アンパンマンはハズレ無し [無断転載禁止]©2ch.net
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。
子供達に大受けするので、この絵を描けたりキャラの名前を知っておいて損は無いよ。 アソパソマソのアホなAAで荒らしている馬鹿をみてからあんまり好きじゃなくなった 流行廃りがあるなかでかなり人気が続いた方じゃないの 先輩の息子が何回も同じビデオを見てたなあ
子供と一緒に同じ話数を見ているから、アンパンマンの次の台詞すら頭で覚えてしまったと惚気られたw ポケモンとかヒーロー戦隊とかプリキュアも覚えてた方がいいぞ あんぱんま!あんぱんま!ってキャッキャと騒いでいた甥っ子がサラリーマン3年目 甥と姪が幼い頃は膝に抱きついてきてくれたのを思い出す。
かわいいなあと思って頭ナデナデしてたなあ。 俺等が美女を見てしまうように、子供はアンパンマンが大好きだからな。 2017年最後のご挨拶行脚です。
来年もどうか宜しくお願い致します。 友達から教えてもらった自宅で稼げる方法
少しでも多くの方の役に立ちたいです
グーグル検索『金持ちになりたい 鎌野介メソッド』
FT60M アンパンマン歴代主題歌まとめ〜youtube動画リンクを作りました〜
http://youtubelib.com/anpanman-songs
1.1 オープニングテーマ編
1.1.0.1 1. ドリーミング『アンパンマンのマーチ』
1.2 エンディングテーマ編
1.2.0.1 1. ドリーミング『勇気りんりん』
1.2.0.2 2. ドリーミング『クリスマスの谷』
1.2.0.3 3. CHA-CHA『アンパンマンたいそう』
1.2.0.4 4. ドリーミング『アンパンマンたいそう』
1.2.0.5 5. ドリーミング『サンサンたいそう』
1.2.0.6 6. 中尾隆聖(バイキンマン)『いくぞ! ばいきんまん』
1.2.0.7 7. ドリーミング『ドレミファアンパンマン』
1.2.0.8 8. ドリーミング『サンタが町にやってくる』
1.2.0.9 9. コキンちゃん(平野 綾)『あおいなみだ-コキンのうた-』 彼の爾後の作家生涯は、その善を探求すべき労作だったと称しても好い。 この道徳的意識に根ざした、リアリスティックな小説や戯曲、―― 現代は其処に、恐らくは其処にのみ、彼等の代弁者を見出したのである。 彼が忽ち盛名を負ったのは、当然の事だと云わなければならぬ。 と云う題の下に、バアナアド・ショオの評論を草した。 人は彼の戯曲の中に、愛蘭土劇の与えた影響を数える。 しかしわたしはそれよりも先に、戯曲と云わず小説と云わず、彼の観照に方向を与えた、ショオの影響を数え上げたい。 ショオの言葉に従えば、「あらゆる文芸はジャアナリズムである。」 こう云う意識があったかどうか、それは問題にしないでも好い。 が、菊池はショオのように、細い線を選ぶよりも、太い線の画を描いて行った。 その画は微細な効果には乏しいにしても、大きい情熱に溢れていた事は、我々友人の間にさえ打ち消し難い事実である。 (天下に作家仲間の友人程、手厳しい鑑賞家が見出されるであろうか?) この事実の存する限り、如何に割引きを加えて見ても、菊池の力量は争われない。 菊池は Parnassus に住む神々ではないかも知れぬ。 が、その力量は風貌と共に宛然 Pelion に住む巨人のものである。 が、容赦のないリアリズムを用い尽した後、菊池は人間の心の何処に、新道徳の礎を築き上げるのであろう? しかし真と善との峰は、まだ雪をかぶった儘深谷を隔てているかも知れぬ。 菊池の前途もこの意味では艱険に富んでいそうである。 わたしの一番会いたい彼は、その峰々に亘るべき、不思議の虹を仰ぎ見た菊池、―― 我々の知らない智慧の光に、遍照された菊池ばかりである。 加州石川郡金沢城の城主、前田斉広は、参覲中、江戸城の本丸へ登城する毎に、必ず愛用の煙管を持って行った。 当時有名な煙管商、住吉屋七兵衛の手に成った、金無垢地に、剣梅鉢の紋ぢらしと云う、数寄を凝らした煙管である。 前田家は、幕府の制度によると、五世、加賀守綱紀以来、大廊下詰で、席次は、世々尾紀水三家の次を占めている。 勿論、裕福な事も、当時の大小名の中で、肩を比べる者は、ほとんど、一人もない。 だから、その当主たる斉広が、金無垢の煙管を持つと云う事は、寧ろ身分相当の装飾品を持つのに過ぎないのである。 しかし斉広は、その煙管を持っている事を甚だ、得意に感じていた。 もっとも断って置くが、彼の得意は決して、煙管そのものを、どんな意味ででも、愛翫したからではない。 彼はそう云う煙管を日常口にし得る彼自身の勢力が、他の諸侯に比して、優越な所以を悦んだのである。 つまり、彼は、加州百万石が金無垢の煙管になって、どこへでも、持って行けるのが、得意だった―― そう云う次第だから、斉広は、登城している間中、殆どその煙管を離した事がない。 人と話しをしている時は勿論、独りでいる時でも、彼はそれを懐中から出して、鷹揚に口に啣えながら、長崎煙草か何かの匂いの高い煙りを、必ず悠々とくゆらせている。 勿論この得意な心もちは、煙管なり、それによって代表される百万石なりを、人に見せびらかすほど、増長慢な性質のものではなかったかも知れない。 が、彼自身が見せびらかさないまでも、殿中の注意は、明かに、その煙管に集注されている観があった。 そうして、その集注されていると云う事を意識するのが斉広にとっては、かなり愉快な感じを与えた。―― 現に彼には、同席の大名に、あまりお煙管が見事だからちょいと拝見させて頂きたいと、云われた後では、のみなれた煙草の煙までがいつもより、一層快く、舌を刺戟するような気さえ、したのである。 斉広の持っている、金無垢の煙管に、眼を駭かした連中の中で、最もそれを話題にする事を好んだのは所謂、お坊主の階級である。 彼等はよるとさわると、鼻をつき合せて、この「加賀の煙管」 「同じ道具でも、ああ云う物は、つぶしが利きやす。」 「貴公じゃあるまいし、誰が質になんぞ、置くものか。」 するとある日、彼等の五六人が、円い頭をならべて、一服やりながら、例の如く煙管の噂をしていると、そこへ、偶然、御数寄屋坊主の河内山宗俊が、やって来た。―― の中の、主な rol をつとめる事になった男である。 調子にのって弁じていた了哲と云う坊主が、ふと気がついて見ると、宗俊は、いつの間にか彼の煙管入れをひきよせて、その中から煙草をつめては、悠然と煙を輪にふいている。 宗俊は、了哲の方を見むきもせずに、また煙草をつめた。 そうして、それを吸ってしまうと、生あくびを一つしながら、煙草入れをそこへ抛り出して、 「なに、金無垢の煙管なら、それでも、ちょいとのめようと云うものさ。」 と繰返して、「そんなに金無垢が有難けりゃ何故お煙管拝領と出かけねえんだ。」 さすがに、了哲も相手の傍若無人なのにあきれたらしい。 了哲はきれいに剃った頭を一つたたいて恐縮したような身ぶりをした。 河内山はこう云って、煙管をはたきながら肩をゆすって、せせら笑った。 斉広がいつものように、殿中の一間で煙草をくゆらせていると、西王母を描いた金襖が、静に開いて、黒手の黄八丈に、黒の紋附の羽織を着た坊主が一人、恭しく、彼の前へ這って出た。 斉広は、何か用が出来たのかと思ったので、煙管をはたきながら、寛濶に声をかけた。 それから、次の語を云っている中に、だんだん頭を上げて、しまいには、じっと斉広の顔を見つめ出した。 こう云う種類の人間のみが持って居る、一種の愛嬌をたたえながら、蛇が物を狙うような眼で見つめたのである。 「別儀でもございませんが、その御手許にございまする御煙管を、手前、拝領致しとうございまする。」 その視線が、煙管へ落ちたのと、河内山が追いかけるように、語を次いだのとが、ほとんど同時である。 宗俊の語の中にあるものは懇請の情ばかりではない、お坊主と云う階級があらゆる大名に対して持っている、威嚇の意も籠っている。 煩雑な典故を尚んだ、殿中では、天下の侯伯も、お坊主の指導に従わなければならない。 それからまた一方には体面上卑吝の名を取りたくないと云う心もちがある。 しかも、彼にとって金無垢の煙管そのものは、決して得難い品ではない。―― この二つの動機が一つになった時、彼の手は自ら、その煙管を、河内山の前へさし出した。 宗俊は、金無垢の煙管をうけとると、恭しく押頂いて、そこそこ、また西王母の襖の向うへ、ひき下った。 すると、ひき下る拍子に、後から袖を引いたものがある。 ふりかえると、そこには、了哲が、うすいものある顔をにやつかせながら、彼の掌の上にある金無垢の煙管をもの欲しそうに、指さしていた。 河内山は、小声でこう云って、煙管の雁首を、了哲の鼻の先へ、持って行った。 河内山は、ちょいと煙管の目方をひいて見て、それから、襖ごしに斉広の方を一瞥しながら、また、肩をゆすってせせら笑った。 では、煙管をまき上げられた斉広の方は、不快に感じたかと云うと、必しもそうではない。 それは、彼が、下城をする際に、いつになく機嫌のよさそうな顔をしているので、供の侍たちが、不思議に思ったと云うのでも、知れるのである。 彼は、むしろ、宗俊に煙管をやった事に、一種の満足を感じていた。 あるいは、煙管を持っている時よりも、その満足の度は、大きかったかも知れない。 何故と云えば、彼が煙管を得意にするのは、前にも断ったように、煙管そのものを、愛翫するからではない。 実は、煙管の形をしている、百万石が自慢なのである。 だから、彼のこの虚栄心は、金無垢の煙管を愛用する事によって、満足させられると同じように、その煙管を惜しげもなく、他人にくれてやる事によって、更によく満足させられる訳ではあるまいか。 たまたまそれを河内山にやる際に、幾分外部の事情に、強いられたような所があったにしても、彼の満足が、そのために、少しでも損ぜられる事なぞはないのである。 そこで、斉広は、本郷の屋敷へ帰ると、近習の侍に向って、愉快そうにこう云った。 