【山の民】サンカ(山窩)について語るスレッド
今でも中国地方にいるだとか聞くけど、本当なのだろうか? 今でも中国地方にいるだとか聞くけど、本当なのだろうか? サンカの末裔
https://9ch.net/ZCrRC
私が生まれた広島県の被差別部落のはずれに、
ひとりだけ、掘っ立て小屋のような家に住む孤老がいた。
うちの部落の住民のほとんどは、定住・農耕を生活の基盤に置く人々だったが、
竹細工と魚とりを生業にするその老人は、ボサボサの白髪の仙人めいた風貌で、
明らかに私たちとは違う文化圏の住人であることを感じさせた。
家の外を歩いていて、たまにその孤老を見かけることはあったが、面識もなく、
なんとなくその風貌が子供心に不気味だったこともあり、口をきいたことはなかった。
当時(1980年代中頃)は、部落解放運動の一環として、
郷土の部落史づくりが盛んになっていた頃で、各地で聞き取り調査が行われていた。
そんな流れの中、父がその孤老に話を聞きにいくというので、私も一緒についていき、
島根県の方まで竹細工や魚を売り歩いていた話や、
道具を使わずに魚を捕まえる方法など、いろいろ面白い話を聞いた。
一般的な広島弁とは違う、ちょっと引っかかるような独特の発声が印象的だった。
たぶん実家には当時の録音テープが残っていると思う。帰ったら聞きなおしてみたい。
その後は、外でじいちゃんと顔をあわせたら、あいさつするようになった。
にっこり笑ってあいさつを返してくれたじいちゃんの苗字は「竹屋」だった。
たぶん通称がそのまま呼び名になって定着したのだろう。
数年前、『サムライチャンプルー』制作中の渡辺信一郎監督に取材したとき、
この話をしたら、身を乗り出して聞いてくださった。
おそらく、じいちゃんは、サンカの末裔だったのではないか。 【つけびの村】山口県周南市連続殺人放火事件について
https://9ch.net/F7Uqy
個人的に興味を引かれた部分は、父・友一についてである。
一部には、先祖代々から家があった訳ではなく山中から降りてきた、
竹細工売りなどをしていた話は一部報道されていたが、
本書に出てくる周辺住民の「噂」を加味すると、
生活困窮民(漂流民というより難民)としてのサンカのような暮らしぶりが想起される。
彼が眠る保見家の墓の見開き写真も強烈なものがあった。 https://www.youtube.com/watch?v=pym_7PyoLCE
拾いだけど地方は色々な風習が残っているんだよね。皇室もお米のとぎ汁で体
あらったり色々あるらしいし。お葬式で棺をみんなで抱えて一度近くの川を
渡るってのもあるっていう。三途の川ってことみたいだけど 566 日曜8時の名無しさん 2021/02/10(水) 14:01:24 ID:yiSg+Mx5
秀吉が遊芸民・漂泊民の出だったという説はどこまで信憑性があるのか
572 日曜8時の名無しさん 2021/02/10(水) 14:21:51 ID:olDzbNST
>>566
自分は親の出自(とくに父)が明確でないうえ
右耳の穴のとなりに針穴のような小さな穴が開いてるんです
母から聞いた話ですがこの穴は産婆さんによると蛇の穴といってサンカの印だと
いうことなんです
大人になって気になりサンカ関係の書籍をあさってみました
サンカの幻想は元朝日新聞記者の三角という人がエログロを主題として創作に近いもので
沖浦氏によると飢饉などで生活に困窮したさまざまな階層の人が流民かしたものが
漂白民であったり遊芸民であると定義づけています
一方でネットワークの存在する河の民や大道芸人や傀儡子そして修験道者などの研究もあり
何をもって漂白民とか遊芸民とするのかがまず難しいのですね サンカを世に広めたのは昭和の中頃に活躍した三角寛という元新聞記者だが
実はこの人、研究者と言うよりサンカ小説というジャンルを生んだ作家だった
刺激的な創作で有名になってしまったため、まじめな研究はむしろ廃れた
被差別民への偏見が絡むデリケートな問題もあった
山に棲む謎多き流浪の民は本当に居たかもしれないけど
結局その実態は、歴史の闇と虚実の狭間に消えてしまった 居合術を使うサンカっていますか?
実は子供の頃に、近所の山奥の河原に浮浪者みたいな夫婦が住みついて、近所の友達とそいつらの小屋に花火打ち込んだりしてからかいに行ったら、小屋から長い刀を腰に指した浮浪者が飛び出してきて、我々が打ち込んだロケット花火を抜き打ちで斬り落とした
怖くなって逃げてそれっきりだが未だに気になる
場所は大分県の大分市戸次って所から少し山に入ったあたり 昔からいろいろな事情の人が山に隠れて暮らしてきたんだろう
そんなロマンのある山の民なんかいなかったのかも
>>25
それにしても刀振り回すのは怖いね 事情があって、人里には住めなくなった居合の達人だったのかね。 山で生きるのって普通無理だよ
俺の経験だけど、若い頃に色々あって東京から大分の山間部へ入り浮浪者生活始めたんだがやぶ蚊に堪えられず1ヶ月で山を降りた >>31
大勢で森を拓いて隠れ里かキャンプ場みたいのを作ればいけそうだけどな あと漂白民だから里を渡り歩いて細工物を売ったりしていたと言われてる
日本は山がちだからジプシーみたいな連中がいたとして、山道を移動することが多かっただけかも 昭和のドキュメンタリーをつべで見たけどアナウンサーやお役所の人の言葉はわかっても地元の人の言葉が何言ってるかわからなかった
津軽や鹿児島ではなかったのに
今だって曾祖父世代の言葉は方言キツくてわからないのに
今のように気軽に地元を出なかった各所の人達の言葉がわかるのかなあ
流浪して物売りするなら言葉がわからないと難しいような 過去スレに毎日新聞の記事がコピペされてた
長すぎると言われたので分割します
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237 こぴっぺ 2001/06/22(金) 17:32
これでしょ?
最後のサンカに会った ロマンに潜む虚像の怖さ
池田知隆(大阪社会部編集委員)
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独特の川魚漁を見せる最後のサンカ=広島県で
◇差別された窮民の子孫
「私たちはサンカ(山窩)と呼ばれていました」。広島県東部に住む男たちが、
目前で語り出した。サンカとは、かつて日本列島で箕(み)作りや竹細工、川魚
漁などを生業とした漂泊民のこと。1950年代末に消えた。虹のような幻の民
としてロマンチックに語られてきたが、実像は被差別民だ。より学問的に解明し
ようと桃山学院大学名誉教授(比較文化論)、沖浦和光さんがこの5月、部落解
放同盟の人たちの案内で聞き取り調査をした。それに同行し、最後のサンカと言
われる人たちから生の声を聞いた。「3歳のとき、父が亡くなり、隣のおじさん
と10歳のころまで川魚漁をして回った。とにかく魚を食べられるのがうれしく
て……」。尾道市に住む公務員、Aさん(59)は懐かしそうに語り出した。両
親は、大正時代に被差別部落内にできた「融和」住宅に入って定住。「地区内で
も『山のもん』とか『サンカホイト』と差別された。中学のころから、何をして
いいのか分からなくて、暴れていましたよ」 サンカといえば、三角寛(190
3〜71)の名を思い出す古老は少なくない。 朝日新聞記者を経て、昭和のエロ
グロ時代に猟奇的なサンカ小説を書きまくった人気大衆小説家だ。昭和の初めに
現れた説教強盗を、その犯行の特異さから「サンカの仕業」と考えた警察の見方
にのって「伝奇ロマン」ものや荒唐無稽(むけい)な物語を生み出した。戦後、
三角は約30年にわたる研究成果をまとめた「サンカ社会の研究」で文学博士を
取得したが、学問的に信頼できないとして柳田国男などの民俗学者からは無視さ
れた。沖浦教授も「三角のサンカ像は奔放な想像力の所産であり、虚構の部分が
少なくない」と指摘する。だが、一方でサンカのイメージはよりロマンチックに
なる。私がサンカの世界を知ったのは「戒厳令の夜」「風の王国」など五木寛之
の作品からだ。国家の規制を超えて独自の文化をもち、管理社会の下で閉塞(へ
いそく)した状況に風穴を開ける集団として登場し、痛快だった。中島貞夫監督
の映画「瀬降り物語」(85年)では、山々を流浪する孤独な生活を萩原健一が
好演した。作家の椋鳩十は、自然に生きる漂泊民として詩情豊かに描き、自由に
生きる人間の原風景を呼び起こした。昨年末から刊行されている「三角寛サンカ
選集」(全7巻)が今、予想以上に版を重ねている。版元の現代書館編集長、村
井三夫さんは「もう読めないとあきらめていたが、よく出してくれたと喜ぶ高齢
者が多かった」と語る。社会の窒息感が昭和初期のころと似てきているのだろう
か。 だが、サンカの実像はいったいどうなのか。サンカに関する初出史料は安芸
国(広島県)の庄屋文書(1855年)とみられる。三角がサンカ発生の地とし
て「雲伯石の三国」(島根・鳥取両県)を示唆しているが、「それに広島県を加
えれば、その指摘は当たっている」と沖浦教授は語る。ただ、サンカが古代国家
