。
併合当時40歳の彼らが、1910年当時ハングルを解さなかったと解釈するのは無理があります。
普通に考えれば、1910年当時の男性のハングルのみ識字率は40%程度あったと考えるのが妥当でしょう。
女性を含めても20%程度だったと考えるのが妥当です。
それを踏まえると、1930年当時の識字率25%と言うのは日本統治が20年続いたにしてはお粗末な発展レベルと言えると思います。
その原因は、併合前からハングル識字率がそこそこ高かったにも関らず、併合後カナ教育を導入し言語的な混乱を招いたからではないかと思われます。
http://scopedog.hatenablog.com/entry/20121101/1351777387
となります。
205 マンセー名無しさん[sage] 2018/05/21(月) 03:28:36.18 ID:V/FoAQIo
>>203
自分たちで併合を望む国民投票をやったんだろ
伊藤博文は朝鮮人と関わると損をするって反対してたそうじゃん 一進会の嘆願書のことですか? > 国民投票
負け戦が込んできた時期の議員ってのも「例外」ってヤツなんでしょうか? >>242
結論から言うと、いなかったんじゃ無いかな
それを以って植民地じゃ無いとかイギリスの植民地とは違うというのは間違ってるけどね 斎藤実総督の文化統治時代に衆院議員の松山常次郎(1884-1961)とか中野正剛(1886-1943)や
朝鮮総督府内務局長大塚常三郎(1880-1926)たちによって参政権付与論争があったんやけど
当時の英仏植民地の事情が参照されていたんやで
フランスは本国議会の30分の1が植民地選出議員で
イギリスのインド立法評議会の過半数がインド人だったから
「参政権を付与すると日本もこのように議会を乗っ取られるのでは」って批判が多かった
まあ参政権付与論争は宇垣一成が総督になると退潮してまうんやけど
この辺は小熊英二『日本人の<境界>』(1998)の「第11章 統治改革の挫折」に詳しいで
「第14章 朝鮮生まれの日本人」には上に出てる朴春琴の例も詳しく紹介されてる
原住民は本読まなすぎや
今日び公共図書館行けば専門書だって無料で貸し出してるし
Ciniiで無料公開されてる論文も多いやろ
出典不明のネット記事ばっかり読んでると頭悪くなるで 学校については、朝鮮併合時の朝鮮の子供は3分の1しか学校に行けなかったそうだが、
フランス統治下のカンボジアでは5分の1、ベトナムでは10分の1とのこと
関与を始めてからの年月を考えるとなかなかの教育普及スピードだと思うが >>243
フランスでは1789年から、植民地から本国の国民議会に議員を選出することが認められた。[7]。
フェリックス・エブエはフランス領ギアナで黒人奴隷の子として生まれたが、いくつかの植民地の長官を経て1941年にフランス領赤道アフリカの総督に任命された。
後にコートディヴォワールの初代大統領となるフェリックス・ウフェ=ボワニはドゴール政権下でフランス公共保健・人口相(厚相に相当)に任命された。
ダーダーバーイー・ナオロージーを始めとする数名のイギリス領インド出身者がイギリス下院議員に選出されている。
後に日本軍占領下で建国されたビルマ国の国家元首となるバー・モウは、1937年にイギリス領ビルマ植民地政府の初代首相に選出された。
イギリス領インド植民地政府の高級幹部職員であるインド高等文官(ICS)の採用試験は、19世紀後半にインド人にも開放された。結果、インド独立時にはインド人ICSが全体の過半を占めるにいたった。
ムハンマド・アクバル・ハーンはイギリス領南アジア出身のムスリムとして、はじめてイギリス領インド軍の将官に進級した。
アブドゥル・ラヒームは1908年にマドラス高等裁判所の裁判官に任命され後に同裁判所長官となった。
フィリピンは1937年にアメリカ合衆国に直接統治される植民地から、独立を視野に入れた自治植民地(コモンウェルス)に移行し、独立準備政府の初代大統領としてマニュエル・ケソンが国民投票によって選出された。