しかし御用部屋の山崎勘左衛門、御納戸掛の岩田内蔵之助、御勝手方の上木九郎右衛門―― この三人の役人だけは思わず、眉をひそめたのである。 加州一藩の経済にとっては、勿論、金無垢の煙管一本の費用くらいは、何でもない。 が、賀節朔望二十八日の登城の度に、必ず、それを一本ずつ、坊主たちにとられるとなると、容易ならない支出である。 あるいは、そのために運上を増して煙管の入目を償うような事が、起らないとも限らない。 三人の忠義の侍は、皆云い合せたように、それを未然に惧れた。 そこで、彼等は、早速評議を開いて、善後策を講じる事になった。 それは、煙管の地金を全然変更して、坊主共の欲しがらないようなものにする事である。 が、その地金を何にするかと云う問題になると、岩田と上木とで、互に意見を異にした。 岩田は君公の体面上銀より卑しい金属を用いるのは、異なものであると云う。 上木はまた、すでに坊主共の欲心を防ごうと云うのなら、真鍮を用いるのに越した事はない。 今更体面を、顧慮する如きは、姑息の見であると云う。―― が、まず、一応、銀を用いて見て、それでも坊主共が欲しがるようだったら、その後に、真鍮を用いても、遅くはあるまい。 そこで評議は、とうとう、また、住吉屋七兵衛に命じて銀の煙管を造らせる事に、一決した。 斉広は、爾来登城する毎に、銀の煙管を持って行った。 やはり、剣梅鉢の紋ぢらしの、精巧を極めた煙管である。 彼が新調の煙管を、以前ほど、得意にしていない事は勿論である。 第一人と話しをしている時でさえ滅多に手にとらない。 同じ長崎煙草が、金無垢の煙管でのんだ時ほど、うまくないからである。 が、煙管の地金の変った事は独り斉広の上に影響したばかりではない。 三人の忠臣が予想した通り、坊主共の上にも、影響した。 しかし、この影響は結果において彼等の予想を、全然裏切ってしまう事に、なったのである。 何故と云えば坊主共は、金が銀に変ったのを見ると、今まで金無垢なるが故に、遠慮をしていた連中さえ、先を争って御煙管拝領に出かけて来た。 しかも、金無垢の煙管にさえ、愛着のなかった斉広が、銀の煙管をくれてやるのに、未練のあるべき筈はない。 彼は、請われるままに、惜し気もなく煙管を投げてやった。 しまいには、登城した時に、煙管をやるのか、煙管をやるために登城するのか、彼自身にも判別が出来なくなった―― これを聞いた、山崎、岩田、上木の三人は、また、愁眉をあつめて評議した。 こうなっては、いよいよ上木の献策通り、真鍮の煙管を造らせるよりほかに、仕方がない。 そこで、また、例の如く、命が住吉屋七兵衛へ下ろうとした―― 一人の近習が斉広の旨を伝えに、彼等の所へやって来た。 河内山宗俊は、ほかの坊主共が先を争って、斉広の銀の煙管を貰いにゆくのを、傍痛く眺めていた。 ことに、了哲が、八朔の登城の節か何かに、一本貰って、嬉しがっていた時なぞは、持前の癇高い声で、頭から「莫迦め」 が、ほかの坊主共と一しょになって、同じ煙管の跡を、追いかけて歩くには、余りに、「金箔」 その高慢と欲との鬩ぎあうのに苦しめられた彼は、今に見ろ、己が鼻を明かしてやるから―― と云う気で、何気ない体を装いながら、油断なく、斉広の煙管へ眼をつけていた。 すると、ある日、彼は、斉広が、以前のような金無垢の煙管で悠々と煙草をくゆらしているのに、気がついた。 そこで彼は折から通りかかった了哲をよびとめて、そっと顋で斉広の方を教えながら囁いた。 了哲はそれを聞くと、呆れたような顔をして、宗俊を見た。 銀の煙管でさえ、あの通りねだられるのに、何で金無垢の煙管なんぞ持って来るものか。」 第一、百万石の殿様が、真鍮の煙管を黙って持っている筈がねえ。」 宗俊は、口早にこう云って、独り、斉広の方へやって行った。 あっけにとられた了哲を、例の西王母の金襖の前に残しながら。 了哲は、下唇をつき出しながら、じろじろ宗俊の顔を見て、 河内山は懐から、黄いろく光る煙管を出したかと思うと、了哲の顔へ抛りつけて、足早に行ってしまった。 了哲は、ぶつけられた所をさすりながら、こぼしこぼし、下に落ちた煙管を手にとった。 彼は忌々しそうに、それを、また、畳の上へ抛り出すと、白足袋の足を上げて、この上を大仰に踏みつける真似をした。…… それ以来、坊主が斉広の煙管をねだる事は、ぱったり跡を絶ってしまった。 何故と云えば、斉広の持っている煙管は真鍮だと云う事が、宗俊と了哲とによって、一同に証明されたからである。 そこで、一時、真鍮の煙管を金と偽って、斉広を欺いた三人の忠臣は、評議の末再び、住吉屋七兵衛に命じて、金無垢の煙管を調製させた。 前に河内山にとられたのと寸分もちがわない、剣梅鉢の紋ぢらしの煙管である。―― 斉広はこの煙管を持って内心、坊主共にねだられる事を予期しながら、揚々として登城した。 前に同じ金無垢の煙管を二本までねだった河内山さえ、じろりと一瞥を与えたなり、小腰をかがめて行ってしまった。 同席の大名は、勿論拝見したいとも何とも云わずに、黙っている。 そこで彼はまた河内山の来かかったのを見た時に、今度はこっちから声をかけた。 「いえ、難有うございますが、手前はもう、以前に頂いて居りまする。」 急に今まで感じていた、百万石の勢力が、この金無垢の煙管の先から出る煙の如く、多愛なく消えてゆくような気がしたからである。…… 古老の伝える所によると、前田家では斉広以後、斉泰も、慶寧も、煙管は皆真鍮のものを用いたそうである、事によると、これは、金無垢の煙管に懲りた斉広が、子孫に遺誡でも垂れた結果かも知れない。 流石に曠世の驕児入道相国が、六十余州の春をして、六波羅の朱門に漲らしめたる、平門の栄華も、定命の外に出づべからず。 荘園天下に半して子弟殿上に昇るもの六十余人、平大納言時忠をして、平門にあらずンば人にして人にあらずと、豪語せしめたるは、平氏が空前の成功也。 而して平氏自身も亦其成功の為に仆るべき数を担ひぬ。 今や平氏の成功は、其武備機関の制度と両立する能はざる天下太平を齎せり。 天下太平は物質的文明の進歩を齎し、物質的文明の進歩は富の快楽を齎せり。 単に富の快楽を齎せるのみならず、富の渇想を齎せり。 単に富の渇想を齎せるのみならず、又実に富の崇拝を齎し来れり。 長刀短褐、笑つて死生の間に立てる伊勢平氏の健児を中心として組織したる社会にして、是に至る、焉ぞ傾倒を来さざるを得むや。 平氏が藤門の長袖公卿を追ひて一門廟廊に満つるの成功を恣にせるは、唯彼等が剛健なりしを以て也。 詳に云へば、唯彼等が、東夷西戎の遺風を存せしを以て也。 彼等は富貴の尊ぶべきを知らず、彼等は官爵の拝すべきを解せず、彼等は唯、馬首一度敵を指せば、死すとも亦退くべからざるを知るのみ。 しかも往年の高平太が一躍して太政大臣の印綬を帯ぶるや、彼等は彼等を囲繞する社会に、黄金の勢力を見、紫綬の勢力を見、王笏の勢力を見たり。 彼等は、管絃を奏づる公子を見、詩歌を弄べる王孫を見、長紳をける月卿を見、大冠を頂ける雲客を見たり。 富の快楽は富の渇想となり、富の渇想は忽に富の崇拝となれり。 海賊と波濤とを敵とせる伊勢平氏の子弟にして、是に至る、誰か陶然として酔はざるを得るものぞ。 恰も南下漢人を征せる、拓跋魏の健児等が、其北狄の心情を捨てて、悠々たる中原の春光に酔へるが如く、彼等も亦富の快楽に沈酔したり。 於是、彼等は其長紳をき、其大冠を頂き、其管絃を奏で、其詩歌を弄び、沐猴にして冠するの滑稽を演じつつ、しかも彼者自身は揚々として天下の春に謳歌したり。 嘗て、戟を横へて、洛陽に源氏の白旄軍を破れる往年の髭男も、一朝にして、紅顔涅歯、徒に巾幗の姿を弄ぶ三月雛となり了ンぬ。 一言すれば、彼等は武士たるの実力をすてて、武士たるの虚名を擁したりき。 武士たるの習練を去りて、武士たるの外見を存したりき。 平氏の成功は天下太平を齎し、天下太平は平氏の衰滅を齎す。 彼等がかくの如く、長夜の惰眠に耽りつゝありしに際し、時勢は駸々として黒潮の如く、革命の気運に向ひたりき。 あらず、精神的革命は、既に冥黙の間に成就せられし也。 と揚言せしめたる、藤門往年の豪華は遠く去りて、今や幾多の卿相は、平氏の勃興すると共に、彼等が漸、西風落日の悲運に臨めるを感ぜざる能はざりき。 嘗て彼等が夷狄を以て遇したる平氏は、却て彼等を遇するに掌上の傀儡を以てせむとしたるにあらずや。 嘗て彼等が、地下の輩と卑めたる平氏は、却て彼等をして其残杯冷炙に甘ぜしめむとしたるにあらずや。 而して嘗て屡京童の嘲笑を蒙れる、布衣韋帯の高平太は、却て彼等をして其足下に膝行せしめむとしたるにあらずや。 約言すれば、彼等は遂に彼等対平氏の関係が、根柢より覆されたるを、感ぜざる能はざりき。 典例と格式とを墨守して、悠々たる桃源洞裡の逸眠を貪れる彼等公卿にして、かゝる痛烈なる打撃の其政治的生命の上に加へられたるを見る、焉ぞ多大の反感を抱かざるを得むや。 然り、彼等は平氏に対して、はた入道相国に対して、漸くに抑ふべからざる反感を抱くに至れり。 彼等は秩序的手腕ある大政治家としての入道相国を知らず。 唯、鎌倉時代の遊行詩人たる琵琶法師をして、「伝へ承るこそ、言葉も心も及ばれね」 と、驚歎せしめたる、直情径行の驕児としての入道相国を見たり。 の家を凌ぎ、一門悉、青紫に列るの横暴を恣にせる平氏の中心的人物としての入道相国を見たり。 狂悖暴戻、余りに其家門の栄達を図るに急にして彼等が荘園を奪つて毫も意とせざりし、より大胆なるシーザーとしての入道相国を見たり。 彼等が平氏に対して燃ゆるが如き反感を抱き、平氏政府を寸断すべき、危険なる反抗的精神をして、霧の如く当時の宮廷に漲らしめたる、寧ろ当然の事となさざるを得ず。 かくの如くにして革命の熱血は沸々として、幾多長袖のカシアスが脈管に潮し来れり。 是平氏が其運命の分水嶺より、歩一歩を衰亡に向つて下せるものにあらずや。 しかも平氏は独り、公卿の反抗を招きたるのみならず、王荊公に髣髴たる学究的政治家、信西入道が、袞竜の御衣に隠れたる黒衣の宰相として、屡謀を帷幄の中にめぐらししより以来、寒微の出を以て朝栄を誇としたる院の近臣も亦、平氏に対する恐るべき勁敵なりき。 彼等は素より所謂北面の下臈にすぎずと雖も、猶竜顔に咫尺して、日月の恩光に浴し、一旦簡抜を辱うすれば、下北面より上北面に移り、上北面より殿上に進み、遂には親しく、廟堂の大権をも左右するに至る。 かくの如き北面の位置が、自ら大胆にして、しかも、野心ある才人を糾合したるは、蓋又自然の数也。 而して此梁山泊に集れる十の智多星、百の霹靂火が平氏の跋扈を憎み、入道相国の専横を怒り、手に唾して一挙、紅幟の賊を仆さむと試みたる、亦彼等が位置に、頗る似合たる事と云はざるべからず。 しかも彼等は近く、平治乱に於て、源左馬頭の梟雄を以てするも、猶彼等の前には、敗滅の恥を蒙らざる可からざるを見たり。 七世刀戟の業を継げる、源氏の長者を以てするも、亦斯くの如し。 平門の小冠者を誅するは目前にありとは、彼等が、竊に恃める所なりき。 名義上の勢力に於ても、外戚たる平氏に劣らず、事実上の勢力に於ても荘園三十余州に及ぶ平氏に多く遜らざる彼等にして、かくの如き自信を有す。 彼等が成功を万一に僥倖して、剣を按じて革命の風雲を飛ばさむと試みたる、元より是、必然の事のみ。 試に思へ、西光法師が、平氏追討の流言あるを聞いて、白眼瞋声、「天に口なし人を以て云はしむるのみ」 彼は院の近臣の心事を、最も赤裸々に道破せるものにあらずや。 しかも、彼等の密邇し奉れる後白河法皇は、入道信西をして、「反臣側にあるをも知ろしめさず。 と評せしめたる、極めて敢為の御気象に富み給へる、同時に又、極めて術数を好み給ふ君主に、おはしましき。 かくの如き法皇にして、かくの如き院の近臣に接し給ふ、欝勃たる反平氏の空気が、遂に恐るべき陰謀を生み出したる、亦怪むに足らざる也。 此時に於て、隠忍、軽悍、驕妬の謀主、新大納言藤原成親が、治承元年山門の争乱に乗じ、名を後白河法皇の院宣に藉り、院の嬖臣を率ゐて、平賊を誅せむとしたるが如き、其消息の一端を洩したるものなりと云はざるべからず。 若し夫、唯機会だにあらしめば、弓をひいて平氏政府に反かむとするもの、豈独り、院の近臣に止らむや。 平治の乱以来、茲に十八星霜、平氏は此陰謀に於て、始めて其存在の価値を問はむとするものに遭遇したり。 是、寿永元暦の革命が、漸くに其光茫を現さむとするを徴するものにあらずや。 かくの如くにして、平氏政府は、浮島の如く、其根柢より動揺し来れり。 然れ共、吾人は更に恐るべき一勢力が、平氏に対して終始、反抗的態度を、渝へざりしを忘るべからず。 時代と相容るゝ能はざる幾多、不覇不絆の快男児が、超世の奇才を抱いて空しく三尺の蒿下に槁死することを得ず。 遂に南都北嶺の緇衣軍に投じて、僅にその幽憤をやらむとしたる、彼等の心事豈憫む可からざらむや。 請ふ再吾人をして、彼等不平の徒を生ぜしめたる、当時の社会状態を察せしめよ。 平和の時代に於ける、唯一の衛生法は、すべてのものに向つて、自由競争を与ふるにあり。 而して覇権一度、相門を去るや、平氏が空前の成功は、平家幾十の袴子をして、富の快楽に沈酔せしむると同時に、又藤原氏六百年の太平の齎せる、門閥の流弊をも、蹈襲せしめたり。 是に於て平氏政府は、其最も危険なる平和の時代に於て、新しき活動と刺戟とを鼓吹すべき、自由競争と、完く両立する能はざるアンチポヂスに立つに至りぬ。 かくの如くにして社会の最も健全なる部分が、漸に平氏政府の外に集りたる、幾多の智勇弁力の徒が既に、平氏政府の敵となれる、而して平氏政府に於ける、位爵と実力とが将に反比例せむとするの滑稽を生じたる、亦宜ならずとせむや。 此時にして、高材逸足の士、其手腕を振はむとする、明君の知己に遇ふ、或は可也。 然れ共、若し遇ふ能はずンば、彼等は千里の駿足を以て、彼等の轗軻に泣き、彼等の不遇に歎じ、拘文死法の中に宛転しつゝ、空しく槽櫪の下に朽死せざる可からず。 の壮志を負へる彼等にして無意義なる繩墨の下に其自由の余地を束縛せられむとす。 を哂ひて佯狂の酒徒となれるが如き、彼等の或者が麦秀の悲歌を哀吟して風月三昧の詩僧となれるが如き、はた、彼等の或者が、満腔の壮心と痛恨とを抱き去つて南都北嶺の円頂賊に投ぜしが如き、素より亦怪しむに足らざる也。 加ふるに彼等僧兵の群中には幾多、市井の悪少あり、幾多山林の狡賊あり、而して後年明朝の詩人をして「横飛双刀乱使箭、城辺野艸人血塗」 と歌はしめたる、幾多、慓悍なる日本沿海の海賊あり。 是等の豪猾が、所謂堂衆なる名の下に、白昼剣戟を横へて天下に横行したる、彼等の勢力にして恐るべきや知るべきのみ。 想ひ見よ、幾千の山法師が、日吉権現の神輿を擁して、大法鼓をならし、大法螺を吹き、大法幢を飜し、咄々として、禁闕にせまれるの時、堂々たる卿相の肝胆屡是が為に寒かりしを。 彼等が横逆の前には白河天皇の英明を以てするも、「天下朕の意の如くならざるものは、山法師と双六の采と鴨川の水とのみ」 彼等は、彼等の兵力以外に、更に更に熱烈なる、火の如き信仰を有したりき。 彼等は上、王侯を知らず、傍、牧伯を恐れず、彼等は僅に唯仏恩の慈雨の如くなるを解するのみ。 苟も、仏法に反かむとするものは、其摂関たると、弓馬の家たると、はた、万乗の尊たるとを問はず、悉く彼等の死敵のみ。 既に彼等の死敵たり、彼等は何時にても、十万横磨の剣を駆つて、之と戦ふを辞せざる也。 見よ、西乗坊信救は、「太政入道浄海は、平家の糟糠、武家の塵芥」 彼の眼よりすれば、海内の命を掌握に断ぜる入道相国も、唯是剛情なる老黄牛に過ぎざる也。 しかも彼等は、平刑部卿忠盛が、弓を祇園の神殿にひきしより以来、平氏に対して止むべからざる怨恨を抱き、彼等の怨恨は、平氏の常に執り来れる高圧的手段によつて、更に万斛の油を注がれたるをや。 所謂、青天に霹靂を下し、平地に波濤を生ずるを顧みざる彼等にして、危険なる不平と恐怖すべき兵力を有し、しかも、触るれば手を爛焼せむとする、宗教的赤熱を帯ぶ、天下一朝動乱の機あれば、彼等が疾風の如く起つて平氏に抗するは、智者を待つて後始めて、 かくの如くにして、卿相の反感と、院の近臣の陰謀とは、疎胆、雄心の入道相国をして、遂に福原遷都の窮策に出で、僅に其横暴を免れしめたる、烈々たる僧兵の不平と一致したり。 しかも、平氏は独り彼等の反抗を招きたるに止らず、今や入道相国の政策の成功は、彼が満幅の得意となり、彼が満幅の得意は彼が空前の栄華となり、彼が空前の栄華は、時人をして「入る日をも招き返さむず勢」 天下は亦平氏に対して少からざる怨嗟と不安とを、感ぜざる能はざりき。 彼が折花攀柳の遊宴を恣にしたるが如き、彼が一豎子の私怨よりして関白基房の輦車を破れるが如き、将彼が赤袴三百の童児をして、飛語巷説を尋ねしめしが如き、平氏が天下に対して其同情を失墜したる亦宜ならずとせず。 是に於て平氏政府は、刻々ピサの塔の如く、傾き来れり。 然れ共、平氏が猶其の覆滅を来さざりしは、実に小松内大臣が、円融滑脱なる政治的手腕による所多からずンばあらず。 吾人は敢て彼を以て、偉大なる政治家となさざるべし。 さはれ彼は、夏日恐るべき乃父清盛を扶けて、冬日親むべき政略をとれり。 如何に彼が其直覚的烱眼に於て、入道相国に及ばざるにせよ、如何に彼が組織的頭脳に於て、信西入道に劣る遠きにせよ、如何に一身の安慰を冥々に求めて、公義に尽すこと少きの譏を免れざるにせよ、如何に智足りて意足らず、意足りて手足らず、 隔靴掻痒の憂を抱かしむるものあるにせよ、吾人は少くも、彼が大臣たる資格を備へたるを、認めざる能はず。 彼は一身を以て、嫉妬に充満したる京師の空気と、烈火の如き入道相国との衝突を融和しつゝも、尚彼の一門の政治的生命を強固ならしめ、上は朝廷と院とに接し、下は野心ある卿相に対し、励精、以て調和一致の働をなさむと欲したり。 彼はこれが為に、一国の重臣私門の成敗に任ずべからざるを説いて、謀主成親の死罪を宥めたりき。 彼はこれが為に、君臣の大義を叫破して法皇幽屏の暴挙を戒めたりき。 入道相国の如きも、動もすれば暴戻不義の挙を敢てしたりと雖も、猶一門を統率して四海の輿望を負ふに堪へたりし也。 彼若し逝かずンば、西海の没落は更に幾年の遅きを加へたるやも亦知るべからず。 惜むべし、彼は、治承三年八月三日を以て、溘焉として白玉楼中の人となれり。 其狂悖の日に募るに比例して、天下は益平氏にそむき、一波先づ動いて万波次いで起り、遂に、又救ふ可らざる禍機に陥り了れり。 風地震悪疫亦相次いで起り、庶民堵に安ぜず、大旱地を枯らして、甸服の外、空しく赤土ありて青苗将に尽きなむとす。 「平家には、小松の大臣殿こそ心も剛に謀も勝れておはせしが、遂に空しくなり給ひぬ。 と、勇僧文覚をして、抃舞、蛭ヶ小島の流人を説かしめしは、実に此時にありとなす。 天下の大勢が、かくの如く革命の気運に向ひつゝありしに際し、諸国の源氏は如何なる状態の下にありし乎。 嘗て、東山東海北陸の三道にわたり、平氏と相並んで、鹿を中原に争ひたる源氏も、時利あらず、平治の乱以来逆賊の汚名を負ひて、空しく東国の莽蒼に雌伏したり。 然りと雖も八幡公義家が、馬を朔北の曠野に立て、乱鴻を仰いで長駆、安賊を鏖殺したる、当年の意気豈悉消沈し去らむ哉。 革命の激流一度動かば、先平氏政府に向つて三尖の長箭を飛ばさむと欲するもの、源氏を措いて又何人かある。 頼義義家が前九後三の禍乱を鎮めしより以来、東国は其半独立の政治的天地となり、武門の棟梁は、其因襲的の尊称となれり。 しかも平氏は、平氏自身の立脚地が西国にあるを知りしを以て、敢て其得意なる破壊的政策を東国に振はず。 (恐らくは是最も賢き、最も時機に適したる政策なりしならむ) 勇夫と悍馬とに富める、茫々たる東国の山川は、依然として、源氏の掌中に存したり。 約言すれば、保元平治以前の源氏と保元平治以後の源氏とは其東国に有せる勢力に於て殆ど何等の逕庭をも有せざりし也。 然りと雖も、彼等の勢力は未だ以て中原を動かすに足らざりき。 伊南、伊北、庁南、庁北の健児を糾合して八州に雄視する、上総の覇王上総介氏と、十七万騎の貫主、北奥の蒼竜、雄名海内を風摩せる藤原秀衡との両氏あるのみ。 而して、此双傑の勢力を以てするも、猶、後顧の憂なくして西上の旗を翻すは、到底不可能の事となさざる可らず。 