【道祖神】路端の石像【地蔵様】
日本全国に存在する路端の石像。
地蔵であったり賽の神であったり庚申塔であったり
信仰が習合しすぎていて、もう何が何だかわからない
まさに民俗学の真骨頂とも言える存在。
語りましょう うん。俺は長野県民だが、たんに語呂が似てるから一緒くたになっただけ(元々は別の神様で無関係)では?と思ってる
お偉い研究者様がたがどう考えてるかは知らんw
真実はわからんが、混同されたり形を変えながらもこうした信仰や行事がなんとか残ってるならば嬉しいものだ どんど焼きを食べる祭りだから祭りの名前もどんど焼きなんだぞ どんど焼きってどこ方言なのだ
神奈川民はセート焼き(さいと、せいと、さえと/焼きを省く方が多い)だったのに、いつのまにか
どんどが襲って来て、昨今は左義長(京都勢)がでかいかおしつつある。
中央集権の支配の歴史を見ているようで気分が悪いw 左義長(どんど焼き)の時、道祖神を火にぶっこんでる所って多い? >>330
神奈川県鎌倉市海側だが、この辺は40年くらい前にはどんど焼きって言ってたな
新興住宅地と村が入り乱れてる辺りで多分近い藤沢や気持ち内陸の深沢や山崎とかもそんな感じ >>332
そのエリアも60年前はセート、サイトだったらしいんだよ。
もっと古くなるとオンベ焼きとも呼んでた。 >>330
元禄元年の法度書きに「正月十五日さきてう焚并祭の神焚」を禁じるお達しがある。
「さきてう焚」は左義長のことなので、幕府としてはそれで全国に通用する言葉と見なしていたと想像はできる。
ちな鶴見(横浜市)の名主あたりの家が持ってた文書。 延宝年間の「仮名往来」に左義長の解説があるらしい。
要約すると
漢の明帝の代。仏書が渡り、道士が訴えた。
そこで、左に仏書、右に儒書を置き火をかけると儒書は焼けたが左の仏書は焼けず。
これをもって「左の義、長ぜり」と仏法の義が勝り東土へ流布す。 石仏の写真撮ってたら、撮るなと怒鳴られた
地元が大切に祀ってるからというのが理由らしいが
その割に石仏は倒れて半分埋まってた 路傍の石仏につけられた解説書を読んでると、昭和に書かれたであろうものには
道祖神と結びつけてるのがやたらとある。
古っwと失笑してしまう お地蔵さん、道祖神、塞の神、クナトの神、道饗祭、八衢、皇御孫之命、サルタヒコ、サカ
村の辻々にあり地蔵盆を行う
関西では一番広く信仰されている ここの住民ってなんだかんだで意外と史料読み込んでるな お地蔵様に非常に不快なイタズラをしている北九州のガイジYouTuber
これは器物損壊だろ
https://youtu.be/MgUpCxKyjHs 江戸時代は脇往還だが小規模な宿場として取立てられ
明治以降はうまいこと地場産業が成立できて昭和中期(戦後)までそれで栄えた土地
そんな町の旧街道沿いに古くから続く商店で聞いた話。
宿場だったので江戸時代は飯売旅籠が、明治以降は工場もできて人が増え色街があった。
そういう所の女衆が拝んでいた石があって今もうちが管理している。
その場所は表通りからは見えない、商店と商店の隙間にある小さな稲荷で
一坪ほどの境内のすみに小さな石祠と庭石のようなものもあった。
石祠が先代でそれを拝んでいたのかと訊くと
いや、拝んでたのはその丸い石だと庭石のようなものを指した。
その石は自然石だが中央に立て長のシワが入っていて、いわゆる陰石になっていた。 色街に稲荷があって女郎達の病除け祈願がなされていた事例は少なくないが
陰石が祭祀対象だったとは思いもよらず
案外、見逃されているだけで、笠守稲荷とかの境内にもあるのではと思ったのでした。
余談だが、戦前までの色街に作られた稲荷が今も残っていることはあるが
今の色街って、こういう祭祀対象は無いのだろうか 昭和中頃まで花街だったという所へ行ってみた。
村の鎮守から50mと離れていない街道筋で渡場の手前300mくらいが花街だったらしい。
鎮守は近いものの、花街の女達が拝みに来ていたような雰囲気がない。
鎮守の街道に面した場所に丸彫りの如意輪があったので、これか?と思ったが
ボロボロ過ぎてどうもそぐわない
そこでさらに捜してみたところ、花街の外れに別の神社が2つあった
風土紀犒などに載っている江戸時代からの小社は全て明治期に鎮守へ合祀されていることと
名前が大鷲神社と白子園神社という、花街らしい色っぽさがあるので間違いなかろう。
白子園は由緒不明だが、大鷲(おおとり)は関東だと吉原のおとり様が有名で花街にはわりと勧請されている。
残念ながら陽石や陰石は無かった。 道端で見つけて気になったのですがこれって道祖神?菩薩像?馬頭観音?