日本統治下の朝鮮における道知事の概ね半数程度は朝鮮人であった。
衆議院議員として朝鮮人の朴春琴が選出されたほか13名の植民地出身者が貴族院議員に任命された。
洪思翊をはじめとする朝鮮人の陸軍士官らが将官に進級した。 >>248
詳細はこちらに。
http://www.wayto1945.sak ura.ne.jp/KOR10-literacy.html >>243
古沢常雄「フランス領インドシナにおける教育法制」(2009)
http://cdgakkai.ws.hosei.ac.jp/wp/wp-content/uploads/2016/11/gb200904.pdf
フランスはクォックグーによる教科書を作って初等教育で使ったで
漢字に代わる簡便なクォックグーはインドシナ共産党の政治にも引き継がれたんや
こんなもんネットでちょっと調べたらわかるやろ原ちゃん・・・ 『日本の朝鮮統治」を検証する1910-1945』の教育に関する結論は、
日本の教育は植民地のものとしては「普通」で「平均」だが、
李氏朝鮮が近代的教育は全く行っていなかったことは塩梅すべきということらしい
そもそも、朝鮮の民族主義史観は「日本の残虐な統治による文化破壊と搾取」ってのが、
何を破壊して何を搾取したのかの検証が甘いんじゃないかと >>244
なんだ、日本が学校立てて教育制度を作って20年も教育してやって識字率25%程度なら、
貧国時代はホンの1〜2%くらいと見るのが妥当じゃん
やっぱ併合前の国民投票はムリだな ソ連対日参戦〜朝鮮北半部占領で朝鮮は分断されたけど
それぞれの国家が成立するまでの間、南北の往来は可能だったの? >>247>>249
そんなにいたんか
知らなんだ >>252
それには同意します
つうても、「文化もなかった土人である朝鮮半島を初めて近代化して文明を与えてあげた」のも間違いだと思いますけど。
どうにも極端ですね 実のところ、ネトウヨ的なコピペの成立過程は朝鮮側の言説による攻撃に対するカウンターとしてだったんで、
個別の数字で勝ち負け的な話になっちゃう
それよりはどういう社会だったかとかどういう文化があってどう変化したのか的な、
民俗学的、社会学的な話の方が好きだなあ >>252
サマリーありがとうです。
>李氏朝鮮が近代的教育は全く行っていなかったこと
「教育」っていう単純なくくりで あった/なかったってやっていたのでは、
議論が交わるわけがないのです。 >>254
その時期なら無理でしょうね
というのもGHQの統治下なんですが、支配地域が異なるのと、統治下で自由に行き来できたとは考えにくいためです
> 1945年8月15日、玉音放送によって日本の降伏が朝鮮を含む日本全土に伝えられた。
これに先立ち、朝鮮総督府は政務総監の遠藤柳作が治安維持のために朝鮮人への行政権の委譲を決め、朝鮮独立運動家の呂運亨に接触を図っていた。
そのため、玉音放送を聞いた呂運亨はその日のうちに安在鴻らとともに朝鮮建国準備委員会(建準)を結成し、組織的な独立準備を進めた。
その後、9月2日に日本政府が降伏文書に調印(正式に日本が降伏)したのを受け、呂運亨は李承晩を大統領、自身を副大統領とする朝鮮人民共和国の建国を9月6日に宣言した。
だが、建準は独立の方針を巡って右派(民族主義者)と左派(共産主義者)が対立して混乱した上、当時中国で活動をしていた大韓民国臨時政府関係者も「朝鮮の正統な政府」としての自負から朝鮮人民共和国への協力を拒否した[4]。
結局、アメリカ及びソ連は朝鮮人が自主的に樹立した政府に対して一切の政府承認を行わず、9月7日には米軍司令部が朝鮮における軍政実施を宣言し、朝鮮の即時独立は明確に否認された。
9月9日の朝鮮総督府の降伏後、北朝鮮でソ連軍(赤軍)が、南朝鮮でアメリカ軍が軍政を開始し、共産主義体制、資本主義体制を各々の支配地域で確立していった。 ソ連支配地域に鉄道の保守のため残された日本人の体験記をネットのどこかで見た気がする ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています