李氏朝鮮VS琉球王国
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
>>57
「縄文時代 文化圏」でググったら出てくるだろ
http://kodaisi.gozaru.jp/sisouAAA/sisouA/sisouA-html.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B8%84%E6%96%87%E6%99%82%E4%BB%A3#縄文時代の文化圏
http://hirahaku.jp/tenjishitsu/p38-39.html
研究者によって(もしくは時代によって)差があるが
縄文文化は均一な一つの文化ではなく、地域性の大きな似通ってはいるが異なる部分もある複数の文化圏の複合したものだ
一般的に縄文土器ときいて思い浮かべる複雑な装飾の施された土器が発展するのは主に東日本であり、西日本では簡素な形式のものが使われた
各文化圏の言語がそれぞれ同一の語族か異なる語族かまでは不明であり、現存する日本語族乃至アイヌ語に近縁な言語を話す文化が複数あった可能性も否定できない
わかることは縄文時代から日本列島内外の海路による交易は盛んであり、次第に文化圏は統一の方向へ向かって行ったということだ
末期には北海道東部、東日本、西日本、琉球諸島でまとまった
少なくとも西日本が日本語族だろうと考えても、アイヌは東日本と北海道東部のどちらなのか、琉球がその頃から日本語族だったのかは不明
ただし琉球語派と東国方言の存在から最低でも紀元前1世紀までに琉球諸島と東北地方南部までに日本祖語が存在していたことは間違いない
特に北琉球に関しては確実に縄文文化の後裔だろうと思われる
その時代に本土から人口が移動してきて民族を置き換えた考古学的痕跡はないからな
だが南琉球は縄文文化がなかったことから日本語圏ではなかった可能性が高い
南琉球にはオーストロネシア人の進出らしき痕跡が残されているが、オーストロネシア人がそれ以上北上できなかったのは倭人(日本語族話者)という同等以上の文化を持った原住民の存在のせいだろう
オーストロネシア人がオーストラリアに進出できず、ニューギニアでも沿岸にとどまっているのも、
それらの土地の環境では原住民の文化様式が最も適しており、仮に定住するにしても向こう言語や文化に合わせる必要があるからだ >>58
ギリシャ語の歴史的使用領域の広さ位勉強しておくがいい
ギリシャ語圏は現在のギリシャ共和国領内のみならず、古代からかなり最近まで西方のイタリア半島南部のマグナ・グラエキアや黒海岸現在のトルコ領トラブゾンにあたるポントス、クリミア半島のケルソネソスに及んだ
全く狭くなどない
ユダヤ人に関しては、もっと極端な例を挙げよう
アルメニア人は本国があるにも関わらず古代から世界のいたるところに住み着いて交易ネットワークを有していた
同一のアルメニア語を使用する人々がユーラシアの各地に、きくところによればチベットにさえいた記録があるという
各地に拡散して暮らしていても通商で言語を統一する必要があるのならば、方言はばらけずに並行して変化を起こす
先史時代から遠方と交易していた日本人の祖先とて同じだ
歴史時代でも同一の政体のもとにないにも関わらず本土と琉球とで並行して上代特殊仮名遣い(二重母音)の消失やハ行点呼音が起きた
なお、言語の分岐の開始年代の新しさはその地域にある分岐時点以前に使用されていた言語が当該の言語と異なる祖語を有することを意味しない
むしろラテン語に塗りつぶされたケルトやアラビア語に塗りつぶされたシリアやエジプトやベルベルの様に元々近しい言語を話していたがために習得が容易で支配者の言語に合わせたケースの方が一般的だ
朝鮮語にしても済州語との分岐年代が1200年前でそれ以上古くに分岐した言語を辿れないが、それによって朝鮮語の直接の祖先である新羅語が百済語と異なる語族だとする根拠にはなるまい
考えても見ろ
今日本人は(影響をわずかに残した方言は八丈島と秋山郷にあるものの)誰も上代東国方言を使用していない
しかしそれでも上代東国方言は紛れもなく日本語の一種だ
もし万葉集がなかったら奈良時代にすら東日本で日本語が使われていたことを立証できなかったことだろう
方言の分岐年代とそれ以前の言語の系統の同一性とは分けて考えろ
もし基層言語があったら印欧語族の各言語中の非印欧語族由来語彙の様に祖語に遡れない語彙群が大量に地理的偏りを以て生じる筈だ 鳥取市にある青谷上寺地遺跡で出土した大量の人骨は、1世紀から2世紀の弥生時代後期になって新たに大陸から渡来した人々だった可能性のあることが、
国立科学博物館などのDNA分析でわかりました。まとまった数の弥生人のDNA分析から渡来人の集団の実態に迫る研究は初めてです。
青谷上寺地遺跡は鳥取市にある弥生時代の集落跡で、平成12年に国内で初めて当時の人の脳が出土したほか、大量の人骨も見つかり、全国的に注目されました。
国立科学博物館や山梨大学などの研究グループがおよそ40点の人骨の「ミトコンドリアDNA」を分析したところ、ほとんどの人骨のDNAの特徴が
中国や朝鮮半島の人のものと共通していることがわかりました。
人骨は1世紀から2世紀の弥生時代後期のものとされ、それより前から日本列島で暮らしてきた縄文系の人々との交わりもある程度、進んでいたと
考えられる時期ですが、DNAにそうした特徴は見られず、研究グループは、新たに渡来した人の集団だった可能性があるとみています。
まとまった数の弥生人のDNAから渡来人の集団の実態に迫る研究は初めてで、国立科学博物館の篠田謙一副館長は「さらに詳細な分析が可能な
核DNAの調査などを通して当時の状況を明らかにしたい」と話しています。
この調査については、19日から開かれる日本人類学会で報告されます。
NHKニュース
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20181019/k10011677081000.html https://www.asahi.com/articles/ASLBJ46N4LBJUCVL011.html
沖縄の建造物、初の国宝指定へ 琉球王家の陵墓「玉陵」
上田真由美2018年10月19日17時36分
文化審議会は19日、琉球王家の陵墓「玉陵(たまうどぅん)」(那覇市)を国宝に指定するよう文部科学相に答申した。
沖縄県では首里城正殿などが国宝だったが太平洋戦争で焼失し、戦後できた文化財保護法のもとでは県内の
建造物として初めての国宝指定となる。「大前(おおさき)神社」(栃木県真岡市)や「武知家住宅」(徳島県石井町)など
9件の重要文化財指定も答申した。
玉陵は首里城を居城とした琉球第二尚(しょう)王統の歴代の陵墓で、1501年に築造された。首里城跡などとともに
世界文化遺産「琉球王国のグスク及び関連遺産群」を構成する。石垣で囲まれた敷地の奥に3棟の墓室が並び、
遺体を安置して白骨になった後に洗ってから納骨する琉球の葬送慣習を伝える。東アジアで独自の発展をした
琉球の建築や葬墓制を象徴し、深い文化史的意義があると評価された。 >>60
> 朝鮮語にしても済州語との分岐年代が1200年前で
おっ、いいところに着目したね。これ誰が言っているの?ソースある?