何となれば彼等は、猶個々の小勢力なりしを以て、しかも互に相掣肘しつゝありしを以て也。 一度之に振動を与へむ乎、液体は忽に固体を析出する也。 一度革命の気運にして動かむ乎、彼等は直に剣を按じて蹶起するを辞せざる也。 然れども彼等は、未平氏に対して比較的従順なる態度を有したりき。 請ふ彼等を以て、妄に生を狗鼠の間に偸むものとなす勿れ。 彼等が平氏に対して温和なりしは、唯平氏が彼等に対して温和なりしが為のみ。 嘗て、吾人の論ぜしが如く、平氏の立脚地は西国にあり。 平氏にして、相印を帯びて天下に臨まむと欲せば、西国の経営は、其最も重要なる手段の一たらずンばあらず。 さればこそ、入道相国の烱眼は、瀬戸内海の海権を収めて、四国九州の勢力を福原に集中するの急務なるを察せしなれ。 西南二十一国が平氏の守介を有したる豈此間の消息を洩したるものにあらずや。 東国をして単に現状を維持せしめむとしたるが如き、亦怪しむに足らざる也。 而して、自由を愛する東国の武士は此寛大なる政策に謳歌したり。 而して平氏の酔態は、平氏自身をして天下の怨府たらしめしが如く、亦東国の武士をして少からざる不快を抱かしめたり。 嘗て、馬を彼等と並べて、銀兜緋甲、王城を守れる平門の豎子が、今は一門の栄華を誇りて却て彼等に加ふるに痴人猶汲夜塘水の嘲侮を以てするを見る、彼等の心にして焉ぞ平なるを得むや。 切言すれば、彼等は、漸に其門閥の貴き意義を失はむとするを感じたり。 と叫破せる彼等にして、焉ぞ此侮蔑に甘ずるを得むや。 加ふるに大番によりて京師に往来したる多くの豪族は、京師に横溢せる、危険なる反平氏の空気を、冥黙の間に彼等の胸奥に鼓吹したり。 而して、平氏が法皇幽屏の暴挙を敢てすると共に、久しく欝積したる彼等の不快は、一朝にして勃々たる憤激となれり。 しかも、天下の風雲は日に日に急にして、革命的気運は、将に暗潮の如く湧き来らむとす。 野心は如何なる場合に於ても人をして、其力量以上の事業をなさしめずンばやまず。 所謂天民の秀傑なる、智勇弁力ある彼等が、大勢の将に変ぜむとするを見て、抑ふべからざる野心を生じ来れる、固より宜なり。 既に彼等にして、其最大の活動力たる、野心と相擁す、彼等が天荒を破つて、革命の明光を、捧げ来る日の、近かるべきや知るべきのみ。 啻に野心に止らず、平氏の暴逆は、又彼等をして、二十周星の久しきに及びて、殆ど忘れられたる源氏の盛世を、想起せしめたり。 彼等は彼等が、旌旗百万、昂然として天下に大踏したる、彼等が得意の時代を追憶したり。 而して、顧みて、平氏の跳梁を見、源氏の空しく蓬蒿の下に蟄伏したるを見る、彼等が懐旧の涙は、滴々、彼等が雄心を刺戟したり。 彼等はかくの如くにして、彼等の登竜門が今や目前に開かれたるを感じたり。 彼等は其伝家丈八の緑沈槍を、ふるふべき時節の到来したるを覚りたり。 治承四年、長田入道が、惶懼、書を平忠清に飛ばして、東国将に事あらむとするを告げたるが如き、革命の曙光が、既に紅を東天に潮したるを表すものにあらずや。 今や熱烈なる東国武士の憤激と、彼等が胸腔に満々たる野心と、復古的、革命的の思想を鼓吹すべき、懐旧の涙とは、自ら一致したり。 動乱の気運、漸に天下を動かすと共に、社会の最も健全なる部分―― 平氏政府の厄介物たる、幾十の卿相、幾百の院の近臣、幾千の山法師、はた幾万の東国武士の眼中には、既に平氏政府の存在を失ひたり。 要言すれば、社会の直覚的本能は、既に平氏政府の亡滅を認めたり。 反言すれば、精神的革命は既に冥黙の中に、成就せられたり。 夫、燈は油なければ、即ち滅し、魚は水なければ、即ち死す。 天下の人心を失ひたる平氏政府が、日一日より、没落の悲運に近づきたる、豈、宜ならずとせむや。 然り、桑樹に対して太息する玄徳、青山を望ンで黙測する孔明、玉璽を擁して疾呼する孫堅、蒼天を仰いで苦笑する孟徳、蛇矛を按じて踊躍する翼徳、彼等の時代は漸に来りし也。 之を譬ふれば、当時の社会状態は、恰も蝕みたる老樹の如し。 「外よりは手もつけられぬ要害を中より破る栗のいがかな。」 しかも平氏が堂上の卿相四十三人を陟罰して、後白河法皇を鳥羽殿に幽し奉り、新院に迫りて其外孫たる三歳の皇子を冊立せし横暴は、更に、其亡滅の日をして早からしめたり。 是に於て、小松内大臣の薨去によりて我事成れりと抃舞したる、十のマラー、百のロベスピエールは、平氏政府の命数の既に目睫に迫れるを見ると共に、剣を撫し手に唾して、蹶起したり。 夫、天下は平氏の天下にあらず、天下は天下の天下也。 平門の犬羊、いづれの日にか、其跳梁を止めむとする。 嗚呼、誰か天火を革命の聖壇に燃やして、長夜の闇を破るものぞ、誰か革命の角笛を吹いて、黒甜郷裡の逸眠を破るものぞ。 然り、革命の風雲は、細心、廉悍の老将、源三位頼政の手によつて、飛ばされたり。 然れども、平治以降、彼は、平氏を扶けたるの多きを以て、対平氏関係の甚、円満なりしを以て、平氏が比較的彼を優遇したるを以て、平氏を外にしては、武臣として、未其比を見ざる、三位の高位を得たり。 若し彼にして平和を愛せしめしならば、或は栄華を平氏と共にして、温なる昇平の新夢に沈睡したるやも亦知るべからず。 彼は滔々たる天下と共に、太平の余沢に謳歌せむには、余りに不覊なる豪骨を有したりき。 彼は、群を離れたる鴻雁なれども、猶万里の扶揺を待つて、双翼を碧落に振はむとするの壮心を有す。 彼は平門の袴子が、富の快楽に沈酔して、七香の車、鸚鵡の杯、揚々として、芳槿一朝の豪華を誇りつゝありしに際し、其烱眼を早くも天下の大勢に注ぎたり。 而して、彼は既に、平門の惰眠を破る暁鐘の声を耳にしたり。 彼は思へり、「平家は、栄華身に余り、積悪年久しく、運命末に望めり」 彼は思へり、「上は天の意に応じ、下は地の利を得たり、義兵を挙げ逆臣を討ち、法皇の叡慮を慰め奉らむ」 彼は思へり、「六孫王の苗裔、源氏の家子郎等を、駈具せば天が下何ものをか恐るべき」 彼は是に於て、其袖下に隠れて大義を天下に唱ふべき名門を求めたり。 而して彼の擁立したるは、実に後白河法皇の第二の皇子、賢明人に超え給へる、而して未親王の宣下をも受け給はざる、高倉宮以仁王なりき。 彼の烱眼は此点に於ても、事機を見るに過たざりしにあらずや。 彼は近く平治の乱に於て主上上皇の去就が、よく源平両氏の命運を制したるを見たり。 彼は、朝家を挾ンで天下に号令するの、天下をして背く能はざらしむる所以なるを見たり。 而して彼は、宣旨院宣、共に平氏の手中に存するの時に於て、九重雲深く濛として、日月を仰ぐ能はざるの時に於て、革命の壮図を鼓舞せしむるに足るは、唯、竹園の令旨のみなるを見たり。 然り、最も天下の同情を有する竹園の令旨のみなるを見たり。 彼が以仁王を擁立したる所以は、実に職として是に存す。 かくの如くにして彼の陰謀は、歩一歩より実際の活動に近き来れり。 而して治承四年五月、革命の旗は遂に、皓首の彼と長袖の宮との手によつて、飜されたり。 然れ共、彼、事を南都に挙げむとして得ず、平軍是を宇治橋に要し、宇治川を隔てて大に戦ふ。 是に於て革命軍の旗幟頻に乱れ、源軍討たるゝ者数を知らず。 驍悍を以て天下に知られたる渡辺党亦算を乱して仆れ、赤旗平等院を囲むこと竹囲の如し。 弓既に折れ箭既に尽く、英風一世を掩へる源三位も遂に其一族と共に自刃して亡び、高倉宮亦南都に走らむとして途に流矢に中りて薨じ給ひぬ。 かくして革命軍の急先鋒は、空しく敗滅の恥を蒙り了れり。 さもあらばあれ、こは一時の敗北にして、永遠の勝利なりき。 寿永元暦の革命は、彼によつて其導火線を点ぜられたり。 彼は、荒鶏の暁に先だちて暁を報ずるが如く、哀蝉の秋に先だちて秋を報ずるが如く、革命に先だちて革命を報じたり。 彼の播きたる種子は小なれども、参天の巨樹は、此中より生じ来れり。 彼は、彼自身を犠牲として、天下の源氏を激励したり。 彼は活ける模範となりて天下の源氏を蹶起せしめたり。 然り彼は一門の子弟に彼の如くなせと教へたり、而して為せり。 況や、氏神と伝説とを同うせる、雲の如き天下の源氏にして、何ぞ徒然として止まむや。 「花をのみまつらむ人に山里の、雪間の草の春を見せばや。」 残雪の間に萌え出でたる嫩草の緑は、既に春の来れるを報じたり。 柏木義兼は近江に立ち、別当湛増は紀伊に立ち、源兵衛佐は伊豆に立ち、木曾冠者は信濃に立てり。 今や平家十年の栄華の夢の醒むべき時は漸に来りし也。 頼政によりて刺戟を与へられ、更に以仁王の令旨によりて挙兵の辞を与へられたる革命軍は、百川の旭の出づる方に向つて走るが如く、刻一刻により、平氏政府に迫り来れり、而して此焦眉の趨勢は遂に、平氏政府に於て福原の遷都を喚起せしめたり。 何となれば此一挙は、入道相国が政治家としての長所と短所とを、最も遺憾なく現したれば也。 彼は、一花開いて天下の春を知るの、直覚的烱眼を有したりき。 而して又彼が政治家としての長所は、実に唯此大所を見るの明に存したりき。 吾人は、彼が西海を以て其政治的地盤としたるに於て、彼の家人をして諸国の地頭たらしめしに於て、海外貿易の鼓吹に於て、音戸の瀬戸の開鑿に於て、経ヶ島の築港に於て、彼が識見の宏遠なるを見る、 未嘗て源兵衛佐の卓識を以てするも武門政治の創業者としては遂に彼の足跡を踏みたるに過ぎざるを思はずンばあらず。 (固より彼は多くの点に於て、頼朝の百尺竿頭更に及ぶべからざるものありと雖も) 見よ、彼は瀬戸内海の海権に留意し、其咽喉たる福原を以て政権の中心とするの得策なるを知れり。 彼は南都北嶺の恐るべき勢力たるを看取し、若し、彼等にして一度相応呼して立たば、京都は其包囲に陥らざるべからざるを知れり。 而して彼が此胸中の画策は、源三位の乱によりて、反平氏の潮流の滔々として止るべからざるを知ると共に、直に彼をして福原遷都の英断に出でしめたり。 彼が治承四年六月三日、宇治橋の戦ありて後僅に数日にして、此一挙を敢てしたる、是豈彼が烱眼の甚だ明、甚だ敏、甚だ弘なるを表すものにあらずや。 福原の遷都はかくの如く彼が急進主義の経綸によつて行はれたり。 