何なのでしょうか。
前面も側面文字も読めず詳細がわからないのですが。
https://i.imgur.com/BgS2gbZ.jpg >>351
正面は「先祖代々之精霊」「家内 安全」
側面は「施主大島□□□」「大正十一年三月」
ということで彫像は大島家の氏神か守本尊かなにかだろ 平塚の花街だった場所に残る大鷲神社へ行ってみた。
江戸時代の平塚はしょぼかったが、明治以降は駅と工場が誘致できたおかげで
爆上げし、花街は数カ所できていたらしい。
大鷲神社があるのは東海道沿いにあった飯盛旅籠が一ヶ所にまとめられた花街。
業態は貸座敷屋で江戸時代とはだいぶ変わってたが、屋号が続いている店もあり、
その1つの店が造立した丸石文字道祖神塔があった(大正の震災前)。
これに縦線とか入っていれば>>348と同じだが、ただの丸石だった。
よくわからんわ、花街の店連名ならともかく、単独で道祖神を建てるのは何故なのか。 中世末期、埼玉の土豪に道祖土(さいど)氏ってのがいたらしい。
今も子孫はいるようだが、この一族が施主になった道祖神があったら面白いのに。 >>353
その店の由来が周囲と違うからでは?
静岡東部から西湘あたりの商家などは甲州からの移住者がポツポツいるし。うちの近所の魚問屋も武田から北条に嫁いだ姫様についてきた商人が小田原でアワビの仲買を始めたのが創業らしいけどそこの屋敷神は丸石だし >>355
小田原は丸石を祀ってる祠がいくつかあるね
ただ、小田原の資料を軽く調べた範囲だと丸石は神籬の役目で置かれているという印象だった
それと文字情報だと「丸石」と表現するしかないが
甲州あたりの丸石は本当に丸いよね
>>353の丸石は河原石的な楕円形というかオニギリ型というかで、サイズの大小はあるが関東信越以北ではよく見るタイプだった >>359
狸合戦の?
ちょっと唐突な気もします。 >>358
横着しないで全ての文字が読み取れるような写真うp >>361
見つけた時はカメラもスマホも持ってなくて、家からも遠いので横着しました、どうもどうも。
でも、ホントに横側や裏を見ても何もなく、“金“しか刻まれてないんです。 いや、金の下に明らかに平らに加工された部分があってなんか書いてあるでしょ
水って文字が明らかに読めるぞ う〜ん、僕にはよく見えないけど、たしかになんか不自然な形してますね。
もう一遍行ってもいいんだけど、前に“妖怪ハンターごっこ”と称して近所のサルタヒコの石像をスマホで撮ったら
ナゾの頭痛に悩まされて、神職さんにその話をしたら、写真なんか撮ったらいけないってクギをさされたんです。
だからどうも写真うpは気が進みません。いつか現地でもう一度確かめて、何か進展があったら報告します。
地元の教育委員会に郷土史家を紹介してもらうとか、何か方法はあるかも。 横からすみません
子供の頃、奈良に行った時道路真ん中に転々と百葉箱みたいな
中に何か奉ってあるものがあったのを覚えてますがあれって何ですか? >>370
論じたいことがあるなら自分で書け
なんでお前のために他人がわざわざ文章作ってやらにゃならんのか 路傍の石像は田舎だと信仰面が大きいんだけど、都市部だと実益的な面もあるよね
例えば迷子石(迷子みしるべ石、奇縁氷人石)と呼ばれる石柱は上部に仏尊が彫られその角柱の左右にたづぬる方、をしゆる方と書かれそこにそれぞれ名前や特徴、目撃情報などを記した紙を張っていた。都内だと浅草寺や湯島天神に現存するけど、寺社だけでなく繁華街の道沿いにも設置され人探しに利用されていた。現存する例としては八重洲の一石橋迷子しらせ石など
関西方面だともっとすごくて迷子探しどころか店の求人や縁談募集などまで貼り出す奇縁氷人石が繁華街に置かれてたとか 道標石も信仰関係なしにしばしば地蔵とか観音とか彫ってある 江戸幕府はしばしば町奉行所に町名主集めて迷子の保護と送還を命じていたりとわりと真面目に対策してるんだが迷子石の新設には否定的。数が増えると確認のために多くの場所を回らねばならず利便性が低下するのを嫌ったようだ 江戸の迷子は現代の迷子と違って大人も含むからな
奉公先から発作的に逃げ出して本来なら無宿人になるのを迷子扱いにして穏便に済ますなんてこともあったし 来訪神や去来神とは違う、どこから来たのか、どこへ行くのかもわからない、
出自や帰属が不明の、「はぐれた神」「迷い神」「さまよう神」ってのは
いるのかな。トランプのジョーカーみたいな「謎の神」。