中期朝鮮語から現代ソウル方言までの間にいろんな特徴が失われたけどその一部を済州方言が残している。
これだけならよく言われていることだけど、済州方言とその他の方言との関係を分岐学的に捉えたり、
ましてや祖語の年代と結びつけた議論をしているのを見たことがない。
前から探してるんだけどね。もし見つかったら俺としては大収穫だよ。 >>59
貴方の立場、何について一般的な見解を支持していて、何について独自意見を持っているのかは
説明してもらわないとわかんないからね。
何か主張するときはそんな感じでソースつけて。
ちょっと脱線なんだけど、オーストロネシアついでで一つ。
この2016年の報告についてどう思う?
https://europepmc.org/articles/pmc5515717
最初にポリネシアの入り口までやってきたラピタ人からは
まったくパプア系の要素が検出されなかったという話。
現代人は身体的特徴から見ても明らかにパプア系の血が入っているし
DNAからもそれは確認できる。
なぜ初期のラピタ人が成功せず、パプア系と混血した後発の集団が広がったんだと思う?
マダガスカルのマラリアみたいな要因がオセアニアにもある? >>59
系統樹を内心嫌っている言語学者は多そうだし、いろんな問題が指摘されるけど
それでも使われ続けているのは、言語の歴史の一番の特性が分化(そうでなければ置き換え)だからと思う。
貴方は、新石器時代やそれ以前の段階で、同じ語族の諸言語がかなりの広範囲に展開しつつ、
しかし数千年の長きに渡って収斂進化を続けたと主張している。この理解であってる?
もし本当にそうだとすると大発見じゃない?世界を見渡して、他にそういう事例がある?
琉球語派と上代東国方言からわかるのは、
・より新しい時代だと、日本語は普通に分化していっていたことと
・畿内の上代語の子孫でないけど、共通祖語の年代はそこから大してさかのぼらないこと
普通に考えれば、ほぼ同時期に、言語の置き換えが起きたと見るべきだろう。
もちろん置き換えられた側の基層言語が同系であった可能性は残るけど、
まずは置き換えイベント自体は認めないことにははじまらない。 言語には語彙・音韻・文法の諸要素があり
近しい言語の間だと部分的に融合したり置き換わったりはしばしばあることであるため
根本的に置き換わるという考え自体がまず前提として成り立たないのではないか?