然れども彼は此大計を行ふに於て、余りに急激にして、且余りに強靭なりき。 約言すれば、福原の遷都は彼が長所によつて行はれ、彼が短所によつて、破れたりき。 彼は、より無学にして、しかも、より放恣なる王安石也。 彼は今日計を定めて、明日其効を見るべしと信じたりき。 詳言すれば彼は理論と事実との間に、幾多の商量すべく、打算すべく、加減すべき摩擦あるを知らざりき。 而して又彼は、彼が信ずる所を行はむが為には、直線的の突進を敢てするの執拗を有したりき。 彼の眼中には事情の難易なく、形勢の可否なく、輿論の軽重なく、唯彼の応に行はざる可からざる目的と之を行ふべき一条の径路とを存せしのみ。 王安石は云へり、「人の臣子となりては、当に四海九州の怨を避くべからず」 彼をして答へしめば、将に云ふべし、「一門の栄華を計りては、天下の怨を避くべからず」 然れども彼の刈りたるは、僅に彼の蒔きたるものの半ばに過ぎざりき。 彼は其目的を行はむには、余りに其手段を選ばざりき。 余りに輿論を重んぜざりき、余りに、単刀直入にすぎたりき。 彼は、疲馬に鞭ちて、百尺の断崖を越えむと試みたり。 是豈、却て疲馬を死せしむるものたらざるなきを得むや。 彼が遷都の壮挙を敢てするや、彼は、桓武以来、四百年の歴史を顧みざりき。 一世の輿論に風馬牛なる、かくの如くにして猶遷都の大略を行はむと欲す、豈夫得べけむや。 果然、新都の老若は声を斉うして、旧都に還らむことを求めたり。 而して彼の動かすべからざる自信も是に至つて、聊か傾せざる能はざりき。 彼は始めて、旧都の規模に従つて福原の新都を経営するの、多大の財力を費さざる可からざるを見たり。 而して此財力を得むと欲せば、遷都の不平よりも更に大なる不平を蒙らざる可からざるを見たり。 しかも頭を回らして東国を望めば、蛭ヶ小島の狡児、兵衛佐頼朝は二十万の源軍を率ゐて、既に足柄の嶮を越え、旌旗剣戟岳南の原野を掩ひて、長駆西上の日将に近きにあらむとす。 彼の胸中にして、自ら安ずる能はざりしや、知るべきのみ。 は、東国の風雲益急にして、革命の気運既に熟せるを報じたるに於てをや。 是に於て、彼は福原に退嬰するの平氏をして、天下の怨府たらしむる所以なるを見、一歩を退くの東国の源氏をして、遠馭長駕の機を得しむるを見、遂に策を決して、旧都に還れり。 嗚呼、彼が遷都の英断も、かくの如くにして、空しく失敗に陥り了りぬ。 維盛の征東軍、未一矢を交へざるに空しく富士川の水禽に驚いて走りしより、近江源氏、先響の如く応じて立ち、別当湛増亦紀伊に興り、短兵疾駆、荘園を焼掠する、数を知らず。 園城寺の緇衣軍、南都の円頂賊、次いで動く事、雲の如く、将に、旗鼓堂々として、平氏政府を劫さむとす。 是豈、烈火の如き入道相国が、よく坐視するに堪ふる所ならむや。 然り、彼は旧都に帰ると共に、直に天下を対手として、赤手をふるひて大挑戦を試みたり。 彼が軌道以外の彗星的運動は、実に是に至つて其極点に達したりき。 如何に彼が破壊的政策にして、果鋭峻酷なりしかは、左に掲ぐる冷なる日暦之を証して余りあるにあらずや。 ○治承四年十月二十三日 入道相国福原の新都を去り、同二十六日京都に入る。 ○十二月二日 平知盛等を東国追討使として関東に向はしむ。 ○同廿八日 重衡、兵数千を率ゐて興福寺東大寺を火き、一宇の僧房を止めず、梟首三十余級。 彼が駕を旧都に還してより、僅に三十余日、しかも其傍若無人の行動は、実に天下をして驚倒せしめたり。 彼は、時代の信仰を憚らずして、伽藍を火くを恐れざりき。 然れども彼は僧徒の横暴を抑へむが為に、然かせるにあらず。 内、自ら解体せむとする政府を率ゐ、外、猛然として来り迫る革命の気運に応ぜむには、先、近畿の禍害を掃蕩するの急務なるを信じたるが為めのみ。 而して彼は、此一挙が平氏政府の命運を繋ぎたる一縷の糸を切断せしを知らざる也。 彼が此破天荒の痛撃は、久しく平氏が頭上の瘤視したる南都北嶺をして、遂に全く屏息し去るの止むを得ざるに至らしめたりと雖も、平氏は之が為に更に大なる僧徒の反抗を喚起したり。 啻に僧徒の反抗を招きたるのみならず、又実に醇篤なる信仰を有したる天下の蒼生をして、仏敵を以て平氏を呼ばしむるに至りたりき。 自ら蜂巣を破れる入道相国と雖も、焉ぞ奔命に疲れざるを得むや。 時人謡ひて曰く「咲きつゞく花の都をふりすてて、風ふく原の末ぞあやふき」 平氏は、福原の遷都を、掉尾の飛躍として、治承より養和に、養和より寿永に、寿永より元暦に、天暦より文治に、円石を万仞の峰頭より転ずるが如く、刻々亡滅の深淵に向つて走りたりき。 将門、将を出すと云へるが如く、我木曾義仲も亦、将門の出なりき。 彼は六条判官源為義の孫、帯刀先生義賢の次子、木曾の山間に人となれるを以て、時人称して木曾冠者と云ひぬ。 久寿二年二月、義賢の悪源太義平に戮せらるゝや、義平、彼の禍をなさむ事を恐れ、畠山庄司重能をして、彼を求めしむる、急也。 重能彼の幼弱なるを憫み、竊に之を斎藤別当実盛に託し、実盛亦彼を東国にあらしむるの危きを察して、之を附するに中三権頭兼遠を以てしぬ。 而して中三権頭兼遠は、実に木曾の渓谷に雄視せる豪族の一なりき。 時に彼は年僅に二歳、彼のローマンチツクなる生涯は、既に是に兆せし也。 吾人は、彼の事業を語るに先だち、先づ木曾を語らざるべからず。 何となれば、彼の木曾に在る二十余年、彼の一生が此間に多大の感化を蒙れるは、殆ど疑ふべからざれば也。 木曾と云ふ所は究竟の城廓なり、長山遙に連りて禽獣稀にして嶮岨屈曲也、渓谷は大河漲り下つて人跡亦幽なり、谷深く桟危くしては足を峙てて歩み、峰高く巌稠しては眼を載せて行く、尾を越え尾に向つて心を摧き、谷を出で谷に入つて思を費す、東は信濃、上野、武蔵、 相摸に通つて奥広く、南は美濃国に境道一にして口狭し、行程三日の深山也。 縦、数千万騎を以ても攻落すべき様もなし、況や、桟梯引落して楯籠らば、馬も人も通ふべき所にあらずと。 惟ふに函谷の嶮によれる秦の山川が、私闘に怯にして公戦に勇なる秦人を生めるが如く、革命の気運既に熟して天下乱を思ふの一時に際し、昂然として大義を四海に唱へ、幾多慓悍なる革命の健児を率ゐ、長駆、六波羅に迫れる旭日将軍の故郷として、はた其事業の立脚地として、 然り、彼が一世を空うするの覇気と、彼が旗下に投ぜる木曾の健児とは、実に、木曾川の長流と木曾山脈の絶嶺とに擁せられたる、此二十里の大峡谷に養はれし也。 是ハミルカルありて始めてハンニバルあり、項梁ありて始めて項羽あり、信秀ありて始めて信長あるの所以、鄭家の奴学ばずして、詩を歌ふの所以にあらずや。 思うて是に至る、吾人は遂に、彼が乳人にして、しかも彼が先達たる中三権頭兼遠の人物を想見せざる能はず。 彼の義仲に於ける、猶北条四郎時政の頼朝に於ける如し。 彼は、より朴素なる張良にして、此は、より老猾なる范増なれども、共に源氏の胄子を擁し、大勢に乗じて中原の鹿を争はしめたるに於ては、遂に其帰趣を同くせずンばあらず。 義仲が革命の旗を飜して檄を天下に伝へむとするや、彼は踊躍して、「其料にこそ、君をば此二十年まで養育し奉りて候へ、かやうに仰せらるゝこそ八幡殿の御末とも思させましませ」 始め、実盛の義仲をして彼が許に在らしむるや、彼は竊に「今こそ孤にておはしますとも、武運開かば日本国の武家の主ともなりや候はむ。 いかさまにも養立てて、北陸道の大将軍ともなし奉らむ」 彼が、雄心勃々として禁ずる能はず、機に臨ンで其驥足を伸べむと試みたる老将たりしや知るべきのみ。 年少気鋭、不尽の火其胸中に燃えて止まざる我義仲にして斯老の膝下にある、焉ぞ其心躍らざるを得むや。 彼が悍馬に鞭ちて疾駆するや、彼が長弓を横へて雉兎を逐ふや、彼は常に「これは平家を攻むべき手ならひ」 かゝる家門の歴史を有し、かゝる渓谷に人となり、而してかゝる家庭に成育せる彼は、かくの如くにして其烈々たる青雲の念を鼓動せしめたり。 其一代の風雲を捲き起せるの壮心、其真率にして自ら忍ぶ能はざるの血性、其火の如くなる功名心、皆、此「上有横河断海之浮雲、下有衝波逆折之回川」 の木曾の高山幽壑の中に磅したる、家庭の感化の中より得来れるや、知るべきのみ。 吾人既に彼が時勢を見、既に彼が境遇を見る、彼が如何なる人物にして、彼が雄志の那辺に向へるかは、吾人の解説を待つて之を知らざる也。 今や、跼天蹐地の孤児は漸くに青雲の念燃ゆるが如くなる青年となれり。 而して彼は満腔の覇気、欝勃として抑ふべからざると共に、短褐孤剣、飄然として天下に放浪したり。 吾人は彼が放浪について多く知る所あらざれども、彼は屡京師に至りて六波羅のほとりをも徘徊したるが如し。 彼は、恐らく、此放浪によりて天下の大勢の眉端に迫れるを、最も切実に感じたるならむ。 恐らくは又、其功名の念にして、更に幾斛の油を注がれたりしならむ。 想ふ、彼が独り京洛の路上に立ちて、平門の貴公子が琵琶を抱いて落花に対するを望める時、殿上の卿相が玉笛を吹いて春に和せるを仰げる時、はた入道相国が輦車を駆り、兵仗を従へ、儀衛堂々として、濶歩せるを眺めし時、必ずや、 彼は其胸中に幾度か我とつて代らむと叫びしなるべし。 然り、彼が天下を狭しとするの雄心は、実に此放浪によつて、養はれたり。 将に是、池中の蛟竜が風雲の乗ずべきを待ちて、未立たざるもの、唯機会だにあらしめば、彼が鵬翼の扶揺を搏つて上ること九万里、青天を負うて南を図らむとする日の近きや知るべきのみ。 思ふに、彼は、鹿ヶ谷の密謀によりて、小松内府の薨去によりて、南都北嶺の反心によりて、平賊の命運、既に旦夕に迫れるを見、竊に莞爾として時の到らむとするを祝せしならむ。 然り、機は来れり、バスチールを壊つべきの機は遂に来れり。 天下は高倉宮の令旨と共に、海の如く動いて革命に応じたり。 而して、彼が伝家の白旗は、始めて木曾の山風に飜されたり。 時に彼、年二十七歳、赤地の錦の直垂に、紫裾濃の鎧を重ね、鍬形の兜に黄金づくりの太刀、鴎尻に佩き反らせたる、誠に皎として、玉樹の風前に臨むが如し。 天下風を仰いで其旗下に集るもの、実に五万余人、根井大弥太行親は来れり、楯六郎親忠は来れり、野州の足利、甲州の武田、上州の那和、亦相次いで翕然として来り従ひ、革命軍の軍威隆々として大に振ふ。 