小此木政夫:政治的個性には、国家的というよりも、民族的なものもあります。もちろん、重なっている部分もあるでしょう。南北に共通する、民族的な個性は何かですね。もちろん、その1つには強烈な民族主義(ナショナリズム)でしょうね。それがなければ、大国に囲まれた朝鮮民族は生き残れなかった。

■朱子学の「正邪」の思想

小此木:政治文化的には、儒教、とりわけ朱子学の正邪の思想が特徴的です。何が正しくて何が不正なのか。朝鮮民族はそれに非常にこだわるのです。それは韓国でも、北朝鮮でも同じです。言葉遣いまで似ています。朱子学の伝統からくるものでしょう。

朝鮮の朱子学的な伝統は中国以上に強いのではないかと思います。だから、朝鮮文化は知識人の文化と庶民の文化に二分されます。

「ろうそくデモ」を見て、それを「大衆の」怒りの噴出と考えるのは間違いです。デモの担い手は、知的なレベルの高い市民運動団体です。大衆デモは、もっと暴力的で、無秩序です。「ろうそくデモ」の参加者は知識人の責務を果たしているつもりでしょう。

だから、上を向いて、堂々とデモに参加しているのです。

しかし、その知識人の責務ですが、それがアメリカやヨーロッパ型の参加民主主義に由来するのかと言われれば、そうではないように思います。

欧米の政治思想の影響を受けた結果ではなく、もちろんそういう部分もあるでしょうが、国内にあった伝統的な政治文化に由来するように思います。朝鮮王朝時代の儒生が王宮前で国王に訴えたような、王朝文化や知識人文化を連想してしまいます。

それは深層レベルで、儒教的なイデオロギーに由来し、現代的な参加民主主義を装っているのではないか。だから、正しいこと、すなわち正義が追求され、悪が排斥されなければならない。

今回は、崔順実(チェ・スンシル)が登場した段階で、「衛正斥邪」(編集部注:一種の鎖国攘夷思想)が表面に出ました。日本人が一番戸惑うのは、この点ですね。つまり慰安婦問題だとか、徴用工問題だとか、具体的な標的が登場すると、抗議運動が一気に盛り上がる。

同じ儒教文化の国なのに、中国以上に正邪にこだわるのが韓国です。

平井久志:足して2で割るということが下手なんです。

小此木:そうそう。現実はそうではなかったとか、当時の社会の実情としては、という言い訳が通用しない。あるいは、あの時の法律はこうだったから、というのもダメ。いま何が正義かが問題であり、現在の正義感や価値観が適用される。

あの時代は帝国主義の時代だから、なんて言い訳は通用しない。

日本人同士の場合は、あの頃はそういう時代だった、慰安婦は人身売買が合法的な時代のことだったとか、徴用工も戦時動員だったという話になってしまいます。それはいいことだとは言えないけれど、当時の価値観で考えようとする。

だけど、彼らは時空を超えた正義感を持っていて、そこに民族的な価値が加わる。

平井:日本の場合、たとえば治安維持法が悪法だということはみんな思っているけれども、治安維持法を適用されて犠牲になった人を、本当に日本社会が救済したとか、違法性を日本人が追及したとかは、あまりないわけです。

ところが韓国の場合は、それを過去に遡及して追及していくというエネルギーが、われわれよりもはるかに大きい。

■何よりも「正義」

小此木:そうですね。その遡及して正義を確定するというのがすごいですね。光州事件が民主化運動だったのか、暴動だったのかが延々と議論され、民主化運動ということになれば、それが顕彰され、補償される。

盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領の時代には、1948年の済州島蜂起(編集部注:左右両派の対立から済州島島民が武装蜂起。南朝鮮当局の徹底した弾圧により、約6万人が虐殺されたという)が再調査され、これも島民側の正義が認定された。

そういう形でしか、犠牲者の「恨(ハン)」が解かれない。それが解かれなければ、国内分断が続き、国民的な統合が実現されない。

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20170824-00542686-fsight-int

>>2以降に続く)