中間形態の方言たるヤマトゥウチナーグチもまた日本語族を基層とした日本語族の言語だ まだかなり積み残しがあるな。
どれくらいの強度の接触でどれくらいの分岐あるいは収斂が起きるか知りたいけど
接触の強度を定量化するところからして難しいよね。
ともかく狩猟採集民(といっても縄文人は定住傾向があるようだけど)、初期農耕民、都が強い威信を持つ統一国家では
接触の様態も違う可能性を念頭に置くべきだろう。
初期農耕民と統一国家期については、このスレでもちょくちょく話題になってる五十嵐氏の最近の発表が参考になる。
共通の改新に基づく分岐学的手法を用いた日本語諸方言の系統分類: 南日本語派(琉球を含む)と東日本語派(八丈を含む)の提唱
https://researchmap.jp/mubvvfsxm-1856949/#_1856949
「肩・種・汗・雨」と「息・舟・桶・鍋」がアクセント型で区別される日本語本土方言 ―佐賀県杵島方言と琉球語の比較―
の資料は残念ながら消えてしまってる。
系統分類をする際には、九州(の一部)・琉球限定の共有改新だけをストイックに取り上げているけど、
アクセントを調べると、shared retentionも確認できる。
日本祖語にあったあるアクセントの区別は、本土からは失われて琉球だけに残ってると思われていたけど、
九州の一部でもその残滓が確認できるという驚きの報告。 五十嵐説を参考にすると九州方言は以下のように成立したのだろう
・畿内で上代語が成立した時期に、琉球祖語にある程度近い言語が話されていた
・その後千年くらい中央から継続的に影響を受け続けて、古い特徴はほとんど失われた
・とはいえ丁寧に調べれば古い特徴が見つかる
・その間に九州(の一部)だけの改新も起きた
基層言語の痕跡を探すのは一般に難しいし、特に方言となると資料に残らないことが多い。
そういうことも含めて、現代の言葉(=調査すればデータが得られる)からさかのぼるという
アプローチが前提なんだけど、>>60を見ると、そこが共有できてなかったみたい。
ギリシャでもアルメニアでもいいけど、もし検証に使えそうな資料が残っているなら教えて。 http://www.l.u-tokyo.ac.jp/~fkr/OguraProject.html
朝鮮語の方言の面白い資料見つけたからやるわ
これ見てると一部の語形にハングル創成以前にまで祖型を遡りうるものが含まれてんのだわ
分布のパターンも南北対立型・東西対立型・周圏論型・逆L字型とあって、単純に新羅語が全く違う言葉を話していた他の二国を塗り替えたと考えるのは無理な感じがする これいいな。
半島全体をカバーしようと思ったらやっぱり小倉進平しかないか。
せっかく電子化するなら、独自ソフトを使うんじゃなくて
標準的なフォーマットでデータも公開したらいいのに。 次はこれを読む。探せば日本語で同じことを書いてるかも。
宮本一夫(九大・考古学)
Archaeological Explanation for the Diffusion Theory of the Japonic and Koreanic Languages
http://www.jjarchaeology.jp/contents/pdf/vol004/4-1_053.pdf >>71
すげーなwwww
タイトルで言語がどーのこーの言ってるのに一言も言語のこと書かないで論文になるとかどんだけボロい仕事なんだ 専門が考古学なんだから、言語そのものじゃなくて話者集団について議論するのは当然じゃん
日本の考古学って物質文化以外に手を出さないみたいな変にストイックな雰囲気があるけど
ついに時代が変わったのかなあと思った。
同じ九大系でも『列島初期稲作の担い手は誰か』の対談なんかはひどいよ。
2014年の出版なのに、やり玉に挙げている人類学の研究が鈴木尚や埴原和郎あたりで、
いったいいつから時計の針が止まっているのかわかんない 文系学会が絡んでるものは半分も信用できないと思ってた方がいい ナマハゲなど「来訪神」、ユネスコ無形文化遺産登録へ
https://www.asahi.com/articles/ASLBC56R1LBCUCVL01D.html
文化庁は24日、ユネスコ(国連教育科学文化機関)の無形文化遺産に推薦している「男鹿のナマハゲ」(秋田県)など
「来訪神(らいほうしん) 仮面・仮装の神々」について、事前審査をしていた評価機関が「登録」を勧告したと発表した。
評価機関の登録勧告が覆った例はないといい、11月末からモーリシャスである政府間委員会で正式に決まる見通し。
@男鹿のナマハゲ(秋田県男鹿市)
A吉浜のスネカ(岩手県大船渡市)
B米川の水かぶり(宮城県登米市)
C遊佐の小正月行事(山形県遊佐町)
D能登のアマメハギ(石川県輪島市・能登町)
E見島のカセドリ(佐賀市)
F甑島のトシドン(鹿児島県薩摩川内市)※
G薩摩硫黄島のメンドン(同県三島村)
H悪石島のボゼ(同県十島村)
I宮古島のパーントゥ(沖縄県宮古島市)
※は2009年に登録済み 認定記念イベントでそれぞれが一堂に会する機会もありそうなんだが、パーントゥはちょっと無理っぽいよね? スレッドが下がるのが最近随分遅くなった
もとから少人数で回してたんだろうけど なんJとかいう連中も飽きたのか数が減ったんでしょ? ハングル板の名の通り朝鮮語に興味のある奴だけで集まるのが自然な姿よ それを言ったら琉球はどうなんだって話だがwww
ただマジな話、ショウハシ王統に関しては
朝鮮王朝実録こそが最も良質な史料ではある。
一番注目すべきは琉球の火器について。
これまでは国内の学者が妄想を膨らませて
三眼銃がどうのと言ってたが
そもそも当時朝鮮には
棒火矢=火筒と碗口銃しかなかった。
個人携行火器は棒火矢だけで
弾丸を発射できるものは無かった。
それが沖縄もウチと同じと言ってるんだから
そのように推定するのが当然
なおかつ火薬はほとんど入手できなかったと
強く推定される。
実用例が一切ない事実とも合致する。
中国は琉球にとっての打ち出の小槌みたいなのは
ただの妄想。
朝鮮にすら火器はほとんど供与せず
朝鮮は苦労して自力生産してるのに
琉球ごときに供与するわけがない。 朝鮮のものに関しては不明瞭だが
日本の棒火矢は矢に火薬や油を用いた
延焼機能が仕込まれていたようだから
オリジナルも同様の機能があったと思われる。
年代はかなり違うが
続雑兵物語に棒火矢の使用法が
書かれている。
直接照準はできず、
迫撃砲みたいに
放物弾道で投射するもので
命中率は低かったようだ。
初期から存在するのに
数百年間生き残ったのは焼夷効果があるからだろう
逆に弾丸に主役を奪われたのは
破壊力の低さ、命中率の低さによるのだろう
朝鮮は朝鮮征伐の少し前に
中国の弾丸式の銃と
自国の火筒を比較して
後者は子供のおもちゃだと述べている なおかつショウエン王統では
これらの火器は失われたと強く推定される
単純に一切記録がないから
傍証としては
地方兵柄が解散されたり
尚寧冊封時代の使琉球録に
刀などもほとんどないと記載されているなど
軍縮が行われている様子があるから。
実際問題として北進も停止している。
結局はショウトク時代が
琉球の軍拡路線の頂点だった。 取りこぼしていた>>49のいわゆる高句麗地名だけど
ボビンの怪しい論考(大昔にこのスレで取り上げた)は
日本語で解釈できる地名の分布域は漢江流域、辰韓=新羅と済州島
(といっても「耽羅」が日本語っぽいといっているだけ)と主張している。
https://www.academia.edu/6360018/From_Koguryo_to_Tamna
沿岸部かどうかは知らない。>>49はそのあたり真面目に検証したの?