是に於て、彼は戦鼓を打ち旌旗を連ね、威風堂々として、南信を出で、軍鋒の向ふ所枯朽を摧くが如く、治承四年九月五日、善光寺平の原野に、笠原平五頼直(平氏の党) を撃つて大に破り、次いで鋒を転じて上野に入り、同じき十月十三日、上野多胡の全郡を降し、上州の豪族をして、争うて其大旗の下に参集せしめたり。 是実に頼朝が富士川の大勝に先だつこと十日、かくの如くにして、彼は、殆ど全信州を其掌中に収め了れり。 東夷西戎、並び起り、三色旗は日一日より平安の都に近づかむとす。 紅燈緑酒の間に長夜の飲を恣にしたる平氏政府も、是に至つて遂に、震駭せざる能はざりき。 平治以来、螺鈿を鏤め金銀を装ひ、時流の華奢を凝したる、馬鞍刀槍も、是唯泰平の装飾のみ。 一門の子弟は皆、殿上後宮の娘子軍のみ、之を以て波濤の如く迫り来る革命軍に当らむとす、豈朽索を以て六馬を馭するに類する事なきを得むや。 然れ共、入道相国の剛腸は猶猛然として将に仆れむとする平氏政府を挽回せむと欲したり。 彼は、東軍の南海を経て京師に向はむとするを聞き、軍を派して沿海を守らしめたり。 彼は西海北陸両道の糧馬を以て、東軍と戦はむと試みたり。 彼が、困憊、衰残の政府を提げて、驀然として来り迫る革命軍に応戦したるを見る、恰も、颶風の中に立てる参天の巨樹の如き概あり。 吾人思うて是に至る、遂に彼が苦衷を了せずンばあらず。 関東に源兵衛佐あり、木曾に旭日将軍あり、而して京師に入道相国あり、三個の風雲児にして各手に唾して天下を賭す。 平宗盛を主将とせる有力なる征東軍が羽檄を天下に伝へて、京師を発せむとするの前夜(養和元年閏二月一日) 征東の軍是に期を失して発せず、越えて四日、病革りて祖竜遂に仆る。 赤旗光無うして日色薄し、黄埃散漫として風徒に粛索、帯甲百万、路に満つれども往反の客、面に憂色あり。 棟梁の材既になし、かくして誰か成功を百里の外に期するものぞ。 彼は経世的手腕と眼孔とに於ては殆ど乃父浄海の足下にも及ぶ能はざりき。 彼は興福東大両寺の荘園を還附し、宣旨を以て三十五ヶ国に諜し興福寺の修造を命ぜしめしが如き、仏に佞し僧に諛ひ、平門の威武を墜さしむる、是より大なるは非ず。 彼は直覚的烱眼に於ては乃父に劣る事遠く、天下の大機を平正穏当の間に補綴し、人をして其然るを覚えずして然らしむる、活滑なる器度に於ては、重盛に及ばず。 懸軍万里、計を帷幄の中にめぐらし、勝を千里の外に決する将略に於ては我義仲に比肩する能はず。 しかも猶、其不学、無術を以て、天下の革命軍に対せむとす。 泰山既に倒れ豎子台鼎の重位に上る、革命軍の意気は愈昂れり。 しかも、此時に於て平氏に致命の打撃を与へたるは、実に其財政難なりき。 平家物語の著者をして「おそらくは、帝闕も仙洞もこれにはすぎじとぞ見えし」 と、驚歎せしめたる一門の栄華は、遂に平氏の命数をして、幾年の短きに迫らしめたり。 是に於て平氏は、恰も傷きたる猪の如く、無二無三に過重なる収斂を以て、此窮境を脱せむと欲したり。 平氏が使者を伊勢の神三郡に遣りて、兵糧米を、充課したるが如き、はた、平貞能の九州に下りて、徭を重うし、賦を繁うし、四方の怨嗟を招きしが如き、是、平氏の財力の既に窮したるを表すものにあらずや。 さらぬだに、凶年と兵乱とに苦める天下の蒼生は、今や彼等が倒懸の苦楚に堪ふる能はず、斉しく立つて平氏を呪ひ、平氏を罵り、平氏に反き、空拳を以て彼等が軛を脱せむと試みしなり。 是に於て、靄の如く天下を蔽へる蒼生は、不平の忽にして、革命軍の成功を期待するの、盛なる声援の叫となれり。 しかも此危険に際して、猶諸国に命じて南都の両寺を修せしめしが如き、傘張法橋の豚犬児が、愚なる政策は、此声援をして更に幾倍の大を加へしめたり。 入道相国逝いて未三歳ならず、胡馬洛陽に嘶き、天日西海に没せる、豈宜ならずとせむや。 天下を麾いで既にルビコンを渡れる彼は、養和元年六月、越後の住人、城四郎長茂が率ゐる六万の平軍と、横田川を隔てて相対しぬ。 俊才、嚢中の錐の如き彼は、直に部将井上九郎光盛をして赤旗を立てて前ましめ、彼自らは河を済り、戦鼓をうつて戦を挑み、平軍の彼が陣を衝かむとするに乗じて光盛等をして、赤旗を倒して白旗を飜し、急に敵軍を夾撃せしめて大に勝ち、遂に長茂をして越後に走らしめたり。 是実に、淮陰侯が、井に成安君を破れるの妙策、錐は遂に悉く穎脱し了れる也。 越えて八月、宗盛、革命軍の軍鋒、竹を破るが如きを聞き、倉皇として北陸道追討の宣旨を請ひ、中宮亮平通盛、但馬守平経正等を主将とせる征北軍を組織し、彼が奔流の如き南下を妨げしめたり。 然れども、九月通盛等の軍、彼と戦つて大に敗れ、退いて敦賀の城に拒ぎしも遂に支ふる能はず、首尾断絶して軍悉く潰走し、辛くも敗滅の恥を免るゝを得たり。 是に於て、革命軍の武威、遠く上野、信濃、越後、越中、能登、加賀、越前を風靡し、七州の豪傑、嘯集して其旗下に投じ、剣槊霜の如くにして介馬数万、意気堂々として已に平氏政府を呑めり。 薄倖の孤児、木曾の野人、旭将軍義仲の得意や、知るべき也。 彼は速に、遠馭長駕、江河の堤を決するが如き勢を以て京師に侵入せむと欲したり。 而して大牙未南に向はざるに先だち、恰も関八州を席の如く巻き将に東海道を西進せむとしたる源兵衛佐頼朝によつて送られたる一封の書簡は、彼の征南をして止めしめたり。 平家朝威を背き奉り、仏法を亡すによりて、源家同姓のともがらに仰せて、速に追討すべき由、院宣を下され了ンぬ。 尤も夜を以て日についで、逆臣を討ちて、宸襟をやすめ奉るべきのところ、十郎蔵人私のむほんを起し、頼朝追討の企ありと聞ゆ。 然るをかの人に同心して扶持し置かるゝの条、且は一門不合、且は平家のあざけりなり。 但、御所存をわきまへず、もし異なること仔細なくば、速に蔵人を出さるゝか、それさもなくば、清水殿(義仲の子清水冠者義高) 両条の内一も、承認なくンば、兵をさしつかはして、誅し奉るべし。 蓋し、頼朝の彼に平ならざる所以は、啻に、頼朝と和せずして去りたる十郎蔵人行家が、彼の陣中に投じたるが為のみにあらざりき。 始め、頼朝の関八州をうちて一丸と為さむとするや、常陸の住人信太三郎先生義広、独り、膝を屈して彼の足下に九拝するを潔しとせず、走つて義仲の軍に投じぬ。 の彼は、義広の枯魚の如くなる落魄を見るに堪へず、喜ンで彼をして其旗下に止らしめたり。 しかも義仲、已に覇を北陸に称す、汗馬刀槍、其掌中にあり、鉄騎甲兵、其令下にあり。 彼にして一たび野心を挾まむ乎、帯甲百万、鼓を撃つて鎌倉に向はむの日遠きにあらず、是実に頼朝の畏れたる所なりき。 加ふるに義仲と快からざる、武田信光が、好機逸すべからずとして、彼を頼朝に讒したるに於てをや。 三分の恐怖と七分の憤怨とを抱ける頼朝は、是に於て、怫然として書を彼に飛ばしたり。 而して自ら十万の逞兵を率ゐて碓日を越え、馬首東を指して彼と雌雄を決せむと試みたり。 今やかくの如くにして、革命軍の双星は、戟を横へて茫漠たる信の山川に其勇を競はむとす、天下の大勢は彼が一言に関れり。 諸将再切歯して曰「願くは、臣等の碧蹄、八州の草を蹂躙せむ」 彼は、戈を逆にして一門の血を流さむには、余りに人がよすぎたり。 彼は此無法なる云ひがかりに対しても、猶、頼朝を骨肉として遇したり。 而して彼は、遂に義高を送りて、頼朝の怒を和めたりき。 彼は、行家義広等の窮鳥を猟夫の手に委すに忍びざりき。 若し彼にして決然として、頼朝の挑戦に応ぜしならば、木曾の眠獅と蛭ヶ小島の臥竜との敢戦は、更に幾倍の偉観をきはめしなるべく、天下は漢末の如く三分せられしなるべく、而して中原の鹿誰が手に落つべき乎は未俄に断ずべからざりしなるべし。 而して彼は遂に、久しく其予期したるが如く、豼貅五万、旗鼓堂々として南に向へり。 革命軍の鋭鋒、当るべからざるを聞ける宗盛は、是に於て、舞楽の名手、五月人形の大将軍右近衛中将平維盛を主将とせる、有力なる征北軍を組織し、白旄黄鉞、粛々として、怒濤の如く来り迫る革命軍を、討たしめたり。 流石に、滔天の勢を以て突進したる我北陸の革命軍も、平氏が此窮鼠の如き逆撃に対しては、陣頭の自ら乱るゝを禁ずる能はざりき。 我義仲が、富樫入道仏誓をして守らしめたる燧山城の要害、先平軍の手に帰し、次いで林六郎光明の堅陣、忽ちにして平軍の撃破する所となり、遂に革命軍が血を以て購へる加賀一州の江山をして、再び平門の豎子が掌中に収めしむるの恨事を生じたり。 既に源軍を破つて意気天を衝ける平軍は、是に至りて三万の軽鋭を分ちて志雄山に向はしめ、大将軍、維盛自らは、七万の大軍を駆つて礪波山に陣し、長蛇捲地の勢をなして、一挙、革命軍を越中より、掃蕩せむと欲したり。 然りと雖も、平右近衛中将は、決して我義仲に肩随すべき将略と勇気とを有せざりき。 越後にありて革命軍の敗報を耳にしたる義仲は、直ちに全軍を提げて越中に入れり。 越中に入れると共に直ちに、蔵人行家をして志雄山の平軍を討たしめたり。 志雄山の平軍を討たしむると共に、直ちに鼓噪して黒坂に至り維盛と相対して白旗を埴生の寒村に飜せり。 数を以てすれば彼は実に平軍の半にみたず、地を以てすれば、平軍は已に礪波の嶮要を擁せり。 彼の之を以て平軍の鋭鋒を挫き、倒瀾を既墜にめぐらさむと欲す、豈難からずとせむや。 彼は、其夜猛牛数百を集め炬を其角に縛し、鞭ちて之を敵陣に縦ち、源軍四万。 角上の炬火、連ること星の如く、喊声鼓声、相合して南溟の衆水一時に覆るかと疑はる。 平軍潰敗して南壑に走り、崖下に投じて死するもの一万八千余人、人馬相蹂み、刀戟相貫き、積屍陵をなし、戦塵天を掩ふ。 維盛僅に血路をひらき、残軍を合して加賀に走り、佐良岳の天嶮に拠りて、再革命軍を拒守せむとしたるも、大勢の赴く所亦如何ともなすべからず。 志雄山の平軍既に破れ、義仲行家疾馳して平軍に迫る、無人の境を行くが如く、安宅の渡を渉りて篠原を襲ひ、遂に大に征北軍を撃破し、勇奮突破、南に進むこと、猛虎の群羊を駆るが如く、将に長駆して京師に入らむとす。 