成立前の山人という説に対して、「近世末期発生説」を提起した。当時の度重な
る大飢饉(ききん)で農山村が荒廃し、餓死を逃れて山へ入った窮民が山間川辺
を漂泊する流民となった。サンカは漢字では「山家」「山窩」という字があてら
れるが、「山にひそむ盗賊」の意味だそうだ。文明社会から置き去りにされた漂
泊民をあたかも犯罪者集団と見た名残がある。そのサンカは明治初期から次第に
被差別部落や都市部のスラム街に溶け込んでいったというのである。 「学校があ
るから、と私を残して両親はあちこち仕事に出かけ、寂しかった」とサンカの古
老、Bさん(83)は話した。聞き取り調査の後、Aさんたちが川で代々伝わる
「はえなわ」の仕掛けを教えてくれた。「車や冷蔵庫がなかったころ、山間地の
人々にとって川魚は貴重なたんぱく源。農家でよく米などに換えてもらいました。
この川魚漁は私たちの生活文化として子供たちにも伝えたいですね」。そのにこ
やかな表情には、差別に屈せず生きてきたサンカの人たちのたくましさが息づい
ていた。漂泊へのあこがれと、隠された差別の実態。サンカの人たちの話を聞き
ながら、ロマンに彩られた虚像の怖さを改めて思い知らされた。
(毎日新聞2001年6月22日東京朝刊から)
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/min/988420242/237 >>35
富山の薬売りは江戸時代に全国を売り歩いた
物売りなら外国人にもできるからなんとかなったのでは
>>36
乙
サンカと呼ばれてましたと自己紹介する人が本当に居たんだね 大和民族とは別の文化をもつ山窩なる人たちがいたのか?と言うことが知りたいけどそっちはわかんないよね
山に住んで生業が竹細工だったりした人たちや犯罪者集団として山窩呼ばわりされてた人たちはいたんだろうけど >>42
大和朝廷に追われたまつろわぬ民の成れの果てならロマンチックだけどな
そんなおとぎ話みたいなことはないだろう >>42
冷静に考えれば竹細工とか川漁師とかそう特別なもんじゃないな
夏目漱石は米はイネになるって知らなかったそうだけど
都市部だけで育った人からすれば農村に当たり前に存在する竹細工とか川で魚取ったりする光景も
見たことない珍しいものと特別な感じでとらえてしまったのかもしれない 戦前までなら東京でも京都でも川魚や竹細工が珍しかったことはない
珍しくないがプロから買う意味はあったのだろう
あるいはお情けで流れ者から買ってあげたみたいなことも多かったかも
戦後でも昭和の終わり頃まで行商人というのがいて香具師もそうだけれど
ニーズより人情に訴える商売というところがあった
サンカと呼ばれた人々はやはりジプシー的な独自性があったりして
文化の違いが感じられて珍しかったのではないかな >>25
>>26
人が住んでる小屋にロケット花火を打ち込む方が恐いわ
サンカの人達が忍術を伝える人達と
ルーツが重なる部分もあるかも知れないという説は何かで読んだことがあるな ttp://2006530.blog69.fc2.com/blog-entry-572.html
http://www.kumanolife.com/History/sankamoji.html
ヲシデ文字 秀真文字
https://yamatohime.info/kamiyomoji/
ttps://ameblo.jp/sankalab/entry-11910474121.html?frm=theme その他、神農道や的屋、香具師の世界を調べてみても得るものもあるかもしれません? 似て非なるものかも知れませんが歴史的にも興味深い分野ですので
その辺りは、添田知道『テキヤ(香具師)の生活』、雄山閣出版
を読まれると詳しく分かるかもしれません?
色々間違ってたらゴメンね その他、忍者の世界を調べてみるのも得るものは多いかと思いますよ? サンカやタタラは共通項も多いということなので
もしかしたらその辺りで
習合分布図が重なり合うかも知れませんな? 別府には無職対象の授産的な竹細工の学校もあったしな
たしか大分県には文献に良く出てくるサンカの小刀とか残ってるはず ウメガイ?
ナイフの雑誌では評判悪かったみたいだけど
普通に山菜取りに使う両刃の小刀じゃないの? 三角寛さんが書き残した内容には
嘘や間違いが多いってのはよく言われてる事だし
筒井功さんの『サンカの真実 三角寛の虚構』
みたいにそこを調査した本もあるけど
最近は、飯尾恭之さんから
サンカの子孫の型が三角さんと会った話や
三角さんからもらった原稿(なぜか表題が三角さんの筆跡で内容は他の人の筆跡)を
持っていたのが見つかったと報告があったり
沖浦和光さんがよく著作に書かかれた「三角さん得意の作り話」という
姿勢への疑問も出て来ているし
三角さんが調査して取り上げたサンカの方々を
利田敏さんが再発見して嘘ではなかったと証明して見せたり
三角さんの調査記録も再評価はされてはいるみたいですね?