水稲稲作地域とうまく対応しないのはその通り。
地名に残っているということは一般に古い層であることが推測される。
具体的にどこの誰がつけたかわからないのが地名のつらいところだが、
少なくとも「楽浪郡まで航海して通商した倭人」よりも
古くて土着している集団の方が蓋然性があるだろう。 娜々志娑无のまとめページは参考にはなるが
朝鮮語に知識がグダグダで不足していてそのままでは信用できないな
高句麗百済地名の中には明らかに朝鮮語で説明が付けられるのが多いで >なにぶん朝鮮語も漢語も専門外ゆえ、至らない点が多々あろうかと存じますが、その辺はご容赦下さいませ
まあ本人もこう言ってるからね
本人確認できないからあくまでも自称ではあるが、国語学者さんだったし http://www.himalayanlanguages.org/files/driem/pdfs/2018e.pdf
前スレ、前々スレの話題をしつこく取り上げるけど
現代日本人は
1)アミ族と共通する大陸集団 79%
2)伊川津縄文人と共通する集団 21%
の混合と推定されている。
さらに伊川津縄文人自体が
1)アミ族と共通する大陸集団 62%
3)ホアビン文化人と共通する集団 38%
の混合と推定されている。
1と3があまりにも昔の集団すぎて解像度が低いから
間をつなぐような集団のサンプルがほしい。
韓国はあまり期待できないし、中国からの報告を待つしかないか。 カラー写真で蘇る戦前・戦中・戦後の沖縄
京大学教授、首都大学東京客員教授の渡邉英徳教授のツイートまとめです。
可能な限り時系列で並べました。明記されていないものは地名や機体名、
作戦名が近い写真を時系列のわかるものの隣に配置しました。
https://togetter.com/li/1282337 五十嵐陽介(2018)「九州語と琉球語からなる「南日本語派」は成立するか?:共通改新としての九州・琉球同源語に焦点を置いた系統樹構築」
https://researchmap.jp/mum78mtck-1856949/#_1856949
シンポジウムにあわせてアップデートされてる。 この調子で朝鮮語の各方言も実は別々の言語だったとか三国時代の高句麗語の残存であるなどいう説を出してこないものだろうか
古事記では朝鮮語で山のことをムレやモロというが初期のハングル資料からはmojhもしくは複合語の一部としてmoroという形がでており、方言形の中には末子音-sを有するものがみとめられる
となればこれらの共通の祖先は確実に原三国時代以前になる筈なのだ >中央語を含む本土日本語では PJ *o, *e が(非語末で)それぞれ u, i に変化し,PJ *u, *o と
合流(Frellesvig and Whitman 2004, 2008; Pellard 2008, 2013, 2015, forthcoming; Frellesvig
2010)。
ところでこの特徴
卑彌呼の「卑彌」がなぜ「媛(ヒメ)」に対応するのかを説明する素晴らしい理論ではないか
全国の邪馬台国研究家のお歴々は是非ともこの論文を読んで賛同するべきだ 冷笑系とかいう珍妙なカテゴリが出来上がってるようですが、その定義を見る分では
本来のハン板住人のスタンスっぽいよね? http://www.tokugawa.ne.jp/encourage_2018.htm
第16回「徳川賞」
第16回の「コ川賞」は下記の著作を受賞作とすることに決定し、平成30年11月3日(祝)東海大学校友会館にて授与式を行います。
『近世日本政治史と朝廷』 著者: 山口 和夫
発行: 吉川弘文館
なお、本年度は「コ川賞」に加えて「コ川賞 特別賞」として次の著作が選定されました。
『世界史からみた「琉球処分」』 著者: ティネッロ・マルコ
発行: 榕樹書林
ティネッロ・マルコ(法政大学 沖縄文化研究所) ちなみに昨年の徳川賞は、上原兼善 『近世琉球貿易史の研究』 日本の遺伝学者がちんたらしている間に、今度はモンゴルの遺跡のデータが出てきた。
http://www.pnas.org/content/early/2018/10/31/1813608115
北部フブスグル県の紀元前1380–975年頃の複数個体の古代DNAと歯石を分析している。
考古学的に東部ステップにおける初期の遊牧民ではないかと思われていたところ
実際に反芻動物由来の乳製品を食べていたことが歯石から確認できた。
遊牧文化は年代的に先行する西部ステップから入ってきたと考えられるが
DNAを見ると西部からの移入は7%程度にすぎないことから
大規模な人口置換なしに、土着の狩猟採集民が文化的に適応したらしい。
西部ステップの文化はすぐ西隣のアルタイ・サヤン地域まで広がっていたにも関わらず
青銅器時代初期には没交渉だったことになる。
歴史の要約としてqpGraphを載せてくれたら分かりやすいんだけど載ってない。
全体として遺跡の民はチュルク系のトゥバ人に近く、モンゴル人にはそれほど近くない。
ただし、ツングース系っぽい女性とシンタシュタ文化人っぽい男性の2個体が外れ値になっている。
後者はYDNAハプログループもR1a1a1b2a2a。
残りは1個体がN1c1aである以外はすべてQ1aやその下位区分。
最近の報告はだいたいこんな感じで、狩猟採集民が遺伝的継続性が認められている。
逆に新勢力に簡単に置き換えられてしまったのはヨーロッパとユーラシア極北ぐらいじゃないか。 図書館に行ったら「日本祖語の再建」という服部四郎の新しい本が置いてたので借りてきた