かくして、寿永二年七月、赤幟、洛陽を指して、敗残の平軍、悉く都に帰ると共に、義仲は北陸道より近江に入り、行家は東山道より大和に入り、革命軍の白旗、雪の如く、近畿の山河に満てり。 此時に於て、平氏と義仲との間に横はれる勝敗の決は、一に延暦寺が源平の何れに力を寄すべき乎に存したりき。 若し、幾千の山法師にして、平氏と合して、楯を源軍につきしとせむ乎、或は革命軍の旗、洛陽に飜るの時なかりしやも、亦知るべからず。 然れども延暦寺は、必しも平氏の忠実なる味方にはあらざりき。 延暦寺は平氏に対して平なる能はざる幾多の理由を有したりき。 平氏が兵糧米を山門領に課せるが如き、厳島を尊敬して前例を顧みず、妄に高倉上皇の御幸を請ひたるが如き、豈其の一たるなからむや。 反平氏の空気は山門三千の、円頂黒衣の健児の間にも充満したり。 彼等は恰も箭鼠の如し、彼等は撫づれば、撫づるほど其針毛を逆立たしむる也。 清盛の懐柔政策が彼等の気焔をして却つて、高からしめたる、素より偶然なりとなさず。 今や、山門は、二人の猟夫に逐はれたる一頭の兎となれり。 而して平氏は、其源軍に力を合するを恐れ、平門の卿相十人の連署したる起請文を送りて、延暦寺を氏寺となし、日吉社を氏神となすを誓ひ、巧辞を以て其歓心を買はむと欲したり。 同時に義仲の祐筆にして、しかも革命軍の軍師なりし大夫坊覚明は、延暦寺に牒して之を誘ひ、山門亦之に応じて、明に平氏に対して反抗の旗をひるがへしたり。 山門既に平氏に反く、平氏が、知盛、重衡等をして率ゐしめたる防禦軍が、遂に海潮の如く迫り来る革命軍に対して、殆ど何等の用をもなさざりしも豈宜ならずや。 かくの如くにして、革命の激流は一瀉千里、遂に平氏政府を倒滅せしめたり。 平氏は是に於て最後の窮策に出で至尊と神器とを擁して西国に走らむと欲したり。 竜駕已に赤旗の下にあらば又以て、宣旨院宣を藉りて四海に号令するを得べく、已に四海に号令するを得ば再天日の墜ちむとするを回らし、天下をして平氏の天下たらしむるも敢て難事にあらず。 しかも、機急なるに及ンで法皇は竊に平氏を去り山門に上りて源軍の中に投じ給ひぬ。 百事、悉、齟齬す、平氏は遂に主上を擁して天涯に走れり。 翠華は、揺々として西に向ひ、霓旌は飜々として悲風に動く、嗚呼、「昨日は東関の下に轡をならべて十万余騎、今日は西海の波に纜を解きて七千余人、保元の昔は春の花と栄えしかども、寿永の今は、秋の紅葉と落ちはてぬ。」 然り、平氏は、遂に、久しく予期せられたる没落の悲運に遭遇したり。 鳳闕の礎空しく残りて、西八条の余燼、未暖なる寿永二年七月二十六日、我木曾冠者義仲は、白馬金鞍、揚々として、彼が多年、夢寐の間に望みたる洛陽に入れり。 超えて八月十日、左馬頭兼伊予守に拝せられ、虎符を佩び皐比に坐し、号して旭日将軍と称しぬ。 寿永の革命はかくして彼が凱歌の下に其局を結びたり。 然りと雖も、彼と頼朝とが、相応呼して、猟し得たる中原の鹿は、果して何人の手中にか落ちむとする。 若し彼にして之を得む乎、野心満々たる源家の呉児にして焉ぞ、手を袖にして、傍観せむや。 若し頼朝にして之を得む乎、固より火の如き血性の彼の黙して止むべきにあらず。 双虎一羊を争ふ、彼等が剣を横へて陣頭に相見る日の近きや知るべきのみ。 しかも、シシリーに破れたるカルセーヂは、暫く蟄して大ローマの轅門に降ると雖も、捲土重来、幢戟南伊太利の原野に満ちて、再カンネーに会稽の恥を雪がずンばやまず。 鳳輦西に向ひて、西海に浮びたる平氏は、九州四国の波濤の健児を糾合して、鸞旗を擁し征帆をかゝげ、更に三軍を従へて京師に迫るの日なくンばやまず。 風雪将に至らむとして、氷天霰を飛ばす、義仲の成功と共に動乱の気運は、再洪瀾の如く漲り来れり。 彼が粟津の敗死は既に彼が、懸軍長駆、白旗をひるがへして洛陽に入れるの日に兆したり。 彼は、其勃々たる青雲の念をして満足せしむると同時に、彼の位置の頗る危険なるを感ぜざる能はざりき。 彼は北方の強たる革命軍を率ゐて洛陽に入れり、而して、洛陽は、彼等が住すべきの地にはあらざりき。 剣と酒とを愛する北国の健児は、其兵糧の窮乏を感ずると共に、直に市邑村落を掠略したり。 彼等のなす所は飽く迄も直截にして、且飽く迄も乱暴なりき。 彼等は、彼等の野性を以て、典例と儀格とを重ンずる京洛の人心をして聳動せしめたり。 而して天下は、彼等を指して「平氏にも劣りたる源氏なり」 是、実に彼が入洛と共に、蒙りたる第一の打撃なりき。 しかも独り彼等の狼藉に止らず、悍馬に跨り長槍を横へ、囲を潰し将を斬るの外に、春雨に対して雲和を弾ずるの風流をも、秋月を仰いで洞簫を吹くの韻事をも解せざりし彼等は、彼等が至る所に演じたる滑稽と無作法とによつて、京洛の反感と冷笑とを購ひ得たり。 加ふるに此時に当りて西海に走れる平軍は、四国の健児を麾いて、瀬戸内海の天塹に拠り、羽林の鸞輿を擁するもの実に十万余人。 「坂東武者は馬の上にてこそ口はきき候へども、船軍をば、何でふ修練し候ふべき、たとへば魚の木に上りたるにこそ候はむずらめ」 而して平門の周郎たる、新中納言知盛は、絶えず宗盛を擁して、回天の大略を行はむと試みたりき。 内にしては、京洛の反感をかひ、外にして平氏の隆勢に対す、かくの如くにして革命軍の将星は、秋風と共に、地に落つるの近きに迫り来れり。 彼が嘗つて、北越七州の男児を提げ、短兵疾駆、疾風の威をなして洛陽に入るや、革命軍の行動は真に脱兎の如く神速なりき。 而して翠華西に向ひて革命軍の旗、翩々として京洛に飜るや、其平氏に対する、寧ろ処女の如くなるの観を呈したりき。 何となれば、彼を疎んじたる朝廷の密謀は、彼を抑ふるに源兵衛佐を以てせむとしたれば也。 しかも、彼が北陸宮をして、天日の位につけ奉らむと試みしより以来、彼と快からざる後白河法皇は、頼朝に謳歌して彼を除かむと欲し給ひしを以て也。 彼が馬首西を指して、遠駕、平賊と戦ふ能はざりしや、知るべきのみ。 然れども、院宣は遂に彼をして、征西の軍を起こして、平氏を水島に討たしめたり。 北陸の健児由来騎戦に長ず、鉄兜三尺汗血の馬に鞭ちて、敵を破ること、秋風の落葉を払ふが如くなるは、彼等が得意の擅場也。 然りと雖も、水上の戦に於ては、遂にカルセーヂたる平氏が、独特の長技に及ばざりき。 恰も長江に養はれたる、呉の健児が、赤壁に曹瞞八十万の大軍を鏖殺し、詩人をして「漢家火徳終焼賊」 と歌はしめたるが如く、瀬戸内海に養はれたる波濤の勇士は、遂に、連勝の余威に乗じたる義仲の軍鋒を破れり。 源軍首を得らるゝもの三千余級、白旄地に委して、平軍の意気大に振ふ。 彼は、更に精鋭を率ゐて平軍と雌雄を決せむと欲したり。 然れども、彼は、頼朝の大挙、彼が背を討たむとするを聞きて危機既に一髪を容れざるを知り、水島の敗辱を雪ぐに遑あらずして、倉皇として京師に帰れり。 是実に寿永二年十一月十五日、法住寺の変に先つこと僅に三日。 彼は京師に帰ると共に、直に頼朝に応戦せむと試みたり。 此時に於て、彼をして此計画の断行を止めしめしものは、実に、十郎蔵人行家の反心なりき。 行家はもと頼朝と和せずして、義仲の軍中に投ぜしもの、情の人たる義仲は、一門の長老として常に之を厚遇したり。 彼が、緋甲白馬、得々として洛陽に入るや、行家亦肩を彼と比して朝恩に浴したりき。 而して多恨多涙、人の窮を見る己の窮を見るが如き、義仲は、常に行家を信頼したり。 信頼したるのみならず、帷幄の密謀をも彼に漏したり。 彼は革命軍の褊裨を以て甘ぜむには、余りに漫々たる野心と、老狐の如き姦策とに富みたりき。 彼は、義仲の法皇を擁して北越に走らむとするを知るや、竊に之を法皇に奏したり。 而して法皇の、人をして、義仲を詰らしめ給ふや、彼は平氏追討を名として、播磨国に下り、舌を吐くこと三寸、義仲の命運の窮せむとするを喜びたりき。 義仲が相提携して進みたる行家は、かくして彼の牙門を去れり。 しかも、東国を望めば、源軍のリユーポルト、九郎義経は、源兵衛佐の命を奉じて、帯甲百万、鼓声地を撼して将に洛陽にむかつて発せむとす。 かくの如くにして彼は歩一歩より、死地に近づき来れり。 然り、彼は猶、陰謀の挑発者にあらずして、陰謀の防禦者なりき。 しかも、彼をして、弓を法皇にひかしめたるは、実に、法皇の義仲に対してとり給へる、攻撃的の態度に存したりき。 而して、法皇をして義仲追討の挙に出でしめたるは、軽佻、浮薄、無謀の愚人、嘗て義仲の為に愚弄せられたるを含める斗の豎児、平判官知康なりき。 事を用ふるを好み給へる、法皇は、知康の暴挙に賛し、竊に、南都北嶺の僧兵及乞食法師辻冠者等をして、義仲追討の暴挙に与らしめ給へり。 而して十一月十八日仁和寺法親王、延暦寺座主明雲、亦武士を率ゐて法住寺殿に至り、遂に義仲に対するクーデターは行はれたり。 燃ゆるが如くなる、血性の彼にして、焉ぞ手を袖して誅戮を待たむや。 彼は憤然として意を決したり、あらず、意を決せざるべからざるに至れる也。 而して白旗直に法住寺殿を指し、刀戟霜の如くにして鉄騎七千、稲麻の如く御所を囲み乱箭を飛ばして、天台座主明雲を殺し、院側の姦を馘るもの一百十余人、其愛する北国の勇士、革命の健児等をして凱歌を唱へしむる、実に三たび。 木曾の野人のなす所はかくの如く不敵にして、しかもかくの如く痛激なり。 彼は其云はむと欲する所を云ひ、なさむと欲する所を為す、敢て何等の衒気なく何等の矯飾なかりき。 然り彼は不軌の臣也、然れども、彼は不軌の何たるかを知らざりし也。 今や彼は、剣佩の響と共にクーデターに与りたる卿相四十余人の官職を奪ひ、義弟藤原師家をして摂政たらしめ、頼朝追討の院宣と征夷大将軍の栄位とを得、壮心落々として頼朝と戦はむと欲したり。 然れ共彼が此一挙は、遂に盗を見て繩を綯ふに類したりき。 何となれば、反心を抱ける行家は、既に河内によりて義仲に叛き、九郎義経の征西軍は早くも尾張熱田に至り、鎌倉殿の号令一度下らば、「白日秦兵天上来」 出でて頼朝と戦はむ乎、水島室山の戦ありてより連勝の余威を恃める平氏が、竜舟錦帆、八島を発し鸞輿を擁して京洛に入らむとするや、火を見るよりも明也。 退いて洛陽に拒守せむ乎、鞍馬の頑児と、蒼髯の老賊とが、鼓を打つて来り迫るや知るべきのみ。 