アンパンマンはハズレ無し [無断転載禁止]©2ch.net
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子供達に大受けするので、この絵を描けたりキャラの名前を知っておいて損は無いよ。 しかも、彼が北陸宮をして、天日の位につけ奉らむと試みしより以来、彼と快からざる後白河法皇は、頼朝に謳歌して彼を除かむと欲し給ひしを以て也。 彼が馬首西を指して、遠駕、平賊と戦ふ能はざりしや、知るべきのみ。 然れども、院宣は遂に彼をして、征西の軍を起こして、平氏を水島に討たしめたり。 北陸の健児由来騎戦に長ず、鉄兜三尺汗血の馬に鞭ちて、敵を破ること、秋風の落葉を払ふが如くなるは、彼等が得意の擅場也。 然りと雖も、水上の戦に於ては、遂にカルセーヂたる平氏が、独特の長技に及ばざりき。 恰も長江に養はれたる、呉の健児が、赤壁に曹瞞八十万の大軍を鏖殺し、詩人をして「漢家火徳終焼賊」 と歌はしめたるが如く、瀬戸内海に養はれたる波濤の勇士は、遂に、連勝の余威に乗じたる義仲の軍鋒を破れり。 源軍首を得らるゝもの三千余級、白旄地に委して、平軍の意気大に振ふ。 彼は、更に精鋭を率ゐて平軍と雌雄を決せむと欲したり。 然れども、彼は、頼朝の大挙、彼が背を討たむとするを聞きて危機既に一髪を容れざるを知り、水島の敗辱を雪ぐに遑あらずして、倉皇として京師に帰れり。 是実に寿永二年十一月十五日、法住寺の変に先つこと僅に三日。 彼は京師に帰ると共に、直に頼朝に応戦せむと試みたり。 此時に於て、彼をして此計画の断行を止めしめしものは、実に、十郎蔵人行家の反心なりき。 行家はもと頼朝と和せずして、義仲の軍中に投ぜしもの、情の人たる義仲は、一門の長老として常に之を厚遇したり。 彼が、緋甲白馬、得々として洛陽に入るや、行家亦肩を彼と比して朝恩に浴したりき。 而して多恨多涙、人の窮を見る己の窮を見るが如き、義仲は、常に行家を信頼したり。 信頼したるのみならず、帷幄の密謀をも彼に漏したり。 彼は革命軍の褊裨を以て甘ぜむには、余りに漫々たる野心と、老狐の如き姦策とに富みたりき。 彼は、義仲の法皇を擁して北越に走らむとするを知るや、竊に之を法皇に奏したり。 而して法皇の、人をして、義仲を詰らしめ給ふや、彼は平氏追討を名として、播磨国に下り、舌を吐くこと三寸、義仲の命運の窮せむとするを喜びたりき。 義仲が相提携して進みたる行家は、かくして彼の牙門を去れり。 しかも、東国を望めば、源軍のリユーポルト、九郎義経は、源兵衛佐の命を奉じて、帯甲百万、鼓声地を撼して将に洛陽にむかつて発せむとす。 かくの如くにして彼は歩一歩より、死地に近づき来れり。 然り、彼は猶、陰謀の挑発者にあらずして、陰謀の防禦者なりき。 しかも、彼をして、弓を法皇にひかしめたるは、実に、法皇の義仲に対してとり給へる、攻撃的の態度に存したりき。 而して、法皇をして義仲追討の挙に出でしめたるは、軽佻、浮薄、無謀の愚人、嘗て義仲の為に愚弄せられたるを含める斗の豎児、平判官知康なりき。 事を用ふるを好み給へる、法皇は、知康の暴挙に賛し、竊に、南都北嶺の僧兵及乞食法師辻冠者等をして、義仲追討の暴挙に与らしめ給へり。 而して十一月十八日仁和寺法親王、延暦寺座主明雲、亦武士を率ゐて法住寺殿に至り、遂に義仲に対するクーデターは行はれたり。 燃ゆるが如くなる、血性の彼にして、焉ぞ手を袖して誅戮を待たむや。 