思うに魏志倭人伝の国名人名を読み解くには紀元前後頃にあったとされる日本祖語を用いなければならない筈だ
同時に朝鮮語の中古音との対応関係が不規則な漢字音に残っている上古音の要素も解読の手助けになるだろう ヴィレラ神父は日本滞在十数年でゴアと日本を往復してるってことで、航路途中であっても
あやふやな伝聞になっちゃうほどの存在感だったわけだ琉球は 「ここに『琉球祖語』というのは、現在の琉球諸方言ばかりでなく、
九州方言の少なくとも一部を含む諸方言の祖語であるかも知れないから、
名称としてははなはだ不適当なわけであるが、『少なくとも琉球諸方言』の祖語という意味で、
差し当たりこの名称を用いることする。」(服部1978-79/2018: 315)
https://twitter.com/yosukeigarashi/status/1052206155877904384
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) ヴィレラはWikipedia見てみたら、日本語以外では何故かペルシャ語しかないのな
ポルトガル語どころか英語でも、日本布教のページに名前は確かにあるが、単独の項目はないんだ 辛 淑玉(在日)の経歴( 女史のホームページより )
1959年1月16日 東京渋谷区で生まれる。 現在ドイツに逃亡中w
小学校:転校、不登校の繰り返し。小学校2年まで通う。
中学校:転校、不登校、家出の末、中学校3年の一年間のみ通う。
高校:卓球と絵が上手だったので合格( いまでいう一芸入学 )。
入学当時、「 ツ 」と「 シ 」、「 ン 」と「 ソ 」の違いがわからなかった。
教師のお目こぼし、配慮にて、なんとか卒業。
卒歴:都立第一商業高校( 実際の学歴…小学校2年? )
■2000年 講師派遣業者における人気講師ベスト8に選ばれる
■2002年 NHK教育番組「 わたしの生きる道 」番組委員
■2003年4月〜 明治大学政治経済学部特別招聘教授
★私の大嫌いな言葉 : 頑張る、和、恨、ウリ、国益 Dake 「竹」のように、本土で清音始まりなのに琉球で濁音始まりになる単語が
前々スレで話題になったけど、服部四郎は>>99の本の364頁に次のように書いている。
[語頭子音の]「濁音化」はその単語の意味に「感情価値観的」意義特徴を加えるもので、
琉球諸方言のかなりの単語に見られる。
この短い文だけではよくわからないが、ここ以外でこの現象には触れていない。 “マッチョ”な弥生人 その正体は!?
https://www3.nhk.or.jp/news/web_tokushu/2018_1114.html
弥生時代、女王・卑弥呼が治めた「邪馬台国」があったという説もある九州北部。
ことし8月、長崎県佐世保市の離島、高島で古代史の研究者を驚かせるものが発掘されました。
それは、下半身に比べ上半身が異常に太く、驚くほど“マッチョ”な体型をしていた弥生時代の人骨です。
“マッチョ”な理由を探ってみると、古代人たちの知られざる営みが見えてきました。
「この集団は、“貝の交易”をやっていた、つまり貝の運び屋だったんじゃないか」(海部さん)
“貝の交易”とは何かを知るために、福岡県飯塚市にある飯塚市歴史資料館を訪ねました。
ここには、弥生時代の遺跡から発掘されたものが展示されています。
銅鏡や祭器などの宝物が数多く並ぶ中、ひときわ目立っていたのが白い腕輪です。
「貝輪」と呼ばれる装飾品で、当時の権力者が身につけていたとされています。
この貝輪、弥生文化が花開いた佐賀や福岡など九州北部の各地で出土しています。
使われているのは「ゴホウラ」という巻き貝。九州近海ではなく、
沖縄や奄美大島など南の海だけに生息しています。
1000km以上の距離を、誰がどうやって運んできたのか、これまで大きな謎でした。
高島の弥生人の独特なマッチョ体型は、舟をこいで長距離を移動していた証しではないかというのです。
2000年前に、沖縄から舟をこいで九州まで貝を運んでいた集団がいたわけですね。
今回の発見で、そうした運び屋たちの顔が少しずつ見えてきました」(海部さん) >>93
中央語のiの一部がeに由来するという説だよ。
中央語でeのヒメと何の関係があるの? もし複合語の語中要素として末尾以外にeが来ればそれはiになる 俺にはどういうロジックなのかわからないよ。
複合語はどこから出てきた?服部説とは別の主張? 祖語の*eが上代語では分裂して、語末で甲類e、それ以外では甲類iになるという説は
服部の時代にはまだなくて、Frellesvig and Whitman (2008)あたりの提案らしい。
邪馬台国時代にヒメ+コをその場で複合したのなら、この規則は適用しようがない。
ということは、祖語に近い段階で複合語が成立して化石化し、邪馬台国時代まで受け継がれたことになる。
(ついでにいうと、上記の変化が邪馬台国時代までに完了していたという仮定も必要)
それにもかかわらず、その後上代語になるまでにこの複合語が失われたというのは不自然じゃない? ちなみにヒメという語は琉球諸語には見当たらないようだ https://twitter.com/rebisdungeon/status/618397211055906816
Rebis? @rebisdungeon
「ゴリラ女房」
沖縄県の……
いや…詳しくは…ひみつ…
ゴリラが…女房になる…
親戚(?)に虎女房とか蛇女房とか熊女房もいる…