この辺りは「歴史民俗学研究会」の会誌や
批評社の サンカ学叢書 というシリーズに
詳しいようですので、興味ある方はお読みになられれば如何でしょう?
それでも何も解らないのがサンカなのかも知れませんが >>78
パッと見でなさそうだけど
http://www.eonet.ne.jp/~jellysbamboo/gallery/beppu/learning/learning.html サンカなんて普通にどこにでもいただろうにね。
山に棲むもので竹細工や狩猟を生活の糧として生きていた(る)人って当たり前のようにたくさんいたよね
ってネットで発言したら
なんか必死になってそれを否定する輩が沸いてきて
何で?って疑問に思うのと同時に「あぁ」って察するものがあったね。
触れてはいけない何か?
当たり前として接することがはばかられるような存在として、こちら側からも向こう側からも「明確に」不可侵なモノ。
関東東北なんかだとそういう意識本当に低いというか弱いけど、察したわ。
下手に刺激出来ない?怖いね。 でもま〜、言いたいことはわかる気もするけど
この時代に? とも思うよな?
ところで、関東東北の方は
そういう意識が低いというか弱いのかな?
逆に不可侵意識が強い地方って何処ら辺だと思う? 民族というよりかは部落とかそういう方面の話に近いんだろうな 昔、大分県で刀指してるサンカ見たんだがなんだったんだろう? >>84
そんな怖がるようなことではなく、サンカといえば被差別扱いにもになってるから
ピリピリするのもいるってだけじゃないの?
そうしたことを深刻に受け止めないのは自分も東日本の人間だからかもしれないけど >>84の言いたいことはわかる気がするような?
過去スレ見て見たら明らかだしな
>>84の理屈で荒らされてるスレが実に多い >>88
>昔、大分県で刀指してるサンカ見たんだがなんだったんだろう?
詳しく! 昭和の終わりごろに金閣寺の大改修があったのを覚えてますか?金閣寺大改修の時に使われた漆、あれだけの量の最上級の漆を何年間もかけて集め、あの厚さに誰が塗ったのか、私から言えるのはここまでです。 >>91
昭和58年頃だけど、大分市の戸次近くの河原に夫婦のルンペンが小屋掛けをしてて、その小屋に地元の子供たちでロケット花火を撃ち込んで遊んでたら、浴衣みたいなのを着たルンペンが居合術に使うような長い刀(鞘は黒で柄はかなり使い込まれてる感じの)を腰に指して低い姿勢で飛び出してきてロケット花火を抜き打ちにしてパッと鞘に納めたのを見た。
その夫婦は夏が終わった頃に何処かへ行ってしまった。 >>92
?
>>93
昔の事ではあってもやっちゃいけないことだけど
それでも
貴重な証言を有難う御座います!
個人的には、サンカに伝わった武術の研究をしているので
興味があります
実際に、打ち込まれたロケット花火を走りながらの
抜き打ちで切り払えるとしたら相当な腕前ではありますね
なかなか出来るものではありません
居合というのは基本、武士か公家を中心に伝播した技術だと考えられますので
サンカ民族?に居合いという文化があったかどうかは分かりませんが
ラッパやスッパという職業?的な所で忍術のルーツとしての
体術や格闘術はあったのだろうと思ってますので興味深い証言だと思います もしもサンカ民族由来の武術でなかったとしても
基本、大分市の戸次川は
古戦場跡で、武将・長曽我信親の墓もあるぐらいだから
その辺りの地域での古流武術の伝承が残っていれば
何かの技術の流通や交換、伝承などの手掛かりになる何かがあるかも知れませんね
とにもかくにも貴重な情報提供に感謝いたします 大分でサンカっていうと的ヶ浜事件があるよね別府市的ヶ浜集落には、山窩やハンセン病患者が小屋に住んでいたのを警察が焼き払った事件といわれているけど、大分には他にもこういった集落があったのかな?
大分から別府にかけての海沿いの急な崖地に小さな家が密集してたりするけどあれも気になる 平家の落人の集落も多いみたいだし
家船も多かっただろう 前から気になってるんだけど埼玉のサンカの松島さんって実際どうなのかな?
埼玉群馬栃木(あるいは福島も)で松島さん=被差別って図式もあるからたまたまなのかそれともつながっているのか・・・
しかも鳥海弥三郎安部宗任の子孫を自称しているみたいだし