彼は憤然として意を決したり、あらず、意を決せざるべからざるに至れる也。 而して白旗直に法住寺殿を指し、刀戟霜の如くにして鉄騎七千、稲麻の如く御所を囲み乱箭を飛ばして、天台座主明雲を殺し、院側の姦を馘るもの一百十余人、其愛する北国の勇士、革命の健児等をして凱歌を唱へしむる、実に三たび。 木曾の野人のなす所はかくの如く不敵にして、しかもかくの如く痛激なり。 彼は其云はむと欲する所を云ひ、なさむと欲する所を為す、敢て何等の衒気なく何等の矯飾なかりき。 然り彼は不軌の臣也、然れども、彼は不軌の何たるかを知らざりし也。 今や彼は、剣佩の響と共にクーデターに与りたる卿相四十余人の官職を奪ひ、義弟藤原師家をして摂政たらしめ、頼朝追討の院宣と征夷大将軍の栄位とを得、壮心落々として頼朝と戦はむと欲したり。 然れ共彼が此一挙は、遂に盗を見て繩を綯ふに類したりき。 何となれば、反心を抱ける行家は、既に河内によりて義仲に叛き、九郎義経の征西軍は早くも尾張熱田に至り、鎌倉殿の号令一度下らば、「白日秦兵天上来」 出でて頼朝と戦はむ乎、水島室山の戦ありてより連勝の余威を恃める平氏が、竜舟錦帆、八島を発し鸞輿を擁して京洛に入らむとするや、火を見るよりも明也。 退いて洛陽に拒守せむ乎、鞍馬の頑児と、蒼髯の老賊とが、鼓を打つて来り迫るや知るべきのみ。 勇名一代を震撼したる旭日将軍もかくして、日一日より死を見るの近きにすゝめり。 しかも、彼の平氏に対して提したる同盟策が、濶達勇悍の好将軍知盛によつて、拒否せらるゝや、彼が滅亡は漸く一弾指の間に迫り来れり。 寿永三年正月、彼が、股肱の臣樋口次郎兼光をして行家を河内に討たしむるや、兵を用ふること迅速、敏捷、元の太祖が所謂、敵を衝く飢鷹の餌を攫むが如くなる、東軍の飛将軍、源九郎義経は、其慣用手段たる、孤軍長駆を以て、突として宇治に其白旄をひるがへしたり。 同時に蒲冠者範頼の大軍は、潮の湧くが如く東海道を上りて、前軍早くも勢多に迫り、義仲の北走を拒がむと試みたり。 根井大弥太行親、今井四郎兼平、義仲の命を奉じて東軍を逆ふ。 其勢実に八百余騎、既にして両軍戈を宇治勢多に交ふるや、東軍の精鋭当るべからず。 北風競はずして義仲の軍大に破れ、士卒矛をすてて走るもの数百人、東軍の軍威隆々として破竹の如し。 是に於て壮士二十人を従へて法皇を西洞院の第に守れる彼は、遂に法皇を擁して北国に走り、捲土重来の大計をめぐらすの外に策なきを見たり。 而して彼、法皇に奏して曰「東賊、既に来り迫る、願くは竜駕を擁して醍醐寺に避けむ」 彼憤然として階下に進み剣を按じ眦を決して、行幸を請ふ、益急。 時に義仲の騎来り報じて曰「東軍既に木幡伏見に至る」 彼、事愈危きを知り、遂に一百の革命軍を従へて、決然として西洞院の第を出でぬ。 赤地の錦の直垂に唐綾縅の鎧きて、鍬形うつたる兜の緒をしめ、重籐の弓のたゞ中とつて、葦毛の駒の逞しきに金覆輪の鞍置いて跨つたる、雄風凛然、四辺を払つて、蹄声戞々、東に出づれば、東軍の旗幟既に雲霞の如く、七条八条法性寺柳原の天を掩ひ戦鼓を打ちて閧をつくる、 義仲の勢、死戦して之に当り、且戦ひ、且退き、再、院の御所に至れば、院門をとぢて入れ給はず、行親等の精鋭百余騎、奮戦して悉く死し、彼遂に囲を破つて勢多に走る、従ふもの僅に七騎、既にして、今井四郎兼平敗残の兵三百余を率ゐて、粟津に合し、共に」 時実に寿永三年正月二十日、粟津原頭、黄茅蕭条として日色淡きこと夢の如く、疎林遠うして落葉紛々、疲馬頻に嘶いて悲風面をふき、大旗空しく飜つて哀涙袂を沾す。 