嘘じゃない…違う…僕は正気だ! そのうち漫画に出します。
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) https://twitter.com/FakeRokuoLoto/status/1065406818438983680
https://pbs.twimg.com/media/DskVyrcU4AApI9B.jpg
FakeRokuoLoto? @FakeRokuoLoto
「日本人の形成に至る東アジアのY染色体ハプログループと民族移動」
https://twitter.com/xiongmao53/status/1065611501338210304
https://pbs.twimg.com/media/DsnNuXtU4AIKSKU.jpg
https://pbs.twimg.com/media/DsnQAOKUwAAaoqG.jpg
熊猫さん? @xiongmao53
ミトコンドリアDNA(母系)とY染色体(父系)の相違について、篠田は『日本人になった祖先たち』(2007年)で
より詳細に論じていました。mtDNAに関しては、中国東北部(山東・遼寧)・朝鮮半島・本土日本では、
そのハプログループ構成は殆ど変わらないと言います。
しかるに、父系の歴史を反映するY染色体遺伝子のハプログループ構成は、中国北東部と朝鮮半島は似ていますが、
本土日本とは大きく異なっているのです。
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) >>115
http://tyz-yokai.blog.jp/archives/1051589334.html
>沖縄県の「読谷村民話資料集」の一編として刊行された『儀間の民話』(昭和58年)には、大正五年生まれの話者による「ゴリラ女房」という民話が収録されています。
解説したサイトがあった。
戦後に作り出された、民話というよりもホラ話の類みたいだね。 https://www.asahi.com/articles/ASLCM74YXLCMPLZB01V.html
朝日新聞デジタル
琉球王朝の子孫ら、京都大に遺骨の返還求め提訴へ 川村貴大2018年11月28日16時01分
旧京都帝国大(現京都大)の人類学者が1929年、沖縄県今帰仁村(なきじんそん)の墓から
少なくとも26人の遺骨を研究目的で持ち去ったとして、琉球王家の子孫ら5人が12月4日、
京大に遺骨の返還を求める訴訟を京都地裁に起こす。原告弁護団は「琉球民族の遺骨返還を
求める訴訟は全国で初めて」としている。
墓は91年に村の指定文化財になった「百按司(ももじゃな)墓」。村教委によると、
1406〜69年に沖縄を治めた王家「第一尚氏(しょうし)」に関係する人が埋葬された。
京都帝大医学部の金関丈夫(かなせきたけお)助教授(1897〜1983)が1929年、
遺骨の特徴を調べて日本人の成り立ちを探ろうと持ち帰り、村は26人の遺骨が京大総合博物館
にあると確認しているという。
原告は第一尚氏の子孫2人と、琉球民族遺骨返還研究会代表の松島泰勝(やすかつ)・龍谷大教授
(地域経済論)ら沖縄出身者3人。遺骨の返還と原告1人あたり10万円の慰謝料を求める。警察や
行政の許可は得たが、地域住民の合意は得ていなかったと主張する方針だ。原告側は昨春以降、
京都大に遺骨の保管状況を尋ね、返還を求めたが、京都大は「問い合わせや要望には応じかねる」
と返答したという。
松島教授は「琉球人にとって遺骨は死者の霊魂そのもの。信仰を守るため返還が必要」と話す。
京都大広報課は「提訴に関してはコメントを差し控える。所蔵品は順次調査をしているが正確な把握に
時間を要し、個別の問い合わせに応じるのは難しい」としている。 https://twitter.com/Isepo2/status/1043415988522237952
Isepo? @Isepo2
朝鮮半島における無文土器文化の担い手が日琉語話者であったというWhitmanの論文。
1:25 - 2018年9月22日
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) >>121
琉球人が弥生文化を有してないことを知らんで書いた論文か?
すげえトンデモすぎて読む気失ったゾ 貝塚時代沖縄人はともかく、喜界島移住民の流れが中世琉球人なんじゃないの? 琉球諸方言は何千年も前に分岐したと考えるにはあまりにも本土諸方言に似すぎているし
南琉球諸方言には北琉球の一部の地域とのつながりは確認できない。
もちろん首里方言からの新しめの借用を除けばだが。
南琉球が分岐した段階では北琉球は(それほど)分化していなかったということだ。 琉球語や上古東国方言には現在の日本語の単語と語末の母音だけが違う単語が散見される
これらは日琉祖語の時代ですら多重語であったと考えなければ辻褄が合わない あいかわらず断片的で、どういうロジックなのか謎だ。
細かい見解の相違はいろいろあるけど
中央方言で高母音化が起きたのに対して
東国と琉球はその点では祖語の状態を維持している
というのが服部以来の議論のはずだが
それを否定する説をとなえているということ?
「多重語」はどういう意味で使ってるの? ココロをココリと言ったりカラスをガラサーと言うのは祖語からの法則的な変化では到底説明できへんぞ ひょっとしてわざと小出しにしている?