勇名一代を震撼したる旭日将軍もかくして、日一日より死を見るの近きにすゝめり。 しかも、彼の平氏に対して提したる同盟策が、濶達勇悍の好将軍知盛によつて、拒否せらるゝや、彼が滅亡は漸く一弾指の間に迫り来れり。 寿永三年正月、彼が、股肱の臣樋口次郎兼光をして行家を河内に討たしむるや、兵を用ふること迅速、敏捷、元の太祖が所謂、敵を衝く飢鷹の餌を攫むが如くなる、東軍の飛将軍、源九郎義経は、其慣用手段たる、孤軍長駆を以て、突として宇治に其白旄をひるがへしたり。 同時に蒲冠者範頼の大軍は、潮の湧くが如く東海道を上りて、前軍早くも勢多に迫り、義仲の北走を拒がむと試みたり。 根井大弥太行親、今井四郎兼平、義仲の命を奉じて東軍を逆ふ。 其勢実に八百余騎、既にして両軍戈を宇治勢多に交ふるや、東軍の精鋭当るべからず。 北風競はずして義仲の軍大に破れ、士卒矛をすてて走るもの数百人、東軍の軍威隆々として破竹の如し。 是に於て壮士二十人を従へて法皇を西洞院の第に守れる彼は、遂に法皇を擁して北国に走り、捲土重来の大計をめぐらすの外に策なきを見たり。 而して彼、法皇に奏して曰「東賊、既に来り迫る、願くは竜駕を擁して醍醐寺に避けむ」 彼憤然として階下に進み剣を按じ眦を決して、行幸を請ふ、益急。 時に義仲の騎来り報じて曰「東軍既に木幡伏見に至る」 彼、事愈危きを知り、遂に一百の革命軍を従へて、決然として西洞院の第を出でぬ。 赤地の錦の直垂に唐綾縅の鎧きて、鍬形うつたる兜の緒をしめ、重籐の弓のたゞ中とつて、葦毛の駒の逞しきに金覆輪の鞍置いて跨つたる、雄風凛然、四辺を払つて、蹄声戞々、東に出づれば、東軍の旗幟既に雲霞の如く、七条八条法性寺柳原の天を掩ひ戦鼓を打ちて閧をつくる、 義仲の勢、死戦して之に当り、且戦ひ、且退き、再、院の御所に至れば、院門をとぢて入れ給はず、行親等の精鋭百余騎、奮戦して悉く死し、彼遂に囲を破つて勢多に走る、従ふもの僅に七騎、既にして、今井四郎兼平敗残の兵三百余を率ゐて、粟津に合し、共に」 時実に寿永三年正月二十日、粟津原頭、黄茅蕭条として日色淡きこと夢の如く、疎林遠うして落葉紛々、疲馬頻に嘶いて悲風面をふき、大旗空しく飜つて哀涙袂を沾す。 嘗て、木曾三千の健児に擁せられて、北陸七州を巻く事席の如く、長策をふるつて天下を麾ける往年の雄姿、今はた、何処にかある。 嘗て三色旗を陣頭に飜して加能以西平軍を破ること、疾風の枯葉を払ふが如く、緋甲星兜、揚々として洛陽に入れる往年の得意、今、はた、何処にかある。 而してあゝ、翠帳暖に春宵を度るの処、膏雨桃李花落つるの時、松殿の寵姫と共に、酔うて春に和せる往年の栄華、今はた、何処にかある。 是に於て彼悵然として兼平に云つて曰「首を敵の為に得らるゝこと、名将の恥なり、いくさやぶれて自刃するは猛将の法なりとこそ聞き及びぬ」 と、兼平答へて曰「勇士は食せずして饑ゑず、創を被りて屈せず、軍将は難を遁れて勝を求め死を去つて恥を決す、兼平こゝにて敵を防ぎ候はむ、まづ越前の国府迄のがれ給へ」 と、然れども多涙の彼は、兼平と別るゝに忍びざりき。 彼は彼が熱望せる功名よりも、更に深く彼の臣下を愛せし也。 而して行く事未幾ならず、東軍七千、喊声を上ぐること波の如く、乱箭を放ち鼓を打つて、彼を追ふ益急也。 彼、兼平を顧み決然として共に馬首をめぐらし、北軍三百を魚鱗に備へ長剣をかざして、東軍を衝き、向ふ所鉄蹄縦横、周馳して囲を潰すこと数次、東軍摧靡して敢て当るものなし。 然れ共従兵既に悉く死し僅に慓悍、不敵の四郎兼平一騎を残す、兼平彼を見て愁然として云つて曰「心静に御生害候へ、兼平防矢仕りてやがて御供申すべし」 と、是に於て、彼は、単騎鞭声粛々、馬首粟津の松原を指し、従容として自刃の地を求めたり。 しかも乗馬水田に陥りて再立たず、時に飛矢あり、颯然として流星の如く彼が内兜を射て鏃深く面に入る。 而して東軍の士卒遂に彼を鞍上に刺して其首級を奪ふ。 兼平彼の討たるゝを見て怒髪上指し奮然として箭八筋に敵八騎を射て落し、終に自ら刀鋒を口に銜み馬より逆に落ちて死す。 嗚呼、死は人をして静ならしむ、死は人をして粉黛を脱せしむ、死は人をして粛然として襟を正さしむるもの也。 卒然として生と相背き、遽然として死と相対す、本来の道心此処に動き、本然の真情此処にあらはる、津々として春雨の落花に濺ぐが如く、悠々として秋雲の青山を遶るが如し。 夫鳥の将に死せむとする其鳴くや哀し、人の将に死せむとする、其言や善し。 人を見、人を知らむとする、其死に処するの如何を見ば足れり。 我木曾冠者義仲が其燃ゆるが如き血性と、烈々たる青雲の念とを抱いて何等の譎詐なく、何等の矯飾なく、人を愛し天に甘ンじ、悠然として頭顱を源家の呉児に贈るを見る、彼が多くの短所と弱点とを有するに関らず、吾人は唯其愛すべく、敬すべく、慕ふべく、仰ぐべき、 岳鵬挙の幽せらるゝや、背に尽忠報国の大字を黥し、笑つて死を旦夕に待ち、項羽の烏江に戮せらるゝや、亭長に与ふるに愛馬を以てし、故人に授くるに首級を以てし、自若として自ら刎ね、王叔英の燕賊に襲はるゝや、沐浴して衣冠を正し南拝して絶命の辞を書し、 彼は死に臨ンで猶火の如き赤誠を抱き、火の如き赤誠は遂に彼をして其愛する北陸の健児と共に従容として死せしめたり。 是実に死して猶生けるもの、彼の三十一年の生涯は是の如くにして始めて光栄あり、意義あり、雄大あり、生命ありと云ふべし。 かくして此絶大の風雲児が不世出の英魂は、倏忽として天に帰れり。 嗚呼青山誰が為にか悠々たる、江水誰が為にか汪々たる。 止ぬるかな、止ぬるかな、革命の健児一たび逝きて、遂に豎子をして英雄の名を成さしむるや、今や七百星霜一夢の間に去りて、義仲寺畔の孤墳、蕭然として独り落暉に対す。 知らず、青苔墓下風雲の児、今はた何の処にか目さめむとしつつある。 欝勃たる革命的精神が、其最も高潮に達したる時代の大なる権化也。 破壊的政策は彼が畢生の経綸にして、直情径行は彼が一代の性行なりき。 而して同時に又彼は暴虎馮河死して悔いざるの破壊的手腕を有したりき。 彼は幽微を聴くの聡と未前を観るの明とに於ては入道相国に譲り、所謂佚道を以て民を使ふ、労すと雖も怨みず、生道を以て民を殺す、死すと雖も怨みざる、治国平天下の打算的手腕に於ては源兵衛佐に譲る。 而して彼が寿永革命史上に一頭地を抽く所以のものは、要するに彼は飽く迄も破壊的に無意義なる繩墨と習慣とを蹂躙して顧みざるが故にあらずや。 彼は手を袖にして春風落花に対するが如く、悠長なる能はず。 炎々たる青雲の念と、勃々たる覇気とは常に火の如く胸腔を炙る。 如何なる場合に於ても膝をつき頭をたれて哀を請ふ事をなさず。 而して彼は世路の曲線的なるにも関らず、常に直線的に急歩せずンば止まず。 彼は衝突を辞せざるのみならず、又衝突を以て彼の大なる使命としたり。 彼が猫間中納言を辱めたる、平知康を愚弄したる、法住寺殿に弓をひきたる、皆彼が此直線的の行動に拠る所なくンばあらず。 水戸の史家が彼を反臣伝中の一人たらしめしが如き、此間の心事を知らざるもの、吾人遂に其余りに近眼なるに失笑せざる能はざる也。 すべてを焼かずンば止まざるのみならず、彼自身をも焼かずンば止まざる也。 彼が法皇のクーデターを聞くや、彼は「北国の雪をはらうて京へ上りしより一度も敵に後を見せず、仮令十善の君にましますとも甲を脱ぎ弓の弦をはづして降人にはえこそまゐるまじけれ」 彼は如何なる死地に陥るも、法住寺殿の変はなさざりしならむ。 彼は、其実行に関らず、唯其期する所を行はむと欲せし也。 是豈彼が一身を顧みざるの所以、彼が革命の使命を帯びたる健児たるの所以、而して頼朝が甘じて反臣伝に録せらるゝをなさざりし所以にあらずや。 彼は、其信ずる所の前には、天下口を斉うして之に反するも、猶自若として恐れざりき。 所謂自反して縮んば千万人と雖も、我往かむの気象は欝勃として彼の胸中に存したりき。 さればこそ彼は四郎兼平の諫をも用ひず、法住寺殿に火を放つの暴行を敢てせしなれ。 彼の法皇に平ならざるや、彼は「たとへば都の守護してあらむずるものが馬一疋づつ飼ひて乗らざるべきか、幾らともある田ども刈らせて秣にせむをあながちに法皇の咎め給ふべきやうやある」 彼は彼が旗下幾万の北国健児が、京洛に行へる狼藉を寧ろ当然の事と信じたり。 而して此所信の前には怫然として、其不平を法皇に迄及ぼすを憚らざりき。 「冠者ばらどもが、西山東山の片ほとりにつきて時々入取せむは何かは苦しかるべき。 彼は、彼に対するクーデターの理由をかゝる見地を以て判断したり。 既に青天白日、何等の不忠なきを信ず、彼が刀戟介馬法住寺殿を囲みて法皇を驚かせまゐらせたる、豈偶然ならずとせむや。 軽浮にして軽悍なる九郎義経の如き、老猾にして奸雄なる蔵人行家の如き、或は以て革命の健児が楯戟の用をなす事あるべし。 然れども其楯戟を使ふべき革命軍の将星に至りては、必ず真率なる殉道的赤誠の磅薄として懐裡に盈つるものなくンばあらず。 然り、狂暴、驕悍のロベスピエールを以てする尚一片烈々たる殉道的赤誠を有せし也。 一世を空うするの覇気となり、行路の人に忍びざるの熱情となる、其本は一にして其末は万也。 このスレッドは1000を超えました。
新しいスレッドを立ててください。
life time: 199日 21時間 16分 54秒 5ちゃんねるの運営はプレミアム会員の皆さまに支えられています。
運営にご協力お願いいたします。
───────────────────
《プレミアム会員の主な特典》
★ 5ちゃんねる専用ブラウザからの広告除去
★ 5ちゃんねるの過去ログを取得
★ 書き込み規制の緩和
───────────────────
会員登録には個人情報は一切必要ありません。
月300円から匿名でご購入いただけます。
▼ プレミアム会員登録はこちら ▼
https://premium.5ch.net/
▼ 浪人ログインはこちら ▼
https://login.5ch.net/login.php レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。