嘗て、木曾三千の健児に擁せられて、北陸七州を巻く事席の如く、長策をふるつて天下を麾ける往年の雄姿、今はた、何処にかある。 嘗て三色旗を陣頭に飜して加能以西平軍を破ること、疾風の枯葉を払ふが如く、緋甲星兜、揚々として洛陽に入れる往年の得意、今、はた、何処にかある。 而してあゝ、翠帳暖に春宵を度るの処、膏雨桃李花落つるの時、松殿の寵姫と共に、酔うて春に和せる往年の栄華、今はた、何処にかある。 是に於て彼悵然として兼平に云つて曰「首を敵の為に得らるゝこと、名将の恥なり、いくさやぶれて自刃するは猛将の法なりとこそ聞き及びぬ」 と、兼平答へて曰「勇士は食せずして饑ゑず、創を被りて屈せず、軍将は難を遁れて勝を求め死を去つて恥を決す、兼平こゝにて敵を防ぎ候はむ、まづ越前の国府迄のがれ給へ」 と、然れども多涙の彼は、兼平と別るゝに忍びざりき。 彼は彼が熱望せる功名よりも、更に深く彼の臣下を愛せし也。 而して行く事未幾ならず、東軍七千、喊声を上ぐること波の如く、乱箭を放ち鼓を打つて、彼を追ふ益急也。 彼、兼平を顧み決然として共に馬首をめぐらし、北軍三百を魚鱗に備へ長剣をかざして、東軍を衝き、向ふ所鉄蹄縦横、周馳して囲を潰すこと数次、東軍摧靡して敢て当るものなし。 然れ共従兵既に悉く死し僅に慓悍、不敵の四郎兼平一騎を残す、兼平彼を見て愁然として云つて曰「心静に御生害候へ、兼平防矢仕りてやがて御供申すべし」 と、是に於て、彼は、単騎鞭声粛々、馬首粟津の松原を指し、従容として自刃の地を求めたり。 しかも乗馬水田に陥りて再立たず、時に飛矢あり、颯然として流星の如く彼が内兜を射て鏃深く面に入る。 而して東軍の士卒遂に彼を鞍上に刺して其首級を奪ふ。 兼平彼の討たるゝを見て怒髪上指し奮然として箭八筋に敵八騎を射て落し、終に自ら刀鋒を口に銜み馬より逆に落ちて死す。 嗚呼、死は人をして静ならしむ、死は人をして粉黛を脱せしむ、死は人をして粛然として襟を正さしむるもの也。 卒然として生と相背き、遽然として死と相対す、本来の道心此処に動き、本然の真情此処にあらはる、津々として春雨の落花に濺ぐが如く、悠々として秋雲の青山を遶るが如し。 夫鳥の将に死せむとする其鳴くや哀し、人の将に死せむとする、其言や善し。 人を見、人を知らむとする、其死に処するの如何を見ば足れり。 我木曾冠者義仲が其燃ゆるが如き血性と、烈々たる青雲の念とを抱いて何等の譎詐なく、何等の矯飾なく、人を愛し天に甘ンじ、悠然として頭顱を源家の呉児に贈るを見る、彼が多くの短所と弱点とを有するに関らず、吾人は唯其愛すべく、敬すべく、慕ふべく、仰ぐべき、 岳鵬挙の幽せらるゝや、背に尽忠報国の大字を黥し、笑つて死を旦夕に待ち、項羽の烏江に戮せらるゝや、亭長に与ふるに愛馬を以てし、故人に授くるに首級を以てし、自若として自ら刎ね、王叔英の燕賊に襲はるゝや、沐浴して衣冠を正し南拝して絶命の辞を書し、 彼は死に臨ンで猶火の如き赤誠を抱き、火の如き赤誠は遂に彼をして其愛する北陸の健児と共に従容として死せしめたり。 是実に死して猶生けるもの、彼の三十一年の生涯は是の如くにして始めて光栄あり、意義あり、雄大あり、生命ありと云ふべし。 かくして此絶大の風雲児が不世出の英魂は、倏忽として天に帰れり。 レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。