自説をまともに説明するとボロが出るからとか? ミナト(水門)やミナモ(水面)の構成要素のミ(水)は*miだが
単独の単語のミヅ(水)は*mentuなので両者のなかの「ミ」は祖語の状態では既に*miと*meに分かれた二重語であることが判明している
これを共通の祖型から分かれ出たとするには曽祖語を想定する必要がある 来年の2月24日は沖縄県民投票なんだそうだけれど
天皇在位30年記念式典の日なんだよねえ
(投票自体はともかく)政治的意図も何も、玉城知事は何も考えずに決めたんだろうなあ これ実際どうなん?
1巻の表紙イラストを見る分では、組踊の衣装をそのままイラスト化してるが、まさかそれを史実を考証した復元図とか言ってないよね・・?
https://ryukyushimpo.jp/news/entry-849566.html
琉球新報『絵で解る琉球王国 歴史と人物2』 琉球歴史の豊かさ わかりやすく 例のカタカシラとかも含めて?
衣装風俗の考証やってるのって高良上里ライン以外にいた? 喜界島の研究結果をまとめたブログがあったじゃん
誰かの講演会に参加して
そのスライド内容を
適当にまとめて書いてあるやつ。
あれどこだったかな? <社説>奄美復帰65年 琉球弧として共に発展を
https://ryukyushimpo.jp/editorial/entry-853374.html
>津留さんは「戦争は奄美と沖縄を日本から切り離し、さらに奄美を沖縄から切り離した」と語る。
>こうした分断に伴う人々の苦しみを忘れてはならない。
奄美差別は他人事ですね https://twitter.com/CatNewsAgency/status/1079550021320593409
CatNA? @CatNewsAgency
北京での沖縄独立会議に出席した日本人。
比屋根照夫 琉球大名誉教授
又吉盛清 沖縄大客員教授
大田静男 八重山郷土史家
友知政樹 沖縄国際大教授
新垣毅 琉球新報東京報道部長
吉田伸 沖縄タイムス学芸部記者
松島泰勝 龍谷大教授
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) 琉大考古学の池田榮史といえばこのスレでもちょくちょく登場してたと思うけど
沖縄での調査よりも、九州西部の鷹島沖の元寇沈没船の調査の方が有名だ。
去年池田が出した『海底に眠る蒙古襲来:水中考古学の挑戦』は
調査の苦労話ばかり書いてあって、誰が想定読者なんだか分かんない。
日本にノウハウがなかったから苦労しただけで
海外では普通にできていた気配があるんだけど、どうなんだろう? 琉球語音声データベースいつまでメンテしてるねん
いい加減再開してくれへんとワイの趣味の日琉祖語と朝鮮語の比較研究が進めれへんでイライラや 気になったから海洋考古学(水中考古学)で検索するとこんなもんか
国学院出身の池田榮史はどこで学んだのかな
小江慶雄
1970年代以降に地中海を中心として調査が進められていた欧米の水中考古学を幅広く日本の
考古学会に紹介し、島国である日本における水中遺跡調査の必要性を積極的に教授したが、
当時は陸上の遺跡調査が優先であって協力・賛同を得ることは困難であった。特に郷里の
葛籠尾崎湖底遺跡の研究では多数の土器の調査・分析をし、琵琶湖周辺に関する湖中遺跡の研究に尽力した。
Q.日本で海洋考古学が学べる大学はありますか?
2008年まではこの質問に対しての答えは”NO”でした...しかし、2009年度から日本国内でも
正式に水中・海洋考古学が大学で学べるようになりました!東京海洋大学がこのたび日本発の
カリキュラムを組みました。
数年前から東海大学の海洋文明学科のクラスの中で多少取り扱っていたようですが、本格的に
この学問を学びたいのであれば留学するしか方法はありませんでした。しかし、2009年度から
東京海洋大学で本格的にプログラムが始動しました。 池田が水中考古学を学んだ経緯は『海底に眠る蒙古襲来』で説明している。
琉大に採用されてから、学生が卒業研究でやりたいと言ったからだそうだ。
>>144では厳しめに書いたけど、読み物としてはそこそこ面白いよ。 件のブログを読んでみたんですが、第二尚氏が王権の弱い郡臣連合政権なら、なんで首里に士族を集める
武装解除的なことをやったんでしょうか?
王ではなく、首里士族が地方豪族の力を取り上げたってことかな? 2009年に国指定史跡に登録された遺跡に赤木名城跡(あかきなじょうあと)がある。
奄美大島北部の奄美市笠利町にあった山城なんだが、この「赤木名城」の「城」をどう読むかを問題にしたい。
2003年の調査報告書は「赤木名グスク」と呼んでいる。
https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/list/46/46222/item/21499
2008年の奄美市教育委員会編集の『赤木名城』は「城」の読みを記していない。
「赤木名グスク」が21頁の図に一箇所だけ出てくる。昔作った図の使い回しのようだ。
https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/index_pc.html
この冊子を作ったのは、おそらく史跡登録の準備のためだろう。
2009年の奄美市教育委員会の『史跡赤木名城跡保存管理計画書』は
38頁の「史跡「赤木名城跡」の概要」で一度だけ「あかきなじょうあと」という読みを載せている。
https://www.city.amami.lg.jp/bunka/kyoiku/bunka/bunkazai/documents/akakinajoatohozonkanrikeikusyo.pdf
これを見ると、史跡登録のために仕方なく読みを定めたけど、あまりそれを明らかにしたくないみたいだ。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E6%9C%A8%E5%90%8D%E5%9F%8E
>中国大陸からの影響で城壁の発達している琉球のグスクと比較すると、石材がほぼ加工されていない・防衛機能がやや低いという特徴が見られる。
>特に加工した石材の少なさは同じく防衛機能の低い先島諸島のものと比べても際立っている。 かつて奄美大島の城は沖縄におけるグスク研究の
>周辺事例という扱いだったが、先述のような本土の特徴が認められる城跡が赤木名城・伊津部勝グスクなど複数確認されており、九州から沖縄県に
>かけての歴史を考察するにあたり重要なものとなった。特に赤木名城は規模が大きく特徴が顕著であり、これによって2009年(平成21年)2月12日に
>国の史跡に指定された。
wikipediaでもこんな風に書かれてるじゃないの
本土系の城なら「じょう」でかまわないんでは 2003年の『赤木名グスク遺跡』ではこんなことが書いてある
https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/list/46/46222/item/21499
当時から赤木名グスクとしての言い伝えが残っていたと言う。
字名は「溜池の又」などになっているが
通称「赤木名グスク」として地元の人々から親しまれていることから
報告書に「赤木名グスク」と記載して提出した。
以降の出版物にはこういう記述は出てこないようだ。
遺跡がそこそこ有名になってしまった今では検証するのは難しいだろうけど、これ本当か?
「地元」の範囲次第ではあるが、赤木名の人間が赤木名グスクなんてわざわざ呼ぶか?
地元では単に「グスク」と呼ばれていたのを
外部の研究者が勝手に「赤木名グスク」と名付けた可能性を疑う これ面白いなあ。縄文晩期でも喜界島が拡散の起点だったみたいだ。
設楽 博己:南西諸島の大洞系土器とその周辺
https://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=49342&item_no=1&page_id=28&block_id=31
縄文晩期終末の東日本系の土器が西日本一帯に分布しており、奄美地方でも確認されていたが、
沖縄県北谷町平安山原遺跡群で大洞A1式系土器と土製品が検出され、
分布は沖縄県域に及ぶことがわかった。この論文では、奄美・沖縄地方など
南西諸島の縄文晩期終末の大洞系土器とそれに関連する資料13例を実見した結果を報告する。
奄美地方の大洞系土器に土着化傾向のあることがすでに指摘されていたが、
製作技術の多様性の分析からそれを追認するとともに、
平安山原B遺跡出土土器が製作されたのは西日本であるにしても
東北地方北部の直接的な関与は否定できないことを指摘した。
南西諸島の東日本系土器は東北系と北陸・山陰系を中心に展開するが、
13例のなかでも喜界町矢筈遺跡の土器は、
祖形となる東北地方の大洞A1式土器と北陸地方の長竹式土器に最も近く、
この遺跡が南西諸島における東日本系土器拡散の起点である可能性も浮かび上がった。 1987年の『鹿児島県の中世城館跡』以降,奄美群島関連では,
中世城郭をグスクと表記するのが一般化した。
それは奄美群島の中世城郭の概念を示すものであって,再々記している様に,
実際にはグスクと呼ばれていないものも含んでいたし,逆にグスクと付いていても,
中世城郭には馴染まないものがあることも理解されるようになってきた。
なかでも,1994年以降,尾根の悉皆踏査を実施した成果である
2001年の『名瀬市グスク詳細分布調査報告書』は,
尾根にある遺構をグスクとは呼ばず奄美大島型城郭遺跡と仮称するよう提言した。
これらを考慮し,奄美群島の中世城郭を整理すると,奄美群島の中世城郭を
グスクで表記することを,再検討する機運が醸成されたと思われてならない。
https://www.city.amami.lg.jp/bunka/kyoiku/bunka/bunkazai/documents/akakinajoatohozonkanrikeikakusyohuhen.pdf
三木靖はこんなことぐだぐだと言ってないで、専門用語もどきの「グスク」を捨てて、
素直に中世城郭を「中世城郭」と呼べばいいのに。
それにしても、この爺さん、80を過ぎても元気だ
http://blog.livedoor.jp/satoyamaym/ 喜界島手久津久地区の崩リ(くんでぃ)遺跡の調査報告書(2018)が読める。
縄文時代と中世の遺構のうち、特筆すべきは中世の製鉄炉が発見されたことなんだが、
城久遺跡とくらべて今ひとつ世間が盛り上がっていないのはどうしてだろう。
https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/list/46/46529/item/22634
SD17から出土した鉄滓は製鉄炉の炉内残留滓・炉外流出滓であることが確認され,
製鉄操業のすべての工程の鉄滓が揃っていることや,
浸食の進んだ炉壁などから喜界島で製鉄操業を行っていたことが明らかになった。
出土した炉壁から,炉の形態は熊本・宮崎・大分等の中世自立炉に系譜を持つと想定されているが,
小型であることが指摘されている(第W章第1節参照)。
残念ながら炉本体は確認できなかったが,SD17周辺にあったことが推察される。
SD17の遺物出土状況から製鉄炉は概ね11世紀〜12世紀代に操業されていたと考えられ,
中世日本最南端の事例になる。
現在でも喜界島では畑地帯総合整備事業に伴った大規模な発掘調査が続いている。
調査が終了し,整理作業中である中増遺跡や川寺遺跡からは
城久遺跡と同規模と考えられる中世集落跡,
荒木中央地区の調査では縄文時代後期〜晩期と考えられる大規模な集落跡も見つかっている。
これらの遺跡は順次報告書を刊行してゆく予定である ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています